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邪馬台国畿内説 Part384
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0001sage垢版2018/10/02(火) 23:55:11.26
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1538242175/

◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。
0002◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/02(火) 23:58:47.74
◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある 
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
0003◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/02(火) 23:59:13.24
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
0004◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/02(火) 23:59:32.56
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。

 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
0005◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/02(火) 23:59:48.96
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
0006◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/03(水) 00:00:07.19
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
0007◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/03(水) 00:00:26.04
◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。

 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。

 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
0008◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/03(水) 00:00:45.12
◆6−2
 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
0009◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/03(水) 00:00:59.85
◆6−3
 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
0010◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/03(水) 00:01:20.50
◆7−1(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
0011◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/03(水) 00:01:40.84
◆7−2
 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
0012◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/03(水) 00:02:07.77
◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
0013◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/03(水) 00:02:24.92
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf


◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収

●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」

●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
0014◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/03(水) 00:02:44.29
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
  1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
  2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
  3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
  4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
  4世紀第4四半期〜5世紀中頃
   (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 IA期ー 大和庄内0〜1    ー 河内庄内I〜II
 IB期ー 大和庄内2〜3    ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山                  
  IIA期ー 布留0古相      ー 河内庄内III   ●箸墓、権現山51号
  IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V  ●西殿、桜井茶臼山、黒塚、
                           浦間茶臼山、西求女塚
  IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
                           メスリ山、行灯山、祇園山
0015◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/03(水) 00:03:02.25
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。
 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都よく観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。

 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。

 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
0016◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/03(水) 00:03:24.00
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
 逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)
  「泝流」が6回
  「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある。
0017◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/03(水) 00:03:45.39
◆FAQ 3
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法からは、筆者が里程等から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。

 以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りが含まれていること、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌ほどの南方に過ぎず、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
 三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
 筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20も参照)

※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
 遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
 予章郡:雒陽南二千七百里  南海郡:雒陽南七千一百里
 蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)

 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、会稽山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
 また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。
0018◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/03(水) 00:04:07.28
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。


◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。

 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
0019◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/03(水) 00:04:52.63
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
 
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
 
  
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
   
A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 伊豆七島などは唐古鍵の時代から畿内と交流圏である。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
  
 
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
 
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。
有力な候補である。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
 
0020◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/03(水) 00:05:15.31
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。


◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
0021◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/03(水) 00:05:45.92
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。

 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。

 3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。

 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。

 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
 の指摘は今日も有効である。
0022◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/03(水) 00:06:06.82
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。

 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。

 現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響と思われはするものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状であり、古代中国人に木槨と認識されるとは考え難い。
 畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
 逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。

 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
0023◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/03(水) 00:08:03.93
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
       
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
      
 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
 遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
     
 纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。
 
 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
 
0024◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/03(水) 00:09:20.23
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
 
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
  
 
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
 
0025◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/03(水) 00:10:36.41
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、そのような測定実施の記録がない。
 万が一にも、そのような測定があったなら福岡県が魏の許都の真東近くに所在することが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。
 
 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
  
 
0026◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/03(水) 00:10:54.11
 
 
◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
   
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
  
 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
   
 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。

 
 
 
0027◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/03(水) 00:11:12.55
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
  これで説明が付く!

A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。

 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。

 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。


◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!


A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。

 中国本土では前漢代の雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中華王朝では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。
0028◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/03(水) 00:11:30.38
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した!
  これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
 もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。

 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。

 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示している。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)

 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。
0029◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/03(水) 00:11:57.23
◆FAQ 23
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!

A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。

箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周濠、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
  この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。

 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で存在が確認された。
 箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。

・箸中山古墳の後円部と段築が接合しないこと。
・箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープが墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失していること。
・椿井や中山大塚の構造や、河内大塚や見瀬丸山など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部に盛土がないこと等
0030◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/03(水) 00:12:20.89
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!

A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、

 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。


◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国が大和の日本に取って代わられたことは、旧唐書に明らかではないか!

A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。

 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記されており、中国側の認識の混乱を表している。以下の各項等を勘案すると、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等として片付けて毫も問題ない。
・唐代に書かれたことが明らかな史料がみな倭=日本という認識を示していること。
・唐会要(倭=日本と認識)より、旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に認識できること。
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認できること。
 
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家であり、政変の頻発する中で、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前にようやく完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複するという不体裁が発生しているばかりでなく、他にも同一人物の伝が二本別に収録されるなど、他の史書に例を見ない杜撰が複数件発生している。
0031◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/03(水) 00:12:46.73
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
  ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!

A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
 統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。

 遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。

 さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
 ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。

 古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。
0032◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/03(水) 00:13:07.06
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。


◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!

A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。

 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。

 以上のとおり、墳丘本体に殉葬痕があるか否か卑弥呼冢の判定基準にしようという考えには合理性が無い。
0033◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/03(水) 00:13:30.86
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう!
  弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出であり、景初の遣使が献上した班布がこれであると推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退している。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。

 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が連続していない。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示している。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色が行われていた状況(金原2013,2015)と一致する。茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用されているため、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解されるからである。

 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
 九州説にとって不利な条件と言える。
0034◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/03(水) 00:13:53.55
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。

 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
0035◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/03(水) 00:14:19.27
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。

 弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
   https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。

 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。

 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。
0036◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/03(水) 00:14:38.42
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。

 これが部分的利用に留まる所以である。


◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでないところに行くことだから、女王国は本州にある畿内ではないな?

A:陸続きのところへも渡海するので、伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
0037◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/03(水) 00:15:21.62
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!
 
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
 
 当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
 
 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
 
 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
 
 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
0038◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/03(水) 00:15:40.88
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
0039◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/03(水) 00:16:05.61
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
0040◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/03(水) 00:16:24.78
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
0041◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/03(水) 00:16:48.79
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
 にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある
 新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
0042◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/03(水) 00:17:07.16
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。


◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
  http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

 捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
0043◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/03(水) 00:17:33.61
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。

※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
0044◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/03(水) 00:18:41.07
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
      
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
     
 申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
 
 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
 
 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
 
 
 
0045◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/03(水) 00:19:19.53
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!
    
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
    
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
    
以上から
 1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
    
 楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。
 
0046◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/03(水) 00:19:37.42
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
0047◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/03(水) 00:19:55.58
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
0048◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/03(水) 00:20:15.79
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。

 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。

 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
0049◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/03(水) 00:20:37.65
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?

A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。

 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。

 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)

 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
0050◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/03(水) 00:20:56.04
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。

 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。

 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
0051◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/03(水) 00:21:21.04
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?

A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。

 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。


◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。

A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
0052◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/03(水) 00:21:40.09
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!

A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。

 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
0053◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/03(水) 00:21:57.65
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。


◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
0054◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/03(水) 00:22:16.32
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
   (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
   (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
   (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
  狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
    山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
    海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
0055◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/03(水) 00:22:34.79
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定
0056◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/03(水) 00:23:13.76
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!
  
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
 
 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
 
 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
 
0057◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/03(水) 00:23:33.17
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ1)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。

 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。

 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。

 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
0058◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/03(水) 00:23:51.32
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
  の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!

A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。

また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。
0059◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/03(水) 00:24:09.25
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
  「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
  所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!

(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
     北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
    南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
    東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
    西與犂「革偏に于」・條支接。
    行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
    …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
    …東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。

                (以上、漢書西域上)
0060◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/03(水) 00:24:26.19
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
  これは実測したとしか考えられない!
  誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。

 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
              (後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。

 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
0061◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/03(水) 00:24:57.91
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!

A:定説に従う。

 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。

 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域と考えられる。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制の異なる碧城郡・海州市は郡域外であろう。

 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。

 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 

◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!

A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
0062◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/03(水) 00:26:20.34
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
  径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!

A:基礎知識の誤りである。
  現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する

ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)
0063◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/03(水) 00:27:19.02
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!

A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。

 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。

《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
0064◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/03(水) 00:28:22.88
◆FAQ 65−2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」

とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。

 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。

 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。


 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
  古者周尺 17.3cm
  今周尺  21.0cm
  秦漢尺  23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。
0065◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/03(水) 00:29:14.63
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!

A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。

 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。


◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!

A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。

 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。

 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。

古代の海岸線に沿って「東南陸行」することは、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png

 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。
0066◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/03(水) 00:32:29.06
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい! 
   
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。黒塚も3世紀とされる。黒塚築造年代の根拠は近刊の報告書入手後に詳説したい。
  
 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
 しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0に遡る情況と整合する。
 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は但丹・近江などの地域で弥生後期〜終末の弥生墳丘墓で発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。
   
 
0067◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/03(水) 00:34:45.98
◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!   
  
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
  
 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
 
 
 

 
 
0068◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/03(水) 00:35:42.11
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足相赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!

A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
郭沖三事にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。

 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。
0069◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/03(水) 00:37:22.98
◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!

A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。

 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(十二世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(十三世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
 魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。

 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州に限定し得ないことは明らかである。


◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!

A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。

 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
0070◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/03(水) 00:38:17.71
◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!

A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 参考に、正始年間薨の魏仮節龍驤将軍予州刺史李簡子墓誌銘を挙げる。
 https://i.imgur.com/MRmSyqP.png

 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。


◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!

A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。

 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。


◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!

A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。

 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。
0071◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/03(水) 00:39:51.82
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
 
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
 
 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
 
 弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。
 
 
 
0072◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/03(水) 00:42:37.59
◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
 前方後円墳体制など、夢想だ!
 
A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。

 萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
 当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。
 
 奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。
0073◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/03(水) 00:43:38.47
◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!

A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。

 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
続けて
 「甲県一万戸、行道八日」「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近・戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=125
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。

 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表している。
0074◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/03(水) 00:44:33.85
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?

A:倉庫群は均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ。
  纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。

 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部に存し、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉するため、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。

 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。


◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!

A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。

 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。
0075◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/03(水) 00:45:40.29
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!

A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。

 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。

 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。

 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
0076◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/03(水) 00:46:31.97
◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!

A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。

 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。

 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。

 このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。
0077◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/03(水) 00:49:02.26
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!

A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。

●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。

●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青銅」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。

 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。

 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
 鏡師が東渡し作鏡したという記述ではない。
0078日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 00:49:17.06
>>399
>>だから、宝賀氏は、柳田や都出の「古い方」という解釈で、発掘報告の土師器は、庄内の事であった、と判定した。

>柳田も都出も、 祇園山の土器が土師器の古い方だなどとは全く言ってないんだが?<

もう一度、wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/kodaisi/himikotyou/himiko3horon.htmを転写して上げよう。
  土師器は全て墳丘裾部外周から出土している、弥生式土器片はまず採取されていないとして良い、と報告書に記述される。・・・
 「土師器」は古墳時代の素焼土器とされており、そのなかで布留式がはじめに置かれ、その前の庄内式や西新式は弥生終末期とするものが多かった。
 最近では、庄内式を古墳時代初期におく説(最古の土師器とみる説)が一般化しているともいわれ、西新式を庄内式や土師器と併行とみる説もある。
 柳田康雄氏は、西新式土器を弥生終末期から古墳時代の土器と考え、その大半を土師器T型式(庄内式に併行する土器)と考えている。
 宇佐の赤塚古墳では、周溝から出土した土器は布留式あるいは庄内式の新しいところといわれている時期のものとする。
 都出比呂志氏の表でも、赤塚古墳を箸墓古墳とほぼ同時期(纏向3式=庄内2式。最近では布留0式とするのが多い模様)において、
 それに先立つ時期(纏向2式=庄内1式)に祇園山古墳と妙法寺古墳を置き、
 なかでも祇園山のほうを最古としている。
0079日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 00:50:43.08
>>404
>>「自昔・・・東征毛人五十五國」は、倭王武の上表文という史料事実だ。<

>そして九州は倭国王に「西服」された異民族の国だよ 九州倭国なんて架空の妄想だ<

ダメだ。
唐会要倭国伝の「正北抵新羅」に拠って、倭国は北部九州であって、
大和ではない。
0080◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/03(水) 00:51:07.45
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!

A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に張華『博物誌』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。

 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。

 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。

 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。
0081◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/03(水) 00:52:34.07
◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!

A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。

 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものと思われる。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭と考えられる。

 古墳主体部の年代は、殉葬の可能性を完全に放棄するならば、これより多少の時代遡求もあり得るが、山の中腹の尾根上という仰ぎ見られる視野角の広くない立地からは、あまり広域を支配していない首長像が瞥見される。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】 ◆FAQ84,85に加筆
0082日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 00:55:48.45
>>414の訂正
流石はバカの標本といわれる大和説だ。
0083日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 01:06:07.00
>>432
>邪馬台国に行くには九州上陸の後にまた水行と陸行をする<

邪馬台国なんて存在しない嘘つき騙し文言だし、
不彌國で折れ線的道のり距離が二千余里になってほぼ終わっているから、
その後は水行しない。

>九州北部は素通りする<

一杯記載されているから、素通りしていない。

>少なくとも九州南部にヤマタイ、ヤマトという地名はない<

当たり前。
0084日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 01:08:02.39
>>435の訂正
また、明帝の下賜鏡が元になった「尚方作」鏡があるから、
卑弥呼や壹與とは、非常に関係がある。
0085日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 01:58:02.29
六拾弐病

六拾弐病(ろくじゅうにびょう)とは、定年退職後の老年期に見られる、
周囲を見下した言動や、自惚れに満ちた妄想を連呼する様などをさす語。
自らを客観視することができず、盲目的に自身を絶対化する、というのがその典型的例。
現役時には社会に適合してゆくために相対化させざるを得なかった自己が、
定年によって自らをとりまく環境が急激に変化することで相対化のバランスを失い、
自分が特別な存在であって欲しいとする願望が顕在化することで発症する。
簡単に言えば、「俺様偉い病」である。

その思考の基礎となる知識は、遠い昔に聞きかじった程度の浅いものや、
定年で生じた余暇によって取得した程度の中途半端なものであるため、
罹患者の主張は往々にして突飛な妄想でしかなく、周囲に受け入れられることはない。
しかし、本人は自身の思考は特別に優れているものだと盲信しているため、
受け入れられない原因を周囲のせいであると主張し、攻撃性を高めつつ、負のスパイラルへと堕ちていく。
このため、「六拾弐病」は陰謀史観との相性が非常によい。
なお、「六拾弐病」の名は、定年後数年を経て症状が顕在化することから名付けられたものであり、
もちろん全ての罹患者が62歳で発症するものではない。
0086日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 02:00:40.64
「俺の歴史的大発見を発表させろ!」地方の博物館に急増する“歴史的新発見おじさん”たち

https://www.excite.co.jp/News/entertainment_g/20180527/Cyzo_201805_post_163508.html

歴史ブームも、光あるところに影がある。

 若い世代には歴史をテーマにしたあらゆる形態の作品が人気を博したり
『応仁の乱』や『観応の擾乱』といった、
マニアックなジャンルの歴史書がベストセラーとなる昨今。
だが、人気の裏にはさまざまな問題もあった。

「突然やってきて、展示物などに持論を語った上で
『自分がやってきた研究成果を発表する機会をつくってほしい』
という人が、最近多いんですよね」

 そう話すのは、近畿地方にある郷土資料館の職員だ。
すでに10年あまり資料館で働いているが、最近になり、
リタイアした団塊の世代による独自研究の「持ち込み」が増加しているという。

「ちゃんと、これまでの歴史を学んだ上で新たな視点を提示するような研究なら聞く価値があります。
でも、だいたいはトンデモ論。
原典になる史料や基本文献、学術論文をあたることもなく、
一般読者向けの軽めの本だけをたくさん読んで
『これまでにない発見をした』という人が多いんですよ」(同)

 その「発見」の内容もさまざまだ。
長らく論争になっている、邪馬台国がどこにあったのかについて持論を述べる人もいれば、本能寺の変の真相を語る人もいる。
だが、もっとも多いのは、その地域に関わるものだ。

「どこの地域でも在野の郷土史家という人はいます。
でも、持ち込みをするようなタイプの人は、そうした人々にも拒否されています。
なにせ、地域の古い神社の由緒をもとにオカルトを論じたりとかするんです」(同)
0087日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 02:01:21.21
全1病

全1病(ぜんいちびょう)とは、邪馬台国畿内説スレに出没する九州説論者のみが発症する、心の病。
畿内説側の書き込み全てが>>1◆UiepmfCeDJqによる物であると信じ込む、一種の強迫観念である。
学問の世界ではすでに追い詰められている、という事実を認めたくない九州説論者が、
畿内説に多くの賛同者などいるわけがないのだ、と自分自身を騙そうとすることで発症する。
>>1◆UiepmfCeDJqが自演によって多数派を装っているのだ、と言う発想は、
実は、自身が自演を頻繁に行っているという事実の裏返しにほかならない。
現時点では治療法は発見されておらず、一度発症すると死ぬまで治ることはない。
0088日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 02:02:05.85
ザラコク

邪馬台国関連スレに出没する非常識異常行動者のひとり
呼称は、Yahoo掲示坂で使用していたハンネ「zarakoku」から

古田武彦と彼が提唱した九州王朝説を盲目的に信仰しており、その信心の深さは、
世間的には偽書として決着している『東日流外三郡誌』を未だに真書であると主張するほど

自らを「素人おじん」と称することもあり、一見、自身を客観視できているかのようであるが、
その書き込み内容は、自分の信奉する説以外はすべて間違いだと決めつけてかかる、六拾弐病患者特有のもの
素人が専門家をこき下ろすという行為に疑問を感じなくなっているほど思考が硬直化している

「全レスバカ」と呼ばれることがあるほど片っ端からレスを付けまくるが、
ほとんどが他人の会話への横レスかつ超遅レスであり、周囲と会話が成立することはまずない
レスを付けることが目的化している節があり、その内容は、
他人の発言を長々と全文引用したあげく、賛成!とか間違いだ!とか数文字書き足すという程度のもの、
自分の都合のいいように語句を入れ替えただけのオウム返しのものなど、無意味なものばかりである
投稿数だけは圧倒的で、コピペ連投並みにスレを荒らす結果となっているが、本人に自覚はない
社用のPCで勤務時間中に5ちゃん投稿に血道を上げる問題経営者である

自分に不都合な情報を自分に都合が良いように勝手に脳内変換していることが多いが、
ソースを提示されても、自身の記憶や理解の方が正しいと主張する、傲慢な思考の持ち主

常駐していたYahoo掲示板を倫理規定に触れて出禁になったらしく、最近5ちゃんに居付いてしまった
「生きる独善」との形容がぴったりな75歳
0089日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 02:03:02.59
キウス

邪馬台国関連スレに出没する真性の基地外であり、病的なウソつき。
「希薄」を読むことができず、「箕臼(キウス)」と誤変換し続けたことから「キウス」と呼ばれるように。
自演爺、四棟粘着爺、指さし厨とも。

ウソの書き込みや自演、成り済ましを平然と行い、畿内説スレの>>1を騙り偽スレを立てること数度。
>>1のトリと同じ英数字を名前欄に書き込んで成り済まそうとしたこともある、最低のクズである。

「全1病」罹患者にして典型的「62病」発症者。

「自論」、「私見」、「勉強してください」、「学がない」、「貴君」、「しかり」など特徴的な言い回しの多用、
5ちゃんでは一般的ではない「スレ主」頻発、名前欄への書き込み多用などの特徴ですぐに判別できる。
1◆UiepmfCeDJqfを奥村と呼ぶ、寺澤薫氏・同志社大学・纒向学研究センターをディスる、
草を生やす際に半角で1文字目大文字、?を連続させる、といった特徴もある。

キウスの書き込みを褒めたり、礼を言ったり、「ワロタ」と応じたりする書き込みは、すべて自演である。
他人を騙す行為も自分ならばすべて許されると信じている節のある、傲慢の塊である。

日本語の読み書きが満足にできないこと、日本史や日本の地理に関する基礎知識がないことなどから、
日本の義務教育を受けていないどころか日本国内に居住していないのではないかと推測されている。
0090日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 02:04:02.38
岡上

邪馬台国関連スレに出没する狂人のひとり
考古学界では全く賛同者がいない説を「考古学的に確定している」と主張し、ありもしない大規模調査をでっち上げ、
学界の多数派である邪馬台国畿内説を破綻したと主張する、ゴッドハンドも真っ青の捏造常習犯である

自分は正しく、これまでの研究者がみんな間違っていた、などと平気で主張する、典型的「六拾弐病」患者

コテ+トリと、コテの九州王、伊都国女王、卑弥呼、名無しを使い分け、自説を関連スレで書き込みまくる
糸クズ、八咫バカ、連続句読点キチともよばれる

「咫」の説明である「周尺」を「円周の尺」と読み、
伊都国を女王国であると漢文の用例を無視して誤読し、
平原遺跡出土鏡の文様には八咫烏があると現物を知らないで主張し、
魏志倭人伝中の「下戸」を「酒が飲めない人」と訳すなど、
お笑いエピソードには事欠かない

偽スレや妄想スレを立て続ける異常性に気がついていないのは本人だけ

未確定な事項であっても、自分に都合がよければ勝手に確定事項であると脳内変換し、
それを根拠として立論してしまうチェリーピッカー
日本史の方法論をまるで理解していない、自分偉い教の教祖である
0091日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 02:04:50.52
ザラコク
>…< 嘘吐き騙し 南≠東 大和説 !。 ?。 ×。

キウス
スレ主 奥村 しかり 大笑い Ww いい線ついてる 正論 ヤマト王政 論じろ
ーーーーー 畿内説助け船 ?????

岡上
八咫の鏡 伊都 平原 内行花文鏡 三種の神器 神道 キナイコシ 、、、 。。。

ハナホジ
物部 葛城 鴨 大物主 ヒメタタライスズ ミミ 出雲族

サイキバ
鉄がない 奈良湖 倉庫
0092日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 02:05:56.09
2013年の大規模調査なんてない

日本経済新聞(2013/2/20)
卑弥呼の墓?初の立ち入り調査 奈良・箸墓古墳
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG1905C_Q3A220C1CR0000/

研究進展に期待
日本考古学協会など考古学、歴史学の15の研究者団体は20日午前、
宮内庁が陵墓として管理している奈良県桜井市の箸墓古墳を立ち入り調査した。
宮内庁が研究者側からの要望に応じて立ち入りを認めるのは初めて。
同古墳は邪馬台国の女王・卑弥呼の墓とする説もあり、陵墓の公開や研究の進展につながると期待されている。

立ち入り調査をしたのは研究者16人。
約1時間半をかけて墳丘の最下段を一周し、地表に見える葺(ふ)き石や土器などの遺物の状態、墳丘の形などを観察した。

参加した日本考古学協会の森岡秀人理事によると墳丘表面で、築造以前の様子を示す弥生最末期の土器などが見えたという。
森岡理事は「古墳の詳しい状況を実感できた。今回得た知見や印象によって研究が加速するのでは」と話し、
今後の陵墓公開に向け「国民の文化遺産として大切に守るべきもの。宮内庁とさらなる協力体制を目指したい」と強調した。

研究者らは午後、宮内庁が管理する西殿塚古墳(同県天理市)も調査する。
0093日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 02:06:55.12
弥生時代以降に奈良湖なんてない

650日本@名無史さん2018/01/31(水) 23:03:02.66
元ねた見つけたわ
国土地理院時報(2000 no.94)
「近畿地方の古地理に関する調査(国土地理院地理調査部)
http://www-im.dwc.doshisha.ac.jp/~nihei/nara/index.php?%C6%E0%CE%C9%CB%DF%C3%CF%A1%A7%C3%CF%B7%C1%A1%A6%C3%CF%BC%C1%A1%A6%BF%E5%B7%CF


657日本@名無史さん2018/01/31(水) 23:12:52.10
>>650のリンク先にある「奈良盆地の地形学的研究」53ページに

>なぜなら、奈良盆地が更新世以降において湛水し湖沼化したという事実は認められない。

とあるな
0094日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 02:08:03.33
660日本@名無史さん2018/01/31(水) 23:18:00.17
奈良県遺跡地図Web
http://www.pref.nara.jp/16771.htm

664日本@名無史さん2018/01/31(水) 23:21:12.40
データベース名 遺跡
ID 11A-0104
市町村 川西
遺跡名 下永東方遺跡
所在地 磯城郡川西町下永東方
種類区分 集落・町屋,社寺
時代区分 縄文,弥生,古墳,奈良,平安,鎌倉,室町
時代詳細 縄文・晩〜古墳・後、奈良〜室町
遺跡概要 方形周溝墓、井戸、掘立柱建物、区画溝
遺物 縄文、弥生、土師、須恵、黒色土器、中世土器、木製品、石器、石製紡錘車、土馬
文献・備考 白米密寺伝承地、『下永東方遺跡』(文化財報86)2001、『奈良県遺跡調査概報2003年度第1分冊』2004、
『奈良県遺跡調査概報2004年度第1分冊』2005

668日本@名無史さん2018/01/31(水) 23:24:19.31
データベース名 遺跡
ID 11A-0123
市町村 川西
遺跡名 下永東城遺跡
所在地 磯城郡川西町下永東城
種類区分 集落・町屋,墓・墓地
時代区分 縄文,弥生,古墳,鎌倉,室町
時代詳細 縄文、弥生・中、古墳・前〜中世
遺跡概要 方形周溝墓、土坑、掘立柱建物、井戸
遺物 石器、弥生、土師、石釧、木器
文献・備考 『下永東城遺跡』(文化財報103)2003
0095日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 02:09:00.18
674日本@名無史さん2018/01/31(水) 23:37:38.33
http://www.ksmt.com/panorama/130501nara/130501nara.htm

>2013.5.1 Kashihara 橿原
>飛鳥を自転車で回ろうと思い近鉄橿原神宮前駅へ。
>まず奈良県立橿原考古学研究所付属博物館の「5世紀のヤマト〜まほろばの世界〜」を見学。
>5世紀の遺跡から出た資料が展示されており興味深いのですが、最も興味を引いたのが5世紀の地図。
>古奈良湖は既になく、奈良盆地全体が陸地をして描かれています。
(略)
>橿原考古学研究所の受付の方にお願いすると、水田の発掘担当者の方に直接話を聞けることになりました。
>運が良かったようです。
>担当者の方の話によると、

>1.縄文後期の遺跡が奈良盆地の一番低いところにも存在するので、縄文後期には既に古奈良湖は消滅していたと考えられる。
>法隆寺付近に古奈良湖が7世紀頃まであったという説は、どうやら間違いのようです。
0096日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 02:10:38.95
三種の神器が弥生にさかのぼるなんて考えている研究者はいない

酒井利信「三種の神器に関する研究:『剣の観念』の中世的展開」『武道学研究』36-1、2003年

(前略)
三種の神器に関する先行研究はおびただしい数にのぼり、本論の論旨において重要なも
のも多くあるが9)、これらを全て紹介することは不可能であるため、後に本文中で必要に
応じて取り上げていくこととし、ここでは三種の神器について、潜在する問題点を示唆し
我々に新しい視点を与えてくれるものの代表として、津田左右吉氏の「日本古典の研究」10)
をあげておきたい。津田氏の業績で最も評価されるべきは、当時常識とされていた三種の神
器像に、はじめて学問的な批判を加えたことにある。以下、氏の論旨を要約する。氏の研究
の前提にあるものは、『日本書紀』(以後『紀』)の本文に神宝の記述がなく、第ニノー書に
鏡のことがみえ、『古事記』(以後『記』)と『紀』の第一ノー書には勾玉・鏡・剣が記され、
『古語拾遺』には鏡剣二種の神宝が記される、といったように色々異説があるのをどう解釈
するかという問題である。ここでは既に、従来常識とされていた固定的解釈からの脱却がみ
られる。このことは後世に与えた影響として非常に重要であると考えられる。氏は、諸々異
説が存在することから想起される問題点について自問自答する。具体的な事柄をあげてい
くと、先ず歴史的事実として神宝が何々であると思われていたか、という問題である。これ
については、勾玉・鏡・剣の三種の前に鏡・剣の二種の時代があったとしている。
(中略)
0097日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 02:11:32.89
(中略)
我々は、先にみた『帝室制度史』にみるような三種の神器像が唯一真実であり、既に定説
ででもあるかのような錯覚に陥りがちだが、実はその限りではないようだ。これら津田氏を
はじめとする先学が示唆するところの第一は、三種の神器の問題は決して一般的に理解さ
れているように決定的・固定的に捉えきれるものではないということである。いうまでもな
く社会制度、政治の問題であるため、その時代々々による政治的立場によりこれの捉えられ
方は流動的であった。つまり、史実さえ変えられた、あるいは歪められた可能性があるとい
うことである。このことを念頭に置いた解釈が必要である。従って、定説というものはいま
だ存在せず、また成立しにくいとも言える。
(後略)
0098日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 02:12:23.46
岸本直文「倭における国家形成と古墳時代開始のプロセス」
『国立歴史民俗博物館研究報告』第185集,2014年
https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/ronbun/ronbun8/pdf/185012.pdf


上野祥史「日本列島における中国鏡の分配システムの変革と画期」
『国立歴史民俗博物館研究報告』第185集,2014年
https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/ronbun/ronbun8/pdf/185011.pdf


車崎正彦「三角縁神獣鏡の年代と古墳出現の年代」
『史観』第159冊,2008年
https://waseda.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&;item_id=37254&item_no=1&attribute_id=21&file_no=1
0099日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 04:54:11.25
FAQ84

「冢」to「墳」 時代考証がまるで駄目 やり直し!
0100日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 04:58:20.16
最近の奈良を中心とした関西の学者や研究者は地道な論文発表をあまりしないなぁ
数は多いがな
0101日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 05:27:37.08
>>4
>纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、
>箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、
>一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳と
>それぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、
>全国に展開(澤田1999)しているからである

行灯山、渋谷向山がそれぞれ崇神、景行の可能性が高いので、
箸墓を卑弥呼墓というなら、崇神以前の数十年前の台与や、
その数十年前の卑弥呼という人物を記紀から特定できるはずだ。
なにせ女王なんだからね。
見つけようと頑張ればいいのに何で頑張らないのかな。

俺は特定したぞ。
居住地は纏向ではない、葛城だ。

I崇神(310年頃 318年没)
H開化
     G孝元
          F孝霊   
トヨ津          E孝安 D孝昭
トヨ津       (250年頃) C懿徳 
ヒメ(踏鞴五十鈴)        B安寧
ヒメ(踏鞴 五十鈴)       A綏靖
ヒメ(踏鞴五十鈴) (200年頃) @神武 

径百余歩で奴婢が埋葬されてる塚もある。https://goo.gl/maps/N4DcTNSnv8D2

何も難しい事はない。
古代天皇の100歳を超える年齢などは別としても、記紀に記載されている居住地から邪馬台国はわかるはずだ。

卑弥呼や台与が住んだ王都とは葛城だ。
0102日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 05:33:41.35
>>100
読売新聞 矢田氏
「地道な論文を発表する以前に、マスコミに大々的に取り上げてもらった方が知名度もあがり
学会内での地位も保証される傾向が強まった。一部の学者や行政担当ははマスコミ誘導をするケースが多々ある。
奈良県を中心とした関西の学者に多く見受けられる。また、公式?発表という形をとるので書かざるを得ない。
発表=マスコミ誘導と揶揄されても致し方ない状態である。マスコミにも問題はある「発表」について裏付けを取らずに
鵜呑みに報道してしまう・・・・・」
0104日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 05:56:37.34
径百余歩だが

墓そのものか?兆域(墓域)?陪冢も含める?
0105日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 06:10:09.60
スレチだが
おれは甘木朝倉に邪馬台国の王都があったと思う
平塚川添遺跡は今後の調査によりまだまだ広がりを見せるだろう。
卑弥呼の墓は平原(兆域 径百歩)

銭の話は汚いと思われるかも知れないが、纒向にそそぐ半分でもいいから助成金を注ぎ込むべき
0106日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 06:21:52.39
御遊びの適当な計算だから突っ込まないでおくれ

@絹の出土 九州:畿内=100:1  畿内1%
A鉄の出土 九州:畿内=100:1  畿内1%

邪馬台国が畿内にあった確率
@×A=畿内1%×1%=0.01%
0107日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 06:39:09.62
>>104
倭人伝は「冢」と言ってるだろ
0108日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 06:43:57.07
>>102
マスコミが悪いよ
当初の発表で
石野博信「2世紀末に突然現れ、4世紀中頃に突然消滅した大集落遺跡」とぶち上げた
今では、歴史学者で纏向を「大集落遺跡」と言う者はいない
石野でさえ口を閉ざしたまま

しかしマスコミは未だに過去の記事をそのまま使い纏向を大集落群と報道するケースも多々見受けられる

マスコミの質が悪いとおもうな
0109日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 06:44:09.54
>>106
そういう計算をしたいなら238年〜247年の間でどのくらい入手できたかで比較しろや
紀元前まで遡って九州はこんなに過去に鉄があったんだぞと自慢して勝利宣言とは痛すぎる
0110日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 06:47:03.07
>>106
元ネタはどっかのインチキサイトからだろうが、
こんなのを信じるのはオレオレ詐欺に引っかかるレベルの低脳と言わざるを得ない
0111日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 06:53:21.62
>>105
平原は物部(防人)
平原・曽根遺跡群だろ。
曽根って物部の名前。
例えば池上曽根遺跡は二田の物部を祀る曽祢神社がある。

平原の鏡は纏向に通じる。
ニギハヤヒが神武に屈した金鵄説話の舞台は桜井市外山(とび)。
纏向遺跡のある桜井はニギハヤヒ以降の物部の土地。

したがって平原も纏向も卑弥呼とは直接関係がない。
むしろ2世紀前半の男王の王権、ヒミコを生んだ王権と相争ってた側。

卑弥呼が住んでたのは>>101 
葛城、奈良県御所市。
0112日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 06:58:37.46
>>106
確立論ではあっているが
前提がめちゃくちゃ
0113日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 07:05:38.18
京都工芸繊維大学名誉教授 布目順郎氏によると、弥生後期の絹製品を出した遺跡もしくは古墳は、すべて北九州にある、ということになっています。つまり、弥生時代では、九州100対近畿0ということになりそうです。

吉野ヶ里遺跡の場合は、
http://material.miyazaki-c.ed.jp/ipa/yosinogariiseki/ibutu_orimono_...

古墳時代になると、九州以外からも出土しています。

絹を出土した遺跡としては、
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/kinu.htm
0115日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 07:10:01.23
鉄の出土
infokkkna.com/ironroad/2011htm/iron7/1103iron00.htm
0116日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 07:13:22.73
畿内説は時間軸が適当
都合の良いように時間軸をグダグダ言って変えてしまう
0117日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 07:18:01.13
>>108
>今では、歴史学者で纏向を「大集落遺跡」と言う者はいない
>石野でさえ口を閉ざしたまま

>しかしマスコミは未だに過去の記事をそのまま使い纏向を大集落群と報道するケースも
>々見受けられる
>マスコミの質が悪いとおもうな

この認識は誤りだね。
いったん発言するとマスコミはそれを正しいものとして掲載し、いつまでも使う。
このことによって、記事の基になった発言者の責任を、いつまでも追及するわけだ。
マスコミ受け・世間受けを狙って安易なことを口にすると、いつまでもたたるからな。石野よ。
0118日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 07:19:47.73
>>114
未だに纏向は大集落群と言っている学者がいないから

居れば名前を挙げてくれ また最近の文献を挙げてくれ
0120日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 07:22:28.94
>>109
>>106
>そういう計算をしたいなら238年〜247年の間でどのくらい入手できたかで比較しろや
>紀元前まで遡って九州はこんなに過去に鉄があったんだぞと自慢して勝利宣言とは痛すぎる

それ、畿内説へのブーメランだよ。
筑紫からもたらされたものばかり根拠にあげるのだもの。
0121日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 07:24:47.67
集落とは
「人が住む家屋の集合した状態の場所のことを指す地理学的な概念」
大集落とは集落の大規模な物

残念ながら纏向ではみつかっていない  願望は許すが無い物は無い
0122日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 07:25:39.18
キナイコシ

議論に勝手な前提を持ち込んで畿内説に誘導する詐欺的なレスを昼夜問わず書き込む。
畿内説のスレ主本人か、近い人物とも言われ、他スレに連投してスレを潰すこともある。

の紹介が抜けている。
0124日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 07:31:27.66
纒向学の権威である寺澤先生も
纒向は大集落群と言っていないのだ
0125日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 07:38:42.21
>>113
それが一体どういう理由で
九州説有利とおもう前提になるの?
0126日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 07:39:55.74
キナイコシ
睡眠不足はいけないと思う
このスレが続くよう健康管理は万全に
0127日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 07:40:42.58
>>121
>集落とは
>「人が住む家屋の集合した状態の場所のことを指す地理学的な概念」

それ、誰が決めたの?
0128日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 07:44:21.89
>>124
>纒向学の権威である寺澤先生も
>纒向は大集落群と言っていないのだ

証拠は?
0129日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 07:48:06.57
キナイコシ

俺様が決めたルールは絶対
他人が決めたルールは認めん
0130日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 07:49:14.71
>>127
あんたの大集落の定義は?
集落は各SNSでググると概ねあっているがね
0131日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 10:24:11.68
>>124
>纒向学の権威である寺澤先生も
>纒向は大集落群と言っていないのだ

その「大集落群」は倭国(阿波)以外に存在しない。  @阿波
0132日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 10:34:26.07
邪馬台国はヤマト国、生駒葛城山系の東側
残りの畿内、河内和泉摂津山背は邪馬台国ではない

ヤマトは地形からつけられた地名、山の向こう側という意味。山外。
0133日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 10:34:44.45
近畿の男系は縄文系の遺伝子は結構残っていて、他の地域と大差ない。
畿内の弥生時代の遺跡は縄文時代の遺跡に連なるものが多い。
渡来人が縄文人達の水源を奪った痕跡もない。
渡来人達が新たに住み始めたのは洲や井戸の技術がないと住めない水利の悪い台地。
2世紀半ば迄は環濠が要らなくなるくらい平和な時代になっていた。
神武東征前のヤマトの記述。
ナガスネヒコ、ヤソタケル、土蜘蛛、皆仲良く暮らしていたんだな。
温暖で河内湖の水資源も豊かで稲作も盛んになり、豊かな地域に発展したんだろう。日本書紀でいう食国、芦原中津國。 クニ、クナ。
スサノオが豊かな田に嫉妬して度々荒らしにきたとあるだろう。近畿周辺の東海や山陰の勢力が嫉妬したんだな。
そして征伐に来る。
倭国大乱、近畿征伐、記紀でいう神武東征だよ。


畿内の勢力は2世紀末に大きく変わる。
纒向遺跡でも、東海や山陰、吉備などの外来系土器が突然現れる。
記紀にもヤマト征伐によってヤマト政権が始まる様子が記述されている。
畿内征伐によって誕生した邪馬台国、ヤマト政権の主体は、尾張、出雲、吉備。

次に考古学的に大きな変化があるのは4世紀後半。 大きな政権交代があったんだろう。
初期のヤマト政権に虐げられていた元々の畿内の人々と関東の先住民が手を結び神功皇后応神を旗頭に立ち上がったんだろう。

神功皇后応神に該当する時代。
記紀や各地の伝承。
忍熊皇子の討伐、飛騨の顔が二つ頭が一つの怪物を討つエピソードがあったり、出雲の生馬の神がもう荒ぶらないと宣言したり。
神功皇后が三韓征伐の往路復路で、八雷神に似た頭が八つで牛の姿をした塵輪鬼を討つ話があったり。
纒向遺跡の外来系土器の中心、東海(飛騨の怪物)、山陰(出雲の生馬の神、牛荒神の木)、吉備(塵輪鬼)が討たれるエピソードばかり。
全て牛というキーワードが共通する。
同時代の若草山山頂古墳。かつては牛塚と呼ばれていた。牛頭天王と何か関係あるのかもしれない。
0134日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 10:34:53.42
>>130

誰が決めたか言えないの?

つまり、またウソついてたの?
0135日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 10:35:27.91
東(ひむがし)の野に炎(かぎろひ)の立つ見えてかへり見すれば月傾(かたぶ)きぬ


真十鏡 可照月乎 白妙乃 雲香隠流 天津霧鴨

白を纏った雲、香、
シラの姫を娶った香具山の勢力、蜘蛛、火明命を連想させるな

纒向遺跡の外来系土器の主体尾張は火明命の地
天香久山の山頂に祀られている国常立神、鬼門に封じられた神
尾張一宮は火明命だが、本来は国常立神と言われている

三輪 能

思えば伊勢と三輪の神。思えば伊勢と三輪の神。一体分身のおん事。今さらなにと岩倉や。その関の戸の夜も明け。かくありがたき夢の告げ。覚むるや名残.なるらん.覚むるや名残.なるらん。

三輪の神さんと伊勢の神さんは一心同体で石。
天の岩戸は関。
関の向こう側に追いやられていた勢力が、ヤマトを征伐し邪馬台国、大和朝廷を作ったんだろうな。

サルタヒコの遺言。
「底どく御魂」「つぶたつ御魂」「あわさく御魂」
底、独、常、立、阿波咋

国底立神、
国常立神、鬼門に封じられた神、天香久山に祀られている神、
阿波咋

倭国大乱を引き起こした張本人だろう
0136日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 10:36:13.27
伊勢内宮神前祝詞

天照大御神、又の名は
撞賢木厳之御魂天疏向津比賣命とある

天から遠ざかった向津姫
伊勢の向かい側は熱田台地
何か関係あるのかな

また、『倭姫命世記』『天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記』『伊勢二所皇太神宮御鎮座伝記』『中臣祓訓解』においては、伊勢神宮内宮別宮荒祭宮の祭神の別名が「瀬織津姫」であると記述される。

瀬織津姫を祀る槻神社のある三河と関係あるのかな?

卑弥呼とはどうなんだろう
0137日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 10:36:52.69
鎮魂歌
卑弥呼→台与の頃を歌ったものだろうか?
邪馬台国、初期のヤマト政権は、石器作りや狩猟を生業にしていた勢力が主体だったことが窺える
また、「フル」、「アチメ」という言葉は大和言葉では意味が分からないが、朝鮮語では「流れる」「朝日」という意味になる
初期のヤマト政権は、朝鮮半島と日本列島を行き来していた日本海側の勢力が関係していたのかもしれない

アチメ オオオオ オオオオ オオオオ
 天地ニキ揺ラカスハ サ揺ユラカス 神ワカモ 神コソハ キネキコウ キ揺ラナラハ
アチメ オオオオ オオオオ オオオオ
 石ノ上 布瑠社ノ 太刀モガト 願フ其ノ児ニ 其ノ奉ル 
アチメ オオオ オオオ オオオ
 猟夫ラガ 持タ木ノ真弓 奥山ニ 御狩スラシモ 弓ノ弭見ユ
アチメ オオオ オオオ オオオ
 上リマス豊日霎カ 御魂欲ス 本ハ金矛 末ハ木矛
アチメ オオオ オオオ オオオ
 三輪山ニ アリタテルチカサヲ 今栄エデハ 何時カ栄へム
アチメ オオオ オオオ オオオ
 吾妹子ガ、穴師ノ山ノ山ノ山モト 人も見ルカニ 深山カ縵為ヨ
アチメ オオオ オオオ オオオ
 魂筥ニ 木綿取リシデワ 魂チトラセヨ 御魂上リ 魂上リマシシ神ハ 今ゾ来マセル
アチメ オオオ オオオ オオオ
 御魂ミニ 去マシシ神ハ 今ゾ来マセル 魂筥持チテ 去リクルシ御魂 魂返シスナヤ
0138日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 10:37:25.79
>>118
自分は放言していっさい証拠出さないで
他人に要求するの?

すごいヒキョー者だな


w
0139日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 10:37:35.60
伊勢神宮に元から祀られていた地方神と

天武期以降、畿内から移されてきた天皇の祖先神とは

全く別物
0140日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 10:37:36.96
邪馬台国の南の狗奴国
魏志倭人伝の狗奴国の版図は南河内と和泉だろう

元々狗奴国は畿内くらいの版図があったんじゃないかな
2世紀末の畿内征伐で、なにわ、北河内、ヤマトは卑弥呼を共立した勢力によって征伐されたんだろうな

狗奴国の官、狗古智卑狗は河内彦だろう
0141日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 10:39:12.98
杵築大社の天井図。八雲が一つ欠け七つしかないだろ。 あれは、紀元前後出雲地方の内乱の結果、神庭にいた出雲の王族が追放されたから。

出雲地方で元々信仰されていたのは、姫神の幸神、東!から来て文物をもたらしたクナトの神。そしてその子のサルタヒコ。 サルタヒコ一族は、オオナムチに破れるんだな。 そして、畿内など各地に逃げ延びる。
加茂岩倉遺跡との同笵銅鐸が各地で出ている。

1世紀、畿内に逃れてきた出雲族と元々畿内にいた集団が国作りを行なったんだろうな
狗奴国の建国、クナはクニだな
0142日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 10:39:53.93
サルタヒコ。
出雲族の姫神幸神と、クナトの神の子。
サルタヒコ、月夜見、大国主、卑弥弓呼は同一だろう

猿田彦で注目すべきは最初に出会った場所。
天の八衢。
道が幾つにも別れる処、方違。
面白いことに上町台地と泉北丘陵の間に方違神社がある。なにわ、和泉、河内、淡の境。

その近傍にイシズ川。サルタヒコが消えたのはイスズ川の川上。

猿田彦が溺れたとされるのが、阿邪訶の海。
方違神社のすぐ北がアサカ、浅香。
浅香の北がオサカ、大阪。
浅香の南、泉北丘陵にコサカ、小坂。

伊勢と同じものが揃っているんだな。
凄い偶然。

更にサルタヒコはヒラブカイに挟まれて亡くなるとある。
泉北丘陵、イシズ川を遡った地に平井と深井という弥生時代から立地が変わっていない集落がある。
平井と深井の間が弥生時代の鈴の宮遺跡。
サルタヒコは最後はこの辺りに逃れていて、殺されたんだろう。
0143日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 10:41:27.63
サルタヒコは、方違幸大神や道饗祭の神々と関係あるかもしれない
八衢比古・八衢比売・久那斗

 道饗祭

高天之原に事始めて、皇御孫之命と称辞竟へ奉る、大八衢に湯津磐村の如く塞り坐す皇神等の前に申さく、
  八衢比古・八衢比売・久那斗と御名は申して辞竟へ奉らくは、
根国底国より麁び疎び来む物に、相率り相口会ふ事無くて、下より行かば下を守り、上より往かば上を守り、夜の守・日の守に守り奉り斎ひ奉れと、
進る幣帛は、明妙・照妙・和妙・荒妙に備へ奉り、御酒は・辺高知り、・腹満て雙べて、汁にも穎にも、
山野に住む物は、毛の和物・毛の荒物、青海原に住む物は、鰭の広物・鰭の狭物、奥津海菜・辺津海菜に至るまでに、
横山の如く置き足らはして進る宇豆の幣帛を、平けく聞食して、
大八衢に湯津磐村の如く塞り坐して、皇御孫命を堅磐に常磐に斎ひ奉り、茂御世に幸へ奉り給へと申す。
  又親王・王等・臣等・百官人等、天下の公民に至るまでに、平けく斎ひ給へと、神官、天津祝詞の太祝詞事を以て、称辞竟へ奉らくと申す。

其南有狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王 

倭女王卑弥呼與狗奴國男王卑弥弓呼素不和
0144日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 10:42:09.65
ヤマタノオロチは、元々は丹後半島だろう。
王が殺されて、一族が畿内で逃げ延びた。
その後一部伊吹山辺りに移った可能性がある。
伊吹山、ヤマタノオロチの神霊が住むと言われているな。

ヤマタノオロチ族と風宮の神との関係が気になるな。

級長津彦命
級長戸辺命
しなは息が長いという意味。
息が長い、吹子、鉄と関係あるかもしれない。

丹後半島に遅れて、畿内淡路島や池上曽根、彦根で鉄工房が始まるからな。

伊吹山、和歌では一途な想いの代名詞。

畿内に逃げ延びたヤマタノオロチ族は、助けてくれた勢力に恩義を感じていたのかもな。

伊吹山の神は、大和朝廷と最後の最後まで戦い抜いている。

環大阪湾のクナト、丹後半島を追われたヤマタノオロチ族、出雲の神庭を追われた出雲族が協力して作ったのがクナ、クニ。
0145日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 10:42:50.25
魏志倭人伝
邪馬台国の官

官は伊支馬有り。次は弥馬升と曰う。次は弥馬獲支と曰う。次は奴佳鞮。

伊支馬は生駒。生馬。火の神。
弥馬升は三見宿禰、出雲醜大臣の子。
弥馬獲支はミミ鷲、日鷲。
奴佳鞮は中臣。
邪馬台国の官は、大和朝廷の官と瓜二つ。

出雲地方には生馬神が祀られているんだな。
生馬神社境内には「牛荒神の大木」と呼ばれる木があり木に藁が巻き付けられている。

出雲風土記かな、生馬神の子は、もう荒ぶらないと言ったとか。
ヤマトの地名と出雲の集落名、共通点が多い。

邪馬台国の官の筆頭
伊支馬。これがどういう勢力か解明できれば、邪馬台国卑弥呼に近付ける気がする。

伊支馬、生駒、生馬、伊熊、猪熊、生目などの地名が、ヤマト、出雲、三河、遠賀川、宮崎に見られる。
何か関係あるのか?

生駒は火の神。
生馬も藁が巻きつけられ、荒ぶって燃えると自らが燃えるようになされている。火の神か。

焼畑と何か関係あるのかな。
焼畑の遺跡の分布も気になる。
0146日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 10:44:09.25
古代史を考える上で牛鬼伝説も見逃せない。
鳥取県の上石見に伝わる伝承。
牛鬼伝説の中でも、一番古いものじゃないかな。
孝霊天皇が牛鬼を討つ話。
上の岩を見よと言って牛鬼を倒す。 ここでは、牛鬼は石に倒されるんだな。

次に神功皇后。
瀬戸内海で神功皇后が住吉明神と、頭が八つで牛の姿をした塵輪鬼を討つ話。敗れた牛鬼に似た塵輪鬼はバラバラになり、島々になるとある。八雷神と似ている。

その後は西日本各地で様々な時代の牛鬼伝説。
共通しているのは、
◎牛鬼は海や水辺に現れる。
◎牛鬼は磯女と一緒に現れる。
◎牛鬼の子供は石である。
同じようなこととして、牛鬼に「石は流れる、葉は沈む」などあべこべなことを言うと助かる。
◎また蓑火に関するものもある。
◎牛鬼は老いた椿という言い伝え。古い海神ということか。
見えてくるストーリー。
牛鬼(古い海神)は孝霊天皇の時代に石にやられた。
海神の姫達は、石の子を産むようになった。
神功皇后の時代に、瀬戸内海の牛鬼に似た塵輪鬼が倒され海賊になった。

古事記では、 事代主〜オオタタネコの子がタケミカヅチ。 石が牛鬼、古い海神を乗っ取るのに関係しているのかもしれない。

また久留米では、牛鬼を退治し、その耳を耳納山に埋めたとある。
牛鬼は磯女を娶ったミミとも言えるんじゃないかな。

百襲姫と大物主神の箸墓伝説。
石が海神の姫である磯女を娶る話かもしれないね。
0147日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 10:44:51.77
やっぱりシラ、白も重要なキーワードだろう
しら、おしらさま、白日、天白、太白、しらぬひ、 石徹白イトシロ、白山

おしらさま伝承は伊勢以東、東海を中心に東北まで分布

白澤、人面の牛、牛妻
白も牛と繋がってくる

新羅も本来はシラ

白根、島根、鳥取→新羅、神奈川、埼玉みたいな勢力の移動があったのかな?

郡上市、白山中居神社の五段神楽の謂れも興味深い

五段神楽は、古代史上最大の王権をめぐる闘いに勝利した天武天皇の即位を称えて、
天下太平国家安全を五行相生の原理に基づいて宮廷の五節舞いと同様に天武期に越の宗廟(石徹白)と岩見、出雲等で舞われる様になった。
0148日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 10:45:37.06
蝦夷は邪馬台国、初期のヤマト政権の残党じゃないか?
大墓公、タモ公、アテルイ
タモ 、魏志倭人伝に九州の不弥国の官に多模があるな

大墓公、大白公、太白公

東海〜東北にかけて、 天白信仰が分布している、何か関係があるのかもしれない

蜂子皇子や小手子とかもそうだし、東北は中央で権力争いに敗れた勢力が逃れる先だしね

ヒルコ、蛭子、蝦夷
日本書紀に寄れば、ヒルコが誕生した時には既に日神月神がいたとある

倭国大乱以前は倭国は男王が治める国だった
畿内を征伐して初期のヤマト政権を作った卑弥呼&台与の政権、男王を担げない不完全な存在。
ヒルコだろうな

蝦夷、アテルイはヒルコの系譜だろう
0149日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 10:46:14.61
潮嶽神社
ヒコホホデミノミコト(山幸)に追われたホデリノミコト(海幸)がこの地にたどり着き、居を構えたと伝えらています。
神話、海幸彦、山幸彦では山幸彦の影に隠れ、山幸彦ほど有名ではありませんが、海幸彦は隼人(南九州に居住する氏族)の祖といわれております。

隼人の祖は海幸彦。
海幸彦と山幸彦は対立していた。
海幸彦は内陸へ追いやられたとある。

山幸彦の子孫を自称する天武の時代に隼人の乱が起きたのは必然と言える。
0150日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 10:46:53.76
龍田神社
天武天皇4年(675年)4月10日に勅使を遣わして風神を龍田立野に祀り、大忌神を広瀬河曲に祀ったと『日本書紀』の記述が初見である。

祭神
天御柱命は級長津彦命(男神)、国御柱命は級長戸辺命(女神)のこととされている。

天武は息長タラシ系を滅ぼしたんじゃないかな
そして鎮魂したと

息長タラシ系の最後は大津皇子かな

ももづたふ磐余(いわれ)の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ

ももづたふ、敦賀や鈴。
イワレと鴨を恨んでいるのかな。
雲隠りなむ、太陽が雲に隠れるのかな。

金烏臨西舎 鼓声催短命 
泉路無賓主 此夕離家向

にほ鳥の息長川は絶えぬとも君に語らむ言尽きめやも

草薙剣に祟られた天武
こういう経緯があったからかもしれない
0151日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 10:50:16.69
今でも新羅は、シラ、シンラ
0152日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 10:53:55.38
>>140
>邪馬台国の南の狗奴国
>魏志倭人伝の狗奴国の版図は南河内と和泉だろう

魏志倭人伝時代の「狗奴国」に相当する集落遺跡群を示せるのかな?  @阿波
0153日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 11:52:51.69
テスト投稿
0154日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 12:03:34.80
>>439
(ようやく、投稿出来たのかな?)
>九州説やってるとしまいにゃザラコクみたいになる<

大和説をやってると、しまいには、
戦前の日本軍や、ナチスや、オームや、トランプや安部自民や、ISイスラムなどみたいになる。
0156日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 12:34:56.77
集落の定義のことでも、畿内説を宣伝する係員の「キナイコシ」が、見事に論破されてしまった。。。
0157日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 12:36:57.95
畿内説を宣伝する係員の「キナイコシ」は、オーム邪馬台国纏向狂なのではないのかな。。。
0158日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 12:41:23.78
畿内説を宣伝する係員の「キナイコシ」は、テンプレートを論破されてしまったので、観光関連の雇用主から解雇されてしまう可能性があるな。。。
0159日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 12:45:42.66
2世紀末の畿内征伐で、纏向遺蹟は卑弥呼を共立した熊本城の勢力によって征伐されたのだな。。。
0161日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 12:55:14.01
ヤケクソはイカンぜよ。  @阿波
0162日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 13:00:36.62
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
0163日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 13:10:25.32
キナイコシは、不利とみるや、だんまりと、中傷と、呟き
0164日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 13:55:36.20
>>451
>ザラコクは支離滅裂なことを言い張り続けて、いくら間違いを指摘されても知らんぷりだからな
尚方銘があるというだけで明帝下賜鏡だと決めつけて、勝手に尚方銘を入れたら首が飛ぶとか、
独特の謎理論を展開するかと思えば・・・
その平原尚方銘鏡を呉系楽浪鏡師が作った物だと、
また矛盾したことを言う <

明帝から下賜された「尚方作」鏡は、
卑弥呼か、卑弥呼を継承したことになる壹與しか、処理をする権限がなく、
渡来の呉系楽浪鏡師らの作になるような「尚方作」鏡は、
卑弥呼や壹與が呉系楽浪鏡師らに命じて造らせた、
という事にしかならない、んだよ。

>デタラメすぎる<

何度も言って来てあることを知らん振りして、
同じことを言い続ける大和説者という・・・・人種は、
デタラメ過ぎる。
0165日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 13:58:24.26
>>453
>南→東は誤写で逃げ切った方が無難<

誤写の確率は、何度も言うように、0.5%以下であり、
これも逃げ切れない。
0166日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 13:59:56.02
>>454
「会稽東治之東」の件で、
南水行が東の間違いではない、
と証明されちゃうと、大和説は致命傷だからね。
0167日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 14:10:42.44
>>465
>くさい欺瞞情報流すお前が呟きキウスだな <

「南→東」などの史料事実の改竄の犯罪的情報を、
大和説学者や右翼マスコミや安部文部省らに忖度して、
欺瞞的情報だと、ヘイトスピーチして、
史料事実を削除改竄して流そうとするお前が、スレ主?だな ?。
0168日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 14:18:21.67
>>466
>会稽東治之東は正解 南水行も正解
聖徳太子 『日出る処の天子(=日本)』<

聖徳太子は、書紀がタリシホコに模せようとして、厩戸を仕立てた嘘つき騙しの造作。

>日出る処=東<

煬帝の隋から見て日出る所。  

>奈良市 北緯 34°41′07″ 東経 135°49′58″
 徳島市 北緯 34°03′57″ 東経 134°33′34″
 福岡市 北緯 33°36′23″ 東経 130°25′05″
『日没する処の天子(=中国)』 日没する処=西<

九州倭国から見て。
0170日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 15:47:37.13
畿内説を宣伝する係員が、纏向遺蹟に集落が無かったことから、討論の話題を変換しようとしているな。。。
0171日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 15:51:01.18
>>170
纏向遺蹟に集落が無かったということは、都ではなかったということではないのかな、、、
0172日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 16:05:57.13
>>171
2世紀末の畿内征伐で、纏向遺蹟は卑弥呼を共立した熊本城の勢力によって征伐されたので、集落が発生しなかったのではないのかな。。。
0173日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 16:17:14.40
で?
纏向遺蹟に集落が無かったというのは誰の説だ?
0174日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 16:19:26.54
>>172
集落を発生するための人民が、殆ど、捕獲されてしまったのではないのかな。。。
0175日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 16:22:00.15
>>174
捕獲した人民の中に、高句麗から渡来していた者達が混入していたのではないのかな。。。
0176日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 16:24:39.38
>>105
巻向には金は注がれていないけどなw
助成金で作った遺跡公園みたいのは存在しないよ。
0178日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 16:37:44.97
>>177
寺澤が「纏向遺蹟に集落が無かった」という説だ
というのは、どうして?

理由は?
0179日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 16:37:46.13
>>175
箸墓古墳が、高句麗の前方後円墳を模倣しているので、高句麗から渡来していた者達が奈良湖の周辺に生息していたことが、判明したのだったな。。。
0180日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 16:41:24.19
畿内説を宣伝する係員が、少しレベルの低い討論の方法に、誘導しているな。。。

178日本@名無史さん2018/10/03(水) 16:37:44.97
>>177
寺澤が「纏向遺蹟に集落が無かった」という説だ
というのは、どうして?

理由は?
0181日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 16:42:44.11
畿内説を宣伝する係員は、纏向遺蹟に集落が無かったことを、隠蔽しようとしている可能性があるな。。。
0182日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 16:43:06.35
>>493
>前方後円墳がはるか後だ という理由がないな お前の欲望だけだ <

卑弥呼の墓は「冢」であって、「前方後円墳」ではない。
0183日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 16:45:31.93
>>180
そうだね、、、
寺澤氏という謎の人物の、意見の発表は、纏向遺蹟に集落が無かったことが真実だということと、関係が無いな。。。
0184日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 16:47:21.18
>>494
>>大和の庄内の編年は、筑紫よりも50年位遅れる、という事とも、符合するしね<

>するかよw もういい加減、古田の元に行け。
九州王朝なんて言った古田、多分、あの世で顔を真っ赤にしてるだろうが。<

「大和の庄内の編年は、筑紫よりも50年位遅れる」という編年表を書いていたのは、
通説大和説考古学者らであったんだよ。
0185日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 16:47:56.40
纏向遺蹟に集落が無かったということは、都ではなかったということではないのかな、、、
0186日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 16:50:21.53
2世紀末の畿内征伐で、纏向遺蹟は卑弥呼を共立した熊本城の勢力によって征伐されたので、集落が発生しなかったのではないのかな。。。
0187日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 16:52:36.69
>>500
>そういう捏造デマを流してきたから 九州説は落ちぶれたんだよ <

安部自民文部省らや学会教育界のトップに忖度して、
「南→東」などの嘘つき騙しの改竄の捏造デマを流して来たから、
大和説は落ちぶれたんだよ。
0188日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 16:54:25.96
>>182
>卑弥呼の墓は「冢」であって、「前方後円墳」ではない。

という理由は?
0189日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 16:55:07.69
それにしても皇后?だよ、
本当は家の母親のことなんじゃないの?
0190日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 16:56:36.01
>>187
「南→東」が
 嘘つき騙しの改竄
だと言い張る理由は?
0191日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 16:56:41.90
>>503
>連呼するだけ 九州説は歴史捏造の街宣車<

大和説者は、オーム信者や創価学会らのように、
安部自民や文部省に忖度して、
歴史捏造の街宣を連呼するだけ。
0192日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 16:56:45.52
もういないけど、むかしの話、機織りなどの話をしていた、
老婆も皇后(不明)だろう?
0193日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 16:58:03.79
>>177
寺澤が「纏向遺蹟に集落が無かった」という説だ

という理由は?
0194日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 16:59:57.40
松傾?の家の嫁という話なんだけどw

結婚するときも何かの家?みたいな事を言われたと言っていたし
0195日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 17:02:10.58
話的にも合っているような気がするし、
泥棒のようなものに入られたとか
0196日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 17:03:13.61
つねに九州説には理由がない
あるのは汚れた欲望だけ
0197日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 17:03:15.49
>>504
スレ主や大和説者らは、
頭蓋骨中にある「忖度」汚物をお医者さんにとり除いてもらえば、
スッキリする、と思うよ。
0198日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 17:05:41.76
あと秦氏、機織り関係?

どういう事なんだろう
0199日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 17:08:01.11
『猿田 秦氏』

百済(赤)、新羅(白)・・・の神を祀っていると書いてあるし、
なぜ知っている人がいるのか?なんだよ
0200日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 17:10:24.68
本当は猿田(猿田氏)という名前でははず、
秦氏?
0201日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 17:17:33.11
三國志関係の話?
誰だったかな、自分の子供(赤ちゃん)を井戸に落とそうとしたという逸話とか

日本の話なのかな?
それとも本当の子孫、末裔のような人々が日本に渡ってきている?
0202日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 17:22:24.41
『三國志 井戸』

それとも『ジャクソン 子供 窓』?
0203日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 17:29:54.07
『レッド・クローン』(red?led?)という曲があるという話とか、
0204日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 17:32:12.07
あとガンダム?

赤い・・・系統のキャラ、MSがいたり、
どういう事なんだろう

何やらを殺された、盗まれたとか、
そういうコンセプトだしw
0205日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 17:36:29.13
もののけ姫?

あれも同じ人物(同じ家?)のような気がするし、
何かの本物がいて、殺そうとしているのかな?

いないことにしたいとか
0206日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 17:37:24.75
畿内説を宣伝する係員は、纏向遺蹟に集落が無かったことを、隠蔽しようとしている可能性があるな。。。
0207日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 17:38:23.14
畿内説を宣伝する係員が、少しレベルの低い討論の方法に、誘導しているな。。。

193日本@名無史さん2018/10/03(水) 16:58:03.79
>>177
寺澤が「纏向遺蹟に集落が無かった」という説だ

という理由は?
0208日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 17:39:32.52
纏向遺蹟に集落が無かったということは、都ではなかったということではないのかな、、、
0210日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 17:41:41.29
冤罪事件というも、そうだし・・・、
どこかに本物らしき家の人がいるのかな

あらゆる手段を使い、
その家を潰そうとしているとか
0211日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 17:44:52.51
>>208
発掘したのはごく一部だけどな。
それに、集落があるのは必然ではないから、なくても問題ない。
0212日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 17:46:25.70
ミラーマン 冤罪説。
あと、さかきばら事件・・・木島事件とか。
0213日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 17:46:42.37
>>211
>それに、集落があるのは必然ではないから、なくても問題ない。

ヤケクソはイカンぜよ。  @阿波
0215日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 17:52:22.47
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
0216日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 17:52:24.09
>>509
>柳田は、
「渡辺正気氏が出土品の耳璫について、盛行の時期が後漢代であり、
しかもその前半である」としていることに対して、
「時期を古くしたいあまりに都合のよいところを引用している」として
漢末六朝初期の杭州老和山の琥珀製T型耳璫を引用している
両氏とも高山純「古代東アジアにおける耳璫の流伝」(1967年)から引用
わずかにくびれるだけの南紅瑪瑙製耳璫は新疆や広西では前漢時代から出ている<


柳田が「漢末六朝初期」だ、と言った事には変わらず、
「2世紀末」だけだ、という解釈を、否定している、という事だ。
0217日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 17:56:43.96
『松傾』?
このような名前の家の話


家の老婆は詳しいような気がするんだけど、
蚕を飼い、機織りなんかをしていたと言っていたり・・・、

いなり(不明)を祀っていたんだけど・・・、
何度も書いたはず
0218日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 17:58:48.27
イナリを祀っていたというか、
家に何かがあったのかな?置いてあった?

そういう話なんだけど
0219日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 18:03:56.94
『ボーボボ』

ミラーマン、万華鏡写輪眼?サルタ?
0220日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 18:35:34.31
>>176
纒向学研究センターに助成金が行くってないのかな?

金に色はないが助成金が纒向に使われてるよ・・単独収支すべきだ同じ教委で収支だから世に出ないだけ
0221日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 18:36:01.11
>>216
柳田の言ったことを全く聞いていないで
お馬鹿はトンチンカンな妄想をするなあ

柳田は
耳璫が「漢末六朝初期」なのだから
土器や鏡の編年からの「2世紀末」という判断と合致しててOK
と言ってるの
0222日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 18:41:05.72
2018年1月25日 - 初期ヤマト政権の首都とされ、邪馬台国の有力候補地である纒向遺跡(奈良県桜井市) の整備に向け、同市教委が ...
国や県の補助金を受け、本格的に整備を進める
0223日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 18:55:19.55
>>1
> 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。<

2世紀前半の男王から続く王権Aと、相争う集団Bが、[共に立てる]ということだから、
2世紀前半の男王から続く王権の説明がない纏向説、つまり寺沢説=>>1説はありえない。
寺沢は慌てて2世紀前半の男王から続く王権の説明で唐子鍵を出してるが、
纏向とは文化断絶があるので無理。

アホの>>1  アホのぉ>>1
0224日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 18:55:55.27
>>521
>>「南→東」などの嘘つき騙しの大和説学者らは、
この「古墳時代」定義においても、「前方後円墳」という言葉を使わず、<

>前方後方墳も方墳も古墳なんだから、あたりまえ <

大和説者が、箸墓のような巨大前方後円墳を論拠にしている、という事が当たり前。
つまり、大和説者は、古墳と言い換えて大和の古代古墳時代が長かったようにする、
というような詐術をしている。

>常識を知らないから、高校の歴史教科書にそんなデタラメなクレームを付ける<

高校教科書は、「南→東」のウソtき騙しの大和説が有利になっている、として、
安部自民文部省らに忖度した記述をしているから、×。

>>しかし、大和における前方後円墳に限定しておいて、<

>そして証拠もないことを言い張る これが、九州説 <


そんなインチキ騙しを言い張る。これが、大和説。
0225日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 18:59:00.15
>>220
文化遺産の保護と地域活性化に県や文化庁が補助金を出すのは
彼らの普通の職務だろ
0226日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 19:02:20.10
>>223
>2世紀前半の男王から続く王権Aと、相争う集団Bが、[共に立てる]ということだから、

「ということ」な証拠は?
0227日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 19:04:59.55
>>562
>九州説が論破されてしまって、呟キウスが発狂して、毎日ウソと悪口を呟いてるな <

「南→東」などの嘘つき騙しの大和説が論破されてしまって、
安部自民文部省などに忖度していた事がバレて発狂して、
毎日、ウソと悪口を、ブツブツと呟いてるな。
0228日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 19:09:43.07
>>227
嘘つき騙し嘘つき騙し嘘つき騙しいいと連呼して
一体何が論破できるの?
0229日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 19:12:12.07
>>570
>説文解字 「冢」高墳也  以上<

なら、「冢≠墳」であったんだし、
孔明の遺言での、
「墳は山のように広く大きく高い」と、「冢は棺を容るるに十分な大きさ」
とは少し違う説明であり、
説文解字は、ちょっと説明不足だね。
0230日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 19:13:39.79
王室でも、皇室、大王家?神族なんでも良いけど
本当に〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜一系なの?

一系(直系)ではないはず、
嘘ばかり教えて(洗脳)いるのがいるんだろう

ドラえもんでいうと、
ジャイアン、ジャイアンツ?


嘘だと知っている人々もいる?
0231日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 19:15:37.61
>>578
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者の中に、
毎日忖度したウソをついてない人は存在しない、
ということを、皆はよく知っているのではないかな。
0232日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 19:17:31.32
>>229
孔明の遺言に
「墳は山のように広く大きく高い」
などという記載はない

九州説よ、捏造はイカン
0233日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 19:18:40.76
>>580
また、「南→東」などの嘘つき騙しの大和説が、
思考停止して、安部自民や右翼マスコミや文部省学会教育界などに、
忖度しました。
0234日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 19:24:00.11
>>582
>前方後円墳(纏向型を含む)が三世紀前半の九州にあると、九州説が即効で終わりだろう。<

前方後円墳が、三世紀後半半の半ばの那珂八幡などにあると、
大和説が、即効で終わりだろう。
0235日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 19:26:56.41
>>585
>これ、九州説の断末魔だよね <

これ、「南→東」などの嘘つき騙しの忖度大和説の断末魔だよね。
0236日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 19:32:37.55
>>226
>「ということ」な証拠は?

証拠はって普通に読めば子供でも理解できる。
共に立てるは前文の2世紀前半から続く男王王権に掛かっている。
君の話では2世紀前半の男王王権がすっかり消えてるではないか。
これは、各地の土器が集まる纏向遺跡の状況に卑弥呼を無理やり当てはめたからだ。
0237日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 19:36:36.59
どう考えてもウラシマンの話?

ぼく、どざえもん(どらえもん?)

と言っていたり
0238日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 19:44:44.47
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
0239日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 19:47:20.13
>>587
そんな変わった形の前方後円墳の墳墓を中国人が見てたら、
倭人伝に書かれてる筈だぁぁぁという論理。
箸墓が倭人伝に出てくる径百余歩の冢だという説が×になるね。
祇園山が卑弥呼の墓だと言い張れる。

「南→東」などの嘘つき騙しの安部らへの忖度大和説、ご臨終だよ。
0240日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 19:47:32.56
『シャイニン・オン』(youtube)という曲。

こういうコメントも同じような意味だろう。

>別々の〜〜〜〜〜からそれぞれ集められて作られた。
0241日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 19:50:17.17
>>592
>畿内説に反論もできないくせ、ウソだと言い張る理由は?<

畿内なんて存在もしない安部らへの忖度騙しの文言であるし、
九州説に反論もできないくせ、
ウソだと言い張る理由は?。
0242日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 19:53:39.14
>>596
どうして「南→東」などの大和説学者は、みんな嘘つきなんだろう?。
キョクウの文部省や学会教育界に忖度して、国民には忖度しないから。
0243日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 19:55:52.18
其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名日卑弥呼

相攻伐歴年の「相」は相思相愛という熟語でもわかるように組。
一組つまりAとB。
それを>>1は「各地の首長に共立」などとごまかしている。
まるでABCDEもいるかのようにごまかしている。

寺沢説、撃沈!
0244日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 19:58:13.71
二者しかいなかったということ?
天津神と国津神か。
卑弥呼が国津神で、天津神が追い出されて大和に逃げ込んだのだな。
0245日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 20:11:03.22
相攻伐歴年の一組つまりAとBは分かる。

先代旧事本紀にはこの時期に二人の申食国政太夫(おすくにのまつりごともうすまえつきみ)がいるからだ。

一人は天日方奇日方。
もう一人はウマシマジ。
ではどちらが2世紀前半から続く王権なのか。
それはもう鴨王こと天日方奇日方。
彼の周辺に卑弥呼はいるのか。
妹のヒメ(踏鞴五十鈴)だ。

>>1や寺沢の言う纏向はウマシマジ、つまり物部の側だ。
纏向に卑弥呼はいない、いたのは葛城だ。
0246日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 20:12:40.91
>>600
>倭人伝では卑弥呼の生前の倭人の葬儀の習俗について詳細に書かれているが墳墓については何の記載もない <

変だなあ?。この大和説男は、誰に忖度して、そんなウソを書くんだろうか?。
倭人伝にはちゃんと、 「卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」と書いてある。

>高句麗伝ではこの地方の特徴的な積石墓について記載があるので、
東アジア全域でも特異な古墳について何の記載もないのは不自然 墳墓についての記載は卑弥呼の死後に初出となる<

いや、その前にも、「其死、有棺無槨、封土作冢」と書いてある。

>このため、この墳墓は【その時から現れた新しい墳墓】であることになる<

ならない。「其死、有棺無槨、封土作冢」であり「卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」であった、として、十分。

>なのでそれまで当たり前に存在していた方形周溝墓などではないのは明らか<

方形周溝墳丘墓でも、円墳でも、方墳でも可能。しかし、前方後円墳などは「冢」にはならないから×ね。

>そうなるとこの記事は250年くらいから纏向型が出現し、<

前方後円墳は、纏向型というよりは、那珂八幡型。

>一気に全国展開をした古墳を指していることが分かる<

卑弥呼の墓には、前方後円墳は「冢」ではないので、×。

>つまり邪馬台国と古墳は密接な関係を持っていることが明白になる<

邪馬台国なんて存在もしないから×であるし、という大和は、「南≠東」であるから×であり、前方後円墳も「冢ではない」から×。
0247日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 20:16:52.21
>>601
まあ、大和説が、
高校の教科書に載ってるような「南→東」などの嘘つき騙しになるような事を、
理由も言わず、文部省などに忖度して、頭ごなしに肯定して、
口汚く九州説学者を罵っていたら、
大和説が国民の7割から相手にされなくなるのは当然だ。
自業自得だね。
0248日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 20:19:13.59
>>604
マジ、「南→東」などの嘘つき騙しの、文部省への忖度大和説は、
終わってるわ。
0249日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 20:33:47.79
鴨先生かっこええ!【ほぼ】賛成!
葛城対巻向やな?
鴨対物部やな?
元元は出雲対吉備やん!
邪馬壹対狗奴やん!
0250日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 20:38:40.72
>>610
>祇園山古墳については台状方形墓は大陸と交流の盛んだった近畿北部に広く分布している墓制 <

祇園山は、不定形の上の「四隅円弧の錐体台状の不定形の冢」。

>大きさについても近畿北部に中心地があり、先行してより巨大な物が作られているので特段特異な物ではない <

近畿北部は、越や出雲の支配地であったのであり、そこへ九州倭国の「東征毛人五十五國」の軍が来て、三つ巴になった地域。

>大陸との交流を行っていた事からして既知の存在であるはずなので中国人は知っていた可能性が高い<

半島日本海側や沿海州方面との関係はあっても、中国とは殆ど関係がなかった。

>この台状方形墓も卑弥呼生前からあるので卑弥呼死後の墳墓には該当しないことになるのが分かる<

変な男。卑弥呼の墓は「冢」としか記載されていないから、「台状方形墓」だとは断定出来ない。
0251日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 20:41:15.33
それよりもミク尊の件、なんで葱を持っているの?

あと『ボーボボ』に出てくる某キャラもネギを持っていたり
0252日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 20:43:14.91
>>616
むしろ古墳や前方後円墳の年代も、九州説が示した卑弥呼の「冢」に拠って、
むしろ丁度良くなってしまう、
と言うお笑い話
0253日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 20:45:42.99
あの葱の華・・・などの写っている写真

『松傾』

このような名前の家なんだけど、みく尊(仮)なのかな?
家に来てみるとわかる、実物の写真を持っているから
0254日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 20:54:22.18
あの写真に写っているのが皇后なのかな、
それともデジ王女?

子供を抱いているのが母親だよと言っていたしw
0255日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 20:57:57.70
>>249
>鴨先生かっこええ!【ほぼ】賛成!
>葛城対巻向やな?
>鴨対物部やな?
>元元は出雲対吉備やん!

そう。鴨対物部の対立は後の時代まで続き、葛城出自の蘇我VS物部になる。
そして蘇我が勝つ。
が中臣にやられる。
高天原の神々の末裔、本来は天孫であるべき人たちが国津神に堕とされた。

>邪馬壹対狗奴やん!

いやそれは分からんw
0257日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 21:03:29.90
中臣にまけんかったら壹与ちゃんの都も伝承されたんやな
0258日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 21:03:40.63
なぜ知っている人がいるのか?なんだよ

wiki『霊山』(伊達郡というところ)関連人物・・・となっているし、
わかりやすく言うと引っ越しをしてきたのかな?

最終的に、そこに住んでいたのかな?
家は川崎区に住んでいるんだけどw
0259日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 21:17:25.08
>>243
>相攻伐歴年の「相」は相思相愛という熟語でもわかるように組。
>一組つまりAとB。


漢末、黄巾賊起、天下飢荒、人民相食。

天下の人民がA組B組に分かれて人食い対戦したんですかあ?
まっさかね

アホどぅえすね〜
0260日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 21:24:29.13
あちゃー
黄巾と非黄巾が食人肉🍖しあったんか?
0261日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 21:29:59.64
老婆も言っていたんだけど

蚕を飼っていて機織りをしていたという話に?
王母、西王母?

だいたい合致しているような気がするんだけど、
何の話なんだろう

牛の話とか
0262日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 21:32:43.17
>>255
>そう。鴨対物部の対立は後の時代まで続き、葛城出自の蘇我VS物部になる。

男系を重んじる天津神の物部と、女系を重んじる国津神の鴨はうまくやっていただろう。
0263日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 21:33:12.16
【葛城鴨王家の系譜】
大和国葛城にいた古代氏族の系譜。三輪高宮家系譜などに資料が残されている。

その祖は博多湾沿岸の倭王である大山祇の子であり、摂津に鎮座する三島溝杙耳(陶津耳、賀茂建角身)である。
大山祇の娘の木花咲夜姫は天孫ニニギに嫁入りしていて、その実家は志賀島の綿津見神社とされるが、遠賀川沿岸に広がる豊国が支配地域であり、後世の筑紫岡田宮の一族である。
三島溝杙耳は瀬戸内海を通じて大阪湾から畿内に鎮座し、後に神武の東征を助けたとされている。
この一族を祭るのが、伊予国大三島の大山祇神社、土佐の溝咋神社、摂津の三島神社、京都の賀茂神社などである。
神武と戦った長髄彦は三島溝杙耳の息子とされていて、娘は活玉依姫(勢夜陀多良比売、玉櫛媛)である。
出雲の国譲りの後に大和に移住していた事代主は三輪山の神となっていたが、活玉依姫に娘と息子を生ませる(丹塗矢説話)。
この娘は後に神武の妃となるイスケヨリ姫(媛蹈鞴五十鈴姫)であり、息子は天日方奇日方(櫛御方)である。天日方奇日方はまたの名を鴨主という。
天日方奇日方の曾孫が太田多根子である。

この登美の鴨王家には別の伝承がある。
飛鳥大神の娘である登美夜姫が、高天原からやってきた天照の孫であるニギハヤヒとの間に生んだ子が、物部氏の祖であるウマシマジである。
登美の長髄彦は、神武との戦いの中で「自分は天神の子であるニギハヤヒに仕えて妹をニギハヤヒに娶らせたが、どうしてまた天神の子と称するものが来て土地を取ろうとするのか」と言っている。
とすると、登美夜姫と活玉依姫はともに長髄彦の妹ということになり、異同が論じられるところである。

古事記では大物主は大国主や事代主と別神であり、勢夜陀多良比売と活玉依姫も別神としているが、勢夜陀多良比売と活玉依姫はいずれも丹塗矢説話が共通している。
いずれにしても、大和国の主だった勢力はいずれも筑紫か出雲、高天原にその起源があることになる。
0264日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 21:40:21.29
>>622
3世紀末までは、鏡もない、絹もない、
土器は、東海の物だらけで河内のは僅かで、筑紫のは0、
卑弥呼の冢の後の那珂八幡を学んで、ようやく前方後円墳が伝わり、
鏡が出てくるのは3世紀末以後のホケノから。

これが大和。
0265日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 21:44:59.80
>>264
という素人だけのトンデモが

   九州説
 
0266日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 21:45:31.21
>>626
>「ぼくちゃんはみとめない」と喚くのが九州説の反論だから笑える<

「南→東」などに反論が出来ず、
安部自民文部省や学会教育界に忖度して、都合の悪い史料事実を抹殺隠蔽改竄するのが、
大和説の反論だから、笑える。
0267日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 21:48:40.64
>>260
九州説やってると脳が退化するって症例を見た
0268日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 21:53:15.92
>>259
そんな例を出しても相攻伐歴年が2世紀前半の男王の王権に掛かるのは否めない。
2世紀前半の男王の王権を無視してる説など意味がない。
0269日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 21:53:32.40
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
0270日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 21:57:12.14
>>262
>女系を重んじる国津神の鴨

いや重んじない。
鴨は大物主という男系。
倭国大乱で弱り、一時的に女王を立てざるを得なかっただけ。
0271日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 22:01:00.71
>>634
事実上スレ主も戦列離脱してるし、
無意味な書き込みのな独り言と、伊達とか川崎と言っている・・・・と、
2〜3人の「南→東」などの嘘つき騙しの安部文部省への忖度者ら位しか、
大和説者は残っていないんだよな。

ほぼ完全に絶滅したかな?大和説は?。
ああ、「全一病」・・・・もいたか。
この辺はもう、時の流れに解決してもらうしかないのだろうな。
0272日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 22:04:05.82
>>636
笑えるよなぁ。
「ぼくちゃんは、南≠東はみとめない」、
「でもなんか凄い都合の良い物が出てきたらぼくちゃんの脳内妄想が勝つんだ」、
だからなw 。
現実を無視した仮定ですらない都合のいい妄想叫んでるだけw。
これが大和説ですよwww。
0273日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 22:07:58.93
>>640
「これこれが出てくるからどうだよ」というなら分かるが、
「南→東」などのように、史料事実の否定曲解をする嘘つき騙しや、
「こんな都合のいい物が出てきたとしたらどうだ!」 ばかりだからな。

馬鹿じゃねぇのかね。大和説者は。
九州説は
0274日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 22:09:23.05
>>268
なんで否めないの?
0275日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 22:16:00.23
>>270
三島の神から活玉依姫、イスケヨリ姫と、女系で天皇家につながっていく。
国津神の倭王大ヤマツミの家系なので、基本は女系相続なんだよ。
ちなみに大物主の話は異説が多く、おそらく父親が不明のところを神の子ということにしたのだろう。
(塗矢伝説は比喩であろう)
0276日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 22:16:50.58
>>274
主語はあくまで2世紀前半から続く男王の其の国。
それは卑弥呼を「共に立る」まで変わらない。
しかしながら寺沢説=お前の説は主語を途中から「各地の首長が」にこそっと変えている。

卑弥呼が纏向にいたという前提で、卑弥呼を纏向遺跡の状況に無理やり当てはめているからだ。
0277日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 22:17:50.92
>>267
ん?おまえごときアホ爺が背伸びしても鴨先生のちんちんにも届かんなあ?
つうかわえほどのエリートも先生の >>243 読む前はABCDいると思ってた過去もあったからしゃあないか(数時間前を見つめる遠い目
0279日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 22:19:57.61
>>275
>基本は女系相続なんだよ

事代主・天日方奇日方から最後の大物主の阿田賀田須まで男系だ。
黙っててくれ。 
0280日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 22:21:56.63
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
0281日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 22:24:03.93
出来たての卑弥呼さん共和体制は秀吉家康共和体制みたいもんか?
素直に鴨先生に万歳やな
0282日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 22:26:08.38
>>276
>主語はあくまで2世紀前半から続く男王の其の国。

其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名日卑弥呼

その国が乱れちゃったんだよね?
なんでまだ元の王権が存続してると決めつけるの?

「相攻伐歴年が2世紀前半の男王の王権に掛かる」とかいう理由無いよね?
0283日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 22:29:21.18
>>282
>その国が乱れちゃったんだよね?
>なんでまだ元の王権が存続してると決めつけるの?

乱れたね。
でも女王を共に立ててるわけだから王権は残ってるよね。
何言ってるんだ?
0284日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 22:39:11.76
>>646
>国産鏡だらけの小さい平原にまだ固執してるのが笑えるな<

明帝の下賜鏡が元になった21枚の「尚方作」鏡がある事を隠しているから、笑える。

>同時代の九州全体見ても破鏡と小型?製鏡だらけのあり様で絹も粗悪品が少しだけ見つかる程度<

直ぐ後に、△の那珂八幡や、黄金鏡の一貴山銚子塚などが続いていた事を隠しているから、笑える。

>もうハッキリわかるくらいの衰退が見える土地の証拠でしかない <

大和は、3世紀末までは、未開の地のようであったよう事を、隠している事が笑える。
0285日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 22:40:14.12
因幡、稲葉、印旛、何か関係あるのかな
まだまだ謎は沢山あるな
0286日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 22:40:30.16
つうか共立の出典【二相乃共立之為王】やね?
なぜにわえはABCDつう大間違いしてたんやろ?
0287日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 22:43:54.87
気になったことがあるんだけど、
秦王国(秦氏)の嫁はなんていうの?

皇后?
0288日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 22:46:29.87
>>648
>>説文解字でも「墳=高冢」と区別されていた。<

>はい、真っ赤なウソ ザラコクは病的なウソつきだが 九州説って、そういうモノだよね<

はい、説文解字は、「墳と冢の端的な違いは、高さ」である、と言っており、
孔明の、
「墳は山のように大きく広く高い」と「冢は棺を容るるに足る程度の低く小さいもの」
という説明と一致する。
0289日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 22:46:53.25
>>279
事代主が本当に奈良にいたと思っているのか。
鴨主の権威は大ヤマツミから継承したものなんだぞ。
大阪の三島神社も京都の上賀茂神社も、事代主の血が入るより前の世代の鴨の一族を祭っているからね。
これが神武東征やニギハヤヒ降臨より前の畿内の本来の支配者だ。
ちゃんと系図の全体像を把握しろよ。
0290日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 22:50:51.88
>>651
>やはり、倭に来た中国人の目でも、倭では隔絶して大きかったんだよ
そういう意味をこめて「大作冢」と書かれた <

「大」は「作」の形容詞。勿論多少は大きくてもよい。
0291日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 22:51:54.07
>>289
>事代主が本当に奈良にいたと思っているのか

天日方奇日方や姫踏鞴五十鈴媛のお父さんなので奈良にいたに決まっておろうが。
BC3世紀の出雲の銅鐸拡散の時期には事代主の祖先は奈良に来ていただろう。
0292日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 22:53:34.05
三島の神(初代の鴨)が畿内を開拓したが、そこへ天神の子であるニギハヤヒがやってきて君臨し、ナガスネヒコは妹を輿入れさせた。
その後にやはり天神の子を名乗る神武がやって来て、ナガスネヒコは憤慨した。
「また天神の子を名乗ってやって来て、土地を奪おうとしている」
結局ナガスネヒコは殺されたが、姪のイスケヨリ姫は神武に輿入れした。
こうして天津神(天皇家)の外戚として鴨一族が存続したわけだよ。
0293日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 22:55:26.49
>>645
>その話に根拠がないとも書いてあるんだよ
トンデモ本は都合のいいとこだけ引用する<

いや、釈日本紀は、晋の惠帝への遣使は日本を名乗った、という記録があった事を紹介して、
それに対する自分の解釈や理解を書いただけ。
0294日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 22:56:07.79
>>291
その頃の畿内の開拓者は三島溝杭耳だぞ。
今でも三島神社も上賀茂下鴨神社もしっかりと祭られている。
しかしその時代の事代主を祭る神社はないだろう?
後世の付会なんだよ。
塗矢伝説をもう一度読み直せ。
0295日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 22:57:07.27
系図は合ってるな?あとは年代観やね?
正直ようわからん
0296日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 22:57:30.90
畿内で一番古い謂れを持つ神社をないがしろにするな。
事代主が登場するのは、三島神社より2世代以上は後なんだよ。
0297日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 22:59:49.83
そして三島の神の父親は、博多湾沿岸の倭王、志賀島を本拠地とする大ヤマツミなんだよ。
0298日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 22:59:53.47
>>294
三島溝杭耳はヒメ踏鞴の母方の祖父。
大阪茨木市あたりを根拠にしてた。
日本最大級の東奈良遺跡だろう。
事代主はヒメ踏鞴の父親だ。
だから何なんだ、おまえうざい消えろ。
0299日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 23:01:31.94
鴨先生のトイメン先生も侮れん
0300日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 23:02:17.35
>>655
>方形周溝墓からみた弥生時代前期社会の様相・・・
この論文の3ページ目の「図3 墓域の変遷⑴ 東武庫遺跡2」に、
王墓でもなんでもない方形集溝墓の図があるから見てみて
縮尺が付いてるから分かると思うけれど、普通の方形集溝墓で10メートルちょいはある
平原1号墓は、どんな基準で見たところで大きな墓ではないんだよ
平原遺跡の中では一番大きいけれどね<

同じ部族の墓群の中で大きければ、十分。
東武庫なら兵庫?なんだろうから、全く関係がない。
0301日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 23:05:50.37
伊勢遺跡だよな
倭国大乱前の男王の時代に一致する
30もの首長が集った祭祀跡かな

神無月に神々が出雲に集う言い伝え、伊勢遺跡の話なんじゃないかな
出雲地方にそのような遺跡はないしね
0302日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 23:06:38.38
だから事代主には何の根拠もない。
イスケヨリ姫の本質は三島の神の末裔なんだよ。
三島の神はイザナギのひ孫にあたる。
事代主より格上だ。
0303日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 23:09:37.15
>>657
>弥生時代後期から古墳時代の4世紀後半まで、九州が僅かな破鏡だらけで
まともに漢鏡を手に入れられないのを知らないからバカ丸出しの事を喚くんだろうなぁ
バカ九州説の脳ミソの中だと九州は大量の中国鏡をザクザク持ってる土地ってことになってんだろうなぁ
笑える<

この大和説男は、那珂八幡や一貴山銚子塚や、
筑紫から蝙蝠鈕座内行花文鏡や、平原の21枚の尚方作鏡が出土している事を、
隠している詐欺師。
0304日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 23:10:55.27
東奈良遺跡の男系はどうなったのか?

海神が石に乗っ取られるように、乗っ取られたんじゃないか?
0305日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 23:15:57.52
>>658
>九州は古い5〜6期の鏡を打ち割って細々と配って食いつないでるような状況なのになw
まぁ邪馬台国の会のバカ丸出しの「凄い沢山の中国鏡が!」とか言う図を見ただけで
浮かれてる程度のアホだから九州説になんてなるんだろうよ<


前漢鏡は、実際には「前漢式鏡であって後漢で作られた」という事は、
幾らでも有り得るから、200年も?、「細々と」という事には全くならない。
0306日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 23:16:38.89
【死せる】神々を蘇らせる神、加茂大神
0307日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 23:19:22.21
>>304
記紀にオオタタネコという末裔が登場する。
崇神天皇に系譜を問われた際、「オオモノヌシがイクタマと結婚してクシミカタをもうけ、クシミカタの子がイイカタスミで、イイカタスミの子がタケミカヅチノミコトで、その子が私」と答えている。
0308日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 23:24:10.77
三島神社の溝杭耳という名は、溝を掘り(田畑を)灌漑し、杭を打ち(淀川の)治水を行なった王(ミミ)という意味。
畿内に稲作を伝えて開拓した功労者ということになる。
三島神社の本社は愛媛県にあるが、稲作伝来の地である福岡県から瀬戸内海ルートで開拓を進めた功労者だろう。
こういう人物の名をないがしろにして土器だけ見てああでもないこうでもないと嘯く畿内説にうんざりだ。
末裔だけ取り上げて畿内が中心だと叫ぶ鴨も同レベルだ。
0309日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 23:32:12.26
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
0310日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 23:33:03.36
纒向はニギハヤヒの末裔である物部の屋敷で、前方後円墳も物部が定型化した。
神武が2世紀後半くらいに畿内にたどり着き、卑弥呼と世代が被る。
そこまでは合っている。
しかしそれは筑紫における乱の余波に過ぎない。
伊都の天孫族が2世紀に倭国乱で衰退して東征した結果だからだ。
そしてその後に伊都で倭王に即位したのが卑弥呼ということになる。
イスケヨリ姫は畿内に入植したイザナギの末裔の一人に過ぎない。
0311日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 23:39:37.30
伊都の王家が2世紀に衰退したと主張する論客がいる。
ある意味で正しい。
神武兄弟が筑紫を出て、遠い親戚のニギハヤヒを頼って畿内に向かうのだから。
神武らは大阪湾でニギハヤヒの下についていた鴨一族のナガスネヒコと衝突するが、ニギハヤヒがナガスネヒコを殺して神武と和解した。
残った王都である伊都をどうする?
最大級の国邑である奴国をどうする?
女王を共立したんだよ。
0312日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 23:53:42.34
纒向や箸墓から 
倭人伝に基く何が出たというのだ
径百歩だから卑弥呼の墓?
桃の種が3世紀だから王都?
掘っ立て柱建物が王宮だ?
各地の土器が出たから都?
・・・・・・・・・・・・・・・

短絡的な結論を押し付けるなよ
0313日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 00:03:57.48
マスコミ便乗派の「邪馬台国=畿内説」の人々は、藤村新一氏や鎌田俊昭氏と、基本的に、同じような方法を用いている。
  学問的、科学的証明や検証よりも、まず、広報活動のほうが大事であると考える。
  ジャーナリズムのほうに顔をむけ、学術誌に載せるよりも、メディアにいち早く出す。
そして、そのメディアが、一面で書いてくれるように工夫(くふう)する。
  畿内説を溺愛し、その説を世間に説得させるためには、手段を選ぶ必要はないと考える。
直接結びつかなくても、邪馬台国問題にすこしでもかすったようにみえたら、
邪馬台国と結びつけて、マスコミ宣伝の挙にでる。そして、断定的な意見を発表する。
「かすったら畿内説」主義である。
0314日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 00:06:44.69
奈良県桜井市の教育委員会の文化財課長をされ纏向遺跡の発掘調査をされた考古学者、清水真一氏は、のべている。
「大和には"巨大ムラ"がない   私は二十年間、大和の中央部・桜井市で、『邪馬台国は何処(いずこ)』とのテーマを持って、
発掘調査に従事してきた。その結果として、邪馬台国が成立して、女王卑弥呼を擁立するまでの弥生時代中・後期に、
大和には他地域を圧倒するような『ムラ』や『墓』が見られないことに気付いた。
0315日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 00:09:08.29
>>308
三島神社の溝杭耳の「みぞくい(溝を浚える)」は、今も九州方言に残る。
0316日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 00:10:55.79
桜井市には寺澤を喰わせる金はもうない
早く出ていけ
0317日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 00:20:16.06
纏向遺跡
・銅鏡、刀剣類、勾玉な、鉄製品などが出土していないなど年代を決定する決定的な出土物は乏しく、
ここに邪馬台国の王都であったと決定的なことは言えない。

・纒向遺跡は大集落と言われながらも、人の住む集落跡が確認されていない。
現在確認されているのは祭祀用と考えられる建物と土抗、そして弧文円板や鶏形木製品などの祭祀用具、
物流のためのヒノキの矢板で護岸された大・小溝(運河)だけである。
遺跡の性格としては居住域というよりも、頻繁に人々や物資が集まったり箸墓古墳を中心とした三輪山などへの祭祀のための地と考える学者も多い。


・纒向遺跡の搬入土器は北九州由来のものは非常に少なく、また半島や朝鮮との交流を示す漢鏡、後漢鏡や刀剣類などが北九州で大量に出土しているのに対し、
纒向遺跡ではまったく出土していないことから、魏志倭人伝にみる活発な半島や朝鮮との交流は証明されていない
0319日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 00:22:39.67
奈良 前方後円墳

全国的には、徳島県の萩原一号墳や鳥取県南部町の浅井11号墳、福岡市博多区那珂1丁目の那珂八幡古墳など
3世紀の前方後円墳が多数ある。近藤義郎によれば、全国の前方後円墳を築造された時期別に
畿内編年の1期から10期の10段階に分けて整理すると、最も古い1期でもっとも多いのは筑前(福岡県北部)で9基、
第二位が播磨(兵庫県)で8 基、第三位が大和で6基、以下備前、美作、備中(岡山県)、讃岐(徳島県)となっている。
さらに朝鮮には3世紀に石積みながら前方後円墳が多数ある。以上から、この地が前方後円墳の発祥地とは言えない。
0320日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 00:25:53.92
纏向遺跡のお宝は殆どない

・国の史跡 纒向遺跡

他は桜井指定の文化財だけ
・纒向遺跡出土の弧帯石
・纒向遺跡出土の弧文板
・纒向遺跡出土木製仮面・木製鎌柄・木製盾
0321日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 00:26:23.37
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
0323日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 00:27:14.41
>>317
いかにも考古学を知らないアマチュアの書いたゴミ文だな
まちがいだらけだ
0324日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 00:30:56.11
文化財指定区分なんて遺存状況とか現所有者の意向とかに大きく左右されてしまうから歴史的意義とか重要性とかとは必ずしも一致しない
0325日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 00:31:30.56
この中に犯人はいると、似非探偵が大声を上げた
マスコミも巻き込み大騒ぎ
大掛かりな捕り物をしたが鼠一匹も出て来ないのが纒向となる可能性大
0326日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 00:37:23.21
>>321
貼り付けに質問するのもなんだが
>中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 <

これいつの時代のこと?
稲作はどこから伝来した?
0327日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 00:38:18.64
と、こちらが真犯人だと探偵気取りが声を張りあげてみせたが、
検証すると、アリバイもくずせてないし、満足な物証もない
あげく「俺が真犯人認定したのだから間違いない」
0328日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 00:40:51.30
纒向はニギハヤヒ(物部の祖)らの屋敷跡がせいぜい
0329日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 00:55:58.30
真犯人だと探偵に名指しされ警察に収監され
物証も出、目撃者の面通しも終わって
新聞に実名報道もされた犯人が
わめく「俺は真犯人じゃない。東は南じゃないんだあ」
0330日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 01:05:08.18
>>315
溝食いが九州の言葉だとは知りませんでした。
ありがとうございます。
やはり三島の鴨一族は九州出身なのでしょう。
愛媛を経由して大阪に上陸し、京都から奈良(登美)に進出したのですね。
0331日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 01:26:16.83
古語は田舎に残る
0332日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 01:38:40.51
纏向に住居がないって流言飛語はどっから出たんだ?
0333日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 02:11:50.90
>>319
こういった
どこまでが有名な学者の発言で
どこからが引用者のコメントなのか
わざと判り難くした文章は
なぜか邪馬台国の怪で多用されている
0334日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 04:48:07.58
>>332
またまた
纒向に無いのは集落跡
誰も住居跡とは言ってないよ・・数戸纏向に見つかってるのは知ってるよ
0335日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 04:52:04.10
>>323
反論も出来ずに喚くだけは止めた方が良い
0336日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 04:57:41.87
>>323

>>320の桜井市指定の文化財の所有者は桜井市
桜井市は喉から手が出るほど国指定の文化財にしてほしいのでは?
県指定が採れないのも不思議だが・・このへんは良くわからないが
0338日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 05:56:24.11
>>323

>>320の桜井市指定の文化財の所有者は桜井市
桜井市は喉から手が出るほど国指定の文化財にしてほしいのでは?
県指定が採れないのも不思議だが・・このへんは良くわからないが
0339日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 05:59:34.57
間違えた

>>336
>桜井市は喉から手が出るほど国指定の文化財にしてほしいのでは? <
>県指定が採れないのも不思議だが・・このへんは良くわからないが <
申請するかどうかじゃないか
0340日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 06:02:30.32
>>335
反論された自覚がないって・・・すごいな
0341日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 06:09:38.04
>>662
史料批判も出来ず、「万世一系戦争皇国史観という結論先にありき」で、
「南→東」などの嘘吐き騙しして、思い付きだけでバカなことを言い出すから、
また恥をかく。
それが大和説 。
0342日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 06:14:05.21
>>666
>なんで畿内説に反論できないの?<

「畿内」なんて、「万世一系皇国史観」宗教に拠った、
「結論先にありき」の嘘吐き騙し文言であるし、
大和説が、「南→東」などの嘘吐き騙しの指摘に対して、反論出来なかったの。
0343日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 06:14:55.89
>>338
は?

纏向遺跡は2013年文科省告示で史跡指定されてるが?

「纒向遺跡は、3世紀初頭から4世紀初めにかけて営まれた、極めて大規模な集落跡である。」
(文化庁文化財部監修 『月刊文化財』 H25.9 「新指定の文化財」 より)
0344日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 06:16:17.01
>>668
それはね、大和説には「南≠東」に対する反論する材料がもうないからだよw。
古くから大和説の根拠(とされていたもの)は、
全て論破・否定されてしまったからね。
0345日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 06:21:34.38
>>317
>・銅鏡、刀剣類、勾玉な、鉄製品などが出土していない<
何も問題ない・・銅鏡・勾玉は墓から出土するもの  刀剣類・・都市の要件では無い
鉄製品・・纏向は農村や工業地帯では無い
>纒向遺跡は大集落と言われながらも、人の住む集落跡が確認されていない<
纒向は政治都市 主君さえ住んでいればそれでよい その他は参上するだけ
>纒向遺跡の搬入土器は北九州由来のものは非常に少なく・・・<
交易の中心は九州ゆえ問題ないそのために役人を九州に置いている 王都に海外のものを見せびらかす必要はない
0346日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 06:28:37.50
>>342
そりゃあ、ここは畿内説のスレだからな
大和説とかの人は反論しないだろ
ここにいないから

それがどうした?
0347日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 06:30:31.28
>>310
>しかしそれは筑紫における乱の余波に過ぎない。
>伊都の天孫族が2世紀に倭国乱で衰退して東征した結果だからだ。

何を言ってるんだか…
せっかく前文まではよかったのに。
0348日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 06:31:22.75
>>668
>(位至三公鏡)「畿内の中心部では出ない(少し出るが)」「これが辺縁や九州では多く分布する」と言う事は
「大和朝廷から格下の地方に配られた程度の低い鏡」と見る方が自然<

大和朝廷など、存在もしなかった嘘吐き騙し文言。

>大和朝廷の鏡配布と序列の証であって邪馬台国の証拠などとなり得ない<

邪馬台国も、存在もしなかった嘘吐き騙しの捏造文言。

「位至三公」とは、始めから皇帝や神や仙人というトップになる事が有り得ない、
と思われる身分の人を対象にして造られた鏡であった事が自明であり、
明帝の下賜鏡の中に含まれていた可能性もあるが、
呉系楽浪鏡師らが造った可能性の方が高い。
0349日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 06:32:30.51

絹は贈り物として与えるものでその生産地と流通や貯蔵場所が違っても可笑しくない
例 田んぼにコメはばらまかれていない 牛舎があってもそこで牛は食わない
古代の人間が絹織物を皆着ていたとは考えられない 以木緜招頭 以木緜招頭
0350日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 06:34:14.66
>>344
いくら反論されても見えないフリ
それが九州説唯一の生きる道か
0351日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 06:43:25.89
>>671
>三角縁を見ても、古墳を見ても九州と言う土地が物凄く低い地位に置かれてるのがよく分かるな
大分や宮崎の瀬戸内海方面の方が扱いが良い<

△は始めから明帝下賜鏡出は有り得ず、ランクは下であり、
渡来して来て西日本にも流浪した呉系楽浪鏡師らが広めたもの。
前方後円墳は、筑紫の那珂八幡などが先行。

>出てくる鏡もこの序列そのままなので鏡の分布評価は大和朝廷の意思とみる方が正しいだろうな <

大和朝廷なんて、「皇国史観」という「結論先にありき」の嘘吐き騙しの宗教的捏造文言であるから、×。

>古墳から出るこんな低評価鏡を200年から300年も前の邪馬台国の証でございますとか流石に失笑しか出ない三角縁を見ても、古墳を見ても九州と言う土地が物凄く低い地位に置かれてるのがよく分かるな
大分や宮崎の瀬戸内海方面の方が扱いが良い<

大分宮崎瀬戸内も、筑紫倭国の「征伐」対象。

>出てくる鏡もこの序列そのままなので鏡の分布評価は大和朝廷の意思とみる方が正しいだろうな<

大和朝廷そのモノ存在しなかった。

>古墳から出るこんな低評価鏡を200年から300年も前の邪馬台国の証でございますとか流石に失笑しか出ない<

3世紀末までは鏡が全く存在しなかった大和など、失笑を禁じ得ない。
0352日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 06:50:53.94
>>674
>「自郡至女王國 萬二千餘里」のうち 伊都国まで1万500里の一里の現代距離と根拠で解説願いたい
(各説 伊都国は北部九州ーー異論があれば異論に従い) 方位・距離とも 倭人伝は間違いと言う方は結構です
倭人伝の一里とは何M? 👀<

郡から伊都国までの国間距離記載の合計は、簡単だから、自分で足し算しな。
・・・・大和説者の「お願い」なんて、相手にしても時間の無駄。
0353日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 06:52:41.20
>>351
理由も言わず断定ばっかりしてる
お前こそが

「結論先にありき」の嘘吐き騙しの宗教的捏造文言爺さん

だろ
0354日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 06:53:39.11
>>676
結局「南→東」などの嘘吐き騙しの「皇国史観」大和説の・・・・バカは、
「ぼくちゃんのかんがえたすごい行程」を無根拠に喚き散らすだけと。
0355日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 06:54:16.40
>>352
zarakokuさん
根拠がないでの解説できませんって素直に言えば?
0357日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 07:00:56.26
>>677
現実は、大和には3世紀末までは、鏡もない、絹もない。
あるのはあからさまな田舎の姿大和。
そして、時間や時期を誤魔化そうが、
九州倭国の「東征毛人五十五國」に飲み込まれ、その手伝いで、
物凄い低い地位から、少し脱出出来た、
惨めな大和の現実だけしか浮かんでこない 。

もう脳内の「偉大なる大和王朝」とか言うキチガイ沙汰を叫ぶようになって、
国民に見放された。
0359日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 07:36:51.18
大和はダイワとしか読めない
0360日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 07:44:50.73
無学だからな
0361日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 08:01:29.31
どういう経緯で奈良県が大和と書かれるようになったか
とか、九州説のじーちゃん達は全く知識ないんだろうか
0362日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 08:14:23.84
九州説ってクズ説としか読めない
0363日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 08:15:39.29
天武朝の時に、ヤマトを改めて奈良という地名を何でつけたんだろう
0364日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 08:34:33.91
大倭を大和に書き換えたんだろ。
でもそもそも倭が九州を意味していたから、さらに日本に書き換えた。
0365日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 08:37:12.77
>>357
田舎だった畿内に外部勢力が入植したのだろう
鏡や鉄が唐突にあらわれるからね
次第に纏まり中心地はこの地域になっていく

しかし、その入植時期は卑弥呼の後
倭人伝とは関係ない
0367日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 08:40:49.96
>>690
「万世一系戦争皇国史観」という宗教大和説者は、
「南→東」や「畿内なんて存在もしない」」などという、
史料事実の否定曲解に対しの批判に対して、無視する、という脳のオバカさんであり、
知識は皆無の初歩のアンチの九州説なのだよ。」
論などは皆無。
0368日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 08:44:30.27
>>364
>でもそもそも倭が九州を意味していたから

それは、ない。 
倭とは、大国の主が大国を敷いた地=日本唯一社「倭大国敷神社」「倭大国魂神社」が在る倭国(阿波)と何度言えばw  @阿波
0369日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 08:55:45.03
>>691
>ザラコクは 回転が遅れるな 話題が変わっても過去レスに言いがかりをつける
書き込んだ奴も他も誰も読んでねーよ<

勿論私は、「万世一系戦争皇国史観」の「南→東」などの嘘つき騙しにクルった・・・・大和説詐欺師など、
議論など無駄で無意味である事は重々承知しており、
大和説に騙されている「国民の3割」がもうこれ以上増えないように、
国民に向かって、大和説の嘘つき騙しを暴いて知らせておく事が目的。
0370日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 08:59:31.30
>>695
>魏志倭人伝では 九州の特に北部は邪馬台国に関係なし<

邪馬台国なんて存在しないし、
唐会要倭国伝の「正北抵新羅」に拠って倭国は北部九州であり、
大和は、「南≠東」などに拠っても、×。
0371日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 09:03:24.15
>>365
賛成
0372日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 09:05:17.14
大和の勢力(あえて畿内とは言わないでおく)が奈良盆地から外に影響を与えるのは、崇神を待たなくてはいけないだろうね。
0373日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 09:09:37.31
>>372
>大和の勢力(あえて畿内とは言わないでおく)が奈良盆地から外に影響を与えるのは、崇神を待たなくてはいけないだろうね。

崇神期の奈良にそんな力は、ない。
奈良盆地から外に影響を与えるのは、遷都後の8世紀から。  @阿波
0374日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 09:11:55.75
>>704
>「一般的な墓と比べても平原1号墓は大きくない」ってこと
そんな王墓はないし考える必要はない<

など魏の薄葬令。
魏の臣下になったもの程、表面的な見た目のサイズは大きく出来ない。
しかし、中の墓などや副葬は豪華にする事が出来る。

>示した墓は「あなたの示した大きな墓」じゃなくて、
誰がどう見ても庶民の普通の「けして大きくもない墓」だよ
平原1号墓はそれとどっこいか、またはより小さい<

明帝の下賜の鏡が元になった「尚方作」鏡があるから、副葬品は天下一品。
0375日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 09:16:33.26
なんで九州説はいつも
理由をヒトコトも言わないの?
0376日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 09:16:40.30
>>708
>>(倭人伝記載の里数)魏使らにお付きの魏の役人たちだったの。<

>魏の役人が、魏の皇帝が決めた魏尺の度量衡以外の単位で計るはずがないな
つまり短里説はここに終わる訳だww<

魏の初代文帝やその重臣たちが、魏の里は、周制への復古で、周髀算経の一寸千里を採用する事になったから、
魏の里は、短里であったの。
0377日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 09:17:40.99
大きな古墳が作製されただけの、纏向遺蹟とは、何だったのだろうか。。。
0378日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 09:19:24.17
>>377
集落が無いということは、墓場にとって、必然ではないのではないのかな。。。
0379日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 09:23:13.46
>>378
>集落が無いということは、墓場にとって、必然ではないのではないのかな。。。

平原も同じなのではないのかな。。。  @阿波
0380日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 09:26:38.99
>>721
>なら、「『高墳』である古墳」が「冢」と呼ばれることに何の疑問もないな?
今まで何をグダグダ言ってたんだかww <

いや、「冢は、高い、という事を感じる形容を付けるべき墳である」
のだと言っているのであり、
「平べったい形を拒否している」事になり、
孔明の遺言の
「墳の山のように大きい感じよりは、冢は棺を容るるに足る小さいもの」
という表現とほぼ一致するの。
0381日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 09:29:17.77
熊本城の城下町には、集落の遺蹟が多く発掘されたな。。。
0382日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 09:30:19.52
>>381
卑弥呼の王城が、あったのではないのかな。。。
0383日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 09:34:07.70
畿内説を宣伝する係員が、また、知識を格納する頭の部分を腐らしていることを公表したな。。。

361日本@名無史さん2018/10/04(木) 08:01:29.31
どういう経緯で奈良県が大和と書かれるようになったか
とか、九州説のじーちゃん達は全く知識ないんだろうか
0385日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 09:37:15.14
>>383
そうだね、、、
奈良県が大和と書かれるようになったのではなく、大和を奈良県に変換したのだったな。。
0386日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 09:39:17.65
大和は水中にあったのではないのかな。。。。
0387日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 09:50:00.36
>>735
>>太平洋漂流水行も、紀伊山地の大山越え遭難陸行も書いていないし、
瀬戸内を通ればすむんだから、そんな(人類の常識外れの)ルートを選択するバズもないし、
結局「東」に行った、と言った事になるんだから、 ×ね。 <

>⇧ 水行も陸行も倭人伝では詳細に記述されていないよ 
何かあったかも知れないが記述されてないものを持ち出すの?<

投馬國は、魏使らが移動した説明がなく、側副傍線國説明であるから、
倭人からの伝聞情報であり、
水行十日陸行一月の説明対象は、その直前文言の「女王之所都」に対する説明であるから、
郡から女王之所都の所要日数説明であり、
更に不彌國で、
萬二千余里が(折れ線的道のり里数として)ほぼ消費されてしまっているので、
邪馬壹國は、不彌國の直ぐ南にある事になる。
0388日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 09:52:47.78
>>380
アンタ、原文をまるで読んでなくてデタラメ言ってるだろ
0389日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 09:56:41.96
>>387
>投馬國は、魏使らが移動した説明がなく、

「水行」って書いてあるよ
0390日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 10:08:15.99
里程がないから、まさに倭人からの伝聞ですね。
0391日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 10:14:24.42
>>390
根拠は?
0392日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 10:17:27.79
>>387
>不彌國で、萬二千余里が(折れ線的道のり里数として)ほぼ消費されてしまっているので、

そんな無軌道な消費しといて
まだ
「会稽東治之東」が正しい
と言い張る説は
確実に詐欺だな

w
0393日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 10:22:58.00
>>392
「会稽東治之東」
短里で書かれた報告書を長里で 読んでしまったためだろ。
0394日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 10:24:07.51
>>276
>主語はあくまで2世紀前半から続く男王の其の国。
>それは卑弥呼を「共に立る」まで変わらない。

このひとがバカすぎて相手をしていられない

「その国」は「国」であって、「男王」でも「男王の家系・一族」でもない
       ↑
     具体的な説明

話のすり替えているのは、>>276であり理由はバカだから
0395日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 10:33:50.59
>>393
なんで?
そんな誰も知らない単位で
誰が誰に報告するんだ?
0396日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 10:34:28.45
>>288
>はい、説文解字は、「墳と冢の端的な違いは、高さ」である、と言っており、
>孔明の、
>「墳は山のように大きく広く高い」と「冢は棺を容るるに足る程度の低く小さいもの」
>という説明と一致する。

原文を確認してから書きこめよ
説文解字の「冢」の説明が「高墳也」なんだから、
ザラコクの書き込んだ
墳=高冢 が大間違いのでたらめで
冢=高墳 なんだよ
つまり、冢が墳の中でも高いもの、というのが説文解字に書いてある内容

諸葛亮の葬漢中定軍山遺命の「因山為墳、冢足容棺」は、
「山に因りて墳となし」=「山を墳に見立てて」
「冢は棺を容れるにたる」=「冢は棺が入る程度の小さなものにしなさい」
という意味
0397日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 10:39:06.63
>>300
>東武庫なら兵庫?なんだろうから、全く関係がない。

そのまったく関係がない遺跡の方形集溝墓と、同じ大きさしかないんだよ
平原1号墓はね
東武庫遺跡に倭王が居たとは言わないだろ?
そのレベルの首長、族長の墓が平原1号墓なんだよ
0398日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 10:42:27.71
首都圏は手狭なんだよ。
田舎と同列にするな。
0399日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 10:44:07.96
>>328
>纒向はニギハヤヒ(物部の祖)らの屋敷跡がせいぜい

やたらに物部を言う人がいるけれど、
物部氏の本願地が石上だってのは分かってるんだろうか
0400日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 10:46:57.77
>>398
このように
九州説は嘘に嘘を重ねる

逮捕されて取調中の犯人のようだ
0401日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 10:49:32.43
>>364
>大倭を大和に書き換えたんだろ。

これは正しい
倭→大倭(えらそうにするため)→大和(よい字にするため)
読みは全て「やまと」だよ

>でもそもそも倭が九州を意味していたから、さらに日本に書き換えた。

これはウソ
倭は倭人の住む範囲
対馬も佐渡も本州も四国も、皆倭種だよ
九州ももちろん倭の「一部」
0402日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 10:53:29.94
>>375
>なんで九州説はいつも
>理由をヒトコトも言わないの?

それはね、理由が一つもないからだよ
九州説がかつて根拠だと思っていたものも、既に全て否定されているしね

ひと頃は、伊都国の「都」の字は、「先王の廟があるところ」の意味で、
三雲南小路遺跡に古い王墓があるから伊都国が卑弥呼の都ってマジで言ってたんだよw
0403日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 10:54:16.77
>>739
>俺は音読そのまんま説です。
邪馬台国 ← ヤマト国 ← 今の奈良県の事。<

ウソを付くな。原文は「邪馬壹國」であり、
「邪馬壹國→邪馬臺國→邪馬台国→ヤマト→大和」は、
史料事実の否定曲解改竄そのものだ。

>狗奴国 ← クノ(クヌ)国 ← 今の静岡県から関東一帯の事。<

勿論これも、「南→東」の嘘つき騙しであり、×だ。

>卑弥呼の宮殿は明日香の石舞台古墳に隣接する広場あたりにあったようで、
やはり箸墓の可能性が高いと思います。<

勿論、「南≠東」に拠って、可能性は全くなく、×だ。

>卑弥弓呼の墓は当時の東日本最大規模の沼津市にある高尾山古墳の可能性が
高いだろう。<

この男も、口先騙しの大和説の・・・・詐欺師であった、という可能性が高いだろう。
0404日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 10:57:19.72
>>380
>いや、「冢は、高い、という事を感じる形容を付けるべき墳である」
>のだと言っているのであり、

つまり、「高いということを感じる墳」である前方後円墳は「冢」と表現されてしかるべし、
ということで何も問題ないな

つまり「大作冢徑百餘歩」という卑弥呼の墓の表現は、前方後円墳他の古墳に
ぴったりの表現ということだ
0405日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 10:58:29.96
>>747
>博多(旧名儺県、奴国)
 ↓
宇美町?(不彌国)
 ↓
水行20日、鞆の浦(投馬国)
 ↓
水行10日、陸行1月で奈良(大和、邪馬台国) <

「南≠東」などに拠って×。
この大和説男も、安部文部省らに忖度する犯罪者。
0406日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 10:59:20.93
>>393
>短里で書かれた報告書

そんなものはない
あると証明も論証もできず、状況証拠すらない妄想の産物だよ
0407日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 11:00:33.63
後漢書だと、倭とは朝鮮半島南岸の狗邪韓国から、九州北部の倭奴国までだけどね。
0408日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 11:00:58.51
>>406
つ 魏志倭人伝
0409日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 11:13:52.04
>>758
>日本海経路の方が蓋然性が高い
記紀の扱いからも、倭国第二の大国が出雲だと想定されていた形跡がある
オレの私案だから、みんながこう思っているというものでもない
距離はヤフーマップで適当に直線(折れ線)で計っているから適当・・・<

出雲も大和も、「南→東」などの嘘つき騙しをしているから、
この男も、忖度大和説詐欺師であり、×人間。
0410日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 11:17:08.62
つまり、纏向遺蹟は、普段は無人の墓場だったと判明したなw
0411日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 11:17:21.33
>>764
大和説者らは、安部文部省や学会教育界への忖度脳減る症の、
「南→東」まどの嘘つき騙し病を患っているようだがな。
0412日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 11:18:30.99
>>410
お盆には、賑わっていたのではないのかな。。。。
0413日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 11:18:48.04
>>408
トンデモ読みで架空の単位なんか作ったらダメだよ
0414日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 11:20:13.74
なぜ、崇神天皇は高句麗人の墓の作製方法を模倣したのだろうか。。。
0415日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 11:20:50.13
>>769
大和説は、
安部文部省やキョクウテロ組織の「ナントカの教科書の会?」みたいな、
組織ぐるみでやっているのか?。
0416日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 11:21:38.07
>>410
なんの理由もなく突然
「つまり」とか結論を言い出すのは
正常な人のすることでない
0417日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 11:22:31.28
>>414
天皇家の祖先が、奈良盆地を占領したときに、そこには高句麗人が作製した、頑丈な前方後円墳があった可能性があるな。。。
0418日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 11:25:16.96
>>770
>恐らく日数は里数と同じく不正確
水行、陸行はするだろうけど <

魏使らが記録した「水行十日陸行一月」は、
当然行程記録を元にしているから、大体正確。
倭人からの伝聞記録の「水行二十日」は、友好数詞1桁程度の概数。
0419日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 11:25:54.12
>>417
崇神天皇は、捕獲した原住民に、祖父の妹の墓を、頑丈に作製させるために、高句麗人の前方後円墳を模倣したのではないのかな。。。
0420日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 11:30:33.47
>>410
纏向遺蹟が、普段は無人の墓場だったと判明したので、次の研究は、神武天皇がなぜ九州から奈良盆地にやってきたかを、究明の目標にすれば良いのではないのかな。。。
0421日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 11:31:06.96
>>774
>陸行は関係ないな <


当然、行程記録を取っているから、関係大有り。

>いずれにせよ誤認したからしょうが無い 文句は魏の使いに言え<

記録や計測を取った里数や日数や方向は、大きな誤認がある筈もなく、
この男も、安部文部省やキョクウの学会に「忖度」した精神的な異常者。
0422日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 11:32:02.69
つまり、畿内説を宣伝する係員は、知識を格納する頭の部分を腐らしているのだな。。。
0423日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 11:32:35.44
>>421
理由もなく「筈がない」って、アホですか?
0424日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 11:36:01.64
>>421
>この男も、安部文部省やキョクウの学会に「忖度」した精神的な異常者。

そんな発言を毎日何十となく書き込んでるような人を
逆に世間は精神的な異常者だと考えるよ
0425日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 11:38:18.63
畿内説を宣伝する係員の「キナイコシ」が、また頭の悪さを公表しているのではないのかな。。。

423日本@名無史さん2018/10/04(木) 11:32:35.44
>>421
理由もなく「筈がない」って、アホですか?
0426日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 11:41:47.66
>>425
そうだね、、、
破綻した畿内説を宣伝する係員の「キナイコシ」に、記録や計測を取ったからという、大きな誤認がある筈もないことの理由を、読み取るための脳が無かったのではないのかな。。
0427日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 11:41:49.46
>>780
>短水行と短陸行は5分の1だから 水行20日の所は4日 陸行1月の所は6日<

これも×。
日数は、魏使らも倭人も記録出来るから、間違えない。
里数は、倭人は知らないから記録出来ないが、魏使らは、計測記録出来た。
0428日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 11:43:37.99
魏志倭人伝を翻訳すると、魏の使いが、里数や日数や方向の記録や計測を取ったということが、判明したな。。。
0429日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 11:44:11.89
>>782
>九州説は魏使が魏使がと言っているけれど
最終的に魏志倭人伝を書いたのは陳寿という事をお忘れなきよう<

陳寿は、倭地にまで来ていないから、魏使らの記録を参照するしかない、
という事をお忘れなきよう。
0430日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 11:45:19.72
>>428
破綻した畿内説を宣伝する係員の「キナイコシ」は、魏志倭人伝を翻訳することに、失敗した可能性が99.5%あるな、、、
,
0431日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 11:48:45.37
>>787
大和説は、当然安部文部省やキョクウ学会に忖度した、意図的に一生忖度したガチ・・・・詐欺師だろう。
みんな内心どう考えても畿内だよなと理解している
0432日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 11:52:40.19
>>427
計測なんてしてたら、短里とやらの12,000余里で会稽になんか届かないの、分かるでしょ?
0433日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 11:56:08.53
破綻した畿内説を宣伝する係員の「キナイコシ」は、魏志倭人伝を翻訳することに、失敗したので、12,000余里が、帯方郡から会稽までの距離だと誤認したのではないのかな。。。

432日本@名無史さん2018/10/04(木) 11:52:40.19
>>427
計測なんてしてたら、短里とやらの12,000余里で会稽になんか届かないの、分かるでしょ?
0434日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 11:57:09.08
>>431の訂正(最近PCが非常に調子が悪くなっている)
大和説は、当然安部文部省やキョクウ学会に、
意図的に一生忖度したガチ・・・・詐欺師だろう。
みんな内心どう考えても、理屈では九州説だよな、と理解している、
と思うよ。
0435日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 11:57:27.70
>>431
そうだよ
みんな内心どう考えても畿内だよなと理解している

九州説さん、そういうことでしょ?
0436日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 11:57:53.04
>>433
僕たちの翻訳では、12,000余里は、帯方郡から女王国の入り口までの距離だったな。。。
0437日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 12:00:52.16
>>436
つまり「会稽東治之東」とはっきり書かれている倭人伝と矛盾する九州説は
間違いと確定してる
0438日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 12:05:09.50
九州説はいつも支離滅裂だなー
0439日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 12:05:53.78
>>436
12,000余里ではなく、12,000里だな。。。
0440日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 12:11:08.26
>>439
そうだね、伊都国と奴国の境界が12,000里で、奴国からが女王国だったのだね。。。
0441日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 12:11:46.74
(帯方郡から)南に10日航海し、(末盧国から)陸路を1月行くと女王が都にしている所である(後に、熊本城が建てられた)邪馬壹国に至る。
官は伊支馬、彌馬升、彌馬獲支、奴佳鞮といい、70000戸あまりあるようだ。。
女王の国とそこから北の地域は、その戸数や道や里の様子は、おおよそ書き記すことができるが、その他のかたわらの国は遠くて交流も絶えており、詳しく書き記せない。。。
(帰りに宿泊するのは、邪馬台国の)次は斯馬国であり、その次は巳百支国であり、その次は伊邪国であり、
その次は都支国であり、その次は彌奴国であり、その次は好古都国であり、
その次は不呼国であり、その次は姐奴国であり、その次は對蘇国であり、
その次は蘇奴国であり、その次は呼邑国であり、その次は華奴蘇奴国であり、
その次は鬼国であり、その次は為吾国であり、その次は鬼奴国であり、
その次は邪馬国(八女)であり、その次は躬臣国であり、その次は巴利国であり、←邪馬国(八女)に注目、、、、
その次は支惟国であり、その次は烏奴国であり、その次は(帯方郡からの道里を前述し、示した)奴国である。
これが女王の境界が尽きるところである。。。
その(女王の熊本城のすぐ)南に狗奴国があって、男子が王になった。
その官には狗古智卑狗がある、、
女王に服属していない、、、
0442日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 12:11:58.18
>>434
>最近PCが非常に調子が悪くなっている

PCは調子いいけどおまえの頭が悪いだけ。
0443日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 12:14:02.11
>>440
そうだね、伊都国と奴国の境界が12,000里で、奴国が女王の境界が尽きるところだったのだね。。。
0444日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 12:14:28.71
>>399
>物部氏の本願地が石上だってのは分かってるんだろうか

それ4世紀以降。
纏向は3世紀。
0445日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 12:17:59.65
>>444
三世紀に物部氏なんて存在しないだろ
0446日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 12:18:15.86
>>394
>「その国」は「国」であって、「男王」でも「男王の家系・一族」でもない
       ↑
     具体的な説明

馬鹿はおまえ。
国には王がいるだろ。
其の国は男王が続いてたが一時期女王になったというお話。
なに言ってるの?
小学生以下だな。
0447日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 12:21:48.84
畿内説を宣伝する係員が、魏志倭人伝を翻訳することから、討論の話題を変換しようとしているな。。。
0448日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 12:24:27.78
>>446
国が乱れてるときに王がいたとか、倭人伝にはひとことも書いてないね
0449日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 12:24:49.20
>>447
破綻した畿内説を宣伝する係員の「キナイコシ」は、魏志倭人伝を翻訳することに、失敗したことを公表されたくないのではないのかな。。。
0450日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 12:26:51.49
倭国もまた中国のようにもとは男子を王とし、その状態が七、八十年続いたが、国は乱れ、互いに攻め戦い、年を経た。
こうした後、女子を共に立て王とした。
名は卑弥呼といい、亡霊に仕え、路上で民衆を惑わすことができた。。
すでに高齢で、配偶者はないが、弟があって、国政を補佐した。。。。
王となってからは、会見した者は少ない。。。。
女が千人、自分たちの意思で奴隷となって仕えている、、、
ただ一人だけ男子がいて、飲食を給仕したり、言葉を伝えたりと、女王の居る所に出入りしている。。。。
宮室、楼観、城柵が厳重に設置され、常に、人がいて、武器を持ち守衛している。
女王国の東から千里余り海を渡ると、再び国(四国)がある。。。
皆、倭人の種類だが、また侏儒国があり、それは(四国の)南側にあって、人の長さが3、4尺なのだ。。。
女王の元を去って四千里余りだ。。。
また、裸国と黒歯国があり、同様に(女王国の東から海を渡る)東南にある。。。
航海して1年ばかりかかる。。。
謁見して倭人の地の絶えているところを問うと、海の中の州や島の上にあって、絶えたり、連なったり、巡り廻って5千里、(と答えがあった)、、、
0451日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 12:31:02.81
熊本城の目の前の海岸から、マッチョな倭人が船で漕ぎ出せば、黒潮に逆らって、沖縄まで言ったのではないのかな。。。
0452日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 12:32:10.41
>>451
卑弥呼に謁見して倭人の地の絶えているところを問うと、海の中の州や島の上にあって、絶えたり、連なったり、巡り廻って5千里、というのは、沖縄のことではないのかな。。。
0453日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 12:32:52.00
>>450
稚拙
0454日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 12:34:32.44
>>452
魏志倭人伝の製作者が、その道のりを計算すると、まさに、会稽の東側の、治められている土地の、、東にあるはずだ、と発表したことは、正しかったのだな。。。
0455日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 12:34:57.91
帯方郡から、女王国までは、12000里。。。
男子は身分に関係なく、顔も体も削って飾っている。
昔からその方、倭人の使者が中国に来るたびに皆が自らを周代の役職である大夫であると言った。
(中国古代の王朝である、)夏后(の王、)少康の子は会稽の領主に任じられると、髪を切り、体を削って飾り、サメやウミヘビに害されることを避けた。
今、倭の海岸の人達は潜って魚や蛤を捕ることを好み、同様に、体を削って飾り、シャチ、水鳥が近づくことを防いでいる。
後に段々、それが飾りのためだけになった。
諸国の刺青はあちこちで異なり、ある国では左にし、他では右にし、また他では大きく、ほかでは小さく、尊卑によっても差がある。
その道のりを計算すると、まさに、会稽の東側の、治められている土地の、、東にあるはずだ。
0456日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 12:36:47.78
熊本城の目の前の海岸から、マッチョな倭人が船で漕ぎ出せば、黒潮に逆らって、沖縄まで行くことが可能だったというのは、国家機関の研究発表だったな。。。
0457日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 12:38:08.12
倭人とは、マッチョな船乗りだったということが、国家機関の研究発表だったな。。。
0458日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 12:40:29.22
>>457
マッチョな船乗りとは、別の、骨格の民族も日本にいたのではなかったのかな。。。
0459日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 12:43:26.88
>>458
マッチョな船乗りとは別の骨格の民族は、倭人に捕獲されて奴隷にされていた可能性があるな。。。
0461日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 12:56:57.62
マッチョな倭人たちによる船の運転は、魏志倭人伝の製作者に発見されていた可能性が高いな。。。
0462日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 12:58:36.14
破綻した畿内説を宣伝する係員の「キナイコシ」が、論破されてしまって、発狂したのではないのかな。。。

460日本@名無史さん2018/10/04(木) 12:53:24.67
またも論破されちゃった九州説が必死でスレを流してるな

ww
0463日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 13:00:35.22
>>462]
そうだね、、、、
破綻した畿内説を宣伝する係員の「キナイコシ」が、論破されてしまって、発狂したときの特徴を、丸出しにしているな。。。

460日本@名無史さん2018/10/04(木) 12:53:24.67
またも論破されちゃった九州説が必死でスレを流してるな

ww
0464日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 13:06:06.08
>>457
この国家機関の研究が進行していけば、倭人が存続していた倭国がどこにあったのか、自ずと判明するのではないのかな。。。
0466日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 13:30:03.48
倭人伝の倭人の風俗では葬儀の際に土を盛って塚を作ると簡単に紹介されている

そして卑弥呼の死に際して「大いに」そして「経百歩」とサイズについて言及している
前段で土を盛って塚を作ると書いている上で敢えて別にサイズについて言及している
それまでの墓とは隔絶した「土を盛って作った」墓が作られたと分かる

つまり卑弥呼の生前の方形周溝墓や方形台状墓ではなく、その頃に初めて現れた古墳についての記載だと理解できる
0467日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 13:37:36.68
方形周溝墓はありふれた墓で、方形台状墓も大陸と付き合いの盛んな近畿北部に多く分布している
既知の墓とは別個にサイズについて記載される土を盛って作る墓となると古墳を指していると理解できる
0468日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 13:39:43.30
つまり、大きな古墳が、熊本城の地下に埋もれてしまったのだね、、、
0469日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 13:42:52.23
>>458
魏志倭人伝では、大きな古墳と一緒に100歩分の道を製作したと発表したのではなかったのかな、、、
0470日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 13:43:23.58
>>445
物部氏の祖のニギハヤヒはすでに大和にいたはず。
0471日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 13:44:48.15
正始八年、太守として王頎が役所に到着した。
倭国の女王の卑弥呼と狗奴国の男王は交わったが、卑弥(弓はミドルネームではないのかな、、)呼がありのまま過ぎたため仲良くできなかった。。。
倭国は載烏越等を派遣して郡に詣でて、(二人の不仲が原因で女王国と狗奴国が)互いに相手を攻撃している状態だと説明した。
塞曹掾史張政等を派遣して、皇帝の意思表示の文書と黄い軍旗を与え、(卑弥呼に)拝謁した。
難升米を利用し、触れを出し、(争っている兵たちに相手を攻撃するのをやめなさいと)告げて諭した。
卑弥呼は、死ぬので、先に、塚と(熊本城からその塚までの)道を100歩分あまり作り、徇葬者として女の奴隷を百人(選び)、(狗奴国の)男王を(倭国王として)立てた。
国中が(男王に)服さなかった、、、、
更にお互いを咎めて殺しあい、当時、千人あまり殺した。
ふたたび(女王として)、卑弥呼の十三歳の娘の壹與を立てて王とした。。。。
国中がついに安定した。
政等はお触れをだして、壹與(が王であること)を告げて、(人々に)諭した。
壹與は倭の大夫である率善中郎将の掖邪拘等二十人を派遣した。
政等が還るのを送らせることで、土台のしっかりした非常に高い建物にも詣いらせた、、、
男女の奴隷三十人を献上し、白い玉を五千孔、青い大きな勾玉を二枚、(織り込まれた)文が雑に異なる錦を二十匹、貢いだ。。。。
0472日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 13:44:54.42
>>467
奈良は畿内の中でも特別後進的で閉鎖的な地域で、大陸との交流の痕跡もない。
0473日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 13:45:12.66
>>469
径百余歩に苦しむ九州説
0474日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 13:46:59.78
>>472
専門の学者と正反対のことを言う素人
それが九州説
0475日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 13:47:45.71
>>472
専門の学者と正反対のことを言う素人
それが九州説
0476日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 13:47:46.55
女の奴隷の百人や、男女の奴隷三十人は、どこで捕獲したのだろうか。。。
0477日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 13:49:38.12
径百余歩は、熊本城の地下に埋もれてしまった古墳の大きさを示している可能性も高いのではないのかな。。。
0478日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 13:52:44.85
径百余歩は、何mなのだろうか。。。
0479日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 13:54:09.01
>>478
熊本城の地下に、簡単に格納されてしまうのではないのかな。。。
0480日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 14:04:28.46
冢:高墳也。
墳:墓也。

これが説文解字の墳と冢の説明
墳が単に墓の事を指しているので冢は「高い墓」と言う事になる

方形台状墓は丹波周辺に弥生時代後期から見られ、四隅突出型なども弥生時代中期末から見られる
これ等の地域は古くから大陸との交流の痕跡が多く見つかっており、卑弥呼の生前の墓制

また中国においても皇帝墓などは台状や円錐状の大きな盛り土墓であるために、殆ど地表面と変わらない高さの方形周溝墓を「冢」と称するとは考えにくい
大陸でも見られる殆ど盛り土をしない方形周溝墓などではなく倭人の習俗として描いている塚は方形台状墓、四隅突出型が適格だと言える

そしてこれらの前時代の墓を超える卑弥呼の墓とはこの時期に登場した古墳であることが明らかとなる
0481日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 14:06:08.61
>>446
>国には王がいるだろ。
>其の国は男王が続いてたが一時期女王になったというお話。

その女王を共立したのが、前王でも男王でも男王の一族でもなく、
その国の有力首長層の談合だっていう話

国=王じゃない
たぶん、>>446は頭が悪いんだと思う
0482日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 14:11:03.21
>>481
たぶんじゃなくて確実に
0483日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 14:22:08.79
>>481
>その女王を共立したのが、前王でも男王でも男王の一族でもなく、
>その国の有力首長層の談合だっていう話

あほかw
前王権が滅んでないならその王権の中から女王を選ぶだろ。
そうしないのなら前王権は断絶という事になるがそんなことは魏志のどこにも書かれてない。

>国=王じゃない

国イコール王なんて一言も言ってないが。

こいつ小学生以下だわwww
0484日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 14:25:06.83
男王を出していた王権が弱り、女王を出したってだけの話。

いつどこに王権が断絶したなんて書かれてるんだよ。

こいつ>>1は知的障害かw
0485日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 14:27:40.03
頭の悪い人と、思い込みの強い人というのは結構カブるね
自分の主観を絶対視しちゃって立証の必要性に思い及ばないってこと自体が頭の悪さを表してるんだろうけと
0486日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 14:35:36.01
>>484
ほら、思い込みの強い人だ
つまり・・・
0487日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 14:42:52.70
相手が倭人伝の解釈から前王権の失墜を主張してるのではないことが全く理解できてないってことは、やっぱり頭が悪いとしか考えられないな
0488日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 14:42:53.48
思い込みではなく、ごく普通に読んで、どこに王権の断絶や滅亡が書かれてるんだ?

アホの>>1  アホのぉお>>1
0489日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 14:43:23.94
つまり、纏向遺蹟は、集落の無い遺蹟だったということなのだね。。。
0490日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 14:43:47.67
>>488
ほら、自分は普通だという思い込み

w
0491日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 14:46:31.36
>>487
>前王権の失墜

権威の失墜はあっただろうね。
でもそれは王権の滅亡や断絶を意味しない。
魏志に書かれているのは女王を出すことでなんとか継続した王権の姿だ。
0492日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 14:48:07.76
畿内説が、意味の分からない話題で、同士討ちを実行している可能性があるな。。。
0493日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 14:48:58.11
>>483
>国イコール王なんて一言も言ってないが。

言ったと同じだな
同じ倭国なら同じ王権が続いてると無条件に決め付けてるでしょ?
0494日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 14:49:33.12
破綻した纏向説を宣伝する係員の「キナイコシ」が、論破されてしまって、発狂したのではないのかな。。。

490日本@名無史さん2018/10/04(木) 14:43:47.67
>>488
ほら、自分は普通だという思い込み

w
0495日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 14:52:18.89
>>492
神社で立小便を実行した男が、破綻した纏向説を宣伝する係員の「キナイコシ」を論破してしまった可能性があるな。。。
0496日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 14:54:30.56
>>490
普通でしょ。
百人に聞きましたでもいいよ、
魏志のどこに、前王権の滅亡、断絶、そして新王権としての女王なんて書かれてるのか、
人に聞いてみ。
0497日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 14:58:39.16
>>493
>同じ倭国なら同じ王権が続いてると無条件に決め付けてるでしょ?

そりゃ続いてるでしょ、滅亡や断絶なんて書かれてないのだから。
王権の滅亡ってそれはもう大変な事だから当然魏志に書かれるはず。
0498日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 15:00:02.91
なるほどな、女王が前の男王の王統から継承した
だから九州説だと言いたいわけだ

だが男王=九州王だと言う前提で語っているがその記載はどこにもない

金印を与えた奴国としても、その奴国は特に記載のない国の一つとして書いてる
伊都国の事も邪馬台国と別記なのでむしろ確実に別な国の事だと分かる

つまり卑弥呼はどこの地域の人物だって該当することになる
そうなると複数地域の諸文化を結集して作られた祭祀遺跡、古墳を持つ畿内とその周辺の事を指していると考えても別に何にもおかしくないことになるな
0499日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 15:03:11.17
そもそも史料からは王がいたことしか判らない
連続的なヘゲモニーとしての王権があった、ということからして思い込みだろう
0500日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 15:04:34.25
>>498
>なるほどな、女王が前の男王の王統から継承した
>だから九州説だと言いたいわけだ

いや葛城だよ。
神武が大和に来た時には[王」も「神」もいたからね。
葛城にに王権がないなんて意味が分からない。
そして彼らの聖地・高天原に径百余歩の奴婢が埋葬された塚もあるし。
https://goo.gl/maps/YaahGmHNxyM2
0501日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 15:08:43.99
安帝以降に継続して朝貢した形跡も無い
王権なんて有ったかどうかも怪しいだろう
0502日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 15:12:50.21
>>500
あなたの考えを客観的に立証できますか?
0503日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 15:18:10.66
>>501
そりゃそうさ、帥升は謁見要請したとだけしか書かれてない。
謁見できなかったのだろうな。
それが倭国大乱の原因だったりしてw
0504日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 15:19:48.26
島津・・・それにしても偶然なのかな?

秦王国〜島津でしょ?

幼稚園、小、中・・・と、
同じところに通っていたんだけど

『ドリフターズ』
この島津の親戚か何かだったのかな?
0505日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 15:21:29.48
つまり倭人伝の記載からはその王とやらはどこの誰かも分らん存在と言う事だな

強いて言うなら奴国も伊都国も別口として書いてるから除外されると言うのは確実だな
0506日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 15:22:57.28
>>503
1が書いてるけど「帥升等」だからね
国王とその他大勢の差があんまりない
「等」だぜ
倭国王じゃなくて「倭の主帥の升さんたち」だって説もあるくらいだ
0507日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 15:24:57.95
>>502
できるよ。
根拠は中平銘鉄刀。
 故・金関 恕(かなせき ひろし)氏が奈良県天理市和爾の東大寺山古墳から発見した「国宝」中平銘鉄刀。
金関さんは2017年3月の考古学雑誌で、この刀は卑弥呼の五尺刀ではないかという見解を言われてる。
また橿原考古学研究所の指導研究員だった和田萃さんも和邇氏の系譜に卑弥呼がいるのではと言われてる様だ。
仮にそうだとして、謎の豪族・和邇氏と卑弥呼の関係が分からなかった。

解いたのはわしだ、まいったか。

   事代主
     ┣━━━━━━━┓
   天日方奇日方(鴨王) ヒメ踏鞴━━神武
     ┣━━━━━━┓
     建飯勝    渟名底仲媛━━ 安寧
     ┃            ┃
    建甕尻          息石耳    ※ヒメ踏鞴(248年没)
     ┃            ┃
    豊御気主         トヨ津━━ 懿徳
     ┃              ┃
   大御気主             孝昭
     ┃              ┃
    阿田賀田須        天足彦国押人命
                   ┃
                和邇日子押人命

2人の女王が住んだのは葛城。
そして高天原に径百余歩の奴婢が埋葬された塚。
奴婢とは土蜘蛛。
ヒミコの時代、土蜘蛛を征した男が日向から来た神武。
0508日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 15:26:06.43
畿内説の宣伝係が、一人減って、呟きを開始した可能性があるな。。。
0509日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 15:27:36.82
>>508
呟きはお前だってば連句点



 
0510日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 15:28:28.03
>>507
それが?

何の証拠なの?
0511日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 15:33:52.79
謎の豪族・和邇氏とは何者だろうか、、、
0512日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 15:33:54.43
>>510
泣いてるのかいw
女王の証拠だよ。
0513日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 15:35:43.61
>>506
1は安帝時朝貢が傾いた漢室のやらかしたヤラセショーって説でしよ?
0514日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 15:36:52.04
神武天皇とは、何時の時代の天皇なのだろうか、、、
0515日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 15:40:15.89
>>513
光武50周年てのは怪しいね
0516日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 15:40:51.19
>>514
ヒミコの時代だよ。
女王国をごまかすために書かれたのがマッチョな神武東征紀。
0518日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 16:15:42.31
畿内説同士の討論が、結論を出すことに失敗してしまって、同士討ちで全員死体になってしまったな。。。
0520日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 16:36:58.75
畿内説同士の意味が不明な討論は、マッチョについての結論を出すことに失敗してしまったが、畿内説を宣伝するためには、天皇直属の国家機関の公式発表や、他の化学的な国家機関の研究発表と、対立しなければいけないことが鮮明に公表されてしまったのではないのかな。。。
0521日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 16:39:06.98
九州出身の神武天皇がマッチョだったという情報は、重要なのではないのかな。。。
0522日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 16:40:47.86
>>520
九州説=バカ を喧伝してくれるのは構わないんだが、やりすぎはダメだろ
武士の情というものがある
0523日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 16:40:55.82
なんで纒向が王都なのかサッパリわからん
倭人伝に基く何が出土したんだというのだ
0524日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 16:42:43.13
畿内説を宣伝する係員の「キナイコシ」のこの発表は、天皇家や、天皇家直属の国家機関への怨恨が原因の可能性が高いな。。

517日本@名無史さん2018/10/04(木) 15:46:41.41
>>516
なにをホラふく
ジン・ムー帝は沈んだ大陸からの貴き来訪者だぞ
0525日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 16:44:16.75
箸墓が卑弥呼の墓もサッパリわからん
倭人伝に基く、径百歩だけジャン
畿内説は妄想旺盛だが
学術的な根拠なにもないじゃん」
0526日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 16:45:34.58
>>524
畿内説を宣伝する係員の「キナイコシ」は、天皇家直属の国家機関からの派遣係と、2013年の調査のことで、トラブルがあったのではないのかな、、、
0527日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 16:48:26.27
奈良で確かなのは年代比定が曖昧な
墓地がたくさんある事ぐらいじゃん
0528日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 16:49:21.13
>>431の訂正(最近PCが非常に調子が悪くなっている)
大和説は、当然安部文部省やキョクウ学会に、
意図的に一生忖度したガチ・・・・詐欺師だろう。
みんな内心どう考えても、理屈では九州説だよな、と理解している、
と思うよ。
0529日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 16:49:41.08
>>520
観光関連の宣伝を主導的に実行している闇の勢力は、国家と対決するオーム真理教のような末路を辿るのではないのかな。。。
0531日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 16:51:19.22
奈良で確かなのは年代比定が曖昧な
墓地がたくさんある事ぐらいじゃん
0532日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 16:51:23.28
箸墓が卑弥呼の墓もサッパリわからん
倭人伝に基く、径百歩だけジャン
畿内説は妄想旺盛だが
学術的な根拠なにもないじゃん」
0533日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 16:56:06.02
同士討ちで死体になった畿内説を宣伝する係員が、九州説との討論を放棄して、負け惜しみを言ったのではないのかな、、、

530日本@名無史さん2018/10/04(木) 16:50:09.57
今日も九州説の涙目の負け惜しみが心地いいなぁ
0534日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 16:56:45.80
>>788
>畿内説でなく近畿説だろうな <

纏向説でも大和説でも畿内説でも近畿説でも、いくら言い換えて誤魔化しても、
皆、「南≠東」に拠って×だよ。
0535日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 16:57:39.82
>>532
九州説の日本語は
なぜか解らない
0537日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 16:58:22.91
畿内説を宣伝する係員達は、九州説との勝ち目のない討論を放棄するために、自分たちから、同士討ちで死体になることを選んだのではないのかな、、、
0539日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 17:00:22.44
>>789
>江戸時代の高名な学者も、畿内説は唱えなかったんだが、
どういう教育を受けてきたんだ反日野郎・・・<

怖い怖い、万世一系皇国史観の殺人戦争狂のキョクウの大和説者同士の喧嘩だ。
皆さま、近づかないようにしましょうね。
0540日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 17:01:48.12
バジルの花粉が纒向から出土
だから染色工場が纒向にあった なるほど
だがね
朝貢したのは絳青縑であり絹
絹を染色した証拠は皆無・・絹が無いのだから
バジルだって溝から出てきたもので3世紀と断定出来ない
畿内説はなんでもかんでも邪馬台国と結び付けたがるが思慮に欠ける
0542日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 17:04:01.46
で、都合が悪くなると「古墳も庄内式も九州発祥だからこれが邪馬台国の証拠だ!」とか言い出すから笑えるよなw

邪馬台国の会の奴らが叫んでて吹いたwww
0543日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 17:07:37.33
まぁ九州から何一つ見つかってないから仕方ないよな

鏡!絹!とか喚き散らしてたけどこれもただもの知らない無知なアホが邪馬台国の会のバカグラフに騙されてるだけだし
こんな常識も知らんでよく訳の分からん事連日叫べる
0544日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 17:07:43.95
>>542

「古墳も庄内式も倭国(阿波)発祥だからこれが邪馬台国の証拠だ!」   @阿波
0545日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 17:07:59.96
妄想はいいから
纒向から出土した物を一つづつ分析しろよ
邪馬台国と結び付くものなんて皆無に等しい
掘っ立て柱建物・・王宮だ(これなんかなんなの?柱穴だけで遺物何もないし何の建物やら)
0546日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 17:09:48.07
>>805
>1万2千里が正確じゃないならどこを指してるのかわからんという事だな<

有効数字1桁情報の合計だから、大体有効数字1桁程度の範囲内だろう、と判るの。
0547日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 17:13:17.56
>>498
卑弥呼は邪馬台国の女王ではない

倭国の女王なんだよ

男王も"其国"とあり、もちろん倭国王だね

伊都国や奴国ももちろん倭国内
倭国男王がどちらかの国にいたとしてもおかしくないよ?
1.2世紀の考古学の様相だと十分にありえる
0550日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 17:24:49.45
>>540
は?

三世紀前半の溝からベニバナの花粉が出たんだが?
0552日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 17:26:23.00
>>551

子供の喧嘩?  @阿波
0553日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 17:26:40.13
>>545
極度の無知で理解出来ないだけ
0556日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 17:31:04.54
>>547
>伊都国や奴国ももちろん倭国内
>倭国男王がどちらかの国にいたとしてもおかしくないよ?


おかしい

倭人伝に倭国王の都は邪馬壹国と書いてあるのだから
そこは伊都国でも奴国でもない
0557日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 17:32:10.98
九州は弥生時代後半から鏡は5〜6期の古い物を打ち割って細々と配り完形鏡が見つかるのは4世紀後半から5世紀後半の古墳から
なんと300年くらいの間鏡を中国から手に入れられなくなっている
絹は粗悪な破片が少しだけ出てくるだけ
こんなもんで良いなら纏向の小袋の方がよっぽどマシ

双方とも「前の時代に沢山出た」と言う部分があるだけに「明らかな激減と衰退の証拠」なのが分かるだけ
0558日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 17:35:20.03
>>555
>いや、調子を合わせた方がいいかな、と思って

なんなら、少し分けようか?  @阿波
0559日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 17:38:05.21
>>555
お好きな物をどうぞ。  @阿波

風土記でも、四国の阿波
鉄器でも、四国の阿波
辰砂でも、四国の阿波
土器でも、四国の阿波
勾玉でも、四国の阿波
神社でも、四国の阿波
古墳でも、四国の阿波
木簡でも、四国の阿波
石器でも、四国の阿波
鯨面でも、四国の阿波
神道でも、四国の阿波
寺院でも、四国の阿波
気候でも、四国の阿波
植生でも、四国の阿波
地勢でも、四国の阿波
行程でも、四国の阿波
銅鐸でも、四国の阿波
銅剣でも、四国の阿波
銅矛でも、四国の阿波
銅戈でも、四国の阿波
銅鏡でも、四国の阿波
魏との交流でも、四国の阿波
天皇家大嘗祭でも、四国の阿波

何がどう転んでも、四国の阿波に辿り着く。
0560日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 17:41:24.36
>>553
久しぶりに博識な方が来たようです 
ご教授ください
広大な纏向遺跡に集落跡が無いのは何か理由があるのですか?
巫女1、000人兵は何処に住んでいたのですか?
兵はどのような武器で武装していたと思いますか?
0561日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 17:47:45.79
何も出ないから何も考えないで良い九州説は気楽でうらやましいねぇ
0562日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 17:51:23.49
>>561
>何も出ないから何も考えないで良い九州説は気楽でうらやましいねぇ

その点、倭国(阿波)は大変だよ。  @阿波
0563日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 17:51:38.18
箸墓古墳は主体部が未発掘なので詳細は不明だが
周辺の濠などからは4世紀以降の
遺物しか出ていない。
0564日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 17:54:23.56
弥生時代の遺物が少ないのは奈良の方で
福岡と比べると

遺跡数で1/6
銅器で1/10
鉄器で1/20
しか出ていない。
0565日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 17:54:26.97
>>563
>箸墓古墳は主体部が未発掘なので詳細は不明だが

しかし、どの道、倭国(阿波)の「忌部はん」のお墓だよ。  @阿波
0567日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 17:56:22.50
>>807
>なら大いに作られたという墓はどこにある?<

祇園山。
他にも、副葬品の多さなら、三雲や井原や須玖岡本や平原など。
前方後円墳なら、那珂八幡などや、銚子塚がある。

>畿内の古墳群の事か?<

「南≠東」に拠って×。

>さらに径百歩とも書いてるぞ<

その百歩は短歩。

>冢を大きく作ったという意味じゃないのか?<

そうは言っていない。
0569日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 17:57:28.79
バカ九州説は「弥生時代を通じて」とかがまだ通じると思ってる間抜けの集団だから笑える

そのバカ表を見て浮かれあがって「すげー!九州最強おおおおお!」とか思い込んでこうやってアホなことを喚き続けると
鏡も絹も激減して古墳時代になってようやくおこぼれ貰う段階まで待たないといけない

挙句の果てには古墳出土物を平気な顔で邪馬台国の証拠とか言い出すしw
で、それが極まると古墳こそ九州の物!だから邪馬台国!とか喚きだす
本当にバカは笑えるww
0570日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 18:02:22.02
なけなしの残りものの鏡を細かく砕いて配ってる様とか貧乏臭くて哀れみさえ感じるなw
邪馬台国の時代を通り越して300年間鏡一つ手に入れられないド田舎
そしてようやく古墳勢力に与してそのおこぼれを貰って鏡が出てくる下っ端

九州の現実を受け止められない可哀想なバカ集団
それが九州説
0571日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 18:02:27.90
意外と知られていないが
奈良時代まで、北部九州は
畿内より鉄器の出土量が多い。

6〜8世紀には糸島の元岡遺跡で
製鉄高炉群が発見されており
最大の生産量だったと思われる。

時代的には白村江へ向かう兵の
武器を制作してたと思われる。
0572日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 18:03:40.80
>>560
無いって理由は?
0573日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 18:06:24.93
糸島の古墳はそれほど大きくないが
畿内の巨大古墳より豪華な副葬品を誇る。

単純に糸島のほうが大陸に近く
各種宝物を入手しやすかったと思われる。。
0574日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 18:20:38.48
>>536
>普通に考えれば、それが当然

いや普通に考えれば纏向とは瀬戸内集団物部だが。
卑弥呼の要素なんて全くない。
桃の種も7吉備の方が数が多いらしいし。
箸墓の後円部の大きさが魏志の記述と一致しても、それは無理やり後円部だけにしてるわけだからね。
奴婢の埋葬痕跡もないし、棺あり槨なしとは全然違う。
0575日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 18:22:22.72
>>812
>すると卑弥呼の墓は大いに作られた小さい冢の内の一つか?
平原古墳だの祇園山古墳は脱落という事か? <

祇園山も平原も、「大いに作られて」したいる。
0576日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 18:25:06.75
>>567
>>さらに径百歩とも書いてるぞ<

>その百歩は短歩。

短歩って何だよww
もし150mくらいの円墳が見つかったら卑弥呼の墓だと大騒ぎする癖に。
勝手なもんだw
0577日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 18:30:36.60
>>813
>魏の使いは魏の皇帝に報告するために記録を書いたかも知れないが
陳寿は違うぞ <

陳寿は、
記録に従ってきちんと「計其道里、當在會稽東之東」という推定位置を記載し、
ほぼ九州付近の位置を当てていた。
0578日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 18:38:02.82
>>817
>>「大作冢」は、「大きな冢を作る」ではない。
「冢を大いに作る」の意味。 <

>「大作冢」の次に「>「大作冢」は、「大きな冢を作る」ではない。
「冢を大いに作る」の意味。 <

>「大作冢」の次に「徑百餘歩」と来ますがどう理解しますか<

徑百餘歩は、短里で「径25.5m余り」であり、楽浪太守の墓と同じ位。
しかし、張政が「大いに作った」と感じたのは、おそらく、
「jun葬者奴婢百餘人」を目の当たりに見聞したから。
0579日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 18:41:21.85
>>819
大和説の皆には、
「南→東」などの嘘つき騙しや、忖度などの嘘つき騙しで、
脳が腐っているで賞を贈呈しよう。
0580日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 18:42:13.13
>>566
あるある詐欺よりいいんでねーの
0581日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 18:43:11.04
箸墓は普通に考えれば崇神の1世代か2世代前の磯城の王。
それはもう簡単、男女一対のヒメヒコ制が2世代にわたって存在してる。
男女ペアで王だったということ。

ウツシコメ・ウツシコオ
イカガノシコメ・イカガノシコオ

このおっさんやおばはんのだれか、まぁ纏めて4人でもいいしどうでもいい。

箸墓が卑弥呼の墓なわけあるかいwww
0582日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 18:44:43.37
>>577
>陳寿は、
>記録に従ってきちんと「計其道里、當在會稽東之東」という推定位置を記載し、
>ほぼ九州付近の位置を当てていた。

もちろんそれは
貴方の考案した真っ赤な嘘だよね?
だってその計算は秘匿して他人に見せないのだろ?
0583日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 18:45:19.03
>>572
失礼しました 情報不足で
大集落跡見つかったのですか?
0584日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 18:45:27.28
木を見て、森を見ず
 墓を見て、クニを見ず
0585日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 18:51:28.91
>>820
>だから魏使らがいくら正確に報告した所で 陳寿がそれをそのまま書く理由もないんだよ?
遠くの果てにある漢からの伝承の国が皇帝様に朝貢しに来ましたと そう書く理由はあるけれど<

陳寿は、魏使らの記載をその通りにそのまま信じて、
「 計其道里、當在會稽東治之東」という、ほぼ正確な位置推定が書けた。
0586日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 18:51:39.07
何もない九州説は説明するものが何もなくて楽ちんでいいねぇ

鏡もない(ふっるい鏡を砕いて細々と配る寒々しい姿を「凄い鏡の量だ!と真顔で言い出すから笑い死ぬ)
絹もない(粗悪な絹の欠片一つを持ち出して「絹の中心地!」とか平気で言うから大爆笑)
祭祀遺跡もない(チンケな柱を立てただけの物を大祭祀遺跡だとかほざくから笑える)
大きな墓もない(近畿発祥のそこらにもあるしょっぼい方形周溝墓を平気な顔で持ち出して大笑い)
宮城もない(本当に何もない)

うらやましいなぁ
何一つ説明するものが無くて楽そうで良いわぁ
0587日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 18:53:47.69
廣瀬大忌神
崇神が鎮魂したのは、どういう意味があるんだろう
0588日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 18:53:57.19
>>821
>冢が小さい物との解釈であれば、"大いに"は、数が多い意味にも使われているから、多数の冢を作ったのかもしれんね
だとすると、それは範囲だろうね
つまり殉葬も含めた範囲ということか<

成程。
0589日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 18:56:03.45
出雲国造神賀詞から抜粋

大穴持の命の申したまはく、
『皇御孫の命の鎮まりまさむ大倭の国』と申して、
己命の和魂を八咫の鏡に取り託けて、倭の大物主くしみかたまの命と名を称へて、大御和の神奈備に坐せ、
己命の御子あぢすき高孫根の命の御魂を、葛木の鴨の神奈備に坐せ、
事代主の命の御魂をうなてに坐せ、
かやなるみの命の御魂を飛鳥の神奈備坐せて
0590日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 18:57:33.24
いやーうらやましい
何一つ出てこない九州は何も説明もしなくてうらやましいわぁ

うらやましい
0591日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 18:59:09.77
八咫鏡ってのが大きい鏡を指すだけの普通の名詞だと知らないアホは面白いなぁ

崇神天皇が香取の神に八咫鏡を「2枚」奉納したりしてるのになぁ
八咫の鏡って単語見てはしゃぎあがってる様が笑える
0592日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 18:59:59.62
畿内説みんなで渡れば怖くない
畿内説の学者の合言葉
纒向は王都だとみんなで叫べば間違いでも誰も責任を取らない互助会
裏付けも不十分なままマスコミ誘導してしまう
これって学問の域を超えた私利私欲の何物で無い
0593日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 19:12:58.14
>>571

韓鍛の宅蘇吉士だな
0594日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 19:16:21.89
卑弥呼の王都は何も謂れにないところを掘って出るわけない。
日本には神社というものがある。
卑弥呼の宮跡は今は神社。
式内・明神大社であろう。
だから発掘などしなくていいのだ。

卑弥呼の住んだ場所は4世紀前半の崇神以前の式内・明神大社を見ればいいだけ。
崇神以前の複数の式内・明神大社が日本の一カ所に集中している。
葛城である。
つまり邪馬台国とは葛城である。

では葛城の複数の式内・明神大社のどこが卑弥呼の宮跡か。
別名「姫の宮」の長柄神社であろう。

高天原最上座の高天彦神社は最良の水源ではあるが、女性の足ではきつい。
長柄神社は高天原のふもとにあり女性の足にも優しい。

こここそ王族の女性たちが住んだ宮であろう。
0595日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 19:22:23.15
>>822
>古代中国当時の地理観など間接的証拠ならある
そして陳寿は以前に漢と交流した奴国は倭国の極南界と後漢書の記載にあるように
邪馬台国もそれと同じ倭の極南界にある国としたかった <

范曄は、魏志の記載を「自己解釈に拠る書き換え」をした事になる事が幾つもあるから、
「極南界」記載の信頼性も半減し、
「建武中元二年、倭奴國奉貢朝賀、使人自稱大夫、倭國之極南界也、と光武賜以印綬」
の文で、「倭國之極南界也」の、前後の文との関係が不自然である事もあり、
「倭國之極南界也」を後ろの「光武賜以印綬」とくっつけて一つの文をし、
「倭國これ南界を極るや、光武は印綬を以って賜った」と解せる。
そうすると、
「自朱儒東南行船一年、至裸國、黒齒國、使驛所傳、極於此矣」の、
「使驛所傳、極於此矣」の「極」も、「極る」と同じ用法である事になり、
范曄は、倭國が「南界を極めた國だ」と解釈していた、という可能性も「ある事になる。
0596日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 19:27:31.56
卑弥呼より前の2世紀の王権は九州北部(筑紫)にしかない。
その権威が失墜して、卑弥呼が共立された。
前の男王達とは日向三代であり、筑紫を出て大和に都落ちした。
(東征とは、戦略的転戦なみの言い逃れ)
0597日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 19:30:51.22
何一つ見つからないからすぐに畿内の物を欲しがって「みんな九州の物だ!」とか喚き散らす乞食

それが九州説
0598日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 19:33:17.73
>>596
>筑紫を出て大和に都落ちした。

なんで、大和へ???  大和を選んだ理由は?  畿内説者が喜ぶから?  @阿波
0599日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 19:38:21.21
>>823
>倭人伝の水行の距離は??
循海岸水行・・・・・七千餘里・・・<

これは×になる。
宋書の倭王武の上表文に「自昔・・・道kei百濟、裝治船舫」という文があり、
倭国は、昔から、半島では、
陸路で百済に行って、
その西海岸(おそらく牙山湾の入り口付近の唐津)で 船を装備して、
南朝の宋へ行っていた、という事になり、
という事は、倭人伝の「歴韓國乍南乍東」も、
牙山湾口の唐津付近から狗邪韓國まで陸行していた、という事になり、
郡から狗邪韓國まで全水行した、という説も否定される事になる。
0600日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 19:41:11.68
>>826
大和説は、「南→東」などの嘘つき騙しや、
安部文部省の考えに忖度する事ばかりであるから、
思考そのものを放棄している。
0601日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 19:41:21.42
九州説は二言目には「畿内あるものは全部僕たちの物なんだもん!だから邪馬台国なんだもん!」だからな

浅ましい浅ましい
何も見つからないとこういう見苦しいバカに育つんだなぁ
0602日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 19:44:52.25
>>601

「畿内あるものは全部倭国(阿波)の物なんだもん!だから邪馬台国なんだもん!」  @阿波
0603日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 19:46:44.36
>>601
寝言は畿内で何か見つけてから言え。
0604日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 19:47:26.40
畿内によそが欲しがるようなもん
別にないだろ
0605日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 19:48:38.83
>>594
>卑弥呼の宮跡は今は神社。

たまに、いいことを言うんだよな。
平原遺跡の近くの高祖神社なんでどうですかねw
0607日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 19:56:14.59
何一つ見つからない九州は何も説明しなくて楽でいいなぁ
しまいには畿内の物を浅ましく乞食みたいに欲しがる醜いザマをみせる
哀れだなぁ
0608日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 19:57:51.14
九州でも宮崎や熊本なら奥津城なので王都であったという説も分かるけど。
筑紫だけは絶対ない。
筑紫は単なる防人の土地.

新井白石が九州と言ったのはわざとデマを流したのだ。
それが証拠に彼は高天原を常陸だと言った。
大和以外ならどこでもよかったのだ。
邪馬台国が大和なら大和朝廷や古代天皇が中国に朝貢してたことになる。
国学者としてこれほど辛いことはない。

だからわざと焦点ぼかしのために邪馬台国は九州、高天原は常陸と言ったのだ。
0609日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 20:00:46.65
>>830
>冢が小さい物との解釈って、なんの根拠もないんだよね 史実は正反対
冢=高墳也<

孔明の遺言が、「墳と冢の使用例」そのものであり、史料事実そのもの。
説文解字の「冢、高墳也」は、辞書的に一つの意味説明令を挙げただけであり、
勿論「冢」の 「全意味」を説明したものではなく、
「冢と墳とはイコールではなく、冢は、高さを持った墳のようなものだ」
と言っているに過ぎない。
つまり、冢は、底面に対して高さを感じる形、という意味になり、
それが、私が言って来た「錐体」的な形だ、という意味。
0610日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 20:01:05.29
古墳から見つかる鏡で邪馬台国
近畿から広まるちっこい方形周溝墓で邪馬台国

これが九州説
大爆笑
0611日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 20:05:56.84
>>833
「南→東」などの嘘つき騙しのように、
理由のない「史料事実の否定」やそれに対する「曲解的把握」を、
分裂幻覚的な妄想という。
大和説者は常にそれ。
0612日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 20:07:14.52
>>605
>高祖神社

神功皇后あたりじゃね?
卑弥呼とは関係なかろう。
0613日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 20:13:47.26
>>846
実に皮肉なことに大和説が、「南≠東」の時と同じように、
なんの証拠も出せないままに、 分裂幻覚の妄想の思い込み思いつきを並べてる、
という挙証が、どんどん積み上がって行くね。
0614日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 20:16:03.89
>>849
>冢は丸い墓と言ってたぞ
前方後円墳は丸くないから冢じゃないとか径で測らないとか<

言わない。
0615日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 20:23:40.38
>>850
>>孔明は、明らかに 、
「山のような大きい墓」を否定して「棺を容れるに足りる程度の小さい墓」を冢だ、
と言っている。<

>そりゃあ嘘だな
孔明は自分の墓を 「山のような大きい墓」じゃなく
「棺を容れるに足りる程度の小さい墓」 にしろと遺言しただけ<

孔明の遺言は「因山為墳、冢足容棺」。
0616日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 20:27:46.70
4世紀の神功皇后は高祖神社を再興したわけだが、周辺(糸島市、福岡市)の遺跡は紀元前から連綿と続いている。
0617日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 20:27:50.14
>>851
>なら祇園山古墳は卑弥呼の墓から外れるな<

祇園山は「大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」の3条件の全てにぴったしだな。
0618日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 20:29:25.06
最初の王都として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、奴国と考えられている須玖岡本遺跡(紀元前2〜1世紀)があり、
後に高祖山をはさんだ西側の糸島平野に移動して伊都国とされる三雲南小路遺跡(紀元前1世紀の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓)がある。
三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、太陽光を象った鏡であることがわかる。内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国が漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていたことがわかる。
昭和40年(1965年)に平原遺跡から出土した最大の内行花文鏡は国産と考えられている。その円周が漢代の8咫(直径1尺の円の円周が4咫)に相当することから、記紀などにおいてアマテラスがニニギに与えたとされる八咫の鏡であると考えられている。
かつては八咫は単に大きいことを意味するだけだという説もあったが、この鏡の出土により実際に円周がちょうど八咫である鏡が実在したことが確認された。
これらの王朝は高祖山の東側の福岡平野の奴国に成立し、後に西側の糸島平野の伊都国に移動しているが、出土品や墓制が同じであることから基本的には一連の王権であると考えられる。
三種の神器は現在の天皇家においても象徴とされており、倭国王権の起源は稲作伝来の地でもあるこれら博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。
これが卑弥呼が女王となった倭国の姿である。
0619日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 20:30:34.72
何百年も前の物を持ち出して邪馬台国でございます

これが九州説の能無しども
0620日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 20:31:54.76
小墓を見て、大国を見ず
0621日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 20:33:01.94
何百年も前の物を持ち出して邪馬台国
何百年も後の古墳出土品を持ち出して邪馬台国

大爆笑
0622日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 20:35:43.89
>>857
>平原も祇園山も方形。 箸墓は前方後円墳。
どちらも魏志に書かれた卑弥呼の墳墓ではない。<

祇園山は、
不定形の底面台の上の四隅円弧の錐体台、という不定形であり、
一辺長表現が困難で、長径説明をするしかなく、
方墳とは言えない。
0623日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 20:38:03.69
Q:九州説はなんで邪馬台国当時の物を出さないの?なんで出すものが何百年も前や、何百年も後の古墳出土品なの?
A:なんにもないからだよ

なーるほどねー
なっとくー
0624日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 20:39:35.77
倭国が遷都したなどと言う記事は、旧唐書まで出てこない。
0625日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 20:41:57.65
>>606
猪🐗ならマタギやろ?元はマンモスハンターにして碧眼やな?
孫権君もやな(YなんたらがNじゃね?
0626日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 20:42:23.74
Q:九州説は何ですぐに畿内の物を自分達の物だと言い張るの?邪馬台国の当時の証拠が山のようにあるなら畿内なんて関係なく主張すればいいじゃない
A:なんにもないからだよ

なーるほどねー
なっとくー
0627日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 20:42:37.88
>>588
>どうがんばっても、平原遺跡にも祇園山古墳にも殉葬墓なんてないんだから無意味だよ<

祇園山は、墳裾に、墳頂の主体とほぼ同時期の、
複数埋葬を幾つも含むの62個の墓群があったから、
日本で唯一の、卑弥呼の墓に適合する殉葬奴婢百余人の墓。
0628日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 20:43:37.33
>>624
>倭国が遷都したなどと言う記事は、旧唐書まで出てこない。

そりゃ、倭国(阿波)から遷都したのが、「旧唐書」頃なんだから、当たり前。  @阿波
0629日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 20:43:43.28
Q:九州説はなんで九州王朝とか言い出すの?絶対確実の当時の証拠を山のように出せばそんなもんいらなくない?
A:なんにもないからだよ

なーるほどねー
なっとくー
0630日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 20:44:38.24
ふくろながさでぐさっと1発やってみよーやー?
0631日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 20:45:10.83
>>626
畿内説が言うとジョークにしか聞こえないw
何にもない纒向にしがみついてかわいそうw
0632日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 20:46:18.47
古田君
あなどるなかれ
しんらんや
0633日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 20:47:28.12
まきむくをあなどるなかれ
物部や!
0634日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 20:49:08.83
当時の物が近畿発祥のありふれたショボい国産鏡だらけのちっこい方形周溝墓
鏡は古い鏡を粉々にして細々と配って300年も鏡が見つからない外国と交渉なんて夢にも思わない貧乏くさい田舎
絹も麻布よりも粗悪な糸くず一つ
祭祀遺跡もない
宮城なんてかけらもない
大きい墓なんて影もない

あれー絶対確実の証拠はどこだー?
そりゃ何百年も昔の物や、何百年もあとの古墳出土品とか九州王朝とか寝言言うしか無いよねー
哀れ哀れ
0635日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 20:49:12.87
ちんじゅは孔明ファン(豆知識
0636日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 20:52:03.54
ジョカ君とせんがいおじいちゃんの見分けつかん?
あほさが同じやし
0637日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 20:53:32.56
>>631
柵なかった?ちょい古いが
0638日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 20:54:34.03
>>859
>のちの埴輪列の如く、殉葬の百の(抗)塚を並べたのであろうから、<

違うね。祇園山は、
墳裾に、複数埋葬が幾つもある62個の殉葬墓。

>卑弥呼の墓は小さくても、墓地全体は相当な範囲になる。<

祇園山では、62個の殉葬墓は、
不定形の底面台の上の「四隅円弧の錐体墓」の墳裾に、
重複や攪乱も殆どなく、墳頂に対して「側面正対」するように、
並べられている。

違うね。
0639日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 20:56:21.37
つうかなぜに阿波にもマンモスハンター?
0640日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 20:58:23.92
わかるわかる
何にも見つからないから畿内スレを荒らしてウサ晴らしてるんだよね
現実を受け止められないおバカさんたちの出来る事なんてそれくらいだもんね

うんうん
0641日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 21:05:32.01
>>863
>殉葬奴婢百名ともなれば、 1奴婢塚あたり数名として数百名の働き手が要る。
それにご本尊の卑弥呼の塚つくりにも数百名として、合計すればざっと千人規模。
およそ千人が道具・用具・材料を持って動き回るわけだから、
それだけでも径百余歩(およそ150m四方)は必要だろう
(平原や祇園山なんかじゃ、千人の働き手さえ入りきらぬな)<

墳頂は、箱式石棺で一人埋葬。
墳裾は、複数埋葬を含み、
甕棺3、石蓋土壙32、箱式石棺7、竪穴式石室13、構造不明7で、
しかも、1〜2か所の、端が重複したり攪乱したもの以外は、きちんと、
墳頂に横向きの正対した形で存在する。
合計
0642日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 21:10:34.69
キナイコシが壊れちゃったよ
纒向から何も出ないという事実を受け入れられなかったんだね
0643日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 21:10:56.15
「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」

この文章の前後の文章は全て女王国か女王卑弥呼に付いての説明文であり、主語が書かれていなくとも主語は女王国か女王卑弥呼だと読み手には分かるようになっている。
それ以外の主語の場合は「諸國畏憚之」のように主語が明記されている。
「一大率常治伊都國」と主語が明記されていないので「常治伊都國」の主語も女王卑弥呼である。
なので「女王卑弥呼が伊都国で常に治めている」との意味になる。
では何を治めているのか?
女王卑弥呼が治めているのは自女王國以北の諸国である。
「常治伊都國」は「(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い自女王國以北の諸国を)常に治めていた」の意味であり 主語の女王卑弥呼と()内が省略されている。

治の類似の用法は漢書西域伝に見られる。
「大宛国 王治貴山城 去長安 万二千五百五十里…」
大宛国について、王は貴山城に治す、と王の所在を明らかにしている。

では「自女王國以北」とはどこか。
以北はその出発地を含む。出発地は「自女王國」とある。
つまり、女王国とその北にある国々を、そこに置いた一大率で支配したのである。
要するに女王国と伊都国は念を押して言い換えただけであり、一大率は伊都国にあり、伊都国が女王国、女王の都するところ、邪馬台国であるということである。

「於國中有如刺史」・・・刺史は各地の行政機関内に常駐している監察官

「女王国(を含めたそこ)から北の諸国には、(女王卑弥呼が)特別に一大率を配置して検察させており、諸国は(一大率を)畏れ憚っている。
(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い女王国から北の諸国を)常に治めていた。
これは魏で皇帝が刺史を州に派遣し検察させて洛陽で治めているのと同じようだ」の意味となる。

女王国が伊都より東にあったら、文章の意味が通らない。
畿内説では、一大率が支配していたのは奈良(女王国)およびその北である京都や丹波になってしまう。
女王国以北はおよそ里程や概要を記すことができるとされているが、里程が記載されているのは対馬海峡と福岡県内の国だけだからである。
すなわち女王国以北(女王国を含む)は伊都から北であり、女王国(邪馬台国)が伊都国であることを示している。
0644日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 21:12:09.29
>>872
このスレは、
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説が、
どんだけデタラメか よくわかるスレ。
0645日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 21:14:41.12
個人的年代観やと畿内は掘ってない葛木国しか興味和姦
0646645垢版2018/10/04(木) 21:17:13.40
訂正します

個人的年代観やと畿内は掘ってない葛木国しか興味湧きませんね
0647日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 21:18:38.44
>>645
>個人的年代観やと畿内は掘ってない葛木国しか興味和姦

だけど、倭国(阿波)には底知れぬ興味が沸くんじゃないの?  @阿波
0648日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 21:20:45.63
>>885
大和説者には、
「南→東」などの病的にウソつきで頭の狂った文献考古学者らと、
その学者らに忖度して、先に嘘つき騙しを実行して置く弟子たちの、
二種類の人がいます。
0649日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 21:22:27.36
>>645
>個人的年代観やと畿内は掘ってない葛木国しか興味和姦

だけど、倭国(阿波)には底知れぬ興味が湧くんじゃないの?  @阿波
0650日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 21:24:13.83
毎度ことであるがの畿内説は負け惜しみの書き込みしかできない
0651日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 21:26:33.61
小墳を見て、大倭を見ず
0652日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 21:27:27.34
阿波もやが伊予も底知れんな(マジレス
0653日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 21:29:31.58
弥生期の国宝って奈良にあるの?
0654日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 21:33:11.92
>>652
>阿波もやが伊予も底知れんな(マジレス

それでも諦め切れないんだね。 可哀そう。  @阿波
0656日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 21:37:41.64
>>905
>>△は、は、渡来の呉系楽浪鏡師らの作であり、
明帝の下賜の内行花文鏡や21枚の「尚方作」方格規矩鏡程は価値がない。<

>では、平原で見つかった鏡は誰が作ったの?<

二枚の漢鏡や21枚の「尚方作」の方格規矩鏡は、
おそらく、倭国側からの明帝の下賜鏡を、渡来してきていた呉系楽浪鏡師らが黄土色に塗装し、
破鏡した。
巨大内行花文鏡は、倭国側の依頼で、呉系楽浪鏡師らが造り、塗装し破鏡した。
0657日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 21:49:23.83
うんうん
九州には何一つないからねぇ
荒らす以外何もないから暇でうらやましいなぁ
0658日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 21:52:21.23
>>935
>>そういう事だと祇園山は、始めから「冢」であり、<

>「祇園山『古墳』」なんですが、それは?<

その「古墳」という呼称は、大和説学者らの命名なんだろ?。

>「祇園山冢」なんていう呼び名は、どこにもないぞ?<

大和説考古学者らの責任。

>祇園山古墳は、段築、葺き石を備えた、普通の定型化後のありふれた方墳w<

不定形台の上に、四隅円弧の錐体状の不定形。
0659日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 21:52:50.38
>>653
ないよ?
0660日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 21:55:37.22
>>936
>成人男子10人もいれば、1週間で作れるだろ? 平原1号墓くらいなら
そんなしょぼいのが、倭王の墓でいいのか?
墳丘の面積で見ると、すぐ近くの吉野ヶ里北墳丘墓の10分の1すらないんだぞ?
平原1号墓の墳丘サイズ 12×8 = 96平方メートル
吉野ヶ里遺跡北墳丘墓の墳丘サイズ 40×27 = 1080平方メートル
両者を比較すれば、平原1号墓は圧倒的 圧倒的に小さい <

薄葬令。
0661日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 22:01:08.07
>>837
>>正規分布などのような情報群の説明でも、
その分布中心点は、出来るだけ正確に示すもの。<

>有効数字1桁の意味がまったく分かってないだろ?wwwwwww<

求めた「分布中心点の周りに有効数字1桁情報が存在していた」という事になる。
0662日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 22:07:21.77
>>653
>弥生期の国宝って奈良にあるの?

あるよ。
「国宝」名柄銅鐸と多紐細文鏡

シタテル姫を祀る長柄神社の名柄遺跡から出ている。
シタテル姫とは古事記で高姫。
誰かわかるかい?
兄がいて、高天原で剣をもって暴れてるのだ。
つまり高姫とはアマテラスの原像。
高姫を分霊し、神話としてのアマテラス、そして人間としてのシタテル姫に分け、
時代を変えたのだ。
アマテラスは高天原(金剛山)にいたのだ。
シタテル姫の兄、アジスキタカヒコネとはスサノオ。
別名・ 迦毛大御神(かものおおみかみ)は古事記で最高神。
高鴨神社で祀られている。
0663日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 22:09:04.08
小墓を見て、大都を見ず
0664日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 22:10:47.78
小さい糸島の古墳から
巨大古墳以上の副葬品が出るからな。

ようは金はあるけど、わざわざ大きい古墳は
作らなかったってことだ。

糸島も狭い地域だから、大きい古墳には興味がなかったということだろう。
0665日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 22:14:14.26
>>664
>糸島も狭い地域だから

そんなところに王都などとwww  @阿波
0666日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 22:18:03.23
イト副葬品の出土経過が明確でないな
0667日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 22:23:49.09
いちど大きな日本地図を見てみろ。
福岡という日本の最辺鄙な場所に女王がいるわけないだろ。
福岡は防人の土地。
どれだけ田舎者なんだか。
0668日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 22:29:37.41
やって来た巨大古墳の時代に乗り遅れた過去の人の墓ってことだな
0669日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 22:29:45.06
>>667
>いちど大きな日本地図を見てみろ。

倭国(阿波)が古代人にとって、どれだけすばらしい自然環境なのかが解かるというものだ。  @阿波
0671日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 22:39:58.78
新井白石や本居宣長は九州説者と言われている。
しかし違う、彼らは九州を持ち出すことであえて邪馬台国論争を創ったのだ。
彼らには邪馬台国が大和であることは分かってた。
しかしそれは古代天皇の朝貢を意味する。
「中国に朝貢してた歴史などあってはならない(本居宣長)」
論争してるうちは、古代天皇の朝貢という辛く重い荷物を宙に浮かせれる。
決定させなくて済む。
だから九州説を創作した。
今の学者など到底及ばない天才の発想だ。
0672日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 22:42:46.74
>>664

>糸島も狭い地域だから、大きい古墳には興味がなかったということだろう。

糸島の前期古墳は北部九州では大きいほうだな
0673日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 23:15:54.58
>>672
かなり多い方だが、殆ど未発掘
財政も厳しいが、住民の興味も低いしな

開発が進むのを待つしかなかろう

古墳の類いは次世代に持ち越しの可能性大
重要な物が何かしらでそうな所だし
0674日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 00:02:10.05
古墳勢力に与して300年ぶりにようやく鏡を貰えた下っ端だからな
九州は
邪馬台国から200年も経ってから古墳から出てくるものを「邪馬台国だ!キュウシュウ王朝だ!」とか喚くんだから笑いが止まらないよね
0675日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 00:04:33.51
そういや装飾古墳だ!財宝だ!とか浮かれてる磐井の勢力って新羅の奴隷になって日本を裏切ってるんだよな

つくづく九州ってのは下っ端やろうだな
0676日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 00:08:09.05
外国に国売って新羅の下で冊法でも受けて王にでも認めて貰うつもりだったのかね
日本史上でも類を見ない身下げはてた売国野郎だなw
0677日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 00:29:25.33
新羅に国売って貰った代金だと思うと笑えるなw
それを古墳に入れてるとか大した面の皮としか
0678日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 00:30:12.06
筑紫倭王の目を盗んで外患と通じていたのが継体。
もともと北陸の王であったから、独自の航路を知っていたのだろうね。
0679日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 00:34:13.83
ロクな論文も書けずに、マスコミ扇動する畿内説

三流推理小説出して小銭稼ぎ
0680日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 00:35:58.42
売国九州野郎の妄想に笑う
テメーの墓から出てくる朝鮮式王冠とか自慢しておいてこれだから笑える
0681日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 00:36:49.55
いちど大きな日本地図を見てみろ。
大陸への交通のハブであり、全ての航路が集まる要所だよ。
縄文から発展した日本海ルート、弥生になって発達した瀬戸内海ルート。
そのいずれの恩恵も預かれない惨めな内陸の大和がある。
0683日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 00:39:00.41
流石は300年もの間中国の鏡を手に入れられなかった交易の拠点の大九州様だなw
古墳の勢力にすがってようやくおこぼれ貰った乞食やろうだけの事はある
揚句に国を朝鮮に売り飛ばそうとしてそれを自慢してると来たもんだ

笑えるわ
0685日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 05:00:25.23
江戸時代の藩別石高調べてみると面白いよ
畿内の石高何て目くそ鼻くそ
米の生産が圧倒的に少ない

古代7万戸も養えるだけの生産量はない

墓地にふさわしい
0686日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 05:06:03.19
>>683
こういう人が畿内説をダメにする
0687日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 07:17:15.98
>>681
>大陸への交通のハブであり、全ての航路が集まる要所だよ。

そうだな。だから筑紫に王都なんてないよな。
0688日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 07:41:22.02
>>98
>岸本直文「倭における国家形成と古墳時代開始のプロセス」
『国立歴史民俗博物館研究報告』第185集,2014年・・・
上野祥史「日本列島における中国鏡の分配システムの変革と画期」
『国立歴史民俗博物館研究報告』第185集,2014年・・・
車崎正彦「三角縁神獣鏡の年代と古墳出現の年代」
『史観』第159冊,2008年・・・<

この3人とも、表題を見ただけで、
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説という「結論先にありき」の、
エセ学者である事が見え見えであり、
おそらく、上司や文部省の意向に忖度した論文であり、
読む価値など全くなく、むしろ害になる論文であり、
×。
0690日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 07:51:19.19
>>688
そういうやり方ってさあ
「結論先にありき」
そのものでしょ

闇雲にいわれのないレッテル貼り付けて
ファシスト国家が言論弾圧するやり口そっくり
0691日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 07:59:51.97
>>523
>なんで纒向が王都なのかサッパリわからん
>倭人伝に基く何が出土したんだというのだ

これが完全に議論の向きが逆
纒向王都なのは、時代の古墳時代が始まった場所という遺跡(前方後円墳)
遺物(各地からの搬入土器)で確実な事象
しかもそれは列島の広い範囲を覆い、北部九州も含まれている

そしてその頃の倭国の王権と交渉したという記録が魏志倭人伝

魏志倭人伝から倭国の王都を探すのではなく、
倭国の王都が確実な場所があって、その時期の王都に行った記録があるなら
同じ場所だと判断するしかないというだけ
0692日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 08:00:15.47
>>99
>FAQ84
「冢」to「墳」 時代考証がまるで駄目 やり直し!<

賛成です。
スレ主はこっそり隠しているが、
魏使や郡役人たちの記録で、それを引用した、と思われる、同じ魏志の韓伝に、
「居處作草屋土室、形如冢」とも書いており、
郡役人らは「草屋土室」が「高い墳だ」と考えたとは思えない。
彼らは、「冢」は「草屋土室」の程度の形や大きさである、と認識していた、という事になる。
0693日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 08:03:25.27
>>101
>卑弥呼や台与が住んだ王都とは葛城だ。<

勿論、
「南≠東」などによって、ssも、スレ主も、×だ。
0694日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 08:03:44.80
>>674
まあ…300年ぶりは言い過ぎ

特別優待券の大型鏡もらえなくなってから
そのくらいだな
0696日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 08:11:43.72
>>102
>読売新聞 矢田氏
「地道な論文を発表する以前に、マスコミに大々的に取り上げてもらった方が知名度もあがり
学会内での地位も保証される傾向が強まった。一部の学者や行政担当ははマスコミ誘導をするケースが多々ある。
奈良県を中心とした関西の学者に多く見受けられる。また、公式?発表という形をとるので書かざるを得ない。
発表=マスコミ誘導と揶揄されても致し方ない状態である。マスコミにも問題はある「発表」について裏付けを取らずに
鵜呑みに報道してしまう・・・・・」<

いや、矢田というのが読売の論説部門の人間であれば、
その「読売」の体質が、そもそも、
「南→東」の嘘つき騙しの「万世一系皇国史観」の大和説を、
許容推進して来ており、嘘つき騙しであり×だ。
朝日は、以前に一度「南に問題あり」と書いた事があり、
当時、朝日社内にまだ良識派が存在していた。



いや、
0697日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 08:14:10.88
やだなあ
0699日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 08:15:15.04
>>103
>九州説は中傷が好き <

大和説者?は、このように、理由も言わずにヘイトスピーチ中傷をする事が好き。
0700日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 08:21:39.06
>>699
九州説は嘘と中傷が好き


102日本@名無史さん2018/10/03(水) 05:33
>>100
読売新聞 矢田氏
「地道な論文を発表する以前に、マスコミに大々的に取り上げてもらった方が知名度もあがり
学会内での地位も保証される傾向が強まった。一部の学者や行政担当ははマスコミ誘導をするケースが多々ある。
奈良県を中心とした関西の学者に多く見受けられる。また、公式?発表という形をとるので書かざるを得ない。
発表=マスコミ誘導と揶揄されても致し方ない状態である。マスコミにも問題はある「発表」について裏付けを取らずに
鵜呑みに報道してしまう・・・・・」

103日本@名無史さん2018/10/03(水) 05:53
九州説は中傷が好き
0701日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 08:22:18.13
>>104
>径百余歩だが 墓そのものか?兆域(墓域)?陪冢も含める?<

「大作冢」だと先に書いているんだから、
張政らは、「冢」のサイズが「径百余歩」だと言った。

若しも冢にはっきりした基盤台があったんなら、
基盤台を含めたサイズであった、という可能性はあるが、
その基盤台から離れた場所の陪塚は、おそらく含めない。
0702日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 08:24:03.48
>>691
>>なんで纒向が王都なのかサッパリわからん
>>倭人伝に基く何が出土したんだというのだ

>これが完全に議論の向きが逆

畿内説が魏志倭人伝と一致しない詭弁だと自覚している?
0703日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 08:31:16.02
>>109
>そういう計算をしたいなら238年〜247年の間でどのくらい入手できたかで比較しろや
紀元前まで遡って九州はこんなに過去に鉄があったんだぞと自慢して勝利宣言とは痛すぎる<

ダメだ。
大和の鉄の大量出土は、ホケノであり、
前方後円墳や、有棺有槨や、庄内〜布留や、一枚の画文帯などで、3世紀末以後であり、
絹も同時期であり、
238年〜247年の間とは、50年位の遅れがある。
0704日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 08:36:56.11
>>110
この男のネタも、おそらく、
どっかの、「南→東」などの嘘つき騙しのインチキ大和説学者からだろうであり、
この男もまた、その学者らに忖度迎合しているんだろうが、
そんな大和説を信じる事が、オレオレ詐欺に引っかかるレベルの低脳と言わざるを得ない。
0705日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 08:39:22.47
>>703
>前方後円墳や、有棺有槨や、庄内〜布留や、一枚の画文帯などで、3世紀末以後であり、

それのどこが理由になるんだ?
0706日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 08:44:23.91
>>111
>卑弥呼が住んでたのは>>101 葛城、奈良県御所市。<

「南≠東」に拠って×。
大和は、元々筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国であったんだから、
大和の家来の諸豪族人間、糸島付近の出のものが混じっていた、
という可能性ならある、
0708日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 08:51:28.51
>>114
>いないって証拠は? 九州説はいつも出所不明の怪情報ばかり <

「南→東」などの嘘つき騙しの大和説詐欺師は、
「証拠は?」と書いたその投稿で、返事も待たずに、
返事が出来なかった、としての、
「ヘイトスピーチ」批判誹謗宣伝を書く騙しばかりをする・・・・詐欺師人種。
0709日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 08:52:11.65
>>707
前方後円墳を卑弥呼の墓と認定して宣伝することが、天皇直属の国家機関や化学的機関から否定されてしまい、破綻したので、新しい観光関連の宣伝にすれば良いのではないのかな。。。
0710日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 09:08:27.51
日本武尊にとって、景行天皇は父なのだろうか、、、それとも、子孫の夫なのだろうか、、、
0711日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 09:18:57.91
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
0712日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 09:25:03.19
小墓を見て、都府を見ず
0713日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 09:48:37.67
>>117
>今では、歴史学者で纏向を「大集落遺跡」と言う者はいない 石野でさえ口を閉ざしたまま
しかしマスコミは未だに過去の記事をそのまま使い纏向を大集落群と報道するケースも 時々見受けられる
>マスコミの質が悪いとおもうな<

>この認識は誤りだね。
いったん発言するとマスコミはそれを正しいものとして掲載し、いつまでも使う。
このことによって、記事の基になった発言者の責任を、いつまでも追及するわけだ。
マスコミ受け・世間受けを狙って安易なことを口にすると、いつまでもたたるからな。石野よ。<

いや、石野もマスコミも、どちらも悪い。
0715日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 09:52:56.72
>>132
>邪馬台国はヤマト国、生駒葛城山系の東側 残りの畿内、河内和泉摂津山背は邪馬台国ではない
ヤマトは地形からつけられた地名、山の向こう側という意味。山外。<

邪馬台国なんて存在しないから、×。
0716日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 09:55:34.44
>>138
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者は、
自分は放言していっさい証拠出さないで 他人に要求するの?
すごいヒキョー者だな w
0718日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 10:03:15.92
論破され、破綻した畿内説を宣伝する係員の頭が、一番悪いのではないのかな。。。
0719日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 10:04:08.44
日本武尊にとって、景行天皇は父なのだろうか、、、それとも、子孫の夫なのだろうか、、、
0722日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 10:16:07.08
破綻した畿内説を宣伝する係員が、論破されたことへの怨恨を晴らすために、悪口を言ってきたな。。。
0723日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 10:17:46.68
なんで九州説は
まいにち異常なまでに
ウソばかりつくのだろう
0724日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 10:17:51.93
畿内説を宣伝する係員が、論破されたので、解雇されてしまったから、怨恨を募らせてしまったのではないのかな。。。
0725日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 10:19:33.25
>>724
邪馬台国畿内説は破綻してしまったが、まだ、火星人降臨纏向説は存続しているのではないのかな。。。
0726日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 10:21:24.44
>>725
着ぐるみの装着係は、タコ型火星人の着ぐるみを新調すれば良いなw
0727日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 10:29:24.73
畿内説完勝で論争が終わっちゃったから
九州説老人達が発狂してるだlけだ
0728日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 10:43:58.96
畿内説を宣伝する係員は、国家機関の古代学や化学の討論ではテンプレートを論破されるので、討論の向きを逆にし、嘘と悪口で宣伝を実行しているな。。。
0729日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 10:47:45.61
>>155
>>140-150は何者?
つぶやき並みにウザいのだが。<

「南→東」嘘つきや、
「邪馬台国や大和朝廷や畿内」などの、存在もしない騙し文言を使う人間は、
精神的な異常性のある・・・・大和説者である事は世間の人々にも明らかであり、
議論そのものが無駄で無意味であり、
今回から放置した。
0730日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 10:59:33.33
>>196
「南→東」などの嘘つき騙しの忖度捏造をする大和説者らには、
つねに、まともな理由がない 。
あるのは、立身出世と栄耀栄華の汚れた欲望だけ。
0731日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 11:14:21.46
>>730
ひとことも反論しないで
その言い草か

自分たちに都合の悪い現実を
聞きたくない、聞きたくないと
ただ耳を塞いで拒絶してるだけだな
0732日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 11:45:18.64
>>211
>発掘したのはごく一部だけどな。
それに、集落があるのは必然ではないから、なくても問題ない。<

どっち道、大和は、
筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国の、
「市」を監督する大倭職の国であったのであり、
「南≠東」に拠って、卑弥呼の都ではない。
0733日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 11:49:40.35
>>221
>柳田は 耳璫が「漢末六朝初期」なのだから
土器や鏡の編年からの「2世紀末」という判断と合致しててOK
と言ってるの <

漢末は、3世紀だよ。
0734日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 11:56:53.84
>>222
>2018年1月25日
- 初期ヤマト政権の首都とされ、邪馬台国の有力候補地である纒向遺跡(奈良県桜井市) の
整備に向け、同市教委が ...
国や県の補助金を受け、本格的に整備を進める<

邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙しの文言であるし、
桜井市と同市教育委員会と、国と県とが、
皆で必死になって、嘘つき騙しや忖度をしようとしているな。
0735日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 12:00:55.58
>>225
>文化遺産の保護と地域活性化に県や文化庁が補助金を出すのは
彼らの普通の職務だろ<

嘘つき騙しに補助金を出してはいかんだろ。
県や文化庁は、誰に忖度してるんだい?。
0736日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 12:14:01.03
観光関連の主導者ではないのかな、、、

735 名前:日本@名無史さん 2018/10/05(金) 12:00:55.58
>>225
>文化遺産の保護と地域活性化に県や文化庁が補助金を出すのは
彼らの普通の職務だろ<

嘘つき騙しに補助金を出してはいかんだろ。
県や文化庁は、誰に忖度してるんだい?。
0738日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 12:36:49.11
日本武尊にとって、景行天皇は父なのだろうか、、、それとも、子孫の夫なのだろうか、、、
0739日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 12:42:49.56
>>738
日本書紀や古事記の、天皇家の親子関係は、真実なのだろうか。。。
0740日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 12:54:58.53
日本書紀と古事記での、天皇家の記録の意見は、なぜ、違うことが多いのだろうか、、、
0741日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 13:00:06.75
>>740
日本書紀と古事記で、崇神天皇が祖父の妹の墓を作製した時代のことを、どのように記録したのかを調査する必要が、あるのではないのかな。。。
0742日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 13:23:21.79
>>733
九州説よ
またどうせ何も考えずに
愚かなオウム返しをするのだろうが
誹謗中傷に明け暮れる暇があるなら
最低限の歴史くらいは勉強しとけ
0743日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 13:39:21.74
畿内説を宣伝する係員が、「漢末六朝初期」の 耳璫ことでも、論破されているな。。。
0744日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 13:39:21.88
>>228
「南→東」などの嘘吐き騙しだなどと連呼され、論破され続けていて、
返事も反論も出来ない状態で、
大和説者らは、一体何が論破できるの?。
0745日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 13:42:41.31
>>743
漢末六朝初期とは、 耳璫という重要な発掘品と、関係した時代のことではないのかな。。。
0746日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 13:45:11.16
耳璫という重要な発掘品は、魏志倭人伝と関係があるのではないのかな。。。
0747日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 13:48:21.40
>>265
「南→東」などという嘘つき騙しの大和説者、
という素人だけのトンデモが、

   大和説。
0748日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 13:51:37.99
>>267
>九州説やってると脳が退化するって症例を見た <

「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説をやってると、
忖度と口先ヘイトスピーチの忖度ばかりになり、
脳が退化するって症例を見た。
0749日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 13:52:00.77
耳璫という重要な発掘品は、熊本城の地下に、埋められているのではないのかな。。。
0750日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 13:56:51.55
熊本城の地下に、埋められている卑弥呼の死体は、盗掘で荒らされる可能性から、熊本城が守っているのではないのかな。。。
0751日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 13:59:12.26
畿内説を宣伝する係員が、「漢末六朝初期」の 耳璫ことでも、論破されたので、元気がなくなってしまったな、、、
0752日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 14:06:49.32
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
0753日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 14:48:09.73
>>752
よそでやれ
0754日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 15:16:49.32
>>270
>>女系を重んじる国津神の鴨 <

>いや重んじない。 鴨は大物主という男系。
倭国大乱で弱り、一時的に女王を立てざるを得なかっただけ。<

倭国大乱なんて存在しなかったから、×。
0755日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 15:23:29.15
>>281
>素直に鴨先生に万歳やな<

「南→東」などの嘘吐き騙しを言った時点で、×。
0756日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 15:47:44.76
>>329
真犯人だと探偵に名指しされ警察に収監され、
物証も出、目撃者の面通しも終わって、
新聞に実名報道もされた犯人が 、
わめく「俺は真犯人じゃない。東=南じゃあ」。
0757日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 15:49:47.99
>>332
纏向に住居が沢山ある、
って流言飛語はどっから出たんだ?。
0758日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 15:56:34.34
>>343
>は? 纏向遺跡は2013年文科省告示で史跡指定されてるが?
「纒向遺跡は、3世紀初頭から4世紀初めにかけて営まれた、極めて大規模な集落跡である。」
(文化庁文化財部監修 『月刊文化財』 H25.9 「新指定の文化財」 より)<

何だ?、文科省が、また安部自民に忖度忖度した?って?。
0759日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 16:11:24.77
>>345
>>・銅鏡、刀剣類、勾玉な、鉄製品などが出土していない<

>何も問題ない・・銅鏡・勾玉は墓から出土するもの<

お宝は、伝世もするもの。

>刀剣類・・都市の要件では無い <

「居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衞」。

>鉄製品・・纏向は農村や工業地帯では無い<

「兵用矛、楯、木弓。木弓短下長上、竹箭或鐵鏃或骨鏃」。

>>纒向遺跡は大集落と言われながらも、人の住む集落跡が確認されていない<

>纒向は政治都市 主君さえ住んでいればそれでよい その他は参上するだけ<

「以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食、傳辭出入。居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衞」。

>>纒向遺跡の搬入土器は北九州由来のものは非常に少なく・・・<

>交易の中心は九州ゆえ問題ないそのために役人を九州に置いている<

交易のものが纏向に運ばれていない。 

>王都に海外のものを見せびらかす必要はない <

「南≠東」に拠って×。
0760日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 16:16:47.35
>>349
>絹は贈り物として与えるものでその生産地と流通や貯蔵場所が違っても可笑しくない
例 田んぼにコメはばらまかれていない 牛舎があってもそこで牛は食わない
古代の人間が絹織物を皆着ていたとは考えられない 以木緜招頭 以木緜招頭<

古代においては、絹は、
権力者や大金持ちが多く持つもの。
0761日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 16:16:54.78
畿内説を宣伝する係員達が、全員、バンザイ突撃を実行して、全滅してしまったのではないのかな、、、
0762日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 16:18:18.80
>>350
いくら反論されても見えないフリ。
それが大和説唯一の生きる道か。
0763日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 16:20:15.84
奈良県の博物館で、午後から、催し物があったので、普段は窓際の宣伝係が、駆り出されているのではないのかな。。。
0764日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 16:21:20.86
>>353
「南→東」などの嘘吐き騙しのように、
理由も言わず断定ばっかりしてる大和説のお前こそが、
「結論先にありき」の嘘吐き騙しの宗教的捏造文言爺さん、
だろ。
0765日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 16:46:18.20
纒向は、国営の大墓場だったのかな。
0766日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 16:49:13.73
>>358
こんなふうに大和説って妄想を叫ぶだけになっちゃったね。
0767日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 16:54:36.24
>>375
なんで「南→東」などに嘘つき騙しの大和説は、
いつも理由をヒトコトも言わないの?。
0768日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 17:22:50.93
>>389
>>投馬國は、魏使らが移動した説明がなく、<

>「水行」って書いてあるよ<

「至」の前の途中移動説明が書かれてないから、魏使らは移動しておらず、
「水行二十日」は、
倭人からの、「不彌國からの所要日数」の伝聞説明内容であった事になる。
0769日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 17:29:50.78
>>392
>>不彌國で、萬二千余里が(折れ線的道のり里数として)ほぼ消費されてしまっているので<

>そんな無軌道な消費しといて <

いや、魏志倭人伝の記載事実や実態そのもの。

>まだ 「会稽東治之東」が正しい と言い張る説は確実に詐欺だな w <

魏使らが実地に見聞計測した魏志倭人伝の記載事実や実態そのものや、
それに関しての陳寿の位置推定文言を否定抹殺しようとするこの男は、
確実に・・・・詐欺師だな。
0770日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 17:33:19.98
>>393
>「会稽東治之東」 短里で書かれた報告書を長里で 読んでしまったためだろ。<

短里で書かれたを魏使らの報告書を、陳寿も短里で読んだから、
九州の位置が陳寿の「会稽東治之東」と、ほぼ一致したの。
0771日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 17:39:13.37
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
0772日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 17:46:06.93
>>395
>なんで?<

魏の初代文帝の即位の詔書に拠って、
魏の重臣たちが「周制への復古」の上表を繰り返したから、
魏朝は、始皇帝や漢朝の度量衡を捨てて、周髀算経の一寸千里の度量衡を採用する事にしたから。

>そんな誰も知らない単位で<

漢代末に周髀算経の再収集注釈をされたから、
周髀算経の度量衡は、役人たちは常識として、当然知っている。

>誰が誰に報告するんだ?<

魏使らが、魏の皇帝や重臣たちに。
0773日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 17:49:35.41
>>772
>魏の重臣たちが「周制への復古」の上表を繰り返したから、

そんなことしてないでしょ
ウソはダメ
0774日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 17:54:41.82
>>770
>短里で書かれたを魏使らの報告書を、陳寿も短里で読んだから、
>九州の位置が陳寿の「会稽東治之東」と、ほぼ一致したの。

会稽郡の北の端っこは大隅半島南端より南なのに
女王国のある北部九州の位置が陳寿の「会稽東治之東」と一致するわけないでしょ

ウソはダメ
0775日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 18:00:13.43
>>396
>>はい、説文解字は、「墳と冢の端的な違いは、高さ」である、と言っており、
孔明の、「墳は山のように大きく広く高い」と「冢は棺を容るるに足る程度の低く小さいもの」
という説明と一致する。<

>原文を確認してから書きこめよ 説文解字の「冢」の説明が「高墳也」なんだから、<

説文解字は、冢とは墳の一種だ、と理解していて、
「冢」とは「高さが見える事に特徴のある墳だ」という説明。

>ザラコクの書き込んだ 墳=高冢 が大間違いのでたらめで<

孔明の「墳は一般には冢よりも高い」という認識の説明だ。

>冢=高墳 なんだよ<

説文解字の説明は、冢は墳の一種で、「高さが特徴的な墳だ」という意味だ。

>つまり、冢が墳の中でも高いもの、というのが説文解字に書いてある内容 <

その解釈は、孔明の遺言と矛盾するから×。

>諸葛亮の葬漢中定軍山遺命の「因山為墳、冢足容棺」は、 「山に因りて墳となし」=「山を墳に見立てて」
「冢は棺を容れるにたる」=「冢は棺が入る程度の小さなものにしなさい」 という意味 <

それが3世紀の知識人の認識だ。
0776日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 18:03:29.97
短里で書かれた報告書を長里だと思って解釈したんだよ。
0777日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 18:13:05.09
(帯方郡から九州までは短里だが)、
九州から大和までは長里にしたい畿内説。奥歯にモノが挟まって、いかにも切れ悪し、、、
0778日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 18:13:12.96
>>397
>>東武庫なら兵庫?なんだろうから、全く関係がない。<

>そのまったく関係がない遺跡の方形集溝墓と、同じ大きさしかないんだよ
平原1号墓はね <

いや、平原の方がずっと大きいし、
薄葬令に拠って、大きさは「壹」部族の中では大きいが、目立たないようにして、
副葬品を超豪華にしている。

>東武庫遺跡に倭王が居たとは言わないだろ?<

播磨地域の大中遺跡に鏡片が出土しているから、
おそらく、卑弥呼の指示下の東征将軍の一武将の墓。

>そのレベルの首長、族長の墓が平原1号墓なんだよ<

副葬品は、倭の共立女王として十分。
0779日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 18:15:14.50
>>398
>首都圏は手狭なんだよ。 田舎と同列にするな。<

大和や纏向は、どっち道「南≠東」に拠って×だよ。
0780日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 18:18:05.18
長里でも畿内は邪馬台国にならない。
結局、畿内を邪馬台国にするためには魏志倭人伝を無視するしかない。
それは、畿内が魏志倭人伝に書かれた邪馬台国ではないということだ。
0781日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 18:21:06.80
>>400
>このように九州説は嘘に嘘を重ねる 逮捕されて取調中の犯人のようだ<

このように大和説者は、上司や文部省の意向に忖度して、嘘に嘘を重ねる。
逮捕されては取調べで上司をかばい切れない、と思って自殺した、
大阪財務局の役人のようだ。
0782日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 18:31:05.01
墓を見て、帝都を見ず
いや、墓は見えれど、帝都は見えず
0783日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 18:45:16.98
>>402
>>大倭を大和に書き換えたんだろ。<

>これは正しい 倭→大倭(えらそうにするため)→大和(よい字にするため)<

「大倭」は、九州倭国の地方の市を監督する役人の職名であったのであり、
古事記が、国生み神話で九州倭国からの植民地の一つとして「大倭」と書き、欠史八代の中の四人に「大倭」という称号を冠して記載されていたもの。

>読みは全て「やまと」だよ<

「大倭」も「大和」も本来は漢語では「ヤマト」とは読めないもの。
だから、記紀や万葉集では、「ヤマト」に対していろんな当て字を記載した。

>>でもそもそも倭が九州を意味していたから、さらに日本に書き換えた。<

>これはウソ<

「或曰、倭國自悪其名不雅、改爲日本」は史料事実。
釈日本紀に、晋の惠帝への遣使が「日本」と名乗った、という記録を記載しており、当時はまだ、大和は「日本」とは名乗っていなかった。

>倭は倭人の住む範囲<

唐会要倭国伝の「正北抵新羅」に拠って、倭国の中心は北部九州にあった。

>対馬も佐渡も本州も四国も、皆倭種だよ<

倭種や別種は、瀬戸内以東。

>九州ももちろん倭の「一部」<

魏志倭人伝に拠って、倭国本体は筑紫。
0784日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 18:49:04.10
畿内は妄想だらけの歴史家の墓場なのか。
0785日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 18:51:43.32
>>402
>なんで九州説はいつも 理由をヒトコトも言わないの?<

それはね、理由が一つもないからだよ。
大和説がかつて根拠だと思っていたものも、既に全て否定されているしね。

>ひと頃は、伊都国の「都」の字は、「先王の廟があるところ」の意味で、
三雲南小路遺跡に古い王墓があるから伊都国が卑弥呼の都ってマジで言ってたんだよw<

伊都国は、「伊弉諾や伊弉冉」に始まる「伊」氏の都の国、という意味だ、と思うよ。
0786日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 19:03:02.96
>>785
そうやって証拠もなしに言い張るばかりなのが
九州説
0787日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 19:03:17.46
>>404
>>いや、「冢は、高い、という事を感じる形容を付けるべき墳である」
のだと言っているのであり、<

>つまり、「高いということを感じる墳」である前方後円墳は「冢」と表現されてしかるべし、
ということで何も問題ないな<

説文解字時代の「冢は墳の一形態である」という立場での説明であり、
3世紀では孔明の遺言と、
陳寿の馬韓伝での「居處作草屋土室、形如冢」や」、
倭人伝の「其死、有棺無槨、封土作冢」や「大作冢」は、
いずれも「冢」は家屋を覆う程度だ、という認識だ。

>つまり「大作冢徑百餘歩」という卑弥呼の墓の表現は、前方後円墳他の古墳に
ぴったりの表現ということだ<

×だ。
0788日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 19:12:04.35
畿内説って、何も根拠がないじゃん。
0789日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 19:12:06.25
>>785
>伊都国は、「伊弉諾や伊弉冉」に始まる「伊」氏の都の国、という意味だ、と思うよ。

俺も、そうだと思うね。
伊都国には代々王がいたのだが、皆が女王の邪馬台国に統属してきた・・・、とわざわざ断り書きを入れているのは、
伊都国の「伊」氏と、邪馬台国の「馬」氏は、(縁戚関係にあって)仲が良かった・・・。
そしてその伊都国に、帯方郡の郡役所は置かれていたのだ、と、
三者の親密さを云わんがためだったのではないか。

到伊都国。官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。有千余戸。
世有王皆統属女王国(邪馬台国)。郡使往来常所駐。
0790日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 19:17:03.75
>>787
>説文解字時代の「冢は墳の一形態である」という立場での説明であり、

冢とは高い墳のことだと言ってるね
冢だから小さいと言い張るのは
ウソだから、×だ
0791日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 19:22:49.11
「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」

この文章の前後の文章は全て女王国か女王卑弥呼に付いての説明文であり、主語が書かれていなくとも主語は女王国か女王卑弥呼だと読み手には分かるようになっている。
それ以外の主語の場合は「諸國畏憚之」のように主語が明記されている。
「一大率常治伊都國」と主語が明記されていないので「常治伊都國」の主語も女王卑弥呼である。
なので「女王卑弥呼が伊都国で常に治めている」との意味になる。
では何を治めているのか?
女王卑弥呼が治めているのは自女王國以北の諸国である。
「常治伊都國」は「(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い自女王國以北の諸国を)常に治めていた」の意味であり 主語の女王卑弥呼と()内が省略されている。

治の類似の用法は漢書西域伝に見られる。
「大宛国 王治貴山城 去長安 万二千五百五十里…」
大宛国について、王は貴山城に治す、と王の所在を明らかにしている。

では「自女王國以北」とはどこか。
以北はその出発地を含む。出発地は「自女王國」とある。
つまり、女王国とその北にある国々を、そこに置いた一大率で支配したのである。
要するに女王国と伊都国は念を押して言い換えただけであり、一大率は伊都国にあり、伊都国が女王国、女王の都するところ、邪馬台国であるということである。

「於國中有如刺史」・・・刺史は各地の行政機関内に常駐している監察官

「女王国(を含めたそこ)から北の諸国には、(女王卑弥呼が)特別に一大率を配置して検察させており、諸国は(一大率を)畏れ憚っている。
(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い女王国から北の諸国を)常に治めていた。
これは魏で皇帝が刺史を州に派遣し検察させて洛陽で治めているのと同じようだ」の意味となる。

女王国が伊都より東にあったら、文章の意味が通らない。
畿内説では、一大率が支配していたのは奈良(女王国)およびその北である京都や丹波になってしまう。
女王国以北はおよそ里程や概要を記すことができるとされているが、里程が記載されているのは対馬海峡と福岡県内の国だけだからである。
すなわち女王国以北(女王国を含む)は伊都から北であり、女王国(邪馬台国)が伊都国であることを示している。
0792日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 19:25:34.59
>冢とは高い墳

高い墳とは言ってるが、大きい墳とは言っておらぬぞ。
墳にも、大きさは大中小いろいろあるが、それぞれ「墳」にふさわしい適切な高さ/径の比率があったのではないかな。
現存する前方後円墳を見ると、やたら背高のっぽはないだろ。
0793日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 19:33:01.15
>>791
せっかく引用したこの文は、
キミ自らの理屈を否定するものなんだけどなあ、、、
「大宛国 王治貴山城 去長安 万二千五百五十里…」
0794日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 19:36:44.47
都である長安から一万二千五百五十里と、都から離れた帯方郡から一万二千里では、意味が違うはず。
キナイコシのクソ論理が破綻したな。
0795日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 20:01:11.90
>>794
イミフ
0796日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 20:08:10.80
>>791
「常治伊都国」が

>(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い女王国から北の諸国を)常に治めていた。

だって?

動詞「治」の目的語はなんだ?
それで高校出てるのか?
0797日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 20:13:07.87
犬神先生と高齢先生どないしたんやろ?(忘れてた
0798日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 20:13:50.55
菊?
0799日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 20:16:16.52
アホ爺 >>1 に愛想つかしたんやろか?
0800日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 20:16:39.71
>>791
>「大宛国 王治貴山城 去長安 万二千五百五十里…」
>大宛国について、王は貴山城に治す、と王の所在を明らかにしている。


ただの誤訳。

正しくは「王治は貴山城。」
「王治」は名詞。
「郡治」や「県治」と同じ使いかた。
0801日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 20:27:51.08
>冢とは高い墳

高天原という日本の聖地の日本最古の神社境内にある径百余歩(約150m)の奴婢が埋葬された冢。

https://goo.gl/maps/eceRu94JmwR2

奴婢とは土蜘蛛。
ヒミコの時代、葛城の土蜘蛛(奴婢)を征した男が日向から来た神武。

わるいけど奴婢埋葬の痕跡がないうえに前方後円墳の後円部だけを解釈とした箸墓とか、
恥ずかしいくらい小さな方墳の平原や祇園山という、
レベルの低い話はやめてくれ。

日本の聖地、高天原の神々に失礼だろ。
0802日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 20:32:13.59
今日明日は古代史関連のイベントでもあるのかな
いつものキ・メンバー、皆、出払ってるような気配だなあ
0803日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 20:37:29.52
王治めるは貴山城?
ダックのまけ?
0804日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 20:41:34.32
今宵は鴨先生の傾聴やね?
0805日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 20:49:57.42
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
0806日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 20:51:41.64
伊都国は「伊」氏の根拠地、というレスは関心深く読んだ。
同様に、
邪馬台国や投馬国や斯馬国(ついでに対馬も)は、「馬」氏のテリトリーだったのかも。
で、伊氏とか、馬氏と聞けば、もろ漢(や魏)の貴人の傍流だったのかと・・・、
0807日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 20:59:06.17
人が九州説になる三つの理由
・ばかだから
・無学だから
・心を病んでるから
0808日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 21:24:46.61
アホ爺 >>1 に愛想つかしたいうてもたれも絡んできませんな?
ほんまに二人とも亡くなりはったんか?
0809日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 21:33:11.21
●安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見

土下座である。
この屈辱的史実から日本の歴史は始まる。
7世紀の朝廷は帥升が誰なのか分っていた。
その約100年後の卑弥呼も誰なのか分っていた。

だから卑弥呼の時代をマッチョな男王国に変えた。
それが神武東征紀だ。
そしてその神武をBC660年という途方もない時代に設定した。
倭國王帥升ことスサノオの時代を隠し神話化した。

そしてもう一つ「天皇・皇后」という新称号を採用した。
これで卑弥呼を皇后にして婿を天皇にした。

とはいえこれはあくまで仮説だ。

仮説を証明するには、
ヒミコことヒメ(のちに踏鞴と五十鈴を加えられ姫蹈鞴五十鈴媛)の住んだ葛城に、
径百余歩の奴婢が埋葬された塚を探さねばならない。

あった。

鴨族の聖地・高天原にあった。
http://goo.gl/maps/eceRu94JmwR2
0810日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 21:40:42.05
畿内説の恥晒し
0811日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 21:41:49.41
>>807
畿内説を論じないか
ここは畿内説のスレ
0812日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 21:48:09.58
アホか
東北にある前方後円墳まで
ヤマト王権の領地かい
0816日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 22:52:30.39
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
0818日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 23:13:22.93
>>406
>>短里で書かれた報告書<

>そんなものはない
あると証明も論証もできず、状況証拠すらない妄想の産物だよ、

否定しても無駄。
史料実態だ。
0819日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 23:17:46.19
>>413
「南→東」などの嘘吐き騙しのトンデモ読みで、
史料実態に反する「長里のような架空の単位」なんか作ったら、
大和説者はダメだよ。
0821日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 23:22:41.20
>>424
>>この男も、安部文部省やキョクウの学会に「忖度」した精神的な異常者。<

>そんな発言を毎日何十となく書き込んでるような人を
逆に世間は精神的な異常者だと考えるよ<

国民の7割は、安部文部省や歴史学会の大和説を否定しているよ。
0822日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 23:28:53.07
>>432
>計測なんてしてたら、
短里とやらの12,000余里で会稽になんか届かないの、分かるでしょ? <

会稽東治の東〜東北東に九州があったから、
陳寿の「計其道里、當在會稽東治之東」という位置推定が、
ほぼ合っていた、という事が分かったの。
0823日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 23:33:12.32
>>435
そうだよ。
7割の国民も、3割の大和説者も、みんな、
内心どう考えても吸収だよなと理解している 。

大和説さん、そういうことでしょ?。
0824日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 23:37:43.48
>>437
つまり陳寿は「会稽東治之東」とはっきり書いているから、
魏使らが記録と矛盾しないので、
九州説は、間違い、ではない、
と確定してる。
0825日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 23:39:45.37
>>438
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は、
反論が出来ずに、いつも支離滅裂だなー。
0826日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 23:47:34.15
>>460
またも、「南≠東」で論破されちゃった」で大和説が、
必死で話題を変えて、スレを流ししようとしてるな ww、
0827日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 00:01:54.28
>>466
倭人伝の倭人の風俗では葬儀の際に土を盛って冢を作ると簡単に紹介されている。
そして、 その「冢」は、
直前の馬韓伝に「居處作草屋土室、形如冢」と書かれているから、
「冢は草屋土室の如くであった」という意味に使われている事が判る。
韓の家は、写真では日本の竪穴式住居とそっくりであり、円錐状であった。

だから、卑弥呼の墓の冢は、
錐体のように土を盛った墓であった事が分かり、
前方後円墳は否定される。
0828日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 00:14:21.08
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
0829日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 02:09:24.53
>>827
>錐体のように土を盛った墓であった事が分かり、
>前方後円墳は否定される。

そうだね、箸墓でもないし、もちろん九州の平原や祇園山でもない。

高天原にあるこの「冢」しかない。
奴婢(土蜘蛛)が埋葬されているし、大きさも魏志の記述と合う。

http://goo.gl/maps/eceRu94JmwR2

奴婢を制圧した男は日向から来た神武だ。
0830日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 02:15:50.66
× 奴婢を制圧した男は日向から来た神武だ。

〇 土蜘蛛を制圧した男は日向から来た神武だ。
0832日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 03:41:13.64
>錐体のように土を盛った墓であった事が分かり、
>前方後円墳は否定される。

箸墓で問題ないようだ
0833日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 04:38:51.52
>>791
後世、大和朝廷が大宰府を大和に設置したわけがない、設置するのは遠隔地だ
よって大率は女王国ではなく女王国の遠方に置かれていたはずである
そして設置された大率によって検察された諸国は女王国の以北にあった
ということは女王国は伊都国などの倭の諸国のはるか南方にあったことなる
そこが九州南部でないとするなら、邪馬台国は沖縄以外にはないという結論になる
0834日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 07:14:53.78
>>832
>錐体のように土を盛った墓であった事が分かり、

言い方を変えれば、「冢」の場合、墓の上部は平らではないということだ。
箸墓のように、何事かを為すために上部を均平してある(定型化)古墳は、「冢」ではないのだ。
0835日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 07:24:38.82
径百歩だけで箸墓を卑弥呼の墓とするのは乱暴すぎる
0836日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 07:25:24.49
>被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう

崇神(行燈山古墳)の1世代ないし2世代前の磯城の王。
男女一対統治のヒメヒコであった。
ウツシコメ・ウツシコオ
イカガノシコメ・イカガノシコオ


>敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、
紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。

「当時の民衆が知悉しており」なんてのは、
女性を祭神とする神社の一つでもあっていうべきもの。
「ない」ということは当時の民衆が知悉していないという事。
纏向に多いのは物部系の神社。
纏向は物部の居住地だったから。
0837日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 07:30:47.46
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 
0838日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 07:37:51.51
>>791日本@名無史さん2018/10/05(金) 19:22:49.11
>「自女王國以北 (女王)特置一大率檢察諸國、諸國畏憚之(一大率、)、(女王)常治伊都國、(一大率)於國中有如刺史」

一連の文章の中で、省略された主語が、入れ替わり立ち代わりなんてこたーない。
気分次第の勝手読みというものだ。

こう読めば、混乱なく、一筋通る。
>「自女王國以北 (女王)特置一大率、(其の一大率)檢察諸國、諸國畏憚之(其の一大率)、(其の一大率)常治伊都國、(其の一大率)於國中有如刺史」
0839日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 07:38:06.84
京都の五塚原古墳
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E5%A1%9A%E5%8E%9F%E5%8F%A4%E5%A2%B3

「古墳時代最初期の3世紀中葉-後半頃の築造と推定される[3]。
向日丘陵の首長墓群では最古になる[4]。墳丘の「斜路状平坦面」は
箸墓古墳(奈良県桜井市、一説に卑弥呼の墓)と共通する古い形式であるほか、
前方部の形状は東田大塚古墳(奈良県桜井市、箸墓古墳と同時期か)と一致する[8][3]。」


被葬者は誰であろうか。ごく普通に考えて山代国造、山代県主の類であろう。
ならば候補者がいる。
先代旧事本紀・巻第五「天孫本紀」に出てくる山代県主の祖・長溝(ながみぞ)である。
崇神の叔父である伊香色雄命の義理父にあたる。

同じく箸墓との関連が言われる大阪・交野の森古墳群の雷塚古墳。
被葬者は誰であろうか。
候補者がいる。
天孫本紀に交野連と書かれてる多弁宿祢命(たべのすくね)である。
伊香色雄命の子である。

ここにきて箸墓と強く関連する二つの古墳の被葬者候補に伊香色雄命を軸とする二人の人物が浮かび上がってきた。
箸墓古墳とは伊香色雄命の墓ではないだろうか。
彼が磯城の王であったことは姉のイカガノシコメと「ヒメヒコ」を形成してることでも明らか。
そのイカガノシコメから産まれたのが崇神。
崇神墓を古事記の記述から行灯山古墳として、叔父で磯城の王であった伊香色雄命が崇神より巨大な墓を造ってたとしても不思議ではない。

纏向に卑弥呼などいない。
0840日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 07:41:23.83
>>467
>方形周溝墓はありふれた墓で、方形台状墓も大陸と付き合いの盛んな近畿北部に多く分布している
既知の墓とは別個にサイズについて記載される土を盛って作る墓となると古墳を指していると理解できる<

地面を掘って埋葬して、埋め戻した後、その更に上に土を盛った墓は、
原則として、「古墳」というべき。
0841日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 07:43:25.34
>>834
ほんと九州説は無智無学だな

中国の冢は往往にして上に被葬者を祀るお堂みたいな建物がある
つまり平らになってる
尖ってると思うのが妄想
0842日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 07:47:32.24
>>840

>地面を掘って埋葬して、埋め戻した後、その更に上に土を盛った墓は、
>原則として、「古墳」というべき。

そんな古墳は無い
0843日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 07:48:45.73
>>473
>径百余歩に苦しむ九州説<

九州には、「大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」に適合する祇園山があるから、
苦しまないが、
大和は、適合する墓が全く見つからないから苦しむし、
それ以前に「南≠東」などの、に拠って、全て×で破綻していた。
0844日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 07:54:15.33
>>474
「南→東」などの嘘つき騙しの、
安部文部省や専門家を称する似非大和説学者に忖度して、
同じ不正をして、バレて、自殺に追い込まれる、
それが似非大和専門家の弟子の大和説者。
0845日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 07:54:21.43
>>841
お堂みたいな建物というからには、そりゃ、後世に建てたお堂だろ。
0846日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 08:00:02.29
>九州には、「大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」に適合する祇園山があるから、
苦しまないが、

短歩(笑)なんだろ?
短歩なんて言葉がないから一発変換もできないだろw
0847日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 08:00:33.55
>>841
ならば、お堂みたいなのが建てられていない墓は、冢ではないということだな
0848日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 08:08:23.86
冢は縛った豚を抱えた象形だから埋葬するところが冢
墳は堤岸の意味でも使われるように何も埋葬してなくても高地が墳
0849日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 08:08:59.50
>大和は、適合する墓が全く見つからないから苦しむし、

基本、前期古墳は山稜にある。
しかし纏向古墳群は低地であり山稜ではない。

大和の山稜に適合する墓があるのだ。
日本の聖地・高天原だ。
http://goo.gl/maps/eceRu94JmwR2

埋葬された奴婢とは土蜘蛛だ。
ヒミコの時代、その土蜘蛛を征した人物が神武だ。
0850日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 08:10:42.36
>>480
>冢:高墳也。 墳:墓也。 これが説文解字の墳と冢の説明<

説文解字は、まず墳を「墓に土にを盛ったもの」という認識を示し、
冢は、その「墳に含まれるもので、高さを感じられるもの」という解釈をしている事になる。

>墳が単に墓の事を指しているので冢は「高い墓」と言う事になる<

「高さ」を指定していないので、単に「形容詞的」な説明であった事になる。

>方形台状墓は丹波周辺に弥生時代後期から見られ、四隅突出型なども弥生時代中期末から見られる
これ等の地域は古くから大陸との交流の痕跡が多く見つかっており、卑弥呼の生前の墓制 <

いずれも「(底面部と比べて)高さを感じられない」墳丘墓。

>また中国においても皇帝墓などは台状や円錐状の大きな盛り土墓であるために、<


円錐状であっても、高さを感じられれば「冢」とも説明される事もある。

>殆ど地表面と変わらない高さの方形周溝墓を「冢」と称するとは考えにくい<

「高さが感じられない」から、当然の事。

>大陸でも見られる殆ど盛り土をしない方形周溝墓などではなく
倭人の習俗として描いている塚は方形台状墓、四隅突出型が適格だと言える<

高さを感じられないのであれば、「冢」とは言えないし、
魏志韓伝の「居處作草屋土室、形如冢」のような形でなければ、「冢」とは言えない。


そしてこれらの前時代の墓を超える卑弥呼の墓とはこの時期に登場した古墳であることが明らかとなる
0851日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 08:15:32.01
40年間掘り続けて小さな柱穴の建物しか出なかった纏向遺跡になんで大きな掘立柱穴が出たのか。
大きな建物を作るには、それなりの財力・権力が不可欠。
辺りにそれらしいものが見られないのに大型建造物は信じられない。
それも、1mもある方形の柱穴で(弥生の大きな柱穴は円形だそうだ)大変珍しいとか……
5・6世紀でも珍しい方形の柱穴が弥生時代に出るとは。やっぱり、発見当初の見立てのように7世紀後半の建物跡ではないか。
柱近くの溝から庄内式土器の欠片と布留式土器(4世紀以降の土器)の欠片も一緒に出たのなら、すくなくとも4世紀以降の遺構であることは確実。
不確実な炭素年代法だけで大騒ぎするのは材料不足ということだろうな。
0852日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 08:21:35.17
>>481
>>国には王がいるだろ。
其の国は男王が続いてたが一時期女王になったというお話。<

>その女王を共立したのが、前王でも男王でも男王の一族でもなく、
その国の有力首長層の談合だっていう話 <

後漢書倭伝の記載する「倭や倭国」」の地は、
志賀島の金印や、唐会要倭国伝の「正北抵新羅」の、北部九州の倭国を指しており、
その地で帥升等や卑弥呼が王として存在していた、
という事を明らかに主張している。

>国=王じゃない たぶん、>>446は頭が悪いんだと思う<

この男も、たぶん、史料記載を曲解否定改竄する嘘つき騙しをする、
例の「大和説」狂の人種だろう、と思う。・
0853日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 08:22:55.53
>>482
この男も、たぶんじゃなくて確実に・・・・。
0854日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 08:33:23.03
>>483
>あほかw 前王権が滅んでないならその王権の中から女王を選ぶだろ。<

あほか?w。
「前王権が滅んだ」なんてどこにも書かれていないだろ?。
要するに、倭國地域で戦乱が続いて、そのために卑弥呼が共立されたってだけだ、って事。
0855日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 08:36:33.52
>>852
>志賀島の金印

発見地も発見状況もあいまい、考古学的根拠はゼロw
本来、国宝にするべき代物ではない。

あれを国宝にしたのは唱和6年、満州事変の年の軍部。

あんた極右の言う事を信用するんだ?w
君は本当は極右の大殺戮者なんだろうねw
0856日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 08:37:01.92
>>485
頭の悪い人と、思い込みの強い大和説人種というのは、結構カブるね。
自分の上司や思想宗教的主観を絶対視しちゃって、
史料事実などの正確な解釈や立証の必要性に思い及ばないってこと自体が、
頭の悪さを表してるんだろうけと。
0857日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 08:39:35.98
>>854
>あほか?w。
>「前王権が滅んだ」なんてどこにも書かれていないだろ?。
>要するに、倭國地域で戦乱が続いて、そのために卑弥呼が共立されたってだけだ、って事。

あほか?w。
「前王権が滅んだ」なんてどこにも書かれていないだろ?。
要するに、倭國地域で戦乱が続いて、そのために卑弥呼が共立されたってだけだ、って事を言ってるのだがw
0858日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 08:40:00.41
>>851
同意
桃の種が3世紀でもいいと思う
日本全国 3世紀に何もなかったとは考えられないから
炭素年代法で3世紀と出るものは纒向に限らず全国
ゴロゴロころがっているとみるのは常識
0859日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 08:45:27.21
>>491
長い戦乱があったんだから、権威の失墜はあっただろうね。
でもそれは、共立参加があった、と推定されるので、前王権の滅亡や断絶を意味しない。

>魏志に書かれているのは女王を出すことでなんとか継続した王権の姿だ。<

前王権が、「女王を出した」のか?、も判らない。
要するに、卑弥呼という女性なら、(狗奴國以外の)戦争当事国も納得出来た、って事だ。
0860日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 08:46:11.44
たくさんの人夫で土木工事するなら
大きい建物が必要。
たまには桃を大量に漬け込んで発酵させた
酒を振る舞うことも必要。

醤油がない時代、小鯖や雑魚を漬け込んだ魚醤は
人夫の食料の添え物として役立った。
0861日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 08:47:11.85
>>817

中国人が魏志倭人伝を読むと、九州説にしか読めないんだろう。
0864日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 08:49:03.19
>>838
ちょっと直すよ。
ありがと。
0865日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 08:52:18.01
>>862
帯方郡(旧公孫氏領)以南では、魏志倭人伝はどういうわけかみな短里で書かれいるんだよ。
理由ははっきりしないが、それは事実。
まず事実を受け止めて、それから原因を探ってみて。
0866日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 08:55:31.31
桜井市で
「柿の種」に対抗して
「桃の種」の銘柄で、あられを売りだしたらどうだろうか。
0867日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 08:59:59.60
>>498
>なるほどな、女王が前の男王の王統から継承した だから九州説だと言いたいわけだ
だが男王=九州王だと言う前提で語っているがその記載はどこにもない<

いや、後漢書は「倭や倭国」地域の話として記載しており、
その倭國は当然、唐会要倭国伝の「正北抵新羅」の国であるから、
北部九州にあったのであり、その中で男王も卑弥呼も出現したのであるから、
皆、北部九州の倭地の王だ。

>金印を与えた奴国としても、その奴国は特に記載のない国の一つとして書いてる
伊都国の事も邪馬台国と別記なのでむしろ確実に別な国の事だと分かる<

金印の国は、委奴國若しくは倭奴國であり、奴國だ、とは言えないし、
邪馬台国なんて存在もしない。

>つまり卑弥呼はどこの地域の人物だって該当することになる <

ならない。
北部九州以外の人であれば、魏志も後漢書も当然その旨を記載する。

>そうなると複数地域の諸文化を結集して作られた祭祀遺跡、古墳を持つ畿内と
その周辺の事を指していると考えても
別に何にもおかしくないことになるな<

ならない。
畿内なんて存在もしない嘘つき騙しの造作語であるし、
中国は、倭国や倭地は、倭国や倭地は、「正北抵新羅」に拠って、北部九州の話である、と知っている。
0868日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 09:07:43.90
桜井市で
「柿の種」に対抗して
「桃の種」の銘柄で、あられを売りだしたらどうだろうか。
0869日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 09:16:17.32
>>865
存在し得ない単位で書かれるわけないのに不思議だねー
何かの間違いじゃないの
0870日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 09:17:25.04
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 
0871日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 09:28:26.76
>>869
東夷伝の地名と実際の地理を自分で見比べてみな。
0872日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 09:29:27.05
「そんなはずがない」
「あり得ない」
「何も見えない聞こえない」
「あーあーあー」

キナイコシの現実逃避
0873日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 09:30:40.15
>>656
魏志倭人伝には銅鏡は100枚貰ったと出てくるから
「尚方作」の方格規矩鏡が下賜鏡だとしても21枚しか見つかってない九州は
邪馬台国じゃなくなるな
0875日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 09:35:17.11
>>500
>葛城にに王権がないなんて意味が分からない。
そして彼らの聖地・高天原に径百余歩の奴婢が埋葬された塚もあるし。<

「南≠東」などに拠って、×。
0876日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 09:38:05.06
>>501
>安帝以降に継続して朝貢した形跡も無い 王権なんて有ったかどうかも怪しいだろう<

長い戦乱は、当然「支配権や王権」に関する争いさ。
0877日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 09:39:38.97
>>869
そりゃ、認識手順が逆だ。
倭人伝という史料に存在してるんだから、理由はともかくそこにあったわけだ。その事実が最優先される。
0879日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 09:42:31.99
>>869
ま、あれだ。
出来ちゃったものを、何かの間違いじゃねえの・・・、と反省してみても、もう遅いわww
0880日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 09:45:20.61
>>505
>つまり倭人伝の記載からはその王とやらはどこの誰かも分らん存在と言う事だな<

いや、「どこの誰かも分からん存在」では、共立されない。
戦乱当事国双方が、ある程度の関係もあり、知っている女性でなければ、共立されない。

>強いて言うなら奴国も伊都国も別口として書いてるから除外されると言うのは確実だな<

奴國も伊都国も、ある程度関係もあって知っている女性でなければ、
共立にOK出来る筈がないる女性。
0881日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 09:46:04.59
>>877
百メートルの所が間違って50メートルになってる地図を見て
おヌシは通常より短い短メートルで書かれてると思うか?
そういう事だ
0882日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 09:46:51.08
お爺さんは学問とは無縁なので好きな里を信じたらいい
0883日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 09:48:04.44
>>507
>2人の女王が住んだのは葛城。
そして高天原に径百余歩の奴婢が埋葬された塚。<

「南≠東」などに拠って、×。
0884日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 09:50:45.69
>>513
>1は安帝時朝貢が傾いた漢室のやらかしたヤラセショーって説でしよ?<

ふーん?。
スレ主も、一種の・・・・詐欺師であった、って事か。
0885日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 09:51:05.57
魏の里は1里約400m
それに照らし合わせて違っているなら
それは間違いが記載されているという事だ
0886日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 09:51:46.06
>>865
>帯方郡(旧公孫氏領)以南では、魏志倭人伝はどういうわけかみな短里で書かれいるんだよ。

短里などはない
場所によって4倍も伸び縮みする単位などはない

>理由ははっきりしないが、それは事実。

短里ではなく、万里の修交をうたうために、九州上陸までを万里になるように
誇張した数値を適当に置いただけ
全体の萬二千里は淮南子等に見られる漢土の外の世界が萬二千里という、
大陸中華の世界観における世界の果てまでの距離を当てたもの

誇張した数値を使うのは、晋の高祖司馬懿の公孫氏討伐の功績を、より大きく見せるため
理由も原因もはっきりしている

誇張した数値を実距離に当てはめて考えようとするから、誇張した分だけ短く見えるだけ
短里などはない

>まず事実を受け止めて、それから原因を探ってみて。

原因ももうはっきりしている
短里などないという事実を受け止めて、九州説が成り立たないことに早く気づくといいね
0887日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 09:57:14.68
>>516
>ヒミコの時代だよ。
女王国をごまかすために書かれたのがマッチョな神武東征紀。<

二中歴の、
「年始五百六十九年内丗九年無号不記支干其間結縄刻木以成政 
継体五 元丁酉(五一七〜五二一)・・・」において、
517−239−569×239=−660
が成立するから、
書紀の神武即位元年は、紀元前91年頃。 
0888日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 09:57:39.29
>>886
君の言い方だとどの説も成り立たなくなる
0889日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 10:02:11.27
魏志倭人伝の記述では邪馬台国に向かうには
どう読んでも九州北部から船出をする
頼みの綱の魏志倭人伝にすら否定される邪馬台国九州北部説哀れ
0890日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 10:14:42.01
>>881
>百メートルの所が間違って50メートルになってる地図を見て
>おヌシは通常より短い短メートルで書かれてると思うか?

あのな、「間違って50メートルになってる」のなら、
それは「長メートル」で書かれているからだ。そこんとこ、お間違いなく。
0891日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 10:18:04.74
九州説がもし説得力のある主張をしたいなら
1万2千里は距離的には間違いだけれどそれは九州を指していると
そう主張するべき
と言っても短里だー短里だーを止めないんだろうけど
0892日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 10:18:38.09
やれやれ、畿内大和夷人は理数系にブチ弱いんだな・・・。
0894日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 10:25:19.48
>>892
理数系にとてもお詳しい九州説様
そちらの主張の資料がプラズマ化されると原子崩壊が促進され
年代測定が古く出てしまうというメカニズムをわかりやすく解説して下さいませんか
0895日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 10:33:01.00
畿内説を宣伝する係員達が、博物館の催し物に、殆ど駆り出されてしまって、窓際の一番頭のレベルの劣った者が、一人で宣伝しているのではないのかな。。。
0896日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 10:35:18.87
>>895
そうだね、、、
資料がプラズマ化されると原子崩壊が促進され
年代測定が古く出てしまうというメカニズムをわかりやすく解説してあげても、理解することが不可能な人物ではないのかな。。。
0897日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 10:36:44.85
資料がプラズマ化されると原子崩壊が促進され
年代測定が古く出てしまうというメカニズムは、化学研究の国家機関では、常識だったな。。。
0898日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 10:38:20.04
>>896
たぶん誰にも理解出来ないと思うよ。。。
そんな現象世界のどこでも確認されてないから。。。
0899日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 10:40:17.36
>>522
大和説=嘘つきバカとか忖度アホとかを、喧伝してくれるのは構わないんだが、
やりすぎはダメだろ。 武士の情というものがある。
0900日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 10:41:22.26
>>530
今日も忖度大和説の、嘘つき騙しの涙目の負け惜しみが心地いいなぁ。
0901日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 10:41:26.38
>>891
短里だー、短里だーと、さも中華に長短2種の法があるかの如く語った人はもういない。
陳寿が、帯方郡を起点に萬二千里をかっこよく割り振ったのだが、
それが、たまたま一寸千里の法の尺度に近かっただけなんだろ。
0902日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 10:42:02.12
プラズマ化が原子崩壊を促進する現象は
九州説の脳内にしか存在しないのではないかな。。。
0903日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 10:42:36.84
資料がプラズマ化されると原子崩壊が促進され
年代測定が古く出てしまうというメカニズムが、我が家のテレビを破壊した可能性が高いな。。。
0904日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 10:45:25.60
畿内説を宣伝する係員達が、博物館の催し物に、殆ど駆り出されてしまって、窓際の一番頭のレベルの劣った者が、優れた考古学者達に次々に論破され、一人で宣伝することを諦め、テレビのカタログを研究することを開始してサボっているのではないのかな。。。
0905日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 10:48:13.47
902番の意見を発表した人物は、公式の畿内説スレッドや、火星人降臨纏向説スレッドを、荒らして倉庫に送りつけようとしている人物ではないのかな。。。
0906日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 10:49:26.75
>>542
で、都合が悪くなると、
「前方後円墳も庄内式も大和発祥だからこれが邪馬台国の証拠だ!」
とか言い出すから笑えるよなw。

「邪馬台国」なんて存在もしないし、
「南≠東」で大和は始めから×だし、
卑弥呼の「冢」の庄内の祇園山のでさえ、前方後円墳ではないし・・・。

邪馬台国の会の奴らが叫んでて吹いたwww
0907日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 10:52:01.04
祇園山の長さは「短歩」だそうだwww

pcで一発変換できない。
そんな言葉がないからだwww
0908日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 10:52:01.39
>>901
一寸千里も観測地がここだったとしてと恣意的に操作して
1里約80mを導き出してるだけだからな
実測値じゃない机上の数値という事は確実なのに
0909日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 10:52:54.36
>>906の訂正
「南→東」などの嘘つき騙しの、
安部文部省や大和説学者らへの忖度の会の奴らが、叫んでて吹いたwww。
0910日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 10:54:44.14
>>543
まぁ大和からは、卑弥呼や倭国の証拠が、何一つ見つかってないから、
仕方ないよな。
0911日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 10:57:02.25
>>548
何も出ないから分析する物がなんにもない、
なんて大和説は、楽でいいねぇ。
0912日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 11:03:22.07
>>550
>は? 三世紀前半の溝からベニバナの花粉が出たんだが?<

は?。 纏向の庄内も前方後円墳も絹も、筑紫よりも卑弥呼の頃よりも50年位後であり、
三世紀末以後なんだだが?。
0913日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 11:03:34.52
海を千里渡ったということと、官のいる場所に辿りついたということは、違うのだったな。。。
0914日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 11:06:42.67
>>913
そうだな、、、
だから、魏志倭人伝の作者は、島の大きさにも注意して、女王国の境界線までが一万二千里だと発表したのだったな。。。
0915日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 11:08:27.95
>>556
おかしい。
倭人伝に倭国王卑弥呼の頃の都は邪馬壹国と書いてあるが、
帥升らの頃や長い戦乱の頃の都の場所は、書かれていない。
0916日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 11:09:58.58
>>914
そうそう、女王国の境界線は、その境界が尽きる奴国と伊都国の境界線に合致したのだったね。。。
だから、魏志倭人伝で一里の長さは考える必要が無いのだったね。。。
0917日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 11:16:59.34
>>914
それでは明らかに会稽とかいう南の方にならないんだよね
つまり短里なんてものは存在しない

晋の史官が見たことも聞いたことも無いような代物だ
0918日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 11:19:11.83
>>557
>九州は弥生時代後半から鏡は5〜6期の古い物を打ち割って細々と配り
完形鏡が見つかるのは4世紀後半から5世紀後半の古墳から
なんと300年くらいの間鏡を中国から手に入れられなくなっている<

これが全くの嘘つき騙しね。
後漢鏡が出ているし、
明帝の下賜の蝙蝠鈕座内行花文鏡や「尚方作」方格規矩鏡が出ているし、
渡来の呉系楽浪鏡師らの△も一杯出ているし、
那珂八幡の△や、銚子塚の黄金鏡も出ている。

>絹は粗悪な破片が少しだけ出てくるだけ
こんなもんで良いなら纏向の小袋の方がよっぽどマシ<

久留米からは、「金刺繍の絹織物」が出ている。
0919日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 11:19:31.77
>>916
>そうそう、「女王国の境界線」は、その境界が尽きる奴国と伊都国の境界線に合致したのだったね。。。


正しくは「女王の境界」だ。女王国と女王、両者には大きな違いがあるのだが、お分かりかな。
0920日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 11:20:40.73
>>561
何も出ないから何も考えないで良い大和説は気楽でうらやましいねぇ。
0921日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 11:26:50.03
畿内説を宣伝する係員が、頭の悪さを公表したな。。。

917 名前:日本@名無史さん 2018/10/06(土) 11:16:59.34
>>914
それでは明らかに会稽とかいう南の方にならないんだよね
0922日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 11:28:53.69
>>569
「南→東」などの嘘つき騙しのバカの大和説は、
「弥生時代を通じて」とかがまだ通じると思ってる間抜けの集団だから笑える。
そのバカ表を見て浮かれあがって「すげー!大和最強おおおおお!」とか思い込んで、
こうやってアホなことを喚き続けると、
鏡も絹も3世紀末になって、ようやくおこぼれ貰う段階まで待たないといけない。
挙句の果てには、
古墳出土物を平気な顔で「存在もしない邪馬台国」の証拠、とか言い出すしw...。
で、それが極まると、
古墳こそ大和の物!だから、(存在もしない)邪馬台国!とか喚きだす
本当にバカは笑えるww。
0923日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 11:31:48.67
>>886
>場所によって4倍も伸び縮みする単位などはない

縮みはしているが、伸びてはいない。
0924日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 11:32:52.19
>>889
郡使は伊都に駐在し、福岡から東は伝聞情報しかない。
0925日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 11:34:49.83
後漢書における邪馬台国までの里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。

魏略逸文における里程
帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。

魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国まで七千里、女王国まで一万二千里。
対馬海峡が三千里であり、帯方郡から九州上陸までで一万里となるので、邪馬台国の位置は九州北部になる。

魏志倭人伝の邪馬台国までの日程
帯方郡から邪馬台国まで水行10日、陸行1月(1日の誤りか)
ちなみに帯方郡から投馬国(宮崎都万)まで水行20日

邪馬台国時代の遺物の出土状況
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/image/zu11.gif
0926日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 11:37:02.74
>>921
畿内説を宣伝する係員達が、博物館の催し物に、殆ど駆り出されてしまって、窓際の一番頭のレベルの劣った者が、一人で宣伝しているのではないのかな。。。
0927日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 11:40:39.62
>>926
窓際の一番頭のレベルの劣った畿内説を宣伝する係員は、女王国の境界線と、沖縄まで広がっているマッチョな倭人の住宅範囲を、混合しているな。。。
0928日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 11:42:30.26
>>918

>久留米からは、「金刺繍の絹織物」が出ている。

これホラだろ
0929日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 11:43:23.40
>>927
そうだな、、、
三国志の作者は、マッチョな倭人が沖縄でも活動していたことを、発表しただけなのにね。。。
0930日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 11:46:13.70
僕たちの特徴を真似た、謎の考古学者が出現し、僕たちが発表しようとした同じ意見を先に発表した可能性が高いな。。。。
0931日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 11:46:36.55
>>570
呉系楽浪鏡師らから教わって造った、なけなしの粗悪な副葬用の鏡をお宝にするとか、
貧乏臭くて哀れみさえ感じるなw。
卑弥呼の時代を通り越して3世紀末になって、
ようやくホケノの画文帯鏡一つ手に入れる事が出来たド田舎。
そしてようやく九州倭国勢力の東征毛人に与して、
そのおこぼれを貰って鏡が出てくる下っ端。

大和の現実を受け止められない可哀想なバカ集団。
それが大和説。
0932日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 11:47:31.61
クロ現やな?
0933日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 11:52:41.26
マッチョの正体は江南人だな
0934日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 11:55:31.72
江南人が米運んだはあるな?
0935日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 11:56:55.08
>>576
>>その百歩は短歩。<

>短歩って何だよww
もし150mくらいの円墳が見つかったら卑弥呼の墓だと大騒ぎする癖に。
勝手なもんだw <

「大騒ぎ」なんてしないよ。
大和のものが「南≠東」に拠って否定するだけだし、
九州なら、「150mくらいの円墳」なんて存在もしないし、
見つかれば、九州の「其餘旁國」などのどこかの国が変な墓を造った、と思うだけ。
0936日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 12:00:08.23
マッチョな倭人は論衡に登場してるな?
0937日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 12:01:05.42
離島マッチョは小柄だから
頭髪剃りくり上げ下半身丸出し短小の州胡だろ
0938日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 12:04:23.12
>>586
何もない大和説は説明するものが何もなくて楽ちんでいいねぇ。

鏡もない(3世紀末以後のホケノが最初)
絹もない(これも3世紀末)
祭祀遺跡もない(桃でも吉備に負ける出ベル)
大きな墓もない(前方後円墳や巨大古墳も、3世紀末以後)
宮城もない(本当に何もない)。

うらやましいなぁ。
何一つ説明するものが無くて楽そうで良いわぁ。
0939日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 12:05:16.52
済州にも流れ着いたんやろ?
0940日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 12:06:08.92
>九州なら、「150mくらいの円墳」なんて存在もしないし、

そうだね、存在しないね。
卑弥呼がいたのは九州ではないからだよ。

でも大和には存在するのだよ。
と言っても箸墓という瀬戸内下人の墓ではない。
もっと気高い神々の住む場所なんだ。

径百余歩で奴婢が埋葬されてる「冢」はここ。
場所は高天原にある日本最古の式内・名神大社境内。

http://goo.gl/maps/F9GzHvVGSX32
0941日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 12:08:01.92
>>939

江南人って頭髪剃りくり上げ下半身丸出し短小なの?
0942日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 12:11:57.45
短里の報告を長里と思い込めば、邪馬台国が実際の場所(九州北部)より南、つまり会稽の東にあると思い込んだだろうね。
0943日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 12:14:43.31
>>590
いやーうらやましい。
3世紀半ばに何一つ出てこないに大和は、
何も説明もしなくてうらやましいわぁ。

うらやましい。
0944日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 12:17:49.11
ん?越中ふんどしくらいしてたんじゃね?
0945日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 12:18:08.14
>>594
>つまり邪馬台国とは葛城である<

邪馬台国なんて存在もしないし、
「南≠東」に拠って文部省や×。
0946日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 12:20:16.10
>>942
誰が一体なんで短里なんかで報告するんだ?
報告する相手は短里なんて知らないのだろ?
0947日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 12:20:37.35
>>597
何一つ見つからないから、
すぐに九州の物を欲しがって「みんな大和の物だ!」とか喚き散らす乞食。

それが大和説 。
0948日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 12:21:42.98
短里が常識の世界ではそんなことを気にしない。
同じ里という名称の単位だと、食い違いに気がつけない。
0949日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 12:23:49.03
チワン族ぽいな
0950日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 12:39:06.04
>>924
じゃあ伊都は少なくとも確実に邪馬台国じゃあないな
隣の奴国も
このように当時の魏使の記録によって九州北部説は確実に葬られてしまう
0951日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 12:42:52.48
邪馬台国時代の倭国は外交も内政も伊都が拠点だったので、伊都が都だったと考えられる。
0953日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 12:47:20.18
>>948
つまり鎮守や晋の官僚にとっては
「短里」とかいうモノって
非常識だったんだよね
0955日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 12:49:18.89
>>952
>邪馬台国時代の倭国は外交も内政も伊都が拠点だったので、伊都が都だったと考えられる。

それ、なんか証拠あるの?
0956日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 12:56:44.04
>>601
>九州説は二言目には
「畿内あるものは全部僕たちの物なんだもん!だから邪馬台国なんだもん!」だからな<

畿内も邪馬台国も存在もしない嘘つき騙しであるから、そんな事を言う筈がないし、
大和は九州倭国の「別種の旧小国」などという事しか言わない 。

浅ましい浅ましい。
纏向というような、めぼしいものが何も見つからないと、
こういう見苦しいバカに育つんだなぁ。
0957日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 12:57:45.98
大率が検察していたのは、伊都から北にある対馬海峡の国々だよ。
伊都を監視していたのではなく、むしろ伊都が主権を持っていた。
0958日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 13:00:46.13
>>607
卑弥呼の都や墓の証拠が、何一つ見つからない大和は、
何も説明しなくて楽でいいなぁ。
しまいには「南→東」などの嘘吐き騙しをし、
九州の遺跡を全て、浅ましく乞食みたいに欲しがる醜いザマをみせる。
哀れだなぁ。
0959日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 13:03:55.31
>>952
短里・長里について、特殊というか、なんか浮世離れの理解をしてるようだね。
短里・長里といっても、現地の距離自体は変わらない。
変わるのは、ものさしの長さだ。
ものさしの長さは、時代や地方や計る人間によって簡単に変わる。そこを抑えてかかるべしだな。
0960日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 13:03:58.96
>>957
違うわい
一大卒が監視していたのは道のりを示せる国々
つまり対馬国〜投馬国
魏志倭人伝の記録の上で邪馬台国はそれより南にある国になってるから
0961日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 13:05:44.97
>>608
九州でも宮崎や熊本なら奥津城なので王都であったという説も分かるけど。
大和だけは絶対ない。
大和は、単なる
「九州倭国から別れた別種の旧小国で、九州倭国の地方の市を監督する大倭職の国」
であったんだから、
一種の防人の土地。
0962日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 13:10:04.32
>>610
3世紀末のホケノ古墳からようやく見つかる鏡で、卑弥呼の都。
九州から広まったちっこい方形周溝墓で?、卑弥呼の都。

これが大和説。
大爆笑。
0963日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 13:13:02.40
>>957
倭人伝の時代、倭国の王は女王であり、鬼道を用いた女王卑弥呼の都は邪馬台国内にあった。
其の卑弥呼の命により、一大率は伊都国に常駐した。
率は後世の師で、軍事をつかさどるいわば征夷大将軍であり、決して王ではなかった。
0964日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 13:14:09.91
>>959
ほやから魏で見つかってるものさしは約1尺24cm
律歴志の記載から魏の里は1里=300歩=1800尺
よって1里約430m

魏の人間が距離を測る以上はこれ以外使いようがないし
記録上で1里約430mになってない箇所は計測のミスをしている事になる
実際のとこは陳寿がこの世の果ては1万2千里伝承に寄せたんだろうけど
0965日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 13:27:28.57
>短里とされるものは実際に計測すると1里40mから180mくらいになるぞ<
測量誤差
0966日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 13:27:42.14
>>964
ものさしの長さは、時代や、地方や、計る人間や、職業によっても簡単に変わる。
時と場合によっては、長さの違うものさしを、腰に何本も差してる人もいて、その時々で使い分ける。
長さの単位といってもその程度のことさ。
0967日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 13:31:17.45
>>960
投馬国は里程がない。
それ以外は対馬海峡の国であり、邪馬台国はその南、つまり九州にあります。
0968◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/06(土) 13:31:57.52
新スレ立てました。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1538797864/
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
0969日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 13:32:14.30
>>964
>魏の人間が距離を測る以上はこれ以外使いようがないし

だって邪馬台国は魏ではないものw
0970日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 13:38:06.95
>>966
やから
魏の人間は距離を測るなら魏のものさしを使うだろ?
それ以外を使う理由もないから
どういう理由でそれ以外を使ったと主張する気か
まさか東夷では短里が使われていたからとか言わんよな
0971日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 13:40:35.92
測ったのは帯方郡の人間がその下請けだろ。
もともとは魏ではなかったんだよ。
0972日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 13:42:56.71
>>967
九州にありますと言われても
ないから

ついでに投馬国〜邪馬台国も水行するから
九州の地からどうやっても船出はするという事になる
0973日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 13:44:13.03
>>969
訪ねてきたのは魏の人たちなんだが
0974日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 13:44:15.06
>>971
もともとは漢だったよ
0975日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 13:45:55.77
>>971
そいなら使われるのは魏とほぼ変わらない漢里
魏に滅ぼされる前まで帯方に居たのはもと漢の役人の公孫氏
そしてそれ以外の東夷は里を知らないから
0976日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 13:46:21.74
>>970
長さの単位まとめて全部公孫が東夷に広めたんやろ?
0977日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 13:49:09.94
>>975
董卓絡んでるの知らんのか?
0980日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 13:53:16.80
>>970
東夷で、短里が使われていたかどうかオレは知らん。
しかしどう見ても、
倭地を調査した帯方郡の役人は、野蛮人・東エビスの地では、一等短いものさしを使ったんだろ。
結果の数字を見ればそれしかないわ。ただそれだけのこと。
0981日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 14:01:58.96
>>980
あのな
例えば現代日本の役人が離れ小島の面積でも測るとして
マイルで計って、しかもそれをメートルと表記すると思うか?
いや思うかも知れない
思うから九州説なんだなきっと
0982日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 14:02:31.94
>>979
公孫度字升濟本遼東襄平人也なんたらかんたら同郡徐榮為董卓中郎將薦度為遼東太守度起玄菟小吏為遼東郡所輕なんたらかんたら

漢帝屁ともおもわんかった董卓が漢単位押し付ける理由ないんじゃね?
0983日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 14:06:31.95
つうか董卓君が都ごと物差し焼き払ったんやろな?
0984日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 14:07:00.87
もうだんだんコントになってきたな
九州説のボケに何でやねーんと突っ込む
0985日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 14:07:32.38
何一つ見つからない九州説は今日もバカ丸出しのぼくちゃんの脳内の行程を喚き散らして畿内スレを荒らすお仕事か
0986日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 14:11:42.05
ん?普通に430mの里単位ではないと思いますけど?
また山海なんたら持ち出すのか?
0987日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 14:12:51.55
>>982
だからって漢里を変更する理由もないんじゃね
日本も鬼畜米英とかやってた頃に尺貫法じゃなくてイギリスも使ってるメートル法使ってたし
0988日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 14:15:50.42
東夷伝の長さ単位は行程の他にも1/5くらいで考えた方がええの色々あるしな
山海由来の小人のは逆ベクトルですけど?
0989日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 14:16:07.20
>>986
魏の役人が使うとしたら魏里
それに合ってないなら計測ミスか何か
実際は陳寿のこの世の果ては1万2千里という伝承に寄せて書かれた記述
0990日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 14:17:08.41
山海おじいちゃん戦中派か?
0992日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 14:20:43.77
>>990
鬼畜米英と書かれてるとすぐに戦中派とか言い出す短絡かつ倫理的思考の欠如
これがまさに九州説の本質
0993日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 14:24:47.20
やっぱ九州説派は根本的に歴史に向いてないな
何げに史学はロジカルだから
0994日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 14:24:47.90
ん?戦前派でしたか?
0995日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 14:29:09.82
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 
0997日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 14:30:35.16
>>東夷伝の長さ単位は行程の他にも1/5くらいで考えた方がええの色々あるしな
山海由来の小人のは逆ベクトルですけど?<

良くないよ
魏で使われていた単位とは明らかに違うから<

魏で使われていた単位とは明らかに違うてわかってますやん
0999日本@名無史さん垢版2018/10/06(土) 14:31:54.19
>>619
3世紀前半の卑弥呼の時代よりも、50年以上後の3世紀末以後の物を持ち出して、
卑弥呼の都でございます 。

これが忖度大和説の能無しども。
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