凸凸凸日本の城総合スレ凸凸凸Part36
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
やはり、優先順位は下だったんじゃないかねぇ。
文面からしても前倒しで解体になったけど、使える部材は有効に再利用みたいな感じ? 日本刀文化を守れ 自民議連が林文部科学相に要請
https://www.sankei.com/smp/politics/news/180622/plt1806220018-s1.html
海外でもブームなのに中国製が主流
議連は、武田信玄の末裔で刀装具の収集家でもある甘利氏のほか、
玉鋼の生産地として知られる島根選出の竹下亘・自民党総務会長と
細田博之・自民党憲法改正推進本部長が共同代表に就いた。
名刀の産地・備前国だった岡山の逢沢一郎衆院議員が幹事長を務める。
林氏は「いろんな議連が要望に来るが、こんなに重いメンバーなのは初めてだ」と述べた。 >>81
通説では、笹尾山。
ただ、関ヶ原はかなりの傾斜地、山も結構なもので、全てが通説どおりでは無いと思います >>83
そら、ここの連中が騒いでいるみたいに
当時のままの工法で当時の通りに復元すれば
たとえ新築だろうが免震基準をみたしてないだろう 初雁公園再整備計画の審議会も3回目となり、川越城址公園としての輪郭が次第にはっきりしてきました。
川越市初雁公園基本計画審議会の結果
ttp://www.city.kawagoe.saitama.jp/shisei/seisakushisaku/fuzokukikan/kaiginokekka/toshi_seikatsukiban/koenseibi.html
自分としてはとても興味深く楽しみに思うところです >>89
選ぶなら左上を組み立て式として、月に数回一般客を締め出して、
身障者専用日とする 倒壊はしないけど、破損はするという感じ
瓦の重さは問題
徳川の巨大天守に金属瓦が用いられたのは
重量低減と言われているし 昔の瓦屋根は地震が来たら、すぐ瓦がすべり落ちて屋根の重量が軽減されてたけど
今はそれじゃ危ないってんで、がっちり屋根に固定しちゃうからな
すぐ落ちる瓦で建物を守るか
落ちない瓦で周囲の人の安全を守るか難しいとこだよな >>77
あの連中、ほっとけばその内に、現存12天守
にもエレベーター付けろと言いかねないんだよ。
そういう危機感無いのかい? >>97
向こう側も法で保証された権利を常に主張しないと、
直ぐに骨抜きになるという危機感がある 「残業代支払え」「労基法守れ」とか言ってる連中、ほっとけばその内に、「会社を人民公社化しろ」「経営陣は人民裁判にかけろ」と言いかねないんだよ。
そういう危機感ないのかい? >>89
伊予大洲城でマジで試してみてはどうかな?
ちなみにおいらはパワードスーツを着用したおんぶ隊を推奨するのだけどな。
施設だから、電源には困らないしな。 シンボルマークとしての天守に注力する名古屋城の整備は楽しみなんだけど、
たとえ観光客回遊目的であっても曲輪周辺に注力する金沢城整備の方がそそられる あれを名古屋城と呼ぶから「じゃあ現存十二天守にもエレベーターつけろってか?」みたいな低能が湧くんで、「風雲たかし城」という正確な名称で呼べば良い。 これもう朽ちて倒壊するまで放置しとけよ
ttp://www.chunichi.co.jp/article/front/list/CK2018070202000078.html >>111
最近言っていることが支離滅裂。
名古屋市憎しで、大阪城のコンクリート天守を持ち上げたり、(文化財として価値がある、
という話は別として)、>>106のようなスロープを持ち上げたり(あんな巨大なスロープ
つけるなら、門の直近にリフトで十分じゃないの?)、木造とコンクリートの違いを無視
して、熊本城のエレベーター増設を賞賛したり・・・。(外観復元天守の内部構造改変と旧状の
復元を比較するのがそもそもおかしい)
私怨で、学者としてのスタンスをぶれさせるなよ・・・。 >>112
やっぱそう思うだろ
大阪城天守閣が復元天守の理想像とか不見識にもほどがある >>108
低脳はあの手の連中を軽視しているお前だよ。
あの連中にとって、自分たちの主張の成就が最優先事項で史実なんかどうでも良いの。
事実、名古屋のデモで「史実より福祉」なんて主張していた参加者がいたらしい。
あの手の連中は、自分らの主張が通れば次の標的に向かうし、復元天守に付けば、次は現存天守という話になるのは自然だろうに。 >>116
権利の主張を鬱陶しく感じる輩ということ
権利は降ってくるものではなく、勝ち取るもの そっかそっか
じゃあなら俺は目障りなカタワは見つけ次第堀に叩き落す権利主張するわ カタワどもはどう考えても>>100側の思考だよね
大切な文化財や景観を傷つけないでほしいという市民の声を押し切ってまで
俺ら専用の通路を血税で作れとかほざいてるのだから 自分が経営者やオーナーでもないくせに
右派を気取ってブラック擁護の発言するのはキモチワルイ >>114
「風雲たかし城」に復元もクソもねえだろアホ >>121
でも、あの手の番組は歴史上のお城の要素も加味してもう一度やってほしいと
思うけどな。
例えば小田原城の障子掘を再現するとか、
古代ローマのバリスタや投石機を再現するとか。
破壊槌を再現するとかして、
今なら視聴率が悪くても、BSの賞金稼ぎ企画番組として、適当なスポンサーが
ついて田舎町の地域おこしイベントと連動すればやっていけるのではないかな。
もっともけが人続出で、怖くなってすぐにつぶれるかもしれないけどな。 >>124
実際風雲たけし城も、PTAから子供がマネをしてけがをしたらどうするとのクレームが
入ったしな。
あの番組の関係者は、こっちが思った以上のけが人が出て冷や汗をかいたと
言っていたし。 やっぱり、城の魅力は石垣やゴツゴツした沢山の櫓だよな。
立派な天守がポツンと建ってる一点豪華主義なんて逆に貧相に見える。
天守も連立式天守閣の方が俺は好きだな。 築城時に立派な天守がポツンと建ってる城なんてないけどな >>131
連立式天守は接続する櫓が天守からの射撃の邪魔とか、
そこを通って侵入される欠点がある
その点を考慮して独立式にシフトした >>129
全部石積みなのか
土塁の上に石を積んだものじゃないんだな 本土でも朝鮮式山城は石を整形して一個一個積んでいく琉球のグスクと同じ形式だしな
時代的にはこちらのほうが古いんじゃない 今帰仁城の石垣は14世紀のものだから本土の石垣より年代的にはずっと古いよ
技術的にも接点ないし別個に発展した者だろう >>132
築城時の話をしてんじゃねえよ。
昨今の地方での天守閣再建の風潮に対していってんだよ。
同じ金を掛けるなら天守の中身や構造をケチってもバランスよく金をかけろよと。
また、実戦に際しての実用性なんかでなくて、あくまで景観を重視した観点からな。
実戦重視なら打ち捨てられた山城がいくつもあるし、そんなのは森林に返ってる。
そんなのを再建しようとも誰も思ってないし、実際、思わんよ。 鬼ノ城は古いが、当時のようように海が側まで来てれば迫力もあろうが、今のように内陸にポツンとあっても迫力に欠けるね。 >>137
未開社会から突然現れた謎の遺跡
というか明らかに大陸の物だろうけど... このスレにも謎の認定ネトウヨいるのかよ勘弁してくれ もう開き直って、天守の北側に寄り添う形で一階から五階まで登れるエレベーター棟を付けよう >>138
昨今の地方での天守閣再建の風潮の話を
日本史板でしてんじゃねえよ。 明治初期の広島城本丸(現広島市中区)の外観を北東方向から撮影し、旧陸軍の拠点化に伴って壊された
裏御門上部の櫓(やぐら)や隅櫓が確認できる貴重な写真が見つかった。
広島城の学芸員は「被爆以前の明治期に失われた建物の姿が分かる重要史料」と位置付ける。
http://www.chugoku-np.co.jp/local/news/article.php?comment_id=442076&comment_sub_id=0&category_id=112 >>144
ここは延々と地方の天守閣再建話ばっかりじゃねえか、この糞たわけが。
築城時に天守閣だけ建ってる城がないことは誰もがしってることで、そんな常識をわざわざ物知り顔で語るなよ。
反論になってにゃあわ。
お前は幼児か。 >>138
閑話休題
個人的には、御殿や庭も復元して欲しいが、そのあたりは花見の名所だったりして… 松坂屋の元社長の伊藤次郎左衛門祐洋さんが亡くなった 山形市最上義光歴史館
「山形城の天守閣について」 吉田 歓
http://mogamiyoshiaki.jp/?p=log&l=456049
http://c-note.jp/yoshiaki/data/15300758251.jpeg
http://samidare.jp/yoshiaki/box/ten1stt.jpg
http://samidare.jp/yoshiaki/box/ten2s.jpg
山形城の天守閣について
一 謎の天守閣図面
鶴岡市郷土資料館には小林家史料という史料群が所蔵されているが、その中に「御殿守之たてぢわり」という謎の
天守閣図面(小林家史料一八一)がある。この図面は縦約三六八p、横約三三一pという、とても大きな図面である。
そこに石垣上に聳える五層の大天守閣が描かれている。このように大きな図面であるため、簡単に写真を撮影して
紹介することが難しいので、トレース図を作製した(図1)。さて「御殿守」は天守のこと、「たてぢわり」は立面図のことで、
本図は天守の立断面図を描いているが、残念ながらどの城の天守なのかは不明である。 五層の天守と言えば沼田城
その昔、木製昇降機つきの天守閣があっただろうという想定で、復原をしよう >>151
かなり昔に指月城天守にエレベーターが有ったと城の本で読んだ記憶がある
たぶん桜井氏あたりの本だとは思うが
水戸の好文亭が小規模な吹き抜けになっていて小さな木製昇降機があるから、
もしかしたら指月城にも秀吉専用の人力エレベーターがあったのかもしれん 高梁川氾濫で土砂崩れが起きたそうだが松山城は無事か 川が氾濫するほどの雨が降ったら山も崩れたりしないか心配だろう、とかわざわざ言わなきゃわからんのかな。 備後松山城も伊予松山城も麓に御殿があり山上に天守があって
そういう配置の城は多いが崖崩れで館が埋まったケースは無いんだろうか
松代城は洪水で本丸が流されて御殿を移しているが >>157で言う指月伏見城、地震で倒壊しはりまして大変どしたなぁ
推定マグニチュード7.0〜7.1、よぉけ死人が出ました 壊れてもうたら再建しなあきまへんな
なにせ太閤はん、天下人やさけぇ
けど、天守復原しよ思たら、前の通りにとか、昇降機はもうあきまへんで、とか色々うるさい
太閤はん、さっさと場所を木幡山に移さはって御城全体一から造り直さはったわ とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
R8R かのうじょう(加納城)
関ヶ原合戦後、岐阜城は破却
街の名も岐阜から加納にあらためられ、岐阜城のかわりに加納城が築城された
明治5年廃城、建物破却さるも本丸跡地が今に残る
城跡を訪れる際には、一帯の金津園探訪もできる 朝鮮式山城で語れるようなことってあるか?
百済から伝わって数十年で廃れてしまったし 朝鮮式山城の仮想敵とされた唐・新羅との戦いが回避されたから
残る敵は大した兵力もなければ攻城兵器もない蝦夷と隼人だけ
金田城や大野城とか見ると山の上に整形した石を一個一個丁寧に石を積み上げて城壁を作ってる
蝦夷隼人はここまでのことをする必要があるほどの相手じゃないからね廃れて当然 唐や新羅ってそれだけ高度な攻城技術を持ってたんだろうな >>178
高句麗や新羅の朝鮮式山城は本場だけあって規模も数も桁違いだけど
それでも猛烈な勢いで唐軍に落されてるからな
あんなのが日本に上陸してきたらひとたまりもなかったと思うわ 朝鮮山城は百済の将軍が造った
百済の扶余勇王子が倭国に渡っている >>139
造り山古墳より海は南だから 海が迫っていたことはなく 今と同じ内陸にポツンとあった
外敵を迎撃するためではなく吉備の国を支配するためと思われ >>185
>>139は間違ってる 鬼ノ城は当時から内陸にポツンとあった
>>184のように吉備は朝鮮人に支配されたんじゃないの?
朝鮮山城は朝鮮人支配の跡 鬼ノ城はポツンとあるんじゃなくて
麓には備中の国府がある 吉備には朝鮮山城がいくつもあることを確認
倭国は無城郭だが朝鮮の支配はまず山城を築くのだな ハクスキエで扶余豊王子は単身高句麗に扶余勇王子は倭国に走る
佐平数名+達率50余名+その他貴族が倭国に着く
彼らの仕業だろうな 日本人は割りと古いものを残す民族なのに、
朝鮮式山城の伝統は残っていないというのは、
使い物にならないと思われたからだろうな。
使い物(民政に転用)になるのであれば、間違いなく何らかの形で
朝鮮式山城の伝統は生かされていただろうからな。 不毛な論争を生むから「古代山城」と呼ぶようになった >>194
中大兄は倭国に不適な外国の城をたくさん作らせたのかい 不適かどうかは実際に作ってみないと分らないし
>>186
鬼之城があった地域は吉備氏の分派の賀陽氏の支配地域なので技術監修は百済人だけど
所有者は賀陽氏
国造制が解体された後は国司麾下の律令軍が接収したんじゃない >>198
朝鮮山城が倭国に適合するかどうか作ってみなければわからない
というのでは中大兄の政治センスを疑がっているが・・・ 朝鮮式山城は定着しなかったところを見ると、よっぽど使い勝手が悪かったのだろうな?
どこが悪かったのかなぁ? 武士の発生し、本格的に活動する時期と朝鮮式山城が作られた時期とに大きな乖離があるからだろ。
武士からしたら、朝鮮式山城は忘れ去られたオーパーツだ。 >>201
それでも民生技術として活用はできなかったのか?
と考えるのだけどな。 律令国家は軍事技術が民間に流出することに対してめっちゃ厳しいからな
弩みたいに技術を秘匿した結果忘れ去られていったんだろ >>203
そういやぁ
司馬遼太郎が、律令国家は武力だけで押さえつけていたのではなしに、
国分寺や国分尼寺を全国に作って遣唐使の成果を
配ることによって、権威を保っていたとの趣旨のことを言っていたな。 朝鮮山城は倉庫と貯水池があるがなぜ山を選ぶのか
周囲4kmとか6kmとか大きい 用途はなんだったんだ
筑紫野市では大野城・基肄城・水城を結び大宰府を囲む羅城(51km)の一部が発見された
泗沘のプランと比較できるらしい 吉備には羅城はないだろうな
http://www.city.chikushino.fukuoka.jp/data/open/cnt/3/6900/1/gensetsushiryou_ippan.pdf >朝鮮山城は倉庫と貯水池があるがなぜ山を選ぶのか
防御しやすいから
>周囲4kmとか6kmとか大きい 用途はなんだったんだ
住民を守るため
というか町が無防備になってる日本のほうが例外的で中国にしろヨーロッパにしろ中東にしろ
町は普通は城壁に囲まれてる者でしょ
中国でいう城と言ったらもっぱこっちのことで姫路城とか熊本城みたいな日本の城に当たるものは山塞とか保塁という >>201
いい加減ロストテクノロジーとオーパーツの区別ぐらいつけような
朝鮮山城は場違いでもオカルトでもなんでもないただの継承されなかった技術 大宰府羅城は継承するにはスケールがでかすぎる
筑紫野市によると大宰府羅城は古代の東アジア最大の可能性に触れている 最大「級」に入るけど最大は言い過ぎじゃない?
同時期の長安城は東西10q南北9qほどで外郭部の禁苑は15q四方
洛陽城は7q四方で外郭の神都苑は20km四方で大宰府羅城の57qよりはるかにデカい
それでも五指に入るレベルなのは間違いないけど >>202
福岡県にある古代の牧址(中世後期には山野にかえっている)を見に行った事があるが、石積は全く別物だったよ >>210
倭国の中大兄が朝鮮山城をつくらせただけでなく
なぜ東アジア最大級の羅城を築かせたのだろう
書紀はまた羅城についてなぜ触れなかったのだろう >>212
城を築いたのは日本国滅亡の最大に危機だったからだろう
書いてないのは作った主勢力が滅びたからだろう >>207
山城内に町が作られたかは疑問だけどなあ
近世城郭なら、堀で城下町を囲んで防御している面もあるのではなかろうか
あと、 中世は戦乱に際して、住民を城中に避難させることはよくあっただろ >>213
水城(664築城) 大野城(665年築城) 基肄城(665年築城)だが
倭国王は665年中には封禅の儀に行くことが決まった
懸命に防衛施設を作ったはずだがなぜ簡単に列席する?
危機などなかったかのようにみえるが ユネスコの諮問機関は縄文遺跡群の世界遺産登録に際して、
北東アジア地域の中での意味を求めてくるそうだが推進者にはその点が不足しているという
朝鮮山城や大宰府羅城についても、国内の視点だけでなく
東アジアの歴史から語らないといけないと思うのだなぁ >>206
まず水源地ありきで、それを丸く囲んでる山並みの稜線上に城壁を築くんだよ。
住民込みの籠城前提だから、都邑がまるっと移転する逃げ城みたいななもんだな。 >>202
大仏建立の様に、技術は継続的な必要性がなければ継承されないと思う。 >>207
ヨーロッパや中国の城壁の役割は大宰府の羅城が果たしていると思われ
朝鮮山城は住民を守るため? >>218
ふむ
チャンバラ技術だけ進歩して大砲の技術が止まった江戸時代みたいな >>215の疑問
水城(664築城) 大野城(665年築城) 基肄城(665年築城)と
倭国王が665年中には封禅の儀に行くことが決まった事は史実 である
しかし、懸命に防衛施設を作った人物が簡単に封禅の儀に列席することはありえない。
この謎は同一人物でないと考えると解ける
朝鮮山城を作った人物は倭国ではなく本人が滅亡する最大の危機だった
封禅の儀に列席する倭国王は朝鮮山城を作った人物とは別の人物なのだろう >>219
「朝鮮の役と日朝城郭史の研究」によると朝鮮出兵後の朝鮮王朝では日本の城制を取り入れるという話が持ち上がったのだが
避難民を収容するスペースがないということで結局お流れになったらしい >>224
ほう 朝鮮では城は住民を守る目的があるということなんだな
日本の城がお流れになったは日本では城は住民を守る目的を持っていなかったということか
政治の違いというかすごい違いだな 日本の城の基本的な構造である本丸二の丸の分節化すら解せぬから
スレタイも読めず、延々と祖国の城の話を続けているのですね、わかります。 さっさとNG ワード指定してスッキリしましょう
チョンになにいっても無駄 白村江の頃はまだガチガチの統一王朝でなくて地方豪族が力を持っていた時代だろう。
実際には九州を中心とする豪族連合が朝鮮へ兵を出し、壊滅的打撃を被り、衰退、中央に取り込まれていく過程も含まれてるのではなかろうか。
その中央でも後に壬申の乱が起きているわけで、海外情勢に振り回されっぱなしよ。 >>226
古代のことを知らないからわからなくなってきた? アンカーミス?
それとも朝鮮の役云々のスレの流れが読み取れない、日本語が得意な外国人?
あ!そっか、時代区分でいえば朝鮮は古代の次が日本統治で、中世も近世もないんだよなw
なんでこの子日本人のBBSにいるんだろう? >>225
中央集権的な郡県制が続いてた半島と封建制と長い間荘園や私領に分断されて分散的に集落がある日本では
求められる収容スペースに違いが出るのは当然だろ
あっちは下手したら十万以上の人数を収容しないといけないし
日本でも三都や御三家の本拠地といった人口過多なところはいずれも総構えが作られている >>229
ハクスキエに出兵した勢力と朝鮮山城群を作った勢力は別だな
前者は唐に降参したが 後者は降参していない
壬申の乱は後者(朝鮮山城をつくった天智)が古い勢力に潰されたというところか >>232
藤木久志の『雑兵たちの戦場―中世の傭兵と奴隷狩り』は戦場で奴隷狩りだぜ〜という童貞厨房が食い付きたがる記述だけが
一部で注目されているけど、この本の大半は中世の民衆が戦乱に巻き込まれない方策が記されてある。
民衆の大虐殺が当たり前の大陸と日本では前提が違うのだから、>>232の感想はそもそもお門違いなんだよ。
日本の家は夏の暑さ対策が最優先で設計されているのに、日本の家は冬が寒いから駄目と言っているのと同じ。 何の脈絡もなく童貞厨房という言葉が唐突に出てくるのは
本人が性経験にコンプレックスをもってる裏返しだろうな
ついでに言うとお前の挙げた藤木の本には民衆の虐殺が常態化していたことや
自衛のために民衆が城に逃げ込むことも日常茶飯事だったことが書いてあるぞ 藤木理論だと戦国の合戦のほとんどは飢饉で食い扶持なくした百姓をほっとくと治安問題になるので
戦争に行かせて数減らす「口減らし」目的ってことになってるが
というか君は前スレで黒田の著書をろくに読まずに知ったかしてあげてた奴だろ
ついでに言うと日本建築スレのほうにも書き込んでるようだな 藤木のどの版を指してのか知らんけど、まともに読まずに斜め読みした知ったかぶりでマウントってすげーな。
自分にとって都合の良いように書かれていると他人の著作を利用するのは、そんなに気分がいいのかい? あぁあと、235-236を読んだ所感だが、
敵が多いんだね、君。 村々に火を放ち、どさくさに紛れて女性や児童を乱取りし、生捕った越後の人々を甲斐に連れ帰って、自分の召使い(奴隷)にした、という。
「越後の者をらんどり」、「らんぼうに女・わらんべを取り」の、乱取り・乱妨の被害は女性と児童に集中していた。(28p)
秀吉の平和というのは、国内の戦場にあふれていた巨大な濫妨エネルギーに、新たなはけ口を与えることで実現され、それと引き替えにして、
ようやく国内の戦場を閉鎖することができた。だから秀吉は、名誉欲に駆られ、国内統一の余勢をかって、外国に侵略に乗り出したというより、
むしろ国内の戦場を国外(朝鮮)に持ち出すことで、ようやく日本の平和と統一権力を保つことができた、という方が現実に近いことになるだろう。
(206p)
>>237
でお前の持っているその版とやらには同じページに何て書いてあるんだ?
相変わらず学習能力がないようだな
つうか最初に藤木の本だしてきたのはお前だろ 村々に火を放ち、どさくさに紛れて女性や児童を乱取りし、生捕った越後の人々を甲斐に連れ帰って、自分の召使い(奴隷)にした、という。
「越後の者をらんどり」、「らんぼうに女・わらんべを取り」の、乱取り・乱妨の被害は女性と児童に集中していた。(28p)
秀吉の平和というのは、国内の戦場にあふれていた巨大な濫妨エネルギーに、新たなはけ口を与えることで実現され、それと引き替えにして、
ようやく国内の戦場を閉鎖することができた。だから秀吉は、名誉欲に駆られ、国内統一の余勢をかって、外国に侵略に乗り出したというより、
むしろ国内の戦場を国外(朝鮮)に持ち出すことで、ようやく日本の平和と統一権力を保つことができた、という方が現実に近いことになるだろう。
(206p)
>>237
でお前の持っているその版とやらには同じページに何て書いてあるんだ?
相変わらず学習能力がないようだな
つうか最初に藤木の本だしてきたのはお前だろ いきなり人格攻撃。
あちこちのスレに敵がいるアピール。
妄想・思い込みによる決めつけが思考の前提。
なぁ立場が逆なら、君もこう思うんじゃない?「こいつ、きもい」と。
90年代に左翼が敷衍したやつを持ち出したり、主張に一貫性の欠片もないな、君。 このバカのレス晒上げ
788日本@名無史さん2018/02/11(日) 18:44:08.48
あぁ、『』と「」の使い分けができていないということは素人か…
じゃ学術用語の使い分けもできない罠
俺が言っているのは二行目ね
どう受け取って大規模家長制云々が返ってきたのか
ちょっと見当がつかないけど
794日本@名無史さん2018/02/12(月) 00:16:54.05
いや、それ。何の回答にもなってないし。
取り敢えず、会話が成立していないのに気づけよ。
一部のサンプル例から敷衍しているだけだと確認しても、俺に何のメリットがあるの?
そもそも、用語を適切に使用していないことが明らかな時点で議論にならないし、
完全にスレチだ罠。 85日本@名無史さん2017/12/22(金) 19:10:07.49
>>74
つうか、君、人の言わんとしてることわかってないよねw
あのさあ、寺院としての規模なら東本願寺とかそんなもん凌いでるのは比叡山とかだろってのw
今問題にしてるのはモニュメントとしての巨大建築だろってのw
一つの建物としての規模が巨大な物の話してるのに、”建物群”の本願寺出してくるとか馬鹿なの?w
w
88日本@名無史さん2017/12/22(金) 19:25:36.48
痛いとこ突かれて自分の意見否定されると、”こいつはマウント取りたい”だけとかほんと馬鹿なのかな?w
幼稚な自分本位のレスしてるから、痛い思い込みを突っついてるだけだよw
日本の建築がもともとが輸入された技術により確立したのは事実だが、そこから2千年くらいへて、
日本独自の技術、日本の気候・風土・趣向が加わって、今の高度な日本建築が出来上がって来たわけだよ。
それを何も知らないくせに知ったかの自分の思い込みで批判するようなこと言うから、
そんなもん傍から見てると方腹痛いっつのw
君、恥ずかしいよw 260日本@名無史さん2018/01/16(火) 13:07:05.09
>>259
君さあ、人の言ってること、
自分に都合よく曲解してるけどさあ、
>中国の伝統建築がお前の言う組積造なら
そうは言ってないけれど。
中国の建築の技法として組積技術も発達しているとは言ってるけれどね。
中国の建築が木工造が基本なのは一目瞭然だろw
逆に上記の資料通りなら良いことづくめだと思うがw
中国の建築技術が未熟などとよく言えるねw
486日本@名無史さん2018/02/17(土) 20:32:58.37
>>471
あのさあ、今 羽生君が陰陽師踊ってるの見ながらレスするけどさ、
日本の文化も朝鮮の文化も、中国から輸入された文化の上に成り立ってるんだわ。
中国の文化の良いとこ取りして、自分らの国の風土に合わせて成り立った日本文化なんだわ。
489日本@名無史さん2018/02/17(土) 21:02:54.26
>>487
そんな事もわからないの?
駄目なやつだなあ…
君、いったい今まで何を勉強してきたわけ? あぁ黒田って黒田基樹氏のことね。
あの時の、会話が噛み合わない日本語が上手な外国人か。
指摘しても理解できないだろうけど、俺は引用符の誤用なんかしないから。
君の敵は一人じゃないよ。 古代厨はもう別スレたててそっちでやってくれ
それから次からはワッチョイ付きでお願いします 恐れ多くも天智天皇が築城を命じられた朝鮮山城をこの板から排除するのは天皇軽視である
日本の成り立ちに関することをはずし後世の城に特化するのは引きこもり症候群である 城壁厨のガイドライン
ばればれの自演連投で、多数を装う。
=を多様するが、脳のキャパが極小なのですぐに混乱する。
自分を批判するレスはすべて同一人物によるものと断定する。
得意技は鸚鵡返しだが、意味不明な変更を加える。
基本的な日本語に不自由している。但し書きが理解できない。
前スレが900に達しないうちに次スレを立てて来たのに、間抜けなので後れをとる。
住人の意向に関係なく、勝手に間抜けなテンプレに変える。
嫌城壁厨という言葉を発明した。
住人に一方的に課した義務を自らは履行しない。
議論議論と連呼するが、専用スレで議論するほどの知識がない。
主目的は平和なスレを荒らすこと。
平日休日を問わず、2ちゃんねるに常駐している。 >>225
朝鮮の地方の城邑では、虎や豹も入って来るし、盗賊もハシゴをかけて入って来る。
そのくらいショボい。
建前の記録の他に、思想、資金、技術といった本音もあると思う。
額面通りに受け止めていいものか… 朝鮮の山城は斜面にせり出すように城壁を造るから梯子で登るのは無理だと思う
http://www.englishspectrum.com/wp-content/uploads/2014/08/e79091f33cd1ee68d292602c29d802b2.jpg
虎なら登れるかも
日本の朝鮮式山城もそうだけどどうやって石を運んだんだろう?というかこんなとこに作る必要あるのかってとこに
一個一個丁寧に石を整形して城壁を組み立ててる
朝鮮出兵の時に半島に渡った武将たちもその切石の技術に感嘆してたらしい
逆に明将からは民衆に負担をかけてるだけだと叱責されてたようだけど >朝鮮出兵の時に半島に渡った武将たちもその切石の技術に感嘆してたらしい
日本の武将は日本にある朝鮮山城を知らなかったということだな
>逆に明将からは民衆に負担をかけてるだけだと叱責されてたようだけど
中国では必要ないと考えられる朝鮮独特の文化なんだな
そんな朝鮮独特の文化をなぜ天智天皇は必要と考え取り入れたのだ? >日本の武将は日本にある朝鮮山城を知らなかったということだな
朝鮮半島の切石に感心したことがどう飛躍したらそんな話になるのか疑問
>中国では必要ないと考えられる朝鮮独特の文化なんだな
>そんな朝鮮独特の文化をなぜ天智天皇は必要と考え取り入れたのだ?
冊府元亀、九百八十五巻には「高麗の城郭は山に依って作られているので攻め落すことは不可能」(高麗城雉依山攻之不可)とある
結局力攻めで落していったのだがそれでも攻略するまでに20年近以上かかっている
隋に至ってはほぼ全軍を投入したのに関わらず手こずってかえって自分のほうが滅んだ
火器が発達した時代の戦いには通用しなかったのだろうが古代においては相当な効力があったのは確か
唐軍と真っ向から勝負して勝てるわけないのだし高句麗のように籠城戦に持ち込む以外の選択肢はなかったのだろう >唐軍と真っ向から勝負して勝てるわけないのだし高句麗のように籠城戦に持ち込む以外の選択肢はなかったのだろう
朝鮮山城が篭城目的であること以前に
天智天皇が倭国人ならば なぜ倭国の戦い方を見切ったのか
いつ攻めてくるかわからない状態で外国文化を急遽取り入れるのは
却って危険と思われるが、、、 自演でしか楽しめない孤高のネット戦士である国士様……
半島での『歴史』は『ポエム』だというのが良くわかるわw
あぁそういや十年ぐらい前に日本近代史板でもいたな。
嘘と妄想で「ウリナラマンセー」を叫んでいた奴。 城壁厨のガイドライン
ばればれの自演連投で、多数を装う。
=を多様するが、脳のキャパが極小なのですぐに混乱する。
自分を批判するレスはすべて同一人物によるものと断定する。
得意技は鸚鵡返しだが、意味不明な変更を加える。
基本的な日本語に不自由している。但し書きが理解できない。
前スレが900に達しないうちに次スレを立てて来たのに、間抜けなので後れをとる。
住人の意向に関係なく、勝手に間抜けなテンプレに変える。
嫌城壁厨という言葉を発明した。
住人に一方的に課した義務を自らは履行しない。
議論議論と連呼するが、専用スレで議論するほどの知識がない。
主目的は平和なスレを荒らすこと。
平日休日を問わず、2ちゃんねるに常駐している。 >>255
いつ攻めてくるかわからない状態で外国文化を急遽取り入れるってのはどこの国でも普遍的にみられることだと思うけど
明治維新だってそうだろ
明治天皇や明治の元勲は白人か? >いつ攻めてくるかわからない状態で外国文化を急遽取り入れるってのはどこの国でも普遍的にみられることだと思うけど
>明治維新だってそうだろ
>明治天皇や明治の元勲は白人か?
中国の近代化でも清から中華民国(北洋軍閥)に変わったように政権の連続性がない
西洋化する過程で徳川政府が明治政府に変わったのも同じく連続性がない
清には清の方式 徳川には徳川の方式があったがそれらが変更を求められ政府が変わった
戦術戦略外交においてパラダイムシフトがおきたのだ
城郭がなかったところに朝鮮山城を持ってくるのはパラダイムシフト現象と捉えられる
戦術戦略外交すべてが新しくなるからだ
天智天皇は過去つまり倭国方式を捨てた
したがって政権(国?)の連続性をまず疑うべきだ
明治維新でも白人が日本を制圧すればパラダイムシフトが起きただろうし
百済の御曹司が倭国で政権をとればパラダイムシフトが起きただろう
少なくとも天智天皇治世は過去の倭国とは連続性がないとして歴史を構築すべきだと言っておこう >>259
>中国の近代化でも清から中華民国(北洋軍閥)に変わったように政権の連続性がない
>西洋化する過程で徳川政府が明治政府に変わったのも同じく連続性がない
光緒新政は清代だし北洋軍閥をつくったのも清だし
明治政府の元勲たちも全員もとは江戸幕府の幕臣でしょ
>したがって政権(国?)の連続性をまず疑うべきだ
政権が変わるとべつの国って面白い価値観だね
とすると民主政権と今の日本は別の国か
>少なくとも天智天皇治世は過去の倭国とは連続性がないとして歴史を構築すべきだと言っておこう
連続性なかったら日本書紀なんて造らなかったよね >光緒新政は清代だし北洋軍閥をつくったのも清だし
清内部の改革はすべて中途半端に終わり辛亥革命がうまれた
>明治政府の元勲たちも全員もとは江戸幕府の幕臣でしょ
徳川幕府は潰れた 連続性などない 明治の元勲は徳川政府の要人ではなく藩士
中華民国も明治政府も政権交代というより王朝の交代だから国が変わった
政府がもつ方式は官僚や軍人の組織が体現している
短時間のうちに政府の方式を変えることは組織の硬直性が邪魔をする
その硬直性を超える圧力があれば王朝交替が起きる
>連続性なかったら日本書紀なんて造らなかったよね
日本書紀は王家の交替を血縁で連続性をつけて正当化している
まさか神代の時代から連続性があったとは誰も信じまい
日本書紀が書かれているから連続性があるとの主張はあさはか
天智天皇で連続性がないとするのは都合が悪いことでもあるのかい
>>百済の御曹司が倭国で政権をとればパラダイムシフトが起きただろう
にコメントがないのはどうしたことだ いってる理屈が意味がわからない
それ全然連続性がないという反論になってないけど
つまり何?百済人に当時の倭国が乗っ取られたという事?
なら言うがその可能性は一%もない
まず第一に百済か渡ってきた貴族のほとんどは下級貴族にすらなれず低い位しか与えられていない
第二百済王の直系の百済王氏ですら最も栄達した敬福が何とか従三位に叙せられた程度
代々娘が生まれると天皇家の後宮に差し出す代わりに存続を許されたに過ぎない
第三日本書記では百済は日本の威光をかって任那にデカいえるだけの三下とかボロカスに叩かれている
第四桓武天皇は母が百済系ばかりに立太子すら危ぶまれるほどでほとんどアウトカースト扱い >百済の御曹司が倭国で政権をとればパラダイムシフトが起きただろう
同じく人質だった松平竹千代が今川家を乗っ取れば、織田信長に先駆けて天下取りできた、みたいな話かw 頭の病院に行ったほうが良いぞ
三貴子=一番下、一番上とも言える 邪馬台国、倭国も無かった時代の話
もともと東北のほうの人間、
人口などを調べてみるとわかる、
東北のほうに移されたとか、そういう話でもない 漫画やアニメばかり観ているから、
こんな事になったと言ってる人がいたり あと倭国=新羅だと言ってる輩がいるけど、
どこの国の人間なんだ? 戦国時代の何やら〜というのも、
ほとんど成り済ましだろう
自称とか勝手に名乗っているだけだったり >>252
専門家も集うスレで、釈迦に説法になるかもしれないが、この画像は、ソウルの外郭部ですよね。
そうであるならば、これは都城。
一般的に、山城、城邑、長城とはみなされません。 >>264
お前がどんどん城のことを書いてお前もゴミでないことを見せればいい。
大体、マンネリ化して過疎って逸脱するる原因もつまらないお前にある。
暗いと不平をいうよりも進んで明かりをつけましょう。 >>272
開き直るゴミくん、お前は他に居場所がないのか?
お前のゴミ書き込みを読まされるより、過疎ってるほうがはるかにマシ ↑
なにも反論できないで罵倒するだけ、惨めな負け犬ですね お前の名前は?と聞いているんだよ、
どこの雑魚なんだ 兄、弟、妹という話?
コンセプトがあるでしょ、これは家の話なんだけど
2chでも、パクリジャンというネタがあったり 本当の話、妹:5月15日生れ
他のスレの話になるんだけど、
クローン?そういうのがいると言ってる人がいたり 家は『松傾』?のような名前の家、
口、アゴの左(もれから見ると顎の↘辺り、右のほう)のほうにホクロのある親戚がいたり 『百済 えびす』
『紙幣 えびす』
こういうモノもあったとか 謎の埼玉名字辞典
百済の人々、元々は「えびす」と書いてあったり、
一番古い家(最初)の人々だという意味じゃないの?
『松傾』のところにも、そのような事が書いてあるし これも有名な話
国譲り?が行われたとき、
芝居ばかり観に行っていたという話
なぜか老婆も同じ話をしていたり
「松傾」?
このような名前の家なんだけど >>263
いくつも反証を並べたつもりかもしれないが反証になっていない けれどその議論は果てしないので控える
ただ次の史実を説明してほしい
百済王子の扶余勇はハクスキエのあと倭国に走った
扶余勇は善光として日本史に組み入れられ日本語Wikipediaでもそう紹介されている
しかし英語版Wikipediaは善光はハクスキエには行っていないので扶余勇とは別人としている
ジグゾーパズルでピースが一個余る 扶余勇は倭国ではいったい誰になるのか?
>つまり何?百済人に当時の倭国が乗っ取られたという事?
ハクスキエの後で倭国王が封禅の儀に列席するのは唐に下ったということなのだから
倭国であらたな政権が発足するには勝者唐から承認されねばならない これはいつの世も同じことだ
したがって扶余勇は乗っ取ったのではない 扶余勇は唐から承認されたにちがいない 【1分で分かる真実の日本史】
3世紀〜 古墳時代
7世紀〜 新羅・百済時代(日本列島上で新羅系と百済系が争う時代)
17世紀〜 日本時代(江戸時代)
19世紀〜 ISIS時代(英国傀儡戦争屋天皇時代) 倭国って先行して日本に来ていた百済だろう
それを新羅が制圧して国号を「日本」に改める
そして中国に「日本と名付けましたぁ!」と報告
日本列島上での初代天皇は新羅人
その後、新羅系も天皇を立て
そこから争いが再び始まる
そもそも縄文人は共生文化なので殺し合わない
殺し合わないから武器を作らない
武器が無いので百済や新羅が我が物顔で縄文人を刈っていた
だから天皇や皇族は日本土人を民草と呼んでいたんだ
草が増えたら征夷大将軍で草刈りのように狩るんだ 誤
日本列島上での初代天皇は新羅人
その後、新羅系も天皇を立て
正
日本列島上での初代天皇は新羅人
その後、百済系も天皇を立て
寄生虫天皇は二匹体制となり争う >>174
>朝鮮式山城で語れるようなことってあるか?
日本史の根幹を揺るがす事件なのだよ 土人は餌をまかれると餌に群がる
餌を撒いたやつは餌に群がる土人を見てうまくいったと思う
同じ餌だとあやしまれるから次はどんな餌にしようかと思う
警戒しないといけないのは知らない奴が餌をまいて土人がこっちに向かなくなることだ 百済王家は朝鮮半島を支配したが朝鮮人ではない
苗字が示すとおり扶余の出身で遼西などを経て朝鮮半島を南下した
扶余より以前はどこにいたかは不明だが由緒ある王家である
書紀に称制という時期があるがなぜ王がいないのに称制なのかの説明をきかない
これは扶余豊が百済王を継いでいたから扶余勇は恐らく皇太弟であったのだ
扶余豊が唐に捕らえられた時期と勇が就位し称制が取れた時期はおよそ重なるから
勇が就位したのは扶余家の正当な後継者という意味であった >>292
土人は血縁という餌に弱い
土人は歴史上の人物の血縁を懸命にほじくる
まるでスターのプライバシーを調べるように
フヒトは土人の性質をよく知っていたのだにぁ 多賀城とか古代の倭式の城はなんですかすかななの?
内側で守備兵がテントでも張って野宿したの。 多賀城の模型と多賀城廃寺の模型を見比べると・・・・どっちもあんまり変わらんな >>297
竪穴式住居を作っていたのではないかな。
復元された竪穴式住居はかやぶきにしているけど、本来はその上に土盛りをしていた
そうだしな。
そのうえ、戦国時代にも山籠もりの城と言って、戦国時代に戦闘から逃れて
一般民衆が山にこもっていたことがったのだけど、民衆は竪穴式住居みたいな
物を作って夜露をしのいでいたそうだからな。 続日本紀には初め多賀柵とでる
多賀柵の建設記事がないので多賀柵を改造して多賀城にした
多賀柵は蝦夷の柵でそれを大和朝廷が奪ったことになる
高句麗を構成する民族には柵文化を持つものがあり
高句麗が唐に破れて豆満江経由で日本の奥羽地方にやってきていた可能性はある
あるいはもともと柵文化であった倭国が石垣文化に征服され
倭国に続いて柵文化の奥羽も征服されたのかも
イジノアザマロは大和朝廷の外従五位下・上治郡大領 朝鮮山城について教育委員会は
九州ではやっている 岡山でもやっている 関西ではやっていない
研究が進むと作り上げた歴史が崩壊するからな 祖国を愛する孤高のネット戦士様による、朝鮮語りスレは、ここですか? >>300
昭和30年代、河原に採石業の労務者が休憩用の小屋をつくっていた
棒を何本か立てて、西部劇のインディアンのテントみたいに円錐形を形づくって藁で壁面を葺く
中にかまどをしつらえて、てっぺんを煙出しにする
子供の頃、勝手に入り込んで遊んでいたが、昔の竪穴住居の住み心地はあのようなものではなかったろうか 名古屋城天守閣はエレベーターをつけるべきだろうな。
時代の大勢であるバリアフリーに反するのは世論の納得を得られない。
天安門にすらエレベーターがあるのだからな。 時代に合わせて史跡に手を加えてたら価値が無くなるわ 木造天守閣の入り口近くに、タンクトップか上半身裸のおもてなしマッチョ隊が待機して、
観光客にマッチョいかがっスか〜々々と呼びかけて、希望者をオンブかダッコして登楼。
これが一番だろ。 名古屋城天守閣復元計画、文化庁への月内の提出断念 河村市長
名古屋城天守閣の木造復元を巡り、名古屋市の河村たかし市長は30日の定例記者会見で、
7月中に予定していた文化庁への基本計画の提出を断念する考えを示した。河村氏は「当初の
ステップが遅れるが、2022年末の完成は間に合わせる」と、工期は変更しない意向を示した。
市によると、市の担当者が基本計画を文化庁に提出しようとしたが、「市と地元有識者との
認識が一致していない」などと文化庁側から指摘を受け、提出を見送ったとしている。
市が13日に開いた有識者会議「石垣部会」では、専門家から石垣の調査が不十分などと
異論が相次ぎ、基本計画への反対意見が示されていた。
市は10月に文化庁が開く審議会で事業の許可を得ることを目指している。同庁が7月中に
開く内部の会議に間に合わせるため、基本計画を提出しようとした。
市は10月の会議で許可を得られるよう、基本計画の見直しも含め検討する。 エレベーターがネックか
意地張らずに素直に設置しろよ >>173
・長官職を辞して3ヶ月後に死去したのは事実だが、病気を理由に御役を辞したのか、それとも御役を辞した後に病気になったのかは記録がないので分からない
松平定信の日記には「事前の相談なくある日突然申し出た」とあるから病気を悟ってとも考えられるが、そもそも平蔵の8年間というのは
普通1〜3年程度で交代が常だった火付盗賊改方長官職においては江戸時代全体でもぶっちぎりのトップ記録だから
仕事の激務ぶりを考えればそれこそある日突然もう止めたくなっても不思議ではないんで、やはりはっきりとは分からない
・息子の辰蔵も平蔵の名を継いで長谷川平蔵宣義と名乗ったが、出世はかなり遅く
親父が41歳で番方トップの御先手組弓頭になったのに対して、宣義が同職へ上り詰めたのは死去する5年前の61歳
(但し親父は西の丸仮御進物番という田沼意次直属の職も兼ねてたからそれで出世が早かったという事情もある) 市長もごめんなさいして、さっさとエレベーターつけろよ
時代はいまバリアフリー 木造天守閣でも電気や照明はつけるだろうから
エレベーターだけ拒む理由はないな。 城も天守閣も時代に合わせて変化していかなければならない この時代にどうしても学術的な復元に拘るなら、EV無しで見学不可にすれば良い。お金の為なら、EV 付きの木造復興天守にすれば良い。 妥協案というか折衷案として
大天守には設置せず内部非公開
小天守にのみ設置して公開
これで市長もカタワもウィンウィン >>309
そういえば、最近は、あちこちで『おもてなし武将隊』を見かけるが、名古屋が嚆矢なのかな? 高松城天守閣の復興を目指して天守台石垣の積みなおしも済ませた
天守の鮮明な写真も外国で発見された
いよいよ天守閣建築をというところで文化庁の壁が立ちはだかっている
天守外観は何とか分かったが、内部構造がわからない
昔通りに木造で復元しようにもデータ不足
エレベーターなんかをどうこうする問題ではない 首里城は正殿以外の宮殿はコンクリートの外観復元でオッケーだったのにな 文化庁が木造復元名古屋城にエレベーター付けるのを認めるなら
高松城の復元を史料不足で却下するのはおかしいよな
折角史料が残っていても改変していいんなら全く無意味 俺の職場で、飲酒した者同士がトラブって片一方が頭を25針縫う怪我を
負わされたのだが、籠城中にこれほどの怪我を負ったらどうなる? 明日は死ぬぞと決めた夜、敵の総攻撃が始まる前に別れの酒を籠城兵に振る舞う事はあっても(酔えない‥)、四六時中酒をカッ喰らって喧嘩沙汰を起こすような余裕は御味方には御座らぬ 5月24日 名古屋城
6月29日 岡山城
7月09日 和歌山城
7月10日 仙台城大手門隅櫓
7月12日 宇和島城追手門
7月29日 大垣城
8月02日 水戸城
8月06日 広島城
8月08日 福山城 昭和20年7月3日深夜から4日未明、姫路城南東部を中心とした半径約1〜2キロB29による姫路焼夷弾攻撃
家を焼かれた市民はお城も当然焼けてしまったなと明るくなってからその方角を見ると、なんと御城は変わらぬ姿で立っていた
天守最上階の床には不発の焼夷弾が転がっていた ていうか、頭部を25針縫う怪我を負ったら昔だったら悶え苦しみながら
死んだのではないだろうか? わからんけど 「原寸大レプリカはどれだけ「史実に忠実」を目指してもレプリカであって、
本物にはなりません」と酷評しておきながら、
名古屋城本丸御殿を「一見の価値」があるという千田
なんなんだよこいつw >>339
つまり一見の価値しかないということだな
ブレてない 足の爪を切って不注意で切り傷を創ってそこから感染症を起こして片脚を切断していたのが
昭和中期
平時のちょっとした傷で人が死ぬ可能性があるんだから、中世なんてちょっと戦闘したら動けなく
なる兵士が続出だったんじゃないのか
↓
平和ラッパ・日佐丸
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%92%8C%E3%83%A9%E3%83%83%E3%83%91%E3%83%BB%E6%97%A5%E4%BD%90%E4%B8%B8
>平和日佐丸
>3代目(本名:溝畑勲 1933年 - 1968年)
>足の爪を切った時の傷から感染症を起こし入院、片脚を切断。 大阪城は伏見櫓位は復元しても良いのに、
しないのは徳川由来の復元は絶対にしたくないのだろう 2015/6/19 竹田城跡「劣化の一途」 土砂流出で天守台17センチ低下
https://www.kobe-np.co.jp/news/backnumber/201707/0010367759.shtml
>最高部の天守台から土砂の流出が続き、遺構の上面が場所によって17センチ下がったことが分かった。
>風雨などの影響を防ぐ応急処置として、同市が防水シートで覆っているが、流出が止まらない。同市教委
>は原因の調査や対策を急ぐ考えだ。
↓
2018/8/10 竹田城跡南二の丸 4年半ぶりに立ち入り制限解除
https://www.kobe-np.co.jp/news/tajima/201808/0011531472.shtml
> 2014年3月から立ち入りを制限してきた「南二の丸」の一般開放を再開した。
>南二の丸は、城跡南端の「南千畳」の手前にある曲輪。「天空の城」ブームで観光客が押し寄せた結果、
>南二の丸の地表面がダメージを受け、遺構が露出したり、土砂が流出したりする危険性が指摘された。
>このため、約4年半にわたって観光客の立ち入りを制限した結果、植生がかなり回復。それでも石垣の劣化が
>進んでいるため、周縁部の立ち入りを制限するロープ柵を新たに設置して再公開した。ほかにも地表面を守る
>保護材も敷いているという。 >>343
医療も殆どなくて免疫力弱い奴は子どものときに性淘汰されてる時代なので
過保護に育てられた現代人のお前よりはよほど頑丈だったと思うよ 笠松城って所に今いるけどしょぼかった
ソーラーパネルになってるし 天空の城もケーブルカーやロープウェイが必要だな
時代はいまバリアフリー 大河ドラマでも天下を取れずに
戦国の世でも天下を取れずに
夢のゲームの世界でやっと天下を取れる哀れ小物すぎるいクソナガw >>357
ソーラー・・・誰も反対しなかったのかな >>360
本当に木と土と漆喰と粘土であんなでかい建物を建てていいのだろうか?
木と土と漆喰と粘土でできた家は経年劣化ですぐにボロくなっていき、地震
にも弱く簡単に崩れるイメージが・・・
海溝型地震である東海地震で崩壊するんじゃないの?
石垣も弱い 地震だけではなく雨とかで簡単に崩れる エレベーターつけるならいいよ
どうせ冷暖房装置なんだろ
エレベーターだけ頑なに拒否するなよ 千田みたいな奴をのさばらせておいたら日本の城はバリアフリーの名の下に破壊され尽くされるだろうな >>361
壊れたらなおせばよい。技術の継承とは弱く簡単に崩れないといけない。
100年ごとにメンテナスではメンテナンス技術も継承できない。 台風が姫路城を直撃しそうだ
江戸時代にも台風被害ってあったのかな?
伊賀上野城が築城中の天守が倒壊したんだよね エレベーター付き天守に登るのが適切な歴史体験なんだろうか(笑) 天守を2基建てればいい。
昔からの天守台上には、木造で昔の姿に忠実に復元する。
その近くにもう1基。こっちは鉄筋コンクリートでエレベータ付き。
ただし、健常者と身障者でも木造復元天守へ登れる人は入場禁止。
入場料は健常者の半額で、盲導犬も聴導犬も介助者も手話通訳者も看護師も医師も
必要な同伴者は入場無料。 >>366
仙台城の橋が台風か何かの嵐で流されたらしい 【兵庫】「恩返し」で私費10億円 尼崎城天守、駅前に姿現す
1 名前:アーモンドクッキー ★[sage] 投稿日:2018/08/28(火) 12:00:19.78 ID:CAP_USER9
>明治の廃城令(1873年)で取り壊された尼崎城の天守が145年ぶりに、兵庫県尼崎市の阪神尼崎駅近くに姿を現しつつある。
>鉄筋コンクリート造りで再建され、高さは石垣部分を含めて約24メートル。10月に完成し、来年3月29日に内部の一般公開が始まる予定だ。
>3年前に旧ミドリ電化(エディオングループと合併)創業者の安保詮(あぼあきら)氏(85)が「創業の地に恩返ししたい」と私費で新天守を建てる
>意向を表明。阪神尼崎駅近くの城址(じょうし)公園で工事を進めてきた。
> 2018年8月28日06時54分 朝日新聞
>https://www.asahi.com/articles/ASL8N3CD2L8NPIHB005.html
>建設が進む尼崎城
>https://www.asahicom.jp/articles/images/AS20180822000865_comm.jpg >>372
位置変えは仕方ないとしても左右反転している天守だから、なんともはや…
それより後ろのレンガの建物に目がいった >>373
鉄筋コンクリート3階建てで、
1階は6畳、2階は3畳か4畳、3階は2畳。
瓦は本瓦ぶきではなく、現在の瓦ぶきの民家にふかれている桟瓦。
周りを塀で囲んで、隅の2箇所に2~3畳ほどの小屋を建てる。
門は冠木門。
これなら普通の家よりも安く作れて快適に住めそう。 近所からは暴力団事務所だと疑われ、
警官が訪問してきて、あれやこれやと質問され、
何時も近所に銀色セダンが路駐しているんですね、分かります。
地域BBSをみてると、防犯カメラが二台設置されてるだけで、
「あそこは組事務所」と言われるのは、正直どうよと思われ。 城内に事務所もうけたり、火災探知機や消火設備を設置するのも気分削ぐよな 彡⌒ミ 暮れなずむ町の 光と影の中
(´・ω・`) ハゲゆくあなたへ 贈るカツラ
γU〜''ヽヽ 悲しみこらえて 微笑むよりも
! C≡≡O=亜 ツルッパゲになるまで 泣くほうがいい
`(_)~丿 人は悲しみが 多いほど
∪ 人には優しく できるのだから
さよならだけでは さびしすぎるから
愛するあなたへ 贈るカツラ 火事になったら一気に燃え落ちるように当時の条件を再現して欲しい ,..-─‐-..、
/.: : : : : : : .ヽ < どの口が言うてんねんっ !
R: : : :. : pq: :i}
|:.i} : : : :_{: :.レ′ コ ツ , -─弋¬、
ノr┴-<」: :j| ポ ン !! / `Y < この口が
/:r仁ニ= ノ:.ノ|! _ | {、 | 言うとんのか
/:/ = /: :/ }! |〕) 从\ |) |
{;ハ__,イ: :f | /´ (〔| ヽ__j儿从八_
/ }rヘ ├--r─y/ ☆、 `\ i⌒ヽ ̄ ̄\
/ r'‐-| ├-┴〆 _, 、彡⌒ ミ \ | | `===ヘ
仁二ニ_‐-イ | | ∩(・ε・`川゙と[l ̄| | \
| l i 厂  ̄ニニ¬ ノ ⊂ノ  ̄| | ヽ
,ゝ、 \ \ __厂`ヽ (__ ̄) ) | |\ }
_/ /\_i⌒ト、_ ノrr- } し'し′ /{_〆 ̄`ーー=='^┤
└-' ̄ `| |_二二._」」__ノ {| -‐ / | | }
└ー′ └─-二_/⌒Y ̄ 普段乗らない阪神電車に乗って普段降りない阪神尼崎駅で降りたら・・・・・
目の前に城があった!
駅近やな >>385
元の本丸内にあった旧高校の校舎もなかなかすごいものらしい。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 南部の根城
鍛冶工房 竪穴式
納屋 竪穴式
みんな大好き竪穴式、 北陸や東北だと下手すら高度経済成長期の頃まで現役だからな竪穴式住居 >>387
おまいが千田教授を嫌いのは判るが、内容を繰り返し読んだ方がいいと思うよw >>392
岩崎城は三重四階なんだから明らかに間違ってるじゃないか
>たとえは?ある城は、1584(天正12)年に起きた小牧・長久手の戦いて?秀吉の軍勢に急襲されて落城した歴史をもつか?、
> 1987年に五重の天守と石垣をつくるまて?、土つ?くりのみこ?とな城郭遺構か?完存していた。 松代城行ってきた
幕末時の模型もあったが
10万石の大名の居城にしてはしょぼい印象
松代城ってあくまで武田家の対上杉の前線基地であって
物流とか拠点性までは意識した場所じゃないな
真田家が幕府から睨まれてなかったら
信之の時代は財政的余裕もあったようだから
対岸の川中島か今の長野市街地辺りに
移ってたんだろうな >>394
松代城は元々、千曲川を直接管制するための城だし
管制する必要が無い後代だとそもそも新規築城する必要が無い
なので松代城も後になると、水害を被りにくい山側に政庁を建てている 交通の便が良さそうな、酒田ではなく鶴岡を酒井氏は本城にしたのか
賢い人教えてくださいな。 ニューヨークではなくワシントン
シドニーではなくメルボルン >>397
アメさんはなぜか州庁は経済的に富み栄えた町ではなしに、
格下の小さな町に置くよな。
カルフォルニアだって、ロスでもサンフランシスコでもない
本当に小さな町(思い出せんww)に州庁をおくよな。
バルジの戦いの時だって、イリノイ州の州都は?との質問に、
正解のスプリングフィールドと答えた将軍がスパイ認定されて
監禁されたという話もあったし。 >>396
統治という観点なら鶴岡は酒田よりも領国の中央寄りにある 古代山城サミットって全国山城サミットみたいに一般人が参加するやつじゃないん?
対象は市町村の公務員だけ? 徳川宗家は明治以降も富士見櫓に住まわせるべきだった。 ロンドン塔ならぬ富士見櫓に幽閉して、あとでこっそり始末するのか 日本の三大名城はどこなんでしょうか?熊本城と姫路城はわかります。
あともう一つが名古屋城か大阪城のどっちかがわからないのです。
愛知県民の人は名古屋城だというし、大阪の人は大阪城だというし、
どっちなんでしょう? 実際に現地で直に見ればわかると思うけど
規模で言えば江戸、名古屋、大阪が隔絶していて後は目くそ鼻くそでしょ 「家康江戸を建てる」を読んだけど、あの後に秀忠があっさり天守を解体したのはなぜなのじゃ? >>405
まずは江戸城を番外として大坂・名古屋・熊本とする説
そしてさらに大坂を番外として名古屋・熊本・姫路とする説 名古屋城の木造天守閣、文化庁の許可下りず。
木造派ざまあ。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>419
観光目的なのに、図面あるからって復元に拘るから、色々とボロが出てくる。 >>419
まぁ、天守台の石垣のも問題がクリアしたら、許可が出るでしょうね。
天守台だけでも良いと思いますけどねw >>419
大洲城でも却下、修正しても却下、さらに修正して提出〜の繰り返してようやく再建にこぎつけたんだし、
工期がずれ込むだろうけどこれくらい織り込み済みだろう。
むしろ、ハイ、一発OK明日から頑張って建ててね(はぁと なんて返答が帰ってきたら却ってびっくりするわ! >>428
あれは最初だったからだろう?
河村のスタンドプレーが嫌われているのではないかな? ない。
実測図から遠ざかれば遠ざかるほど許可の下りる可能性は下がる。
構造を丸ごと変えてエレベーターなんか設置したかったら伊勢安土城ビルみたいに史跡と無関係な場所で勝手にやってろとなる。 >>430
城なんて今の住宅と違って規格化された物を量産するんじゃなくて、
どこもオーダーメイドみたいなものなんだから、他所が一回クリアできたら次からすり抜けられるもんじゃない。
正直、河村は急ぎ過ぎで諸手を挙げて支持はできなくて、石垣も建物も何年かかってもいいから自栗再建すればいいじゃんくらいに思ってるけど、
車椅子のエゴで、せっかく実測図があるのにそれを無視して二代目城風ビルを建てるなんて論外。
他所の復元町の城の土地からしたら名古屋なんて羨ましすぎてい誰垂れすぎて脱水症状になるほど資料がそろってるのに、
我儘車椅子のおかげで復元がままならなくなるとか馬鹿らしくて泣けてくる。今後障害者を街で見かけたときの見る目が変わりそう。 言いたいことは充分分かるが、ちょっと餅つけ。^^; いや、実際見ると感じるけど
天守台はそれこそ数年単位で積み直した方が良い
かなり孕みが顕著になっている
それに「本物」を目指すならケーソンを基礎のみに
するべき 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 以前、このスレで、冬の陣図(大阪城図・京大阪図)と、夏の陣図の大坂城天守が、まるっきり別物なので、
夏の陣図は、黒田長政が主君討ちの家康(虎年虎の日寅の刻生まれ)に対する皮肉を込めて、家康の環立式江戸城を描かせたんジャマイカ?という説を見たが、
最近、小田原城攻めの後の国替えで、家康が築いたばかりの駿府城を秀吉に召し上げられ、中村一氏が入った後の金箔瓦が出土したニュースを見て、
おそらく三つ葉葵紋の軒先瓦だけを金箔に取り替えたんジャマイカ?「築城図屏風」がまさに家康が築き、秀吉に取り上げ、中村一氏が軒先を金泊瓦に取り替えた天守ジャマイカという仮説が浮かびますたwww
http://castles.chicappa.jp/backnumber/145
諸兄の見解や、いかに?w くだらねえカラミ方だな
このスレのレベル低下は異常だな
レス乞食と阿呆しか残ってない >>439
冬の陣図のは洛中洛外図とおなじ形状
というか江戸初期までの図屏風に描かれた天守は敢えて事実とは異なる形にしている 日本が核攻撃されて文化財は根こそぎやられてしまうのだから、すべてをデジタルデータ化せよ
今だってそんなことを考えている人は居ない
ちゃんとした測量技術がある世になったんだから、修理もあるし国宝を測量しておこうってだけだったんだろう jk >>439
築城図屏風は、前田家所蔵であることから幻の金沢城天守ではないかとのむきもあったが、「天守は上げるべからず」という利家の遺言、
徳川譜代の本多家・篠原家の家紋が見え、天下普請であることから、1607(慶長12)年の駿府城築城の様子を描いたものとほぼ断定される。
昔から熊本城大天守との類似が指摘されている天守については、同じ1607年焼失した第T期駿府城天守であることは、間違いないにせよ、
本能寺の変(1582)のドサクサに紛れて甲斐・信濃にまで領土を広げた家康が1585年に新築して浜松城から移り、
小田原征伐後(1590)代わりに入城した中村一氏が金箔瓦に改装?した天守と同一かどうか、22年遡れるかは不明。
なお、回の字の環立式・第U期天守台(1608)が第T期天守台の外周に石垣を足して造られたのは今回の発掘調査から明らか。 攻城戦じゃこんなことは当たり前なんだろうな
【国際】〈画像〉ケニア レンジャーが九死に一生 マサイ族の弓矢が頬を貫通
1 名前:しじみ ★[sage] 投稿日:2018/10/26(金) 17:40:22.56 ID:CAP_USER9
■画像
https://cdn1.img.jp.sputniknews.com/images/550/36/5503692.jpg
>ホフマー氏は病院に駆け込んだ。ホフマー氏の様子に医師らはショックを受けたが、結局、
>矢の摘出はできなかった。業を煮やしたホフマー氏はやおら矢に手をかけると力の限り
>それを引き抜き、横にいた看護婦に渡したという。 中村氏時代の駿府城天守が秀吉肝いりの形で作らせたとしたら
米子城天守は家康肝いりの形だったのだろうか?
高知城もそういう形のようだが、案外米子城の外見は
寿城のような白い天守だったのだろうか。 よくドラマでゾロゾロ行進してる様子があるがあれウソだからな
鉄砲伝来以後なら猶更あり得ない
明側の記録だと倭軍は「善く埋伏し三十人或いは二〜三人で一隊をつくる
各隊ごとの距離は一〜二里で法螺貝を用いて互いに合図を為す」
とあってごく少数人の編成で匍匐前進しながら進軍していたらしい
ドラマみたいに大名行列つくってたら砲撃されたら一たまりもない 籌海図編
「その兵を用うるや善く埋伏して、しばしば巡りて我が軍の後ろに出で、
両面を撃ち、常に寡をもって衆に勝ち、塁を脅かし、華人たやすくその術中に堕ちる。」
「埋伏」した状態で「しばしば巡り」そして「我が軍の後ろに出で」ってあるのだから恐らく匍匐前進のことだろう
朝鮮実録のほうだと明らかに匍匐前進的な動作をしてる記述がある
「宣祖実録」 七十一巻、先祖二十九年一月三十日丁酉
「形体はなはだ小さく、能く草間を潜行し、放丸すれば必ず中る。」 >>452
違う「隠れて迂回して」という意味
伏撃・迂回 阿呆?
そのまま素直に読めば、上手く身を隠し(あるいは待ち伏せし)、
しばしば迂回して前後から挟撃、だろ。
まさに旧日本陸軍の戦法の前身みたいなもんだな。 >452は匍匐の意味を全く理解してないのかもな。そもそも匍匐前進の
概念が日本に入ったのは幕末の洋式調練からだろ。
宣祖実録のも、上手く草むらに隠れて行動する、という意味でしかなく
“明らかに匍匐前進的な動作”と言えるようなものではないな。 >>455
日置流には陸自でいう所の第一匍匐の姿勢で弓をつがえる射法があるけどな そりゃ、銃で言う膝射に類する姿勢と言うだけで匍匐前進とは関係ないな。 薩摩日置流の動画を見て言ってるのなら
あの形は江戸後期に作ったやつだから、ソースとしてはちょっと弱いぞ 中世城郭 石垣がほとんどなくてぱっと見は自然地形と見分けつかない
近世城郭 縄張りが単純すぎてつまらない
両者の特徴を合わせた城跡ってないかなー >>460
姫路城とか熊本城とか人気のある近世城郭がそれ
過剰防備とも言われるが、つまり味方も迷う >>462
>462はそういった慶長以降の平城〜平山城じゃなく、自然地形を活かした山城で、
大規模な石垣を持つものを言ってるんじゃないの。
観音寺城とか七尾城あたりの、近世城郭への端境期の大山城な。 近世城郭だけど縄張りが中世っぽい城といえば笠間城、苗木城、岡城とか
逆パターンだと難波田城 障子掘は北関東全域に普遍的にみられるから恐らく北条氏以前からあったんじゃない
あと堀内障壁って西股総生の言い方でしょ
アイツの言ってること間に受けたら駄目だからな
あいつの著書みると旧日本軍の「野戦築城教範」レベルの築城術が中世にすでにあったことになるがそんなことありえないから 城のバリアフリー化を唱えている奴が
城の本質的な価値を守れとか笑わせてくれるわ >>467
あの方は、推論に推論を重ねて話を展開するから『杉山城問題』みたいな事になるんだけどね 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 ageバカ必死すぎだろ
お前は相手にされてないんだよ 【茨城新聞】水戸城の角櫓復元へ起工式 20年9月完成へ、観光振興に期待
https://ibarakinews.jp/news/newsdetail.php?f_jun=15404681085869
完成予想図を見ると二階の規模が古写真の二階よりも小さいように見えるのだが・・・ 大手門は昨日が上棟式。
創建当時と同じ工法で再建。
驚くほどデカイよ!ほんと楽しみだよ〜 加藤先生は中村氏時代の駿府城天守台一面に構造物が建っていたと
考えおられるようだが、むしろ大和郡山城のように天守曲輪の中に
さらに小さい天守台があったのではないか・ 単なる城好き的には、エレベーターがどうこうという身障イデオロギー的な討論より
こういう新発見な話が好ましいですな。
信長の屋敷跡か 小牧山城で礎石見つかる
ttps://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181114-00000104-mai-soci
11/14(水) 毎日新聞
織田信長が築城したとされる愛知県小牧市の小牧山城の発掘調査で、
同市教育委員会は14日、山頂の天守(主郭)近くに屋敷建物があったことを
示す礎石が見つかったと発表した。信長か身内の居宅だった可能性がある。
天守近くに居宅があるのは近世城郭の特徴の一つで、市教委は「小牧山城が(
岐阜城や安土城に先立つ)近世城郭のルーツとの見方が一層強まった」としている。 天正期駿府城天守が、秀吉が作らせたのなら
米子城大天守は、家康が作らせたという事か?
だからこそ支城なのに、解体されなかったという事か? \ r'´ ̄ ̄ ̄  ̄ ̄ ̄`、::. ___
l} 、:: \ヘ,___,_ ______/::.__| .|___________
|l \:: | | |、:.. |[], _ .|:[ニ]:::::
|l'-,、イ\: | | 彡⌒ミ . |::.. ヘ ̄ ̄,/:::(__)::
|l ´ヽ,ノ: | | (´・ω・`) ,l、:::  ̄ ̄::::::::::::::::
|l | :| | |,r'",´ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄`ヽ、l:::::
|l.,\\| :| | ,' :::::... ..::ll:::: そうだ
|l | :| | | :::::::... . .:::|l:::: これは夢なんだ
|l__,,| :| | | ::::.... ..:::|l:::: ぼくは今、夢を見ているんだ
|l ̄`~~| :| | | |l:::: 目が覚めたとき、
|l | :| | | |l:::: ぼくはまだフサフサ
|l | :| | | ''"´ |l:::: 起きたら朝シャンプーをして、
|l \\[]:| | | |l:::: 髪を乾かして、涼しい午前中に美容院に行って、
|l ィ'´~ヽ | | ``' |l:::: 午後から友達とアートネイチャーにいって
|l-''´ヽ,/:: | | ''"´ |l:::: ハゲをバカにして遊ぶんだ・・・ おい 応仁元年頃に建てられた古民家が解体されたぞ!
怒りに震える
京都市最古級の町家が解体消失 室町起源、保全強化も奏功せず
https://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20181127000023
>室町時代にまで起源をさかのぼれ、専門家が重要文化財級と評価していた京都市内最古級の町家
>「川井家住宅」(中京区西ノ京)が解体され、消失したことが26日までに分かった
>【 2018年11月27日 08時39分 】 >>485
N速+を見たらハチセってチラホラ出てくるが、瓢箪マークの代紋の不動産屋が
どうたらとか・・・・よくわからんけど >>484
>室町時代にまで起源をさかのぼれ
なんで命令口調やねん しかし、よくぞ戦乱・土一揆・濫妨・狼藉・火災・洪水・地震を乗り切ったなあ
信じられんな
北野社の神人らしいけど
あと、洛中ではなく洛外のようだが >>484
京都もどんどん狂っていっとるなぁ…
帰省するたびに街並みが都市化していって(この7年で町家が「6000軒近く」も消えた)、
インバウンド向けの小ジャレた和風カフェや、小さなホテルが乱立。
モダンデザイン先行の外資系高級ホテルは「和樂」や「婦人画報」の読者を意識したようなものばかり。
ちなみにインバウンドなんてそんなに儲からんのにな。
(歴史遺産にはカネを落としにくい。だから京都市の税収は伸びていない)
日本人の国内観光客(2億人)に対し、外国人は2千〜2千500万。
安いから来てるだけの外国人より、日本人に注力した方が何百倍もええのにな。
外人に尻尾ばかり振ってると、そのうち京都は消滅してまうぞw 京都なんて古臭い寺と神社があるだけの古臭い町なだけじゃないか
そんなとこによくあれだけ人がウジャウジャ来るよね
物好きにもほどがある 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 千田のせいで岡山城にも外付けエレベーターが設置されるそうだな そのうち伊予大洲城にもエレベーターが取り付けられそうだなww
早めに対策をした方が良いと思うぞ。
何処かの機械屋にでも頼んで、階段昇降機のコンテストでもやればどうだ? 千田があちこちで城のバリアフリー化を唱え、アホ信者どもが追従してるから
今後、全国の城がバリアフリーの名の元に破壊されていくのだろうな
歴史的景観を無茶苦茶にしてしまって後世の人たちに申し訳がない 千田という人は姫路城にもエレベーター設置しろと言ってるの? >>500
おそらく政治が絡んでいるのではないかねぇ。
河村は自民党から共産党まで、とにかく政治家に嫌われているからな。
共産党だけではなしに、自民党まで裏で支援しているのではないかねぇ。 「南京大虐殺は無かった」キチガイだし、まともな国なら刑務所行き 千田は創価学会の機関誌「第三文明」や部落解放同盟の月刊誌「ヒューマンライツ」に寄稿する胡散臭い奴 城郭ライターだっけ
長い下積み終えて独立して本出版してる人 >>500
「全ての人に歴史的な空間を体感してもらう」べきとかいいながら
姫路城へのエレベーター設置には反対する二枚舌 >>500
もし安土城天主の復元が可能になってもEVの設置を求めるのか、という質問には口をつぐんだままだね。 姫路も安土も天守までの道のりがバリアフリー不可能やん あいつは都合の悪い質問はスルーするからな
最近もエレベーターを設置するには地下を掘り下げなければならない(当然遺構面は破壊される)と突っ込まれてスルーした 日本史板でエレベーターに粘着するアスペが来てから過疎ってるね
相手したくないもんね 高まるブーム、安土城も再建? 復元向け滋賀県が調査
https://www.kyoto-np.co.jp/shiga/article/20190101000037
城址の発掘も中断して構造不明の状況で安土城再建とか最悪のニュースだな
下手に再建すると不確かなイメージが定着して無知者を喜ばせるだけだ 毛利敬親を大坂に呼び、非礼を詫びさせる。その上で、領地も10万石ほどに減らし、けじめをつけさせる所存である。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 中井均氏や春風亭昇太師匠らが躑躅ヶ崎館、要害山、新府城といった甲斐武田氏の居館・城郭跡を巡る本はどうですか? >>514
廃墟巡りマニアみたいな感覚の人にはお勧めだろうな。
お城にエレベーターとか言う人には遠慮してもらうしかないな。 >>514
甲斐の国の城に興味があるなら国別、県別みたいな
地域の研究者が書いた甲斐の城のデータブックみたいな専門書があるんじゃないか?
城跡探訪ガイドブックが欲しいなら買えば良いと思うが >>491
頓挫したけど、三条・四条間でのポン・デ・ザール建設が話題になったことがあったな。
町家の消滅にしてもそうだけど、木屋町界隈の雑居ビル群や風俗・パチンコ屋の乱立も酷い。
市というか、住民たちも環境に関しては疎いというか、生活や儲けが基軸でそれどころじゃないのかもしれないな。
あと、日本から「安さ」が無くなったら、外国人観光客は激減すると思う。
京都にどれだけ観光客が押し寄せても、カネ落とさないし。
そもそも京都は「観光都市」じゃないのかもしれないな。
>>493が書いているように、お年寄りが寺社参りしたり、一部の好事家(若い奴含め)たちが
歴史の痕を探して郷愁に浸れる地味な街だよ。 戦後の復興、復元天守の建て替え時期が重なっているだけ 西尾城跡、今夏から着工 二之丸丑寅櫓など再建へ
市文化振興課は「できる限り史実に近い形で再現し、市民が歴史を感じられる施設にしたい」としている。
http://www.chunichi.co.jp/article/aichi/20190201/CK2019020102000058.html >>527
あれは名古屋の政治情勢がかかわっているのだよ。
とにかく河村は自民党から共産党まで嫌われているからな。
だから河村のスタンプレーをやめさせたいのだよ。
自民党の市長になれば、エレベーターの話はいつの間にか蒸発して
自民党から共産党まで全会一致で木造で再建する話で
合意するよ。 河村がくたばれば「風雲たかし城」じたいが蒸発するだろw 朝鮮左翼犯罪者辻元清美の地盤じゃなかったら
高槻城の障子堀も保存されたのかな 辻元の後輩の千田は在日左翼臭いな
千(チョン)→千田
辻元清美(1960-)
奈良県吉野郡大淀町生まれ
大阪府高槻市育ち
名古屋大学教育学部附属高等学校卒業
早稲田大学入学
千田嘉博(1963−)
愛知県生まれ
名古屋大学教育学部附属高等学校卒業
奈良大学入学 >>530
「最上階をそのまま保存する」という事は、歴史上初めての一層一階天守? これってそうなん?
↓
日本のお城.com
日本にあったお城の数、今あるお城の数は?
>一般的に「現在見ることができる日本のお城の数」として約100城、
>「行くことができるお城の数」として約200城と言えるのではないでしょうか。 平家にあらずんば人にあらず
近世城郭にあらずんば城にあらず >「行くことができるお城の数」として約200城と言えるのではないでしょうか。
街に飲み込まれて石碑だけになったり城を除いても行くことができる城は軽く数千以上はあるんじゃね? お城=天守という手合いの話だろ。
現在、復元や模擬天守があるところで100、かつて天守があったのも入れれば200という勘定なんじゃねーの。 平屋にあらずんば城にあらず
天守閣にあらずんば城にあらず 総数で天守が200もあったと思うおバカさんは
城持ち大名の数とか気にならないものかね 堺屋太一氏が亡くなったな
内藤昌氏と共著で安土城や駿府城の本とか出していただろ 江戸時代の城主格以上の大名が150家ほどで城数が170ほど。
全部が天守ありじゃないけれど、他に一国一城令で廃城になったのが
約400というから、天守のあった城は200は充分あるんじゃね。 幕末のどさくさで、天守紛いの櫓を建てた陣屋はあった模様。 >>545
堺屋さんは難しいことをわかりやすく解説する能力は
天下一品だったな。
合掌 一国一城令は分らんでもないけど改修や天守の階層制限は意味わからない
城に金使わせて疲弊させることもできたのに 立派な要塞に立派なお飾りつけて権威を誇られても困るだろ
疲弊させる目的ならお手伝い普請でもさせればいい >>554
コンクリ天守は安っぽいわ
早く木造で再建してくれ 御殿より多聞櫓をやるべきだったな。
景観としてはそっちの方がアピール度高くね? みんなお城が好きなんだな。
(天守閣を持ったお城が好きで、中世の山城や館、古代の朝鮮式山城には興味がない)
なんか上田城にポンと10億寄付した人が出てきたな。
マジで城に10億寄付する人が出るなら、文化財保護の森を作ってくれと言って、
田舎の山林を寄付するとか、整備する人が出てくれても良いと思うのだけどな。
どちらにしても名前が残るのなら同じだと思うのだけどな。 近世城郭っていくつくらい作られたんだろう?
西股氏は「多く見積もっても数千」とか言ってるけど、そんなにあったのかな? 一国一城令以降の近世城郭は政庁や威信財としての機能が注目されがちだけど、一国一城令までは中世城郭と同様に本城支城のネットワークを形成して攻撃及び防衛の軍事的拠点たることが要求されてたわけでしょ?
そう考えるとある程度の数と密度がないと、本城だけいくら堅固でも役に立たないだろうし。
>>562の疑問を言い換えると、一国一城令で廃城になった城郭ってどのくらいあったんだろうか?そしてそのうちどのくらいの割合が近世城郭と呼べるものだったんだろうか? 熊本城ってあんだけ石垣崩壊してるのに崩壊は石垣全体の1割程度でしかないんだな
まぁ1割でも崩落したら防御なんて出来ないのは分かるが規模でか過ぎね?
日本で一番石垣の量が多いのって熊本城なんかな? 今熊本城は着々と再興に向けて復旧に励んでるが
戦は上手いが築城の名手かと言えば疑問符が付く武田信玄が
城は人なりと言ってるのを見ると城ってのは廃れさせたら終わりなんだなと思うわ >>567
殆どの城は落城したり廃れたりするゴミ城なのに熊本城だけは
今も昔も変わらず存在する日本最強の城って事 今見える熊本城の遺構は、かなりの部分が細川氏によるものという話 2月22日は「忍者の日」 甲賀市職員が装束に身を包み勤務
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1550802149/
https://mainichi.jp/articles/20190221/k00/00m/040/026000c.amp
「ニンニンニン」の語呂合わせで「忍者の日」に制定されている2月22日をPRしようと、
滋賀県甲賀市役所で観光担当などの職員約30人が
黒や紺、赤などの忍者装束に身を包んで執務に当たっている。 https://ameblo.jp/team-nawabaring
>ある一つの概念に対してAとB、二つの異なる説明が存在したり、
>一つの現象に関して複数の説明があって、どちらが正しいとも決めきれない、
>などという状況が存在するのも、研究上の思考や言説が、
>地層のように折り重なって堆積しているゆえなのである。
>こうした思考方法は、専門的な訓練を受けないとなかなか身に付かい。
>一般の歴史マニアの皆さんは、当然のことながらほとんどの場合、
>そうした訓練は受けていない。
>そうすると、あるテーマについて存在する複数の言説を、
>同じ平面に並べて比較検討することになる。
>僕は、A説よりB説の方が説得力があると思うから支持する、というように。
西股先生の職人的な所は凄いと思うけど
今回のブログの記事
西股先生が学問的方法論を勘違いしていらっしゃる
先行研究を読むのは歴史学の基本の一つではあるけど
歴史学の研究では概念や説明自体は
価値中立的に相対的に同じ平面に並べて比較検討する必要がある
西股先生の言う読み解けるかテーマを語れるかも西股先生は色々勘違いしていたり
方法論を相対的にも見るという事をしてない為に西股先生は間違った事を言っておられる
西股先生否定というわけではなく
先生の本もわりと良いと思う方なんだけど
西股先生は物事を相対的に見るのが苦手な気がする >歴史学の研究では概念や説明自体は価値中立的に相対的に同じ平面に並べて比較検討する必要がある
ねぃよw
現存する事物は蓋然性の証左でしかないし、文書は書き手の主観によってのみ語られる。
歴史学の入門書には必ず書かれている常識。 ここではいろいろ言われてるけど学者としての態度は千田のほうがマトモ
縄張りの考察にしても複数の可能性を列挙した上で決して断言はしない
西股はまず自分のドグマがあってそれに強引に合わせようとするので
コイツの言説を鵜呑みにすると中世日本にすでに旧陸軍の「野戦築城教範」並みのマニュアルがあって
全国津々浦々の城郭がすべてそれにそって築城されていたかのように錯覚してしまう >>583
「村の城」(藤木久志)とか否定していたので「そうなのか」と納得してしまった 村落が自衛のために城を保有していた例は南北朝時代の「智土師郷上村結解状」にも見られるし
それこそ「城あがり」になると戦国時代に入ると「家わけ文書」や「フロイス日本史」など枚挙にいとまがなくなってくる
「村の城」の解釈では曲輪の多くは避難民の収容スペースなんだが西股の理屈だと城にはまず主郭があって全ての曲輪は
それを守るために戦術的に配置されてるってことになってるので否定してるわけ
史料が根拠となっている藤木に対して西股は自身の理屈だけが根拠で相当分が悪いのだがコイツは他にも「ソースは俺」的な部分が結構ある 「お城好き1万人がガチで投票!お城総選挙」
https://shirobito.jp/article/726
3月23日(土)18:30
なんと3時間30分のスペシャルです 真田幸村の六文銭 商標登録されていた
https://pleasure-bit.com/1122.html
商標登録されている家紋
・伊達家の『竹に雀』
・真田家の『六文銭』
・武田家の『武田菱』
・豊臣家の『五七の桐』
・明智家の『桔梗』
・小早川家の『三つ巴』
・島津家の『丸に十字』 彦根城を築城したのは誰になってるの?
天下普請の城で、
井伊直政は早く死んで、
2代目はいたのかいないのかわからなくて、
井伊直孝が家督を継いで・・・・ 毛利三兄弟の子孫が対談
http://news.rcc.jp/?i=2749#a
3兄弟の子孫たちが三原市に集まって対談しました。
毛利元敦さん、吉川重幹さん、小早川隆治さんの3人が顔をそろえました 戦国時代に栄えた石垣技法が海外進出
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1553479953/
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190325-00010000-kyt-l25
米国の職人も驚嘆の技術
全国の城の石垣に使われた石積みの伝統工法「穴太衆積み」が、
活動の場を海外に広げている。石をコンクリートなどで固定するのではなく、
積み上げるだけで高い耐久性を実現する技術が「驚くべき技だ」と評価されている。 >>580
今気付いたが『杉山城問題』の事かw
西俣さんは、複雑な縄張りから後北条氏の城と推測したが、出土物、トレンチ調査から山内上杉氏の頃の城と確定。
いつまでも、いつまでも、ホントに… > 在日の親は、子供を朝鮮幼稚園・朝鮮学校に入れたいっていうのが多いのよ。
> 日本人からすると、なんでだろうって思うけど、日本人の学校では、民族の誇りを持った教育がしてもらえないんだそうだ。
> よく分からないけど、済州島の流刑者の白丁が大阪に密入国して住み着いたじゃ誇りが持てないけど、
> 日本人に強制連行された被害者なら誇りが持てる、とかそういう事かな??
>
> 市原市の能満は昔から市街化調整区域で、新規の建物は造れないことになっている。
> そのため土地が安く、日本の法律を無視した在日が、次々と移り住んできた。
> そこで問題になったのが、朝鮮学校だ。なかなか許可が下りず、一番近くても千葉市にしかない。
> そこで在日居住区の能満内にあった、能満幼稚園・市原小・市原中・緑高の保育士や教師を、朝鮮化する事を考えた。
> 今では在日幼稚園の保育士は全て朝鮮帰化人で、在日の父兄からの絶大な支持を受けている。
> 遠くからでも、わざわざ在日幼稚園に入園させたいという在日の親は、後を絶たない。
> この在日幼稚園卒園者はほぼ朝鮮系の帰化人と在日だ。 【城の魅力】空前の城ブーム! 春にオススメ「日本の名城100」の愉しみ方
http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1554240904/
> 1 名前:靄々 ★[] 投稿日:2019/04/03(水) 06:35:04.53 ID:L/1Wy0ms9
>「城ブーム」「歴史ブーム」といわれて久しい。最近では「城ガール」という言葉も生まれ、城跡を訪れる女性たちの
>姿を見かける機会もぐっと増えた。
>『天空の城を行く』等の著作がある歴史学者の小和田泰経氏によると、「近年、全国各地の城跡入城者数は、
>常に1割近いペースで増加が続いている」という。 本屋に行ったら萩原さちこの本が大量に置いてあるな
城業界のヒロインだな 先日の読売新聞夕刊のコラムに「対馬の金田城(かねたのき)を探訪したとき深く感慨を覚えた」と
書いてあった
太宰府で貴族が梅の花の下で宴会をしてるとき、東国で防人として徴兵されて無理やり
対馬に連れてこられた人たちが国防の最前線の基地で働かされていたということに思うところが
あったらしい
667年築城だそうだが、石垣を積む技術ってこの時代に完成してるんじゃないのか?
国立だし、ものすごく金と労力と最先端技術が注ぎ込まれてる感じ
http://shigeseoul.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2007_0101_161226aa.jpg
http://img-cdn.jg.jugem.jp/95b/1963947/20120601_2402481.jpg 城ブームが過ぎたらヒロインの名前なんてみんな忘れるよ >>604
でも石垣の技術は半ばすたれてしまっていたのだよな。
再び石垣を組み始めるのは戦国に入ってからだし、 >>606
寺社では積んでたし、穴太衆とかはもともとそういう寺院の石垣を積むためのお抱え技能集団だから、古代の技術が連続している可能性はあるといえばある。
ただ、見た目の印象だけでいうとけっこう違いがあるよなあ。特に石の大きさとか。朝鮮式は日本式よりも石が小さく、また厳密な直線よりも地形等に合わせたのか微妙なうねりがあるように見える。
ちなみに韓国に残る百済時代の山城の石垣
https://i.imgur.com/1X1p2vQ.jpg
https://i.imgur.com/sbwjT6B.jpg >>605
お城ブーム(天守閣を伴う城限定)は何度でも来るさ。
しかしコンクリ復元でも天守閣を作ってくれと言って大金を寄付する人は
後を絶たないのに、京都も町家を移築するための金を出す金持ちは出てこないよな。
どうしても京都に町家を残せないのであれば、日光江戸村あたりにでも
移築すればいいのにと思うのだけどな。 古代山城の石垣は大半が布積だから地震には弱そう
むしろ古代山城の石垣の凄い点は加工技術にこそあると思ってる
穴太衆は野面だし、あの加工技術が一回ロストされたことが残念 元寇のとき博多で石を積んで石垣を築いていたし築こうと思えばいつでもできた
んだろうと思うんだが
寺院はやって武家がやらなかったというのは何か理由があるんだろう
「平安京はいらなかった」という本を読んだら、平安京の大路に面して邸宅の門を
作るのは大臣以外はダメだったらしく、室町初期、足利直義もダメだったらしい。
この手の禁忌が石垣に関してもあったんじゃないのか 中世の寺社は膨大な職能集団を身内に抱え込んで外部に出さないからね。
技術が囲い込まれてて普及しなかったんだよ。 京都の御土居も土を盛っただけだがこれも何か理由があるのかもしれない
豊臣政権が崩壊したら割とすぐに御土居の多くは破壊されたそうだが 石あるなら伏見城とか聚楽本体に使うしな
街中だから石あんまりないし 中国で築城に盛んに使われた版築と焼成レンガは、日本ではほとんど根付かなかったな。特に焼成レンガ。版築は寺院では使われたようだが。
平野部に大量の石材を搬入するよりレンガ焼いたほうが捗る面もあったんじゃないだろうか。 レンガは日干しレンガから始める必要があるが、雨の多い日本では
その時点で挫折する >>618
乾燥地帯ならともかく、高温多湿の日本なら持続的利用は可能だろう。
炭焼きだって製鉄だって大量の木材を消費してたはず。 >>619
いくら気候が湿潤でも木材の生長以上に消費が進んだら森林資源は維持できないよ >>619
たたら製鉄による大量の木材消費がハゲ山を産み、雨の度に河川が氾濫、そしてヤマタノオロチ伝説(斐伊川) だよ。 だから杉がたくさん植えられた
杉は生長が早いからな 湿気とか関係ないと思うよ
モンスーン地帯のインドもレンガ建築が主流だし
中国から塼の製造技術が伝わらなかったのがデカいと思う >>625
インドは6月から9月までのモンスーン期を除けば乾季だよ インドに限らずミャンマーやフィリピンとか南アジアはどこもレンガ造か石造が主でしょ
パガン、マンダレー、バンコクの王宮、タンロン遺跡、アンコールワットとか
熱帯地域だとすぐ木が腐るから木造だともたないと思う >>616
版築ってWikipediaを見たら「貴族の館の塀」「寺院や豪商の屋敷の塀」「土塀より大規模な土塁に
ついては戦国時代以降の城郭に版築が多く活用された。土で作る防塁としては最も急峻な角度を
形成することができた。」「地盤改良の手段としても古代などに多く用いられた」って書いてあるんだが 本人もそう言ってるし、だからみんな煉瓦の話ししてるんだけど 奈良時代の遺構からはレンガが発掘されてるそうだ
http://avantdoublier.blogspot.com/2010/11/blog-post_19.html
何で廃れたのだろう?
弩みたいに製造方法を秘匿してるうちに分らなくなりましたってオチかな 基本的に床材として使用されたようだから、石畳の代価という位置づけになる 由良要塞とか千代ヶ崎砲台とか明治に作られたレンガ造りの要塞が半世紀以上放置されっぱなしのまま
現存してるので地震に弱いとか無いと思う
床や城壁としても使われてないのだから大陸的な大規模な建築物を作る習慣がなくなったので
レンガの製造方法も同時に失伝したのだろう ヨーロッパや中東みたいに構造躯体として用いれば石でも煉瓦でも地震に弱いだろうが、石垣みたいに法面工として用いるなら煉瓦でもそんなに弱くないのじゃないか? 石垣の石材とレンガじゃ、大きさが違いすぎる
ぐり石に相当するものはどうするの?
排水はどうするの? >>633
所謂、敷き瓦だね
京都や奈良の寺院で時折見掛けるね セメントやモルタルがないし鉄筋もないから土圧、水圧に負ける 瀬戸内や伊豆から石材が採れたのだから
わざわざレンガを焼くような面倒くさいことはしない >>642
煉瓦を焼く方が手間がかからな。
石は場所が限られるから。 粘土さえあればどこでも作れるからな
八達嶺長城も山削って出来た土をそのまま焼成した突貫工法で出来たものだし 沖縄の首里城は琉球王国時代に築城されたもので、先の大戦によって破壊された。
もともとあった首里城は琉球王国時代に築城された城だから日本固有の城ではなかった。 隣国にいくら高度な石造やレンガの精製技術があったとしても
当時の日本にそれを受容するだけの能力がなかったら結局意味ないよね 中東から南アジア東南アジア中国に至るまでのアジア圏ってどこもレンガ文化なのに
その中で日本だけ受容できなかったってのは奇異に感じる 土留めという役割としてはレンガはあまり有効ではないでしょう
垂直に詰むし、排水も難しい、おまけに焼成時に木がいるので
さらなる土砂災害のリスクが増える でもウィアン・クム・カーム、アンコールトムとかフエやアユタヤといった日本以上に排水性を気をつけないと
いけない地域の都城ってどこもレンガ造りの城壁ですよね
あちらはお寺や民家ですらレンガを使うので莫大な木材が消費されたはずだけど
それによって植生が崩れて土砂崩れを起こしたかというとそういうこともない
環境とか関係なくてもっと別の要因が絡んでるんじゃないですかね 煉瓦至上主義の意味がわからん
石垣で江戸時代初期の築城ラッシュを乗り切った
なにが不満なのか? >>656
日本でも猿島・友ヶ島要塞とか明治期に作られた煉瓦造りの要塞がいくらでも現存してるでしょ
地震による被害も揺れそのものより地震火災のほうが大きいのだから木造だから地震に強いというわけではない 北関東の城とか、築城ラッシュを石造で乗り切れてないじゃん 日本史に煉瓦、煉瓦と無いものねだりをしても、欲求不満を募らせるだけだろう 半田の赤レンガ倉庫とか並みの天守よりも高いぞ
まぁ木造は基本的に高層建築には向かん 奴隷から人間にしてくれたアメリカに感謝しろ日チョンw
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l_j_j_j と) | | | / l_j_j_j と) | | | / l_j_j 平成6年の解体工事のあとに鉄骨入れた
知らん人多いけど東大寺大仏殿も明治時代に鉄骨入ってて最早純木造じゃないからな
明治5年の写真見ると屋根が弛んでいていつ崩れもおかしくない状況だった >>667
今では金を失うで『鉄』だが、
元々は金属の王様で『鐵』だからね そもそも石垣だって織豊期まではぼろぼろ崩れてたのを必至で算学で計算してようやく積めるようになったのにその時期にレンガ使って耐震性がどうなのっていうね
算学どころか数学が入ってきた明治以降と比べても意味ないよね なんだ
ちゃんと調べたら耐震性めちゃくちゃ低いみたいじゃん
最近のものは鉄筋ぶっ刺して、しかも外壁にしか使わないから日本でも通用するみたいだし
だから東南アジアとかは大変みたいだね
地震のたびに潰れるから
もちろん運良く残ることもあるみたいだけど
そもそも煉瓦なんてちっこいの一個でも頭に当たるだけで死ねるしなぁ
お陰で日本はマグニチュードの割には死者が少なめだし そうかそうかお前の頭の中ではパンテオンやコロセウムは地震が起きるたびに
崩れて立て直したことになってるんだな めちゃくちゃだな
マグニチュード6-8がガンガン起こってる日本とヨーロッパ比べてどないすんねん インド北東部地震 Mw6.9 死者107人
トルコ東部地震 Mw7.1 死者601人
イラン地震 Mw7.7 死者41人
アフガニスタン北部地震 Mw7.4 死者70人
阪神大震災 Mw6.9 死者6,400 イタリアだとフリウリ地震とイルピニア地震が阪神大震災とほぼ規模のMw ちなみに計測史上最高はチリ地震のMw9.5
死者数2231〜6000人 >>671
あれらは円形構造と別格の壁体の厚みで残った 日本は飛鳥以来五年に1回m6以上が起こり続けてるしな 城壁厨みたいなレンガ厨
史実としての日本史が気に入らない
反論したつもりがことごとく返り討ちにあう 後、ローマ建築の多くはローマン・コンクリートを使用している 日本建築は寺院を除いて円柱じゃなくて角柱だから構造的にはそりゃ脆いワナ 日本ではローマンコンクリートの代用になりそうな火山灰は見つからなかったのかねぇ。
土壁を多用しているのだから、火山灰も色々と試行錯誤してこねくり回していると
思うのだけどな。 勘違いされている方もいるようだが、
佐賀のトンバイ塀や瀬戸の窯垣のような事例もある。
煉瓦(センも含む)の技術が無かったのではなく、普及しなかった。
この点は重要かと思う。 ローマン・コンクリートの原料はシラスだから日本には腐るほどあるが
鹿児島県とか県の半分がシラス台地だし
というかローマでも5世紀を最後に途絶えて以降現代でも工法が復元できてないからな
いくら原料があっても作れるわけないんだよ NHK 日本最強の城スペシャル 「第3弾」
5月3日 午後9時00分〜 午後10時00分 そのゴミ番組、子供でも騙されないだろ
最強を選ぶなら1回で終わるはずだしな 二枚舌千田w
千田 「城に順位をつけて優劣を競う番組(「日本の城総選挙」)の主旨には賛同できない」
↓
千田が関わった書籍・番組
「日本の城ベストランキング」(晋遊社)
「一生に一度は行きたい日本の名城100選」(宝島社)
「日本の城最強スペシャル」(NHK)
つっじー@typhoon326
「NHKは千田先生が解説を務めるお城オタクが選ぶ日本の城郭ランキングを作って放送してください。
月山富田城や春日山城や岡城がランクインするようなランキングならみんな納得すると思います}
千田 「ありがとうございます。そういうランキングを私も見たいです!」
↑
結局、自分が番組(「日本の城総選挙」)に呼ばれなかったのが気にくわないだけw
主旨に賛同できない仕事は断れよw 一応最強に魅力的な城を番組がチョイスした中からゲストが一つだけ選ぶって形式だからな
凄いややこしいけど
多分スタッフが先走って名前つけて千田がいちゃもんつけたからだと思うけど
とりあえず総選挙の格式が低すぎたのは間違いない
千田は出演拒否した感じだったしな
どっちにせよ他人がどう評価しようが行きたい城に行くからどうでもいいけど 戦国時代の城跡にソメイヨシノが咲いている写真は不自然きまわりない そもそも庭園以外は木なんてほぼ生えてなかっただろうしな
不利にしかならない 城普請で石垣を積む、
石工が諸々指導するとして、実際に作業をするのは駆り出された農民ですか?
非戦時で暇な下級士族ですか? 時代と地域による
指導者は大将
積むのはそれ以外全員
そもそも陣城は兵隊のみで作った
ただ、兵隊は時代を遡るほど平時は農作業をやっている
城郭寺院は僧兵が積むし
農地の石垣はそこの農民が積む 桜はとにかく、松の木を生やしてたって伝承のある城はあるな 名城とか最強とかの基準がわからんな
どんな城でも状況次第で持ちこたえたり落ちたりするわけだし >>696
だったら比べられる基準に当てはめて比べるんじゃないの?
なんでわざわざ状況次第で考えちゃうの?
得手不得手っていうのなら分かるが >>697
テレビや雑誌のランキングに明確な定義も基準も無いと思うけどなあ
それに広かったり高かったりしたら最強ってわけでもないだろうし とにかくみんなはランキングが好き。
それだけのことだ。
乞食の世界にだってランキングがあるのだからなww
ちなみに共産主義運動だって、ランキングのつけあいで結局
殺し合いになって自滅したしww >>687
千田先生の発言の情報元がないとガセにしか見えない >>697が比べられる基準を提示してみてはどうだろうか。
そんなことが、できるならw 競馬だったらキタサンブラックとゴールドシップを比べるようなものだな
時代がちがうものを比べても意味がない >>707
それを意図的にに抜粋して再編集した、と 別に意図的に抜粋はされてないよ
ただ688でも書いたように687の最後の二行が完全に妄想ってだけ
ただ彼自身割とブレブレの事を言ってるのは事実だし、論調が変わることは多い
要は、時間と共に事実が明らかになっていくことで説が変わったと捉えるか、単に自分の利益のために論調を変えてると捉えるかは個々人の裁量に委ねられてる
それと、彼がツイッター芸人気質なのも事実 城の魅力を存分に伝えられる番組なら参道するんじゃないの 最近、西本願寺飛雲閣は、聚楽第ではなく、関白秀次切腹事件の後、
新関白となった4歳の秀頼のために新たに建てた京都新城(現・仙洞御所)の庭池の北岸にあった、天皇行幸御殿の移築の可能性が高いという説が出されたぬ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E6%96%B0%E5%9F%8E 肥前名護屋城は昔、古川博士の設計で会津若松城と唐津城を参考にして復元予定になっていたらしいな >>716
寛永四年、京都新城取り壊し開始
飛雲閣附属建物に寛永五年三月から寛永六年八月迄‥の墨書
飛雲閣は秀吉の遺構、徳川の寄進と伝わる 官邸サイドから文化庁に城は保存よりも活用に
舵を切るべきとのお達しが出たとか >>715
肥前名護屋城(1591)の棟梁も、大坂城(1583)大和郡山城(1585)聚楽第(1586)石垣山一夜城(1590)指月(1594)木幡山伏見城(1596)まで、
秀吉(秀長)居城天守をすべて手掛けたであろう中井正吉(1533-1609)だろうから、外壁仕上げを除き、慶長伏見大地震で望楼がズレ落ちた指月伏見城までは構造的はほぼ同じと思われる
よって第一層をだるま落しすれば聚楽第天守、第二層もだるま落しすれば石垣山一夜城天守になりそう >>715
最上階だけ真壁…それみて思い出したが、
関ヶ原後の家康(中井正清)による再建(木幡山)伏見城だが、屏風絵が3種類ある。
@全階真壁の堺市博物館本、A最上階のみ真壁&下四層が白漆喰塗籠の池田本、B全階白漆喰の出光美術館本、薮本本。
その理由として、白漆喰塗籠の普及&流行があると思うが、↓のように推理した。諸兄の御意見よろぴく。
@堺市博物館本…1600年、家康再建直後(全階真壁)
A池田本…1605年、新将軍・秀忠の御座所として改装(最上階のみ真壁、下四層白漆喰塗籠)
B出光・薮本…1614年、大坂冬の陣、将軍秀忠本陣として改装(全階白漆喰塗籠) >>722
所詮は絵画、という野暮天を置くとして
伏見城は慶長6年から10年まで毎年のように工事をしているから、
それに併せて改修した可能性はある
似た例として松の丸前の馬出があるし >>723
付き合ってくれて、おサンクスコ!
>伏見城は慶長6年から10年まで毎年のように工事をしているから、
江戸城も全国から大名がやってくるようになって、本丸御殿がどんどん手狭になり、
慶長天守が元和・寛永と代替わり毎に、北へ北へと追いやられていく
信長・秀吉・家康・秀忠・家光までは、天下取りの過程だから、
創建当初の想定を超えて全国から大小名が所領の安堵や陳情、隣国との領土争い仲裁などに殺到して、拡張増築を繰り返さねばならなかったと思われ
ついでに「権現様お好み」天守って具体的に何だと思う?
浜松城、慶長江戸城、駿府城、姫路城の例から類推するに、大天守に小天守3つで「天守(台所)曲輪」を形成する「環立式天守」に「(夏も雪が積もって見える金沢城みたいな)鉛瓦葺き屋根」だと思うんだが、どうかな?
家康の代まではまだ秀頼が健在だったから、いつ天下の風向きが変わるか判らず、万一の籠城戦に備えて、台所を備えた天守曲輪、溶かして鉄砲玉にできる鉛瓦が必要と思ってたからでゎ?と >>724
関ヶ原での勝利以降、豊臣五大老とはいえ事実上の天下人となった家康の天守を建てたのは棟梁・中井正清(秀吉が重用した中井正吉の息子)。
それらの編年は、
再建木幡山伏見城(1600)慶長二条城(1606)慶長江戸城(1607)駿府城(T1607U1608)名古屋城(1611)豊臣滅亡(1615)家康死去(1617)
家康が自らの居城として0から設計して建てたのは慶長江戸城と駿府城TUの3城。
近年の江戸始図や駿府城天守台基部の発掘調査から、前者は大天守+小天守2の連立式、後者は大天守を4棟の小天守が回の字に取り囲む特殊な環立式で、
いずれも天守曲輪を形成することがその目的と思われる。天守曲輪をそなえた姫路城も1609年で、慶長期の家康(娘婿)居城にのみ見られる特色である。
「鉛瓦」に関しては「江戸城の天守は五重。鉛瓦にて葺きたまう。富士山に並び、雪の嶺に聳え、夏も雪かと見えて面白し」で明らかだし、
駿府城に関しては、1層目は四方高欄、2〜3層目は土瓦、4〜6層目が白鑞(しろめ・鉛と錫の合金)瓦、最上階7層目のみ銅瓦と、合計3種類の瓦が使われていた。
その理由としては、溶かして鉄砲弾にするという金沢城(前田利家1580)のアイデアをヒントにしている可能性が高いが、慶長期に頻発した全国各地の大地震被害状況を踏まえた中井正清による、
家康居城天守の大型化に伴う、屋根瓦の軽量化(耐震性の向上)が目的だったのではないだろうか。 また「権現様お好み」の外壁仕上げだが、木幡山再建伏見城は、再建を急いだためか柱を露出した真壁で、
秀長の大和郡山城から移築した可能性が高い慶長二条城は真壁ながら、その上から白漆喰塗籠とした長押型出し白漆喰塗籠となっている。
おそらく移築に際し、京の都には白亜の天守が優雅と考えてのことだったと推察される。
https://twitter.com/fukuhen/status/445442674951077889/photo/1
この慶長二条城から家康の好みは(現在の皇居の櫓同様の)長押型押し出し白漆喰塗籠になったと思われ、続く慶長江戸城も同様と思われる。
ただ凍傷大権現絵巻に描かれた駿府城U期天守を見ると、元和・寛永江戸城同様、外壁の長押から下がおそらく銅板になっている。
https://castleinformation.blog.so-net.ne.jp/upload/detail/m_nagoya20559.jpg.html
その理由をあえて推察するに、後の寛永大坂城や名古屋城と異なる、駿府城の立地が考えられよう。
創建当初は長押型出し白漆喰塗籠だった外壁だった(↓東海道図屏風)が、
http://www.shizuoka-bunkazai.jp/blog/images/%E9%A7%BF%E5%BA%9C%E5%9F%8E%20%E6%8B%A1%E5%A4%A7%E5%86%99%E7%9C%9F.jpg
伊豆半島を震源とする半ば慢性化した小地震により細かいヒビが入り、そこに雨水が浸透してカビだらけとなったため、数年後の改装時、
金属で軽量化し耐震性を高めるという金属瓦(最上階の銅瓦)のアイディアを、外壁にも適用したためと思われる。
元和江戸城(1623)の本丸北西隅に移動&新築にあたり、連立式から単立式へ変更→超巨大化したため、棟梁中井家では、
(駿府城U期改装天守で実証済みの)金属瓦+外壁(共に銅)を採用していることからも、上記推理は裏付けられよう。
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) 江戸始図に連立式(環立式)の天守台(北に付け櫓と枡形虎口を挟んで多聞櫓、西に枡形虎口を挟んで小天守一棟)が描かれている慶長江戸城、
最近千田嘉博氏が新しい案を発表したけど、漏れは敢えて黒田家蔵の大坂夏の陣図の天守(白漆喰壁に修正したもの)を挙げたい
https://tabi-mag.jp/os0065/
漏れの巨根、じゃなくて根拠はこちらw
-大阪城図はじめ、京大阪図、冬の陣図とも全く異なる天守であること
-中井家本丸図に描かれた単立式+付け櫓ではなく、小天守が大天守を取り囲む連立式(環立式)であること
-姫路城、彦根城、駿府城など、慶長期の家康天守に共通して見られる最上階の唐破風(秀吉天守は三間四方)
-最上階高欄下に描かれた寅(家康を象徴)
これらから、家康に面従背腹の黒田長政が、家康の慶長江戸城を、落城した豊臣大坂城として(腹)黒く描かせるwことで、
徳川将軍もいつかこうなるだろう(こうしてやるw)と揶揄しているのを、解る人にだけ解るように描かせたと思われるw >>729
西ヶ谷氏も似たような説をだしてたな
黒田屏風の天守には宇和島、福井、加納等の徳川型天守の特徴が盛り込まれていると
しかし俺は冬の陣図、京大坂図の天守は秀吉時代で夏の陣図の天守は秀頼時代の天守だと思っている 慶長度江戸城(1607)は、同時期の姫路城(1609)に彦根城(1603)の最上階高欄(実際に出られる)を付したデザインが有力。すなわち、
妻側…D大屋根+C唐破風⌒+BA突破り大屋根△+@比翼千鳥△△
平側…D唐破風⌒+C千鳥破風△+B比翼千鳥△△+A大唐破風⌒+@無破風
また、駿府城U(1608)・名古屋城(1611)天守同様、1層と2層が同大であった可能性も高い。
ちなみに名古屋城の内部構造は、同面積の下2層に3層の望楼を載せた後期望楼型(半間ズレた柱筋に注目)ながら、外観は層塔型であるため、前期(なんちゃって)層塔型。
https://www.freeml.com/bl/10034699/360328/
それに4年先立つ慶長度江戸城天守が中井家指図(柱筋が完全に通る後期層塔型)であるとする故宮上重隆(竹林舎)の比定は完全に誤りである。
その残党と思しき「立て板の書き込み」は、その無理な比定から逆算して、層塔型の誕生を慶長度江戸城からとするネット喧伝を至る所で行っており、要注意である。
慶長度天守の翌年に再建された、最上階高欄や2層分を突き破る下層部大屋根を廃していない駿府城Uも、それを裏付ける。
おそらく、寛永度江戸城には比定できない津軽古図(江戸御天守図)を無理に実現した図面として、元和度天守に比定したためと思われる。
当然ながらその特異な破風配置は、江戸城天守を描いたどの天守にも一致せず、不採用となり実現しなかった計画図と断定できる。
https://castles.xsrv.jp/2013/02/05/%E5%9F%8E%E3%81%AE%E5%86%8D%E7%99%BA%E8%A6%8B%EF%BC%81%E5%85%88%E8%A1%8C%E6%B4%BE%E7%94%9F%E8%A8%98%E4%BA%8B%E5%AE%B6%E5%BA%B7%E3%81%AE%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%9F%8E%E5%A4%A9%E5%AE%88%E3%81%AEe/ 元和度江戸城(1623)は、元和と言う年号から秀忠(将軍在位1605-1623)を連想してしまいがちであるが、
実際は家光(将軍在位1623-1651)への代替わりのため、本丸御殿の拡張に伴い、本丸北西隅に新築したものと思われ、
棟梁は中井正清の子で、寛永度二条城(1624・廃城となった木幡山伏見城から移減築、行幸した後水尾天皇が登閣)や寛永大坂城(1626)も担当した中井正侶。
全階の柱筋が完全に一致した中井家指図が無理なく比定でき、家光の治世を描いた江戸図屏風・江戸名所図屏風・武州豊嶋郡江戸庄図の3点の天守の破風配置にも完全に一致する。
妻側…D大屋根+C無破風+B千鳥破風△A比翼千鳥△△+@千鳥破風△
平側…D大屋根+C無破風(出窓唐破風)+B無破風+A千鳥破風△+@比翼千鳥△△ >>731
>しかし俺は冬の陣図、京大坂図の天守は秀吉時代で夏の陣図の天守は秀頼時代の天守だと思っている
つまり、冬の陣(1614.11)と夏の陣(1615.5)の半年間に大急ぎで建て替えたってこと?
徳川秀忠が外堀(→内堀)を埋めてる最中に、そんなことしたら、大変なことになると思うんだけど… >>732
よくある加納城御三階を無視する人がする後期望楼型論 >>728
最上階の高欄から凄い雨漏りがしたので、大御所家康が名古屋城でもこうなのか?と不満を言ったので、名古屋城では最初から高欄を付けなかったらしい
>>>729 >734
大坂城図、京大坂図、冬の陣図は、絵師が大坂城の現物を見て描き、
夏の陣図はかなり後になって描かせているから、その時の天下人クラスの大天守と言えば、慶長江戸城と駿府城ぐらいしかなかったから、それを黒く描いたと思われ 愚子見記の慶長度江戸城天守と寛永度江戸城天守を比較すると、
1階平面は同じで、最上階は5尺小さい、棟高も5尺低い
ここまで一致していると基本構造が同じと見るべき >愚子見記の慶長度江戸城天守と寛永度江戸城天守を比較すると
>ここまで一致していると基本構造が同じと見るべき
愚かな子が見て記す...だから宮上氏に騙されて竹林舎なんかに入っちゃうんだよw
後出しジャンケンの安土城もダメ、夏の陣図を鵜呑みにした豊臣大坂城もダメ、駿府城もダメ、復元案全部ダメじゃん!w 名古屋城のはね出し架構には、いちゃもんつけるくせに何なんだこいつは
https://www.sankei.com/life/news/190514/lif1905140020-n2.html
弘前城では石垣修理の完了後に改めて、重要文化財の天守を天守台石垣の上に戻す。
ジオテキスタイル工法などで補強した上で、万が一の大地震に天守台石垣が耐えきれず崩壊したとしても、
その上に建つ天守は石垣から崩落しないようにしなくてはならない。
そこで天守台石垣の中に、天守の基礎になるくいを設置するなどの補強策も議論している。
これまでの城跡整備では、石垣の内部構造を破壊するので、石垣内にくいを打つのは許可されなかったが、
城跡の歴史的価値と安心・安全を高度に調和させるのが時代の要請である。 >>738
宮上氏は岐阜城でもやらかしているよ
山麓の四層天守→その後の発掘調査で4段の平屋御殿と判明
山頂の三層天守→池田氏時代の山頂天守(加納城へ「御三階」として移築)を信忠→信孝時代を飛ばしてそのまま信長時代に比定
→現在ではほとんどの学者が、記録から同時期の家臣の飛騨高山城や長尾城のように平屋御殿に望楼を載せたものと推定
もう滅茶苦茶… 駿府城天守を望楼型にした上で小天守付ける内藤晶もどうかと思うが
悪いけど城郭研究家は何れも傷だらけだよ >>742
駿府城も望楼型にしとかないと、津軽古図を元和江戸城に比定できんもんなwww >>743
三浦正幸は津軽家絵図を慶長度に設定していましたね >>732
あっ、そういうことか!
中井家指図はどう見ても寛永大坂城と同じ完成度の後期層塔型、内部構造は2重櫓+3重櫓の望楼型の名古屋城の前じゃないでしょ
>>738 >>741
岐阜城(加納城御三階を比定)、安土城、豊臣大坂城(夏の陣図そのまま)は全部ゴミ箱行きw
巻き返そうと
@寛永江戸城には比定できない津軽家古図を無理矢理元和江戸城に比定するため、
A中井家指図を、規模がほぼ同じなのを良い事に >>737 慶長江戸城に比定し、それを前提として
B続く駿府城も中井家指図をベースに後期層塔型に復元
慶長度江戸城(A後期層塔型の中井家指図を比定)→駿府城(B中井家指図をベースにした層塔型w)←元和度江戸城(@津軽古図を比定するため)
建築技術の発展段階を無視した強引な比定を重ねる故宮上重隆氏は城郭史研究の汚物と言っても差し支えないな… >>745
ホントだw 宮上案駿府城、中井家指図ベースだw
http://castles.chicappa.jp/2013sp/2013report
でも、こんだけ執拗にネット工作を続けてるのに誰も賛同者が現れない「立て板の書き込み」はおそらく故宮上重隆の息子さんなのだろうw 内藤晶の
前期望楼型→後期望楼型→前期層塔型→後期層塔型
進化説を信じる人か 信じるも何も、
名古屋城‥見た目は大人(層塔型)中身は子供(望楼型)の前期層塔型(少年コナンw)
中井家指図…見た目も大人(層塔型)中身も大人(層塔型)の後期層塔型(入側柱筋が完璧に一致した寛永大坂城とほぼ同じ完成度)。慶長度江戸城には比定できないよw 諦めなwww >>744
藤岡通夫氏は津軽家絵図は寛永度江戸城の計画図と推定していた
そもそも家康が生きていた時代の慶長度天守内に東照宮があるとかおかしいだろ 津軽家絵図は天守台の構造からして高さ10間に20間四方の慶長度の天守台と違う >>749
名古屋城が前期層塔型とする考えがそもそも間違い
あれは1・2階が同大の層塔型天守それだけの話
そして慶長度江戸城天守で完成して何か問題ある? 故・宮上重隆の息子「立て板の書き込み」...このスレが過疎ったのはこいつのせいだな >>745
宮上氏の復元案は、指図の比定や独自復元案、それらすべて間違いと言って良い
>>750
中井家指図は元和度天守の特徴に完全一致してるから、津軽家古図は採用されたなかった計画案で、
おそらく宮上氏は最上階に東照宮があったという記録から、実現した天守と短絡してしまったのだろう >>755
徳川大坂城天守と破風配置が同一の中井家指図が元和度江戸城天守なら、
同時期に江戸と大坂に同じ破風配置の天守がいたことになるのだが 常々思うけど徳川幕府が天守の高さや新規改修を規制したのは何故だろう
むしろ煽って財政圧迫させてやればいいじゃんと思う 威信財という観点から見るべき
豪奢や贅沢が身分の高さと連動する劇場国家なんだよ。 552 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2019/02/12(火) 00:43:27.15
一国一城令は分らんでもないけど改修や天守の階層制限は意味わからない
城に金使わせて疲弊させることもできたのに 御公儀江戸城天主再建を致さざる所に諸侯此れに遠慮の気配無きと申すか
徒らに御天主階層を誇るは戦国往時の機運にて天下大乱を画さんとするにあらずや
屹度厳しく沙汰さるべし
さいつよのしょうぐん 戦国時代に天守の高さを競う風習とかあったか
むしろ糞デカい天守とか戦時にあっては邪魔だろう 戦時は高いほど遠くまで見渡せるし、デカイと狙撃範囲が増える
戦時じゃない時はいかに金を持ってるかのアピールになるから、その藩に仕えれば安心だと思わせることができる
そもそも江戸城よりデカイものを作れば江戸幕府なんて目じゃねえよ、俺の方が金持ってるよってことを民衆に示してることになる
だからこそ諸大名に天下普請を課して名古屋城や大坂城を作らせて浪費させた
いかに堅固な城を作ってるかを理解させ、反乱する気力を削ぐ目的もあった
同時にあんな凄い城を作れる江戸幕府すげーと民衆に知らしめる効果もあった 参勤交代も大名を疲弊させるためなどと言われるが、それは後付けの理由だろう
徳川への忠誠を示すため大名が自主的に江戸詰めを始めたものなのだから
それが競争となってどこも参勤してくるようになった
幕府としても忠誠はしめたもの
事細かに参勤のルールを定めるようになった
金がかかるからとそれを自主的にやめてしまう大名は謀反への第一歩として捨て置けない >>763
物見目的なら火の見櫓で充分だし砲撃戦になるとデカいだけの建物とか反って的になるだけだけどね
同時代の西欧のイタリア式築城だとすでに城塔もないし城壁も限りなく低くして被弾面積を少なくしてる
天守に軍事的意義とかそもそもなくて権力の誇示意外の意味はないでしょ 山城から平城になったため、距離が減った物見の効果を補う目的もあったかと 高ければ高いほど、遠くを見渡せるし
天守は火の見櫓より遥かに頑丈
その辺を天秤にかけて建てるか否かを決めるのでしょう 日本は西洋みたいに大砲が発達してなかったから
壁厚くすればなんとかなったのでは 後は大砲の射程に入らない位置に天守を作るとか
大砲の登場で、川を背景にした後ろ堅固の城は時代遅れになった 赤穂城とかもいいんじゃないかな
横矢が発達して五稜郭みたいになってきている 天守を作らないまま放置してる城とかあるけど
籠城戦に不利になるからとあえて作らなかったのもあるだろうな
熊本城天守も西南の役の際にわざと燃やしてるし 天守台だけは作るというのは、どういう心理なのだろう
磐座のような巨石信仰に通じるものかな >>767
天守がよく建てられた慶長期まではそもそもまともに大砲がなかった
戊辰戦争で天守がマトにされまくったのも有名な話
何言ってるかよくわからん
天守台を戦時に建てるのが大変だからね
建物だけなら最悪簡易な櫓を木材で組むだけでもいい
金銭問題とか幕府からの圧力で中止になったのも多々あるだろうし 家康は関ヶ原合戦前後で大砲ヤバイと感じ始めた感がある
アダムス辺りから聞いたんだろうな >>779
『名将言行録』には、そういう話がいくつか載ってる。
唐入りや関ヶ原の戦訓だろう
日本は馬車が未発達だから、マンパワーでの大砲を運んだのだろうが…大変だね こないだの戦争でもインパールやらニューギニアやら山越えが必要だと、山砲、歩兵砲を分解して車輪から何から担いだり馬の背に載せたりで運んだからなぁ その昔、徴兵で砲兵をやらされた教師が「重たかった、重たかった」ばかり言っていた 近世日本の大砲を運搬する際には、何本も綱を渡してそこに棒を通して
担いで運んでいたらしい >>783
大砲といっても大半は個人で打てるような大きな鉄砲みたいなものだったらしいな
勢楼櫓から打てるようだったし どうせズラリと石垣工事をやるのだったら、ついでに天守台くらい作らせてくれよ
台だけだったら御公儀も認めてくれてるんだろ
これから先、天守閣だって認めてくれるような事態になるやも知れないしさぁ
先の事はわからないんだしさぁ 「先っぽだけでいいから、先っぽだけだから」って感じ? >>777
篠山の巨大天守台は大坂に睨みを効かせるためだった気がする
甲州流でありながら赤穂の天守台は防備の役に立たない位置に造られているらしい 今週の週刊出顎124号に新発見の寛永度江戸城天守の計画図が紹介されていた。
天守一階床下にびっしり描かれた、地階の採光窓が圧巻。
この図を寛永度とした根拠は亀甲積みの天守台石垣かもしれないが、
大坂冬の陣図に亀甲積み石垣が描かれているので、
この図は寛永度以前の、もしかしたら実際に建てられた元和度天守の絵図かもしれない。 >>791
御殿の南にあるので影ができるらしいね。 >>792
御殿の南に天守台と云えば、福岡城。
以前は、何故わざわざ光を遮るのか?と訝しく思っていたが、あれは大砲対策かもね。
南側の台地に大砲を据えられても、天守台が障壁として、御殿を守れる 徳川の天守は北西がデフォルト
例外は南西の寛永度二条城天守位か
あれは御幸御殿からの眺めを最重要視したのかな 先人たちの底力 知恵泉「徳川三代の天守(前編)創業者 家康のシンボル」[再]
2019年6月18日(火) 12時00分〜12時45分 Eテレ
先人たちの底力 知恵泉「徳川三代の天守(後編)後継者秀忠・家光のシンボル」
2019年6月18日(火) 22時00分〜22時45分 Eテレ
徳川家康・秀忠・家光の3代将軍は、代替わりの度に江戸城天守を建て替えた。
それぞれの将軍が天守にこめた思いを2回シリーズで探る。 質問です
ここに写ってるお城と山はいったい何でしょうか?
分析をお願いします
https://i.imgur.com/8kt9Hrl.png >>801
ですよね
ニュース速報板で御嶽山だと言われてておかしいなと
NHK番組、江戸特集の写真でした
ありがとうございます 千田が本性を現し始めたな
やっぱあいつは反安倍の左巻きだ 千田のエレベーターへの固執は異常だな
車椅子経験者の意見さえ否定してやがる
エレベーター業者や障害者支援団体との癒着が疑われるレベル 車椅子経験者なだけで、車椅子を常時使ってる人でも無いし、車椅子が5cmの段差でさえ恐怖に感じるってのは常識
千田の指摘は大げさすぎるけど的を得てるし、車椅子経験者君の発言がズレてるのも事実 ゆうべのG20夕食会で安倍総理のあいさつ
大阪のシンボルである大阪城は天守閣の復元がなされました
「しかし、ひとつだけ大きなミスを犯してしまいました
エレベーターまでつけてしまいました」
ギャグを言おうとしたんだろうが、面白くもないうえに障碍者をdisる内容になってしまっている
ストップをかける側近は居なかったのか >>807
むしろああいうのは側近が書いたんだろうね
大阪では有名な自虐ネタだから
でもそれをバリアフリーがスタンダードな他国に言っても困惑されるのは当たり前
そして社会問題にまでなってるという >>807
日本史と関係ねえし、得意げに書いてるアホくささに気づこうな 「どこそこの城へ行く」という書き込みに、
内容関係なしに「旅行版いけ!」と一々噛み付く奴はキチガイだと思うけど、
大阪城のコンクリネタとエレベーターネタは定期的に書き込まないと気のすまないキチガイが常駐しているのは事実。
勝手にナガレガーとか言われても… 大阪城内、石の階段が歩きにくいから階段の一部を破壊して鉄板製の桟道を作っとるわ
ここを山岳用?自転車で走ってくるやつがいる 千田がいくら史跡を破壊しないと強弁したところで
エレベーターやスロープは遺構も歴史的景観も破壊する 千田は自分の肩書きと立場を政治的に悪用してるだけだな
名古屋では河村市長を引きずり降ろし、
国政では安倍総理を引きずり降ろしたいのだろう
バックにいるのは立憲民主党か共産党か公明党知らんが 頭おかしいのは盲目千田信者の方だよw
教え子か何かか? しかし、全世界の国家元首が集合して記念撮影をする場所が大阪城とは・・・・
豊臣秀吉が凄すぎる・・・・
https://i.imgur.com/S3ErmCJ.jpg 今度関東でサミットやるなら千葉城や私市城天守のそばでやってくれ 江戸城の天守と本丸御殿を再建して、そこでサミットやったらいいんだよ
壮観だよ 本当は家の話をしているだけなんだけど、
浄土真宗〜何やらみたいな話でしょ 法隆寺の五重塔にエレベーターというのは要らぬことの例になるが、鉄筋コンクリートの大阪城にエレベーターは何もそういう例にはならないってことだ 安倍は鉄筋コンクリートを知らなかったんじゃないか? 総理がイジッたのは、大阪城天主閣にたどり着くまでの石垣部分を登るために後付けしたエレベーター塔の事を言っているんだろう
でも、あの石垣は徳川築造の遺跡、文化財だから石を取っ払って穴を開けたりできないわけだ
そういう制限の中で致し方なくぶざまな姿になっているわけだが あのガラス張りのエレベーターは外観を木目調にするとか、もう少し景観に配慮してほしかったな
バリアフリーはある程度は必要だとは思うが、あのエレベーターはいかにもバリアフリーしていますをアピールしているみたいで… あの場所は当初は渡り廊下を復元する計画もあったらしい
それで松岡利郎氏に復元図の作成依頼がきて図を書いたが、
結局はあのエレベーターになったと そう言えば、戦前の大阪城天守閣再建で現状の石垣等は徳川の手によるもので、
豊臣のものでは無いという認識はどのレベルまであったのだろう
流石に学術レベルでは、あれが豊臣の縄張りでないという認識はあったよね? >>829
戦前はあの縄張りと石垣を豊臣の物と思っていた
地下から石垣が出たときは豊臣の石垣じゃなくて石山本願寺の石垣だと思ったらしい
戦前の復興天守を設計した古河博士は石垣の積み方から豊臣石垣説に疑問を感じていたみたいだが いや、少し文献を調べれば江戸時代に大規模な天下普請を行った記録なんて
戦前でもいくらでも出るはずでしょう?
正直信じがたいのだが 戦後になっても一般人の認識は太閤さんのお城だったよ
戦後も二、三十年経って、段々と発掘石垣のことが本に書かれるようになり、テレビでも取り上げるようになった >>832
いや一般層なら分かる
学術レベルではどうだったかという話で その場合、戦前の歴史学者はロクに史料も調べない連中ということになるのだが… 大坂城は豊臣築城との自明の歴史認識なのに、何を調べようと言うのか 後世の研究成果を知っている21世紀未来人間か知らないが、後知恵で昔の人間を責めないでくれ、頼む
徳川築城を疑う視点を持たなかったのだ
許してくれ 『徳川実紀』や『譜牒余録』レベルでも、縄張や石垣から築き直す大修築なのは分かると思うのだが 「日本は文化財などの復元にも大きな力を持っていることをアピールしたかった」
鉄筋コンクリート技術の高さをアピール 材質、工法ともに昔通りのものにすることを復元というんだが 姫路城は昭和の大修理で観光客のために下り用の階段を付け足したと姫路城の公式サイトでみたけど、国宝でもそこら辺けっこう緩いんだな >>794
可能な限り御所から遠くしたんじゃなかったかな 本丸図が発見されるまでは縄張りは同じで石垣だけ積みなおしたと考えられていたみたいだね
https://i.imgur.com/CcKptmY.jpg 戦前の徳川↓豊臣↑の風潮に、研究者でも影響されるんじゃないの? 名古屋城木造天守にエレベーター設置を求める会みたいなのがあほに今回の発言について
公開質問状を送るようだ 大阪城って割と最近まで無造作に石垣が転がっていた箇所があったけど、
そういうのは整備されて撤去または移転させた? >>841
入場者を捌ききれなくなって城外まで大行列→一般道の交通渋滞&ごみ散乱&トイレなど大混乱
スムーズに入場者(そうめん)を流すためには、もう綺麗ごと言ってられないんジャマイカ?
名古屋城も江戸城も結局、付櫓風wエレベーターを設置せざるを得なくなると思われ >>843
確かに図面が発見されていない二の丸は、現在でも復元図は徳川期に準拠している
本来ならもっとショボいはずなのに、図面のある本丸も復元図だと石垣の高さが強調
されているフシがある >>841
そもそも当時の天守に登る手段は梯子で
敵が登ってこれないように登り降りした後は引き抜いてしまうからな
姫路城が手すり付きの階段付けてる時点で当時とは違っている >>851
姫路城で外国人観光客相手にそんなことしたらパニックw 豊臣大坂城の復元図、石垣の高さだけでなくその傾斜も、名護屋城の遺構とか見るに
もっと弛くダラッとした感じだと思う
戦前もそうだが、戦後も「豊臣大坂城は徳川大坂城よりも立派で豪華」という認識は根強い >>853
ピサの斜塔は傾いてるだろ、一緒にすんな、バ〜カ! 大阪大東市の飯盛城の石垣が信長が石垣の城をつくりはじめるより前のものと 伊予大洲城は木造復元するのに、10年だか20年だか関係のお役所に陳情しまくったとの
苦労話を自慢げにしていたが、名古屋城は変なのに絡まれたなぁww NHKの大坂冬の陣。
豊臣側が描かせたから未完だというのは分かる話だけど、
徳川側が描かせたという千田の主張は全く分からんかった。
秀頼淀君っぽい人物が描かれているが、 秀忠は陣が描かれているだけで当人は描かれない。家康の陣は端っこだけ。
→だから発注者は秀忠。
家康。秀忠の前に譜代が描かれていて、大坂城を取り巻いているのは外様。
→幕藩体制を図式化している。だから描かせたのは秀忠。 かわむらくんこんなとこに書き込んでる場合じゃないでしょ 安土城のテラスとか江戸始図の解釈とか、千田の妄説を真に受ける方がバカ >>871
私怨まみれの病気だからそっとしておいてやって 高橋儀平(東洋大学名誉教授)
「歴史的な図面がしっかり残っている、それをコピーする感じで作る。
でも現実的にはあり得ないわけですね。
色んな機械も作る、耐震化の問題もある、防災の問題もある。
そういう事を含めると史実に忠実な城というのは再現できない。
今、次の文化をどう作るかと考えて議論するのは当然ですね。」
乙武洋匡
「これ、史実に忠実にと言っている方々はトイレなんかもくみ取り式にするんですか?
水道設備もね、それを水洗にするなら
“あれ? 忠実な復元じゃないんだっけ?”っていう話になりますよ」 >>875
乙武さんの言葉は、ただの屁理屈で、違和感しかないな
各地の木造復元天守は、そんな事にはなっていないし、そんな話もしていない >>877
文化財である現存石垣の上には復元天守しか建てられない(国際条約による)
だから今はコンクリート天守が許可されない
文化財の復元しかできないってこと >>876
アスペか?
乙武が「水洗便所作るな」という趣旨で発言してるように見えるなら、医者行ったほうがいいぞ >>878
なんて条約? ざっとググっても出てこない。
あと、障害者権利条約も条約なんだが。 誰も言っていないことなのに
誰かが言っていると思い込む
これが所謂アスペ? ヴェネツィア憲章(記念建造物および遺跡の保全と修復のための国際憲章)
1964年採択
歴史的建造物を修復する場合は建設当初の部材を尊重すること、
損なわれた箇所を補足する場合は推測ではなく科学的な根拠のある復原とすること、
当初からの部材と修復された部分が明確に区別できるようにすることなど、
保存・修復にあたっての基本的な理念が記述されている。
これ以前は1931年のアテネ憲章であった
これは復元したものの外観が同じなら使う材料に制限はなかった
だから日本のお城の場合、外観復元なら鉄筋コンクリートでも良かった
例えば熊本城のコンクリート天守は1960年のもの
新憲章が発効する数年前だった >>879
誤解されてるようだが…
まず、乙武さんは例えで「水洗便所でもいいよね」と言ってるのだろうが、この論法はヤクザの使う手で、社会人として公式の場では相応しくない。
この論法であれば、エレベータ、冷暖房、通路の幅など何にでもケチが付けられる。
それでは、戦後各地に建てられた展望台付き博物館を、また作るのですか?
そして、彼は、二条陣屋等、江戸時代の便所を復元した事例を知らないのでしょう
勉強せずに主張するから、こう云う例え話になる >>883
これってユネスコが招集した建築家技術者会議のまとめた倫理規範だよね。
国連総会が承認して日本の国会が批准した障害者権利条約とどちらが重いの? トーシロの乙武のことをこのスレで話してどうなるんだ
ここの住民が真面目にとりあうレベルにすら達してないでしょ
根本的に言いたいことは賛成だけど、言ってる内容はメチャクチャだから一笑に付して終わり >>885
憲章へは日本国が署名して参加している(条約締結国)
それで姫路城が世界遺産になれたりしている
遺跡見学の障碍者がどういう保護を受けるか受けないかなんてのはその権利条約の条文をお勉強してみないとわからないだろう 城内というのは天守閣内の意味で使っているのか
天守閣に厠などない
(姫路城の天守だけは殿様専用の厠があるが
御城に勤める侍たちのためには共同便所があったが、汚くて高下駄でも履かないと立ち入るのが困難な状態
そこらで立小便する不届き者があった
昔は共同便所は汚かった
日本の公衆トイレがきれいになってきたのは極く極く最近のこと 江戸時代の御殿にある便所の数を鑑みると、西洋の便所が殆ど無い宮殿より
遥かに上等な代物だけどね 西洋の城に便所がないとかどこから広がった都市伝説だろうな
ガイヤール城みたいにトイレ穴から侵入されて落城した城もあるのに >>875
乙武は復元建築の中で用が足せるとでも思ってるんだろうか
御殿でも厠を復元するなら当時のまま復元して使用不可にするのは当たり前
実際に見学者が使用するトイレは別の場所に作るに決まってるだろ 無学な人間いじめてどないすんねん
天守閣とか言ってる奴もいるし
突然スレのレベル下がりすぎだろ >>895
何故かそこを無視してイチャモンつける輩がやたら多いな
城や大名の屋敷どころか庶民の家も現存でも復元でも便所なんか外から見られるようにしているだけで
用足は離れた場所のトイレでするものになってるのが普通などに
現物には行ったこともないのに、言いがかりつけてるだけなのが丸わかり >>900
公金を支出する公共の施設なんだけど?お城マニアの私物じゃねーんだぞ?
言いがかりだと思うなら、お城マニアの募金で作れば? 石垣から何から新しく積んだナンチャッテ模擬天守でもない限り、石垣が文化財だからトイレは作りにくいだろう
便槽はどこに作って、その中身をどこから汲みだすのか
簡単には行かない、石垣に手を付けちゃ駄目なんだぞ ホントにボットン作ってやればいいじゃない
使用禁止にして >>889
姫路城天守の地下には便器が3つ並んで現存しており殿様専用ではない
あと非公開だが一階にも厠がある
どれも文化財のため使用禁止 姫路城大天守地階には厠のほかに流し台もあるから戦時の使用が想定されていたのだろう
便槽は甕を据え付けているだけだからすぐ一杯になりそう‥
一階の厠が殿様用なんだろうな 最近姫路城にしか便器がないと思ってる浅学と千田アンチがメチャクチャに荒らしてるな 籠城戦のときはウンコは石落としから敵にぶつければいいんだろ?
一糞二鳥じゃん
西洋の城だと、城壁の石落としにトイレ設置してるところあるよな。石の表面が尻の形にすべすべになってて「あ、これ本当にトイレとして使ってたんだ」とか思ったり。 >>909
姫路城天守一階(というか一階の階段下)の厠も便器が3つあり殿様専用ではない
そもそも殿様専用厠など優雅に暮らしているときの本丸御殿にしかなく
戦にでもなれば殿様といえども共同便所や野糞はやむを得ないぞ
天守の最上階からトイレのためにいちいち梯子で下まで降りてくるのも危険なので
それこそ大甕に貯めて石落としから流す予定だったのだろう そもそも御殿の便所が使えず、櫓や天守の便所しか使えない状況なんて、
末期の末期だから糞する前に死ぬだろう 実際には姫路城天守の台所や流し台、厠は使われた形跡が全くない
今ある天守は江戸時代初期に池田輝政が建てたものだが
姫路城は一度も敵に攻め込まれていないため
天守には普段誰も人がいなかったためと思われる 武具改め役の侍が、天守の厠を使っちゃったよなんて言ったら、学校のトイレで糞したみたいにヤイノヤイノと言われてしまうだろうな >>607
近江は渡来系を集中的に移住させた土地で、穴太衆も百済から渡来した石工の末裔らしいけど、そういうのも関係あんのかな?
朝鮮半島の古い寺に穴太積みと似たような積みかたの石垣があるらしいし、半島では廃れたけど、日本ではその後も独自に進化していったのかも
https://www.google.com/amp/s/gamp.ameblo.jp/sangzae/entry-12302463665.html いつもの国士様だろ
朝鮮スゴイと言っておかないと城壁城壁と騒ぎ出すぞ >>918
聞くまでもなく今も穴太積みをやっている粟田建設関連のサイトに全部書いてあるだろうに
https://www.homes.co.jp/cont/press/reform/reform_00542/
まとめると
穴太衆のルーツは百済で、「穴太古墳群」という群集墳の、大陸由来とみられる横穴式石室の石積みは、穴太衆の野面積に石の配置がそっくり
その後、最澄が比叡山に天台宗を開山した際に穴太の力を必要としたのだが、ここで大陸から伝えられた技術は、より日本の風土に合った、高度なものへと進化していった
そんだけ 『石工物語』だと、古墳造営後も穴太の地で様々な石造物に携わって、その後渡来系氏族で同じく近江出身の最澄の要請で比叡山お抱えになったとあるな
まあ、ルーツがどこであれ戦国末期に石垣造りで活躍するまでに大和民族と混血しまくってるから関係ないだろうけど 切腹はよ
ところで野面積と打ち込み接ぎってだいぶ線引きが曖昧にされてるよね
本来、ほぼそのまま積んでいくのが野面積のはずだけど、割と全辺打ち欠いた石を積んでても「野面積」と案内板にあったりして、首をかしげることが多い
大きさがバラバラだったり、間詰石が多くても加工結構されてたら打ち込みだろう、と 後の世の人間が勝手に三種類にわけただけだからしかたない 輪郭式とか梯郭式等の縄張りも江戸時代の軍学者が分けたんじゃなかったか 姫路城天守が米軍の空襲で燃えなかったって、わざと狙いを外してくれたんやろな
普通、爆弾があたるし レーダーの性能が悪くて姫路城のあたりは水面と誤認したようだ カモフラもしたし、消火もしたし、不発弾だったし、しかもそれを死ぬ覚悟で移動させたしな >>918
日本の独自進化というと石垣の勾配なんてそうだよね
半島の城壁はみな上りにくいようにほぼ垂直 燃えていたら‥
昭和30年、市民の熱意により鉄筋コンクリートで見事に白鷺城外観を復元 鉄筋コンクリートで復元しても、オリジナルとはちょっと違うよな? 中はもちろん外観も 岸和田なんか五層だったのに三層だから昭和なんかとりあえず天主あればってノリ ほんと昭和の天守閣ブーム(今でも続いているのかもしれない)
はなんなんだろうな。
最近でこそ、明治維新を多少は見直すと言っているのだが、
廃仏毀釈でぶっ壊された神社仏閣を復元するとか、
神仏習合説を復活させるとかの活動をしている人は
ほとんどいないしな。
神仏習合説なんか、近代社会にも十分適合すると思うのだけどな。
何せ良いとこ取りの宗教理論だからな。
仏教のみならず、キリスト教でも、量子力学でも、マルクス教でも、イスラムや
儒教でもいいところは片っ端から習合してしまえばいいのだしな。
なぜか近代化(明治維新)を主導したのは、カルトに近い水戸学の一派だからな。 宗教的な見地からすれば、今の大方の日本人は無宗教だからじゃないの。
現在、文化財としての復元は寺社も多いけど、坊主が檀家維持に四苦八苦してる現況で
一端絶えたものを宗教的に復活させるってのはないだろうな。
その点、お城(天守)は無宗教のオラが町のランドマークだからね。 浅草寺は再建されたし、そういう地域のランドマークと内外に認識されるのが重要
後は寺社だと政教分離の原則から自治体が動くのは微妙になる バブル期の10億円を無理やり使ったのもあるし
最近は木造でやってるけど
たかし君がトンチンカンなことを言ってるのも金のなる木としてしか見てないんだろうな そういや今ビッグコミックで江戸城天守を再建させる土建屋が主人公の漫画やってるな 復元云々よりもまずは崩壊寸前の石垣の調査と耐震性のない天守の解体を早くしろ
いつまで観光客を死に晒してるんだ 参院選で維新の松沢前神奈川県知事が
「江戸城再建」を公約して当選したけど、
天守ぐらい再建できるんだろうか 御所を見下ろせるというセキュリティの観点と
現在の文化財保護行政の方針を考えあわせると
江戸城天守の再建は1ミリも可能性はない >>952
天皇陛下を京都に移したら、
おそらく江戸城天守閣は木造で復元されると思う。 江戸城が皇居じゃなくなっても
今の天守台に天守が建ったことはない=復元ではなく新造
という事実は変えようがない
文化庁がうんと言うわけないだろ 文化庁が方針変えれば可能
実際、昔はユルユルだったからこそ
各地に捏造天守が乱立したわけだ 関東大震災で焼失したままの下梅林坂門、和田蔵門の復元が先だな。 >>958
ヴェネツィア憲章(1964採択)
歴史的建造物の保存・修築に関わるユネスコの憲章
第9条 歴史的建造物を修復する場合は建設当初の部材を尊重すること
(木造建造物なら木造で)
条約、取り極め、協定、憲章、規約‥等は名称は様々であるが実質的に条約と同意義
国際法としての効力を有する >>954
国会と国会議員、外国大使館も京都に移さないと
天皇の国事行為ってほぼ東京であるんだよ 皇居の庭って天皇皇后皇族方が散歩されてるし
宮中晩さん会で各国のVIPが皇居に乗り入れるのが丸見えになるのに
そんなところに一般人を入れないだろ >>962
神主の親分に戻れば良いだけだ。
外交なんて武家の将軍の後継者の内閣総理大臣に任せたら良い。
で内閣総理大臣は武家の将軍の後継者だから、自衛隊の総司令官でもあるわけだ。
だから天皇を京都に移した後には天守閣を復元するのは理にかなっている。
神主の親分の天皇には豪勢な天守閣や物々しい高石垣や何重の堀は似合わない。
土塀ひとつで御所に転座するのがふさわしい。 >>953
そう、御所を見下ろすのが問題なら御所に近い西側にあるビルは軒並み解体させないといけなくなる 実際見下ろせて丸見えなビルあるしな
とりあえず名古屋がまともに再建されなきゃ、それ以上にデカイ江戸城を再建する気にすらならんだろ
まだまだ数十年後の話 名古屋は観光地がなく空港に降り立った客は京都奈良へ行ってしまう
少しでも名古屋に滞在して金を落としてもらう目玉として観光用に名古屋城を再建
別に東京は江戸城再建しなくても観光客に困ってない 本物のお城である犬山城は家老の城だという
この際、所有者を大名に任命して格上げしてはどうか
あと、岐阜の金津園に加納城というソープを作れば感じが出る 城の管理が面倒だから今はほとんど自治体か財団所有だろ
末裔が個人で持ってて自分で修理費出してるところがあるのか 大名の城や屋敷は公的なものとして、明治には公有地、公有物件とされた
犬山城は公有となった後、愛知県から旧城主成瀬家へ条件付き無償譲渡された
(条件は修築を続けること)
管理大変なので平成16年に財団法人を設立して成瀬家が理事長となったので今は財団所有 豊前中津城は公有地である城跡へ昭和39年に旧城主奥平氏が中心となってコンクリートの模擬天守を建造
奥平氏が経営する会社が所有して入場料を取っていたが赤字となり2010年に別の観光会社に天守は売却された 50年も昔、江州彦根は旧城主井伊氏が市長となって支配していた 障害者の肩持って木造復元名古屋城に
エレベーター付けさせようとしている大村知事が失脚しそうで嬉しい 名古屋城復元を邪魔してるのが反日左翼ばっかw
宮田亮平文化庁長官、大村秀章愛知県知事、千田嘉博奈良大学教授 名古屋城の調査委員すら反対してるのに思想もクソもないよね
そもそも国自体が反対してるんだから無理に作ろうとする方が反日
今の与党は右派だから反対するなら左派ってことにもなるし
そもそも特別史跡の石垣を省みないとか誰が納得できるんだ 金箔瓦=豊臣というのも黄金太閤のイメージ
実際は家康の方が黄金将軍というべき存在 細川忠利が熊本に転封になり
熊本城入りしたときの感想とか、残ってないのかな? 大封に名城とはいえ、こんな地方では、いざというときに攻め上ることができぬ >>988
土木事業で懐が潤った庶民の清正贔屓、というよりは清正信仰にめちゃくちゃ気を使ってるぞ、初入国する際のわざとらしい西大手門やら天守最上階での言動な
後は自分で調べてくれ 細川入封当時の熊本城は放置されて荒れ果てており、即座に幕府へ大規模な修繕工事を申請した >>992
地震やら火災、それに牛方馬方騒動が、原因な 必死で修復したものの、天下太平世代から「こんな不便な城で生活が出来るかい(怒」と 田園地帯にたたずむ築7年の城すでに「落城寸前」
神戸新聞NEXT 8/11(日) 11:30配信
https://i.imgur.com/ckjethw.jpg >>997
冬の陣発注者の条件として以下の3つが上がっていたが、
@豊臣に強いシンパシー
A豊臣大坂城を良く知る人物
B屏風を作らせる財力
千田は秀忠説、平山は蜂須賀小六節、磯田は千姫説を唱えて、思わずみんな納得してたが、
淀殿秀頼だけで千姫本人が描かれていないし、池田家姫路城に嫁いで2人の子育てに忙しい。
冬の陣図屏風を描かせては夫にも子供にも悪すぎる。でも北政所ねねなら納得や!!
足軽頭から身を起こし、二人三脚で関白天下人になった亡き夫「秀」吉の一世一代の大坂城の最期と賤ヶ岳七本槍・真田幸村の奮戦を、
ぜひ冥途の土産に眺めたいと言えば、徳川「秀」忠も「武士の情け」で黙認してくれたかも!!
家康にとって、北政所は関ヶ原で賤ヶ岳七本槍を徳川方に付けてくれた大恩人でもあるし。 北政所が発注者なら大坂城内で秀頼と淀殿が
仲睦まじく一緒に並んで武将と作戦会議という構図にならんのでは
北政所は高台寺に自分と秀吉の廟所を並んで作るくらい
秀吉のことは生涯愛し続けたが
秀頼淀殿にそんなに注視してたとは思えん このスレッドは1000を超えました。
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