邪馬台国畿内説 Part348
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。
・出現期古墳段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1526354489
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦勝に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。 ◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
◆6−2
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。 ◆6−3
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 ◆7−1(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。 ◆7−2
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第2号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-2.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等 ◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、桜井茶臼山、黒塚、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都よく観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀末)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。 ◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)
「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある。 ◆FAQ 3
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が里程等から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りが含まれていること、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々は倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌ほどの南方に過ぎず、纒向は洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。東冶の「東」の方位に誤差を認めて強引に現実的地理に近づける解釈を行うことも、角を矯める愚を犯すに等しい。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20も参照)
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、会稽山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。 ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
伊豆七島などは唐古鍵の時代から畿内と交流圏である。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した
有力な候補である。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が再出現するまで途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。 ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。 ◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、そのような測定実施の記録がない。
万が一にも、そのような測定があったなら福岡県が魏の許都の真東に所在することが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。 ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189qであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63q)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。 ◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代の雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中華王朝では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。 ◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した!
これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示している。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。
◆FAQ 23
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周濠、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で存在が確認された。
箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
・箸中山古墳の後円部と段築が接合しないこと。
・箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープが墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失していること。
・椿井や中山大塚の構造や、河内大塚や見瀬丸山など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で、前方部に盛土がないこと等 ◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国が大和の日本に取って代わられたことは、旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記されており、中国側の認識の混乱を表している。以下の各項等を勘案すると、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等として片付けて毫も問題ない。
・唐代に書かれたことが明らかな史料がみな倭=日本という認識を示していること。
・唐会要(倭=日本と認識)より、旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に認識できること。
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認できること。
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家であり、政変の頻発する中で、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前にようやく完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複するという不体裁が発生しているばかりでなく、他にも同一人物の伝が二本別に収録されるなど、他の史書に例を見ない杜撰が複数件発生している。 ◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。 ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
以上のとおり、墳丘本体に殉葬痕があるか否か卑弥呼冢の判定基準にしようという考えには合理性が無い。 ◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう!
弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出であり、景初の遣使が献上した班布がこれであると推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退している。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が連続していない。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示している。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色が行われていた状況(金原2013,2015)と一致する。茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用されているため、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解されるからである。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
九州説にとって不利な条件と言える。 ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
当時の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も参考として興味深い。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでないところに行くことだから、女王国は本州にある畿内ではないな?
A:陸続きのところへも渡海するので、伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。 ◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集することが可能であったことからも、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開していたことは確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見があるが、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。 ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。 ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。 ◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。 ◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ1)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。 ◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。 ◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(以上、漢書西域上) ◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣がある。「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。
ここで交州〜交趾の約5,000里が現代の航路で900kmであるから(「靖尋循渚岸五千餘里」許靖伝 )往時航路の紆曲と心理的負担感及び苦難の誇張を加味した倍率として認識しつつ、この比率を上記に乗ずると、7,200里が得られる。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。 ◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域と考えられる。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制の異なる碧城郡・海州市は郡域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。 ◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)
◆FAQ 65
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物の尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜後漢初:23.1cm (安定的)
後漢末〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】 なし 近畿は元々縄文系勢力も渡来人系勢力も仲良く暮らしていた。
温暖で河内湖の水資源も豊かで稲作も盛んになり、豊かな地域に発展したんだろう。日本書紀でいう食国、芦原中津國。
スサノオが豊かな田に嫉妬して度々荒らしにきたとあるだろう。近畿周辺の東海や山陰の勢力が嫉妬したんだな。
そして征伐に来る。
倭国大乱、近畿征伐、記紀でいう神武東征だよ。
畿内征伐の結果できたのが、山陰と東海の勢力を中心とした大和朝廷だよ。
近畿は大和朝廷の最初の討伐ターゲットだったんだな。
大和朝廷は4世紀前後四道将軍で関東東北を征伐する。
大和朝廷に虐げられていた元々の近畿や博多湾の勢力、関東の先住民が手を結び、神功皇后応神を旗頭にして大和朝廷の旧勢力に叛旗を翻すんだよ。
藤原氏の守り神が関東の人々であるように、近畿と関東は同盟関係だったんだな。 畿内の勢力は2世紀末に大きく変わる。
纒向遺跡でも、東海や山陰、吉備などの外来系土器が突然現れる。
記紀にもヤマト征伐によって大和朝廷が始まる様子が記述されている。
畿内征伐によって誕生した大和朝廷の主体は、尾張、出雲、吉備。
次に考古学的に大きな変化があるのは4世紀後半。 大きな政権交代があったんだろう。
神功皇后応神に該当する時代。
記紀や各地の伝承。
忍熊皇子の討伐、飛騨の顔が二つ頭が一つの怪物を討つエピソードがあったり、出雲の生馬の神がもう荒ぶらないと宣言したり。
神功皇后が三韓征伐の往路復路で、八雷神に似た頭が八つで牛の姿をした塵輪鬼を討つ話があったり。
纒向遺跡の外来系土器の中心、東海(飛騨の怪物)、山陰(出雲の生馬の神、牛荒神の木)、吉備(塵輪鬼)が討たれるエピソードばかり。
全て牛というキーワードが共通する。
同時代の若草山山頂古墳。かつては牛塚と呼ばれていた。牛頭天王と何か関係あるのかもしれない。 神功皇后、応神のエピソードは、
尾張出雲吉備を中心とした邪馬台国体制(初期の大和朝廷)に対するクーデターだな。
大和朝廷に虐げられていた九州北部、畿内、関東の先住民が手を結び立ち上がったんだろう。
かつてのクナ国体制側の反撃とも言える。 魏志倭人伝
邪馬台国の官
官は伊支馬有り。次は弥馬升と曰う。次は弥馬獲支と曰う。次は奴佳鞮。
伊支馬は生駒。生馬。火の神。
弥馬升は三見宿禰、出雲大臣の子。
弥馬獲支はミミ鷲、日鷲。
奴佳鞮は中臣。
邪馬台国の官は、大和朝廷の官と瓜二つ。
出雲地方には生馬神が祀られているんだな。
生馬神社境内には「牛荒神の大木」と呼ばれる木があり木に藁が巻き付けられている。
出雲風土記かな、生馬神の子は、もう荒ぶらないと言ったとか。
ヤマトの地名と出雲の集落名、共通点が多い。
邪馬台国の官の筆頭
伊支馬。これがどういう勢力か解明できれば、邪馬台国卑弥呼に近付ける気がする。
伊支馬、生駒、生馬、伊熊、猪熊、生目などの地名が、ヤマト、出雲、三河、遠賀川、宮崎に見られる。
何か関係あるのか? 倭国とは伊都国のことであり
伊都国が当時日本最強の国である
光武帝に朝貢し金印を授かったのは「委奴国=伊都国」の王
倭国王師升は伊都国王
井原鑓溝に眠る
倭国大乱は伊都国東征の過程
纏向は伊都国のヤマト遠征の根拠地
伊都国には一大率を置く
魏志倭人伝より 2世紀以前の日本国内の遺跡からは
大量の副葬品を持つ王墓が見つからない
三雲・井原・平原を除いて
三雲・井原・平原からは大量の中国鏡と鉄が見つかる
巨大な勢力は九州北部にしかないのだ
3世紀に入り突如として畿内に纏向が出現するのだ 纏向は伊都国東征の根拠地である
壮大な計画都市・纏向は伊都国による日本統一のシンボルであった
伊都国による統一の象徴として
伊都国の文化である前方後円墳が各地に広がっていく 前スレ>>996
> 末慮国から伊都国は、現実の地理では北東方向なのに東南陸行って書いてあるだろ?
> この時点で、「方角を間違うはずがない」というのはただの戯れ言
倭人伝に記された末盧国の場所は佐賀県呼子の事
漁の方法をわざわざ書いてあることがその証
この辺りの漁場は昔も今も呼子である
今の地名にすると
末盧国→呼子
伊都国→前原
奴国→春日(須玖岡本)
呼子→前原→春日は東南なので何も間違ってない
畿内説の「方角間違えた」説は全くのデタラメ
倭人伝は正しい方角で書かれている 伊都国は1-3世紀に王都があっただけで、国の名前としては倭国ですね。
前方後円墳も作られます。
岩戸山古墳は墳丘長135メートルになります。 六拾弐病
六拾弐病(ろくじゅうにびょう)とは、定年退職後の老年期に見られる、
周囲を見下した言動や、自惚れに満ちた妄想を連呼する様などをさす語。
自らを客観視することができず、盲目的に自身を絶対化する、というのがその典型的例。
現役時には社会に適合してゆくために相対化させざるを得なかった自己が、
定年によって自らをとりまく環境が急激に変化することで相対化のバランスを失い、
自分が特別な存在であって欲しいとする願望が顕在化することで発症する。
簡単に言えば、「俺様偉い病」である。
その思考の基礎となる知識は、遠い昔に聞きかじった程度の浅いものや、
定年で生じた余暇によって取得した程度の中途半端なものであるため、
罹患者の主張は往々にして突飛な妄想でしかなく、周囲に受け入れられることはない。
しかし、本人は自身の思考は特別に優れているものだと盲信しているため、
受け入れられない原因を周囲のせいであると主張し、攻撃性を高めつつ、負のスパイラルへと堕ちていく。
このため、「六拾弐病」は陰謀史観との相性が非常によい。
なお、「六拾弐病」の名は、定年後数年を経て症状が顕在化することから名付けられたものであり、
もちろん全ての罹患者が62歳で発症するものではない。
似た症状を呈するため、「六拾二病」は「老年性中二病」と称されることもあるが、
思春期に自身を特別な存在だと仮想する「中二病」が、
確立されていない自己とそれを取り巻く社会の拡大とに折り合いを付けられず、
自己を疑似的に絶対化することで周囲との相対化の波から逃避しようという、
いわば自己防衛的な理由によって発症し、
ほとんどの場合本人の成長とともに症状が改善されるのに対し、
「六拾弐病」は、罹患者が生来持つ傲慢さがその根底にあるため、
一度発症してしまうと、死ぬか、惚けて思考能力が失われるかしない限り、
症状が改善されることはないとされる点は対照的であるといえる。 全1病
全1病(ぜんいちびょう)とは、邪馬台国畿内説スレに出没する九州説論者のみが発症する、心の病。
畿内説側の書き込み全てが>>1◆UiepmfCeDJqによる物であると信じ込む、一種の強迫観念である。
学問の世界ではすでに追い詰められている、という事実を認めたくない九州説論者が、
畿内説に多くの賛同者などいるわけがないのだ、と自分自身を騙そうとすることで発症する。
>>1◆UiepmfCeDJqが自演によって多数派を装っているのだ、と言う発想は、
実は、自身が自演を頻繁に行っているという事実の裏返しにほかならない。
現時点では治療法は発見されておらず、一度発症すると死ぬまで治ることはない。 ザラコク
邪馬台国関連スレに出没する非常識異常行動者のひとり
呼称は、Yahoo掲示坂で使用していたハンネ「zarakoku」から
古田武彦と彼が提唱した九州王朝説を盲目的に信仰しており、その信心の深さは、
世間的には偽書として決着している『東日流外三郡誌』を未だに真書であると主張するほど
自らを「素人おじん」と称することもあり、一見、自身を客観視できているかのようであるが、
その書き込み内容は、自分の信奉する説以外はすべて間違いだと決めつけてかかる、六拾弐病患者特有のもの
素人が専門家をこき下ろすという行為に疑問を感じなくなっているほど思考が硬直化している
「全レスバカ」と呼ばれることがあるほど片っ端からレスを付けまくるが、
ほとんどが他人の会話への横レスかつ超遅レスであり、周囲と会話が成立することはまずない
レスを付けることが目的化している節があり、その内容は、
他人の発言を長々と全文引用したあげく、賛成!とか間違いだ!とか数文字書き足すという程度のもの、
自分の都合のいいように語句を入れ替えただけのオウム返しのものなど、無意味なものばかりである
投稿数だけは圧倒的で、コピペ連投並みにスレを荒らす結果となっているが、本人に自覚はない
社用のPCで勤務時間中に5ちゃん投稿に血道を上げる問題経営者である
自分に不都合な情報を自分に都合が良いように勝手に脳内変換していることが多いが、
ソースを提示されても、自身の記憶や理解の方が正しいと主張する、傲慢な思考の持ち主
常駐していたYahoo掲示板を倫理規定に触れて出禁になったらしく、最近5ちゃんに居付いてしまった
「生きる独善」との形容がぴったりな75歳 岡上
邪馬台国関連スレに出没する狂人のひとり
考古学界では全く賛同者がいない説を「考古学的に確定している」と主張し、ありもしない大規模調査をでっち上げ、
学界の多数派である邪馬台国畿内説を破綻したと主張する、ゴッドハンドも真っ青の捏造常習犯である
自分は正しく、これまでの研究者がみんな間違っていた、などと平気で主張する、典型的「六拾弐病」患者
コテ+トリと、コテの九州王、伊都国女王、卑弥呼、名無しを使い分け、自説を関連スレで書き込みまくる
糸クズ、八咫バカ、連続句読点キチともよばれる
「咫」の説明である「周尺」を「円周の尺」と読み、
伊都国を女王国であると漢文の用例を無視して誤読し、
平原遺跡出土鏡の文様には八咫烏があると現物を知らないで主張し、
魏志倭人伝中の「下戸」を「酒が飲めない人」と訳すなど、
お笑いエピソードには事欠かない
偽スレや妄想スレを立て続ける異常性に気がついていないのは本人だけ
未確定な事項であっても、自分に都合がよければ勝手に確定事項であると脳内変換し、
それを根拠として立論してしまうチェリーピッカー
日本史の方法論をまるで理解していない、自分偉い教の教祖である キウス
邪馬台国関連スレに出没する真性の基地外であり、病的なウソつき。
「希薄」を読むことができず、「箕臼(キウス)」と誤変換し続けたことから「キウス」と呼ばれるように。
自演爺、四棟粘着爺、指さし厨とも。
ウソの書き込みや自演、成り済ましを平然と行い、畿内説スレの>>1を騙り偽スレを立てること数度。
>>1のトリと同じ英数字を名前欄に書き込んで成り済まそうとしたこともある、最低のクズである。
「全1病」罹患者にして典型的「62病」発症者。
「自論」、「私見」、「勉強してください」、「学がない」、「貴君」、「しかり」など特徴的な言い回しの多用、
5ちゃんでは一般的ではない「スレ主」頻発、名前欄への書き込み多用などの特徴ですぐに判別できる。
1◆UiepmfCeDJqfを奥村と呼ぶ、寺澤薫氏・同志社大学・纒向学研究センターをディスる、
草を生やす際に半角で1文字目大文字、?を連続させる、といった特徴もある。
キウスの書き込みを褒めたり、礼を言ったり、「ワロタ」と応じたりする書き込みは、すべて自演である。
他人を騙す行為も自分ならばすべて許されると信じている節のある、傲慢の塊である。
日本語の読み書きが満足にできないこと、日本史や日本の地理に関する基礎知識がないことなどから、
日本の義務教育を受けていないどころか日本国内に居住していないのではないかと推測されている。 ザラコク
>…< 嘘吐き騙し 南≠東 大和説 !。 ?。 ×。
キウス
スレ主 奥村 しかり 大笑い Ww いい線ついてる 正論 ヤマト王政 論じろ
岡上
八咫の鏡 伊都 平原 内行花文鏡 三種の神器 神道 キナイコシ 、、、 。。。
ハナホジ
物部 葛城 鴨 大物主 ヒメタタライスズ ミミ 出雲族
サイキバ
鉄がない 奈良湖 倉庫 2013年の大規模調査なんてない
日本経済新聞(2013/2/20)
卑弥呼の墓?初の立ち入り調査 奈良・箸墓古墳
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG1905C_Q3A220C1CR0000/
研究進展に期待
日本考古学協会など考古学、歴史学の15の研究者団体は20日午前、
宮内庁が陵墓として管理している奈良県桜井市の箸墓古墳を立ち入り調査した。
宮内庁が研究者側からの要望に応じて立ち入りを認めるのは初めて。
同古墳は邪馬台国の女王・卑弥呼の墓とする説もあり、陵墓の公開や研究の進展につながると期待されている。
立ち入り調査をしたのは研究者16人。
約1時間半をかけて墳丘の最下段を一周し、地表に見える葺(ふ)き石や土器などの遺物の状態、墳丘の形などを観察した。
参加した日本考古学協会の森岡秀人理事によると墳丘表面で、築造以前の様子を示す弥生最末期の土器などが見えたという。
森岡理事は「古墳の詳しい状況を実感できた。今回得た知見や印象によって研究が加速するのでは」と話し、
今後の陵墓公開に向け「国民の文化遺産として大切に守るべきもの。宮内庁とさらなる協力体制を目指したい」と強調した。
研究者らは午後、宮内庁が管理する西殿塚古墳(同県天理市)も調査する。 650日本@名無史さん2018/01/31(水) 23:03:02.66
元ねた見つけたわ
国土地理院時報(2000 no.94)
「近畿地方の古地理に関する調査(国土地理院地理調査部)
http://www-im.dwc.doshisha.ac.jp/~nihei/nara/index.php?%C6%E0%CE%C9%CB%DF%C3%CF%A1%A7%C3%CF%B7%C1%A1%A6%C3%CF%BC%C1%A1%A6%BF%E5%B7%CF
657日本@名無史さん2018/01/31(水) 23:12:52.10
>>650のリンク先にある「奈良盆地の地形学的研究」53ページに
>なぜなら、奈良盆地が更新世以降において湛水し湖沼化したという事実は認められない。
とあるな 660日本@名無史さん2018/01/31(水) 23:18:00.17
奈良県遺跡地図Web
http://www.pref.nara.jp/16771.htm
664日本@名無史さん2018/01/31(水) 23:21:12.40
データベース名 遺跡
ID 11A-0104
市町村 川西
遺跡名 下永東方遺跡
所在地 磯城郡川西町下永東方
種類区分 集落・町屋,社寺
時代区分 縄文,弥生,古墳,奈良,平安,鎌倉,室町
時代詳細 縄文・晩〜古墳・後、奈良〜室町
遺跡概要 方形周溝墓、井戸、掘立柱建物、区画溝
遺物 縄文、弥生、土師、須恵、黒色土器、中世土器、木製品、石器、石製紡錘車、土馬
文献・備考 白米密寺伝承地、『下永東方遺跡』(文化財報86)2001、『奈良県遺跡調査概報2003年度第1分冊』2004、『奈良県遺跡調査概報2004年度第1分冊』2005
668日本@名無史さん2018/01/31(水) 23:24:19.31
データベース名 遺跡
ID 11A-0123
市町村 川西
遺跡名 下永東城遺跡
所在地 磯城郡川西町下永東城
種類区分 集落・町屋,墓・墓地
時代区分 縄文,弥生,古墳,鎌倉,室町
時代詳細 縄文、弥生・中、古墳・前〜中世
遺跡概要 方形周溝墓、土坑、掘立柱建物、井戸
遺物 石器、弥生、土師、石釧、木器
文献・備考 『下永東城遺跡』(文化財報103)2003 674日本@名無史さん2018/01/31(水) 23:37:38.33
http://www.ksmt.com/panorama/130501nara/130501nara.htm
>2013.5.1 Kashihara 橿原
>飛鳥を自転車で回ろうと思い近鉄橿原神宮前駅へ。
>まず奈良県立橿原考古学研究所付属博物館の「5世紀のヤマト〜まほろばの世界〜」を見学。
>5世紀の遺跡から出た資料が展示されており興味深いのですが、最も興味を引いたのが5世紀の地図。
>古奈良湖は既になく、奈良盆地全体が陸地をして描かれています。
(略)
>橿原考古学研究所の受付の方にお願いすると、水田の発掘担当者の方に直接話を聞けることになりました。
>運が良かったようです。
>担当者の方の話によると、
>
>1.縄文後期の遺跡が奈良盆地の一番低いところにも存在するので、縄文後期には既に古奈良湖は消滅していたと考えられる。
>法隆寺付近に古奈良湖が7世紀頃まであったという説は、どうやら間違いのようです。 畿内説が破綻したと主張しているのはキチ
纒向遺跡 邪馬台国論争「畿内説」に画期
毎日新聞2018年5月14日 14時07分(最終更新 5月14日 14時35分)
解説
邪馬台国の最有力候補地とされる纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)の中心的施設跡で出土した大量のモモの種について、
放射性炭素(C14)年代測定で「西暦135〜230年の間に実った可能性が高い」との分析結果が出た。
遺跡は邪馬台国より後の4世紀以降とする異論もあるが、卑弥呼(ひみこ)(248年ごろ没)の活動時期と年代が重なる今回の分析は、
遺跡が邪馬台国の重要拠点だったとする「畿内説」を強める画期的な研究成果といえる。 仮に年代が重なっていたとしても、それは根拠にはならない。
魏の使いが滞在していた筑紫との関わりが薄かった纒向は、邪馬台国とは関係がない地方勢力の一つに過ぎない。 >>87
で、方角を間違えたとすることへの
万人が納得できる根拠を説明してもらえますか?
>>75で奴国までの方角は正しいと証明されましたが >>974
「南≠東」や「正北抵新羅」で、大和説は負けました。 金曜日朝からセコセコWiki小細工してたキチガイってこのスレのキチだよな >>995
「南≠東」や「正北抵新羅」の指摘に対して、
大和説者の意味のある書き込みを、もうずっと長いこと見てない。
口先の繰り言と、頭のおかしい荒らしつぶやきばかりだ。
スレ主は、もう掲示板のスレを閉じて、自分ののホームぺージを立てればよい、
のではないかな?。
そうすれば、スレ主が大好きな・・・・仲間が一杯書き込んでくれる。 >>996
>その「何処何処に」っていうのが、大陸中原にいる人間には分からないんだから、
「間違えようがない」なんていうのは「ただの文字列」でしかないぞ<
いや、梯儁等の記録に拠って、張政らも来て長期?滞在していて確認しているから、
方向や里数も間違っていなかった。 >>61
>なお、書き込みは邪馬台国畿内説に関係が有って根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。<
ここは、(ホームページではなく)投稿の自由が原則の掲示板です。
嫌なら、このスレを閉じて、ホームページでの開設して下さい。
>前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。<
このスレのように、
「南→東」などの嘘つき騙しや、
倭國は「正北抵新羅」などの史料事実を否定曲解をする投稿は、
世間の人々を騙す犯罪者的行為と看破させて頂きます。 >>80
>魏志倭人伝中の「下戸」を「酒が飲めない人」と訳すなど、
wwwwwwww
そんな事があったのかw
それは漢文に疎い自分でもやりそうだが
前後に「大人」とか出てりゃ分かるわwww
「下戸でも2〜3人の婦人を持つ」
ってアルコールの耐性と関係ないやんwwwwwww >>62
>畿内征伐の結果できたのが、山陰と東海の勢力を中心とした大和朝廷だよ。<
勿論「畿内」も「大和朝廷」も存在せず、
この男も、史料事実を曲解改竄する嘘つき騙しの詐欺師であり、
スレ主の仲間です。 >>63から>>65
「畿内」も「大和朝廷」も存在しませんから、
この男も、史料事実を曲解改竄する嘘つき騙しの詐欺師であり、
スレ主の仲間です。 >>68
議論をする訳でもなく、
「南≠東」などのような嘘つき騙しになる事や、
「倭國は正北抵新羅」である事を隠した話を書くスレ主やこの男らは、
ファンタジーな・・・・である。 >>70
「南≠東」などのような嘘つき騙しになる事や、
「倭國は正北抵新羅」である事を隠した話などを書く、
この男らやスレ主らの大和説者は、
思考停止の・・・・である。 >>71
唐会要倭国伝では「正北抵新羅」であるから、
倭國は、唐代まで栄枯盛衰していなかった。 >>73
>筑紫王墓の副葬品の最盛期は5世紀6世紀ですよ。<
筑紫王墓の副葬品の最盛期は紀元前から7世紀までですよ。 >>74
>伊都国の文化に前方後円墳などない<
伊都国の検察地域に、
那珂八幡や、津古生掛や、原口や、銚子塚や、端山などの前方後円墳があり、
伊都国の阿毎氏の、東征将軍地域の大和やその周辺や、宮崎にも、
前方後円墳があった。 >>77
>六拾弐病・・・<
この男も、「南≠東」や「正北抵新羅」などの史料事実に反論出来ず、
口先で九州説者をヘイトスピーチして、
世間の人々を騙そうとするキョクウの・・・・詐欺師のの大和説者。 >>78
>全1病・・・<
この男も、「南≠東」や「正北抵新羅」などの史料事実に反論出来ず、
口先で九州説者をヘイトスピーチして、
世間の人々を騙そうとするキョクウの・・・・詐欺師のの大和説者。 >>79
>ザラコク ・・・<
この男も、
「南≠東」や「正北抵新羅」などの史料事実に反論出来ず、
口先で九州説者をヘイトスピーチして、 世間の人々を騙そうとする、
キョクウの・・・・詐欺師のの大和説者。 >>80
>>岡上・・・<
この男も、
「南≠東」や「正北抵新羅」などの史料事実に反論出来ず、
口先で九州説者をヘイトスピーチして、 世間の人々を騙そうとする、
キョクウの・・・・詐欺師のの大和説者。 >>81
>キウス・・・<
この男も、
「南≠東」や「正北抵新羅」などの史料事実に反論出来ず、
口先で九州説者をヘイトスピーチして世間の人々を騙そうとする、
スレ主の仲間の、キョクウの・・・・詐欺師の大和説者。 >>82
>ハナホジ
物部 葛城 鴨 大物主 ヒメタタライスズ ミミ 出雲族<
これは間違っている、と思うよ。
「物部 葛城 鴨 大物主 ヒメタタライスズ」は、
Yahooではkssnと名乗って、竹島戦争を鼓舞扇動して、
ssnにネームを変えさせられた男であり、
「ハナボジ」とは違う人。 >>657
>なぜなら、奈良盆地が更新世以降において湛水し湖沼化したという事実は認められない。
とあるな<
「近畿地方の古地理に関する調査(国土地理院地理調査部)」というような、
公的機関の調査報告、というもの自体が、
文部省が主導する国粋皇国史観国家主義という、
「結論先にありき」での解釈を説明を書いている可能性があるために、
半分×報告であり、信頼性が全くなく、根拠にならない。 陰謀論そのものの九州王朝説が
陰謀論ほざいてるぞwwww 前スレ>>996
大陸奥地に居ても間違えようがない。
最初に書いた太陽と月がある限り方角は間違えようがない。
古文ばかり拾って読んでるバカでは常識的な科学の世界の話も分からないのか? >>87
>畿内説が破綻したと主張しているのはキチ<
大和説が破綻していない、と主張するのは・・・・。
>纒向遺跡 邪馬台国論争「畿内説」に画期
毎日新聞2018年5月14日 14時07分(最終更新 5月14日 14時35分)<
邪馬台国も畿内も存在しないんだから、
毎日新聞も「世間の人々を騙そう」とする も嘘つき騙しの右翼マスコミ。
>解説 邪馬台国の最有力候補地とされる纒向遺跡(奈良県桜井市)の
中心的施設跡で出土した大量のモモの種について、
放射性炭素(C14)年代測定で「西暦135〜230年の間に実った可能性が高い」
との分析結果が出た。<
この検査は(ベータ線法ではなく)AMS法を使っており、
資料をプラズマ化しているから、その間にC14の量が減ってしまって、
実際よりも古い年代(1〜2割)が出てしまう事になるから、
同一史料をベータ線法で計測して、比較しておかなければ、
信頼性が全くない。 >>91
>金曜日朝からセコセコWiki小細工してたキチガイってこのスレのキチだよな<
何だ?、この大和説のスレのキチが、Wikiを何か小細工してた、のかい?。 >>95
魏志倭人伝中の「南」を「東」と読み替えたり、
唐会要倭国伝の「正北抵新羅」を、倭国は新羅の南の九州ではない、と解釈うぃたり、
wwwwwwww そんな事があったのかw。
それは漢文に疎い大和説者ならならいくらでもやりそうだが、
大和ではない、という事なら、アホでも分かるわwww。
おそらく大和説者って人種は、アルコールの耐性と関係なく、
始めから嘘つき騙しの・・・・ジャンwwwwwww。 >>109
大和説の纏向は、
卑弥呼の「宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衞」の証拠に、
「桃の種」と「ウンコ」場しか見つけられないのか?。 >>111
「南→東」などの嘘つき騙しや、
「倭國は正北抵新羅」の隠蔽の、
陰謀論そのものの大和説者が、
陰謀論をほざいてるぞwwww。 >>89
>>>75で奴国までの方角は正しいと証明されましたが
書き込んだだけで正しいことを言ったことにはならないんだよww >>114
で、周王朝や呉王夫差の後裔が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
龍信仰と亀卜は?
で、周王朝や呉王夫差の後裔が渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?
さっさと言えこのサギジジイ! 変な政治思想にトチ狂うと
自然科学もr騎士学も無視した
九州説なるものが出来上がっちゃうんだなあ・・・ >>118
>書き込んだだけで正しいことを言ったことにはならないんだよww<
「南→東」などという嘘吐き騙しをし、
「倭国は正北抵新羅」を隠蔽する、などという、
史料事実の否定曲解の詐欺的行為をする宗教的大和説者が、
史料事実に拠る反論をせずに、口先でイチャモンを付けただけでは、
正しいことを言ったことにはならないんだよww。 >>119
>・・・さっさと言えこのサギジジイ!<
古代における「不可知部分」。
呉王夫差の遺民の流浪の果てにたどり着いた火の国には、
呉の生活習俗の痕跡は殆ど残っていない。
残っているのは「大夫」や墓形態や鯨面文身や漢字を知っている、などの痕跡だけ。
文句があるんなら、さっさと、「100%痕跡が残っていない」という根拠を言えよ、
国粋皇国史観の反中の・・・・大和説の詐欺ジジイ。 >>120
変な万世一系の皇国史観の宗教政治思想にトチ狂うと、
自然科学も歴史学も無視した、
人種差別殺戮戦争狂の大和説なる・・・・が、
出来上がっちゃうんだなあ・・・。 ザラコク一人で、九州説にはまともなやつがいない、を体現してるよな
他の九州説の人も、ザラコクを諫めない時点で同類だし ここで言うことでもないんだけど、お鏡さんがスレ立て制限にかかって
スレ立てできないんだってw
誰か「お鏡さん隔離スレ」立ててあげてよw 「伊都国説は死んでます」スレなんて立てられたらイヤだろうに 「伊都国東遷説(笑)をみんなで議論しよう」スレなら、お鏡さんも使ってくれるかな?ww よそうぜ
ニセスレ立て狂人を気持ちよく軽蔑できなくなっちまう
ww >>123
んなこと聞いてねえんだバカヤロウ!
で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
龍信仰と亀卜は?
で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着したとウソブいている
サギサギ考古学者の氏名と所属団体は?
今言えこのスットボケジジイ! 邪馬台国、ヤマト説でいいんじゃないかな?
何で他の畿内まで邪馬台国に含ませるんだろうな >>132
邪馬台国は畿内の広域を差すとかいう奴がいるからだろ >>132
ヤマト説がやりたいんなら
自分でそういうスレを立てればよろしおす 朝貢年
266年 トヨ トヨ津媛
・
238年 ヒミコ ヒメ(踏鞴五十鈴)媛
・
・
・
・
・
107年 倭国王・帥升 スサノオ
つまり邪馬台国=大和朝廷はその初現の段階から中国に朝貢していた。
スサノオはわざわざ海を渡り、後漢・安帝に謁見、土下座した。
この屈辱的な史実を日本書紀は書けなかった。
だから基点となる神武時代をBC660年と大きく古くずらし潤色した。
その結果100歳を超える天皇が誕生した。
そして実際には女王国であった時代も、やたら猛々しい神武東征紀で男王国であるかのように演出した。
さらに神武とヒメ踏鞴に「天皇・皇后」という新称号を与え、
女王であったヒメ踏鞴を皇后にした。
そして高天原の場所もまるで九州ともとれるように潤色した。
これが日本の歴史の真相である。 >>135
魏志倭人伝の時点で河内や和泉が邪馬台国側である根拠を述べよ。
2世紀末の時点で畿内の人々の交流が活発であったことは、邪馬台国が畿内である根拠にはならないぞ。 >>137
当時ヤマト国は奈良盆地さえ統一できてない
北には添がいたし西には葛城がいる
当時の日本国内における最大勢力は九州北部の諸国を制圧し「倭国」となった伊都国 >>137
同じ文化圏
同じ墓制
大和南部の墳丘墓〜古墳が群を抜いて巨大
↓
同じ国の首都と郊外の関係 >>125
安部自民公明政府も、右翼マスコミも、偏向大和説学会教育界も、キョクウテロ組織も、
掲示板のスレ主や大和説投稿子にも、まともなやつがいない、を体現してるよな。
他の大和説の人も、・・・・ばかりだし、
大和説学者を諫めない時点で同類だし・・・。 >>130
よそうぜ。
「南→東」などの嘘吐き騙しや、
「倭国は正北抵新羅」や「倭国が東征毛人55国」をした、
という都合の悪い話を隠蔽逃避する・・・・大和説者や、嘘吐き騙しのスレ主狂人を、
気持ちよく軽蔑できなくなっちまう。
ww >>140
畿内は倭国王都としての、まとまった弥生集落遺跡群が無いのが如何ともし難い。 @阿波 >>132
>んなこと聞いてねえんだバカヤロウ!
・・・・今言えこのスットボケジジイ!<
不可知部分の挙証要求なんて、・・・・大和説の口先の騙し議論テクニックであり、
・・・・は、殺人テロをするか?何をするか?が判らない怖いから、
放置。 >>132
>邪馬台国、ヤマト説でいいんじゃないかな? <
邪馬台国なんて存在しないし、「南≠東」に拠って「ヤマト説」は、×。
>何で他の畿内まで邪馬台国に含ませるんだろうな<
大和は、
倭國から別れた別種の旧小国であり、
「倭国は正北抵新羅であるから九州」であり、
倭国は「東征毛人55国」をしていたんだから、
大和はその55国の中の一国に過ぎない。 >>134
こ
こ
は
(ホームページではなく)原則自由投稿の掲示板のスレ
だ
か
ら 。 >>136
>つまり邪馬台国=大和朝廷はその初現の段階から中国に朝貢していた。<
「邪馬台国」も「大和朝廷」もなかった。
これが日本の歴史の真相である。 >>137
>魏志倭人伝の時点で河内や和泉が邪馬台国側である根拠を述べよ。<
米田に拠れば、河内と大和とでは、河内の方が「圧倒的に巨大」であり、
大和は、東方との交易が盛んであったが、
河内は、播磨や和泉などと同じく、大和とは別権力地域であり、
むしろ筑紫倭國への搬入上納をしていた。
>2世紀末の時点で畿内の人々の交流が活発であったことは、邪馬台国が畿内である根拠にはならないぞ。<
大和と「河内や播磨や和泉や摂津や山城」とは、交流が活発ではなかった。 古代ローマ帝国
モンゴル帝国
いずれも東西に広範囲に拡大したのち分裂してる
古代ヤマト国もそうだった可能性がある
その後 再統一されてヤマト王権になったのかもしれない
その場合 勝ち残ったのは畿内のヤマトであることは明らかだけど
邪馬台国が着ないか北九州かは特定できない >>150
>同じ文化圏 同じ墓制 大和南部の墳丘墓〜古墳が群を抜いて巨大
↓
同じ国の首都と郊外の関係<
倭國は、「正北抵新羅」であるから九州であり、
後漢や魏から金印を貰う関係であるから、薄葬令をもろに受ける地位であり、
大和などは、「倭国の東征毛人55国」の中の一国であり、
東征将軍は、薄葬令には関係なしに、「毛人」を支配威圧するために、
巨大墓を造る必要があった。
「東征毛人55国」をしたか >>148
大和説者は、
史料事実根拠に拠った反論が出来ず、
口先で言い張るだけなのでで、
馬鹿に見えるし、・・・・アホそのもの。 >>149
「南→東」や、
「倭國は正北抵新羅」などの史料事実の否定曲解の嘘吐き騙しのマナー違反は、
掲示板では、投稿の自由にはならないよ。 >>152
>邪馬台国が着ないか北九州かは特定できない<
邪馬台国なんて存在しないし、
「東征毛人55国」をした倭国の中心は、
唐会要倭國伝の「正北抵新羅」に拠って、
北九州が特定される。 >>156
ここは畿内説スレだよ
大和説とかの人はヨソ者だから
罵っても意味ないよ >>160
ここは原則、自由投稿の掲示板だよ。
九州説とかの人を、「ヨソ者だ」から 」と言って、
罵っても意味ないよ。 >>159
いつまでお経を唱えてるんだ
別々の史料を混ぜたら史料事実にならないぞ >>161
誰も九州説とかの人を「ヨソ者だ」とか言ってない件について 畿内説を目の敵にする人には、なぜか日本語の異常に下手な人が多い
ふしぎだね >>164
畿内説こそ古代日本が広範囲で朝鮮半島の隷属下にあったことにしたい連中だが? >>139
>当時ヤマト国は奈良盆地さえ統一できてない
新しい視点ですね。
でもその通りかもしれません。 >>152
>いずれも東西に広範囲に拡大したのち分裂してる
>古代ヤマト国もそうだった可能性がある
>邪馬台国が着ないか北九州かは特定できない
東西で言うならば、魏の使いが滞在した九州が邪馬台国だろう。
東にも倭種がいるとも書いてある。
東西のうち、九州を中心とする西側が邪馬台国。 私どもが行った現代日本人頭骨の分析から見ても、近畿人、特に畿内人は目立って朝鮮の集団に近いという意味で『特殊な日本人』ともいえる
(埴原和郎・国際日本文化研究センター名誉教授)
畿内古代人は韓国朝鮮現代人に類似する畿内現代人と同じグループに属している
(池田次郎・京都大学名誉教授)
大阪を中心とする近畿地方の人たちは、百済地方の人たちと匹敵するほど頭の形が丸い
(欠田早苗・兵庫医科大学名誉教授)
関西人には細い目をした髭の薄いのっぺり顔が多いが、沖縄の人は眉や髭が濃く、ぱっちりした二重まぶたの人が多い
(中橋孝博・九州大学大学院教授)
熊本は古来より北からの流れと南からの流れが見事に交錯してきた美人の産地
(松下孝幸・土井ヶ浜人類学ミュージアム館長) >>169
>東にも倭種がいるとも書いてある。
意味ないね
日本で東にも倭種がいないのは千葉県くらい >>173
このように九州説は
理由のない言い張りだけで
出来ている
w 日本中どこでも混血が進んでいるが、多少地域ごとの遺伝子の特徴がある。
残念ながら朝鮮半島色が強いのは、関東と奈良である。
大阪は中国南部色が強く、西瀬戸内海は漢民族色が強い。出雲辺りは中国北方民族、騎馬民族の影響が残っている。 考古学的証拠と遺伝学的証拠と、どちらが信用できると思っているんだ? >>176
ここは日本史板
考古学語りたいなら考古学板に行け 纏向勢力が畿内一帯を支配していたという証拠はどこにもない
4世紀以降も葛城が純然として存在してる以上
纏向勢力は大和国の入口を葛城に塞がれているので広大な力を持つのは不可能 狭い奈良盆地の
しかも北部の添春日や西部の葛城と対峙し東南部に抑え込まれてる纏向勢力が
九州北部の諸国を付き従え
大陸との交易と鉄を大量に保有する伊都国に対抗するのは不可能
纏向は伊都国の東征の地
伊都は元の名は日向であり記紀の神武東遷と一致する >>179
大和国の入口が
葛城に塞がれているって
根拠なし >>180
「北部の添春日や西部の葛城と対峙し東南部に抑え込まれてる」
って証拠は?
九州説は妄想が過ぎるね >>155
>考古学が特定しちゃったけどねー<
文献事実も考古事実も、(大和ではなく)九州説を特定してしまっているけどね。 >>179
これ、鴨厨の新機軸か?
いいぞもっとやれ。 >>158
>嘘だって証拠なし<
「南」も「正北抵新羅」も、史料事実であって証拠であり、
それを否定する事は「嘘」そのものだよ。 >>160
>ここは畿内説スレだよ<
ここは、原則自由投稿の掲示板だよ。
>大和説とかの人はヨソ者だから罵っても意味ないよ<
大和説の人は、
存在根拠もないのに「畿内説」という文言に擦りかえるウソを付き、
「南」を「東」と擦りかえるウソを付き、
「倭国は正北抵新羅だから九州である」事を否定するウソを付いているから、
罵られるべき存在だよ。 >>181
奈良県北部の地図を見たことないのか
葛城郡は奈良盆地から外に出る大和川や竹内街道を含んでるんだよ
纏向から見れば
摂河泉方面へは葛城、山城方面へは添国があるので
纏向にいる勢力が畿内全域を支配したという説は成り立たない 畿内説論者は福岡の地図を見ずに福岡市西区の西半分が糸島郡だったことも知らないし
志賀島が糸島半島の向かいにあることも知らなかった
そして今度は葛城が奈良盆地のどこにあるのかも知らないとは
そりゃ「南」書いてある文献を「東」と読み替えるはずだわ 奈良盆地にまともな政治中心があったのって
聖徳太子の斑鳩からくらいじゃないの >>162
>いつまでお経を唱えてるんだ
別々の史料を混ぜたら史料事実にならないぞ<
いつまで抵抗しているんだい。
「南≠東」も、「正北抵新羅」も、「東征毛人五十五國」も、
「日本國者、倭國之別種也」も、「或云日本舊小國、併倭國之地」なども、
皆一致して、
倭國の中心が、(大和にあったのではなく)九州にあった、
という事の証拠だよ。 >>164
九州説を目の敵にする人には、なぜか、
漢文が全く読めず曲解捏造するばかりであり、
日本語も異常に下手な人が多い。
ふしぎだね。 >>167
大和説は、史料事実の証拠がないのがデフォ。 >>171
ほら、 大和説は、
常に史料事実根拠の提示や、理由が言えないのが、
デフォ。 >>125
>ザラコク一人で、九州説にはまともなやつがいない、を体現してるよな
>他の九州説の人も、ザラコクを諫めない時点で同類だし
と言うか九州王朝説が九州説の行き着くところ成れの果て・・・だからな >>172
>>東にも倭種がいるとも書いてある。<
>意味ないね 日本で東にも倭種がいないのは千葉県くらい<
嘘を付いてはいけないねえ。
唐会要倭国伝では「正北抵新羅」だから、倭人の中心の倭國は九州にあったのであり、
宋書倭国伝の倭国の「東征毛人五十五國」に拠って、東に元からいたのは毛人であり、
梁書では、出雲に文身國、越に大漢國、南西四国に侏儒國があり、
大和と思われる扶桑國の東には「女國」がある、という記載であるから、
倭種は、瀬戸内〜東海方向で、毛人と混合地域のようだ、という事になる。 >>174
>このように九州説は 理由のない言い張りだけで 出来ている w <
このように大和説は、
史料事実を否定曲解する、史料根拠や理由のない、
口先での嘘つき騙しの言い張りだけで、
出来ている。w >>181
>大和国の入口が葛城に塞がれているって
根拠な<
それ以前に、米田に拠って、河内が、
纏向とは関係が疎遠であったのであり、
纏向よりもはるかに筑紫との関係が深い、発展した大都会であったのであり、
大和盆地内の葛城付近は、
出雲銅鐸祭祀部族と、磐余地域の神武東征後の欠史八代との、
婚姻に拠る共存状態であった。 >>182
>「北部の添春日や西部の葛城と対峙し東南部に抑え込まれてる」って証拠は?
九州説は妄想が過ぎるね<
せっかく、添春日の話の根拠が知りたい、と思ったのに、
大和説者は、このように、
「・・・って証拠は?」という質問を投げかけておいて、その返事も待たずに、
「九州説は妄想が過ぎるね」と誹謗のヘイトスピーチ街宣をして、
世間の人々に、口先での「反九州説の刷り込み」をして、
騙そうとしている詐欺師ね。 >>194
>と言うか九州王朝説が九州説の行き着くところ成れの果て・・・だからな<
と言うか、史料根拠もない畿内説というものや、
「南→東」などの嘘つき騙しや、「倭國は正北抵新羅」という史料事実からの逃亡が、
大和説の行き着くところの成れの果て・・・だからな。 纏向遺跡で出土した桃の種の年代が仮に邪馬台国と同時代だとしても
それが邪馬台国=纏向遺跡とは限らない
Wiki:纏向遺跡を参考にすると
北九州では朝鮮由来の出土品が大量に発掘されているのに
纏向遺跡では朝鮮由来の出土品は非常に少ない
これは
北九州・・・大陸との交易が多い
纏向遺跡・・・大陸との交易が少ない
という根拠になる
そして同時に
北九州と纏向遺跡との交易も少なかったと累推できる
古墳時代にはヤマト王権が畿内と北九州の両方の支配を実現していたわけで
邪馬台国の年代〜古墳時代初期の間にどちらかがもう一方を征服、もしくは 従属させたのは明らか
ヤマト王権の王都が大規模な纏向遺跡だったというのは有力な説であり
同時代に並立していた北九州の中規模国家・邪馬台国が
畿内の大国・ヤマト王権に併呑されたと見るのが自然 纒向は、筑紫と同祖の饒速日(物部氏)の一族の本拠地。 >>200
>古墳時代にはヤマト王権が畿内と北九州の両方の支配を実現していたわけで
畿内と北九州の両方の支配を実現していた、そのヤマト王権とは倭(阿波)王権のこと。 @阿波 初期の纒向の外来系土器で多いのは東海系と出雲山陰系 女嫁を連れて、遠征に出るわけにはいかないからな
ヤマトを征伐した勢力は、地元の女性を妻として迎えたのかな? >>200
>古墳時代にはヤマト王権が畿内と北九州の両方の支配を実現していたわけで <
これも×。
旧唐書や唐会要などで、
「(大和の)日本国は(九州の)倭国から別れた別種の旧小国」であったのであり、
宋書倭国伝の「東征毛人五十五國」に拠って、
九州倭国が大和を支配していた。
>邪馬台国の年代〜古墳時代初期の間にどちらかがもう一方を征服、もしくは 従属させたのは明らか<
これも×。
邪馬台国なんて存在しないし、九州倭國が大和を征服従属させていた。
ヤマト王権の王都が大規模な纏向遺跡だったというのは有力な説であり
同時代に並立していた北九州の中規模国家・邪馬台国が
畿内の大国・ヤマト王権に併呑されたと見るのが自然 <
これも×。
「東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國」したのは九州倭国であり、
その首都圏の筑紫の遺跡は、纏向とは比較にならない位巨大で大きかった。 >>2
>畿内と北九州の両方の支配を実現していた、そのヤマト王権とは
倭(阿波)王権のこと。 @阿波 <
これも×。
阿波も、卑弥呼の親愛なる部下であった事を示す鏡片が出土しているから、
九州倭国の「東征毛人五十五國」の一つ。 >>205
>東遷説って、騎馬民族説と同根のファンタジーだねえ <
九州倭国は「東遷」などしなかった。
「東征毛人五十五國」をした。 >>207
>畿内説はScientific Fact><
畿内なんてなかったから、
畿内説とは、
大和天皇家一元列島支配という・・・・宗教の嘘吐き騙しで、造作された、
non-Scientific Fact。 仮説と事実の違いもわからん認知ボケが学問板にくるんじゃねェ。 >>204
>ヤマトを征伐した勢力は、地元の女性を妻として迎えたのかな?
イスケヨリ姫 >>212
>仮説と事実の違いもわからん認知ボケが学問板にくるんじゃねェ。<
史料事実や、史料批判された史料実態と、
それを「自分の願望に合わない事実を否定曲解」した嘘つき騙しの空想との、
違いも判らん「大和天皇家一元列島支配」狂の大和説者のボケは、
学問板に来るんじゃねェ。 いつ覗いてもテンプレートが論破されているね、、、、 >>216
>九州説って、もう荒らししか出来ないんだね<
「南→東」の嘘つき騙しや、
「倭国は正北抵新羅だから九州」や「倭国の東征毛人五十五國」の否定逃亡の大和説って、
もう、口先での荒らししか出来ないんだね。 >>218
>ほら、荒らししか出来ない ww <
ほら、大和説のwwは、
「南→東」の嘘つき騙しや、
「倭国は正北抵新羅だから九州」や、
「倭国の東征毛人五十五國」の指摘に、
反論が出来ずに、 もう、口先での荒らししか出来ていない。 >>219
「南→東」が嘘だって証拠なし
「倭国は正北抵新羅だから九州」なんて世迷い言
日本列島のどこからも、新羅に行くには対馬から北へ行く
「倭国の東征毛人五十五國」は都が畿内だからエミシが東で当然だ
古田説はレベルが低いなww >>215
仕方ないよ、、、、
天皇家直近の国家機関を巻き込んだ、あの2013年の延べ何百時間にも及ぶ、箸墓の大規模調査でリアルに破綻した説だから。
畿内説を精力的に先導する考古学者たちが、意気消沈して古墳から戻ってきた姿は、僕も今でも目に焼き付いている、、、、 キナイコシに対しても、卑劣な方法を使ってでも、破綻してしまった畿内説を宣伝しろという指示を出した、理不尽な監督やコーチがいるのかもしれないな。。。 >>223
キナイコシはアメリカンフットボール部のような独特の雰囲気の中にいるのではないのかな。。。 >>224
畿内説が益々世間の常識感覚と乖離して言っているな。。。 ここは議論する場ではなく、スレ主がテンプレを貼り自己満足するところ。 >>220
>「南→東」が嘘だって証拠なし<
南は東ではない、のは人類の常識。
東大の博士号を取った、と自慢したwwは、人類の常識も知らない・・・・なのか?。
>「倭国は正北抵新羅だから九州」なんて世迷い言
日本列島のどこからも、新羅に行くには対馬から北へ行く<
倭国(の中心)が大和にあったら、新羅はほぼ西方向だよ。
新羅が正北になるのは、九州。
東大の何科の博士号をどうして取ったのか?は、知らんが、
その科では、嘘つき騙しの博士論文でも、通してくれるような、
インチキ科なのか?。
>「倭国の東征毛人五十五國」は都が畿内だからエミシが東で当然だ <
畿内なんて、まだ存在していなかったから、これも嘘つき騙しだし、
倭国は「正北抵新羅」なんだから、倭国は(大和ではなく)九州だ。
>古田説はレベルが低いなww<
博士号を出した東大が、レベルが低いだけではなく、
その博士号を出した科の教授らが、レベルが特に低いアホだったのかい?。 考古学的に見ても3世紀に入るまで日本国内で最大の勢力は伊都国だとはっきりしてるのに
何でいきなり何も無い畿内の纏向に巨大な勢力が産まれたと勘違いするのか
普通に考えたら伊都国が東遷したと考えるよね テンプレは
卑弥呼は平和裏に共立され、畿内征伐などなかった。
邪馬台国、大和朝廷は畿内全域である。
と主張するプロパガンダだな。
畿内征伐の罪を隠蔽し
大和朝廷の罪を畿内の地元民に押し付ける
卑劣この上ない主張 >>229
そりゃ伊都国が失速していく過程と畿内が興隆してくる過程が解明されてるからだろ
普通伊都国が東遷したなどと考えないわけだ 卑弥呼の時代の伊都は、平原遺跡に代表されるように全盛期だぞ。 >>231
>そりゃ伊都国が失速していく過程と畿内が興隆してくる過程が解明されてるからだろ
普通伊都国が東遷したなどと考えないわけだ<
伊都国は、書紀や風土記に拠れば、仲哀の頃にはまだ伊都国として存在していたし、
タリシホコの頃も、「竹斯國」として、尚も一定の地位を持っていたようだ。 ここは議論する場ではなく、スレ主がテンプレを貼り自己満足するところ。 >>231
内行花文鏡が畿内に入ってないなら、そう言い張ってもいいけどね〜 畿内は九州の文化に塗りつぶされたよね。
いや、もっと具体的に筑紫の勢力に征服されたというべきか。 >>239
>いや、もっと具体的に筑紫の勢力に征服されたというべきか。
具体的に筑紫の勢力ってなに? @阿波 >>234
ほら、反論が出来ない
だから東遷説はいつも負ける >>228
>倭国は「正北抵新羅」なんだから、倭国は(大和ではなく)九州だ。
残念でした
その「正北抵新羅」な倭国から開成四年に藤原常嗣が来てるんだよ
「正北抵新羅」というのは倭国の都の真北に新羅があるとか、そんな意味じゃないのは明らかだ >>240
>具体的に筑紫の勢力ってなに? @阿波 、
阿波の、「倭の中心=阿波」説も、
「南≠東」や「倭国は正北抵新羅だから九州」や「倭国が東征毛人五十五國」などに拠って、
×だよ。
阿波は、どこの大学の博士号?なんだい?。 >>241
>ほら、反論が出来ない だから東遷説はいつも負ける<
この男がwwであるのか?ないのか?は、知らんが、
ほら、また、
「南≠東」や「倭国は正北抵新羅だから九州」や「倭国が東征毛人五十五國」などに、
反論出来ない。 >>244
とっくに論破されてるお経を読み続ける古田信者
脳がしんじゃってるね >>241の追記。
だから、大和説はいつも負ける。 >>232
>卑弥呼の時代の伊都は、平原遺跡に代表されるように全盛期だぞ。
トンデモ九州説はまた結論だけ連呼かぁ
証拠でもあるのかい?
無いんでしょ? >>248
ここは畿内説のスレだから
大和説とか関係ないね >>243
>>倭国は「正北抵新羅」なんだから、倭国は(大和ではなく)九州だ。<
>残念でした
その「正北抵新羅」な倭国から開成四年に藤原常嗣が来てるんだよ
「正北抵新羅」というのは倭国の都の真北に新羅があるとか、そんな意味じゃないのは明らかだ<
残念でした。
唐会要は、倭国伝と日本国伝とをはっきり違う場所に書き分けていて、
列島からの遣使が「倭国使」を名乗った記録があれば倭国伝に記載し、
「日本国使」を名乗った記録であれば日本国伝に記載しており、
開成四年の遣使は、倭国伝に書かれているから、
薜原朝常嗣は「倭國使」の名乗った、という事が実態だ。
旧唐書の日本国伝の方には、薜原朝常嗣の名前は書かれていない。
だから、唐会要は、倭国と日本国をはっきり「違う国だ」として書き分けていて、
「正北抵新羅」は倭国伝の記載であり、
お前の主張は頓珍漢で関係がないのだ。 >>251
薜原朝常嗣は平安時代に京都から来たんだよ
古田説はどこまでトンチンカンなんだろうね 遺跡そのものが根拠だけどね。
畿内説は平原遺跡より豪華な弥生王墓を見つけてから出直してね。 伊都国→九州北部の「百余国」を束ね大陸公認の日本最強の勢力
イズモ、キビ→伊都のライバル勢力
ヤマト(纏向)→奈良盆地の東南部の小国、奈良盆地には他にカツラギ(葛城)やソフ(添)がいた
これでどうやって
倭国大乱でヤマトが全国制覇したのですか? >>254
平原遺跡の膨大なガラス細工や銅鏡が、どれだけの技術と工業力と外交貿易の結果であるか、キナイコシには理解できないようだ。 >>253
遺跡そのものが、なんの根拠?
またアイマイな遁辞で逃亡かい?
伊都説は根拠がないトンデモ説だってことで、おk? 鉄の無い畿内は
核兵器の持たない日本のようなもの
どうやって「鉄保有国」に対抗したの? >>256
広域の支配者の葬儀には多くの人が関わるから
墓が大きくなり、多くの物が集められる
その貢献度によって臣下に序列ができる
大規模な大王墓は寺社の建造が始まるまで続く
平原墓は三雲の平野部から見えない西側斜面で
盗掘もされてないから早くに墳丘が削られたのだろう
近くに神社もないから禁則地にもなっていなかった昭和まで地元民が誰も知らなかった墓 >>257
平原遺跡の膨大なガラス細工や銅鏡が、どれだけの技術と工業力と外交貿易の結果であるか、キナイコシには理解できないようだ。 >>262
1000年も経ったら忘れてしまうよ。
実際、福岡県の他の弥生王墓も、ほとんどは忘れられていた。 >>265
三雲の近くには細石神社があるし、
他の糸島周辺の古墳は誰の墓かはわからなくても削られていない テンプレは
卑弥呼は平和裏に共立され、畿内征伐などなかった。
邪馬台国、大和朝廷は畿内全域である。
と主張するプロパガンダだな。
畿内征伐の罪を隠蔽し
大和朝廷の罪を畿内の地元民に押し付ける
卑劣この上ない主張
テンプレを執拗に貼り続ける輩は、歴史を捏造してまで一体何がしたいのか?
学問に携わる資格なし >>270
日本を作った〇族は、鉄も何にもない畿内の蛮族だったが、
半島からの騎馬民族が教えてあげて教化して
日本を立ち上げた。
という結論へ向けて邁進していますです。
国宝金印偽造主張。倭奴が生意気だぞってさ。 歴史を捏造してるのは「畿内説は破綻した」系のスレを乱立させてるキチガイでしょ 今後の予定
金印は偽物 (悪だくみ中
やっぱり日本は纏向そして箸墓から始まった (鋭意宣伝中
箸墓には世界最古の馬具がある (確定
世界最古の馬具を使っていた優秀な騎馬民族がやってきた! (映画化
日本の全ては××が作った (だから全ては××のもの >>246
とっくに論破されてるお経を読み続ける大和信者や東大博士号ww。
脳が死んじゃってるね。 「教育者として間違った説が許せん」とかキナイコシが言ってたな
今回のアメフトの件で思い出したのはなぜだろう >>270
平和だったら共立など必要ない。
そして武力衝突は事実あった。 >>247
>ウソばっかり 反論されてるし<
大和説や東大博士号男らは、ウソばっかり。
反論になっていないアホだし。 >>249
>>卑弥呼の時代の伊都は、平原遺跡に代表されるように全盛期だぞ。<
>トンデモ九州説はまた結論だけ連呼かぁ 証拠でもあるのかい? 無いんでしょ?<
トンデモ大和説は、また結論だけ連呼かぁ。
平原の21枚の「尚方作」鏡は、当然、
明帝→卑弥呼の下賜の100枚の鏡が元になっているんでしょ?。
証拠がないのかい?。あるんでしょ?。 >>250
>ここは畿内説のスレだから 大和説とか関係ないね<
畿内なんて、史料に存在しないのであり、
私の学生の頃は(畿内説ではなく)大和説だったんだからね。
だから、「畿内説」という文言が、
大和説者の、嘘つき騙しの詐欺であったんだよね。 >>221
計算すると、西暦200年頃からだな。。。 仲哀天皇の王宮は、なぜ畿内ではないのだろうか。。。 古事記と日本書紀を読み進めていくと、畿内に邪馬台国が無かったことがはっきりしてきたな。 テンプレートに書いてあることの根拠が、本当は無いもないということが、優れた考古学者達によって、明らかになってしまったね。 >>222
あれでしょ、、、あれ、あそこに埋もれてたあれ、
先頭のお役所の方は気づかなかったようだけど、、、 大和王権を扱う優秀な若手の学者達にとっては、纏向が邪馬台国の要素の存在しない遺蹟であることは常識なのだが、中には、邪馬台国を食い物にしている老学者からのハラスメントを避けるために、心にもない追従の意を発している者もいる。。。 >>252
>薜原朝常嗣は平安時代に京都から来たんだよ
古田説はどこまでトンチンカンなんだろうね<
東大博士号wwは、まだ判っていないんだろうねえ。
薜原朝常嗣は、唐政府に「倭國使」を名乗ったから、唐会要の倭国伝に記録されたのであり、
その倭國は「正北抵新羅」だと書かれているから、九州からの使節だ、と名乗った、
という事になるんだよ。
大和説者や東大博士号wwは、どこまでアホなんだろうか?。 今後の予定
金印は偽物 (悪だくみ中
やっぱり日本は纏向そして箸墓から始まった (鋭意宣伝中
箸墓には世界最古の馬具がある (確定
世界最古の馬具を使っていた優秀な騎馬民族がやってきた! (映画化
日本の全ては××が作った (だから全ては××のもの >>254
>平原は数人で1週間あれば造れる程度の墓だからな<
薄葬令に縛られて外見は簡単だが、
中身は、明帝の下賜品や大量の玉などの豪華絢爛たる墓だ。 >平原は数人で1週間あれば造れる程度の墓だからな
南の狗奴国と戦争していて
魏が心配して何度も使いを寄こすくらいだからね
墓の土盛りなんかに人件費を割いてる余裕はありませんわな
外交してもらった副葬品は豪華だけどw >>257
>(平原)遺跡そのものが、なんの根拠?<
倭女王の根拠。おそらく壹與。
>またアイマイな遁辞で逃亡かい
伊都説は根拠がないトンデモ説だってことで、おk?<
また口先でのアイマイな遁辞で逃亡かいでの?。
大和説は根拠がないトンデモ説だってことで、OK?。 >>290
>薄葬令に縛られて外見は簡単だが
反日チョンの作り話 >>262
>広域の支配者の葬儀には多くの人が関わるから 墓が大きくなり、多くの物が集められる
その貢献度によって臣下に序列ができる 大規模な大王墓は寺社の建造が始まるまで続く
平原墓は三雲の平野部から見えない西側斜面で
盗掘もされてないから早くに墳丘が削られたのだろう
近くに神社もないから禁則地にもなっていなかった昭和まで地元民が誰も知らなかった墓<
平原は、魏の薄葬令下の墓。
大和は、九州倭国の東征毛人を威圧するために巨大化した、
薄葬令の関係のない田舎の、市の監督者らの墓。 「教育者として間違った説が許せん」とかキナイコシが言ってたな
今回のアメフトの件で思い出したのはなぜだろう 魏志倭人伝の記載を見たら明らかに九州の海沿いの風俗なのに
なんで内陸部の奈良にあったと思うの?
畿内説者は資料も読めないの? 平原は前の5号墓が西側段下だから
1号墓のときにちょこっとだけ認められて少しだけ西側斜面上に上がった
しかし、高麗剣で棺に封印されてるから
おそらくは殺されたのだろう >>294
>反日チョンの作り話 <
wwの「東大での博士論文の指導教授」は、
「反日チョンの作り話」と言え、
と指導したの?。
そりゃ、その教授も、人種差別の国粋皇国史観国家狂のキョクウの・・・・だわ。 魏志倭人伝の記載では魏史が上陸した北部九州沿岸は
特に置かれた一大率が檢察している諸國 >>299
古田のは、泥棒が書いた偽書の発覚で反日チョンだけが残った
抗日パルチザン活動 魏志倭人伝の記載では魏史が上陸した北部九州沿岸に
特に置かれた一大率が諸国を檢察している
が、
鉄器も無い田舎は檢察の対象外
よかったな!! 大率は女王国から北を統率したとされているが、畿内説だと京都?若狭湾沿岸? 「教育者として間違った説が許せん」とかキナイコシが言ってたな
今回のアメフトの件で思い出したのはなぜだろう
パルチザン ルール(方法論)無視の危険プレー(荒らし)が批判されてるのが自身と被るからだろ 2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の自称考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、 3世紀前後の王墓で被葬者が女性のものもはっきりしてるのは平原1号墓だけ
卑弥呼じゃなかったら誰だと言うのだ 卑弥呼以外にも女性首長が存在した可能性を排除できていないので
学問的には全く意味のない問いかけであると言わざるをえないな 人骨がないから被葬者が女性とははっきりしてないよ
広田遺跡では女性と同様に装身具しか身に着けていない男性の人骨も出てる まだ言ってるの?
それにしても偶然ばかり、
家の裏に『エンバーミング』施設ができるとか、できないとか・・・、
町内の人は知っている話なんだけど。
1990年代の半ば頃の話、1990年代後期だったかな 最初は▢▢小学校の前にできると言っていたみたいだよ、
その後、家の裏に・・・と母親は言ってる
▢▢小学校というのは、
もれ(仮)が通っていた幼稚園の近所 >>308
>3世紀前後の王墓で被葬者が女性のものもはっきりしてるのは平原1号墓だけ
2世紀の墓の年代をチョロまかさないと先に進めない九州説って
もう終わってるよね
ww あの写真の家の話なんだけど、どうなっているんだと思う。
「るろうに」?関連人物:茄子、胡瓜が何やらと書いてあったり
『広瀬座』(福島 民家園)というところの話でしょ
それとも『ボーボボ』? >>301
>古田のは、泥棒が書いた偽書の発覚で反日チョンだけが残った抗日パルチザン活動<
古田さんのは、
知り得た事実や、史料批判に拠った確率の高い事実からの帰納的推論であり、
人類平等の反戦平和主義の日本人。
wwや東大教授らのは、
「大和天皇家一元列島支配」というような宗教的人種差別戦争的な、
「結論先にありき」の似非学問だけしかのこっていない、
「都合の悪い事実」の否定曲解の、
嘘つき騙しの「反国民」主義。 家の隣に住んでいたのが高野さんというんだけど、
うちだ・ゆーや?のバンドでドラムをやっているんだよ
とか
偶然なのかな >>309
>卑弥呼以外にも女性首長が存在した可能性を排除できていないので
学問的には全く意味のない問いかけであると言わざるをえないな<
いや、平原は、
21枚の「尚方作」鏡が存在しており、明帝の銅鏡100枚が元になっており、
大量の玉や装身具もあるから、単なる「女性首長」では済まなくて、
「倭国女王」の身分であった事を示す墓。 >>310
>人骨がないから被葬者が女性とははっきりしてないよ<
明帝の下賜の「21枚の尚方作鏡」があったから、
それだけでも「倭國女王の墓だ」と特定出来る。
>広田遺跡では女性と同様に装身具しか身に着けていない男性の人骨も出てる<
祇園山の墳裾の第1主体の甕棺の殉葬の被葬者の、
「鏡片」を身に着けた成人女性も、
(高級奴婢?)だった、と特定されていた。 あの写真もおかしいんだよな、
サザエさんの話じゃないのか?と言ってる人がいたり
母親だという人だけ、素足(裸足)に下駄、
寺院に通っていたというから、サザエさんではないと思う
あと白い制服のようなものを着ている子供に、
おかっぱ頭の子供が写っている >>311
>まだ言ってるの? ・・・<
まだ言ってるの?。
この、何やら「川崎の朝鮮人居住地?」へのヘイトスピーチ、の投稿を続ける男は、
大和説者の人種差別投稿が出て来ると、
また何やら興奮したのか?、突然投稿を再開して来る。
おそらく、wwや東大教授らと同じような、人種差別的な殺人戦争狂の・・・・。 >>319
>素人じいさんの妄想w<
また、
きちんとした「事実を根拠にした論理」ではなく、
口先での「嘘つき騙しの宣伝」を目的とした、
ヘイトスピーチ宣伝ばかりの・・・・・・・・大和説投稿子が出て来た。 >>323
あんたの言ってることが
きちんとした「事実を根拠にした論理」ではないから
素人じいさんの妄想と言われたんだろうに まずヒミコが誰なのかキチッと考えれば、ヒミコは纏向にいないと答えが出て来る。
ヒミコもトヨも葛城にいた。
故・金関 恕さんの発見した「国宝」中平銘鉄刀の保持者である謎の豪族・和邇氏とトヨ、ヒミコは繋がっていた。
事代主
┣━━━━━━━┓
天日方奇日方(鴨王) ヒメ踏鞴━━神武
┣━━━━━━┓
建飯勝 渟名底仲媛━━ 安寧
┃ ┃
建甕尻 息石耳 ※ヒメ踏鞴(248年没)
┃ ┃
豊御気主 トヨ津━━ 懿徳
┃ ┃
大御気主 孝昭
┃ ┃
阿田賀田須 天足彦国押人命
┃
和邇日子押人命
┣━━━━━━━┓
彦国姥津命 姥津媛(開化天皇妃)
┏━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━┳━━━━━━┓
伊富都久命 彦国葺命 小篠命 乙国葺命
┏━━━━━━┳━━━━━━━┫ 【丈部氏祖】 【吉田氏祖】
彦忍人命 建耶須禰命 大口納命 【飯高氏祖】
(武社国造) ┃ ┣━━━━━━━┳━━━━━━━┓
八千宿禰命 難波根子武振熊命 彦汝命 真侶古命
(吉備穴国造) 【和邇氏祖】 【葦占氏祖】 (額田国造)
ヒミコ、トヨをはじめ鴨族の墓は奈良盆地最上座の高天原(御所市高天)にある。
日本最古の神社の境内に径百余歩の塚があり土蜘蛛=奴婢を埋葬している。
http://goo.gl/ajTi3m ま、天動説者は地動説者に勝てはしない。
時間はかかるが真実は暴かれた。 神武は筑紫出身、イスケヨリヒメも筑紫の末裔。
筑紫倭国から入植した一族がいたというだけ。 >>324
あんたら大和説者らの言ってることが、、口先誹謗ばっかりで、
きちんとした「事実を根拠にした論理」ではないから、
素人じいさんに、妄想と言われたんだろうにに。 >>325
>ヒミコもトヨも葛城にいた。・・・<
「南≠東」だけで、これも×ね。 >>330
>九州ウリナラ思想かよ<
人種差別的な国粋皇国史観国家主義の、大和ウリナラ思想?かよ。 >>329
>筑紫倭国から入植した一族がいたというだけ。
忌部一族のような? なんという一族?と聞いてみるw @阿波 『おかっぱ頭』
出家した・・・と書いてない?wikiを読んでみて
天王宮、山王院?
家(あの写真)は、そのような名前の家なんだけど 制服のようなもの、
軍人でもないと言ってるし、何だと思う >>334
>>あんたら大和説者らの言ってることが、口先誹謗ばっかりで、
きちんとした「事実を根拠にした論理」ではないから、
素人じいさんに、妄想と言われたんだろうに。<
>証拠は?<
Yahooや2chや5chで投稿説明した事実。
そして、この「証拠は?」投稿子も、その事を一切知らん振りして、
国民を騙そうとしている・・・・詐欺師。 葱の華の写っているほうに、
おかっぱ頭の子供、椅子に座っている女性(素足に下駄)
どのスレだったかな?
貼り付けたことがあるんだけど >>335
>ほら、ザラコクは口先誹謗ばっかりだか<
ほら、この投稿子も、
Yahooや2chや5chでのこれまでの挙証を一切知らん振りして、
「 口先誹謗ばっかりだか」と誹謗して、
国民を騙そうとする・・・・大和説の詐欺師ではないか。 本当に伊達郡の川俣町という掲示板、
家の老婆と同じようなことを言ってる人がいるんだけどw
なぜなんだろう
亀戸(天神)に行ったこともある、
というのも老婆が生まれるよりも前の話 >>288
>東大博士号男ww
で、ザラコクさんはどこの院にいるときに新説を考え付いたんだっけ?
人に言えないようなところなの? どのスレだったかな、
創価が何やらと言ってる人がいたり
刀?か、何かの話をしている人もいた、
ほとんど老婆と同じような話、刀を盗んだ人がいるとか、いないとか >>282
では、邪馬台国時代の天皇は誰なのだろうか、、、 >>345
でもそれはそれで、癲狂院関係者の方々に失礼に当たるのでは?
ザラコクと同類扱いすることになるし
既に、とおの昔に廃院になっているとはいえ 『福島県 民家園』
『阿部』という家も保存されているし、そこの関係のところなのかな、
wikiを読んでみると信夫郡・・と書いてあるし >>341
で、周王朝や呉王夫差の後裔が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
龍信仰と亀卜は?
で、周王朝や呉王夫差の後裔が渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?
今言えこのボケジジイ! >>336
>>筑紫倭国から入植した一族がいたというだけ。<
>忌部一族のような? なんという一族?と聞いてみるw @阿波<
忌部一族がいたって構わない。
「部」という部族身分呼称は、
古田さんの分析に拠れば、縄文末の出雲政権時代に既に存在していたようであり、
だから、出雲の支配下にあった筑紫や瀬戸内や近畿にも、その部族が存続していた可能性があり、
そして、阿波からは、卑弥呼の「親愛なる部下」への下賜品の「鏡片」が出ているから、
阿波も、「倭國の東征毛人55国」の一国であった可能性があり、
出雲系の残存忌部一族や、卑弥呼の部下の東征将軍らの中の忌部一族との、
合同地域であった可能性なら有り得る。
個々の氏族名称などは、全く判らない。 信夫山伝説、事実かもしれないな。
淳中太尊
天武天皇、天渟中原瀛真人天皇と名前はよく似ているがどういうことだろう >>342
こうやって、
「南→東」や「倭国は正北抵新羅だから九州」や「倭国の東征毛人55国」の議論から、
いつも逃げる、嘘つき騙しの大和説者は、
薄汚い・・・・詐欺師。 >>344
>>東大博士号男ww<
>で、ザラコクさんはどこの院にいるときに新説を考え付いたんだっけ?
人に言えないようなところなの?<
人間ではない・・・・大和人種には、言っても無駄で無意味であるから、言わないの。 >>329
>神武は筑紫出身、
神武は宮崎。
崇神が神武ゆかりの土地に宮崎神宮を建てている。
100年ほど前の始祖の土地を間違えるわけがない。
>イスケヨリヒメも筑紫の末裔。
全然違う。
出雲の銅鐸族の畿内入りはBC3世紀頃。
淡路の松帆銅鐸もその時代。
筑紫など全然関係ない。
福岡は豚骨ラーメンだけ作っててくれ。 >>353
>「南→東」や「倭国は正北抵新羅だから九州」や「倭国の東征毛人55国」の議論から、
>いつも逃げる、嘘つき騙しの大和説者は、
ちゃんと反論ありますけど?
シランプリして誤魔化してるのは、あなた >>351
>古田さんの分析に拠れば
古田さんって演歌歌手? >>355
>>神武は筑紫出身、<
>神武は宮崎。
>筑紫など全然関係ない。 福岡は豚骨ラーメンだけ作っててくれ。<
ウガヤフキアエズは、筑紫の山彦の子であり、
宮崎に行って、そこから筑紫に戻った形跡がなく、
宮崎で五瀬命やナルタ姫ら兄弟姉妹が出来、神武も宮崎で結婚したらしく、
その後、兄弟姉妹は筑紫の筑紫城に戻ったが、
筑紫では阿毎氏と姫氏との合同王朝時代になっていて、
居場所も先行きも見込みがなくなっていて、
五瀬兄弟は、「尚東に行かむ」として、
筑紫や岡田宮や宇佐の仲間を募って、「東征毛人」に出立していった。
>崇神が神武ゆかりの土地に宮崎神宮を建てている。
100年ほど前の始祖の土地を間違えるわけがない。<
勿論、日向や筑紫の事を間違える訳はないが、
記紀共に「倭国の存在や歴史をなかった」事にする半分×書であるから、
倭国の筑紫城の事は、記紀が隠蔽した可能性がある。
> 出雲の銅鐸族の畿内入りはBC3世紀頃。 淡路の松帆銅鐸もその時代。<
大体合っているようですね。 畿内説を論破されたキナイコシが、反論を諦めて悪口だけになってきているな。。。 >>285
そうだね、、、
そして、僕たちは最近新しい情報を手に入れたね。。。 九州?頭のおかしい人の話だと書いてない?
wiki参照 桜井市は豚骨の代わりに、鹿骨を使って売り出せばいいのではないのかな、、、 大物主も鹿骨ラーメンを食べていたのではないのかな。。 >>359
で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
龍信仰と亀卜は?
で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着したとウソブいている
サギサギ考古学者の氏名と所属団体は?
早よ言えこのサギジジイ! >>364
天皇の妹の墓よりも、集客効果を見込めるのではないのかな、、、 九州説は畿内説にぜんぜん反論できず、荒らし専業になったな 鹿骨ラーメンの売り出しに成功すれば、キナイコシも邪馬台国畿内説という詐欺宣伝から、晴れて解放されるかもしれないなw キナイコシが論破されてしまっている話題が、インターネット掲示板の荒らし行為の事のようだね。。。 >>370
あまり、レベルの高い話題ではないのではないのかな。。。 >>354
>人間ではない・・・・大和人種には、言っても無駄で無意味であるから、言わないの。
やっぱり人には言えないようなところなんだねw
だったら院に行ってたとか、見栄を張らなきゃいいのに >>371
そういえば、キナイコシはここよりも数段レベルの高い他のスレッドを荒らしているね。。。 >>373
なかなか、執拗な荒らし行為ではなかったのかな。。 >>286
あれでしょ、、、あれ、あそこに埋もれてたあれ、
先頭のお役所の方は気づかなかったようだけど、、、 2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の自称考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、 はぁ〜♪
鉄もねえ、絹もねえ、銅矛鉄矛なんにもねぇ
鉄器とは何者だ? たまに出るのは桃の種
銅鐸はあるけれど、書かれた歴史書見たこたねぇ
楼閣ねぇ、田んぼもねぇ、万戸どころか住居がねぇ
オラこんな村いやだぁ〜、オラこんな村いやだぁ〜
九州へ出るだ〜
九州へ出たなら入墨ば入れて、伊都で鉄買うだぁ〜
はっ♪ 不思議なんだよね。
2013年以来、学者は勿論、一般人にも、畿内説を連呼する狂人はいないのに、インタ−ネットの世界では、目立つのだよね。 大和王権を扱う優秀な若手の学者達にとっては、纏向が邪馬台国の要素の存在しない遺蹟であることは常識なのだが、中には、邪馬台国を食い物にしている老学者からのハラスメントを避けるために、心にもない追従の意を発している者もいる。。。 >>380
アメリカンフットボールの世界と同じ構図なのではないのかなw 九州説はデマと中傷専門になってしまったか
もう学説としては終わったな
キナイコシは、テンプレートが論破された時、嘘と悪口しか言わなくなるな。。。 >>347
計算すると、応神天皇の頃だな。。。
昔の天皇は長生きだな。。。
魏志倭人伝にも倭人が長生きで100年生きるとあったが、それが正しいことが証明されたな、、 銅鐸や桃の種は、魏志倭人伝とどう関係するのだろうか。。。 >>383
九州説は常に論破されている状態なので、いつも嘘と悪口しか言わないな・・・
w >>384
計算すると、神武天皇の方が800年以上古い時代のようだな。。 >>382
>>388
方角90度反転というトンデモ理論が前提の畿内説
文献無視の畿内説 テンプレートに書いてあることの根拠が、本当は無いもないということが、優れた考古学者達によって、明らかになってしまったね。 >>383
返す言葉を発見出来ないのではないのかな。。。 >>392
大物主も神武天皇の時代の人なのだね、、、 改めて狂人のキナイコシが貼り付けているテンプレートを読んでみると、訳が分からなくなってくる。。。
奈良のあの古墳が、魏志倭人伝の世界とかけ離れていることの言い訳ばかりで、、、
かえって、奈良のあの古墳が、魏志倭人伝の世界とかけ離れていることが強調されているのではないのかな。。。 >>397
>方角を90度反転してるから
末慮国から伊都国が、東南五百里と書いてあるが、現実の比定地の地理では
北東方向になる
90度回して考えた方が、九州内での地理にも合う
なのに、九州説はかたくなに、
末慮国から伊都国
伊都国から奴国
を南東にしたがって、いろいろとアクロバットな比定地を出してくるのが笑える >>368
大和説は九州説に、
史料事実や、史料批判に拠る史料実態に関して、ぜんぜん反論できず、
口先での荒らし専業になったな。 畿内説は2013年、もろくも破綻した。
論争は、段々、九州説同士の戦いになってしまうではないのかな。
有力な候補地が目白押しで、なかなか、結果がでないだろうけどもね。
畿内説の掲示板で、それをやるのは、一々、畿内説信者へ、論争の途中経過を教えてあげる手間を省くため。 >>382
大和説は、九州説に対して、
史料事実や、それに対する史料批判から帰納的推論された史料実態に関する議論で、
事実関係に関する反論が全く出来ず、
議論から逃げたり、口先でのデマと中傷専門になってしまったか。
もう学説としては終わったな。
問題は、文部省や右翼マスコミや人種差別戦争肯定の学会教育界などが、
5chでの結末を知らん振りして、何時までも嘘つき騙しの大和説の宣伝をし続けている、
という事だな。 >>388
大和説は、
「南」や、「正北抵新羅」や、「東征毛人五十五國」や、
「日本国は倭国の別種の旧小国」などに関して、
常に論破されている状態なので、
いつも、口先での嘘と悪口しか言わないな・・・。
w ここは、あまりレベルの高いスレッドではないのではないのかな。。。 大和王権を扱う優秀な若手の学者達にとっては、纏向が邪馬台国の要素の存在しない遺蹟であることは常識なのだが、中には、邪馬台国を食い物にしている老学者からのハラスメントを避けるために、心にもない追従の意を発している者もいる。。。 >>399-406
もう夢中で、無内容なことを書き飛ばしているな
>>398
>末慮国から伊都国が、東南五百里と書いてあるが、<
そうは書いていない。
陳寿は行程説明においては、きちんと「出発説明+途中説明」を書いて「到着説明」を書いているから、
「東南」は、末盧國からの出発方向説明であって、次の伊都国の方向説明として書かれたものではない。
>現実の比定地の地理では 北東方向になる 90度回して考えた方が、九州内での地理にも合う<
「東南」は、目的地方向ではないから、×。
そして、「東南」で正しかった、という事は、
梯儁等の報告に基づいて、次にやって来た張政らは間違えずに卑弥呼の所に着いているから、
「梯儁等の東南」の方向説明が間違いではなかった、という事になる。
なのに、大和説はかたくなに、「東南は東北の間違いだ」と言い張って、
末慮国から伊都国や、伊都国から奴国の南東を、
いろいろとアクロバットな方向を出してくるのが笑える。 >>398
末盧国→呼子
伊都国→前原
奴国→春日
呼子から前原は東南だし
前原から春日も東南
何が間違えているの? >>359
ナルタ姫はどこの情報?
糸島の産の宮神社以外に何か残ってる?
なにかしら情報があれば知りたくて >>375
そうそう。あれを最初に目にしたあの人が、機転を利かせて足元の枯葉を蹴り掃いて覆ったけど、、、 >>410
山彦と海彦のうち、筑紫に残ったのが山彦なのでは?
海彦の国が宮崎の投馬国。
山彦が筑紫の倭王として残り、その姫の宮が糸島にあるのも、彦火火出見(山彦)の宮(高祖宮)が糸島にあるのも、説明がつく。 >>409
>何が間違えているの?
末盧国→呼子 @阿波 >>409
呼子から前原は真東
ウソをついてもダメ >>408
>「東南」は、目的地方向ではないから、×。
倭人伝の行程に目的地の方向が書いてないなんて
異常な主張をしなきゃいけないくらい
九州説はダメダメなんだね 魏志倭人伝
「末盧国は山海にはさまれている。魚やアワビを捕まえる。潜り漁が盛ん」
→イカやアワビが美味しい、潜り漁で有名なのは呼子
九州人なら誰でも知ってる
倭人伝の記す末盧国は呼子の事 >>403
「正北抵新羅」?
唐会要は倭国のことを
「在新羅東南、居大海之中。」と書いたうえで
「北限大海、西北接百濟、正北抵新羅」と書いているんだよ
「正北抵新羅」から、倭国の都が新羅の真南にあるなんて
変なことを読んだら間違いだって
誰でもわかるだろ
「在新羅東南」とも「北限大海」とも矛盾するじゃないか
しかも唐会要は開成四年、倭国からの使者藤原常嗣の来訪を記している
これ、平安時代だよ
古田説はどこまでデタラメなんだ >>416
なぜアワビがイカに化ける?
伝説のアワビマン再来か >>408の追記
>90度回して考えた方が、九州内での地理にも合う<
ここで、「九州内での地理」なんて奇妙な言い方をしていたのは、この男は、
魏志が東夷伝地域や九州以東の地域での、郡役人や魏使らが関与した方向記載に関しては、
「方向の間違いが殆どなかった」、という事を白状してしまっている、という事になる。
確かに、「東漸于海、西被于流沙」においても、
「西域」や「東夷」や「遼東」においても、
「過沃沮、踐肅愼之庭、東臨大海」においても、
「夫餘在長城之北、去玄菟千里、南與高句麗、東與yup婁、西與鮮卑接、北有弱水」においても、
「高句麗在遼東之東千里、南與朝鮮、wai貊、東與沃沮、北與夫餘接」などにおいても、
「wai南與辰韓、北與高句麗、沃沮接、東窮大海」においても、
「韓在帶方之南、東西以海爲限、南與倭接」においても、
「辰韓在馬韓之東」においても、「倭人在帶方東南大海之中」においても、
「乍南乍東」においても、「又南渡一海千餘里」においても、「南北市糴」においても、
「自女王國以北、其戸數道里可得略載」においても、
「自女王國以北、特置一大率、檢察諸國」においても、
「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」などにおいても、
陳寿の「計其道里、當在會稽東治之東」においても、
郡役人や魏使らが関与した方向記載は殆ど正確であり、間違ってはいない。
という事は、末盧國や伊都國からの「東南」の記載も、
「間違っていた」とは全くならない、という事だ。 >>407
「南→東」などの嘘つき騙しがバレて、
大和説者は、もう夢中で、無内容なことを書き飛ばしているな。 >>416
>「末盧国は山海にはさまれている。魚やアワビを捕まえる。潜り漁が盛ん」
その、魚やアワビを捕まえた人々が暮らした、末盧国(四千戸)の弥生時代後期集落遺跡が呼子には無い。 @阿波 >>419
理屈もヘッタクレもなく、ただ結論だけ言い張るのね >>410
>ナルタ姫はどこの情報? 糸島の産の宮神社以外に何か残ってる?
なにかしら情報があれば知りたくて<
黙過のところ、産の宮神社での(極めてラッキーで貴重な)孤立情報。 >>419
古田説がどうやって他人の発言をわざと曲解するか
という典型例を見た 海幸彦山幸彦について色々伝承があるが例えば、
潮嶽神社
ヒコホホデミノミコト(山幸)に追われたホデリノミコト(海幸)がこの地にたどり着き、居を構えたと伝えらています。
神話、海幸彦、山幸彦では山幸彦の影に隠れ、山幸彦ほど有名ではありませんが、海幸彦は隼人(南九州に居住する氏族)の祖といわれております。
隼人の祖は海幸彦。
海幸彦と山幸彦は対立していた。
海幸彦は内陸へ追いやられたとある。 >>423
ありがとうございます
やっぱり孤立情報ですか
奈留多姫は謎ですよねぇ
神社の伝承ではなぜか綏靖天皇を産んだ事になっているし、その姫の名前は記紀で見当たらないし >>409
>呼子から前原は東南だし
>前原から春日も東南
さすがに、このウソはひどすぎ >>412
>山彦と海彦のうち、筑紫に残ったのが山彦なのでは? 海彦の国が宮崎の投馬国。
山彦が筑紫の倭王として残り、その姫の宮が糸島にあるのも、彦火火出見(山彦)の宮(高祖宮)が糸島にあるのも、説明がつく。<
確か、海彦がニニギの直系であり、山彦の兄であり、先にニニギの王家を継いでいて、
山彦の方がトラブって、放逐されて流浪して、
その後で、釣り針を見つけて兄に勝った筈。 兄に勝ったと言うことは、筑紫の倭国王家を継承したことになる。
まあ、実際には兄弟相続をそのように伝承したのだろうけど。
いずれにしても、筑紫の日向の伊都が倭国の王都であることに変わりはない。
海彦山彦のどちらも邇邇芸の直系だよ。 >>415
>>「東南」は、目的地方向ではないから、×。
>倭人伝の行程に目的地の方向が書いてないなんて異常な主張をしなきゃいけないくらい
九州説はダメダメなんだね<
見知らぬ初めての地図もない地では、目的地の正確な方向なんて全く判らないものだ、
という人類の常識が判らないから、
大和説はダメダメなんだよね。 山彦の息子の彦渚ウガヤフキアエズまでは筑紫にいたと旧唐書や記紀に残されている。
その息子の神武が筑紫を発ち大和へ向かうわけだが、年代的には倭国大乱の頃になる。
神武の大和王権と卑弥呼の筑紫倭国が概ね並行して存在していた。
ただし大和の首長は先行していた饒速日であり、纒向は饒速日やその物部一族の本拠地だ。 >>432
じゃあ倭人伝の記載が間違ってて
何もおかしくないではないか
古田説も語るに落ちたな
w >>433
旧唐書にそんなことは書いてない
捏造するな >>417
>「正北抵新羅」? 唐会要は倭国のことを 「在新羅東南、居大海之中。」と書いたうえで
「北限大海、西北接百濟、正北抵新羅」と書いているんだよ<
「在新羅東南、居大海之中」は、倭國全体の方向であり、
「西北接百濟、正北抵新羅、・・・」は、友好性や敵対性を示しているから、
倭国の権力中心からの位置関係を示す。
>「正北抵新羅」から、倭国の都が新羅の真南にあるなんて 変なことを読んだら間違いだって
誰でもわかるだろ<
大和は、新羅のほぼ東であるから、大和は間違いだ、って誰でも判る。
新羅の「東南」と」「ほぼ真南」の二つが書かれているんだから、
倭国の方向は「東南〜真南の間にある」という説明になり、
誰でも判るように、九州にどんぴしゃり。
>「在新羅東南」とも「北限大海」とも矛盾するじゃないか<
「北限大海」の大海も、九州と(百済や新羅の)半島の間の海を示す事になり、
矛盾しない。 >>438
新唐書は記紀がネタ本なんだから併記する意味がない >>437
トンデモ説w
いくら口先で誤魔化そうとしても
藤原常嗣は畿内から来たんだよ >>417の追加。
>しかも唐会要は開成四年、倭国からの使者藤原常嗣の来訪を記している
これ、平安時代だよ 古田説はどこまでデタラメなんだ <
これは、もう返事済みの事だ。
唐会要は倭国伝の記載は、「開成四年正月、遣使薜原朝常嗣等來朝貢」であるから、
薜原朝常嗣等は、倭國の遣使である、と名乗った事になる。
だから、薜原朝常嗣は、九州倭國の人物であった可能性もあるし、
「倭国を併合吸収継承」した大和日本国側の人物の、
「詐術的な名乗り」であった可能性もある。 人口が増えるにつれて、定住が主流で移動民族が減ったんだから、日本列島だけで考えるのも
時期外れじゃないかな。 資料から歴史を割り出すより
、口語に伝わる歴史の方がまだ掘れていないなあ。 >>422
>理屈もヘッタクレもなく、ただ結論だけ言い張るのね<
「東漸于海、西被于流沙」においても、
「西域」や「東夷」や「遼東」においても、
「過沃沮、踐肅愼之庭、東臨大海」においても、
「夫餘在長城之北、去玄菟千里、南與高句麗、東與yup婁、西與鮮卑接、北有弱水」においても、
「高句麗在遼東之東千里、南與朝鮮、wai貊、東與沃沮、北與夫餘接」などにおいても、
「wai南與辰韓、北與高句麗、沃沮接、東窮大海」においても、
「韓在帶方之南、東西以海爲限、南與倭接」においても、
「辰韓在馬韓之東」においても、「倭人在帶方東南大海之中」においても、
「乍南乍東」においても、「又南渡一海千餘里」においても、「南北市糴」においても、
「自女王國以北、其戸數道里可得略載」においても、
「自女王國以北、特置一大率、檢察諸國」においても、
「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」などにおいても、
陳寿の「計其道里、當在會稽東治之東」においても、
郡役人や魏使らが関与した方向記載は殆ど正確であり、間違ってはいない。
という事を挙げたのに、
大和説者は、
個々に関する反論の論理を説明する事なく、
理屈もヘッタクレもなく、ただ「否定の結論だけ」を口先で言い張るようだね。 >>418
>>421
魚→イカ
魏志倭人伝には末盧国は
・山と海にはさまれ平地が少なく
・イカもアワビも美味しい
・潜り漁が盛ん
と記録される
末盧国の比定地である唐津は平野でしかも遠浅の海なので唐津ではない
これは呼子のことを言ってる
呼子から前原は東南、前原から春日は東南 >>424
大和説者が、どうやって他人の発言をわざと曲解するか、 という典型例を見た。
安部内閣や財務省などが、籠池や加計問題で国民を騙そう、とした構図と全く同じ。 >>425
>海幸彦山幸彦について色々伝承があるが例えば、 潮嶽神社
ヒコホホデミノミコト(山幸)に追われたホデリノミコト(海幸)がこの地にたどり着き、居を構えたと伝えらています。
神話、海幸彦、山幸彦では山幸彦の影に隠れ、山幸彦ほど有名ではありませんが、
海幸彦は隼人(南九州に居住する氏族)の祖といわれております。
隼人の祖は海幸彦。 海幸彦と山幸彦は対立していた。 海幸彦は内陸へ追いやられたとある。<
成程。 >>427
確かに呼子→前原→春日は東南というより「真東に近い東南」だが
決して北東ではない
畿内説の"方角90度反転論"は真っ赤なウソ >>429
大和説というのは、半分×書の記紀を信仰して、
記紀に合わない神社伝承や記録を「偽史創作ゴッコ」だ」と否定抹殺する、
・・・・人種だな。 >>409
>末盧国→呼子
呼子には「マツラ」という地名がないだろ
遺跡の分布からしても、松浦川の流れる唐津平野が末慮国だよ
松浦郡の範囲ならどこでもいいという訳にはいかない
>伊都国→前原
これは糸島平野の怡土側だから、まあいいと言えばいいが、
やはり伊都国の中心は三雲遺跡群だろう
>奴国→春日
須玖岡本遺跡があるから春日といいたいのは分かるが、卑弥呼の時代には
もっと海よりの比恵・那珂遺跡群が奴国の中心になっている
そして、比恵・那珂遺跡群こそ、畿内との協力者で畿内様式甕の北部九州での
生産地になっている >>450
>確かに呼子→前原→春日は東南というより「真東に近い東南」だが
無理な言い訳ww
「真東に近い東南」の時点で、魏志倭人伝の方位は正確ではないと
自分で言っているのに気づけよww >>441
>だから、薜原朝常嗣は、九州倭國の人物であった可能性もあるし、
>「倭国を併合吸収継承」した大和日本国側の人物の、
>「詐術的な名乗り」であった可能性もある。
だからそれ、平安時代だよ
古田説はどこまでデタラメなんだ
笑い話ですか? >>431
大和説者という人種は、
半分×書の記紀も、全ての伝承や系図においても、
大和説にとっては都合の悪い情報を、
全て「偽史創作ゴッコ」だとして否定抹殺する・・・・詐欺師だな。 >>450
>確かに呼子→前原→春日は東南というより「真東に近い東南」だが
真東なんだよ
東南は間違い
九州説さん捏造はダメ
ダメなんだよ 南を東という壮大な捏造をしてる畿内説が東南と真東の僅かな違いを攻撃するのはほんと滑稽 >>455
いや、あんたらの作り話を
「偽史創作ゴッコ」だと否定してるだけだ 帯方郡から女王国まで1万2000里
末盧国に上陸するまで1万里
末盧から奴国まで600里
残り1400里で邪馬台国
これで畿内にあると思うのは低学年の小学生か? >>432
>山彦の息子の彦渚ウガヤフキアエズまでは筑紫にいたと旧唐書や記紀に残されている。<
旧唐書には書かれていない筈。
記紀では、ウガヤフキアエズは、宮崎に行ったままで、
筑紫に戻った、という記録がない。
>その息子の神武が筑紫を発ち大和へ向かうわけだが、年代的には倭国大乱の頃になる。<
神武の東征後の建国は、二中歴に拠って、紀元前91年頃。
>神武の大和王権と卑弥呼の筑紫倭国が概ね並行して存在していた<
300年位違う。
>ただし大和の首長は先行していた饒速日であり、纒向は饒速日やその物部一族の本拠地だ。<
纏向は、饒速日の頃には、おそらく存在していなかった。 >>457
畿内説は
「南」とあるのは「東」の間違いだと
確たる根拠に基づいて主張してるだけで
捏造でも何でもない
真東を東南だと言いはる見え見えの詐欺こそ
ほんと滑稽 >>459
その数字が間違ってると言ってるわけだが 朝鮮半島の南に位置し
一周5000里の南北に長い島
海を渡って東にまた国がある
これどう見ても九州だよね >>459
ノンノン
キナイコシになると
九州に着いた途端、一里の長さが長くなるんだよ畿内に届くようにね。 >>462
数字も間違い、方角も間違いじゃ
畿内説は魏志倭人伝を全否定するつもりなんだな
そりゃそうだよな
風俗も何もかも九州のものだもの
そう、邪馬台国は畿内ではない >>434
>>見知らぬ初めての地図もない地では、目的地の正確な方向なんて全く判らないものだ、
という人類の常識が判らないから、<大和説はダメダメなんだよね。<
>じゃあ倭人伝の記載が間違ってて 何もおかしくないではないか
古田説も語るに落ちたな w<
いや、倭人伝の方向記載は、郡役人や魏使らが実地で残した記録が元だから、
出発方向などは記録出来ても、
出発時点では、目的國方向ははっきり判らず、断定的に記載出来ないもの。
・・・・アホの大和説者も、語るに落ちたなw。 帶方郡即ち臨津江口より狗邪韓國即ち金海に至る海上の距離は、大約二百餘里なるを、『魏志』には七千餘里となす。
故に此間の三十五里は我が一里に當る。
又狗邪韓國より九州の末盧國即ち松浦郡に至る海上の里程は、大約六十餘里に過ぎざるを、『魏志』には之を三千餘里となす。
故に此間の五十里は我が一里に當る。
又末盧國より不彌國即ち太宰府の附近に至る陸上の距離は大約三十里を出でざるに、『魏志』には之を七百里となす。
故に此間の二十三、四里は我が一里に當る。
此の如く『魏志』倭人傳に見えたる里程の標準は區々にして一定せざる上に、普通の支那里に比してもまた大に短縮せり。 >>436
史料事実などの否定捏造なくして、大和説なし。 >>459
>残り1400里で邪馬台国
短里を捏造しなければ余裕で着くよ
まあ、行き過ぎちゃうけどなw >>463
一周5000里とか倭人伝位書いてないし >>463
>一周5000里
周旋は、一周しないよ
早くこれくらいは、定着させないと >>467
>九州は南北に長いよ。
九州に合わせて捏造したら詐欺 >>468
>出発時点では、目的國方向ははっきり判らず、断定的に記載出来ないもの。
記録を書いたのが出発時点なわけないだろ
人類の常識から最も遠い男だな >>440
>トンデモ説w いくら口先で誤魔化そうとしても 藤原常嗣は畿内から来たんだよ<
トンデモ説w。
いくら口先で誤魔化そうとしても、
唐会要の(日本国伝ではなく)倭国伝では、
「開成四年正月、遣使薜原朝常嗣等來朝貢」だから、
薜原朝常嗣等は「(正北抵新羅であった九州の)倭國からの遣使」を名乗ったんだよ。 >>475
畿内に合わせて南を東に読み替えるのを捏造というんだよ。 >>479
畿内に合わせて南を東に読み替えたという証拠は? >>478
人類史上有数のタワケがw
平安時代に九州王朝など有るものか
唐会要の倭国伝に薜(藤)原朝常嗣がいるのだから
その倭国とは平安京に都のある日本で
その日本は「正北抵新羅」なんだよ
インチキ解釈のつけ入る余地はない >>463
それは四国周りぐるりと一周だな
使者は太平洋側しか通ってないだろうが >>452
>>伊都国→前原 これは糸島平野の怡土側だから、まあいいと言えばいいが、
やはり伊都国の中心は三雲遺跡群だろう<
末盧國から、道なりに「陸行五百里」すれば、大体前原〜糸島水道付近になり、
三雲にはならない。
>奴国→春日 須玖岡本遺跡があるから春日といいたいのは分かるが、卑弥呼の時代にはもっと海よりの比恵・那珂遺跡群が奴国の中心になっている<
いや、須玖岡本は、
「キ鳳鏡」に拠ってもハイテク工業地域に拠っても、卑弥呼の時代に近くなるし、
藤崎西新町〜那ノ津の不彌國の南の那賀川沿い、になるから、邪馬壹國の中心部になり、
奴國にはならない。
>そして、比恵・那珂遺跡群こそ、畿内との協力者で畿内様式甕の北部九州での
生産地になっている <
比恵・那珂遺跡群の繁栄は、卑弥呼よりも少し後であり、
大和は殆ど関係がなく、
筑紫へは、河内や播磨からの搬入があった。 >>453
>無理な言い訳ww
「真東に近い東南」の時点で、魏志倭人伝の方位は正確ではないと
自分で言っているのに気づけよww <
wwはまだ無理な曲解をしている。
「東南」は末盧國からの出発時点での出発方向説明であり、
仮に呼子上陸であっても、末盧國出発地は唐津付近になり、
「東南出発」で、魏志倭人伝の方向記録は、正確であった、
と言えるんだよ。
早く「自分の脳の異常性」に気付けよ。 >>483
孝元天皇は(台与の時代か)、河内青玉繋(河内彦)の娘である埴安媛と血縁を結び、武埴安彦命が生まれる。血縁を結ぶことで、狗奴国と和睦したのかもな。 >>454
>>だから、薜原朝常嗣は、九州倭國の人物であった可能性もあるし、
「倭国を併合吸収継承」した大和日本国側の人物の、「詐術的な名乗り」であった可能性もある。<
>だからそれ、平安時代だよ<
開成四年が、平安時代だ、という事は、始めから否定していないよ。
要するに、「正北抵新羅」は唐会要倭国伝の記載であるから、
倭国は九州にあった、という事が確定なんだよ。
wwや大和説者はどこまでデタラメなんだ?。 笑い話ですか?。 >>483
>比恵・那珂遺跡群の繁栄は、卑弥呼よりも少し後であり、
それ、なんか根拠あるの?
願望だけだろ
ww >>458
>いや、あんたらの作り話を
「偽史創作ゴッコ」だと否定してるだけだ<
いや、あんたら大和説者らの「南→東」などの壮大な作り話を、
「偽史創作ゴッコ」だ、と否定してるだけだ。 >>486
>要するに、「正北抵新羅」は唐会要倭国伝の記載であるから、
>倭国は九州にあった、という事が確定なんだよ。
どうした
困り果てて思考停止か
それが平安時代で藤原常嗣は平安京にいた貴族なんだから
「正北抵新羅」の倭国はイコール畿内に都がある日本であって
唐会要倭国伝の倭国はイコールj日本であった、という事が確定なんだよ >>488
理由もなく、かい?
wwwwwwwwww >>461
>畿内説は <
嘘を付くな。「畿内」なんて存在していなかった。
>「南」とあるのは「東」の間違いだと 確たる根拠に基づいて主張してるだけで
捏造でも何でもない <
嘘を付くな。
スレ主は、直接的な史料事実である「南」では大和説にとっては都合が悪かったから、
「一旦保留して」おいて、
(確固たる根拠に基付いたのではなく)、
他の史料を曲解した間接的な傍証で大和の可能性を匂わせただけの、
「結論先にありき」の循環論法で、「南→東」の嘘つき騙しをした。
>真東を東南だと言いはる見え見えの詐欺こそ ほんと滑稽<
「南を東だ」と言い張る見え見えの詐欺こそ、ほんと滑稽な「嘘つき騙しのアホ詐欺」。 >>482
>それは四国周りぐるりと一周だな
>使者は太平洋側しか通ってないだろうが
まぁ、常識的に考えれば、そういう結論になるでしょうね。 @阿波 >>462
>>帯方郡から女王国まで1万2000里 末盧国に上陸するまで1万里 末盧から奴国まで600里
残り1400里で邪馬台国 これで畿内にあると思うのは低学年の小学生か?<
>その数字が間違ってると言ってるわけだが <
いや、ほぼ魏志倭人伝に記載された数字であり、
郡役人や魏使らの計測値であり、
殆ど間違っていない数字だ。 >>493
相変わらず結論だけを言いはるけど
理由は無いんだよね
そういうのを世間の人は
妄想と云うんだが >>470
>帶方郡即ち臨津江口より狗邪韓國即ち金海に至る海上の距離は、
大約二百餘里なるを、『魏志』には七千餘里となす。
故に此間の三十五里は我が一里に當る。<
これ間違い。
魏代の1里の距離と、この筆者の1里の距離が違っている事に、この筆者がアホで知らなかっただけではなく、
歴韓國乍南乍東は、韓国部分は陸行。
>又狗邪韓國より九州の末盧國即ち松浦郡に至る海上の里程は、大約六十餘里に過ぎざるを、
『魏志』には之を三千餘里となす。 故に此間の五十里は我が一里に當る。
又末盧國より不彌國即ち太宰府の附近に至る陸上の距離は大約三十里を出でざるに、『魏志』には之を七百里となす。
故に此間の二十三、四里は我が一里に當る。<
これも、この男は、風土記と書紀に伊都国を怡土郡にある、と記載されている事を知らない・・・・アホ学者。
>此の如く『魏志』倭人傳に見えたる里程の標準は區々にして一定せざる上に、
普通の支那里に比してもまた大に短縮せり。<
此の如く、この男も、全くの・・・・アホであった。 >>472
>残り1400里で邪馬台国 短里を捏造しなければ余裕で着くよ
まあ、行き過ぎちゃうけどなw<
「南≠東」だから、始めから×であるし、
魏使らが、不彌國までを短里で里数計測をし、その後を長里計測をする筈もないし、
「萬二千余里」は不彌國で殆ど消費されているから、1400里も余らないし、
陳寿も「計其道里、當在會稽東治之東」と計算しているから、九州でほぼ合っており、
大和は全くの×。 【問題】
帯方郡→邪馬台国 12,000里
帯方郡→狗邪韓国 7000里
狗邪韓国→対海国→一大国→末盧国 3000里
末盧国→伊都国→奴国→不弥国と東に進んで700里
不弥国→投馬国→邪馬台国 ??里
不弥国から邪馬台国まで残り何里ですか?
こんなの小学生でもわかりますよ >>476
>畿内説に捏造はありませんが、何か?<
そもそも、「畿内」なんてなかったから捏造だし、
「南≠東」だし、
「倭國は正北抵新羅だから九州」だし、
「大和は倭國の東征毛人五十五國の中の一国であり、倭国の別種の旧小国」だから、
大和説は捏造ばっかりだし。 >>477
>>出発時点では、目的國方向ははっきり判らず、断定的に記載出来ないもの。<
>記録を書いたのが出発時点なわけないだろ 人類の常識から最も遠い男だな<
記録というものは、
後からまとめて書いたら、忘れたり記録漏れがあって失敗する事があるから、
原則として、出来事がある度に記録して行くものなの。
この大和説男も、人類の常識から最も遠い・・・・アホ男だな。 >>480
>畿内に合わせて南を東に読み替えたという証拠は?<
スレ主のテンプレ。 >>481
>人類史上有数のタワケがw. 平安時代に九州王朝など有るものか
唐会要の倭国伝に薜(藤)原朝常嗣がいるのだから
その倭国とは平安京に都のある日本で
その日本は「正北抵新羅」なんだよ<
人類史上有数のタワケがw。
唐会要には倭国伝と日本国伝の両方が分けて書かれていて、
正北抵新羅も開成四年の記録も、倭国伝に記載されているんだよ。
だから、平安時代に倭国使を名乗った遣使がいた事になる訳で、
倭國という呼称や存在が、平安時代にもあった、という事になるんだよ。
大和説者のインチキ解釈のの、つけ入る余地はない。 >>482
>(參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里)
それは四国周りぐるりと一周だな 使者は太平洋側しか通ってないだろうが <
この五千里については二つの計算がある。
一つは、萬二千余里から狗邪韓国までの七千余里を引き算した五千里、説。
もう一つは、對海國と一大國と、末盧國から女王國の陸路合計の二千余里と、
東渡海千里後の「南の足摺の侏儒國」への陸路の三千里とを足し算した合計の五千里だ、
という、古田史学会の正木さんの説。 >>485
>孝元天皇は(台与の時代か)、
河内青玉繋(河内彦)の娘である埴安媛と血縁を結び、武埴安彦命が生まれる。
血縁を結ぶことで、狗奴国と和睦したのかもな。<
天皇も台予もいなかったから、×だし、
狗奴國も大和や河内ではなく九州だから×。 >>487
>>比恵・那珂遺跡群の繁栄は、卑弥呼よりも少し後であり、<
>それ、なんか根拠あるの? 願望だけだろ ww <
三雲で始まった庄内が、
(前方後円墳ではない)高冢墓の卑弥呼の祇園山でも庄内であり、
その後になる那珂八幡の前方後円墳は布留だから。 >>506
庄内式が三雲で始まったなんて
何の根拠もない妄想だよ >>489
>>要するに、「正北抵新羅」は唐会要倭国伝の記載であるから、
倭国は九州にあった、という事が確定なんだよ。<
>どうした 困り果てて思考停止か
それが平安時代で藤原常嗣は平安京にいた貴族なんだから
「正北抵新羅」の倭国はイコール畿内に都がある日本であって
唐会要倭国伝の倭国はイコールj日本であった、という事が確定なんだよ<
ならんよ。何度も書いた事だが、
唐会要は、きちんと倭国伝と日本国伝とを、
はっきり違うものだと区別して書き分けており、
開成4年の遣使の記載は、(日本国伝にではなく)倭国伝に記載されているんだよ。
だから、始めから「倭国≠日本国」という主張をしているんだよ。 >>492
>>それは四国周りぐるりと一周だな 使者は太平洋側しか通ってないだろうが <
>まぁ、常識的に考えれば、そういう結論になるでしょうね。 @阿波<
×だよ。
足摺付近の侏儒國で、既に女王國から四千里になってしまっている。 >>494
>相変わらず結論だけを言いはるけど 理由は無いんだよね
そういうのを世間の人は 妄想と云うんだが <
私は、原則として、根拠や理由を付けて書いている。
それを知らん振りして、「理由はない」と言い張るこの男も、
そういうのを世間の人は嘘つき騙しの・・・・サギの妄想と云うんだが。 「根拠や理由を付けて書いている」って証拠は?
一体どれが「根拠や理由」? >>504
>九州王朝はいつ滅んだんだ?<
盟主の座は、表面的には701年から大和日本国に移ったが、
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/tyosaku5/satiyam5.html
の最後の「残映」に書かれているように、
倭国の太宰府は、平安中期まで、尚も独立国的なつもりでの外交を続けていた。 >>508
>だから、始めから「倭国≠日本国」という主張をしているんだよ。
それが間違いだって証明でしょ?
開成4年の遣使の記載が(日本国伝にではなく)
倭国伝に記載されているってことがね >>512
最晩年の古田はここまでオカシくなってたんだな 藤原 常嗣(796〜840)は藤原北家の出身、父は藤原葛野麻呂で従三位参議ですが? ザラコクのダメなところ
妄想込みの史料解釈に現実の方を合わせようとすること
現実と史料解釈に齟齬があったら、解釈が間違っているのであって、
現実が間違っている訳ではない
たったこれだけのことが理解できないんだから、本当にダメ人間 >>513
>>何度も書いた事だが、唐会要は、きちんと倭国伝と日本国伝とを、
はっきり違うものだと区別して書き分けており、
開成4年の遣使の記載は、(日本国伝にではなく)倭国伝に記載されているんだよ。
だから、始めから「倭国≠日本国」という主張をしているんだよ。<
>それが間違いだって証明でしょ? 開成4年の遣使の記載が(日本国伝にではなく) 倭国伝に記載されているってことがね<
この男も、・・・・アホだねえ。
中国側や唐会要が、薜原朝常嗣等を、(日本國使とせずに)、
日本国とは別国とした倭国の使節として記録した、
という史料事実が、
史料批判に拠る史料実態なのであり、根拠になるんだよ。
(倭国ではなく)日本側に類似名の藤原常嗣という人物がいて、
遣唐使として派遣された?、という事など、
中国側は、関知していないし、関心もない事。
そして、何れにしても、中国側や唐会要は、
(日本国伝ではなく)倭国伝に「倭国中心の位置は、正北抵新羅と説明していたのであるから、
倭国の中心の位置を「(大和ではなく)九州にある」、と説明していた、
という事になる。 >>513
>最晩年の古田はここまでオカシくなってたんだな <
この男も、全くのトンチンカンな・・・・アホだな。
古田さんが、
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/tyosaku5/satiyam5.html
これを書かれたのは、もう45年近く前の事。
そして、大和説者らは未だに、
「知らん振り」して「なかった」事にして、逃亡し続けている。 >>515
>藤原 常嗣(796〜840)は藤原北家の出身、父は藤原葛野麻呂で従三位参議ですが?<
薜原朝常嗣は、唐に、
(日本国の使節ではなく)倭国の使節である、と名乗った、
という事が、史料実態なんですが?。 >>520
>連呼アホ<
人種差別の国粋皇国史観国家主義の戦争狂の大和説者は、
ヘイトスピーチ連呼アホ。 >>524
簡単な話だ
唐側は何も確認などしていないということ
「倭」だろうが「日本」だろうが
本人が名乗った、というか国書にあった国名を記録しただけだ
どっちも同じ国なんだよ >>521
人種差別の国粋皇国史観国家主義の戦争狂の大和説者のダメなところ。
史料の客観性や信頼性の史料批判をせずに、
客観性や信頼性の低い妄想込みの半分×資料の方に、
解釈を合わせようとすること。
史料事実と史料解釈に齟齬があったら、解釈が間違っているのであって、
史料事実が間違っている訳ではない。
たったこれだけのことが理解できないんだから、本当にダメな・・・・人種。 >>526
>簡単な話だ 唐側は何も確認などしていないということ<
こりゃダメだ。
「何の確認もせずに使節を皇帝に会わせる」なんて事をしたら、
そりゃバレたら首が飛ぶ。
>「倭」だろうが「日本」だろうが
本人が名乗った、というか国書にあった国名を記録しただけだ<
そうだ。
薜原朝常嗣は、倭国使を名乗ったのだ。
>どっちも同じ国なんだよ <
これは、×。
唐会要は、倭国伝と日本国伝とを、「違う国だ」として、はっきりと書き分けている。 >>526
じゃあなんで、東にあった日本国が倭国を併合したとか言う話まで出てくるの? >>527
それが史料批判を忘れるってことだよ
歴史学じゃなくなるってことだ
だから古田は学者ではいられなくなった >>528
で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
龍信仰と亀卜は?
で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着したとウソブいている
サギサギ考古学者の氏名と所属団体は?
今言えこのサギジジイ! >>528
>唐会要は、倭国伝と日本国伝とを、「違う国だ」として、はっきりと書き分けている。
それはウソ
事実関係がわからなくなってて両論併記した
古田説はその史料事実を無視している 『唐會要』倭國伝には、
「開成四年正月 遣使薜原朝常嗣等來朝貢」の前に
「則天時 自言 其國近日所出、故號日本國 蓋惡其名不雅而改之」
を書いている >>532
>事実関係がわからなくなってて両論併記した
根拠は? よく、キナイコシが論破されるときに引用される古田説とは、何だろうか、、、 >>384
計算すると、神武天皇の方が800年以上古い時代のようだな。。。 仲哀天皇の王宮は、なぜ畿内ではないのだろうか。。。 古事記と日本書紀を読み進めていくと、畿内に邪馬台国が無かったことがはっきりしてきたな。 驚いたな。。。
倭国と日本国は別の国だったのか。。。 だが、なぜ倭国と日本国が別の国だと、キナイコシにとって、不都合なのだろうか、、、 倭国と日本国が別の国で、同時にも存在していたとしたら、今の天皇家と倭国の王との関係は、どうなるのだろうか、、、 伊吉連博コ書には日本国と別倭種の遣唐使が同時に出てくるね 景行から応神までは筑紫倭国の歴史を大和に繋げたものだな。 >>529
>(九州倭国の「残映」問題)
じゃあなんで、東にあった日本国が倭国を併合したとか言う話まで出てくるの?<
大和日本国は、白村江の後で、
それまで列島盟主として認められていた九州倭国を併合吸収継承したが、
それまでの盟主であった九州倭国が完全消滅瓦解をしたのではなく、
一つの独立国として存続を継続しており、
則天が、大和日本国が列島の盟主である事を承認した後も、
「倭國や太宰府」としての呼称で、中国や半島や渤海との国交を継続しよう、としていた、
という事だ。 キナイコシは、テンプレートが論破された時、あまり意味のない空白の改行を行う癖があるな。。。 >>530
>>人種差別の国粋皇国史観国家主義の戦争狂の大和説者のダメなところ。
史料の客観性や信頼性の史料批判をせずに、
客観性や信頼性の低い妄想込みの半分×資料の方に、 解釈を合わせようとすること。
史料事実と史料解釈に齟齬があったら、解釈が間違っているのであって、
史料事実が間違っている訳ではない。
たったこれだけのことが理解できないんだから、大和説者は本当にダメな・・・・人種。<
これが史料批判を忘れるってことだよ。
歴史学じゃなくなるってことだ。
だから大和説学者らは、国民の7割から否認否定され、
まともな人間としても、いられなくなった。 論破されたトンデモ説は、いつも思考停止のオウム返しだなあ >>548
で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
龍信仰と亀卜は?
で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着したとウソブいている
サギサギ考古学者の氏名と所属団体は?
今言えこのサギジジイ! 狂人のキナイコシはテンプレートが論破され時は、悪口しか言わなくなるな。。。 >>532
>>唐会要は、倭国伝と日本国伝とを、「違う国だ」として、はっきりと書き分けている。<
>それはウソ<
へー?、
http://www.ceres.dti.ne.jp/~alex-x/kanseki/toukaiyo.html
の書き分けまで、否定するんかい?。
旧唐書も、新唐書も、書き分けている形なんだよ。
>事実関係がわからなくなってて両論併記した<
いや、唐書群は、当然、
白村江での唐の対戦相手國が倭國であって、日本国ではなかった、
という事をはっきり知っていて、区別していた。
「南→東」や「正北抵新羅」の史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの大和説学者は、
その史料事実を無視している。 >>533
>『唐會要』倭國伝には、
「開成四年正月 遣使薜原朝常嗣等來朝貢」の前に
「則天時 自言 其國近日所出、故號日本國 蓋惡其名不雅而改之」
を書いている<
だから、則天以前には
「其人(大和日本國使節)入朝者、多自矜大、不以實對、故中國疑焉」
という事があったが、
則天の時に、九州倭国遣使も来たし、
大和日本国の「長安三年、遣其大臣朝臣眞人來朝、貢方物」もあって、
則天は、(倭国を併合吸収継承した)大和日本国の新盟主である事を承認し、
前盟主であった九州倭国の存在も認めた、
という事ですよ。 大和王権を扱う優秀な若手の学者達にとっては、纏向が邪馬台国の要素の存在しない遺蹟であることは常識なのだが、中には、邪馬台国を食い物にしている老学者からのハラスメントを避けるために、心にもない追従の意を発している者もいる。。。 >>554
そんなことは書いてない
改名したと推量している >>554
で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
龍信仰と亀卜は?
で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着したとウソブいている
サギサギ考古学者の氏名と所属団体は?
早く言えこのサギジジイ! >>543
>九州説がどんどんトンデモ説になっていく ww<
大和説が、5chでもどんどん国民の支持を減らして、
トンデモ説になって行くww。 >>549
「南≠東」や「倭国は正北抵新羅」や「倭国の東征毛人五十五國」や、
「大和日本国は九州倭国の別種の旧小国」や、
「大和などは倭國の地方の市を監督する大倭職の国」などで、
論破されたトンデモ大和説は、
いつもの「簡単にオウム返しされるような思考停止のアホ投稿」だなあ。 >>551
簡単にオウム返しを連続される大和説男って、頭が弱いの?。 >>553
>>>『唐會要』倭國伝には、「開成四年正月 遣使薜原朝常嗣等來朝貢」の前に
「則天時 自言 其國近日所出、故號日本國 蓋惡其名不雅而改之」 を書いている<
>>だから、則天以前には
「其人(大和日本國使節)入朝者、多自矜大、不以實對、故中國疑焉」という事があったが、
則天の時に、九州倭国遣使も来たし、
大和日本国の「長安三年、遣其大臣朝臣眞人來朝、貢方物」もあって、
則天は、(倭国を併合吸収継承した)大和日本国の新盟主である事を承認し、
前盟主であった九州倭国の存在も認めた、 という事ですよ。<
>そんなことは書いてない <
唐会要の記載の、書いてあるそのままだよ。
>改名したと推量している<
則天らは、「推量」なんてしていないよ。
倭國使節や大和日本国使節の申告通りにら記録しているだけだよ。 『唐會要』倭國伝を読み進めていくと、畿内に邪馬台国が無かったことがはっきりしてきたな。 >>561
>倭國使節や大和日本国使節の申告通りにら記録しているだけだよ。
トンデモ説が語るに落ちたな
唐は確認などしていない
日本側の国名表記のゆれを唐の役人がそのまま記録したため
それを、事実を知らない後世の研究者が混乱して変な誤解をしただけだ
倭と日本が別の国なんて後晋の学者が間違えただけ
唐の当時の人は誤解などしていない 僕たちは『唐會要』倭國伝について、酸いも甘いも知りつくしてしまったね。。。 >>562
史料事実や、史料批判された史料実態通りではなく、
平然とこんなウソつき騙しを書き散らすのが、
トンデモ大和説学者ら。 テンプレートに書いてあることの根拠が、本当は無いもないということが、優れた考古学者達によって、明らかになってしまったね。 今、5年ぶりに覗いたけれど、5年前と同様に、テンプレートが論破されているね、、、、 >>563
大物主も神武天皇の時代の人なのだね、、、 仲哀天皇の王宮は、なぜ畿内ではないのだろうか。。。 そのザラコクの言う「史料事実」というのが「既に解釈を経たもの」で
その「史料解釈」がトンデモなんだから、どうしようもないだろww >>566
>>(則天らは)倭國使節や大和日本国使節の申告通りにら記録しているだけだよ<
>トンデモ説が語るに落ちたな <
「南≠東」や「倭国伝の正北抵新羅」などの史料事実の否定隠蔽曲解の嘘つき騙しの、
トンデモ大和説が、語るに落ちたな。
>唐は確認などしていない <
唐は、過去の史書などの記録や、
白村江に参戦軍や郭務ソウらや、
列島からの倭国使節や日本国使節からの説明などに拠って、確認を取っている。
>日本側の国名表記のゆれを唐の役人がそのまま記録したため <
大和日本国が、
「次用明、亦曰目多利思比孤、直隋開皇末、始與中國通」
であった事などの記録も残っている。
>それを、事実を知らない後世の研究者が混乱して変な誤解をしただけだ
倭と日本が別の国なんて後晋の学者が間違えただけ 唐の当時の人は誤解などしていない<
釈日本紀紹介の延喜講記では、唐が武徳中に、大和の「日本國」号を承認した、
という記録も、唐に残っていた筈。 史料事実や史料解釈について突き詰めていくと、畿内に邪馬台国が無かったことがはっきりしてきたな。 2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の自称考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、 >>574
>列島からの倭国使節や日本国使節からの説明などに拠って、確認を取っている。
だから唐で、倭と日本が別の国だとかトンチンカンな誤解をした人はいない
間違えたのは何百年も後の人だ >>573
そのwwや大和説者らの言う「史料事実」というのが、
既に「南→東」などの嘘つき騙しの解釈を経たものや、
倭國の「正北抵新羅」や「東征毛人五十五國」や、
「大和日本国は九州倭国から別れた別種の旧小国」などに関する、
「史料解釈」がトンデモなんだから、
どうしようもないだろww。 >>574
>釈日本紀紹介の延喜講記では、唐が武徳中に、大和の「日本國」号を承認した、
という記録も、唐に残っていた筈
ほらね
倭=日本 畿内説を論破されたキナイコシが、反論を諦めて、日本語の文法の正誤に、話を逸らしているな。。。 >>583
邪馬台国の話題についてこれないキナイコシが、邪馬台国とは関係のない低いレベルにザラコク氏を引きずりこもうとしているのではないのかな。。。 >>582
>>釈日本紀紹介の延喜講記では、唐が武徳中に、大和の「日本國」号を承認した、
>という記録も、唐に残っていた筈
>倭=日本
違うだろ。
倭とは別に日本国が誕生し、その国号を唐が承認したんだよ。
それ以前は大和は国際社会において認知されていない。 >>584
それは言えている。
彼も、つまらん言いがかりに構う必要はない。 倭国と日本国が別の国で、同時にも存在していたことが、はっきりした今、邪馬台国は何処にあったのか自ずと判明するのではないだろうか、 >>578
>>列島からの倭国使節や日本国使節からの説明などに拠って、確認を取っている。<
>だから唐で、倭と日本が別の国だとかトンチンカンな誤解をした人はいない
間違えたのは何百年も後の人だ <
隋代の「次用明、亦曰目多利思比孤、直隋開皇末、始與中國通」の記録や、
裴清の記録もあるし、
唐代の白村江での将軍たちや郭務ソウらや、倭国遣使や大和日本国遣使との記録もあるから、
唐代の中国人学者らも、トンチンカンな誤解をした人はいない。
曲解捏造嘘つき騙しをしたのは、何百年も後の、大和説の人だ 。 >>583
日本語が間違ってれば
主張が成り立たないのは当たり前だ
言ってることがおかしいんだから >>588
>隋代の「次用明、亦曰目多利思比孤、直隋開皇末、始與中國通」の記録や、
それのどこが、隋代の記録? >>571
あの掘立遺跡が大物主の倉庫で、神武天皇の時代のものだから、孝元天皇の妹の墓は随分と後の時代の物だね、、、 >>575
あまりキナイコシを追い詰めすぎるのは、良くないのではないのかな。。。 >>585
>倭とは別に日本国が誕生し、その国号を唐が承認したんだよ。
なんか証拠でも?
九州説にはいつも証拠がないw >>582
>>釈日本紀紹介の延喜講記では、唐が武徳中に、大和の「日本國」号を承認した、
という記録も、唐に残っていた筈<
>ほらね 倭=日本<
ほらね、唐代になってから、倭國≠日本國がはっきり区別された。 テンプレートに書いてあることの根拠が、本当は無いもないということが、優れた考古学者達によって、明らかになってしまったね。 倭国と日本国が同時に存在した時代、両国に住む人種は同じだったのかな。。。 >>595
>>574
>釈日本紀紹介の延喜講記では、唐が武徳中に、大和の「日本國」号を承認した、 >>594
九州説が追い詰められて
どんどん学会で一生に付されるようなトンデモに走って行ってるのが
現実 キナイコシの一生の事績は、一笑に付されるのではないのかな、、 学会はレミングの集団か。
戦前と同じ過ちを繰り返すのか。 >>592
しかし、大物主はその孝元天皇の妹の夫でもあるね。。。
どういうことだろうか、、、 仲哀天皇の王宮は、なぜ畿内ではないのだろうか。。。 >>599
だから何なんだ?
九州に変な国など無いだろ? 日本国というのは、どの天皇の時代に誕生したのだろうか。。。 >>596
で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
龍信仰と亀卜は?
で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着したとウソブいている
サギサギ考古学者の氏名と所属団体は?
今言えこのサギジジイ! 畿内説のお馬鹿さん
妄想を事実にしようとしても妄想は妄想
無駄な抵抗はよせ
材料不足 「かもしれない」「だろうか」は????? 驚いたな。。。
検索して、調べた結果、唐の時代以前に倭国を併合した、東の小国が日本といことが判明した。。。 日本が、邪馬台国を首都としていた倭国を滅ぼしたのか、、、 日本人というのは、ネアンデルタール人と倭人の混血かもしれないな、、、 >>589
「南≠東」や「正北抵新羅」や「東征毛人五十五國」や「日本国は倭國の別種の旧小国」などの、
議論に負けた大和説のトンデモがの、荒らしを始めたか。 結局、九州説というのは
学校で習うような歴史の常識を
否定するような説であって
つまり歴史学の否定そのもの
ということだね
>>591
>>隋代の「次用明、亦曰目多利思比孤、直隋開皇末、始與中國通」の記録や、<
>それのどこが、隋代の記録?<
中国の新唐書が「直隋開皇末、始與中國通」と書いたんだし、
書紀には書かれていない内容だから、
中国に「直隋開皇末、始與中國通」の記録があった、という事になる。 >>593
「南≠東」や、
「正北抵新羅」や、
「東征毛人五十五國」や、
「日本国は倭國の別種の旧小国」などの、
議論に負けた大和説のトンデモが、
口先で誤魔化す騙しの荒らしを始めのて、逃げ始めたな。 >>595
>>倭とは別に日本国が誕生し、その国号を唐が承認したんだよ<
>なんか証拠でも?<
釈日本紀紹介の、延喜講堂記の記載や、
晋の惠帝に(九州倭國が)日本国号を名乗った記載。
九州説にはいつも証拠がないw >>600
大和説者や、大和説学会教育界や、安部文部省や、右翼マスコミが、
追い詰められて、
国民の7割からも一笑に付されるようになって、
知らん振りして逃げたり、
反論出来ずに口先での誹謗のトンデモに走って行ってるのが、
現実。 畿内説を推してる人って
「万人にわかってもらわなくてもいい。畿内にあるのは事実なんだから」って驕りが見えるんだよ
纏向に行っても不案内で観光地として整備もされてないし人々に広く知ってもらいたいという姿勢がゼロ
九州説の人は官民挙げて案内してるし
吉野ヶ里歴史公園みたいにとてもわかりやすい
そういうところが奈良のダメなところなんだわ
世間は邪馬台国は九州だと思ってるからね 畿内説は
国民に広く知ってもらおうという認識がゼロ
だから九州に負ける >>605
>だから何なんだ? 九州に変な国など無いだろ?<
旧唐書や唐会要や新唐書が、九州の倭国伝と、大和の日本国伝とを書き分け、
唐会要が、倭国の位置を新羅の「東南〜南」の九州である、と特定し、
歴代中国史書群も、倭国がずっと「世與中國通」した事を記載していたから、
倭国は九州にあった事になる。 >>624
ところで、九州説の人が官民挙げて案内してる?
それはいったい
日本のどこにある、何という場所かな? >>619
結局、大和説というのは、
「南≠東」や「倭国は正北抵新羅だから九州」などのように、
学校で習うような歴史の史料事実や常識を否定するような説であって、
つまり歴史学の否定そのものだった、
ということだね。 >>619
>学校で習うような歴史の常識を
>否定するような説であって
嘘がまかり通る社会になってしまった。 >>622の忘れ物の追記。
>九州説にはいつも証拠がないw <
大和説は、いつも、
「南≠東」や、
「正北抵新羅」や、
「東征毛人五十五國」や、
「日本国は倭國の別種の旧小国」などの史料事実の議論に、
反論や証拠が出せずに負けて、
口先での誹謗をしての逃亡して来ただけだったな。 >>626
>笑えるな それのどこが、隋代の記録?<
新唐書は、記録がなくっちゃ、
「次用明、亦曰目多利思比孤、直隋開皇末、始與中國通」
とは書けないから。 >>627
>九州説が、オウンゴールしてて、藁 <
忘れ物だったので、追記して置いた。 >>631
>それは単なる「つまみ喰い」<
それは単なる「史料事実の否定」での、
口先での 嘘つき騙しや、つまみ食い。 >>632
>それ、学校で教えてませんから<
そうか。学会教育界も、
大和説の「南→東」などの嘘つき騙しがバレるから、
「歴代中国史書」群や、記紀の記載などは、
教えていなかったかも知れないな。 >>629
吉野ヶ里歴史公園は弥生の国の様子をわかりやすく示している
あそこは国営だから官民挙げて整備した
伊都国も九大のキャンパスを伊都キャンパスにしたり
駅名に伊都国を入れようとしている
奈良はやっと唐古・鍵が整備されたが不十分すぎる
奈良は邪馬台国とアピールするつもりはないようだ
邪馬台国は九州でいいということだ >>639
>
>>吉野ヶ里歴史公園は弥生の国の様子をわかりやすく示している
主導したのは佐原真
畿内説の人だよ
>伊都国も九大のキャンパスを伊都キャンパスにしたり
>駅名に伊都国を入れようとしている
つまり邪馬台国畿内説なんだよ
残念でした >>634
はい、ダウト
確たる証拠付きの反論があります >倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
>それは桜井市纒向以外にありえない。
事代主
┣━━━━━━━┓
天日方奇日方(鴨王) ヒメ踏鞴━━神武
┣━━━━━━┓
建飯勝 渟名底仲媛━━ 安寧
┃ ┃
建甕尻 息石耳 ※ヒメ踏鞴(248年没)
┃ ┃
豊御気主 トヨ津━━ 懿徳
┃ ┃
大御気主 孝昭
┃ ┃
阿田賀田須 天足彦国押人命
┃
和邇日子押人命
「国宝」中平銘鉄刀の保持者・和邇氏は4代懿徳皇后・トヨ津媛を祖とする。
魏志倭人伝のトヨである。
ヒミコもトヨも葛城にいた。
アホの>>1w
アホの>>1w >>640
>(吉野ケ里)主導したのは佐原真 畿内説の人だよ <
そうか。
そんな話があったな。
佐原が来て、九州説学者らの発掘を邪魔したり、勝手な事をした、なんて話が。
>つまり邪馬台国畿内説なんだよ 残念でした<
結局、嘘つき騙しの大和説者の佐原も、
吉野ケ里の大事さや立派さを否定出来なかった、
という事か。 >>641
>>大和説は、いつも、「南≠東」や、「正北抵新羅」や、「東征毛人五十五國」や、
「日本国は倭國の別種の旧小国」などの史料事実の議論に、
反論や証拠が出せずに負けて、
口先での誹謗をしての逃亡して来ただけだったな。<
>はい、ダウト 確たる証拠付きの反論があります<
都合の悪い史料事実を「否定曲解」する嘘つき騙しの、
口先反論なんて、何の価値もないよ。 >>644
なーんだ
史料事実の議論に反論や証拠が出せずに負けて、
口先での誹謗をしての逃亡
ってザラコクがいま、やってる事じゃないか
ww >>642
>魏志倭人伝のトヨである。 ヒミコもトヨも葛城にいた。<
「南≠東」だけで、×。
「南→東」などの嘘つき騙しの、皇国史観戦争狂の大和説者同士の、
仲間割れの喧嘩など、見たくもないから、
ssnが立てたスレに行って、
そこで喧嘩でもしてくれ。 >>643
>結局、嘘つき騙しの大和説者の佐原も、
>吉野ケ里の大事さや立派さを否定出来なかった、
>という事か。
遺跡の保存は考古学者みんなの願い
へんな党派性があるのはアマチュアの自称古代史研究家の方 >>644
「正北抵新羅」は唐会要に書いてあること
そして唐会要には藤原常嗣が倭国から入唐したと書かれている
藤原常嗣は平安京から来た大宰権帥
明らかですね
倭国の都が京都でも「正北抵新羅」は成り立つ
九州説の根拠になりません >>646
方位磁石がなかった時代だから東南が南。
日本地図を右下45度に傾けてみ。
それが正解。 >>645
史料事実の議論に、反論や証拠が出せずに負けて、
口先での誹謗をしての逃亡、 って、
大和説者がいまここで、やってる事じゃないか。 ww >>650
それ、ザラコクが今やってることだよ。
口先だけで定型句の貼り付けしかしてないだろ? >>647
遺跡の保存は国民みんなの願い。
へんな党派性があるのは、
国粋皇国史観国家主義の大和説考古学者や、
アマチュアの自称古代史研究家の、
大和の発掘ばかりを宣伝する、
大和説者や、右翼マスコミや、学会教育界や、右翼神社庁の方。 記紀と魏志倭人伝を要約すると畿内にあったのは大和朝廷、邪馬台国があったのは北部九州。 >>648
>「正北抵新羅」は唐会要に書いてあること
そして唐会要には藤原常嗣が倭国から入唐したと書かれている
藤原常嗣は平安京から来た大宰権帥<
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/tyosaku5/satiyam5.html から引用。
ついで同じ『宋史』日本伝中、興味深い記事がある。
「天聖四年(一〇二六、後一条天皇、万寿三年)十二月、明州言う、
『日本国太宰府、人を遣わして方物を貢す。而も本国の表を持たず』と、
詔して之を卻(しり)ぞく。
其の後も亦、未だ朝貢を通ぜず、
南賈(なんこ)時に其の物貨を伝えて中国に至る者有り」。
日本国の太宰府から、中国(北宋)へ朝貢をもってきた、というのである。
明州からの報告だ(明州は今の寧波、すなわち、浙江省〔会稽道〕勤*県)。
しかも、日本国王の上表文をもたず、単独で自主的に献上してきたのだ。
しかし、中国の天子はこれをしりぞけた、というのである。(以上引用)
これは、1026年の話であり、その時でも太宰府は、
(近畿の日本国に従属せずに)独立国的に中国の遣使を派遣しようとしていた。
問題の開成4年は839年だから、(近畿の平安政権がどう考えようと)、
太宰府の倭国は、独立國のつもりであった事になり、
「大宰権帥」も同じ事。倭国使節を名乗ってもちっともおかしくない。
>明らかですね 倭国の都が京都でも「正北抵新羅」は成り立つ 九州説の根拠になりません<
京都からは、「正北抵新羅」にはならないから、×。だから、大和説も×。 >>643
>佐原が来て、九州説学者らの発掘を邪魔したり、勝手な事をした、なんて話が。
吉野ヶ里遺跡を守り抜いた夫婦
1982年、吉野ヶ里に神埼工業団地案が県議会に出されるや直ちに
「佐賀の自然と文化をまもる会」に働きかけ
「吉野ヶ里丘陵全体の完全調査と神埼工業団地造成計画の断念」を県に要請、
この後7年間にわたり保存運動を精力的に続けられましたが、
1989年1月25日神埼工業団地起工式を県は決行。
この時、江永氏は奥さまと友人2人の計4人で氷雨の中、
「全面保存」の横断幕を掲げアピールされてます。
同時に「吉野ヶ里丘陵遺跡の全面保存」なる長文の陳情書を徹夜で書きあげ
佐賀県知事、県議会議長、文化庁長官に提出。
佐原真氏の来佐を仰ぎ、2月23日、NHKと朝日新聞一面トップの吉野ヶ里報道に繋がりました。
報道に背を押されるように「佐賀の自然と文化をまもる会」も拡大発展し、
「吉野ヶ里遺跡全面保存会」が結成され、江永氏は事務局長として力強く運動を牽引、
約23万筆に及ぶ保存の署名を集め、国の特別史跡、国営・県営歴史公園へと導かれました。
http://yoshinogari.jp.net/ >>649
>方位磁石がなかった時代だから東南が南。 日本地図を右下45度に傾けてみ。
それが正解。<
周初の頃の周髀算経が、既に、
「日の入りと翌朝の日の出の時の、8尺棒の影端同士を結んで東西を決め、それに直交する方向で南北を決める」
事を記載していたから、
魏や郡の役人たちは、東西南北を計測出来たし、
確か方位磁石も、漢代頃には発見されていた筈。
つまり、魏や郡の役人たちは(おそらく倭人も)、東西南北を間違えない。 >>651
それ、大和説者らが今やってることだよ。
口先だけでのヘイトスピーチ的な貼り付けしかしてないだろ?。 >>653
>記紀と魏志倭人伝を要約すると畿内にあったのは大和朝廷、
邪馬台国があったのは北部九州<
記紀は、「倭國の存在や歴史を抹殺して、盗用造作した半分偽書」であり、
その記紀が記載した天皇も(天智以前には)存在していなかったから、
畿内も朝廷もなかった事になり、×。 >>655
>>佐原が来て、九州説学者らの発掘を邪魔したり、勝手な事をした、なんて話が<
>吉野ヶ里遺跡を守り抜いた夫婦・・・<
誰が?何故?佐原を呼び、
佐原は何をしたの?。 この嘆願書を見た朝日新聞論説委員の藪下彰治郎を動かし、
邪馬台国と関係が深い重要遺跡に、まさに造成工事開始が迫ったとの危機感を、
歴史好きの国民に訴えるというマスコミの特性をうまく利用した大報道へとつながっていった。
その仕掛け人は、もう一人の功労者である当時の奈良国立文化財研究所の佐原眞であった。 七田忠昭
http://yoshinogari.jp.net/assets/pdf/shinonde.pdf 佐原真がいなければ吉野ヶ里フィーバーもその後の保存もなかった >>660
http://yoshinogari.jp.net/assets/pdf/shinonde.pdf
を読んだが、
「誰が?何故?佐原を呼び、佐原は何をしたの?」のか?は、
結局全く書かれていなかった。
七田氏と佐原は、当然九州説と大和説という基本的な考えの違いがあり、
七田氏が佐原を呼んだようにも思えない。 佐原を呼んだのは旧知であった高島
佐原が知り合いのマスコミを連れて来て
邪馬台国を彷彿とさせる遺跡であると報道させた
吉野ヶ里遺跡の楼観に登れば邪馬台国が見える
という有名なキャッチフレーズはそうして広まった >>654
>京都からは、「正北抵新羅」にはならないから、×
ならないって理由は? >>662
党派性まるだしの人には理解しにくいかも知れないが
普通の人はあなたとは違う >>663
>佐原を呼んだのは旧知であった高島 佐原が知り合いのマスコミを連れて来て
邪馬台国を彷彿とさせる遺跡であると報道させた
吉野ヶ里遺跡の楼観に登れば邪馬台国が見える という有名なキャッチフレーズはそうして広まった<
ふーん、呼んだのは高島氏であった可能性があるのか?。
そうすると、私が見た情報も、高島氏の文章であったようだな。
しかし、佐原は、当然、
「南→東」などの史料事実を否定曲解する嘘つき騙しの大和説者であるから、
本質的には詐術的な人間であり、
大和説教授らに特徴的な「策略家」である可能性が高く、
一旦恩を売っておいて、それで九州説学者を支配しようとしたのではないか?、
という疑いはぬぐえない。 >>664
>佐原眞は妻木晩田遺跡の保存にも尽力している<
そりゃ、「嘘つき騙しの大和説」のためと、
「恩を売って支配下にする」ため、だろうと思うよ。 >>665
>>京都からは、「正北抵新羅」にはならないから、× <
>ならないって理由は?<
新羅は、京都の北にないから。 七田は郷土史家二代目で変な期待をしてる人がいるかも知らんが、そんな了見の狭い人じゃない。 >>666
>党派性まるだしの人には理解しにくいかも知れないが
普通の人はあなたとは違う<
党派性まるだしの大和説のあなたには理解しにくいかも知れないが、
(国民の7割位の)普通の人は、
あなた方の「南→東」などの史料事実の否定曲解のような、
嘘吐き騙しの詐欺師とは違う。 >>670
>七田は郷土史家二代目で変な期待をしてる人がいるかも知らんが、
そんな了見の狭い人じゃない。<
当たり前だ。
九州説者には、「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者のような料簡の狭い人は、
殆どいない。 >>671
>>新羅は、京都の北にないから。<
>ないと、何?<
京都や大和は、倭国の中心部ではない。 >>675
>この人、心の病気? <
大和説学者や大和説者は、ほぼ全員、
「南→東」などの史料事実の否定曲解をする、脳や心の病気。 佐原がザラコクの妄想するような人物ならば、高島の招請を無視してる
佐原が動かなければ確実に吉野ヶ里は潰されて工業団地になっていた
吉野ヶ里フィーバーがなければ、九州説はとうの昔に滅んでいただろう
今、九州説にしがみついているアマチュアの自称研究者のほとんどは
吉野ヶ里フィーバーでこの道に興味を持った世代の老人だからだ >>640
>つまり邪馬台国畿内説なんだよ
吉野ヶ里は畿内説九州説にかんけいなくないか?
九州説でも吉野ヶ里が邪馬台国だとあう人はほとんどいない。 >>653
>記紀と魏志倭人伝を要約すると畿内にあったのは大和朝廷、邪馬台国があったのは北部九州。
同意。 >>664
>佐原眞は妻木晩田遺跡の保存にも尽力している
九州畿内に関わらず遺跡の保存と評価に貢献したのだな。
立派じゃないか。
それにひきかえ、5chの畿内説論者は、自説にそぐわないからと言って、平原遺跡とかをひどく過小評価するよね。
畿内説のイメージを悪くするだけだと思うよ。
いろいろ言い張って印象を悪くするのは、日大とか財務省とか、流行りなのかな。 >>679
経験則:賛成だけ発言する人は高確率で自作自演 >>681
自説にそぐわないから平原遺跡とかをひどく過小評価したという証拠は? >>676
九州説老人はちゃんと議論が出来なくて誹謗中傷専門だな >>681
>平原遺跡とかをひどく過小評価するよね。
逆だ逆!
九州説、中でも伊都国が都とか言ってる連中が、平原1号墓を過大評価しすぎているんだよ
伊都国の特別な女性の墓なのは確かだが、伊都国ローカルの話であって、倭王の墓は
どうがんばっても無理だよ >>683
>>685が証拠じゃね?
平原を過大評価?
考古学でも威信材的にはあの墓は北部九州の頂点だよ
破片の破鏡しか持てない墓も多数存在する中で、あの鏡の枚数は圧巻だね
これを否定する学者は知らん >>685
周囲の弥生墳墓も軒並み倭王と考えられているのに、その頂点に立つ平原遺跡を糸島ローカルだとか、衰退だとかねわけわかんないね。
そこまで事実を捻じ曲げ解釈しないと生き残れない畿内説ってなんなんだよ。 王墓と考えられてるのはいくつかあるが、倭王とは考えられてない >>686
>平原を過大評価?
>考古学でも威信材的にはあの墓は北部九州の頂点だよ
「北部九州では」という限定をつければ、ね
それを、倭王だとか卑弥呼だとか言ってるのが「過大評価」なんだよ
>>686がその証拠w
他の地域はもっと先へ進んでいる
平原1号墓は「仿世鏡の破鏡供献」が、他を圧倒している墳墓、というのが正当な評価
その鏡も出土しているのは確かだが、埋葬主体部の墓坑には入れられていないし、
副葬品と言ってよいかも疑問 >>688
>周囲の弥生墳墓も軒並み倭王と考えられているのに、
軒並みって、どれのことだ?
考えられてるって、どこの誰が考えてるんだ?
具体的な情報がカラッポなんだが >>685
伊都国は倭国として後漢に遣いを送っている
金印を授かった委奴国王や倭国王師升がそうだ
大量の副葬品から当時日本で最も権威のある人間がいたのは確かで
平原1号墓は女性であることから卑弥呼であろう >>694
委奴国王は委奴国王でしょ
倭国王ではない
伊都国と関係あるかどうかも不明
出土した場所も伊都国じゃない いや、伊都国が倭国名乗って後漢と外交してたから
伊都国=倭国だよ >>696
金印の出土場所である志賀島は伊都国から博多湾を挟んだ目の前にある島
無関係な場所ではない 「周囲の弥生墳墓も軒並み倭王」って
何かと思ったら、こんな牽強付会か
こりゃ今後も九州説の言うことは話半分に聞かなきゃ駄目だな 200年近く前に極南界の倭奴国がもらった金印は何の効力もない
後漢は臣下の曹氏に簒奪されて滅んだんだよ
卑弥呼は歴年相攻伐後に倭国で女王に共立されて
数十年後に遣使したんだよ つか、官爵の無断相続なんて不可だからな
朝貢は継続してなきゃ意味がない
金印の効力なんて、とっくに自然消滅してるわ 畿内説老人はちゃんと議論が出来なくて誹謗中傷専門だな >>677
>佐原がザラコクの妄想するような人物ならば、高島の招請を無視してる<
佐原が、「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説で、
国内の学会教育界を権力的に支配しようとして、あちこちで動いていた、という事で、
名前がよく出て来ていた。
>佐原が動かなければ確実に吉野ヶ里は潰されて工業団地になっていた
吉野ヶ里フィーバーがなければ、九州説はとうの昔に滅んでいただろう<
古田九州王朝説では、吉野ヶ里は其餘旁國の一つであり、関係がない。
>今、九州説にしがみついているアマチュアの自称研究者のほとんどは
吉野ヶ里フィーバーでこの道に興味を持った世代の老人だからだ <
今大和説にしがみついている自称研究者の学会教育界の殆どは、
権力を盾にとって、手段を選ばず、古代史界を支配して九州説をつぶして、
文部省の皇国史観大和説の支配下にしようとする権力学者の、
言いなりになった支配下のアホ人種ばかりだ。 >>703-704
九州説ってば、また朝から中傷か・・・ >>679
>>記紀と魏志倭人伝を要約すると畿内にあったのは大和朝廷、邪馬台国があったのは北部九州。<
>同意。<
記紀は半分偽書であるし、
「畿内」も「朝廷」も「邪馬台国」も存在していなかったから、
同意しない。 >>704
>古田
あぁあの大衆演劇の座長だね。
zarakokuって男も劇団員らしいよ。
役柄は「通りすがりのハゲ」 >>682
>経験則:賛成だけ発言する人は高確率で自作自演 <
経験則:
「賛成だけ発言する人は高確率で自作自演」と断定的な投稿をする人物は、
5chでの議論の流れが、自分の大和説に都合が悪くて不利になっている、
と思った人物の、ヘイトスピーチ的投稿。 >>684
>九州説老人はちゃんと議論が出来なくて誹謗中傷専門だな<
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説の・・・・アホ詐欺師のガキは、
ちゃんとした議論が出来なくて、議論に負けてばかりで、
ヘイトスピーチ誹謗中傷専門だな。 >>685
>逆だ逆!
九州説、中でも伊都国が都とか言ってる連中が、平原1号墓を過大評価しすぎているんだよ
伊都国の特別な女性の墓なのは確かだが、伊都国ローカルの話であって、倭王の墓は
どうがんばっても無理だよ <
逆だ逆!。
大和説、中でも纏向が都とか言ってる連中が、
平原1号墓を無視する事が出来なくて、言い訳に困っているんだよ。
伊都国の特別な女性(共立女王)の墓なのは確かであり、
筑紫地域の中心地の一つであり、
大和の纏向や箸墓は、どうがんばっても無理だよ。 >>687
>糸島説は糸島にもほとんどいない<
そりゃ、学会教育界は、ほぼ完全に「権力大和説学者」の支配下にあり、
怖くて口にも出せないんだろう。
しかし、伊都国王や一大率は、風土記や書紀に拠っても怡土の地にいた事は動かず、
三雲などや平原や銚子塚や端山など、倭国の中での弥生銀座に次ぐ首都圏であった事は、
動かし難い。 >>689
>王墓と考えられてるのはいくつかあるが、倭王とは考えられてない<
倭奴國時代と思われる王墓候補はは存在し、
帥升や共立女王時代の倭王と思われる墓も、
祇園山や平原や那珂八幡などが存在する。 >>701
勝手に国璽を無効にするなよ。
デタラメだな。
畿内説のそう言うところが大衆の不信を買っている。 >>690
>>(平原)考古学でも威信材的にはあの墓は北部九州の頂点だよ<
>「北部九州では」という限定をつければ、ね
それを、倭王だとか卑弥呼だとか言ってるのが「過大評価」なんだよ <
大和には、21枚の「尚方作」鏡がある墓なんて存在しないよ。
>他の地域はもっと先へ進んでいる <
他には、21枚の「尚方作」鏡なんて、存在すらしない。
>平原1号墓は「仿世鏡の破鏡供献」が、他を圧倒している墳墓、というのが正当な評価 <
平原1号墓は、
魏の薄葬令の支配下にあって外面的には小さいが、
明らかに「明帝の下賜の銅鏡百枚が元」になったと考えられる」21枚の「尚方作」鏡や、
大量の玉などの副葬に拠って、
倭国女王の墓であった、という事は動かし難い。
その鏡も出土しているのは確かだが、埋葬主体部の墓坑には入れられていないし、
副葬品と言ってよいかも疑問 >>692
>どういう点で糸島が中華の視野に入っているのか? <
「世有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐」であり、
「特置一大率、檢察諸國」であり、
「王遣使詣京都帶方郡諸韓國、及郡使倭國、皆臨津搜露傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯」
であるから。 漢から与えられた国璽は、次のものが与えられるまでは漢から禅譲を受けた魏に対しても有効であり、卑弥呼は倭王として最初の朝貢で用いたはず。
そうでないと、本当に倭王からの国書かどうかわからないからだ。 前漢の頃からずっと倭は継続的に朝貢しており、例外は漢末期の倭国大乱だけ。
卑弥呼も博多湾沿岸にいたはず。
遠く離れた畿内を倭と呼んだという根拠はない。 >>693
>>軒並みって、どれのことだ? 考えられてるって、どこの誰が考えてるんだ?
具体的な情報がカラッポなんだが <
もう何度も答えている。
吉武高木付近にも墓はあった筈だし、
三雲や井原や須玖岡本や祇園山や平原や那珂八幡などや、
銚子塚や端山など。 >>696
>委奴国王は委奴国王でしょ 倭国王ではない<
筑紫城にいて、100国余りの国の代表として漢に行っている。
>伊都国と関係あるかどうかも不明<
卑弥呼の頃には30国に減って、倭奴国の国名がないから、
呼称の類似からも、倭奴國が、奴國と伊都国に分裂していた可能性が高い。
>出土した場所も伊都国じゃない <
細石神社の神主家にずっと保管管理されていた、という伝承がある。 印鑑もらったのは凡百餘國の内の三十許國の中の1ヶの国だよ
代表とかいうのは作り話 >>699
>「周囲の弥生墳墓も軒並み倭王」って 何かと思ったら、こんな牽強付会か
こりゃ今後も九州説の言うことは話半分に聞かなきゃ駄目だな <
「周囲の弥生墳墓も軒並み倭王」に対する批判って、 何かと思ったら、
史料事実に関する反論ではなく、こんなヘイトスピーチ的な牽強付会宣伝か。
こりゃ今後も、大和説の言う纏向や箸墓は、話半分に聞かなきゃ駄目だな。 >>706
>倭国なんてなかったのに、分かってないね
キナイコシがヤケになりました。 >>701
>200年近く前に極南界の倭奴国がもらった金印は何の効力もない
後漢は臣下の曹氏に簒奪されて滅んだんだよ<
だから、新たに「親魏倭王」の金印を貰った。
>卑弥呼は歴年相攻伐後に倭国で女王に共立されて<、
その倭国(の中心)は、「正北抵新羅」に拠って、(大和ではなく)九州なんだよ。
>数十年後に遣使したんだよ<
数十年というのは×。
240年頃に魏使らが実見した記録の「年已長大」が、30〜35歳位だから、
共立後、10〜20年位にしかならない。 畿内説を論破されたキナイコシが、スレッドを埋め立てて、議論から逃げているのではないのかな。。。 キナイコシが、倭国の存在も否定してまで、畿内説を妄信する理由は何だろうか。。。 >>705
大和説ってば、また朝からヘイトスピーチの口先中傷か・・・。 邪馬台国が奈良みたいな内陸のクソ田舎にあるのはありえない
福岡に決まってる >>706
>倭国なんてなかったのに、分かってないね <
「安帝永初元年、倭國王帥升等獻生口百六十人、願請見」だから、
その時点で、「倭國」があった事になる訳で。
分かっていないね。 >>708
佐原。
あぁ、あの「南→東」などの嘘つき騙しの大衆演劇の、大和説の座長だね。
スレ主や、大和説者って男らも、劇団員らしいよ。
役柄は「通りすがりのら・・・・アホ詐欺師」。 >>738
面土国王か、主帥の升かも
分かっていないね。 >>737
その通りです。
海運が交易の主力であった古代において、内陸には発展の余地がない。
まして、中国と直接に交渉できたのは福岡だけ。 倭国と日本国が別の国で、同時にも存在していたことが、はっきりした今、邪馬台国は何処にあったのか自ずと判明するのではないだろうか、 倭国と日本国が同時に存在した時代、両国に住む人種は同じだったのかな。。。 >>744
優れた考古学者達に打ちのめされたキナイコシが、やる気を失ったのではないのかな。。。 >>592
しかし、大物主はその孝元天皇の妹の夫でもあるね。。。
どういうことだろうか、、、 >>714
お前ら「南→東」などの嘘つき騙しのキョクウの・・・・大和説者が、
勝手に史料事実を歪めて解釈をして、
口先だけでのヘイトスピーチ街宣をしている。 仲哀天皇の王宮は、なぜ畿内ではないのだろうか。。。 キナイコシは、テンプレートが論破された時、あまり意味のない空白の改行を行う癖があるな。。。 キナイコシが論破されてしまっている話題が、海運が交易の主力であった古代のことのようだね。。 驚いたな。。。
仲哀天皇は日本国とは別の国の天皇だったのか。。。 >>723
>印鑑もらったのは凡百餘國の内の三十許國の中の1ヶの国だよ<
相変わらず、大和説という人種は変な男ばかり。
漢代の凡百餘國の中の「筑紫城の倭奴國」の王が、「漢委奴國王」印を貰い、
魏代の三十國位に共立された卑弥呼が「親魏倭王」印を貰ったんだよ。
>代表とかいうのは作り話<
中国側は、いずれも「倭人諸国の代表する王だ」と認識して、金印をくれたんだよ。 >>752
そういえば、熊本と上海は目と鼻の先だな、
やはり、大昔から貿易していたのだろうね。。。 >>736
この「南→東」などの嘘つき騙しの大和説男、狂人につき・・・。 スーパーなんとかという高速船はどうなったのだろう。 >>740
>面土国王か、主帥の升かも 分かっていないね。<
「安帝永初元年、倭國王帥升等獻生口百六十人、願請見」が、原情報であり、
はるか後代の「面土国王」の書き換えや、「主帥の升かも」なんて空想など、
何の論拠にもならないよ。
分かっていないんだね?。 >>747
>このように九州説は思考停止する ww <
このように、wwや大和説者らは、
「南≠東」の指摘に負けて、思考停止して、
口先のヘイトスピーチに走る。
ww どこのスレでも同じなんだよね
九州説は「オレ様の結論」は得意顔でわめき散らす
でも、なんでそんな結論が出るのか
理由を説明できる奴がいない >>570
仕方ないよ、、、、
天皇家直近の国家機関を巻き込んだ、あの2013年の延べ何百時間にも及ぶ、箸墓の大規模調査でリアルに破綻した説だから。
畿内説を精力的に先導する考古学者たちが、意気消沈して古墳から戻ってきた姿は、僕も今でも目に焼き付いている、、、、 理由を理解できない人がキナイコシだからね。
認知障害だからしゃーない >>761
「南≠東」なんて、とっくに論破されているのにね >>757
>理由もなく言い張るだけの九州説 <
「南≠東」などの指摘に対して反論も出来ず、
理由もなく「口先でのヘイトスピーチ」を言い張るだけ」の大和説。 >>291
>外交してもらった副葬品は豪華だけどw
鏡は和製だがな 地理的に、纏向遺蹟が上海や帯方郡と貿易することは、不可能だったのか。。。 >>768
膝元の沼地に遮られ、瀬戸内海に辿り着くことも、ままならなかったのではないのかな。。。 >>762
どこのスレでも同じなんだよね。
大和説は、「南→東」などの嘘つき騙しの「オレ様の結論」を、
得意顔でわめき散らす。
でも、なんでそんな結論が出るのか?の、
理由を説明できる奴がいない 。 >>766
ここは畿内説のスレだから関係ないな
w キナイコシは、テンプレートが論破された時、あまり意味のない空白の改行を行う癖があるな。。。 キナイコシが、反論を諦めて、優れた考古学者達に屈服してしまったのではないのかな。。 畿内説が破綻し、テンプレートも論破されたキナイコシが、少し憐れになってきたな。。。 >>774
そうだね、、、
僕も、キナイコシが、可哀そうに思えてきたよ。。。 >>765
>「南≠東」なんて、とっくに論破されているのにね<
周髀算経を知っている魏や郡の役人たちは、「東西南北」を殆ど間違えない、
という事で、大和説者はとっくに論破されているのにね。 >>767
>>外交してもらった副葬品は豪華だけどw<
>鏡は和製だがな<
その「和製」の判断根拠が知りたいんだがな。 内陸部のクソ田舎の奈良に邪馬台国があったというのはありえないら 交通が不便な奈良に連合王国の中心である邪馬台国があったとは考えられない
出土品から見ても奈良・大和は無い >>777
あんなバカデカイもの和製に決まってる
これは何も内行花文鏡だけじゃなく三角縁神獣鏡でも言われてる話 でっかいことはいいことだ
銅鐸、古墳、大型鏡・・・ >>776
つまりザラコクは>>432で
>見知らぬ初めての地図もない地では、目的地の正確な方向なんて全く判らないものだ、
>という人類の常識が判らないから、
>大和説はダメダメなんだよね。
などと、真っ赤なウソをつきまくっていた
というわけだ
ww >>779
奈良は交通が不便だ
という証拠は?
??? >>746
やはり、大物主というのは役職名なのではないのかな。。。 奈良の交通の不便さについて突き詰めていくと、畿内に邪馬台国が無かったことがはっきりしてきたな。 >>787
九州の王族に仕えた霊園管理者の役職名なのだろうな。。。。 >>594
そうだね。。。。
発狂の度合いが高まってしまうものね、、、
ただでさえ閑散とした桜井市周辺に、ブツブツつぶやく発狂者が徘徊するさまはおぞましすぎるね。。。
二度と訪れる予定はないけど、、、 >>569
そうだね、、、
そして、僕たちは最近新しい情報を手に入れたね。。。 キナイコシは、テンプレートが論破された時、あまり意味のない空白の改行を行う癖があるな。。。 畿内説は2013年、もろくも破綻した。
論争は、段々、九州説同士の戦いになってしまうではないのかな。
有力な候補地が目白押しで、なかなか、結果がでないだろうけどもね。
畿内説の掲示板で、それをやるのは、一々、畿内説信者へ、論争の途中経過を教えてあげる手間を省くため。 大和王権を扱う優秀な若手の学者達にとっては、纏向が邪馬台国の要素の存在しない遺蹟であることは常識なのだが、中には、邪馬台国を食い物にしている老学者からのハラスメントを避けるために、心にもない追従の意を発している者もいる。。。 不思議なんだよね。
2013年以来、学者は勿論、一般人にも、畿内説を連呼する狂人はいないのに、インタ−ネットの世界では、目立つのだよね。 >>782
>あんなバカデカイもの和製に決まってる
これは何も内行花文鏡だけじゃなく三角縁神獣鏡でも言われてる話<
いや、知りたいのは、
「21枚の尚方作の方格規矩鏡」の方の、史料事実や判断根拠だ。 キナイコシは、テンプレートが論破された時、理由も示さずに、嘘だ嘘だとしか言わないな。。。 >>801
返す言葉を発見出来ないのではないのかな。。。 >>784
>>見知らぬ初めての地図もない地では、目的地の正確な方向なんて全く判らないものだ、
という人類の常識が判らないから、 大和説はダメダメなんだよね。<
>などと、真っ赤なウソをつきまくっていた というわけだ ww<
いや、既知の方向情報や、出発時点で目的地がはっきり確認出来た場合は、
目的地方向を記載する事は出来るが、
出発時点で、目的地は全く見えなかったり、大きな迂回路を採る場合には、
出発方向を説明するしかないのだよ、
・・・・wwクン。 >>797
もはや「南→東」などの嘘吐き騙しの・・・・アホ詐欺の大和説は、
口先でのヘイトスピーチデマ専に堕ちたな。 >>799
・・・・詐欺師の大和説にできるのは、
「南→東」などのウソをついては、
口先のヘイトスピーチ街宣で荒らすだけ。 >>763
あれでしょ、、、あれ、あそこに埋もれてたあれ、
先頭のお役所の方は気づかなかったようだけど、、、 大和王権を扱う優秀な若手の学者達にとっては、纏向が邪馬台国の要素の存在しない遺蹟であることは常識なのだが、中には、邪馬台国を食い物にしている老学者からのハラスメントを避けるために、心にもない追従の意を発している者もいる。。。 陸行一月だから
邪馬台国の女王の都は海には面していない >>587
倭国と日本国が同時に存在した時代、両国に住む人種は同じだったのかな。。。 最後に陸行一月だと、キナイコシは海に面していない場所だと思ってしまうのだな、、、
なぜだろうか、、、 そういえば僕たちの魏志倭人伝の翻訳では、北部九州に上陸した魏の役人は一月歩いて、海からさほど離れていない熊本城まで歩いたのだよな、、、 >>814
邪馬国が八女で、邪馬台国が熊本城ですっきりするのではないのかな。
遺蹟に惑わされると、2013年に破綻した巻向の二の舞になってしまうのではないのかな。 >>810
倭国である女王国から、東に海を渡った土地にも倭種が住んでいたと魏志倭人伝に紹介されているな。。。 >>809
>陸行一月だから 邪馬台国の女王の都は海には面していない <
不彌國で、萬二千余里はほぼ消化していたのだから、その南に至る邪馬壹國女王之所都は、不彌國の直ぐ南であり、
玄界灘の近くにある事になる。
勿論、邪馬台国なんて存在しないし、
水行十日陸行二十日は、
その直前)に書かれた(行程の最終目的地の)女王之所都の説明になるから、
郡からの所要日数であり、
投馬國説明は、(起点から投馬國への)途中移動の説明がないから、
不彌國からの側副傍線行路の説明。 >>819
「陸行一月だから 邪馬台国の女王の都は海には面していない」
というのは、
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説の、
・・・・どろぼう程度が考えた詐欺行程だな。 奈良みたいな内陸の不便な田舎に邪馬台国はありえません。 >>818
>側副傍線行路の説明
これが通ると思ってるところが、笑いどころですか? >>822
>>(投馬國の記載)側副傍線行路の説明 <
>これが通ると思ってるところが、笑いどころですか?<
この男が、
陳寿の行程説明での「起点と目的地との間に、途中移動の説明文言がない」場合には、
側副傍線路の説明になる、
という事が読めないようなアホである事が、
笑いどころ。 >>803
>いや、既知の方向情報や、出発時点で目的地がはっきり確認出来た場合は、
>目的地方向を記載する事は出来るが、
>出発時点で、目的地は全く見えなかったり、大きな迂回路を採る場合には、
>出発方向を説明するしかないのだよ、
では
>周髀算経を知っている魏や郡の役人たちは、「東西南北」を殆ど間違えない
と言ってたのがウソなんだね? >>823
それは当然だれにも読めない
古田のテキトウな思いつきで根拠が無いんだから >>780
>纏向は北部九州に負けた出雲勢だろう
敗退して逃げ込んだ大物主が大和にいたという記事はあるな。 >>809
>陸行一月だから
>邪馬台国の女王の都は海には面していない
大和川を遡って纒向に行くはずじゃないのか? >>828
>大和川を遡って纒向に行くはずじゃないのか?
私は魏使のお役目として、倭国第二の大国、投馬国を見ておく必要があるから、
投馬国を経由する日本海経路で丹波を通って陸路で北から大和に入ると考えてるよ
投馬国(上古音でdug-mag)は、出雲でよいと考える >>830
>大和川は諦めたのか?
大和川を諦めるも何も、文脈が違うだろ?
大和川は、奈良盆地(大和)と河内〜環大阪湾を一体のものとする交通路だってだけだよ なんで便利な瀬戸内海を行かないんだ?
瀬戸内海勢力が共立した女王なら、瀬戸内海に入った時点で領海になるから、都合がいいはずだろ? 弥生時代の出雲圏の鉄器使用遺跡は日本海側で止まってる
大事な大事な鉄を大和に届けるルートがない 河内や和泉など他の畿内は邪馬台国や大和朝廷と何の関係もない
むしろ被害者
使者が河内側からヤマト入りできた根拠は何もない 日本海ルートも瀬戸内海ルートも、纒向とは関係ないんだよ。
どうやっても纒向は邪馬台国とも倭国とも関係ない。 >>825
>>いや、既知の方向情報や、出発時点で目的地がはっきり確認出来た場合は、
目的地方向を記載する事は出来るが、
出発時点で、目的地は全く見えなかったり、大きな迂回路を採る場合には、
出発方向を説明するしかないのだよ、<
>では
>周髀算経を知っている魏や郡の役人たちは、「東西南北」を殆ど間違えない<
と言ってたのがウソなんだね?<
ウソになっていないよ。
事実、魏や郡の役人たちは、「東西南北」を殆ど間違えないし、
お前(ww)は、魏や郡の役人たち関与した「東西南北」の記載で、間違えた例を挙げる事が出来ない。 >>826
>>陳寿の行程説明での「起点と目的地との間に、途中移動の説明文言がない」場合には、
側副傍線路の説明になる、<
>それは当然だれにも読めない <
「南→東」などの嘘吐き騙しをする・・・・大和説学者や大和説者らは、
「伊都國→奴國」の説明と「不彌國→投馬國」の説明には、
他の行程記載とは違って、
「起点説明と、目的地に到着説明との間に、途中移動の説明がない」
という史料実態である事の説明が出来ないアホであった。
>古田のテキトウな思いつきで根拠が無いんだから<
嘘吐き騙しの口先での誤魔化しの・・・・アホの大和説者の、
テキトウな思いつきで、史料実態根拠が無いんだから。 >>837
何度も挙げているよ
で?
>いや、既知の方向情報や、出発時点で目的地がはっきり確認出来た場合は、
>目的地方向を記載する事は出来るが、
>出発時点で、目的地は全く見えなかったり、大きな迂回路を採る場合には、
>出発方向を説明するしかないのだよ、
がウソなのだな? >>829
>私は魏使のお役目として、倭国第二の大国、投馬国を見ておく必要があるから、
投馬国を経由する日本海経路で丹波を通って陸路で北から大和に入ると考えてるよ <
この男も、「南→東」の嘘吐き騙しを考えているから、
・・・・アホの×人間ね。 >>831
>大和川を諦めるも何も、文脈が違うだろ?
大和川は、奈良盆地(大和)と河内〜環大阪湾を一体のものとする交通路だってだけだよ<
これも、米田論考に拠って、
河内と大和は、別権力地であり、交流も疎遠であった、
という事で×ね。 魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国まで七千里、女王国まで一万二千里。
対馬海峡が三千里であり、帯方郡から九州上陸までで一万里となるので、邪馬台国の位置は九州北部になる。
魏志倭人伝の邪馬台国までの日程
帯方郡から邪馬台国まで水行10日、陸行1月(1日の誤りか)
ちなみに帯方郡から投馬国(宮崎都万)まで水行20日
後漢書における里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
魏略逸文における里程
帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。
邪馬台国時代の遺物の出土状況
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/image/zu11.gif >>832
>なんで便利な瀬戸内海を行かないんだ?
瀬戸内海勢力が共立した女王なら、
瀬戸内海に入った時点で領海になるから、都合がいいはずだろ?<
根本的な原因は、大和説者は、始めから、
「南→東」などの史料事実を否定曲解する嘘つき騙しの、・・・・アホ人種だから。 >>839
>(魏や郡の役人が東西南北を間違えた例)何度も挙げているよ <
お前が挙げた事は、全部、反論否定済みだよ。
>で?
>いや、既知の方向情報や、出発時点で目的地がはっきり確認出来た場合は、
目的地方向を記載する事は出来るが、
出発時点で、目的地は全く見えなかったり、大きな迂回路を採る場合には、
出発方向を説明するしかないのだよ、<
がウソなのだな? <
史料事実や史料実態に拠って、〇であり、
お前の「方向間違いだ」とするインチキ解釈が、皆×であったんだよ。 帯方楽浪から七千里で女王の国の北端である狗邪韓国に到着、一万二千里で南端の倭奴国(女王国)に到着。
ところで、この上の文章を読んで、女王国までは帯方楽浪から一万九千里だと読んでしまうかもしれないよね?
そんな読み間違いをしたのが畿内説なんだ! >>844
>お前が挙げた事は、全部、反論否定済みだよ。
いや、いくら「南≠東」って何度書いても、それ反論にも何にもなってないからww >>849
>>お前が挙げた事は、全部、反論否定済みだよ。<
>いや、いくら「南≠東」って何度書いても、それ反論にも何にもなってないからww<
いや、根本的に、
普通の正常な人類は、
太陽の動きに拠っての「東西南北」の区別を、代々教わって来て知っており、
間違えない。
だから、「南=東」だ、とするwwや大和説者らは、
嘘つき騙しの詐欺師か?、・・・・・アホの、×人間。 >>844
>史料事実や史料実態に拠って、〇であり、
どんな史料事実や史料実態に拠って?
言うことに中味がない
空疎な美辞麗句は意味がない >>855
>>いや、既知の方向情報や、出発時点で目的地がはっきり確認出来た場合は、
目的地方向を記載する事は出来るが、
出発時点で、目的地は全く見えなかったり、大きな迂回路を採る場合には、
出発方向を説明するしかないのだよ、
>>史料事実や史料実態に拠って、〇であり、
お前の「方向間違いだ」とするインチキ解釈が、皆×であったんだよ。<
>どんな史料事実や史料実態に拠って? 言うことに中味がない
空疎な美辞麗句は意味がない <
お前が挙げた反例の全てでの、史料事実や史料実態。 あま市石作神社
石作明神、石作連、火明命。
どういうことだろう。
近隣に美和の地名もある。
三輪、纒向と何か関係あるのかな? いつ覗いてもテンプレートが論破されているね、、、、 大和王権を扱う優秀な若手の学者達にとっては、纏向が邪馬台国の要素の存在しない遺蹟であることは常識なのだが、中には、邪馬台国を食い物にしている老学者からのハラスメントを避けるために、心にもない追従の意を発している者もいる。。。 どうして、奈良の狂った老人は桜井市に邪馬台国があったと考えているのかな、、、 >>855
仕方ないよ、、、、
天皇家直近の国家機関を巻き込んだ、あの2013年の延べ何百時間にも及ぶ、箸墓の大規模調査でリアルに破綻した説だから。
畿内説を精力的に先導する考古学者たちが、意気消沈して古墳から戻ってきた姿は、僕も今でも目に焼き付いている、、、、 >>789
それにしては、自分の妻の為に作った墓がやけに大きいな。。。 >>860
大物主の妻は天皇の妹でもあるから、良いのではないのかな。。。 >>852
>ほら、空疎<
ほら、「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの大和説の口先詐欺師は、
何の事実関係論拠も言えずに、
「ほら、空虚」と叫ぶしか出来ない・・・・アホ。 >>857
>大和国=邪馬台国で決まりだろ <
邪馬台国なんてないし、
「南≠東」や「倭国=正北抵新羅」だから、大和も×だよ。 >>863
邪馬台国は後漢書とか隋書に出てくる
資料事実資料事実 事代主
┣━━━━━━━┓
天日方奇日方(鴨王) ヒメ踏鞴━━神武
┣━━━━━━┓
建飯勝 渟名底仲媛━━ 安寧
┃ ┃
建甕尻 息石耳 ※ヒメ踏鞴(248年没)
┃ ┃
豊御気主 トヨ津━━ 懿徳
┃ ┃
大御気主 孝昭
┃ ┃
阿田賀田須 天足彦国押人命
┃
和邇日子押人命
ヒミコ、トヨをはじめ鴨(神)族の墓は奈良盆地最上座の高天原(御所市高天)にある。
日本最古の神社の境内に径百余歩の塚があり、魏志の記述通り奴婢が埋葬されている。
埋葬された奴婢とは土蜘蛛だ。
http://goo.gl/ajTi3m
ヒミコの時代から1700年後、土蜘蛛の末裔たちが高天原の麓で声を上げる。
「人の世に熱あれ 人間に光あれ」
この地が水平社運動の源点となる。
ヒミコ=ヒメ(踏鞴五十鈴)媛の時代、土蜘蛛=奴婢を束ねた男がいた。
日向から来た神武である。
だから今でも水平社博物館と神武社が並んでいるのだ。
https://www.progoo.com/bbs/data/himehultukenn/img/40_tn_61c33f808a.png >>864
>邪馬台国は後漢書とか隋書に出てくる 資料事実資料事実 <
後漢書も隋書も、邪馬臺國であって、邪馬台国ではないから、やはり邪馬台国は×だし、
後代史書の後漢書も隋書も、魏志の記載を、
「後代時点での勝手な解釈で書かれたもの」であるので、
魏志の邪馬壹國の否定の根拠にはならないから、×。 >>865
>邪馬台国はありまぁす<
この男は、史料記載事実を改竄する嘘つき騙しの・・・・詐欺師でありまぁす。 畿内にあったのは大和朝廷、邪馬台国は北部九州にあった。 >>866
>トンデモ説は旧字体しか認めないんだろ<
日本では「臺≒台」と勝手な解釈をしているようだが、
中国では「臺と台とは意味が全く違う別字」であり、「臺≠台」。 >>867
>ヒミコ、トヨをはじめ鴨(神)族の墓は奈良盆地最上座の高天原(御所市高天)にある。<
「南≠東」や「倭國は正北抵新羅」であるから×だし、
「トヨ」なんて存在しないから、×。 朝貢年
266年 台与 トヨ津媛
・
238年 卑弥呼 ヒメ(踏鞴五十鈴)媛
・
・
・
・
・
107年 倭国王・帥升 スサノオ
つまり邪馬台国=大和朝廷はその初現の段階から中国に朝貢していた。
スサノオはわざわざ海を渡り、後漢・安帝に謁見、土下座した。
この【屈辱的な史実】を日本書紀は書けなかった。
だから基点となる神武時代をBC660年と大きく古くずらし潤色した。
その結果100歳を超える天皇が誕生した。
そして実際には女王国であった時代も、やたら猛々しい神武東征紀で男王国であるかのように演出した。
さらに神武とヒメ踏鞴に「天皇・皇后」という新称号を与え、
女王であったヒメ踏鞴を皇后にした。
そして高天原の場所もまるで九州ともとれるように潤色した。
これが日本の歴史の真相である。 >>868
臺は台の旧字体だよ
じゃあやっぱり邪馬台国はあるじゃねーか
後漢書と隋書とかにも書かれてるからさ 臺
部首: 至 + 8 画
総画: 14画
異体字 : 台(簡体字, 新字体), ?(俗字)
字源
会意。高の省形と、至とに従う。高上に標木として木を樹てた形である。土+高+至。
意義
土を高く積んで人が来るのを見張るための物見台。
(ウィクショナリーより抜粋) 「台」が「ト」と読めるのは誤魔化せないからねえ
「邪馬台」国では「ヤマト」国と読めてしまうから
トンデモ説としては何としても阻止したいのだろう
皆が「邪馬臺國」を「邪馬台国」と書くことをね >>873
>107年 倭国王・帥升 スサノオ <
名前も、年代も、倭国とスサノオの場所も違うから、×。
>つまり邪馬台国=大和朝廷はその初現の段階から中国に朝貢していた。<
邪馬台国や朝廷なんて存在しなかったし、
「南≠東」や「倭國は正北抵新羅で九州」であるから、×。 >>874
>臺は台の旧字体だよ<
日本の学者が「旧字体」と言って騙してしただけ。
中国では、
「政等以檄告喩壹與、壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還。
因詣臺、獻上男女生口三十人・・・」
の「臺」のように、
「臺」は、「天子の宮殿や天子直属の政庁を示す文言」であり、
「台」は「うてな」のような「単なる台状のもの」を示す文言。
>じゃあやっぱり邪馬台国はあるじゃねーか<
ない。
>後漢書と隋書とかにも書かれてるからさ <
後代史家の説明では、根拠にならない。 >>876
>臺 部首: 至 + 8 画 総画: 14画 異体字 : 台(簡体字, 新字体), ?(俗字)<
異体字ではない。
説明対象が全く違うから、別字。
>字源 会意。高の省形と、至とに従う。高上に標木として木を樹てた形である。土+高+至。
意義 土を高く積んで人が来るのを見張るための物見台。<
天子の宮殿や政庁の意味がある事を書かれていないから、字源も半分×書であり、
信頼性がない。
>(ウィクショナリーより抜粋)<
「天子の宮殿や政庁」という使用意味が書かれていなければ、
ウィクショナリーも半分×情報。 >>876
>勝手な解釈をしているのはお前だ<
魏志倭人伝の「因詣臺」の臺の「天子の宮殿や政庁」、
の意味使用例の存在を隠蔽した、
勝手な解釈をしているのはお前だ。 >>877
>やはり邪馬台国は大和国のこと<
「邪馬台国」なんてなかったし、
「南≠東」や「倭國は正北抵新羅であるから九州」であるから、大和は×だ。 >>882
そんな用例は実はないのだろ?
なぜ九州説は嘘をつくのか >>878
>「台」が「ト」と読めるのは誤魔化せないからねえ<
中国では、(「壹」は勿論の事)「臺」にも「ト」という音韻はなく、
誤魔化せないから×。
>「邪馬台」国では「ヤマト」国と読めてしまうから
トンデモ説としては何としても阻止したいのだろう <
「邪馬壹」でも「邪馬臺」でも、「ヤマト」とは読めないから、
「南→東」などの嘘吐き騙しの・・・・トンデモ大和説としては、
何としても「邪馬台」と改竄して、誤魔化したいんだろう。
>皆が「邪馬臺國」を「邪馬台国」と書くことをね<
安部政府文部省や、右翼マスコミや、人種差別殺戮戦争キョクウの大和説学会教育界は、
国民の3割しか支持がないから、
何としても「邪馬壹國→邪馬臺國→邪馬台国→大和」の曲解捏造をして、
国民を騙したいんだろう。 >>880
臺の字をなぜ日本の学者が台の旧字体と言って騙す必要があるのか?
そんなもの学者じゃなくても調べればすぐわかるのである
臺=台だし九州説は大和国=邪馬台国を否定した過ぎて
誰の目にも明白な事におかしな言いがかりをつけるから
まともな人間からは相手にされない つまり邪馬臺國はヤマトコクと読むのが本来の読み方なんですねぇ >>884
>そんな用例は実はないのだろ? なぜ九州説は嘘をつくのか <
古田さんの、
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/tyosaku4/ititai1.html
の三国志での「壹」と「臺」の全使用例調査でも、
「臺」が「天子の宮殿や政庁」以外の使用例になるのは、1〜2例位であり、
残りは、全部「天子の宮殿や政庁」の意味だ。
大和説者は、何故このような「嘘を付く」のか?。
そりゃ、キョクウ皇国史観大和説宗教に狂った・・・・だから。 お!やってるなー
スレの論争はおじいちゃんらの長生き対決で決着やな^^ わえのマジレスシリーズが過去ログ入りしてるなー
Part500とその前の纏向スレの >>886
>臺の字をなぜ日本の学者が台の旧字体と言って騙す必要があるのか?<
「南→東」などの史料事実を否定曲解の嘘吐き騙しの大和説学者らは、
宗教に狂った・・・・だから、
「邪馬壹國」では「大和」にはならないので、
「邪馬壹國→邪馬臺國→邪馬台国→大和」の曲解改竄をするために、
「臺と台」は別字であるのに、「臺は台の旧字体」だと捏造して、
国民を騙して来た。
>そんなもの学者じゃなくても調べればすぐわかるのである<
国民の3割のキョクウは、当然、調べもせずに追従隷従した。
>臺=台だし<
臺と台とは、別字であるから、×。
>九州説は大和国=邪馬台国を否定した過ぎて 誰の目にも明白な事におかしな言いがかりをつけるから
まともな人間からは相手にされない <
大和説は、「南→東」や「邪馬壹國→大和」などの全くの嘘吐き騙しをやり過ぎて、
それでも、国民の7割には全く信用されず、
3割(安部自民支持者と丁度同じ位)しか支持者がいない。 >>889
漢文読めない古田がちゃんと調査なんてしてるわけないし >>887
>卑弥呼の宗女臺與(トヨ)<
はるか後代の唐代の梁書の「壹與→臺與」の書き換えは、全く信頼性がなく、
更に「壹與→臺與→トヨ」の書き換えをした現在大和説者らも、更に嘘つき騙しであり、
完全な×人種。 >>888
>つまり邪馬臺國はヤマトコクと読むのが本来の読み方なんですねぇ <
この男も、「南→東」などの嘘吐き騙しの・・・・大和説者と同じく、
「邪馬壹國→邪馬臺國→邪馬台国→大和國」の何段階もの改竄捏造をした、・・・・詐欺師。 >>893
>漢文読めない古田がちゃんと調査なんてしてるわけないし<
「南→東」の嘘吐き騙しや「倭國は正北抵新羅だから九州」なども判らないような、
嘘吐き騙しの・・・・アホ詐欺師の大和説者が、
ちゃんと調査をする筈もないし・・・。 >>889
>キョクウ皇国史観大和説宗教に狂った・・・・だから。
九州説自体が極右によって創り出された虚構。
新井白石や本居宣長は、
大和朝廷や古代天皇の中国への朝貢という史実を、
国学者のプライドとして認めることが出来なかった。
だから「当て馬」として九州をあえて出した。
九州説なるものを創作し、馬鹿を集め、議論させる。
議論してるうちは大和朝廷や古代天皇の中国への朝貢という重い荷物を着席させずに済む。
永遠の水入り、永遠の非着席、永遠の中腰を狙ったのだ。
これは天才の発想だ。
つまりお前のような馬鹿が300年論争の出汁にされてきたというわけだwww 「臺」が「天子の宮殿や政庁」だって主張は
九州説関連の邪馬台国の会とかの人間ぐらいしか言っておらんぞ 天皇は実在しないと言ってる人がいなかった?
いつから、そういう話になったんだ?とか >>899
>九州北部をヤマトと呼んでいた
それを示す文献、地名、伝承がまるでないんだ 天皇、天王でも良いけど、
擬人化だと書いてあるのに 後漢書
倭在韓東南大海中依山㠀為居凡百餘國 自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國 國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也) 楽浪郡徼去其國萬二千里其西北界狗邪韓國七千餘里 其地大較在會稽東冶之東與朱崖儋耳相近故其法俗多同
「倭は韓の東南、大海の中にある。山島に居住して、すべてで百余国。武帝が(衛氏)朝鮮を滅ぼして以来、漢と交流のあったのは三十国ほどである。国はみな王を称し、代々受け継いでいる。その大倭王は邪馬台国に居る(今の名を案ずると、ヤマユイ音のなまりである)。
楽浪郡の境界は其の国を去ること万二千里。その西北界の狗邪韓国を去ること七千余里。その地は会稽、東冶の東にあり、朱崖、儋耳に近く、法や習俗に同じものが多い。」
建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
つまり、倭国とは狗邪韓國から倭奴国まで。
畿内は倭国の中に含まれず、まして倭国女王卑弥呼がいたはずもない。
畿内にいたのは、墓が大きいだけの地方豪族だけである。 いつの時代だか知らないけど、
詐欺師のような人物が現れたんじゃないの?
『詐欺師と一緒にされるのも嫌なので』
調べると出てくる暗号、イニシャル、なぜか「K」 どのスレだったかな、
かなり前の話になるんだけど
聖徳太子、知ってる?と言ってる人がいたり これも以前から書いているはず
セイントセイヤという作品があるでしょ、
中身が空だとコンセプトのキャラがいたでしょ
実体がない?そのようなキャラ >>904
邪馬台国は九州北部から水行し投馬国を経由して到着すると
魏志倭人伝にあるから九州北部にはない 倭は韓の東南に在る
倭奴國は倭國の極南界である
大倭王が居する邪馬臺國は倭奴國よりも北になるので
倭奴國が北部九州沿岸であるなら、邪馬臺國は本州 >>909
>>>904
>邪馬台国は九州北部から水行し投馬国を経由して到着すると
>魏志倭人伝にあるから九州北部にはない
そんなことは書いていない。
後漢書まま参照すると、帯方郡から一万二千里の九州北部が邪馬台国。 方角にあれだけこだわる古代中国人が南を東と間違えるなんてありえないから
畿内説はその時点でアウト >>911
南至投馬國、水行二十曰。官曰彌彌、副曰彌彌那利。可五萬餘戸。
至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。
(九州北部、不弥国の次)
南へ水行20日で、投馬国に至る。
長官は彌彌(みみ)、副官は彌彌那利(みみなり)である。推計5万戸余。
南に水行10日と陸行1月で女王の都のある邪馬台国に至る >>915
何故か具体的に言えよ
九州説は方角は間違っていないが おじいちゃんらのお知恵拝借!
纏向の大溝の最下層て庄内何式? 方角を90度曲解しないと説明がつかない畿内説は
遺跡の出土品がどうの以前の問題
邪馬台国議論から立ち去れ 方角が全く違い
倭国大乱の痕跡もない
魏志倭人伝に記述のある風俗もない畿内説は邪馬台国議論に値しません
さっさと立ち去ってください 北部九州の倭国大乱の痕跡というのは
具体的な遺跡は何? >>923
「>>915九州説も方角が間違ってる」という証拠は何? >>897
>九州説自体が極右によって創り出された虚構<
九州説は、
「史料事実や史料批判された史料実態」に出来るだけ忠実な解釈をした、学問的な説。
それに対して、大和説は、
「大和天皇家一元列島支配」という「結論先にありき」の極右の宗教に拠って、
「都合の悪い史料事実の否定や曲解」をした 嘘つき騙しの・・・・サギ説。
とくにこの投稿を書いたssnは、
竹島戦争を、国民に鼓舞扇動して殺し合いさせよう、と叫び続けたキョクウの・・・・。 魏志倭人伝を全否定しないと説明がつかない畿内説なんて「邪馬台国」議論に値しません
いくら遺跡が出ても
「ああそれはヤマトの大勢力の遺跡で邪馬台国とは関係ないですよね」としか言えない そして、そんな畿内説は>>927の脳内にだけある
ww >>928
さっさと九州説も方角を曲解してるという証拠を出せよ >>898
>「臺」が「天子の宮殿や政庁」だって主張は
九州説関連の邪馬台国の会とかの人間ぐらいしか言っておらんぞ<
「南→東」などの「都合の悪い史料事実」を、
「何でも間違いだ」と否定抹殺するような大和説の・・・・似非学者が幾ら叫ぼうとも、
何の価値もない。
三国志における「臺」は、殆ど全て「天子の宮殿や政庁」に意味での使用例だ。 世界一方角信仰の強い古代中国人が方角を間違えたなんてトンデモ思考をしないと説明できない畿内説は邪馬台国議論に値しません >>899
>九州北部をヤマトと呼んでいたを それでいいだろ。<
九州説は、「ヤマト」という音韻の発生理由として、「邪馬=山」として、
北部九州での幾つかの「山門」という地名、の存在を推定しただけだ。
近畿の大和も、
九州倭国への入り口の「山門」という意味であったんだろう、という事だ。 どのスレだったかな、数年前のことになるんだけど
「しつこいんだよタコ!」
というレス(>> 返事という意味)をしてきた人がいたり、
たしか邪馬台国関係のスレなんだけどw
アタマのビョーキか何かなのかな >>931
>世界一方角信仰の強い古代中国人
それもっとくやしく教えて! 詳しく説明すると
モレ(仮)の書き込みに対してのレスなんだけど、
池沼、精神病? 九州説は方角は間違っていないと言っても
九州説は一人一説なので、九州のどこの説かを書かないとわからない 大枠の整合性を無視して小さい記述ばかり捉えて
「これは九州じゃない畿内だ」としか言えない畿内論者
大筋の内容で奈良はありえないんだからもう諦めろよ
魏志倭人伝全否定ってそれもう邪馬台国じゃないから >>900
>臺灣も台灣と書く<
「台湾」の文言は、清朝の頃かららしく、
「臺と台」との区別が消失していた時期になり、
3世紀での「臺と台」の別字を否定する根拠にならない。 大筋の倭人伝の内容では北部九州から2ヶ月後に邪馬台国に着く >>916
>>920
魏志倭人伝の記述どおりなら
邪馬台国は九州南の海の上 >>935
その「末盧国」と「伊都国」の地点はどこを指してるの?
まさか唐津とは言わないよね >>940
3世紀での「臺と台」の別字を否定しているのではない
日本人が現代の会話文で「臺」と書くのがめんどくさい、見づらいから
邪馬台国を使っている 九州説は基礎的な事無視して
畿内説は方角が違うとか何とか
魏志倭人伝の記述をその通りに辿ると邪馬台国は赤道辺りの国になる 松浦潟の遠浅の海岸の広がる唐津に大陸からの大型船が入港できるとでも思ってんのか
天然の良港である呼子や名護屋に決まってるだろ
呼子や名護屋から伊都国なら東南
何も間違ってない >>943
九州説はどこにする気だ?
どう足掻いても
「九州説も方角を曲解してる」
という結論が出るぞ
ww 九州の南端の大隅半島を手漕ぎ船で南に漕ぎ出し10日。
普通に考えて、黒潮の流速1日150kmを考慮したら、紀伊半島に接岸だろう。
そこから歩いて1カ月で奈良でぴったりだ >>948
何も間違ってない?
呵々大笑
呼子、名護屋と伊都の北緯をそれぞれ言ってみな >>946
だからと言って方角を無視していいということにはなりませんよ
書いてある風俗の内容が内陸のものではないのに内陸の奈良はありえません >>053
書いてある風俗の内容が内陸のものではない
って証拠は? >>952
船を降りて東南に歩き出すのだから何も間違っていないが?
地図見たら? 隼人は南に行くと決めたら黒潮があろうと、嵐が来ようと必ず南に行く 魏志倭人伝全否定の畿内説は邪馬台国議論に参加するな >>955
どこで船を降りて東南に歩き出す?
具体的に言ってみな >>953
魏志倭人伝の距離も方角も正しいとするなら邪馬台国は赤道直下の国なるんだよ
九州説は距離は違うけど方角は合ってる
そう読むと邪馬台国が九州になるからと主張するつもり?
それは循環論法に当たる
畿内説は距離方位どっちも間違ってるとして参考にしない 魏志倭人伝の内容だけを見れば九州で確定です
遺跡なんか無視してかまいません
日数なんかチンタラ行くか急いで行くかでいくらでも変わるけど
方角は絶対変わらないからね 九州説って
なんで具体的なことを言うのをそんなに嫌がるの? >>960
>九州説は距離は違うけど
帯方郡から邪馬台国はら12,000里
帯方郡から奴国まで10,600里
距離的に充分九州で収まりますが? >>963
収まるという理由は?
また言い張るだけ?
なんで具体的な話から逃げるの?
九州説が観念論だから? 日数なんかチンタラ行くか急いで行くかでいくらでも変わるなら
行程では比定できない >>962
具体的なことを嫌がってるのは畿内論者だよね
距離や方角という絶対的に変わらないものは九州に確定してるのに
相対的な基準である日数だけ見て九州説も間違ってるというのは全く具体的ではありませんね >>963
12000里は魏里(1里400m)で訳4800km
帯方郡(ソウル付近)より南に4800kmは赤道付近 >>961
そんなに言い張るんだったら
具体的に
どこで船をおりて
どっちに何キロ歩くか言ってみろよ
具体的に
>>965
方角は太陽がチンタラ行くか急いで行くかで変わるのか?
アホ? >>963
10500里の次に水行20日で投馬国行ってそこから
水行10日陸行1月で邪馬台国な >>967-970
ほら、畿内論者が魏志倭人伝全否定に走り出した
「邪馬台国」というものが魏志倭人伝の中にしか登場しない以上
魏志倭人伝の内容を全否定しないと成り立たない畿内説は
邪馬台国ではありませんと言ってるのと同じなんだよ
畿内説は邪馬台国議論に値しないことがまたはっきりしてしまった >>970
日数なんかチンタラ行くか急いで行くかでいくらでも変わる 魏志倭人伝の距離方角よりも地名を見た方が行程を辿れる
対馬国(対馬)
一支国(壱岐)
〜中略〜
奴国(難県、なのあがた、博多付近)
不弥国(羽見町?)
水行して投馬国(広島県瀬戸内海側鞆(とも)の浦)
邪馬台国(大和国) >>972
魏志倭人伝全否定だって断定する根拠は? >>972
だって距離方位を記述通りに辿るなら
邪馬台国は赤道付近になるからそこの部分は否定するしかないだろ?
九州説は都合が悪くなって事実そのものの否定に走り出したようだ >>973
重要なのは水行の記述
邪馬台国に行くには一旦九州北部に上陸してから
再び船出をすると書かれているという事
そうなると少なくとも九州北部に邪馬台国があるとは考えづらい >>978
律歴志や正始弩尺で1里約430mとはっきりしており
それを元に計算すると1万2000里は赤道付近を指すことになるという事実を
まるきり理解しないバカ >>909]
>邪馬台国は九州北部から水行し投馬国を経由して到着する
と魏志倭人伝にあるから九州北部にはない <
嘘を付くな。
魏志倭人伝は、不彌國で萬二千余里がほぼ終わる、というような書き方であるから、
邪馬壹國女王之所都は、不彌國のすぐ南で終わる事になる。
そして、投馬國は、
起点の不彌國と目的國の投馬國到着の間に「途中移動を示す説明」がないから、
移動しておらず、側副傍線國の説明。
そして、大和は、萬二千余里でも、「南≠東」でも、×。 >>964
またもや、理由を述べてあるスレに、理由は、なんて聞いている。
日本語が通じてない? >>980
魏志倭人伝と合わない尺度を声高に叫んでも、意味がないよ。 >>982
不彌國までで10600里だ
邪馬台国まで残り1400里ある
そっから水行30日陸行1月で到着するんだろ >>983
理由って、どれ?
どこに書いてあるの?
なんて書いてあるの? >>984
律歴志や正始弩尺で1魏里約430mと確認された
事実と合わない尺度を声高に叫んでも、意味がないよ 九州には邪馬台国っぽい地名がないからなー
畿内にはそのものズバリ大和国がある
あと邪馬台国も本来的にはやまと国と読むんだろうし >>988
九州説が当たり前の事を何回言っても理解しないからな
こっちも当たり前の事を何回もくり返すハメに陥る >>910
>倭は韓の東南に在る<
倭国は「正北抵新羅」の位置にあるから、九州にある。
>倭奴國は倭國の極南界である<
「倭國之極南界也光武賜以印綬」は、
「倭國これ、南界を極めるや、光武賜うに印綬を以ってす」と読み、
倭国が南界を極めた事を賞している事になり、
倭奴國が南界にある、とは言っていない。
>大倭王が居する邪馬臺國は倭奴國よりも北になるので <
ならない。
南界に相当するのは、
投馬國や侏儒國や、「裸國、黒齒國、使驛所傳、極於此矣」の事になる。
>倭奴國が北部九州沿岸であるなら、邪馬臺國は本州<
ならない。
本州は「皆倭種」。 >>915
>その理屈だと九州説もアウト<
不彌國で萬二千余里がほぼ終わっているから、九州しかない。
大和は、「南≠東」などに拠って、始めから×。 >>991
どろぼう偽書反日異民族運動の連呼はどうでもいい
九州説は九州の日本人お爺さんの九州各地説 >>923
>北部九州の倭国大乱の痕跡というのは具体的な遺跡は何? <
高慢な書き換え屋の范曄の「倭国大乱」など存在しない。
あったのは「倭國亂」。
吉野ケ里だったか?の、頭に矢がささった状態での埋葬など。 >>935
>末盧国から伊都国は東南じゃないよ<
「東南」は、(見えてもいない)目的地方向いない)説明ではなく、
出発時点での出発方向説明。 >>938
>九州説は方角は間違っていないと言っても
九州説は一人一説なので、九州のどこの説かを書かないとわからない <
女王国や倭國は、ほぼ「海峡から九州全域」。 >>941
>大筋の倭人伝の内容では北部九州から2ヶ月後に邪馬台国に着く<
不彌國で萬二千余里がほぼ終わっているから、×。 >>942
>魏志倭人伝の記述どおりなら 邪馬台国は九州南の海の上 <
魏志倭人伝の記述どおりなら邪馬壹國は不彌國の直ぐ南。 このスレッドは1000を超えました。
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