邪馬台国北部九州説の雑談用(伊都が首都だっちゃ)
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鉄器と絹で平原女王墓で勝利ありがとう
硯と鉄刀子で平原女王墓で勝利ありがとう
東夷伝里で平原女王墓で勝負ありがとう
世界最大の超大型内行花文鏡=八咫鏡で平原女王墓で勝利ありがとう
平原女王墓で勝利ありがとう ダンワラ古墳 金銀錯嵌珠龍文鉄鏡
東大寺古墳 金錯「中平」銘花形飾鐶頭大刀
中平:後漢184-189
狗奴国王が後漢末期の有力者曹操と外交して貰いました。 なんで布留0式なん?
やましい気持ちが無いのなら布留0式と呼んでるのを布留1式にずらして繰り上げろ 布留0式はもう普通に使われてるよ。
九州説者は関川さんのような古い学者の編年が都合良いのであろうが、
もうそんな時代は来ないよ。 帯方郡
韓四千里
四方可四
千方可千
里四千里
三千里狗邪韓 ※7000(水行20日)
(渡海千里) ※8000
対馬
馬(方可四百余里) ※8800余
(渡海千里) ※9800余
壱岐
岐(方可三百里) ※10400余
(渡海千里) ※11400余
末盧(五百)伊都(百)博多駅前陥没地点 ※12000余(水行30日陸行1日) 【三国志東夷伝韓条】
>居所作草屋土室 形如「冢」
【三国志東夷伝倭人条】
>卑弥呼以死 大作「冢」 径百余歩 徇葬者奴婢百余人
一)
同じ三国志東夷伝に「冢」が使われており、
弥生時代の朝鮮半島の住居はちょうど平原遺跡と同じくらいの大きさ。
かつ方形のも円形のもある。
どちらも土を作って作られた建造物の描写。
二)
三国志東夷伝は「東夷伝里」で統一されており、
「東夷伝里」からの径百余歩
=約25メートル
=平原1号+2号(大作冢)+殉葬土壙墓を含む
共通の周濠で囲まれた鳥居も備えた「複合墓域」 >>7
博多駅前陥没地点までは行かないだろうw
日向峠付近かな。 >>8
>卑弥呼以死 大作「冢」 径百余歩 徇葬者奴婢百余人
卑弥呼が死んだので大いに冢を作る
径百余歩に徇葬者の奴婢百余人 >>8
>=平原1号+2号
卑弥呼の墓に「双墓」とか「並墓」などの記述がないから無理だよ >>14
>邪馬台国爺どもスレ立て過ぎだ
それは一部の気のふれた九州説の連中の仕業だよ
だいぶ倉庫送りにして始末したんだけどねぇ 大いに励みたまへ
大きくじゃなくて、
いっぱい
沢山
って意味だよね。
>卑弥呼以死 大作「冢」 径百余歩
1個にとどまらず
なんと2個も冢を作った。 手漕ぎの古代船の場合、平均1.7ノット、最大速で3ノット
天候にも影響されるので、2ノット=時速3.7kmとします
魏の使節が6月頃に来たとして、
朝8時に出航して、交代制かつ途中休憩計1時間で夕方5時まで漕いだとして
8時間×3.7=29.6km(1日に約30km)
地図で帯方郡から半島南岸まで(ソウルから釜山)が、だいたい500km
500÷30=16.7
速度と漕ぎ手労働を多めに考えて約17日ですから、
天候その他のアクシデントも考えると
帆を張って進んだ分を入れて
水行20日は妥当ですね 地図で測定すればわかるが、
帯方郡から半島南岸を経て対馬海峡横断する水行部分の総距離が、
水行800km
よって、水行10日であれば、800÷10=80km/日
水行20日+10日であれば、800÷30=26.7km/日
古代船の最大速度が3ノット=時速5.5km
灯台も無い古代沿岸航海での夜間航海はありえない。
(夜間航海を主張した時点でその説は敗北)
1日10時間全力で航海したとしても、1日に進める最大距離が55km。
里程部分は連続読み
日程部分は並列読み
という主張をして、投馬国を宮崎に比定しようとしても、
現実がついてこない。
文脈としても、
帯方郡から近い土地から先に書くわけなので、
帯方郡→まず投馬国(水行20日)があって→次に邪馬台国(水行30日陸行1日)。 朝鮮半島が統一されていて、
江戸時代の飛脚みたく港港に漕ぎ手が控えていて、
毎日元気な漕ぎ手に入れ替えて全力航海できるなら、でも物理的に無理。
実際には馬韓は小国の集まりで統一されていないし、
魏は楽浪帯方を戦争で奪ったばかりだから、
そのような航路整備などなされていない。
また、天候不順や病気などの体調不良なども考えれば、
水行10日で800kmは絶対に不可能。
水行20日で宮崎までというのは机上の空論。 >>19
>1個にとどまらず
>なんと2個も冢を作った。
こんなことを書いて、それに説得力があると思ってるなら
本格的に終わってるなw
平原1号墓が卑弥呼の墓だと言わないといけない時点で、
北部九州説はないよ >>23
まったく反論になっていないな。
議論ができない人?
大は大きさだけじゃなくて、程度がすごいとか、数量が大きい、という意味もある。
だから、
普通の墓は一つの冢なのに、家臣の冢までくっつけている様を
>卑弥呼以死 大作「冢」 径百余歩
と表現したわけだ。
という、しごくまっとうな話。 【三国志東夷伝韓条】
>居所作草屋土室 形如「冢」
【三国志東夷伝倭人条】
>卑弥呼以死 大作「冢」 径百余歩 徇葬者奴婢百余人
一)
同じ三国志東夷伝に「冢」が使われており、
弥生時代の朝鮮半島の住居はちょうど平原遺跡と同じくらいの大きさ。
かつ方形のも円形のもある。
どちらも土を作って作られた建造物の描写。
二)
三国志東夷伝は「東夷伝里」で統一されており、
「東夷伝里」からの径百余歩
=約25メートル
=平原1号+2号(大作冢)+殉葬土壙墓を含む
共通の周濠で囲まれた鳥居も備えた「複合墓域」 キナイコシは議論できないから問い詰めたら可哀想だよ >>25
>普通の墓は一つの冢なのに、家臣の冢までくっつけている様を
家臣の冢をくっつけるってことは、家臣と王との権力の格差が小さいってことだ
吉備でも出雲でも丹波でも大和でも、そんな情けない王墓はないぞ
前から何度も書いているんだが、平原1号墓と書かずに平原遺跡と書くなら
平原5号墓や、3号墓・4号墓のことも合わせて考えていかないと!
でも一族の家族墓地である平原遺跡に、王墓級が一つもない >>26
>=約25メートル
>=平原1号+2号(大作冢)+殉葬土壙墓を含む
また嘘を書いてるww
何度も書いているが、平原遺跡の平面図をきちんと確かめなさい
25メートルを測るところなんてないぞww
そして、歩が25センチなんて あ・り・得・な・いww
そんなでたらめに頼らないといけない時点で、
でたらめですっていう自白でしかない >>28
>家臣の冢をくっつけるってことは、家臣と王との権力の格差が小さいってことだ
共立された女王だからな。
そんなもんだろう。
>でも一族の家族墓地である平原遺跡に、王墓級が一つもない
共立された女王だからな。
記紀にも記されていない。
そんなもんだろう。
三雲南小路などの正統系とはちがうってことだ。 >>29
>二)
>三国志東夷伝は「東夷伝里」で統一されており、
>「東夷伝里」からの径百余歩
>=約25メートル
>=平原1号+2号(大作冢)+殉葬土壙墓を含む
>共通の周濠で囲まれた鳥居も備えた「複合墓域」
これで合ってるね。
なんかまたキナイコシ独自の特別ルールでも使ってるのか? >>31
>=平原1号+2号(大作冢)+殉葬土壙墓を含む
>共通の周濠で囲まれた鳥居も備えた「複合墓域」
バカみたいに意味のないコピペを繰り返し貼ってないで、
具体的にどこからどこまでが25メートルなのか示してくれっていうのにw
そして、25メートルにするには歩が25センチじゃなきゃならないんだが、
歩は複歩だしどうやっても25センチなんていう短い長さにはならないぞw >>32
1号墓と2号墓を囲む共通の周濠の長径
きっちり25メートル
三国志東夷伝は東夷伝里で統一記載されており、
東夷伝里だと径百余歩は約25メートル
以上はどちらも事実。 >>33
私もそう思っている。
江戸時代に距離を測る専門家は、歩幅をきっちり合わせる訓練を受けていたらしい。
普通に歩く歩幅というのは、その日の体調などに左右される部分も出てしまうけれど、
足の大きさは一定。
足の長さであれば、日によって変わることも無いから、
官吏一同が、物差しを元に自分の足の長さを測っておく、
あるいは自分の足のどの部分までが一歩かを測っておけば、
自分の足の長さが正確な物差しとなるわけだね。
中央での尺=23センチ=東夷伝里の歩
と考えてみようかな。 【三国志東夷伝韓条】
>居所作草屋土室 形如「冢」
【三国志東夷伝倭人条】
>卑弥呼以死 大作「冢」 径百余歩 徇葬者奴婢百余人
一)
同じ三国志東夷伝に「冢」が使われており、
弥生時代の朝鮮半島の住居はちょうど平原遺跡と同じくらいの大きさ。
かつ方形のも円形のもある。
どちらも土を作って作られた建造物の描写。
二)
三国志東夷伝は「東夷伝里」で統一されており、
「東夷伝里」からの径百余歩
=約25メートル
=平原1号+2号(大作冢)+殉葬土壙墓を含む
鳥居も備えた「複合墓域」の共通する周濠の長径 【三国志東夷伝韓条】
>居所作草屋土室 形如「冢」
【三国志東夷伝倭人条】
>卑弥呼以死 大作「冢」 径百余歩 徇葬者奴婢百余人
一)
同じ三国志東夷伝に「冢」が使われており、
弥生時代の朝鮮半島の住居はちょうど平原遺跡と同じくらいの大きさ。
かつ方形のも円形のもある。
どちらも土を作って作られた建造物の描写。
根拠:三国志東夷伝
二)
三国志東夷伝は「東夷伝里」で統一されており、
「東夷伝里」からの径百余歩
=約25メートル
=平原1号+2号(大作冢)+殉葬土壙墓を含む
鳥居も備えた「複合墓域」の共通する周濠の長径
根拠:実測 >>33
>俺の足の長さは26センチだ。
靴の大きさじゃなくて、足の長さ?
どんだけホビットなの?ww >>34
>1号墓と2号墓を囲む共通の周濠の長径
>きっちり25メートル
嘘を書いちゃいかんよ
それ、20メートルないよ
平原1号墓の長径が12メートルだから、2号墓と2つ分に周溝を足して25メートルとか
都合のいいことを考えているんだろうけど、2号墓は平原1号墓の短軸方向に並んでいて
1号墓の墳丘横幅は8メートルくらい、2号墓は1号墓より小さいし周溝を入れても20メートルない
平原遺跡のどこを測っても25メートルにはならないよ
そもそも墓二つで径百歩なんて書いてないし
1歩25センチってのも、妄想もいいとこ >>34
>東夷伝里だと径百余歩は約25メートル
何度嘘を書いても、「歩」が複歩なんだから、1.35mより極端に小さい値を
歩だと言い張るのは無理だよ >>35
>江戸時代に距離を測る専門家は、歩幅をきっちり合わせる訓練を受けていたらしい。
江戸時代でも、複歩で測っていた記録は伊能忠敬他、山ほどあるよ
>普通に歩く歩幅というのは、その日の体調などに左右される部分も出てしまうけれど、
だから正確に測ろうとしたら、ある程度訓練がいるけれど、概算距離なら誰でも測れる
径百歩程度の丸めた値なら、まったく問題ない
>足の大きさは一定。
それを継ぎ足しながら歩くのはメチャクチャ苦痛だよ
一度やってみなよ
斜めになったりするし>>35の創造より誤差は大きいし3桁測るのは超大変
そもそも尺と変わらない長さなら、尺で測るだろ?
根本から矛盾だらけなんだよ
平原1号墓を卑弥呼の墓と言いたいがためだけに、
捏造上等の嘘をつき続けるのはいかがなものか
平原1号墓が径百歩にほど遠いというのは、
要するに卑弥呼の墓じゃないってことだよ
そして、平原1号墓以外には卑弥呼の墓の候補すらない
つまり九州説(伊都国説)は成り立つ余地すらないってことだ >>37
>【三国志東夷伝韓条】
>居所作草屋土室 形如「冢」
>【三国志東夷伝倭人条】
>卑弥呼以死 大作「冢」 径百余歩 徇葬者奴婢百余人
>一)
>同じ三国志東夷伝に「冢」が使われており、
>弥生時代の朝鮮半島の住居はちょうど平原遺跡と同じくらいの大きさ。
「形が同じ」としか書いてないのに、それを「大きさが同じ」に脳内変換してもダメだよ >>44
>それを継ぎ足しながら歩くのはメチャクチャ苦痛だよ
>一度やってみなよ
長い距離を測ろうと思ったらつらいだろうが、数十メートルの範囲であれば精度が高くて良い方法だよ。 >>44
>そもそも尺と変わらない長さなら、尺で測るだろ?
そうそう。
だから尺よりずっと短い足の長さなのでは? >>46
>長い距離を測ろうと思ったらつらいだろうが、数十メートルの範囲であれば精度が高くて良い方法だよ。
実際にやってごらんよ
バランス感覚の悪いやつだとすぐに転ぶし、靴でも履いてなければ、
足先のどこにかかとを合わせるかってところから不確実になるよ
現代人の靴は固いから、そういう感覚が分からないんだろうけど
机上の空論だよ
全然便利でも、正確でもない >>47
>だから尺よりずっと短い足の長さなのでは?
おいおい、漢尺は23.1センチで、
>>47が主張している「インチキ歩」は25センチじゃないのか?
歩の方が長いじゃないか?
何度も何度も言うが、「歩」はもともとが「身体尺の複歩」だから、
複歩以外で測るのはありえないんだよ
25センチの歩を主張するなら、単歩が12.5センチになる
そんな歩き方はない! 東夷では複歩ではなかったかもしないぞ。
里が1/5だったのだから、歩も1/5でもいいかも。 >>50
そんな報告を魏本国にして役人クビにならんのか? >>50
>里が1/5だったのだから
つまり、里が1/5だったってのも嘘なんだよ
九州説の前提、全崩壊w >>50
>東夷では複歩ではなかったかもしないぞ。
かもしれないとか言い出したら、なんでもアリだ
魏志倭人伝に書かれていることは、
全部正しいかもしれないし、
全部間違ってるかもしれない
これと同じレベルw
妄想を「かもしれない」で正当化しようとしても無駄 >>52
>つまり、里が1/5だったってのも嘘なんだよ
嘘だという根拠は? >>54
明らかに嘘な一歩25センチと連動させたから 単位や尺度を創作して、それに合った合ったとはしゃいでも何も意味がない まず、一歩=25センチが嘘だってのを確認してくれ
話はそれからだ
「歩」は文字の成り立ちからいっても複歩
https://f.jigen.net/img/fn/k/1/70/27497o1.png
#1歩(あゆ)む。足をふみ出してゆく。
#2歩(ある)く。歩行する。
#3止は左足の足あと、𣥂は右足のあしあと。左右の足あとを連ねて歩行の意とする。武は半歩、歩は六尺、合わせて「歩武堂々」のようにいう。足を地に接して歩くことは、その地の地霊に接する方法で、重要な儀礼に赴くときには歩するのが常法であった。(字通)
#4右の足+左の足。左と右の足をふみ出すことを示す。(漢字源)
https://jigen.net/kanji/27497
説文解字
步,行也。从止𣥂相背。凡步之屬皆从步。
行くなり、止と𣥂の相背に従ふ、凡そ步の屬は皆な步に従ふ。 実際の大陸の度量衡でもすべて複歩の長さ
長さとしての歩は、古代中国の周代に制定された。
右足を踏み出し、次に左足を踏み出した時の、起点から踏み出した左足までの長さ
(現代日本語でいう「2歩」)を「1歩」とする身体尺
周歩=約 1.35 m
秦漢歩=約 1.38 m(始皇帝の度量衡の統一)
魏晋歩=約 1.45 m
隋歩=約 1.77 m
唐歩=約 1.56 m(1歩=6尺から1歩=5尺に変更) 伊能忠敬の歩測では、複歩で約138センチで秦漢代の一歩とほぼ等しい
単歩で69センチだな
現代では、歩測は複歩で150センチになるように調節する訓練をするそうだ
この場合は単歩で75センチ
ソースも付けておこうか
http://www5a.biglobe.ne.jp/kaempfer/kodomo/taiken/hosoku/hosoku.htm
さらに、年齢別の単歩の集計結果も見つけたので、貼っておく
男性は、15歳から49歳の範囲で、70センチを超えてるよ
https://pt-matsu.com/wp/wp-content/uploads/2017/11/a94943a9de0a8cbd0c25e72e0ba1dd7b-1.png 実際に歩測する場合には、長くなったり短くなったりは当然にあるだろう
個人差もあるし
でも、複歩である以上、25センチなどという値には絶対にならない
これを認められないようなら、史料批判をする能力がないということだから
何を言っても無駄だよ 「宇宙より遠いところ」
足の長さで距離を測っていたな。
あれは自衛隊式なのかな? >>63
>「宇宙より遠いところ」
「宇宙よりも遠い場所」のまちがいか?
それとさっきから「足の長さ」って何度も言っているのが気持ち悪い
普通の日本人の感覚だと、「足の長さ」は股下長を指す
今、九州説の人間が無理読みで主張しているのは「足底長」
説文解字の咫に、中婦人手長って出てくるのにつられてるのかもしれないけれど、
日本人の感覚と違う
それから、自衛隊でも複歩で歩測してるよ
この辺を参照してみ
https://blogs.yahoo.co.jp/dfm92431/25595395.html
アニメの中の計り方は知らん あ、そうそう「宇宙より遠い場所」だ。
つま先と踵をつけて距離を測っていた。 「宇宙よりも遠い場所」か。
すごく適当に覚えていたな。 公式サイトに南極探検隊のインタビューが載っていて、靴の長さ25センチと、一歩70センチを基準にしているそうだ。 >>67
>公式サイトに南極探検隊のインタビューが載っていて、靴の長さ25センチと、一歩70センチを基準にしているそうだ。
http://yorimoi.com/special/clg-4.html
本吉:実際もそうですよ。靴の全長25cmで何歩とか、一歩70cmで何歩とか。
でもこれ、現在の一歩=単歩=跬であって、「歩」じゃないだろ?
大陸史書の「歩」は、あくまで複歩 まだまだです
テンプレ部分的には畿内説で正解
情報が多いと思うが
膨らませない方が良い
支離滅裂のテンプレが現状
ストリー制を持たせると
一つの論調にはなる
がんってください 最近の畿内説論者は心が無い
「心を込めて夢づくり」
夢が真実になるには「心を込めて」
邪馬台国とは永遠に結論が出ない
考古学しかり
「漢委奴国王」印も結論は出ていない
心をこめて論戦するのが邪馬台国論叢
現状 結論は各説 自己満足です
学会のドロドロは別にして
やや九州説が優位かなと思う今日この頃 自由律・瘠土・春期・大天井・ポート・egress・非運/悲運・残虐・有用・弟一年ドの叫きょう
・稲挙ぐ・句点・special・外懐・去秋・高額・客語・軽油・硬骨魚類・浅瀬 >>74
そんな丸写しするのも
九州説じいさんに脳が無い証拠 まあ、ここはキウスとかが立てた畿内説の背乗りすれじゃないし、
雑談用スレだから、ゆる〜くいけばいいのかもね 【三国志東夷伝韓条】
>居所作草屋土室 形如「冢」
【三国志東夷伝倭人条】
>卑弥呼以死 大作「冢」 径百余歩 徇葬者奴婢百余人
一)
同じ三国志東夷伝に「冢」が使われており、
弥生時代の朝鮮半島の住居はちょうど平原遺跡と同じくらいの大きさ。
かつ方形のも円形のもある。
どちらも土を作って作られた建造物の描写。
二)
三国志東夷伝は「東夷伝里」で統一されており、
「東夷伝里」からの径百余歩
=約25メートル
=平原1号+2号(大作冢)+殉葬土壙墓を含む
鳥居も備えた「複合墓域」の共通する周濠の長径 よそのスレでも書いたけど、形が似てると大きさが似てるってのをわざと混同してるだろ
そして、1号墓と2号墓を合わせても25メートルにはならないんだ
インチキはダメだよ
歩も複歩だしw 3号墓から5号墓までも墓域に含まれるんじゃないの?
甕棺墓のは1号2号より前だろうから当時存在しただろうし。
張政から見たら1号2号と区別がつかなくて全部卑弥呼の墓域に見えたのだろう。 含まないよ。
1号2号の共通する周濠で囲まれた墓域だ。
塚は土を盛った墓、墓所、という意味であり、
塚という語の中に、墓域という概念がもともと含まれている。
辞典をみたらいい。
1号2号を囲む明確に区分けされた墓域の長径
=約25メートル
=東夷伝里で百余歩 >>81
>1号2号を囲む明確に区分けされた墓域の長径
>=約25メートル
逃げ回ってるんじゃねーよ!
>>81の想定する1号2号を合わせた範囲で20メートルに届かない
遺跡の平面図を確認してみろって、何度と書いてるのに、無駄なことを所期続ける
>=東夷伝里で百余歩
東夷伝里などはない
さらに、歩は複歩だから、個人差はあっても極端に短いのはありえない
1歩25センチとしている時点でトンデモ
二重三重にありえない こういう二重、三重のインチキを重ねないと、平原1号墓は卑弥呼の墓にならない
つまり、卑弥呼の墓ではないんだよ
卑弥呼の墓のない「伊都国が都」説はナンセンス
伊都国説は最初から成り立つ余地がない >>86
北部九州地域に卑弥呼の墓はないって決めつける理由はないってことですね。 北部九州地域に卑弥呼の墓はないって決めつけていいだろう
理由がある
九州説が生まれて240年
ついに候補地が絞れないままだったから 畿内説も未だ本命の卑弥呼の墓が見つからないから
畿内説がなり立つ余地がないですね。 畿内説で本命の卑弥呼冢なら見つかっているが?
大人の事情で発掘できないだけ >>89
こういうウソを平気でつくから
伊都厨は毛嫌いされる 見つかっているよ、
家の嫁の話なんだよ、神代〜代々の嫁という話 >>88
>ついに候補地が絞れないままだったから
昭和の末期、ついに平原遺跡という最有力候補が発見された。
九州説は仮説ではなく、考古学的にピンポイントで遺跡を持つ有力な説となった。 いまは群馬(藤ノ木というところ)から来た人が、
そうなんだよ、それでも数十年前の話 『藤ノ木古墳』
というのがあるでしょ、そこ(地名)から付けたんだと思う 【卑弥呼の王宮の候補】
・高祖宮
魏志に伊都国と記された糸島市にある。
糸島平野と福岡平野の間にあるクシフル山があり、福岡に通じる峠を日向峠と呼ぶことから、高祖宮は記紀にある筑紫の日向の高千穂宮に比定できる。
高千穂宮は天孫ニニギが八咫の鏡を伴って筑紫の王として即位した宮であり、神武天皇が東征に出発した宮でもある。
後にこの地に建設される怡土城、高祖城はクシフル山の山頂を含む中国式山城であり、高千穂宮の名にふさわしい。
糸島平野にある三雲南小路遺跡はニニギと木花咲耶姫の墓と伝えられる。
高祖宮の目の前の平原遺跡からは、ニニギ王家の家宝である神宝八咫の鏡が出土している。
伊都高祖宮こそ倭国の王都であり、平原遺跡は倭国女王卑弥呼が被葬者の最有力候補である。
・橿日宮
現在の香椎神宮。
卑弥呼の後継者となる筑紫の女王の一人として、景行天皇の時代に筑紫の梟帥の称号と八咫の鏡を持つ神夏磯姫(神橿日姫)がいて、その名からはおそらく橿日宮に住んでいたと思われる。
景行天皇の孫の仲哀天皇も橿日宮を拠点としており、代々の筑紫の王宮として用いられていたと考えられる。
魏志では不弥国に比定されることが多く、ここまでは距離が明記されているので郡使が往復したことは確実である。何のために往復したのかと言えば、卑弥呼に会いに行った可能性がある。
・高良宮
筑後一宮。高良大社や高良玉垂宮などからなる複合施設だが、後世の仏教との習合や神仏分離などの影響による。
近隣には卑弥呼もしくはそれに近い人物の墓と言われる祇園山古墳がある。
卑弥呼が筑後出身ならば、高良宮が元宮だったかもしれない。
郡使が滞在した伊都国までやや遠いのと、魏志倭人伝に該当する記事もないのが不利。
すると祇園山は壹與の墓か?
いずれの宮も聖地である山の西の麓にあり、王は太陽を背にして君臨したと考えられる。
これは倭国が太陽信仰をもとにした祭政一致体制であったためである。
その象徴となるのが王位の証である八咫の鏡などの内行花文鏡である。
平原遺跡に見られる鳥居や御柱などは、3世紀において神道が成立していたことを示す。
卑弥呼が用いたと記録された鬼道も、三種の神器や榊を用いた神道の儀式であったはずである。 >>95
で?
そこが卑弥呼の墓だと言っている人の名前は? 『藤ノ木古墳』でしょ、サトシと言う名前の子がいて、弟(次男)だとか 成り済まし、騙り、何でも良いんだけど刑務所に行け
どこの国の人間なんだ? >>92
>東魚是国の遺跡
これの典拠は何?
なんて読むの?w >>105
魏志倭人伝。読みは、3世紀の日本に行かないとよくわからない。 >>106
>魏志倭人伝。
三國志卷三十/魏書三十/烏丸鮮卑東夷傳第三十は、端から端まで読んでるけど、
「東魚是国」こんな文字列はどこにもないぞ
いい加減なことを言わないように!
というところで、漢書の「東鯷人」だな
會稽海外有東鯷人 分爲二十餘國 以歳時來獻見云
魏志倭人伝にはないよ
まあ、この辺から「當在會稽、東冶之東」なんてのが出てくるんだろうね
一大国と不弥国が「家」で、ほかが「戸」だったり、統一もないし
いろんな情報が、結構ごっちゃになってるのが魏志倭人伝 >>107
キナイコシの人は、本当に意味のあることを書かないよね
あ、書けないの方が正しいかなw 平面図で平原1号と2号を囲む周濠の長径を測ったら、
25メートルにしかならないのだが、
キナイコシに説明求む。 平原1号の棺のちょい長いのが5メートル
平原1号の縦長がその3倍だから15メートル
平原2号が10メートル強
平面平面と言ってるから、
実測図は立体で、平面だと別って言いたいのかな?
けど実測図は平面であって、
よく考えたら魏使が実際に歩いて測定したのなら、
逆に立体的に歩いて歩数が増える=実際のメートルよりも歩数のほうが多くなる
立体と平面でこだわるのなら、
ますます九州説に有利になるんだけど、何が言いたいの?
キナイコシはよくわからんw 音楽家、芸能人か何かの話?
そろそろ頭の病院に行けタコ 言ってる意味が、わからないんだろう?
と聞いているんだよ >>113
>平原1号の棺のちょい長いのが5メートル
>平原1号の縦長がその3倍だから15メートル
その15メートルは、周溝を入れたサイズで、周溝を抜くと
12メートルくらいにしかならない
そしてこれは長軸方向
横向きの短軸方向の墳丘部分は8メートルくらい
>平原2号が10メートル強
これも、周溝を入れての大きさ
2号墓は長方形ではないので、短径、長径の区別はなく
墳丘サイズは8メートルくらい
そして、>>113が平原遺跡の平面図を知らないだろうといわれる原因は
2号墓が1号墓の短軸方向に並んでいることを分かっていないから
墳丘幅8メートル×2、
二つの墳丘の間の周溝は共有しているから、最大幅をとると周溝が3本分
それぞれ1メートルくらいだから、トータルで
8×2+1+1+1=「19メートル」
周溝幅をもう少し広く見ても、どうやっても25メートルにはならない
>平面平面と言ってるから、
>実測図は立体で、平面だと別って言いたいのかな?
そんな話じゃなくと、そもそも墓の並びからして分かってないって話
縮尺のない図だけれど、これで1号墓と2号墓の並び方は分かるだろ?
https://plaza.rakuten.co.jp/yamataikokunoaho/diary/201804170000/ >>116
あーあ
ガッカリ
周溝を入れた「墓域」が25メートルって
何度も何度も周知しているのに、
結局はマイルールですか
平原1号+2号を囲む共通の周溝の長径は
25メートル
あなたには失望しました。
立体と平面の違いなどを持ち出してくれたら
議論の余地もあったのですが 【三国志東夷伝韓条】
>居所作草屋土室 形如「冢」
【三国志東夷伝倭人条】
>卑弥呼以死 大作「冢」 径百余歩 徇葬者奴婢百余人
一)
同じ三国志東夷伝に「冢」が使われており、
弥生時代の朝鮮半島の住居はちょうど平原遺跡と同じくらいの大きさ。
かつ方形のも円形のもある。
どちらも土を作って作られた建造物の描写。
二)
三国志東夷伝は「東夷伝里」で統一されており、
「東夷伝里」からの径百余歩
=約25メートル
=平原1号+2号(大作冢)+殉葬土壙墓を含む
鳥居も備えた「複合墓域」の共通する周濠の長径 塚は土を盛った墓、墓所、という意味であり、
塚という語の中に、墓域という概念がもともと含まれている。
辞典をみたらいい。
1号2号を囲む明確に区分けされた墓域の長径
=約25メートル
=東夷伝里で百余歩 畿内説はマイルールを積み重ねないと維持できないんだよ。
いつものことだ。 はい、残念
二)
三国志東夷伝は「東夷伝里」で統一されており、
「東夷伝里」からの径百余歩
=約25メートル
=平原1号+2号(大作冢)+殉葬土壙墓を含む
鳥居も備えた「複合墓域」の共通する周濠の長径 >>123
堂々と決闘を申し込もう!
三国志東夷伝の中で、
長里で記載された部分はあるのか?
それともないのか?
Yes or No
はっきりと答えてもらおう!
誤魔化したら負けだ!!! >>127
>>128
あらら。
真っ向勝負はできないのか。
キナイコシの負けw 平面図で平原1号と2号を囲む周濠の長径を測ったら、
25メートルにしかならないのだが、
キナイコシに説明求む。 自分がひとりだから相手もひとりと決めつける伊都クズwww >>131
で、どうやったら25メートルじゃなくなるのか
説明してくれ
きっちり25メートルなのに
純粋に不思議だ >>131
>>126からも逃げですか
キナイコシは負け犬だなあw キナイコシなんて言葉で逃げまくる詐欺師だからな
質問しても返ってこないよ無駄無駄 質問の返事がないねえキナイコシさん
誤魔化すのに必死ですかw で、どうやったら25メートルじゃなくなるのか
説明してくれ
きっちり25メートルなのに
純粋に不思議だ だよな
俺様のスレに無意味な連投すんなよキナイコシ
はっきり言うわ
「失 せ ろ ク ズ」 ごめん
キツく言いすぎたっちゃダーリン
「失 せ ろ キナイコシ」
くらいに
しとくんだっちゃ
ダーリン キナイコシはどう測定したら25メートルじゃなかったのか
それを問われて逃げたら
今後は一切口出しできなくなるぞ? >>146
俺様のスレだぞ?
質問に
答えられない お前が クズだぞ
キナイコシ >>148
畿内説スレを散々荒らしといて「俺様のスレだぞ」とか、ゴーマンですね >>151
は?
そんな辺境の基地外スレがなんだって???www 平面図で平原1号と2号を囲む周濠の長径を測ったら、
25メートルにしかならないのだが、
キナイコシに説明求む。 >>153
だからそんなん知らんって
お前の中ではライフワークかもしれんがw >>155
俺はそんなん知らん
どーでもいい
で、お前は何してるん? >>157
平面図で平原1号と2号を囲む周濠の長径を測ったら、
25メートルにしかならないのだが、
キナイコシに説明求む。
議論したいだけなのだが。
どういう精神構造してるのか謎だわw >畿内説スレを散々荒らしといて「俺様のスレだぞ」とか、ゴーマンですね
荒らすったって
もう書きこみすらしようのない荒れ地に
踏み入れる気力もないわなw
このスレに書きこんで
返事もせずに騒ぐだけとか
キナイコシってなんなん?w >>163
>平面図で平原1号と2号を囲む周濠の長径を測ったら、
>25メートルにしかならないのだが、
>キナイコシに説明求む。
>議論したいだけなのだが。
>どういう精神構造してるのか謎だわw
キナイコシ
詐欺師だから議論できないんだね。 >畿内説スレを散々荒らしといて「俺様のスレだぞ」とか、ゴーマンですね
荒れ地を荒らすにはどうしたらいいのか?
キナイコシはよくわからんわあw 平面図で平原1号と2号を囲む周濠の長径を測ったら、
25メートルにしかならないのだが、
キナイコシに説明求む。 漢代から楽浪郡があったわけだし
魏は楽浪で軍事行動を起こしたわけだし
そんな実務を濃密に行った地域の里が全て東夷伝里で記載されている。 >>117
>周溝を入れた「墓域」が25メートルって
>何度も何度も周知しているのに、
>結局はマイルールですか
>平原1号+2号を囲む共通の周溝の長径は
>25メートル
これが大嘘だって言ってるんだよ!
いろんなところに発掘記録の平面図が出ているから、測ってこいっての!
25メートルという数字は出てこない
私のマイルールではなく>>117の勝手なルールに合わせて測っても、
25メートルにはならない
そもそも、1号墓と2号墓は「横」並びだから、
1号墓の縦の墳丘サイズを2倍するのはまったく意味がない >>117
そもそも、卑弥呼の墓、つまり女王一人の墓と書いてあるのに
「墓二つ分」として「墓域を勝手に設定」するのは、
「>>117のマイルール」に過ぎない
さらに、「冢」の大きさを論じるのに「周溝の幅まで入れる」のも
「>>117の勝手なマイルール」
前は、魏使は外交の場では厳かにぽくぽく歩くとかのマイルールも
語ってた(騙ってた)し、九州説のやることなすことは、本当に
恣意的で自分勝手だ >>117
フォトショップ使って、平原遺跡の1号墓と2号墓の周溝まで含めた範囲の
長径を測って来たよ
「22.9メートル」だ
20メートルは越えてたな
周溝幅が、思ったより広く描かれてた
その点は私の見積もりも甘かったが、
やはり絶対に25メートルという大きさにはならない
今度は、「1歩が22.9センチ」だって主張してみるかい?w >>166ほか
人が留守にしている間に一生懸命イキってたんだなww
こっちも24時間張り付いてるわけじゃないからw
せっかくのワールドカップくらいは楽しみなよw 「キナイコシ連呼の人」は、本当に人として恥ずかしいね
事実はきちんと事実として把握しよう! >>171
キナイコシは、本当に人として恥ずかしいね
事実はきちんと事実として把握しよう! 冢って言えば土盛りのことだろ
溝で区切られた2つの塚を合わせて長径とか言うのがもう無理ありすぎなのにな
それでも寸法が合わないのに言い張るって横車がひどすぎる しかも、「自分が勝手に決めた」=「マイルールの領域の大きさ」を
実際に計りもせずに、「自分が勝手に決めた」=「根拠なしの25メートル」と主張してるんだぜ
その「根拠なしの25メートル」は、一歩を「自分で勝手に25センチ」と決めて、
その百歩だから、25メートルという本末転倒さ
一応、短里は75メートルだから1里=300歩で、1歩=25センチ
というのが「根拠」のつもりらしいけれどw >>177
>一応、短里は75メートルだから1里=300歩で、1歩=25センチ
根拠があるじゃん。 >>177
短里=75メートルというのが、そもそも根拠なしだから、
根拠にならないものを根拠と言い張っても無駄ってこと 【三国志東夷伝韓条】
>居所作草屋土室 形如「冢」
【三国志東夷伝倭人条】
>卑弥呼以死 大作「冢」 径百余歩 徇葬者奴婢百余人
一)かたち
同じ三国志東夷伝に「冢」が使われており、
弥生時代の朝鮮半島の住居はちょうど平原遺跡と同じくらいの大きさ。
かつ方形のも円形のもある。
どちらも土を作って作られた建造物の描写。
二) おおきさ
三国志東夷伝は「東夷伝里」で統一されており、
「東夷伝里」からの径百余歩
=約25メートル
=平原1号+2号(大作冢)+殉葬土壙墓を含む
鳥居も備えた「複合墓域」の共通する周濠の長径 >>179
それは魏志倭人伝と実際の地理から求められる。 >>140で「きっちり25メートルなのに 」って言ってたのに
>>180では「=『約』25メートル 」
はっきり屑野郎だって分かんだね
>>180の言うとおりに測っても、「22.9メートル」だ
いい加減に嘘で押し通そうとするのはやめな!
墓二つ分で計るのがまずインチキ
短里はない
末慮国−伊都国間と、伊都国−奴国間とで4倍違うものが一つの単位ってことはあり得ない
末慮国の比定地をご都合主義で動かすのもインチキ
「殉葬土壙墓」なんてものもない
1号墓の周溝が埋まってから、その埋まった土を掘った「土壙」墓なんだから
1号墓とは埋葬時期が数十年単位でずれてる
そんな殉葬はあり得ないのは、日本語を普通に使う人間なら分かるよなww >>183
>1号墓の周溝が埋まってから、その埋まった土を掘った「土壙」墓なんだから
根拠は? >>184
前から何度も書いてるけどさ、平原1号墓、2号墓の平面図ちゃんと見てるか?
1号墓の墳丘上にも土壙墓があるんだぞ
1号墓に埋葬された人物への尊敬は、あまり長くもたなかったようだね >>180
>一)かたち
>同じ三国志東夷伝に「冢」が使われており、
>弥生時代の朝鮮半島の住居はちょうど平原遺跡と同じくらいの大きさ。
「かたち」で書き出して、「同じくらいの「大きさ」」に話をずらすww
根っからの「妄想」「捏造」体質なんだよな >>186
平原遺跡が卑弥呼の墓であることへの反証にはならない。
卑弥呼が記紀に登場しないということは、比較的早くにその権威が忘れられてしまったということ。
つまり、平原遺跡が卑弥呼の墓である可能性は、むしろ高いということだよ。 >>188
>平原遺跡が卑弥呼の墓であることへの反証にはならない。
平原「1号墓」が卑弥呼の墓であることへの反証は
>>183その他でたっぷり書いてある
>>188は、周溝の土壙墓が、殉葬墓ではないことの傍証
もともと、土壙が周溝の底の土ではなく、周溝が埋まった土層を掘ることで
作られている時点で殉葬墓ではない
殉葬墓があるから卑弥呼の墓というのは、完全に見当違い
そもそも、平原1号墓が卑弥呼の墓であるとするべき根拠が一つもないのだから、
反証する必要を感じない
存在しない説など、否定する必要がない
>卑弥呼が記紀に登場しないということは、比較的早くにその権威が忘れられてしまったということ。
>つまり、平原遺跡が卑弥呼の墓である可能性は、むしろ高いということだよ。
では、>>188が想定する、大和王権とは独立して存在した「卑弥呼の邪馬台国」
あるいは「九州のみの倭国」は、その後どうなるんだい?
古田史学のように、白村江まで九州王朝の存続を主張するのかい? 【邪馬台国の終焉】
八咫の鏡を持つ卑弥呼の後継者の一人であり、筑紫の梟帥の称号を持つ神橿日姫(神夏磯姫)の時、外部勢力である景行天皇とともに耳垂などかつての邪馬台国の官を粛清している。
景行天皇の孫の仲哀天皇が息長帯姫(神功皇后)とともに神橿日姫ゆかりの筑紫橿日宮(香椎宮)に入るとき、
伊都高祖宮と筑紫岡田宮の王(五十迹手、熊鰐)が出迎えたが、仲哀天皇は筑紫橿日宮で急死してしまう。
景行は神橿日姫と共闘していたが、仲哀の妃の息長帯姫は筑紫を支配していた羽白熊鷲や、神橿日姫の末裔とされる田油津姫を殺し、武内宿禰とともに筑紫の全権を掌握し、朝鮮半島に出兵する。
倒された側の耳垂や田油津姫はいずれも正史では土蜘蛛と称されており、勝てば官軍、負ければ賊軍のような状態であったと考えられる。
田油津姫の宮は銅を産出する香春岳の麓の香春宮であったが、決戦の地に筑後山門を選んだのは、そこが本貫地であり、自身が邪馬台国の女王であるという意識があったかもしれない。
羽白熊鷲の名は息長帯姫側の熊鰐と同類の名前であり、筑紫の王家の一員であったろう。
田油津姫も八咫の鏡を保有していた神橿日姫の末裔と伝えられており、筑後〜筑豊の女王であったと考えられる。
つまり息長帯姫の土蜘蛛征伐は筑紫倭国すなわち邪馬台国の末裔による内紛に他ならない。
その中でも、筑後・筑豊・肥前に拠点を持つ肥国邪馬台国の女王の系譜は、卑弥呼、壹與に続く神橿日姫、田油津姫までで終わりとなる。
仲哀の急死は息長帯姫と武内宿禰による暗殺であり、その夜に息長帯姫と住吉の神(武内宿禰)の間に密事があったと伝えられている。
息長帯姫は、仲哀の本来の皇后(大中津姫、仲哀と同じく景行の孫で息長帯姫より高貴な身分)の皇子二人も殺害し、仲哀の血筋を根絶やしにして、武内宿禰との間の子である応神を天皇にした。
天皇の諡号の中に神の文字が入っているのは各王朝の祖先神を表しているという説がある。神武、崇神、応神がそれであり、応神天皇が現在の天皇家の始祖となる。
その宗廟である宇佐神宮は八幡信仰と結びつき、後世の天皇家から伊勢神宮以上の崇敬を集め、政治的権威も強かった(宇佐神託事件など)。 この>>190は、>>189の「九州倭国はどうなった?」に対する回答のつもりかい?
平原1号墓の周溝の土壙墓からは鉄鏃・鉄鉇(ヤリガンナ)・鉄刀子・ノミ状鉄器が出土している
この土壙墓遺物の編年は、弥生時代終末(200年〜250年前後)で問題ない
で、>>188では「比較的早くにその権威が忘れられてしまったということ。
つまり、平原遺跡が卑弥呼の墓である可能性は、むしろ高いということだよ。」と
伊都国説側の立場で書かれているなww
「比較的早くその権威が忘れられてた」ってのが弥生時代終末頃ってことは、
神橿日姫、景行天皇はそれよりも前ってことになるね?
九州に邪馬台国がある余地が一切ないじゃないかww >>191
>この土壙墓遺物の編年は、弥生時代終末(200年〜250年前後)で問題ない
根拠なし。
>神橿日姫、景行天皇はそれよりも前ってことになるね?
イミフ >>192
>根拠なし。
出たな、具体的な指摘ができない卑怯者がww
つ「平原遺跡(前原市文化財報告書,2000)」 >>192
>イミフ
本当に論理が追えないんだなぁ
>>189 「九州のみの倭国」は、その後どうなるんだい?
>>190 筑紫の梟帥の称号を持つ神橿日姫(神夏磯姫)の時、外部勢力である景行天皇とともに耳垂などかつての邪馬台国の官を粛清している。
これと、>>188の
「比較的早くにその権威が忘れられてしまったということ。
つまり、平原遺跡が卑弥呼の墓である可能性は、むしろ高いということだよ。」
これをセットにすると、
伊都国説の考えでは
1. 平原1号墓は邪馬台国の王墓
2. でも比較的早く権威が忘れられてしまった (>>188)
3. その時期は「神橿日姫(神夏磯姫)・景行天皇の頃」(>>190)
ってことになる
でも、その「権威が忘れられた」のは、土壙墓が墳丘上にまで作られるようになった頃で、
土壙墓遺物の編年から3世紀前半になる
これよりも、3の「神橿日姫(神夏磯姫)・景行天皇の頃」が前じゃないと、
邪馬台国の王の権威が忘れられる理由にならないだろ?
日本語、分かりますか? >>194
>土壙墓遺物の編年から3世紀前半になる
ここがおかしいのでは?
3〜4世紀の遺構はおしなべて半世紀以上古く見積もられすぎだろうね。
平原遺跡も纏向遺跡も。 平原遺跡の耳璫は魏晋代のものなので、それより上の遺物が3世紀の中頃という推定は間違いだろう。 >>195
>その推論はトンチンカンなので棄却。
まあ、要するに>>190が>>189への回答として機能してないってことだよ
最初に、>>191で
「この>>190は、>>189の「九州倭国はどうなった?」に対する回答のつもりかい? 」
って書いてあるだろ?
棄却で構わないけれど、棄却するなら>>189のこの問に改めて答えてね
「>188が想定する、大和王権とは独立して存在した「卑弥呼の邪馬台国」
あるいは「九州のみの倭国」は、その後どうなるんだい?
古田史学のように、白村江まで九州王朝の存続を主張するのかい?」 >>197
>平原遺跡の耳璫は魏晋代のものなので
これが、怪しいんだよ
魏晋代の大陸墳墓の発掘が進めば、もう少しはっきりするんだろうけれど >>196
>3〜4世紀の遺構はおしなべて半世紀以上古く見積もられすぎだろうね。
>平原遺跡も纏向遺跡も。
そうは言っても、割竹型木棺で方形周溝墓であること、また、前後の5号墓、
3・4号墓も方形(円形?)周溝墓ってところを見ると、平原遺跡はむしろ
もっと古い方が座りがいいんだけれどね >>194
2.はどうでしょうね。
権威の取り合いになって、祭祀機構を丸ごと移動させた可能性もありますね。 >>204
>権威の取り合いになって、祭祀機構を丸ごと移動させた可能性もありますね。
魏使が「大作冢徑百餘歩」と記録した、おそらく国家事業として大々的に
造営された倭王の墓が、周溝が埋まるに任せるような放置状態で、さらには周溝が
埋まる頃には周溝はもとより墳丘主体にまで土壙墓の穴をあけられるっていうのは、
ちょっと想定外だろう
倭王に対する崇敬の念がなくなるのが早すぎないか?
そして土壙墓の年代は弥生時代終末(200年〜250年前後) >>205
>埋まる頃には周溝はもとより墳丘主体にまで土壙墓の穴をあけられるっていうのは、
>ちょっと想定外だろう
政変があったのでしょう。 >>205
>そして土壙墓の年代は弥生時代終末(200年〜250年前後)
その年代比定が誤りでしょう。 >>205
>そして土壙墓の年代は弥生時代終末(200年〜250年前後)
庄・ 蔵 本 遺 跡
国立大学法人徳島大学埋蔵文化財調査室
「弥生時代前期の石棺墓や土壙墓が発見されました。」 だってw @阿波 何度も説明されているが。
卑弥呼は長寿なのだから、
当時の女性の平均寿命40歳の時点で、女王卑弥呼の墓の基礎工事はやっておく。
当たり前だ。
区画を示す周溝などは真っ先に作られる。
それから40年から50年してから
卑弥呼自身ですら思いがけないほど長生きして、亡くなるのだから、
埋まった周溝に殉葬の土壙墓が作られた平原遺跡こそが
卑弥呼の墓にふさわしい。
この点について畿内説は逃げ回るだけ。 >>209
>土壙墓の年代ってどうやってわかるの?
>>191にも書いてあるけれど
土壙墓に副葬された鉄鏃・鉄鉇(ヤリガンナ)・鉄刀子・ノミ状鉄器による編年 >>210
>それから40年から50年してから
>卑弥呼自身ですら思いがけないほど長生きして、亡くなるのだから、
>埋まった周溝に殉葬の土壙墓が作られた平原遺跡こそが
>卑弥呼の墓にふさわしい。
卑弥呼が存命なのに、周溝が埋まるなど荒れるに任せるなんてはずがないだろう?
本当にご都合主義の、普通に考えるだけであり得ないって分かる適当なことを
思いつきで書くだけなんだよな
九州説の論理知らずの連中は!
バカはザラコクだけで十分だってのに、みんなバカなんだから度し難い! >卑弥呼が存命なのに、周溝が埋まるなど荒れるに任せるなんてはずがないだろう?
その根拠は? >>213
本人が死んで葬られるとき、荒れた墓なのか? >>214
40歳>墓域だけ決めておく
死亡時>仕上げる >>215
仕上げるんだろ?
なら周溝が埋もれかかったままなわけ無いよな 学習しとけよ
周溝が埋もれ始めてるってのは
墳丘が崩れてるってこと
だからな >>216
>周溝が埋もれ始めてるってのは
>墳丘が崩れてるってこと
現代の溝も、清掃しなければどんどん埋まっていく。
両脇の家屋が崩れているわけでは無いな。 何度も説明されているが。
卑弥呼は長寿なのだから、
当時の女性の平均寿命40歳の時点で、女王卑弥呼の墓の基礎工事はやっておく。
当たり前だ。
区画を示す周溝などは真っ先に作られる。
それから40年から50年してから
卑弥呼自身ですら思いがけないほど長生きして、亡くなるのだから、
埋まった周溝に殉葬の土壙墓が作られた平原遺跡こそが
卑弥呼の墓にふさわしい。
この点について畿内説は逃げ回るだけ。 倭人伝に周溝なんて書かれていない。
女王卑弥呼が弥生女性の平均寿命40歳の時に、女王墓の基礎工事だけやっておいた。
周溝を掘って、墓の土台だけ作成。
思いがけず40年ほども生きて、周溝が埋まった頃に
卑弥呼が死去。
多少の跡が残っていた周溝に殉葬土壙墓と
神域との境界線としての鳥居作成。
長寿の弥生女王だからこそ、周溝が埋まっているのだよ。
張政が記したのは、塚と殉葬墓なんだから、
周溝が埋まっている方がむしろ正解。 鳥居の軸が少しずれているのも、
40歳の時に、平均寿命が来たと思って墓域を決めて、
鳥居を立てたが、
それから何十年も元気だったので、一旦撤去した。
小さな穴はすぐ埋まり、
40年ほどして卑弥呼が亡くなった時に、
塚を仕上げるとともに、まったく新たに鳥居を立てたからだろ。
長生きした弥生女王である証拠。 >倭人伝に周溝なんて書かれていない。
対して現代まで周溝が保たれているとはこれいかに >>223
>対して現代まで周溝が保たれているとはこれいかに
またもの知らずをさらしているなあ、
周溝なんて影も形も残ってないよ
ただ、発掘のときに土層をきちんと調べながら掘っていくから、
もとからの地山の部分と、一度掘られて二次的に埋まった部分が区別できるから
それによって、「周溝があった」ことが分かるだけ
それと同じ伝で、土壙墓が周溝と同時ではなく、周溝が埋まった土を掘って
作られていることが分かる訳だ >>221
>女王卑弥呼が弥生女性の平均寿命40歳の時に、女王墓の基礎工事だけやっておいた。
>周溝を掘って、墓の土台だけ作成。
方形周溝墓を何だと思ってるんだ?
方形周溝墓が「完成」したときに、周溝が埋まっていたら、
それは方形周溝墓ではないし、完成もしていない
それから、これも前から指摘しているのに気づかないふりをしているのか知らないが、
周溝内の墳丘上にまで、土壙墓が掘られているんだぞ?
倭王が死んでその墓を完成させるときに、大事な聖域であるべき周溝で画別された墳丘内に
殉葬(だと主張する)土壙墓があったらおかしいってのが分かるか? >>222
>鳥居の軸が少しずれているのも、
>40歳の時に、平均寿命が来たと思って墓域を決めて、
>鳥居を立てたが、
>それから何十年も元気だったので、一旦撤去した。
これも、ひどい妄想だな
1号鳥居、2号鳥居と呼ばれている柱穴(杭穴?)に、時間差があるとは考えられていないぞ
それと、もっと重要な墓坑周りの柱穴のあとが、ゆがんで整列していないことは
どう説明するんだ?
これはどう考えても、被葬者の葬送儀礼のとき、一回限りで完成されたものが
ゆがんでいる=きちんと整列させずに適当に立てた杭だってことだ
倭王の大切な葬送儀礼がそんないい加減でいいのか?
要するに倭王の墓なんかじゃないんだよ
遺跡の状況そのものが、倭王の墓ではないことをはっきり示している >>220
>埋まった周溝に殉葬の土壙墓が作られた平原遺跡こそが
>卑弥呼の墓にふさわしい。
>この点について畿内説は逃げ回るだけ。
まったく逃げていないんだが?
>>217にも書いてあるが、周溝を埋める土はどこから来てると思ってるんだ?
地山面より高く、墳丘が塚として盛り土してあるから埋まるんだぞ
>>218の、家の周りの溝が埋まっても、家は壊れていない、などというのは
見当違いもいいところ
大体、魏志倭人伝の、「卑彌呼『以』死。大作冢。徑百餘歩」の「以って」は
理由・原因を示す語だから、「卑弥呼が死んだ『ので』大いに冢を作る」と
読むのが、分かりやすい訳し方
卑弥呼の墓が寿墓(生前から用意されている墓)と考える理由は、魏志倭人伝にはない
そして、寿墓の場合、日本書紀の仁徳紀には寿墓であることが明記されているが、
その王の在位中は、「ずっと造営を続けてその分大きくなり続ける」ものだ
区画だけ決めて40年間ほったらかしで管理もせず、周溝が埋まるに任せる、
というのは、寿墓のあり方に真っ向から反しているし、そういう想定をせざるを
得ない時点で、倭王の墓であることを自己否定しているようなものだ >>229
キナイコシの身勝手なルールのそれぞれの根拠は? >>233
何か問題があるのか?
>>1
に全部書いてあるじゃないか 根拠がないから身勝手と言われるわけで、畿内説は妄想や詐欺と同じレベル。
そもそも考古学的根拠が全くないし。 3世紀に鉄器ゼロってギネスブックに載るんじゃないの? こっちにも書かなきゃいけないのか やれやれだぜ
批判はするが、根拠を示したり具体的な指摘はしないしできないww
それが、キナイコシ連呼厨の伊都クズw 話の流れから、自分の直前のレスが批判されていることに気がつかないのだろうか。 >>239
>自分の直前のレスが批判
批判はいくらしても構わないが、批判のポイントは
「具体的に明記」してくれって言ってるんだよ
論点の明確化ができないやつは「無能」の一言に尽きる
具体的な論点できちんと各論を論じたら、すぐに九州説が憶測頼りの虚妄だって
明らかにされてしまうから、逃げ回ってるのは分かってるけどさww
東夷歩なんてないし、平原1号墓出土鏡も八咫鏡ではない
水行の起点は帯方郡じゃないし、クシフル岳も福岡県にあったという根拠はない 反論一つ、まともにできないんだね
まあ、プロが一人も居ない、オワコンの九州説なんてそんなものかな >>243
>ぷ、プロ?!場末の便所の落書き書くのがプロ?!ぷ
学術雑誌に、原著論文を継続的に投稿、掲載されている人がプロの研究者だよ
邪馬台国研究とか古田史学会報は、内輪の同人誌または商業誌であって、
学術雑誌ではない
さて、九州説を主張する現役のプロの研究者はどなたかな? 九州説からは、具体的な反論はできないし、
九州説を支持するプロの研究者は一人も挙げられないってことだなww
まあ、すでに数十年前から九州説はオワコンなんだから無理もないか >>246
>権威主義
具体的な反論をする余地すらない、ということでよろしいかな?
プロの研究者というのは、それだけの時間と労力をかけて、多くの情報を精査する立場にある
素人の横好きとは違ってね
そのプロが、意見の相違なく一人も九州説を支持しないってのはどういうことだと思う?
チェリーピッキングしなければ、現時点での知識だけで畿内説で十分な整合性が取れるってのが
分かってるんだよ
理性的に判断できる人はすべて、ね >>247
>チェリーピッキングしなければ、現時点での知識だけで畿内説で十分な整合性が取れるってのが
>分かってるんだよ
魏志倭人伝をとことん無視しておいて整合性?
アホだろ。
ヤマト王権の成立過程としては悪くないが、邪馬台国とは別のものを眺めて現実離れした邪馬台国を夢想しているだけだ。 >>248
>魏志倭人伝をとことん無視しておいて整合性?
短里だか東夷伝里だか、実体のないものをでっち上げて、
魏志倭人伝の無理読みをしているのは九州説の方だよ
とことん無視してるというなら、それを具体的に指摘しなよ
具体的な指摘 つ「短里だか東夷伝里だか、実体のないものをでっち上げ」
>アホだろ。
九州説の連中がな
>ヤマト王権の成立過程としては悪くない
それが認められるなら、あと一歩だ
古墳時代の始まりから、北部九州も参加している
那珂八幡古墳(奴国首長)しかり、端山古墳(伊都国首長)しかり
そして、編年から考えて古墳時代の始まりは卑弥呼の時代と重なっている
>邪馬台国とは別のものを眺めて現実離れした邪馬台国を夢想しているだけだ。
別のものと考える理由がない
逆に九州説の夢見る邪馬台国に「都合が悪いから」
必死に否定しようとしているだけだよ >>249
>古墳時代の始まりから、北部九州も参加している
九州にいた卑弥呼が死んでから古墳時代が始まったように見えるね。 >>249
>別のものと考える理由がない
魏志倭人伝に書かれた文物の殆どが畿内、特に纒向から見つからない。 >>250
>九州にいた卑弥呼が死んでから古墳時代が始まったように見えるね。
卑弥呼が死んでから古墳時代が始まったというのは定説になりつつある
まあ、卑弥呼の共立=倭国の新秩序の開始をもって、古墳時代の始まりとする
考え方も有力になっているけどね
そして、古墳時代が始まった地が纒向遺蹟なのは動かない
つまり、纒向にいた卑弥呼が死んでから古墳時代が始まったんだよ >>251
>魏志倭人伝に書かれた文物の殆どが畿内、特に纒向から見つからない。
倭国の文物というのは、必ずしも邪馬台国の文物ではない
日本に野生のニホンカモシカがいる、というのは
野生のニホンカモシカがいない大阪府が日本ではないという意味にはならない
それに、おそらく単なる発掘バイアス
大和の王墓級の墳墓の埋葬主体部の発掘がないのが、大きな理由だろう >>252
>つまり、纒向にいた卑弥呼が死んでから古墳時代が始まったんだよ
そこが短絡的なんだよ。
筑紫の影響力が一時的に弱くなった時に地方勢力が伸張したのだろう。
その年代を数十年前倒しするだけで、まるで卑弥呼政権下で畿内が成長したように見えるという寸法だ。 >>253
なんでこのスレに書いてるのかまるで意味不明になるレベルの回答。証拠がまるで見つかってないけど畿内説が正しいのですとか言われてもな。 >>253
王墓以外でも、絹、鉄鏃、その他の王墓でなくても見つかるべきものがほとんど見つからない。
陵墓参考地が発掘できないのを言い訳にしているが、そんなレベルではないくらいに福岡には大量の遺跡があり、畿内には遺跡が乏しい。 >>257
>王墓以外でも、絹、鉄鏃、その他の王墓でなくても見つかるべきものがほとんど見つからない。
それは、九州説の人間が古い情報だけ見て、
新しい情報を全部見ない聞こえないってしてるからだよ
鉄だって、畿内周辺でむしろ弥生時代最大の製鉄遺跡が出てるし
纏向遺跡の庄内期の範囲内で鍛冶を伴う遺構も出てる
纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)
畿内に鉄がないっていうのは単なる思い込み
青銅器の生産に関しては、唐子鍵〜鏡作坐天照御魂神社あたりに
一大中心があったのが確実で、畿内大和には文化が何もないというのは
九州説の思い込み
その前に、九州のみの倭国を前提とする九州説は其山有丹で即死なんだから
日本には野生のニホンカモシカがいる の対偶は
野生のニホンカモシカのいない国は日本ではない になる
其山丹有が正しいなら、九州のみの倭国は、その範囲で弥生時代の丹がないから
破綻しているよ >>258
>鉄だって、畿内周辺でむしろ弥生時代最大の製鉄遺跡が出てるし
周りに鉄があっても纒向にはない。
むしろ取り残された後進地域。
>纏向遺跡の庄内期の範囲内で鍛冶を伴う遺構も出てる
>纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)
卑弥呼の没後にようやく鉄が流入する。
>畿内に鉄がないっていうのは単なる思い込み
>青銅器の生産に関しては、唐子鍵〜鏡作坐天照御魂神社あたりに
鉄がなくて青銅器だけ。
これまでの九州説の意見を補強しているだけなのがわからない? 畿内は王権の伸張がが遅れた北部九州とは違って、庄内期に入る前の
畿内第V様式の時点で、大和+河内~環大阪湾の地域が一つの地域にまとまっている
その中での分業を、大和に鉄がないと言っているだけ
そして、コアの勢力としては「大和+河内~環大阪湾」の範囲だが、大型銅鐸の
分布域が唐子鍵を中心とした共通祭祀の影響圏
こういう広域圏の一体性を、北部九州では描けない
逆に庄内期から、北部九州の中心勢力の奴国(比恵那珂遺跡群が中心)で、
畿内様式土器の生産が始まる
その前の畿内第V様式の時点で、畿内様式土器が比恵那珂遺跡群で出るように
なっている
要するに、古墳時代に入る前代から北部九州の中心は、畿内勢力の協力地域に
なっているんだよ
こういう歴史の流れを無視して、新しい研究成果は見えない聞こえないと言いながら
古い、情報の足りなかった時代の憶測交じりの妄説にしがみついているのが九州説なんだよ 短里とか東夷伝里とか言い方はいろいろあるけれど、結局のところ
都合のいい捏造なんだよな 庄内は吉備が起源だから征服されたのは畿内の方だよ。 >>262
>その中での分業を、大和に鉄がないと言っているだけ
生産の分業ならわかるが、製品も出土しないのはおかしい。
纒向には河内の土器の流入がない。
>そして、コアの勢力としては「大和+河内~環大阪湾」の範囲だが、大型銅鐸の
纒向は瀬戸内海ではなく、東海の集団の一員と考えられる。
>要するに、古墳時代に入る前代から北部九州の中心は、畿内勢力の協力地域に
筑紫の土器が纒向で出土しないのに、なぜ筑紫が纒向の協力地域になるの?
筑紫には全国の産物が流入しており、纒向は東海にあった筑紫の協力地域のさらに下請けに見えるけど?
そもそも纒向周辺は生産力も人口も非常に小さく、明らかに弱小集団だよ。 >>262
>その中での分業を、大和に鉄がないと言っているだけ
生産の分業ならわかるが、製品も出土しないのはおかしい。
>そして、コアの勢力としては「大和+河内~環大阪湾」の範囲だが、大型銅鐸の
纒向には河内の土器の流入がない。
纒向は瀬戸内海ではなく、東海の集団の一員と考えられる。
>要するに、古墳時代に入る前代から北部九州の中心は、畿内勢力の協力地域に
筑紫の土器が纒向で出土しないのに、なぜ筑紫が纒向の協力地域になるの?
筑紫には全国の産物が流入しており、纒向は東海にあった筑紫の協力地域のさらに下請けに見えるけど?
そもそも纒向周辺は生産力も人口も非常に小さく、明らかに弱小集団だよ。 >>830
大和説者は、そういうウソついて何か楽しいの?。
すぐバレるから自分が恥かくだけなのに。 >>267
>纒向には河内の土器の流入がない。
河内から大和には飯炊き甕をもって移動する必要はないんだよ
近くだし仲間なんだから
河内と大和の2ヶ所に甕作りの中心があって、その2ヶ所で「くせ」があるから
区別はできるけれど、第X様式から庄内式、布留式と、同期して変遷していくのを
別勢力だと考えるのがどうかしている
>纒向は瀬戸内海ではなく、東海の集団の一員と考えられる。
東海から瀬戸内まで、文化圏としては一つながりなんだよ
いわゆる大型銅鐸の文化圏と重なる
その玄関口が東側では大和であり西側では河内ってだけ >>831
>>はるか後代の南宋にいて、使節に依る直接的な位置記録無しに、
魏志を自己解釈に拠る高慢な書き換えをした後漢書は、×<
>さすがに、このザラコクって男・・・バカだろ 主に学力的な意味で<
さすがに、この大和説者って男も・・・・バカだろ?。
オームと同じように、
主に史料事実や史料実態よりも、
自分の「萬世一系皇国史観」宗教の「結論先にありき」でしか。
史料を読む力がない、という意味で。 >>267
>筑紫の土器が纒向で出土しないのに、なぜ筑紫が纒向の協力地域になるの?
要するに、北部九州の方が下部組織なんだよ
もともと、飯炊き甕の移動は長距離には向かない
吉備甕が北部九州と畿内の両方で出るように、畿内から吉備、
吉備から北部九州くらいの距離が甕の移動距離としては限界に近いんだろう
要するに、畿内から九州に行く人は河内で甕を手に入れて出かけて、
吉備まで来たらすすがついてへたってきた甕をそのまま持ち歩かずに、
吉備で新しい甕を手に入れて九州に向かう
それなのに九州で畿内様式甕が出るのは、畿内から土器様式の統一の
強制力=政治的圧迫が働いたからだろう
要するに、北部九州の方が畿内中心秩序の下部組織なんだよ
そういうのを無視して、「畿内と九州の関係はない」とか言い張ってるのが
大笑い なんでザラコクがこっちに出しゃばって来て、関係ないスレの遅レスを書き込んでるんだ?
本格的にボケてきたのか?ww >>839
>>ベトナム北部は、大体北回帰線付近であり、夏至正午には太陽直下になる地域であり、
周髀算経では、洛陽付近では、夏至正午の8尺棒の影長が1尺6寸であり、
南へ千里行ったら影長が一寸短くなる、という一寸千里の法を知っているから、
南に萬六千里行けば、夏至正午に太陽直下の地に至る事も知っており、
だから、周髀算経を読んで理解している学者は、
洛陽〜ベトナム北部は、1万6千里位だ、という事を知っている。 <
>なら、帯方から1万2千里で赤道まで行くわけないでしょ<
そうだよ。
周髀算経の短里を使えば、帯方から1万2千里で、赤道付近にまで行く筈かない。
そして、長里を使った大和説者なら、帯方から1万2千里で、赤道付近にまで行ってしまう。
>赤道付近まで行ってしまうと連呼してるザラコクって、あたま変なの?<
「赤道付近まで行ってしまう」って、長里説の大和説者の話なのに、
変な事を連呼している貴方って、あたま変nano?. >>269
>区別はできるけれど、第X様式から庄内式、布留式と、同期して変遷していくのを
>別勢力だと考えるのがどうかしている
ここが自明でないからな。土器のことわかってないね。 >>843
>>絶対的な規則性があるのだ、という人間の方がおかしい。<
>つまり、短里とか言ってる人は、おかしいんだね? 正解だ<
古田さんらは、始めから、
「魏志記載の1里の距離は の75m〜90m位のばらつきがあり、その間でも75mに限りなく近い」
という大体の近似推定値であって、
「絶対的な規則性」なんて言っておられなかったんだよ、
「南→東」などを絶対断定する・・・・大和説者さん。 >>860
>>だから、周髀算経を読んで理解している学者は、
洛陽〜ベトナム北部は、1万6千里位だ、という事を知っている。<
>なら、どうして古代中国人は 洛陽〜ベトナム北部は、1万6千里位だ、と
誰も言わないの?、
古代中国人の全てが周髀算経を読んでいた筈もないし、
古代中国人学者らの中でも、周髀算経が判る学者が少なく、
殆どの一般学者は、(現代日本の大和説者らと同じように)、
周髀算経が理解出来ないアホであったから。 >>271
長々と妄想乙
>それなのに九州で畿内様式甕が出るのは、畿内から土器様式の統一の
>強制力=政治的圧迫が働いたからだろう
妄想でしょ? >>269
>東海から瀬戸内まで、文化圏としては一つながりなんだよ
>いわゆる大型銅鐸の文化圏と重なる
>その玄関口が東側では大和であり西側では河内ってだけ
大雑把すぎる。
仮に一つの文化圏だとしても、纒向と河内が直接の交流がない以上、纒向はその盟主ではなく東海の下部組織だよ。
大和は列島の盟主という盲信にしがみついているだけ。 >>876
>>まあ、不彌國まできちんと里数を記録記載して来て、
その先をズボラして日数だけにして書いたら<
>そんな人がいたという証拠もない 主張する意味がない<
大和説者の全員と、九州説者の一部のお方は、
不彌國まではきちんと里数を記載して、それから邪馬壹國女王之所都の間は、
「日数で書いた」という意見の筈だよ。 >>878
>そんなこと無いでしょ
当時の、ナントカ算経なんてトンデモ本は信用されてないから<
勿論、古代中国人の全てが周髀算経を読んでいた筈もないし、
古代中国人学者らの中でも、周髀算経が判る学者が少なく、
殆どの一般学者は、(現代日本の大和説者らと同じように)、
周髀算経が理解出来ないアホであったから。 >>271
>吉備甕が北部九州と畿内の両方で出るように、畿内から吉備、
>吉備から北部九州くらいの距離が甕の移動距離としては限界に近いんだろう
これは吉備が瀬戸内の最大勢力だったんだろうね。
後に討伐されてしまったのか、伝承もほとんど残っていないけどね。
それとも吉備も下部組織だったとでも?
畿内説は土器の移動について、下部と上部の使い分けが恣意的で、ダブルスタンダードな気がするね。
一度、まっさらな気持ちで整理して見たほうがいいんじゃない? >>879
無能な「南→東」などの嘘つき騙しの、現代日本の大和説のひとが、
また分裂幻覚の妄想を記載してるようだな。 >>891
>ほらな
>「自郡至女王國萬二千餘里」の里が長里なら、 女王國は、赤道付近にまで行ってしまう事になる。
と言い張っているのはザラコク 畿内説の者ではない<
九州説者は、全員「短里」説だから、「自郡至女王國萬二千餘里」では、
赤道付近にまでは決して行かない。
大和説者は「短里は一切なく、全部長里で書かれた」説だから、
確実に「赤道付近だ」と主張した事になる。 >>892
>なる、という理由は? 九州説はいつも理由なしに言い張るばかりだな<
九州説者は、全員「短里」説だから、「自郡至女王國萬二千餘里」では、
赤道付近にまでは決して行かない。
大和説者は「短里は一切なく、全部長里で書かれた」説だから、
確実に「赤道付近だ」と主張した事になる。
大和説者は、いつも、
口先での「嘘つき騙し」で、
議論に勝ったように世間の人々を騙そうとする、
・・・・詐欺師のようだな。 ついでに言うと、吉備が瀬戸内の盟主なら、筑紫はその上位にある西日本全体(山陽、山陰、近畿、東海、北陸)の盟主になる。 >>893
>>非学問の世界にドロップアウトしたのは、必然である。<
>でも、現役の研究者で九州説を支持している人の名前は一人も上げられないんだよね?
現役の研究者というのは 学術雑誌に継続的に原著論文を投稿、掲載されている人だよ
学術雑誌というのは、ピアレビューによる査読システムを持つ専門誌のこと<
その学術雑誌の担当学者や査読学者という人間が、現在日本では、
「萬世一系皇国史観」という「結論先にありき」での、
「南→東」などの嘘つき騙しの安部文部省や学会教育界の支配下の学者であるから、
始めから非学問的似非学者だから、信用ならん、といってんだよ。
>邪馬台国研究は、一出版社が出している一般向けの雑誌で<
「邪馬台国」なんて、そのそも存在せず、嘘つき騙しの大和説学者の捏造文言だよ。
>古田史学会報は、ある種の同人誌だね、有志による発行
どちらも学術雑誌ではないから、そこでしか発表していないのは研究者ではなく
趣味の研究家 お料理の研究家っていう場合の研究家と、同じ意味合い<
史料事実や、史料批判に拠る史料実態を根拠にした帰納的確率的な推論を展開してくれれば、
それだけでも十分科学的学問的であり、
学術誌であろうと、同人誌であろうと、趣味の研究科であろうと、何の問題もないもの。
それを学術誌に限定しようとするこの男は、
既に始めから何らかの思想宗教絶対主義の、
恐らく・・・・。 【筑紫を中心とする倭国の交易路】
もともと日本海ルートが倭国の交易の主力だった。4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備され、瀬戸内ルートが整備された。なお、太平洋ルートは事実上存在しなかった模様。纒向は日本海ルートの末梢の辺境。
筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓ ↓
↓ 近江三上祝→東濃→纏向
↓
宇佐→瀬戸内海→阿波・吉備→淡路島→摂津
【九州北部勢力による倭国の拡大】
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入
1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入
2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→畿内から庄内式土器が博多湾へ流入
3世紀に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入 >>898
>>論破され、荒らして逃げる、 大和説者のみじめな日常 。<
>こういう、畿内説と九州説を入れ替えたミラーイメージの書き込みばかりしていて
惨めにならないんだろうか?
まあ、そんな殊勝な感性を持ってたら、今どき九州説なんてやってないかw<
こういう、鸚鵡返しで直ぐに反転反論批判されてしまうような、
アホなミラーイメージの書き込みばかりしていて、
この男は、惨めにならないんだろうか?。
まあ、そんな殊勝な感性を持ってたら、今どき、
「南→東:」などの嘘つき騙しの大和説なんて、
やってないかw。 >>899
>>使節を派遣していない南宋の范曄は、<
>ザラコクはマジで馬鹿 <
范曄の「東冶」を採用するらしいこの大和説?男は、マジでバカ。 ザラコクさんへ
スレを間違えてますよ。
ここは九州説のスレです。 >>907
>九州説はどんだけ畿内説のテンプレが怖いのよ ww <
不思議な事に、大和説者は、
テンプレの該当箇所を転写して九州説に反論する、
って事が、殆どないんだよな。
余程、テンプレが信じられない、
という事の証拠か?。 >>274
>ここが自明でないからな。土器のことわかってないね。
自明じゃないから、ちゃんと研究されてるんだよ
そして、その研究成果を九州説が「見ない」「聞こえない」って言って
一生懸命無視しているだけ
畿内地域における古墳時代初頭土器群の成立と展開
田中 元浩
日本考古学 / 12 巻 (2005) 20 号
https://www.jstage.jst.go.jp/article/nihonkokogaku1994/12/20/12_20_47/_pdf/-char/ja >>292
>自明じゃないから、ちゃんと研究されてるんだよ
畿内説を前提とした色眼鏡でしょ? >>294
>畿内説を前提とした色眼鏡でしょ?
まず、読めや
この論文は、邪馬台国の邪の字もないぞ
題名のとおり、古墳時代に入っていく前代からの土器の成立とその分布の研究だ
これだから、九州説は時代遅れになるんだ >>920
>権威主義って言葉に「逃げてる」けどさ、
チェリーピッキングで駄説を捏ね上げて喚いているだけの素人数人の見解と
多くの情報を精査してピアレビューを経て論文を発表している多数の研究者の見解の
どちらが妥当性が高いかは、火を見るよりも明らかだろ?<
「萬世一系皇国史観」という思想宗教的な「結論先にありき」の、
文部省や学会教育界や宗教界の支配下になって、
「南→東」などのような史料事実の否定曲解の嘘つきン騙しをする「権威学者」なんて、
始めから人間の屑であり、
真面目に史料事実からの帰納的確率的な推論をする素人と、
どちらが妥当性が高いかは、火を見るよりも明らかだろ?。
西欧中世権威に反抗したガリレオや、
ドイツ権威学者に反抗したシュリーマンの例を見ても明らか。
>どうして、プロの研究者に九州説支持者が一人もいないのか、説明できるかい?
一人も現役の九州説を採る研究者がいないんだよ?どうしてなの? <
「萬世一系皇国史観」の文部省や学会教育界のキョクウの・・・・に支配され、
隷従するアホ学者ばかりが残ったから。 >>932
>>(権威主義では)論理的に納得しかねる<
>きちんとした論文も読まずに、論理的に納得しかねるとか言っててもだめだよ<
「権威主義では」という文言をこっそり隠した引用をして、
世間の人々を騙そうとしてはダメだよ。
>プロの研究者の論文にはちゃんとした論理論理構成での論述がなされているから、
それを読んでから、文句をつけな<
そのプロの研究者とやらが、殆ど全て、「南→東」などのような、
史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの学会教育界の権威学者の支配下になっているから、
全くの非論理であり、
だから、その投稿者は、「権威主義では論理的に納得しかねる」と書かれたんだよ。
>古い情報から一歩も出ずに、納得いかないって言葉だけ振り回しても無益だよ <
相手の投稿の内の、都合の悪い文言をこっそり隠して、論点をぼかしてすり替えて、
そのすり替えで、相手を批判しようとするのは、
「南→東」の嘘つき騙しと同じような、インチキ詐欺であり、
現在の学会教育界は、そのようなインチキ詐欺師ばかりになってしまっているんだよ。 >>951
>これ、名誉毀損級の発言だよ
根拠なく、人を嘘つきと言ってはいけない
嘘つきというなら、それだけの責任を持って、嘘つきであることを示しなさい <
現在の学会教育界の、大和説の支配学者らの殆どは、
「南→東」などは、史料事実の否定曲解の嘘つき騙しである、
という根拠は、もう数えきれない位書いておいてあるよ。 >>292
>畿内地域における古墳時代初頭土器群の成立と展開
>田中 元浩
>日本考古学 / 12 巻 (2005) 20 号
>https://www.jstage.jst.go.jp/article/nihonkokogaku1994/12/20/12_20_47/_pdf/-char/ja
これね、言わんとしていることは、倭国(阿波)を発った忌部一族がもたらした「東阿波型土器」の畿内での拡がりを言ってるんだよ。
「東阿波型土器」を知ってか知らずか、一切言及していないようだが。 @阿波 >>952
>自分の努力でない計算に、間違った結論を付けるなよww<
出発地点も到着地点も、途中ルートでも、インチキがあった、という事も説明してあるし、
海路と陸路に分けた事も、インチキ騙しのテクニックであった、という事は、
説明済みだよ。
>信頼区間が、マイナスまで入るめちゃ広い範囲になる時点で、
統計的には意味がないってことにしかならない<
信頼区間の設定自体が始めから無限の可能性を許容していたインチキであった。
>そんな、「意味のないデータセット」から、「短里があるんだー」っていう人は
統計も論理も分かっていない人ww<
そんな、「意味のないインチキデータセット」から、「長里があるんだー」っていう人は
統計も論理も分かっていない人ww。 >>295
ケータイからなのて今は読めないのだけれど、タイトルから判断するに、邪馬台国より後の時代のことだろ?
それは九州説への反論にはならないんだよ。
九州にいた卑弥呼の死後に畿内が発展した、または卑弥呼政権と並行して畿内にヤマト王権の萌芽があったという意見を否定する材料はないのでは? >>302
>九州にいた卑弥呼の死後に畿内が発展した、または卑弥呼政権と並行して畿内にヤマト王権の萌芽があったという意見を否定する材料はないのでは?
いずれも、考古学的裏付けのない「妄想」だね。 @阿波 >>304
>Vと庄内を比較してないから意味なし。
急にVから庄内になった理由が分からないからね。 畿内だけ見ていたら。 @阿波 >>306
あわさん、あなたわかってますね。核心ですよね! >>307
なにが「つまり」なんだ?
そういうウソばっかりついていたから九州説が滅んだんだぞ >>295
>この論文は、邪馬台国の邪の字もないぞ
畿内は邪馬台国と関係なかったと言うことでしょ? >>302
>タイトルから判断するに、邪馬台国より後の時代のことだろ?
>>304
>Vと庄内を比較してないから意味なし。
>>305
>タイトルから判断するに、邪馬台国より後の時代のことだろ?
残念でした
第V様式甕から対象にしてます
第V様式の時代が、卑弥呼よりも後だとは言わないよな?
だから、読みもせずに印象操作ばかりしてないで
ちゃんと読みなさいって言ってるんだよ
九州説では、典拠とする原著論文が皆無だから、こういう話からは
逃げよう逃げようとするけれど、きちんとした土器形式の編年研究からすると
纏向遺跡の建設開始は卑弥呼の遣使よりも前になるんだよ >>310
>畿内は邪馬台国と関係なかったと言うことでしょ?
邪馬台国がどうこうという色眼鏡なしで考えて、庄内期の始まりは3世紀前半の
卑弥呼の遣使よりも前の時代になるし、その庄内期には畿内を中心とする広域の
秩序形成がはっきりする
そして、この広域の秩序に、北部九州も参加しているんだよ
その状態で、畿内とは独立した「九州のみの倭国」が朝貢して倭王に除されたと
言うのが、どれだけ荒唐無稽かってこと >>312
>その庄内期には畿内を中心とする広域の
>秩序形成がはっきりする
その「畿内を中心とする」という想定が間違ってるんですよ。
腹をくくって「倭国(阿波)を中心とする」と早く言えるようになるといいね。 @阿波 >>313
阿波も、畿内勢力の源流の一つであるとは思うが、
阿波には王都がない
以上 >>314
> 阿波には王都がない
まぁ、卑弥呼時代の王都は以下のうち、鮎喰川下流域集落群だね。 以上。 @阿波
※北の邪馬台国(卑弥呼側勢力)
【旧吉野川流域北岸勢力 弥生時代集落】
東州津遺跡・大柿遺跡・土取遺跡・昼間遺跡(正力地区)・昼間遺跡(天神前地区)・昼間遺跡(西貝川地区)・足代東原遺跡・薬師遺跡・吉水遺跡・田上I遺跡・拝原東遺跡・椎ヶ丸〜芝生遺跡
・西長峰遺跡・北原〜大法寺遺跡・天神山遺跡・金泉寺遺跡・黒谷川宮ノ前遺跡・黒谷川郡頭遺跡・桧はちまき山遺跡・光勝院寺内遺跡・カネガ谷遺跡・桧銅鐸出土地
【旧吉野川流域南岸勢力 弥生時代集落】
ウエノ遺跡・マチ遺跡・須賀遺跡・相知遺跡・井出上遺跡・稲持遺跡・貞光前田遺跡・石井遺跡
【鮎喰川下流域勢力 弥生時代集落】
樋口遺跡・延命遺跡・矢野遺跡・名東遺跡・鮎喰遺跡・庄遺跡・庄蔵本遺跡 >>312
知りたいのは卑弥呼がどこにいたかだろ?
土器の絶対年代は確実だとは思っていないし、仮にそれが3世紀前半でも、卑弥呼と別に切り離して考えてもいい。
九州が畿内と切り離されているのではなく、九州北部が列島を代表して倭として外交していたという話なので、あなたの批判は筋違い。
あと、畿内を中心とする秩序というのはまだ根拠が希薄だよ。
瀬戸内海は吉備が中心に見えるし、纒向は瀬戸内海と交流が乏しく、東海の下部組織に過ぎないだろう? >>136
>つまり邪馬台国=大和朝廷<
邪馬台国も大和朝廷も存在していなかったから、×。 【筑紫を中心とする倭国の交易路】
もともと日本海ルートが倭国の交易の主力だった。4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備され、瀬戸内ルートが整備された。なお、太平洋ルートは事実上存在しなかった模様。纒向は日本海ルートの末梢の辺境。
筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓ ↓
↓ 近江三上祝→東濃→纏向
↓
宇佐→瀬戸内海→阿波・吉備→淡路島→摂津
【九州北部勢力による倭国の拡大】
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入
1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入
2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→畿内から庄内式土器が博多湾へ流入
3世紀に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入 >>311
畿内の土器論文を持ち出してなんで邪馬台国の証拠になるのか意味不明。 >>320
全くその通りですよね。
魏の使いがいた筑紫や、卑弥呼が関係を持っていた楽浪郡との土器の比較がないと、意味がない。
その意味では、半島や大陸から運ばれてきたものがほぼ皆無である纒向は、真っ先に邪馬台国の候補から除外されるべきです。 >>311
文章読解力なさすぎ。
Vも庄内も布留も起源地がすべて異なる
Vの変容
折衷型があるのは既出。
瀬戸内勢力が畿内に進出し畿内で一大勢力を築いたということにしかならない。 >>321
大型建物群に重きを置いているらしいですが、
同じレベルのものが各地に見つかっているし、
差をつけようとしても、桃の種しかないという体たらく。 >>138
>また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、<
同じ構文ではない。
「水行二十日」は、その直前の「南至投馬國」の説明であるが、
「水行十日陸行一月」は、
その直前にあって、郡からの行程の目的地である「女王之所都」に関する、
所要日数説明である。
>「南至邪馬壹國」の起を帯方郡とするなら<
その仮定が間違っている。
>「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、、
仮定が間違っているから、これも×。
>投馬国には水行のみで到着し得る。 よって韓地陸行説が蹉跌し、<
間違った仮定では、韓地陸行説が蹉跌しない。
>陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。<
間違った仮定に拠った論理は、当然成立しない。 >>162
>邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。・・・<
邪馬台国も畿内も存在していなかったから、×です。 >>322
>瀬戸内勢力が畿内に進出し畿内で一大勢力を築いたということにしかならない。
瀬戸内勢力に侵略されただけ。
一大勢力と呼べる立場になるのは卑弥呼よりずっと後。
その瀬戸内勢力さえ、源流は筑紫だろうし、最後には筑紫の銅鏡銅矛文化が西日本を席捲してしまう。 その瀬戸内勢力すら鉄器を使わせてもらってないのだから、
(北部九州>日本海>>(鉄器があるかないかのレベル)>>瀬戸内>畿内)
推してしるべし。 >>169
>その通り
長里なんてないね
畿内説の全員が同意してる
長里なんてのは短里厨が作った造語だから <
当然、大和説者が主張する「1里≒430m」論に対する、呼称。 >>316
>卑弥呼と別に切り離して考えてもいい。
切り離さないと死んでしまうのが九州説
そういう恣意的でご都合主義な考え方ばかりだから、省みられなくなったんだよ、九州説はw >>329
おいキナイコシ
ザラコクさんのコピペで荒らすのはやめたのか?w >>171
>・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。<
大和の前方後円墳は、筑紫の那珂八幡などの模倣であり、
九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」で出来て、
倭國の地方の市を監督する大倭職の国として成立した。
>・出現期古墳段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。 <
倭国から別れた別種の旧小国であった。
>・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。<
大和は、九州倭国の傘下にあった。
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは九州である。 >>323
万行遺跡の方がデカい
稲部遺跡の方が鉄工房付き >>316
>九州が畿内と切り離されているのではなく、九州北部が列島を代表して倭として外交していたという話なので、あなたの批判は筋違い。
九州北部が列島を代表できる立場であれば、古墳時代に向けて国内の土器は例えば西新町式土器で統一されていただろう
結局、九州北部も含め祭祀に使われる三種の精製器種が、畿内様式に統一されることから見ても、
列島の政治勢力の中心は畿内にあったのが確実
北部九州の首長は、最大勢力の奴国でも二万戸
五万戸の投馬国(出雲)、七万戸の邪馬台国(大和)を差し置いて、
北部九州が列島を代表することはないよ
こういう、プログマティックな考え方とは無縁なのが、九州説だよな >>320
>畿内の土器論文を持ち出してなんで邪馬台国の証拠になるのか意味不明。
意味不明なのは、>>320の知識が足りないからだよ
布留式土器というのは精製器種と呼ばれる三種の祭祀用土器を含むもので、
その祭祀が、古墳時代の始まりと同時に前方後円墳を作る領域全体で統一される
そして、布留式土器の前の庄内式土器の頃から、古墳時代へと進む準備が進んでいて、
その中心が纏向遺跡にあり、九州はその秩序の下部構造に位置づけれらる >>333
弥生時代早期ならわかる。
文化も発展して
鉄器や青銅器や各種利器の発達した弥生後期〜古墳時代早期に、
なんで「土器」なん?w
奈良時代や平安時代の権力所在地を、「土器」で論じてみ?
秀吉の朝鮮出兵で朝鮮人陶工が連れてこられたけど、
西日本各地は朝鮮人に占領されたのか?w 内行花文鏡の頂点が平原遺跡
つまりはそういうことだな。 >>322
>Vも庄内も布留も起源地がすべて異なる
>Vの変容
>折衷型があるのは既出。
畿内周縁部の近江のあたりのことかな?
>瀬戸内勢力が畿内に進出し畿内で一大勢力を築いたということにしかならない。
いずれにしても、九州はその中心にないし、畿内様式土器を受け入れる辺縁であることには
変わりがない
九州説は、土器の変遷からも否定される
それにこれはもともと、大和と河内は別勢力という言いがかりの否定として
挙げたものだよ
大和+河内〜環大阪湾という範囲が、一つの勢力圏を作っているところを見てくれればいい >>330
>ザラコクさんのコピペで荒らすのはやめたのか?w
ザラコクさんのコピペ?ww
御本人がスレを間違って一生懸命書いてるんだから、バカにしてやるなよww 土器を各集落で作って半自給自足していた時代なら、
土器の分布が権力の分布かもしれん。
市や県単位の国家が出現して、分業が成立しているのなら、
土器を作るのはむしろ下層民。
権力者は、鉄器や青銅器、装飾品や絹などを作って、
富を蓄積しようとするだろう。
その土器を誇る畿内説。 >>337
だから連れてきた毛人の生口に土器を作らせたんだよ。
今も東南アジアからの労働者に工場で働かせて
日本人はオフィスビルに務めてるだろ。
これだけハッキリ言ったらわかってもらえるかな? >>335
>文化も発展して
>鉄器や青銅器や各種利器の発達した弥生後期〜古墳時代早期に、
>なんで「土器」なん?w
古墳は、円筒埴輪という祭祀用土器が重要なんだよ
そして、布留式土器を特徴付けるのも祭祀用土器の精製器種三種
布留0式というのは、この精製器種が確認できない布留式甕について
使われたのが最初
大和+河内〜環大阪湾の範囲が、一体化したと考えられるのが、
畿内第V様式土器を共通して使うようになってから
この際に、各地の地場の土器様式が放棄されて、第V様式に統一される
それと同じことが、布留式土器の時代に、列島の関東から九州にかけての
広い範囲で起こるんだよ
こういう、時代の流れを押さえて眺めれば、土器形式の統一が古墳時代の開始と
同時生じていることが分かる
そして、現在では、その広範囲での統一の契機は、卑弥呼の死ではなく、
卑弥呼の共立の時点であると考え、卑弥呼の共立から後の時代を古墳時代と
考える立場が、有力視されるようになってきているんだよ >>341
北部九州からの内行花文鏡東征軍に
せめて土器製作任務を任せていただいてよかったね。
誇れw 冷静に考えてみろ。
鉄器→北部九州
海外製品→北部九州
土器→全国
巨大古墳→畿内(農業どうすんの?w
どこに住みたい? >古墳は、円筒埴輪という祭祀用土器が重要なんだよ
>そして、布留式土器を特徴付けるのも祭祀用土器の精製器種三種
祭祀をもちだすなら、
そんな墓の外の土くれより
墓の中の一段高い部位に祭られた
内行花文鏡や方格規矩鏡のが重要なのだが。 >>339
>土器を各集落で作って半自給自足していた時代なら、
>土器の分布が権力の分布かもしれん。
各集落で作る時代から、専門の工房で作って各地に供給する分業体制に
移るんだよ
北部九州では、奴国の中心の那珂遺跡群で、畿内様式甕を集中的に作って
そこから供給されるようになってる この、土器の集約生産体制が、古墳の各段を囲繞する円筒埴輪の大量生産を
可能にするんだよ
古墳時代を迎えるためのインフラなんだ >>344
>祭祀をもちだすなら、
>そんな墓の外の土くれより
これだから、もの知らずは困るな
卑弥呼の共立は、祭祀王の統一だよ
卑弥呼の居場所は、祭祀の中心に求めるに決まってるじゃないか >>348
祭祀の中心=世界最大の超大型内行花文鏡
青銅器>>>>>>>土器 >>350
>鉄器大量出土
といいながら、「まともな」鉄鍛冶炉遺構ってないのでは? 倭国(阿波)に比べてね。 @阿波 ああ、答えるべきすべを持たないと、困ってしまって意味のないコピペに走るんだな
九州説は惨めだ >>349
>世界最大の超大型内行花文鏡
その、大きさだけは大きいけれど、正しい作図法が分からずに、
外側の同心円の領域だけをやたら広く取ってしまっている、他の内向花文鏡と
かけ離れた鏡面の図柄になってしまっている袋小路の、他に影響を一切与えていない
破砕されるためだけに作られたような仿製鏡が何だって? >>337
>いずれにしても、九州はその中心にないし、畿内様式土器を受け入れる辺縁であることには
>変わりがない
むしろ九州が各地からの土器を広く受け入れる中心地に見えるけど?
>それにこれはもともと、大和と河内は別勢力という言いがかりの否定として
>挙げたものだよ
纒向に河内の土器が搬入されていない。
同時期に発展した余波が纒向にも押し寄せたという説明が正しい。
東海の下部組織だよ。
>大和+河内〜環大阪湾という範囲が、一つの勢力圏を作っているところを見てくれればいい
大和は大阪湾に面していないのだが? >>353
それ全部あんたの主観だね。
平原遺跡の世界最大の超大型内行花文鏡
→大型内行花文鏡支配者が派遣された
古墳の外縁の飾りに過ぎない円筒埴輪なんて
倭国支配層が認識してたのかどうかw >>341
>古墳は、円筒埴輪という祭祀用土器が重要なんだよ
言うに事欠いて祭祀用土器が大事?
銅鐸や銅鏡などの青銅器の方がより重要なのが常識だと思う。
>そして、現在では、その広範囲での統一の契機は、卑弥呼の死ではなく、
そしてまた根拠のない年代詐欺?
畿内説は全く根拠がないな。 >>345
>北部九州では、奴国の中心の那珂遺跡群で、畿内様式甕を集中的に作って
>そこから供給されるようになってる
開発が遅れていた畿内から出稼ぎ労働者が筑紫に派遣されていたわけだ。
平原遺跡を見れば、極端な富の集中が見て取れるもんな。
周辺の集落も、絹や硯や鉄器など、文明開化の証がたくさんある。
それに比べて、桃の種しかない纒向の貧しさときたらどうだろう。 >>348
>卑弥呼の居場所は、祭祀の中心に求めるに決まってるじゃないか
平原遺跡? 3世紀にもなると
土器なんて最下層の民に作らせてたんだよ。
あればいい。それだけ。
悔しかったら、
土器の分布から平城京や平安京の権力を証明してみろ。
なぜかって?
最低でも西日本が統一されてないと
畿内から魏と外交なんて無理だからだよ。 >>352
>ああ、答えるべきすべを持たないと、困ってしまって意味のないコピペに走るんだな
>
>九州説は惨めだ
何度も同じ説明をさせるからだろ。 >>353
>外側の同心円の領域だけをやたら広く取ってしまっている、他の内向花文鏡とかけ離れた鏡面の図柄になってしまっている
特別な鏡だからね。
他との違いを見せないと。
とは言って見たが、単に大型化させるための手法に過ぎないだろ。
内行花文鏡は前後数百年にわたり尊重されているから、その中で最大の鏡を軽視していい理由はない。
当の畿内でも、内行花文鏡を尊重する文化が流入するわけだしね。 >>362
そうだな。
被征服民と征服民。
毛人と倭人。
生口と耳垂鼻垂。 倭国(阿波)相手だとシュンとするけど、畿内説 対 九州説となるとイキイキしてくるね。 @阿波 土器を生産する側と、搬入して消費する側と、どちらが上位なんだ?
纒向からは持ち出すだけで(東海以外からは)何も持ち込まれず、閉塞した田舎だろ。
国内外の産物が圧倒的に集中していた筑紫との差は歴然としているだろ。
現実から目背けるなよ。 冷静に考えてみろ。
鉄器→北部九州
海外製品→北部九州
土器→全国
巨大古墳→畿内(農業どうすんの?w
どこに住みたい? 纒向は東海にだけは勝った
局地戦では勝ったが、すぐに大きな西からの波に飲み込まれた >>372
東海の方が豊かで、交易にも有利。
纒向の方が下部組織だろう。 なんだか、九州説が適当な思い付きをつぶやくだけになってる
本当に語るべき根拠も典拠もない、思い付きを捏造で隙間を埋めて捏ね上げた説だけのことはあるな >>354
>纒向に河内の土器が搬入されていない。
最初から、認識が間違ってるんだよ
間違った認識からは、間違った見解しか出てこない
纒向遺跡への搬入土器の出身地割合
伊勢・東海系 : 49%
北陸・山陰系 : 17%
河内系 : 10%
吉備系 : 7%
近江系 : 5%
関東系 : 5%
播磨系 : 3%
西部瀬戸内海系 : 3%
普通にたくさん出てるじゃないか そして、祭祀場と見られる場所では、さらに搬入土器の比率が高まる
共同祭祀を行うための、特別な都が纏向遺跡だと見るのが相当
九州には、そういう特別な場所はないねぇww
ちなみに、祭祀場は、サイキバじゃないよ、念のためw 下部組織って言われたのがよほど悔しかったんだねw
でも、九州は地場の土器を放棄してるから、下位の立場だったのは確実 東京人は東京の地場ものにこだわらず、全国どころか世界各地の産物に手を出すけどね。
当時の筑紫もそうだったんだろう。 九州が銅鐸を副葬していたら下位の立場と認められるのだが。。。
実際は
平原遺跡の世界最大を頂点とする内行花文鏡が畿内を東征。 畿内からの生口に何をさせる?
単純労働だろ?
そして、土器製作くらい? >>375
お隣りの河内からたったの10%www
海外土器はないの?www >3世紀にもなると
>土器なんて最下層の民に作らせてたんだよ。
>あればいい。それだけ。
>悔しかったら、
>土器の分布から平城京や平安京の権力を証明してみろ。
畿内説の解答いまだナッシング >>375
>河内系 : 10%
>
>普通にたくさん出てるじゃないか
たくさんじゃないだろw
おそらくは河内から山を越えてきたのではなく、東海に海で運ばれたもののおこぼれが流れてきたのだろう。
しかも筑紫からの搬入物がない。
筑紫に魏の使いが滞在していたのに、その筑紫と交流がなかったことになる。
これは纒向は邪馬台国と無関係と言っているのに等しい。 土器を作るだけの民を外部へ大量供給
自領には金属器ゼロ
巨大古墳を継続的に建設
あれ?
食料生産は? >しかも筑紫からの搬入物がない。
>筑紫に魏の使いが滞在していたのに、その筑紫と交流がなかったことになる。
>これは纒向は邪馬台国と無関係と言っているのに等しい。
魏使は伊都までしか来ていないからね。
考古学的に判明している奴国の描写が全く無い。 >>375
見事に倭国(阿波)を排除してるね。
もっとも、全部「東阿波型土器」なんだけどね。 @阿波 >>333
便利な道具が普及するってだけの話を勘違いしてるな? >>337
とことんあほ
>>335
に答えてみせろいかに見当違いのことを言ってるか思い知れ。 >>383
>たくさんじゃないだろw
10%は1割だぞ?
これを>>354で「搬入されていない」とかテキットーなことを書いてたやつが
反省もなくさらにいい加減な嘘を書き連ねる
よくもまあ恥ずかしげもなく、でまかせが書けるものだ
「おそらくは河内から山を越えてきたのではなく、東海に海で運ばれたもののおこぼれが流れてきたのだろう。 」
バカじゃん? >>381
>お隣りの河内からたったの10%www
お隣だから、野営を繰り返す距離じゃないから、飯炊き甕をわざわざ持ってくる必要がないんだよ
一体の勢力圏だから、身一つで歩いてくればご飯はだしてもらえる ところで播磨も讃岐もあわも
畿内ではないな。
剣矛銅鐸、土器も合わせると
河内よりも阿波が各時代を通じて生産拠点だった可能性が高い。 >>378、>>388
>便利な道具が普及するってだけの話を勘違いしてるな?
精製器種は供献土器であり、祭祀用だと何度言えば
日用品の話をしてるんじゃないんだよ
円筒埴輪も含めて、古墳上での葬送儀礼に必要な土器の話
古代においてマツリゴトは、政祭不可分であり、その祭器が畿内様式で統一されるということは
畿内に祭主=王がいたことを証するものに他ならない >>382
>>土器の分布から平城京や平安京の権力を証明してみろ。
>畿内説の解答いまだナッシング
平城京や平安京って、何百年後の話だと思ってるんだ?
平城遷都で8世紀初頭、卑弥呼が死んだ3世紀半ばから500年弱あとの時代だぞ?
平城、平安の時代の権力について述べるなら、歌集について述べる方が妥当だな
もの知らずは反論まで、まるっきりの見当違いだから話にならない
九州説が学究の場で歯牙にもかけられないのは、故なしじゃないんだ >>391
>お隣だから、野営を繰り返す距離じゃないから、飯炊き甕をわざわざ持ってくる必要がないんだよ
ひどい言い訳だな。
色々と考えたのだろうが、ハチャメチャだな。 >>393
>精製器種は供献土器であり、祭祀用だと何度言えば
隣の国まで行って、近所だから祭祀の道具を借りるのか?
もうわけわからんな。
説得力ゼロで、それで反論のつもり?
客観的に見てアホだろ。
>円筒埴輪も含めて、古墳上での葬送儀礼に必要な土器の話
平原遺跡は古墳じゃないから、九州説には関係ないなあ。
後世の話を持ち出されましても困ります。
>畿内に祭主=王がいたことを証するものに他ならない
漢や魏と交流がなくて王に冊封されていないなら、ただの首長や豪族だよ。 >>396
隣の国まで行って、近所だから祭祀の道具を借りるとか
なにを言ってるのか、わけわからんな。
>>393 の話を聞いてそんな妄想をするってことは基礎知識ゼロ? ダブルスタンダードもいいところ
時代錯誤もいいところ
点でお話にならないわ。落第だね。 >>393
古代人にとって祭祀は重要で
祭祀用の土器が便利なものになってる
何か問題が?
誰が日用品の話をしてるんだ? 祭器で一番重要なのは青銅器だよ。
特に銅鏡文化圏においては銅鏡そのものが実用品ではなく祭器だからね。
その銅鏡の分布と編年を無視して纒向だけ叫んでも無駄。 >>400
>祭器で一番重要なのは青銅器だよ。
その青銅製の祭器でも、畿内で大量生産された三角縁神獣鏡をありがたく
埋納している北部九州がなんだって?
結局古墳時代に入る前頃には、完全に北部九州は畿内を中心とする広範囲の秩序の
一部なんだよ
卑弥呼の頃にも一大率を置かれて監視される対象でしかない 卑弥呼より後のことを持ち出しても無駄。
平原遺跡の頃にはまだ三角縁神獣鏡が九州にないし、後の畿内においてさえ三角縁神獣鏡より内行花文鏡の方が尊重されている。
畿内は独自の祭器である銅鐸を捨て、九州北部の銅鏡文化に征服されたのは明らか。 平原遺跡無双だな。
やはり卑弥呼の墓なのだろう。
倭国代々の弥生王墓群に属している
王都を意味する伊都にある
三種の神器(特に八咫鏡を含む)がある
被葬者は女性
倭国大乱より後の墓である
耳璫からは古くても魏の時代
大量の水銀朱
大量の銅鏡 >>404
>平原遺跡無双だな。
>やはり卑弥呼の墓なのだろう。
実にレベルが低いね。 お粗末。 @阿波 >>396
>隣の国まで行って、近所だから祭祀の道具を借りるのか?
>もうわけわからんな。
>説得力ゼロで、それで反論のつもり?
>客観的に見てアホだろ。
どこどこ産の土器、って言ってるのは基本的に「飯炊き甕」
これは、河内から大和の持ち込む理由がない
庄内期の土器についての区別が主
精製器種三種というのは、布留式土器の定式化に伴い、祭器として
確立する器種
布留式土器の段階には、各地の土器が斉一化するから、
精製器種三種について、「どこどこ産」の土器という言い方はほぼしない
結局、>>396がもの知らずだから、いろんなことを混同していちゃもん
付けているだけなんだよ
まあ、>>396のレベルの低さにあった説明を省いた俺も悪いんだけどさ
まあ、ここまでバカだとは思わなかったってことでw >>396
>平原遺跡は古墳じゃないから、九州説には関係ないなあ。
>後世の話を持ち出されましても困ります。
つまり、平原1号墓は、卑弥呼の時代より古くて時代が合わないんだよ
それを、無理に卑弥呼の墓にしようとして破綻しているのが伊都国説 >>399
>古代人にとって祭祀は重要で
>祭祀用の土器が便利なものになってる
>何か問題が?
古代人にとって祭祀は重要だから、
祭祀用の土器は「便利かどうか」などという「日用品レベルの理由」で
選ばれたりしないんだよ
そんなことを言っている>>399の頭が問題ww
祭祀者としての上位者=祭祀王・卑弥呼の決定に従うだけ
その統一が、畿内基準だって時点で、祭祀王卑弥呼の在所は畿内と分かる >>400
>その銅鏡の分布と編年を無視して纒向だけ叫んでも無駄。
で、古墳時代に入ると同時(実際には少し時間差があるけれど)に
畿内配布の三角縁神獣鏡秩序の下部構造にきっちり組み込まれている、
北部九州が何だって?ww >>404
>平原遺跡無双だな。
相変わらず、平原遺跡と平原1号墓の区別もつかずに適当なことを書いてるなw
平原遺跡の立地は5号墓を作るときに決められているし、5号墓には
吉野ヶ里の北墳丘墓の立柱と同じような大柱が立てられている
そして、平原1号墓にも大柱が立てられているが、その指し示す方角は
5号墓の大柱の指す方角とずれている
平原1号墓の墓坑周りには、葬送祭祀で用いたと考えられる杭列の跡があるが、
きちんと整列しておらず、かなりいい加減
鳥居と呼ばれる杭穴(柱穴?)が二つあり、1号鳥居、2号鳥居と呼ばれているが
その二つの鳥居が揃っていなくて、傾いている
ずいぶん「立派」な倭王墓だと思わないかい
墳丘の大きさは12×8メートルで、成人男子が10人もいれば、1週間とかからずに
作れるだろう
「大作冢徑百餘歩」と魏志倭人伝に明記された卑弥呼の墓に、この、建てつけがいい加減で
小さな墓を当てる以外に候補すらない時点で、九州説は破綻してるんだよなw 古墳時代に入る前に
吉備の楯築墳丘墓は二つの方形突出部を入れて墳丘長72メートル、
出雲の西谷9号墓は四隅突出墓でその突出部まで入れるとおよそ60×50メートル、
丹波の赤坂今井墳丘墓は東西36m、南北39m、高さ3.5mの墳丘部に加え四方に5〜9mの平坦部、てなサイズがある
倭王ではない、ローカルな首長でも、この程度の「王墓」を作っている時代に
親魏倭王の卑弥呼の墓が長辺12メートルの方形周溝墓だっていうのが大笑い
ちなみに畿内纏向遺跡では
纒向石塚古墳で全長96メートル、東田大塚古墳で墳丘長120メートル
という、列島最大の墳丘墓を作っているよ
これが、古墳時代に入る前代の話 雑談用スレだから、大目に見てやろうかと思ったんだが、結局はジェノサイドだなw >>413
畿内説の限界:その巨大な古墳に見合う、集落遺跡群が何で無いのか、説明が出来ない点。 @阿波 >>410
便利という言葉を日用品に限定する理由は? その祭祀の起源も大和自生のものはない。
畿内は文化的にも後進地域だからね。
北部九州で古墳築造が始まってた時にはまだ弥生時代だからなぁ。 >>411
>で、古墳時代に入ると同時(実際には少し時間差があるけれど)に
だから、卑弥呼より後の話を持ち出してどうするのさ。 >>415
>畿内説の限界:その巨大な古墳に見合う、集落遺跡群が何で無いのか、説明が出来ない点。 @阿波
その巨大な古墳に見合う労働力の存在は、巨大な古墳の存在自体が証明している
集落遺跡群は「見つかっていいない」または「認識されていない」のどちらかしかない
集落遺跡群が「ない」ということには、最初からならないよ
説明するしないではなくてね
この辺が、阿波の論理の限界w
阿波はアワコンw >>421
>集落遺跡群は「見つかっていいない」または「認識されていない」のどちらかしかない
あれだけいっぱい発掘調査しているのに???
阿波なんか発掘後進県なのに、集落遺跡ごろごろ出てるけどね。 不思議の国「阿波」 @阿波 >>423
>そう思う根拠は?
つ「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」佐々木憲一(2010)
明治大学人文科学研究所紀要 第66冊 (2010年3月31日)251−312
https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/10881/1/jinbunkagakukiyo_66_251.pdf
土器が一番編年研究が進んでいるから、分かりやすいけれど、
畿内第V様式の時代(卑弥呼より前だよな?w)から、継続的に、次第に大々的に
畿内様式甕の北部九州への浸透、拡散が続き、最終的に祭祀用の精製器種3種を含む布留式土器の
時代に、完全に畿内様式に塗りつぶされる様子が見て取れる
古墳時代に入る前から、北部九州は気内を中心とする秩序の下部構造に組み込まれているし
ものごとは突然始まらない
順序を追って進んでいくのが見て取れるだろ? >>424
>畿内第V様式の時代(卑弥呼より前だよな?w)から、継続的に、次第に大々的に
>畿内様式甕の北部九州への浸透、拡散が続き、最終的に祭祀用の精製器種3種を含む布留式土器の
>時代に、完全に畿内様式に塗りつぶされる様子が見て取れる
倭国(阿波)を発った忌部一族がもたらした「東阿波型土器」様式に塗りつぶされる様子が見て取れるね。
>古墳時代に入る前から、北部九州は気内を中心とする秩序の下部構造に組み込まれているし
>ものごとは突然始まらない
いや、古墳時代に入る前から、北部九州は倭国(阿波)を中心とする秩序の下部構造に組み込まれている。 @阿波 >>424
祭器の中心である青銅器が九州北部の銅鏡と銅矛で塗りつぶされていったのを無視しても意味がない。 >>426
>祭器の中心である青銅器が九州北部の銅鏡と銅矛で塗りつぶされていったのを無視しても意味がない。
祭祀は忌部!! うだうだ言っても無駄。 @阿波 >>426
で、5号墓は関係ないんだーって言い続けるのは諦めたのか?
そもそも、平原1号墓みたいな小さな方形周溝墓を、卑弥呼の墓だという時点で無理がある
ひと頃、1号墓と2号墓を合わせれば25メートルで径百歩って言ってたやつもいたけど
きちんと測れば22.9メートルって出されてからは消えたな >>428
卑弥呼が女王になる前の家族の墓を持ち出しても意味がないだろ? 秀吉じゃないんだから、そこらの庶民の娘がいきなり倭王に
共立されるようなことはないって言ってるんだよ 庶民じゃないだろ。
方形周溝墓を持つ、倭王家の一員だが、宗家ではなかったのだろう。 >>431
方形周溝墓って、王家じゃなくても普通の家族の
家族墓として使われる墓制だってのを理解してるのか? さすがに庶民の家から女王は出さないだろうからなあ。
他の王墓も方形周溝墓だからなあ。 福岡の金隈遺跡は方形周溝墓が
びっしり並んだ大衆墓だからね。
方形だから並べやすいのだ。 王墓も大衆墓もこの時代は、
大きさ以外はあまり変わらないということ。
あと、宝物などの副葬品は違うけど。 だからこそ、副葬品による区別が大事になる。
それが璧や内行花文鏡だよ。
その副葬品で三雲南小路と並んで最高クラスに位置するのが平原遺跡だよ。
三雲は古いので、卑弥呼の前の男王達だろうね。 三雲南小路の倭国王家(天孫族)が大乱で権力を失い、混乱の末に平原の卑弥呼が共立された。
一方、天孫族は一部が筑紫を脱出して大和を征服した。
こうして天孫族の歴史書である記紀に書かれない卑弥呼政権が成立した。
倭国はその領域を西日本全域に拡大した。 「大和弥生社会の展開とその特質(再論)」
http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
「こうした小共同体の安定した強固にすぎる程の紐帯とそれを安住させ得る自然条件の卓越性、それゆえの保守的 基盤と非闘争性をもつ大和の弥生社会が、
いわゆる「ヤマト王権」と呼ばれる政治的連合体の権力中枢を内的に生成させ、国家形態を「王国」にのし上げ得るだけの母胎にはたしてなりうるのだろうかという疑問をもつにいたった。
そもそも私は、橿原考古学研究所に入所し自らこのテー マを追い始めた1976 年頃から、大和弥生社会の自然的、社会的、
そして文化的安定性とそれゆえの緊張関係の欠除、いわば内陸後背地の保守的地域がそうした王権機構を生成するような母胎にはたしてなりえたのか、というこの疑問が終始脳裏を離れることがなかった。」
寺沢氏は、纒向を邪馬台国のみならずヤマト王権と直結するものだということにすら疑問を呈しているではないか。
つまりは、畿内拙論者が纒向学を理解せずに歪曲して都合のいい部分だけ曲解して畿内説をでっち上げるために利用しているだけだということがわかった。
纒向学というタイトルには、邪馬台国畿内説との決別の思いが込められているのだろう。
「(一)大和にとっての外的強力とはいかなる地域のいかなる集団であったか(権力中枢の系譜)、
(二)彼らの征服活動に興ずる必然性とその対象としての大和とりわけ東南部の重要性、
(三) 農業共同体再編の具体化と階級的支配関係の実体については、その後の論攷で私なりの一応の答えは用意することができた。」
大和が筑紫による征服の対象であったこと、それが大和における農業共同体の再編と階級支配の成立につながったことを示唆している。
これにて畿内説は完全に終了だが、纒向学は、大和が邪馬台国ではなかったことを前提に進んでいくだろう。
それは、卑弥呼より数百年の後に奈良盆地が権力の中枢となる過程を明らかにするだろう。 九州脳には、書かれていない内容が書かれているように見えるらしい
脳の病気じゃんか >>442
2016年の論文は(再論)なんだよ
>>508の引用部分は「旧稿で最後に掲げた三つの課題」であって、現在の寺澤先生の所論ではない
現在の考えも明記されていて
「私は第一の道を否定する立場である。しかし、征服など物理的強力を
前提とした「東征論」や北部九州や吉備勢力を念頭においた政治権力の
直接的移動を想定した「東遷論」に与するものではない。」
征服や東征・東遷論は採らないと書いてある
「第一の道」というのが、大和単体での自生的王権段階への発展だが、
寺澤先生が否定しているのはこの部分だけ 協調的で間接的な影響で
吉備や筑紫勢力の勢力の移入があった。
人によっては東征や東遷と呼ぶかもしれないが。
ということだね。 寺沢氏
「もともと第一の道論 は、奈良盆地の自然環境の卓越性を根拠に、生産力の先 進性をことさらに高く見積もり、前期古墳に見る隔絶性 から前段階の強力な権力の存在を推定するという本末転 倒の論理によって説明されてきた感が強い。
以降、第一 の道論は吉備連合論、河内(大和川水系)連合論、鉄ルー ト開発 ・ 確保論、倭国乱での巻き返し論等々を巻き込み、 修復を繰りかえしながら多くの論者によって支持され続 けてきた。
しかし証明のための論理や手法に根本的な改 善は見られない。
私は第一の道を否定する立場である。」 第二の道とは、(中略)大和弥生社会がこの時期により大き な別の権力主体によって征服、あるいは包括、
刷新され るという苛酷な道であり、そこでは農業共同体構造の再 編は外的強力によって強制的に達成されたことになる。
旧稿において私は、(中略)第二の道を主張した。
しかしこのことが、私があたかも北部九州勢力の東遷論 者であるかに評価されることとなり、
5年後に刊行され た橿原考古学研究所論集では改めて、いわゆる「東遷論」 一般には与するものではないことを明記した。
いじめられて日和ったんだね。かわいそうに。 単純に歴史の連続性から考えて邪馬台国=畿内=大和だよ
馬鹿なの? >>443
「私は第一の道を否定する立場である。しかし、征服など物理的強力を
前提とした「東征論」や北部九州や吉備勢力を念頭においた政治権力の
直接的移動を想定した「東遷論」に与するものではない。」
> 征服や東征・東遷論は採らないと書いてある
倭人(忌部一族)による入植だからね。 @阿波 >>447
「しかしこのことが、私があたかも北部九州勢力の東遷論 者であるかに評価されることとなり、
5年後に刊行され た橿原考古学研究所論集では改めて、いわゆる「東遷論」 一般には与するものではないことを明記した。」
本音は、倭人(忌部一族)による入植論を言いたかったんだね。 いじめられて本音が言えなかったんだね。 かわいそうに。 @阿波 ヤマト王権萌芽の地はヤマト盆地でしょう。
筑紫も吉備も王権参加者のうちということです。
王統の起源をどこに求めるか?
王権というものは王統、ある血統が前提です。
畿内説に対する違和感がやっとはっきりした。
王統の話をしないから、そこには東征も東遷も概念として存在しない、そういうつもりなんだな。
寺沢氏は。 >>451
>ヤマト王権萌芽の地はヤマト盆地でしょう。
妄想の時代は終わってますよ。 @阿波 いや、寺沢氏は言葉を濁らせているが、むしろヤマト王権が大和の外から来たと考えているようだね。
東遷と批判されるのが嫌なだけ。
畿内説は部族の固有名とかを書かずに匿名化して誤魔化しているが、大和に入植したのは筑紫にいた天孫族なんだよ。 >>453
>畿内説は部族の固有名とかを書かずに匿名化して誤魔化しているが、大和に入植したのは筑紫にいた天孫族なんだよ。
筑紫に大和に入植するような部族は存在しない。
妄想の時代は終わってますよ。 @阿波 倭王の王統はどこで発生したのかという問題なわけだけれど、それはやはり対馬海峡しかないのではないか。 九州に村はあっても周辺国を統治出来るような王権はないよ
くやしいだろうけど今も昔も一緒
邪馬台国=大和国ですよ
九州説は完全に田舎っぺの妄想 >>458
そんなことないよ
同じ時代は余裕で大和地方だわ 縄文時代、圧倒的に人口の多かった関東・東北は、日高見国という太陽信仰の祭祀国を形成、鹿島神宮の祭神タカミムスビからアマテラスヘの一族が率いていた。
大陸からの脅威に対抗するため、関東の鹿島から九州の鹿児島へ、香取(柁取り神宮)と息栖神社(天の鳥船神社)の率いる船団が鹿島立ちして、鹿児島の天降り川に到着した。
そこで準備して、イワレヒコ(神武天皇)が東遷して大和を征服した。
最近の考古学と科学分析の成果は神話の新たな読み解きを導いた。 関東を代表する古社としては常陸国一宮鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)が常陸国風土記に香島の天の大神として記載されている。
下総国一宮香取神宮(千葉県香取市)とあわせて古代の内海である香取海の入り口の両岸に鎮座しており、海運と軍事の要所であった。
鹿島神宮の祭神はタケミカヅチ、香取神宮の祭神はフツヌシであり、いずれも日本書紀において出雲の国譲りに登場する神である。
関東の支配権が出雲から移譲されたことを反映しているのかもしれない。 現在も残る関東の地名の多くがアイヌ語であったと見られることから、関東地方はもともとアイヌの土地であったようであるが、新羅系の勢力であったスサノヲと出雲の影響か、新羅系の地名も多く残されているといわれる。
本家の出雲がアマテラスの支配する狭義の倭国に降伏してから、関東の支配権は倭国に移譲されたのだろう。
関東最古の大社を名乗る鷲宮神社(埼玉県久喜市鷲宮)は、ホヒ(天穂日命)が出雲の従人27人を連れて関東を訪れた際に創建したと伝えられ、事実なら出雲の国譲り前後の出来事である。
ただしこのときの鷲宮はすぐに放棄され、後にヤマトタケルが鷲宮を再興したとされる。
武蔵国一宮の大宮氷川神社(埼玉県さいたま市大宮区)も出雲系の神社であり、スサノヲとその后である稲田姫、末裔の大己貴(大国主)を祭神としている。 縄文時代の圧倒的な人口、タケミカズチの存在もあり
その時代筑紫はただの出先機関の役目なんだよな
天孫族=関東人→九州に防壁のための出先機関→東征→邪馬台国=大和国
で日本の古代の歴史は間違いないよ 神社をもとにするより縄文時代の聖地を参照にするほうが
はっきり言って正確なんだよ
縄文の聖地がのちの神社になったところ関東にはめちゃくちゃあるんだから
まず奈良の日本最古の神社、三輪山ももともと山を神体にした自然崇拝でしょう
大和王権の成立、国譲りをさせたのは鹿島神宮の神
奈良の一番の神社、春日大社の神は鹿島香取の神だし
鹿島立ちという言葉がのこるように筑紫は出先機関 重要なんで理解できるようにもう一度書いておく
天孫族=関東人→九州に防壁のための出先機関→東征→邪馬台国=大和国 >>465
関東から奈良に春日大社が勧請されたのは、かなり後生だよ。
筑紫の王権の方が500年以上古い。 >>465
縄文の聖地は文献が少ないからあてにならない。
その縄文を駆逐するように弥生文化が広まった(人間は必ずしも駆逐されない)。
だから、研究材料としては神社は有用。 >>467
そんなの知ってるよ。
その元となるのがアマテラスをサポートした鹿島のタケミカズチ。
筑紫に王権はない。大陸文化を吸収する出先機関のみ >>468
文献じゃなくて現地に今も関東の神社には沢山縄文遺跡が残ってるの
文字のない神話以前の時代の話だよ 九州に兵士を送っていた鹿島神宮ですら
この邪馬台国論争のはるか以前からの縄文遺跡が出土してるんだよ 重要なんで理解できるようにもう一度書いておく
天孫族=関東人(縄文)→九州に防壁のための出先機関{弥生)→東征→邪馬台国=大和国
である。 >>469
豊葦原中国の王となるために天孫が筑紫に降臨して王となった。
つまり、筑紫が王都であった時代があったということ。 >>472
弥生文化に塗りつぶされるんじゃなくて、当時の大陸文化を少しずつ九州で吸収していったの
縄文と弥生時代の変換はとてもゆっくり進んでいってる >>474
王都じゃなくてあくまでも出先機関
初の王都は邪馬台国=奈良で成立 弥生文化の受容は生産手段の変更を伴う改革であり、少しずつ移行することは難しい。
弥生時代への移行は比較的速やかだったと考えられている。 >>476
奈良など内陸は文化的発展が決定的に遅れていた。 >>479
単純に地理の問題 九州はたんに大陸が近かった&防波堤&出先機関
人口&力があったのは内陸 しかも関東 ようするに九州自体が江戸時代の出島みたいなもの
日本の先っちょの小さな受け入れ場所に過ぎない
王権があったとか無理がありすぎ 大陸に近く、対馬海峡を抑えることができた筑紫が倭としての列島を代表した。 倭としての列島を代表したのは中央政権が成立した大和以外あり得ない 九州が王都だったというのは江戸時代の出島が
江戸幕府の最高機関だったとのちの時代にわめいているようなものだ >>486
妄想じゃなくて国譲りの拠点でしょうが 馬鹿なの? >>488
「国譲り」は倭国(阿波)国内での出来事。 誇大妄想しすぎ。 @阿波 とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
MEE 倭国王帥升は、大倭王とは書いてないだろ?
後漢書の典拠資料は、三国志が書かれた時代と同時代のもの
後漢書の其大倭王居邪馬臺國、というときの大倭王は三国志当時の情報であり
卑弥呼の後継の王
それに対し、倭国王帥升は、卑弥呼の遣使の130年前の王で
北宋版『通典』には「倭面土王帥升」と書かれているし、
『翰苑』所引の『後漢書』には「倭面上国王帥升」、
唐類函・変塞部倭国の条所引の『通典』には「倭面土地王帥升」となっている
まあ、倭国の王というよりは、倭の面土の「地」の王ってのが最大公約数かな
帥升「等」って後漢書にも書かれているし、倭国のただ一人の王という地位にはない >>492
>倭面土=ヤマト
倭はwiに近い発音で、やはyaだから、子音が違う
中国語的には、かなり違う発音だって話らしい
テンプレの
「さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。 」
と同じ話 東京から北海道までの最短距離だと 640キロ弱
玄関口の函館までだと 680キロ弱
中心都市(道都)の札幌までだと 830キロ
最遠の稚内だと 1100キロ
道央の真ん中辺までで 900キロ
東京から北海道までの距離は、640キロから1100キロまでの幅がある
これを100キロ単位の丸めた数字で表現すると
東京から北海道まで900キロくらい となる
起点・東京より、北海道に至るに900余粁
自郡至女王國萬二千餘里
自東京至北海道九百餘粁 楽浪郡徼去其國萬二千里
其西北界狗邪韓國七千餘里
楽浪郡から倭の国境まで七千里余り、邪馬台国まで一万二千里 楽浪郡徼去其國萬二千里
其西北界狗邪韓國七千餘里
楽浪郡から倭の国境(狗邪韓国)まで七千里余り、大倭王がいる邪馬台国まで一万二千里
倭王帥升はどこにいた?
倭王卑弥呼はどこにいた?
帥升から卑弥呼までの間に、邪馬台国は移動した? >>495
>倭王帥升はどこにいた?
>倭王卑弥呼はどこにいた?
>帥升から卑弥呼までの間に、邪馬台国は移動した?
移動していない、同じ場所。
帥升も卑弥呼も大量の奴婢の記述から始まる。
弥生時代、すでに王都があり、そこには大量の奴婢がいた。
そのような場所は九州にはない。
王都の謂れと古い俘囚郷の両方がある場所、それは葛城をおいて他にない。
高天原(御所市高天)だ。
卑弥呼の時代から1700年後に高天原のふもとで奴婢の末裔たちが声を上げる。
「人の世に熱あれ 人間(じんかん)に光あれ」
この地が水平社運動の原点となる。
帥升とはスサノオ、卑弥呼とはヒメ(踏鞴五十鈴)だ。
朝貢年
266年 台与 トヨ津
・
238年 卑弥呼 ヒメ踏鞴
・
・
・
・
・
107年 倭国王・帥升 スサノオ >>498
伊都国説スレにふさわしいトンデモですね! 東京から北海道までの最短距離だと 640キロ弱
玄関口の函館までだと 680キロ弱
中心都市(道都)の札幌までだと 830キロ
最遠の稚内だと 1100キロ
道央の真ん中辺までで 900キロ
東京から北海道までの距離は、640キロから1100キロまでの幅がある
これを100キロ単位の丸めた数字で表現すると
東京から北海道まで900キロくらい となる
起点・東京より、北海道に至るに900余粁
自郡至女王國萬二千餘里
自東京至北海道九百餘粁 東京から北海道まで900キロといっても、札幌までの距離は計算できない
それと同じで、帯方郡から女王国まで萬二千余里といっても、
邪馬台国までの距離は計算できない 後漢書における邪馬台国までの里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
北海道の例えだと、最短距離の640キロと、中心までの距離の830キロが明記されていることになる。 >>510
>倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
三国志の魏書東夷伝韓条はちゃんと読んでるかい?
そこの弁韓、辰韓の一覧
已柢國、不斯國、弁辰彌離彌凍國、弁辰接塗國、勤耆國、難彌離彌凍國、
弁辰古資彌凍國、弁辰古淳是國、冉奚國、弁辰半路國、弁樂奴國、軍彌國、
弁軍彌國、弁辰彌烏邪馬國、如湛國、弁辰甘路國、戶路國、州鮮國、馬延國、
「弁辰狗邪國」、弁辰走漕馬國、弁辰安邪國、馬延國、弁辰瀆盧國、斯盧國、優由國
この、最後から7番目の「弁辰狗邪國」が、狗邪韓国だよ
ちゃんと韓の中の国だ
だから、「倭国の西北界である」狗邪韓國、は誤り >>510
>その国(邪馬台国)から一万二千里である。
これも、誤訳、というか誤解釈
その国は「倭國」だよ
魏志倭人伝の「女王国」にあたるもの
「北海道」であって、「札幌」ではない >>511
>だから、「倭国の西北界である」狗邪韓國、は誤り
後漢書に文句言えよ。 >>512
そっちこそ誤訳している。
倭国の国境は楽浪郡から七千里の狗邪韓国だ。
後漢書を読み直せ。 後漢書
倭在韓東南大海中依山㠀為居凡百餘國 自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國 國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也) 楽浪郡徼去其國萬二千里其西北界狗邪韓國七千餘里 其地大較在會稽東冶之東與朱崖儋耳相近故其法俗多同
「倭は韓の東南、大海の中にある。山島に居住して、すべてで百余国。武帝が(衛氏)朝鮮を滅ぼして以来、漢と交流のあったのは三十国ほどである。国はみな王を称し、代々受け継いでいる。その大倭王は邪馬台国に居る(今の名を案ずると、ヤマユイ音のなまりである)。
楽浪郡の境界は其の国を去ること万二千里。その西北界の狗邪韓国を去ること七千余里。その地は会稽、東冶の東にあり、朱崖、儋耳に近く、法や習俗に同じものが多い。」
倭の王都が邪馬台国であり、楽浪郡から一万二千里、倭の西北界は狗邪韓国であり、楽浪郡から七千里だ。
ちなみにこれは魏志倭人伝とも一致していて、対馬海峡が三千里なので楽浪郡から一万里で九州北岸に達している。
これはいわゆる短里で書かれていることに相当する。 >>513
>後漢書に文句言えよ。
去其西北界拘邪韓國七千餘里の「西北界」は「西北の境界」であって、
倭国の内部じゃないって言ってるんだよ
後漢書がおかしいんじゃなくて、その解釈がおかしい >>514
>倭国の国境は楽浪郡から七千里の狗邪韓国だ。
狗邪韓国までが韓で、そこに国境があるが、狗邪韓国は韓側ってだけだろ?
何を訳の分からないことを言ってるんだ? >>515
>これはいわゆる短里で書かれていることに相当する。
これがうそ
単なる誇張
「范曄が5世紀に書いた後漢書」の元ネタは、「西晋の華嶠が書いた後漢書(漢後書)」
晋の時代のものだから、晋の高祖司馬懿の功績が盛ってある >>517
狗邪韓国は倭国側だろ。
狗邪韓国が韓国側なら、朝鮮半島内に国境を想定する意味がそもそもなくなってしまって、意味不明になる。
楽浪帯方から倭の国境まで七千里、王都まで一万二千里なんだよ。 >>519
>楽浪帯方から倭の国境まで七千里、
伽耶諸国と対馬の間が倭と韓の境で、そこまで楽浪帯方から七千餘里
何も問題ないだろ? 『三国志』「魏書」東夷伝韓条では、
韓は帯方郡の南にあり、東西は海を限界とし、南は倭と接し、四方は四千里ばかり。
韓には三種あり、一に馬韓、二に辰韓、三に弁韓。
辰韓とは昔の辰国のことで馬韓は西にある。
とあり、韓と倭が接する(陸続きである)と記述している。
また、狗邪韓国は韓伝に含まれず倭人伝に含まれている。
狗邪韓国は倭国の一部である。 >>522
>とあり、韓と倭が接する(陸続きである)と記述している。
「接」は陸続きとは限らないよ
単に隣ってだけ
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 その倭は、帯方東南大海中と書いてあるから大丈夫だろ
「帯方と地続きの倭」はどこにも書いてない >>515
>楽浪郡から一万里で九州北岸に達している。
単に、倭国の朝貢を大事件にするために、「万里の修交」にしたかったんだよ
要するに数字が盛ってあるだけ
>これはいわゆる短里で書かれていることに相当する。
だから、短里なんてないんだよ
プサンー対馬
対馬ー壱岐
壱岐ー唐津 の3つの渡海は等距離じゃないけれど全部千里にされてるだろ?
実測地じゃないし、作った数字
短里なんてないんだよ あいかわらず、過疎ってるなw
伊都国説の人間なんて、ほとんどいないってことだろ? そうだね
畿内纒向が王都で、その都が置かれた場所がヤマト国=邪馬台国ってのは
もう議論の余地もなく確定だよな! じゃあ、このスレはもう要らないってことでいいのかな? 魏志倭人伝には邪馬壹國(=ヤマイ)と書かれておる。
同じく
魏志倭人伝でのヤマト=大和とは大倭と書かれておる。(交易市
各地から大型倉庫が見つかっておるのだが、
その中でも大市が出土したのはどこじゃったかの? >>533
>邪馬壹國(=ヤマイ)
上代日本語で、母音の連続はなかったとされている
ヤマイというのは、当時の日本語(倭語でもよいけれど)として不自然 同じ理由で、「やまたい」もない。
やはりヤマトしかない。
そしてそれは上古においては筑紫の別名であったのだろう。 >>536
>そしてそれは上古においては筑紫の別名であったのだろう。
筑紫が大和と呼ばれたという、名残も伝承も痕跡もないんだ
九州の上古における呼び名が筑紫ってだけだろ 【倭国】
紀元前に博多湾沿岸に倭国が成立して漢と国交を持ち、後漢の頃には漢委奴国王印により倭国王に冊封された。後漢書では、倭国は朝鮮半島南岸から九州北岸までの、対馬海峡の海洋国家として書かれている。
対馬海峡における貿易の権益が、天津神すなわち海の神を中心とした倭国の形成の原動力であったと考えることができる。
記紀の国生みは博多湾から始まる。伊奘諾が最初に手に入れた領土である淤能碁呂島は博多湾の小島である能古島のことである。
それに続きイザナギとイザナミの生んだ国(領土)のうち、天の冠詞がつく島である隠伎之三子島(天之忍許呂別)、伊伎島(天比登都柱)、津島(天之狭手依比売)、
女島(天一根、姫島)、知訶島(天之忍男、五島列島)、両児島(天両屋、男女群島)が天つ国の本来の領域である。
国産みにおける島々は九州北部沿岸の島を意味していたが、後に西日本全体の地名に拡大され再配置される。
博多湾岸を起点として対馬海峡から朝鮮半島南岸へ、日本海から山陰や北陸に広がる国が古代の倭国の姿である。
連合国家である倭国の盟主は筑紫であり、他に九州北部の倭国連合を構成する豊国、肥国がある。倭地とされた本州には出雲、越などがあった。
また、中国との交易は一貫して筑紫が独占していた。
筑紫の特に玄界灘周辺の勢力は、対馬海峡の権益を独占して力をつけ、海人の国、天津国と呼ばれ、その王族は天津神として九州や本州の王族である国津神と区別された。
九州で出土した副葬品の分布地図
http://www.netpia.jp/history/map-fukusohin237.gif
狗奴国(熊本)も元は卑弥呼と近い立場の同じ文化圏であり、卑弥呼共立をめぐって反対していただけである。
上記の地図は邪馬台国と狗奴国(熊本)を合わせた九州北部の国、倭国の中枢を示している。
実際にはこれに属州としての日本海沿岸、瀬戸内海沿岸の地域が付随する。
卑弥呼の時代の畿内は、奈良も京都も大阪もまだ沼地であり、特に奈良は主要交易路からはずれた名もなき辺境の沼地であった。
2世紀の倭国大乱後の女王の墓として3世紀に平原遺跡が作られた。
副葬された王位の証である八咫の鏡は、筑紫伊都国が王権の所在地すなわち倭国の王都であったことを示している。 >>539
>佐賀大和があるよ?
その大和(村)は、春日村・川上村・松梅村の合併でできたものなんだが?
字レベルでも大和の地名はなさそう
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%92%8C%E7%94%BA_(%E4%BD%90%E8%B3%80%E7%9C%8C)
古代に遡れる地名ではないだろ? >>541
嘘つくなよ
2004年(平成16年)12月までに大和町と佐賀市・諸富町・富士町・三瀬村の1市3町1村の合併が各議会で可決された。
もともと大和町があるじゃねーか。 大和町はともかく、
川上村の「川上」は、古代から居を構えるのに優れた土地として有名。
古代豪族の住処といえば、「○○川の川上」というのが、お決まりのフレーズだからな。 >>542
みるとこ間違った。うそつきよわばりしてごめんなさい。申し訳ない。 >>542
>2004年(平成16年)12月までに大和町と佐賀市・諸富町・富士町・三瀬村の1市3町1村の合併が各議会で可決された。
>もともと大和町があるじゃねーか。
ウィキペディアのURLも記してあるんだから、調べてから書き込みなよ
その、2004年(平成16年)12月まで存在した大和町が「できた」のが、明治の
「春日村・川上村・松梅村の合併」で、それまでその辺に大和の地名がないんだよ >>545
指摘が間に合わなかったw
理解してくれればOK >>543
>古代豪族の住処といえば、「○○川の川上」というのが、お決まりのフレーズだからな。
でも、筑紫の辺りが大和と呼ばれた過去はないだろ? 肥前国風土記・・・佐嘉郡
また別の者が云うには、佐嘉郡の西部に佐嘉川(現在の嘉瀬川)という川があり、年魚(鮎)がおり、北方の山から南方の海へ流れ出ていた。
その川上には「荒ぶる神」が居て多くの人々が亡くなっていた。これを鎮めるため、県主の祖の大荒田は占いを問う・・・。
川上の由来はなかなかのものだが、
大和町の名は、近年の町村合併の所産らしい。
とはいえ、この名前を付けた人は、相当の歴史通だったのだろうな。 >>549
>大和町の名は、近年の町村合併の所産らしい。
近年の町村合併言うたら、通常は昭和の大合併か、平成の大合併だと思うだろ?
明治の市町村制導入に伴うもので、通常の感覚では近年ではない
>相当の歴史通だったのだろうな。
こういう地名を付けるのは、合併する村の中で中心となるべきところがなくて、
お互いが譲らないときと相場が決まっているんだが? 倭が日本語のヤマトに相当するなら、後漢書によれば博多湾沿岸の倭奴国を含む対馬海峡こそヤマトになる。 昭和30年(1955年)
>4月16日 - 春日村・川上村・松梅村が合併して「大和村」が発足。(2町5村)
そもそもは、大和村として発足したらしいな >>551
>倭が日本語のヤマトに相当するなら、後漢書によれば博多湾沿岸の倭奴国を含む対馬海峡こそヤマトになる。
倭とヤマトは語源が別だよ 佐賀の大和町は古名ではなく
関係するような古地名もないので
邪馬台国と繋げなくてよい。
佐賀市大和町住人より >>555
タブーじゃないが、邪馬台国の墓制ではないと思う。 >>553
>どう別なの?
見たまんま、倭は大陸の言葉、ヤマトは大和言葉
倭は、論衡が初出だけれど、百越の流れの海人集団を倭と呼んでいるように読める
これが、日本列島の人々にも「流用」された言葉 この部分、推論交じり
ヤマトは、河内とセットでおそらくは山外が語源
大和川でつながる、生駒山地の西側が河内、東側が山外なのだろう
この部分も、推論交じり 邪馬台国は3世紀だけで
4世紀以降はまた倭国に戻る。
邪馬台国はその後どうなったんだ? 倭国が邪馬台国と狗奴国に分裂して倭国王争いをして
邪馬台国が勝ったから狗奴国を九州して
倭国再統一されたんだろ。 その後も何度も内紛はあっただろうね。
卑弥呼と壹與の間の男王の時も乱れたらしいし。
壹與の次はもう4世紀の神夏磯姫の時代になり、景行天皇が九州で暴れる。
その次はヤマトタケルの時代だし、次に神功皇后が暴れるだろ。
それで4世紀が終わるんだよ。 神夏磯姫=壹與
邪馬台国の支配権は景行天皇へ奉還。
景行天皇が狗奴国を滅ぼす。
ここで統一。
神功皇后は世代が別。 神夏磯姫は筑紫にいて、小倉まで出てきていたよね。
肥前河上の壹與とは少し違うと思うんだ。
壹與が肥前にいたのは、その時点で既に肥後狗奴国は再統一できていたからだと思う。
あと、景行天皇は実は倭王ではないと思う。
あくまでも三種の神器を持っていた神夏磯姫が倭国女王だ。
その手のひらで転がされていた将軍といったところだな。
田油津姫は神夏磯姫の末裔(孫?)とのことなので、4世紀末に神功皇后が邪馬台国女王の系譜を倒して、応神朝(八幡様)の世となる。 >>557
北部九州〜日本海or瀬戸内海〜畿内という経路。
日本海の四隅突出も
瀬戸内海の楯突も
積石墓なのに、倭人伝に書かれていない。
陳寿は各地の墓制に強い関心を示していて、
例えば高句麗の積石墓なども記載されているのにね。
つまりそういう意味でも、
倭国とは積石墓の領域を含んでおらず、積石墓はせいぜい東の倭種で、
倭人領域は北部九州の土塚の墳丘墓のみ。 熊本の稲作が盛んになった記録は7世紀のもの。
王墓は4世紀以降。
鉄器が生産できても北の邪馬台国と敵対したら原料が途絶える。
要するに3世紀の熊本一国だけでは敵対できない。
3世紀先進地域の福岡県そのものが南北に割れて戦わない限り
一瞬で決着がついてしまう。 免田式土器など邪馬台国時代の流通は
筑後肥後を動き回っている。
弥生時代の硯出土分布や
甕棺墓分布などを見れば、
福岡県から佐賀県にかけての領域が突出して栄えており、
伊都王墓群を中心とする北部邪馬台国勢力に対抗するには、
筑後平野の勢力ぐらいが指導しなければ相手にならない。
吉野ヶ里が衰退したり、
平塚川添が鉄器を全回収して廃棄されたりしているわけだが、
弥生熊本一国がやったにしては荷が重すぎるだろう。 >>566
>熊本の稲作が盛んになった記録は7世紀のもの。
延喜式のことなら10世紀だぞw >>559
>邪馬台国は3世紀だけで
>4世紀以降はまた倭国に戻る。
その認識は間違い
3世紀の卑弥呼も「親魏倭王」であって「邪馬台国王」ではない
国号としてはずっと倭国のままだよ
邪馬台国は、倭国の中の女王の都が置かれた場所の、ある意味「地名」 >>565
>積石墓はせいぜい東の倭種で、
九州説の人はすぐ「東渡海千里皆倭種」に頼るけれど、
九州と本州の間は幅600メートルの関門海峡しかない
九州説の人は短里が大好きだけれど、関門海峡は短里でも10里もないよ
長さ60センチの1歩よりも短い超短里で渡海千里にするの? >>570
>国号としてはずっと倭国のままだよ
その認識は間違い
列島側は国号として「倭国」は使ってない
倭人が作った邪馬台国、伊都国・・・の連合政権だね 列島側が使っていなくても、大陸側の認識はずっと倭であり、
倭の領域の倭人の国が倭国 対外的な国号では、倭、日本、しか使ったことはない。 >>572
卑弥呼の印璽は親魏倭王だよ。
国号は倭だ。 倭王は倭国の王の意味だよ。
魏王とか漢王とかで魏や漢が国号ではないとかいうバカがいるのか。 当時、倭が列島の国号だったという根拠は何かあるのか 国号と王権を承認するのが冊封だから、当時の東アジアにおいては一番の根拠だよ。
しかも漢も魏も金印を用いている。
これ以上の根拠はないよ。 >>567
免田式土器など邪馬台国時代の流通は
筑後肥後を動き回っている。
弥生時代の硯出土分布や
甕棺墓分布などを見れば、
福岡県から佐賀県にかけての領域が突出して栄えており、
糸島平野と福岡平野の勢力に対抗するには、
筑紫平野各地区全体の勢力ぐらいが指導しなければ相手にならない。
吉野ヶ里が衰退したり、
平塚川添が鉄器を全回収して廃棄されたりしているわけだが、
これは筑紫平野内各地域(佐賀平野、筑後平野、北野地域)の抗争結果であろう。 >>588
列島側が「倭国」と称していた根拠を示せばいいだけなんだが 訳の分からない意地を張っている人がいるが、もとは>>559の
「邪馬台国は3世紀だけで
4世紀以降はまた倭国に戻る。
邪馬台国はその後どうなったんだ?」
だからな
日本側も大陸側も、邪馬台国を国号としたことはない
以上
で終わりなんだよ >>592
>それは押しつけられただけだから
朝貢ってのは、呼ばれもしないのに押しかけていって、
たくさん土産をもらってくること、なんだよ? 理解してるか?
>>592は、何を主張したいんだ?
自分は間違ってないって言いたいのかい? >>592
押し付けられようが、それを受け入れて外交をしているのだから、呼称していたということになる。
わけわからん議論はやめろ。 >>585
ですね。
基本的に、半島南岸〜壱岐対馬〜伊都の支配者が圧倒的。
鉄を初めとする海外交易の全てを支配し、
対馬海峡の渡海技術を独占しているから、
一方的に攻めることは出来て、逆に攻められる心配は皆無。
ヒエラルキーとしては、
対馬海峡支配者(邪馬台国)>>>北部九州倭国の他勢力(狗奴国)>>(倭国の壁)>>東の本州倭種>>>>>毛人 >>576
漢委奴国王と同時期に匈奴がもらったのは、匈奴単于璽だったね。
個人に授けているように見えるけれども、
この金印は後に回収されているわけだから、
回収するということは、個人じゃなくて、代々効力を発揮するものだから、
わざわざ回収したということ。
匈奴は国家名というよりは民族名。
全世界が統治国家で満たされて国境線が画定された
現代の我々は、国家と領土国境線の白黒つけるのが常識に思えるけど、
弥生時代だとまだ統一国家が少なくて、朝鮮半島も日本列島もバラバラ。
未開の地域すら広大に広がる。
イメージとしては、一つの民族(政権集団)の支配領域が、周辺の小集団との兼ね合いで、
数年ごとに膨張したり収縮したり分裂したりしている。 いや、倭種って言葉の意味がずれてるんだってば!
魏志「倭人」伝ってのがどういう意味か、きちんと理解して!
「倭種の人」=「倭人」だよ!
そして「倭人の国」=「倭国」だ
「倭種」だから「倭国ではない」というのは最初から見当違い
そして、関門海峡しか隔てのない九州ー本州間を渡海「千里」というのも無理がある
畿内を倭国から切り離したいという「九州説の勝手な都合」は分からないでもないが、
所詮無理筋 >>601
間違っている。
現代の国家観に引きずられているね。
日本列島が統一された奈良時代以降なら、それでいい。
しかし弥生時代は、
北部九州くらいは倭国と呼べるかもしれないけど、
東方倭種や半島南岸は、倭王の支配下にあっても、
現代の感覚のような同一国家として運営管理されていない。 倭種だから倭国じゃないだろ。
そもそも鉄器ゼロの毛人の地だし。 >女王國東 渡海千余里 復有國皆倭種
邪馬台国から東に渡海して千余里で、倭種の国。
おわかり?
北部九州邪馬台国に豊前地域は含まれない。
女王國(宗像のちょい手前が境界)から東に渡海したら千余里で本州だよ。 考古学的に文化が断絶しているじゃないか。
>鉄器豊富倭人>鉄器保有倭種> 鉄器ゼロ毛人
>土塚倭人>積石墓倭種>巨大古墳
>銅矛倭人>銅剣倭種>銅鐸毛人
>硯大量倭人>硯少量倭種>硯ゼロ毛人
>中国朱倭人>>国産朱毛人 >北部九州邪馬台国に豊前地域は含まれない。
>女王國(宗像のちょい手前が境界)から東に渡海したら千余里で本州だよ。
これ何度も言われてるし、其の余の傍国でもいつも宗像地域が入らないのが
九州説内でも議論になってるのに、
キナイコシは北部九州倭国に紛れ込もうと必死だなw そもそも魏使が伊都までしか来ていないからな。
(奴国弥生銀座の圧倒的都会の描写なし)
伊都で目的が果たせた=卑弥呼と外交交渉した
ということだ。 「キナイコシ」さん、今日はこちらでご活躍ですか
デマ広宣活動に、精が出ますね! >>602
>間違っている。
>現代の国家観に引きずられているね。
現代の国家観に引きづられているのはそっち!
>現代の感覚のような同一国家として運営管理されていない。
これなんてまさに、「現代の国家観」じゃないか
古代の国は「運営管理w」なんてしてないよ!
首長同士の連帯が、当時の倭国の実態だし、その連帯は「倭人=倭種の人」の
範囲に広く張り巡らされていた
それを認めると、弱小勢力の北部九州には倭王が縁遠くなるから、本州を
倭国の枠外にどうにかして切り離そうという足掻きが、
「倭種は倭国じゃない」という誤読 >>609
>そもそも魏使が伊都までしか来ていないからな。
恥ずかしくならない?
南至投馬國水行二十日
南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月
とはっきり書いてあるのは、なかったことにするんだww 鉄器大量消費
なにもかも満ち溢れた北部九州がなんで弱小なん?w
考古学を馬鹿にしてる?
東方倭種はまだ北部九州倭国の範疇に含めても
200回近く発掘して鉄器ゼロの毛人は北部九州倭国と同じ国じゃありませーんwww >>612
里程と旅程の並列表記。
見聞録は伊都まで。
恥ずかしくならない? 隋書によると筑紫国の東に秦(ハタ)王国があると書かれている。
八幡神社総本社の大分の宇佐神宮を中心とした地域であろう。
ここから東千里(80q程度)の倭種ならば四国を想定するのが妥当ではなかろうか。 四国なんざどうでもいい。
倭種は日本海沿岸。
後には稲部遺跡からの畿内。 >>611
>首長同士の連帯が、当時の倭国の実態だし、その連帯は「倭人=倭種の人」の
>範囲に広く張り巡らされていた
連帯はしていただろうけれど、倭国と呼べるのは、金印をもって冊封された博多湾沿岸の倭王が統べる土地だけだよ。 んだな。
邪馬台国女王国から東に千余里で本州の倭種。
邪馬台国が狗奴国を倒して北部九州倭国再統一だぜ。 200メートル以上の前方後円墳33のうち
24は陵墓指定されておらず
それなりに発掘調査されている。
そのうちたった2つの結果がこれ
>>839
他を調べてみると。。。
大きいからすごいという固定観念は。。。 女王国以遠を里程表記している時点で、
女王国までの説明が里程+日程の並列であることが明らかだな。
〇里程(+日程並列)→さらに里程
×里程→日程→里程 (錯乱w) >>620
>200メートル以上の前方後円墳33のうち
>24は陵墓指定されておらず
これ、どこから拾って来た情報だ?
ウィキペディア見ると200メートル以上が33と書いてあるが、
このページの情報だけで、そのうち10基が天皇陵治定されているし
皇族墓も入れれば17が陵墓指定されていて発掘できない
残りは16になるはずだが?
相変わらずいい加減なゴミ情報を何度も書き込むばかりだな >>621
>女王国以遠を里程表記している時点で、
>女王国までの説明が里程+日程の並列であることが明らかだな。
相変わらず九州説の根拠は、倭人伝の無理読みのみだな
並列だったらそう読むように注記がなければ読めない
で、そんな注記はないんだから、並列読みは無理読み
史書は、暗号書でも判じ物でもないんだから、普通に読めばいいんだよ
邪馬台国は伊都国や奴国から水行陸行合わせて2ヶ月かけて行く遠地の別の国
倭国の中に邪馬台国があってその中に伊都国や奴国があるなんていうのは、
戸数も矛盾する二重帳簿詐欺 伊都や奴国などというのは
漢代楽浪郡史が里程を測定した頃の地名。
魏使が来た時は投馬国→邪馬台国で到着。 >>624
>魏使が来た時は投馬国→邪馬台国で到着。
だったら、投馬国が邪馬台国より南だったらおかしいよな?
北部九州が邪馬台国で、投馬国が宮崎は無理だ
さらに半島南部が投馬国はもっと無理
北部九州説では、どうしたって投馬国の否定に無理が出る 投馬国は邪馬台国より北だろ。
半島南部が投馬国だ。 >>623
伊都国、奴国で里数の合計が12000里を超えているから注記なんて必要ないよ。 漢代は狗邪韓国
魏代は投馬国
晋代は任那
鉄原料を入手 >>629
>伊都国、奴国で里数の合計が12000里を超えているから注記なんて必要ないよ。
今どき、島巡り仮説を採用する気か? >>627
>半島南部が投馬国だ。
半島南部は韓地
狗邪韓国は、魏使東夷伝韓条の弁辰12国の中に弁辰狗邪国としてきちんと載ってる
半島南部は小国小集落が割拠する状態で、戸数五萬餘戸の投馬国が入る余地はない >>628
>投馬国は宮崎都万
投馬国は邪馬台国より北
投馬国を宮崎都万にするなら邪馬台国は鹿児島で 狗奴国が置けなくなる >>631
島巡り仮説にを否定する理由や根拠は無いですよ
倭人伝の行程の書き方なら島巡りを入れるべきですよ。 >>633
狗奴国かい
それっはだね、熊本緑川の南で、宇土・宇城・御船・甲佐・八代だ
塚原古墳とか、宇土・宇城の女王大古墳とか
なかなかの場所さ >>635
それは、東鯷人二十餘國(島原湾沿岸 八代海沿岸)
狗奴國は、緑川北岸以北の白川流域と菊池川流域の地域。 >>636
>東鯷人二十餘國
東鯷人まで九州にしちゃうのか!
さすが、トンデモは行き着くところを知らない! >>632
「韓在帶方之南 東西以海爲限 南與倭接」
韓の東西は海で南は倭に接している
弁辰に「其瀆盧國與倭接界」とあり弁辰の瀆盧國は倭と境界が接している
狗邪韓國は倭人伝に書かれており韓伝には記載がない
弁辰狗邪国は単に名前が似ているだけで別の国である、同じ国だとの証拠は無い
狗邪韓國は倭人伝に書かれているのだから倭の国である
半島南部の国邑の比定は困難であり分かっていない
戸数五萬餘戸の投馬国が入る余地は十分にある。 >>639
>弁辰狗邪国は単に名前が似ているだけで別の国である、同じ国だとの証拠は無い
>狗邪韓國は倭人伝に書かれているのだから倭の国である
弁辰が、韓条に書かれているのだから、弁辰諸国は当然に韓の国
弁辰狗邪国は弁辰狗邪国を名乗ったわけではなく、弁辰の狗邪国だ
そして、弁辰は韓のサブセットなのだから、狗邪国は韓の狗邪国であり、
一言で言えば狗邪韓国となる
>韓の東西は海で南は倭に接している
>弁辰に「其瀆盧國與倭接界」とあり弁辰の瀆盧國は倭と境界が接している
海を隔てて、接していても、「接」と書かれるよ
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
韓の東西は、沖合いにも国がないから、海なんだよ >>639
>半島南部の国邑の比定は困難であり分かっていない
>戸数五萬餘戸の投馬国が入る余地は十分にある。
入る余地はないよ。
南岸はリアス海岸で、そもそも平野が少ないから否定が難しいんだ。
5万戸は入らない。 >>640
>一言で言えば狗邪韓国となる
根拠のない独善的な主張ですね。
>韓の東西は、沖合いにも国がないから、海なんだよ
韓の西の沖合いには魏があるだろ
その解釈だと韓の西は海を隔てても魏と接していることになるよ。
>>641
半島南部の国邑の位置が分からないのに入る余地はないとか言えないよ。 >>642
わからないんじゃなくて、わかりたくないんだろ? >>642
>韓の西の沖合いには魏があるだろ
>その解釈だと韓の西は海を隔てても魏と接していることになるよ。
>>642の「沖合い」って、どこまでだ?
アメリカは日本の沖合いなのかい? >>643
実際に分からいだろ
ここは〇〇国ですなんて出土品ないからな。
>>644
3世紀にアメリカがあるなんて知られていないだろ
都合よく「沖合い」なんて使うなよw なんでも分からないことにすればトンデモ説は言いたい放題で便利だろうな
でもそれ、一般読者から馬鹿にされるだけだけどな 三方が海で南に倭があるなら「韓在帶方之南 東西南以海爲限 倭在韓之南」 とか書くはずだな
「韓在帶方之南 東西以海爲限 南與倭接」 とかどう読んでも東西が海で南は倭と地続きだな。 >>646
分からいことを分かってるとか嘘吐くなよなw >>645
>都合よく「沖合い」なんて使うなよw
都合よく「沖合い」を使っているのは
>>642=>>645だろ
>韓の西の沖合いには魏がある
>>647
だ・か・ら、半島南岸から対馬は天気のいい日には見えるんだよ
そういう距離感なら、海を挟んでいても「接する」と書かれる
黄海の向こう側は、とても接する距離じゃないだろうが! >>640
訶陵國(シャイレーンドラ朝)はマレー半島も支配下に置いていたので真臘(カンボジア)とは陸続きで接してたようですが?
接はやはり陸続きにしか使われないですね。 >>650
唐会要のこれは読んだことないのかな?
北限大海。西北接百濟。正北抵新羅。南與越州相接。
倭と百済は地続きですか? 倭と越州は地続きですか? >>651
唐会要だけど浙江省を越州とあるから607年以前の記事を基にしてるな
当時、倭は任那を領有してたから百済とは接していました
越州は南でもないし接してもいませんね
何かの間違いでしょうね。 >>652
>当時、倭は任那を領有してたから百済とは接していました
はい「北限大海」
任那を領有しているから百済と接するというのが、
詭弁だというのは簡単に示せますね 調べたら相接は接するじゃなくて連なるって意味らしい
南に越州に連なる、西南諸島のことかな? >>653
倭(九州)の北は海がある
同時に百済とも倭は任那で接している
何の問題もない。 >>649
>そういう距離感なら、海を挟んでいても「接する」と書かれる
それは接するとは言わないよ。 >>651
>倭と百済は地続きですか? 倭と越州は地続きですか?
半島南部を倭が領有していたということでしょう。
それをなぜ畿内説は必死に否定しようとするのか。 >>658
607年以前ですから、607年に任那が存続してるとか言ってないよw >>655
>倭(九州)の北は海がある
>同時に百済とも倭は任那で接している
>何の問題もない。
おいおい、詭弁のレベルすら下がってきてるぞ
任那が倭だとするなら、倭の北限は大海にならないから「北限大海」 に矛盾する
倭の「北限大海」なら、任那は倭の中に入れられていないことが明らか
ならば、百済と倭は陸続きでは接しないだろ?
間に海があっても、「接」で表現するんだよ >>661
>間に海があっても、「接」で表現するんだよ
無茶 >>662
>無茶
>>662の個人の感想は、何の意味もないんだって!
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
山東半島と遼東半島が地続きとか言わないよな?
唐会要の百済と倭も、陸続きじゃないのは反論できないだろ?
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接は
>>650で
「訶陵國(シャイレーンドラ朝)はマレー半島も支配下に置いていたので真臘(カンボジア)とは陸続きで」
とか言ってるけど、ここで書かれている訶陵國は「南方海中洲上」の島国だし
婆利=ブルネイや、墮婆登=スマトラ辺りの島とも、陸続きってのは無理だろうに >>650
>訶陵國(シャイレーンドラ朝)はマレー半島も支配下に置いていたので真臘(カンボジア)とは陸続きで
マレー半島とカンボジアだったら、
「北」與真臘接にはならないだろ?
これは、ジャワ島辺りの訶陵國が、海を挟んで北の真臘と接してるんだよ 横からだけど、これ理屈がわかれば、
正直、本当にどうでもいい誤字なんだよね……
https://dotup.org/uploda/dotup.org1611256.png
自分的には随分前から
ここが誤字だと気付いてたもんで、今更感がある >>663
>山東半島と遼東半島が地続きとか言わないよな?
地図見ろよ陸続きだろ。
>唐会要の百済と倭も、陸続きじゃないのは反論できないだろ?
思い込みw
訶陵國(シャイレーンドラ朝)は「南方海中洲上」の島国だけど領土はマレー半島まで及んでいたから陸続き。
>>664
真臘(カンボジア)の領土もタイまで及んでいたんだよ
領土は広がったり狭まったりしてる。 >>666
>地図見ろよ陸続きだろ。
陸上では接してないだろww
間に、漁陽郡、右北平郡、遼西郡と挟まってて、接していない
半島同士が渤海海峡で向かい合って接してるんだよ
もう無理だよ
>>666の言うことは通らないw >>665
読んだけどただのトンデモじゃん
瀆盧国は通常、巨済島の国とする
弁辰12国と接する国、なんてことはないよ >>666
>領土もタイまで及んでいたんだよ
それでマレー半島の国と接していたら、「北」與真臘接ではなく「東」與真臘接になるだろ?
もう詭弁にすらなってない
間違いは素直に認めなさい https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%A8%E6%B8%88%E5%B8%82
>古来、巨済島は日本と朝鮮との交通の要衝であった。
>市の公式サイトでは、三韓時代の弁韓の一国で
>「倭と界を接す」と記された瀆盧国を歴史的淵源に求めている。
>もっとも、瀆盧国の比定地には諸説あり、巨済島とする説は定説ではない。 >>669
>それでマレー半島の国と接していたら、「北」與真臘接ではなく「東」與真臘接になるだろ?
マレー半島付近で接していたら、「北」與真臘接で合ってるでしょう??? >>671
そうか、こういう方面からだと話をそらされるのか
そもそも、カンボジア(の前身)がマレー半島まで進出するのは真臘のあとの、
クメール王朝(中国語で高棉)の頃
それよりも、大陸史書・会要での、地理記事は、国の中心を基準に記述する
だから、真臘は今のカンボジアのトンレサップ湖の東の辺り、訶陵國は
ジャワ島の国
普通に海を挟んで、南北に接していると書いてあるだけ >>670
>巨済島とする説は定説ではない。
定説ではないけれど、多くの人が巨済島とするのが妥当だとしているよ >>672
8世紀頃にはジャム湾岸の真臘へ陸伝いにジャワ人やマレー人が進出してたんだよ
訶陵國はジャワ島からスマトラ、マレー半島を経てカンボジア近くまで支配してたんだから
陸で接してたの海を挟んでたら接じゃないだよ
解釈が強引だな。 外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
陸上では接してないだろ
間に、漁陽郡、右北平郡、遼西郡と挟まってて、接していない
半島同士が渤海海峡で向かい合って接してるんだよ >>674
>解釈が強引だな。
>>674は無理筋の詭弁だけ >>675
>外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
でもこの文は例文にならんだろ? >>677
なりますが、何か?
ならないというならならない理由を具体的に書いてください
そして、唐会要のこれだけで、海をはさんで接すると書かれることをしますには十分だろ
北限大海。西北接百濟。正北抵新羅。南與越州相接 >>679
つ 欲附山東、外接遼東、得戎馬之利、建樹根本、孤立一隅、不與共也。
なるだろ? >>679
逆質問で返してごまかさずに、>>678の
「ならないというならならない理由を具体的に書いてください 」にまずは答えようか? 逆質問で返してごまかさずに、>>678の
「ならないというならならない理由を具体的に書いてください 」にまずは答えようか? 逆質問で返してごまかさずに、>>678の
「ならないというならならない理由を具体的に書いてください 」にまずは答えようか? >>673
とりあえず、定説ではないし
むしろ倭国と接するの記述以外に
根拠ないレベルじゃん
指示してる人の割り合いだって不明だし 逆質問で返してごまかさずに、>>678の
「ならないというならならない理由を具体的に書いてください 」にまずは答えようか? >>686
>意味も分からずにあげてるの?
意味も分からずにこんな書き込みしてるの
↓
>でもこの文は例文にならんだろ? 逆質問で返してごまかさずに、>>678の
「ならないというならならない理由を具体的に書いてください 」にまずは答えようか? >>688
あなたはかなりのクズ野郎とお見受けする
>>665のhttps://dotup.org/uploda/dotup.org1611256.png のトンデモに比べたら
瀆盧国の比定地として巨済島を考えるのは普通 だいたい
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接に出てくる
「訶陵國」「婆利」「墮婆登」「真臘」の位置関係を考えたら、
海を渡って接するのは、一目見て間違いがないだろうが!
「真臘」が、マレー半島まで領土を伸ばした時期があるとか言っても
島が別の「婆利」「墮婆登」とも「接」と書いてあるんだから、諦めな >>692
いや、そもそも巨済島が
比定地としてかなりの根拠があるなら
こちらの説の否定にもなるけど
無いんなら、それは否定材料にならないってだけの話 「婆利」・・・バリ島
「墮婆登」・・・スマトラ島西部
訶陵國と陸で接していたんだろ。 >>693
接を海をまたいで良いなんて主張するくらいですから漢文読めないんですね。 >>695
>「婆利」・・・バリ島
バリ島は小さすぎるし、大陸王朝と交流できるだけの勢力はないよ
現状、ブルネイ辺りのカリマンタン島の西岸に比定地を求めるのが通説
どうやっても地続きにはならないよ
まあバリ島でも地続きじゃないけどさ >>696
>接を海をまたいで良いなんて主張するくらいですから漢文読めないんですね。
どうして九州説は間違いを認められないかねぇ
民族教育の結果かい? 「婆利」をググって、やっと無理だと悟って消えたかな
どうして、簡単に確認できることを確認もせずに、面倒な言いがかりをつけてまで
自分の間違いを認めずに突っ張ろうとするんだろうか >ブルネイ辺りのカリマンタン島の西岸に比定地を求めるのが通説
これどこの情報
「婆利」はバリ島が定説のようですけど
論理的に説明しないと言い張るだけでは相手されないよ。 >>702
まだがんばるのか?
いいかげんに諦めな
现文莱国旧称。文莱达鲁萨兰国位于加里曼丹岛北部,北濒南中国海,东南西三面与马来西亚的沙捞越州接壤,
并被沙捞越州的林梦分隔为不相连的东西两部分,总面积为5765平方公里,水域率为8.6%
中文名: 婆利国; 国 界: 东西四月行南北四十五日行. 梁書《卷第五十四列傳第四十八 諸夷海南諸國 東夷 西北諸戎》
婆利國,在廣州東南海中洲上,去廣州二月日行。國界東西五十日行,南北二十日行。
隋書
婆利國,自交趾浮海,南過赤土,丹丹,乃至其國。國界東西四月行,南北四十五日行。
舊唐書《卷二百九》
婆利國,在林邑東南海中洲上。其地延袤數千里,自交州南渡海,經林邑、扶南、赤土、丹丹數國乃至焉。 日本語のページだけググって文句をつけたけれど、
大陸史書の原文を典拠として出されたところで逃亡だな 九州説の雑談スレの邪魔をする気はないから、雑談を続けておくれ 23岡上 ◆Lv09mLa3HM 2018/08/28(火) 20:52:13.36
今回の小論は設楽論文が結構良い刺激になっています。批判もしますけど
「結構よい刺激になっています」ww
結局お鏡さんは、他人の説に寄っかかって、何か言ってるふりをしてるだけ
インスパイヤされたってのは、便利な言葉だよな
世間的には、盗作、盗用でいいと思うんだが
まあ、金儲けしてるわけじゃないから、ただの真似っこだとでも言いたいのかねぇ? >>705
「婆利」はバリ島で何か別の情報が混ざったんじゃないのかな
インドネシアは中国大陸からは遠いからね。 >>709
>インドネシアは中国大陸からは遠いからね。
遠いからいいかげんとか言い出すんだったら何でもありだなww
どうして「私の判断はどうやら間違いだったようです」って言えないんだろう? 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と単粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は単粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>712
そして、その地図が、現在の適当な推定で適当に作った地図だし
たいした根拠にもならんよ
で、そのいい加減な地図上でもいいから、どこに婆利國があるんだ? 古マタラム〜クディリが婆利國でしょうね
ジャワ島東部からバリ島、ボルネオ島、スラウェシ島 >>716
>古マタラム〜クディリが婆利國でしょうね
>ジャワ島東部からバリ島、ボルネオ島、スラウェシ島
これとの対応が取れないだろ
梁書《卷第五十四列傳第四十八 諸夷海南諸國 東夷 西北諸戎》
婆利國,在廣州東南海中洲上,去廣州二月日行。國界東西五十日行,南北二十日行。
隋書
婆利國,自交趾浮海,南過赤土,丹丹,乃至其國。國界東西四月行,南北四十五日行。
舊唐書《卷二百九》
婆利國,在林邑東南海中洲上。其地延袤數千里,自交州南渡海,經林邑、扶南、赤土、丹丹數國乃至焉。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨は朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、ギリヤークなどの沿海州の
北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>718
>婆利って播磨とかだろ
いや、倭国内の国じゃなくて、東南アジアの島嶼国 >>721
いや、そんな一言でいいなら
「接」は海越しに接していることが示されているじゃん
で終わりだな
ありがとう >>722
それを実名で世間に発表しろよw
皆で笑ってやるよwww >>723
>それを実名で世間に発表しろよw
>皆で笑ってやるよwww
唐会要のこれは読んだことないのかな?
北限大海。西北接百濟。正北抵新羅。南與越州相接。
倭と百済は地続きですか? 倭と越州は地続きですか?
たぶん今頃、「顔、真っ赤」だろうなww >>725
だから朝鮮半島に倭地が在ったんだよ
相接は接しているって意味じゃないよw
もっと漢文の勉強しろよ! >>726
>だから朝鮮半島に倭地が在ったんだよ
ないよ
あったら狗邪韓国じゃなくて、狗邪倭国だろ?
それとも投馬国が朝鮮半島にあったとかいうクチか?
漢文は>>726よりよっぽど読んでるよww 投馬国は宮崎だが、半島側にも狗邪韓国という倭国の足がかりがあったわけで。 >>728
南は越州に連なる
西南諸島のことだな
君は落第だよw
>>729
>半島側にも狗邪韓国という倭国の足がかりがあったわけで
狗邪韓国の周辺の倭地が投馬国と呼ばれていたわけです。 >>730
>南は越州に連なる
>西南諸島のことだな
西南諸島なら西南諸島でもいいけれど
原文は、南與越州相接
「南は越州と相接する」だ
「連なる」と文字を変えているのはごまかし
南西諸島であっても、「海を隔てて接している」ことには変わりがない
そして中華の文献で越州といえば、百越以来ずっと中華南方からベトナムにかけてだぞ
魏志倭人伝にいう當在會稽、東冶之東の會稽、東冶の辺りが越だ
南西諸島が越州と呼ばれたことはない >>730
>狗邪韓国の周辺の倭地が投馬国と呼ばれていたわけです。
ならなぜ、狗邪韓国の前後で投馬国に至ると書いてないんだ?
意味のないデタラメを書くなよw >>733
相接で「連なる」って意味ですけど
越州もこの場合は中華南方からベトナムのことではなく
実際に中国に在った越州ですよ
ちゃんとお勉強しようね。
>>734
最初に里数で国邑間の距離を細かく説明して
次に大雑把に日数で郡と投馬国、邪馬壹国に掛かる時間を説明してるんですよ。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨は朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、ギリヤークなどの沿海州の
北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>735
>最初に里数で国邑間の距離を細かく説明して
>次に大雑把に日数で郡と投馬国、邪馬壹国に掛かる時間を説明してるんですよ。
これが、九州説の一部の人の頭の中にしかない矛盾だらけの無理読み >>735
>相接で「連なる」って意味ですけど
それ、ただの意訳
海で隔てられた土地を「接」の字で表現していることは変わらない
相は互いにだから、接の意味は変化しない >>737
矛盾の無い読み方ですけど?
何処か矛盾してる?
>>738
相がないんですから海で隔てられた土地ではないってことですよ。 >>739
>矛盾の無い読み方ですけど?
>何処か矛盾してる?
文献を読む資格なしだな
倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑。と、魏志倭人伝の冒頭に書いてあるのに
戸数五万の、倭人国の中でも第2の大国が帯方郡と地続きの半島上にあったら
おかしいってすぐに分からないかな?
東南「大海」中にならないだろ? >>739
>相がないんですから海で隔てられた土地ではないってことですよ。
相のあるなしは、接とは無関係だと言っているのに
史/正史/史記/本紀 凡十二卷/卷五 秦本紀第五
楚北及魏西與秦相接
楚の北および魏の西と、秦は相い接する
相の字があっても地続きで接している場合もあれば、海を挟んで接しているときもある
相の字がなくても地続きで接している場合もあれば、海を挟んで接しているときもある
魏志東夷伝で、南與倭接と書いてあっても、倭が半島領土を持ち
地続きで韓と接している訳ではない >>740
倭の地の一部が帯方郡と地続きの半島上にあったら
倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑。とならない?
ではどうなるの?
倭人の殆どは日本列島なんですから。
>>741
相接は「皆連山相接」みたいに連なるって意味だから海でも陸でも関係ないし
接してる場合もあるし接してない場合もある
今問題としてるのは接の場合。 >>742
>倭人の殆どは日本列島なんですから。
そんなことにはならない
投馬国は5万戸の倭国第二の大国
人口の3割くらいが半島にあったら、
ほとんどが日本列島なんてことにはならない >>742
>相接は「皆連山相接」みたいに連なるって意味だから
これ、漢文の読めないやつの強弁で、何の意味もないよ
楚北及魏西與秦相接
これだと何が連なっていることになるんだ?ww >>742
倭の地の一部が帯方郡と地続きの半島上にあったら
倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑。となるわけないだろうがよ >>740
>戸数五万の、倭人国の中でも第2の大国が帯方郡と地続きの半島上にあったら
>おかしいってすぐに分からないかな?
だから、投馬国が宮崎県で邪馬台国が福岡県なら、全ての矛盾は解消します。 >>746
>だから、投馬国が宮崎県で邪馬台国が福岡県なら、全ての矛盾は解消します。
残念。 九州は「其山有丹」で矛盾を解消できない。 資格喪失ですな。 @阿波 >>746
>だから、投馬国が宮崎県で邪馬台国が福岡県なら、全ての矛盾は解消します。
それは、投馬国が「自女王國以北、其戸數道里可得略載」に入るから、通らないよ
「投馬国が邪馬台国より南になる」という矛盾が生じる
北部九州に邪馬台国を求めた場合、どうやっても投馬国の比定地で矛盾することになる >>748
投馬国は里程の記載がない、郡使が訪れなかった南の国。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨は朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、ギリヤークなどの沿海州の
北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>749
>投馬国は里程の記載がない、郡使が訪れなかった南の国。
魏志倭人伝に書いてあるのは
「自女王國以北、其戸數道里可得略載」
道里であって、里程じゃない
そして、日数も道里の表現なのは 『九章算術』巻第六「均輸」から明らか
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とあって
続けて
「甲県一万戸、行道八日」「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近・戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=125
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らか
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、
倭人伝述作当時の常識的用字法を表している
つまり、投馬国は南至投馬國水行二十日で道里が、可五萬餘戸で戸数が
略載されており、自女王國以北の国であるのは明らか >>752
「道里」つまり里数が書いてなければ、女王国の北の国ではないのだよ。 >>753
日本語読めますか?
魏志倭人伝が書かれた時代に通用していた書物で、距離を日数で示した文章で
その日数を道里と表現している
つまり南至投馬國水行二十日が道里略載そのものなんだよ
>「道里」つまり里数
これが間違いで、日数で道里を表した実例によって否定されている >>754
>その日数を道里と表現している
アホー
里数を略載できるのは、そこを郡使が通過したからだよ。
日数しかわからず里数がわからないのは、倭人からの伝聞だからだよ。日数しか書いてないのは、通過していない、つまり対馬海峡周辺ではないということだよ。 >>755
>アホー
>里数を略載できるのは、そこを郡使が通過したからだよ。
バカだなぁ
『九章算術』巻第六「均輸」の練習問題は、中国国内のいくらでも
里数が計れるところだけれど、「日数で道里が示されている」
日数も普通の道里の示し方なんだよ
郡使が通過するしないの問題ではない
そして、梯儁は魏皇帝の詔書を携えた除正使だから当然に卑弥呼の都まで行っているし、
張政は政等以檄告喩壹與とあるから、台与と直接会ってるしもちろん都まで行ってる
日数は行ってないところというのは通らない
論理的に考えないから、投馬国は南でいいとかいうバカな説になるんだよ >>743
戸数が書かれる分だけならそうだが
狗奴国や倭種の国、侏儒国、裸国、黒歯国も倭人の国。
>>744
国境 また、『九章算術』のあまの尺が暴れまくっとるな
魏代に、あまの尺は無かったのだ まあ常識では投馬国は女王国より北とされてるんで
ヘリクツつけて南とかにすれば九州説がさらに信用を失うだけだから
お好きなように >>759
>まあ常識では投馬国は女王国より北とされてるんで
いやいや、朝鮮半島の方が非常識ですよ。
日程は帯方郡が起点という原則を曲げてはいけませんよ。
地名の一致からも、人口からも、投馬国は宮崎ですよ。 >>756
>日数も普通の道里の示し方なんだよ
倭人は里数がわからないから日数で代用するとわざわざ断っているので、自分たち(中華の文明人)が通過したところは里数もわかると主張しているのですよ。
里数が書いてない投馬国は、対馬海峡周囲ではないということ。
>郡使が通過するしないの問題ではない
郡使が里数を記録したのですよ。
>そして、梯儁は魏皇帝の詔書を携えた除正使だから当然に卑弥呼の都まで行っているし、
そうですね。
行きましたね。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>760
>いやいや、朝鮮半島の方が非常識ですよ
いやいや、北部九州に邪馬台国を持ってくると、
矛盾を承知で投馬国を南、宮崎・都万に持っていくか
投馬国を非常識の極みの半島南部の国にするか
どちらかになるんだよ
結局、その矛盾か非常識を、この読み方で正しいと突っ張ることになる
九州説同士で決着をつけてくれると助かるんだがね あ、はい
九州説で、投馬国をどこにするかよく話し合ってください! 投馬国の前に、雑談がてら九州説内で邪馬台国の候補位置を統一できないかね? 現状では限りなく伊都国らしい。
一万二千里にわずかに足らないのが気になるくらい。 漢代
朝鮮半島南部に狗邪韓国
北部九州倭国(伊都国や奴国などの連合国家)
魏代
朝鮮半島南部に投馬国
北部九州に邪馬台国 vs その南に狗奴国
晋代
朝鮮半島南部に任那
北部九州倭国再統一(景行&ヤマトタケル) >>767
一万二千里は漢代のものだからね>須久岡本 >>767
>現状では限りなく伊都国らしい。
普通に読めば、伊都国と邪馬台国は別の国
同じ国だったら、伊都国に着いたところで邪馬台国に着いたと
書かれていなければおかしい
この辺をごまかさないと、伊都国にはならないだろうに
それから、投馬国はどこに置くの? >>768
>朝鮮半島南部に投馬国
>>760に「いやいや、朝鮮半島の方が非常識ですよ。 」と書かれてるんですが、それは?
それに、帯方郡と地続きの半島南部に倭人が5万戸もいたら、
倭人在帶方東南「大海之中」にはならないでしょう? >>770
>普通に読めば、
あなただけの「普通」 漢代
朝鮮半島南岸に狗邪韓国
博多湾沿岸に、倭国
魏代
朝鮮半島南岸に狗邪韓国
福岡に邪馬台国 vs その南に熊本狗奴国
宮崎に投馬国
晋代
朝鮮半島南部に任那
北部九州倭国再統一(景行&ヤマトタケル) >>772
この部分にはコメントできないの?
同じ国だったら、伊都国に着いたところで邪馬台国に着いたと
書かれていなければおかしい
この辺をごまかさないと、伊都国にはならないだろうに 「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
この文章の前後の文章は全て女王国か女王卑弥呼に付いての説明文であり、主語が書かれていなくとも主語は女王国か女王卑弥呼だと読み手には分かるようになっている。
それ以外の主語の場合は「諸國畏憚之」のように主語が明記されている。
「一大率常治伊都國」と主語が明記されていないので「常治伊都國」の主語も女王卑弥呼である。
なので「女王卑弥呼が伊都国で常に治めている」との意味になる。
では何を治めているのか?
女王卑弥呼が治めているのは自女王國以北の諸国である。
「常治伊都國」は「(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い自女王國以北の諸国を)常に治めていた」の意味であり 主語の女王卑弥呼と()内が省略されている。
治の類似の用法は漢書西域伝に見られる。
「大宛国 王治貴山城 去長安 万二千五百五十里…」
大宛国について、王は貴山城に治す、と王の所在を明らかにしている。
では「自女王國以北」とはどこか。
以北はその出発地を含む。出発地は「自女王國」とある。
つまり、女王国とその北にある国々を、そこに置いた一大率で支配したのである。
要するに女王国と伊都国は念を押して言い換えただけであり、一大率は伊都国にあり、伊都国が女王国、女王の都するところ、邪馬台国であるということである。
「於國中有如刺史」・・・刺史は各地の行政機関内に常駐している監察官
「女王国(を含めたそこ)から北の諸国には、(女王卑弥呼が)特別に一大率を配置して検察させており、諸国は(一大率を)畏れ憚っている。
(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い女王国から北の諸国を)常に治めていた。
これは魏で皇帝が刺史を州に派遣し検察させて洛陽で治めているのと同じようだ」の意味となる。
女王国が伊都より東にあったら、文章の意味が通らない。
畿内説では、一大率が支配していたのは奈良(女王国)およびその北である京都や丹波になってしまう。
女王国以北はおよそ里程や概要を記すことができるとされているが、里程が記載されているのは対馬海峡と福岡県内の国だけだからである。
すなわち女王国以北(女王国を含む)は伊都から北であり、女王国(邪馬台国)が伊都国であることを示している。 >>774
ごまかさんでもいいじゃん
陳寿さんが言葉足らずだっただけ
伊都に着く前
一大国=壱岐に入った時点で邪馬台国だよん 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>775
>この文章の前後の文章は全て女王国か女王卑弥呼に付いての説明文であり、主語が書かれていなくとも主語は女王国か女王卑弥呼だと読み手には分かるようになっている。
これがウソだから、長々書いてあるのが全部ムダw 今度、久留米に出かけることになった。
邪馬台国観光で行くべきところはどこかな?
今考えているのは
高良大社
淀姫神社(略字ですまん)
吉野ヶ里遺跡
ちょっと足を延ばして
平原遺跡
他にオススメの見どころはあるかな? 八女の岩戸山古墳
反対方向だが
小郡の九州歴史資料館
そんなに見るものはないが
平塚川添遺跡
平原なら伊都国歴史博物館
基本の福岡市博物館
九州国立博物館など 佐賀に行くなら、上流の淀姫神社に対して
下流の与賀神社がセット。
佐賀城本丸歴史館は幕末や明治維新が主力
古代、弥生時代なら佐賀県立博物館のほうがおすすめ。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>778
自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之
常治伊都國 於國中有如刺史
一大率を置いたのは女王卑弥呼だし
常に伊都国で治めてるのも女王卑弥呼です
この文章の主語は女王卑弥呼。 >>784
>一大率を置いたのは女王卑弥呼だし
ここまではよいが
>常に伊都国で治めてるのも女王卑弥呼です
こうはならない
諸国検察するのは一大率
これが卑彌呼が主語だったら令検察のように使役動詞が入らないと読めない 一大率を置いたのが卑弥呼なら、どちらでも同じこと。 それより、畿内説では、伊都国に置いた一大率が女王国から北を治めることをどう説明するんだ? 「自女王國以北 特置一大率」なんだから一大率は女王国の以北に置かれた
だから同時に伊都国に常駐することはできない
「常治伊都國」の常に伊都国に治むるのは女王卑弥呼
伊都国で治めるのは卑弥呼自身の行いだから使役動詞はいらない。 >>788
「常治伊都國」の常に伊都国に治むるのは特置一大率 女王も伊都にいれば全て解決。
逆に、女王が畿内だとどうにもならずに論理が破綻する。 >>790
女王が倭国(阿波)にいれば全て解決。
逆に、女王が畿内や九州だとどうにもならずに論理が破綻する。 @阿波 >>791
女王が阿波にいても畿内にいても論理は破綻
女王は九州の伊都国にいないと。 >>792
>女王は九州の伊都国にいないと。
伊都国(糸島?)には、「丹」がない。
女王が伊都国ても畿内にいても論理は破綻。 @阿波 >>790
>女王も伊都にいれば全て解決。
>逆に、女王が畿内だとどうにもならずに論理が破綻する。
女王と一大率が同じ場所にいるなら、一大率じゃなくて女王または女王直属の官が
検察すればいいんだから、一大率は不要だろ
一大率がいる時点で、九州説は成り立たないと断言する人も少なからずいる 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>794
つか、九州説の論理以外に破綻するものは何もない 女王直属の高官が大率だよ。
後の百済にも継承されている。
そして、率(帥)は九州における行政のトップでもある。 で?
畿内説だと伊都国と女王国から北の関係はどうなるの? 一大率は女王国以北に置かれたと明記されてるのに
畿内説の人は一大率が伊都国にいたとか内容を平気で改ざんするんだから
頭おかしい。 女王国以北は女王国伊都を含むから、九州説なら問題ないが、畿内説だと矛盾だらけで意味が通じない。 で?
畿内説だと伊都国と女王国から北の関係はどうなるの? >>797
>女王直属の高官が大率だよ。
また、いい加減なことを言い出したなw
じゃあ、なぜ一大率は
南至邪馬壹【臺】國 女王之所都 水行十日陸行一月
「官有伊支馬 次曰彌馬 次曰彌馬獲支 次曰奴佳鞮」可七萬戸
に書かれてないんだ?
女王の都にいるという設定なのに?ww >>798
>畿内説だと伊都国と女王国から北の関係はどうなるの?
何も問題ないだろ?
何度も書いているとおり、陳寿は倭国を南北に長く連なる洲島の上の国と認識しているから、
対馬、壱岐から、邪馬台国まで、多少東よりになる部分はあっても、ずっと一貫して
北から南に国が並べてあるんだよ
陳寿の認識ではね
つまり、その戸数道里が略載されている、投馬国までは全て、女王国より北になる
現実の地理ではなく、陳寿の認識ではそうなっている、というだけのこと >>799
>畿内説の人は一大率が伊都国にいたとか内容を平気で改ざんするんだから
おーい、魏志倭人伝に
自女王國以北、特置一大率、檢察諸國。諸國畏憚之。「常治伊都國」。
って明記されてるだろ?
女王国以北に特に置く、は一大率の検察範囲を示していて、
その治所(役所にあたる)が常に伊都国にあるって書いてあるんだから、
一大率は伊都国にいなきゃおかしいだろうが >>800
>女王国以北は女王国伊都を含むから、九州説なら問題ないが、畿内説だと矛盾だらけで意味が通じない。
伊都国が邪馬台国とはどこにも書いてないんだから、でたらめな読み方だよw >>803
>畿内説だと伊都国と女王国から北の関係はどうなるの?
>>801に書いたとおり、
陳寿の認識では、対馬・壱岐・末盧・伊都・奴国・不彌・投馬は全部
女王国から北なんだから、その真ん中の伊都に一大率がいるのは
理に適ってるだろ? >>802
伊都だけではなく、伊都より北の対馬海峡全体を管轄するからだよ。
東京都知事と内閣官房長官の違いかな。 >>804
>その治所(役所にあたる)が常に伊都国にあるって書いてあるんだから、
どこに「その治所(役所にあたる)」何て書いてあるんだよw
改ざんするなよなwww >>809
>どこに「その治所(役所にあたる)」何て書いてあるんだよw
>改ざんするなよなwww
分かりやすく書いただけだよ
書き下しは「常に伊都國に治す」だ
帯方郡治といえば、「帯方郡を治めること」ではなく、
帯方郡を治める人のいた場所・現代用語で役所のあった場所だよ >>810
「常に伊都國に治す」とは
常に伊都国で治めるって意味だよ
検察が常に一か所にては仕事にならないだろw
常に女王國以北の諸国を検察して回らないと
常が付いてるんだよ。 伊都国(女王国)に大率の役所があり、女王国から北の(対馬海峡を)検察して回っていたのですね。
まるで刺史が地方を治めるが如く。
伊都国の官は首都である伊都国の中を管轄しますが、大率はより広域を管轄しているわけです。
そして女王国が伊都国であるからこそ成り立つ文章です。 畿内説だと、九州の伊都にいた大率が、女王国(畿内)から北を検察するので、わざわざ若狭や丹後に戻ってくることになる? >>812
一大率は検察が仕事なんだから「治」の主語では無いのは明らかですね。
>>813
大率の役所なんてナンセンスな馬鹿話は止めたら。 >>815
大率は刺史の如きもの
「治」は治めるの意ではなく、駐しているの意
「又州郡所駐曰治,如蜀刺史曰治成都,揚刺史曰治會稽」
http://www.zdic.net/z/1c/kx/6CBB.htm 伊都国に卑弥呼之所都と書かれていないこと
伊都国の記事に至邪馬台国と書かれていないことから、
よほどのバカではないほぼ全ての人にとって
「伊都国が卑弥呼の都じゃない」ことは明白
伊都国に卑彌呼がいたとかいうのは、本来論評する必要もないレベルの戯れ言 >>817
卑彌呼がいたのは倭国(阿波)。 以上 @阿波 >>816
だから如でしょ?
「治」は治めるの意で、治めている如き
「治」が駐しているの意とか馬鹿なの?。
>>817
邪馬台国の中に伊都国が在り
伊都国が卑弥呼の都なのです。 >>819
>邪馬台国の中に伊都国が在り
そこまでして・・・・・ @阿波 >>819
著者は陳寿だよ
陳寿が大率は刺史だと言ってるわけで
その上で「治」を使ってるのだよ >>821
検察する姿が刺史のようだといってるだけで
一大率が治めるなんて書いてないな。 >>822
>邪馬台国の中に伊都国が在り
そこまでして・・・・・ @阿波 大率は対馬海峡を検察し、普段は伊都に駐在している? >>825
>伊都国と奴国をあわせて邪馬台国ですかね?
そこまでして・・・・・ @阿波 一大率は朝鮮海峡付近の諸国に置かれ
女王卑弥呼のいる国は伊都国
伊都国で常に治めている
邪馬台国とは朝鮮海峡付近の諸国傍国を合わせたもの。 >>822
>一大率が治めるなんて書いてないな。
そのとおり、やっと理解したか >>828
伊都国で常に治めてるのは一大率ではなく女王卑弥呼って理解できましたかw そのヒミコというのがアマテラス(仮名)なのか?
違うだろう 頭の病院(死刑)、
刑務所(死刑)か・・・自殺(死刑)でもしたほうが良いんじゃないのか?
と言っているんだよ >>829
壊滅的に漢文読めない駄脳だから九州説なんだと理解できた >>829
漢文をまともに読めないやつのことは誰も信用しない 「常治伊都国」って文章を読んで「治」が動詞だったら
じゃあ目的語は何か?って話よ
九州説は無教養すぎる >>829
漢文はおろか、日本語も怪しいんじゃないの 「常治伊都国」
常日頃は、伊都国に治しておる・・・、という意味だろう。
だから、何かあるときは女王国から対馬まで出向くこともありうる、、、という含みだな。 >>838
おーい、原文はこうだ。
自女王國以北 特置一大率檢察諸國畏憚之 常治伊都國 於國中(於自女王國以北)有如刺史
ここにおいて、主語は「特置の一大率」 >>839
なら、どうして「女王国から対馬まで出向く」になるんだ? 追加補正:
自女王國以北には、特に一大率を置いて檢察せしむ、諸國は畏憚之
(この特置の一大率は)、常(常日頃は)伊都國に治す、國中に於いて(自女王國以北に於いて)刺史の如く有り >>834
「治」の目的語は国や州
なので女王国以北の諸国
>>836
常ってのは常であって例外は無い
だから、何かあっても対馬まで出向くことはない
常に伊都国に治している。
例外があるなら書かれてる。 >>844
常に伊都国に貼り付けになっていては、女王国以北の(諸国の)検察はできないだろ・・・
その例外的なことについての例示もある。
それはその次のこの部分だ。
王遣使詣京都帶方郡諸韓国及郡使倭国、皆臨津搜露。伝送文書賜遺之物詣女王、不得差錯
(いろいろな遣使が海を渡って行き来するときは)、
皆、津(末蘆国の港)に臨みて搜露し、文書賜遺之物に行き違いがないように計らった(そのために津まで出向いた)・・・。と、こういうわけだ。
なお、渡海の好適シーズンは、潮の満ち干の関係で、
強い離岸流が発生する6月と12月の新月だか満月のぜんごだったそうなので、
月齢を見て年に2回、その都度、伊都国から唐津へ出向けば用が足りたのだろう。 >>844
>「治」の目的語は国や州
>なので女王国以北の諸国
なぜ?
史料には「常治伊都國 」ってはっきり書いてあるのに
なぜ? >>846
内陸の伊都国(直方)に一大率が置かれた理由を教えて進ぜよう。
伊都国は一大率(筑紫忌部)が大陸出入りを監視するための言わば、「出入国管理局」。
その伊都国は千戸程度だから、感田上原遺跡や帯田遺跡だろう。 @阿波 >>846
一大率は女王国以北に置かれてるので女王国の港には集まれない
この文章は一大率のことではなく女王の周辺を警護している直臣の家臣のこと。
>>847
「常治伊都國 」これは常に居る場所が伊都國
治の目的語はこの文だけでは分からない。 自女王國以北特置一大率 檢察諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
女王国から北には特にひとりの大率を置く。
(大率は)諸国を検察し、(諸国は)これを恐れ憚った。
(大率は)常は伊都に治し、(倭国の)国中にあっては刺史の如しである。 女王国は倭国全体よりも狭い地域を指しているように読める。
そして、対馬海峡は女王国に含まれない。
しかし狗邪韓国から南は明らかに倭国なので、
倭国>女王国=邪馬台国>伊都国
という包含関係なのだろう。 訂正
自女王國以北特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
女王国から北には特にひとりの大率を置き検察させ、諸国はこれを恐れ憚った。
(大率は)常は伊都に治し、(倭国の)国中にあっては刺史の如しである。 >>853
だからそれだと意味が支離滅裂だろw
一大率は女王国から北に置かれいるのに
常は伊都に治すなんて
居る場所も業務も違う
意味が全く通らない。
女王国から北には特に一大率を置く。
(一大率は)諸国を検察し、(諸国は)これを恐れ憚った。
(女王卑弥呼は)常は伊都に治し、国中(魏)にあっの刺史の如しである。 >>857
女王国から北には特に一大率を置き検察させ、諸国はこれを恐れ憚った。
(女王卑弥呼は)常は伊都に治し、(魏)国中にあっては刺史の如しである。
非常に明快で意味も通るだろ。 >>859
卑弥呼が刺史の如くというのはおかしいだろ。
引きこもりなんだから。 >>858
自女王国以北は、自も以も、女王国を含むことを示す語ですよ。
陳寿は相当しつこく書き込み年を押すタイプだったのですね。 >>846
>月齢を見て年に2回、その都度、伊都国から唐津へ出向けば用が足りたのだろう。
唐津には出向いてないと思う
というか、唐津によらずに伊都国の港に直接来るだろ?
末盧国は地理の紹介であって、魏使の経路ではないだろう
歴史的な過去の記録の産物だよ 里程が細かく書いてあるから、末盧は通過しただろう。
それがどこかは知らん。
前原あたりかもな。 >>860
別におかしくないだろ
卑弥呼が一大率を使ってる様子が魏での刺史の如く
って意味でしょ。 自女王國以北特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
この訳は岩波書店の三国志も誤魔化して有耶無耶に訳してあるな。 >>856
>倭国>女王国=邪馬台国>伊都国
>という包含関係なのだろう。
大間違い
伊都国と邪馬台国は横並びで包含関係にはない
倭人の住む範囲 ⊃ 倭国 ⊃ 女王国 ⊃{邪馬台国、投馬国、奴国、末盧国、壱岐国、
不彌国、対馬国、伊都国、その他余傍国}
という関係
ただ、2ヶ所だけ女王国=邪馬台国という狭い意味で使っているところがあるから混乱している
自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。
自女王國以北、特置一大率、檢察諸國。諸國畏憚之。常治伊都國。
の二箇所だけが、女王国=邪馬台国になっている >>864
>卑弥呼が一大率を使ってる様子が魏での刺史の如く
>って意味でしょ。
だから、刺史の如く働くのは一大率で、卑弥呼じゃないよね? >>863
>里程が細かく書いてあるから、末盧は通過しただろう。
唐津から糸島に陸路で行くのは普通はない
唐津から、東南陸行五百里は佐賀平野に抜ける経路としては合理的だ
佐賀平野のどこか(吉野ヶ里の方?)へ向かうなら、唐津に上陸するのが合理的
佐賀平野のどこかに行くときに唐津・末盧国を実際に通って行ったときの記録が
末盧国の地理的位置を示すために挿入されているだけだと判断している
だから、東南陸行五百里は糸島行きを指していない
唐津から糸島・三雲は北東方向になる 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>868
>佐賀平野のどこか(吉野ヶ里の方?)へ向かうなら、唐津に上陸するのが合理的
唐津は行きも帰りも不適。
唐津には伊都国に見合う「弥生後期集落遺跡」も「官衙の跡」もないと何度言えばw
唐津は福津・宗像の爪の垢でも煎じて飲んどきなはれ! @阿波 >>866
>伊都国と邪馬台国は横並びで包含関係にはない
これこそ大間違いですよ
邪馬台国の王都が伊都国です
後漢書にも「建武中元二年倭奴国奉貢朝賀使人自稱大夫 倭國之極南界也倭国」と倭国の中に倭奴国があります
邪馬台国の中に伊都国があったんです。
>>867
そうですよ。
>>868
だから末盧国に上陸したのは呼子付近です。 >>872
>邪馬台国の中に伊都国があったんです。
救いようがないね。 @阿波 >>873
里数での行程文と日数での行程文が同じ行程を距離と時間で書いてある
陳寿は二重に丁寧に説明してるんです
それを続けて読むから目的地までの距離も時間も分からなくなる。 >>874
>それを続けて読むから目的地までの距離も時間も分からなくなる。
それはね、分からなくなるのは、妄想トンデモ説だからなんだよ。 @阿波 >>872
>これこそ大間違いですよ
>邪馬台国の王都が伊都国です
まだ言うかww
「女王国=倭国のうち卑弥呼の共立に参加した範囲」の王都が邪馬台国だよ
邪馬台国の王都って、王都の中に王都があるとかいうバカな話にしかならない >>874
>里数での行程文と日数での行程文が同じ行程を距離と時間で書いてある
>陳寿は二重に丁寧に説明してるんです
>それを続けて読むから目的地までの距離も時間も分からなくなる。
三国志の中にも、他の史書にも、里数と日数で二重に書いてある地理・行程記事なんてないだろ?
同じ陳寿さんが書いてるのに、東夷伝倭人条だけ、二重に書いてあると考える方がおかしい >>877
邪馬台国は王都じゃないんですよ
3世紀の日本に七万戸もの国邑なんてありませんよ。
>>878
公孫氏の帯方郡の資料や張政の報告書など基の資料が複数あったからでしょうね。 >>879
>3世紀の日本に七万戸もの国邑なんてありませんよ。
「七万戸」は兎も角、3世紀の日本の最大・最強・最先端文化都市は倭国(阿波)以外に無し。 以上。 @阿波 伊都国と奴国をあわせて邪馬台国。
さいわい、日本語にもこのエリアだけを的確に示す語がある。
それは筑紫の日向。
神代の倭国の王都だ。
魏志倭人伝において邪馬台国は倭国の王都なのだから、邪馬台国と日向が同じ地域を意味するのはとうぜんのこと。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>880
阿波の何処に七万戸の国邑の遺跡があるんだよw >>881
>それは筑紫の日向。
あんまり伊都国説のやつがうるさく言うから、ちょっと詳しく見てみた範囲だと、
日向川というのが室見川の支流、奴国側にあって、その川の谷筋を上りきったところの
峠が日向峠
これから考えると高祖山塊の東側斜面、朝日が当たる側が、日向と呼ばれた地域だな
決して伊都国側ではない
朝日が当たる斜面が日向(ひなた)と呼ばれることに違和感はない 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>883
倭国(阿波)以外の何処に七万戸の国邑の遺跡があるんだよw @阿波 >>886
何処にも無い、当然阿波にも無い
七万戸の邪馬台国は国邑ではなく
国邑の連合体だよ。 >>884
奴国側ですね
首都の外側に住んでた一族が東征したようですね。 >>887
>七万戸の邪馬台国は国邑ではなく
>国邑の連合体だよ。
その「国邑」の一部がこれらだよ。 @阿波
※北の邪馬台国(卑弥呼側勢力)
【旧吉野川流域北岸勢力 弥生時代集落】
東州津遺跡・大柿遺跡・土取遺跡・昼間遺跡(正力地区)・昼間遺跡(天神前地区)・昼間遺跡(西貝川地区)・足代東原遺跡・薬師遺跡・吉水遺跡・田上I遺跡・拝原東遺跡・椎ヶ丸〜芝生遺跡
・西長峰遺跡・北原〜大法寺遺跡・天神山遺跡・金泉寺遺跡・黒谷川宮ノ前遺跡・黒谷川郡頭遺跡・桧はちまき山遺跡・光勝院寺内遺跡・カネガ谷遺跡・桧銅鐸出土地
【旧吉野川流域南岸勢力 弥生時代集落】
ウエノ遺跡・マチ遺跡・須賀遺跡・相知遺跡・井出上遺跡・稲持遺跡・貞光前田遺跡・石井遺跡
【鮎喰川下流域勢力 弥生時代集落】
樋口遺跡・延命遺跡・矢野遺跡・名東遺跡・鮎喰遺跡・庄遺跡・庄蔵本遺跡
※南の狗奴国(卑弥弓呼勢力)
【勝浦川流域勢力 弥生時代集落】
勢合銅鐸出土地・田浦遺跡・新居見遺跡
【那賀川流域勢力 弥生時代集落】
若杉山遺跡・加茂宮ノ前遺跡・深瀬遺跡・福寺山遺跡・宮ノ本遺跡
【海部川流域勢力 弥生時代集落】
芝遺跡・大里遺跡
こういう「邪馬台国勢力」と「狗奴国勢力」を「弥生集落遺跡」で提示できるのは倭国(阿波)だけ。 @阿波 >>887
倭国(阿波)以外の何処に七万戸の国邑の遺跡があるんだよw @阿波 >>890
全部合計しても七万戸には遠く及ばないし時代もまちまちw >>888
>奴国側ですね
>首都の外側に住んでた一族が東征したようですね。
いや?
北部九州の首都は、どうみても奴国
伊都国は「入国管理の出先、関所」が置かれたところ >>892
奴国がパリなら伊都国はベルサイユ
奴国がニューヨークなら伊都国はワシントンDC
だろうな。 >>891
>全部合計しても七万戸には遠く及ばない
倭国(阿波)以外の何処に七万戸の国邑の遺跡があるんだよw
>時代もまちまちw
どの遺跡が? @阿波 >>894
七万戸の国邑なんて阿波にも無いし日本の他にも無いの
3世紀の日本には存在しない
七万戸は北部九州全体の国邑の合計 >>884
筑紫の日向の小戸の橘が、今の小戸のヨットハーバーだから、高祖山の北側も日向だよ。
高祖山とその周辺全て、つまり魏志倭人伝の伊都国と奴国が丸ごと筑紫の日向なんだよ。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>895
>七万戸は北部九州全体の国邑の合計
と言いながら、ろくな弥生時代後期集落遺跡が無い北部九州のお粗末。 @阿波 神武が出発したクシフル山は日向峠の裏だろ。
怡土城の城域の中だね。
つまり、伊都城が高千穂宮なんだよ。 >>895
>七万戸は北部九州全体の国邑の合計
と言いながら、ろくな弥生時代後期集落遺跡が無い北部九州のお粗末。 @阿波 >>895
>七万戸は北部九州全体の国邑の合計
と言いながら、ろくな弥生時代後期集落遺跡が無い北部九州のお粗末。
と、ボロクソに言われながら黙り込む北部九州のお粗末。 @阿波 >>902
>阿波、うるさいぞ
こら、こら、北部九州、がんばれ! @阿波 怡土城の城域は290ヘクタール。
倭国の王城にふさわしい。
高祖山の上にそびえる楼閣は、魏志倭人伝の卑弥呼の王城の楼閣高くという記事そのものだ。
大門の奥の高祖宮に卑弥呼がいたのだ。 有名なものだけで三雲南小路遺跡、吉野ヶ里遺跡、曲り田遺跡、 板付遺跡、菜畑遺跡、那珂遺跡、雀居遺跡、 須玖岡本遺跡 >>906
と言いながら、ろくな弥生時代後期集落遺跡が無い北部九州のお粗末。
と、ボロクソに言われて変な遺跡を挙げる北部九州のお粗末。 @阿波 >>908
九州の遺跡の方が阿波とは比較にならんぐらい大きいが。 >>909
>九州の遺跡の方が阿波とは比較にならんぐらい大きいが。
まるで、子供だねwww そんなんで大丈夫かね、九州説のみなさん。 @阿波 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 阿波の揚げた遺跡なんて小規模でマイナー過ぎて誰も知らないものばかりじゃないですかw >>913
>阿波の揚げた遺跡なんて小規模でマイナー過ぎて誰も知らないものばかりじゃないですかw
君自体が「小規模でマイナー過ぎ」なだけなんだよ。 もっと勉強しよう。 @阿波 阿波国って、現在の徳島県でいいのかね?
遺跡データベースで弥生時代の遺跡を検索すると
兵庫県2114件
徳島県413件
だったのだが。 >>915
倭国(阿波)は遺跡発掘後進県なんですよ。
にもかかわらず、他を圧倒する特異な遺跡がザクザクとね。 @阿波 >>915
そのデータベースで弥生時代の九州の遺跡を検索すると? 奈文研の遺跡データベースで検索した時のヒット数のことだろ?
でも、そのデータベースの説明で
「データベースの情報源は大きく 3 つに分けることができる。
1 遺跡地図
2 遺跡地名表
3 発掘調査報告書(報告書抄録)
遺跡地図は都道府県教育委員会、市町村教育委員会が発行する遺跡に関する包括的な情報源として
最も大切なものである。『地域によって精度、更新頻度が異なり、近接自治体との情報格差が存在』する。
地図が付加されていて位置情報の取得も可能な資料である。」
と書いてある
『地域によって精度、更新頻度が異なり、近接自治体との情報格差が存在』
九州説はこのデータベースのヒット数で、福岡県の方が多いと「言える」と
思っているようだけれど、そんなことはないんだよ
福岡県の弥生墳墓遺跡だと
調査を除いて757件がヒットするけど、そのうち
「204件」が宮若市沼口字汐井掛の汐井掛遺跡で
「汐井掛第90号木棺墓」とかの個別の墓一つ一つが数えられてる
そりゃぁ、数が多くなるのが当然だわ
結局、何を以って遺跡数とするかは、その地方自治体の考え方次第ってことで、
奈文件のデータベースは、それをそのまま記載しているってことだ
これで、福岡の遺跡が多いとか、言ってもしょうがないだろ? それらの情報のすべてが少ないのが奈良県。
200 回以上掘った巻向遺跡が
大半の情報だったりしてね。 実際に奈良にどれだけの弥生遺跡があるのかというと、福岡に比べて激しく貧弱なのは事実。
1ヘクタールあたりの住居の数でも比較してみろよ。 福岡は考古学者が
もう出ないでくれ、と祈る場所。
まともに発掘したら金も人も足りません。
でかいのに当たると、その研究施設が
数年麻痺するから、できるだけ
必要なところ以外は掘らないようにしている。 実際、建物を建てるときは、基礎工事でコンクリを流し込んだり
杭を打つ予定のところだけ発掘して、上に薄くアスファルトや
コンクリを流すところは放置するんだよね。
その工場予定地全体を発掘すれば
巨大な遺跡になりそうだけど、
それは吉野ケ里のように国から予算でも来ないと無理。 >>921
>それらの情報のすべてが少ないのが奈良県。
>200 回以上掘った巻向遺跡が
>大半の情報だったりしてね。
調べもせずに、印象だけで戯言を書き付けて反論した気になるのが九州説
実際に奈文研のデータベースで調べてみればいいだろ?
こっちは、九州説の遺跡数が多いという戯言に付き合ってきちんと調べた上で、
汐井掛遺跡という集団墓地遺跡一つで、204件の登録があるって示してるんだからさ
奈良県の登録の仕方だと、「唐子・鍵遺跡」で1件だよ
弥生時代後期では、日本屈指の大遺跡だけどね >>925
>その工場予定地全体を発掘すれば
>巨大な遺跡になりそうだけど、
>それは吉野ケ里のように国から予算でも来ないと無理。
それ、具体的にはどこ?
具体例が出せなければ、ただの戯言、世迷言w >>926
>奈良県の登録の仕方だと、「唐子・鍵遺跡」で1件だよ
>弥生時代後期では、日本屈指の大遺跡だけどね
またまたご冗談をw >>927
あんたが知らないだけ。
キナイコシは井の中の蛙。 >>929
>あんたが知らないだけ。
>キナイコシは井の中の蛙。
そうそう、井の中の蛙なんだよ
だから、外界の情報を教えてもらおうと思ってさ
具体的には、どこの遺跡なんだい?
遺跡名がまだついていないなら、行政地名でいいよ?
さあ、具体的な場所を教えておくれ >>928
>またまたご冗談をw
どこかどう冗談なのか、「具体的に指摘」してね! 伊都は首都じゃないから、そろそろこのスレも閉じようよ 首都の定義はどうであっても、女王之所都と書いてあるんだから、
女王卑弥呼がいた場所だろう 内政を管轄する一大率が置かれ、外交相手である魏の使いが駐在するのが伊都。
これが都でなくてなんだというのか。 伊都城www
3世紀に存在していた証拠をどうぞwww 大野城、基肄城、菊池城に相当する地名も魏志倭人伝にあるのだから、卑弥呼の宮城と書かれている邪馬台国も城でいいよね。
伊都国と奴国にまたがる高祖山の山城、伊都城(怡土城)がそれだろう。
まさに楼閣高き筑紫の高千穂宮だね。 3世紀からあったと主張する側が、歴史学的、あるいは考古学的な根拠を提示する義務があるな おや、いつもと立場が逆だな。
ないことを証明しろといつも言っていたじゃないかw 奈良時代の天平勝宝8年(756年)から神護景雲2年(768年)にかけて築城された中国式山城で、文献によれば吉備真備のち佐伯今毛人が築城を担当したことが知られる。
この奈良時代の記録で、それ以前に城があったものを拡張したとか、それ以前から要所だったとかの記述は「一切ない」
さて、怡土城が3世紀にあったと主張するのであれば、それを「具体的な根拠を付けて」論証してもらいましょうかね? そう!
奈良時代より前の記録が「ない」のだよ。
九州の歴史はいつもそう。
魏志倭人伝に怡土国や奴国が載っているのに、国内の記録はわずかしかない。
なぜだと思う? 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 九州説では、硯が出てるから3世紀から九州では漢字の読み書きができたっていう説なんだろ?
それでどうして記録がないんだ?
風土記になって畿内政権から促されてやっと地域の歴史をまとめたような一地方が何を言ってるんだかww 景行天皇から神功皇后の話なんて
ほぼ九州の話だからねえ。
北部九州の書物を記紀編纂者が
見ていたのはほぼ間違いがない。 そのご都合主義、どうにかならんかね?
都合の悪い情報があっても、それは間違いだと言い張り
都合のいい情報がないのは、捨てられたからだと強弁する
そういう、何でもありの上でしか、九州説は成り立たないと言ってるだけだな 日本書紀が大量に引用をしているので、古文献があったことは間違いない。
禁書の詔勅や、明治の焚書も事実だよ。
あったことをなかったことにしようとする畿内説はおかしい。 >>955
>禁書の詔勅
その詔勅の原文あげてみ?
どうせ聞きかじりの間違いなんだろ?w 証拠は消された!とか言い出したらトンデモ一直線
なぜなら、それは科学的な姿勢の放棄と自身の絶対化だから >>958
過去に、世を惑わすとされた書物が焼かれたという記録があることと
その書物には自説の根拠となる内容が記されていた、と主張することは、
全く次元が違う
その違いが分からないなら、歴史学のセンスが絶望的だから、
首を突っ込むのはやめた方がいい 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. >>961
その六国史の該当部分を、原文そのまま引用してみw 福岡平野は、弥生中期のはじめから前半は板付遺跡中心に発展するが、
中頃をすぎるとすべてが須玖岡本遺跡に集中する。
博多駅の近くの比恵から、那珂を経て春日市の須玖遺跡に至るそれぞれ
100ヘクタール級の広さの地域に遺跡が途切れなく存在する。
発掘は大字、小字ごとにやっているので、その単位で遺跡の名前が付けられているが、
この地域の遺跡は連続した遺跡であり、環濠を設けることなしに繋がっている。
30ヘクタールほどの吉野ヶ里が最大の環濠集落といわれているが、
伊都国では三雲地域を発掘した時にすでに40ヘクタールの広さがあり、
井原鑓溝遺跡の調査で、60ヘクタールにもなる遺跡であることがわかった。
考古学では環濠集落でないと拠点集落と言わない風潮があるのはおかしい。
須玖岡本遺跡はわずかな丘陵にはいるので、平野に面したところだけに環濠がある。
環濠の内側の春日丘陵の地域は100ヘクタール以上にもなる一つの単位集落と思われる。
比恵那珂遺跡は弥生終末には、側溝を持つ幅6〜7mの縦貫道路遺溝が出てくる。
比恵遺跡では幅20mの運河が出てくる。
吉野ヶ里、池上曽根、唐子鍵を取り上げて弥生都市について議論されることがあるが、
福岡の弥生銀座と呼ばれる遺跡群と比べるとこれらの遺跡は規模が小さく、
どんぐりの背比べである。 慶雲四年707年
大赦天下。自慶雲四年七月十七日昧爽以前大辟罪以下。罪無軽重。已発覚・未発覚。咸赦除之。
其八虐之内、已殺訖、及強盗・窃盗。常赦不免者。並不在赦例。
前後流人非反逆縁坐及移郷者。並宜放還。
「亡命山沢。挟蔵軍器。百日不首。復罪如初。」
和銅元年708年
大赦天下。自和銅元年正月十一日昧爽以前大辟罪已下。罪無軽重。已発覚・未発覚。
繋囚・見徒。咸赦除之。其犯八虐。故殺人。謀殺人已殺。賊盗。常赦所不免者。不在赦限。
「亡命山沢。挟蔵禁書。百日不首。復罪如初。」
養老元年717年
可大赦天下。改霊亀三年。為養老元年。天下老人年八十已上。
授位一階。若至五位。不在授限。百歳已上者。賜絁三疋。綿三屯。布四端。粟二石。
九十已上者。絁二疋。綿二屯。布三端。粟一斛五斗。
八十已上者。絁一疋。綿一屯。布二端。粟一石。
僧尼亦准此例。孝子・順孫。義夫・節婦。表其門閭。
終身勿事。鰥寡惸独、疾病之徒。不能自存者。量加賑恤。仍令長官親自慰問。加給湯薬。
「亡命山沢。挟蔵兵器。百日不首。復罪如初。」 養老律令巻30雑令8
雜令第八 秘書玄象條:凡秘書。玄象器物。天文圖書。不得輙出觀生。
不得讀占書其仰觀所見。不得漏泄若有徵祥災異陰陽寮奏。訖者。季別封送中務省入國史。
禁書の内容は養老律令の秘書玄象條に書いてある通り
九州倭国の歴史書なんてのは禁書でもなんでもないよ
そもそもそんなものはないww 六国史も御鎮座記も祇園祭も後世のものなんだけど、自覚できてる? 九州説はチェリーピッカーだから、自分が必要な部分しか見ていなくて、
その周辺情報まで調べられると矛盾しまくりで即死ってのを繰り返している訳だ
大和朝廷が九州の歴史書を焚書したってのはガセネタってことででいいな マイルール
=俺様の推理を裏付ける文献が残っていないのは、
時の権力者に不都合な事実を伝えていたため、
燃やされたからなんだ! キナイコシは7世紀以前を先史時代にするつもりらしい。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 3世紀の硯が九州では見つかっているのに文献が残っていないから
九州の多くの書物が焚書されたのは明らか。 なぜ7世紀かと言うと、その時代に倭国が白村江で大敗し、なぜか国号が日本国になったことと関係しているのだろうね。
日本の歴史学者は国号変更についてまともに論議するのを避けている。
旧唐書では倭国と日本国は別の国として書いてある。
そして記紀が編纂され、それ以前の歴史書は全て何処かへ失われた。 持統天皇5年(691年)8月13日条に、「十八氏に詔して其の祖等の墓記を上進らしむ」
『続日本紀』和銅元年正月(708年)の詔
亡命山澤。挾藏禁書。百日不首。復罪如初。
禁書を隠し持って山野に逃亡している者は、100日以内に自首しなければ恩赦を与えない。
『古事記』序文で・帝紀・本辞・旧辞・帝皇日継・先代旧辞・先紀等の記紀に先行した歴史書名が確認でき
『日本書紀』でも・国史・四方志・旧本・日本旧記・譜弟・帝王本紀・天皇記・国記・帝記・上古諸事・墓記等の存在が確認できるが
現在は一つも残ってない。 >>979
>旧唐書では倭国と日本国は別の国として書いてある。
倭国は7世紀までの倭国(阿波)で、
日本国は8世紀遷都後の奈良大和と何度言えばw @阿波 キナイコシニュー速プラスでID変えまくって
分身の術使うのやめろよ。 >>980
>禁書を隠し持って山野に逃亡している者は、100日以内に自首しなければ恩赦を与えない。
>>966は読んだのか? もう一回貼っとくよ
養老律令巻30雑令8
雜令第八 秘書玄象條:凡秘書。玄象器物。天文圖書。不得輙出觀生。
不得讀占書其仰觀所見。不得漏泄若有徵祥災異陰陽寮奏。訖者。季別封送中務省入國史。
禁書の内容は養老律令の秘書玄象條に書いてある通りのもの
九州倭国の歴史書なんてのは禁書でもなんでもないよ
そもそもそんなものはないww >>980
>『古事記』序文で・帝紀・本辞・旧辞・帝皇日継・先代旧辞・先紀等の記紀に先行した歴史書名が確認でき
>『日本書紀』でも・国史・四方志・旧本・日本旧記・譜弟・帝王本紀・天皇記・国記・帝記・上古諸事・墓記等の存在が確認できるが
>現在は一つも残ってない。
それらの内容をまとめて、古事記と日本書紀が編纂されたんだよ
特に日本書紀は、異説も一書曰の形で多くを伝えている
そして、史書が全て残ると思っている方がおかしい
魏略だって逸文しか残っていないし、翰苑に至っては数ページ分しか残っていない >>982
>キナイコシニュー速プラスでID変えまくって
>分身の術使うのやめろよ。
これも全1病の亜種だな
それだけ畿内説で書き込みをする人が多いってだけ >>985
プラスでも全く同じこと言ってたw
主張もいつもワンパターン
土器がぁー
松盧国から東南がぁー いや、実際まともに文献が読めてきちんと最近の研究成果まで目を通している人間なら
よほど頭がおかしくなければ畿内説以外とらないからさ 畿内説なんて、まともな思考能力があったら眉唾だとわかるよ。
魏志倭人伝の記事と食い違いがありすぎるもの。
畿内説が主張しているのはヤマト王権の起源であり、邪馬台国とは関係ないものだよ。 編年を無視してるから、そういう的外れなことを言い出すんだよ
九州説の根拠は全て古すぎる
鏡などは特にそう
3世紀限定にして、伊都国、奴国という、邪馬台国ではないことが確定している場所を除くと、
九州には見るべき遺跡も遺物も、驚くほど何もないことが分かる 何を言っているんだろう。
奴国と伊都国を合わせて邪馬台国だというのに。 >>990
>奴国と伊都国を合わせて邪馬台国だというのに。
そんな読み方するやつはいねーよ、まともな知性を持っているやつならな
邪馬台国は女王之所都なんだが、伊都国と奴国を合わせた範囲だとしたら、
女王の都はどっちにあるんだ?
それに、伊都國千戸、奴國二萬戸、邪馬台国七万戸って明記してあるのと
完全に矛盾する
九州説の中でも伊都国説は、まともじゃない知性の持ち主以外は採らない駄説だ あわせて都だよ。
行政府は三雲、人口集中は福岡。
王城は両者の間の高祖宮、後世の名では怡土城、記紀でいうところの筑紫の日向のクシフル山の高千穂宮。 3世紀に限定すると、伊都国・奴国の範囲でも、一つの墳墓から出る舶載鏡の最大数は
平原1号墓の2枚だよ(同数は他にもあるが所詮2枚だ)
そして平原1号墓を3世紀とするのもおまけ
おそらくは2世紀後半かそれよりも前
3世紀の北部九州には、発達した王権を示す遺蹟も遺物もない 北部九州が倭国内でも栄えた地域だと言えるのは紀元前2世紀から
紀元後2世紀初頭まで
3世紀には相対的な地位は落ちまくりで、倭王の居る地域ではない >>992
戸数は?
五萬戸くらい足りないぞ?
奴国の2倍半足りないw >>992
>王城は両者の間の高祖宮、後世の名では怡土城、記紀でいうところの筑紫の日向のクシフル山の高千穂宮。
高祖宮なんて、史料の記録も実体もない妄想
怡土城は8世紀のもので、3世紀木は影も形もない
日向のクシフル岳が福岡にあるとするのは無理筋
日向峠という3文字に頼りすぎ >>996
>怡土城は8世紀のもので、3世紀木は影も形もない
7世紀より前の記録がないという、いつものパターン。
>>996
>日向峠という3文字に頼りすぎ
イザナギが禊をした筑紫の日向の小戸が高祖山の北側の福岡市西区小戸だから、少なくとも記紀が書かれた頃には高祖山周辺が筑紫の日向と呼ばれていたことがわかる。 弥生時代に最も栄えた伊都と奴国、博多湾を眼下に見下ろす高祖山に何もないという方が無理。 でも実際、何もないじゃないか
怡土城は発掘調査されてるが、実際に
「7世紀より前の遺物も伝承も何もない」といういつものパターン
そこにあるのは昭和になってから盛り上がった、九州説の妄想だけだよ 無学と思想狂いが九州説を創り
愚昧と盲信が九州説を育て
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