>>566
>同時に作られた2号墓ならともかく、時代的に違う5号墓を恣意的に取り上げても意味がない。

そう思うなら、歴史について考えるのをもうやめなよww

5号墓は「時代的に違う」とか言いながら、二百年も前の、完全に時代の違う三雲南小路遺跡は
重視するんだろ?
5号墓は単に1世代違うだけで、同じ家系の家族墓だと考えられるし、三雲南小路遺跡より
よっぽど関係も深いぞ

そもそも、平原遺跡全体の立地は、5号墓の造営のときに選ばれているんだから、
無視していたら何も言えないよ?

伊都国の王墓の地である三雲遺跡群の外、曽根遺跡群の地を墓所に選んだ理由を
考えることが、1号墓被葬者の属性を考える上で重要

古墳時代に入った後、
三雲遺跡群には伊都国首長(怡土国造)の墓である端山古墳、築山古墳が作られるのに対し、
曽根遺跡群にも、
それより規模の劣るワレ塚古墳、銭瓶塚古墳、狐塚古墳が作られる

曽根遺跡群に墓を作る家系(平原遺跡後裔)と三雲遺跡群に墓を作る家系(伊都国首長家)は
別の家系だと考える方が蓋然性が高い

つまり、平原1号墓は伊都国王墓ではないと考えた方がよい
その方が、12×8メートルという小さな墳丘サイズを理解しやすい

ましてや、倭国全体の倭王の墓だなんて、ご冗談はヨシコサンだよw