邪馬台国の倭人は鉄器使用
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倭人は朝鮮半島投馬国経由で鉄を採取 【三国志東夷伝韓条】
3世紀に鉄器を使っているのは「当たり前」
倭人伝に書かれた【鉄鏃】なんて
時代劇の武将ヨロシク、自宅の庭で試射しまくってたわけで
リサイクル回収なんてしないw
あれ?3世紀の遺跡から鉄器ゼロ?
マジくそん???www 倭王もそうだが
饒速日だって天神族なんだから
畿内に住むなら鉄器を伴って移動してくる
お前らも転勤するなら電子レンジ掃除機テレビ冷蔵庫持っていくだろ
それが無いのだから、饒速日も北部九州に自宅があって、
時々畿内に出張していただけだ
勘違いすんなよ 周旋でも決着がついてる
周旋ってのは土地の周りとぐるりと周る意味ではなく、
うねうねと曲がりながら進む様を表す
倭地が周旋五千里ってことは、
狗邪韓国を起点に最大でも五千里の範囲内に収まるということを意味する
対馬海峡越えで三千里を費やしてるから、
@二千里しかない
福岡県とその周囲ちょびっと
考古学的には甕棺墓が分布する領域と一致
それが倭地倭国邪馬台国だよ 宗像地域は別国だな
甕棺墓の倭国の実権を
宗像地域の海神が握ったのだな
どちらにせよ北部九州で完結する話だが 記紀を参照すると、甕棺天孫族を宗像が助け、それにより宗像の地位も上がったことになっている。
どちらも海人族。 甕棺墓が一族として滅亡したのなら、
まず福岡県を追われ、
それこそ神武が畿内へ追い出されたなどという話だったら
畿内やらの東国や、宮崎鹿児島といった南やらに
甕棺墓が追いやられてから消えていくだろ
それがなくて、甕棺墓が綺麗に消えたということは、
社会変革だったんだよ
前方後円墳が無くなったり、
明治維新で廃刀令、チョンマゲ終了したのと同じ
で、
甕棺墓が終わって新たに開始されたのが前方後円墳
「三種の神器」を継承
現代までな 宗像地域と簡単に言うが
この地方は4世紀に革変して
それ以降の称が宗像
甕棺墓の倭国の実権を 宗像地域の海神が握った
というよりは
海神で表現された
響灘沿岸を活動域をとする海の民の箱式石棺墓人の後押しを背景にして
二万戸の奴國とその拡張域の女王界が成立する
3世紀以前においては宗像は箱式石棺墓人勢力の西の端っこみたいなかんじ
むしろ東隣の岡のあたりのほうが開けていたみたいなかんじ そっちは別の海人族でしょ。
栄枯盛衰だよ。
記紀的には、天孫降臨により、それまでの大ヤマツミ系志賀島海神が遠賀川に追いやられたのだと思うけど。 宗像地域には甕棺墓が分布しなかったり北部九州の中では特殊
九州説でも余傍国に入れないことが多い
多婆那国など倭国とは別の支配国だった可能性もある >>600
不弥国が宗像だという話も位置的にはあり得なくもない。 墓の中に鉄鏃があるんだろ?
じゃあ墓の外にも鉄鏃が無いとおかしいじゃないか
墓の外で鉄鏃が使われるようになる時代
それが墓の中に入った人が暮らしていた時代だ >>604
>墓の中に鉄鏃があるんだろ?
墓の中だろうが、墓の外だろうが、どのみち「忌部はん」 が持ち込んだ鉄だよ。 @阿波 >>599
>そっちは別の海人族でしょ。
マルチの海人族が栄枯盛衰 というのはとてもよい発想
ただし マルチの海人族については 最低限5つほどは想定されるべき それくらいはあるでしょ。
天孫系
綿津見大山祇系
鴨族
豊国鰐系
宗像系
住吉系
鹿島系 >>604
>墓の中に鉄鏃があるんだろ?
墓の中だろうが、墓の外だろうが、どのみち「忌部はん」 が持ち込んだ鉄だよ。 @阿波 >>598
とは言え、あなたの意見を全否定しているわけでもなく、面白い話はたくさんあるなと思う。
例えば、岡は志賀島と同族だと思っている。
これが豊国王家、大ヤマツミの一族。
そこに割り込む形で宗像が新興勢力として成立したと仮定しているのだけど。
甕棺を天孫族と想定し、これが博多湾沿岸の田島の神の領域の真ん中に上陸して楔のように新しい文化圏を創出した。
並行して住吉も存続しており、博多湾沿岸は各勢力が割拠していたと考えている。
考古学からだけでは細かい政治的背景や婚姻関係はわからないが、記紀の神代の記述と大きな矛盾はないように思われる。 >>609
>そこに割り込む形で宗像が新興勢力として成立した
4世紀後半に金海方面で150年頃から始まった木槨墓が石槨墓に切り替わる
金海に追従して成立した慶州の木槨墓はこの頃に積み石木槨墓に切り替わる
宗像が革変したのは新羅の国家形成期のこのあたり
150年頃に金海に渡来し金海の倭人に受容された製鉄技術集団は
新羅伽耶史ではキムスロとして名を残し
記紀の先祖騙りにおいてはオオクニヌシ・ヤヱコトシロヌシとして名を残すが
この製鉄技術集団は海人グループとして海峡の鉄のルートを構築する
この後に降臨した海人グループが所謂天孫族
さらにくだって 新興勢力宗像の成立 ・底津綿津見神 底筒之男命
・中津綿津見神 中筒之男命
・上津綿津見神 上筒之男命
此三柱綿津見神者 阿曇連等之祖神 以伊都久神也
故 阿曇連等者 其綿津見神之子 【宇都志日金拆命】之子孫也
【宇都志國玉神】も 【宇都志日金拆命】之子孫也 ということにはなる
【宇都志國玉神】はオオクニヌシの別名のひとつ >>610
難解な文章なんだけどw
はじめに木棺の大ヤマツミ族、
次に甕棺の天孫族、
次に石棺の宗像氏族が
順に博多湾沿岸で興亡したという理解でいいのかな?
多分、天孫族の後に一世一代だけの木棺復古の卑弥呼がいるんだろうな。 >>612
>はじめに木棺の大ヤマツミ族、
>次に甕棺の天孫族、
>次に石棺の宗像氏族が
>順に博多湾沿岸で興亡したという理解でいいのかな?
それらはみんな、朝鮮半島へ行き来した、忌部の「海人族」たちだよ。 妄想ごくろうさん。 わははははは @阿波 支石墓人は海の民
甕棺墓人は農耕民
箱式石棺墓人は海の民
高木の王(→高木神)は渡来した木棺墓人で金海式甕棺墓人のボスに納まる
高木の王の渡来に関しては海の民のサポートがある
金海式甕棺墓の拡散には海の民の関与がある
ここでいう海の民は箱式石棺墓人で響灘沿岸が活動中心拠点
弥生前期からこの箱式石棺墓人は海峡を牛耳っていた
対馬が箱式石棺墓なのはそのせい
天孫降臨で残された海の民渡来のイベントは3世紀初頭のできごと
天孫族の墓所は尾根先端上とかの高所で浅く埋めるのが主流で
甕棺墓であることは決してありえない
みそもくそもごったに扱う@は無能 >>612
>はじめに木棺の大ヤマツミ族、
>次に甕棺の天孫族、
>次に石棺の宗像氏族が
>順に博多湾沿岸で興亡したという理解でいいのかな?
それらはみんな、朝鮮半島へ行き来した、忌部の「海人族」たちだよ。 妄想ごくろうさん。 わははははは @阿波 鉄器を持たない人々が暮らしていた
鉄器を持つ軍隊がやってきた
鉄器を持たない人々が暮らしていた住みよい場所は奪われ
住居すら失って無償労働に狩り出された
蛙の骨の髄まで齧りながら育てた稲は
鉄器を持つ軍隊が鉄鎌で根こそぎ刈り取っていった 北部九州には鉄器がザクザク出土
文化圏が一緒なら同じく鉄器がザクザク出土するはずであるが、
200回掘った畿内から出ない
洪水で押し流された吉備楯築遺跡の住民遺跡に鉄器なし
朝鮮半島で鉄を採掘していた倭人は
北部九州だけだったのだね 纏向遺跡の集落部分からは鉄器が一つも出土していない
北部九州では大量の鉄器が出土しており、
鉄器大量消費社会に突入している
明らかに文明的断絶があり
魏と金印外交した邪馬台国とは
北部九州であったことが明らかである >>619
碌な鍛冶炉遺構弥生集落遺跡や資源の無い北部九州に、「邪馬臺国」など興る訳がない。 なにを考えているんだか。 @阿波 >>621
筑紫の首都は奴国と伊都国を合わせた筑紫の日向全体で、総人口が二万戸を超える大きさなので、もちろん王宮の近くには鍛冶場などありませんよ。 なぜチンピラの話ばかりしているんだ?
福岡、筑紫〜チンピラの集団の話だろう 実際は他国の奴隷なのに、
>>1(不明)
ここでは世界の中心だったんだろう そろそろ、
頭の病院に行ったほうが良いんじゃないのか?と言っているんだよ、
べつに刑務所でも良い おまけに殉葬してるって書いてあって日本の墓じゃないってまるわかりなのにな
なんでこんな勘違いをしてるのかと言えば
明治のカルト思想皇国史観で帝大の学者がデタラメやったせいなんだよな
それを未だに鵜呑みにしてる馬鹿が多いから _/⌒)
i"ll==0=l_ < 逃げ回るのは得意だろチョンコ
(@ 'A`)⊃
____i――――i___ ((( ⌒ ⌒ ⌒ )))
| o o|| ̄ ̄ ,,_____|_____,,,,,,_ il|i i|i
|32 _||c ((__,,((―――――'---' ∧_∧ ムギィィィ!
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄l ̄ ̄(=) ̄ ̄ ̄ ̄`| =二 <`田´# > 必ずまた帰って
∴ =========\________\ ≡三 ⊂ ⊃ 捏造しまくるニダ〜
∵(◎;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;◎)≡)| |}:}:}:}:}:}| |)≡) =≡二 ( ヽノ
ヽ◎;;;;;;;;◎;;;;;;;;◎;;;;;;;;◎/≡///――‐//≡/ レ(_フ
"""""" ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ """"" ̄ ̄ """ "" """ """ "" 建物群が庄内2から庄内3までの間
ホケノ山が布留0(小型丸底土器、4世紀小枝)
箸墓はホケノ山の後
あれ?卑弥呼?王都?? というか記紀を信奉してるのなら堂々と邪馬台国も倭の五王も広開土王碑も日本の歴史とは全く関係ないと主張すべし 信奉してないからごちゃごちゃ工作してる<反日キナイコシ >>633
日本国と倭国が違う国ならそれでいいかも 朝鮮ヒトモドキ三種の神技
記憶喪失(論破されても半日で忘れる)
文盲病(前後の文脈や論の大局を読めない)
チョンコロ目(見たくないものは見えず、見たいものは捏造してでも見る) 鉄は溶けても銅は溶けない。
ホケノ山古墳には銅鏃数十本が副葬されているのだから、
ホケノ山古墳が作られたのは銅鏃が周囲で出土する時代。 隋書の倭国は十万戸
魏代に七万戸なので、増えたといっても3割弱程度
倭国には阿蘇山を含むことから、九州島を含む
ということは
倭国=九州島限定なのだろう 大宰府っていつからあったのか?
大宰府羅城の一部である水城の基礎の一部は炭素年代法で3世紀とのこと。
つまり卑弥呼の時代から実は大宰府はあったのではないか。
福岡県に上陸してから二千里(150キロ)の邪馬台国とは大宰府のことなのではないか。 大宰府としてあったかどうかはともかく倭人は住んでただろうね。 魏志倭人伝の楼閣高くというのは大野城、柵は水城だとしたら、そりゃ郡使も規模の大きさに驚くだろうと。
東夷最大の羅城を持つ大宰府に居を構えた卑弥呼に対して、東夷の国王に対しては唯一の金印を送るという待遇を与えたのかもしれない。 さすがに水城を見たら柵とは表現しないだろ。城壁。土塁。 >>640
>大宰府羅城の一部である水城の基礎の一部は炭素年代法で3世紀とのこと。
どうせコンタミか校正プログラムミス
隋書の記述では筑紫は無城郭 大宰府羅城の一部と考えるから難しくなる。もともとあった防塁を後世羅城を作る時に山や丘と一緒に羅城ラインに含めて利用したのだ。 水城の敷粗朶の年代問題みたわ
三段になってて上が660年代
真ん中が430年代
一番したが250年代と測定された件な
これ予測されることは
まず筑紫平野がデルタ地帯ということを考慮しないと行けない
近代の埋めたてはもちろんだが、河川によって土砂の堆積で海岸線が変わってるだろうということを考慮しないと駄目
つまり昔は海岸線に近く塩害の被害を被っていただろうということは予想でき得る
つまりリザーバ効果によって年代が繰り上がっている可能性があるということ >>647
>つまり昔は海岸線に近く
馬鹿?キナイコシか? リザーバー効果で海中の炭素は400年ほど古く出るのは読んだが、それは炭素が全て海中のものに置き換わらない限り該当しないように思える。
木材を構成する炭素そのものが置き換わることは考えにくく、海水に浸かっていても、400年も古く出ることは考えにくい。 なんだと!水城が海水に浸かるだと!
巨大津波でも襲ってきたのか? リザーバー効果はさておき
大宰府が昔海に近かったのは事実だ 具体的にはどの時代?
具体的にはどの辺りまで海だった? 銅は溶けない。
ホケノ山古墳には銅鏃数十本が副葬されているのだから、
ホケノ山古墳が作られたのは銅鏃が周囲で出土する時代。 鉄は溶ける、水城は海水に浸る。
キナイコシの暴言はとどまるところを知らない。
水城の敷粗朶どういう状態かをわかってない馬鹿いそうなので
>なお、この敷き粗朶の三つの年代について、一部で誤解され、卑弥呼の時代から営々と建設され補修されてきたと解説されていますが、それは当たらないようです。
>報告書を見ると敷き粗朶の基礎工は各年代別に積み重なる、つまり敷き粗朶工+上部工+敷き粗朶工+上部工+敷き粗朶工+上部工とだんだん堰堤が高くなったのではなく、
>いずれの敷き粗朶工も堰堤の最下部にあって、その中での上下関係にしか過ぎないということです。
>一般に流布する言説は、面白いところだけを強調している場合があり、気をつけなければなりません。
>わたくしも旧ブログの中で間違って引用していました。お詫びします。
>この段は九州歴史資料館で直接丁寧に説明を受けて理解し、それとともに恥ずかしい思いをしたことを白状します。
つまり全ての材料は同じ時代のもので、年代の違いは測定誤差だということかな。
まあ、炭素年代法はその程度の精度だろうね。 >>658
水城の場所も構造も知らないキナイコシは黙っとれ。 >>659
てことは、上へ上へと積み上がったのではなく、
3世紀にあった壁が、次第に横方向に拡張されたり分厚くされていった、とも考えられるね。
>3世紀にあった壁が、次第に横方向に拡張されたり分厚くされていった、とも考えられるね。
いいえまったく
文盲らしいのでこれ以上の議論は無駄だな
>リザーバー効果で海中の炭素は400年ほど古く出るのは読んだが、それは炭素が全て海中のものに置き換わらない限り該当しないように思える。
どういう理屈で年代測定してるかまったくわかってないやつの意見
同位体の濃度で年代を決めてる(同位体の崩壊する速度は決まっていて、そして平衡状態が普遍であるという前提のもとに推定している)
>台風での海水運搬か炭酸塩を含んだ地下水が原因
キナイコシは息をするように嘘をつく。。。か。。。 銅は溶けない。
ホケノ山古墳には銅鏃数十本が副葬されているのだから、
ホケノ山古墳が作られたのは銅鏃が周囲で出土する時代。 なんの反論もできないやつw
こういうのをみると屈してるようにしか感じんわw
アホなやつほど反論できなくなると人格否定しかしてこないwwwww 海塩粒子の飛翔距離を測定した資料
台風の海水運搬能力を示唆してる
https://i.imgur.com/5wu8r2w.jpg
炭素年代測定で地下水などによる硬水効果は海洋リザーバ効果と同様なことはよく知られている 反日キナイコシがなんで気が狂ったように
水城の基礎(敷粗朶)の年代に噛みついてくるかというと
同じものが後の百済でも作られていたから
そんな高度な建築技術を倭国で先に行われていたら、
やっぱり金印もらう先進国だった、ということになってしまうから。
キナイコシはまじクズ。 >>672
>海塩粒子の飛翔距離
当然のことだが距離と共に海塩粒子の濃度は低下している。
特に5kmを境に極端に低下するようだな。
内陸の水城から、海側の弥生遺跡までは10km以上は離れているようだが、
>>669キナイコシの言う弥生時代の海岸線とはどこのことだ?
データとしても不十分で、>>672では海塩粒子が飛翔していることを示しているだけで、
炭素年代に影響を及ぼす濃度が飛翔していることが示されていない。
炭素年代に影響を及ぼす塩分濃度はいくらなのか?の科学的データを示して、
海塩粒子の飛翔濃度がそれを上回ることまで証明しなければ、
キナイコシはただの詐欺師。
>炭素年代測定で地下水などによる硬水効果
これも科学データを示さなけれれば、
キナイコシはチェリーピックしてるだけのただの詐欺師。 >>674
>キナイコシはただの詐欺師。
知ってた。
まだこれが理解できない文盲の上に
キナイコシとか訳のわからないこと言ってる糖質
>なお、この敷き粗朶の三つの年代について、一部で誤解され、
>卑弥呼の時代から営々と建設され補修されてきたと解説されていますが、それは当たらないようです。
>報告書を見ると敷き粗朶の基礎工は各年代別に積み重なる、
>つまり敷き粗朶工+上部工+敷き粗朶工+上部工+敷き粗朶工+上部工とだんだん堰堤が高くなったのではなく、
>いずれの敷き粗朶工も堰堤の最下部にあって、その中での上下関係にしか過ぎないということです。
>つまり敷き粗朶工+上部工+敷き粗朶工+上部工+敷き粗朶工+上部工とだんだん堰堤が高くなったのではなく
>いずれの敷き粗朶工も堰堤の最下部にあって、その中での上下関係にしか過ぎないということ
>つまり敷き粗朶工+上部工+敷き粗朶工+上部工+敷き粗朶工+上部工とだんだん堰堤が高くなったのではなく
>いずれの敷き粗朶工も堰堤の最下部にあって、その中での上下関係にしか過ぎないということ
同じ場所で
一番下が汚染がひどく(同位体の濃度が低い)
一番上が同位体の濃度が高い
っていう意味
理解できたかな? >>616
違う
鉄の交易権を持っている人々が便利に暮らして農耕は捗るし潤っていた
その鉄に目をつけた集団がやってきた .
今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。
紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。
こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。
http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975
. ☆★☆生データ☆★☆
三国志に出てくる「治」は433文字。うち、「治+地名(A)」は24か所。
“Aに役所を置いた”の意味で使われた例 ☆22
"Aを治めた"の意味で使われた例 ★2
☆袁紹因表太祖爲東郡太守治東武陽 袁紹は太祖を兗州東郡の太守に任命すると発表し、太祖は東武陽県に役所を置いた
☆徙爲東郡太守治東武陽 (臧洪を)東郡の太守に転任させ、臧洪は東武陽県に政庁を置いた
☆郡所治廣武 郡の庁舎が所在する廣武
☆治廣ィ如舊 (閻柔は)元からの如く廣ィ(上谷郡の寧城)で執務した
☆辰王治月支國 辰王は月支國で政務を執っている。(魏志韓伝)
☆焉徙治綿竹 劉焉は綿竹県に役所を移した
☆焉徙治成都 劉焉は成都に役所を移した
☆羣下推先主爲荊州牧治公安 臣下が先主を荊州の牧に推し立てたので、先主は公安県に役所を置いた
☆治成都 (先主は)成都に役所を移した
☆先主爲漢中王遷治成都 先主は漢中王になると、成都に役所を移した
☆移治味縣 (馬忠は)役所を味県に移した
☆州舊治壽春 揚州の役所は古くから壽春に置かれていた
☆繇乃渡江治曲阿 劉繇は長江を渡って曲阿に役所を定めた
☆權徙治秣陵 孫権は役所を秣陵に移した
☆以慈爲建昌都尉治海昬 太史慈を建昌の都尉(6県)に任命して、太史慈は海昬県に役所を置いた
☆劉備以左將軍領荊州牧治公安 劉備は左将軍となって荊州牧の任務を行い、公安にその役所を置いた。
☆以普爲吳郡都尉治錢唐 孫策が程普を呉郡の都尉に任命したので、程普は銭唐に役所をおいた
☆領江夏太守治沙羨 江夏の太守になって、沙羨に役所を置いた
☆領丹楊太守治建業 (呂範を)丹楊の太守にして、呂範は建業に役所を置いた
☆拜抗都督信陵西陵夷道樂鄉公安諸軍事治樂鄉 陸抗は都督となって、信陵・西陵・夷道・樂鄉・公安の軍事担当となり、樂鄉に役所を置いた
☆假節開府治半州 (孫慮に)政府を開設させて、孫慮は役所を半州に置いた
☆爲吳興郡治烏程 呉興郡を新設して、烏程に役所を置いた
★使司隸校尉留治関中 司隸校尉に関中を留守統治させる
★司隸校尉治弘農 司隸校尉に弘農郡を治めさせた 郷土愛に狂う岡上を筆頭に思考を停止させた古田信者や、在日朝鮮人の如きキナイコシがいくら声高に駄々をこねようとも、
伊都国は女王国に従属する一介の諸国であり、女王国には成り得ないのは明白。
一大率は伊都国に「治」を常設し、女王国の北限で監視する女王国の長官であることに疑念の余地はない。
根拠
伊都国についての原文:
「官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐」
伊都国についての書き下し文:
”(長)官は爾支、副(官)は泄謨觚、柄渠觚。千余戸有り。世王有り。みな女王國に統属す。郡使往来し常に駐する所。”
伊都国についての現代文:
長官は爾支、副官は泄謨觚と柄渠觚である。(人口は)千余戸ある。代々の王がいる。(これらは)みな女王国に従属している。(帯方)郡の使者が往来し、常に足を止める所である。
一大率についての原文:
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
一大率についての書き下し文:
”女王國より以北に一大率を置き、特に検察す。諸國は之れを畏れ憚る。伊都國に常治す。國中に於ける刺史の如く有り。”
一大率についての現代文:
女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。(そのため)諸国(の使)は之れ(=一大率)を畏れ、気を使っている。(一大率は)伊都国に(魏の帯方郡「治」のような)役所を常設した。(一大率とは魏の)刺史(「部」)と同職のようである。
解説
まず、三国志の漢文は前節が後節に掛かるので、
女王國に従属している「皆」は前節の爾支、泄謨觚、柄渠觚、千余戸の民、王を指している。 つまり伊都国の王も役人も住民も女王国に従属している。
そして、諸國が「畏れている」のは前節の一大率の事であり、「伊都國」も前節の諸國に含まれるのは明白である。
また、三国志における刺史は漢代では監督職であったが、魏代には長官職であり、
伊都国には爾支という長官が存在している=長官と同職の一大率は伊都国の長官ではなく、女王国の長官である。
加えて刺史は魏国内の刺史「部」に務め、魏の植民地や属国に(楽浪・帯方)郡「治」を置き、部下(太守や官吏など)を配していた。 >>684
ふむふむ。
女王国は伊都国とその周囲の南になるから、
邪馬台国は吉野ヶ里を中心とする地域だな。
やはりそうだったか。 筑後出身の火の国の女王が倭王に共立され伊都に入り、それまての甕棺墓を持つ天孫族にかわり君臨し、最後は平原遺跡に葬られたのだろう。
これで全て矛盾なく説明できたな。 吉野ヶ里は筑後なのか?
意味が通れば別にいいけどw 吉野ヶ里遺跡からは数百の鉄器が出土しているから、
スレ主も異存あるまいて。 肥前と肥後が離れていて、間に筑後が挟まっている。
これはもともと有明海沿岸ということで肥国としてまとまっていたものが、いつの時代かに筑後が筑紫に組み込まれてしまったのだろう。
本来なら筑後は肥国の一部であるべきだった。
そして、佐賀平野の嘉瀬川(古くは佐嘉川)は、もともとは筑後川に注ぐ支流だったという。
それこそ肥前と筑後は一体であった。 >これはもともと有明海沿岸ということで肥国としてまとまっていたものが、
考古学根拠は? 古事記に九州は筑紫と肥国と豊国と熊襲とある。
筑紫は博多湾沿岸、肥国は有明海沿岸、豊国は遠賀川流域。
弥生時代の主要交通は船なので、海域や流域でまとまるのは当然のこと。 九州説の致命的な欠陥はいろいろあるが、 そのなかでも分かりやすいのが、
九州には自慢できる温泉が腐るほどあるのに、九州に在る温泉への天皇行幸が明治天皇行幸まで一切無いこと。
なんで九州各地の風土記に天皇の行幸記事が無いのだろうか?
九州に倭王権があれば、有り得ない話である。 @阿波 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています