定義15 記紀が記す神武東征は陸上隊と共に進んだ。

図27 神武東征の経路比定図  http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu27.JPG
図28 高尾山に記録した経路  http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu28.jpg
図29 六甲にある「たかお山」 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu29.JPG

 図27は「高(鷹)山」のベクトル図に、主な高尾山を追記して、その位置をつなぎ連合東遷隊の経路を比定した図である。
 図28は九州から続く高尾山の足跡を抜き出した図である。

【神武隊の経路】
 図27、図28から見えてきた神武隊の経路を見てみる。
@ 記紀が記す神武隊は、瀬戸内海を船で進んでいるが、山陽道を進む陸上隊と連携しながら並行して進んでいた。それを遠賀郡水巻町に始まる、山陽道の高尾山の直列で記録していた。

A 山口市の高尾山付近は、日向や筑紫平野の人々が周防灘を渡って、東征隊に参加した集合地点となっていた。港の入り口に藤尾山を残した。
B 日本書記は安芸国の埃宮(えのみや)に着いたことを記している。その比定地、広島県府中町に残る多家神社埃宮付近に高尾山を残している。

C 吉備では戦いの準備を整えるため、しばらく留まったことを記している。これを赤穂に雄雌の雄を用いた高雄山を名付け、吉備の区切りとしている。また近くの播磨に入る峠に高取峠と名付けている。


D 図29は六甲山塊にある五つの高尾山・高雄山・鷹尾山である。中心にある高雄山は西からやってきた船隊と陸上隊の合流と区切りを記録している。その内の一隊は芦屋の鷹尾山に向かった。又一隊は丹波に遠征した記録と思われる。

E 鷹尾山が特別な名になっているのは、高城隊や高塚隊、丹波に向った隊が全員、生駒越えの決戦に向けて集合した場所の名づけである。
F 孔舎衛の戦いに敗れたあと、和歌山から熊野に迂回したことを記録している。

G 田辺の高尾山から先、中辺路を進んだ陸上隊と、海上を進んだ隊があったことを分岐の高尾山で記録している。
H 熊野山中を越え、宇陀に出た記紀の記録を、高尾山で記録している。
I 東遷の最後を井手町の高雄山と、宇治上神社付近の槙ノ尾山で記録している。