前九年の役・後三年の役
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>>26
この時の恩賞って、どんなカタチでペイしたのかな?
清衡に出させたとか?
この時代の源氏にそんな財力があったのか。 清衡が差し出した財産もあるけど、前九年以降源氏がため込んだ私物が山のようにあったから部下に分けることが出来たんでしょう。 将棋の格言になる位だから京でも心配事だったのでは?
双入玉は前九年の役ほど手間を食い どういう計算違いをしたのか、前九年と言いながら12年間の戦い >>31
お互い相手の陣地に「王」や「玉」が入ってしまうこと。
王の周囲に成り歩を固めれば、せめる方は異様な出血をするけど、出血してせめた結果が歩を得ただけだから、
実質的に攻める方法が無い。素朴なルールだと、時間だけが過ぎていく…。
現代将棋のルールでは、「双方合意の上、持ち駒を点数換算して合計点数を競う」ことになっているが、「合意」が
いかなるものか極めて曖昧だから、コンピュータと棋士の実力が伯仲していた頃には、このルールの部分の明確化
が求められたが、あっという間にコンピュータが強くなり過ぎたので、ルール改正は立ち消え。 >>32
「奥州で頼義が十二年間戦争をやってた。後にやはり奥州で義家が三年間戦った」
↓
「奥州で十二年間戦争をやってた。後部の三年は奥州で義家が戦った」 → 後三年
↓
「前部の九年は頼義が戦っていた」 → 前九年
こういう勘違いが今に至っても正式名称として残っている >>33
レスありがとう
将棋てそんな昔からあったんだ 日本の合戦は一日で決着がつくということだ。役はながくていいねえ。 古代の城柵すべてに言えることだけど戦国時代の城と比べて一つ一つの曲輪がやったら広い
平安時代末期になっても兵数に物言わす古代的な戦いをしていたのだろう いまさら「前十二年の役」とは言えない。
そもそも「ぜんじゅうにねんのえき」なんて言いにくい。 清原氏は先住民系の人たちが中心となっていると思う。
DNA検査をしているわけではないが、この 湯沢ー横手ー大曲ー角館 地区は縄文系が色濃く残っているからだ。
早くから縄文系が一定の領地を得たから、和人が入り込みにくかったのではないか? 女系でアイヌ人の血が入っているからなんじゃないの
前九年の役の絵巻では安倍氏の軍勢は目が大きくて毛深く
明らかに日本人と異なる容姿で描かれているらしい >>44
藤原三代は、ミイラを造っている。長谷部言人は、自然発生説を唱えてそれがなぜか学説になっている観があるが、ミイラがひとりでにできるかあ?
ちなみにミイラは樺太アイヌの風習。
元々アイヌ系でなければそうしたことをやらないだろ。婚姻をとうして混雑したとしても。 そりゃ化外の地なんだから上からアイヌは入ってくるだろう >>47
有力者を内蔵を取り出してミイラ化するのは、カラフトアイヌの風習。 >>1
日和見どころか頼義・義家を見逃して大失態ですぜ >>45
奥州藤原もミイラにされたのは清衡、基衡、秀衡だろ
で、清衡の母方が安倍氏
普通に母系の風習が引き継がれたでいいんじゃないの
清衡の前も代々ミイラにされてるならだが 確か泰衡も首だけミイラになって秀衡に合葬されたんじゃなかったか?
今まで忠衡の首と伝えられてきた頭蓋骨を詳細に調べてみたら
泰衡の特徴という記録と一致。
これで一転、忠衡は存在そのものが疑問視されることにw 日本の実力者と思っていたらいきなり、アイヌの葬送方式を引き継がないなあ。 日本史でミイラってのはこれだけだからね。
不思議だわ。 前九年は最終的に勝者は清原氏、後三年は藤原氏
頼義義家は何のために行ったんじゃ >頼義義家は何のために行ったんじゃ
陸奥の守としての仕事をしに行ったのだ >>53
中央官僚が下野して地方有力者のところへ入り婿するから
姓は父方を受け継ぐけどどっぷり母方親族と一緒に生活する
源頼朝が母方の熱田神宮家の財力と兵力を頼みにしていたようなもん 頼義義家はあわよくば奥州にも源氏の基盤を拡げたかったが叶わず >>60
なるほど。平安期は和人も蝦夷も母系家族を中心とした通い婚だったからなあ。
一部貴族もそうだったのだろう。
武士階級が台頭してきて、血統とか、純血とかが重視されるようになったわけか。 嫁の実家は重要だからな。家格が低ければそれだけで出世争いから脱落 >>62
平安時代どころか室町時代まで庶民は通い婚だけどね
男の子の場合は父方に女の子の場合は母方につくのが慣例だった模様 でも、例え通い婚だとしても、「藤原氏」がアイヌの葬送風習を受け継ぐってどういう状況だろう? 安倍の末裔って正統性がなきゃ奥六郡を支配できないし。 >>55
いや、寺院の高僧が死してミイラとなって仏像と並ぶ例がしばしばあった。 寺院の高僧のミイラは中国の唐代で見られたものが日本に輸入された
地中に掘った穴に籠り飲食を断って鐘を鳴らし続け
鐘が聞こえなくなったら死んだことが分かる
死ぬまで何日間も飲食をせず餓死するために体内にものは残っておらず
そのまま干からびたミイラとなる
そしたら掘り出して僧侶の衣服を着せて即身仏として飾っておく
奥州藤原氏のミイラは病死した遺体で間際まで飲食をとっている
脳味噌や内臓など腐りやすい臓器が取り出されてあり
エジプトミイラのように人の手が加わっている
男性器も切り落とされているらしい
アイヌ民族の有力酋長で行われていた埋葬方法 しかし、長谷部言人は裂け目にネズミの歯形が付いており、ミイラは自然発生したと主張しているんだよな。
ミイラの内蔵はネズミが食べたって事だ。
そして、現在日本考古学の重鎮、長谷部言人が言った事は定説みたいになっている訳だ。
長谷部言人は「古代日本人=アイヌ人」を否定した一人だから、そりゃ藤原3代が日本人であったとしたいわけだね。
長谷部言人は日本考古学の開拓者の一人だけど、明石原人など妙ちくりんなコト言っているからなあ。 平範国の日記『範国記』長元9年(1036)12月22日には、
その日の小除目として、陸奥権守に安倍忠好が見え、それが『陸奥話記』などの
安倍頼良の父忠良である可能性が高く、奥六郡安倍氏の出自を中央貴族安倍氏とする
指摘がある(戸川1999)。
数年前これをこのチャンネルで見たけど、その後どうなったんだろう。
えらい学者さん達はこれをどう扱っているんだろう? とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
I3J 奥六郡の上三郡と下三郡はそんなに石高が違ったのか? この時代に石高なんていう概念ないが
東北どころか関東ですら雑公事とかが税の主体を占めていた時代だし それこそ、金が採れたからでしょ。
東北の山や川を探しまくって、一部は早くも北海道へ渡ったようだ。
採れなくてにっちもさっちも行かない場合には、アイヌに逆同化したという。 義家の裁定が清衡に不利だった説も分からないけどね。
清原氏一族を敵に回して義家にいいことはないわけだし。 ×清衡
○家衡
>>73
てっきりその説が通説化したかと思ってたけど。 頼朝の奥州合戦はどうしても自分を頼義に擬せたくて日付まで一緒にしたらしいな 江戸時代に今の秋田県を領有した大名は佐竹氏。佐竹氏の祖先は新羅三郎こと源義光なんだよな。
江戸時代中期の宝暦時代にその佐竹藩(秋田藩)で、秋田騒動といわれる大騒動が起きる。
これは、佐竹藩の財政不足を「銀札」と言われる兌換券で克服しようとして失敗したものだ。
それが、家臣団が2つに割れ、一方の派閥が切腹なり閉塞になったりする大騒動に繋がった。
ところがこの事件は江戸に伝わり「秋田杉直物語」という講談本になって描かれた。
それによると、本当の原因は藩主継承問題に関連したもので、秋田騒動は実はお家騒動だとして描かれている。
同時期、お家騒動を起こした群上藩は取りつぶしになっているから、佐竹藩では何とか手を打って
著作者を打ち首、本は禁書扱いにした(と俺は勝手に思う)
それだけだと民衆は納得しないだろうと言うことで、秋田で独自に「秋田治亂記」という対抗本を出版して
ホントはこうですよとやった。
ところで、「秋田杉直物語」では佐竹氏の祖先は新羅三郎と正しく書いている。(これだけ、歴史ある家系
だから、しっかり上下の地位を守ってお家騒動なぞおこすなよと言っている)
ところが、せっかくそれを修正したはずの「秋田治亂記」には佐竹氏の祖先が八幡太郎・源義家だと書いて
いて、間違いが増えているのだ。
秋田で後三年の役のヒーローと言えば八幡太郎義家だ。これは…仕方ないのか? そいや、岩明均の歴史マンガ 『雪の峠』でも、佐竹氏の祖先が八幡太郎義家ということで描かれていたなあ。
史実でも新羅三郎はDQNぽくって、八幡太郎の方が格好良い…のか? 後三年の役の義家のほうが頼義より悪質だと思うけどね
義光も酷い性格だけどこのころから河内源氏は殺人鬼みたいなのばっかりです むしろ頼義は比較的穏やかな性格だったんじゃないかと思う
晩年は仏法に帰依して念仏三昧だったし
義家、義綱、義光この三兄弟から信じがたいほどの胸くそ悪い集団になっていく 義家が義綱を殺したんだっけ?
義光は甲斐守になって山梨に土着して甲斐源氏の祖。 三兄弟の中では義綱が一番まし
義家は金沢柵の皆殺しという蛮行がある
まったく基地外がご迷惑おかけしましたね秋田県の皆さん >>86
朝廷が河内源氏の力が伸びすぎないように牽制していたのも見逃せない 朝廷は牽制したかな?
義家の力を恐れた説はもう否定された気が 高橋富雄氏は、清原氏は
源平と並ぶ将軍の家柄になり得たと言ってたけど
実際そうだったのかもしれないね 院は義綱や義光を重用し義家と反目するように仕向けとるがな >>60
そう言えば、義経が草薙剣の回収に失敗したことも、頼朝との
不和の原因の一つと言われているけど、母系が熱田宮司家だと
いうところも関係しているのだろうか。 >>93
>義経が草薙剣の回収に失敗したことも、頼朝との不和の原因の一つと言われているけど
井沢元彦のヨタなんか真に受けなくていいよ >>92
白河院が義家を抑え込んだ説は俗説ですよ
義綱の昇進は摂関家との関係が大きく貢献してるけど
逆に師通が卒去したあとは白河院に近侍する義家が追い上げて再逆転してる 後世の安倍氏人気は異常。
自称安倍氏の末裔は関東平野まで広がる。それに引き換え清原氏はさっぱり。
清原氏の末裔などは聞いたことがない。
前九年時の戦いが何か侍層の琴線にふれたんではないか?
穿った見方をすれば、反源氏がその裏にあったのか? >>97
今の安倍首相すらそれにあやかっているぞw >>98
安倍総理は安倍文殊院御参りしたことあるんかな >>97
> 後世の安倍氏人気は異常。
確かに。オレも何でか安倍氏好き 清衡の、清原氏一族に対する当主権確立の過程で
安倍氏ルーツが強調されたからかなあ
それとも前九年合戦の頼義・義家の活躍を強調するために
決定打となった清原氏の功績を意図的に貶めたのか 清衡って血統からいっても奥羽の支配者には完璧だよな 安倍氏人気は、判官びいきと通じることがあるんじゃないのか?
三春藩の秋田氏は、祖先は安倍氏だという家系図を明治時代に新政府に提出しているよね。
反逆の精神つーか
八幡太郎人気は褒賞を一気にばばっとばらまいたからだろう。 安倍氏は反乱中貢納しなかったけど、
清原氏は貢納してたようだから朝廷の義家への不満が強かったんだろうね
結局、国司は年貢をちゃんと国庫に納められるかどうかが評価の分かれ目 清原氏の先祖は舎人親王なんだよな。
藤原氏の分流と思ってる人が多いけど。 舎人親王かー
日本書記だけど、このひと、大津親王チクった人だろう?
あんまりいいイメージはないね。 大津皇子をチクったのは川島皇子
大津皇子が死んだとき異母弟の舎人親王は10歳ぐらいの子供
舎人親王は長屋王をチクった人 武則は平氏だから一族内でもいろいろあったかもしれない 清衡の代になってからも平師妙の反乱が起きてるよね
義綱が鎮圧してるけど
義家の前にも源頼俊が蝦夷征伐を行っている
10年に1回くらいは反乱が起きてるなこの辺 >>112
奥六郡と出羽とに住み分けてたけど、仲良かったかどうかは疑問。
事実に即していたかどうかはわからないけど、大河ドラマで
藤原秀衡が義経を出羽国境へ案内して「私はここから先には行けない」
という台詞があった。 (続き)
安倍氏、清原氏に代わって支配者となって百年も経ってるのに
まだそういう状況なのか、とドラマを見てて思った。
・・・・それが事実ならば 秋田城介は前九年の役のとき廃止されて、復活したのが1218年だからなー。
空白期間なんだよ。
俺は、878年の元慶の乱で雄物川以北が蝦夷の物になったと見ている。
横手付近の清原氏は蝦夷の血が濃いから、いずれ正史には書けない事態(蝦夷に土地を取られて
そのままとか…)が発生していたんじゃないの? >>111
清少納言の4代前に歌人の清原深養父がいる。
その子供又は弟が出羽清原氏の先祖、という伝承あり。 奥羽は仙北三郡と奥六郡以外にも鹿角や十三湊が有名だね 藤原氏がどのように、どの範囲を支配したかいまだにはっきりしないんだよ。
奧六郡と横手盆地くらいは支配下だろうけどそれ以外は霧の中。 藤原氏自身も支配範囲をはっきりと把握していたかどうか 秀衡末期には北関東〜出羽には鎌倉勢が入り込んでいたんとちゃうか? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています