伊都国東遷スレ 7
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1、魏志にある邪馬台国は「ヤマト」であり、倭王権の基礎となった。
2、ただし、その女王、「ヒミコ(日巫女)」とは伊都国の関係者である。
3、平原一号墓の巫女王は、東遷前の先代のものであり、銅鏡による太陽祭祀を主宰する「日巫女」の墓として、最もふさわしい。
<ポイント>
・記紀の伝承がおおむね歴史的事実の反映であることが視野に入ってくる
・唐古、鍵と纏向の間にある文化的断絶(銅鐸祭祀断絶と銅鏡祭祀開始)を伊都国勢力の進入から説明できる
柳田康雄先生の考え方(仮説)に基本的に一致しています。
<参考 URL >
歴史秘話ヒストリア 「女王卑弥呼はどこから来た?」
https://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/204.html
柳田康雄 「伊都国を掘る」2000年
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784479840541
柳田康雄 「 弥生王権論 伊都国からヤマト国へ」 2016年
http://www.city.itoshima.lg.jp/m043/010/040/070/030/kankotosyo.html 各地の忌部は大和朝廷が派遣したんじゃないの?
忌部の「部」は部民の部で、部民っていうのがそもそも大和朝廷の職制なんだから >>506
>忌部の「部」は部民の部で、部民っていうのがそもそも大和朝廷の職制なんだから
ここでいう忌部氏とは、平安時代の『新撰姓氏録』以降の忌部(斎部)氏ではない。
忌部氏とは倭人(広義の忌部氏)であり、全国を拓殖していった古代倭国(阿波)スーパー頭脳集団の総称である。 @阿波 個人的には忌部は殷部で殷の棄民じゃないかと思っている
殷周革命では周と九夷が組んだから九夷の勢力外まで逃げなければいけないと考えれば
阿波辺りまで逃げないといけなかったのではと思う >>507
>忌部氏とは倭人(広義の忌部氏)であり
そんな勝手定義は誰も知らないよww
阿波はアワコン 平原広沢とは佐賀平野の邪馬台国である。(そいぎんた まあ、本質的にはお鏡さん隔離スレだから、よそにお鏡さんが出張ってこなければ、
それだけでこのスレは役に立ってるよww それにこのスレのおかげで、「平原1号墓出土鏡が八咫鏡」っていうのが、
単なる昭和の思いつきだってはっきりしたし まあ、つまんない都市伝説がひとつ消えたという意義はあったな 平原1号墓の大柱も、実は5号墓の大柱の方が先だし、さらに吉野ヶ里の北墳丘墓にも
墳丘そばに大柱が立てられている
吉野ヶ里の大柱は日の出の方向とはまったく関係なく、ただ墳丘の長軸方向に立てられている
それと同じ文化であるとみなせば(異なるとする理由がない)、平原1号墓の大柱が日向峠の
日の出を意識して立てられていて、その日付・10月20日が重要というお鏡さんの説はまったくの
見当違いってことになる 吉野ヶ里のは、今ぐぐったら「立柱」という名前で呼ばれているようだね >>517
>平原1号墓の大柱も、実は5号墓の大柱の方が先だし、
そんなことが正確にわかるのか、甚だ疑問。
根拠は?
>吉野ヶ里の大柱は日の出の方向とはまったく関係なく、ただ墳丘の長軸方向に立てられている
平原の方がより進化した様式なのだと考えればいいだけ。
内行花文鏡に象徴される太陽信仰があったこと、日向峠という地名などを考慮すると、御柱になんらかの意味を持たせていた可能性を否定できない。
御柱は諏訪大社など国内に類例が存在する以上、否定する根拠に乏しい。
畿内説の言いがかりのような論説では、何も明らかにすることはできない。
畿内説のテンプレが根拠の薄い推定で満ち溢れているのに比べると、全く酷いダブルスタンダードが見て取れる。
これだから畿内説は信用されない。 >>519
>そんなことが正確にわかるのか、甚だ疑問。
>根拠は?
都合の悪いことは、全部「根拠は?」で済まそうとするんだなww
平原遺跡の発掘報告書で、
5号墓
↓
1号墓・2号墓
↓
3号墓、4号墓
の順で作られたとされているよ
5号墓の方が1号墓より古く、平原遺跡の立地は1号墓ではなく5号墓が作られたときに
選ばれたことになる
5号墓付属の大柱と、1号墓付属の大柱では、5号墓の方が古いのが当然 >>519
>内行花文鏡に象徴される太陽信仰があったこと、
逆に、これに「根拠がない」
内行花文鏡の鏡面の模様が太陽っぽく見えるだけで、
それが太陽信仰と結びつくかどうかは、実は根拠がない >>519
>平原の方がより進化した様式なのだと考えればいいだけ。
考えれば言いと考えるのが、恣意的
進化した様式だと考える理由がない
吉野ヶ里では、北墳丘墓の墳丘主体の長軸上に「立柱」があり、その延長上に
かつて南墳丘墓と呼ばれた祭壇がある(埋葬設備がなく墓ではないことが確認済)
墳丘の方向と立柱の方向で、聖別される方角を示すものと考えればよい
そこに、太陽に日の出の方角という意味合いを無理に付与する理由がない >>519
>御柱は諏訪大社など国内に類例が存在する以上、否定する根拠に乏しい。
諏訪大社の御柱は、聖別される区画の境界として4本立てるんだよ?
1本きりの、吉野ヶ里や平原5号墓、1号墓の柱とは意味合いが異なるのは明らかだと思うが? >>519
>畿内説の言いがかりのような論説では、何も明らかにすることはできない。
そもそも、クシフル岳も何もないのに、日向峠という小さな地名一つで
伊都国周辺を日向だと言い張る時点で根拠が薄弱すぎる
>畿内説のテンプレが根拠の薄い推定で満ち溢れているのに比べると、全く酷いダブルスタンダードが見て取れる。
こっちは、丁寧に十分な根拠を挙げて「平原1号墓出土鏡が八咫鏡だ」とかいう妄説をきちんと
否定したよ
>これだから畿内説は信用されない。
恣意的なご都合主義のチェリーピッキングの上に、妄想で隙間を埋めてるから
九州説は、論説として妥当性がないんだよ
信用されるされない以前の問題 >>520
その発掘報告書には柱を立てた順番まで
記述されているか?
お前の願望じゃないよな? >>525
柱を立てた順番が書かれていないと何か問題があるのか?
常識で考えれば、5号墓の柱は1号墓の柱より前だ 卑弥呼は共立女王だから
それまでの先祖とは違って
突然倭王としての格式を持った鳥居<日の出の方角
が作られたんだろ。 内行花文鏡は、前漢時代の日光鏡や清白鏡の系譜上にある太陽を象った太陽信仰の象徴である。
伊都にある王墓の代表である三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、内行花文鏡が太陽光を象った鏡であることがわかる。
内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国は内行花文鏡を王権の象徴として漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていたことになる。 >>527
>常識で考えれば、5号墓の柱は1号墓の柱より前だ
太陽信仰との習合が1号墳の卑弥呼の即位の時なら、何の不思議もない。 予言スレの話
中国産の偽のガンダムが何やらと言ってる人がいたり、 >>528
「倭王としての格式を持った鳥居]だという理由は? >>531
太陽信仰との習合が1号墳の卑弥呼の即位の時だと考える理由は? 記紀を参考にすると、天照大神の頃から意識されていたのだろうが、どうせ記紀は無視なんだろ?
伊都国にある倭王墓である三雲南小路遺跡がニニギの墓なら、その先代の天照大神の頃から太陽信仰があったかもしれないな。 オウム返しは能なしの所行だと何度言えば
こう言えば、少しは情けなさが分かるかな?
「ザラコクレベル乙!」 >>525
>その発掘報告書には柱を立てた順番まで
>記述されているか?
>お前の願望じゃないよな?
本格的にアタマおかしいな!
5号墓が1号墓よりも古い、のは確実
おそらくは同じ家系の先代の墓
で、1号墓を作るときに、5号墓にも柱を立てたっていうのかい?
それこそどんな理由で立てるんだ?
それから、「太陽祭祀が−」、「日向峠が−」、っていつも言ってるが、その前に
1号墓の大柱の先に、小さな建物跡があるのは把握してるか?
吉野ヶ里遺跡の
北墳丘墓 立柱 祀堂 の位置関係と
平原遺跡の
1号墓 大柱 建物跡の位置関係が同じ
そして、吉野ヶ里が南北に近い方向で太陽祭祀と無縁であることと合わせて考えれば、
平原1号墓も無理に太陽の日の出の方向などと言い出す必要はない
諏訪大社の御柱はもういいのかい?ww >>534
>三雲南小路遺跡がニニギの墓なら、その先代の天照大神の頃から太陽信仰があったかもしれないな。
どういう時系列なんだ?
平原1号墓が女王で太陽祭祀だから卑弥呼で天照大神だって言いたいんじゃなかったのか?
三雲南小路から平原1号墓まで軽く200年くらい経ってるぞ?
三雲南小路の先代が天照大神だとすると、天照大神はどこにいたんだい?
どこからどこに天下るのか? >天照大神はどこにいたんだい?
吉武遺跡
>どこからどこに天下るのか?
吉武遺跡 そして、5号墓と5号墓附属の大柱が指す方角と
1号墓と1号墓附属の大柱が指す方角はずれている
そして大柱の指す方角と、1号墓の埋葬主体、木棺の長軸方向もまたずれている
こういうところをきちんと押さえて見ていくと、日向峠からの日の出っていうのが
眉唾物だと分かる訳だ >>541
吉武高木遺跡は紀元前3世紀
三雲南小路からさらに200年古い
とてもじゃないが先代とは言えないな
さらに王墓といいつつ、3号木棺は共同墓地の一つの埋葬主体に過ぎないし、
女性の被葬者と考える理由がない
また峠を越えるだけなのを、天下りというだろうか?
峠を隔てただけの隣の国を、誰に譲ってもらうんだ?
記紀を史実として説明しようとしても、破綻するだけだよ >>539
>そして、吉野ヶ里が南北に近い方向で太陽祭祀と無縁であることと合わせて考えれば、
>平原1号墓も無理に太陽の日の出の方向などと言い出す必要はない
前方後円墳がてんでバラバラなところを見ると、基本的に倭人は方角に無頓着だったんだろうね。
だからこそ平原遺跡の特別さが目立つ。 >>540
>三雲南小路から平原1号墓まで軽く200年くらい経ってるぞ?
>三雲南小路の先代が天照大神だとすると、天照大神はどこにいたんだい?
>どこからどこに天下るのか?
200年という年代が正しいかどうかは別として、男王70-80年とあるのだから、そんなに古くないかもしれない。
天照の高天原がどこかという話になるが、「海を照らす(支配する)」という意味だから、対馬海峡の王だったんだろう。
そこから大国主を廃して邇邇芸が筑紫に降臨したわけだ。 >>544
特別なんだろ
他者に影響を与えてない
つまり東遷なんて無いんだよ
平原は落選 >>544
特別なんだろ
他者に影響を与えてない
つまり東遷なんて無いんだよ
平原は畿内と関係ない邪馬台国の卑弥呼の墓 >>545
>対馬海峡の王だったんだろう。
この台詞、大好きみたいだけど、対馬も壱岐も耕作できる土地が足りなくて
乘船南北市糴しないと生きていけない土地なんだから、十分な人口も蓄えられないし
強い国なんて夢のまた夢だぞ?
半島南部は小邑割拠な状態だし、九州側に拠点があるなら、それは九州の国であって
対馬海峡の国じゃないだろう >>548
だからこそ大国主を倒して豊葦原中国を奪ったんだろ。
まあ、もともとは対馬海峡の天津国(海の国)も博多湾沿岸のイザナギの家系だが、家督争いの結果としてニニギの代に陸上の伊都に返り咲いたというわけだ。 >>544
>だからこそ平原遺跡の特別さが目立つ。
読解力、ないの?
平原1号墓はすぐそばの小型建物(祀堂?)に向けて、墳丘軸と大柱を合わせているだけで、
日向峠の日の出なんて関係ないだろうっていってるんだぞ?
この小型建物があるから、1号墓から日の出は見られない
5号墓の大柱の指す方角とも異なるし、平原1号墓の築造をした人たちこそ、方角に無頓着だよな?
5号墓の大柱の先にあるべき祀堂の位置に、3号墓があるからその頃には5号墓祭祀は
終わっていたのかもしれない >>549
だから時系列はどうなってるんだよ?
それは神話を楯にとったただの妄想
神話は史実じゃないっていうのが分からない人間は、たちが悪い >>550
>日向峠の日の出なんて関係ないだろうっていってるんだぞ?
根拠なし。
>この小型建物があるから、1号墓から日の出は見られない
一時的な殯宮だろ。
古代神道の様式が成立したんだな。
>5号墓の大柱の指す方角とも異なるし、平原1号墓の築造をした人たちこそ、方角に無頓着だよな?
5号墓なんて重要ではないし、1号墓を作った時には忘れていたかもしれないね。
5号墓の方角こそ、無頓着に作ったんだろう。
1号墓の特殊性がわかるというもの。
太陽神の化身は卑弥呼だけ。
>5号墓の大柱の先にあるべき祀堂の位置に、3号墓があるからその頃には5号墓祭祀は >>551
辻褄は合っているだろ?
しかも博多湾沿岸に次々に新しい部族が入り込んだことは、考古学的に推定できる。
稲作文化を持ち込んだ部族、甕棺や支石墓の部族、方形周溝墓や木棺も部族など。
しかし倭王の象徴としての内行花文鏡を含む三種の神器は共通している。 非論理的ないちゃもんをつけているのは畿内説だよ。
それに対して誠意的に回答しているけど? 5号墓なんてどうでもいいものを持ち出しても無駄だということ。
副葬品から、1号墓の被葬者が圧倒的に上位であったことは間違いないわけだから。 「非論理的ないちゃもん」の典型が>>556
5号墓が「どうでもいい」という理由がまったく説明されていない 伊都トンデモ説が論破されちゃうのに
反論できないから
何としても無視しなきゃいけないんだよ >>552
>根拠なし。
困ったときの「根拠なし」ww
便利だねぇw
ザラコクさんの「南≠東」とまったくの同レベルw >>558
そもそもなぜ5号墓なんて持ち出すのが理解できない。
世間ではこういうのをいちゃもんをつけると言う。 >>561
>そもそもなぜ5号墓なんて持ち出すのが理解できない。
本気で言ってるの?
本気で言ってるのであれば、歴史について考えるのやめたほうがいいと思うよ
これまでにも何度となく、平原遺跡じゃなくて、平原1号墓と呼ぶように
言ってきたんだが、まったく理解できていないんだな
平原1号墓は、孤立して単独で存在するのではなく、平原遺跡の中に位置づけられるもので、
平原遺跡は平原1号墓に限定されない、空間的時間的な広がりを持つ
その中での平原1号墓の位置づけを考えるのが歴史学だ
さらに言えば、平原遺跡も曽根遺跡群の一角を占めるものだから、曽根遺跡群の
主体から考えていく必要がある
伊都国説(平原1号墓が卑弥呼の墓説)は、歴史学じゃないんだな
知ってたww >>563
>さらに言えば、平原遺跡も曽根遺跡群の一角を占めるものだから、曽根遺跡群の
>主体から考えていく必要がある
その「曽根遺跡群」といっても、所詮お墓ばっかり。
畿内も九州も頼れるものはお墓だけ。 @阿波
>>563
同時に作られた2号墓ならともかく、時代的に違う5号墓を恣意的に取り上げても意味がない。
魏志倭人伝からは、卑弥呼が正統ではなかった家系から共立されたように読めるので、その出自の家系の墓だとしても、あまり意味はない。
畿内説は平原遺跡が怖いあまりに強弁しているだけ。 >>566
>魏志倭人伝からは、卑弥呼が正統ではなかった家系から共立されたように読めるので
勝って読みして、決めつけはイカン。 @阿波 >>566
>同時に作られた2号墓ならともかく、時代的に違う5号墓を恣意的に取り上げても意味がない。
そう思うなら、歴史について考えるのをもうやめなよww
5号墓は「時代的に違う」とか言いながら、二百年も前の、完全に時代の違う三雲南小路遺跡は
重視するんだろ?
5号墓は単に1世代違うだけで、同じ家系の家族墓だと考えられるし、三雲南小路遺跡より
よっぽど関係も深いぞ
そもそも、平原遺跡全体の立地は、5号墓の造営のときに選ばれているんだから、
無視していたら何も言えないよ?
伊都国の王墓の地である三雲遺跡群の外、曽根遺跡群の地を墓所に選んだ理由を
考えることが、1号墓被葬者の属性を考える上で重要
古墳時代に入った後、
三雲遺跡群には伊都国首長(怡土国造)の墓である端山古墳、築山古墳が作られるのに対し、
曽根遺跡群にも、
それより規模の劣るワレ塚古墳、銭瓶塚古墳、狐塚古墳が作られる
曽根遺跡群に墓を作る家系(平原遺跡後裔)と三雲遺跡群に墓を作る家系(伊都国首長家)は
別の家系だと考える方が蓋然性が高い
つまり、平原1号墓は伊都国王墓ではないと考えた方がよい
その方が、12×8メートルという小さな墳丘サイズを理解しやすい
ましてや、倭国全体の倭王の墓だなんて、ご冗談はヨシコサンだよw >>566
>魏志倭人伝からは、卑弥呼が正統ではなかった家系から共立されたように読める
苦しいなぁww
共立という言葉からは、各地にいる首長のうち、多くが納得できるものを
共同で推戴したという様子が伺える
先代が大きさ5メートルくらいの方形周溝墓に葬られている弱小家系の人物が
いきなり倭国全体の王に担ぎ上げられるってのはないって
卑弥呼が倭王に共立されたのは、邪馬台国七万余戸という倭国内随一の大国を
背景にしている
ここから先は、想像でしかないが、平原遺跡は伊都国首長家の姻族だったと
考えるのが妥当だと思っている >>568
>別の家系だと考える方が蓋然性が高い
だから伊都国説では別の家系だと言っているが?
的外れな批判は返事の仕方に困る。
>つまり、平原1号墓は伊都国王墓ではないと考えた方がよい
倭王墓だし、伊都国にいた王家は倭王家だよ。
伊都国の王というわけではない。
倭国の王家が三雲の一族から平原の一族に移ったんだよ。
だから5号墳は王ではないのでどうでも良い。 >>570
>卑弥呼が倭王に共立されたのは、邪馬台国七万余戸という倭国内随一の大国を
>背景にしている
七万余戸という倭国内随一の大国は以下。 @阿波
※北の邪馬台国(卑弥呼側勢力)
【旧吉野川流域北岸勢力 弥生時代集落】
東州津遺跡・大柿遺跡・土取遺跡・昼間遺跡(正力地区)・昼間遺跡(天神前地区)・昼間遺跡(西貝川地区)・足代東原遺跡・薬師遺跡・吉水遺跡・田上I遺跡・拝原東遺跡・椎ヶ丸〜芝生遺跡
・西長峰遺跡・北原〜大法寺遺跡・天神山遺跡・金泉寺遺跡・黒谷川宮ノ前遺跡・黒谷川郡頭遺跡・桧はちまき山遺跡・光勝院寺内遺跡・カネガ谷遺跡・桧銅鐸出土地
【旧吉野川流域南岸勢力 弥生時代集落】
ウエノ遺跡・マチ遺跡・須賀遺跡・相知遺跡・井出上遺跡・稲持遺跡・貞光前田遺跡・石井遺跡
【鮎喰川下流域勢力 弥生時代集落】
樋口遺跡・延命遺跡・矢野遺跡・名東遺跡・鮎喰遺跡・庄遺跡・庄蔵本遺跡 >>570
>先代が大きさ5メートルくらいの方形周溝墓に葬られている弱小家系の人物が
方形周溝墓は倭国王家の墓制だろ。
>ここから先は、想像でしかないが、平原遺跡は伊都国首長家の姻族だったと
>考えるのが妥当だと思っている
まあ大ハズレではなさそうだ。
だから女王を輩出できたのだろう。 >>571
>だから伊都国説では別の家系だと言っているが?
つまり、伊都国王家ですらないってことだな
倭王墓はさらに無理ってことでFAだな >>571
>倭王墓だし、伊都国にいた王家は倭王家だよ。
こういうのこそ「根拠なし」っていうんだよw
>伊都国の王というわけではない。
伊都国王ですらない人物が、共立されることはないな
>倭国の王家が三雲の一族から平原の一族に移ったんだよ。
そもそも卑弥呼の前代の時点で、三雲の一族の倭王などというものは認められない
王墓もないしね
三雲の一族の倭王がいないんだから、そこから平原の一族に移りようがない
>だから5号墳は王ではないのでどうでも良い。
径5メートルの小さな方形周溝墓を作る人物の娘が、倭王になるってどんなファンタジーだよww
1号墓の大柱が、日向峠とは無関係だってのは理解できたか? >>573
>方形周溝墓は倭国王家の墓制だろ。
「時代が違う」&「三雲南小路でも30メートル四方の大墳丘墓」だ
適当だよな、知識のない人の書き込みはいつでもw >>573
>まあ大ハズレではなさそうだ。
>だから女王を輩出できたのだろう。
いや、伊都国王妃、くらいがせいぜいだよ
彦姫制の姫が、彦王の死後、全権を掌握したから、それなりに豪華な
副葬品を用意できたってところかな 伊都だけの王家というものがあったという証拠を出せよ。
どこの何という王家だ? >>578
>彦姫制の姫が、彦王の死後、全権を掌握したから、それなりに豪華な
>副葬品を用意できたってところかな
それなりというか、弥生時代で最も豪華な副葬品の女王墓なんだが? 後漢書における邪馬台国までの里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。 後漢時代の倭国の範囲は、狗邪韓国から倭奴国まで。
この範囲でこの時代の王墓は糸島平野にしかない。
つまり、キナイコシが「伊都国王家」と呼んでいるのは、実は伊都を王都とした倭国王家だよ。
もちろん彼らには名前があり、天津神と呼ばれていた。
現代の呼び方だと日向三代とか天孫族とか呼ぶけどね。
これは、高祖山周辺が筑紫の日向と呼ばれる場所であることからわかる。 おまえらいい加減
同じ言葉で違うものを論じてるの理解しろよ。
言葉の定義と中身のすり合わせしないといつまでたっても決着せんぞ? >>580
>伊都だけの王家というものがあったという証拠を出せよ。
>どこの何という王家だ?
怡土県主家だよ
日本書紀仲哀紀にも筑紫伊覩縣主祖五十迹手って出てくるだろ
この家系の祖だよ >>581
>それなりというか、弥生時代で最も豪華な副葬品の女王墓なんだが?
それが単なる思い込み
仿世鏡がやたらたくさんあるだけで、剣でもガラス玉でも丹波の王墓の方が豪華だよ >>584
>後漢時代の倭国の範囲は、狗邪韓国から倭奴国まで。
コピペではないが、結局これだろ?
「後漢書で倭とは対馬海峡の国で 」
それは、九州説の勝手読みだよ
後漢書の原文は
「倭在韓東南大海中 依山島爲居 凡百餘國」で、基本的には魏志倭人伝と同じ認識、
というか、魏志倭人伝のコピペだし、さらに魏志倭人伝よりはっきりと
「其地大較在會稽東 與珠崖儋耳相近」と、相当に南方まで繋がった国だと書いてある
あ、漢文読める?
読み下し付けた方がいいかな?
倭は韓の東南、大海の中にあり、山島に依りて居を爲す。凡そ百餘國。
その地はおおむね會稽・東冶の東に在り、朱崖・儋耳と相い近し。
朱崖・儋耳は、海南島とかだよ もともと、大陸中華の地理観だと、倭国は呉とか越とかの沖合なんだよ
その表現が「計其道里、當在會稽、東冶之東」であり、後漢書の「與朱崖儋耳相近」なんだよ
そもそも短里なんて想定されてないし、想定さえされてないっていうことは、
短里なんてなかったってことなんだけどね
九州説は「短里なんてない」って認めた瞬間に瓦解するから、どんなに論理的に
解説されても頑なに認めないけどねw
逆に言えば、「短里なんてない」って分かってる人には、九州説は噴飯物でしかないw 後漢書
「倭在韓東南大海中 依山島爲居 凡百餘國」
三国志
「倭人在帶方東南大海之中 依山島爲國邑 舊百餘國」
後漢書
「其地大較在會稽東 與珠崖儋耳相近」
三国志
「計其道里當在會稽東冶之東」「所有無與儋耳朱崖同」
同じ認識、というか、同じ情報だろ? >>584
>高祖山周辺が筑紫の日向と呼ばれる場所であることからわかる。
「日向峠」という小さな地名一つでよくそこまで妄想できるものだなw
クシフル岳もないのにw で、5号墓からは逃げっぱなしか?
大柱が日向峠を指してないってのもいいか?
諏訪大社の御柱に言及したのは黒歴史でいいんだな? 径百歩の説明がどうにもつかない平原1号墓を卑弥呼の墓にしようって時点で詰んでるんだよ >>591
祓詞
掛けまくも畏き 伊邪那岐大神 筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に御禊祓へ給ひし時に生り坐せる祓戸の大神等 諸諸の禍事 罪 穢有らむをば祓へ給ひ清め給へと白す事を 聞こし食せと恐み恐みも白す
この日向はどこなんだ?
あ、ここに書かれているのは高祖山の麓の福岡市西区の小戸のことだけどね。 >>590
短里で書かれた情報を、短里を知らない中原の人間が解釈したので、実際よりも南にあると思い込んだんだろ?
東夷で短里が使われていたことを示す文章だよね。 福岡県の高祖山の最高峰は高地山。
いわゆる高千穂と同じであろう。
古くは別名をクシフル山とも言ったとのこと。
クシフルとは、チクシのフル(村落、国邑)の意味だそうだ。
九州では、国邑の名前としてフル、ハラ、バルなどを用いる。
筑紫とは、そもそも伊都のある高千穂の日向峠周辺のことを指す言葉であったようである。
それが勢力を拡大し、博多湾沿岸のみならず、有明海沿岸や遠賀川沿岸まで筑後や筑豊として筑紫に組み入れていくのである。
倭国は筑紫と豊国、肥国の連合国家、いわゆる邪馬台国連合であったが、次第に筑紫の一強となっていく。
後には九州全体を筑紫嶋と呼ぶ向きもあるが、これははるか後世において、筑紫から離れた畿内から見た、大変大雑把な呼称である。 【伊都国】
魏志において王がいて魏の郡使が駐在すると書かれた伊都国は、人口が1000戸と少ない。
卑弥呼の王宮の下女は1000人とあり、伊都には王族の他に王宮を運営する舎人と采女、その家族がいたことになる。
近隣の世俗の商業都市としての博多奴国と、政治・祭祀・外交のための聖なる王都である伊都は明確に分離されていた。
伊都国には平原遺跡という3世紀頃の女王墓があり、方格規矩四神鏡と内行花文鏡、玉を中心とする豪華な副葬品を持ち、特に史上最大の銅鏡であるいわゆる八咫の鏡が5面含まれていたことから、強大な権力があったことがわかる。
2世紀の倭国大乱以降では卑弥呼が最初の女王であるため、平原遺跡の被葬者の最有力候補が卑弥呼である。
伊都国の卑弥呼の宮はどのようなものだったか。
糸島市には高祖宮(高祖神社)があり、後世にはその東側の高祖山とクジフル山の山頂を囲む怡土城および高祖城があった。
高祖山を越える峠が日向峠であり、筑紫の日向のクシフル山にある高祖宮の古名が高千穂宮であったと考えられる。
ニニギはクシフル山に降臨してその西側に埋葬されたとあり、三雲南小路遺跡、井原鑓溝遺跡などが、魏志において倭国大乱の前の男王の時代70〜80年を担った日向王家の王墓である。
三雲南小路遺跡の拝殿であり漢の金印を保管していた細石(さざれいし)神社は天孫邇邇芸と木花佐久夜毘売を祭神とし、平原遺跡からは八咫の鏡と思われる超大型内行花文鏡が出土しており、筑紫の伊都がその名の通り倭国王家である日向三代の都であった証拠である。
http://maps.gsi.go.jp/#13/33.541752/130.280342/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
高祖山連峰の
第二峰 416ピーク 高祖山
第一峰 419ピーク くしふる岳
伊都国の官は爾支と記されているが、ニニギ、ニギハヤヒなどと同じ系統の名であり、神道における神職を意味する禰宜にも通じる。
平原遺跡には鳥居などの遺構があり、いわゆる神道の形式が整いつつあった。
高祖宮は伊都国から日の出の方にあり、卑弥呼らは太陽を背にして君臨していた。
高千穂宮から始まる神武東征の時、神武は天の子は太陽を背にするべきだと発言していて、伊都は神道の基本である太陽信仰の都である。
卑弥呼の鬼道とは、中国人から見た古代神道のことだったのである。 >>596
>古くは別名をクシフル山とも言ったとのこと。
これの確認ができる典拠情報が示されたことが一度もない
つまり、根拠がない >>594
>この日向はどこなんだ?
普通に宮崎県の日向国で問題ないだろ
宮崎県宮崎市阿波岐原って地名もあるよ
まあ、本質的には「特定の土地を指していない」んだろうけれど
「アワギハラ」http://nihonsinwa.com/page/1962.html
>あ、ここに書かれているのは高祖山の麓の福岡市西区の小戸のことだけどね。
相変わらずどこにでもある小さな地名をあてにするんだな、九州説はw
日向峠もそうだけれどさ >>595
>短里で書かれた情報を、短里を知らない中原の人間が解釈
そもそも、3世紀には短里を知っている人がいないんだよ
20世紀になって「考案」された戯言だからね
よく九州説の人が、対馬海峡を渡るところまでで一万里って言うけれど、
それが本質なんだよ
王朝の徳を示すために、倭国からの遣使を「万里の修交」としたかったから
数字を盛ったってのが本質
盛った数字だから、魏晋里より短いことになるけれど、実測値ではないし
適当な数字 祓詞の筑紫の日向の小戸はどこなんだ?
福岡だよね? >>602
倭国(阿波)の阿南市周辺に決まってるでしょ。 @阿波 とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
7D0 楽浪郡徼去其國萬二千里
其西北界狗邪韓國七千餘里
楽浪郡から倭の国境(狗邪韓国)まで七千里余り、大倭王がいる邪馬台国まで一万二千里
倭王帥升はどこにいた?
倭王卑弥呼はどこにいた?
帥升から卑弥呼までの間に、邪馬台国は移動した? >>605
そうですねぇ、帥升から卑弥呼の間に畿内に移動したんでしょうね。
それがこのスレの趣旨でもありますから。
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指摘のあった箸墓と夏至の関係も踏まえて、付論に少し加筆しましたので、こちらにアップしておきます。
http://fast-uploader.com/file/7086948633981/
八寸と八咫の話も今まとめてますが、ちょっと校正したり出典を調べたりしてますので、時間がかかっています。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています