>>903
>襄陽から新野まで現代の鉄道で直行しても65kmあるね
つまり襄陽から「宛」だろうが「苑」でも、もっと遠い これが300余里
明らかですね <

「屯宛」が否定されて「屯苑」であった限り、
襄陽から宛の120km位「(長里では「三百余里」)の否定であった事になる。
そしてその「屯苑」の地は、現在の所、
「宣池」付近で新野に「転屯」した方がベターな地、という事しか判らない。
だからYahooでの議論では、「苑」は、
新野よりも襄陽に近い山中であったが、新野に出るのに不便な地、
という意見で終わった、という事。
だから、「新野〜襄陽」が65kmであれば、
それより襄陽に近い苑が襄陽まで半分のの30km位だったとすれば、
それが300里余りである事になるんだから、1里≒100m位になり、
短里であった事になる。

>青龍三年現在、短里なんて存在してない 短里説、死亡してます<

陳寿は、当然上表文はそのまま転写する事が原則であるが、
「屯苑」で正しい、という事である限り、「屯宛」が否定され、長里の否定であり、
長里説、死亡してます。