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邪馬台国畿内説Part388
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00011 ◆xwjzAyxf0s 垢版2018/10/15(月) 19:41:46.09
邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ

https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1539369242/
00021 ◆xwjzAyxf0s 垢版2018/10/15(月) 19:43:22.04
◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。
00031 ◆xwjzAyxf0s 垢版2018/10/15(月) 19:46:11.19
1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、
飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
00041 ◆xwjzAyxf0s 垢版2018/10/15(月) 19:49:13.18
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、
死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある 
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
00051 ◆xwjzAyxf0s 垢版2018/10/15(月) 19:50:04.06
の地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
00061 ◆xwjzAyxf0s 垢版2018/10/15(月) 19:50:39.34
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
00071 ◆xwjzAyxf0s 垢版2018/10/15(月) 19:53:09.63
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
00081 ◆xwjzAyxf0s 垢版2018/10/15(月) 19:56:20.18
 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、
箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、
これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
00091 ◆xwjzAyxf0s 垢版2018/10/15(月) 19:58:27.30
 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される
初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
00101 ◆xwjzAyxf0s 垢版2018/10/15(月) 20:00:39.30
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
00111 ◆xwjzAyxf0s 垢版2018/10/15(月) 20:05:46.93
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。

 
 
00121 ◆xwjzAyxf0s 垢版2018/10/15(月) 20:07:24.05
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
00131 ◆xwjzAyxf0s 垢版2018/10/15(月) 20:08:22.12
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、
敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
00141 ◆xwjzAyxf0s 垢版2018/10/15(月) 20:09:21.61
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
00151 ◆xwjzAyxf0s 垢版2018/10/15(月) 20:10:57.07
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。
纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
00161 ◆xwjzAyxf0s 垢版2018/10/15(月) 20:12:19.54
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
00171 ◆xwjzAyxf0s 垢版2018/10/15(月) 20:12:50.56
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
00181 ◆xwjzAyxf0s 垢版2018/10/15(月) 20:13:23.81
◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
00191 ◆xwjzAyxf0s 垢版2018/10/15(月) 20:13:50.04
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
00201 ◆xwjzAyxf0s 垢版2018/10/15(月) 20:15:26.94
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、
これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、
畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した
00211 ◆xwjzAyxf0s 垢版2018/10/15(月) 20:17:01.19
◆6−2
 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、
こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
00221 ◆xwjzAyxf0s 垢版2018/10/15(月) 20:17:56.70
◆6−3
 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、
近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
00231 ◆xwjzAyxf0s 垢版2018/10/15(月) 20:18:33.89
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、
このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
00241 ◆xwjzAyxf0s 垢版2018/10/15(月) 20:19:44.12
◆7−1(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
00251 ◆xwjzAyxf0s 垢版2018/10/15(月) 20:20:56.86
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、
ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、
その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
00261 ◆xwjzAyxf0s 垢版2018/10/15(月) 20:21:32.06
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
00281 ◆xwjzAyxf0s 垢版2018/10/15(月) 20:22:57.28
◆7−2
 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、
前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、
中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。
土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、
邪馬台国九州説にとって絶望的である。
00291 ◆xwjzAyxf0s 垢版2018/10/15(月) 20:23:42.29
◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
00301 ◆xwjzAyxf0s 垢版2018/10/15(月) 20:26:57.25
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★
0031日本@名無史さん垢版2018/10/15(月) 20:28:04.98
なんだか重複しているんだけど...
00321 ◆xwjzAyxf0s 垢版2018/10/15(月) 20:29:16.60
FAQは省略します
長いテンプレの指摘がありましたので

しかし 必要に応じFAQを復活させていただきます
0033日本@名無史さん垢版2018/10/15(月) 20:32:37.72
中国との交流の痕跡がない纒向なんて、邪馬台国ではないよ。
そもそも畿内の中でも、海がない大和盆地は海運による交易網から外れた未開の地だったし。
0034日本@名無史さん垢版2018/10/15(月) 20:33:45.58
邪馬台と書いてヤマトと読む。
倭と書いてヤマトと読む。
つまり邪馬台国とは倭国と同義で、訓読みにさらに漢字を当てただけ。
魏志にある女王国もまた同義である。
卑弥呼の称号は邪馬台国の女王ではなく、倭国女王(親魏倭王)である。

倭国は稲作伝来の地である玄界灘沿岸に成立し、対馬海峡の交易により発展した海洋国家であり、海人の国を意味する「天津国」とも呼ばれた。
生活の基盤が次第に漁撈から稲作と交易にシフトすると博多がその中心として発展したが、卑弥呼の時代には王都は博多からやや離れた伊都国に置かれた。

倭国の都は紀元前から一貫して筑紫、現在の福岡県にあった。
漢の時代に金印を授かり冊封され、女王卑弥呼の時に魏から冊封された。
倭国においては筑紫の他に、豊国、肥国などの有力な国があり、魏志によると東の海を渡ったところにも倭種つまり出雲や近江、越など日本海沿岸に国が続いていた。
畿内は京都も大阪も奈良も、沼地であった。
0035日本@名無史さん垢版2018/10/15(月) 20:34:39.41


有田遺跡は弥生時代前期末でしたが、弥生時代中期の遺跡で絹が出土した遺跡は、
中期初頭の吉野ヶ里遺跡(佐賀県神埼郡神埼町)、中期前半の栗山(福岡県甘木市)、
吉野ヶ里、比恵(福岡市博多区)、吉武高木(福岡市西区)の各遺跡、中期中葉では朝日北(佐賀県神埼郡神埼町)

中期後半では須玖岡本(福岡県春日市)、吉野ヶ里、門田(もんでん:福岡県春日市)、樋渡(福岡市西区)、
立岩(福岡県飯塚市)、三会村(長崎県島原市)、吉ヶ浦(福岡県太宰府市)、
弥生時代後期では吉野ヶ里、栗山、宮の前(福岡市西区)唐原(福岡市東区)の各遺跡から人骨に付着、
あるいは副葬品に付着した形で絹が見つかっています。
何れも福岡県を中心にした北部九州にある遺跡です。

弥生時代に続く古墳時代になると島根県、兵庫県、京都府、大阪府、奈良県、滋賀県、熊本県、静岡県、
福井県、栃木県、茨城県、鳥取県、岡山県など広い範囲で絹の遺物が出土します。

これらの結果から、日本における養蚕の起源は北九州と考えてよいでしょう

畿内は無理がありすぎ  強弁ばかり 
0036日本@名無史さん垢版2018/10/15(月) 20:35:02.61
>>961
九州の地名はたくさん出てくる
なぜなら九州は通過地点だから
目的地は邪馬台=大和
目的地だから大和という畿内の地名は1つしか出てこない
0037日本@名無史さん垢版2018/10/15(月) 20:35:48.21
>>939
その頃、矢部川の川筋変わっただろうから、柳川市大和町OK。
ついでに筑後市も入れよう。
邪馬台国は、大牟田、みやま、柳川、筑後、八女。
うん、大国じゃけ。
0038日本@名無史さん垢版2018/10/15(月) 20:36:40.85
>>397
>卑弥呼の時代の200年は前の 漢の倭の奴国王印だろ
それは北九州志賀島から見つかった
ゆえに北九州は邪馬台国じゃなくて奴国(完)<

邪馬台国なんて存在しないし、
邪馬壹國女王之所都は、不彌國の南にある事になり、
大和では有り得ず、(完)。
0039日本@名無史さん垢版2018/10/15(月) 20:39:19.73
>>480山陽新幹線
お前みたいなドアホ見たこと無い

>>>>
>>477
ああそうだな
魏に援軍を要請したのは卑弥呼か
台与の時代に平定された
それが何か >>>>
0040日本@名無史さん垢版2018/10/15(月) 20:39:56.63
>>476
とぼけちゃいかん。
有明海の最も北の嘉瀬川河口付近から南へ船でいくと書いとるだろう。
九州、四国沖を通って、奈良へ行ったとは書いてない。
神武とこんぐらかっているのとちゃうのか。
0043日本@名無史さん垢版2018/10/15(月) 20:44:38.87
>>989
>箸墓が卑弥呼の墓なら
死んでから箸墓(3世紀後半)に葬るまで卑弥呼はどこに葬られていたのか?
それはホケノ以外にない 径百歩は実測では無い <

実測で無い根拠は?
0045日本@名無史さん垢版2018/10/15(月) 20:46:17.30
>>36
他の地域のヤマトという地名を禁止したんじゃないか?
0046日本@名無史さん垢版2018/10/15(月) 20:46:42.50
>>399

自分のドアホ加減は気づかないだろドアホだからww
0047日本@名無史さん垢版2018/10/15(月) 20:47:32.36
>>36
九州を起点に文化が列島各地に広がって言ったわけだ。
でも、大和が目的地であったというのは、根拠のない妄想だよ。
0048日本@名無史さん垢版2018/10/15(月) 20:48:52.64
>>40
神武の出発地は、福岡県の筑紫の日向。
宇佐を通ったと記録にある。
0049日本@名無史さん垢版2018/10/15(月) 20:49:05.46
考古学の世界では纏向遺跡周辺で、ほぼ決まりな状況です。
九州学説は、既に壊滅状態で、一部は、九州の豪族が、倭の王を名乗って、中国にウソをつきまくっていた。
と言う説で生き残りを図っています。。。。。。。。。。。。。。。
0050日本@名無史さん垢版2018/10/15(月) 20:49:28.15
前スレにレスするのはザラコクだけでたくさんだ。
0051日本@名無史さん垢版2018/10/15(月) 20:50:04.76
あるテレビ番組で、歴史学者?の方が『邪馬台国という国名は、日本の文献にはどこにも出ていなくて中国の魏志倭人伝にだけ記述が見られる』というコメントがありました。
@これは本当でしょうか?

A本当の場合、江戸時代の人は(新井白石とか)は魏志倭人伝の写しか何かを閲覧できたと言うことでしょうか。


Bまた邪馬台国は当時としては7万戸という大国だったはずなのですが、そんな大国が日本の史料には登場しないなんて事は他の例などと比較してもありえるのでしょうか。

回答よろしくお願いします。
0052日本@名無史さん垢版2018/10/15(月) 20:50:23.68
畿内説は、中国に朝貢していた邪馬台国と、初期ヤマト王権を混同している。
0054日本@名無史さん垢版2018/10/15(月) 20:51:50.56
>>47
哀れだな
自分の妄想に気づかないのか
0055日本@名無史さん垢版2018/10/15(月) 20:53:08.65
1
本当です。

2
魏志倭人伝は、日本書紀も引用してあり、漢籍に親しんでいた江戸時代の学者も当然読んでいました。
江戸時代は、漢文が自在に読めることが出世の条件でした。

3
7世紀以前の国内の文献はほぼ失われています。
0056日本@名無史さん垢版2018/10/15(月) 20:55:12.43
大和王権と卑弥関係無いよ
邪馬台国一のアイドルだから可愛かったと思うよ。
中国(魏)でも知られてたくらいだし。


アイドルなら記紀に記述されてたと思うよ


絶対ない奈良説
0058日本@名無史さん垢版2018/10/15(月) 20:55:54.75
邪馬台国はヤマト国 大和国の当て字だろ? なので九州だろ?
0059日本@名無史さん垢版2018/10/15(月) 20:56:34.03
ザラコク ほざくな
お前は既に死んでいる
0061日本@名無史さん垢版2018/10/15(月) 20:58:48.71
>>17

砂丘は論破済みなのに飽きもせず

スレ主は阿保だろ
0062日本@名無史さん垢版2018/10/15(月) 21:00:07.07
考古学者はこう言っています。

邪馬台国 九州説 VS 畿内説 2009年

https://www.youtube.com/watch?v=eEAkOh3lsY0

3分50秒〜

国立歴史民俗博物館 春成氏(畿内説)

「考古学の世界では畿内説でほぼ一致している」

佐賀女子大学 高島氏(九州説)

「九州説は絶滅危惧種」

主な考古学者の見解は畿内説
0063日本@名無史さん垢版2018/10/15(月) 21:00:37.88
●白石太一郎氏

国立歴史民俗博物館名誉教授、総合研究大学院大学名誉教授。
大阪府立近つ飛鳥博物館館長

『古墳の語る古代史』(岩波現代文庫,2000年11月)

「箸墓古墳に代表される定型化した大型前方後円墳の出現年代は、おそらく卑弥呼の没年より十年あまり遅れるが、この成立が、邪馬台国連合の変質、すなわちヤマト政権成立という大きな画期と対応するものと理解される。」

● 都出比呂志氏 大阪大学名誉教授

『古代国家はいつ成立したか』(岩波新書,2011年8月)

「大和は三世紀前半から政治の中心地であることは確かで・・・・
卑弥呼の館は、大和の地で見つかった大型建物の跡、纒向遺跡であることはいうまでもありません。」
0064日本@名無史さん垢版2018/10/15(月) 21:01:05.74
●大塚初重氏 明治大学名誉教授、元考古学会会長

『邪馬台国をとらえなおす』(講談社現代新書,2012年4月)

「よほどの色眼鏡をかけなければ、邪馬台国は北部九州にあったとはいえない」

「王権存立の客観的な歴史的条件を考えれば、畿内地方こそや邪馬台国存在の想定地域であり」
0065日本@名無史さん垢版2018/10/15(月) 21:04:27.63
騎馬台国畿内説崩壊
0066日本@名無史さん垢版2018/10/15(月) 21:04:29.48
私は20年ほど前に興味を憶え邪馬台国に関する著作を何冊か読みましたが、
その多くが畿内説を主張するものでした。

ただその論拠がどれも納得出来るものでは無く、且ついかにも結論在りき的な文章構成に逆に畿内説に懐疑的になった記憶があります。

決定的な証拠が見付からぬ限りはどこまでいっても水掛け論になる命題ですが、単純に地理的に考えて当時の大陸からの日本の玄関口が博多近辺であろう事は間違い無い(←これとて私の思い込みですがw)でしょうから、
それを軸に魏志倭人伝の行程について考えると畿内説は色んな意味で無理がある様に思えるのですけどね^^

ご紹介頂いた学者名・著書名やメルアドを頼りに、もう一度それぞれの説について考えてみたいと思います。
0068日本@名無史さん垢版2018/10/15(月) 21:08:11.48
「古田 安本 の 嘘つき騙し」

ほとんど問題にならない奴
学問の分野ではなく、推理小説の分野です。
0071日本@名無史さん垢版2018/10/15(月) 21:10:57.97
>>65
オモロイ奴だな
相手してるから 
続けろよ  

続けられないだろ・・妄想は
0073日本@名無史さん垢版2018/10/15(月) 21:11:53.51
ザラコクは精神病院で書き込んでるなww
0075日本@名無史さん垢版2018/10/15(月) 21:14:03.98
スレ主さんよ

あんたの努力はわかるよ Part388まで来た努力はな
0076日本@名無史さん垢版2018/10/15(月) 21:14:47.69
キウス
ログイン
0077日本@名無史さん垢版2018/10/15(月) 21:16:29.92
>>69

随分昔の話すんなよ畿内説が恥かくぞ
0078日本@名無史さん垢版2018/10/15(月) 21:18:14.15
邪馬台国九州説の最後の砦は大川隆法の霊言

ザラコクは幸福の科学
0080日本@名無史さん垢版2018/10/15(月) 21:19:13.22
「邪馬台国九州説」に最後の砦は必要ない!
「邪馬台国(所在地に関してだけではなく)」に関する事柄を、
「真剣に、真剣に、広く、広く、深く、深く」考えていくと「理性的な人であれば、九州島に到達せざるを得ない」と思いますね!
0081日本@名無史さん垢版2018/10/15(月) 21:20:27.76
何故、邪馬台国九州説は出てきたのか?

箸墓古墳という畿内説の誰が見てもそこしかない、っていう証拠があるのに
0082日本@名無史さん垢版2018/10/15(月) 21:21:09.09
西日本の覇権の推移
倭奴国(博多)の覇権→倭国大乱→邪馬台国(筑後)の覇権→倭奴国残党の分裂

倭奴国残党の分裂
1博多に残って邪馬台国の支配下に=伊都国、奴国
2南九州(西都原)に移住=天孫降臨
3近畿(巻向)移住=神武東征

近畿移住組の立場
はじめは近畿の覇者ニギハヤヒ傘下の豪族→四国、出雲征服→近畿覇権奪取(崇神=ハツクニシラス)

九州の再征服
景行遠征→仲哀遠征→継体遠征(磐井の乱)→白村江で九州政権滅亡→九州全域が支配下に

律令、神話の統一
大宝律令、古事記、日本書紀の制定
0083日本@名無史さん垢版2018/10/15(月) 21:22:37.78
>>55
イミフ
0084日本@名無史さん垢版2018/10/15(月) 21:23:34.14
九州説はプラズマ砲で撃沈
0086日本@名無史さん垢版2018/10/15(月) 21:27:27.66
九州説なんてねーよ
伊都国説とか馬鹿げた説しかねーな
0087日本@名無史さん垢版2018/10/15(月) 21:28:39.40
歴史の課題を教えて下さい。

※それぞれの説の裏付けを
考えてみよう。

(邪馬台国九州説)

(邪馬台国大和説)

中学生です。
どうかよろしくお願いします。
0088これか垢版2018/10/15(月) 21:29:50.09
[邪馬台国九州説の根拠]
『魏志』倭人伝に記される方角を考えると、九州に邪馬台国があったと考えられる。

[邪馬台国畿内説の根拠]
『魏志』倭人伝に記される距離を考えると、畿内に邪馬台国があったと考えられる。
0091日本@名無史さん垢版2018/10/15(月) 21:32:14.24
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
0093日本@名無史さん垢版2018/10/15(月) 21:33:23.53
前方後円墳は奈良や大阪が250基前後、古墳群のある宮崎でも200基程度。
一方、千葉は650基、群馬、茨城は440基程度。


畿内説に何度言ったらわかるんだ
前方後円墳と△は持ち出したら つけ入られる
0095日本@名無史さん垢版2018/10/15(月) 21:38:07.62
>山の中腹の尾根上という仰ぎ見られる視野角の広くない立地からは、
>あまり広域を支配していない首長像が瞥見される。


ならば低地の纏向古墳群は話しにならないという事だね。

アホの>>1  アホのぉぉ>>1
0097日本@名無史さん垢版2018/10/15(月) 21:41:13.34
キウス

邪馬台国関連スレに出没する真性の基地外であり、病的なウソつき。
「希薄」を読むことができず、「箕臼(キウス)」と誤変換し続けたことから「キウス」と呼ばれるように。
自演爺、四棟粘着爺、指さし厨とも。

ウソの書き込みや自演、成り済ましを平然と行い、畿内説スレの>>1を騙り偽スレを立てること数度。
>>1のトリと同じ英数字を名前欄に書き込んで成り済まそうとしたこともある、最低のクズであ
0098日本@名無史さん垢版2018/10/15(月) 21:41:52.26
「全1病」罹患者にして典型的「62病」発症者。

「自論」、「私見」、「勉強してください」、「学がない」、「貴君」、「しかり」など特徴的な言い回しの多用、
5ちゃんでは一般的ではない「スレ主」頻発、名前欄への書き込み多用などの特徴ですぐに判別できる。
1◆UiepmfCeDJqfを奥村と呼ぶ、寺澤薫氏・同志社大学・纒向学研究センターをディスる、
草を生やす際に半角で1文字目大文字、?を連続させる、といった特徴もある。

キウスの書き込みを褒めたり、礼を言ったり、「ワロタ」と応じたりする書き込みは、すべて自演である。
他人を騙す行為も自分ならばすべて許されると信じている節のある、傲慢の塊である。

日本語の読み書きが満足にできないこと、日本史や日本の地理に関する基礎知識がないことなどから、
日本の義務教育を受けていないどころか日本国内に居住していないのではないかと推測されている。
0100日本@名無史さん垢版2018/10/15(月) 21:42:15.79
岡上

邪馬台国関連スレに出没する狂人のひとり
考古学界では全く賛同者がいない説を「考古学的に確定している」と主張し、ありもしない大規模調査をでっち上げ、
学界の多数派である邪馬台国畿内説を破綻したと主張する、ゴッドハンドも真っ青の捏造常習犯である

自分は正しく、これまでの研究者がみんな間違っていた、などと平気で主張する、典型的「六拾弐病」患者

コテ+トリと、コテの九州王、伊都国女王、卑弥呼、名無しを使い分け、自説を関連スレで書き込みまくる
糸クズ、八咫バカ、連続句読点キチともよばれる

「咫」の説明である「周尺」を「円周の尺」と読み、
伊都国を女王国であると漢文の用例を無視して誤読し、
平原遺跡出土鏡の文様には八咫烏があると現物を知らないで主張し、
魏志倭人伝中の「下戸」を「酒が飲めない人」と訳すなど、
お笑いエピソードには事欠かない

偽スレや妄想スレを立て続ける異常性に気がついていないのは本人だけ

未確定な事項であっても、自分に都合がよければ勝手に確定事項であると脳内変換し、
それを根拠として立論してしまうチェリーピッカー
日本史の方法論をまるで理解していない、自分偉い教の教祖である
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