邪馬台国北部九州説の雑談用(伊都が首都だっちゃ)
レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。
鉄器と絹で平原女王墓で勝利ありがとう
硯と鉄刀子で平原女王墓で勝利ありがとう
東夷伝里で平原女王墓で勝負ありがとう
世界最大の超大型内行花文鏡=八咫鏡で平原女王墓で勝利ありがとう
平原女王墓で勝利ありがとう 自女王國以北特置一大率 檢察諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
女王国から北には特にひとりの大率を置く。
(大率は)諸国を検察し、(諸国は)これを恐れ憚った。
(大率は)常は伊都に治し、(倭国の)国中にあっては刺史の如しである。 女王国は倭国全体よりも狭い地域を指しているように読める。
そして、対馬海峡は女王国に含まれない。
しかし狗邪韓国から南は明らかに倭国なので、
倭国>女王国=邪馬台国>伊都国
という包含関係なのだろう。 訂正
自女王國以北特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
女王国から北には特にひとりの大率を置き検察させ、諸国はこれを恐れ憚った。
(大率は)常は伊都に治し、(倭国の)国中にあっては刺史の如しである。 >>853
だからそれだと意味が支離滅裂だろw
一大率は女王国から北に置かれいるのに
常は伊都に治すなんて
居る場所も業務も違う
意味が全く通らない。
女王国から北には特に一大率を置く。
(一大率は)諸国を検察し、(諸国は)これを恐れ憚った。
(女王卑弥呼は)常は伊都に治し、国中(魏)にあっの刺史の如しである。 >>857
女王国から北には特に一大率を置き検察させ、諸国はこれを恐れ憚った。
(女王卑弥呼は)常は伊都に治し、(魏)国中にあっては刺史の如しである。
非常に明快で意味も通るだろ。 >>859
卑弥呼が刺史の如くというのはおかしいだろ。
引きこもりなんだから。 >>858
自女王国以北は、自も以も、女王国を含むことを示す語ですよ。
陳寿は相当しつこく書き込み年を押すタイプだったのですね。 >>846
>月齢を見て年に2回、その都度、伊都国から唐津へ出向けば用が足りたのだろう。
唐津には出向いてないと思う
というか、唐津によらずに伊都国の港に直接来るだろ?
末盧国は地理の紹介であって、魏使の経路ではないだろう
歴史的な過去の記録の産物だよ 里程が細かく書いてあるから、末盧は通過しただろう。
それがどこかは知らん。
前原あたりかもな。 >>860
別におかしくないだろ
卑弥呼が一大率を使ってる様子が魏での刺史の如く
って意味でしょ。 自女王國以北特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
この訳は岩波書店の三国志も誤魔化して有耶無耶に訳してあるな。 >>856
>倭国>女王国=邪馬台国>伊都国
>という包含関係なのだろう。
大間違い
伊都国と邪馬台国は横並びで包含関係にはない
倭人の住む範囲 ⊃ 倭国 ⊃ 女王国 ⊃{邪馬台国、投馬国、奴国、末盧国、壱岐国、
不彌国、対馬国、伊都国、その他余傍国}
という関係
ただ、2ヶ所だけ女王国=邪馬台国という狭い意味で使っているところがあるから混乱している
自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。
自女王國以北、特置一大率、檢察諸國。諸國畏憚之。常治伊都國。
の二箇所だけが、女王国=邪馬台国になっている >>864
>卑弥呼が一大率を使ってる様子が魏での刺史の如く
>って意味でしょ。
だから、刺史の如く働くのは一大率で、卑弥呼じゃないよね? >>863
>里程が細かく書いてあるから、末盧は通過しただろう。
唐津から糸島に陸路で行くのは普通はない
唐津から、東南陸行五百里は佐賀平野に抜ける経路としては合理的だ
佐賀平野のどこか(吉野ヶ里の方?)へ向かうなら、唐津に上陸するのが合理的
佐賀平野のどこかに行くときに唐津・末盧国を実際に通って行ったときの記録が
末盧国の地理的位置を示すために挿入されているだけだと判断している
だから、東南陸行五百里は糸島行きを指していない
唐津から糸島・三雲は北東方向になる 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>868
>佐賀平野のどこか(吉野ヶ里の方?)へ向かうなら、唐津に上陸するのが合理的
唐津は行きも帰りも不適。
唐津には伊都国に見合う「弥生後期集落遺跡」も「官衙の跡」もないと何度言えばw
唐津は福津・宗像の爪の垢でも煎じて飲んどきなはれ! @阿波 >>866
>伊都国と邪馬台国は横並びで包含関係にはない
これこそ大間違いですよ
邪馬台国の王都が伊都国です
後漢書にも「建武中元二年倭奴国奉貢朝賀使人自稱大夫 倭國之極南界也倭国」と倭国の中に倭奴国があります
邪馬台国の中に伊都国があったんです。
>>867
そうですよ。
>>868
だから末盧国に上陸したのは呼子付近です。 >>872
>邪馬台国の中に伊都国があったんです。
救いようがないね。 @阿波 >>873
里数での行程文と日数での行程文が同じ行程を距離と時間で書いてある
陳寿は二重に丁寧に説明してるんです
それを続けて読むから目的地までの距離も時間も分からなくなる。 >>874
>それを続けて読むから目的地までの距離も時間も分からなくなる。
それはね、分からなくなるのは、妄想トンデモ説だからなんだよ。 @阿波 >>872
>これこそ大間違いですよ
>邪馬台国の王都が伊都国です
まだ言うかww
「女王国=倭国のうち卑弥呼の共立に参加した範囲」の王都が邪馬台国だよ
邪馬台国の王都って、王都の中に王都があるとかいうバカな話にしかならない >>874
>里数での行程文と日数での行程文が同じ行程を距離と時間で書いてある
>陳寿は二重に丁寧に説明してるんです
>それを続けて読むから目的地までの距離も時間も分からなくなる。
三国志の中にも、他の史書にも、里数と日数で二重に書いてある地理・行程記事なんてないだろ?
同じ陳寿さんが書いてるのに、東夷伝倭人条だけ、二重に書いてあると考える方がおかしい >>877
邪馬台国は王都じゃないんですよ
3世紀の日本に七万戸もの国邑なんてありませんよ。
>>878
公孫氏の帯方郡の資料や張政の報告書など基の資料が複数あったからでしょうね。 >>879
>3世紀の日本に七万戸もの国邑なんてありませんよ。
「七万戸」は兎も角、3世紀の日本の最大・最強・最先端文化都市は倭国(阿波)以外に無し。 以上。 @阿波 伊都国と奴国をあわせて邪馬台国。
さいわい、日本語にもこのエリアだけを的確に示す語がある。
それは筑紫の日向。
神代の倭国の王都だ。
魏志倭人伝において邪馬台国は倭国の王都なのだから、邪馬台国と日向が同じ地域を意味するのはとうぜんのこと。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>880
阿波の何処に七万戸の国邑の遺跡があるんだよw >>881
>それは筑紫の日向。
あんまり伊都国説のやつがうるさく言うから、ちょっと詳しく見てみた範囲だと、
日向川というのが室見川の支流、奴国側にあって、その川の谷筋を上りきったところの
峠が日向峠
これから考えると高祖山塊の東側斜面、朝日が当たる側が、日向と呼ばれた地域だな
決して伊都国側ではない
朝日が当たる斜面が日向(ひなた)と呼ばれることに違和感はない 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>883
倭国(阿波)以外の何処に七万戸の国邑の遺跡があるんだよw @阿波 >>886
何処にも無い、当然阿波にも無い
七万戸の邪馬台国は国邑ではなく
国邑の連合体だよ。 >>884
奴国側ですね
首都の外側に住んでた一族が東征したようですね。 >>887
>七万戸の邪馬台国は国邑ではなく
>国邑の連合体だよ。
その「国邑」の一部がこれらだよ。 @阿波
※北の邪馬台国(卑弥呼側勢力)
【旧吉野川流域北岸勢力 弥生時代集落】
東州津遺跡・大柿遺跡・土取遺跡・昼間遺跡(正力地区)・昼間遺跡(天神前地区)・昼間遺跡(西貝川地区)・足代東原遺跡・薬師遺跡・吉水遺跡・田上I遺跡・拝原東遺跡・椎ヶ丸〜芝生遺跡
・西長峰遺跡・北原〜大法寺遺跡・天神山遺跡・金泉寺遺跡・黒谷川宮ノ前遺跡・黒谷川郡頭遺跡・桧はちまき山遺跡・光勝院寺内遺跡・カネガ谷遺跡・桧銅鐸出土地
【旧吉野川流域南岸勢力 弥生時代集落】
ウエノ遺跡・マチ遺跡・須賀遺跡・相知遺跡・井出上遺跡・稲持遺跡・貞光前田遺跡・石井遺跡
【鮎喰川下流域勢力 弥生時代集落】
樋口遺跡・延命遺跡・矢野遺跡・名東遺跡・鮎喰遺跡・庄遺跡・庄蔵本遺跡
※南の狗奴国(卑弥弓呼勢力)
【勝浦川流域勢力 弥生時代集落】
勢合銅鐸出土地・田浦遺跡・新居見遺跡
【那賀川流域勢力 弥生時代集落】
若杉山遺跡・加茂宮ノ前遺跡・深瀬遺跡・福寺山遺跡・宮ノ本遺跡
【海部川流域勢力 弥生時代集落】
芝遺跡・大里遺跡
こういう「邪馬台国勢力」と「狗奴国勢力」を「弥生集落遺跡」で提示できるのは倭国(阿波)だけ。 @阿波 >>887
倭国(阿波)以外の何処に七万戸の国邑の遺跡があるんだよw @阿波 >>890
全部合計しても七万戸には遠く及ばないし時代もまちまちw >>888
>奴国側ですね
>首都の外側に住んでた一族が東征したようですね。
いや?
北部九州の首都は、どうみても奴国
伊都国は「入国管理の出先、関所」が置かれたところ >>892
奴国がパリなら伊都国はベルサイユ
奴国がニューヨークなら伊都国はワシントンDC
だろうな。 >>891
>全部合計しても七万戸には遠く及ばない
倭国(阿波)以外の何処に七万戸の国邑の遺跡があるんだよw
>時代もまちまちw
どの遺跡が? @阿波 >>894
七万戸の国邑なんて阿波にも無いし日本の他にも無いの
3世紀の日本には存在しない
七万戸は北部九州全体の国邑の合計 >>884
筑紫の日向の小戸の橘が、今の小戸のヨットハーバーだから、高祖山の北側も日向だよ。
高祖山とその周辺全て、つまり魏志倭人伝の伊都国と奴国が丸ごと筑紫の日向なんだよ。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>895
>七万戸は北部九州全体の国邑の合計
と言いながら、ろくな弥生時代後期集落遺跡が無い北部九州のお粗末。 @阿波 神武が出発したクシフル山は日向峠の裏だろ。
怡土城の城域の中だね。
つまり、伊都城が高千穂宮なんだよ。 >>895
>七万戸は北部九州全体の国邑の合計
と言いながら、ろくな弥生時代後期集落遺跡が無い北部九州のお粗末。 @阿波 >>895
>七万戸は北部九州全体の国邑の合計
と言いながら、ろくな弥生時代後期集落遺跡が無い北部九州のお粗末。
と、ボロクソに言われながら黙り込む北部九州のお粗末。 @阿波 >>902
>阿波、うるさいぞ
こら、こら、北部九州、がんばれ! @阿波 怡土城の城域は290ヘクタール。
倭国の王城にふさわしい。
高祖山の上にそびえる楼閣は、魏志倭人伝の卑弥呼の王城の楼閣高くという記事そのものだ。
大門の奥の高祖宮に卑弥呼がいたのだ。 有名なものだけで三雲南小路遺跡、吉野ヶ里遺跡、曲り田遺跡、 板付遺跡、菜畑遺跡、那珂遺跡、雀居遺跡、 須玖岡本遺跡 >>906
と言いながら、ろくな弥生時代後期集落遺跡が無い北部九州のお粗末。
と、ボロクソに言われて変な遺跡を挙げる北部九州のお粗末。 @阿波 >>908
九州の遺跡の方が阿波とは比較にならんぐらい大きいが。 >>909
>九州の遺跡の方が阿波とは比較にならんぐらい大きいが。
まるで、子供だねwww そんなんで大丈夫かね、九州説のみなさん。 @阿波 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 阿波の揚げた遺跡なんて小規模でマイナー過ぎて誰も知らないものばかりじゃないですかw >>913
>阿波の揚げた遺跡なんて小規模でマイナー過ぎて誰も知らないものばかりじゃないですかw
君自体が「小規模でマイナー過ぎ」なだけなんだよ。 もっと勉強しよう。 @阿波 阿波国って、現在の徳島県でいいのかね?
遺跡データベースで弥生時代の遺跡を検索すると
兵庫県2114件
徳島県413件
だったのだが。 >>915
倭国(阿波)は遺跡発掘後進県なんですよ。
にもかかわらず、他を圧倒する特異な遺跡がザクザクとね。 @阿波 >>915
そのデータベースで弥生時代の九州の遺跡を検索すると? 奈文研の遺跡データベースで検索した時のヒット数のことだろ?
でも、そのデータベースの説明で
「データベースの情報源は大きく 3 つに分けることができる。
1 遺跡地図
2 遺跡地名表
3 発掘調査報告書(報告書抄録)
遺跡地図は都道府県教育委員会、市町村教育委員会が発行する遺跡に関する包括的な情報源として
最も大切なものである。『地域によって精度、更新頻度が異なり、近接自治体との情報格差が存在』する。
地図が付加されていて位置情報の取得も可能な資料である。」
と書いてある
『地域によって精度、更新頻度が異なり、近接自治体との情報格差が存在』
九州説はこのデータベースのヒット数で、福岡県の方が多いと「言える」と
思っているようだけれど、そんなことはないんだよ
福岡県の弥生墳墓遺跡だと
調査を除いて757件がヒットするけど、そのうち
「204件」が宮若市沼口字汐井掛の汐井掛遺跡で
「汐井掛第90号木棺墓」とかの個別の墓一つ一つが数えられてる
そりゃぁ、数が多くなるのが当然だわ
結局、何を以って遺跡数とするかは、その地方自治体の考え方次第ってことで、
奈文件のデータベースは、それをそのまま記載しているってことだ
これで、福岡の遺跡が多いとか、言ってもしょうがないだろ? それらの情報のすべてが少ないのが奈良県。
200 回以上掘った巻向遺跡が
大半の情報だったりしてね。 実際に奈良にどれだけの弥生遺跡があるのかというと、福岡に比べて激しく貧弱なのは事実。
1ヘクタールあたりの住居の数でも比較してみろよ。 福岡は考古学者が
もう出ないでくれ、と祈る場所。
まともに発掘したら金も人も足りません。
でかいのに当たると、その研究施設が
数年麻痺するから、できるだけ
必要なところ以外は掘らないようにしている。 実際、建物を建てるときは、基礎工事でコンクリを流し込んだり
杭を打つ予定のところだけ発掘して、上に薄くアスファルトや
コンクリを流すところは放置するんだよね。
その工場予定地全体を発掘すれば
巨大な遺跡になりそうだけど、
それは吉野ケ里のように国から予算でも来ないと無理。 >>921
>それらの情報のすべてが少ないのが奈良県。
>200 回以上掘った巻向遺跡が
>大半の情報だったりしてね。
調べもせずに、印象だけで戯言を書き付けて反論した気になるのが九州説
実際に奈文研のデータベースで調べてみればいいだろ?
こっちは、九州説の遺跡数が多いという戯言に付き合ってきちんと調べた上で、
汐井掛遺跡という集団墓地遺跡一つで、204件の登録があるって示してるんだからさ
奈良県の登録の仕方だと、「唐子・鍵遺跡」で1件だよ
弥生時代後期では、日本屈指の大遺跡だけどね >>925
>その工場予定地全体を発掘すれば
>巨大な遺跡になりそうだけど、
>それは吉野ケ里のように国から予算でも来ないと無理。
それ、具体的にはどこ?
具体例が出せなければ、ただの戯言、世迷言w >>926
>奈良県の登録の仕方だと、「唐子・鍵遺跡」で1件だよ
>弥生時代後期では、日本屈指の大遺跡だけどね
またまたご冗談をw >>927
あんたが知らないだけ。
キナイコシは井の中の蛙。 >>929
>あんたが知らないだけ。
>キナイコシは井の中の蛙。
そうそう、井の中の蛙なんだよ
だから、外界の情報を教えてもらおうと思ってさ
具体的には、どこの遺跡なんだい?
遺跡名がまだついていないなら、行政地名でいいよ?
さあ、具体的な場所を教えておくれ >>928
>またまたご冗談をw
どこかどう冗談なのか、「具体的に指摘」してね! 伊都は首都じゃないから、そろそろこのスレも閉じようよ 首都の定義はどうであっても、女王之所都と書いてあるんだから、
女王卑弥呼がいた場所だろう 内政を管轄する一大率が置かれ、外交相手である魏の使いが駐在するのが伊都。
これが都でなくてなんだというのか。 伊都城www
3世紀に存在していた証拠をどうぞwww 大野城、基肄城、菊池城に相当する地名も魏志倭人伝にあるのだから、卑弥呼の宮城と書かれている邪馬台国も城でいいよね。
伊都国と奴国にまたがる高祖山の山城、伊都城(怡土城)がそれだろう。
まさに楼閣高き筑紫の高千穂宮だね。 3世紀からあったと主張する側が、歴史学的、あるいは考古学的な根拠を提示する義務があるな おや、いつもと立場が逆だな。
ないことを証明しろといつも言っていたじゃないかw 奈良時代の天平勝宝8年(756年)から神護景雲2年(768年)にかけて築城された中国式山城で、文献によれば吉備真備のち佐伯今毛人が築城を担当したことが知られる。
この奈良時代の記録で、それ以前に城があったものを拡張したとか、それ以前から要所だったとかの記述は「一切ない」
さて、怡土城が3世紀にあったと主張するのであれば、それを「具体的な根拠を付けて」論証してもらいましょうかね? そう!
奈良時代より前の記録が「ない」のだよ。
九州の歴史はいつもそう。
魏志倭人伝に怡土国や奴国が載っているのに、国内の記録はわずかしかない。
なぜだと思う? 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 九州説では、硯が出てるから3世紀から九州では漢字の読み書きができたっていう説なんだろ?
それでどうして記録がないんだ?
風土記になって畿内政権から促されてやっと地域の歴史をまとめたような一地方が何を言ってるんだかww レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。