神武・倭国の連合東遷説
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神武・倭国の連合東遷説とは 神武と倭国が連合して東遷した説である。略して「連合東遷説」という。 東征にあたり投馬(都萬)国の神武兄弟は、まず邪馬台国にある倭国の都・高天原に出向き当時の倭国王・台与(豊受大神)と東征・東遷を諮り、邪馬台(やまと)を大和に遷すことを決めた。 【連合東遷説の定義その1】 定義の根拠は順次アップします。皆さんの豊富な知識で良い説になるよう応援してください。自分自身が納得できた意見であれば、定義の修正・追加をしていきたいと思います。 定義1 倭国の女王・卑弥呼は天照大御神。台与は豊受大神のことである。 定義2 台与こと豊受大神は、須佐之男命の娘で出雲の生まれである。 定義3 神武・倭国の連合東遷に、博多湾沿岸のクニグニが参加した。 定義4 倭国の都・邪馬台を、奈良に移した遷都があった。 定義5 神武・倭国の連合隊は、狗奴国との戦いを決着させて出発した。 定義6 豊受大神は東遷にあたり、薩摩に出向きニニギに別れの報告をした。 定義7 倭国の女王・卑弥呼が住んだ都(高天原)は、福岡県の旧上座郡・下座郡である。 【連合東遷説の定義その2】 定義8 魏志倭人伝の行程方角基準は、当時の倭人が使用した基準で、マイナス28度偏向していた。 定義9 魏使行程の里程は、1里=76.5mで記述している。 定義10 魏使行程の投馬国へ水行20日は、九州西岸では水行10日の航路である。 定義11 ニニギの天孫降臨は薩摩・大隅を巡る、7年をかけた国造りの遠征であった。 定義12 弥生終末期、九州には北部に倭国、中部に倭国に囲まれた狗奴国、景行天皇名付けの碩田国、九州南部に投馬国があった。 定義13 海神・豊玉彦は投馬国へのみならず、西日本各地へ航路を拓いていた。 定義14 海神・豊玉彦は国生みを記録していた。 定義15 記紀が記す神武東征は陸上隊と共に進んだ。 定義16 高城山を残した部隊は、四国、山陰、丹波に遠征した部隊だった。 定義17 高塚山を残した部隊は、出雲から戦闘に参加した。 定義18 高倉山は豊受大神が、天照大御神の御魂と共に東征隊を追い、影から応援し祈り、東遷した足跡である。 定義19 神武・倭国の連合東遷は計画の通り7年をかけ、酉年に神武が即位した。 定義20 神武と豊受大神による連合東遷は、神武が橿原で即位し、豊受大神が退位後、丹後に身を引いたことで終わった。 【神武・倭国による連合の根拠その1】 図1 全国の高(鷹)取山の分布 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu01.jpg 都を移す東遷がこの先、国の歴史に残る重大な事業と考え、記録する工夫を行っていた。その一つが東征・東遷の経路を同名同種の山に記録することであった。 図1は高取山と鷹取山の全国分布である。東征の進攻方向(ベクトル)を記録したもので、高取山が出発地、鷹取山で当面の目的地を記録していた。 奈良より西が神武東征、東は日本武尊東征の記録で、二つの東征は一連の建国の事業と、とらえていたことが分かる。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、 中粒種と単粒種が約半々の割合で混交したもの。 ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は単粒種のみ。 そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、 石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、 石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。 ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、 木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。 石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも 伝わっていないのだ。 それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の 耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。 オール木製で。 しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も 日本の最古水田には一切伝わっていない。 日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと 言っているのと同じレヴェルの話である。 ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も 経ってからの事で、やはり木製であった。 石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、 永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 【神武・倭国による連合の根拠その2】 図2 九州の高(鷹)取山の分布 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu02.jpg 図2は九州の高取山と鷹取山の配置で、東征出発前の状況を記録していた。 ベクトルF1→F2は、高千穂宮で神武兄弟が東征を相談した後、朝倉の三角域T に進んだことを記録している。倭国の都・邪馬台国に住む、台与(豊受大神)と、 倭国連合による東征・東遷の話し合いのためである。 ベクトルH1→H2で、東征を決めた神武は一旦、投馬(都萬)国に戻り準備をした後、 出発したことを記録している。狗奴国比定地の熊本平野を縦断しているので、狗奴国 との決着の戦いがあったことが見えてくる。 ベクトルS1→S2は、記紀が記す東征出発の行程である。S1は西都原にある。陸上 部隊があったことが見えてくる。 ベクトルD1→D2とE1→E2は、筑紫平野の人たちが三角域Tに集合したことを記録 している。 ベクトルG1→G2は、天草・島原半島の人たちも三角域Tに集合した後、岡田宮方 向に進んだことを記録している。このことで神武東征が、いくつかの部隊で構成され ていたことが分かる。このベクトルでは記録されていないが、魏志倭人伝に登場する 博多湾沿岸のクニグニも東征に参加していたことが、別な山名で記録されていた。別 途報告する。 【神武・倭国による連合の根拠その2】 図2 九州の高(鷹)取山の分布 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu02.jpg 図2は九州の高取山と鷹取山の配置で、東征出発前の状況を記録していた。 ベクトルF1→F2は、高千穂宮で神武兄弟が東征を相談した後、朝倉の三角域T に進んだことを記録している。倭国の都・邪馬台国に住む、台与(豊受大神)と、 倭国連合による東征・東遷の話し合いのためである。 ベクトルH1→H2で、東征を決めた神武は一旦、投馬(都萬)国に戻り準備をした後、 出発したことを記録している。狗奴国比定地の熊本平野を縦断しているので、狗奴国 との決着の戦いがあったことが見えてくる。 ベクトルS1→S2は、記紀が記す東征出発の行程である。S1は西都原にある。陸上 部隊があったことが見えてくる。 ベクトルD1→D2とE1→E2は、筑紫平野の人たちが三角域Tに集合したことを記録 している。 ベクトルG1→G2は、天草・島原半島の人たちも三角域Tに集合した後、岡田宮方 向に進んだことを記録している。このことで神武東征が、いくつかの部隊で構成され ていたことが分かる。このベクトルでは記録されていないが、魏志倭人伝に登場する 博多湾沿岸のクニグニも東征に参加していたことが、別な山名で記録されていた。別 途報告する。 【神武・倭国による連合の根拠その2】 図2 九州の高(鷹)取山の分布 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu02.jpg 図2は九州の高取山と鷹取山の配置で、東征出発前の状況を記録していた。 ベクトルF1→F2は、高千穂宮で神武兄弟が東征を相談した後、朝倉の三角域T に進んだことを記録している。倭国の都・邪馬台国に住む、台与(豊受大神)と、 倭国連合による東征・東遷の話し合いのためである。 ベクトルH1→H2で、東征を決めた神武は一旦、投馬(都萬)国に戻り準備をした後、 出発したことを記録している。狗奴国比定地の熊本平野を縦断しているので、狗奴国 との決着の戦いがあったことが見えてくる。 ベクトルS1→S2は、記紀が記す東征出発の行程である。S1は西都原にある。陸上 部隊があったことが見えてくる。 ベクトルD1→D2とE1→E2は、筑紫平野の人たちが三角域Tに集合したことを記録 している。 ベクトルG1→G2は、天草・島原半島の人たちも三角域Tに集合した後、岡田宮方 向に進んだことを記録している。このことで神武東征が、いくつかの部隊で構成され ていたことが分かる。このベクトルでは記録されていないが、魏志倭人伝に登場する 博多湾沿岸のクニグニも東征に参加していたことが、別な山名で記録されていた。別 途報告する。 神武は人命、倭国は国名。 神武の出身は筑紫の日向、すなわち倭国そのものです。 >>9 >神武は人命、倭国は国名。 神武の出身は筑紫の日向、すなわち倭国そのものです。 レスありがとうございます。 人名と国名の連合というタイトルは、良くなかったかも知れません。 神武は南九州にあった、投馬(都萬)国の出自と思われます。倭国の女王・卑弥呼(天照大御神)がニニギを 派遣し建国した国なので、倭国と一心同体の国です。東征にあたり倭国と連合するのは、必然な行動と考え ます。タイトルに神武を入れたのは、神武東征が倭国との人々との共同作業だったことを強調したかったため で機会があれば修正します。 【神武(投馬国)と倭国による連合の根拠 その3】 古事記が記す東征出発の記述の中に、倭国との連合を記した部分がある。 一つは最初の行程を「・・・、すなはち日向を発たして筑紫に幸行でましき。故、 豊国の宇沙に到りましし時、・・・」とあり、これを順次式に読めば、まず筑紫に出 向いていることが分かる。図2のベクトルF1→F2である。 その後、迂回した先の竺紫の岡田宮は、「筑」を「竺」に変えて記録していて、目的 地を先に記述したのではない。 二つは岡田宮迂回である。この迂回は北部九州の倭国との連合とする見解は、これ までもあったが確かな根拠がなく推測にとどまっていた。先のベクトルから判明した 別な部隊との合流や、遠賀川域での東征のための船を準備するためであったことが見 えてくる。 日向高千穂宮は伊都国三雲 筑紫は奴国 岡田宮は現在の北九州市 でいいじゃないか。 八咫鏡を携えたニニギが降臨したのは平原遺跡がある伊都国だろう。 宮崎の投馬国が関わりの深い国であることは間違いないが、卑弥呼や神武らの倭国とは糸島市と福岡市を中心とする筑紫の日向だと思う。 >12 >>12 レスありがとうございます。 ニニギが降臨した高千穂の現在地については、いろいろな考えが発表されています。 まだ確定的な説は無い状況と考えます。私の考えは南九州の高千穂峰ですが、その根拠については 定義11の説明の中で研究結果を案内したいと思います。 定義1 倭国の女王・卑弥呼は天照大御神。台与は豊受大神のことである。 【卑弥呼=天照大御神の根拠】 表1 伊邪那美岐とクニ名・クニ代表の対応 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/hy01.jpg 古事記は天照大御神の父母は、伊邪那岐命・伊邪那美命と記している。 表1は伊邪那岐・伊邪那美の名が、魏志倭人伝に登場する5クニの名から1文字 ずつ採った名であることを示している。 名前 クニ名 クニの代表 伊 伊都国 天之御中主神 邪 邪馬台国 高御産巣日神 那 奴(那)国 神産巣日神 美 不弥(宇美)国 宇摩志阿斯訶備比古遅神 岐 壱岐国 天之常立神 奴と弥の文字が名前とクニ名で異なるが、それぞれの有力比定地、那珂川の那と 宇美町の美から採られたものと考える。 邪馬台国の痕跡が少なく非実在説もあるが、伊邪那岐・伊邪那美の名の中に登場す ることから邪馬台国は実在したクニであった。表1のクニ代表は、「別天つ神五柱」 の神々を、古事記が記す順にクニに対応させたものである。別途検証した結果、魏志 倭人伝が記す倭国乱を収束させるために、話し合ったクニの代表者であった。また 伊邪那美岐の文字順は、クニの格順でもあった。 気になる材料を羅列してみると、 渡来系弥生人骨は朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、ギリヤークなどの沿海州の 北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。 弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、 その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。 最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で 始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。 複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から 稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 【卑弥呼=天照大御神の根拠 つづき】 >14 以上のことを踏まえ、魏志倭人伝が記す卑弥呼と、記紀が記す天照大御神を比較す ると次のような共通点が多くあり、二人は同一人物である。 @ 伊邪那岐・伊邪那美の子、天照大御神は魏志倭人伝が記す卑弥呼と同じ、3世紀 前半に生きた女性である。 A 共に夫がおらず、弟がいた。卑弥呼の弟の名は不明だが、天照大御神の弟には月 読命と須佐之男命がいた。 B 表1のクニグニは邪馬台国を除くと、博多湾岸が有力比定地である。邪馬台国の 比定地は多々あるが、倭国乱収束の話し合いに参加したとなれば、他の有力比 定地と同じ北部九州が有力である。 一方、天照大御神の後継、豊受大神は、図1の九州のベクトルが形成する朝倉の 三角域付近に住んだと思われ、天照大御神も同じ三角域に住んだ人物と思われる。 C 伊邪那岐・伊邪那美の名付けの動機は、当時の倭国乱にあった。互いに敵として 戦った伊都国宗家の男子と奴国王・神産巣日神の娘が結婚し、その子を統一倭国 の王とすることで戦乱を収束する話し合いの結果であった。天照大御神は父、伊 邪那岐命の指名で高天原の主になったが、話し合いで始まる王となる経緯は魏志 倭人伝が記す、卑弥呼共立の表現に近い。 D 卑弥呼亡き後、女性の台与が共立されている。天照大御神亡き後も女性の豊受大 神が継いでいる。 E 卑弥呼は魏の明帝から、銅鏡100枚を賜った。一方、天照大御神はニニギの天孫 降臨に際し鏡を授けていて、二人は銅鏡とのかかわりが強い。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、 中粒種と単粒種が約半々の割合で混交したもの。 ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は単粒種のみ。 そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、 石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、 石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。 ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、 木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。 石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも 伝わっていないのだ。 それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の 耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。 オール木製で。 しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も 日本の最古水田には一切伝わっていない。 日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと 言っているのと同じレヴェルの話である。 ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も 経ってからの事で、やはり木製であった。 石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、 永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 定義2 台与こと豊受大神は、須佐之男命の娘で出雲の生まれである。 【豊受大神出自が出雲の根拠】 図3 豊受大神の系譜 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu03.jpg @ 魏志倭人伝では、壱岐(一大)国・邪馬台(邪馬壱)国など、固有名詞の地名や 人名に、疑義が頻出している。これは陳寿の死後、草書体の文章を楷書に書 き改めたとき、草書で形のよく似た文字が行間では判断できず、写し誤りが あったとする井上悦文の説に従う。 壱と台の旧字はよく似ていて、もし台与でなく壱与が正解ならば、壱岐国の ように一の文字を使用し一与になったはずで、そうでないから台与(とよ)が 正解である。 A 古事記の神々の生成において「和久産巣日神の子は豊宇気毘売神という」と ある。また、須佐之男命の大蛇退治の段で「また大山津見神の女、名は神大 市比売を娶して生める子は宇迦之御魂神」とある。伏見稲荷大社では宇迦之 御魂神を主祭神としていて、豊受大神と同一人物である。 B 図3は、古事記の上記のような記述から、系譜を作成したものである。ただ し大山津見神と和久産巣日神の夫婦関係は推測している。ここに推測が入っ たが、豊受大神が須佐之男命の娘であることは変わらない。 C 卑弥呼は天照大御神なので、須佐之男命の娘、豊受大神は卑弥呼に近い宗女 である。魏志倭人伝の記述と整合する。 D 高天原の天照大御神は出雲の国譲り交渉を行っていて、建御名方神とは長野 の善光寺付近で戦いがあった。また播磨風土記によれば、大国主命と天日槍 は播磨の奪谷などで戦いになった。天日槍の軍は8千人と記述されていて、 大きな戦いである。 E この状況の中、須佐之男命の娘・豊受大神が出雲から共立されたならば、出 雲国譲りが完了した結果と合わせ、魏志倭人伝が記す卑弥呼の死後の状況と 一致する。「あらためて男王を立てたが、国中は不服であった。こもごもあい 誅殺した。当時千余人を殺しあった。卑弥呼の宗女の台与なるもの、年13を たてて王とした。国中はついに定まった。 定義3 神武・倭国の連合東遷に、博多湾沿岸のクニグニが参加した。 図2 九州の高(鷹)取山の分布 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu02.jpg 図4 北部九州の高尾山と〇尾山 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu04.jpg 図4は、図2の北部九州の高(鷹)取山のベクトルに、〇尾山の配置を追加した ものである。〇尾山の〇には異字が当てられている。その中で高尾山は特別で全 国的に多く、高尾山・高雄山・鷹尾山を含めると56山がある。 この山は、高(鷹)取山のベクトルを補佐していて、個別部隊の経路などを記録 している。〇尾山は高尾山を除いて全国に177見つかっていて、越えた峠など個 別なことを記録していた。 【博多湾沿岸国の東遷参加の根拠】 @ 一支国(高尾山)、末櫨国(高尾山)、伊都国(高祖山)、奴国・不弥国(高雄 山)と伊都国のみ異なる山名になっているが、点線で結んでいるように太宰 府付近での合流を記録している。 A 五島(松尾山)、鹿島(蟻尾山)、武雄(黒尾山)の配置は、魏志倭人伝が記 す旁国で、@のクニグニと区別し参加を記録している。 B 大宰府付近で合流後、米ノ山峠を越えたことを、峠に笹尾山と竹ノ尾山で記 録している。 C 若松半島の岩尾山と舟尾山を結び伸ばすと、遠賀川河口を指し示し神武隊が 迂回してきた船(岩舟)の停泊地を記録している。 D 遠賀川上流の船尾山は、新しく船を造る木の伐採地と思われ、木の川出し地 付近には、位登(いとう)古墳があり、伊都国が川出しを采配した痕跡であ る。 E 位登付近から下流5kmには糸田町があり、伊都国が造船を采配した痕跡であ る。 九州古墳最大規模の日向男狭穂塚古墳に 倭国に繋がる皇統の謎を解き明かす秘密詰まってる >>20 西都原にある男狭穂塚古墳は、大和で起きた狭穂彦の垂仁天皇への謀反に由来するのではと考えたりしています。 狭穂彦の妹・狭穂姫は垂仁天皇の后でもあったので、二人の間で葛藤し、垂仁天皇の膝枕中に涙をこぼし兄の謀反が知られてしまいます。 その後の結末は日本書紀にある通りです。 二人の兄弟愛を残すために、それでも謀反の罪ある故、大和でなく遠い宮崎に陵を造ったのではと思います。 西都原が皇統につながる故地であることを、知ったうえでの選択地だったと考えます。 >>22 投馬国の名残だよ。 そこにも分家があったんだ。 >>22 西都原は投馬国(都萬国)の聖地であり、神武東征の出発地でもあったと考えています。 >>24 神武の出発地は、倭国の都であった筑紫の日向の伊都クジフル山の高千穂宮。 >>25 ここで討論するつもりはありません。あしからず。 定義4 倭国の都・邪馬台を、奈良に移した遷都があった。 図5 夜須町と大和郷の地名一致図 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu05.jpg 邪馬台を「やまたい」と読むことが多いが、本来は「やまと」と思われる。ま た偶然、奈良に別な大和(やまと)が生まれることはないので、この神武・倭国 の連合東遷により倭国の都・邪馬台を奈良に遷し、大和になったことは十分に推 測できる。 【遷都の根拠】 @ 先に鏡味完二は、「九州と近畿とのあいだで地名の名づけがよく一致してい る。」と発表していた。安本美典はこの発表に興味を持ち、地図を開いて北九 州の夜須町と大和の国大和郷の地名の一致をみいだした。 図5は安本美典が発表した地名比較図で、地名を線で結んだ形が同じようで、 多くが同じ位置に名付けたことが分かる。これは倭国の都の高天原を、同じ 地形の奈良に移す遷都の意識が強かったことを示している。 A 日本書紀の神武の橿原即位の項で、次のように記述している。「だから古語に も、これを称して次のようにいう。『畝傍の橿原に、御殿の柱を大地の底の岩 にしっかりと立てて、高天原に千木高くそびえ、始めて天下を治められた天 皇』。」古語としているが、古くは橿原を新しい高天原と認識していたことを 記録している。 B 日本の国名は、倭・大倭・大和の変遷が見られ「大」の1文字の追加は、こ の連合の際が、最もふさわしい。南部九州の投馬国と北部九州の倭国との連 合であったので、新しい都を大倭とし「やまと」と呼ぶことに、神武兄弟と 豊受大神の話し合いで決まった。 C 東征の目的地・大倭に「ひのもとの大倭」と枕詞が付いたのは、兵たちを鼓 舞するためで東遷の最中である。「ひのもと」には山の向こう側の意が含まれ ているので、奈良で生まれたのでなく、生駒より西の領域で生まれたもので ある。 気になる材料を羅列してみると、 渡来系弥生人骨は朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、ギリヤークなどの沿海州の 北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。 弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、 その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。 最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で 始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。 複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から 稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 定義5 神武・倭国の連合隊は、狗奴国との戦いを決着させて出発した。 図6 九州の高城山の分布 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu06.jpg 図7 九州の大きな鉄遺跡の分布 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu07.jpg 図8 西日本の破鏡の分布 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu08.jpg 【狗奴国との決着の戦いの根拠】 図1の九州のベクトル図では、神武が熊本平野を縦断し日向に戻っていたので、 決着の戦いがあったと思われた。 @ 図6は九州に残る高城山をプロットし結んだものである。南阿蘇に始まり高 千穂町を経て佐伯に到り、最後は苅田(かんだ)町で終わっている。神武・ 倭国の連合隊の1部隊が、狗奴国との戦いを決着させ、高千穂町に戻りその 後、日向からの神武隊と佐伯で合流し、北上した記録である。 A 図7は九州の大きな鉄遺跡を結んだもので、図6の高城山の経路とよく一致 している。 B 図8は西日本の弥生後期〜古墳前期の集落跡から見つかった、破鏡片の出土 地をプロットしたものである。 破鏡とは破砕された銅鏡片に穴開けや断面を鋭角に後加工したもので、考古 学では破棄や放棄された鏡の解釈であるが、本説では紛失した鏡と解釈して いる。 C 出征兵士の家族は、離れ離れになる家族の絆として分け持った鏡片が、戦い や食料自給の農作業で落としたか、うっかり忘れたものが現在、住居跡や田 んぼで見つかったと理解している。 D このような視点で分布図をみると、激しい戦いがあった河内、熊本平野南部、 大分・大野川流域に多く見つかり、紛失の理解で状況が一致する。 E 北部九州は分散的にみつかり出征兵士の親は、亡くなると帰還してきた子に、 誰の墓か分かるように副葬したのである。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、 中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。 ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。 そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、 石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、 石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。 ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、 木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。 石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも 伝わっていないのだ。 それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の 耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。 オール木製で。 しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も 日本の最古水田には一切伝わっていない。 日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと 言っているのと同じレヴェルの話である。 ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も 経ってからの事で、やはり木製であった。 石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、 永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 定義6 豊受大神は東遷にあたり、薩摩に出向きニニギに別れの報告をした。 図9 九州の高倉山の分布 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu09.jpg 図10 九州の高塚山の分布 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu10.jpg 東遷を行うことは、これまで倭国を作り上げてきた先祖との別れでもある。豊受大神 はどんな別れをしたのか。 【豊受大神が薩摩に出向いた根拠】 @ 図9は九州にある高倉山をプロットしている。4山があり、朝倉付近の2山は 「麻底良山(まてらやま)」を指し挟んでいる。麻底良山は、アマテラスのアと スを抜いた名前で、豊受大神が高天原を去るにあたり、さし残したものと推測 する。 A 薩摩半島の2山はニニギが木花之佐久夜比売と出会った阿多を指し示していて、 ニニギに東遷の報告と加護を祈った痕跡である。薩摩川内市にはニニギの陵と される可愛山陵がある。この薩摩半島2山が麻底良山を指し示しているのは、 高天原との関係を記録したものである。 B 図10は九州の高塚山をプロットし結んだものである。朝倉を出発し豊受大神を 高塚山隊が警護しながら進んだ経路を記録している。戦いのあった熊本平野を 避けた経路である。 渡来渡来というけど、弥生人なんてのは4000年も5000年も前から徐々に形成されてきた 遺伝子だろ。そしてそいつらは西日本でずっと縄文文化やってたんだよ。そこに稲作という 新技術が渡来した。弥生人たちは縄文文化から弥生文化に移行した。こんだけの話しだ。 ノルマン人のアイスランド植民化みたいなのを知ってのち、あと知恵で根拠なく主張してる だけだろ。弥生人の遺伝的形成には画期などなく、長い期間をかけて混血されていったんだよ。 定義7 倭国の女王・卑弥呼が住んだ都(高天原)は、福岡県の旧上座郡・下座郡である。 図1 全国の高(鷹)取山の分布 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu01.jpg 図11 朝倉付近の三角域の拡大 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu11.jpg 画像1 槵触神社の高天原遥拝所 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/ga01.JPG 古代は上座郡(かみつあさくらぐん)、下座郡(しもつあさくらぐん)と呼んでいたが、 明治になって「じょうざぐん・げざぐん」の呼びになった。 【都(高天原)は上座郡・下座郡の根拠 その1】 @ 図1で九州のベクトルが、朝倉市付近に三角領域Tを形成していると案内した。 図11は、その三角域Tを拡大したもので、筑紫平野北部の扇状地形にある。 1辺は約10kmの大きさである。 A 高木・甘木・杷木の三点を結んだ概略領域が高天原である。この3地名の頭を取った (高・甘・把=高天原)は高天原を残そうとした古代人の工夫の痕跡である B 形成された三角域Tは、領域の左半分にあり、下座郡に該当する。この中央部に 三奈木の地名が残るのは、先人が残した工夫を解くヒントである。 C 古代の天皇・皇后が九州に下った際に留まっていて、ここ朝倉は天照大御神が 住んだ高天原と知っていた痕跡である。 ・景行天皇の熊襲討伐では、討伐の最後に筑後川対岸の浮羽にやってきて、食事を されたと日本書紀は記している。麻底良山の筑後川対岸に鷹取宮が残る。 ・仲哀天皇の熊襲征伐に同行した神功皇后は、天皇が亡くなられたあと熊襲征伐を 引き継ぎ、高天原に近い荷持田村(のとりたのふれ、現在地・朝倉市秋月野鳥)の 羽白熊鷲を討ちにやってきた。 ・斉明天皇は西征の際、麻底良山近くに朝倉橘広庭宮を建て遷った。ここで亡くなった。 D 扇状地奥の式内社・美奈宜神社は、羽白熊鷲を討てたのは天照大御神の助けが あったからと、神功皇后が創建したものである。美奈宜(みなぎ)の名は (高・甘・把=高天原)を知ったうえでの美奈宜である。 【都(高天原)は上座郡・下座郡の根拠 その2】 D 三角域右辺領域は、上座郡にあたるが、図11のように高倉山と高山(こうやま)を 結んだ線上に麻底良山がある。この山頂に天照大御神一族を祀る、式内社・麻底良布 神社がある。 E 福岡県には天照大御神を祀る式内社は3社あるが、そのうち2社が朝倉にあり、この 集中は高天原の痕跡である。 F 高山は、岩屋戸事件で天照大御神を招きだす真榊など、種々を求めた天の香山と されるのも痕跡である。 G 岩屋戸事件の場所は高山の麓の志賀神社と比定した。志賀神社がある塚原集落には、 神社で酒を酌み交わす祭りが残り、岩屋戸事件の内容と重なる。 H 甘木付近を流れる小石原川が別名、天の安の河とされるのも、高天原の痕跡である。 付近には現在はないが夜須町があった。 I 比定地糸島市の伊都国から須佐之男命がやってきて、小石原川を挟んで天照大神と 対峙したならば、対峙の方角や小石原川が高天原の境である状況が記紀記述と一致する。 J 小石原川は筑後川ほどの大河でなく、小川でもない。古代と地形は変わっているが 中河川であることは不変で、互いに川を挟んで30mほどの距離で対峙し、言葉を 交わしたとすると記述と整合する。 K 小石原川が筑後川と合流する付近には、多重環濠が残る平塚川添遺跡が見つかっている。 この付近は地下水位が浅く、天の安の河での対峙後、誓約のため天眞名井の3か所を 掘ったと記す日本書紀の記述とも一致する。 L 三角域中央を佐田川が流れている。上流の鳥屋山付近には佐田村があり、 本名・佐田彦とされる猿田彦神の出身地と比定した。高天原を出発した天孫降臨の 先遣隊が、猿田彦神に遭遇した八街は日田とする説があり、遭遇後のやり取りや 天孫降臨参加の記紀記述状況が一致する。 M ニニギは天孫降臨の際、高千穂町のくし触神社(くしふるじんじゃ)の裏手で、 高天原遥拝を行っている。遥拝した向きを碑の石積方角で計測したところ、 三角域Tの底辺部に向いていた。画像1は遥拝所風景。 定義8 魏志倭人伝の行程方角基準は、当時の倭人が使用した基準で、マイナス28度 偏向していた。 図12 クニの配置の偶然 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu12.jpg 図13 大山津見神の日本列島の認識 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu13.jpg 図14 魏使行程の方角記述の検証 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu14.jpg ここでは魏志倭人伝の方角・行程などから、卑弥呼が住んだ倭国の都(三角域T)の根拠を求める。 【方角偏向の根拠】 この偏向角度は夏至の日の出方角を東としたときの、南北線に相当し当時の倭人が、使用した基準である。 @ 図12はマイナス28度偏向した南北線で、魏志倭人伝に登場するクニを結んでいる。 この配置は偶然と思われるが一部意図的なものがある。 A 西側の第1南北線は、狗邪韓国・対馬国・壱岐国・末櫨国が高千穂峰までの直線で結ばれる。 ニニギは高千穂峰で「此地は韓国に向ひ、・・・」と詔し、この高千穂峰が特別な日の、 特別な方角にある山と認識していた。 B 東側の第2南北線は不弥国、邪馬台国、狗奴国、投馬国が、この偏向基準で結ばれる。 ニニギは投馬国の中心にある都萬神社位置を、特別な日の邪馬台国の南であることを 認識したうえで選んでいる。 C 第2南北線を北に伸ばすと沖ノ島に結ばれる。天照大御神は、須佐之男命との誓約で 成った多紀理毘売を、この奇跡の沖ノ島(胸形の奥津宮)に派遣していて、 この方角基準を知っていた。 D この基準は、大山津見神が国生みの時代に、日本列島の形を日の出方角基準で認識して生まれた。 図13は日本の大山の分布の一部で、日本の本州の屈曲点が富士山と認識している。 この富士山より西の海岸線は、夏至の日の出方角に平行だと記録している。 これを西に延長すると高千穂峰を経て、魏志倭人伝が記述する会稽・東冶に至る。魏志倭人伝は、 倭人が認識していた日本の形状の情報を得て、会稽・東冶を導き出していた。 E 富士山より東北の背骨を走る直線は、立春の日の出方角を基準とした南北線である。 【魏使上陸後行程における方角の検証】 F 図14は魏使が末櫨国(呼子港)から伊都国(細石神社)〜奴国(春日市岡本) 〜宇弥国(宇美町)〜邪馬台国(甘木)と進んだとして、マイナス28度 偏向した基準で魏志倭人伝が述べる方角が合致するか検証した結果である。 全て比定した地点で合致した。 定義9 魏使行程の里程は、1里=76.5mで記述している。 図15 周碑算経の概念 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu15.jpg 図16 渡海の千余里 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu16.jpg 図17 魏使の呼子港上陸後の経路想定図 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu17.jpg 魏使行程の方角基準を定義したので、距離基準について定義する。長里説と短里説の 論争があるが、ここは短里説に該当する。 【距離基準の導き出し】 谷本茂が漢書「周碑算経(しゅうひさんけい)」の記述から求めた、千里=76.3〜76.9km(平均76.6km)の数値がある。 周碑算経は洛陽の南北二千里の間に80寸の3本の棒(周碑)を立て、夏至の正午の影の長さを測定した値を記述している。 図15に示したように、影の長さ(16,15,17寸)を直角三角形の高さ、周碑の高さ(80寸)を底辺としたタンジェント角を 求めることができる。太陽光線と北回帰線は平行とおけるので、この角度は図に示した、北回帰線と周碑の位置がつくる 地球の中心角θと相対角になり一致する。 地球を円と仮定すれば、この中心角θA、θB、θCから、北回帰線からの、周碑の位置A、B、Cまでのそれぞれの距離を 求めることができる。求めた距離の差A-B、C-Aの値が千里の距離となる。計算過程は省略し結果を記すと。 計算結果 A-B間が 76.70 km C-A間が 76.35 km 平均 76.5 km そこで平均値の76.5kmを、千里とした。 谷本茂の計算との違いは、谷本が極半径Rを6,357kmとしていて、 本説は極周長を40007.88kmと置いたことの違いである。 千里を76.5km、百里を7.65kmとして行程を検証すると、 行程の経路や計測方法が見えてくる。 【距離基準での有力比定地の検証結果】 @ 狗邪韓国〜対馬:図16のように狗邪韓国の比定地、金海の海岸から、対馬の海神神社前の浜までが 約千里である。ここから浅茅湾内は倭人が案内し小船越を越えた。 A 対馬〜壱岐:小船越〜壱岐の筒城浜までが約千里である。 B 壱岐〜末櫨国:筒城浜〜呼子港に進み上陸し陸行した。呼子港で魏使が下船し、船は唐津湾伝いに 伊都国に積み荷を運んでいた。伊都国の港までが約千里である。船の方角には変更があったので 方角を記載をしなかった。 C 末櫨国〜伊都国:魏使は呼子港から陸行し、伊都国の入り口(国境)までが魏志倭人伝が記す 500里である。 D 伊都国〜奴国:これも、飯場峠越の経路で早良に入り那珂川町を経由するルートである。 この国境、飯場峠までの100里を記述している。 E 奴国〜不弥国:熊野神社から宇美町中心の宇美八幡宮までの距離で、約100里である。 CDが国境までの距離だったが、ここでは国の中心間距離となっている。 これを東行と「行」の一文字を加えて区別している。 F 投馬国:これは伊都国または呼子港から水行10日の行程であった。 G 邪馬台国:「南邪馬台国女王之所都水行十日陸行一月」と「自郡至女王国万二千余里」 これは呼子上陸後の陸行が一月だった。帯方郡から一万二千余里の記述で、伊都国や 不弥国までの記述距離を合計し、一万二千余里から差引して邪馬台国までの余里を 算出するのは、途中の記述が国境までの距離なので合致しない。呼子港までの 水行10日の一万里を差し引いた、呼子港〜不弥国〜邪馬台国の二千余里(約153km) が適合する。 H 図17は、これまでの検証結果から想定した道路地図経路である。距離143km、 1867里が得られた。古代の道は曲がりくねっていたと思われ、 距離は二千余里に近づく。地図の邪馬台国の須川は、卑弥呼宮殿があったと 想定している集落である。 定義10 魏使行程の投馬国へ水行20日は、九州西岸では水行10日の航路である。 図18 投馬国へ水行10の航路図 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu18.jpg 表2 投馬国航路の寄港地 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/hy02.jpg 【水行10日の根拠】 @ 図18は対馬から九州西岸を経て鹿児島湾内に続く、長崎鼻を結んだもので 附番J〜Sまでが水行10日の航路である。 A 帯方郡からが水行20日の航路になる。宮浦宮が終点なのは、日向・大隅・薩摩の 中心にあり、時の大王が何処にいても向かうのに便利な為と、佐多岬沖の外洋を 通らない安全な航路を選んだためである。 B 九州西岸の経路も安全な陸沿いや内海を通っている。 C この長崎鼻は寄港の浜に入る目印の岬に名付けたもので、表2のように近くには 見張りの山が名づけられている。 D 1日の平均漕航距離は54kmであった。 E 長島付近に二つある長崎鼻のうち、東側・黒之瀬戸付近にある長崎鼻は、 ニニギの天孫降臨を先導した猿田彦が、黒之瀬戸を渡海した時に名付けている。 この名は猿田彦の長い鼻に由来するかもしれない。 F 投馬国への航路は、ニニギの子・山幸彦が結婚した妃・豊玉媛の父・豊玉彦が 拓いた航路である。 G 対馬の浅茅湾には旧豊玉町があり豊玉彦が魏使を迎えたところである。 魏志は大官を卑狗(彦)と記している。 >>39 >A 帯方郡からが水行20日の航路になる。宮浦宮が終点なのは、日向・大隅・薩摩の > 中心にあり、時の大王が何処にいても向かうのに便利な為と、佐多岬沖の外洋を 地理に詳しくないのでお聞きします。 宮浦宮から都万への陸路は整備されているのでしょうか? >>40 >地理に詳しくないのでお聞きします。 >宮浦宮から都万への陸路は整備されているのでしょうか? レスありがとうございます。 次の定義11で天孫降臨したニニギが薩摩半島と大隅半島を巡った経路を、紹介したいと 考えていました。高千穂峰を逆「の」字型に巡った遠征です。 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu19.jpg 大隅半島では、ニニギの遠征隊は福山町の狐ケ丘から惣陣が丘に進んでいます。当時の道の状況は ひどいものだったと思いますが、福山町の牧之原交差点付近から、鹿児島湾に下る道があり、 その出口に宮浦宮があることから、当時からこの道があったか新たに拓いて、出口に宮浦宮を 設けたと考えます。 ニニギがこの遠征で曽於の山中で難儀したことは、丘と岡の山の名付けで見えてきますが、航路が 出来たころには、道はかなり開けたと思います。 個人的には、ニニギの王都はあくまでも伊都なので、山幸の彦火火出見に負けた海幸が都万に都落ちしたルートなのかもしれないと考えています。 >>42 いろいろな考えがあって良いと考えていますので、討論はしません。 意見だけ申し述べると、南九州にはニニギ、山幸彦、海幸彦、神武などの伝承がたくさん残っていますので、これを無視して海幸彦逃避の経路と立証するのは大変困難と考えます。 伊都の細石神社は木花之佐久夜姫が祀られているので、伊都はニニギと関係が深いと考えています。 ニニギ、山幸彦、神武たちは、この航路や陸路で、頻繁に南九州と伊都国を往来していたと思われます。 それが、北部九州に残る「くんち」の神幸祭として残ったと思います。くんちは別名、お上り、お下りとも呼ばれ頻繁に行われたことが想像できます。 伊都国にあった一大卒の役で諸国を検察したものと考えます。 参考にしてください。 伊都の高祖宮(おそらく高千穂宮)の祭神が山幸こと彦火火出見です。 ニニギの王権を継承したなら、彦火火出見が伊都に残ったはずです。 宋史では、彦火火出見も彦渚も筑紫の日向宮にいたと書いてあります。 定義11 天孫降臨は薩摩・大隅を巡る、7年をかけた国造りの遠征であった。 図19 天孫降臨の経路 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu19.jpg 図20 天孫降臨の道の名づけ方法 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu20.jpg 【天孫降臨7年の根拠】 @ 図19は南九州に集中して見つかる〇〇丘という山と、〇〇岡という山に番号を付けて、結んだものである。 A 朝倉の高天原を出発したニニギは、阿蘇を越え高千穂町の国見ケ丘(図にないが附番1)で新しい国の国見を行った後、西都に向かい宮をおいた。 B 宮崎平野の灌漑稲作の目途が立つと、薩摩・大隅へ遠征をおこなった。 C 図19の21,22,23を結んだ直線を点線のように延長すると、高千穂峰横の虎ケ尾岡を経て39,40,41がつくる矢印で西都方向を指し示している。 D これはニニギが詔した、「此処は韓国に向ひ、笠沙の御前を眞来通りて・・・甚吉き地」の内容を大地に記録したものである。 E 附番2から始まる遠征は高千穂峰を周回する、逆「の」の字形に薩摩半島、大隅半島を経て八代海の獅子島にある黒崎丘で終わっている。 F 図19では丘と岡の区別を表示していないが、図20に示すよう「丘―岡―丘」というように丘と丘の間に岡を記録しその間が1年を有したと有年ケ岡で記録している。この遠征に7年をかけていた。 G 丘の中の一つ宇都丘の「宇都」と同名の宇都地名が、南九州に多く見つかり訪ね巡ると、灌漑稲作の水を得る川の最上流の田んぼがある集落と判明した。これは灌漑稲作普及のために水利権を取得するためであった。 H 高千穂峰にまず登ったのも、一帯の水利権確保の意味があったかも知れない。高千穂の名そのものが稲作である。灌漑稲作を普及させる投馬国の建国であった。 I 神武東征時に迂回した北九州で「岡水門」「岡田宮」と岡がつく地名を残したのは、天孫降臨に由来する。山に岡の名を名付けなかったのは天孫降臨と混同するからだった。 J ニニギが行った山への、丘(岡)という名の記録は、神武東征や日本武尊東征へと引き継がれ、さまざまに工夫した同名同種の山で、日本の古代を記録していた。 定義12 弥生終末期、九州には北部に倭国、中部に倭国に囲まれた狗奴国、景行天皇名付けの碩田国、九州南部に投馬国があった。 図21 九州の宇都・宇土・鵜戸地名 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu21.jpg 【倭国と投馬国領域の比定根拠】 図21は九州にある宇都・宇土・鵜戸地名の分布である。この分布から倭国・投馬国の領域を比定する。 @ 投馬国は南九州の日向、大隅半島、薩摩半島、種子島、屋久島、長島、甑島を含む領域である。日向地域と天孫降臨した地域の大隅・薩摩は、鵜戸と宇都で区別している。 A 九州島内の倭国は、星印の地域と、五島列島が含まれる。星印を結んだように熊本平野の狗奴国は倭国領域に囲まれていた。 B 九州北西部で盛んにおこなわれている神幸祭「くんち」は、熊本平野と投馬国の九州南部にはない。 C 投馬国のニニギ命、日子穂穂手見命(山幸彦)、ウガヤフキアエズ命は、魏志倭人伝が記す一大率で、星印を結んだような経路で諸国を検察していた。 D そのことが神幸祭「くんち」として残った。「くんち」は別名「おのぼり」「おくだり」と呼ばれていて、頻繁に倭国と投馬国を行き来している。 E 投馬国内は自国領内なので検察の必要がなかった。投馬国内の神幸祭は、天孫降臨のことを呼んだ「浜下り」の名で今も残る。 F 人吉は「くんち」が残ることから、投馬国でなく倭国の領域である。 G 景行天皇が筑紫に下った時、土蜘蛛と戦った大分の古い呼び名、碩田国(おおきたのくに)は、女王国に属していなかった。狗奴国と戦った高城山隊と、日向を出発した神武隊は合同で碩田国と戦った。 H 「うと」は伊都国の有力比定地、糸島市日向峠の麓にある「宇土」が元となった「うと」である。 気になる材料を羅列してみると、 渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、 ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。 弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、 その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。 最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で 始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。 複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から 稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 定義13 海神・豊玉彦は投馬国へのみならず、西日本各地へ航路を拓いていた。 図22 西日本の古代の航路図 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu22.jpg 図23 古代の琉球列島航路図 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu23.jpg 図22は豊玉彦が、西日本に拓いた航路である。 赤三角印は寄港地に入る目印の長崎鼻である。寄港の浜には白浜や、豊玉彦由来の豊浜や玉ノ浦などの名が当てられている。 【図から読み取れた航路】 @ 伊都国から最長の航路は、下関海峡を越え、四国西岸、四国沖、熊野沖、東海沖、房総沖を経る銚子に至る航路である。寄港地約28が見つかる。魏志倭人伝が記す航路で船行一年は、寄港地の数から船行一月の誤りである。 A 侏儒国は、遠賀川河口の白浜発〜(1)下関海峡を渡った先の豊浦〜(2)国東半島の長崎鼻付近〜(3)佐田岬半島の長崎鼻付近〜(4)宇和島の白浜の4航海、約230kmと想定する。 B 白浜山が小豆島、笠戸島、萩市の山中に見つかる。小豆島の白浜山を基点に指し示す銚子を黒歯国、鳥羽の菅島付近を裸国と比定した。 C 女王国に属しない、大分の碩田国(おおきたこく)を迂回する、宇和島から日向への航路があった。 D 瀬戸内海航路は姫路の白浜に至る。ここから日本最低高度の分水嶺を越える加古川・由良川を経由し、火明命が住む舞鶴の志楽への海路・陸路が拓かれていた。 E 舞鶴の志楽から日本海の航路が能登半島では陸路横断し、糸魚川から青木湖畔の白浜を経て安曇野にいたる海路・陸路の道が拓かれていた。 F 内陸横断の陸路があった。渥美半島の白浜〜吉良の白浜〜豊田市の白浜で矢作川を渡る〜津島市の白浜付近から木曽川など3川を渡る〜稲部市の竜ケ岳付近を越える〜近江の稲部遺跡を経る〜琵琶湖を渡り、高島市の白浜〜小浜へ山越え〜志楽と至る。 G その他、五島列島への航路、大村湾内の航路、琉球列島の航路があった。琉球列島航路は最西端の西表島の白浜に続く。図23は想定した航路図。 定義14 海神・豊玉彦は国生みを記録していた。 図24 西日本の龍(竜)王山の分布 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu24.jpg 図25 近畿の弥生遺跡と龍(竜)王山 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu25.JPG 図26 近畿の弥生遺跡と龍(竜)王山 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu26.jpg 連合東遷のまえ、弥生後期、伊邪那岐と伊邪那美は国生みという名の開拓を、四国・近畿・吉備周辺で行っていた。これを後に豊玉彦は龍(竜)王山の名付けで記録していた。 図24は国生みがあった四国・近畿・吉備に集中分布する龍(竜)王山である。 龍王とは竜宮城の主とされる海神・豊玉彦の事で、自分から龍王を名乗ることは無いので、ニニギか高天原が豊玉彦に、現地を訪ね国生みを記録させたと考えた。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、 中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。 ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。 そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、 石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、 石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。 ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、 木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。 石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも 伝わっていないのだ。 それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の 耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。 オール木製で。 しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も 日本の最古水田には一切伝わっていない。 日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと 言っているのと同じレヴェルの話である。 ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も 経ってからの事で、やはり木製であった。 石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、 永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >49 につづく 【龍(竜)王山分布から見える近畿の弥生】 @ 伊邪那美命が亡くなるまでは、二人は主に四国を拠点に活動し、そこで天照大御神など三貴子が誕生した。その間、近畿の弥生集落を巡り陣頭指揮にあたっていた。 A 図25は近畿の弥生集落の近くに見つかる龍(竜)王山である。 B 伊邪那美命は熊野の産田川沿いの開拓の最中、火の事故により亡くなった。 この時、伊邪那岐命は西摂の猪名川上流にいた。それぞれに竜宮山を置き、二人の所在地を記録していた。 C 伊邪那岐命は悲しみを乗り越え、四国を離れ吉備の開拓を行った。吉備に竜王山が多いは、その規模が大きいものだったと見える。 D 天照大御神(卑弥呼)はこの開拓の中で成長した。 「豊葦原の千秋長五百秋の水穂国は、我が御子の知らす国ぞ」と述べた強い統治意欲はこの経験からと推測する。 E 国生みの後、須佐之男命が向かった出雲には龍(竜)王山が無い。 F 播磨、吉備西部・山口東部にも龍王山が無いのは、ここが国生みの空白地であった。播磨風土記で、後に大国主命や天日槍が登場することと符合する。 G 図26は四国の龍(竜)王山で阿波に多く見つかる。 H 熊野で亡くなった伊邪那美命は、阿波に運ばれて吉野川市の高越山に葬られた。那賀町にあるI竜王山はウジがわく伊邪那美の姿に衝撃を受け逃避した道、高越山から阿南に至る尾根道の里に出たところにある。 I 奈良盆地の弥生遺跡・唐子鍵遺跡の東には龍王山があり、伊邪那岐命はここにやってきたと思われる。 豊玉彦とは、もちろん豊国を治める王である。 豊国は志賀島から東、宇佐から西の、九州北部のことである。 竜宮城のモデルの1つは、関門海峡の断崖に張り付くように建てられた穴門豊浦宮である。 その起源は博多湾に浮かぶ志賀島にあり、ここに海神を祭る綿津見神社の総社である志賀海神神社がある。 天孫族が博多湾沿岸に侵入して伊都の都を建設することにより東の小倉方面に追いやられたが、豊玉姫などを輿入れさせることによる外戚として倭国の王家の一員であり続けた。 そもそも天孫族も海神も大山祇も、みなイザナギイザナミ夫婦の末裔である。 イザナギイザナミは、天沼矛で博多湾の小島である能古島(おのころ島)に最初の領土を獲得した国生み神話を持つ。 博多湾沿岸は、考古学的には銅鏡銅矛文化の中心地である。 ちなみに畿内は銅鐸文化、瀬戸内は銅剣文化である。 後に西日本も東日本も、福岡の銅鏡銅矛文化に塗りつぶされてしまう。 同時に、国生み神話の舞台も西日本全体に再配置される。 しかし、銅鏡銅矛文化の分布を見れば、倭国の中心が博多湾沿岸であったことは疑いようがない。 定義15 記紀が記す神武東征は陸上隊と共に進んだ。 図27 神武東征の経路比定図 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu27.JPG 図28 高尾山に記録した経路 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu28.jpg 図29 六甲にある「たかお山」 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu29.JPG 図27は「高(鷹)山」のベクトル図に、主な高尾山を追記して、その位置をつなぎ連合東遷隊の経路を比定した図である。 図28は九州から続く高尾山の足跡を抜き出した図である。 【神武隊の経路】 図27、図28から見えてきた神武隊の経路を見てみる。 @ 記紀が記す神武隊は、瀬戸内海を船で進んでいるが、山陽道を進む陸上隊と連携しながら並行して進んでいた。それを遠賀郡水巻町に始まる、山陽道の高尾山の直列で記録していた。 A 山口市の高尾山付近は、日向や筑紫平野の人々が周防灘を渡って、東征隊に参加した集合地点となっていた。港の入り口に藤尾山を残した。 B 日本書記は安芸国の埃宮(えのみや)に着いたことを記している。その比定地、広島県府中町に残る多家神社埃宮付近に高尾山を残している。 C 吉備では戦いの準備を整えるため、しばらく留まったことを記している。これを赤穂に雄雌の雄を用いた高雄山を名付け、吉備の区切りとしている。また近くの播磨に入る峠に高取峠と名付けている。 D 図29は六甲山塊にある五つの高尾山・高雄山・鷹尾山である。中心にある高雄山は西からやってきた船隊と陸上隊の合流と区切りを記録している。その内の一隊は芦屋の鷹尾山に向かった。又一隊は丹波に遠征した記録と思われる。 E 鷹尾山が特別な名になっているのは、高城隊や高塚隊、丹波に向った隊が全員、生駒越えの決戦に向けて集合した場所の名づけである。 F 孔舎衛の戦いに敗れたあと、和歌山から熊野に迂回したことを記録している。 G 田辺の高尾山から先、中辺路を進んだ陸上隊と、海上を進んだ隊があったことを分岐の高尾山で記録している。 H 熊野山中を越え、宇陀に出た記紀の記録を、高尾山で記録している。 I 東遷の最後を井手町の高雄山と、宇治上神社付近の槙ノ尾山で記録している。 >>55 >定義15 記紀が記す神武東征は陸上隊と共に進んだ。 神武東征の舞台は阿波国内であり、 九州からの東征などではない。 神武軍が吉野川北岸の阿波市(西)から鳴門市(東)へ攻め下ったのが神武東征。 東征の参謀役となった速吸の門(はやすいのなと 鳴門海峡のこと)の大人・宇豆彦が「宇志比古神社(鳴門市大麻町大谷)」で祀られている。 その背後の山が宇豆彦の葬場である西山谷二号墳(円墳 出土品 圭頭形鉄鏃、やりがんな、鉄剣、鉄斧、斜線上方作銘獣帯鏡、鉄槍など)。 「西山谷2号墳」 http://awakouko.info/uploads/webphoto/photos/y00178y4da2b05f09c57.pdf#search=%27%E8%A5%BF%E5%B1%B1%E8%B0%B7%E4%BA%8C%E5%8F%B7%E5%A2%B3%27 神武を佐けた霊剣・建布都神は、戦闘の地、吉野川北岸阿波市の「建布都神社」で祀られている。 一方、長髄彦の本貫地は徳島県板野郡板野町川端で、周辺には、「東中富」「西中富」「富の谷」「富の谷口」「富の谷川」など中臣の地名が多く残る遺跡の密集地である。 長髄彦と神武軍との戦いの場は、この東隣の鳴門市萩原地域。長髄彦は、この地で神武軍との戦いに敗れたのである。 こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)だけ。 @阿波 >>56 レスありがとうございます。 東征に関しいろいろな説があることは承知しています。 討論すると果てなく続くので行いません。 阿波は古代に満ちたところで、吉野川流域には古社が多くあります。 出雲の神や、イザナギ・イザナミに関する多くの神が登場します。 国生みの地なので、後の神々などもそのことを知っていてイザナミを 弔うために訪ねていると思います。 >>57 >東征に関しいろいろな説があることは承知しています。 そうですね、確定はできていません。 あとは、地理・古神社・古地名等による状況証拠の積み上げでしょう。 >阿波は古代に満ちたところで、吉野川流域には古社が多くあります。 実は、吉野川だけではなく、鮎喰川・勝浦川・那賀川・海部川等、徳島県下の河川全般に古社が存在しています。 吉野川だけでは、記紀を説明しきれません。 @阿波 >>58 @阿波さんは、阿波への思い入れが強いようです。 私も阿波への思いが強いです。 何度も訪ねていますが、この春は著書の表紙のため、阿波市の瀬詰大橋付近からの 高越山を撮影に行きました。 伊邪那美といったら、高越山の神陵でしょう。 高越山の山頂に行ったときは、今も山伏のようなお坊さんが、神陵をお守りしているようで 感動しました。 伊邪那岐が、この高越山から阿南まで逃避したことは、邪馬台国阿波説の中で知りました。 >>59 >私も阿波への思いが強いです。 それにしては、>>1 で「阿波」は登場せず、西日本をまたにかけた壮大なストーリーを展開していますね。 >阿波市の瀬詰大橋付近からの 高越山を撮影に行きました。 シャープでいいアングルですね。 でも私はもうちょっと西からのどっしり感が好きです。 >伊邪那岐が、この高越山から阿南まで逃避したことは、邪馬台国阿波説の中で知りました。 その逃避行にまつわる地名が残ってるのが実に奇妙ですよね。 @阿波 >>60 >それにしては、>>1 で「阿波」は登場せず、西日本をまたにかけた壮大なストーリーを展開していますね。 >>1 は神武・倭の連合東遷説です。 伊佐那岐による阿波での国生み後、吉備を経て九州へ戻った後の出来事と考えています。阿波時代は東征の前の時代の出来事なので、直接登場していません。 >その逃避行にまつわる地名が残ってるのが実に奇妙ですよね。 @阿波 奇妙というより、伊邪那岐の逃避の出来事由来と考えています。 阿南に橘や青木も見つかります。小戸神社もありますネ。 ようやく逃げおうせた伊邪那岐が体を清めたくなるのは自然なことです。 国に戻って博多湾でもう一度、禊することも自然な行いと考えます。 忌部氏の直系にあたる、三木信夫さんの家を訪ねたことがあります。 その屋敷の裏が断崖絶壁で、高越山から伊邪那岐が逃避した尾根道が見える場所でした。 三木さんの先祖は、この逃避の尾根道を語り遺すため、この断崖の上に住むことに したと考えて一人で感動した思い出があります。 三木さんにこのことをお話しすると、うすうすは思っていたようで、若いときにその 尾根道を登ったことがあり、見えるほど急な道ではないと話されていました。 気になる材料を羅列してみると、 渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、 ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。 弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、 その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。 最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で 始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。 複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から 稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 定義16 高城山を残した部隊は、四国、山陰、丹波に遠征した部隊だった。 図30 高城山に記録した経路 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu30.jpg 画像2 宇陀にある高城山 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/ga02.JPG 図30は、九州を離れた高城山の部隊が、経路に残した高城山を結んでいる。九州を出発するにあたり、狗奴国と決着の戦いを行った高城隊は、最強の部隊と思われる。高城山に記録したその足跡をたどってみる。 【高城隊の経路】 @ 浜田市三隅町にある高城山から始まる足跡である。広島を経て四国の剣山近くに次の足跡がみつかる。四国西部も遠征し物部川を遡り、峠を越えて那賀町に進んだと思われる。峠には赤城尾山がある。 A 次は倉吉市の高城山に続いているが、伊邪那美命が葬られた高越山を指し挟んでいた。この連合東遷は伊邪那美命の国生みに始まる、建国の過程と認識していたかも知れない。一つひとつの高城山は、いろいろな意味を込めた名づけであることが分かる。 B 倉吉市の高城山近くには、多くの殺された骨が見つかった青谷上寺地遺跡や、焼けた当時の住居跡が見つかった秋里遺跡がある。両遺跡で破鏡が見つかっていて、激しい戦闘の中で紛失したものと考える。青谷町の南には木尾山を残している。 C 高城山の足跡も、高尾山の足跡と同じく、孔舎衛坂の戦いに負けて、和歌山に向かったことを記録している。 吉野川を遡って宇陀に進んだようにも見えるが、天川村山中に高城山と共に天狗倉山があり、本隊と別ルートで熊野を越えたかも知れない。 D 古事記では、宇陀の血原の戦いの記述に高城が登場する。 「宇陀の 高城に 鴫罠張る 我が待つや 鴫は障らず」 血原の地名は2ヵ所残るが、その中の宇陀市室生区田口元上田口付近に高城山が見つかる。画像2が宇陀の高城山。 >>61 >伊佐那岐による阿波での国生み後、吉備を経て九州へ戻った後の出来事と考えています。 「九州へ戻った」? 誰が、何のために「戻る」のですか? 國生み神話は、忌部一族の開拓史を表しているんですよ。 @阿波 剣山でたくさん見つかった弥生人のミイラはどこ行ったんだろう >>64 >「九州へ戻った」? 誰が、何のために「戻る」のですか? 國生み神話は、忌部一族の開拓史を表しているんですよ。 @阿波 私が記紀を研究した結果の「国生みの概要(1,2,3)を挙げます。 @阿波さんの考えと全く違いますので、議論はしません。 質問であれば、補足説明します。 国生みの概略(1) 1、神々は、伊邪那岐命と伊邪那美命に、「この漂へる国を修め理り固め成せ。」と詔して、二人を天の浮橋から出発させた。この記紀の記述が、日本の歴史の記録の始まりである。 2、伊邪那岐と伊邪那美の名は、魏志倭人伝に登場する五つのクニ名から、一文字ずつ採った名である。 3、伊邪那美・岐の文字順は、当時のクニの格順になっていて、古事記が記す「別天つ神五柱」の記載順と対応している。 4、「別天つ五柱」は、魏志倭人伝が記す倭国乱を、収束させる話し合いのメンバーだった。 5、伊都国宗家の男子・伊邪那岐命と奴(那)国王の王女・伊邪那美を結婚させ、その子から統一倭国王に共立することは、話し合いで決まっていた。その王が、天照大御神(卑弥呼)である。 6、 話し合いは志賀島の志賀海神社で行われたと、推測した。 9、博多湾の小呂島と能古島で指し示す室見川河口が、二人の船の出発地と考えた。 10、伊邪那岐命は瀬戸内海を進み、伊邪那美命は四国の太平洋岸沿いに進み、二人は淡路島東岸にある沼島付近で再会したと考えた。 11、沼島にある上立神岩が、二人の結婚の場「天の御柱」と比定した。 12、始めて生んだ州とする淡島は、徳島平野の吉野川中流にある、日本最大の中の島、現在の善入寺島と考えた。 13、開拓に失敗した二人は、高天原の神々にアドバイスを受けに戻った。 国生みの概略(2) 14、次に取り組んだのは、淡路島の諭鶴羽川流域だったが、雨が少なく、ここも不満足な結果となった。 15、 淡路島北部で発見された、鍛冶工房跡の五斗長垣内遺跡は、二人がやってくる以前から、東進してきた周辺地域の人たちに、鉄農具などを供給するために築かれたものと考えた。 16、瀬戸内海東部に多く見つかる、高地性集落は倭国からやってくる船を迎えるために、待ち受けた場所と考えた。 17、近畿の大きな弥生遺跡付近には、龍(竜)王山が見つかり、これは後の龍王こと豊玉彦命が、国生みの跡地にやってきて国生みの事績を記録したものと考えた。 18、銅鐸は神武東征時、豊受大神が鏡を鋳造するため、邑々から拠出させたときに、邑人が隠匿したものと推測した。 19、淡路島の開拓の次に取り組んだのは、伊与二名州である。伊予は伊都国の将来を託した意味で、二名とは二人のことと考えた。「愛媛」は伊邪那美命の当時の愛称と推測した。 20、瀬戸内海東部に多く残る、加茂・賀茂の地名は、福岡平野の戦乱を逃れ人々が、東方に移動した痕跡と考えた。 21、二人は次に善通寺市付近の開拓を経て、先に失敗した吉野川流域の開拓に戻ってきた。 22、神生みは国生みが終わってからのできごとでなく、国生みという名の開拓の中で活躍した人への、尊称を与えたできごとと考える。 23、建築の神々、自然にまつわる神々、河口の神・山の神などは、このことで、技術や知識の次の世代への伝播が図られたと推測した。 24、伊邪那美命の死の事故があったのは、熊野の「花の窟」付近で、また伊邪那岐命は猪名川上流にいたことが、二つの竜宮山で記録されていた。 25、事故にあった伊邪那美命を、急ぎ徳島の吉野川上流の宮まで運ぶことになり、その様子が熊野速玉大社の御船祭として残されていることが分かった。 26、熊野諸手船に稚児像が乗せられることから、須佐之男命が伊邪那美命の事故に遭遇していたと推測した。 国生みの概略(3) 27、伊邪那美命の死の知らせを受け、伊邪那岐命は戻ってくると、迦具土神を斬ってしまうが、その血が流れ走りついた先は、伊邪那美命の殯の場所だった。 28、吉野川市山川町の天神社が、殯の行われた場所と推定した。その付近一帯に、殯を記録したと思われる地名が残されていた。 29、伊邪那美命の遺体は、近くの高越山に葬られたと推測した。 30、伊邪那岐命は伊邪那美命との最後の別れに、高越山に登るが、遺体の変化に驚き、自分がいつまでも妻を慕う弱虫だったことを悟り、強く生きることを決意した。 31、殯の地に戻れば弱虫に戻ると考え、反対の阿南に向けて尾根伝いに降りた。 32、木屋平に残る忌部氏直系の屋敷は、伊邪那岐命が降りた尾根道の反対の崖上にあり、この尾根を記録しようとした場所と考えた。 33、泣沢女に追われながら降りた逃避の道には、記紀が記す出来事に由来すると思われる、地名が残ることが分かった。 34、伊邪那岐命が禊した場所として記される、「橘の小門の阿波岐原」の橘や青木が阿南市にあり、禊の伝承があることが分かった。 35、禊の際に成ったとされる、天照大御神など三貴子は殯の里から阿南に呼び寄せられた、再会の場面と考えた。 36、伊邪那岐命は弱虫をはねのけ、次の開拓地吉備に進んだ。そこで伊邪那美命の陵の地を探した。 37、日本書記が記す、伊邪那美命を葬ったと記す比婆山は2ケ所あり、中国山地の比婆山は竜王山や井原市の高越山で、山川町の高越山と結ばれていた。 38、 吉備の開拓にめどをつけると、倭国に戻ることとした。 39、室見川河口の小戸神宮前の浜で禊した後、三貴子を紹介しそれぞれの今後の役割を示した。 >>66 >質問であれば、補足説明します。 質問 >5、伊都国宗家の男子・伊邪那岐命と奴(那)国王の王女・伊邪那美を結婚させ、その子から統一倭国王に共立することは、話し合いで決まっていた。その王が、天照大御神(卑弥呼)である。 まず、「伊都国」とはどこですか? @阿波 >>69 >まず、「伊都国」とはどこですか? @阿波 伊都国は有力比定地とされている、現在の糸島市と福岡市の西区を合わせた領域と考えています。 >>70 質問 「糸島市と福岡市の西区を合わせた領域」にある「伊都国宗家の男子・伊邪那岐命」が居た弥生時代後期末の集落遺跡はどれですか? @阿波 >>71 >質問 「糸島市と福岡市の西区を合わせた領域」にある「伊都国宗家の男子・伊邪那岐命」が居た弥生時代後期末の集落遺跡はどれですか? @阿波 当時、伊邪那岐が住んでいた集落を検討したことはありません。 >>72 >当時、伊邪那岐が住んでいた集落を検討したことはありません。 質問 別に喧嘩をするつもりはありませんが 伊邪那岐が住んでいた集落を検討せずに「糸島市と福岡市の西区を合わせた領域」とした理由はなんですか? @阿波 >>73 >質問 別に喧嘩をするつもりはありませんが 伊邪那岐が住んでいた集落を検討せずに「糸島市と福岡市の西区を合わせた領域」とした理由はなんですか? @阿波 伊邪那岐が伊都国の出自であることが判明すれば十分で、住んだ集落を特定する必要はないでしょう。 伊邪那岐の伊は伊都国の伊で、伊邪那岐の名の文字順が当時の対応するクニの格順で あることは前に述べたとおりです。 この伊都国の代表が「天之御中主神」なので、伊都国は海人(天)族の国であることが分かります。 先の比定領域には天神社が最も多く集中していて、天族の領域であることは、 石井好の研究「伊都国日向の宮」で述べていて支持できる内容です。 >>74 >伊邪那岐の伊は伊都国の伊で、伊邪那岐の名の文字順が当時の対応するクニの格順で >あることは前に述べたとおりです。 質問 伊は「伊予の二名島」の阿波の「伊」では? @阿波 >>74 >質問 伊は「伊予の二名島」の阿波の「伊」では? @阿波 次のように「伊邪那美岐」の文字は、魏志倭人伝に登場するクニ名から 1文字づつ採った名前なので、伊のみが四国の伊予から来たものではありません。 伊 伊都国 邪 邪馬台国 那 奴(那)国 美 不彌(宇美)国 岐 壱岐国 当時の倭国乱を収束させるために、「別天つ神五柱」が話し合って二人に 与えた名前と考えています。 >>76 >「伊邪那美岐」の文字は、魏志倭人伝に登場するクニ名から >1文字づつ採った名前なので 質問 「伊邪那美・岐」は記紀に登場する人物ですか、魏志倭人伝には登場しません。 「1文字づつ採った名前」として記紀と倭人伝を関連づけるには無理があると思いますか? @阿波 >>77 >質問 「伊邪那美・岐」は記紀に登場する人物ですか、魏志倭人伝には登場しません。 「1文字づつ採った名前」として記紀と倭人伝を関連づけるには無理があると思いますか? @阿波 魏志倭人伝は、卑弥呼(天照大御神)が年老いた239、248年頃、倭国に来た時点の 記述なので、卑弥呼(天照大御神)の父母・伊邪那岐、伊邪那美の記述が無くても不思議では ありません。わずかに伊都国には「世有王」と記すのが、伊邪那岐の痕跡でしょう。 本日は、もう寝ます。質問が出た場合は明日の回答になります。 いろいろ質問していただき、これを読んでくれている他の人に、参考になってくれている かもしれません。 ありがとうございます。 >>78 >卑弥呼(天照大御神)の父母・伊邪那岐、伊邪那美の記述が無くても不思議では >ありません。 質問 「卑弥呼(天照大御神)」も「別天つ神五柱」も、記紀に登場する人物ですが、魏志倭人伝には登場しません。 「1文字づつ採った名前」として「伊邪那美・岐」を考えるのであれば記紀のなかで考えるべきではないですか? 記紀の中で考えるならば、伊は「伊予の二名島」の阿波の「伊」では? @阿波 お話しぶった切りごめん 狗奴国は吉備から東征せしヤマト王権よ? まあ御歓談あれ? >>80 >狗奴国は吉備から東征せしヤマト王権よ? 狗奴国の国力・財力を考えると、狗奴国は権力の元となる鉱物資源・海洋資源を持つ長国以外に無い。 @阿波 >>79 >質問 「卑弥呼(天照大御神)」も「別天つ神五柱」も、記紀に登場する人物ですが、魏志倭人伝には登場しません。 「1文字づつ採った名前」として「伊邪那美・岐」を考えるのであれば記紀のなかで考えるべきではないですか? 記紀の中で考えるならば、伊は「伊予の二名島」の阿波の「伊」では? @阿波> おはようございます。 >>76 で述べたように当時の倭国乱を収束させる神々の話し合いで、この名が生まれたと考えています。倭国乱は北部九州の土地争いと思われ、格順1位の伊都国が北部九州以外の国から1国のみ参加することは考えられません。 伊予の伊は伊都国に由来し、伊都国の将来を伊邪那岐・伊邪那美に預けた意味、または伊都国の地を広めた意味が予に込められていると考えています。 >>83 >伊予の伊は伊都国に由来し、 なんども書いていますが「伊都国」は記紀には登場しません。 だから、「伊予の伊は伊都国に由来」する訳がありません。 あなたは記紀と倭人伝をごちゃまぜに考えています。 記紀は倭人が書いた書物。 倭人伝は中国人が書いた書物。 「伊予の伊は伊都国に由来」する訳がありません。 @阿波 >>84 議論するつもりはありません。 伊邪那美・伊邪那岐の名前は古事記に登場します。 そして、その名前の文字が魏志倭人伝に登場するクニ名とつながったのです。 古事記と魏志倭人伝がリンクしたのです。 新井白石も本居宣長も古事記研究の中で発見できなかった事柄です。 この発見で、邪馬台国が実在した国であることが立証されました。 人の考えは修正できません。自分が納得した時変えられるだけです。 伊邪那岐の伊が伊予の伊と考えたなら、特に反対はしませんが、私の考えは 以上の通りで修正するつもりもありません。 定義17 高塚山を残した部隊は、出雲から戦闘に参加した。 図31 高塚山に記録した経路 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu31.jpg 図32 出雲の高塚山 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu32.jpg 豊受大神の薩摩下りを警護した後の、高塚隊が残した高塚山の足跡をたどってみる。 図31、は九州を離れた高塚山の部隊が、経路に残した高塚山を結んでいる。 【高塚隊の経路】 @ 高塚隊は豊受大神を警護しながら、大神の生まれ里の安来までやってきたと思われる。出雲から戦隊に加わった足跡である。 A 安来付近の短い足跡は、別な意味を含ませている。図32はその考えられる意味を地図に表した。 ・出雲の造山古墳は古墳時代前期のもので、東遷後この高塚山の意味を知る人がここに戻り墓の位置としたと思われる。 ・二つの高塚山が指し示したものであれば、松江にある和久羅山が該当する。この山は豊受大神が和久産巣日神の須佐之男命を想う心を残した山である。 島根半島の和久王島との対で、須佐之男命の陵・黒山を指し示している。 ・二つの山で指し挟んだとすれば、豊受大神の生まれ里、宇賀荘である。 B 図31の点線で示したように、高城山でもあった伊邪那美命の墓標・高越山への指し示しがある。 C 潮岬にある高塚は灯台近くの、原始林の中に残る太陽祭祀跡である。高塚隊が残したもので、この位置が東遷先・橿原の南に位置していて意味があったと考える。 D 最終の高塚山は宇治を越えて、伏見の稲荷山付近にある。豊受大神を意識した位置である。最終の高塚山と一つ手前の高塚山は14kmしか離れていない。 E この二つで指し残したものがあるとすれば、纏向の天照御魂神社と考える。豊受大神が天照大御神の御魂をお連れして来て、新しい高天原をお見せしたところである。 >>85 >伊邪那岐の伊が伊予の伊と考えたなら、特に反対はしませんが、私の考えは >以上の通りで修正するつもりもありません。 倭国(阿波)に来たりして興味がある割に、本当の倭国(阿波)を知らない。 失望しました。 @阿波 定義18 高倉山は豊受大神が、天照大御神の御魂と共に東征隊を追い、影から応援し祈り、東遷した足跡である。 図33 高倉山に記録した経路 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu33.jpg 図34 慰霊の足跡 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu34.JPG 画像3 伏見稲荷の上社神蹟 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/ga03.JPG 図33は、豊受大神が東遷隊を追った経路に残した高倉山を結んでいる。 【豊受大神の経路】 @ 山口市付近に上陸し山陰に進んだように見える。 A いきなり山陽に戻ったのでなく、点線のように生まれ里の安来に寄ったと推測する。稲荷山が島根半島の和久王島付近から始まっている。 B 吉備付近に高倉山と稲荷山が多く見つかる。 東征隊は吉備で戦いの準備を進めたとあるので、豊受大神もしばらく留まったと思われる。戦のあった河内を避けて、淡路島に迂回した経路である。 C 図34のように淡路島の高倉山と、泉南と和歌山にある高倉山を結ぶと、それぞれ男神社と竈山を指し挟んでいる 孔舎衛坂の戦いで亡くなった五瀬命を慰霊する足跡である。 D 熊野で神武が萎えていたとき天照大御神の名の下、高倉下を使わして神剣・布都御魂を届け励ました。 E 東征隊が熊野山中で進退極まった時、八咫烏を派遣し熊野越えを成功させた。 F 宇陀の高倉山では、高倉下の案内で神武と再会し、神武を大王に推戴し東遷後の国造りを託した。 G 神武の橿原での即位には立ち会わなかった。 投馬国の勢力と北部倭国の勢力で争いになることを避け、摂津から丹後に身を引いた。 H その途中、橿原宮の真北にある稲荷山で、新しい高天原の安寧を祈り、南に向いて三度の伏拝を行った。下社神蹟・中社神蹟・上社神蹟(画像3)がのこる。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、 中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。 ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。 そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、 石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、 石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。 ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、 木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。 石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも 伝わっていないのだ。 それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の 耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。 オール木製で。 しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も 日本の最古水田には一切伝わっていない。 日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと 言っているのと同じレヴェルの話である。 ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も 経ってからの事で、やはり木製であった。 石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、 永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 定義19 神武・倭国の連合東遷は計画の通り7年をかけ、酉年に神武は即位した。 図35 天皇代数と没年 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu35.JPG 図36 天皇代数と没年(拡大) http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu36.jpg 図37 連合東遷関係者の年代シミュレーション http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu37.JPG 図35は横軸に天皇の代数を、縦軸に西暦をとり各代天皇の没年を表したものである。神武は第1代なので代数0を即位年と想定した。 問題は没年が不確かで空白とした、20代以下を遡る方法である。これまで平均在位年数を求める方法や、相関曲線を求める方法で推測がされてきた。 いずれも用いるデータ(代数)の範囲で結果は変化することである。 図36は空白部分を拡大した図である。少なくとも代数0と交わる点が、紀元前でないことが分かる。 目算では西暦200〜350年には収まりそうである。日本書記は辛酉の元日に即位した、と記していて先の西暦内では241年と301年が該当する。 【神武即位年の状況的根拠】 @ これまで定義してきたように、東遷は天照大御神(卑弥呼)が亡くなった後に、豊受大神と神武兄弟が行った。 A 卑弥呼が亡くなって男王の争いの後、豊受大神(台与)は13歳で女王となったので、250年ころ13歳であった。この13歳では東征を決断することは不可能である。晋への最後の遣使(265年)を行った、28歳の後なら決断が可能と考えられる。 B 豊受大神は東遷を行うにあたり、ニニギに東遷を行う報告のために薩摩に出向いている。ニニギが天孫降臨した年数が7年と知っていて、この神武・倭国の連合東遷も7年と計画したふしがある。 C 日本書紀では干支でできごとを記しているが、十干を省き十二支で見ると、高千穂宮での話し合いから、寅・卯・辰・巳・午・未・申と7年を掛け、翌年の酉の1月1日に即位している。 D 東征隊は山名に鷹を用いている。また鳥の尾をイメージした〇尾山を名付けてきた。 東征隊は自分たちが「神の遣いの鳥」という認識があったように見え、即位年を酉年と決めていたと思われる。 即位後、鳥見山に高皇産霊尊を祀った。 E 最後の遣使、265年以降の酉年は、277、289、301年が該当する。 F 一方、丹後国風土記逸文の奈具社では、豊受大神が和奈佐という老夫婦に請われて娘となっている。 豊受大神が丹後に身を引いたときは、まだ老夫婦から娘になるよう請われる年代であったことが分かる。 G 上記の酉年での豊受大神の歳は277年(40歳)、289年(52歳)、301年(64歳)となり、東征を追う旅ができる年齢と考え合わせれば、277年の神武即位の可能性が高い。 H 図37は277年神武即位として、登場人物の年齢をシミュレーションしたものである。姉・天照大御神の系譜の神武と弟・須佐之男命の系譜の伊須気余理比売が結婚しているので、年代がつながるか模擬している。 結果、神武をウガヤフキアエズと異母兄弟と比定し、年齢を若く想定すれば277年即位は可能である。 気になる材料を羅列してみると、 渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、 ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。 弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、 その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。 最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で 始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。 複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から 稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 定義20 神武と豊受大神による連合東遷は、神武が橿原で即位し、豊受大神が退位後、丹後に身を引いたことで終わった。 図38 連合東遷による建国の過程図 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu38.jpg 図38はこれまで、いろいろな根拠から見えてきた、建国の過程を図に表したものである。 【連合東遷説を要約】 1 伊邪那岐・伊邪那美の名が、魏志倭人伝に記す5クニ名から、一文字ずつ採った名であることが分かり、この名づけ方法から倭国乱を収束させる話し合いがあったことが判明した。 2 梁書の「霊帝光和中、倭国乱」の記述から、伊邪那岐・伊邪那美による国生みは光和年間177〜189の189年頃に始まったとした。 3 国生みの中で生まれた天照大御神と、魏志倭人伝が記す卑弥呼は同時代に生きた女性で魏志倭人伝の記録と記紀の記録で共通点が多いことから同一人物と比定した。 4 天照大御神(卑弥呼)は国生みから戻ると、統一倭国の女王に共立され、都を邪馬台国に置いた。 5 天照大御神は孫のニニギを南九州に降らし、都萬国(投馬国)を建国させた。 6 天照大御神(卑弥呼)が亡くなると、須佐之男が建国した出雲国、ニニギが建国した都萬国から、それぞれ後継者が男王として立ったが纏まらず争いとなった。 7 そこで須佐之男命の娘・豊受大神(台与)が共立されて国中は収まった。 8 豊受大神が晋へ最後に遣使した数年後、都萬国の神武兄弟は、高天原に出向き豊受大神に倭国の東遷を建議し、神武・倭国による連合東遷が決まった。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、 中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。 その時代差、約6500年。 その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、 4000年前にはすでに戸建ての時代である。 商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には 瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。 縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。 中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 あと、お前たちの右翼の大物というのは何なんだ? 家に連れて来いと言っているんだよ 金魚のフンか何かだろ 9 このとき東遷先の地名を現在の都・邪馬台(やまと)からとり、連合の意味を含めた大倭と書く「やまと」とした。 10 北部九州の倭国各地から兵が集められ、一部はこれまで倭国と対立していた熊本平野の狗奴国や、大分の碩田国(おおきたこく)との決着をつけるため南下した。 11 神武も都萬国の兵を集めるなど戦いの準備のため、都萬国に戻って再出発した。 12 北部九州の倭国各地から遅れて集合した兵は、北九州の遠賀川周辺に移動し、東遷のための船を準備しながら、神武や狗奴国・碩田国で戦った隊を待った。 13 豊受大神は東遷の準備を高天原で進めたのち、都萬国に向かいニニギなど国をつくってきた先人に、東遷の報告と加護を祈願した。 14 東遷の部隊は大きくは神武兄弟の4人が率いる4隊であった。 15 北部九州の兵による本体と、南九州兵による神武隊は、山陽道を進み武器や食料の準備、山陰・四国、丹波遠征隊への補充・支援が行われたと思われる。 16 戦いの中心部隊は高城隊で、狗奴国・碩田国と戦って、海を渡り山陰に進んだ後、四国に渡り土佐から物部川を遡り阿波に進んだ。その後、鳥取、丹波へと転戦した。 17 総力を挙げて、生駒越えで奈良に入るべく、転戦の部隊は芦屋周辺に集合した。 18 春、浪速の渡りを行い一旦、竜田に向かったが道狭く孔舎衛坂での生駒越えを決行した。しかし迎えた長髄彦(ながすねひこ)との戦いに敗れた。 神武と豊受大神による連合東遷は、神武が橿原で即位し、豊受大神が退位後、丹後に身を引いたことで終わった。 図38 連合東遷による建国の過程図 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu38.jpg 【連合東遷説を要約3】 19 この時長兄の五瀬命は、流れ矢が肘にあたり倒れ、和歌山の竈山に葬られた。 20 東征隊は熊野に回り宇陀から奈良に入ることにしたが、熊野では嵐に遭遇し稲氷命、御毛沼命が亡くなった。 21 東征隊を追った豊受大神は、戦いが有った河内を避け淡路島に迂回し、和歌山に向かった。 22 豊受大神は五瀬命を竈山に慰霊し、熊野で苦戦する神武には神剣・布都御魂を届け励まし、熊野越えで進退極まった時は八咫烏を派遣した。 23 豊受大神と神武は宇陀の高倉山で再会し、このとき豊受大神は神武に東遷後の国造りを託した。 24 豊受大神は、お連れした天照大御神の御魂と共に橿原にはいり、新しい高天原をお見せし、加護を願った先人に報告と感謝を行った。天照御魂神社が残る。 25 その後、豊受大神は南九州出身の兵と北部九州出身の兵で、勢力争いが起きないよう摂津を経て丹波に身を引いた。 26 途中、伏見の稲荷山山頂の三峰から新しい国の安寧を祈った。 27 神武は橿原で即位した。 補足 神武兄弟の投馬国(都萬国)は、北部九州にある倭国クニグニの一員である。 【投馬国が倭国の一員である根拠】 1、 投馬国は天照大御神が派遣したニニギが建国したクニで、神武兄弟はその末裔である。 2、 魏志倭人伝では、投馬国に官・弥弥と副官・弥弥那利がいると記し、神武兄弟に王はおらず独立国ではなかった。 3、 ニニギの子に日高穂穂手見(ひこほほでみ)や神武の子に當芸志美美や建沼河耳など、ミミとつく名前が多い。 以上のことから、東征にあたり神武兄弟が当時にの倭国女王の台与(豊受大神)と相談し、倭のクニキグニの人たちと力を合わせるのは、自然な行動である。倭国の都・邪馬台(やまと)が奈良に遷り大倭となり、そして大和になったのはなんら矛盾がない。 筑紫の倭国は天照の孫の邇邇芸が建国した国で、その息子の代で海幸が国を追われて建国したのが都万国。 神武は筑紫の日向にいた山幸の孫。 魏志倭人伝では伊都国の官を禰宜と呼ぶ。 伊都の高祖宮の祭神は邇邇芸の息子の彦火火出見(山幸)である。 邪馬台(やまと)→大和 となったのは、邪馬台国東遷があったからと考える人は多い。 次は、邪馬台国東遷説その1からの抜粋である。そこに神武東征との関係の疑問が生まれる。 それの疑問に答えられるのは、この神武・倭国の連合東遷説かありません。 >邪馬台国東遷説その1 >200 :日本@名無史さん:2013/05/30(木) 21:47:17.26 邪馬台国東遷と神武東征とは違うものだと認識してるんですか?。一緒だと考 えるなら神武は邪馬台国の統領だったくらいは証明しないとねー。 それでも記紀を見る限り東征は有ったことになる。無ければ「おらが先祖の業 績」として東征話を書くわけは無いよね。書いた以上いつか、なんらかの東征 があって、その歴史の基に大和朝廷はできたと自慢しているわけだ。そこを皆 よおおおおおおくかんがえなよ。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。 「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、 角と耳がありイノシシの顔だ。 http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html . >>106 >長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。 龍についての情報、ありがとうございます。 勉強になります。 豊玉彦命を突然、竜王の名で呼ぶことはないと思われ、その背景に龍についての古い文化があり、 それが文字とともに当時、すでに伝わってきていたのかもしれないと考えました、 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、 中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。 ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。 そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、 石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、 石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。 ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、 木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。 石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも 伝わっていないのだ。 それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の 耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。 オール木製で。 しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も 日本の最古水田には一切伝わっていない。 日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと 言っているのと同じレヴェルの話である。 ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も 経ってからの事で、やはり木製であった。 石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、 永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >邪馬台国東遷説 その1より >262 :日本@名無史さん:2013/06/01(土) 20:27:25.05 畿内説は妄想だが、東遷説はそれ以上に酷いトンデモ 軍事的に100%ありえない 母国の支配が及んでない地域に遠征軍を派遣して何年間も過ごし遥か離れた場所にある適地を攻略できたことなど人類史上1度もない 日本だけでなく世界中探してもない 補給路を断たれて囲まれたら全滅するから東遷説を主張してるやつらはこのあえりないことをどうやって乗り越えたか絶対に答えようとしない 東遷説をトンデモと表現する方が時々見えるが、記紀は神武が最後まで生き残ったので、神武の記述が多い。 他の兄弟の部隊の行動は省くか、よく伝わっていなかった可能性があります。 上記では軍事的に100%ありえないとしている。 そんなことはありません。 日本書紀では吉備に3年とどまり兵器や糧食を蓄えたと記している。 吉備は国生みの際、伊邪那美が亡くなると伊邪那岐が向かった開拓地で倭国の一部だったと思われます。 兵站のことは十分に計画しています。 取り囲まれないよう、丹波も熊野、四国も事前に遠征してこと向けしていたことが、同名同種の山の記録で見えています。 世界に前例のない東遷をやってのけているのです。 豊受大神の高天原を捨て、女王の位も捨てた覚悟を思いやってください。 ひたすら国を想い、身を捨て天照大御神に仕えています。 大宰府天満宮に残る「翰苑」では、「 臺与幼歯方諧衆望」と記しています。 臺與(だいよ)は幼歯(ようし)にして、方(まさ)に衆望に諧(かな)う。 記紀にあるのはそもそも東遷ではなく東征ですよ。 あと、神武が出発したのは高天原ではなく、筑紫です。 高天原から筑紫へはニニギの代で遷都しています。 >邪馬台国東遷説 その2より >908 :日本@名無史さん:2013/07/07(日) NY:AN:NY.AN >>902 ・日本列島は地殻変動によって陸地が大陸から切り離され島になったのであって、イザナギとイザナミが創り出したのではない ・死後の世界も高天原とかいう天上界も存在しない ・ヤマタノオロチのような頭が8つもある生物は地球上に存在しない ・白兎は人間の言葉を話さない 記紀をそのまま信用したい人は信用すればいい おれは信憑性のない神話より現代科学を信用する 連合東遷説とやや外れるが述べる。 記紀は神話として記しているが、記述の中に科学があると考える。 因幡の白兎は、大陸から伝わった伝承ではないことを発見した。 白兎の形をした波を、白兎海岸で見つけた。 白兎海岸の西端に気多の岬がある。 その岬の先80mに淤岐ノ島があって、白兎は隠岐の島から鰐の背伝いで渡ってきたのではない。 気多の岬と淤岐ノ島間の水面下に、テーブル条の岩群れがあって、それを鰐と言っているようだ。 沖からやってきた波は、淤岐ノ島で左右にわかれ、岬側を進んだ波はうねりのまま、岬で跳ね返され岩群れの上を越えて砂浜の海岸に進んでいた。 淤岐ノ島で砂浜側に進んだ波は、白波がたった状態で浜に進んでいた。 そこへ、岬側からの波があたり、波頭が後ろ側に倒れ、兎の耳の形に見えた。 二つの波が、水面下の岩群れの上で干渉し、白兎の形に見える自然現象だった。 このことが、因幡の白兎誕生のきっかけだった。 1800年ほど前の自然現象が、運が良ければ今も見ることができる。 是非、この感動を味わってほしい。歴史研究は感動があるから楽しい! 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、 中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。 その時代差、約6500年。 その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、 4000年前にはすでに戸建ての時代である。 商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には 瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。 縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。 中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 イザナギとイザナミが国土を作ったというのは、征服して領土を獲得したという意味だよ。 何しろ使った道具が武器である矛だからね。 銅矛文化圏の中心である博多湾の能古島から国産みが始まる。 >>114 レスありがとうございます。 いろいろな意見があって良いので、否定するわけではないですが、私の意見を述べます。 古事記の「国土の修理固成」の段に登場する矛は、イザナキ、イザナミが国生みにのため、船の航海で使用する櫂を神々から賜ったことを、当時の矛にたとえた表現と考えています。 出発地が博多湾であることは、同意見です。 具体的出発地は、小呂島(おろのしま)・能古島(のこのしま)を結んだ先が指し示す室見川河口と考えています。 出発地と到着地に同じ名前を付けることはよくあります。おのころ島はこの2島を暗示的に名付けた名前と思っています。 >>115 >出発地と到着地に同じ名前を付けることはよくあります。おのころ島はこの2島を暗示的に名付けた名前と思っています。 ここは面白いね。 しかし能古島からは実際に矛も出土するから、櫂云々は蛇足だと思う。 >>115 面白いと思っていただきありがとうございます。 伊邪那岐。伊邪那美の名が、魏志倭人伝のクニ名から一文字とり、「別天つ神五柱」の神が名付けた名前と定義1で発表しています。 5柱の神々が話し合った場所は、志賀島の志賀海神社と考えています。 伊都国が最初なので、伊都国が格順が1位のクニで、邪馬台国は2位です。 これについて、次の発表をしています。 http://www.zenyamaren.org/yamaren20-054.pdf 興味があれば読んでください。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。 「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、 角と耳がありイノシシの顔だ。 http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html . 神武天皇より前の神話はとりあえず世界の成り立ちと 皇室の由来について適当な辻褄合わせの説明ではないのかな? 出雲とか日向みたいな地名が出ているものはともかく 国産みみたいな神話の中にどれだけ歴史上の出来事が読み取れる んでしょう??神話の神々は実在した人物なのですか? 神武天皇から欠史八代はあくまでも天皇家の開祖についての 伝承で、四道将軍の派遣についての記述がある崇神天皇から 事実上の初代天皇じゃないのかな。景行天皇の時代になると 東国征伐の記事も現れる。蝦夷はそれまで一度も王化に従った ことがなかった。神武が「残りのわざわいは根強いが畿内(うちつ くに)は平穏だ…とりあえず、宮殿を建てよう」と言っている 時点ではまだ大和政権の支配域は奈良盆地の外を出ていないはず。 「日本は旧(もと)小国で倭国の地を併せたり」という中国の記事 からすると、神武・倭国の連合東遷説には大いに疑問ありです。 >>120 実在しているよ、普通の一般人というの? だから認識できない 「本当に、この人が神なの?(だったの?)」みたいな感じ こういう作品なども、ほとんど同じでしょ 『ボーボボ』・・・その他、 だから「神」を知っている人がいるという意味 探偵eyeというドラマがあったでしょ? 主人公が出てきて、なぜか「りん、りん」と言っていたり、 妹の子供の名前と同じ 主人公の名前も、 某ゲーム内に作成したキャラ名と同じ、 妹ではなくモレ(仮)が作成したキャラなんだけど あと、もれ(仮)の本当の名前・・・ 『松傾』 こういう名前の家 松の木の立てられている写真、 キュウリの葉、葱の華などが写っている写真も持っていたり これが家:兄弟妹(5月15日生まれ) ↓ 一般人なので名前などは書かないけど、 兄弟の弟のほうと結婚した もれ(仮)の家も一般人なんだけど 『もののけ姫』? 左目を射られた生物がいるでしょ、 神様?だと言っていたり そういう話じゃなかった? 『ハーン』 (小泉八雲)という人物がいるでしょ、wikiなどを読んでみて 左目が何やらと書いてない? 家に凄い刀(謎の刀、剣?)が飾ってあって、 銀という名前だったかな〜・・・、という親戚がいたという話も同じだし 伊達郡、東北地方(日本の東北)のほうに住んでいた事があるとも言っていたし、 アイヌ、エミシ(不明)関係? 川俣町が何やらとか よく考えてみると、おかしな話 百済から渡ってきた鏡、鏡の精。 この鏡を私(不明)だと思って、祀りなさいという話じゃなかった? それにしても、どういう話なんだろう 『雲外鏡』『紫の鏡』とか >>120 いろいろな考えがあってもよいのですが、ずいぶん古い観念の記紀の理解と思われます。 罵倒がはびこるこの掲示板の世界でも、研究は日々進んでいて少しずつ前進していると考えています。 私の研究では古代人は、文字が不自由な中でも大事な国の成り立ちを記録する工夫をしていたことが分かりました。 日本書紀が記す多くの一書もその一つです。 別天つ神五柱の神々の名づけの工夫もその痕跡です。 伊邪那岐・伊邪那美の名が、魏志倭人伝に登場するクニから一文字づつ採って名付けていたこともその一つです。 日本に多くある、同名・同種の山の配置もその工夫の跡です。 地名にも工夫の跡が見られます。 考古学は記紀を無視して日本の成り立ちを描くことは不可能ながら、記紀の神代を証明することは可能と考えます。 AIに先を越されて、がっかりしないよう日本人の手で日本誕生の経緯を解明したいものです。 ◆中国の釜 中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。 釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。 http://ja.wikipedia.org/wiki/ 釜 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた . > 邪馬台国東遷説 その2より 967 :日本@名無史さん:2013/07/07(日) NY:AN:NY.AN 歴史が書かれた文献を信用しないのなら、歴史の検証なんてしようがない。 大体神話は内容を検証するのではなく、書かれた背景を検証するものなのは言うまでもない事。 重要なのは国生みが淡路島を念頭に描いてあるという事実で、イザナギイザナミがSEXする事じゃないw 968 :日本@名無史さん:2013/07/15(月) NY:AN:NY.AN いずれにせよ日本書紀で邪馬台国東遷説は証明できないよ むしろ、考古学的成果から銅鐸文化圏と剣鉾文化圏とかで検討した方が賢明だ (ちょっと古いかな) >967 が述べるように記紀の記述をまず信用しないと、歴史の検討なんて成り立たないでしょう。 >968 が述べるように記紀の記述から邪馬台国東遷説を証明することはできません。 最近は、邪馬台国東遷とか伊都国東遷と個別のクニの東遷を議論しているが、北部九州にあった倭国が東遷し、大倭、大和となったので倭国の東遷のレベルで考えたい。 記紀は神武が倭国の伊都国王を継ぐものなので、倭国東遷を当然のこととして改まって記述せず、最後まで生き残った神武の逸話を主体に記述したものと思われます。 アー タノシーデスネー 長江の鬲wwww http://search.yahoo.co.jp/image/search?p= 長江+++鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa アー タノシーデスネー 江南の越式鼎wwww http://search.yahoo.co.jp/image/search ;_ylt=A2RCL54jcK9b5z4Aih.U3uV7?p=越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8 邪馬台国東遷説」その3より 次の指摘があったので答えます。 15 :日本@名無史さん:2013/07/26(金) NY:AN:NY.AN 邪馬台国東遷についてはいくつか考慮点が有る。最初に @ 東遷が有ったか否かだが、有ったとするならば A それは何時ごろ有ったか、 B 東遷する前の邪馬台 国はどの辺りに有ったか、 C どこへ東遷したのか、 D 東遷した根本的な理由は なぜだったか、 E 東遷のやり方はどんなやり方だったか、 E 東遷を推し進めた立役者はどんな人だったか、 このような疑問を解決していただきたい。 答え @ 倭国の都・邪馬台を奈良に遷した遷都があった。 A 台与が最後の遣使を行った265年の数年後、7年を要した遷都で、277年の酉年に神武が即位した。 B 東遷前の都は、現在の朝倉市にあった。旧上座郡、下座郡で高天原と称していた。 C 奈良県橿原市に、宮を置いた。 D いろいろな理由があったと思われるが、日本列島の領域を認識したうえで、中央に都をおく必要があった。 E 倭国各地から兵を募り神武兄弟の4部隊が、海上、陸所を進んだ。 西日本を隈なく言向けしてしてから奈良に入った。 F 神武兄弟と台与(豊受大神)が相談して、高天原の遷都を決めた。 高天原からはニニギが筑紫に遷都したんだよ。 神武は筑紫から大和に移動した。 記紀をもっときちんと読もうよ。 気になる材料を羅列してみると、 渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、 ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。 弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、 その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。 最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で 始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。 複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から 稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 邪馬台国東遷説」その3より 次の意見がありました。 >210 :日本@名無史さん:2013/08/09(金) NY:AN:NY.AN 熊本の阿蘇周辺の鉄鍛冶集落からの出土鉄器は鉄鏃に偏りすぎている 鉄剣、耕地開発のための鉄器が少なすぎる この状況は鉄鍛冶技術をもつ他の地域が、九州内での戦争に備え阿蘇周辺での製造が想定できる 私の意見 これはよく分析していると思います。 神武東征の高城隊は、狗奴国と決着の戦いをやっていて、勝利し次の大分での戦いに備えて阿蘇周辺で武器の準備をした考えています。 弓での戦いを想定し鉄鏃を多く製作したのでしょう。耕地作業の鉄器が少ないのは納得できます。 最後の一行の分析は、よく想定したと感心します。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、 中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。 その時代差、約6500年。 その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、 4000年前にはすでに戸建ての時代である。 商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には 瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。 縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。 中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>141 >邪馬台国との決戦に備えた狗奴国の鍛治 レスありがとうございます。 当然でてくる意見と考えます。 ところが、この遺跡群が神武東征軍の痕跡とする根拠があります。 東征隊は自分たちが神の遣い鳥と認識していたようで、足跡に鳥の尾をイメージした〇尾という地名を残していました。 調べると鉄遺跡名に狩尾遺跡、小倉付近には高津尾遺跡が見つかります。 有名な西弥護面遺跡は住宅地になっていて、遺跡は残っていませんが、その近くに高尾野入り口の地名があります。 狩尾遺跡付近で鉄原料のリモナイトを採掘した山の名が天神山といわれていました。 今は採掘し終わって平地になっています。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。 「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、 角と耳がありイノシシの顔だ。 http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html . >>143 鳥をトーテムとするのは当時の倭のほとんどの部族が行なっていたので、根拠としては低いかと思います。 >>145 東征隊は東征の足跡を、高尾山や多くの〇尾山で記録していて、〇尾の地名づけも一連の行動と考えています。 下図はその足跡記録です。 図28 高尾山に記録した経路 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu28.jpg >>147 >>148 高尾山は、全国に高雄山・鷹尾山を含めて56あります。 西日本のたかお山は神武東征、東日本は日本武尊東征の足跡でした。 二つの東征は一連の建国の事業と認識していたことが分かります。 東京の高尾山は、横浜インタ付近の高尾山から繋がり、山梨の高尾山に続いています。 北陸に進んだ部隊の足跡で、福井の大野で終わっています。 秋田の高尾山は、酒田の鷹尾山との組み合わせで鳥海山を差しはさんでいます。 二つの東征で、日本列島が鳥の海となった認識を残したものと考えています。 神武は東京経由で秋田まで東征したのではないのかな。。。 >>150 神武は東京経由で秋田まで東征したのではないのかな。。。 日本武尊東征については、いろいろな説があります。 このスレッドと外れるので、深入りしません。 >>151 >秋田まで東征したのではないのかな 秋田まで東征したのなら津軽までいってる可能性大 平安時代の藤原保則が蝦夷討伐で 878年に東北出羽国の秋田柵で俘囚(帰属した蝦夷)たちが秋田柵城司に対して大規模な反乱を起してる 秋田柵城が焼かれて出羽に駐留していた朝廷の派遣軍勢では対応できないほどの反乱規模になってる 蝦夷の東北社会は集落が散財して大きな権力集中の見られないことが特徴とされてたが この秋田柵での反乱では米代川や八郎潟流域に及ぶ蝦夷住民勢力が大規模な行動を起こし 雄物川以北を蝦夷達の占有地とすることを朝廷側に強く要求。 朝廷から出羽権守として派遣された藤原保則は鎮守将軍小野春風とともに 軍事威圧を背景にして説得し、その策によってようやく蝦夷達による秋田柵の反乱の鎮圧に成功し 藤原保則の日記に 「これによって津軽より渡島(北海道)に至るまで、雑種の夷人、帰付せざるもの、皆ことごとく同化さす。」と記されてる。 >>152 >>151 >秋田まで東征したのではないのかな >>150 への呼びかけの誤りでは? 畿内を開拓した神である三島溝杭耳が、八咫烏に化けて筑紫から来た神武を助けに来たそうだ。 三島溝杭耳が筑紫からの尖兵であったことがよくわかる話だな。 三島溝杭耳の息子が、うっかり神武と戦ってしまって後に成敗された長髄彦であり、三島溝杭耳の孫が、神武の妃となるイスケヨリ姫である。 賀茂建角身命は三島溝咋耳命、陶津耳命の別名を持ち饒速日尊と同世代のようである。 伝承をまとめると以下のようになっている。 賀茂角身命一族は日向高千穂に住んでいたが、建角身命の代に神武東征の際、日向の山中で高皇産霊神からの天啓を受け、 神武天皇の元に赴いて、紀州熊野から大和へ至る道を先導した。 これにより天皇より八咫烏(やたがらす)の称号を得た。 神武天皇在位中は葛城にいて天皇を補佐し、天皇が亡くなられた後は岡田の賀茂に閑居したが、綏靖天皇に召しだされた。 妻は神伊可古夜日女で、氷上町の神野社に祭られている。 彼女との間に生まれた玉依姫は建角身命とともに京都下鴨神社に祀られ、その子賀茂別雷神は京都上賀茂神社に祀られている。 <賀茂始祖伝より> 賀茂建角身命が日向国の曾の峰(そのたけ)に降臨し、八咫烏に化身して神武天皇の東征を導いた後、奈良の葛木を経て、 山城国久我から鴨川をさかのぼって、現在の上賀茂神社がある愛宕郡の賀茂に移住してきたといわれる。 妻 伊可古夜日売(イカコヤヒメ)との間には、玉依日子(タマヨリヒコ)と玉依日売(タマヨリヒメ)が授けられた。 玉依日子は、後に、賀茂県主となる 玉依日売は、瀬見の小川で遊んでいたところに丹塗りの矢が流れてきたを拾い、床の間に飾っていたところ、懐妊したといわれる 生まれた男の子が成人した日、賀茂建角身命が、盛大な宴会を開き、「父親と思う者に盃を飲ませよ」と言ったところ、盃を天に向けて、天上に昇っていったといわれる。賀茂建角身命は、その子を「賀茂別雷大神」と名付けた。 丹塗りの矢は、火雷神(ホノイカズチノカミ)だったといわれる <山城国風土記逸文> 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。 「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、 角と耳がありイノシシの顔だ。 http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html . 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。 「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、 角と耳がありイノシシの顔だ。 http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html . ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか 経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、 佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、 日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、 朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。 このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。 この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で 比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。 ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。 日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 > 邪馬台国東遷説 その3より >214 :日本@名無史さん:2013/08/09(金) NY:AN:NY.AN この阿蘇周辺鍛冶遺跡の後に熊本県下ではもっとも早く、宇土半島の付け根、熊本平野の南端に畿内型の前方後円墳が造られ始めるんだよな そして、熊本市城南町、球磨〜南九州に分布する免田式土器が消滅する >220 :日本@名無史さん:2013/08/09(金) NY:AN:NY.AN 熊本も菊池川流域飛んで宇土半島はもとから北部九州の物流範囲だな 上記二つの見解は、神武・倭国の連合東遷説と符合します。 下図は定義12で載せた画像で、倭国は宇土地名で熊本平野の狗奴国を取り囲んでいました。 北部九州に残る祭礼「くんち」の分布と一致します。 図21 九州の宇都・宇土・鵜戸地名 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu21.jpg 宇土のの地名は、糸島市の日向峠の麓にある宇土に始まると思われます。 宇土半島付け根の畿内型前方後円墳は、連合東遷に参加した人が、東遷後奈良から故郷に戻り一帯を支配した人の墳墓と想定します。 北部九州や宮崎の古墳も皆、東遷から戻った人による築造と考えます。 庄内式土器が北部九州から東遷とともに、畿内に伝わったのか、 東遷から帰還した人が畿内から持ち帰り九州に伝えたのか結論は出たのでしょうか? >>160 その地図で宇土のある地域は 景行征西地域と全く一致する。 息長氏は宇土半島に領地があったという。 葦北国造の日羅 琳聖太子も一時期葦北にいて周防で領地をもったという。 やはり景行天皇の説話部分は息長氏かもしれんな。 宇土ウドではなく継体天皇に繋がる、オオド大々杼の原義にあるのかもしれん。 阿蘇のピンク色の凝結凝灰岩の輸出先とも関係があろう。 また宇の音がuではなくwの音写のつもりなら 倭の字音とも重なる。本来の倭国の範囲が示されていることになる。 >>161 >>162 >>163 意見やコメントありがとうございます。 魏志倭人伝が記す旁国の位置が定まらないのは、倭国領域が狗奴国を囲んでいて、山都町や宇城、宇土市、天草、島原などを想定していなかったためかと思われます。 「遠絶にして、つまびらかにできない」と言っているのは、このことかも知れません。 破鏡をご存知ですか。銅鏡を割った破片で、縁をナイフ状に後加工したものや穿孔したものが、墳墓からだけでなく住居跡や田んぼからも見つかります。 弥生後期の遺跡から出土する、神武東征由来の遺物です。 次は破鏡の分布図で、図40は弥生後期〜終末期の分布、図41は古墳時代前期の分布図です。「破鏡の伝世と副葬ー穿孔事例の観察からー」辻田淳一郎から借りています。 図40(http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu40.jpg 図41(http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu41.jpg 、 熊本平野、大分大野川流域の状況が特徴的です。 ほとんどが集落域からの出土ですが、弥生終末期にのみ見られ、古墳時代には全く見られなくなります。 当然なことで、神武東征が九州を発つ前に狗奴国や大分の従わないクニとの決着の戦いの痕跡だからです。 福岡平野で募られた兵は、家族との長い別れに、親子兄弟、妻とも家族の絆として鏡を分け持って出発したのです。 家族の証明はこの割れた鏡が合わさることでしか、確認できない時代です。 出征兵の親は、待てど帰らぬなか亡くなっていき、鏡とともに副葬されました。 兵たちは落とさないよう穴をあけ首にかけていたが、戦闘の中で田んぼに落とすこともありました。 突然の出立に、置き忘れることもあったでしょう。 妻や子は、小さなかけらをもって後を追いかけました。 鏡種を調べると、内行花文鏡と方格規矩神獣鏡が多く、三角縁神獣鏡は一面もありませんでした。 三角縁が東征後の鏡であることは明らかです。 東征を卑弥呼の前とする説がありますが、その時代にはこのような痕跡は全く見つかりません。 九州の三角縁神獣鏡は古墳から出土し、奈良から帰還した兵が持ち帰ったものと思われます。 ◆中国の釜 中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。 釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。 http://ja.wikipedia.org/wiki/ 釜 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた . アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww http://search.yahoo.co.jp/image/search?p= 長江+++鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww http://search.yahoo.co.jp/image/search ;_ylt=A2RimFEhQrlbtGwAJkGU3uV7?p=越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8 > 邪馬台国東遷説 その3より 751 :日本@名無史さん:2013/08/22(木) NY:AN:NY.AN 何度か書いているが、畿内説は元々自生説で、邪馬台国の候補地は 唐古・鍵遺跡だった。 その邪馬台国の唐古・鍵の人々が纏向を建設し移ったというわけ。 移った年代もわかるというものだろう。 その期待を受けて、唐古・鍵遺跡では100回を超える発掘調査が行われた。 いつか、何か出てくるという期待は、今の纏向に似ている、しかし、吉野ヶ里遺跡が発掘された頃、ついにあきらめられた。 理由は簡単、石器しか出てこないのだ。王のような存在も認められない。 環濠集落という名前は吉野ヶ里遺跡も唐古・鍵も同じで、一見、同じような 集落という印象があるが、実体は全く違う。 唐古・鍵がだめだというわけで、年代を100年ほど繰り上げて纏向が浮上した。1995年頃のこと。 近畿の弥生遺跡についての研究結果 近畿地方には、唐古・鍵遺跡だけでなく、近江の伊勢遺跡、稲部遺跡、摂津の東奈良遺跡、泉南の池上・曽根遺跡など大きな遺跡があります。 これらの遺跡は、北九州から戦乱を逃れたやってきた人たちが開拓したものと思います。 その代表的な人たちが加茂、賀茂と呼ばれた人たちで、瀬戸内海東部にはこの地名が多く見つかります。 図42(http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu42.jpg その開拓のさなかに、伊邪那岐・伊邪那美が国生みでやってきます。 伊邪那岐はこれらの開拓地を訪ねめぐっていると思われます。 その痕跡が、後の海神、あるいは龍王と呼ばれる豊玉彦が残した竜王山です。 図43(http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu43.jpg 奈良の唐古・鍵遺跡の真東に龍王山が見つかります。近江や摂津の遺跡の源流域にも竜王山が見つかります。 水利権を公的なものにするためでした。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、 中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。 ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。 そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、 石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、 石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。 ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、 木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。 石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも 伝わっていないのだ。 それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の 耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。 オール木製で。 しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も 日本の最古水田には一切伝わっていない。 日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと 言っているのと同じレヴェルの話である。 ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も 経ってからの事で、やはり木製であった。 石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ 永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 > 邪馬台国東遷説 その3より 865 :日本@名無史さん:2013/08/24(土) NY:AN:NY.AN 倭面土國は、邪馬台国の可能性も高いと思う。 それは、倭人伝の「其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年。 乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼」から来ている。 いわゆる倭国の大乱の70年か80年前が、帥升が後漢に朝貢した西暦107年と合い、男子の王が帥升を意味していると考えられるからである。 また、そのように考えることにより、倭国王・帥升が築いたあるいは支配した三十カ国あまりの王の跡継ぎを巡る争いが、倭国の大乱であり、その王に なった卑弥呼が巫女的な女王でありながら、魏から倭王と呼ばれ、三十カ国あまりを支配していた理由がわかるからである。 伊都国の王が代々女王国に統属していたというのもこれで理解できるし、官が置かれ、一大率が置かれていたことも理解できる。 私ホワイトケープの意見 >865 の意見に私も近い考えです。 倭国乱を光和年間(西暦177〜184)とすると、倭国王の帥升が後漢に朝貢した西暦107年は、倭国乱の前70〜77年となります。 77年ころ「別天つ神五柱」の神々が話し合い、伊都国宗家の男子と奴国王の娘、すなわち伊邪那岐と伊邪那美が結婚し天照大御神(卑弥呼)が生まれ、統一倭国王に共立されているる。 このことから、神世七代の初代・国之常立神は卑弥呼から7代前、天皇の一代、10〜11年説に従えば70〜77年になり朝貢した倭国王・帥升と一致する。 帥升を記紀に登場する人物比定は諸説あるが、神世七代の初代・国之常立神である可能性が高い。 記紀に7代も昔の系譜が記されたのは、初代倭国王の功績が大きいので、その系譜が大事にされ、記憶されていたためと考える。 代々の伊都国王の系譜である。 図45 系譜_伊邪那岐・伊邪那美(http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu45.jpg 図46 系譜_神武 (http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu46.jpg 神代七代は、早良などの福岡側の王墓の人物の方が年代観が合うような気がするな。 伊都はヒコホホデミ(山幸)や木花咲耶姫など、日向三代との関係がうかがえるからね。 帥升はニニギかその前かわからないけども。 >>173 レスありがとうございます。 「神世七代」が伊都国王の系譜である根拠に次があります。 7代にあたる伊邪那岐が迦具土神を切った剣の名を古事記は「天之尾羽張(あめのおはばり)」亦の名は「伊都之尾羽張(いつのおはばり)」と記していて伊邪那岐が天族(海人族)のクニ、伊都国の七代に当たることがわかります。 奴国王の墳墓、須玖岡本遺跡から出土した漢鏡が、伊都国の三雲南小路遺跡出土の漢鏡より鏡種年代が古く、奴国王が帥升より古い時代に活躍したと思われます。 それが西暦57年に後漢から賜った「漢倭奴国王」の金印と考えます。 このことが、伊都国・邪馬台国連合と奴国・不弥国連合の戦になるきっかけになったと考えます。 結局、伊都国が覇権争いに勝ったことになります。 それって出雲の国譲り。 その結果に成立した伊都国の王権が日向三代でしょ。 それ以外には覇権争いの記録はないでしょ。 あ、日向三代の海幸山幸の争いがあるか。 >175 レスありがとうございます。 出雲国譲りも覇権争い、山幸彦・海幸彦の争いも覇権争いですが時代が違います。 出雲国を建てたのは、伊邪那岐・伊邪那美の子、須佐之男なので、伊邪那岐の前の時代の神世七代の時代の覇権争いではありません。 山幸彦・海幸彦も伊邪那岐の末裔なので時代が異なります。 伊邪那岐含めた神世七代は倭国乱の時代で、その名の通り覇権争いです。 イザナギの時代が戦乱の時代とは書いてないよ? 出雲の国譲りは明確に戦乱でいいだろうけど。 そもそもその年代観だと、神武がかなり後になってしまう。 >>176 イザナギの時代が戦乱の時代とは書いてないよ? 出雲の国譲りは明確に戦乱でいいだろうけど。 そもそもその年代観だと、神武がかなり後になってしまう。 伊邪那岐・伊邪那美の名が魏志倭人伝に登場するクニの名から、一文字づつ採った名であることを定義1で述べたことがあります。 表1 伊邪那美岐とクニ名・クニ代表の対応 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/hy01.jpg 倭国乱を収束するために「別天つ神五柱」が話し合って決めた名前なので戦乱の終わりの時の名前です。 倭国乱が水争いのような、河川ごとの争いでなく、博多湾沿岸国を中心にした北部九州の覇権争いと思われます。 北部九州の広範囲に、当時の甕棺から多くの武器が出土するのは、争いの痕跡といえます。 神武は伊佐那岐・伊邪那美の末裔なので、東征があったのは豊受大神(台与)の最後に晋に遣使した265年ころから後にあったと理解するのが、多くの出来事の前後関係があってきます。 年代をシミユレーションした結果は次の通りです。 図37 連合東遷関係者の年代シミュレーション http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu37.JPG アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww http://search.yahoo.co.jp/image/search?p= 長江+++鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww http://search.yahoo.co.jp/image/search ;_ylt=A2Rivcaei8JbT38AGR4dOfx7?p=越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8 > 邪馬台国東遷説 その4より >34 :日本@名無史さん:2013/08/28(水) NY:AN:NY.AN なんかの雑誌で、考古学の先生の意見を見たけど 考古学的に見て、神武東遷の形跡って、ないらしいぞ。 そんな首都が移動した大規模な移動の形跡はないらしい。 ただし、だからといって、記紀にある神武東遷を完全否定しているのではなくて なぜ、あう言う記述になったのか考えましょうよという感じ。 あれは何を意味するのかって。 私の反論 >なんかの雑誌で、考古学の先生の意見を見たけど 考古学的に見て、神武東遷の形跡って、ないらしいぞ。 そんなことはない。考古学的な東征・東遷の形跡はいっぱいある。 鏡、破鏡など出土地の時間変化を見ると、弥生の終末期に九州から大和に短年度で移動したことが分かる。 考古学者の論文を読むと、その変化が読み取れるにかかわらず学会的に、神武東征の視点で検討すると異端の目で見られてしまうため、 言い出せないジレンマが読み取れる。 >ただし、だからといって、記紀にある神武東遷を完全否定しているのではなくてなぜ、あう言う記述になったのか考えましょうよという感じ。 >あれは何を意味するのかって。 もし考古学者に上記ような考えが残っているならば、多く残る伝承や地名の移動などあらゆることに、アンテナを張って歴史を研究しているはずである。 論文の中にひとかけらも、言及していないのは異常としか言えない。 地元に神武東征の伝承が残りながら、その地の歴史資料館の説明に神武東征が登場しない。 このような束縛された研究、あるいは考古学は日本の大きな時間の損失になっていると考える。 新石器の誤りと同じように、後にどれだけの論文や発掘資料の説明の修正が生まれるか計り知れない。 神武は落ち武者みたいなもの 神武が離れても、倭の王都は筑紫の日向のまま そこで卑弥呼が共立された 101:名無しさん@1周年[] 投稿日:2018/10/23(火) 21:07:19.18 ID:VqEDfgY70 >>76 あのね出雲が凄い国、絶大な影響力を持った国だったら 中華帝国の正史である魏書魏志倭人伝や隋書倭国伝 それに朝鮮の新羅本紀や百済本紀、高句麗本紀に出てくるんだけど 塵の如く倭国倭人関連で出雲らしき記述が全く出てこないんだけど 創作されたファンタジーに妄想を膨らませるのはいいけど 現代になってさえ未開人と変らない幼児性を伴った精神構造なんだよなぁ 高度なIQを持ったアインシュタインの宗教に関した語録で 「宗教のない科学はかたわ、科学のない宗教は盲目」ってのがあるけど 置き換えると 「宗教のない科学はかたわ、客観的事実のない神社宗教は盲目」ってなるね 古代も現代も変らない比率で盲目的な未開人が存在するのが恐ろしい 721名無しさん@1周年2018/10/24(水) 16:20:52.92ID:u/wiOi+0O >>659 史実性が全く無いスサノオは 偽造された歴史経緯が侵入された古事記や日本書紀に 後世の人間を真実から目を背けさす為に >>101 でも言われる様に 御伽噺のように神話として記述されただけだから 中国の重要な古代神学教理書である九天神章経を 急ごしらえの大和政権の役人は勉強して 日本神話を考え出した古事記日本書紀を書き上げたし 日本神話の重要な部分の経緯なんて 九天神章経からパクって宇宙創造神の別天津神などをこしらうたからね ◆中国の釜 中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。 釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。 http://ja.wikipedia.org/wiki/ 釜 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた . 今のところ実在した可能性が高いと言われているのが 第10代崇神天皇でしょう?その崇神天皇が生きていた時代が 二説あって3世紀半ば頃と4世紀初め頃。崩御年の干支を どう解釈するかでだいたい60年の開きがある。崇神より前 に9人の天皇が実在したとすれば、その初代(神武天皇)が いくらなんでも248年頃に亡くなったとされるヒミコより 後の人物とは考えにくい。遅くともヒミコと同時代か少し前の 人物のはずであり、この大和政権の創始者が治めていた場所と 邪馬台国の場所が必ず一致するとも断言できない。 日本古来の神々は古事記では天之御中主神から豊雲野神まで 配偶神を持たない独神であったとか、日本書紀では国常立尊 以下三神は男神であったと言われるように、男神と女神のペアでは なかった。国常立尊が天鏡尊を産み…、沫蕩尊が伊弉諾尊を産んだと いうように男神が代々男神を産んだというのが本来の伝承である。 ところで天皇はヒトであるから有性生殖によらないで跡継ぎを作る ことはできない。そのため中国古典を利用して神世七代なるものに よって男神と性行為が可能となる女神を造り出す必要があったのであろう。 213神も仏も名無しさん2018/07/02(月) 01:54:11.71ID:eCXJHK2T 神世七代の解釈は、たぶん天と地の形成と人の姿をした 男女の神(人間の先祖?)が生れるまでの過程ということで 学者の意見は一致してるだろう。 >>186 を参考にすると、まず、天と地が混沌としていた中に 萌え上がる葦の芽のような創造の力(ウマシアシカビヒコジ) が生まれ、それが空高く立ち昇って天(アメノトコタチ)と大地 (クニノトコタチ)とを生じ、ここで湿潤な雲(トヨクモノ)が 大地を覆い潤すことで、性別ある生き物が自然発生できる土壌ができた。 まず、最初の生物は泥から生まれた、あるいは泥のように不定形で (ウヒヂコ、スヒヂコ)、これに体が芽生え(ツノグヒ、イクグヒ)、 生殖器が発達し(オホトノヂ、オホトノベ)、顔立ちが整って恥じらう 気持ちも生まれ(オモダル、カシコネ)、そうして、いざない合う人間 の男女(イザナギ、イザナミ)が生れたと解釈するなら、 古事記作者も当時の人なりに生命の発生と進化を考えていたということになる。 まあ、大昔恐竜がいたとか知らなかっただろうけどね。 ん?どういうことかな。 天皇家より前に日本列島を支配した王たちが何人もいて、 古事記や日本書紀の作者が彼らに神々の名前をつけて神話化した 可能性はひょっとしたらあるかもしれないが、王たちの本名や事績は 亡失、抹消されたはずだ。 アマテラスやツクヨミを天皇家が歴史の表に登場する前に実在した人物たちだ と言ってみたところで、彼らの本名や日本列島における事績は記紀をいくら読んでも 復元できない。天之御中主王とか国之常立王、高御産巣日王みたいな天の中心や国土、 万物を産みだす力を表す名前の人物なんて実在したはずがない。 オホトノヂ、オホトノベのように男性器や女性器の名前を付けられた、もしくはそれを自称した 貴人なんてのも実在したんだろうか? (オホトノヂ、オホトノベの本来の意味は生殖器、あるいはその機能でなく家での生活に関するもの という説もあり、ツノグヒ、イクグヒも棒状の杙で境界を表すという説もある。しかし、 その類の神名の意味の神を羅列するなら、初めて夫婦になった男女神、イザナギ・イザナミ より前でなく国産み・神産みのときで十分であろう。記紀を書いた人たちは人間の男女 の姿形をした夫婦の神を作りだす必要があった。イザナギ・イザナミより前の男女神は、それ ぞれ生き物のオス、メスの性質や特徴を表す神であり、その特徴だけでは人間の夫婦が完成しない。) 私が思うに、自然科学を知らなかった時代、神を想定して物事を説明した古代人の 「科学」であって「古代史」の代用だということ。古代史の代用と書いたのは記紀には 大和政権より前の縄文時代や弥生時代をありのままに書いていないからである。 新井白石は「神とは人のことであり、身分の高い人の尊称である」、そして神話は何らか の史実を反映をしているのはないかと言ったそうだが、聖書の創造神ほどでないにしても 神話の神々は明らかに常人の能力を超えている。目や鼻を洗ったり誓約をすることで子どもを 口から何人も産みだしたり、高い空の上から山の峰に降臨しても木っ端微塵にならなかったり、海 と陸地を行き来してサメと子どもを作ったり、神とは「人間にできないことができる者」という要素 が必ず含まれていると考えられる。そこを無視すべきではない。 神が実在しなくても理屈が通ればいちおう自然科学や歴史の代わりになるのであり、歴史の勝者 である大和政権の人々が自分たちの都合で神話伝承を改竄するのもごく自然なことだろう。 先祖の時代では作り話であった神話も玄孫の代には本当にあった出来事になっているんだろうな。 訂正 自然科学を知らなかった時代の前に「神話とは」が抜けていました 私が思うに、神話とは自然科学を知らなかった時代、神を想定して物事を説明した古代人の 「科学」であって「古代史」の代用だということ。 そもそも、神という解釈が明治以降の観念であり、本来は王の伝記ダロ 天皇家が歴史の表に出てくるって、いつからを想定している? >>190 王の伝記と言えばそうだが、武家政権下の影の薄かった時代は ともかく、飛鳥時代や平安時代に天皇家が日本の支配者であって、 武士や庶民がその権威に服したのは史実じゃん。聖武天皇や 後白河天皇が架空の人物だったとでも言うの?いくらなんでも 明治になって天皇が誕生したというのは酷いでしょう。 もちろん天皇号じたい後世作られたものだし、古代の大王や 彼らの家族がどんな名前の人物だったのかはほとんど分からない。 それを承知で当時の人物を〇〇天皇とか△△命、✕✕媛と呼んでいる。 アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww https://search.yahoo.co.jp/image/search?p= 長江+++鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww https://search.yahoo.co.jp/image/search ;_ylt=A2RimVRd.tRb9nMAQCuU3uV7?p=越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8 で、私がいつからを想定してるかというと >>184 ぐらいの古墳が作られた時代から。ひょっとしたら もう少し後かもしれない。大和政権が海外から来た征服王朝なのか、 一豪族がのし上がって日本各地を統一していったのか、邪馬台国が 東遷したのか、記紀とか嘘八百で7世紀に朝鮮の王朝に征服されて できたのか今となっては分からないし、 今の天皇のおよそ70代ほど前の先祖の神武天皇が西暦何世紀の人物か は主張する人によっては三百年ぐらいの開きがあって、天皇家を開祖 とする大和政権の「萌芽」をいつとするかは結論が出ない。 神武紀を読むあたり、神武天皇が奈良盆地より外を出て日本各地 を平定してまわったという記録は全くないし、欠史八代という事 績の書かれていない時代があるのは、崇神天皇より前の天皇家の 当主は(仮に実在したとして)日本列島の広域を支配しておらず、 日本列島の数ある豪族の一つに過ぎなかったからかもしれない。 それから ヒミコ=アマテラスで邪馬台国が発展して大和政権になったとか ヒミコ=ヤマトトビモモソヒメで大和政権の一時期が邪馬台国だ とか、4、5世紀の天皇は倭の五王のこの人物だいうのなら、 日本書紀はそのことを遠慮なく書けばよかったのになあと思う。 中国に朝貢したという記録がそんなに嫌だったのか。 紀元前660年の建国とかそんな大ぼら吹かなくていいだろ って言いたいですな。日本書紀の主張に寄り添うなら 天皇家は漢の光武帝から金印を貰った倭国の王とも、ヒミコや イヨの邪馬台国とも、倭の五王とも無関係と考えるしかない。 今の天皇のおよそ70代ほど前の先祖の神武天皇 ↓ 今の天皇のおよそ70「世」代ほど前の先祖の神武天皇 神武天皇がその通り今上天皇の71世代前の先祖だとするなら 西暦1世紀の建国になるだろう。しかし、 初代から履中まで17世代(およそ四百年に相当)も父子継承が順調にいく のは王家としてはきわめて珍しい。4、5人ぐらいは同世代間の継承を父子 継承と誤魔化して歴史を過去に延長しているかもしれない。 伽耶という要素を無視してはならないと思う。 特に金海大成洞遺跡の、武装、祭祀関係の出土物は、日本と見分けがつかないほどだ。 伽耶は、何らかの形で倭と深い関係にあった。 その上で、伽耶は馬という新しい要素を持っていた。 伽耶は神功/応神の「東征」に関係したのではないか? >>191 >それを承知で当時の人物を〇〇天皇とか△△命、✕✕媛と呼んでいる。 同様のことを、神武以前の世代にも当てはめればいいんだよ。 筑紫や出雲の王権のことも明記されているし、考古学的状況とも一致する。 高島宮(岡山) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B3%B6%E5%AE%AE 神武天皇が日向から大和国への東征途上で、吉備国に営んだとされる行宮である。 吉備高島宮、吉備高嶋宮(きびのたかしまのみや、きびたかしまぐう)とも呼ばれる。 『日本書紀』によると、太歳甲寅の年の10月5日に軍舟を率いて日向を出立し 大和へ向かう東征を開始した彦火火出見尊(後の神武天皇)は、豊後水道を通り 筑紫国、安芸国とを経て、翌年(乙卯年)3月6日、吉備国の高島の地に行宮を造って 3年間滞在し、その間に船舶や武器の準備、兵糧の備蓄を行った上で 戊午年2月11日に再び大和へ向かい出航したというが、この時の行宮が高島宮である。 神武天皇の即位は高島宮進発の3年後、辛酉年であるとされている。 『古事記』も大同小異の伝承を記すが、高島宮での滞在を8年間としている。 >>199 金海の伽耶が扶余系であった可能性は魏志倭人伝ではわからない。 伽耶の知見が開けたのは大成洞遺跡の発掘以降のことだ。 鳥取県倉吉市の上里神社に伝わる神武天皇由緒 「神倭天皇九州日向に発たれ東夷大和平定により(平定後) 山陽より(帰り)給いし際・・・神倭天皇東夷平けむと、皇軍を山陽の国に進め給う。」 アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww http://search.yahoo.co.jp/image/search?p= 長江+++鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww http://search.yahoo.co.jp/image/search ;_ylt=A2RimVRd.tRb9nMAQCuU3uV7?p=越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8 >>202 鳥取県倉吉市の上里神社に伝わる神武天皇由緒 「神倭天皇九州日向に発たれ東夷大和平定により(平定後)山陽より(帰り)給いし際・・・神倭天皇東夷平けむと、皇軍を山陽の国に進め給う。」 情報をありがとうございます。 (平定後)(帰り)は解釈で、末尾の「神倭天皇東夷平けむと、皇軍を山陽の国に進め給う。」の記述から往途の可能性もありますね。 高城山に記録した経路では、倉敷に高城山があり遠征軍が倉敷に向かい、青谷上寺地で戦いがあったことが想定されます。 他場所では戦いの痕跡が少ないのに、秋里遺跡の焼けた住居跡など鳥取では戦いになったのでしょう。 国譲りは終わっているので、別な理由があるかもしれません。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、 中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。 ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。 そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、 石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、 石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。 ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、 木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。 石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも 伝わっていないのだ。 それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の 耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。 オール木製で。 しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も 日本の最古水田には一切伝わっていない。 日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと 言っているのと同じレヴェルの話である。 ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も 経ってからの事で、やはり木製であった。 石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ 永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 > 邪馬台国東遷説 その4より >42 :日本@名無史さん:2013/08/28(水) NY:AN:NY.AN ど素人やアマチュアが掘り出した出土状況がはっきりしないものは評価してはいけないという いい教訓になった事件であったな。 宮崎の盗品穀壁なんかは中国からけちがつけられる前に、中国の研究機関に調査依頼したほうがいい。 宮崎の大和が造った墓は皆空である 。泥棒の庭に造ってしまったようなものだな 。 串間の穀壁についての意見 串間の市役所を訪ね、大きくて重そうなレプリカの穀壁を見たことがあります。 発見者が一般人でも、盗品と決めつけては良くない。 串間には「奇しき土地」の意味があると考えられます。串木野とおなじく天孫降臨があった際の名づけと考えています。 図47 狗邪韓国に延びる直線(http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu4 7.jpg ニニギが天孫降臨の際、高千穂峰に登ったのち、反時計回りに薩摩半島から大隅半島にわたり小林に至っています。 ニニギは高千穂峰で「ここは韓国に向かい、・・・甚吉き地」と述べています。 図47を参照。 ここ串間は狗邪韓国比定地の金海から高千穂峰を結んだ直線が、太平洋に出るところで畏敬の念があり串間の名を残したと考えます。 ニニギならば、穀壁を持参していても不思議はなく、串間からの出土も不思議ではない。 そんなの、宇宙からでも見ないとわからない。 天孫降臨の筑紫の日向は、倭国の王都である伊都国のこと。 正確には、伊都国と奴国を合わせた高祖山周辺が筑紫の日向だ。 天孫降臨のすべてを分かった訳ではないが、すこし分かってきたことがあります。 紹介します。図は参考図です。 天孫降臨は薩摩・大隅を巡る、7年をかけた国造りの遠征であった。 図19 天孫降臨の経路 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu19.jpg 図20 天孫降臨の道の名づけ方法 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu20.jpg 【天孫降臨7年の根拠】 @ 図19は南九州に集中して見つかる〇〇丘という山と、〇〇岡という山に番号を付けて、結んだものである。 A 朝倉の高天原を出発したニニギは、阿蘇を越え高千穂町の国見ケ丘(図にないが附番1)で新しい国の国見を行った後、西都に向かい宮をおいた。 B 宮崎平野の灌漑稲作の目途が立つと、薩摩・大隅へ遠征をおこなった。 C 図19の21,22,23を結んだ直線を点線のように延長すると、高千穂峰横の虎ケ尾岡を経て39,40,41がつくる矢印で西都方向を指し示している。 D これはニニギが詔した、「此処は韓国に向ひ、笠沙の御前を眞来通りて・・・甚吉き地」の内容を大地に記録したものである。 E 附番2から始まる遠征は高千穂峰を周回する、逆「の」の字形に薩摩半島、大隅半島を経て八代海の獅子島にある黒崎丘で終わっている。 F 図19では丘と岡の区別を表示していないが、図20に示すよう「丘―岡―丘」というように丘と丘の間に岡を記録しその間が1年を有したと有年ケ岡で記録している。この遠征に7年をかけていた。 G 丘の中の一つ宇都丘の「宇都」と同名の宇都地名が、南九州に多く見つかり訪ね巡ると、灌漑稲作の水を得る川の最上流の田んぼがある集落と判明した。これは灌漑稲作普及のために水利権を取得するためであった。 H 高千穂峰にまず登ったのも、一帯の水利権確保の意味があったかも知れない。高千穂の名そのものが稲作である。灌漑稲作を普及させる投馬国の建国であった。 I 神武東征時に迂回した北九州で「岡水門」「岡田宮」と岡がつく地名を残したのは、天孫降臨に由来する。山に岡の名を名付けなかったのは天孫降臨と混同するからだった。 J ニニギが行った山への、丘(岡)という名の記録は、神武東征や日本武尊東征へと引き継がれ、さまざまに工夫した同名同種の山で、日本の古代を記録していた。 野間岬には越冬した宮跡、笠沙宮が山中に今も残ります。 投馬国が宮崎なのはいいが、高千穂や日向は筑紫だよ。 こんな土地が荒れてどうしようもないところなわけない。 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu19.jpg ニニギは豊葦原瑞穂の国の王となるべくやってきたんだぞ。 稲作先進地であり、対馬海峡に面した博多湾沿岸に決まっているだろ。 ニニギは投馬国建国のため南九州に降った。 天照大御神がめざす「しらす国」をつくるための実践でもあった。 荒れた土地を開墾すること、それが当時の国造りであった。 まず高千穂峰にのぼり、一帯の水利権を公のものとした。 霧島川の最上流には、ニニギが稲作を行った「狭名田の長田」が今も残る。 その下流には、ニニギを先導した猿田彦の屋敷跡も残る。 南九州の宇都はみな、稲作の水を得る川の最上流の地名である。 気になる材料を羅列してみると、 渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、 ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。 弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、 その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。 最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で 始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。 複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から 稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 筑紫の日向を追い出された海幸(ニニギの息子)が逃げた先が宮崎県の方の日向であり、ちゃんと現地にその伝承がある。 それが魏志倭人伝にある投馬国(都万神社)。 ちなみにここを日向と命名したのはもっと後の景行天皇。 > 邪馬台国東遷説 その4より >52 :日本@名無史さん:2013/08/28(水) NY:AN:NY.AN >>>49 ヤマトスクネも道案内している。 ヤマトスクネは、神武の曽祖父のニニギの兄にあたるホアカリの後胤。 つまり、神武の親戚。あと、高倉下命っても登場。 こいつは、ホアカリの孫rasii. つまり、神武と親戚。 九州には、神武らニニギの子孫が多くおり畿内には、ニニギの兄のホアカリの子孫が多く住んでいる。 あと、乱を起こしたニギハヤヒは自身をホアカリの櫛玉(形見)だと自称して乱を起こした。 ナガスネヒコの側も、自分が「天孫」である証拠の品を持っていたと明記されている。 これもひっかかる。 以下、ホワイトケープの意見 倭宿祢について 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、 中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。 その時代差、約6500年。 その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、 4000年前にはすでに戸建ての時代である。 商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には 瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。 縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。 中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>217 なんで饒速日が乱を起こしたことになるんだよ。 天照国照の称号を持つ倭王そのものだ。 饒速日は天孫本人だからな。 長髄彦は饒速日を王として迎えた側だろ。 ちゃんと読み直せ。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。 「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、 角と耳がありイノシシの顔だ。 http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html . 饒速日は、自分は天火明命の櫛玉(形見)と主張したんだろう? つまり、天孫の御落胤だと主張して、倭王の地位に就こうとした。 でも、尾張氏や皇室の祖先はそれを認めなかった。 新撰姓氏録でも、饒速日の後胤の物部氏は、天孫ではなく、ただの天神とされている。 天火明≠饒速日とされている。 神武東征なんて、科学的に言って、あんな遠征なんて無理だよ。 >>222 おっしゃる通り。 だから、倭国(阿波)国内での争乱と言ってるんですよ。 中国の三国(魏・蜀・呉)ならいざ知らず、卑弥呼の時代に大軍を率いて西日本一帯を戦い歩くことなど不可能。 あまりにも兵站を無視しすぎ。 @阿波 >>223 平地の多い大陸と山だらけの列島って差もデカイ >>224 >平地の多い大陸と山だらけの列島って差もデカイ 海の存在はもっとデカイよ。 @阿波 >>225 東征の海路って山抜けるより楽だから選んでるのに? >>226 >東征の海路って山抜けるより楽だから選んでるのに? だれが選んでると? 君がかね? ところで、その海路ってどこのこと? 東征軍は何艘の船団だろうね? @阿波 >>219 ごめんなさい。 入力途中で誤ってアップしてしまいました。ニギハヤイの乱は私の意見ではありません。 > 邪馬台国東遷説 その4より >52 :日本@名無史さん:2013/08/28(水) NY:AN:NY.AN >>>49 ヤマトスクネも道案内している。 ヤマトスクネは、神武の曽祖父のニニギの兄にあたるホアカリの後胤。 つまり、神武の親戚。あと、高倉下命っても登場。 こいつは、ホアカリの孫rasii. つまり、神武と親戚。 九州には、神武らニニギの子孫が多くおり畿内には、ニニギの兄のホアカリの子孫が多く住んでいる。 あと、乱を起こしたニギハヤヒは自身をホアカリの櫛玉(形見)だと自称して乱を起こした。 ナガスネヒコの側も、自分が「天孫」である証拠の品を持っていたと明記されている。 これもひっかかる。 以下、ホワイトケープの意見 倭宿祢について ヤマトスクネが神武を船で迎えて、先導しているが、神武の東征や出発を知っていたことになります。 これは、高天原の豊受大神からの先導依頼があり、出発の情報が伝わっていたために、できた先導と思われます。 曾祖父の火明命は舞鶴東部の志楽に宮を置いていたが、瀬戸内海航路でたえづ九州の高天原と行き来していて瀬戸内海航路に詳しいため、豊受大神が手助けをいらいしたものと考えます。 したがって、ハヤスイは明石海峡でなく豊予海峡が正解と思われます。 高倉下について 高倉下が神剣・布都御魂を神武に届けているが、高倉は豊受大神のことなので、高倉下は豊受大神の遣いをした 名前です。 火明命の末裔、高倉下も豊受大神と瀬戸内海航路を利用して行き来していた関係で、豊受大神をサポート したものと思われます。 >>228 の分割あっぷです。 ニギハヤイについて ニギハヤイが奈良に向かった動機について、考えてみました。 天照大御神が亡くなると、男王が立ったけれど国中は不服であったと、魏志倭人伝は記します。 この時、立った男王が誰かは記していないが、高天原はニニギか山幸彦を立てたと思われるが、 出雲は大国主になったであろう。火明命の舞鶴からはニギハヤが立ったと思われる。 皆、高天原に集まって相談したがまとまらなかっと思われる。 結局、国造りの志にはやるニギハヤイは、九州から奈良にむかったものと考えます。 奈良に新しい都を作る計画は神武の時に突然にできたものでなく、この話し合いの中でも話題になっていたと思われ それを先取りしたのではないだろうか。 >>221 >でも、尾張氏や皇室の祖先はそれを認めなかった。 先代旧事本紀では、饒速日の称号は天照国照。 天照と大国主の両方の権威を継承している。 その後に兄弟相続で邇邇芸に王権が移ったのだろう。 神武と饒速日の会談で、互いの天羽羽矢により同族であることを確かめ合っている。 これにより、神武の大和入りが完了した。 >>228 >あと、乱を起こしたニギハヤヒは自身をホアカリの櫛玉(形見)だと自称して乱を起こした。 >ナガスネヒコの側も、自分が「天孫」である証拠の品を持っていたと明記されている。 天孫の証を持っていたのは饒速日と神武だ。 記紀を読み直せ。 >>228 >曾祖父の火明命は舞鶴東部の志楽に宮を置いていたが、瀬戸内海航路でたえづ九州の高天原と行き来していて瀬戸内海航路に詳しいため、豊受大神が手助けをいらいしたものと考えます。 舞鶴と筑紫の間なら、日本海航路だよ。 >したがって、ハヤスイは明石海峡でなく豊予海峡が正解と思われます。 しかし神武はあえてハヤスイ、つまり関門海峡を抜けて筑紫から大和に向かった。 >>229 >天照大御神が亡くなると、男王が立ったけれど国中は不服であったと、魏志倭人伝は記します。 では、八咫の鏡を持っていた平原遺跡の女王がアマテラスで良いのだな。 >>231 舞鶴と筑紫の間なら、日本海航路だよ。 若狭湾と瀬戸内海を結ぶ、加古川〜日本最低の分水嶺〜由良川を結んだ河川を 利用した交通路を拓いていたと思われます。 火明命が大国主命から志楽という辺境の地に住むよう指示されたとき ここは良い地と述べたのも、このルートで出雲を経ずして高天原と行き来 出来たためと思われます。 図22(http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu22.jpg )は豊玉彦が、西日本に拓いた航路である。 >>232 では、八咫の鏡を持っていた平原遺跡の女王がアマテラスで良いのだな。 八咫鏡は日嗣の3種神器で、天照からニニギに渡されたと思われます。 今は伊勢神宮にあると思います。 平原遺跡から大きな、内行花文鏡が出土していて、八咫鏡と同種かも 知れないが、八咫鏡とは呼べないと思います。 【八咫鏡】 平原遺跡から出土した5枚の超大型内行花文鏡の直径は46.5cmであり、史上最大の銅鏡である。 径1尺の円の円周が4咫であり、これらの鏡は直径2尺、円周が8咫であることから三種の神器の一つである八咫鏡と考えられる。 神道五部書等によれば八咫鏡は八葉という。 伊勢二所皇御大神御鎮座傳記は伊勢太神宮の宝鏡について「八頭花崎八葉形、圓外日天八座」とある。 八葉とは、鈕孔を巡る八葉座のことであるが、通常の内行花文鏡は四葉座であり、平原から出土した超大型内行花文鏡の八葉座は他に例がないことから、これが伊勢にある八咫鏡と同汎鏡と考えられる。 内行花文鏡は、前漢時代の日光鏡や清白鏡の系譜上にある太陽を象った太陽信仰の象徴である。 伊都にある王墓の代表である三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、内行花文鏡が太陽光を象った鏡であることがわかる。 内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国は内行花文鏡を王権の象徴として漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていたことになる。 八咫鏡はニニギら日向王家の象徴であるが、それが日向峠のある高祖山周辺にあったことで、伊都が記紀に伝えられる倭国の旧都、筑紫の日向であったことがわかる。 石凝姥命が八咫鏡に先立って鋳造した同等の鏡として、紀国一宮である日前宮(ひのくまみや)の日像鏡、國懸宮(くにかかすみや)の日矛鏡がある。 伊勢が大和の東の出口、日前は西の出口にあり、伊勢とほぼ同等の力を持っていたといわれている。 筑前国風土記では、沖ノ島辺津宮の神宝も八咫鏡と記録されている。 これらを含めると、八咫鏡の総数は、伊勢内宮、宮中賢所、日前宮、國懸宮、辺津宮、伊都に5枚で、最低でも10枚は存在していたことになる。 この他に日本書紀では筑紫の帥である神夏磯姫が所有していたことが記録されているが、顛末は記録されていない(上記のいずれかと重複している可能性がある)。 http://www.geocities.jp/itosimadoranekoki/isourou/naikou.jpg 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。 「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、 角と耳がありイノシシの顔だ。 http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html . >>236 【八咫鏡】の鏡についてのコメントありがとうございました。 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか 経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、 佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、 日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、 朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。 このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。 この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で 比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。 ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。 日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 ◆中国の釜 中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。 釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。 http://ja.wikipedia.org/wiki/ 釜 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた . > 邪馬台国東遷説 その4より >62 :日本@名無史さん:2013/08/28(水) NY:AN:NY.AN 卑弥呼の遺物遺跡が全く存在していないのは作為を感じるね。 明らかに何者かによって隠されてると思う。 倭人伝はもちろん半島の歴史書までその名が登場してるからね。 書紀では倭人伝の卑弥呼台与の記事を神功皇后にあててるよね。 これと何か関係あるのかな。 ホワイトケープの考え 卑弥呼の遺物遺跡が全く存在していないのは確かといえる。 同一人物と考える天照大御神の遺物・遺跡もほとんどない。 私の考えでは、跡をついだ台与こと豊受大神が、東遷にあたり「後を濁さず」の考えがあって宮殿や遺跡も壊して出発したためと考える。 東遷のあとに残された宮殿などが別人に使用されることを懸念してのことかも知れない。 それでも、残すべきものはしっかり残している。 麻底良山(まてらやま)である。アマテラスのアとスを抜いた山名で、朝倉と日田の境にある。 しかも、二つの高倉山で差しはさんでいる。高倉山は伊勢の外宮の境内にある大きな山で、豊受大神が東遷のとき、経路に残した山でもある。 図9 九州の高倉山の分布 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu09.jpg 図11 朝倉付近の三角域の拡大 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu11.jpg 日田の小迫辻原遺跡の居館跡から焼土が出ていて、ここも焼き払ったのかもしれない。 日田市日高で出土した、金銀錯嵌珠龍文鉄鏡は卑弥呼あるいは台与が持っていたものとの説もあるが、ここは猿田彦がニニギを待ち受けた八街と考える日田市若宮町の 若宮神社から1kmしかない。 猿田彦神は豊受大神が尊敬していた上で、若宮神社を二つの高塚山で差しはさんでいる。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。 「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、 角と耳がありイノシシの顔だ。 http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html . 神武東征も、あの時代に宮崎から奈良まで大規模な軍事遠征が出来たとは到底考えられない。 一族郎等せいぜい数十人が、元の住処を追われるようにして、途中で武装勢力に襲われて小規模戦闘しながら流浪に流浪を重ね、最後に尾羽打ち枯らし、やっと奈良に流れ着いて何とか落ち着いた。 こう言う移住初代の話を、後から盛りに盛ったのが神武東征だと思うよ。 >>243 >最後に尾羽打ち枯らし、やっと奈良に流れ着いて何とか落ち着いた。 そんな有様で、なんで「神武東征」などと華々しく語られるのかね? しかも、海の無いジメジメした奈良盆地へなどとw もうちょっとマシな妄想を考えないとだめだよw @阿波 故郷の宮崎を追われるようにして、流浪の末に「結果的に」奈良盆地に落ち着くことが出来た神武一行は、その後は家運が上向いて、地域の有力者になった。 当時の奈良盆地は稲作の高度成長期で、人手が足らず、神武一行のような素性も知れない流れ者の一団でも受け入れてもらえたのだろう。 そして高度成長にも後押しされて地域の有力者になった神武の家系は、かつて自分たちを追放した故郷に当て付け、こっちこそ正当なんだと見せつけるように、奈良盆地のあちこちに、九州と同じ地名をつけまくった。 そう言うお話を、記紀で盛りに盛ったのが神武東征の実状だと思いますよ。 天孫降臨が出雲ではなく何故か日向の片田舎であった理由。 奈良盆地にあった邪馬台国、卑弥呼=アマテラス系のクニを、征服したか、簒奪したか、あるいは婚姻によって新参の神武系が乗っ取った際に、後付けで無理矢理正当性を持たせるために作ったストーリー。 魏とも修好したかつての女王国は、その権威において圧倒的だった。 神武以降、崇神、応神、継体と、実質的な王朝交替があるのだが、みなかつての女王国、卑弥呼=アマテラスの末裔であるとストーリーを作ったり盛ったりした。それが記紀。 ちなみに邪馬台国が奈良盆地なのは、弥生時代から既に人口の中心は本州だったから。 魏使が本国に本州のことを伝えない訳がなく、北九州から結構な距離を進んで最初に到達する大人口地帯が奈良盆地。 >>245-248 妄想は聞き飽きた と、何度言えばw @阿波 魏使は何遍も邪馬台国に来て、何年も滞在してるんだから、九州のすぐ隣に馬鹿デカい島があって、そこにもっと大勢の人間が住んでることを知り得ないはずがないでしょ? ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか 経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、 佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、 日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、 朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。 このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。 この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で 比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。 ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。 日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 邪馬台国が仮に九州だとして、魏使が本州の存在に気づかないなんて、あり得ないでしょそんなこと。 >>248 誰がそんな適当な旅行をするんだ。 する訳ないだろ。 それに、弥生時代の畿内なんて水浸しで人口は少なかった。 >>253 弥生時代に、九州の連合軍が遷都しようと奈良盆地まで 攻め上るとか、信長の野望じゃないんだから。補給をどうするのよ?補給を。 >ホワイトケープ よく研究されてますね そちらが載せている各種の地名や破鏡の分布図と、↓これらの地図にも類似性があるようです > 593 :日本@名無史さん :2018/11/19(月) 00:14:14.49 > 北部九州は縄文時代から既に西日本の中心だった > そしてそれは弥生時代から古墳時代にかけても継続した > 縄文時代の貝の交易マップと、北部九州の海人族・安曇の分布がほぼ一致している > > 縄文時代の貝の交易 > http://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-0a-2d/kawakatu_1205/folder/1608018/30/55536130/img_3?1506135325 > http://www.gondo.com/gyarari/photo/kokunaiiseki/pic/doigahama/a2.jpg > 安曇族ゆかりの地 > http://4.bp.blogspot.com/-mYi5TCXdsF8/VDnqBtD4d9I/AAAAAAAAA2s/YwNSV2jEEZc/s1600/018E8B387E69699_R.jpg > > また、縄文時代には貝で作った貝輪が北部九州の有力者の証だったが、弥生時代以降にはそれをモデルにして銅で作った > 銅釧(かなくしろ/どうくしろ)がこれに代わり、やはり同様の分布を示す > > 銅釧出土地 > http://www.city.ichihara.chiba.jp/maibun/sinsou/36/bunnpu.png > > 銅釧は北部九州が発祥で、邪馬台国の時代に盛行したとされる > http://www.city.ichihara.chiba.jp/maibun/note/notebook31_1.htm > >南海産貝輪にルーツのある有鉤銅釧の分布は、弥生時代中期後半に北部九州に始まり、弥生時代後期に盛行し、 > >古墳時代前期前半で終焉に向かいます。 > > やはり、邪馬台国の時代に至っても北部九州の海人が東海以西の日本各地を席巻していたのは間違いなさそうだ > 銅釧の出土を見ると、畿内も大阪湾南岸は既に北部九州の勢力下に入っていたようだ > 現在の和泉市や泉佐野市のあたりなのを見ると、和泉(イズミ)も安曇(アズミ)由来の地名のようだな > 596 :日本@名無史さん :2018/11/19(月) 00:25:44.39 > 安曇の関係地や海人の特権階級が身につけた有鉤銅釧の分布は連続的ではなく飛び飛びになっており、 > 邪馬台国は本州に飛び地を持っていた可能性が高い > http://4.bp.blogspot.com/-mYi5TCXdsF8/VDnqBtD4d9I/AAAAAAAAA2s/YwNSV2jEEZc/s1600/018E8B387E69699_R.jpg > http://www.city.ichihara.chiba.jp/maibun/sinsou/36/bunnpu.png > > 例えば近江に安曇族が来たのは卑弥呼の時代とも一致するらしい > 邪馬台国の飛び地だったと言ってもいいだろう > > https://biwako-genryu.shiga.jp/?page_id=603 > > 安曇川周辺には、このアドやアマに関連する地名が数多く見られる。 安曇川町上古賀の「天川」や中央1丁目の「雨ヶ森」、 > > 新旭町安井川の「安曇」や太田の「安曇連(あづみむらじ)」に関する社寺と「阿曇比羅夫(あづみひら ふ)」の墓、 > > 今津町南浜の「天川」などである。 > > そして、これらに福井県若狭町の「海士坂(あまさか)」や県境の「天増川(あますがわ)」をつなぐと、若狭湾方面から饗庭野を経由して > > 安曇川流域付近に住 みついた安曇海人の軌跡を示しているとみられている。 > > また、移住の時期は弥生時代から始まって、3世紀以前に安曇川のデルタ一帯に定住したが、6世紀には当地域から姿を消したものと推測されている。 > 602 :日本@名無史さん :2018/11/19(月) 01:10:22.43 > https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-0a-2d/kawakatu_1205/folder/1559278/18/54429718/img_3 > この伝阿曇居住地(水色の丸印)を見ると、奈良が完全に安曇に包囲されてるのがよく分かる > この状態から畿内が九州に対して逆転勝利を収める目は存在しない > 完全に包囲されて圧力に屈した奈良が入婿(神武)を受け入れて権力を明け渡した程度の話が東征の実態だろう > 599 :日本@名無史さん :2018/11/19(月) 00:49:02.97 > 安曇の関係地の一つである渥美半島で、異様に上腕骨の太い縄文人の骨が見つかっている > 海流に逆らって船を漕ぐためにそうなったと考えられており、海人族が縄文時代には既にここまで来ていたことを示している > ちなみに、2番目にマッチョだったのが海人の本拠地、福岡玄界灘の集団であった > > https://readyfor.jp/projects/koukai2/announcements/84232 > >最後に補足ですが、図中のGは保美に次いでマッチョだった縄文男性なのですが、北部九州の玄界灘集団です。 > > これと同様にマッチョな弥生人の骨が長崎の離島からも見つかっている > やはり海人族だろう > https://www3.nhk.or.jp/news/web_tokushu/2018_1114.html > > 弥生時代、女王・卑弥呼が治めた「邪馬台国」があったという説もある九州北部。 > > ことし8月、長崎県佐世保市の離島、高島で古代史の研究者を驚かせるものが発掘されました。 > > それは、下半身に比べ上半身が異常に太く、驚くほど“マッチョ”な体型をしていた弥生時代の人骨です。 > https://www3.nhk.or.jp/news/web_tokushu/still/web_tokushu_2018_1114_eyecatch.jpg 九州の連合軍が奈良盆地まで攻め上ったのなら、なぜにその後、 崇神が四道将軍を発したり、ヤマトタケルが熊襲征伐をしなきゃならんのよ? 九州から奈良盆地までを征服したのはどうなったんだ?途中に吉備のような結構大きな勢力もあるが、吉備はどうしたの?征服したの? そうじゃないんだよ。 神武は大軍を従えた征服者ではなく少人数の流浪者・移住者で、その後のヤマト政権は、奈良盆地とか畿内ローカルの勢力だったからだよ。 >>261 > 神武は大軍を従えた征服者ではなく少人数の流浪者・移住者で、その後のヤマト政権は、奈良盆地とか畿内ローカルの勢力だったからだよ。 そうじゃないんだよ。 神武東征は倭国(阿波)の阿波市→鳴門市への東征 と、何度言えばw @阿波 記紀の神武だって、何だか妙にショボい戦さを繰り返してるだろ。敵を騙して家に閉じ込めて外から火をつけるとか、まるで弱小豪族同士の抗争だ。 後世の記紀編纂者が、盛りに盛ってあれだからね。 実際は一族郎等合わせて数十人規模で、地域地域の武装勢力と諍いを起こして、結局その土地を奪えずに、諦めて先に行く。その繰り返しで、最後にやっとこさ奈良盆地で落ち着いたの。 >>261 熊襲は狗奴国だからもともと敵対してたんだろう 四道将軍もまた同じ >>256 とかを見ると吉備は縄文時代から玄界灘勢力と付き合いがあったようだし、同盟関係だったんじゃないか >>263 >実際は一族郎等合わせて数十人規模で、地域地域の武装勢力と諍いを起こして、結局その土地を奪えずに、諦めて先に行く。その繰り返しで、最後にやっとこさ奈良盆地で落ち着いたの。 そうじゃないんだよ。 神武東征は倭国(阿波)の阿波市→鳴門市への東征 と、何度言えばw @阿波 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか 経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、 佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、 日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、 朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。 このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。 この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で 比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。 ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。 日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>256-259 こういう考古学的資料があるのにそれを無視した議論には意味がないよな 実際にこれらのものが出土しているという事実を踏まえて考えれば九州邪馬台連合が東遷したとしか考えられない >>257 の近江の例などと同じような現象が近畿、畿内各地でおこったのだろう 神武東征では、神武の兄弟も死にまくりと言うのも不審。 大軍を擁した征途のいくさで、王の兄弟がそんなに死ぬかね?そんな大軍だったら、みなさん一軍を預かる将軍でしょ? でも実際には兄のイツセは、矢がビュンビュン飛んで来る前線で戦ってたってことでしょ? 弟たちは荒れた海を強引に航海して難破して死んでるし。将軍様の御座船に、そんな無茶させる? あと「宴会に招いて騙し討ち」とかもしてるし。 だからね。せいぜい、弱小豪族の小規模な抗争くらいの戦闘規模だったのよ、神武東征と言うのは。 >>267 >実際にこれらのものが出土しているという事実を踏まえて考えれば九州邪馬台連合が東遷したとしか考えられない 妄想は聞き飽きた と、何度言えばw @阿波 >>268 >だからね。せいぜい、弱小豪族の小規模な抗争くらいの戦闘規模だったのよ、神武東征と言うのは。 そうじゃないんだよ。 神武東征は倭国(阿波)の阿波市→鳴門市への東征 と、何度言えばw @阿波 神武一行のイメージとしては、まあ、故郷を追われた「山賊」みたいなもんだろ。 行く先々で戦闘や掠奪を繰り返し、どんどん東に流れて行く。 逆に言うとせいぜい山賊規模なので、補給や占領地行政などを気にせず、日向から奈良盆地まで流れ着くことが出来た。 >>271 >逆に言うとせいぜい山賊規模なので、補給や占領地行政などを気にせず、日向から奈良盆地まで流れ着くことが出来た。 妄想は聞き飽きた と、何度言えばw @阿波 >>267 共通の交易品が日本の広い範囲で見つかりました、と言う話がどうして、 「九州から畿内までの大規模軍事遠征がありました」 と言うストーリーの証左になるのさ? 来たぞ! 【歴史】邪馬台国時代のすずり5個出土 交易でも文字使用か「日本の文字文化の始まりを考える上で興味深い」 福岡・西新町遺跡 https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1542968156/ >>273 > 銅釧は北部九州が発祥で、邪馬台国の時代に盛行したとされる > >http://www.city.ichihara.chiba.jp/maibun/note/notebook31_1.htm > >南海産貝輪にルーツのある有鉤銅釧の分布は、弥生時代中期後半に北部九州に始まり、弥生時代後期に盛行し、 > >古墳時代前期前半で終焉に向かいます。 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか 経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、 佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、 日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、 朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。 このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。 この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で 比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。 ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。 日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >256〜 いろいろ情報をいただいて、ありがとうございます。 すこし、検討してみます。 ◆中国の釜 中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。 釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。 http://ja.wikipedia.org/wiki/ 釜 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた . 伊都を追われた神武の後に伊都で筑紫倭王に共立されたのが卑弥呼だったのだろうね。 >>74 もう西区の集落跡を見つけ出すのは無理だろう 開発されまくって海岸も埋め立てだらけ >>1 の文章の書き方には浪漫を感じる 好感をもてる。頑張って欲しいです。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、 中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。 ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。 そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、 石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、 石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。 ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、 木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。 石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも 伝わっていないのだ。 それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の 耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。 オール木製で。 しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も 日本の最古水田には一切伝わっていない。 日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと 言っているのと同じレヴェルの話である。 ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も 経ってからの事で、やはり木製であった。 石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ 永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 天皇の一族が最大勢力になったのって飛鳥時代のあたりだろ それまで豪族とかたくさんの王が割拠してたんだろう 282日本@名無史さん2018/11/26(月) 10:15:55.06 >>74 もう西区の集落跡を見つけ出すのは無理だろう 開発されまくって海岸も埋め立てだらけ >>1 の文章の書き方には浪漫を感じる 好感をもてる。頑張って欲しいです。 エールをありがとうございます。 古代はロマンにあふれています。調べるほどに古代の人は国造りに純粋に生きたと思えてきます。 もしよければ、県立図書館に寄贈しているので取り寄せて読んでください。 「たかとりが明かす日本建国」 「丘と岡が明かす天孫降臨」 「伊邪那美岐が明かす国生み」 です。3冊目はこれから寄贈の予定です。 日本武尊や豊受大神の生涯に、多くのロマンを感じることができるでしょう。 85歳の方から、「生きているうちに出会えてよかった本」の感想が届いています。 古代研究の中で見つけた古代ロマンです。 「和久産巣日神の須佐之男を思う心」 和久産巣日神は伊邪那美の神々の生成の最後の方に登場する。 この神の子は豊受毘売と謂うとある。 和久産巣日神は加具土神と埴山姫の間の子である。 伊邪那美は加具土神を生んだために亡くなってしまう。 伊佐那岐は怒り、加具土神を十拳剣で斬ってしまった。 須佐之男と和久産巣日神は幼馴染だったと思われる。 須佐之男の父に、わが父が殺された和久産巣日神。 時が流れた。 須佐之男は高天原を追われ出雲に向かった。 和久産巣日神は須佐之男を追って出雲に行っていた。 和久産巣日神は、慕う須佐之男と結婚できなかった。 和久産巣日神は出雲に来ていた大山津見神との間に神大市比売を生んだ。 須佐之男は年老いたが神大市比売を娶り豊受毘売を生んだ。 そのころ 出雲国譲り交渉のなか、天照大御神が死んだ。 倭国王に高天原からはニニギか山幸彦が立った。 出雲からは大国主か事代主が、丹波からはニギハヤイが立った。 国中は不服で争いになった。 この状況に和久産巣日神は、高天原に出向いた。 伊邪那岐に斬られた、加具土の子・和久産巣日神の心が高天原を動かしたのだろう。 須佐之男の子、豊受大神を女王に推戴、国仲は収まった。 その名、産巣日の神名はその功績のなである。 大宰府に残る翰苑は「臺與は幼齒にして、方(まさ)に衆望に諧(かな)う。」と記す。 豊受大神は、幼いながらもよく衆望にかなう働きをした。 豊受大神は国譲りを成功させた。 豊受大神は東征の途次、出雲に立ち戻った。 このとき祖母・和久産巣日神の、須佐之男を慕う心を和久の地名で記録した。 図32 須佐之男の陵がある黒山を和久の地名が指し示す。 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu48.jpg 東征隊は豊受大神のこの行いを、高塚山で記録した。 図32 高塚山が指し示す和久羅山 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu32.jpg 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、 中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。 その時代差、約6500年。 その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、 4000年前にはすでに戸建ての時代である。 商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には 瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。 縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。 中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 > 邪馬台国東遷説 その4より 119 :日本@名無史さん:2013/08/29(木) NY:AN:NY.AN 邪馬台国や卑弥呼がそこまで日本史上重要であるなら、記紀に登場しないはずがない 卑弥呼=アマテラスだという主張もあるが、諸々の事件や時系列は都合良く無視してるように思う 卑弥呼が記紀の於けるどの時点で登場してるのかはっきりさせてくれ ホワイトケープの検討結果 表1 伊邪那美岐とクニ名・クニ代表の対応 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/hy01.jpg 表1は、伊邪那岐と伊邪那美の名が、魏志倭人伝に登場するクニの名から1文字ずつ採った名であることの、発見を表した表である。 この表の検討から次のことが分かった。 1、伊邪那美岐の文字順が、対応するクニの格順になっている。 2、古事記に登場する「別天つ神五柱」の登場順がクニの代表で対応が取れている。 3、「別天つ神五柱」が、魏志倭人伝が記す倭国乱収束の話し合いを行った。 4、話し合いで、伊都国宗家の男子と、敵であった奴国王の娘を結婚させた。 5、生まれた子供から、統一倭国の王を選ぶことは、会合で決まっていた。 6、それが偶然、長女の天照大神で卑弥呼だった。 >119が疑問視しているが、 しっかりと記紀に登場していて魏志倭人伝より詳しく書いている。 時系列はあっている。伊邪那岐、伊邪那美に魏志倭人伝に出てくるクニ名が出てくるので その子・天照大御神は邪馬台国の時代に生きたことは確かである。 魏志倭人伝は共立としか書いてないが、「別天つ神五柱」が話し合いで決めた、共立だった。 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか 経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、 佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、 日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、 朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。 このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。 この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で 比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。 ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。 日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 > 邪馬台国東遷説 その4より >343 :日本@名無史さん:2013/09/11(水) 21:29:01.21 >335 ひょっとして光谷さんの年輪年代法が科学だとでも言うのかな。 あれはブラックボックス。検証不可能なものは科学とはいえない。 それにしても、年輪年代で年代が遡ったのは素早かった。 あっという間もなかった。 また、マスコミや出版業界を通じての宣伝もすごかったが、各方面への圧力のかけ方もすごかった。 しかし、法隆寺の心柱の年代などで年輪年代が問題になっても、考古学会は知らん顔していた。 年代を見直そうという気はさらさらないようだった。 恐らく、光谷さんの年輪年代法が問題になったとしても、我関ぜずの態度だっただろうな。 旧石器捏造事件と似ているな。 ホワイトケープの意見 >343と同じ考えです。 年輪年代法に100年の年代遡りがると指摘したのは、2011年の考古学総会での鷲崎弘明の発表でした。 しかし、これは無視されてその後も弥生時代の年代区分や、古墳時代の幕開けに100年の遡り状態が続いています。 すべてが、邪馬台国が奈良にあったとする先入観念の裏付けに利用していると思われます。 科学的と言われるものをすべて、このように利用して自己満足しているのかも知れない。 1、纏向遺跡から出土した桃の種の、C14放射性同位体残存量を解析も、日本に特化された「JCal」補正を行わず、世界標準の「IntCal13」補正を使っており、 【邪馬台国畿内説】に有利な結果を出している。 2、遺跡の時代区分に出土した鏡の鏡種を用いているが、この考えの中に同じ鏡種は中国から各地にほぼ同着した考えが入っている。 九州と奈良に同じものがあれば、同じ年代区分の遺跡とする考えである。(下記リンク)これも纏向遺跡の時代遡りの原因となっている。 https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/ronbun/ronbun8/pdf/185011.pdf 3、近畿では、池上曽根遺跡や近江の伊勢遺跡・稲部遺跡など大型弥生遺跡が見つかっていて、これを源大和の痕跡と考えたかもしれない。 これらは、加茂族などの集団が倭国乱を逃れて移り住んだ遺跡で、源大和なる活動のあとは全くない。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。 「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、 角と耳がありイノシシの顔だ。 http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html . >>290 畿内は淀川が内陸交通の要所だった。 琵琶湖を含めれば日本海から瀬戸内海まで通じていたからだ。 伊勢遺跡は日本海沿岸の盟主だった出雲の出先だろう。 実際に畿内を開発したのは、瀬戸内海から上陸した三島の神(三島溝杭耳)らの鴨族であり、大和もその末裔である登美の鴨主らが開発したと思われる。 彼らは博多湾沿岸の倭王であったイザナギの直系の祖先であり、筑紫の勢力が畿内を開発したことは明白なのである。 【葛城鴨王家の系譜】 大和国葛城にいた古代氏族の系譜。三輪高宮家系譜などに資料が残されている。 その祖は博多湾沿岸の倭王である大山祇の子、伊奘諾の曽孫である三島溝杙耳(陶津耳、賀茂建角身)である。 大山祇の娘の木花咲夜姫は天孫邇邇芸に嫁入りしていて、その実家は志賀島の綿津見神社とされるが、遠賀川沿岸に広がる豊国が支配地域であり、後世の筑紫岡田宮の一族である。 三島溝杙耳は瀬戸内海を通じて大阪湾から畿内に鎮座し、後に神武の東征を助けたとされている。 この一族を祭るのが、伊予国大三島の大山祇神社、土佐の溝咋神社、摂津の三島神社、京都の上賀茂下鴨神社などである。 神武と戦った長髄彦は三島溝杙耳の息子とされていて、娘は活玉依姫(勢夜陀多良比売、玉櫛媛)である。 出雲の国譲りの後に大和に移住していた事代主は三輪山の神となっていたが、活玉依姫に娘と息子を生ませる(丹塗矢説話)。 この娘は後に神武の妃となるイスケヨリ姫(媛蹈鞴五十鈴姫)であり、息子は天日方奇日方(櫛御方)である。天日方奇日方はまたの名を鴨主という。 天日方奇日方の曾孫が太田多根子である。 この登美の鴨王家には別の伝承がある。 飛鳥大神の娘である登美夜姫が、高天原からやってきた天照の孫であるニギハヤヒとの間に生んだ子が、物部氏の祖であるウマシマジである。 登美の長髄彦は、神武との戦いの中で「自分は天神の子であるニギハヤヒに仕えて妹をニギハヤヒに娶らせたが、どうしてまた天神の子と称するものが来て土地を取ろうとするのか」と言っている。 とすると、登美夜姫と活玉依姫はともに長髄彦の妹ということになり、異同が論じられるところである。 古事記では大物主は大国主や事代主と別神であり、勢夜陀多良比売と活玉依姫も別神としているが、勢夜陀多良比売と活玉依姫はいずれも丹塗矢説話が共通している。 いずれにしても、大和国の主だった勢力はいずれも筑紫か出雲、高天原にその起源があることになる。 鴨王とは、嘉麻市嘉麻川周辺カモ→嘉麻 蕨手文の一族 と思う。妄想ですが 遠賀川の一部が明治期に嘉麻川と呼ばれてたけど、江戸時代までは岡川か遠賀川なんだよな >>297 いや筑前国嘉麻郡は和名抄にも載ってるが ここで嘉麻を検索してみ? http://chimei.nabunken.go.jp/ ならば畿内を開拓した鴨の一族も、発祥は福岡県ということで納得。 結局は筑紫倭国が拡大して、一部の勢力が東征して畿内を開拓した。 続いて饒速日が東征して畿内を征服した。 鴨から二、三世代遅れて筑紫から再び神武が東征した。 その過程で銅鐸勢力が衰退したが、饒速日から始まる物部が纒向や前方後円墳を作った。 ◆中国の釜 中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。 釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。 http://ja.wikipedia.org/wiki/ 釜 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた . >>298 日本@名無史さん2018/12/06(木) 22:35:39.02 遠賀川の一部が明治期に嘉麻川と呼ばれてたけど、江戸時代までは岡川か遠賀川なんだよな 岡と丘について、ホワイトケープの調査結果 遠賀川(古名・岡川)がある北九州付近には、岡田宮や岡水門など神武東征で名付けた岡の地名があります。 なぜ岡なのか、調べたところでは、ニニギが南部九州で名付けた、〇〇岡や〇〇丘に由来すると思われます。 次図のように、ニニギが天孫降臨の道に名付けた岡や丘です。 丘は出発地と到着地に名付けて、中間に岡を名付けています。 天孫降臨の最初の丘は、高千穂町にある「国見が丘」で、最終地点は八代海にある獅子島 の「黒崎丘」です。 猿田彦が海でおぼれて亡くなった、悲しみの黒です。意味のない名付けはありませんでした。 図19 天孫降臨の経路 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu19.jpg 図20 天孫降臨の道の名づけ方法 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu20.jpg 神武は東征を、ニニギの国造りの延長と認識していたようで、東征最後の地点に「甘樫丘」を名付けています。 東征途中に〇〇岡や丘を名付けては、天孫降臨と混同するので、地名に名付けたと思われます。 近畿には他、城ケ岡・雙ヶ岡・石堂ケ岡が見つかるのみです。 日本武尊東征でも東北に三つの「〇〇岡」を名付けています。地図で探してみてください。 蕨手紋の古墳壁画の船の先端部には 鳥が書かれているのよね ヤタガラスなのか鴨なのか鵜なのか私にはわかりません 全て当てはまりそうでw 奈良県の古墳の内部壁画ないのかなあ 発掘品ばかり発表で、内部の構造写真とか少ない ような気がする >>306 日本@名無史さん2018/12/09(日) 22:28:07.63 >>285 あ、本屋に1冊だけ注文してみたわ ありがとうございます。 多くの発見に驚いてもらえると思います。 山々を訪ねた記録は次にアップしています。 読書の参考にしてください。 http://vbsoft.sub.jp/hana/takatori1.html 記紀の国生みで女神の名は四国だけ 四国が女王国であることを匂わせてる 朝鮮の高句麗からやって来た天皇が九州北部を硬め 大和王朝を乗っ取った 記紀の国生みにおける天津国は対馬海峡が中心。 そのほかの島は後から追加された。 国生みに先立っておのころ島(能古島)が作られた。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。 「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、 角と耳がありイノシシの顔だ。 http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html . >>308 >記紀の国生みで女神の名は四国だけ >四国が女王国であることを匂わせてる 各地の風土記のうち、「天地初発より記された」風土記は、阿波国風土記のみである。 「阿波国風土記」 @阿波 https://sites.google.com/site/awakokufudoki/home/awa-koku-zoku-fudoki-nitsuite/2_awakoku_fudoki_towa 通説では、天皇家や建国の歴史とは何の関わりもないはずの阿波国、 何故、その地誌「阿波国風土記」で唯一、天皇の称号について書かれているのだろうか? 役人が天皇に献上する書である。 上記の天皇が阿波に関係なければ、風土記なんぞに書ける訳がないのである。 「お前、何書いとんねん!」で済まされる話ではない。 >>308 >記紀の国生みで女神の名は四国だけ >四国が女王国であることを匂わせてる ホワイトケープの四国の調査結果 「別天つ神五柱」の神々から国生み派遣された伊邪那岐・伊邪那美は、主に阿波の吉野川流域を拠点に開拓を行っていた。 開拓の中で活躍した人物に神の称号を与え、子や孫に技術の伝搬を図った。 建築の神々がはじめだった。 次に自然にまつわる神々だった。神も人なれば自然を司ることはできない。 河口の潮の干満、明日の風向きなど自然を読む能力があって、伊邪那美より神の称号が与えられたと考えます。 食べ物の神は主に、女性であった。 吉野川流域には多くの古代の神々が祀られているのはそれゆえと考えます。 大国主なども登場するが、歴史の重要な場所であることを大国主も知っていて訪ね来ているかも知れない。 天照大御神(卑弥呼)も阿波の生まれではあるが、伊邪那美の死によって、吉備を経て九州に戻っている 気になる材料を羅列してみると、 渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、 ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。 弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、 その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。 最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で 始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。 複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から 稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>313 ホワイトケープ >天照大御神(卑弥呼)も阿波の生まれではあるが、伊邪那美の死によって、吉備を経て九州に戻っている ここで突然現れる、吉備・九州の無理筋。 @阿波 >>313 ホワイトケープ >天照大御神(卑弥呼)も阿波の生まれではあるが、伊邪那美の死によって、吉備を経て九州に戻っている 吉備や九州へ行ったのは吉備忌部や筑紫忌部たちなんだよ。 @阿波 315日本@名無史さん2018/12/18(火) 15:30:50.74 >>313 ホワイトケープ >天照大御神(卑弥呼)も阿波の生まれではあるが、伊邪那美の死によって、吉備を経て九州に戻っている ここで突然現れる、吉備・九州の無理筋。 @阿波 ホワイトケープの意見 いろいろな意見があるのは比定しません。合意は出ないので討論はしません。 阿波の方なら、高越山に伊邪那美の神陵があるのはご存知と思います。 邪馬台国に固執するより、国生みをもっとアピールすることが大事なように思います。 邪馬台国の主張に特別な意義を感じているなら、ごめんなさい。 >>317 >邪馬台国に固執するより、 邪馬台国に「特別な意義」は持っていませんが、魏志倭人伝の記述が倭国(阿波)の事というだけ。 >国生みをもっとアピールすることが大事なように思います。 国生みは邪馬台国が始まりです。 @阿波 国産み神話は福岡県那珂川周辺 記紀に載らない国産みの祖先は福岡県田川大分県日田 福岡県と合併する前の小倉県 小倉県も調べるとなかなか面白い >>319 妄想は聞き飽きた と、何度言えばw @阿波 気になる材料を羅列してみると、 渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、 ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。 弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、 その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。 最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で 始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。 複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から 稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 国生みの話題となったので、おのころ島について少し。 1、博多湾から国生みに向かった伊邪那岐、伊邪那美は、別々な船で出発したと思われる。 2、志賀海神社には綿津見三神が祀られているので、三神の船団で分かれて進んだと考えた。 3、第一団は、日本海を進み本州を一周した。 4、第二団は、瀬戸内海を進んだ伊邪那岐の船団と思われる。 5、第三団は、四国沖を進んだ伊邪那美の船団と思われる。 6、伊邪那岐は距離が短く、淡路島東にある沼島で伊邪那美を待ち受けた。 7、距離のある伊邪那美は遅れてやってきて、迎え出た伊邪那岐との再会に感激しと思われる。 8、沼島の上立神岩が天の御柱に見立てところで、伊邪那岐は航路と同じく左回りした。 9、そして伊邪那美が右回りしたと記すのは、航路の経路を示唆したものと考える。 10、積極的な伊邪那美は、うれしさのあまり先にプロポーズしてしまった。 日本の神話と言っているけど、 本当は日本の話ではないんだよ どこそこで生まれたとか、 そういうのも嘘 >>325 博多湾は、「其山有丹」で論外の話だってば。 @阿波 古事記は二神の結婚の段で次のように記している。 『次に淡島を生みき。こも亦、子の例には入れざりき。』 次のように考えた。 1、この淡島は、和歌山市加太の淡島神社の淡島神で、水蛭子と同じ不遇の子とする説がある。 2、私は徳島の吉野川中流にある、日本最大の「中の島」である、現在の善入寺島を淡島と比定した。 3、伊邪那岐・伊邪那美は、水が得やすいこの島をまず開拓し始めた。 4、徳島の特産の穀物も植えた。 5、ところが、雨が少し多いと吉野川が増水し開拓地は水につかり土が流れてしまった。 6、島はすぐに水がつくことから、水の泡のようだと自虐して「淡島」と呼んだのだろう。 7、そこに植えた特産の穀物も、粟(あわ)と呼ぶようになった。 8.ついにこの島の開拓をあきらめ、神々のいる高天原にもどり相談をした。 9、神々には開拓を続けてくれることが大事で、失敗の原因は何でもよかった。 10、やり直しのできることを、失敗の原因とした。 11、「女先に言へるによりて良からず、また還り降りて改めて言へ。」 12、二人は、次に淡路島にもどり、南あわじ市のおのころ島神社がある島を改めて回った。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。 「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、 角と耳がありイノシシの顔だ。 http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html . 延喜式に掲載されている神武天皇をご祭神とする神社はただひとつ 阿波は鈴川山に鎮座した樫原大明神ただ一社 奈良県橿原神宮は明治建立のばったもん 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、 中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。 ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。 そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、 石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、 石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。 ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、 木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。 石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも 伝わっていないのだ。 それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の 耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。 オール木製で。 しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も 日本の最古水田には一切伝わっていない。 日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと 言っているのと同じレヴェルの話である。 ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も 経ってからの事で、やはり木製であった。 石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ 永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 記紀は、一書を含めて全て淡路州をまず生んだとしている。 次のように考えた。 1、伊邪那岐・伊邪那美の二人は高天原から戻り、南あわじ市の「おのころ島神社」付近に上陸した。 2、おのころ島を改めて回りなおすと、諭鶴羽山の谷水を利用した開拓を開始した。 3、麓の神代浦壁や神代社家などの地名は、その名残かもしれない。 4、しかし、諭鶴羽山(608m)は低く、谷も浅く、海岸まで10数kmしかない。 5、日本有数の灌漑用池が密集している地区で、当時も水に難儀したものと思われる。 6、日本書紀は、淡路州の結果が不満足で、「吾恥島」だと自虐的に記している。 7、つぎの土地に移ったのだろう。 8、淡路島の鉄遺跡、五斗長垣内や舟木遺跡は、邪馬台国時代には終わっている。 9、伊邪那岐・伊邪那美の国生みで、瀬戸内海東部の情勢が安定し、鉄工房は各地に拡散したと考えた。 >>334 なんでも畿内中心にしか考えられないのは頭がおかしいぞ。 考古学的にもデタラメ。 >>334 なんでも畿内中心にしか考えられないのは頭がおかしいぞ。 考古学的にもデタラメ。 指摘ありがとうございます。 考古学のプロではないので、誤りがあるかもしれません。 具体的に指摘の内容を説明していただければ助かります。 自分なりに、誤りとわかれば修正したいと思います。 できるだけ詳しく、お願いします。 >>337 淡路島より前に「矛で」「おのころ島」を作ったとある。 そもそも銅矛文化圏(九州北部)の伝承と考えられる。 おのころ島は接頭語や助詞の違いを考慮すると、博多湾の能古島のことと考えられる。 かなり飛躍があるかもしれないが、イザナギらによる博多湾沿岸の倭国建国譚と解釈できる。 国生み神話では、九州北部の周辺の島ばかり小さい島が多く登場し、名称に「天の」とついている。 イザナギらの天津国は、この九州北部の島々(あまつくに=海の国)と考えられる。 記紀への収載に際して、西日本の各地を追加されたのだろう。 >>338 >淡路島より前に「矛で」「おのころ島」を作ったとある。 【大国主神を祀る、全国唯一の式内社「八鉾神社」】 徳島県阿南市長生町に鎮座する「八鉾神社」。祭神は大己貴命。延喜式内社である。 この「八鉾神社」には四つの重要文化財が神宝として保管されている。 また「八鉾神社」自体も重要文化財に指定されているので、合計五つの重要文化財を持ち合わせている神社となる。 一つは「大己貴命 木造彫刻立像」 二つ目は「少彦名命 木造彫刻立像」 三つ目が「二品家政所 下文 」 四つ目が「附紺紙金泥法華経」である。 この八鉾神社、阿波では出雲の「杵築大社(出雲大社)」の元社であると伝えられている。 八鉾とは八千矛神(やちほこのかみ)。 出雲の主であり、長(おさ)である大国主神のこと。 大国主神の別名、大己貴神は、長国の偉大な主を意味している。 大国主神は、スサノオ命の子孫で、稲羽の素兎の物語で有名である。 オオクニヌシは、兄さん達から大きな袋を持たされる等、色々のいじめを受けたが、それらの試練を乗り越え、出雲国を治める立派な人となった。 オオクニヌシの子供にコトシロヌシ(えべっさん)と建御名方神(たけみなかたのかみ)がいる。 コトシロヌシは、式内社の事代主神社として、勝浦町沼江と阿波市市場町伊月に祀られ、タケミナカタは、式内社の多祁御奈刀祢神社として石井町浦庄字諏訪に祀られている。 平安時代に記録される3132座の式内社の中に、これら八鉾神社や事代主神社・多祁御奈刀祢神社等の国譲りに遣わされた神達を祀る神社は、阿波にしかない。 @阿波 【大国主神を祀る、全国唯一の式内社「八鉾神社」】 https://blogs.yahoo.co.jp/noranekoblues/47852915.html?__ysp=44CM5YWr6Ym%2B56We56S%2B44CN44CR 気になる材料を羅列してみると、 渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、 ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。 弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、 その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。 最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で 始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。 複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から 稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>337 淡路島より前に「矛で」「おのころ島」を作ったとある。 >334 なんでも畿内中心にしか考えられないのは頭がおかしいぞ。考古学的にもデタラメ。 337は、考古学的反論でないので、334の方と違うようですね。 >337 歴史書を読んだ意見の相違のようなので、議論はしません。あしからず。 淡路島の製鉄遺跡の技術は九州系 淡路島にいた勢力は瀬戸内海を東進してきた北部九州の海人勢力 弥生期の鉄製ヤス出土 淡路で近畿初 https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/201803/0011093126.shtml >エックス線写真で分析した結果、先端から約1・5センチ下方に「かえし」が見られた。 >ヤスや釣り針にかえしをつくるには高度な技術が必要といい、鉄器製造が盛んだった九州などから持ち込まれた可能性がある。 >弥生期の鉄製ヤスや釣り針は、山陰や九州北部で出土する例が多い。 >愛媛大東アジア古代鉄文化研究センターの村上恭通センター長は >「山陰は九州から鉄製漁具を受け入れ、漁民が鉄器の交易を促進した」と分析。 >今回の発見で、漁具が日本海側だけでなく「瀬戸内側を伝わって来た可能性もある」と指摘する。 近江にも製鉄遺構が見られるが、近江には3世紀までに北部九州の海人族である安曇が進出しており、 これも淡路島同様に九州の海人の遺跡だとわかる https://biwako-genryu.shiga.jp/?page_id=603 > 安曇川周辺には、このアドやアマに関連する地名が数多く見られる。 安曇川町上古賀の「天川」や中央1丁目の「雨ヶ森」、新旭町安井川の「安曇」や > 太田の「安曇連(あづみむらじ)」に関する社寺と「阿曇比羅夫(あづみひら ふ)」の墓、今津町南浜の「天川」などである。 > そして、これらに福井県若狭町の「海士坂(あまさか)」や県境の「天増川(あますがわ)」をつなぐと、若狭湾方面から饗庭野を経由して安曇川流域付近に > 住みついた安曇海人の軌跡を示しているとみられている。 > また、移住の時期は弥生時代から始まって、3世紀以前に安曇川のデルタ一帯に定住したが、6世紀には当地域から姿を消したものと推測されている。 > > しかし、この軌跡は安曇川の中流域から上流域まで延長できるようである。 朽木地域では荒川に「雨乞いの淵」が、支流の北川には、野尻の上野に「天ノ阪」が、 > 下市に「あまんさか」が川に面してある。 また、京都市左京区百井の集落東方には天ヶ森(標高812m)があり、百井峠の南南東には天ヶ岳(標高788m)が > 安曇川の源流を見下ろすようにそびえている。 【筑紫を中心とする倭国の交易路】 もともと日本海ルートが倭国の交易の主力だった。4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備され、瀬戸内ルートが整備された。なお、太平洋ルートは事実上存在しなかった模様。纒向は日本海ルートの末梢の辺境。 筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父 ↓ ↓ ↓ 近江→尾張→纏向 ↓ 宇佐→安芸・伊予→阿波・吉備→淡路島→摂津・河内 【九州北部勢力による倭国の拡大】 紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現 →日本海沿岸の土器が博多湾へ流入 1世紀に銅矛などが拡散 2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征 →瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入 2世紀末に銅戈が大阪湾上陸 →3世紀初に畿内から庄内式土器が博多湾へ流入 3世紀末に大型内行花文鏡が畿内へ侵入 →畿内から布留式土器が博多湾へ流入 支配は西から東へ拡大し、土器などの産物は王都である筑紫へ 淤能碁呂島については、仁徳天皇御製と伝わる和歌に檳榔の島が出てくることから、檳榔が自生しない瀬戸内海ではないことが分かる 檳榔の自生北限は福岡県である http://zenyamaren.org/yamaren20-027.html > この口語訳は「古事記(講談社学術文庫)」によると以下のとおりになります。 > 『(おしてるや)難波の崎から、出で立って、わが領有する国をながめると、淡島や島、また檳榔の島も見える。佐気都島も見える。』 > 注釈には「おしてるや」は難波の枕詞、「淡島はイザナミ・イザナギの二神が国産みの最初に産んだとされる産み損じの島」であり、 > オノゴロ島は「神話上の島」、檳榔の島は「空想上の島」であるらしい、さけつ島も「実在の島ではあるまい」としています。 > 檳榔とはビロウの古名であり、ビロウは熱帯性のヤシ科の植物なので、南九州や四国太平洋岸には自生していても、 > 淡路島周辺の瀬戸内海には見ることができない植物です。これがネックとなり淡路島周辺のどこを見た風景なのかわからなくなってしまい、 > 結果「オノゴロ島」も「淡島」も「さけつ島」も全て「実在ではない島」となってしまっています。 > ところが、この詩がそもそも淡路島から見て詠われたものではないと仮定して、淤能碁呂嶋候補と言われている島の中から、 > 自生ビロウが存在する島に絞って考えてみると、以外にこの詩のなぞが解けてくるのです。 > 淤能碁呂島候補でビロウが自生している島とは、唯一『小呂島』しかありません。 つまりは海洋民族国家である天津国(海の国)すなわち倭国が筑紫を起点に日本海ルートと瀬戸内ルートで西日本を席巻したのが弥生後期の列島の姿であり、その中でも富と権力を思いのままにしたのが筑紫の日向の伊都に眠る卑弥呼であったのだろう。 檳榔が南国の植物であることからも分かるように、ビロウ祭祀は南海系の文化 ゴホウラ貝などを南西諸島と交易していた海人が持ってきたと考えると>>342 、343と符合する それが皇室の重要な祭事で重視されているというのも、皇室が海人の出自であると考えれば妥当だろう http://zenyamaren.org/yamaren20-027.html >なぜ、ビロウが手掛かりになるのかというと、このビロウという植物の古代天皇制から現在の天皇家にいたる祭祀上の特殊な位置づけがあるからです。 >まず第一に、古代天皇制においてビロウは「最も神聖な植物」とされたということです。 >皇族の中でも特に高貴なものに許された乗りものに、ビロウ毛の牛車というものがあります。屋根材をビロウの葉で覆っているものだそうです。 >なぜこのような牛車が高貴なものしか許されなかったのか? >おそらくそれは、天皇の即位式である大嘗祭に由来しているのではないだろうかと思われます。大嘗祭においては、天皇として即位する >儀式のため百子帳という小屋を建て、そこが天皇になるための禊の場となるのだそうです。 >この百子帳の屋根材は、なんと今でもビロウの葉でなくてはならないのです。 >ビロウ毛の牛車とは、おそらくこの百子帳を日常にアレンジしたものであろうと思われます。 >ならば、その使用は天皇にごく近い血筋をもったものしか許されなかったことは、想像に難くありません。 >>347 の続き >第二に、ビロウは古代から続く信仰のシンボルでもあった可能性があるということです。 >折口信夫によると、ビロウの葉は風を起こす呪具であり、扇の元となったといいます。風は航海や海戦にとって、命を左右する自然現象です。 >古代において、呪術と科学は同じですから、ビロウの葉はシャーマンにとって風をあやつることができる(とみせることができる)、 >重要なアイテムだったのです。 >また、吉野祐子によるとビロウの葉は扇の原型でもあるが、幹は男根の象徴であり、蛇信仰のシンボルでもあったといいます。 >実にビロウは、日本の風土と信仰に深く根ざす植物でもあるのです。 >そもそも、ビロウ祭祀を行っていたのは、南方から流入した系統の民族であり、沖縄・南西諸島のには必ずビロウが自生しています。 >宮崎県の天孫降臨伝説が残る青島は、まさに北半球最大のビロウ自生地であり、青島神社の元宮は縄文時代からの遺物が発掘されます。 >古代天皇制に南方の習俗・祭祀が取り入れられているのは、古墳時代の遺物からもゴホウラガイの腕輪などからも推測されますが、 >山幸彦・海幸彦伝説の起源を考える上でもとても興味深いのです。 > >さて、このようなビロウが沖ノ島や小呂島に自生しているのは、どんな意味があるのでしょうか?沖ノ島は4世紀から9世紀までつづいた >天皇家による古代祭祀が行われた場所として、当然祭祀目的で持ち込まれたことが推測できます。 >なぜなら、沖ノ島のビロウは海岸からは遠い崖の上に自生しているので、とうてい海流による自然分布とは考えられえないからです。 >このことは、総合地球環境学研究所の秋道尚彌名誉教授が沖ノ島世界遺産関連の論文の中で指摘しています。 沖ノ島の檳榔が自生ではなく持ち込まれたものであるというのも重要ポイント そこが皇室にとっての重要祭祀の地であったことの裏付けとなる 倭国とは対馬海峡の海洋国家。 だが筑紫は本拠地ではなく、倭王ニニギは宗像氏族に守られて筑紫の日向つまり伊都国に赴任した。 どこから来たのか? 記紀には高天原とあるが、それがどこかはわからない。 だがアマテラスを祭る国家祭祀が行われていた場所が対馬海峡の中にある。 世界遺産にも指定された沖ノ島だ。 ここが高天原の有力候補だろう。 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか 経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、 佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、 日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、 朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。 このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。 この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で 比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。 ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。 日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 卑弥呼共立の倭國は、前漢の頃から変わらず北部九州。 倭國の乱は、後漢時代に倭を代表していた玄界灘側の王家(天孫族)と、新興勢力であった有明海側の王家(熊襲)との騒乱。 有明海側の有利で和平の手打ちしたため、祭祀王(卑弥呼)は有明海側が擁立した。 しかし王が博多湾沿岸(伊都)に移り本家の有明海沿岸が手薄になったので、そちら(狗奴国)で王を名乗るものが現れた(卑弥弓呼)。 その頃、一足早く大和に東征していた玄界灘勢力の一派(饒速日)が纒向に大型建物の祭祀施設を建てていた。 敗者となった玄界灘勢力の本体(神武)が大和に落ち延びて合流した。 これが、リアルな2世紀末の歴史。 >>342 淡路島の製鉄遺跡の技術は九州系 淡路島にいた勢力は瀬戸内海を東進してきた北部九州の海人勢力 舟木遺跡の情報ありがとうございました。 淡路島の五斗長垣内や舟木遺跡が大阪湾でなく西を向いた位置にあることから、近畿の勢力がわざわざ淡路島に鉄工房をつくったのではなく、瀬戸内海をやってきた人たちが つくった遺跡との意見は、これまでネットでも見られました。 伊邪那岐・伊邪那美がやってくる前に、加茂族に代表される北部九州の人たちが、戦乱をのがれ海人の力を借りて瀬戸内海をやってきたのではと考えました。 やってきた人たちは、農地の開墾や漁業など生活に鉄道具は欠かせない時代となっていたので、力をあわせて中心に近い淡路島に鉄工房をつくったのではないでしょうか。 ◆中国の釜 中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。 釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。 http://ja.wikipedia.org/wiki/ 釜 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた . >>342 >淡路島の製鉄遺跡の技術は九州系 淡路島は倭国(阿波)の数ある島の一つ と、何度言えばw 鍛冶遺跡も同前。 @阿波 神武天皇という漢風諡号じゃなくて神倭伊波礼毘古命という和風諡号を日本人は使うべき >>343 近江にも製鉄遺構が見られるが、近江には3世紀までに北部九州の海人族である安曇が進出しており、 これも淡路島同様に九州の海人の遺跡だとわかる 「安曇海人の軌跡」の情報ありがとうございます。 最近は安曇の検討も進み、ネットで知られてきましたが、まだ知らない情報でした。 私は、海神・豊玉彦を調べている中で、渥美半島の白浜から三河湾の白浜、豊田市の白浜、津島市の白浜の経路をたぐり、二つの稲部を経て琵琶湖を渡り高島市の白浜につづく、日本の中央部を横断する道を探し当てました。 豊玉彦が銚子の砥石などを舞鶴の火明命の地に運ぶ道ではないかと考えました。 改めて高島市付近をみると、鴨稲荷古墳が見つかりました。加茂族も無関係ではなさそうです。 高島市を見下ろす位置に稲荷山があり、訊ねたことがあります。もしかしたら東征を終えた豊受大神は丹後に身を引いた前後に、この高島を訪ねているかもしれないと考えています。 海神・豊玉彦が国造りに貢献したことの感謝に出向いたのでしょう。この部分は私の古代ロマンです。 >>343 >これも淡路島同様に九州の海人の遺跡だとわかる 九州には、倭国(阿波)の海人族(忌部)のような部族は認められない。 @阿波 矛でかき混ぜは鳴門の渦潮を表してる 高天原は渦潮が見える山 いにしえの人々の気持ち、ロマンが感じられないセンスのない答えはいらない 高天原は海と大空が繋がるところ 美しい大海大空が見れるところ 天命を感じることができるところ 私は淡島粟島は九州の淡海にあった島が発祥と見ている 数ある福岡のあわ島神社も創建が不明な所もある 朝倉日向の淡島、川崎の淡島 古遠賀潟や多くの河川が埋めたてられた土地になってしまったから 淡海のイメージが伝わらないだけ 万葉集の淡海にヒントがあると思う 万葉集の淡島は阿波志摩という表記がある 阿波のどこか 徳島の善入寺島は古くから粟島と呼ばれてる 淡島は善入寺島のことだろう 淡島(粟島・善入寺島)の増水、淡路島の渇水で失敗した、伊邪那岐・伊邪那美の開拓は次に愛媛(伊予)に進んだと思われる。 理由は、 古事記では2番目、日本書記本文では3番目に国生みしたと記している。 神生みでは建築の神々を最初に生んでいて、石土毘古(いわつちびこ)神が石鎚山に祀られている。 伊予は「伊予二名州(いよのふたなしま)」と記しているが、この二名の解釈がいろいろ出ている。 A、古く四国は東西に「伊国」「予国」と二つあった説。 B、四国は「面四つあり」と記していて男女二つのペアに分かれているため、二名とした説。 C、二名とは伊予と愛媛とする説 ホワイトケープの考え 1、二名とは伊予開拓の神の名である、伊予津彦、伊予津姫のことと考えた。 2、伊予津彦は伊予開拓時代の伊邪那岐で、伊予津姫は同じく愛媛開拓時代の伊邪那美の当時の名と考える。 3、伊予は伊都国の伊で土地を広げる意味、伊都国の将来を預ける意味があると考える。 4、愛媛の名は、伊邪那美の元名あるいは、伊予時代の愛称と考える。 >>364 >淡島は善入寺島のことだろう そうだね。 あの辺り一帯は「忌部の郷」だから。 国の始まりだったのだろう。 @阿波 >>370 日本@名無史さん2019/01/20(日) 01:31:36.57 伊予にフタナという地名があったんじゃないの? 愛媛県に3か所ありますネ @ 佐多岬半島の中程の伊予灘に面する二名津。 A 宇和島市三間町の二名駅、二名小学校、二名郵便局。もともとは二名の字があったのでしょう。 B 久万高原町の二名川、字の二名。 二名津を訪ねてみましたが、古代との結びつきを感じさせるものはありませんでした。 やはりここは、二つの名前と考えた方が良いように思います。 伊邪那岐・伊邪那美の国生みという名の開拓は、愛媛から讃岐に進んだと思われる。 「伊予国は愛媛といひ、讃岐国は飯依比古といひ、粟国は大宣都比売といひ、・・・」 とあるからの推定。 1、主に讃岐平野西部の丸亀・善通寺・琴平・三豊付近の開拓にあたったと考える。 2、善通寺市の旧練兵場遺跡群は、吉野ケ里遺跡に匹敵する大きな遺跡で。近隣集落の中心都市の様相を示す。 3、詫間町の先半島にある紫雲出山の高地性集落は、ここにやってくる船を待ち受け迎えていた施設と考える。 4、この付近には竜王山が二つもあり、後の竜王こと豊玉彦が国生みの跡を訪ね、国生みの足跡としたと考えている。 古代の名前で伊がつけば ほぼ渡来系と思ってよし 山陰山陽九州越えて四国か かなり難しいような >>376 名前:日本@名無史さん 2019/01/24(木) 17:14:29.61 >古代の名前で伊がつけば >ほぼ渡来系と思ってよし 以前からなんとなくそのように感じてましたが、 「伊」のルーツはどのあたりだったのでしょうねえ?? 伊?それが判れば何でも解決するわ 出雲?五十猛? 伊大氏?加邪?糸島?五十島? 五十は、イズともイトウとも? 伊邪那岐、伊邪那美の国生みは、愛媛・讃岐を経て阿波に戻ってきたと思われます。 その経路は定かでないが、弘法大師ゆかりの雲辺寺近くの竜王山付近を越えたと考えます。 雲辺寺の展望台からは竜王山が良く見えます。廟が竜王山方向を向いています。 弘法大師ゆかりの寺(48か所)は、多くが国生みなど建国とかかわりの多い箇所に見つかります。 阿波に入った二人は、淡島の失敗を繰り返さないよう、今度は川上から開拓を始めています。 伊邪那美を祀る神社が、川上から三社並んでいます。 @ 天椅立神社 徳島県東みよし町昼間 吉野川北岸にあり、この付近から耕作地が広がる。 A 伊射那美神社 徳島県美馬市美馬町中島 B 伊射那美神社 徳島県美馬市穴吹町三島 長女の天照大御神は、南岸の加茂神社付近で誕生したか幼少期を過ごしたかもしれない。 加茂神社付近から山に入った先に、日ノ丸山があり関係する伝承が残る。 >>379 >伊邪那美を祀る神社が、川上から三社並んでいます。 伊邪那美の陵墓は、高越山山頂奥の院。 それら三社は麓へ分社したものだろう。 @阿波 阿波開拓の中で伊邪那美は亡くなったと思われます。 徳島県美馬市穴吹町三島の伊射那美神社を宮としていたころと思います。 謎はいくつもありますが、亡くなった場所についての調査結果と考えです。 @ 伊邪那美が亡くなった事故があったところは、熊野の「花の窟」付近と考えます。 A 阿波から一時的に七里御浜に沿う海岸段丘の内側を流れる産田川沿いの開拓にやってきたときの事故と思われる。 B ここは、水を得やすい開拓適地である。 C 産田神社には伊邪那美と死の原因とされる迦具土神が同時に祀っている。 D 3人姉弟の末の須佐之男のみをつれてやってきていたと考える。 E 須佐之男命は出雲の熊野大社に祀られていて、熊野と関係が深い。 F 「土俗この神の魂を祭るには、花の時には花を以て祭る、また鼓吹、幡旗を用て歌い舞うて祭る」と紀は花の窟に葬ったと記す。 G 花の窟がある山は竜宮山の名がある。後の竜王こと豊玉彦がやってきて、国生みの足跡に残したのだろう。 H 伊邪那岐は一緒でなかった。このとき伊邪那岐は西摂の開拓を行っていたと思われる。猪名川上流にもう一つの竜宮山がある。 阿波開拓の中で亡くなった伊邪那美の死の原因は何だったのでしょう。 記紀はか火之迦具土神の出産事故のごとく記しているが? @ 火が関係することは間違いないと思われます。 A 亡くなった後、駈け付けた伊邪那岐に「我を見たまひそ」と、顔を見ることを拒んでいることから、恐れ多いことながら火傷の事故と考えます。 B 衣に火が付いたか、寝所の建物に火が付いた事故と考えます。それも夜の事故かもしれません。火之加具土神の別名が火之夜芸速男神だからです。 C さあ大変です。七里御浜から阿波に向けて速舟が出たでしょう。「熊野の諸手船」です。 D 遅れて伊邪那美も阿波に運ばれます。潮岬を回り御坊の日ノ岬付近から紀伊水道付近を渡り、阿波を経て吉野川を遡ります。 E 約220km、到着は翌日か翌々日になったと思われます。看病したのは彌都波能売神かもしれません。彌都(水)と波からの連想です。火傷の手当ては水で冷やすことが大事です。 F 必死の看病も甲斐なく亡くなりました。 熊野の「花の窟」付近で火傷を負った伊邪那美を、阿波に船で運んだことが、祭りとして残されていた。 熊野速玉大社の御船祭りに、この大事故の痕跡を見ることができる。 @ 熊野速玉大社には伊邪那岐と伊邪那美が祀られている。 A 御船祭りは、伊邪那美が神幸船で熊野川を1kmほど遡った川中の御船島に渡り、再び社殿に戻ってくる祭事である。 B この祭事は伊邪那美が無事に戻ってくることを願う祭事である。 B 9艘の早船による競争や「諸手船」の上で「ハリハリ踊り」などが行われる。 C 船の先頭には、赤い頭巾を長くたらし、赤い衣に黒い帯を締めた男が、「ハリハリセ」と言いながら舳先で踊る。時には前方を指さすしぐさをする。 D 「ハリハリセ」は「速く、速くせー」に聞こえる。この男こそ伊邪那美命を阿波に運ぶ船の指揮を執っている加具土神の姿であろう。 E 神宝館には神輿が乗った神幸船が残る。その神幸船には、船を漕ぐ櫂を持った稚児像が乗せられる。須佐之男命が必死に船を漕ぐ様子である。 F 須佐之男命が泣き虫で、母親思いに育ったのは、この時の記憶によると思われる。 G このように事故が祭りとして残ったのは、伊邪那岐が伊邪那美と別れを決断した時、速玉之男と事解之男に事故を残すよう命じたためと思われる。 熊野で亡くなった伊邪那美命は、阿波に運ばれて吉野川市の高越山の頂に葬られたと思われる。 その「もがり」の地は麓の山川町と推測した。 @ 遺体は熊野から早船で、美馬市穴吹町三島にある、当時の宮、伊射那美神社にはこばれた。 A 猪名川から駆けつけた伊邪那岐は、「愛しき我が汝妹の命を、子の一つけにかへつるかも」と、怒りのままに加具土神を斬ってしまう。 B その血は湯津石村に走りついたと記す。その湯津石村は下流にある、岩津と湯立のことと思われる。吉野川をはさんだ2地点である。 C 2地点の中間は舟戸で、船で運ばれた遺体はここから、近くの小高い山にある「天神社」に運ばれた。ここが「もがり」の場所となった。 D 40mほどの石段を上った「天神社」は今も荘厳な雰囲気がのこる。伊邪那岐は近くの天皇原の仮宮から「もがり」に通ったのだろう。 E この小さな山川町の扇状地が、もがりの平野となった。各地から伊邪那美の死を悲しみ集まり涙を流しただろう。 F 3人の子供たちは、天神社の反対の丘から、見送ったかもしれない。 G 扇状地には、住吉や春日など後に活躍する人の姓が残る。扇状地の東と西に忌部山があり、天神社を差しはさみ記録している。 >>1 神武東遷と魏志倭人伝では時代が合わないので論外 >>390 神武東遷と魏志倭人伝では時代が合わないので論外 意見で言っている意味が、今ひとつわかりません。 魏志倭人伝は卑弥呼(天照大御神)が亡くなる前後のことが書かれています。 神武東征は卑弥呼(天照大御神)が亡くなって、台与(豊受大神)の時代に行われたと考えています。 これを時代が合わないと表現しているのですか? はたまた同じ3世紀の出来事なので同じ時代と表現しているのですか? 卑弥呼の前の男王70〜80年が後漢代に相当する筑紫の日向三代だ。 倭国大乱で神武らが畿内へ敗退し、九州に卑弥呼、大和に饒速日王権と神武らの小部族がいた。 天皇の年齢が過大に見積もられているのを修正すれば、神武東征は2〜3世紀にかけてになる。 >>392 そもそも卑弥呼がアマテラスだというのが間違い 仮にそうだとしたら、記紀にもっと詳しく邪馬台国のことが書かれてるはずだが 実際には神功皇后の章に、他と文体の違う注釈として、魏書に倭国の女王が魏に朝貢したとの記述がある。とだけ書かれている。 >>394 古代の寿命が盛られてるのは、意図的な捏造ではないよ。 魏志倭人伝でも 邪馬台国の住人は、皆百歳、或いは80歳や90歳である。と書かれていたり 当時の倭国には暦の概念はなくただ春に植えて、秋に収穫する。と書かれている。 3世紀の日本に太陰暦による一年の概念がまだ導入されてなかったことは、魏志倭人伝が証明している。 古代の日本では春から夏の植物の生育の時期で一歳、秋の刈り入れから冬が終わるまででまた一歳と 1年で2つ齢をとるように数えていたことが、結構容易に推測できる。 古代天皇の年齢が高齢すぎるから嘘だとすると、邪馬台国自体も嘘だと言うのと変わらない。 どこかの医大の先生が、縄文人の人骨の鑑定を行った事があるが、12歳未満の子供の例を除外すると 3/4は70代まで生きていたことが確認されている。 縄文時代だと乳幼児の生存率は低くなってしまうが、十分に成長した個体は、今とあまり変わらない寿命だったのよ。 だからこそ、欠史八代を架空ではなく実在として現実的な年齢を仮定すると、神武は2世紀末の倭国大乱の時代の人物になるんだよ。 そして神武が去った後の倭の王都である筑紫の日向で共立されたのが卑弥呼であったのだろう。 >>396 魏使は見るからに50歳の男が、オレは100歳だと言うのを信じたんだよな >>396 自分が矛盾したことを言ってるの分かってる? >>398 寧ろ百歳代がゴロゴロいたとしたら、世界史レベルのミステリー。 邪馬台国の場所なんかよりもよっぽど重要 >>401 見大人所敬 但搏手以當跪拝 其人寿考 或百年或八九十年 「其人寿考 或百年或八九十年」 人々は寿命が長く、ある人は百歳、ある人は八、九十歳までも生きる。(藤堂明保「倭国伝」) →集団のうち何人かは長老がいたんだね 縄文時代に半数以上の人々が七十代まで生きていたんだから、しごく当たり前の状況 伊邪那岐は、「愛しき我が汝妹の命を、子の一つけにかへつるかも」と、怒りのままに加具土神を斬ってしまった。 伊邪那美命の死の責任をとった加具土神だが、無実と思われる根拠。 @ 加具土神は伊邪那美命による神生みの中の1神であって、伊邪那美命の出産ではなかった。 A 伊邪那美命は火の事故で亡くなったと思われるが、加具土神自身の過失ではないと思われる。 B 加具土神の過失なら、加具土神の姿と思われる御船祭の船の舳先で活躍する伝承は残らなかったであろう。 C 熊野の産田神社では伊邪那美命と火之加具土神が同時に祀られている。過失責任があればこのようなことはあり得ない。 D 加具土神は埴山姫をめとって和久産巣日神をすでに生んでいた。成人した男性であったことを一書(第二)二記している。 E 和久産巣日神は後の豊受大神(台与)を生んだと記している。先祖に罪のある人の末裔が女王になれるはずがない。 F 高天原は加具土神に罪がない中、伊邪那岐に殺されたことを知っていたと思われる。 G 須佐之男命と和久産巣日神は幼馴染だったと思われる。罪のない加具土神の子であることを知っていて、和久産巣日神の孫との間に豊受大神をもうけた。 H 天照大御神が亡くなった後、男王たち国中不服の時、豊受大神(台与)が選ばれ国中が収まったのも、これらの経緯が知られていたためと考える。 >>404 其人寿考だから、稀に長寿がいるという解釈はおかしい。 >>407 「其人寿考」の解釈としては 何人かがご長寿というわけではない。 例えば「其人很高」と書けば、その集団は背が高いとなる。 これを「集団の何人かは背が高い」とは解釈しないのと同じで 「其人寿考」は集団としての邪馬台国の特徴を書いているので 大多数はご長寿だったと受け取るのが正しい解釈。 縄文期の乳幼児を除いた3/4が70代まで生きているが 80〜100というのはかなり特異なご長寿大国であり 医療の発達していない3世紀では、これは当たり前のことではないし 同じ先生の研究でも弥生人も70代までは生きていた形跡はあるが 80〜100というのは稀に見るレアケースだとされている。 結局、邪馬台国で寿命を盛られていたか、2倍説かが妥当となる。 大体70歳まで生きてるんなら集団として長寿だろ 平均がそうなら中には80〜100歳の長老がいておかしくはない >>409 80〜100歳が稀にいるか、皆その程度まで生きるかは、雲泥の差。 魏志倭人伝の書き表し方は後者だと言うだけ。 そもそも魏志倭人伝では、邪馬台国には暦がない。と、ハッキリ書かれている。 暦がないのに歳がわかるとはこれ如何に? 普通よりもご長寿大国であった記述と合わせて考えれば、独自の年齢の数え方があったとしか言いようがない。 それも魏志倭人伝にヒントを求めると、同じ文から求められる。 其俗不知正歳四節 但計春耕秋収 為年紀 春に耕作して一歳。秋に収穫して一歳。 太陰暦も太陽暦もない1700年前の出来事なんだよ。 354日や、365日、384日で一年が過ぎて、一つ歳を取るという概念がまだなかった時代に、今の年期の常識は捨てなきゃね? >>410 言わんとしてることは十分理解できるが、当時の大陸だって30代半ばまで生きてる人は普通にいたわけで、同年代の倭人を見たんならことさら「其人寿考」とは書かないんじゃないか? >>410 >暦がないのに歳がわかるとはこれ如何に? これ判断したのは魏使だから >其俗不知正歳四節 但計春耕秋収 為年紀 >春に耕作して一歳。秋に収穫して一歳。 誤読 >>412 太陰暦を使ってない事は、魏使の勝手判断ではないよ? 年齢にしても当人らに聞くか、対応した倭国の接待役に聞いたはずだよ? >>413 >暦がないのに歳がわかるとはこれ如何に? これあなたの発言だよね >>414 そうだよ。 魏志倭人伝には当時の倭国には太陰暦がまだ導入されていなかったと書いてある。 でも、年齢がわかる。 つまりは独自の年紀法があったということだろう。 それが季節の変節によるニ倍年紀法だと俺は考えている。 じゃないと、其人寿考と辻褄が合わない。 其人寿考をぼやかして長老もたまにはいた。と、誤魔化すしかなくなる。 70歳が普通にいたんなら、二倍年紀で140歳になるだろ、辻褄はどこにある 「春耕秋収 為年紀」 これで1年としたと書いてあるな >>416 其人寿考に当たるのは、今の年紀法での70代の事ではないんだよ? 普通の年齢分布なら、当然高齢者は少ないから其人寿考の範囲外だよね? >>419 「其人寿考」を判断したのは魏使だよ、普通の年紀法に基づくものだ 見た目50歳のやつが100歳だと言ったのを信じたわけではなくて、 見た目100歳のやつが100歳と言ってたということだね で、年齢と邪馬台国の東遷に関係性はあるのか? そもそも邪馬台国の東遷自体に根拠がないし、記紀との連続性のなさすぎな点から、東遷はないと考えたほうがよい。 >>422 古代史ファンタジーってやつだから、根拠なんてなくても言ったもの勝ち。 >>376 ->>378 イは東四国を指す言葉 http://park17.wakwak.com/ ~happyend/kojiki/awa/awa_01.html#Anchor-02 【倭国】 紀元前に博多湾沿岸に倭国が成立して漢と国交を持ち、後漢の頃には漢委奴国王印により倭国王に冊封された。後漢書では、倭国は朝鮮半島南岸の狗邪韓国から九州北岸の倭奴国までの、対馬海峡の海洋国家として書かれている。 対馬海峡における貿易の権益が、天津神すなわち海の神を中心とした倭国の形成の原動力であったと考えることができる。 記紀の国生み神話で、イザナギが矛を使って最初に得た領土である淤能碁呂島は、銅矛文化圏の中心である博多湾にある能古島のことである。 それに続きイザナギとイザナミの生んだ国土のうち、天の冠詞がつく隠伎之三子島(天之忍許呂別)、伊伎島(天比登都柱)、津島(天之狭手依比売)、 女島(天一根、姫島)、知訶島(天之忍男、五島列島)、両児島(天両屋、男女群島)が天つ国(海の国)の本来の領域である。 倭は博多湾沿岸を都として対馬海峡に広がるという後漢書の記事とよく対応している。 国産み伝説には、記紀編纂までに西日本各地の土地が追加された。 博多湾岸を起点として対馬海峡から朝鮮半島南岸へ、日本海から山陰や北陸に広がる国が古代の倭国の姿である。 連合国家である倭国の盟主は筑紫であり、他に九州北部の倭国連合を構成する豊国、肥国がある。倭地とされた本州には出雲、越などがあった。 中国との交易は一貫して筑紫が独占していた。 卑弥呼の時代には倭は九州内陸へ拡大していく。 九州で出土した副葬品の分布地図 http://www.netpia.jp/history/map-fukusohin237.gif 上記の地図は邪馬台国と狗奴国(熊本)を合わせた九州北部の国、倭国の中枢を示している。 実際にはこれに属州としての日本海沿岸、瀬戸内海沿岸の地域が付随する。 卑弥呼の時代の畿内は、奈良も京都も大阪もまだ沼地であり、特に奈良は主要交易路からはずれた名もなき辺境の沼地であった。 2世紀の倭国大乱後の女王の墓として3世紀に平原遺跡が作られた。 副葬された王位の証である八咫の鏡は、筑紫伊都国が王権の所在地すなわち倭国の王都であったことを示している。 http://park17.wakwak.com/ ~happyend/kojiki/awa/awa_01.html >>426 > 女王の墓として3世紀に平原遺跡が作られた。 なんであんなへんぴな所に埋葬されたと思う? >>426 一所懸命書いたことは評価するが前半数行を除き大半が根拠のない妄想 淤能碁呂志摩について、記紀では淡路島から岡山の間に島であるとあるので、まず出だしからして違う。 原文でソース貼ると 淤志弖流夜 那爾波能佐岐用 伊傳多知弖 和賀久邇美禮婆 阿波志摩 淤能碁呂志摩 阿遲摩佐能 志麻母美由 佐氣都志摩美由 訳わからんので現代語訳 浪速から出発して私の国を見てみると、アハ島、オノゴロ島、アジマサの島も見える。サケツ島も見える。 詠み人は仁徳天皇 仁徳天皇が浪速にあった宮から吉備国へ向かう途中に見えた島について詠んだ歌 仁徳天皇の大后、石之日売命は、葛城之曾都毘古の娘である。 葛城之曾都毘古の父は、第8代天皇・孝元天皇(こうげんてんのう)の御子、武内宿禰(たけうちのすくね)。 母は、山下影日賣(やましたのかげひめ) で、その兄が珍彦(うづひこ)である。 珍彦(うづひこ)とは、神武天皇を水先案内し、後に倭国造の祖となった倭宿禰命であり、その父が「天村雲命」である。 吉備の黒日売は「海部直の娘」であるが、その海部直の祖先にも当たる。 その「天村雲命」が日本で唯一の式内社「天村雲神伊自波夜比賣神社」にて、阿波で祀られている。 @阿波 「式内社 天村雲神伊自波夜比賣神社 http://www.genbu.net/data/awa2/murakumo2_title.htm 」 香川の津田町は少なくとも10世紀には難波と呼んでいた 今のところ大阪よりも古い 仁徳天皇は中国では讃と呼ばれていて その縁で讃岐になった 仁徳天皇は間違いなく香川の人間 >>434 >仁徳天皇は間違いなく香川の人間 ただし、倭国の時代は東讃も倭国(阿波)の領分。 @阿波 日本史スレの三大キチガイ 阿波 チョンコ 松傾河童婆 >>428 日の出る方に神奈備である高祖山を配しているから? 筑紫の日向の高千穂の櫛古山が高祖山なんだろう。 最重要地域である博多湾を一望できる山城(怡土城)があった。 >>438 だーかーらー 東に高祖山、西にトミ山やコウリキ山、南に雷山、北に可也山と女王が眠るのに適した土地はたくさんあるのに あえて曽根台地のヘリ、しかも下った所にヒッソリと埋葬したのかって意味だよ 土地の話ではなく場所の話ってことね たしかに不自然な場所ではあるよな >>426 >卑弥呼の時代の畿内は、奈良も京都も大阪もまだ沼地であり、特に奈良は主要交易路からはずれた名もなき辺境の沼地であった。 これも否定しておく。 神武天皇が畿内に入って宮を構えたとされる畝傍山の麓には、橿原遺跡と言う遺跡がある。 橿原遺跡は縄文晩期からのものであり、紀元前600年頃の神武東征とも符合する。 出土品の年代測定は近年行われた事で、日本書紀編纂時に、都合よく時代の合う遺跡を、神武天皇の宮の場所に捏造することは不可能。 また、橿原遺跡以外にも、奈良盆地内には天理にも縄文期の遺跡があったりするわけで 畿内水没説が根拠のない妄想であることがわかる。 そもそも奈良湖説は、遺物による証明はされておらず、山辺の道と言われる古代の道が 奈良盆地の標高50m程度にあるから、湖があったに違いない!と言う、脆弱な理屈によって描かられ妄想。 奈良湖予想図と言うのも出回っているが、根拠がない上、作者不明の怪しいもの。 >>441 >畝傍山の麓には、橿原遺跡と言う遺跡がある。 湿地帯だから、麓にしか遺跡がない。 平坦地は湿地帯だった証拠。 @阿波 >>439 糸島平野の中でのロケーションの話か。 それはわからないなあ。 むしろ識者の意見を聞きたい。 >>442 痕跡が一切出てきてないと言う時点で、あると言うなら証拠を出せ。 奈良盆地の湿地帯と言うのは、そもそも盆地北部の大和川沿い、斑鳩の水害の話しをヒントにした作り話だ。 畝傍山の麓に宮を構えたのも、日本書紀に理由が書いてある。 湿地で人が立ち入れなかったと言う理由でもないし 神武天皇以降の天皇は奈良盆地内をかなり活発に移動してる。 >>445 >湿地で人が立ち入れなかったと言う理由でもないし いくら湿地帯でも、人の立ち入りぐらい出来まんがな。 ただし、人が住み暮らすような場所じゃないがね。 @阿波 >>446 奈良盆地なんて、掘り返したことのないところが無いんじゃないか?って位あちこちで発掘調査やってるのに証拠がない。 それでもあると言うならと、証拠の提示をどうぞ。 今の所、海抜50mに道があったというだけで空想された絵空事だよ。 そもそも縄文遺跡が大阪にも奈良にも京都市内ですらある。 畿内を人の住めない土地にしたいのは、非畿内説論者の中でも頭のおかしな一部の人たちだけ。 >>1 >定義1 倭国の女王・卑弥呼は天照大御神。台与は豊受大神のことである。 卑弥呼=アマテラス説の拠り所とされる天の岩戸隠れ=皆既日食説は、国立天文台の計算により 卑弥呼の生きていた時代に奈良でも九州でも皆既日食は見られなかった事が判明しており不成立だよ。 >定義5 神武・倭国の連合隊は、狗奴国との戦いを決着させて出発した。 魏志倭人伝の後半、卑弥呼の最後の朝貢のあった247年の時点で、狗奴国と戦争状態であると帯方郡に報告し、張政が邪馬台国に派遣される。 そして卑弥呼が死に、壱与が立って張政を送り返しつつ壱与の最初の朝貢が行われる。恐らく248年から250年の出来事。 魏志倭人伝はここで終わる。 壱与の朝貢の時点で狗奴国は存続しており、300年代後半の仲哀天皇の九州遠征まで生き残っている。 ここから導き出されるのは、邪馬台国・女王国連合は、狗奴国(南九州勢力)に滅ぼされたということ。 雄略天皇が倭王武であった確率は、ワカタケルの剣などでほぼ確定されており そこから年代を遡っても、仲哀天皇の九州遠征の時期の整合性も合うため、妄想だけでは崩せない。 >>450 >300年代後半の仲哀天皇の九州遠征まで生き残っている。 そんなアホな。 当時の天皇が、九州くんだりまで行くわけないでしょ。 @阿波 >>450 意見をありがとうございます。以下は私の意見です。 ● 岩戸隠れ=皆既日食の件 この説は私も疑問に思っています。岩戸隠れは、須佐之男命が出雲に向かう若い時の出来事で、天照大御神(卑弥呼)が亡くなった時と年代が合わないと考えています。 天照大御神と卑弥呼には、多くの共通点があることは、安本美典など他の方も述べているので省略します。 天照大御神の父母の伊邪那岐・伊邪那美の名が魏志倭人伝に登場するクニ名から、1文字ずつ採った名であることを見つけていて、天照大御神と卑弥呼が同じ時代に生きたことや、跡を継いだ人物が共に女性であることの根拠は大きいと考えています。 ● 狗奴国との決着の戦いの件 神武東征が行われたのは、晋への「最後の遣使」265年頃の後と考えていて、魏志倭人伝に記されていないことは、矛盾がありません。 また、最近の研究では、破鏡が弥生後期終末の熊本平野・大野川流域の住居跡から多く見つかっています。 これは終末期のこの戦いに参加した兵が、家族との別れに親子夫婦の絆として持参した破鏡が、あわただしい中で紛失したものと考えています。 同じ地域に鉄鏃が多く出ることと、古墳時代になると破鏡が全く出土しないことが、戦いのあったことを示唆しています。 >>453 破鏡の出土分布図を貼り忘れたので追加します。 「破鏡の伝世と副葬−選考事例の観察から−(辻田淳一郎)」より 破鏡分布図(弥生時代後期〜終末期) http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu57.jpg >>454 中国で皆既日食が見れただけで、日本列島上空では皆既日食にはなってないと言うのは、国立天文台の計算で揺るがない事実 卑弥呼の前の男王が日向三代なら、神武東征が倭国大乱の影響になる(大乱そのものは筑紫における政権交代)。 その後に天照のモデルとなる卑弥呼の時代があり、八咫の鏡が伊都で作られた。 だか、記紀では日向三代の祖が天照であり、これは考古学的にも難しすぎる(そんな時代に大型鏡を製作する技術はない)。 やはり天照は複数の年代の複数の人物が習合された結果だろう。 天照(海を照らす)が対馬海峡の海洋王なら、天照像の成立に日食の件も影響はあっただろう。 >>453 仮に欠史八代の天皇をいなかったとしても、4世紀の14代仲哀天皇が6代になり、265年ではやはり時代が合わないし 21代雄略天皇が5世紀の人物であることからも、やはり辻褄が合わない。 神武天皇が宮を構えた、橿原遺跡の歴史ももっと古いので、その点でも、九州邪馬台国連合の東征は現実味に欠ける。 そもそも欠史八代の天皇の実在性を明確に否定できる証拠もないけどね。 本論文の結果からすると,西暦247 年3 月24 日の日食は北九州でも深食である.とくに北九州市や北九州沿岸の島で は皆既であった可能性がある。 北九州市も皆既だな 石川から福島にかけて皆既日食が見られたんじゃなかったかな? >>464 それは248年9月5日かな >>463 は247年3月24日だろ >>460 >仮に欠史八代の天皇をいなかったとしても、4世紀の14代仲哀天皇が6代になり、265年ではやはり時代が合わないし 21代雄略天皇が5世紀の人物であることからも、やはり辻褄が合わない。 意味がよくわかりません。 >>神武天皇が宮を構えた、橿原遺跡の歴史ももっと古いので、その点でも、九州邪馬台国連合の東征は現実味に欠ける。 橿原遺跡は、縄文時代から奈良時代までにわたる各時代の遺跡群とウィキペディアは記しています。 橿原宮に近いが、記紀の記述から解釈した、神武が紀元前660年即位説は多くの人が否定しています。 遺跡から神武に結び付くものは何も出ていません。 大和王権が確立する古墳時代に入る前の纏向遺跡が現在、東遷の有無についての焦点です。 >>441 に自らの過ちを認める度量があるかが気になるところ 国生み研究の続きです。 山川町の天神社での「もがり」を終えた伊邪那美命の遺体は、近くの高越山頂に運ばれ葬られたと思われます。 その根拠は @ 山頂には伊邪那美命の神陵と伝わる遺跡がある。 A 山頂の高越寺の修験の人たちが、神陵をお守りしている。 B 「火神、死せる時成る」神々に8柱の山神が登場する。伊邪那美命を山頂に運ぶ際、活躍した山神と考える。 C 高越山は岡山県井原市にもう一つあり、結ぶと比婆山に結ばれている。 D 比婆山は後に伊邪那岐が吉備開拓の中で設けた陵と思われる。近くの二つの吾妻山が指し示している。 G 比婆山、阿波の高越山を結ぶ中間には、二つの竜王山があり、後の竜王こと豊玉彦が訪ね残したのだろう。 H 阿波の高越山の真北には、那岐山があり伊邪那岐は吉備で伊邪那美の陵の場所を探して登ったのだろう。 I 阿波の吉野川市付近にある古い神社は、多くが高越山に向いておかれている。 J 瀬戸内海地方で見つかる、笑顔の分銅形土製品は、伊邪那美を記憶したものではないだろうか? 比婆山と高越山の関係 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu58.jpg >>431-432 その和歌こそが淤能碁呂島が九州であったことを証明している アジマサの島があるというがアジマサ=檳榔は福岡が北限で瀬戸内海には生えていない これにより記紀の記述が大和朝廷が九州王朝時代を隠蔽していることがはっきり分かってしまう >>345 、>>347-348 参照 卑弥呼共立の倭國は、前漢の頃から変わらず北部九州。 倭國の乱は、後漢時代に倭を代表していた玄界灘側の王家(天孫族)と、新興勢力であった有明海側の王家(熊襲)との騒乱。 有明海側の有利で和平の手打ちしたため、祭祀王(卑弥呼)は有明海側が擁立した。 しかし王が博多湾沿岸(伊都)に移り本家の有明海沿岸が手薄になったので、そちら(狗奴国)で王を名乗るものが現れた(卑弥弓呼)。 その頃、一足早く大和に東征していた玄界灘勢力の一派(饒速日)が纒向に大型建物の祭祀施設を建てていた。 敗者となった玄界灘勢力の本体(神武)が大和に落ち延びて合流した。 これが、リアルな2世紀末の歴史。 >>475 その過剰反応が事実であることを如実に物語っていますね キミはなぜ自分の嘘がすぐバレるか分かってないんですねw >>476 お前は無能だから理解力がないんだろうが、俺様が貶してるのはマルチスレッドコピペという卑しい行為であって、内容には一切触れていないという事実をしっかり理解しろよ無能 思い込みからの先走り。 誇大妄想と被害妄想の錯綜。 隣の国から密入国してきた人たちの孫と極めて類似性が高い。 真実を広く流布されたら困る畿内インチキ野郎が発狂してて草w >>479 お前は無能だから理解力がないんだろうが、俺様が貶してるのはマルチスレッドコピペという卑しい行為であって、内容には一切触れていないという事実をしっかり理解しろよ無能 ↑ 読めないの? マルチスレッドコピペが卑しいという君の独自の価値観がどこにでも通用すると思っている無能w そもそも各スレの趣旨に沿って貼られたならマルチとさえ言えないわけだがそんなこともわからない無能w >>476 > その過剰反応が事実であることを如実に物語っていますね 誰も過剰反応していないのに、突如として見えない敵と戦い出す無能っぷり。 > キミはなぜ自分の嘘がすぐバレるか分かってないんですねw 誰も何も言ってないのに、突如として反論し出す無能っぷり。 お前が無能だと罵られてるのは内容ではなくマナーの問題な。 >>481 無能と言われて無能と返す芸の無さに呆れるわwww >>482 いや誰一人としてお前の言い分に同意してないわけだが お前が一人でどう喚こうがお前が無能の敗者であるという事実は覆らんよw >>483 ブーメラン命中して慌てふためく無能乙w >>484 お前は無能だから理解力がないんだろうが、俺様が貶してるのはマルチスレッドコピペという卑しい行為であって、内容には一切触れていないという事実をしっかり理解しろよ無能 ↑ 読めないの?(二度目) >>485 お前は無能だから理解力がないんだろうが、俺様が貶してるのはマルチスレッドコピペという卑しい行為であって、内容には一切触れていないという事実をしっかり理解しろよ無能 ↑ 読めないの?(三度目) >>486 >そもそも各スレの趣旨に沿って貼られたならマルチとさえ言えないわけだがそんなこともわからない無能w ↑ 読めないの?w >>453 実在がはっきりしている天皇の平均在位年から延長線を引いたグラフを見ると、神武は280年〜290年頃になる 東征は台与の末期かその次くらいじゃないかな 意見をありがとうございます。 およその時代を知るには、このグラフは分かりやすくて良いと思います。 図から見ると神武天皇(=280〜290は)予想した退位年と思われます。 即位年については、いろいろな意見が出ていて、具体的には277年を想定しています。 根拠は @ 神武東征隊は各地に鷹の山名や〇尾山の山名を残し、自分たちは神の遣い鳥と認識していたように見える。 A 神武は鳥見山に天神を祀り大孝を申し上げた。この鳥は、出発地の朝倉の鳥見山の地名移動とされている。 B 日本書紀は辛酉年の1月1日に即位したと記されているが、辛ではないが277年は鳥年である。 C 神武は奈良に入った後、宮殿を建てたり、后を娶るなどして、あえてこの酉年を待っていたように見える。 D 寅年に出発したと記していて、まる7年をかけたことになる。 先に天孫降臨は7年をかけた南九州の灌漑稲作を普及する遠征だったことが、南九州の〇〇丘と〇〇岡という名の経路の名付で解けている。 神武は初めから、これに倣い7年をかけ酉年の1月1日に遷都の完了を計画していたと思われる。 >>489 >>486 ムキになってないで自分の読解力の無さと先走った妄想を反省して詫びれば済む話 >>481 Wikiからの引用 マルチポストがマナー違反とされるのは、以下のような理由による 回答が複数のコミュニティーに分散してしまい、知識の集積という1コミュニティーの目的にそぐわない。 ネット資源(サーバーや回線の能力)とて無限ではない。同じ内容の記事をばら撒くのは資源の無駄遣いといえる。 その問題に関心のある人は類似した複数のコミュニティーに参加して新規投稿をチェックしていることが多いが、あちこちの同じ投稿に対してそれが本当に目新しい内容かを峻別しなければならなくなる。 他のコミュニティーで付けられた回答を知らずに同内容の回答を付けてしまったり、他のコミュニティーですでに解決したことを知らずに検討を続けたり、善意の回答者の労力が無駄になる。 この場所だけでは質問が解決するか不安であるという不信感を表明することと、結果としては同じである。 こうしたことから、回答をする意欲を失わせたり、不快な気分にさせてしまう場合がある。 失礼にならない方法 しかしながら、どうしても早く回答が欲しい時や、多様な回答を得たい時、そのコミュニティでは回答が得られそうにない場合などにマルチポストを行なう場合もありえる。 その場合、少なくとも以下のことを書き加えた上で文章を投稿することが望ましい。 マルチポストしていることを明記する。 他にマルチポストしたページ(サイト)のURLを明示する。(回答者が回答を書き込む前に、すでに同一内容の返答がないか等を確認できるようにするため。ただし質問掲示板の多くは類似する事柄を話題とする他の掲示板へのリンクを張る事自体、ルール違反、マナー違反とされる場合がほとんどである) マルチポストに至った経緯(すなわち理由)を説明する。 問題が解決した場合はマルチポストした全てのページに問題解決の報告を行う。 応神天皇元年を390年と考え、そこからの平均在位を計算できる。 平均在位と言っても短すぎるのも長すぎるのも、 正確な数値が出ないと思われるので、 30代を基準に25代〜35代をランダムに採って見た。 ・25代平均 応神天皇390年〜39代弘文天皇没672年 11,28年 ・28代平均 応神天皇390年〜42代文武天皇没707年 11,32年 ・30代平均 応神天皇390年〜44代元正天皇没724年 11,13年 ・33代平均 応神天皇390年〜47代淳仁天皇没764年 11,33年 ・35代平均 応神天皇390年〜49代光仁天皇没781年 11,17年 11年弱が平均在位。 さらに古くなると若干在位が短くなると考え、 「11年」で計算してみる。 ただし神功皇后は確実な一代と見なし、15代遡ってみる。 11年×15代=165年。 応神天皇390年ー165年=225年。 神武元年は3世紀前半。 卑弥呼の時代である。 すなわち大和は邪馬台国ではない。 邪馬台国スレでも欠史八代スレでも使えるソースを両方に貼るのはマルチとは言わない バカには分からんのだろうな >>496 Wikiからの引用 マルチポストがマナー違反とされるのは、以下のような理由による 回答が複数のコミュニティーに分散してしまい、知識の集積という1コミュニティーの目的にそぐわない。 ネット資源(サーバーや回線の能力)とて無限ではない。同じ内容の記事をばら撒くのは資源の無駄遣いといえる。 その問題に関心のある人は類似した複数のコミュニティーに参加して新規投稿をチェックしていることが多いが、あちこちの同じ投稿に対してそれが本当に目新しい内容かを峻別しなければならなくなる。 他のコミュニティーで付けられた回答を知らずに同内容の回答を付けてしまったり、他のコミュニティーですでに解決したことを知らずに検討を続けたり、善意の回答者の労力が無駄になる。 この場所だけでは質問が解決するか不安であるという不信感を表明することと、結果としては同じである。 こうしたことから、回答をする意欲を失わせたり、不快な気分にさせてしまう場合がある。 失礼にならない方法 しかしながら、どうしても早く回答が欲しい時や、多様な回答を得たい時、そのコミュニティでは回答が得られそうにない場合などにマルチポストを行なう場合もありえる。 その場合、少なくとも以下のことを書き加えた上で文章を投稿することが望ましい。 マルチポストしていることを明記する。 他にマルチポストしたページ(サイト)のURLを明示する。(回答者が回答を書き込む前に、すでに同一内容の返答がないか等を確認できるようにするため。ただし質問掲示板の多くは類似する事柄を話題とする他の掲示板へのリンクを張る事自体、ルール違反、マナー違反とされる場合がほとんどである) マルチポストに至った経緯(すなわち理由)を説明する。 問題が解決した場合はマルチポストした全てのページに問題解決の報告を行う。 >>497 君が文意を理解できないバカなのはよくわかった 似たテーマを扱うスレが多すぎかな。 邪馬台国も欠史八代も金印も神武も、極めて近接した年代の事象を扱っているし、登場人物が被っている。 >>496 さっさと詫びてキチガイ荒らしを退場させてくれ もとはと言えばあんたが勘違いして噛み付いたのが始まりなんだから >>471 コレを見るとやはり卑弥呼の時代にはまだ九州が中心だったんだろうな 神武東征は台与かその後というのもその通り >>471 実在天皇のグラフの線は意外ときれいなんだな これなら延長線で逆算してもそう大きな誤差は無いと考えられる とぼけてないで悪かったものは悪かったと認めなさいよ。 >>471 神武東征は卑弥呼以降、か。 これは畿内説にとっては致命的だな。 必死に言いがかりをつけるのもよく分かる。 ,..-‐‐―‐‐-..、 ,-'´ `‐、 ,i' `i、 ,l l、 ,|._ _.|、 〈_``ー=== ╋ ===‐'´_〉 l ``ー-.、____ ,...-‐'´.l ┌――――――――――――― ヽ、_| `ー' / `ー' |_,ノ | >>471 がご迷惑をおかけして / `‐、_ `ニ' ノ \ < たいへん申し訳ございません。 i'´ 、 |``r===r'´| ,___ヽ_ .| 邪馬壱建設 .| i、  ̄\/ ̄ | ╋ | └――――――――――――― |、 |、 □ .[工]├‐‐‐ュ┘ |、 ヽ、. □ ./ / ヽ、 ヽ―‐┌┐―‐'i / `<´.ゝ―└┘―く´``y ヽ、_) ┐ (_,.ノ | | | | ,! .l、 | .| | | .`lー--‐'^ー--‐'l´ ,-‐'´ | `ー-、 (. ! ) `ー--'´`ー^ー'´`‐--‐ >>505 論点はそこじゃないんだけどなw てか猿芝居って美味しいの? >>471 で惨敗した畿内キチが荒らしてるのか やはり畿内説はクズばかりだな >>507 もう506で謝罪してんだから去ってくれよ >>508 お前は無能だから理解力がないんだろうが、俺様が貶してるのはマルチスレッドコピペという卑しい行為であって、内容には一切触れていないという事実をしっかり理解しろよ無能 ↑ 読めないの?(四度目) >>509 誠意が感じられないから受け入れられないニダ / ̄\ .| | /\_+_/\ >>474 が思い込みから糞レスをしてしまい、 |_l | l_| ご利用の皆様には大変ご迷惑を ヽ.|=ロ=|/ おかけしております。 .| | | .|_|_| (_|_) (株)くすを建設 >>510 自分の敵は一人だけだと思いこんでるようだぞ それ統失の症状なんだけどな 畿内論者がこれほど発狂するってことは>>471 の指摘は相当痛いんだな >>515 お前は無能だから理解力がないんだろうが、俺様が貶してるのはマルチスレッドコピペという卑しい行為であって、内容には一切触れていないという事実をしっかり理解しろよ無能 ↑ 読めないの?(五度目) 欠史八代スレじゃ誰も邪魔してないのを見りゃ単にキチガイ荒らしが 「お前は無能だから理解力がないんだろうが、俺様が貶してるのはマルチスレッドコピペという卑しい行為であって、内容には一切触れていないという事実をしっかり理解しろよ無能」 を主張してるに過ぎなって理解できると思うんだが・・・ 畿内説はもうスレを荒らすことでしか対抗できないのですね おかわいそうに・・・ ,. < ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ > 、 / ヽ _ 畿内説を否定したいあまり 〈彡 Y彡三ミ;, マルチポストを指摘くださいました皆々様を {\ \|_ \>ー 、 ト三三ニ:}畿内説の盲信者と決めつけ 人{ >、,___.>、/三 ヾ\ |わ三彡;!罵詈雑言を並べ立ててしまったことを /./ トミ;,_ Y/ \>ノー〜=- "深くお詫び申し上げます V / /!  ̄ ̄ ゝ | / _ 以後、発言には十分注意を払いますので し/'┴──----─''| ン}\-ヾ彡 このあたりでお許し願えませんでしょうか? ヾ、___ノー'''` ピタッと荒らしが止まったな 謝ったら撤退するとか行儀の良い荒らしっているんだなw >>523 ただただ>>471 が興奮しすぎただけだったからな 国生み研究の続きです。 山川町の天神社での「もがり」を終えた伊邪那美命の遺体は、近くの高越山頂に運ばれ葬られたと思われます。 その根拠は @ 山頂には伊邪那美命の神陵と伝わる遺跡がある。 A 山頂の高越寺の修験の人たちが、神陵を今もお守りしている。 B 「火神、死せる時成る」神々に8柱の山神が登場する。伊邪那美命を山頂に運ぶ際、活躍した山神と考える。 C 高越山は岡山県井原市にもう一つあり、結ぶと比婆山に結ばれている。 D 比婆山は後に伊邪那岐が吉備開拓の中で設けた陵と思われる。近くの二つの吾妻山が指し示している。 G 比婆山、阿波の高越山を結ぶ中間には、二つの竜王山があり、後の竜王こと豊玉彦が訪ね残したのだろう。 H 阿波の高越山の真北には、那岐山があり伊邪那岐は吉備で伊邪那美の陵の場所を探して登ったのだろう。 I 阿波の吉野川市付近にある古い神社は、多くが高越山に向いておかれている。 J 瀬戸内海地方で見つかる、かわいい笑顔の分銅形土製品は、伊邪那美を記憶したものではないだろうか? 比婆山と高越山の関係 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu58.jpg 最愛の妻・伊邪那美を亡くした伊邪那岐の悲しみは大きく、国生みの夢を追う気力も失せていたでしょう。 どのように再起したのでしょう。 @ 伊邪那美が言った「我が夫のために、戻るよう黄泉の神に掛け合ってみる」の言葉を信じひたすら待っていた。 A ついに待ちきれず、遺体のある高越山にわずかな供をつれて訪ね登ることとした。 B 雷のような泣沢女たちが取り付く遺体は、蛆がたかる姿となっていた。 C 火傷のある姿に「どうぞ私を見ないでください」と言っていたのに見てしまった。 D 伊邪那岐は、驚き帰る際に「もう縁を切りましょう」「お前には負けないつもりだ」とも言った E いつまでも「悲しみ慕ったのは、私が弱虫だった」と分かったのです。強く生きていく宣言だった。 F もがりの平野、山川町に下れば弱虫に戻ってしまうと考えた伊邪那岐は、反対に下りる決断をした。 G 再起の方法は「高越山」を越えることだった。 伊邪那岐の伊邪那岐からの逃避の道は、高越山から阿南への約60kmに及ぶ山岳行だった。 出所: https://www.youtube.com/watch?v=MPz5ZYhDV1I に逃避の伝承と関係する地名が残されている報告がある。 その他の根拠 @ 阿波忌部氏を継ぐ三木家が、今も美馬市木屋平の絶壁の上にあり、家裏からは高越山からの逃避の尾根道が見える。 三木家の家裏からの風景 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu59.jpg 逃避の尾根を遺すため、代々ここに住んだのだろう。 A 山を下り終え那賀川に出たところの那賀町仁宇には、竜王山が残されていて、豊玉彦が訪ね残したと思われる。 逃避の道 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu60.jpg B 那賀川の河口には、青木・橘の地名が残り、ここで最初の禊が行われたと思われる。近くには小戸神社が残る。 阿南にある小戸神社 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu61.JPG C 禊の場所を古事記は 「竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原」と記す。阿波岐原と阿波の文字を当てている。 D 天照大御神、月読神、須佐之男命は別途、山川町から呼び寄せられていて、ここで再会したのだろ。 E 近くに天照大御神生誕の地の伝承が残る、賀志波比売神社がある。 >>529 どう見ても人里から隔離された土蜘蛛の住処からの風景。 遠くから日々羨望の眼差しで眺めていたのだろうな。 ホワイトケープさん、君はえらく阿波を言ってるが、何が言いたいの? @阿波 >>531 君はえらく阿波を言ってるが、何が言いたいの? 私は「神武・倭国の連合東遷説」です。 神武は、小集団が宮崎から船で奈良に向かった出来事と考える人がいます。 そうではなく、倭国の官である彌彌が北部九州の人たちと、力を合わせた行った遷都と考えています。 これは、天照大神の強い国造りの意思を引き継いだもので、その実現に向けて代々が努力した歴史を刻んでいます。 天照大御神の強い国造りの意思は、国生みの中で阿波に生まれ吉備で育った幼い中の経験に基づくと考えています。 そのような経緯を知っていただきたく、調べてきた国生みを報告しています。 >>533 >そうではなく、倭国の官である彌彌 その倭国はどこにあるの? その中心はどこ? >北部九州の人たちと、力を合わせた行った遷都と考えています。 どこへ遷都したの? あの辺境の海の無い、湿地帯の奈良盆地? >これは、天照大神の強い国造りの意思を引き継いだもので、 その天照大神はどこにいたの? その王宮はどこにあったの? >国生みの中で阿波に生まれ吉備で育った幼い中の経験に基づくと考えています。 なんでそんなにあちこち移動しているの? その理由は? @阿波 >>471 横軸が天皇の代数になってるけど、神武以来、整然とした男系一系になっているのは、 記紀編纂時に相当の編集や創作を加えたからだ。 実際は継体(第26代)以前は王朝交代しまくりだし、男系でなくヒメヒコ制。 兄弟だったものを父子にしたり、ヒメミコを皇女にしたりと、 本当のところはどうだったかは、記紀をいくら読んでも分からない。 名前、先祖、血縁関係、根拠地、主要な業績に、史実の僅かな痕跡を辛うじて探せるくらいだ。 なので継体以後の直線を、そのままの傾きで継体以前に外挿するのは不適切で、 あまり意味がない。 >>533 質問があったので答えたのみです。 議論がしません。 >>536 >議論がしません。 だったら、ここにスレ立てずにブログにするべき。 ここはレスをやりとりする場だよ。 @阿波 >>536 >議論がしません。 ちなみに、>>534 も質問なんだが? @阿波 『ヒメヒコ制』と『通い婚』の伝統は継体以後も日本人のDNAに強固に擦りこまれており、 推古天皇と聖徳太子は明らかな『ヒメヒコ制』の復活だし、 『通い婚』については実に平安時代になってさえも続いている。 そう考えれば、3世紀頃の日本に『男系1系』によるマスキュリンな父子権力承継などあろうはずがなく、 どこへ行っても『ヒメヒコ』と『通い婚』の世界だと考える必要がある。 しかも王朝交代を繰り返してゴチャゴチャ。 例えば記紀に記された神武東征では、神武自身が呪術っぽいことをやってるんだが、 実際は記紀編纂時に消された『神武=ヒコ』に対する『ヒメ』が呪術をやっていたのだろう。 とは言え、本拠地の九州を捨てて奈良盆地に大軍団で移住するなど現実的にあり得るはずもなく、 実際は九州から追い出された海賊か山賊の類が、河内平野に上陸したところ地元の豪族にさんざんに打ちのめされ、 その後熊野からの裏口を通って奈良盆地の片隅にひっそりと住み着いたとか、良くてその程度のことだったのだろう。 悪ければ出自が九州であるというだけの、ただの流浪の移住者だ。 古代の祭祀などに使われた赤色顔料「水銀朱」を生産したとみられる縄文時代後期(約4千〜3千年前)の石臼や、水銀朱の原料の辰砂原石などが大量に出土した阿南市加茂町の加茂宮ノ前遺跡。 辰砂原石などの発見で、水銀朱の生産、利用時期が1500年以上さかのぼることが明らかになった。 また、水銀朱の生産拠点だったとされる竪穴住居跡や、祭祀に使っていたとみられている円形配石遺構など、縄文社会の解明に大きな役割を果たす。 @阿波 阿波から西日本各地に文化発信が始まったのは、卑弥呼の時代より遥か昔の縄文時代晩期末から弥生時代前期初頭である。 「石棒」 石棒は縄文時代を代表する石器である。実用品ではなく儀礼に用いられたと考えられている。 縄文晩期末から弥生時代前期初頭に、島根県・愛媛県・高知県から東は京都府・滋賀県・奈良県・和歌山県 にいたるまでの今までになく広い範囲で泥質片岩製の石棒が出土する。 この石材はすべて銀色を呈する泥質片岩製であり、石棒の素材産出地で、製作遺跡でもある徳島市三谷遺跡が、 その一大製作遺跡であると考えられている。 @阿波 石棒の素材産出地で、製作遺跡でもある徳島市三谷遺跡・名東遺跡付近に接してそびえる眉山には、紅簾片岩の露頭が確認でき、 この紅簾片岩製石棒と神戸市戎町遺跡・同市大開遺跡・八尾南遺跡・滋賀県米原町磯山城遺跡の出土資料とを比較検討すると、それぞれが非常に類似している。 また、各地に分布する石棒の時期が、ほぼ縄文時代晩期末〜弥生時代前期初頭の土器型式で2型式間にも満たない短期間に集中することが明らかになり、 三谷遺跡・名東遺跡の存続期間とほぼ一致することが確認された。さらに、石棒が近畿地方最古の環濠集落である神戸市大開遺跡をはじめとする初期の弥生集落でも出土することをうけ、 近畿・東部瀬戸内地域における「弥生集落」の形成は、「渡来人」「移住者」のみならず、在地の人々による積極的な関与があったと考察される。 @阿波 伊邪那岐は伊邪那美から逃げおおせ、禊をして伊都国に帰ってしまうのでしょうか。それではいかにも薄情です。 再起の国生みは吉備でした。後の卑弥呼・天照大神など三貴子を連れて吉備に向かいました。 その根拠 @ 古事記は「然ありて後、還ります時、吉備児島を生みき。・・・次に小豆島を生みき。・・・次に大島を生みき・・」と記す。 A この「還ります時」は阿波から戻る時と考えられる。 B 帰還の経路としては、小豆島は経路と逆になるが吉備上陸後、伊邪那美の陵の候補地を訪ね巡ったためと考えた。 C 高越山の真北にある小豆島の皇踏山、那岐山が候補になり、けっきょく比婆山に伊邪那美の陵がつくられたと考える。 D 本拠地は備中の国分寺跡付近と想定した。児島の浜にある龍王山から、点々と続く龍王山が国分寺跡の南の龍王山につながる。 E 神武東征隊が吉備に長くとどまったのは、吉備に足跡があり倭国が統治していたためと考える。 F 天照大御神の強い統治意欲は、この吉備での成長が大きく影響したと考える。 G 「豊葦原の千秋長五百の水穂国は、我が御子、正勝吾勝勝速日天忍穂耳命の知らす国ぞ。」と述べている。 北九州にあった卑弥呼なき後の邪馬台国を 朝鮮半島から来た天孫族が征服して現地の姫と結ばれて子供が生まれたのが天孫降臨 その首長がニニギで後に東征してヤマト王朝を建てそれが後の天皇家になったんだろ 手塚治虫の火の鳥にもそう描いてある >>545 こんどはこっちでヒトモドキが鳴いてんのかよwww 火の鳥はファンタジーだよ。 少なくとも、卑弥呼の後にニニギでは、その後の年代が詰まりすぎて無理。 国生みからの帰還の状況 伊邪那岐は三貴子を連れて伊都国に帰還し、天照大御神(卑弥呼)が女王になった。 @ 古事記は吉備からの帰還経路に、吉備児島、小豆島、大島(周防大島)、女島(姫島)、知詞島(五島列島)、両児島(男女群島)を生んだ記している。 A 伊都国帰還に五島列島と男女群島は行き過ぎなので、別な意味合いが込めれていると思われる。 B 帰還しての禊は、今津湾の小戸大神宮前の浜で今一度行ったと考える。 C 伊邪那岐・伊邪那美の子供から統一倭国の王を選ぶことは、別天つ神五柱の話し合いで決められていたので、伊邪那岐の命で天照大御神が即位した。 D 天照大御神は五柱の会合を主導した、高御産巣日神の勧めもあり、内陸の朝倉に都を定めた。 E 次図は記述に登場した吉備児島から五島列島を結んだもので、内陸の朝倉付近を通過させている。 F 朝倉遷都は帰還時に決まっていたか? 帰還後に島々を名付けたかもしれない。 帰還の経路で生んだ島々 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu62.jpg >>547 ニニギ以前の出来事であるはずの、出雲の大国主の国造りと国譲りの行き場がなくなるしな。 >>547 >>1 からして何の根拠もないファンタジー >>552 >>1 からして何の根拠もないファンタジー 根拠はみな示しているが、現在の古代認識からすると神武・倭国の連合東遷説はファンタジーに見えるでしょう。 文字も不自由な時代、古代人は建国の記録をいろいろな工夫で残していました。 ファンタジーと肩付けずに解き明かすことが、現代を生きる者の使命と思います。 あまり話題になっていないが、山陰の安来に連合東遷の兵站基地と思われる弥生終末期の遺跡が見つかっています。 塩津丘陵遺跡群で、山陰の弥生都市(広瀬和夫)という論文が発表されています。添付。 驚くような内容で、私の考察では鳥取の青谷上寺地での戦いの兵を支える補給部隊の臨時の山上基地と思われます。 鳥取を取り巻くように、吉備山中にも同じような小坂向遺跡が見つかっています。 終末期の庄内式土器は、山陰の土器壁を削る技術が取り入れられて吉備で生まれた考えがあるが、そうではなくこの兵站基地で兵の食料準備や、基地で働く人の食事の効率を上げるために生まれたと考えます。 興味があればのぞいてみてください。 山陰の弥生都市 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu63.jpg 塩津丘陵遺跡群 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu64.jpg 小坂向遺跡 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu65.jpg >>553 日本書紀には、日向国の高千穂からの移動ルートがきちんと書いてある。 大雑把に書くと大分→福岡→広島、岡山→大阪→和歌山→三重→奈良の順 日本海側である島根県の遺跡を関連付けるのには無理がある。 想像するのは自由ではあるが、やはり根拠がないファンタジーだよ。 >>553 仮に倭国(邪馬台国=卑弥呼・壱与)が北九州だとしてだけど 魏志倭人伝の伊都国の説明にこんなことが書いてある 原文:傳送文書賜遺之物詣女王 不得差錯 訳文;文書や授けられた贈り物を伝送して女王のもとへ届けるが、数の違いや間違いは許されない。 文字が不自由だったというが、女王国では少なくとも支配層は文書でやり取りがされていたわけだ。 魏に朝貢するくらいだから、中国語はできたんだろう。漢の時代にも朝貢があったし 卑弥呼よりもっと前から中国語ができる知識層はそれなりにいたと考えた方がいい。 また女王国は南に位置する狗奴国の男王、卑弥弓呼素と戦争状態だったとも書かれている。 これらの記述から想像するに、九州の覇権争いは倭国=女王国=卑弥呼・壱与勢力が 九州南部の熊襲・隼人勢力に撃ち滅ぼされたとみた方が空想としても筋がいい。 だから日本書紀には邪馬台国や卑弥呼について碌な記述がない。 >>558 >また女王国は南に位置する狗奴国の男王、卑弥弓呼素と戦争状態だったとも書かれている。 不和だから緊張状態だけれど、戦い続けたわけではなさそうだ。 不審なのは、二人の王が似た名前だということだ。 むしろ、倭国の中の家督争いだったのではないか? だから壹與の時に乱が収まったのは、両者の共立によるものであり、滅ぼしたりというものではなかった。 そして、それについて畿内勢力は蚊帳の外だったのだろう。 >>560 魏志倭人伝をじっくり読むと戦争中だったとわかるよ。 倭女王卑弥呼與狗奴國男王卑弥弓呼素不和 遣倭載斯烏越等 詣郡 説相攻撃状 説相攻撃状・・・「戦争状態だと説明した」という意味 ネーミングについては当時の名前が今の感覚と全然違うので 似通っているからと言って、即同族と捉える必要性はあまりないかな。 そもそも卑しいとか、王の名前に使う字じゃないでしょ? >>561 漢民族の人類における中華思想で漢民族住む地以外は 異民族の劣った四夷人種が住んでるとしたから 中国以外の四方の地に住む民族は全て蔑称で記録している >>562 漢民族と、 その他=ほとんど地球規模と言いたいんでしょ >>563 確かに漢民族単一で創り上げた哲学的な高度な文化文明は 多民族が関わって創り上げたオリエント文明や西洋文明を凌駕している >>561 なるほど、戦っていたかもしれない。 しかし名前があまりにも近いのは、同じ文化圏の勢力であった可能性を考慮するべきだ。 考古学的にも、福岡と熊本なら近いだろう。 少なくとも、大和まで一つの文化圏だと言い張る畿内説よりはマシ。 >>562 そうだね。 魏志倭人伝にしても中国の魏の時代の事を、中国の魏の時代の記録を元に中国人が書いてるんだしね。 なので「卑弥呼」と「卑弥弓呼素」の名前が似ているからといって 安直に同族扱いで推測するのは無理がある。 >>565 九州北部と南部じゃ似通ったネーミングがあったっておかしくはない。 が、だからと言って、即同族の家督争いだったというのは飛躍しすぎ。 九州内部の勢力争い以上の事は何も記録がない以上推測するしかないしね。 そして日本書紀に邪馬台国も、卑弥呼も碌に出てこない事から 逆に神武=ヤマト王権が、倭国(卑弥呼)勢力と 別の勢力であったから書く必要性がなかったと捉えた方が無難でもある。 前述の通り、邪馬台国では文書のやり取りが行われていたわけだから 神武=ヤマト王権につながっていたとしたら、もっとしっかりと 日本書紀にも記載があって然るべき。 仮に日本書紀の元となった旧辞、天皇記といった文献に記載があったとしても わざわざ自分たちのルーツの原点である天照大神を隠匿する方がおかしい。 >>565 もう一つレス >少なくとも、大和まで一つの文化圏だと言い張る畿内説よりはマシ。 少なくとも神武東征よりも、瓊瓊杵尊の天孫降臨よりも前の時代に 出雲の勢力は山陰、四国、近畿、三遠信、北陸、関東までは到達してたようだよ。 同族と決めつけるのも 同族ではないと決めつけるのも 両方安直 >>570 三段論法の大前提が成立してないのに、その上で小前提に進んで、結論を導き出してたら、なんの証明にもならない。 証明をしようとしても無理なことは百も承知で、可能性の高そうな推論をしているだけ。 出雲の影響力が広かったことは同意する。 しかし筑紫も畿内も、それだけの影響力を発揮できなかったのではないか。 弥生時代で最強の王国は出雲の国譲り前の出雲だったのではないか? 皇統に繋がらないにも関わらず記紀で重視されているのも、そのあたりに理由があるのか。 >>572 >弥生時代で最強の王国は出雲の国譲り前の出雲だったのではないか? 単なる出雲忌部に過ぎないよ。 国譲りも島根県は全く無関係だから。 @阿波 >>572 卑弥呼がアマテラスで、神武と連合して東遷したのどこが可能性が高いんだ? 根拠になりそうな記述なり遺物が何もないから、三段論法も成立してないファンタジーなのよ。 >>574 卑弥呼がアマテラスで、神武と連合して東遷したのどこが可能性が高いんだ? 根拠になりそうな記述なり遺物が何もないから、三段論法も成立してないファンタジーなのよ 伊邪那岐・伊邪那美の名が、魏志倭人伝に登場する5クニから一文字づつ採った名であることを無視しては検討があらぬ方向に向かうと思います。 伊 伊都国の伊 邪 邪馬台国の邪 那 奴(那)国の那 美 不彌(宇美)の美 岐 壱岐の岐 伊邪那岐夫婦は、邪馬台国があった時代に生きていたことが分かる。 二人は天照大御神を生んだと記紀は記している。 天照大神の系譜の神武が東征したと記紀は記している。 神武東征の伝承は各地に残る。 >伊邪那岐・伊邪那美の名が、魏志倭人伝に登場する5クニから一文字づつ採った名 ファンタジー そもそも、高天原神話がファンタジー仕立てなんだから、 一文字づつ取ったでいいんじゃないの。 倭人伝だって、狗とか、邪とか、卑とか、やたらでてくるけど、 今風に書けば、ダイ盧狗、タケ卑狗、卑典、みたいなノリだったんだからョ。 倭人伝ファンタジーを下敷きにして書き上げたのが、 高天原ファンタジーなんだから、一緒くたに見えるのは当然。 ちなみに、卑弥呼は天照大御神、張政は思兼神、帯方郡太守は高木神として再登場している。 >倭人伝ファンタジーを下敷きにして書き上げたのが ファンタジー 倭人伝は正確じゃないだけでファンタジーとはまた違うんだじゃないか? 都合が悪いと「記紀は恣意的ニダニダ」 斜め読みに成功すると「記紀にも書いてあるニダニダ」 ボコッ ウソツキは死んでも . ,.'彡'・グフォニダ! 治らねぇから半殺し ∧_∧';' ; .. ∧_∧ ∧∧/)、`二<ヽ;;゚`;;A´;;> ,;.゚. (´∀` ) 蹴っても (#゚Д゚/^)∴;'|;';.'/.;' '´。 ::;:,( つ 踏んでも と ´ //`W( ヽ(;;;((⌒ ̄ ̄ ̄_ ) ホラ吹くとか ( ノ`´// ヽ Y ノ''::;;;;::'''"´ ̄ヽ \ マゾかよwww (__)彡 〈フ_フ ドカッ\\ (__) 国生みから帰還し、女王となった天照大御神(卑弥呼)は朝倉に都をおいたと思われます。 朝倉が天照大御神が住んだ都としたとき、記紀が記す天の安河の誓約は地形と合致するのか検討してみました。 @ 朝倉の西に旧夜須町があり、間を小石原川が南下していて天の安河の伝承がのこる。 A 須佐之男命と天の安河を中に置き誓うの会話を行っていて、天の安河は小川でも筑後川のような大河でもないと思われる。 B 小石原川の状況は往古と異なるが、両岸で対峙し会話に適した、中河川であるのは今と変わらないであろう。 C 伊都国からやってきた須佐之男が小石原川の西岸、朝倉に都を置いた天照大御神が東岸に立ったすれば、地形はあってくる。 D その後の誓約で、書紀の一書は天真名井の三ヵ所を掘ったと記していて、天真名井が石清水でなく井戸であることが分かる。 E 小石原川の下流、筑後川と合流する付近は、今も地下水の水位が高く掘ればすぐに水が沸く地域で、当時の河原を掘ったと思われる。 F 三ヵ所の河原井戸に、男子グループ、女子グループ、無人と分けて配置し、いずれを当てたかといった誓約を想像する。 G 子の養子縁組は計画されたもので、相手との持ち物交換は、どんな結果になろうとも天照大御神に男子を授けための配慮であろう。 H 須佐之男が伊都国から、「山川悉くに動み、国土皆震りき。」と大げさにやってきたのは、この養子縁組を、国の人たちに公とする計らいであろう。 現在の小石原川(天の安河) http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu66.JPG >>585 魏志倭人伝に書いてあるのは、倭国にある邪馬台国の女王卑弥呼が魏に朝貢してきた事と、当時の倭国にあるいくつかの国の事くらいで 神武も天照大神も伊邪那岐、伊邪那美も出てこない。 そこを結びつけるのがファンタジー >>590 国産みは伊邪那岐、伊邪那美で天照大神は国産みに関係ない。 ファンタジーとしても作り込みが甘いと言わざるを得ない。 もう少しいろんな文献を精査して練り直しましょう。 勝さびに須佐之男命が高天原で暴れたので、天照大御神は天の石屋戸に隠れてしまった。 この天の石屋戸を現代の朝倉に探してみた。 @ 朝倉市の妙見川筋は堀が深く、左岸が崖となっているので、探したが岩穴らしきものは見当たらなかった。 A 考えて見れば、か細い女性が岩を動かし戸のように塞ぐことは不可能である。 B 神武東征に登場する磐舟が丈夫な船の表現であれば、石屋戸も丈夫な建物と想定できる。 C 神々が集い、石屋戸の前で天照大御神を誘いだす饗宴を開く。 D 饗宴に天の香山からくさぐさの植物を採っているが、その香山は朝倉市把木の高山と伝わる。 E 高山の西麓の塚原に小さな志賀神社があり、そこの秋祭りでは氏子全員が神事の後、宮座にて酒を酌み交わす行事が伝わる。 F この神事が石屋戸前の饗宴の名残りの伝承であれば、「石屋戸」は丈夫な建屋でもなく、天照大御神の堅い閉じこもりの心を表現した言葉と思われる。 G 女王を無理やり引き出すこともできず、知恵を絞った作戦で自分から出てくるよう仕向け、出てきた後ろに布刀玉命が尻くめ縄を渡した。 H 天照大御神の名は石屋戸から出て堅い心が解け、高天原が明るくなったことによる名付けと考える。 現在の杷木の志賀神社 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu67.jpg 志賀神社の伝承の看板 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu68.jpg 倭が日本列島を指してるなんて記述は古代文献に一つもない件 いろいろな人の研究から見えてきた事は 卑弥呼の時代に神武の子孫たちは投馬(薩摩のこと)を領地としてた さらに神武の兄は後に新羅の範ちゅうになるところに領地を持って治めていたがそこは神武の子孫が相続した 時代は下り白村江の倭国敗北により大和王朝が出来たが その王朝を作ったのは新羅にいた神武の子孫であろう 卑弥呼の正体は、崇神天皇の父方の大叔母だよ。 つまり、箸墓古墳の被葬者。 >>598 無い無い 箸墓は4世紀のホケノ山よりも造りが新しい 時系烈伝 天地開闢 から下って作ってます 神武天皇編作りました 目次 https://plaza.raku ten.co.jp/denkyu pikaso/diary/201911010002/ 歴史通り書いていってます 卑狗はヒコではなくイネないしイヌと呼び稲のこと 卑奴母離はヒナモリではなくイナモリと呼び稲守であろう なぜ稲というか稲穂が犬の尻尾に似てることから来てるようだ >>602 卑弥呼は本当は稲巫女のことでイミコと呼ばれていたのだろう 狗奴國はクナ国ではなくイナ国 これも本当は稲国の当て字であろう 稲国は伊那国であり元は九州だが落ちのびて長野が最後の地であろう 卑弥呼は太陽が隠れて霊力が落ち、 熊襲(久万曽)との戦いで負けたから殺されたんだろ? やっぱり日ノ巫女だったんじゃないか。 卑弥呼の時代に皆既日食になった地域は朝鮮半島南岸や石川、福島辺りなんだが 歴史編纂(まとめ) 編纂中 https://plaza.raku ten.co.jp/denkyu pikaso/diary/201911010002/ >>597 神武出立日向=伯耆説発見 神武東征は不比等の創作であった 2019-11-04 ttps://blog.goo.ne.jp/ysaino11jp/c/bb1d5b6625251de07c1e4b9c6bb6a018 . ◆中国の釜 中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。 釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。 http://ja.wikipedia.org/wiki/ 釜 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2& ;ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E& ;aq=-1&oq=&ei=UTF-8 . 卑弥呼は魏志倭人伝に登場する3世紀の人物 神武大王は自称紀元前700年頃の妄想上の人物 無理 . 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、 中国では7000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。 その時代差、約5500年。 その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、 4000年前にはすでに戸建ての時代である。 商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には 瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。 縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。 中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 . 神武天皇が隠した日本の歴史。神話編 黄泉の国も岩戸神話も八岐大蛇退治も、古事記や日本書記の諷歌倒語により隠された。世界最長国、日本の作り方。 https://youtu.be/YLHWKrB8ncc . 日本最古の稲作遺構である菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の 中国とは全く違ったものが伝わっている。 と言うか、当時の中国の耕作用農具が日本最古の稲作遺構には一つも伝わっていないのだ。 ◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》 ◆同期する中国の耕作用農具 → 耜、鋤、犂 《すべて石刃》 クワ、エブリに該当する耕作用農具が当時の中国にない! 耜、鋤、犂に該当する耕作用農具が日本最古の稲作遺構にない! 伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。 ◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ ◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの 稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です! . >>622 ∩_ 〈〈〈 ヽ ____ 〈⊃ } /⌒ ⌒\ | | /( ●) (●)\ ! ! / :::::⌒(__人__)⌒:::::\| l 朝鮮系の | |r┬-| | / < 在日ヒトモドキ \ ` ー'´ // まるだしwww / __ / (___) / . 日本最古の稲作遺構である菜畑遺跡に伝わった炊飯器だって当時の中国とは全く違っている。 ◆菜畑遺跡に伝わった炊飯器 → 甕 ◆同期する中国の炊飯器 → 鼎、鬲と甑のセット、釜と竈のセット 鼎は穀物を煮炊きする三足と双つの直耳とフタの付いた炊飯器で日本には伝わっていない。 鬲は上に甑をセットして穀物を蒸し上げて炊く三足の袋足が付いた炊飯器で、 これも日本には伝わっていない。 甑と竈が伝わったのは弥生末の3C頃。 釜が伝わったのは古墳期の5C頃。 稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です! . >>624 ∩_ 〈〈〈 ヽ ____ 〈⊃ } /⌒ ⌒\ | | /( ●) (●)\ ! ! / :::::⌒(__人__)⌒:::::\| l 朝鮮系の | |r┬-| | / < 在日ヒトモドキ \ ` ー'´ // まるだしwww / __ / (___) / . (8)蒸して食べる 7000年前 中国に起源 最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。 モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を 作る際にも欠かせない調理法です。 この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。 蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、 粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が 基本だったと考えられています。 日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは 3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、 ようやく日本にまで到達したことになります。 しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。 今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、 数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html . . 7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、 鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。 6000年前には鬲も登場して、甑を鬲にセットして蒸し上げるという炊飯方法も加わる。 ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も鬲も甑も何一つ伝えなかった。 弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。 中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。 甑と同時に伝わった同じく中国には7000年前からある竈もそれまで知らなかった。 釜に至っては5Cまで待たなければならない。 弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。 ◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑 http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html . >>627-627 ∩_ 〈〈〈 ヽ ____ 〈⊃ } /⌒ ⌒\ | | /( ●) (●)\ ! ! / :::::⌒(__人__)⌒:::::\| l 朝鮮系の | |r┬-| | / < 在日ヒトモドキ \ ` ー'´ // まるだしwww / __ / (___) / . 中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。 あちらで皿は盤と呼びます。 ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも 伝えませんでした。 日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。 中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで 知らなかったのだ。 その時代差、約5400年。 弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です! . >>630 ∩_ 〈〈〈 ヽ ____ 〈⊃ } /⌒ ⌒\ | | /( ●) (●)\ ! ! / :::::⌒(__人__)⌒:::::\| l | |r┬-| | / < 反日教育に洗脳された \ ` ー'´ // 哀れな在日ヒトモドキ / __ / まるだしで草wwww (___) / . 日本最古の稲作遺構である菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の 中国とは全く違ったものが伝わっている。 と言うか、当時の中国の耕作用農具が日本最古の稲作遺構には一つも伝わっていないのだ。 ◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》 ◆同期する中国の耕作用農具 → 耜、鋤、犂 《すべて石刃》 クワ、エブリに該当する耕作用農具が当時の中国にない! 耜、鋤、犂に該当する耕作用農具が日本最古の稲作遺構にない! 伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。 ◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ ◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの 稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です! . >>632 ∩_ 〈〈〈 ヽ ____ 〈⊃ } /⌒ ⌒\ | | /( ●) (●)\ ! ! / :::::⌒(__人__)⌒:::::\| l | |r┬-| | / < 反日教育に洗脳された \ ` ー'´ // 哀れな在日ヒトモドキ / __ / まるだしで草wwww (___) / <奈良県民意識調査> Q:本音で言うと自分たちの顔をどう思いますか? のっぺり顔 だと思う─┐ ┌───パンスト顔だと思う9% 11% │ _..-ー''''''l'''''― ..、 ./ .l, | `''-、 ./ .l .| \ /ゝ、 l. | ヽ ./ .`'-、 l. | l │ ゙''-、 .l,| l | `'″ 朝鮮顔なのは | │ 事実である ,! l 80% ./ .ヽ / .\ / `'-、 / `''ー .......... -‐'″ 【東大の最新ゲノム解析】 奈良県が最もCHB・KOR(渡来人)に遺伝的に近い >Our analysis indicated that, of the 47 prefectures in Japan, Nara was genetically closest to CHB. 2020年10月14日付けで『Journal of Human Genetics』に掲載された報告では、朝鮮半島に地理的に近い九州北部より、 四国・近畿地方に渡来人の遺伝子が強く見られたと述べられています。 https://media.springernature.com/lw685/springer-static/image/art%3A10.1186%2Fs41065-018-0057-5/MediaObjects/41065_2018_57_Fig1_HTML.gif https://nazology.net/wp-content/uploads/2020/10/20201014101751.png 中国朝鮮-近畿四国-中国-中部-関東北海道-東北 ・(現代)関西人には細い目をした髭の薄いのっぺり顔が多い。 (『日本人の起源』中橋孝博・九州大学大学院教授、専攻は人類学、奈良県出身) >>635 , -――- 、 / ヽ | ノ ー | |(・) (・) | お前チョンだろ? | ( | ヽ O 人 >ー-― ´  ̄ ̄\ ⊂ニニ ̄ ̄ ̄ヽ / | くメ) _ノ | | | | | (/ | | / | | | | |/ /| | | | ト / | | | ヽ__/ | | | . 中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。 あちらで皿は盤と呼びます。 ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも 伝えませんでした。 日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。 中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで 知らなかったのだ。 その時代差、約5400年。 弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です! . >>637 ∩_ 〈〈〈 ヽ ____ 〈⊃ } /⌒ ⌒\ | | /( ●) (●)\ ! ! / :::::⌒(__人__)⌒:::::\| l | |r┬-| | / < 反日教育に洗脳された \ ` ー'´ // 哀れな在日ヒトモドキ / __ / まるだしで草wwww (___) / いそじん「早よ宣言解除してアベコロナで強盗ヘヴンや よっしゃ、よっしゃあ」 . 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、 中国では7000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。 その時代差、約5500年。 その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、 4000年前にはすでに戸建ての時代である。 商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には 瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。 縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。 中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 . >>639 , -――- 、 / ヽ | ノ ー | |(・) (・) | お前チョンだろ? | ( | ヽ O 人 >ー-― ´  ̄ ̄\ ⊂ニニ ̄ ̄ ̄ヽ / | くメ) _ノ | | | | | (/ | | / | | | | |/ /| | | | ト / | | | ヽ__/ | | | >>640 ∩_ 〈〈〈 ヽ ____ 〈⊃ } /⌒ ⌒\ | | /( ●) (●)\ ! ! / :::::⌒(__人__)⌒:::::\| l | |r┬-| | / < 反日教育に洗脳された \ ` ー'´ // 哀れな在日ヒトモドキ / __ / まるだしで草wwww (___) / . ◆中国の釜 中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。 釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。 http://ja.wikipedia.org/wiki/ 釜 新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用 新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用 アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2& ;ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E& ;aq=-1&oq=&ei=UTF-8 アー タノシーデスネー 7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑!wwww http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html . >>643 ∩_ 〈〈〈 ヽ ____ 〈⊃ } /⌒ ⌒\ | | /( ●) (●)\ ! ! / :::::⌒(__人__)⌒:::::\| l | |r┬-| | / < 反日教育に洗脳された \ ` ー'´ // 哀れな在日ヒトモドキ / __ / まるだしで草wwww (___) / . (8)蒸して食べる 7000年前 中国に起源 最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。 モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を 作る際にも欠かせない調理法です。 この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。 蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、 粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が 基本だったと考えられています。 日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは 3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、 ようやく日本にまで到達したことになります。 しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。 今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、 数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html . . 7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、 鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。 6000年前には鬲も登場して、甑を鬲にセットして蒸し上げるという炊飯方法も加わる。 ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も鬲も甑も何一つ伝えなかった。 弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。 中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。 甑と同時に伝わった同じく中国には7000年前からある竈もそれまで知らなかった。 釜に至っては5Cまで待たなければならない。 弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。 ◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑 http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html . >>645-646 ∩_ 〈〈〈 ヽ ____ 〈⊃ } /⌒ ⌒\ | | /( ●) (●)\ ! ! / :::::⌒(__人__)⌒:::::\| l | |r┬-| | / < 反日教育に洗脳された \ ` ー'´ // 哀れな在日ヒトモドキ / __ / まるだしで草wwww (___) / . 中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。 あちらで皿は盤と呼びます。 ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも 伝えませんでした。 日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。 中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで 知らなかったのだ。 その時代差、約5400年。 弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です! . >>648 ∩_ 〈〈〈 ヽ ____ 〈⊃ } /⌒ ⌒\ | | /( ●) (●)\ ! ! / :::::⌒(__人__)⌒:::::\| l | |r┬-| | / < 反日教育に洗脳された \ ` ー'´ // 哀れな在日ヒトモドキ / __ / まるだしで草wwww (___) / / / l \ ヘ ヽ \ / / / l \ } \ \/./ / / / / ∧ 、 ヽl \ ./ / / / / // ∧ i. i ', / l i i / ///./ / ', i i i / | ハ .ト L___ ェニ ァ/ 人 / ヽ i _l | / i い | ィー‐,ニニ三/ / / ーェ、___,>r '´ | i i |/ . V∧ |∧/ /フr::。}ヽ ./´ "^,rこニ;;、`ヽェi i i | ∧ i.ヽ lレ' {::リー'::ソ " {rイ::::゚リ } // / /ハ ./ {\ iト、 ,〃ー― , ヾこ.゙ソ / / // .| ' } \ i ヽ"" ` ` ー‐" /イ .イ / l 朝鮮ヒトモドキって ヽ ト、 ,へ、___,, 〃/ / /// i l 人の形してるけど . r‐|i i.>、. /:::::" ゛"::::::ヽ / / / i l ゴキブリなんですよね _,.レ┴ニ ~ \ {:: :::} イ 「___ ノ‐┐ i. l 気持ち悪くて吐きそうです! / / / >、 } ` 、 ̄ `' ー ―‐ '´ .イイ^ヽ `ト- {. i l . / / / / _.>、{ `;- _ _, -‐ ' ´, へ ヽ \ | 〈 ヽ i l " i ' ´ } /二コ T_\ | ` } .〉 ', i l i イ'レ'´/ /「H. \\ } ./ ./ } i l ((⌒⌒)) ファビョ━ l|l l|l ━ン! (⌒;;.. ∧_∧ (⌒.⊂,ヽ#`Д´> <ウリ以外の全員が間違ってるニダ! (⌒)人ヽ ヽ、从 从ノ.:(,,フ .ノゝ⊃ ∧_∧ ∧_∧ 人从;;;;... レ' ノ;;;从人 (∀` ) ( ´∀`) ケラケラ ( つ日ヽ (つ日⊂) ム__)) (⌒)(⌒) ___________∧____∧_____ 世界中でオマエラだけが間違ってるって気づけやw . 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、 中国では7000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。 その時代差、約5500年。 その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、 4000年前にはすでに戸建ての時代である。 商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には 瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。 縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。 中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 . ゞ:.y.ノゞ ; ;y.ノゞ; ;ゞ ;" "ゞ; ; y.ノゞ;;ヾ ;ゞ y.ノゞ ;;;; "ゞ;ヾ; ゞ:.y.ノゞy.ノゞヾ ; ;ゞy.ノゞ; ; ; ゞ゛;ゞ:ノゞ ; ;ヾ ゞ ;" "ゞ; ゞ゛; :ゞ:.y.ノゞ ; ;ヾ ; ;:_/ゞ ;" "y.ノゞ; ; ; ゞ゛;ゞ.ノゞ ; ;ヾ ; ;ゞ"ゞ; "ゞ ; ;";;;;""ゞヾy.ノゞ_;/"ゞ ; ;"/" ヾ ;ゞ ;" "ゞ ; ; ; ;;;;;; ; ;ゞ;;ノ;ノ″ ` ` :;;; ;;;;.....:::::/ ` /'´`i´ `ヽ| ` ` : !リ`´リ从:| ` ` ` :!!-ω-ノリ:| ;;;....;;::;...;;ii:| _ 春ねぇ〜またチョンコが花粉と共に ::;...;;:..;i...iii:| ' ´ ,、 `ヽ ソメイヨシノの嘘をつきまくる季節だわ。 :..; <⌒ ;ii` i (ノ )))) ) _ ./ん〉 ヾ>、 回/ `´∇ '´  ̄ `ヽi| |! リ゚ ー゚ノi| <⌒8'´ `ヽ ! ,イ(从リソ)〉! i | |(」」i」」) j (リハ从レ| ノ⊂i(.乂)つ レ'´iノヾヽi) i ノノヾ(リ゚ ー゚ノ l | ノ(G!|゚ o゚ノ!| iヘ(i゚ ヮ゚ノ`i| (( 〈ハi__i〉)) 从゚ヮ ゚从i ∩∩ (( ( O▼O (i∪ ∪ iii( つ▼とii ,,,,,,.と__)__).. ,,,.,っ[◎]c ⌒⌒; ,...,... と__)__),.....,..と__)__),,,., '''''ヽ_つ-つ''''' ,;∧_∧: グギギギギギィィィィィ <;l|l;`田´>; (6 9 もうバレてたニダ ム__〉__〉 _ , -―-、 , 'ニニニ、::::(0::::::::::ヽ、 みてごらん、あれが  ̄ ̄ヽ'::::::::::::::: ヾ 人型ゴキブリ )::: .... \ 通称 チョンコだよ / ::::::::::::::::::ヽ / :::::::::::::::::| / :::::::::::::::::| / :::::::::::::::::::| / ::::::::::::::::::::| | :::::::::::::::::::::| . | :::::::::::::::::::::| _ , ―-、| /::::::::::::::/::::| \ヲ'⌒ヽ:| /:::::::::::::::/::::::| ト`_ ノ::| /:::::::::::::/::::::::| 人;;;;;;;::::;:| |:::::::::::::/::::::::/ /γ `:::::| |::::::::::::/::::::::/ / ( ヽ :::| |:::::::::/::::::::/ ふーん、なんだか { } } ::| |::::::::{::::::::/ 頭悪そうだね、パパ | / } ::| .ヽ::::|:::::::/ } { / ::| .ヽノ ::::/ } | ( :λ :::| ( ヽ、 ) ノヽ ::::| ヽ, ~ 〈 ト、_ | ::::::ヽ、 ( ,' ノ | |~7 ::::::::::::::`ヽ、 ヽ,、,、,γ' ノ, -‐W~フ { ト、:::::::::::::::::::ヽ、 ∠____ト-┘z__,―' ̄Σ Z  ̄ヽ―-、_ノ '―z_,┴'~ ┏┓ ┏━━━┓ ┏━━┓ ┏┓┏┓ ┏┓ ┏━━━━┓ ┏━┛┗━┓┃┏━┓┃┏┛┏┓┃ ┃┃┃┃ ┏┛┗━━━━━┓ ┏┛┏━━┓┗┓ ┗━┓┏━┛┃┃ ┃┃┗━┛┃┃ ┏┛┗┛┗┓┏┛┏━━━━━━┛ ┏┛┏┛┏┓┗┓┗┓ ┏━┛┗━┓┃┗━┛┃┏━━┛┗┓┗━┓┏━┛┃┏┛ ┏┛ ┗━┛┗━┛ ┗┓ ┃┏━━┓┃┃┏━┓┃┃┏┓┏┓┃ ┃┃ ┗┛┏━━━━━┓ ┗┓┏━━━━━━┓┏┛ ┃┗━━┛┃┃┃ ┃┃┃┗┛┗┛┃┏━┛┗━┓ ┗━━━┓┏┛ ┃┗━━━━━━┛┃ ┃┏━━┓┃┃┗━┛┃┃┏┓┏┓┃┗━┓┏━┛ ┏┛┃ ┃┏━━━━━━┓┃ ┃┗━━┛┃┃┏━┓┃┃┗┛┗┛┃ ┃┃ ┏┛┏┛ ┃┗━━━━━━┛┃ ┗━┓┏━┛┃┃ ┃┃┗━━━━┛┏━┛┗━┓ ┏━┛┏┛ ┏┓ ┃┏━┓ ┏━┓ ┗┓ ┏━┛┗━┓┃┃ ┃┃┏┓┏┏┏┓┗━┓┏━┛ ┏┛┏━┛ ┃┃ ┃┃ ┗┓┗━┛┏━┛ ┗━┓┏━┛┃┃┏┛┃┃┃┃┃┃┃ ┃┃ ┃ ┗━━━━┛┃┏┛┗━┓┗━┓ ┗━┓ ┗┛ ┗┛┗━┛┗┛┗┗┗┛ ┗┛ ┗━━━━━━━┛┗━━━┛ ┗━━━┛ ┏━━━━┏━┓ ┏━┓ ┏┳┓ ┏━┓┏━┓ ┗━━┓ ┃○┃┏━┛ ┗┓┃┃┃ . ┃ ┃┃ ┃ ┃ ┗━┛┗━┓ ┏┛┗┻┛ ┏┓ ┏━━━━┓┃ ┃┃ ┃ ┏┛ ┃ ┏━┛ ┗┓ ┏┛┗━┓┃ ┃┗━┛┗━┛ ┏┛┏━┛ ┗━┓ ┏┛ ┗┓┏┓┃┗━━━━┛┏━┓┏━┓ ┗━┛ ┗━┛ ┃┃┗┛ ┗━┛┗━┛ _,,,,,,__ __,,,__ ィjj)))))))))!!!!!彡ヽ, /ミ/ ,}彡ヘ |ミ{ -‐ ‐ ‐ ‐- {三=| El==; ゚ ''==. |ミミ,| `レfォ、,〉 :rfォ.、, !iル┤ . { `¨ i ・、¨ ´ `{ゞ'} . | ‘`!!^’ヽ .「´ <だからチョンに ! ,-ニ'¬-、 ,!|,_ 関わるなと・・・ . \´ ̄` / ∧ヘ、 __/〉`ー ' ´ / 〉 \ _, ィ´「∧ / / )¬ー- 、_ -‐ ´ / / ヽ、/ / iヾ ヽ 福沢諭吉(1835年1月10日-1901年〉2月3日) 日本のことが気になって気になって 夜も眠れないニダ ∧_∧,、, __________ <#`Д ( (二( ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ (○ /⌒\ / / |  ̄ ̄ ̄|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ / \ / ノ .|| | /ー' ' .|| / ̄ ̄チョンコホイホイ ̄^\ .||  ̄|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|| ̄ 示 || ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|| . /|| \ いちいちこっちみんなオラァ !!! ∧_∧ -__ アイグォッ ドガッ (・ω・`# ) ─_____ ___ ∧_∧,、, __ 从ノ (ミ_ (⌒\ヽ _ ___ ・∴<`Д(#Σ( (二( ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄( ( (≡ ̄ ̄ ̄ ̄三\⌒ノ ノ ) )⌒\ / / |  ̄ ̄ ̄|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄Wゝ  ̄ ̄\ ⌒彡) ノ =_ / \ / ノ .|| \,___,ノノ | /ー' ' .|| / / / ̄ ̄チョンコホイホイ ̄^\ ...|| / ノ ___ズザー  ̄|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|| ̄ 示 __/ ノ _─ (´⌒(´ || ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|| ./|| \ (_/= (´⌒(´⌒;; ゞ:.y.ノゞ ; ;y.ノゞ; ;ゞ ;" "ゞ; ; y.ノゞ;;ヾ ;ゞ y.ノゞ ;;;; "ゞ;ヾ; ゞ:.y.ノゞy.ノゞヾ ; ;ゞy.ノゞ; ; ; ゞ゛;ゞ:ノゞ ; ;ヾ ゞ ;" "ゞ; ゞ゛; :ゞ:.y.ノゞ ; ;ヾ ; ;:_/ゞ ;" "y.ノゞ; ; ; ゞ゛;ゞ.ノゞ ; ;ヾ ; ;ゞ"ゞ; "ゞ ; ;";;;;""ゞヾy.ノゞ_;/"ゞ ; ;"/" ヾ ;ゞ ;" "ゞ ; ; ; ;;;;;; ; ;ゞ;;ノ;ノ″ ` ` :;;; ;;;;.....:::::/ ` /'´`i´ `ヽ| ` ` : !リ`´リ从:| ` ` ` :!!-ω-ノリ:| ;;;....;;::;...;;ii:| _ 春ねぇ〜またチョンコが花粉と共に ::;...;;:..;i...iii:| ' ´ ,、 `ヽ ソメイヨシノの嘘をつきまくる季節だわ。 :..; <⌒ ;ii` i (ノ )))) ) _ ./ん〉 ヾ>、 回/ `´∇ '´  ̄ `ヽi| |! リ゚ ー゚ノi| <⌒8'´ `ヽ ! ,イ(从リソ)〉! i | |(」」i」」) j (リハ从レ| ノ⊂i(.乂)つ レ'´iノヾヽi) i ノノヾ(リ゚ ー゚ノ l | ノ(G!|゚ o゚ノ!| iヘ(i゚ ヮ゚ノ`i| (( 〈ハi__i〉)) 从゚ヮ ゚从i ∩∩ (( ( O▼O (i∪ ∪ iii( つ▼とii ,,,,,,.と__)__).. ,,,.,っ[◎]c ⌒⌒; ,...,... と__)__),.....,..と__)__),,,., '''''ヽ_つ-つ''''' ,;∧_∧: グギギギギギィィィィィ <;l|l;`田´>; (6 9 もうバレてたニダ ム__〉__〉 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ┃ ▼よく分かるチョンコロペニンシュラの歴史 ┃ ┃有史以前 : 黒い山葡萄原人が生息。 ┃2世紀 : 漢軍の駐屯地になる。 ┃4世紀 : 日本の属国になる。 ┃7世紀 : 唐の属国になる。 ┃13世紀 : モンゴルの属国になる。 ┃14世紀 : 再度中国(明)の属国になる。 ┃17世紀 : 明が滅亡し、清の属国になる。 ┃20世紀 前半 : 日本の属国になる。 ┃20世紀 後半 : 北半分がソ連の、南半分がアメリカの属国になる。 ∧_∧ 。 ( ´∀`) / <これでテストは満点 E[]ヨ (つ つ ━━━━━━━━━━━━━━━━ | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| | | | | | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| __ , ────── 、__ , - ':::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::\ / ;;;;;;;:::::::::::::::::::::::::::::::::;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;\ /,,;,,,,, ;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;; ,,,,,,,,;::::::丶 / :::::::::;;,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,;:::::::::::::::::::ヽ i゙:::;:::::||::::::,!i:::::::::::,|i::::::::::::::::::;:::::::::::::::::::::::::::::::゙i i゙::::|;;;;| |;;;;;| |::::::::::| |:::::::::::::::::||::::::::::::::::::::::::::::::::| . i゙::::::i ''''''''''' '───' |;;;;;;;;;;;;::::::::::::::::::::| .|:::::::|,-====-´ ゙ヽ,,,,,,,,,,,,,、 |:::::::::::::::::::| |;::::::::|,-──、 ~ニニ,,_` |:::::::::::::::::::| `ヽ、i (、i´ノ ´い,, ノ ' |;;;::::::::::::::/ なんで、朝鮮人はウンコ食べるん? . i ^~~~ー==─ ー'-+、 /^゙-、;;;;/ { ヽゝ '-'~ノ λ ''゙゙''-''-─、 /-'^" ヽ,_ ^~^ ( /`''丶、 , - /^l / /( ノ `'''''''´~ _, - ' ~ ゙i、 { / /| ̄ ̄ ̄ ̄ _,-'^¨ } {/ / ゙ー────'~ \| / ヽ \ ,,fヽy rヽ__)`~ i'" ・ ゚ * / ,,ノ * . <'" ,ィ'~ ` >∧__∧ヽ ウェー、ハッハッハ !!! ・ <ヽ`∀´>ヽ 世界中が ウリナラ から ~ヽ, ヽ, 孤立してる ニダ!!!! * . ・ < } 。 * ) 〉 ゚ 〈 _,,,/ ゚ ´‐'"~ . ・ 。 * _,..-‐''''""~´ ̄ ̄ ̄ ̄~"'''‐-,.、 . ,.-‐''" ──‐‐''",.、.:.:.:.:.:.:.:\、.:.:.:.:.:.:.:~"'‐-、 ,.‐''"''''""~´::::::::::::::::::::::\\:::::::::::::::"'''''\"''--、.:.:.゙''‐.、 ,.‐'":::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::゙''‐、''l:::::__,....-‐'''" ''.:.:.:::゙'ヽ、 ,.‐'"::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::~"‐--‐‐, ''.:.:.:. \ /:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::/" .:.:.:. ヽ、 ,."::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::/ .ヽ ,.".:.:.:.:.:.:.:.:.:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::/~ `、 >>608 日本史サイエンス〈弐〉 邪馬台国、秀吉の朝鮮出兵、日本海海戦の謎を解く では最新のシミュレーションとして地球自転の遅れにもよるが卑弥呼の時代に北九州で皆既日食のまま日没になるものがあるそうだ もしも自転の遅れが想定以上なら奈良盆地でそうなるそうだが ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
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