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邪馬台国畿内説 Part353
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0001◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/06/13(水) 01:27:50.46
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。
・出現期古墳段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1528495001/


◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。
0068◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/06/13(水) 01:54:22.00
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!

A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。

 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。


◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!

A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。

 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。

 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。

古代の海岸線に沿って「東南陸行」することは、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png

 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
0069◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/06/13(水) 01:54:54.91
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】 ◆なし
0070日本@名無史さん垢版2018/06/13(水) 01:55:10.97
やはり、八咫鏡に食い下がっていた根拠厨がスレ主だったんだな。
0071日本@名無史さん垢版2018/06/13(水) 02:41:30.87
六拾弐病

六拾弐病(ろくじゅうにびょう)とは、定年退職後の老年期に見られる、
周囲を見下した言動や、自惚れに満ちた妄想を連呼する様などをさす語。
自らを客観視することができず、盲目的に自身を絶対化する、というのがその典型的例。
現役時には社会に適合してゆくために相対化させざるを得なかった自己が、
定年によって自らをとりまく環境が急激に変化することで相対化のバランスを失い、
自分が特別な存在であって欲しいとする願望が顕在化することで発症する。
簡単に言えば、「俺様偉い病」である。

その思考の基礎となる知識は、遠い昔に聞きかじった程度の浅いものや、
定年で生じた余暇によって取得した程度の中途半端なものであるため、
罹患者の主張は往々にして突飛な妄想でしかなく、周囲に受け入れられることはない。
しかし、本人は自身の思考は特別に優れているものだと盲信しているため、
受け入れられない原因を周囲のせいであると主張し、攻撃性を高めつつ、負のスパイラルへと堕ちていく。
このため、「六拾弐病」は陰謀史観との相性が非常によい。
なお、「六拾弐病」の名は、定年後数年を経て症状が顕在化することから名付けられたものであり、
もちろん全ての罹患者が62歳で発症するものではない。

似た症状を呈するため、「六拾二病」は「老年性中二病」と称されることもあるが、
思春期に自身を特別な存在だと仮想する「中二病」が、
確立されていない自己とそれを取り巻く社会の拡大とに折り合いを付けられず、
自己を疑似的に絶対化することで周囲との相対化の波から逃避しようという、
いわば自己防衛的な理由によって発症し、
ほとんどの場合本人の成長とともに症状が改善されるのに対し、
「六拾弐病」は、罹患者が生来持つ傲慢さがその根底にあるため、
一度発症してしまうと、死ぬか、惚けて思考能力が失われるかしない限り、
症状が改善されることはないとされる点は対照的であるといえる。
0072日本@名無史さん垢版2018/06/13(水) 02:42:20.02
全1病

全1病(ぜんいちびょう)とは、邪馬台国畿内説スレに出没する九州説論者のみが発症する、心の病。
畿内説側の書き込み全てが>>1◆UiepmfCeDJqによる物であると信じ込む、一種の強迫観念である。
学問の世界ではすでに追い詰められている、という事実を認めたくない九州説論者が、
畿内説に多くの賛同者などいるわけがないのだ、と自分自身を騙そうとすることで発症する。
>>1◆UiepmfCeDJqが自演によって多数派を装っているのだ、と言う発想は、
実は、自身が自演を頻繁に行っているという事実の裏返しにほかならない。
現時点では治療法は発見されておらず、一度発症すると死ぬまで治ることはない。
0073日本@名無史さん垢版2018/06/13(水) 02:43:28.41
ザラコク

邪馬台国関連スレに出没する非常識異常行動者のひとり
呼称は、Yahoo掲示坂で使用していたハンネ「zarakoku」から

古田武彦と彼が提唱した九州王朝説を盲目的に信仰しており、その信心の深さは、
世間的には偽書として決着している『東日流外三郡誌』を未だに真書であると主張するほど

自らを「素人おじん」と称することもあり、一見、自身を客観視できているかのようであるが、
その書き込み内容は、自分の信奉する説以外はすべて間違いだと決めつけてかかる、六拾弐病患者特有のもの
素人が専門家をこき下ろすという行為に疑問を感じなくなっているほど思考が硬直化している

「全レスバカ」と呼ばれることがあるほど片っ端からレスを付けまくるが、
ほとんどが他人の会話への横レスかつ超遅レスであり、周囲と会話が成立することはまずない
レスを付けることが目的化している節があり、その内容は、
他人の発言を長々と全文引用したあげく、賛成!とか間違いだ!とか数文字書き足すという程度のもの、
自分の都合のいいように語句を入れ替えただけのオウム返しのものなど、無意味なものばかりである
投稿数だけは圧倒的で、コピペ連投並みにスレを荒らす結果となっているが、本人に自覚はない
社用のPCで勤務時間中に5ちゃん投稿に血道を上げる問題経営者である

自分に不都合な情報を自分に都合が良いように勝手に脳内変換していることが多いが、
ソースを提示されても、自身の記憶や理解の方が正しいと主張する、傲慢な思考の持ち主

常駐していたYahoo掲示板を倫理規定に触れて出禁になったらしく、最近5ちゃんに居付いてしまった
「生きる独善」との形容がぴったりな75歳
0074日本@名無史さん垢版2018/06/13(水) 02:45:51.73
岡上

邪馬台国関連スレに出没する狂人のひとり
考古学界では全く賛同者がいない説を「考古学的に確定している」と主張し、ありもしない大規模調査をでっち上げ、
学界の多数派である邪馬台国畿内説を破綻したと主張する、ゴッドハンドも真っ青の捏造常習犯である

自分は正しく、これまでの研究者がみんな間違っていた、などと平気で主張する、典型的「六拾弐病」患者

コテ+トリと、コテの九州王、伊都国女王、卑弥呼、名無しを使い分け、自説を関連スレで書き込みまくる
糸クズ、八咫バカ、連続句読点キチともよばれる

「咫」の説明である「周尺」を「円周の尺」と読み、
伊都国を女王国であると漢文の用例を無視して誤読し、
平原遺跡出土鏡の文様には八咫烏があると現物を知らないで主張し、
魏志倭人伝中の「下戸」を「酒が飲めない人」と訳すなど、
お笑いエピソードには事欠かない

偽スレや妄想スレを立て続ける異常性に気がついていないのは本人だけ

未確定な事項であっても、自分に都合がよければ勝手に確定事項であると脳内変換し、
それを根拠として立論してしまうチェリーピッカー
日本史の方法論をまるで理解していない、自分偉い教の教祖である
0075日本@名無史さん垢版2018/06/13(水) 02:47:22.83
キウス

邪馬台国関連スレに出没する真性の基地外であり、病的なウソつき。
「希薄」を読むことができず、「箕臼(キウス)」と誤変換し続けたことから「キウス」と呼ばれるように。
自演爺、四棟粘着爺、指さし厨とも。

ウソの書き込みや自演、成り済ましを平然と行い、畿内説スレの>>1を騙り偽スレを立てること数度。
>>1のトリと同じ英数字を名前欄に書き込んで成り済まそうとしたこともある、最低のクズである。

「全1病」罹患者にして典型的「62病」発症者。

「自論」、「私見」、「勉強してください」、「学がない」、「貴君」、「しかり」など特徴的な言い回しの多用、
5ちゃんでは一般的ではない「スレ主」頻発、名前欄への書き込み多用などの特徴ですぐに判別できる。
1◆UiepmfCeDJqfを奥村と呼ぶ、寺澤薫氏・同志社大学・纒向学研究センターをディスる、
草を生やす際に半角で1文字目大文字、?を連続させる、といった特徴もある。

キウスの書き込みを褒めたり、礼を言ったり、「ワロタ」と応じたりする書き込みは、すべて自演である。
他人を騙す行為も自分ならばすべて許されると信じている節のある、傲慢の塊である。

日本語の読み書きが満足にできないこと、日本史や日本の地理に関する基礎知識がないことなどから、
日本の義務教育を受けていないどころか日本国内に居住していないのではないかと推測されている。
0076日本@名無史さん垢版2018/06/13(水) 02:48:41.88
ザラコク
>…< 嘘吐き騙し 南≠東 大和説 !。 ?。 ×。

キウス
スレ主 奥村 しかり 大笑い Ww いい線ついてる 正論 ヤマト王政 論じろ

岡上
八咫の鏡 伊都 平原 内行花文鏡 三種の神器 神道 キナイコシ 、、、 。。。

ハナホジ
物部 葛城 鴨 大物主 ヒメタタライスズ ミミ 出雲族

サイキバ
鉄がない 奈良湖 倉庫
0077日本@名無史さん垢版2018/06/13(水) 02:49:31.16
2013年の大規模調査なんてない

日本経済新聞(2013/2/20)
卑弥呼の墓?初の立ち入り調査 奈良・箸墓古墳
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG1905C_Q3A220C1CR0000/

研究進展に期待
日本考古学協会など考古学、歴史学の15の研究者団体は20日午前、
宮内庁が陵墓として管理している奈良県桜井市の箸墓古墳を立ち入り調査した。
宮内庁が研究者側からの要望に応じて立ち入りを認めるのは初めて。
同古墳は邪馬台国の女王・卑弥呼の墓とする説もあり、陵墓の公開や研究の進展につながると期待されている。

立ち入り調査をしたのは研究者16人。
約1時間半をかけて墳丘の最下段を一周し、地表に見える葺(ふ)き石や土器などの遺物の状態、墳丘の形などを観察した。

参加した日本考古学協会の森岡秀人理事によると墳丘表面で、築造以前の様子を示す弥生最末期の土器などが見えたという。
森岡理事は「古墳の詳しい状況を実感できた。今回得た知見や印象によって研究が加速するのでは」と話し、
今後の陵墓公開に向け「国民の文化遺産として大切に守るべきもの。宮内庁とさらなる協力体制を目指したい」と強調した。

研究者らは午後、宮内庁が管理する西殿塚古墳(同県天理市)も調査する。
0078日本@名無史さん垢版2018/06/13(水) 02:51:24.94
650日本@名無史さん2018/01/31(水) 23:03:02.66
元ねた見つけたわ
国土地理院時報(2000 no.94)
「近畿地方の古地理に関する調査(国土地理院地理調査部)
http://www-im.dwc.doshisha.ac.jp/~nihei/nara/index.php?%C6%E0%CE%C9%CB%DF%C3%CF%A1%A7%C3%CF%B7%C1%A1%A6%C3%CF%BC%C1%A1%A6%BF%E5%B7%CF


657日本@名無史さん2018/01/31(水) 23:12:52.10
>>650のリンク先にある「奈良盆地の地形学的研究」53ページに

>なぜなら、奈良盆地が更新世以降において湛水し湖沼化したという事実は認められない。

とあるな
0079日本@名無史さん垢版2018/06/13(水) 02:52:23.51
660日本@名無史さん2018/01/31(水) 23:18:00.17
奈良県遺跡地図Web
http://www.pref.nara.jp/16771.htm

664日本@名無史さん2018/01/31(水) 23:21:12.40
データベース名 遺跡
ID 11A-0104
市町村 川西
遺跡名 下永東方遺跡
所在地 磯城郡川西町下永東方
種類区分 集落・町屋,社寺
時代区分 縄文,弥生,古墳,奈良,平安,鎌倉,室町
時代詳細 縄文・晩〜古墳・後、奈良〜室町
遺跡概要 方形周溝墓、井戸、掘立柱建物、区画溝
遺物 縄文、弥生、土師、須恵、黒色土器、中世土器、木製品、石器、石製紡錘車、土馬
文献・備考 白米密寺伝承地、『下永東方遺跡』(文化財報86)2001、
『奈良県遺跡調査概報2003年度第1分冊』2004、
『奈良県遺跡調査概報2004年度第1分冊』2005

668日本@名無史さん2018/01/31(水) 23:24:19.31
データベース名 遺跡
ID 11A-0123
市町村 川西
遺跡名 下永東城遺跡
所在地 磯城郡川西町下永東城
種類区分 集落・町屋,墓・墓地
時代区分 縄文,弥生,古墳,鎌倉,室町
時代詳細 縄文、弥生・中、古墳・前〜中世
遺跡概要 方形周溝墓、土坑、掘立柱建物、井戸
遺物 石器、弥生、土師、石釧、木器
文献・備考 『下永東城遺跡』(文化財報103)2003
0080日本@名無史さん垢版2018/06/13(水) 02:57:29.77
「俺の歴史的大発見を発表させろ!」地方の博物館に急増する“歴史的新発見おじさん”たち

https://www.excite.co.jp/News/entertainment_g/20180527/Cyzo_201805_post_163508.html

歴史ブームも、光あるところに影がある。

若い世代には歴史をテーマにしたあらゆる形態の作品が人気を博したり
『応仁の乱』や『観応の擾乱』といった、
マニアックなジャンルの歴史書がベストセラーとなる昨今。
だが、人気の裏にはさまざまな問題もあった。

「突然やってきて、展示物などに持論を語った上で
『自分がやってきた研究成果を発表する機会をつくってほしい』
という人が、最近多いんですよね」

 そう話すのは、近畿地方にある郷土資料館の職員だ。
すでに10年あまり資料館で働いているが、最近になり、
リタイアした団塊の世代による独自研究の「持ち込み」が増加しているという。

「ちゃんと、これまでの歴史を学んだ上で新たな視点を提示するような研究なら聞く価値があります。
でも、だいたいはトンデモ論。
原典になる史料や基本文献、学術論文をあたることもなく、
一般読者向けの軽めの本だけをたくさん読んで
『これまでにない発見をした』という人が多いんですよ」(同)
0081日本@名無史さん垢版2018/06/13(水) 03:00:15.24
岸本直文「倭における国家形成と古墳時代開始のプロセス」
『国立歴史民俗博物館研究報告』第185集,2014年
https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/ronbun/ronbun8/pdf/185012.pdf


上野祥史「日本列島における中国鏡の分配システムの変革と画期」
『国立歴史民俗博物館研究報告』第185集,2014年
https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/ronbun/ronbun8/pdf/185011.pdf
0082日本@名無史さん垢版2018/06/13(水) 03:01:08.97
畿内説が破綻したと主張しているのはキチ


纒向遺跡 邪馬台国論争「畿内説」に画期

毎日新聞2018年5月14日 14時07分(最終更新 5月14日 14時35分)

解説

邪馬台国の最有力候補地とされる纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)の中心的施設跡で出土した大量のモモの種について、
放射性炭素(C14)年代測定で「西暦135〜230年の間に実った可能性が高い」との分析結果が出た。
遺跡は邪馬台国より後の4世紀以降とする異論もあるが、卑弥呼(ひみこ)(248年ごろ没)の活動時期と年代が重なる今回の分析は、
遺跡が邪馬台国の重要拠点だったとする「畿内説」を強める画期的な研究成果といえる。
0084日本@名無史さん垢版2018/06/13(水) 06:29:32.97
近畿は元々縄文系勢力も渡来人系勢力も仲良く暮らしていた。
温暖で河内湖の水資源も豊かで稲作も盛んになり、豊かな地域に発展したんだろう。日本書紀でいう食国、芦原中津國。

スサノオが豊かな田に嫉妬して度々荒らしにきたとあるだろう。近畿周辺の東海や山陰の勢力が嫉妬したんだな。
そして征伐に来る。
倭国大乱、近畿征伐、記紀でいう神武東征だよ。

結果できたのが、山陰と東海の勢力を中心とした大和朝廷だよ。
近畿は大和朝廷の最初の討伐ターゲットだったんだな。
大和朝廷は4世紀前後四道将軍で関東東北を征伐する。

大和朝廷に虐げられていた元々の近畿の勢力、関東の先住民が手を結び、神功皇后応神を旗頭にして大和朝廷の旧勢力に叛旗を翻すんだよ。
藤原氏の守り神が関東の人々であるように、近畿と関東は同盟関係だったんだな。
0085日本@名無史さん垢版2018/06/13(水) 06:31:35.53
古代の難波はどういう場所だったのか?
下の長唄は、なにわの地が芦原中津國や食国と認識されていたのが分かる。
それを前提に記紀を読み直すと面白い。

聖武天皇の難波行幸に従駕した笠朝臣金村(かさのあそみかなむら)の詠んだ一首

押(お)し照(て)る 難波の国は 葦垣(あしかき)の 
古(ふ)りにし郷(さと)と 人皆の 
思(おも)ひ息(やす)みて つれも無く ありし間(あひだ)に積麻(うみを)なす 
長柄(ながら)の宮に 真木柱(まきばしら) 太高(ふとたか)敷きて 食国(をすくに)を 治めたまへば 沖つ鳥 
味経(あぢふ)の原に もののふの 八十伴(やそとも)の緒(を)は 廬(いほり)して 都(みやこ)なしたり 旅にはあれども
0086日本@名無史さん垢版2018/06/13(水) 06:32:50.07
畿内の勢力は2世紀末に大きく変わる。
纒向遺跡でも、東海や山陰、吉備などの外来系土器が突然現れる。
記紀にもヤマト征伐によって大和朝廷が始まる様子が記述されている。
畿内征伐によって誕生した大和朝廷の主体は、尾張、出雲、吉備。

次に考古学的に大きな変化があるのは4世紀後半。 大きな政権交代があったんだろう。
神功皇后応神に該当する時代。
記紀や各地の伝承。
忍熊皇子の討伐、飛騨の顔が二つ頭が一つの怪物を討つエピソードがあったり、出雲の生馬の神がもう荒ぶらないと宣言したり。
神功皇后が三韓征伐の往路復路で、八雷神に似た頭が八つで牛の姿をした塵輪鬼を討つ話があったり。
纒向遺跡の外来系土器の中心、東海(飛騨の怪物)、山陰(出雲の生馬の神、牛荒神の木)、吉備(塵輪鬼)が討たれるエピソードばかり。
全て牛というキーワードが共通する。
同時代の若草山山頂古墳。かつては牛塚と呼ばれていた。牛頭天王と何か関係あるのかもしれない。
0087日本@名無史さん垢版2018/06/13(水) 06:34:19.85
魏志倭人伝
邪馬台国の官

官は伊支馬有り。次は弥馬升と曰う。次は弥馬獲支と曰う。次は奴佳鞮。

伊支馬は生駒。生馬。火の神。
弥馬升は三見宿禰、出雲醜大臣の子。
弥馬獲支はミミ鷲、日鷲。
奴佳鞮は中臣。
邪馬台国の官は、大和朝廷の官と瓜二つ。

出雲地方には生馬神が祀られているんだな。
生馬神社境内には「牛荒神の大木」と呼ばれる木があり木に藁が巻き付けられている。

出雲風土記かな、生馬神の子は、もう荒ぶらないと言ったとか。
ヤマトの地名と出雲の集落名、共通点が多い。

邪馬台国の官の筆頭
伊支馬。これがどういう勢力か解明できれば、邪馬台国卑弥呼に近付ける気がする。

伊支馬、生駒、生馬、伊熊、猪熊、生目などの地名が、ヤマト、出雲、三河、遠賀川、宮崎に見られる。
何か関係あるのか?
0088日本@名無史さん垢版2018/06/13(水) 06:37:41.03
杵築大社の天井図。八雲が一つ欠け七つしかないだろ。
あれは、紀元前後出雲地方の内乱の結果、神庭にいた渡来人系の出雲の王族が追放されたから。

出雲地方で元々信仰されていたのは、姫神の幸神、東から来て文物をもたらしたクナトの神。そしてその子のサルタヒコ。
サルタヒコ一族は、オオナムチに破れるんだな。
そして、畿内など各地に逃げ延びる。
加茂岩倉遺跡との同笵銅鐸が各地で見つかっている。
0089日本@名無史さん垢版2018/06/13(水) 06:39:55.72
同じ紀元前後の時代。
丹後半島の王族ヤマタノオロチ族。
丹後半島に侵攻したカグツチ(ホアカリ系、記紀でいうスサノオ)に王が殺されて、一族が畿内に逃げ延びる。

その後一部伊吹山辺りに移った可能性がある。
伊吹山、ヤマタノオロチの神霊が住むと言われているな。

ヤマタノオロチ族と風宮の神との関係が気になるな。

級長津彦命
級長戸辺命
しなは息が長いという意味。
息が長い、吹子、鉄と関係あるかもしれない。
息長氏と関係あるのか。
丹後半島に遅れて、畿内淡路島や池上曽根、彦根で鉄工房が始まるからな。

伊吹山、和歌では一途な想いの代名詞。

畿内に逃げ延びたヤマタノオロチ族は、助けてくれた大阪湾の渡来人に恩義を感じていたのかもな。

伊吹山の神は、大和朝廷と最後の最後まで戦い抜いている。
0090日本@名無史さん垢版2018/06/13(水) 06:43:08.18
畿内に逃れてきた出雲の王族サルタヒコ一族、丹後半島のヤマタノオロチ族、環大阪湾にいた倭人(クナト一派)が、1世紀半ば近畿一円に国を作る。
クナ。クニの語源。対外的には倭国。
二世紀半ば〜倭国大乱で、尾張三河など東海勢力&出雲など山陰の勢力に滅ぼされた国。
0091日本@名無史さん垢版2018/06/13(水) 06:47:00.30
サルタヒコ。
出雲族の姫神幸神と、倭人の彦神クナトの神の子。

倭人と出雲族の同盟の証。

月夜見にして大国主、卑弥弓呼。日見彦。暦の一子相伝者。
倭国大乱で殺されて、日本列島から暦が無くなる。

猿田彦で注目すべきは最初に出会った場所。

天の八衢。
道が幾つにも別れる処、方違。
面白いことに上町台地と泉北丘陵の間に方違神社がある。なにわ、和泉、河内、淡の境。

その近傍にイシズ川。 サルタヒコが消えたのはいすゞ川の上流。


猿田彦が溺れたとされるのが、阿邪訶の海。
方違神社のすぐ北がアサカ、浅香。
浅香の北がオサカ、大阪。
浅香の南、泉北丘陵にコサカ、小坂。

伊勢と同じものが揃っているんだな。
凄い偶然。

更にサルタヒコはヒラブカイに挟まれて亡くなるとある。
泉北丘陵、イシズ川を遡った地に平井と深井という弥生時代から立地が変わっていない集落がある。
平井と深井の間が弥生時代の鈴の宮遺跡。
サルタヒコは最後はこの辺りに逃れていて、殺されたんだろう。

伊勢湾は大阪湾のコピー
倭国大乱で犠牲になった神々の鎮魂の場所
0092日本@名無史さん垢版2018/06/13(水) 06:49:16.69
八十島祭。
天皇の国土支配権の裏付けを企図する祭祀と書かれてある。なぜ大阪で行うのか?



後鳥羽院の八十島祭にしたがった津守経国の歌。

 ○天の下のどけかるべし。難波潟、田蓑たみのの島に御祓しつれば      津守経国

 八十島は、田蓑島のほかに中之島、福島、曽根洲、柴島くにじまなどの地名に残る。

 ○おしてるや 難波の崎よ 出で立ちて 我が国見れば

   淡島あはしま 自凝島おのころじま 檳榔あぢまさの 島も見ゆ 放さけつ島見ゆ          仁徳天皇


難波の崎からオノコロ島、淡路島見えるとある。
古代の人々は国生み神話は、大阪湾の話であるのを当たり前のように理解していた。

大阪湾は国生みの場所でもあり、国造りの場所でもある。
0093日本@名無史さん垢版2018/06/13(水) 06:51:11.86
【倭国】

紀元前に博多湾沿岸に倭国が成立して漢と国交を持ち、後漢の頃には漢委奴国王印により倭国王に冊封された。後漢書では、倭国は朝鮮半島南岸から九州北岸までの、対馬海峡の海洋国家として書かれている。
対馬海峡における貿易の権益が、天津神すなわち海の神を中心とした倭国の形成の原動力であったと考えることができる。

記紀の国生みは博多湾から始まる。伊奘諾が最初に手に入れた領土である淤能碁呂島は博多湾の小島である能古島のことである。
それに続きイザナギとイザナミの生んだ国(領土)のうち、天の冠詞がつく島である隠伎之三子島(天之忍許呂別)、伊伎島(天比登都柱)、津島(天之狭手依比売)、
女島(天一根、姫島)、知訶島(天之忍男、五島列島)、両児島(天両屋、男女群島)が天つ国の本来の領域である。
国産みにおける島々は九州北部沿岸の島を意味していたが、後に西日本全体の地名に拡大され再配置される。

博多湾岸を起点として対馬海峡から朝鮮半島南岸へ、日本海から山陰や北陸に広がる国が古代の倭国の姿である。
連合国家である倭国の盟主は筑紫であり、他に九州北部の倭国連合を構成する豊国、肥国がある。倭地とされた本州には出雲、越などがあった。
また、中国との交易は一貫して筑紫が独占していた。
筑紫の特に玄界灘周辺の勢力は、対馬海峡の権益を独占して力をつけ、海人の国、天津国と呼ばれ、その王族は天津神として九州や本州の王族である国津神と区別された。

九州で出土した副葬品の分布地図
http://www.netpia.jp/history/map-fukusohin237.gif
狗奴国(熊本)も元は卑弥呼と近い立場の同じ文化圏であり、卑弥呼共立をめぐって反対していただけである。
上記の地図は邪馬台国と狗奴国(熊本)を合わせた九州北部の国、倭国の中枢を示している。
実際にはこれに属州としての日本海沿岸、瀬戸内海沿岸の地域が付随する。
卑弥呼の時代の畿内は、奈良も京都も大阪もまだ沼地であり、特に奈良は主要交易路からはずれた名もなき辺境の沼地であった。

2世紀の倭国大乱後の女王の墓として3世紀に平原遺跡が作られた。
副葬された王位の証である八咫の鏡は、筑紫伊都国が王権の所在地すなわち倭国の王都であったことを示している。
0094日本@名無史さん垢版2018/06/13(水) 06:51:46.60
【狗奴国】

狗奴国王の名前は卑弥弓呼といい、卑弥呼と瓜二つである。
卑弥呼とはもとより不和であるとある。
倭国大乱は倭国の王位をめぐる争いのことである。

九州で出土した副葬品の分布地図
http://www.netpia.jp/history/map-fukusohin237.gif
狗奴国(熊本)も元は卑弥呼と近い立場の同じ文化圏であり、卑弥呼共立をめぐって反対していただけである。
上記の地図は邪馬台国と狗奴国(熊本)を合わせた九州北部の国、倭国の中枢を示している。

このことから、狗奴国と邪馬台国は近縁関係であると推察される。
卑弥呼亡き後の争いは、狗奴国が筑紫に攻め上ったものであると考えられるが、壹與の共立によりこれが収まったということは、狗奴国も納得のいく人事であったということだ。
狗奴国熊襲は邪馬台国の南、熊本の勢力であるが、実質的には肥国の王家であり、肥前河上のヨド姫であれば熊襲の姫でもあるので狗奴国の納得のいく人事であった。
また、卑弥呼が筑後山門の出身であるならば、筑後も本来は肥国の一部に筑紫が膨張して張り出した部分であるので、卑弥呼とヨド姫も同属である。
壹與を邇邇芸の妃であり志賀島の海神の娘である豊玉姫に比定しないわけは、豊玉姫では狗奴国との争いを収める立場になれないからである。
後世には肥前のヨド姫は豊玉姫に習合されてしまうが、本来は別人である。

邇邇芸と神功皇后は天津神である筑紫王家、卑弥呼と卑弥弓呼と壹與は肥国王家、綿津見神と豊玉姫は豊国王家に属している。
いずれも連合国家である倭国を構成する中心的な王国である。
0095日本@名無史さん垢版2018/06/13(水) 06:52:26.50
【伊都国】

伊都国の官は爾支と記されているが、ニニギ、ニギハヤヒなどと同じ系統の名であり、神道における神職を意味する禰宜にも通じる。
平原遺跡には鳥居などの遺構があり、いわゆる神道の形式が整いつつあった。
高祖宮は伊都国から日の出の方にあり、卑弥呼らは太陽を背にして君臨していた。
高千穂宮から始まる神武東征の時、神武は天の子は太陽を背にするべきだと発言していて、伊都は神道の基本である太陽信仰の都である。
卑弥呼の鬼道とは、中国人から見た古代神道のことだったのである。

伊都国の平原遺跡は3世紀頃の女王墓であり、方格規矩四神鏡と内行花文鏡、玉を中心とする豪華な副葬品を持ち、後漢の頃には見られなかった巨大な国産の内行花文鏡、いわゆる八咫の鏡が5面含まれていたことから、倭国大乱後の倭国の王権が伊都国にあったことがわかる。
2世紀の倭国大乱以降では卑弥呼が最初の女王であるため、平原遺跡の被葬者の最有力候補が卑弥呼である。
魏志において伊都国は人口が1000戸と少ないが、魏志に卑弥呼の王宮の下女は1000人とることと一致する。
近隣の世俗の商業都市としての博多奴国と、政治・祭祀・外交のための聖なる王都である伊都が分離されていたと考えられる。

伊都国には高祖宮(高祖神社)があり、後世にはその東側の高祖山とクシフル山の山頂を囲む中国風山城(奈良時代は怡土城、戦国時代は高祖城と呼称される)があった。
高祖山を越える峠が日向峠であり、筑紫の日向のクシフル山にある高祖宮の古名が高千穂宮であったと考えられる。

アマテラスの孫のニニギはクシフル山に降臨してその西側に埋葬されたとあり、三雲南小路遺跡、井原鑓溝遺跡などが、魏志において倭国大乱の前の男王の時代70〜80年を担った日向王家の王墓であると考えられる。
三雲南小路遺跡の拝殿であり漢の金印を保管していた細石(さざれいし)神社は天孫邇邇芸と木花佐久夜毘売を祭神とし、
平原遺跡からはニニギが授かった三種の神器である八咫の鏡と思われる超大型内行花文鏡が出土しており、筑紫の伊都がその名の通り倭国王家である日向三代の都であった証拠である。
0096日本@名無史さん垢版2018/06/13(水) 06:52:56.48
【邪馬台国はどんな国?】

「魏志倭人伝」−「倭人は兵器に矛を用いる」
―銅矛であれ鉄矛であれ、
矛が多量に出土しているのは北九州、奈良県は出土無し。

「魏志倭人伝」−魏への持参物、魏から女王への贈り物に多数の「絹織物」
−邪馬台国のあった弥生時代後期までの「絹」は、すべて九州からの出土。

「魏志倭人伝」−「倭人は鉄の鏃を用いる」
鉄は圧倒的に九州にある。
http://www.infokkkna.com/ironroad/2011htm/iron7/1103iron09.jpg

「魏志倭人伝」−「魏は卑弥呼に五尺刀二口を与えた」
−弥生時代の鉄刀、鉄剣は福岡県から92例出土、奈良県からは1例のみの出土。

三角縁神獣鏡は魏の鏡に非ず、卑弥呼の時代は「方格規矩四神鏡、内行花文鏡」
邪馬台国時代、古墳時代を通じて、福岡県から37面、奈良県からは、わずか2面。

その山に丹あり
弥生時代の奈良では、朱丹は二箇所で しか使用されていない。
福岡県では41箇所の遺跡で使用されている。
0097日本@名無史さん垢版2018/06/13(水) 06:57:01.68
◎纒向には、万単位の人々が暮らし、土木作業を行っていた。纒向集落は、ヤマトの地が外部勢力に征圧され、その結果できた集落。
纒向は、ヤマトの地を征圧した兵と徴用された地元民が万単位で土木作業に従事した大集落。
卑弥呼は鬼道で民を纏める役割を担っていた。

さらに4世紀に突然消失し武器などの遺留物が無いこと(もぬけの殻)を考えると、記紀の四道将軍の記述と合致する。
◎纒向は、4世紀に意図的に解散し、民は兵として全国平定に駆り出されたと推測できる。


纒向遺跡は記紀で神武東征として描かれている畿内征伐の主体が、実際は出雲など山陰、尾張三河など東海、吉備など瀬戸内海の勢力が中心であったと教えてくれる。
彼らは畿内の民を酷使して巨大古墳を作らせ、更に殉葬として多くの人々を殺害した。

纒向遺跡は、更に四道将軍として描かれている関東東北征伐も実際にあったことを示唆する。
0098日本@名無史さん垢版2018/06/13(水) 07:21:17.69
福岡の丹は本邦産じゃないからな
朱丹を以って其身體に塗る、中國で粉を用いるが如し
一部の支配層だけが墓に使うのではなく、倭地では豊富に産するということだな
0099日本@名無史さん垢版2018/06/13(水) 08:08:20.24
 故・金関 恕(かなせき ひろし)がさん奈良県天理市和爾の東大寺山古墳から発見した「国宝」中平銘鉄刀。
金関さんは2017年3月の考古学雑誌で、この刀は卑弥呼の五尺刀ではないかという見解を述べられている。
同じく京都教育大学名誉教授で元・橿原考古学研究所指導研究員の和田萃さんも、和邇氏の系譜に卑弥呼がいるのではという見解を述べられているようだ。

仮にそうだとして、謎の豪族・和邇氏と卑弥呼の関係が誰にも分からなかった。
解いたのはわしだ、まいったか。
邪馬台国は葛城だ。

   事代主
     ┣━━━━━━━━━┓
   天日方奇日方(鴨王) ヒメ踏鞴━━神武
     ┣━━━━━━━━┓
     建飯勝    渟名底仲媛━━ 安寧
     ┃            ┃
    建甕尻          息石耳    ※ヒメ踏鞴(248年没)
     ┃            ┃
    豊御気主         トヨ津━━ 懿徳
     ┃              ┃
   大御気主             孝昭
     ┃              ┃
    阿田賀田須        天足彦国押人命
                   ┃
                和邇日子押人命
                 ┣━━━━━━━┓
               彦国姥津命    姥津媛(開化天皇妃)
   ┏━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━┳━━━━━━┓
 伊富都久命          彦国葺命   小篠命    乙国葺命
  ┏━━━━━━┳━━━━━━━┫   【丈部氏祖】 【吉田氏祖】
 彦忍人命   建耶須禰命    大口納命        【飯高氏祖】
(武社国造)    ┃       ┣━━━━━━━┳━━━━━━━┓
       八千宿禰命  難波根子武振熊命   彦汝命     真侶古命
      (吉備穴国造)  【和邇氏祖】  【葦占氏祖】  (額田国造)
0100日本@名無史さん垢版2018/06/13(水) 08:13:27.24
>>98
魏から「真朱(珠) 鉛丹各五十斤」を貰ってるから倭地では真朱や鉛丹は貴重品で豊富には採れなかったんじゃないかな、豊富に産するなら魏は贈らんだろう。
0101日本@名無史さん垢版2018/06/13(水) 08:22:18.99
>>722
>いや、そんな「原則」を現代人が勝手に作っても、古代人は従わないから <

「居住外縁部」は、陳寿の倭人伝の行程記載で使っているし、
遼東と高句麗や、高句麗と扶余の位置関係の記載でも使われている。
0102日本@名無史さん垢版2018/06/13(水) 08:25:25.35
>>723
泣く子と、「南→東」などの嘘つき騙しをワメくを大和説の・・・・ガキや爺ィには、
打つ手ないかもね。
・・・・や猿が論理で説得できないのと同じ。
0103日本@名無史さん垢版2018/06/13(水) 08:27:15.86
>>100

真朱はもらってないよ
0104日本@名無史さん垢版2018/06/13(水) 08:36:29.14
>>726
「南→東」などの嘘つき騙しの大和一元史観教の・・・・が、
幾ら「絶対的」と言張っても、
倭国は正北抵新羅に拠って九州であり、
「自昔・・・東征毛人五十五國」であり、
「大和日本国は、倭国の別種の旧小国の、地方の市を監督する大倭職」なんだから、
他の夢ロマン近畿説お爺さんの千差万別な説ともども、
まともな科学や学問とは、何の関係もない。
0105日本@名無史さん垢版2018/06/13(水) 08:41:10.94
>>743
>その通りだ、桜井市に邪馬台国などない。<

そもそも、邪馬台国なんてものが存在しない。

>女王が住んでいたのは奈良県御所市だ。<

女王が卑弥呼や壹與の事を言っているんだろうから、
「南≠東」などに拠って、×だ。
0106日本@名無史さん垢版2018/06/13(水) 08:46:58.48
>>759
>測定結果じゃないんだよ 机上の架空の計算結果 周髀算経にそう書いてある<

周髀算経には、測定結果とした記載がされている。
0107日本@名無史さん垢版2018/06/13(水) 08:47:15.04
狗奴国はなにわ、和泉、河内
2世紀末の畿内征伐でなにわは陥落したんだろうな
かつて大坂城の地にあった生國魂神社
神武東征の際に生島神、足島神を鎮魂した謂れが残っている

魏志倭人伝当時の狗奴国は和泉と河内
狗奴国は邪馬台国の南
ヤマトの南の和泉と河内
狗奴国の官、狗古智卑狗は河内彦
武埴安彦の祖父だな
0108日本@名無史さん垢版2018/06/13(水) 08:54:41.72
>>760
>大地がほぼ平面ならば谷本が計算しているモデルとは違う
後期高齢者には理解するのは無理だろうが<

谷本さんは、大地は地球球面と、太陽光線はほぼ平行光線という現在の知識からの、
夏至正午の8尺棒の影長が、1尺6寸の地から、1尺5寸の地までの距離や、
1尺6寸の地から1尺7寸の地までの距離の近似値を計算確認され、
それと、「千里」であるという記載から、
「千里は76.3km〜76.9km位になる事を確認された。
0109日本@名無史さん垢版2018/06/13(水) 09:07:31.19
>>761
大和説者はいつもこんな極論断定をやるんだよなぁ。
「魏志倭人伝は間違っていなる」という、「間違った前提」を基礎において
現実ではありえない比定をしようとするる。

>自然国境も何もないところに、古代の国の境がくるはずがないだろうに<

古代の国は、当然居住外縁部が接している場合と、
遼東〜高句麗や、高句麗〜扶余などの場合と同じように、居住外縁部同士がかなり離れていて、
その間は無人地域や、弱小部族集落はある場合がある。
0110日本@名無史さん垢版2018/06/13(水) 09:09:18.35
>>103
この後に続く文が「鉛丹各五十斤」だから、ここの真珠は真朱の誤記は学会でも定説なんだが、異議があるのか?
0111日本@名無史さん垢版2018/06/13(水) 09:14:32.76
>>767
>だから古田が決めた<

いや、史料事実が決めた。

>古田が思いついた商品の里は、中国、韓国、日本では議論されていない<

現在のような後代の、
広域支配国家主義志向が中心の国での「結論先にありき」の権力学者らの議論は、
古代での都合の悪い事実を否定抹殺する事が多くて、
何の信頼性も価値もない。
0112日本@名無史さん垢版2018/06/13(水) 09:27:00.20
>>110

「出真珠」「其山有丹」と真珠と丹は書き分けてる
中国では真珠鉛丹各五十斤なんだが
どの学会で定説? 
0113日本@名無史さん垢版2018/06/13(水) 09:34:38.47
日本の学会
後漢書では「其山有丹」は「其山有丹土」だから真珠は真朱で丹は赤土のことだな。
0114日本@名無史さん垢版2018/06/13(水) 09:41:09.93
>>113

後漢書は「其山有丹 土氣温腝」だよ
0115日本@名無史さん垢版2018/06/13(水) 09:46:41.08
後漢書注
漢籍按:「其山有丹土。氣??」疑為「其山有丹。土氣??」之誤。
0116日本@名無史さん垢版2018/06/13(水) 10:02:55.43
つまり、畿内説は完全に破綻してしまったのだね。。。
0117日本@名無史さん垢版2018/06/13(水) 10:03:06.66
>>106
>周髀算経には、測定結果とした記載がされている。

そう書いてあっても、実測値でないことはバレバレなんだよ
ザラコクさんはきちんと原典を読んでないだろうから知らないだろうけど、
八尺棒の冬至と、春分、秋分の影の長さも書いてある

正午における太陽の影長
夏至:1尺6寸
冬至:1丈3尺5寸
春・秋分:7尺5寸5分

これで、春・秋分が、夏至と冬至の影の長さの平均になっているのが分かるか?
でも、現実には、その平均よりも春・秋分の影の長さは長くないとおかしいんだ

こんなところからも、蓋天説に従って「作った数字」だってことがばれてるんだよ
0118日本@名無史さん垢版2018/06/13(水) 10:04:08.53
後漢書
土氣極寒「東夷列傳第七十五 挹婁」
土氣多寒「南蠻西南夷列傳第七十六 西南夷 冉駹」
土氣溫和「西域傳第七十八 奄蔡」
0119日本@名無史さん垢版2018/06/13(水) 10:04:45.61
畿内説が破綻したことがはっきりした今、纏向遺蹟とは何だったのか研究すれば良いのではないのかな。。。
0120日本@名無史さん垢版2018/06/13(水) 10:05:27.88
>>103
>真朱はもらってないよ

眞珠のことだよ
真珠貝から採れる宝石の真珠ではないとする方が多数説
0121日本@名無史さん垢版2018/06/13(水) 10:08:09.12
>>120

誰の論文に書いてる?
0122日本@名無史さん垢版2018/06/13(水) 10:08:35.93
>>119
そうだね。。。
僕たちは、もう、邪馬台国の議論からは卒業して、畿内説が破綻したことを踏まえた上で、纏向遺蹟とは何だったのかという一段、高いレベルの研究を始めたな。。。
0123日本@名無史さん垢版2018/06/13(水) 10:09:43.85
>>122
最有力の説は、纏向遺蹟大物主倉庫説だね、、
0124日本@名無史さん垢版2018/06/13(水) 10:10:55.84
大物主とは、何者だろうか、、、
0125日本@名無史さん垢版2018/06/13(水) 10:11:46.64
>>124
ネアンデルタール人ではないのかな。。。
0126日本@名無史さん垢版2018/06/13(水) 10:21:44.77
>>113
>後漢書では「其山有丹」は「其山有丹土」だから真珠は真朱で丹は赤土のことだな。

ブブー!
後漢書でも
其山有丹土。氣溫腝
漢籍按:「其山有丹土。 氣溫腝 」疑為「其山有丹。土氣溫腝」之誤

となってるよ
土氣で、土地の気候、くらいの意味

同じ三国志の烏丸鮮卑東夷伝の挹婁で
處山林之間,常穴居,大家深九梯,以多為好。「土氣寒」,劇於夫餘。
という使い方も出ている

後漢書と魏志倭人伝の対応箇所は

後漢書
出白珠青玉 其山有丹 「土氣温腝」冬夏生菜茹 無牛馬虎豹羊鵲

魏志倭人伝
出真珠青玉 其山有丹
「倭地温暖」冬夏食生菜
其地無牛馬虎豹羊鵲

魏志倭人伝の3箇所に分かれている記述を要約してまとめただけ
0127日本@名無史さん垢版2018/06/13(水) 10:46:58.89
>>104
>「南→東」などの嘘つき騙しの大和一元史観教の・・・・が

そもそも現代人は東西南北の四極で方位を捉えることを当然だと思っているが、これとて自明のことではない。

非常に素朴な段階の生活を考えてみると、 初めは地勢によって方位を決めたのである。
例えば一方にしか山がない地域ならば、山側とその逆側、
それに山を前にしてその左右といった捉え方をする。
地域によっては海や川が基準となる。
地形によってはもっと複合的な基準を持つこともありうるだろう。

 しかし行動や交流の範囲が広がると、ある地域でしか通用しない方位観では不便になる。

そこでやっと太陽を仰ぐ。
太陽は、どこから見ても、東から出て、南に昇り、西に沈む。
これによって東西南北の段階に達するが、まだ人類普遍の方位観を獲得したとは言えない。
なぜなら、日の出・日の入りの方角は季節によって変動するので、
どこを正位とするかには選択の余地が残るからである。

 太陽によって東西を決定するときには、日の出・日の入りの、
夏至の日の方角を基準とするか、冬至とするか、その中間にするか、
または季節に従って正位が変動すると考えることもありうる。
だから東と西が一直線で結ばれるとも限らないし、東西南北の領域が四等分されるとも限らない。
方位とはかくも人為的なものなのである。
さらに複数の方位観が併用されるときには、それらを組み合わせてより複雑な方位観が形成されることもありうる。
0128日本@名無史さん垢版2018/06/13(水) 12:29:47.31
いつも太陽が見えてるワケじゃないだろうに
0129日本@名無史さん垢版2018/06/13(水) 14:29:16.18
三輪 能

思えば伊勢と三輪の神。思えば伊勢と三輪の神。一体分身のおん事。今さらなにと岩倉や。その関の戸の夜も明け。かくありがたき夢の告げ。覚むるや名残.なるらん.覚むるや名残.なるらん。

三輪の神さんと伊勢の神さんは一心同体で石。
天の岩戸は関。
関の向こう側に追いやられていた勢力が、ヤマトを征伐し大和朝廷を作ったんだな。

尾張三河には火明命の子孫の神を祀った石作神社がいくつもあるな

あま市 石作神社

石作明神、石作連、火明命。
どういうことだろう。
近隣に美和の地名もある。
三輪、纒向と何か関係あるのかもしれない。
0130日本@名無史さん垢版2018/06/13(水) 14:46:53.87
雨降ったらダメ
0131日本@名無史さん垢版2018/06/13(水) 15:35:01.79
つまり、畿内説は完全に破綻してしまったのだね。。。
0132日本@名無史さん垢版2018/06/13(水) 15:35:27.32
畿内説が破綻したことがはっきりした今、纏向遺蹟とは何だったのか研究すれば良いのではないのかな。。。
0133日本@名無史さん垢版2018/06/13(水) 15:36:12.00
>>132
そうだね。。。
僕たちは、もう、邪馬台国の議論からは卒業して、畿内説が破綻したことを踏まえた上で、纏向遺蹟とは何だったのかという一段、高いレベルの研究を始めたな。。。
0134日本@名無史さん垢版2018/06/13(水) 16:33:19.19
畿内説の学者より、九州説の一般人のほうが知力に長けてるようだな
0136日本@名無史さん垢版2018/06/13(水) 17:16:18.57
>>722
>いや、そんな「原則」を現代人が勝手に作っても、古代人は従わないから <

「居住外縁部」は、陳寿の倭人伝の行程記載で使っているし、
遼東と高句麗や、高句麗と扶余の位置関係の記載でも使われている。
0137日本@名無史さん垢版2018/06/13(水) 17:20:20.38
>>771
>数キロ単位というのがウソだな
われらの短里珍説に合わない、とゴネてるだけ<

倭には漢代にも100国があり、馬韓にも魏代に85国位があった位だから、
倭国乱で減った九州の倭國の30国には、
数キロ単位に国があってもおかしくない地域があっただろうなあ。
0138日本@名無史さん垢版2018/06/13(水) 17:20:58.29
>>772
>ワープというか 里数表記の後、水行二十日、水行十日陸行一月移動している<

陳寿は、「萬二千余里」の女王之所都への部分行程の説明は、里数記載で説明を完結させており、
日数記載は、部分行程の所要日数ではない。

「南→東」などの嘘つき騙しで、行程里数や日数を操作してるのは、
大和天皇家一元列島支配教にクルった・・・・大和説者だけだろ。
0139日本@名無史さん垢版2018/06/13(水) 17:21:36.72
>>777
>福岡の那珂で大和型庄内甕を模倣製作している<

違うね。
柳田に拠って、庄内の最古は三雲であり、
という事は、まず那珂が庄内を模倣し、
更に「東征毛人五十五國」に伝播模倣され、
米田に拠って、播磨や河内が模倣生産して一部を弥生銀座へ搬入上納し、
筑紫からの土器搬入が全くなかった大和からは、弥生銀座への搬入も殆どなかった、
という事が実態。
0140日本@名無史さん垢版2018/06/13(水) 17:22:20.18
>>778
>「魏の使いは福岡から出ていない」とかなんの根拠もない <

不彌國で萬二千余里がほぼ終わっていて、その南に邪馬壹國女王之所都があるから、ほぼ筑紫であり、
魏使自身はそれから他へ行った形跡がないから、
「魏の使いは福岡から出ていない」という事になる。
0141日本@名無史さん垢版2018/06/13(水) 17:23:34.16
>>781
>ザラコクさんはどうせグダグダ言い続けるだろうけど、それ以外の人との理解の共有のために
『周髀算経』にみられる数値について 一 一寸千里説の意味するもの 一
下司 和男 計量史研究 33−1 [39] 2011
「一寸千里則」は、天地が8万里を隔てた平行平面をなすという蓋天説の
 宇宙像から必然的に導き出される法則であって、実測の結果から帰納されたものとは
 考え難い 。」<

こりゃまた・・・・アホの学者だね。
「天地が8万里を隔てた平行平面」だなんて、
始めから誰も知り得ないし、測定不能なもの。

>「『周髀算経』に出てくる「里」は、宇宙を観測する器具である表の影と
 蓋天説の宇宙の定数を結びつける、いわば蓋天説における「宇宙里」とでも
 称すべき単位であって、現実に土地の計測に使われている計量単位である里とは
 異なるものであると認識すべきである。」<

これも下司の・・・・アホの勘繰りだな。
「里」は「田の下に土」だから、田畑の平均的サイズとされた距離単位。

>オマケ 『周髀算経』影の測定<

現代の「南→東」などの嘘つき騙しの大和説学者らの、
周髀算経記載への曲解否定と思われる話など、何の信頼性の価値もなく、
読む暇もないし、読む気もしないし。
0142日本@名無史さん垢版2018/06/13(水) 17:24:46.41
>>782
>福岡は搬入庄内式土器は非常に少ない<

最近ようやく、(佐々木の説とは変わって来て)、
そのような話になって来ているね。
要するに、筑紫は、自前の庄内が中心であり、優勢であった、という事。

>在地の特徴がわずかに残った大和型庄内甕の模倣製作<

これが×。
三雲の方が古いんだし、
搬入上納されたのはわずかに播磨や河内の庄内であって、
大和の庄内の搬入は全くないんだから、
「大和型庄内甕の模倣製作」には全くならない。
0143日本@名無史さん垢版2018/06/13(水) 17:39:13.51
>>142
>要するに、筑紫は、自前の庄内が中心であり、優勢であった、という事。

自前のwww
庄内www

庄内式土器って時点で、畿内様式の「模倣」なんだよ
王のお膝元が、辺境の土器形式を模倣するか?と考えれば、
どちらに政治勢力の中心があったか、すぐに分かる

以前に「よいものは取り入れても何も問題ないだろう」みたいな
言い訳をしていた九州説がいたが、ここで問題になっている土器様式は
「炊飯甕」であり、機能的には西新町式も庄内式も、差はないんだよ
単にデザインの問題であり、庄内式が「優れた」「よいもの」ということではない

それでいて、庄内式が九州でも模倣製作され、布留式で「統一」されるのは、
政治的意思がその背後にあるからだ
0144日本@名無史さん垢版2018/06/13(水) 17:40:29.99
>>784
>それなら、末慮国四千余戸、奴国二万余戸という戸数は出てこない
集落はどうがんばっての百戸単位にしかならない <

それほどでもない。
馬韓でも「凡五十餘國」。
辰韓は「始有六國、稍分爲十二國」。
弁辰は「弁辰亦十二國、又有諸小別邑」だから、いろんな大きさの国がある。

>当時の国は、水系単位〜平野単位と見るのが妥当
水系単位での治水・利水のための共同体が国となっていったと考えるのが自然
平野の中に国境線を引いたら、水利権争いの元にしかならない
そういう視点から見て、末慮国の位置を名護屋浦湾の到達地点で示した、などと
いうのは噴飯もの
末慮国が糸島平野に食い込んでいたというのも、ありえない<

「陸行五百里」というのは、末盧國の居住外縁部〜伊都國の居住外縁部間の里数であり、
当時は、その間に、無人地帯や、微小な部族国家や集落が存在していた可能性がある。
0145日本@名無史さん垢版2018/06/13(水) 17:42:46.75
>>785
>>里程が福岡で終わっている。<

>つまり、里程と日程の両方が書かれている、陳寿は知っていた、っていう説だよね?
投馬国までは何里になるの? 水行20日だけど?<

投馬國は、巨大な側副傍線國の説明であり、魏使らは行っておらず、
水行二十日は、「夷人不知里數、但計以日」であるから、倭人からの伝聞情報であり、
里数は聞かされていない。
0146日本@名無史さん垢版2018/06/13(水) 17:43:58.09
>>789
>魏慶元四年に劉徽『九章算術』註釈本が世に出ました
劉徽はその十章として『海島算経』を書いています
『海島算経』は一歩=六尺、一里=三百歩が前提で答を求めることが出来ます<

劉徽は、(谷本計算が出来なかったんだから)周髀算経の一寸千里からのんだから)里数計算が出来ず、
魏使らの「里」記載や、陳寿の「里」記載も知らなかったアホ学者。

>なお『海島算経』以降でないと三角測量は広まらなかったのではないでしょうか<

簡易三角測量は、既に周髀算経が使っていた。

>裴秀は『禹貢地域圖』を泰始四年〜七年にかけて完成させています
それまでは正確な地図というものは存在しませんでした
詳しくは『晋書』《裴秀伝》に引用されている『禹貢地域圖』序文をお読みください<

裴秀が、周髀算経の北回帰線以北の一寸千里の法や、魏使や郡役人らの地理記録を参照していれば、
多少価値があるが、という程度の事。

>残念なことに正始年に倭を訪問した魏使等は正確に地理情報を得る技術をまだ持ってはいなかったのです<

残念な事に、キミは、
大和説という思想宗教的な結論先にありきのために、
魏使らの計測技術の正確性が理解出来ない、・・・・アホであった、という事です。
0147日本@名無史さん垢版2018/06/13(水) 17:44:38.04
>>794
>教えてもらったことをなぞるなw<

「倍正南方」の意味が理解出来ず、教わった事をなぞるなよ。
0148日本@名無史さん垢版2018/06/13(水) 17:45:25.84
>>800
>東南陸行五百里到伊都國が末盧國の入口から末盧國内を通り抜ける距離を含むなら
東行至不彌國百里も奴国の入口から奴国内を通り抜ける方位と距離にしないと<

奴國は、出発と到着の間に「途中移動の説明文言」がないから、
側副傍線國の説明であり、魏使らは通っておらず、
通り抜けないんだよ。
0149日本@名無史さん垢版2018/06/13(水) 17:46:14.15
>>806
>筑紫日向とか倭人伝にはない 高祖山に遺跡なんかない <

新唐書は、「筑紫城の倭奴國の阿毎氏の、 彦瀲の子の神武が大和へ徙した」と、
はっきり証言している。
0150日本@名無史さん垢版2018/06/13(水) 17:51:02.88
畿内説はもはや成り立たないことがわかった仮説をいつまでもごり押ししているだけだからな。
0151日本@名無史さん垢版2018/06/13(水) 17:53:30.66
>>819
「南→東」だとか「長里だ」とか言い出すと、大和説者は、
ここまで狂って来ちゃうんだなあ。
0153日本@名無史さん垢版2018/06/13(水) 17:58:48.73
>>855
「南→東」などの嘘つき騙しの・・・・アホの詐欺師の大和説者に、
そんなこと要求するのは、魚に鰓呼吸するなと言うようなものだ。
0154日本@名無史さん垢版2018/06/13(水) 18:01:41.05
>>143
畿内が庄内の最古という証拠はどこにもない
むしろ庄内期から乾田はじまるんだから九州からの流入だろう
三雲遺跡の庄内式の件も、三角縁鏡信者は三雲遺跡を古すぎると言い、畿内庄内式信者は新しいと言い忙しいことで
0155日本@名無史さん垢版2018/06/13(水) 18:07:04.45
>>154
>畿内が庄内の最古という証拠はどこにもない

庄内だけの話じゃなくて、畿内第X様式から順に九州に入っているのが
確認されているんだから、あがいても無駄

日本の考古学は、土器形式については世界一細かく見てるから、
通説に逆らっても、ほぼ徒労にしかならないw
0157日本@名無史さん垢版2018/06/13(水) 18:20:09.13
>>866
>周髀算経ってのは、結局のところ、地面と天が平行な二つの平面として
存在しているという蓋天説に立った計算書で、現実世界には合わないんだよ<

そりゃ、周代の周地付近の人が知り得た範囲内での「天地像」だからだ。

>そこにある、二つの平面間が八万里で、棒の長さが八尺とすると、
千里対一寸という比率が出る<

相変わらず、・・・・アホな事を言ってるね。
その八万里とは、周地付近の人には、計測出来るものではない、んだよ。
だから、周地付近での夏至正午の8尺棒の影長の1尺6寸が、
南へ千里行くと一寸短くなるから、その千里を16回繰り返して南に一万六千里行けば、
夏至正午に太陽直下の場所(現在でいう北回帰線)になり、
8尺棒とその影長の作る直角三角形と、太陽直下長と曼千里の作る直角三角形が相似になるから、
太陽高は8万里だ、と求まったんだよ。

>これを一寸千里の法と言っているだけで、実測値ではないし現実の地理と
関わりのある数字ではない <

周地付近での一寸千里の法の測定から、計算された事だ。
0158日本@名無史さん垢版2018/06/13(水) 18:28:36.17
小林行雄氏による弥生土器の編年

@ 弥生土器X様式期に小形丸底鉢(東阿波型土器)の登場

A その後、庄内式大和形甕の登場

                            @阿波
0159日本@名無史さん垢版2018/06/13(水) 18:29:07.30
>>871
>周髀算経ってのは、結局のところ、地面と天が平行な二つの平面として
存在しているという蓋天説に立った計算書で、現実世界には合わないんだよ
そこにある、二つの平面間が八万里で、棒の長さが八尺とすると、 千里対一寸という比率が出る<

この・・・・アホは、その八万里という数字が出て来た根拠が全く説明出来ていない。

>これを一寸千里の法と言っているだけで、実測値ではないし現実の地理と
関わりのある数字ではない <

周地付近の一寸千里の計測から、求まった。
0160日本@名無史さん垢版2018/06/13(水) 18:29:41.52
>>155
ここでいう畿内第V様式なんていうのは何の意味もなく
庄内式が古いか新しいかどちらが起源かの問題
三角縁鏡信者からしたら三雲遺跡は古いんだろ?
なら九州が起源
0161日本@名無史さん垢版2018/06/13(水) 18:45:29.06
つまり、資料が増えて研究が進んだ結果
九州説は日本の考古学者の研究を完全無視するしかなくなってしまった
九州説の考古学者はいない
0162日本@名無史さん垢版2018/06/13(水) 18:46:08.59
>>873
>そういう第一次蓋天説と、もうちょい複雑化した第二次蓋天説が混ざってる
要するに、ちぐはぐな寄せ集め <

いや、周代にあっては、十分な天地像の推論。

>円周率も3だし、<

概数。

>後漢代にはもう古臭い説だった<

後代になれば、知的退化も知的進化も起こり得る事。
また、後漢代の学者も現代大和説学者も、
(谷本さんがされたような)一寸千里の法から千里の距離を計算する、
という事をしなかったし、出来なかった、知的退化したアホであった。

>算術の例題としては難易度がそこそこだったので後世にもよく利用されたが、天文学説としては妄説と呼ばれていた<

後代の天文学者も、知的退化したアホであった。
0163日本@名無史さん垢版2018/06/13(水) 18:47:45.32
反日地球平面説の会
0164日本@名無史さん垢版2018/06/13(水) 18:51:01.49
ザラコクさんてさ、きちんと典拠を示されても、絶対に自分では読まずに
その場の思いつきだけで条件反射的に、ごみコメントを書いて、
スレを浪費するのが目的なんだよなぁ

いい加減にして欲しい
0165日本@名無史さん垢版2018/06/13(水) 18:58:35.43
>>874
>>何で「魏志倭人伝は間違っていない」は「間違った前提」だと言えるの? 根拠は?<

>古代の歴史書で、自国以外のことを書いた文書が「無謬」であると考える方が
そもそもおかしい<

この男も、脳のおかしい・・・・詐欺師。
誰も100%完全な、「無謬」だ、なんて言っていない。
魏使らの実見記録は、はるか後代の史家や現代大和説者の自己解釈よりも、
はるかに客観性が高く、信頼性や確率が高い、と言っているのだ、

>実際、末慮国ー伊都国間も、伊都国ー奴国間も「東南」ではない
つまり、方角が間違っている訳だ<

「東南」は、陳寿の行程記載の規則性からは、末盧國からの出発時点での出発方向であり、
伊都国の方向ではなく、
ほぼ間違ってもいない。

>魏志倭人伝の間違っている部分を実際に示せるのだから、
「魏志倭人伝は間違っていない」と前提とするのは誤りだと確定している<

お前の読み方が間違っていた、とほぼ確定している。

>「正しい部分も間違っている部分もある」として読むのが正しいというよりも当然<

客観的な史料批判に拠って、確率の高い帰納的推論で読むべし、という事が当然。
0166日本@名無史さん垢版2018/06/13(水) 19:04:33.99
中国の歴史家より反日民族団体の解釈のほうが
はるかに信頼性や確率が高いと言っているんだよな
0167日本@名無史さん垢版2018/06/13(水) 19:06:12.44
>>165
>魏使らの実見記録は、はるか後代の史家や現代大和説者の自己解釈よりも、

大和説者の自己解釈じゃなくて、数十年に及ぶ日本の古代史研究の成果としての
比定地の定説から見て、魏志倭人伝の旅程記述は九州上陸直後から正確ではないのは
明白なんだよ

九節論者の無理やり読みや「解読ww」は、本当に無意味な努力

おそらく、「末慮国から東南陸行五百里」は伊都国への旅程ではないし
魏と邪馬壹國(魏志倭人伝表記、これも誤り)との交渉では、
建忠校尉の梯儁さんも、塞曹掾史の張政さんも、末慮国には寄っていない
0168日本@名無史さん垢版2018/06/13(水) 19:08:30.86
>>877
>>自分の頭の中で勝手なルールを作り、それをもとち妄想するのが畿内説。<

>水争い≒土地争いで、そうした紛争が国家形成の原動力というのは、
割に不偏的に見られる歴史の流れなんだがな
まあ、見聞の狭い人には目に入らないのかもしれないが <

まあ、水の共同利用、というのが、
全生物でも人類でも、の生存共存発展の原動力であったんだがな。
まあ、「南→東」などの嘘つき騙しの宗教的な大和説者や、
見聞の狭い・・・・あほには目に入らないのかもしれないが。
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