吉武遺跡にずっと宮殿があったのだから、
クニグニに王がいたとはいえ、吉武宮殿は特別な場所で、
倭国全体の政治は吉武宮殿に王達が集まって決めていたのだろう。
後のヤマト政権ですらあちこち都を移したり、
御所となると各代でちがったりするのだから、
倭国も宮殿は吉武宮殿でも、大王の王宮あるいは
関白将軍のようなその時々の最高実力者の居館は時代ごとに別の場所にあったわけだ。

漢から見た倭人関係の最大イベントが金印授与であり、
漢代の楽浪郡史が必死こいてまとめた報告書は
金印授与の漢使が出張するための地図里程であり、
それが伊都はおろか奴国すら通過して不弥国まで至っているということは、
57年に金印を手にした委奴国王がそこにいたからであろう。

それが吉武宮殿の代々の大王なのか、
それともその時に権力を持っていた関白や将軍だったのか。
なぜそれまで朝貢などしていなかったのに、急に金印授与を求めたのか。
なぜ委奴国が登場するのは一瞬だけで、
107年には倭国になっており、金印も貰わなかったのか。