神武・倭国の連合東遷説
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万葉集の淡島は阿波志摩という表記がある 阿波のどこか 徳島の善入寺島は古くから粟島と呼ばれてる 淡島は善入寺島のことだろう 淡島(粟島・善入寺島)の増水、淡路島の渇水で失敗した、伊邪那岐・伊邪那美の開拓は次に愛媛(伊予)に進んだと思われる。 理由は、 古事記では2番目、日本書記本文では3番目に国生みしたと記している。 神生みでは建築の神々を最初に生んでいて、石土毘古(いわつちびこ)神が石鎚山に祀られている。 伊予は「伊予二名州(いよのふたなしま)」と記しているが、この二名の解釈がいろいろ出ている。 A、古く四国は東西に「伊国」「予国」と二つあった説。 B、四国は「面四つあり」と記していて男女二つのペアに分かれているため、二名とした説。 C、二名とは伊予と愛媛とする説 ホワイトケープの考え 1、二名とは伊予開拓の神の名である、伊予津彦、伊予津姫のことと考えた。 2、伊予津彦は伊予開拓時代の伊邪那岐で、伊予津姫は同じく愛媛開拓時代の伊邪那美の当時の名と考える。 3、伊予は伊都国の伊で土地を広げる意味、伊都国の将来を預ける意味があると考える。 4、愛媛の名は、伊邪那美の元名あるいは、伊予時代の愛称と考える。 >>364 >淡島は善入寺島のことだろう そうだね。 あの辺り一帯は「忌部の郷」だから。 国の始まりだったのだろう。 @阿波 >>370 日本@名無史さん2019/01/20(日) 01:31:36.57 伊予にフタナという地名があったんじゃないの? 愛媛県に3か所ありますネ @ 佐多岬半島の中程の伊予灘に面する二名津。 A 宇和島市三間町の二名駅、二名小学校、二名郵便局。もともとは二名の字があったのでしょう。 B 久万高原町の二名川、字の二名。 二名津を訪ねてみましたが、古代との結びつきを感じさせるものはありませんでした。 やはりここは、二つの名前と考えた方が良いように思います。 伊邪那岐・伊邪那美の国生みという名の開拓は、愛媛から讃岐に進んだと思われる。 「伊予国は愛媛といひ、讃岐国は飯依比古といひ、粟国は大宣都比売といひ、・・・」 とあるからの推定。 1、主に讃岐平野西部の丸亀・善通寺・琴平・三豊付近の開拓にあたったと考える。 2、善通寺市の旧練兵場遺跡群は、吉野ケ里遺跡に匹敵する大きな遺跡で。近隣集落の中心都市の様相を示す。 3、詫間町の先半島にある紫雲出山の高地性集落は、ここにやってくる船を待ち受け迎えていた施設と考える。 4、この付近には竜王山が二つもあり、後の竜王こと豊玉彦が国生みの跡を訪ね、国生みの足跡としたと考えている。 古代の名前で伊がつけば ほぼ渡来系と思ってよし 山陰山陽九州越えて四国か かなり難しいような >>376 名前:日本@名無史さん 2019/01/24(木) 17:14:29.61 >古代の名前で伊がつけば >ほぼ渡来系と思ってよし 以前からなんとなくそのように感じてましたが、 「伊」のルーツはどのあたりだったのでしょうねえ?? 伊?それが判れば何でも解決するわ 出雲?五十猛? 伊大氏?加邪?糸島?五十島? 五十は、イズともイトウとも? 伊邪那岐、伊邪那美の国生みは、愛媛・讃岐を経て阿波に戻ってきたと思われます。 その経路は定かでないが、弘法大師ゆかりの雲辺寺近くの竜王山付近を越えたと考えます。 雲辺寺の展望台からは竜王山が良く見えます。廟が竜王山方向を向いています。 弘法大師ゆかりの寺(48か所)は、多くが国生みなど建国とかかわりの多い箇所に見つかります。 阿波に入った二人は、淡島の失敗を繰り返さないよう、今度は川上から開拓を始めています。 伊邪那美を祀る神社が、川上から三社並んでいます。 @ 天椅立神社 徳島県東みよし町昼間 吉野川北岸にあり、この付近から耕作地が広がる。 A 伊射那美神社 徳島県美馬市美馬町中島 B 伊射那美神社 徳島県美馬市穴吹町三島 長女の天照大御神は、南岸の加茂神社付近で誕生したか幼少期を過ごしたかもしれない。 加茂神社付近から山に入った先に、日ノ丸山があり関係する伝承が残る。 >>379 >伊邪那美を祀る神社が、川上から三社並んでいます。 伊邪那美の陵墓は、高越山山頂奥の院。 それら三社は麓へ分社したものだろう。 @阿波 阿波開拓の中で伊邪那美は亡くなったと思われます。 徳島県美馬市穴吹町三島の伊射那美神社を宮としていたころと思います。 謎はいくつもありますが、亡くなった場所についての調査結果と考えです。 @ 伊邪那美が亡くなった事故があったところは、熊野の「花の窟」付近と考えます。 A 阿波から一時的に七里御浜に沿う海岸段丘の内側を流れる産田川沿いの開拓にやってきたときの事故と思われる。 B ここは、水を得やすい開拓適地である。 C 産田神社には伊邪那美と死の原因とされる迦具土神が同時に祀っている。 D 3人姉弟の末の須佐之男のみをつれてやってきていたと考える。 E 須佐之男命は出雲の熊野大社に祀られていて、熊野と関係が深い。 F 「土俗この神の魂を祭るには、花の時には花を以て祭る、また鼓吹、幡旗を用て歌い舞うて祭る」と紀は花の窟に葬ったと記す。 G 花の窟がある山は竜宮山の名がある。後の竜王こと豊玉彦がやってきて、国生みの足跡に残したのだろう。 H 伊邪那岐は一緒でなかった。このとき伊邪那岐は西摂の開拓を行っていたと思われる。猪名川上流にもう一つの竜宮山がある。 阿波開拓の中で亡くなった伊邪那美の死の原因は何だったのでしょう。 記紀はか火之迦具土神の出産事故のごとく記しているが? @ 火が関係することは間違いないと思われます。 A 亡くなった後、駈け付けた伊邪那岐に「我を見たまひそ」と、顔を見ることを拒んでいることから、恐れ多いことながら火傷の事故と考えます。 B 衣に火が付いたか、寝所の建物に火が付いた事故と考えます。それも夜の事故かもしれません。火之加具土神の別名が火之夜芸速男神だからです。 C さあ大変です。七里御浜から阿波に向けて速舟が出たでしょう。「熊野の諸手船」です。 D 遅れて伊邪那美も阿波に運ばれます。潮岬を回り御坊の日ノ岬付近から紀伊水道付近を渡り、阿波を経て吉野川を遡ります。 E 約220km、到着は翌日か翌々日になったと思われます。看病したのは彌都波能売神かもしれません。彌都(水)と波からの連想です。火傷の手当ては水で冷やすことが大事です。 F 必死の看病も甲斐なく亡くなりました。 熊野の「花の窟」付近で火傷を負った伊邪那美を、阿波に船で運んだことが、祭りとして残されていた。 熊野速玉大社の御船祭りに、この大事故の痕跡を見ることができる。 @ 熊野速玉大社には伊邪那岐と伊邪那美が祀られている。 A 御船祭りは、伊邪那美が神幸船で熊野川を1kmほど遡った川中の御船島に渡り、再び社殿に戻ってくる祭事である。 B この祭事は伊邪那美が無事に戻ってくることを願う祭事である。 B 9艘の早船による競争や「諸手船」の上で「ハリハリ踊り」などが行われる。 C 船の先頭には、赤い頭巾を長くたらし、赤い衣に黒い帯を締めた男が、「ハリハリセ」と言いながら舳先で踊る。時には前方を指さすしぐさをする。 D 「ハリハリセ」は「速く、速くせー」に聞こえる。この男こそ伊邪那美命を阿波に運ぶ船の指揮を執っている加具土神の姿であろう。 E 神宝館には神輿が乗った神幸船が残る。その神幸船には、船を漕ぐ櫂を持った稚児像が乗せられる。須佐之男命が必死に船を漕ぐ様子である。 F 須佐之男命が泣き虫で、母親思いに育ったのは、この時の記憶によると思われる。 G このように事故が祭りとして残ったのは、伊邪那岐が伊邪那美と別れを決断した時、速玉之男と事解之男に事故を残すよう命じたためと思われる。 熊野で亡くなった伊邪那美命は、阿波に運ばれて吉野川市の高越山の頂に葬られたと思われる。 その「もがり」の地は麓の山川町と推測した。 @ 遺体は熊野から早船で、美馬市穴吹町三島にある、当時の宮、伊射那美神社にはこばれた。 A 猪名川から駆けつけた伊邪那岐は、「愛しき我が汝妹の命を、子の一つけにかへつるかも」と、怒りのままに加具土神を斬ってしまう。 B その血は湯津石村に走りついたと記す。その湯津石村は下流にある、岩津と湯立のことと思われる。吉野川をはさんだ2地点である。 C 2地点の中間は舟戸で、船で運ばれた遺体はここから、近くの小高い山にある「天神社」に運ばれた。ここが「もがり」の場所となった。 D 40mほどの石段を上った「天神社」は今も荘厳な雰囲気がのこる。伊邪那岐は近くの天皇原の仮宮から「もがり」に通ったのだろう。 E この小さな山川町の扇状地が、もがりの平野となった。各地から伊邪那美の死を悲しみ集まり涙を流しただろう。 F 3人の子供たちは、天神社の反対の丘から、見送ったかもしれない。 G 扇状地には、住吉や春日など後に活躍する人の姓が残る。扇状地の東と西に忌部山があり、天神社を差しはさみ記録している。 >>1 神武東遷と魏志倭人伝では時代が合わないので論外 >>390 神武東遷と魏志倭人伝では時代が合わないので論外 意見で言っている意味が、今ひとつわかりません。 魏志倭人伝は卑弥呼(天照大御神)が亡くなる前後のことが書かれています。 神武東征は卑弥呼(天照大御神)が亡くなって、台与(豊受大神)の時代に行われたと考えています。 これを時代が合わないと表現しているのですか? はたまた同じ3世紀の出来事なので同じ時代と表現しているのですか? 卑弥呼の前の男王70〜80年が後漢代に相当する筑紫の日向三代だ。 倭国大乱で神武らが畿内へ敗退し、九州に卑弥呼、大和に饒速日王権と神武らの小部族がいた。 天皇の年齢が過大に見積もられているのを修正すれば、神武東征は2〜3世紀にかけてになる。 >>392 そもそも卑弥呼がアマテラスだというのが間違い 仮にそうだとしたら、記紀にもっと詳しく邪馬台国のことが書かれてるはずだが 実際には神功皇后の章に、他と文体の違う注釈として、魏書に倭国の女王が魏に朝貢したとの記述がある。とだけ書かれている。 >>394 古代の寿命が盛られてるのは、意図的な捏造ではないよ。 魏志倭人伝でも 邪馬台国の住人は、皆百歳、或いは80歳や90歳である。と書かれていたり 当時の倭国には暦の概念はなくただ春に植えて、秋に収穫する。と書かれている。 3世紀の日本に太陰暦による一年の概念がまだ導入されてなかったことは、魏志倭人伝が証明している。 古代の日本では春から夏の植物の生育の時期で一歳、秋の刈り入れから冬が終わるまででまた一歳と 1年で2つ齢をとるように数えていたことが、結構容易に推測できる。 古代天皇の年齢が高齢すぎるから嘘だとすると、邪馬台国自体も嘘だと言うのと変わらない。 どこかの医大の先生が、縄文人の人骨の鑑定を行った事があるが、12歳未満の子供の例を除外すると 3/4は70代まで生きていたことが確認されている。 縄文時代だと乳幼児の生存率は低くなってしまうが、十分に成長した個体は、今とあまり変わらない寿命だったのよ。 だからこそ、欠史八代を架空ではなく実在として現実的な年齢を仮定すると、神武は2世紀末の倭国大乱の時代の人物になるんだよ。 そして神武が去った後の倭の王都である筑紫の日向で共立されたのが卑弥呼であったのだろう。 >>396 魏使は見るからに50歳の男が、オレは100歳だと言うのを信じたんだよな >>396 自分が矛盾したことを言ってるの分かってる? >>398 寧ろ百歳代がゴロゴロいたとしたら、世界史レベルのミステリー。 邪馬台国の場所なんかよりもよっぽど重要 >>401 見大人所敬 但搏手以當跪拝 其人寿考 或百年或八九十年 「其人寿考 或百年或八九十年」 人々は寿命が長く、ある人は百歳、ある人は八、九十歳までも生きる。(藤堂明保「倭国伝」) →集団のうち何人かは長老がいたんだね 縄文時代に半数以上の人々が七十代まで生きていたんだから、しごく当たり前の状況 伊邪那岐は、「愛しき我が汝妹の命を、子の一つけにかへつるかも」と、怒りのままに加具土神を斬ってしまった。 伊邪那美命の死の責任をとった加具土神だが、無実と思われる根拠。 @ 加具土神は伊邪那美命による神生みの中の1神であって、伊邪那美命の出産ではなかった。 A 伊邪那美命は火の事故で亡くなったと思われるが、加具土神自身の過失ではないと思われる。 B 加具土神の過失なら、加具土神の姿と思われる御船祭の船の舳先で活躍する伝承は残らなかったであろう。 C 熊野の産田神社では伊邪那美命と火之加具土神が同時に祀られている。過失責任があればこのようなことはあり得ない。 D 加具土神は埴山姫をめとって和久産巣日神をすでに生んでいた。成人した男性であったことを一書(第二)二記している。 E 和久産巣日神は後の豊受大神(台与)を生んだと記している。先祖に罪のある人の末裔が女王になれるはずがない。 F 高天原は加具土神に罪がない中、伊邪那岐に殺されたことを知っていたと思われる。 G 須佐之男命と和久産巣日神は幼馴染だったと思われる。罪のない加具土神の子であることを知っていて、和久産巣日神の孫との間に豊受大神をもうけた。 H 天照大御神が亡くなった後、男王たち国中不服の時、豊受大神(台与)が選ばれ国中が収まったのも、これらの経緯が知られていたためと考える。 >>404 其人寿考だから、稀に長寿がいるという解釈はおかしい。 >>407 「其人寿考」の解釈としては 何人かがご長寿というわけではない。 例えば「其人很高」と書けば、その集団は背が高いとなる。 これを「集団の何人かは背が高い」とは解釈しないのと同じで 「其人寿考」は集団としての邪馬台国の特徴を書いているので 大多数はご長寿だったと受け取るのが正しい解釈。 縄文期の乳幼児を除いた3/4が70代まで生きているが 80〜100というのはかなり特異なご長寿大国であり 医療の発達していない3世紀では、これは当たり前のことではないし 同じ先生の研究でも弥生人も70代までは生きていた形跡はあるが 80〜100というのは稀に見るレアケースだとされている。 結局、邪馬台国で寿命を盛られていたか、2倍説かが妥当となる。 大体70歳まで生きてるんなら集団として長寿だろ 平均がそうなら中には80〜100歳の長老がいておかしくはない >>409 80〜100歳が稀にいるか、皆その程度まで生きるかは、雲泥の差。 魏志倭人伝の書き表し方は後者だと言うだけ。 そもそも魏志倭人伝では、邪馬台国には暦がない。と、ハッキリ書かれている。 暦がないのに歳がわかるとはこれ如何に? 普通よりもご長寿大国であった記述と合わせて考えれば、独自の年齢の数え方があったとしか言いようがない。 それも魏志倭人伝にヒントを求めると、同じ文から求められる。 其俗不知正歳四節 但計春耕秋収 為年紀 春に耕作して一歳。秋に収穫して一歳。 太陰暦も太陽暦もない1700年前の出来事なんだよ。 354日や、365日、384日で一年が過ぎて、一つ歳を取るという概念がまだなかった時代に、今の年期の常識は捨てなきゃね? >>410 言わんとしてることは十分理解できるが、当時の大陸だって30代半ばまで生きてる人は普通にいたわけで、同年代の倭人を見たんならことさら「其人寿考」とは書かないんじゃないか? >>410 >暦がないのに歳がわかるとはこれ如何に? これ判断したのは魏使だから >其俗不知正歳四節 但計春耕秋収 為年紀 >春に耕作して一歳。秋に収穫して一歳。 誤読 >>412 太陰暦を使ってない事は、魏使の勝手判断ではないよ? 年齢にしても当人らに聞くか、対応した倭国の接待役に聞いたはずだよ? >>413 >暦がないのに歳がわかるとはこれ如何に? これあなたの発言だよね >>414 そうだよ。 魏志倭人伝には当時の倭国には太陰暦がまだ導入されていなかったと書いてある。 でも、年齢がわかる。 つまりは独自の年紀法があったということだろう。 それが季節の変節によるニ倍年紀法だと俺は考えている。 じゃないと、其人寿考と辻褄が合わない。 其人寿考をぼやかして長老もたまにはいた。と、誤魔化すしかなくなる。 70歳が普通にいたんなら、二倍年紀で140歳になるだろ、辻褄はどこにある 「春耕秋収 為年紀」 これで1年としたと書いてあるな >>416 其人寿考に当たるのは、今の年紀法での70代の事ではないんだよ? 普通の年齢分布なら、当然高齢者は少ないから其人寿考の範囲外だよね? >>419 「其人寿考」を判断したのは魏使だよ、普通の年紀法に基づくものだ 見た目50歳のやつが100歳だと言ったのを信じたわけではなくて、 見た目100歳のやつが100歳と言ってたということだね で、年齢と邪馬台国の東遷に関係性はあるのか? そもそも邪馬台国の東遷自体に根拠がないし、記紀との連続性のなさすぎな点から、東遷はないと考えたほうがよい。 >>422 古代史ファンタジーってやつだから、根拠なんてなくても言ったもの勝ち。 >>376 ->>378 イは東四国を指す言葉 http://park17.wakwak.com/ ~happyend/kojiki/awa/awa_01.html#Anchor-02 【倭国】 紀元前に博多湾沿岸に倭国が成立して漢と国交を持ち、後漢の頃には漢委奴国王印により倭国王に冊封された。後漢書では、倭国は朝鮮半島南岸の狗邪韓国から九州北岸の倭奴国までの、対馬海峡の海洋国家として書かれている。 対馬海峡における貿易の権益が、天津神すなわち海の神を中心とした倭国の形成の原動力であったと考えることができる。 記紀の国生み神話で、イザナギが矛を使って最初に得た領土である淤能碁呂島は、銅矛文化圏の中心である博多湾にある能古島のことである。 それに続きイザナギとイザナミの生んだ国土のうち、天の冠詞がつく隠伎之三子島(天之忍許呂別)、伊伎島(天比登都柱)、津島(天之狭手依比売)、 女島(天一根、姫島)、知訶島(天之忍男、五島列島)、両児島(天両屋、男女群島)が天つ国(海の国)の本来の領域である。 倭は博多湾沿岸を都として対馬海峡に広がるという後漢書の記事とよく対応している。 国産み伝説には、記紀編纂までに西日本各地の土地が追加された。 博多湾岸を起点として対馬海峡から朝鮮半島南岸へ、日本海から山陰や北陸に広がる国が古代の倭国の姿である。 連合国家である倭国の盟主は筑紫であり、他に九州北部の倭国連合を構成する豊国、肥国がある。倭地とされた本州には出雲、越などがあった。 中国との交易は一貫して筑紫が独占していた。 卑弥呼の時代には倭は九州内陸へ拡大していく。 九州で出土した副葬品の分布地図 http://www.netpia.jp/history/map-fukusohin237.gif 上記の地図は邪馬台国と狗奴国(熊本)を合わせた九州北部の国、倭国の中枢を示している。 実際にはこれに属州としての日本海沿岸、瀬戸内海沿岸の地域が付随する。 卑弥呼の時代の畿内は、奈良も京都も大阪もまだ沼地であり、特に奈良は主要交易路からはずれた名もなき辺境の沼地であった。 2世紀の倭国大乱後の女王の墓として3世紀に平原遺跡が作られた。 副葬された王位の証である八咫の鏡は、筑紫伊都国が王権の所在地すなわち倭国の王都であったことを示している。 http://park17.wakwak.com/ ~happyend/kojiki/awa/awa_01.html >>426 > 女王の墓として3世紀に平原遺跡が作られた。 なんであんなへんぴな所に埋葬されたと思う? >>426 一所懸命書いたことは評価するが前半数行を除き大半が根拠のない妄想 淤能碁呂志摩について、記紀では淡路島から岡山の間に島であるとあるので、まず出だしからして違う。 原文でソース貼ると 淤志弖流夜 那爾波能佐岐用 伊傳多知弖 和賀久邇美禮婆 阿波志摩 淤能碁呂志摩 阿遲摩佐能 志麻母美由 佐氣都志摩美由 訳わからんので現代語訳 浪速から出発して私の国を見てみると、アハ島、オノゴロ島、アジマサの島も見える。サケツ島も見える。 詠み人は仁徳天皇 仁徳天皇が浪速にあった宮から吉備国へ向かう途中に見えた島について詠んだ歌 仁徳天皇の大后、石之日売命は、葛城之曾都毘古の娘である。 葛城之曾都毘古の父は、第8代天皇・孝元天皇(こうげんてんのう)の御子、武内宿禰(たけうちのすくね)。 母は、山下影日賣(やましたのかげひめ) で、その兄が珍彦(うづひこ)である。 珍彦(うづひこ)とは、神武天皇を水先案内し、後に倭国造の祖となった倭宿禰命であり、その父が「天村雲命」である。 吉備の黒日売は「海部直の娘」であるが、その海部直の祖先にも当たる。 その「天村雲命」が日本で唯一の式内社「天村雲神伊自波夜比賣神社」にて、阿波で祀られている。 @阿波 「式内社 天村雲神伊自波夜比賣神社 http://www.genbu.net/data/awa2/murakumo2_title.htm 」 香川の津田町は少なくとも10世紀には難波と呼んでいた 今のところ大阪よりも古い 仁徳天皇は中国では讃と呼ばれていて その縁で讃岐になった 仁徳天皇は間違いなく香川の人間 >>434 >仁徳天皇は間違いなく香川の人間 ただし、倭国の時代は東讃も倭国(阿波)の領分。 @阿波 日本史スレの三大キチガイ 阿波 チョンコ 松傾河童婆 >>428 日の出る方に神奈備である高祖山を配しているから? 筑紫の日向の高千穂の櫛古山が高祖山なんだろう。 最重要地域である博多湾を一望できる山城(怡土城)があった。 >>438 だーかーらー 東に高祖山、西にトミ山やコウリキ山、南に雷山、北に可也山と女王が眠るのに適した土地はたくさんあるのに あえて曽根台地のヘリ、しかも下った所にヒッソリと埋葬したのかって意味だよ 土地の話ではなく場所の話ってことね たしかに不自然な場所ではあるよな >>426 >卑弥呼の時代の畿内は、奈良も京都も大阪もまだ沼地であり、特に奈良は主要交易路からはずれた名もなき辺境の沼地であった。 これも否定しておく。 神武天皇が畿内に入って宮を構えたとされる畝傍山の麓には、橿原遺跡と言う遺跡がある。 橿原遺跡は縄文晩期からのものであり、紀元前600年頃の神武東征とも符合する。 出土品の年代測定は近年行われた事で、日本書紀編纂時に、都合よく時代の合う遺跡を、神武天皇の宮の場所に捏造することは不可能。 また、橿原遺跡以外にも、奈良盆地内には天理にも縄文期の遺跡があったりするわけで 畿内水没説が根拠のない妄想であることがわかる。 そもそも奈良湖説は、遺物による証明はされておらず、山辺の道と言われる古代の道が 奈良盆地の標高50m程度にあるから、湖があったに違いない!と言う、脆弱な理屈によって描かられ妄想。 奈良湖予想図と言うのも出回っているが、根拠がない上、作者不明の怪しいもの。 >>441 >畝傍山の麓には、橿原遺跡と言う遺跡がある。 湿地帯だから、麓にしか遺跡がない。 平坦地は湿地帯だった証拠。 @阿波 >>439 糸島平野の中でのロケーションの話か。 それはわからないなあ。 むしろ識者の意見を聞きたい。 >>442 痕跡が一切出てきてないと言う時点で、あると言うなら証拠を出せ。 奈良盆地の湿地帯と言うのは、そもそも盆地北部の大和川沿い、斑鳩の水害の話しをヒントにした作り話だ。 畝傍山の麓に宮を構えたのも、日本書紀に理由が書いてある。 湿地で人が立ち入れなかったと言う理由でもないし 神武天皇以降の天皇は奈良盆地内をかなり活発に移動してる。 >>445 >湿地で人が立ち入れなかったと言う理由でもないし いくら湿地帯でも、人の立ち入りぐらい出来まんがな。 ただし、人が住み暮らすような場所じゃないがね。 @阿波 >>446 奈良盆地なんて、掘り返したことのないところが無いんじゃないか?って位あちこちで発掘調査やってるのに証拠がない。 それでもあると言うならと、証拠の提示をどうぞ。 今の所、海抜50mに道があったというだけで空想された絵空事だよ。 そもそも縄文遺跡が大阪にも奈良にも京都市内ですらある。 畿内を人の住めない土地にしたいのは、非畿内説論者の中でも頭のおかしな一部の人たちだけ。 >>1 >定義1 倭国の女王・卑弥呼は天照大御神。台与は豊受大神のことである。 卑弥呼=アマテラス説の拠り所とされる天の岩戸隠れ=皆既日食説は、国立天文台の計算により 卑弥呼の生きていた時代に奈良でも九州でも皆既日食は見られなかった事が判明しており不成立だよ。 >定義5 神武・倭国の連合隊は、狗奴国との戦いを決着させて出発した。 魏志倭人伝の後半、卑弥呼の最後の朝貢のあった247年の時点で、狗奴国と戦争状態であると帯方郡に報告し、張政が邪馬台国に派遣される。 そして卑弥呼が死に、壱与が立って張政を送り返しつつ壱与の最初の朝貢が行われる。恐らく248年から250年の出来事。 魏志倭人伝はここで終わる。 壱与の朝貢の時点で狗奴国は存続しており、300年代後半の仲哀天皇の九州遠征まで生き残っている。 ここから導き出されるのは、邪馬台国・女王国連合は、狗奴国(南九州勢力)に滅ぼされたということ。 雄略天皇が倭王武であった確率は、ワカタケルの剣などでほぼ確定されており そこから年代を遡っても、仲哀天皇の九州遠征の時期の整合性も合うため、妄想だけでは崩せない。 >>450 >300年代後半の仲哀天皇の九州遠征まで生き残っている。 そんなアホな。 当時の天皇が、九州くんだりまで行くわけないでしょ。 @阿波 >>450 意見をありがとうございます。以下は私の意見です。 ● 岩戸隠れ=皆既日食の件 この説は私も疑問に思っています。岩戸隠れは、須佐之男命が出雲に向かう若い時の出来事で、天照大御神(卑弥呼)が亡くなった時と年代が合わないと考えています。 天照大御神と卑弥呼には、多くの共通点があることは、安本美典など他の方も述べているので省略します。 天照大御神の父母の伊邪那岐・伊邪那美の名が魏志倭人伝に登場するクニ名から、1文字ずつ採った名であることを見つけていて、天照大御神と卑弥呼が同じ時代に生きたことや、跡を継いだ人物が共に女性であることの根拠は大きいと考えています。 ● 狗奴国との決着の戦いの件 神武東征が行われたのは、晋への「最後の遣使」265年頃の後と考えていて、魏志倭人伝に記されていないことは、矛盾がありません。 また、最近の研究では、破鏡が弥生後期終末の熊本平野・大野川流域の住居跡から多く見つかっています。 これは終末期のこの戦いに参加した兵が、家族との別れに親子夫婦の絆として持参した破鏡が、あわただしい中で紛失したものと考えています。 同じ地域に鉄鏃が多く出ることと、古墳時代になると破鏡が全く出土しないことが、戦いのあったことを示唆しています。 >>453 破鏡の出土分布図を貼り忘れたので追加します。 「破鏡の伝世と副葬−選考事例の観察から−(辻田淳一郎)」より 破鏡分布図(弥生時代後期〜終末期) http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu57.jpg >>454 中国で皆既日食が見れただけで、日本列島上空では皆既日食にはなってないと言うのは、国立天文台の計算で揺るがない事実 卑弥呼の前の男王が日向三代なら、神武東征が倭国大乱の影響になる(大乱そのものは筑紫における政権交代)。 その後に天照のモデルとなる卑弥呼の時代があり、八咫の鏡が伊都で作られた。 だか、記紀では日向三代の祖が天照であり、これは考古学的にも難しすぎる(そんな時代に大型鏡を製作する技術はない)。 やはり天照は複数の年代の複数の人物が習合された結果だろう。 天照(海を照らす)が対馬海峡の海洋王なら、天照像の成立に日食の件も影響はあっただろう。 >>453 仮に欠史八代の天皇をいなかったとしても、4世紀の14代仲哀天皇が6代になり、265年ではやはり時代が合わないし 21代雄略天皇が5世紀の人物であることからも、やはり辻褄が合わない。 神武天皇が宮を構えた、橿原遺跡の歴史ももっと古いので、その点でも、九州邪馬台国連合の東征は現実味に欠ける。 そもそも欠史八代の天皇の実在性を明確に否定できる証拠もないけどね。 本論文の結果からすると,西暦247 年3 月24 日の日食は北九州でも深食である.とくに北九州市や北九州沿岸の島で は皆既であった可能性がある。 北九州市も皆既だな 石川から福島にかけて皆既日食が見られたんじゃなかったかな? >>464 それは248年9月5日かな >>463 は247年3月24日だろ >>460 >仮に欠史八代の天皇をいなかったとしても、4世紀の14代仲哀天皇が6代になり、265年ではやはり時代が合わないし 21代雄略天皇が5世紀の人物であることからも、やはり辻褄が合わない。 意味がよくわかりません。 >>神武天皇が宮を構えた、橿原遺跡の歴史ももっと古いので、その点でも、九州邪馬台国連合の東征は現実味に欠ける。 橿原遺跡は、縄文時代から奈良時代までにわたる各時代の遺跡群とウィキペディアは記しています。 橿原宮に近いが、記紀の記述から解釈した、神武が紀元前660年即位説は多くの人が否定しています。 遺跡から神武に結び付くものは何も出ていません。 大和王権が確立する古墳時代に入る前の纏向遺跡が現在、東遷の有無についての焦点です。 >>441 に自らの過ちを認める度量があるかが気になるところ 国生み研究の続きです。 山川町の天神社での「もがり」を終えた伊邪那美命の遺体は、近くの高越山頂に運ばれ葬られたと思われます。 その根拠は @ 山頂には伊邪那美命の神陵と伝わる遺跡がある。 A 山頂の高越寺の修験の人たちが、神陵をお守りしている。 B 「火神、死せる時成る」神々に8柱の山神が登場する。伊邪那美命を山頂に運ぶ際、活躍した山神と考える。 C 高越山は岡山県井原市にもう一つあり、結ぶと比婆山に結ばれている。 D 比婆山は後に伊邪那岐が吉備開拓の中で設けた陵と思われる。近くの二つの吾妻山が指し示している。 G 比婆山、阿波の高越山を結ぶ中間には、二つの竜王山があり、後の竜王こと豊玉彦が訪ね残したのだろう。 H 阿波の高越山の真北には、那岐山があり伊邪那岐は吉備で伊邪那美の陵の場所を探して登ったのだろう。 I 阿波の吉野川市付近にある古い神社は、多くが高越山に向いておかれている。 J 瀬戸内海地方で見つかる、笑顔の分銅形土製品は、伊邪那美を記憶したものではないだろうか? 比婆山と高越山の関係 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu58.jpg >>431-432 その和歌こそが淤能碁呂島が九州であったことを証明している アジマサの島があるというがアジマサ=檳榔は福岡が北限で瀬戸内海には生えていない これにより記紀の記述が大和朝廷が九州王朝時代を隠蔽していることがはっきり分かってしまう >>345 、>>347-348 参照 卑弥呼共立の倭國は、前漢の頃から変わらず北部九州。 倭國の乱は、後漢時代に倭を代表していた玄界灘側の王家(天孫族)と、新興勢力であった有明海側の王家(熊襲)との騒乱。 有明海側の有利で和平の手打ちしたため、祭祀王(卑弥呼)は有明海側が擁立した。 しかし王が博多湾沿岸(伊都)に移り本家の有明海沿岸が手薄になったので、そちら(狗奴国)で王を名乗るものが現れた(卑弥弓呼)。 その頃、一足早く大和に東征していた玄界灘勢力の一派(饒速日)が纒向に大型建物の祭祀施設を建てていた。 敗者となった玄界灘勢力の本体(神武)が大和に落ち延びて合流した。 これが、リアルな2世紀末の歴史。 >>475 その過剰反応が事実であることを如実に物語っていますね キミはなぜ自分の嘘がすぐバレるか分かってないんですねw >>476 お前は無能だから理解力がないんだろうが、俺様が貶してるのはマルチスレッドコピペという卑しい行為であって、内容には一切触れていないという事実をしっかり理解しろよ無能 思い込みからの先走り。 誇大妄想と被害妄想の錯綜。 隣の国から密入国してきた人たちの孫と極めて類似性が高い。 真実を広く流布されたら困る畿内インチキ野郎が発狂してて草w >>479 お前は無能だから理解力がないんだろうが、俺様が貶してるのはマルチスレッドコピペという卑しい行為であって、内容には一切触れていないという事実をしっかり理解しろよ無能 ↑ 読めないの? マルチスレッドコピペが卑しいという君の独自の価値観がどこにでも通用すると思っている無能w そもそも各スレの趣旨に沿って貼られたならマルチとさえ言えないわけだがそんなこともわからない無能w >>476 > その過剰反応が事実であることを如実に物語っていますね 誰も過剰反応していないのに、突如として見えない敵と戦い出す無能っぷり。 > キミはなぜ自分の嘘がすぐバレるか分かってないんですねw 誰も何も言ってないのに、突如として反論し出す無能っぷり。 お前が無能だと罵られてるのは内容ではなくマナーの問題な。 >>481 無能と言われて無能と返す芸の無さに呆れるわwww >>482 いや誰一人としてお前の言い分に同意してないわけだが お前が一人でどう喚こうがお前が無能の敗者であるという事実は覆らんよw >>483 ブーメラン命中して慌てふためく無能乙w >>484 お前は無能だから理解力がないんだろうが、俺様が貶してるのはマルチスレッドコピペという卑しい行為であって、内容には一切触れていないという事実をしっかり理解しろよ無能 ↑ 読めないの?(二度目) >>485 お前は無能だから理解力がないんだろうが、俺様が貶してるのはマルチスレッドコピペという卑しい行為であって、内容には一切触れていないという事実をしっかり理解しろよ無能 ↑ 読めないの?(三度目) >>486 >そもそも各スレの趣旨に沿って貼られたならマルチとさえ言えないわけだがそんなこともわからない無能w ↑ 読めないの?w >>453 実在がはっきりしている天皇の平均在位年から延長線を引いたグラフを見ると、神武は280年〜290年頃になる 東征は台与の末期かその次くらいじゃないかな 意見をありがとうございます。 およその時代を知るには、このグラフは分かりやすくて良いと思います。 図から見ると神武天皇(=280〜290は)予想した退位年と思われます。 即位年については、いろいろな意見が出ていて、具体的には277年を想定しています。 根拠は @ 神武東征隊は各地に鷹の山名や〇尾山の山名を残し、自分たちは神の遣い鳥と認識していたように見える。 A 神武は鳥見山に天神を祀り大孝を申し上げた。この鳥は、出発地の朝倉の鳥見山の地名移動とされている。 B 日本書紀は辛酉年の1月1日に即位したと記されているが、辛ではないが277年は鳥年である。 C 神武は奈良に入った後、宮殿を建てたり、后を娶るなどして、あえてこの酉年を待っていたように見える。 D 寅年に出発したと記していて、まる7年をかけたことになる。 先に天孫降臨は7年をかけた南九州の灌漑稲作を普及する遠征だったことが、南九州の〇〇丘と〇〇岡という名の経路の名付で解けている。 神武は初めから、これに倣い7年をかけ酉年の1月1日に遷都の完了を計画していたと思われる。 >>489 >>486 ムキになってないで自分の読解力の無さと先走った妄想を反省して詫びれば済む話 >>481 Wikiからの引用 マルチポストがマナー違反とされるのは、以下のような理由による 回答が複数のコミュニティーに分散してしまい、知識の集積という1コミュニティーの目的にそぐわない。 ネット資源(サーバーや回線の能力)とて無限ではない。同じ内容の記事をばら撒くのは資源の無駄遣いといえる。 その問題に関心のある人は類似した複数のコミュニティーに参加して新規投稿をチェックしていることが多いが、あちこちの同じ投稿に対してそれが本当に目新しい内容かを峻別しなければならなくなる。 他のコミュニティーで付けられた回答を知らずに同内容の回答を付けてしまったり、他のコミュニティーですでに解決したことを知らずに検討を続けたり、善意の回答者の労力が無駄になる。 この場所だけでは質問が解決するか不安であるという不信感を表明することと、結果としては同じである。 こうしたことから、回答をする意欲を失わせたり、不快な気分にさせてしまう場合がある。 失礼にならない方法 しかしながら、どうしても早く回答が欲しい時や、多様な回答を得たい時、そのコミュニティでは回答が得られそうにない場合などにマルチポストを行なう場合もありえる。 その場合、少なくとも以下のことを書き加えた上で文章を投稿することが望ましい。 マルチポストしていることを明記する。 他にマルチポストしたページ(サイト)のURLを明示する。(回答者が回答を書き込む前に、すでに同一内容の返答がないか等を確認できるようにするため。ただし質問掲示板の多くは類似する事柄を話題とする他の掲示板へのリンクを張る事自体、ルール違反、マナー違反とされる場合がほとんどである) マルチポストに至った経緯(すなわち理由)を説明する。 問題が解決した場合はマルチポストした全てのページに問題解決の報告を行う。 応神天皇元年を390年と考え、そこからの平均在位を計算できる。 平均在位と言っても短すぎるのも長すぎるのも、 正確な数値が出ないと思われるので、 30代を基準に25代〜35代をランダムに採って見た。 ・25代平均 応神天皇390年〜39代弘文天皇没672年 11,28年 ・28代平均 応神天皇390年〜42代文武天皇没707年 11,32年 ・30代平均 応神天皇390年〜44代元正天皇没724年 11,13年 ・33代平均 応神天皇390年〜47代淳仁天皇没764年 11,33年 ・35代平均 応神天皇390年〜49代光仁天皇没781年 11,17年 11年弱が平均在位。 さらに古くなると若干在位が短くなると考え、 「11年」で計算してみる。 ただし神功皇后は確実な一代と見なし、15代遡ってみる。 11年×15代=165年。 応神天皇390年ー165年=225年。 神武元年は3世紀前半。 卑弥呼の時代である。 すなわち大和は邪馬台国ではない。 邪馬台国スレでも欠史八代スレでも使えるソースを両方に貼るのはマルチとは言わない バカには分からんのだろうな >>496 Wikiからの引用 マルチポストがマナー違反とされるのは、以下のような理由による 回答が複数のコミュニティーに分散してしまい、知識の集積という1コミュニティーの目的にそぐわない。 ネット資源(サーバーや回線の能力)とて無限ではない。同じ内容の記事をばら撒くのは資源の無駄遣いといえる。 その問題に関心のある人は類似した複数のコミュニティーに参加して新規投稿をチェックしていることが多いが、あちこちの同じ投稿に対してそれが本当に目新しい内容かを峻別しなければならなくなる。 他のコミュニティーで付けられた回答を知らずに同内容の回答を付けてしまったり、他のコミュニティーですでに解決したことを知らずに検討を続けたり、善意の回答者の労力が無駄になる。 この場所だけでは質問が解決するか不安であるという不信感を表明することと、結果としては同じである。 こうしたことから、回答をする意欲を失わせたり、不快な気分にさせてしまう場合がある。 失礼にならない方法 しかしながら、どうしても早く回答が欲しい時や、多様な回答を得たい時、そのコミュニティでは回答が得られそうにない場合などにマルチポストを行なう場合もありえる。 その場合、少なくとも以下のことを書き加えた上で文章を投稿することが望ましい。 マルチポストしていることを明記する。 他にマルチポストしたページ(サイト)のURLを明示する。(回答者が回答を書き込む前に、すでに同一内容の返答がないか等を確認できるようにするため。ただし質問掲示板の多くは類似する事柄を話題とする他の掲示板へのリンクを張る事自体、ルール違反、マナー違反とされる場合がほとんどである) マルチポストに至った経緯(すなわち理由)を説明する。 問題が解決した場合はマルチポストした全てのページに問題解決の報告を行う。 >>497 君が文意を理解できないバカなのはよくわかった 似たテーマを扱うスレが多すぎかな。 邪馬台国も欠史八代も金印も神武も、極めて近接した年代の事象を扱っているし、登場人物が被っている。 >>496 さっさと詫びてキチガイ荒らしを退場させてくれ もとはと言えばあんたが勘違いして噛み付いたのが始まりなんだから >>471 コレを見るとやはり卑弥呼の時代にはまだ九州が中心だったんだろうな 神武東征は台与かその後というのもその通り >>471 実在天皇のグラフの線は意外ときれいなんだな これなら延長線で逆算してもそう大きな誤差は無いと考えられる とぼけてないで悪かったものは悪かったと認めなさいよ。 >>471 神武東征は卑弥呼以降、か。 これは畿内説にとっては致命的だな。 必死に言いがかりをつけるのもよく分かる。 ,..-‐‐―‐‐-..、 ,-'´ `‐、 ,i' `i、 ,l l、 ,|._ _.|、 〈_``ー=== ╋ ===‐'´_〉 l ``ー-.、____ ,...-‐'´.l ┌――――――――――――― ヽ、_| `ー' / `ー' |_,ノ | >>471 がご迷惑をおかけして / `‐、_ `ニ' ノ \ < たいへん申し訳ございません。 i'´ 、 |``r===r'´| ,___ヽ_ .| 邪馬壱建設 .| i、  ̄\/ ̄ | ╋ | └――――――――――――― |、 |、 □ .[工]├‐‐‐ュ┘ |、 ヽ、. □ ./ / ヽ、 ヽ―‐┌┐―‐'i / `<´.ゝ―└┘―く´``y ヽ、_) ┐ (_,.ノ | | | | ,! .l、 | .| | | .`lー--‐'^ー--‐'l´ ,-‐'´ | `ー-、 (. ! ) `ー--'´`ー^ー'´`‐--‐ >>505 論点はそこじゃないんだけどなw てか猿芝居って美味しいの? >>471 で惨敗した畿内キチが荒らしてるのか やはり畿内説はクズばかりだな >>507 もう506で謝罪してんだから去ってくれよ >>508 お前は無能だから理解力がないんだろうが、俺様が貶してるのはマルチスレッドコピペという卑しい行為であって、内容には一切触れていないという事実をしっかり理解しろよ無能 ↑ 読めないの?(四度目) >>509 誠意が感じられないから受け入れられないニダ / ̄\ .| | /\_+_/\ >>474 が思い込みから糞レスをしてしまい、 |_l | l_| ご利用の皆様には大変ご迷惑を ヽ.|=ロ=|/ おかけしております。 .| | | .|_|_| (_|_) (株)くすを建設 >>510 自分の敵は一人だけだと思いこんでるようだぞ それ統失の症状なんだけどな 畿内論者がこれほど発狂するってことは>>471 の指摘は相当痛いんだな >>515 お前は無能だから理解力がないんだろうが、俺様が貶してるのはマルチスレッドコピペという卑しい行為であって、内容には一切触れていないという事実をしっかり理解しろよ無能 ↑ 読めないの?(五度目) 欠史八代スレじゃ誰も邪魔してないのを見りゃ単にキチガイ荒らしが 「お前は無能だから理解力がないんだろうが、俺様が貶してるのはマルチスレッドコピペという卑しい行為であって、内容には一切触れていないという事実をしっかり理解しろよ無能」 を主張してるに過ぎなって理解できると思うんだが・・・ 畿内説はもうスレを荒らすことでしか対抗できないのですね おかわいそうに・・・ ,. < ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ > 、 / ヽ _ 畿内説を否定したいあまり 〈彡 Y彡三ミ;, マルチポストを指摘くださいました皆々様を {\ \|_ \>ー 、 ト三三ニ:}畿内説の盲信者と決めつけ 人{ >、,___.>、/三 ヾ\ |わ三彡;!罵詈雑言を並べ立ててしまったことを /./ トミ;,_ Y/ \>ノー〜=- "深くお詫び申し上げます V / /!  ̄ ̄ ゝ | / _ 以後、発言には十分注意を払いますので し/'┴──----─''| ン}\-ヾ彡 このあたりでお許し願えませんでしょうか? ヾ、___ノー'''` ピタッと荒らしが止まったな 謝ったら撤退するとか行儀の良い荒らしっているんだなw >>523 ただただ>>471 が興奮しすぎただけだったからな 国生み研究の続きです。 山川町の天神社での「もがり」を終えた伊邪那美命の遺体は、近くの高越山頂に運ばれ葬られたと思われます。 その根拠は @ 山頂には伊邪那美命の神陵と伝わる遺跡がある。 A 山頂の高越寺の修験の人たちが、神陵を今もお守りしている。 B 「火神、死せる時成る」神々に8柱の山神が登場する。伊邪那美命を山頂に運ぶ際、活躍した山神と考える。 C 高越山は岡山県井原市にもう一つあり、結ぶと比婆山に結ばれている。 D 比婆山は後に伊邪那岐が吉備開拓の中で設けた陵と思われる。近くの二つの吾妻山が指し示している。 G 比婆山、阿波の高越山を結ぶ中間には、二つの竜王山があり、後の竜王こと豊玉彦が訪ね残したのだろう。 H 阿波の高越山の真北には、那岐山があり伊邪那岐は吉備で伊邪那美の陵の場所を探して登ったのだろう。 I 阿波の吉野川市付近にある古い神社は、多くが高越山に向いておかれている。 J 瀬戸内海地方で見つかる、かわいい笑顔の分銅形土製品は、伊邪那美を記憶したものではないだろうか? 比婆山と高越山の関係 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu58.jpg 最愛の妻・伊邪那美を亡くした伊邪那岐の悲しみは大きく、国生みの夢を追う気力も失せていたでしょう。 どのように再起したのでしょう。 @ 伊邪那美が言った「我が夫のために、戻るよう黄泉の神に掛け合ってみる」の言葉を信じひたすら待っていた。 A ついに待ちきれず、遺体のある高越山にわずかな供をつれて訪ね登ることとした。 B 雷のような泣沢女たちが取り付く遺体は、蛆がたかる姿となっていた。 C 火傷のある姿に「どうぞ私を見ないでください」と言っていたのに見てしまった。 D 伊邪那岐は、驚き帰る際に「もう縁を切りましょう」「お前には負けないつもりだ」とも言った E いつまでも「悲しみ慕ったのは、私が弱虫だった」と分かったのです。強く生きていく宣言だった。 F もがりの平野、山川町に下れば弱虫に戻ってしまうと考えた伊邪那岐は、反対に下りる決断をした。 G 再起の方法は「高越山」を越えることだった。 伊邪那岐の伊邪那岐からの逃避の道は、高越山から阿南への約60kmに及ぶ山岳行だった。 出所: https://www.youtube.com/watch?v=MPz5ZYhDV1I に逃避の伝承と関係する地名が残されている報告がある。 その他の根拠 @ 阿波忌部氏を継ぐ三木家が、今も美馬市木屋平の絶壁の上にあり、家裏からは高越山からの逃避の尾根道が見える。 三木家の家裏からの風景 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu59.jpg 逃避の尾根を遺すため、代々ここに住んだのだろう。 A 山を下り終え那賀川に出たところの那賀町仁宇には、竜王山が残されていて、豊玉彦が訪ね残したと思われる。 逃避の道 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu60.jpg B 那賀川の河口には、青木・橘の地名が残り、ここで最初の禊が行われたと思われる。近くには小戸神社が残る。 阿南にある小戸神社 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu61.JPG C 禊の場所を古事記は 「竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原」と記す。阿波岐原と阿波の文字を当てている。 D 天照大御神、月読神、須佐之男命は別途、山川町から呼び寄せられていて、ここで再会したのだろ。 E 近くに天照大御神生誕の地の伝承が残る、賀志波比売神社がある。 >>529 どう見ても人里から隔離された土蜘蛛の住処からの風景。 遠くから日々羨望の眼差しで眺めていたのだろうな。 ホワイトケープさん、君はえらく阿波を言ってるが、何が言いたいの? @阿波 >>531 君はえらく阿波を言ってるが、何が言いたいの? 私は「神武・倭国の連合東遷説」です。 神武は、小集団が宮崎から船で奈良に向かった出来事と考える人がいます。 そうではなく、倭国の官である彌彌が北部九州の人たちと、力を合わせた行った遷都と考えています。 これは、天照大神の強い国造りの意思を引き継いだもので、その実現に向けて代々が努力した歴史を刻んでいます。 天照大御神の強い国造りの意思は、国生みの中で阿波に生まれ吉備で育った幼い中の経験に基づくと考えています。 そのような経緯を知っていただきたく、調べてきた国生みを報告しています。 >>533 >そうではなく、倭国の官である彌彌 その倭国はどこにあるの? その中心はどこ? >北部九州の人たちと、力を合わせた行った遷都と考えています。 どこへ遷都したの? あの辺境の海の無い、湿地帯の奈良盆地? >これは、天照大神の強い国造りの意思を引き継いだもので、 その天照大神はどこにいたの? その王宮はどこにあったの? >国生みの中で阿波に生まれ吉備で育った幼い中の経験に基づくと考えています。 なんでそんなにあちこち移動しているの? その理由は? @阿波 >>471 横軸が天皇の代数になってるけど、神武以来、整然とした男系一系になっているのは、 記紀編纂時に相当の編集や創作を加えたからだ。 実際は継体(第26代)以前は王朝交代しまくりだし、男系でなくヒメヒコ制。 兄弟だったものを父子にしたり、ヒメミコを皇女にしたりと、 本当のところはどうだったかは、記紀をいくら読んでも分からない。 名前、先祖、血縁関係、根拠地、主要な業績に、史実の僅かな痕跡を辛うじて探せるくらいだ。 なので継体以後の直線を、そのままの傾きで継体以前に外挿するのは不適切で、 あまり意味がない。 >>533 質問があったので答えたのみです。 議論がしません。 >>536 >議論がしません。 だったら、ここにスレ立てずにブログにするべき。 ここはレスをやりとりする場だよ。 @阿波 >>536 >議論がしません。 ちなみに、>>534 も質問なんだが? @阿波 『ヒメヒコ制』と『通い婚』の伝統は継体以後も日本人のDNAに強固に擦りこまれており、 推古天皇と聖徳太子は明らかな『ヒメヒコ制』の復活だし、 『通い婚』については実に平安時代になってさえも続いている。 そう考えれば、3世紀頃の日本に『男系1系』によるマスキュリンな父子権力承継などあろうはずがなく、 どこへ行っても『ヒメヒコ』と『通い婚』の世界だと考える必要がある。 しかも王朝交代を繰り返してゴチャゴチャ。 例えば記紀に記された神武東征では、神武自身が呪術っぽいことをやってるんだが、 実際は記紀編纂時に消された『神武=ヒコ』に対する『ヒメ』が呪術をやっていたのだろう。 とは言え、本拠地の九州を捨てて奈良盆地に大軍団で移住するなど現実的にあり得るはずもなく、 実際は九州から追い出された海賊か山賊の類が、河内平野に上陸したところ地元の豪族にさんざんに打ちのめされ、 その後熊野からの裏口を通って奈良盆地の片隅にひっそりと住み着いたとか、良くてその程度のことだったのだろう。 悪ければ出自が九州であるというだけの、ただの流浪の移住者だ。 古代の祭祀などに使われた赤色顔料「水銀朱」を生産したとみられる縄文時代後期(約4千〜3千年前)の石臼や、水銀朱の原料の辰砂原石などが大量に出土した阿南市加茂町の加茂宮ノ前遺跡。 辰砂原石などの発見で、水銀朱の生産、利用時期が1500年以上さかのぼることが明らかになった。 また、水銀朱の生産拠点だったとされる竪穴住居跡や、祭祀に使っていたとみられている円形配石遺構など、縄文社会の解明に大きな役割を果たす。 @阿波 阿波から西日本各地に文化発信が始まったのは、卑弥呼の時代より遥か昔の縄文時代晩期末から弥生時代前期初頭である。 「石棒」 石棒は縄文時代を代表する石器である。実用品ではなく儀礼に用いられたと考えられている。 縄文晩期末から弥生時代前期初頭に、島根県・愛媛県・高知県から東は京都府・滋賀県・奈良県・和歌山県 にいたるまでの今までになく広い範囲で泥質片岩製の石棒が出土する。 この石材はすべて銀色を呈する泥質片岩製であり、石棒の素材産出地で、製作遺跡でもある徳島市三谷遺跡が、 その一大製作遺跡であると考えられている。 @阿波 石棒の素材産出地で、製作遺跡でもある徳島市三谷遺跡・名東遺跡付近に接してそびえる眉山には、紅簾片岩の露頭が確認でき、 この紅簾片岩製石棒と神戸市戎町遺跡・同市大開遺跡・八尾南遺跡・滋賀県米原町磯山城遺跡の出土資料とを比較検討すると、それぞれが非常に類似している。 また、各地に分布する石棒の時期が、ほぼ縄文時代晩期末〜弥生時代前期初頭の土器型式で2型式間にも満たない短期間に集中することが明らかになり、 三谷遺跡・名東遺跡の存続期間とほぼ一致することが確認された。さらに、石棒が近畿地方最古の環濠集落である神戸市大開遺跡をはじめとする初期の弥生集落でも出土することをうけ、 近畿・東部瀬戸内地域における「弥生集落」の形成は、「渡来人」「移住者」のみならず、在地の人々による積極的な関与があったと考察される。 @阿波 伊邪那岐は伊邪那美から逃げおおせ、禊をして伊都国に帰ってしまうのでしょうか。それではいかにも薄情です。 再起の国生みは吉備でした。後の卑弥呼・天照大神など三貴子を連れて吉備に向かいました。 その根拠 @ 古事記は「然ありて後、還ります時、吉備児島を生みき。・・・次に小豆島を生みき。・・・次に大島を生みき・・」と記す。 A この「還ります時」は阿波から戻る時と考えられる。 B 帰還の経路としては、小豆島は経路と逆になるが吉備上陸後、伊邪那美の陵の候補地を訪ね巡ったためと考えた。 C 高越山の真北にある小豆島の皇踏山、那岐山が候補になり、けっきょく比婆山に伊邪那美の陵がつくられたと考える。 D 本拠地は備中の国分寺跡付近と想定した。児島の浜にある龍王山から、点々と続く龍王山が国分寺跡の南の龍王山につながる。 E 神武東征隊が吉備に長くとどまったのは、吉備に足跡があり倭国が統治していたためと考える。 F 天照大御神の強い統治意欲は、この吉備での成長が大きく影響したと考える。 G 「豊葦原の千秋長五百の水穂国は、我が御子、正勝吾勝勝速日天忍穂耳命の知らす国ぞ。」と述べている。 北九州にあった卑弥呼なき後の邪馬台国を 朝鮮半島から来た天孫族が征服して現地の姫と結ばれて子供が生まれたのが天孫降臨 その首長がニニギで後に東征してヤマト王朝を建てそれが後の天皇家になったんだろ 手塚治虫の火の鳥にもそう描いてある >>545 こんどはこっちでヒトモドキが鳴いてんのかよwww 火の鳥はファンタジーだよ。 少なくとも、卑弥呼の後にニニギでは、その後の年代が詰まりすぎて無理。 国生みからの帰還の状況 伊邪那岐は三貴子を連れて伊都国に帰還し、天照大御神(卑弥呼)が女王になった。 @ 古事記は吉備からの帰還経路に、吉備児島、小豆島、大島(周防大島)、女島(姫島)、知詞島(五島列島)、両児島(男女群島)を生んだ記している。 A 伊都国帰還に五島列島と男女群島は行き過ぎなので、別な意味合いが込めれていると思われる。 B 帰還しての禊は、今津湾の小戸大神宮前の浜で今一度行ったと考える。 C 伊邪那岐・伊邪那美の子供から統一倭国の王を選ぶことは、別天つ神五柱の話し合いで決められていたので、伊邪那岐の命で天照大御神が即位した。 D 天照大御神は五柱の会合を主導した、高御産巣日神の勧めもあり、内陸の朝倉に都を定めた。 E 次図は記述に登場した吉備児島から五島列島を結んだもので、内陸の朝倉付近を通過させている。 F 朝倉遷都は帰還時に決まっていたか? 帰還後に島々を名付けたかもしれない。 帰還の経路で生んだ島々 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu62.jpg >>547 ニニギ以前の出来事であるはずの、出雲の大国主の国造りと国譲りの行き場がなくなるしな。 >>547 >>1 からして何の根拠もないファンタジー >>552 >>1 からして何の根拠もないファンタジー 根拠はみな示しているが、現在の古代認識からすると神武・倭国の連合東遷説はファンタジーに見えるでしょう。 文字も不自由な時代、古代人は建国の記録をいろいろな工夫で残していました。 ファンタジーと肩付けずに解き明かすことが、現代を生きる者の使命と思います。 あまり話題になっていないが、山陰の安来に連合東遷の兵站基地と思われる弥生終末期の遺跡が見つかっています。 塩津丘陵遺跡群で、山陰の弥生都市(広瀬和夫)という論文が発表されています。添付。 驚くような内容で、私の考察では鳥取の青谷上寺地での戦いの兵を支える補給部隊の臨時の山上基地と思われます。 鳥取を取り巻くように、吉備山中にも同じような小坂向遺跡が見つかっています。 終末期の庄内式土器は、山陰の土器壁を削る技術が取り入れられて吉備で生まれた考えがあるが、そうではなくこの兵站基地で兵の食料準備や、基地で働く人の食事の効率を上げるために生まれたと考えます。 興味があればのぞいてみてください。 山陰の弥生都市 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu63.jpg 塩津丘陵遺跡群 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu64.jpg 小坂向遺跡 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu65.jpg >>553 日本書紀には、日向国の高千穂からの移動ルートがきちんと書いてある。 大雑把に書くと大分→福岡→広島、岡山→大阪→和歌山→三重→奈良の順 日本海側である島根県の遺跡を関連付けるのには無理がある。 想像するのは自由ではあるが、やはり根拠がないファンタジーだよ。 >>553 仮に倭国(邪馬台国=卑弥呼・壱与)が北九州だとしてだけど 魏志倭人伝の伊都国の説明にこんなことが書いてある 原文:傳送文書賜遺之物詣女王 不得差錯 訳文;文書や授けられた贈り物を伝送して女王のもとへ届けるが、数の違いや間違いは許されない。 文字が不自由だったというが、女王国では少なくとも支配層は文書でやり取りがされていたわけだ。 魏に朝貢するくらいだから、中国語はできたんだろう。漢の時代にも朝貢があったし 卑弥呼よりもっと前から中国語ができる知識層はそれなりにいたと考えた方がいい。 また女王国は南に位置する狗奴国の男王、卑弥弓呼素と戦争状態だったとも書かれている。 これらの記述から想像するに、九州の覇権争いは倭国=女王国=卑弥呼・壱与勢力が 九州南部の熊襲・隼人勢力に撃ち滅ぼされたとみた方が空想としても筋がいい。 だから日本書紀には邪馬台国や卑弥呼について碌な記述がない。 >>558 >また女王国は南に位置する狗奴国の男王、卑弥弓呼素と戦争状態だったとも書かれている。 不和だから緊張状態だけれど、戦い続けたわけではなさそうだ。 不審なのは、二人の王が似た名前だということだ。 むしろ、倭国の中の家督争いだったのではないか? だから壹與の時に乱が収まったのは、両者の共立によるものであり、滅ぼしたりというものではなかった。 そして、それについて畿内勢力は蚊帳の外だったのだろう。 >>560 魏志倭人伝をじっくり読むと戦争中だったとわかるよ。 倭女王卑弥呼與狗奴國男王卑弥弓呼素不和 遣倭載斯烏越等 詣郡 説相攻撃状 説相攻撃状・・・「戦争状態だと説明した」という意味 ネーミングについては当時の名前が今の感覚と全然違うので 似通っているからと言って、即同族と捉える必要性はあまりないかな。 そもそも卑しいとか、王の名前に使う字じゃないでしょ? >>561 漢民族の人類における中華思想で漢民族住む地以外は 異民族の劣った四夷人種が住んでるとしたから 中国以外の四方の地に住む民族は全て蔑称で記録している >>562 漢民族と、 その他=ほとんど地球規模と言いたいんでしょ >>563 確かに漢民族単一で創り上げた哲学的な高度な文化文明は 多民族が関わって創り上げたオリエント文明や西洋文明を凌駕している >>561 なるほど、戦っていたかもしれない。 しかし名前があまりにも近いのは、同じ文化圏の勢力であった可能性を考慮するべきだ。 考古学的にも、福岡と熊本なら近いだろう。 少なくとも、大和まで一つの文化圏だと言い張る畿内説よりはマシ。 >>562 そうだね。 魏志倭人伝にしても中国の魏の時代の事を、中国の魏の時代の記録を元に中国人が書いてるんだしね。 なので「卑弥呼」と「卑弥弓呼素」の名前が似ているからといって 安直に同族扱いで推測するのは無理がある。 >>565 九州北部と南部じゃ似通ったネーミングがあったっておかしくはない。 が、だからと言って、即同族の家督争いだったというのは飛躍しすぎ。 九州内部の勢力争い以上の事は何も記録がない以上推測するしかないしね。 そして日本書紀に邪馬台国も、卑弥呼も碌に出てこない事から 逆に神武=ヤマト王権が、倭国(卑弥呼)勢力と 別の勢力であったから書く必要性がなかったと捉えた方が無難でもある。 前述の通り、邪馬台国では文書のやり取りが行われていたわけだから 神武=ヤマト王権につながっていたとしたら、もっとしっかりと 日本書紀にも記載があって然るべき。 仮に日本書紀の元となった旧辞、天皇記といった文献に記載があったとしても わざわざ自分たちのルーツの原点である天照大神を隠匿する方がおかしい。 >>565 もう一つレス >少なくとも、大和まで一つの文化圏だと言い張る畿内説よりはマシ。 少なくとも神武東征よりも、瓊瓊杵尊の天孫降臨よりも前の時代に 出雲の勢力は山陰、四国、近畿、三遠信、北陸、関東までは到達してたようだよ。 同族と決めつけるのも 同族ではないと決めつけるのも 両方安直 >>570 三段論法の大前提が成立してないのに、その上で小前提に進んで、結論を導き出してたら、なんの証明にもならない。 証明をしようとしても無理なことは百も承知で、可能性の高そうな推論をしているだけ。 出雲の影響力が広かったことは同意する。 しかし筑紫も畿内も、それだけの影響力を発揮できなかったのではないか。 弥生時代で最強の王国は出雲の国譲り前の出雲だったのではないか? 皇統に繋がらないにも関わらず記紀で重視されているのも、そのあたりに理由があるのか。 >>572 >弥生時代で最強の王国は出雲の国譲り前の出雲だったのではないか? 単なる出雲忌部に過ぎないよ。 国譲りも島根県は全く無関係だから。 @阿波 >>572 卑弥呼がアマテラスで、神武と連合して東遷したのどこが可能性が高いんだ? 根拠になりそうな記述なり遺物が何もないから、三段論法も成立してないファンタジーなのよ。 >>574 卑弥呼がアマテラスで、神武と連合して東遷したのどこが可能性が高いんだ? 根拠になりそうな記述なり遺物が何もないから、三段論法も成立してないファンタジーなのよ 伊邪那岐・伊邪那美の名が、魏志倭人伝に登場する5クニから一文字づつ採った名であることを無視しては検討があらぬ方向に向かうと思います。 伊 伊都国の伊 邪 邪馬台国の邪 那 奴(那)国の那 美 不彌(宇美)の美 岐 壱岐の岐 伊邪那岐夫婦は、邪馬台国があった時代に生きていたことが分かる。 二人は天照大御神を生んだと記紀は記している。 天照大神の系譜の神武が東征したと記紀は記している。 神武東征の伝承は各地に残る。 >伊邪那岐・伊邪那美の名が、魏志倭人伝に登場する5クニから一文字づつ採った名 ファンタジー そもそも、高天原神話がファンタジー仕立てなんだから、 一文字づつ取ったでいいんじゃないの。 倭人伝だって、狗とか、邪とか、卑とか、やたらでてくるけど、 今風に書けば、ダイ盧狗、タケ卑狗、卑典、みたいなノリだったんだからョ。 倭人伝ファンタジーを下敷きにして書き上げたのが、 高天原ファンタジーなんだから、一緒くたに見えるのは当然。 ちなみに、卑弥呼は天照大御神、張政は思兼神、帯方郡太守は高木神として再登場している。 >倭人伝ファンタジーを下敷きにして書き上げたのが ファンタジー 倭人伝は正確じゃないだけでファンタジーとはまた違うんだじゃないか? 都合が悪いと「記紀は恣意的ニダニダ」 斜め読みに成功すると「記紀にも書いてあるニダニダ」 ボコッ ウソツキは死んでも . ,.'彡'・グフォニダ! 治らねぇから半殺し ∧_∧';' ; .. ∧_∧ ∧∧/)、`二<ヽ;;゚`;;A´;;> ,;.゚. (´∀` ) 蹴っても (#゚Д゚/^)∴;'|;';.'/.;' '´。 ::;:,( つ 踏んでも と ´ //`W( ヽ(;;;((⌒ ̄ ̄ ̄_ ) ホラ吹くとか ( ノ`´// ヽ Y ノ''::;;;;::'''"´ ̄ヽ \ マゾかよwww (__)彡 〈フ_フ ドカッ\\ (__) 国生みから帰還し、女王となった天照大御神(卑弥呼)は朝倉に都をおいたと思われます。 朝倉が天照大御神が住んだ都としたとき、記紀が記す天の安河の誓約は地形と合致するのか検討してみました。 @ 朝倉の西に旧夜須町があり、間を小石原川が南下していて天の安河の伝承がのこる。 A 須佐之男命と天の安河を中に置き誓うの会話を行っていて、天の安河は小川でも筑後川のような大河でもないと思われる。 B 小石原川の状況は往古と異なるが、両岸で対峙し会話に適した、中河川であるのは今と変わらないであろう。 C 伊都国からやってきた須佐之男が小石原川の西岸、朝倉に都を置いた天照大御神が東岸に立ったすれば、地形はあってくる。 D その後の誓約で、書紀の一書は天真名井の三ヵ所を掘ったと記していて、天真名井が石清水でなく井戸であることが分かる。 E 小石原川の下流、筑後川と合流する付近は、今も地下水の水位が高く掘ればすぐに水が沸く地域で、当時の河原を掘ったと思われる。 F 三ヵ所の河原井戸に、男子グループ、女子グループ、無人と分けて配置し、いずれを当てたかといった誓約を想像する。 G 子の養子縁組は計画されたもので、相手との持ち物交換は、どんな結果になろうとも天照大御神に男子を授けための配慮であろう。 H 須佐之男が伊都国から、「山川悉くに動み、国土皆震りき。」と大げさにやってきたのは、この養子縁組を、国の人たちに公とする計らいであろう。 現在の小石原川(天の安河) http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu66.JPG >>585 魏志倭人伝に書いてあるのは、倭国にある邪馬台国の女王卑弥呼が魏に朝貢してきた事と、当時の倭国にあるいくつかの国の事くらいで 神武も天照大神も伊邪那岐、伊邪那美も出てこない。 そこを結びつけるのがファンタジー >>590 国産みは伊邪那岐、伊邪那美で天照大神は国産みに関係ない。 ファンタジーとしても作り込みが甘いと言わざるを得ない。 もう少しいろんな文献を精査して練り直しましょう。 勝さびに須佐之男命が高天原で暴れたので、天照大御神は天の石屋戸に隠れてしまった。 この天の石屋戸を現代の朝倉に探してみた。 @ 朝倉市の妙見川筋は堀が深く、左岸が崖となっているので、探したが岩穴らしきものは見当たらなかった。 A 考えて見れば、か細い女性が岩を動かし戸のように塞ぐことは不可能である。 B 神武東征に登場する磐舟が丈夫な船の表現であれば、石屋戸も丈夫な建物と想定できる。 C 神々が集い、石屋戸の前で天照大御神を誘いだす饗宴を開く。 D 饗宴に天の香山からくさぐさの植物を採っているが、その香山は朝倉市把木の高山と伝わる。 E 高山の西麓の塚原に小さな志賀神社があり、そこの秋祭りでは氏子全員が神事の後、宮座にて酒を酌み交わす行事が伝わる。 F この神事が石屋戸前の饗宴の名残りの伝承であれば、「石屋戸」は丈夫な建屋でもなく、天照大御神の堅い閉じこもりの心を表現した言葉と思われる。 G 女王を無理やり引き出すこともできず、知恵を絞った作戦で自分から出てくるよう仕向け、出てきた後ろに布刀玉命が尻くめ縄を渡した。 H 天照大御神の名は石屋戸から出て堅い心が解け、高天原が明るくなったことによる名付けと考える。 現在の杷木の志賀神社 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu67.jpg 志賀神社の伝承の看板 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu68.jpg 倭が日本列島を指してるなんて記述は古代文献に一つもない件 いろいろな人の研究から見えてきた事は 卑弥呼の時代に神武の子孫たちは投馬(薩摩のこと)を領地としてた さらに神武の兄は後に新羅の範ちゅうになるところに領地を持って治めていたがそこは神武の子孫が相続した 時代は下り白村江の倭国敗北により大和王朝が出来たが その王朝を作ったのは新羅にいた神武の子孫であろう 卑弥呼の正体は、崇神天皇の父方の大叔母だよ。 つまり、箸墓古墳の被葬者。 >>598 無い無い 箸墓は4世紀のホケノ山よりも造りが新しい 時系烈伝 天地開闢 から下って作ってます 神武天皇編作りました 目次 https://plaza.raku ten.co.jp/denkyu pikaso/diary/201911010002/ 歴史通り書いていってます 卑狗はヒコではなくイネないしイヌと呼び稲のこと 卑奴母離はヒナモリではなくイナモリと呼び稲守であろう なぜ稲というか稲穂が犬の尻尾に似てることから来てるようだ >>602 卑弥呼は本当は稲巫女のことでイミコと呼ばれていたのだろう 狗奴國はクナ国ではなくイナ国 これも本当は稲国の当て字であろう 稲国は伊那国であり元は九州だが落ちのびて長野が最後の地であろう 卑弥呼は太陽が隠れて霊力が落ち、 熊襲(久万曽)との戦いで負けたから殺されたんだろ? やっぱり日ノ巫女だったんじゃないか。 卑弥呼の時代に皆既日食になった地域は朝鮮半島南岸や石川、福島辺りなんだが 歴史編纂(まとめ) 編纂中 https://plaza.raku ten.co.jp/denkyu pikaso/diary/201911010002/ >>597 神武出立日向=伯耆説発見 神武東征は不比等の創作であった 2019-11-04 ttps://blog.goo.ne.jp/ysaino11jp/c/bb1d5b6625251de07c1e4b9c6bb6a018 . ◆中国の釜 中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。 釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。 http://ja.wikipedia.org/wiki/ 釜 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2& ;ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E& ;aq=-1&oq=&ei=UTF-8 . 卑弥呼は魏志倭人伝に登場する3世紀の人物 神武大王は自称紀元前700年頃の妄想上の人物 無理 . 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、 中国では7000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。 その時代差、約5500年。 その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、 4000年前にはすでに戸建ての時代である。 商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には 瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。 縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。 中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 . 神武天皇が隠した日本の歴史。神話編 黄泉の国も岩戸神話も八岐大蛇退治も、古事記や日本書記の諷歌倒語により隠された。世界最長国、日本の作り方。 https://youtu.be/YLHWKrB8ncc . 日本最古の稲作遺構である菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の 中国とは全く違ったものが伝わっている。 と言うか、当時の中国の耕作用農具が日本最古の稲作遺構には一つも伝わっていないのだ。 ◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》 ◆同期する中国の耕作用農具 → 耜、鋤、犂 《すべて石刃》 クワ、エブリに該当する耕作用農具が当時の中国にない! 耜、鋤、犂に該当する耕作用農具が日本最古の稲作遺構にない! 伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。 ◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ ◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの 稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です! . >>622 ∩_ 〈〈〈 ヽ ____ 〈⊃ } /⌒ ⌒\ | | /( ●) (●)\ ! ! / :::::⌒(__人__)⌒:::::\| l 朝鮮系の | |r┬-| | / < 在日ヒトモドキ \ ` ー'´ // まるだしwww / __ / (___) / . 日本最古の稲作遺構である菜畑遺跡に伝わった炊飯器だって当時の中国とは全く違っている。 ◆菜畑遺跡に伝わった炊飯器 → 甕 ◆同期する中国の炊飯器 → 鼎、鬲と甑のセット、釜と竈のセット 鼎は穀物を煮炊きする三足と双つの直耳とフタの付いた炊飯器で日本には伝わっていない。 鬲は上に甑をセットして穀物を蒸し上げて炊く三足の袋足が付いた炊飯器で、 これも日本には伝わっていない。 甑と竈が伝わったのは弥生末の3C頃。 釜が伝わったのは古墳期の5C頃。 稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です! . >>624 ∩_ 〈〈〈 ヽ ____ 〈⊃ } /⌒ ⌒\ | | /( ●) (●)\ ! ! / :::::⌒(__人__)⌒:::::\| l 朝鮮系の | |r┬-| | / < 在日ヒトモドキ \ ` ー'´ // まるだしwww / __ / (___) / . (8)蒸して食べる 7000年前 中国に起源 最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。 モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を 作る際にも欠かせない調理法です。 この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。 蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、 粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が 基本だったと考えられています。 日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは 3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、 ようやく日本にまで到達したことになります。 しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。 今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、 数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html . . 7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、 鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。 6000年前には鬲も登場して、甑を鬲にセットして蒸し上げるという炊飯方法も加わる。 ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も鬲も甑も何一つ伝えなかった。 弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。 中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。 甑と同時に伝わった同じく中国には7000年前からある竈もそれまで知らなかった。 釜に至っては5Cまで待たなければならない。 弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。 ◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑 http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html . >>627-627 ∩_ 〈〈〈 ヽ ____ 〈⊃ } /⌒ ⌒\ | | /( ●) (●)\ ! ! / :::::⌒(__人__)⌒:::::\| l 朝鮮系の | |r┬-| | / < 在日ヒトモドキ \ ` ー'´ // まるだしwww / __ / (___) / . 中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。 あちらで皿は盤と呼びます。 ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも 伝えませんでした。 日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。 中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで 知らなかったのだ。 その時代差、約5400年。 弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です! . >>630 ∩_ 〈〈〈 ヽ ____ 〈⊃ } /⌒ ⌒\ | | /( ●) (●)\ ! ! / :::::⌒(__人__)⌒:::::\| l | |r┬-| | / < 反日教育に洗脳された \ ` ー'´ // 哀れな在日ヒトモドキ / __ / まるだしで草wwww (___) / . 日本最古の稲作遺構である菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の 中国とは全く違ったものが伝わっている。 と言うか、当時の中国の耕作用農具が日本最古の稲作遺構には一つも伝わっていないのだ。 ◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》 ◆同期する中国の耕作用農具 → 耜、鋤、犂 《すべて石刃》 クワ、エブリに該当する耕作用農具が当時の中国にない! 耜、鋤、犂に該当する耕作用農具が日本最古の稲作遺構にない! 伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。 ◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ ◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの 稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です! . >>632 ∩_ 〈〈〈 ヽ ____ 〈⊃ } /⌒ ⌒\ | | /( ●) (●)\ ! ! / :::::⌒(__人__)⌒:::::\| l | |r┬-| | / < 反日教育に洗脳された \ ` ー'´ // 哀れな在日ヒトモドキ / __ / まるだしで草wwww (___) / <奈良県民意識調査> Q:本音で言うと自分たちの顔をどう思いますか? のっぺり顔 だと思う─┐ ┌───パンスト顔だと思う9% 11% │ _..-ー''''''l'''''― ..、 ./ .l, | `''-、 ./ .l .| \ /ゝ、 l. | ヽ ./ .`'-、 l. | l │ ゙''-、 .l,| l | `'″ 朝鮮顔なのは | │ 事実である ,! l 80% ./ .ヽ / .\ / `'-、 / `''ー .......... -‐'″ 【東大の最新ゲノム解析】 奈良県が最もCHB・KOR(渡来人)に遺伝的に近い >Our analysis indicated that, of the 47 prefectures in Japan, Nara was genetically closest to CHB. 2020年10月14日付けで『Journal of Human Genetics』に掲載された報告では、朝鮮半島に地理的に近い九州北部より、 四国・近畿地方に渡来人の遺伝子が強く見られたと述べられています。 https://media.springernature.com/lw685/springer-static/image/art%3A10.1186%2Fs41065-018-0057-5/MediaObjects/41065_2018_57_Fig1_HTML.gif https://nazology.net/wp-content/uploads/2020/10/20201014101751.png 中国朝鮮-近畿四国-中国-中部-関東北海道-東北 ・(現代)関西人には細い目をした髭の薄いのっぺり顔が多い。 (『日本人の起源』中橋孝博・九州大学大学院教授、専攻は人類学、奈良県出身) >>635 , -――- 、 / ヽ | ノ ー | |(・) (・) | お前チョンだろ? | ( | ヽ O 人 >ー-― ´  ̄ ̄\ ⊂ニニ ̄ ̄ ̄ヽ / | くメ) _ノ | | | | | (/ | | / | | | | |/ /| | | | ト / | | | ヽ__/ | | | . 中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。 あちらで皿は盤と呼びます。 ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも 伝えませんでした。 日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。 中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで 知らなかったのだ。 その時代差、約5400年。 弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です! . >>637 ∩_ 〈〈〈 ヽ ____ 〈⊃ } /⌒ ⌒\ | | /( ●) (●)\ ! ! / :::::⌒(__人__)⌒:::::\| l | |r┬-| | / < 反日教育に洗脳された \ ` ー'´ // 哀れな在日ヒトモドキ / __ / まるだしで草wwww (___) / いそじん「早よ宣言解除してアベコロナで強盗ヘヴンや よっしゃ、よっしゃあ」 . 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、 中国では7000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。 その時代差、約5500年。 その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、 4000年前にはすでに戸建ての時代である。 商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には 瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。 縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。 中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 . >>639 , -――- 、 / ヽ | ノ ー | |(・) (・) | お前チョンだろ? | ( | ヽ O 人 >ー-― ´  ̄ ̄\ ⊂ニニ ̄ ̄ ̄ヽ / | くメ) _ノ | | | | | (/ | | / | | | | |/ /| | | | ト / | | | ヽ__/ | | | >>640 ∩_ 〈〈〈 ヽ ____ 〈⊃ } /⌒ ⌒\ | | /( ●) (●)\ ! ! / :::::⌒(__人__)⌒:::::\| l | |r┬-| | / < 反日教育に洗脳された \ ` ー'´ // 哀れな在日ヒトモドキ / __ / まるだしで草wwww (___) / . ◆中国の釜 中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。 釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。 http://ja.wikipedia.org/wiki/ 釜 新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用 新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用 アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2& ;ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E& ;aq=-1&oq=&ei=UTF-8 アー タノシーデスネー 7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑!wwww http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html . >>643 ∩_ 〈〈〈 ヽ ____ 〈⊃ } /⌒ ⌒\ | | /( ●) (●)\ ! ! / :::::⌒(__人__)⌒:::::\| l | |r┬-| | / < 反日教育に洗脳された \ ` ー'´ // 哀れな在日ヒトモドキ / __ / まるだしで草wwww (___) / . (8)蒸して食べる 7000年前 中国に起源 最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。 モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を 作る際にも欠かせない調理法です。 この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。 蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、 粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が 基本だったと考えられています。 日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは 3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、 ようやく日本にまで到達したことになります。 しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。 今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、 数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html . . 7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、 鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。 6000年前には鬲も登場して、甑を鬲にセットして蒸し上げるという炊飯方法も加わる。 ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も鬲も甑も何一つ伝えなかった。 弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。 中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。 甑と同時に伝わった同じく中国には7000年前からある竈もそれまで知らなかった。 釜に至っては5Cまで待たなければならない。 弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。 ◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑 http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html . >>645-646 ∩_ 〈〈〈 ヽ ____ 〈⊃ } /⌒ ⌒\ | | /( ●) (●)\ ! ! / :::::⌒(__人__)⌒:::::\| l | |r┬-| | / < 反日教育に洗脳された \ ` ー'´ // 哀れな在日ヒトモドキ / __ / まるだしで草wwww (___) / . 中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。 あちらで皿は盤と呼びます。 ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも 伝えませんでした。 日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。 中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで 知らなかったのだ。 その時代差、約5400年。 弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です! . >>648 ∩_ 〈〈〈 ヽ ____ 〈⊃ } /⌒ ⌒\ | | /( ●) (●)\ ! ! / :::::⌒(__人__)⌒:::::\| l | |r┬-| | / < 反日教育に洗脳された \ ` ー'´ // 哀れな在日ヒトモドキ / __ / まるだしで草wwww (___) / / / l \ ヘ ヽ \ / / / l \ } \ \/./ / / / / ∧ 、 ヽl \ ./ / / / / // ∧ i. i ', / l i i / ///./ / ', i i i / | ハ .ト L___ ェニ ァ/ 人 / ヽ i _l | / i い | ィー‐,ニニ三/ / / ーェ、___,>r '´ | i i |/ . V∧ |∧/ /フr::。}ヽ ./´ "^,rこニ;;、`ヽェi i i | ∧ i.ヽ lレ' {::リー'::ソ " {rイ::::゚リ } // / /ハ ./ {\ iト、 ,〃ー― , ヾこ.゙ソ / / // .| ' } \ i ヽ"" ` ` ー‐" /イ .イ / l 朝鮮ヒトモドキって ヽ ト、 ,へ、___,, 〃/ / /// i l 人の形してるけど . r‐|i i.>、. /:::::" ゛"::::::ヽ / / / i l ゴキブリなんですよね _,.レ┴ニ ~ \ {:: :::} イ 「___ ノ‐┐ i. l 気持ち悪くて吐きそうです! / / / >、 } ` 、 ̄ `' ー ―‐ '´ .イイ^ヽ `ト- {. i l . / / / / _.>、{ `;- _ _, -‐ ' ´, へ ヽ \ | 〈 ヽ i l " i ' ´ } /二コ T_\ | ` } .〉 ', i l i イ'レ'´/ /「H. \\ } ./ ./ } i l ((⌒⌒)) ファビョ━ l|l l|l ━ン! (⌒;;.. ∧_∧ (⌒.⊂,ヽ#`Д´> <ウリ以外の全員が間違ってるニダ! (⌒)人ヽ ヽ、从 从ノ.:(,,フ .ノゝ⊃ ∧_∧ ∧_∧ 人从;;;;... レ' ノ;;;从人 (∀` ) ( ´∀`) ケラケラ ( つ日ヽ (つ日⊂) ム__)) (⌒)(⌒) ___________∧____∧_____ 世界中でオマエラだけが間違ってるって気づけやw . 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、 中国では7000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。 その時代差、約5500年。 その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、 4000年前にはすでに戸建ての時代である。 商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には 瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。 縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。 中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 . ゞ:.y.ノゞ ; ;y.ノゞ; ;ゞ ;" "ゞ; ; y.ノゞ;;ヾ ;ゞ y.ノゞ ;;;; "ゞ;ヾ; ゞ:.y.ノゞy.ノゞヾ ; ;ゞy.ノゞ; ; ; ゞ゛;ゞ:ノゞ ; ;ヾ ゞ ;" "ゞ; ゞ゛; :ゞ:.y.ノゞ ; ;ヾ ; ;:_/ゞ ;" "y.ノゞ; ; ; ゞ゛;ゞ.ノゞ ; ;ヾ ; ;ゞ"ゞ; "ゞ ; ;";;;;""ゞヾy.ノゞ_;/"ゞ ; ;"/" ヾ ;ゞ ;" "ゞ ; ; ; ;;;;;; ; ;ゞ;;ノ;ノ″ ` ` :;;; ;;;;.....:::::/ ` /'´`i´ `ヽ| ` ` : !リ`´リ从:| ` ` ` :!!-ω-ノリ:| ;;;....;;::;...;;ii:| _ 春ねぇ〜またチョンコが花粉と共に ::;...;;:..;i...iii:| ' ´ ,、 `ヽ ソメイヨシノの嘘をつきまくる季節だわ。 :..; <⌒ ;ii` i (ノ )))) ) _ ./ん〉 ヾ>、 回/ `´∇ '´  ̄ `ヽi| |! リ゚ ー゚ノi| <⌒8'´ `ヽ ! ,イ(从リソ)〉! i | |(」」i」」) j (リハ从レ| ノ⊂i(.乂)つ レ'´iノヾヽi) i ノノヾ(リ゚ ー゚ノ l | ノ(G!|゚ o゚ノ!| iヘ(i゚ ヮ゚ノ`i| (( 〈ハi__i〉)) 从゚ヮ ゚从i ∩∩ (( ( O▼O (i∪ ∪ iii( つ▼とii ,,,,,,.と__)__).. ,,,.,っ[◎]c ⌒⌒; ,...,... と__)__),.....,..と__)__),,,., '''''ヽ_つ-つ''''' ,;∧_∧: グギギギギギィィィィィ <;l|l;`田´>; (6 9 もうバレてたニダ ム__〉__〉 _ , -―-、 , 'ニニニ、::::(0::::::::::ヽ、 みてごらん、あれが  ̄ ̄ヽ'::::::::::::::: ヾ 人型ゴキブリ )::: .... \ 通称 チョンコだよ / ::::::::::::::::::ヽ / :::::::::::::::::| / :::::::::::::::::| / :::::::::::::::::::| / ::::::::::::::::::::| | :::::::::::::::::::::| . | :::::::::::::::::::::| _ , ―-、| /::::::::::::::/::::| \ヲ'⌒ヽ:| /:::::::::::::::/::::::| ト`_ ノ::| /:::::::::::::/::::::::| 人;;;;;;;::::;:| |:::::::::::::/::::::::/ /γ `:::::| |::::::::::::/::::::::/ / ( ヽ :::| |:::::::::/::::::::/ ふーん、なんだか { } } ::| |::::::::{::::::::/ 頭悪そうだね、パパ | / } ::| .ヽ::::|:::::::/ } { / ::| .ヽノ ::::/ } | ( :λ :::| ( ヽ、 ) ノヽ ::::| ヽ, ~ 〈 ト、_ | ::::::ヽ、 ( ,' ノ | |~7 ::::::::::::::`ヽ、 ヽ,、,、,γ' ノ, -‐W~フ { ト、:::::::::::::::::::ヽ、 ∠____ト-┘z__,―' ̄Σ Z  ̄ヽ―-、_ノ '―z_,┴'~ ┏┓ ┏━━━┓ ┏━━┓ ┏┓┏┓ ┏┓ ┏━━━━┓ ┏━┛┗━┓┃┏━┓┃┏┛┏┓┃ ┃┃┃┃ ┏┛┗━━━━━┓ ┏┛┏━━┓┗┓ ┗━┓┏━┛┃┃ ┃┃┗━┛┃┃ ┏┛┗┛┗┓┏┛┏━━━━━━┛ ┏┛┏┛┏┓┗┓┗┓ ┏━┛┗━┓┃┗━┛┃┏━━┛┗┓┗━┓┏━┛┃┏┛ ┏┛ ┗━┛┗━┛ ┗┓ ┃┏━━┓┃┃┏━┓┃┃┏┓┏┓┃ ┃┃ ┗┛┏━━━━━┓ ┗┓┏━━━━━━┓┏┛ ┃┗━━┛┃┃┃ ┃┃┃┗┛┗┛┃┏━┛┗━┓ ┗━━━┓┏┛ ┃┗━━━━━━┛┃ ┃┏━━┓┃┃┗━┛┃┃┏┓┏┓┃┗━┓┏━┛ ┏┛┃ ┃┏━━━━━━┓┃ ┃┗━━┛┃┃┏━┓┃┃┗┛┗┛┃ ┃┃ ┏┛┏┛ ┃┗━━━━━━┛┃ ┗━┓┏━┛┃┃ ┃┃┗━━━━┛┏━┛┗━┓ ┏━┛┏┛ ┏┓ ┃┏━┓ ┏━┓ ┗┓ ┏━┛┗━┓┃┃ ┃┃┏┓┏┏┏┓┗━┓┏━┛ ┏┛┏━┛ ┃┃ ┃┃ ┗┓┗━┛┏━┛ ┗━┓┏━┛┃┃┏┛┃┃┃┃┃┃┃ ┃┃ ┃ ┗━━━━┛┃┏┛┗━┓┗━┓ ┗━┓ ┗┛ ┗┛┗━┛┗┛┗┗┗┛ ┗┛ ┗━━━━━━━┛┗━━━┛ ┗━━━┛ ┏━━━━┏━┓ ┏━┓ ┏┳┓ ┏━┓┏━┓ ┗━━┓ ┃○┃┏━┛ ┗┓┃┃┃ . ┃ ┃┃ ┃ ┃ ┗━┛┗━┓ ┏┛┗┻┛ ┏┓ ┏━━━━┓┃ ┃┃ ┃ ┏┛ ┃ ┏━┛ ┗┓ ┏┛┗━┓┃ ┃┗━┛┗━┛ ┏┛┏━┛ ┗━┓ ┏┛ ┗┓┏┓┃┗━━━━┛┏━┓┏━┓ ┗━┛ ┗━┛ ┃┃┗┛ ┗━┛┗━┛ _,,,,,,__ __,,,__ ィjj)))))))))!!!!!彡ヽ, /ミ/ ,}彡ヘ |ミ{ -‐ ‐ ‐ ‐- {三=| El==; ゚ ''==. |ミミ,| `レfォ、,〉 :rfォ.、, !iル┤ . { `¨ i ・、¨ ´ `{ゞ'} . | ‘`!!^’ヽ .「´ <だからチョンに ! ,-ニ'¬-、 ,!|,_ 関わるなと・・・ . \´ ̄` / ∧ヘ、 __/〉`ー ' ´ / 〉 \ _, ィ´「∧ / / )¬ー- 、_ -‐ ´ / / ヽ、/ / iヾ ヽ 福沢諭吉(1835年1月10日-1901年〉2月3日) 日本のことが気になって気になって 夜も眠れないニダ ∧_∧,、, __________ <#`Д ( (二( ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ (○ /⌒\ / / |  ̄ ̄ ̄|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ / \ / ノ .|| | /ー' ' .|| / ̄ ̄チョンコホイホイ ̄^\ .||  ̄|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|| ̄ 示 || ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|| . /|| \ いちいちこっちみんなオラァ !!! ∧_∧ -__ アイグォッ ドガッ (・ω・`# ) ─_____ ___ ∧_∧,、, __ 从ノ (ミ_ (⌒\ヽ _ ___ ・∴<`Д(#Σ( (二( ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄( ( (≡ ̄ ̄ ̄ ̄三\⌒ノ ノ ) )⌒\ / / |  ̄ ̄ ̄|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄Wゝ  ̄ ̄\ ⌒彡) ノ =_ / \ / ノ .|| \,___,ノノ | /ー' ' .|| / / / ̄ ̄チョンコホイホイ ̄^\ ...|| / ノ ___ズザー  ̄|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|| ̄ 示 __/ ノ _─ (´⌒(´ || ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|| ./|| \ (_/= (´⌒(´⌒;; ゞ:.y.ノゞ ; ;y.ノゞ; ;ゞ ;" "ゞ; ; y.ノゞ;;ヾ ;ゞ y.ノゞ ;;;; "ゞ;ヾ; ゞ:.y.ノゞy.ノゞヾ ; ;ゞy.ノゞ; ; ; ゞ゛;ゞ:ノゞ ; ;ヾ ゞ ;" "ゞ; ゞ゛; :ゞ:.y.ノゞ ; ;ヾ ; ;:_/ゞ ;" "y.ノゞ; ; ; ゞ゛;ゞ.ノゞ ; ;ヾ ; ;ゞ"ゞ; "ゞ ; ;";;;;""ゞヾy.ノゞ_;/"ゞ ; ;"/" ヾ ;ゞ ;" "ゞ ; ; ; ;;;;;; ; ;ゞ;;ノ;ノ″ ` ` :;;; ;;;;.....:::::/ ` /'´`i´ `ヽ| ` ` : !リ`´リ从:| ` ` ` :!!-ω-ノリ:| ;;;....;;::;...;;ii:| _ 春ねぇ〜またチョンコが花粉と共に ::;...;;:..;i...iii:| ' ´ ,、 `ヽ ソメイヨシノの嘘をつきまくる季節だわ。 :..; <⌒ ;ii` i (ノ )))) ) _ ./ん〉 ヾ>、 回/ `´∇ '´  ̄ `ヽi| |! リ゚ ー゚ノi| <⌒8'´ `ヽ ! ,イ(从リソ)〉! i | |(」」i」」) j (リハ从レ| ノ⊂i(.乂)つ レ'´iノヾヽi) i ノノヾ(リ゚ ー゚ノ l | ノ(G!|゚ o゚ノ!| iヘ(i゚ ヮ゚ノ`i| (( 〈ハi__i〉)) 从゚ヮ ゚从i ∩∩ (( ( O▼O (i∪ ∪ iii( つ▼とii ,,,,,,.と__)__).. ,,,.,っ[◎]c ⌒⌒; ,...,... と__)__),.....,..と__)__),,,., '''''ヽ_つ-つ''''' ,;∧_∧: グギギギギギィィィィィ <;l|l;`田´>; (6 9 もうバレてたニダ ム__〉__〉 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ┃ ▼よく分かるチョンコロペニンシュラの歴史 ┃ ┃有史以前 : 黒い山葡萄原人が生息。 ┃2世紀 : 漢軍の駐屯地になる。 ┃4世紀 : 日本の属国になる。 ┃7世紀 : 唐の属国になる。 ┃13世紀 : モンゴルの属国になる。 ┃14世紀 : 再度中国(明)の属国になる。 ┃17世紀 : 明が滅亡し、清の属国になる。 ┃20世紀 前半 : 日本の属国になる。 ┃20世紀 後半 : 北半分がソ連の、南半分がアメリカの属国になる。 ∧_∧ 。 ( ´∀`) / <これでテストは満点 E[]ヨ (つ つ ━━━━━━━━━━━━━━━━ | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| | | | | | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| __ , ────── 、__ , - ':::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::\ / ;;;;;;;:::::::::::::::::::::::::::::::::;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;\ /,,;,,,,, ;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;; ,,,,,,,,;::::::丶 / :::::::::;;,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,;:::::::::::::::::::ヽ i゙:::;:::::||::::::,!i:::::::::::,|i::::::::::::::::::;:::::::::::::::::::::::::::::::゙i i゙::::|;;;;| |;;;;;| |::::::::::| |:::::::::::::::::||::::::::::::::::::::::::::::::::| . i゙::::::i ''''''''''' '───' |;;;;;;;;;;;;::::::::::::::::::::| .|:::::::|,-====-´ ゙ヽ,,,,,,,,,,,,,、 |:::::::::::::::::::| |;::::::::|,-──、 ~ニニ,,_` |:::::::::::::::::::| `ヽ、i (、i´ノ ´い,, ノ ' |;;;::::::::::::::/ なんで、朝鮮人はウンコ食べるん? . i ^~~~ー==─ ー'-+、 /^゙-、;;;;/ { ヽゝ '-'~ノ λ ''゙゙''-''-─、 /-'^" ヽ,_ ^~^ ( /`''丶、 , - /^l / /( ノ `'''''''´~ _, - ' ~ ゙i、 { / /| ̄ ̄ ̄ ̄ _,-'^¨ } {/ / ゙ー────'~ \| / ヽ \ ,,fヽy rヽ__)`~ i'" ・ ゚ * / ,,ノ * . <'" ,ィ'~ ` >∧__∧ヽ ウェー、ハッハッハ !!! ・ <ヽ`∀´>ヽ 世界中が ウリナラ から ~ヽ, ヽ, 孤立してる ニダ!!!! * . ・ < } 。 * ) 〉 ゚ 〈 _,,,/ ゚ ´‐'"~ . ・ 。 * _,..-‐''''""~´ ̄ ̄ ̄ ̄~"'''‐-,.、 . ,.-‐''" ──‐‐''",.、.:.:.:.:.:.:.:\、.:.:.:.:.:.:.:~"'‐-、 ,.‐''"''''""~´::::::::::::::::::::::\\:::::::::::::::"'''''\"''--、.:.:.゙''‐.、 ,.‐'":::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::゙''‐、''l:::::__,....-‐'''" ''.:.:.:::゙'ヽ、 ,.‐'"::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::~"‐--‐‐, ''.:.:.:. \ /:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::/" .:.:.:. ヽ、 ,."::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::/ .ヽ ,.".:.:.:.:.:.:.:.:.:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::/~ `、 >>608 日本史サイエンス〈弐〉 邪馬台国、秀吉の朝鮮出兵、日本海海戦の謎を解く では最新のシミュレーションとして地球自転の遅れにもよるが卑弥呼の時代に北九州で皆既日食のまま日没になるものがあるそうだ もしも自転の遅れが想定以上なら奈良盆地でそうなるそうだが ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
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