慶長度江戸城(1607)は、同時期の姫路城(1609)に彦根城(1603)の最上階高欄(実際に出られる)を付したデザインが有力。すなわち、

妻側…D大屋根+C唐破風⌒+BA突破り大屋根△+@比翼千鳥△△
平側…D唐破風⌒+C千鳥破風△+B比翼千鳥△△+A大唐破風⌒+@無破風

また、駿府城U(1608)・名古屋城(1611)天守同様、1層と2層が同大であった可能性も高い。

ちなみに名古屋城の内部構造は、同面積の下2層に3層の望楼を載せた後期望楼型(半間ズレた柱筋に注目)ながら、外観は層塔型であるため、前期(なんちゃって)層塔型。
https://www.freeml.com/bl/10034699/360328/
それに4年先立つ慶長度江戸城天守が中井家指図(柱筋が完全に通る後期層塔型)であるとする故宮上重隆(竹林舎)の比定は完全に誤りである。
その残党と思しき「立て板の書き込み」は、その無理な比定から逆算して、層塔型の誕生を慶長度江戸城からとするネット喧伝を至る所で行っており、要注意である。
慶長度天守の翌年に再建された、最上階高欄や2層分を突き破る下層部大屋根を廃していない駿府城Uも、それを裏付ける。
おそらく、寛永度江戸城には比定できない津軽古図(江戸御天守図)を無理に実現した図面として、元和度天守に比定したためと思われる。
当然ながらその特異な破風配置は、江戸城天守を描いたどの天守にも一致せず、不採用となり実現しなかった計画図と断定できる。
https://castles.xsrv.jp/2013/02/05/%E5%9F%8E%E3%81%AE%E5%86%8D%E7%99%BA%E8%A6%8B%EF%BC%81%E5%85%88%E8%A1%8C%E6%B4%BE%E7%94%9F%E8%A8%98%E4%BA%8B%E5%AE%B6%E5%BA%B7%E3%81%AE%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%9F%8E%E5%A4%A9%E5%AE%88%E3%81%AEe/