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邪馬台国畿内説 Part388
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0001◆UiepmfCeDJqf
2018/10/15(月) 19:51:08.12
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1539369242/

◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。
0002◆UiepmfCeDJqf
2018/10/15(月) 19:52:42.81
◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある 
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
0003◆UiepmfCeDJqf
2018/10/15(月) 19:53:04.75
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
0004◆UiepmfCeDJqf
2018/10/15(月) 19:53:24.76
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。

 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
0005◆UiepmfCeDJqf
2018/10/15(月) 19:53:44.55
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
0006◆UiepmfCeDJqf
2018/10/15(月) 19:54:03.20
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
0007◆UiepmfCeDJqf
2018/10/15(月) 19:54:46.65
◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
 
 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
 
 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。 
 
 
0008◆UiepmfCeDJqf
2018/10/15(月) 19:55:04.52
◆6−2
 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
0009◆UiepmfCeDJqf
2018/10/15(月) 19:55:19.34
◆6−3
 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
0010◆UiepmfCeDJqf
2018/10/15(月) 19:55:37.31
◆7−1(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
0011◆UiepmfCeDJqf
2018/10/15(月) 19:55:53.44
◆7−2
 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
0012◆UiepmfCeDJqf
2018/10/15(月) 19:56:13.70
◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
0013◆UiepmfCeDJqf
2018/10/15(月) 19:56:32.27
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf


◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収

●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」

●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
0014◆UiepmfCeDJqf
2018/10/15(月) 19:56:52.78
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
  1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
  2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
  3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
  4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
  4世紀第4四半期〜5世紀中頃
   (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 IA期ー 大和庄内0〜1    ー 河内庄内I〜II
 IB期ー 大和庄内2〜3    ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山                  
  IIA期ー 布留0古相      ー 河内庄内III   ●箸墓、権現山51号
  IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V  ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
                           浦間茶臼山、西求女塚
  IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
                           メスリ山、行灯山、祇園山
0015◆UiepmfCeDJqf
2018/10/15(月) 19:57:12.10
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。
 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都よく観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。

 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。

 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
0016◆UiepmfCeDJqf
2018/10/15(月) 19:57:28.68
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
 逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)
  「泝流」が6回
  「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある。
0017◆UiepmfCeDJqf
2018/10/15(月) 19:57:53.48
◆FAQ 3
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法からは、筆者が里程等から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。

 以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りが含まれていること、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌ほどの南方に過ぎず、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
 三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
 筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20も参照)

※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
 遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
 予章郡:雒陽南二千七百里  南海郡:雒陽南七千一百里
 蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)

 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、会稽山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
 また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。
0018◆UiepmfCeDJqf
2018/10/15(月) 19:58:14.44
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。


◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。

 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
0019◆UiepmfCeDJqf
2018/10/15(月) 19:58:39.69
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 伊豆七島などは唐古鍵の時代から畿内と交流圏である。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。


◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。
有力な候補である。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
0020◆UiepmfCeDJqf
2018/10/15(月) 19:58:58.41
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。


◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
0021◆UiepmfCeDJqf
2018/10/15(月) 19:59:37.52
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。

 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。

 3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。

 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。

 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
 の指摘は今日も有効である。
0022◆UiepmfCeDJqf
2018/10/15(月) 19:59:56.39
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。

 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。

 現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響と思われはするものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状であり、古代中国人に木槨と認識されるとは考え難い。
 畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
 逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。

 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
0023◆UiepmfCeDJqf
2018/10/15(月) 20:00:14.12
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。

 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
 遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。

 纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。

 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。


◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
0024◆UiepmfCeDJqf
2018/10/15(月) 20:00:30.91
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。


◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、そのような測定実施の記録がない。
 万が一にも、そのような測定があったなら福岡県が魏の許都の真東近くに所在することが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。

 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
0025◆UiepmfCeDJqf
2018/10/15(月) 20:00:48.44
◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!

A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。

 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。

 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
0026◆UiepmfCeDJqf
2018/10/15(月) 20:01:06.55
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
  これで説明が付く!

A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。

 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。

 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。


◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!

A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。

 中国本土では前漢代の雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中華王朝では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。
0027◆UiepmfCeDJqf
2018/10/15(月) 20:01:43.75
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した!
  これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
 もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
 
 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
 
 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示している。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)
 
 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。
 
0028◆UiepmfCeDJqf
2018/10/15(月) 20:02:11.29
◆FAQ 23
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!

A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。

箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周濠、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
  この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。

 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で存在が確認された。
 箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。

・箸中山古墳の後円部と段築が接合しないこと。
・箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープが墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失していること。
・椿井や中山大塚の構造や、河内大塚や見瀬丸山など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部に盛土がないこと
・円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等
0029◆UiepmfCeDJqf
2018/10/15(月) 20:02:35.61
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!

A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、

 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。


◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国が大和の日本に取って代わられたことは、旧唐書に明らかではないか!

A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。

 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記されており、中国側の認識の混乱を表している。以下の各項等を勘案すると、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等として片付けて毫も問題ない。
・唐代に書かれたことが明らかな史料がみな倭=日本という認識を示していること。
・唐会要(倭=日本と認識)より、旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に認識できること。
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認できること。
 
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家であり、政変の頻発する中で、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前にようやく完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複するという不体裁が発生しているばかりでなく、他にも同一人物の伝が二本別に収録されるなど、他の史書に例を見ない杜撰が複数件発生している。
0030◆UiepmfCeDJqf
2018/10/15(月) 20:03:34.82
 
 
 
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
  ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
 
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
 統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
 
 遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
 
 さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
 ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
 
 古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。
 
 
 
0031◆UiepmfCeDJqf
2018/10/15(月) 20:03:56.27
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。


◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!

A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。

 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。

 以上のとおり、墳丘本体に殉葬痕があるか否か卑弥呼冢の判定基準にしようという考えには合理性が無い。
0032◆UiepmfCeDJqf
2018/10/15(月) 20:04:48.83
 
 
 
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう!
  弥生絹があるのは九州のみ!
 
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出であり、景初の遣使が献上した班布がこれであると推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退している。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
 
 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が連続していない。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
 
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示している。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色が行われていた状況(金原2013,2015)と一致する。茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用されているため、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解されるからである。
 
 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
 九州説にとって不利な条件と言える。
 
 
 
0033◆UiepmfCeDJqf
2018/10/15(月) 20:05:07.24
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。

 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
0034◆UiepmfCeDJqf
2018/10/15(月) 20:05:27.89
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。

 弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
   https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。

 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。

 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。
0035◆UiepmfCeDJqf
2018/10/15(月) 20:05:45.22
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。

 これが部分的利用に留まる所以である。


◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでないところに行くことだから、女王国は本州にある畿内ではないな?

A:陸続きのところへも渡海するので、伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
0036◆UiepmfCeDJqf
2018/10/15(月) 20:06:04.24
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。

 当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)

 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。

 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。

 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
0037◆UiepmfCeDJqf
2018/10/15(月) 20:06:22.04
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
0038◆UiepmfCeDJqf
2018/10/15(月) 20:06:38.76
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
0039◆UiepmfCeDJqf
2018/10/15(月) 20:06:56.07
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
0040◆UiepmfCeDJqf
2018/10/15(月) 20:07:13.72
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
 にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある
 新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
0041◆UiepmfCeDJqf
2018/10/15(月) 20:07:34.49
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。


◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
  http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

 捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
0042◆UiepmfCeDJqf
2018/10/15(月) 20:08:00.30
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。

※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
0043◆UiepmfCeDJqf
2018/10/15(月) 20:08:17.94
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!

A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。

 申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。

 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。

 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
0044◆UiepmfCeDJqf
2018/10/15(月) 20:08:38.21
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!

A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。

その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である

以上から
 1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。

 楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。
0045◆UiepmfCeDJqf
2018/10/15(月) 20:09:13.21
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!
 
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
 
 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
 
 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
 
 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
 
0046◆UiepmfCeDJqf
2018/10/15(月) 20:09:58.51
 
 
 
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
 
A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
 
 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
 
 
0047◆UiepmfCeDJqf
2018/10/15(月) 20:10:16.34
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。

 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。

 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
0048◆UiepmfCeDJqf
2018/10/15(月) 20:10:33.35
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?

A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。

 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。

 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)

 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
0049日本@名無史さん
2018/10/15(月) 20:10:41.45
>>434
>卑弥呼 北部九州から出雲、畿内の連合国を形成し奈良へ遷都<

畿内なんて存在していなかったし、
邪馬壹國女王之所都は、不彌國の南だから、「奈良への遷都」が全くの嘘つき騙し。

>稲作を行う民族を総べる女王として太陽神を崇め祭祀を行う
魏から銅鏡を送られる<

魏から銅鏡を贈られた卑弥呼は、不彌國の南の女王。
0050◆UiepmfCeDJqf
2018/10/15(月) 20:10:49.94
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。

 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。

 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
0051◆UiepmfCeDJqf
2018/10/15(月) 20:11:16.03
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?

A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。

 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。


◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。

A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
0052◆UiepmfCeDJqf
2018/10/15(月) 20:11:31.43
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!

A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。

 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
0053◆UiepmfCeDJqf
2018/10/15(月) 20:11:47.91
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。


◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
0054◆UiepmfCeDJqf
2018/10/15(月) 20:12:03.54
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
   (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
   (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
   (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
  狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
    山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
    海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
0055◆UiepmfCeDJqf
2018/10/15(月) 20:12:19.81
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定
0056◆UiepmfCeDJqf
2018/10/15(月) 20:12:37.05
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!

A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。

 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。

 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
0057◆UiepmfCeDJqf
2018/10/15(月) 20:12:54.86
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ1)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。

 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。

 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。

 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
0058◆UiepmfCeDJqf
2018/10/15(月) 20:13:12.04
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
  の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!

A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。

また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。
0059◆UiepmfCeDJqf
2018/10/15(月) 20:13:29.82
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
  「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
  所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!

(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
     北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
    南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
    東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
    西與犂「革偏に于」・條支接。
    行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
    …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
    …東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。

                (以上、漢書西域上)
0060◆UiepmfCeDJqf
2018/10/15(月) 20:13:46.33
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
  これは実測したとしか考えられない!
  誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。

 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
              (後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。

 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
0061◆UiepmfCeDJqf
2018/10/15(月) 20:14:31.66
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
 
A:定説に従う。
 
 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
 
 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域と考えられる。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制の異なる碧城郡・海州市は郡域外であろう。
 
 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
 
 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
  
 
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!

A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
0062日本@名無史さん
2018/10/15(月) 20:14:43.42
>>437
掲示板という場を無視して、
「多説排除」のネットマナー違反のスレが、
じつに傲慢自己中で、
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説らしい。
0063◆UiepmfCeDJqf
2018/10/15(月) 20:14:48.50
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
  径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!

A:基礎知識の誤りである。
  現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する

ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)
0064日本@名無史さん
2018/10/15(月) 20:16:48.10
>>440
>倭人伝は、九州を拡大して沖縄あたりまで続く巨大島とみなしている。<

みなしていない。
現在の九州島付近だとみなしている。
0065◆UiepmfCeDJqf
2018/10/15(月) 20:16:54.16
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!

A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。

 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。

《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
0066◆UiepmfCeDJqf
2018/10/15(月) 20:17:40.76
◆FAQ 65−2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」

とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。

 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。

 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。


 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
  古者周尺 17.3cm
  今周尺  21.0cm
  秦漢尺  23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。
0067◆UiepmfCeDJqf
2018/10/15(月) 20:18:26.07
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!

A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。

 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。


◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!

A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。

 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。

 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。

古代の海岸線に沿って「東南陸行」することは、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png

 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。
0068日本@名無史さん
2018/10/15(月) 20:19:54.37
>>440
>倭人伝は、九州を拡大して沖縄あたりまで続く巨大島とみなしている。<


みなしていない。
ほぼ九州島付近だ、とみなしている。
0069◆UiepmfCeDJqf
2018/10/15(月) 20:20:09.52
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい!

A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半と考えられる。

 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
 しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0に遡る情況と整合する。
 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は但丹・近江などの地域で弥生後期〜終末の弥生墳丘墓で発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。

 
0070◆UiepmfCeDJqf
2018/10/15(月) 20:21:12.14
◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!

A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。

 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
0071◆UiepmfCeDJqf
2018/10/15(月) 20:21:58.66
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足相赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!

A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
郭沖三事にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。

 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。
0072日本@名無史さん
2018/10/15(月) 20:22:30.58
>>444
>狗奴国は邪馬台国じゃないじゃん <

「邪馬台国」なんて存在もしない嘘つき騙しの造語。
0073◆UiepmfCeDJqf
2018/10/15(月) 20:22:53.81
◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!

A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。

 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(十二世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(十三世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
 魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。

 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州に限定し得ないことは明らかである。


◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!

A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。

 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
0074◆UiepmfCeDJqf
2018/10/15(月) 20:23:39.01
◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!

A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 参考に、正始年間薨の魏仮節龍驤将軍予州刺史李簡子墓誌銘を挙げる。
 https://i.imgur.com/MRmSyqP.png

 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。


◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!

A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。

 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。


◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!

A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。

 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。
0076◆UiepmfCeDJqf
2018/10/15(月) 20:24:22.04
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!

A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。

 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。

 弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。
0077◆UiepmfCeDJqf
2018/10/15(月) 20:25:11.34
◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
 前方後円墳体制など、夢想だ!

A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。

 萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
 当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。

 奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。


◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!

A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。

 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
続けて
 「甲県一万戸、行道八日」「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近・戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=125
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。

 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表している。
0078◆UiepmfCeDJqf
2018/10/15(月) 20:25:59.30
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?

A:倉庫群は均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ。
  纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。

 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部に存し、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉するため、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。

 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。


◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!

A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。

 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。
0079◆UiepmfCeDJqf
2018/10/15(月) 20:27:05.01
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!

A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。

 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。

 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。

 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
0080◆UiepmfCeDJqf
2018/10/15(月) 20:28:19.54
◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!

A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。

 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。

 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。

 このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。
0081◆UiepmfCeDJqf
2018/10/15(月) 20:29:48.48
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!

A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。

●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。

●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。

 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。

 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
 鏡師が東渡し作鏡したという記述ではない。
0082◆UiepmfCeDJqf
2018/10/15(月) 20:30:51.51
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!

A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。

 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。

 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。

 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。
0083◆UiepmfCeDJqf
2018/10/15(月) 20:32:02.65
◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!

A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。

 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものと思われる。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭と考えられる。

 古墳主体部の年代は、殉葬の可能性を完全に放棄するならば、これより多少の時代遡求もあり得るが、山の中腹の尾根上という仰ぎ見られる視野角の広くない立地からは、あまり広域を支配していない首長像が瞥見される。
0084日本@名無史さん
2018/10/15(月) 20:32:04.90
>>451
>>中国鏡確定で畿内説が破綻<

>三角縁神獣鏡が中国製だと、なんで畿内説が破綻するのかな
九州説爺が発狂したとしか考えられない<

中国鏡とは、中国から来た呉系の楽浪鏡師らの「海東鏡」であった事になり、
列島での最古の△は、筑紫の志登や祇園山であり、
大和の△は4世紀以後であるから、
大和説は破綻。
0085◆UiepmfCeDJqf
2018/10/15(月) 20:33:38.67
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!

A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png


◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正しい!
  特鋳説の根拠にはならない!

A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量と思われ、市中から雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しいと思われる。

 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。

 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
0086◆UiepmfCeDJqf
2018/10/15(月) 20:34:44.08
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

注意*書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】 ◆10、◆FAQ 23,68に加筆
0087日本@名無史さん
2018/10/15(月) 20:35:13.28
>>457
>倭人伝には、邪馬台国は北部九州にあると一言も書いてない<

邪馬台国なんて存在しないし、
九州北岸の不彌國の南だから、北部九州。
0088日本@名無史さん
2018/10/15(月) 20:37:11.71
>>460
大和説の特徴
・情報が文献考古の根拠の乏しいものばかり
・日本語がおかしい
・「南→東」などの嘘つき騙しのような、おかしい論理おかしいばかり
・政府文部省学会に忖度する史料隠蔽改竄的発言が目立つ
・ヘイトスピーチ的中傷が多い
0089日本@名無史さん
2018/10/15(月) 20:40:25.28
>>463
大和説者は、
押し売りというより、
他人の家の掲示板にズカズカ上がり込んで、
長々とお祈りを始める、
変な宗教の勧誘だろ。
0090日本@名無史さん
2018/10/15(月) 20:41:43.06
九州説が邪馬台国は九州にあり
大和は中国に朝貢した事などない国と皇国史観を広めようとしてますなあ
0092日本@名無史さん
2018/10/15(月) 20:44:12.68
>>469
大和説は、
畿内なんて存在もしない嘘つき騙し等しないで、
まず大和の何処にあるか?の議論しなよ。
場所も根拠もバラバラじゃないか。
0094日本@名無史さん
2018/10/15(月) 20:46:28.01
>>473
その前に、「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は、
なにか根拠を言うことだな。
0095日本@名無史さん
2018/10/15(月) 20:47:55.30
>>476
やっぱ筑紫だよな。
0096日本@名無史さん
2018/10/15(月) 20:48:40.30
>>94
書いてあるんだが
0097日本@名無史さん
2018/10/15(月) 20:50:27.47
>>94
根拠は陳寿の書いた「会計東治之東」
ゆえに「南→東」で正しい
0098日本@名無史さん
2018/10/15(月) 20:52:50.02
>>93
九州説のパネラー探しても見つかんないよ
0099日本@名無史さん
2018/10/15(月) 20:55:40.68
>>484
>本当に南に行ったの? 九州南には何もないけど <

「九州の南」ではないね。
投馬國は、元は東テイ人の上野原遺跡が中心。

>むしろ狗奴国がある事になっているが<

狗奴國は、火の国の中のおそらく肥後。
0100日本@名無史さん
2018/10/15(月) 20:57:35.10
>>92
議論するも何も、纏向以外だという人がほとんどいない
0101日本@名無史さん
2018/10/15(月) 21:01:17.41
>>498
>じゃ九州説の根拠は?<

文献考古の全部。
0102日本@名無史さん
2018/10/15(月) 21:05:33.56
>>500
魏志倭人伝読み解けば、という
大和説者は、「南→東」などのウソ付き騙しをして、
女王之所都を大和だ、とする誤魔化し詐欺を書きたかった、
という事がわかるだけ。
0103日本@名無史さん
2018/10/15(月) 21:05:44.58
ザラコク
九州説はもう無くなった
学問的根拠も政治的存在意義すら失われたんだぞ?
0104日本@名無史さん
2018/10/15(月) 21:11:08.98
>>101
「全部だ」という答えは
「何もない」と言ってるのと同じ
0105日本@名無史さん
2018/10/15(月) 21:11:31.87
>>511
>跬、一挙足也。倍跬謂之歩。(小爾雅)<

辞書は、表題に関する全ての意味や使用例を示しているものではなく、
部分的な意味や使用例を示す事しか出来ないものであり、
参考意見に過ぎないんだよ。
0106日本@名無史さん
2018/10/15(月) 21:13:21.13
>>105
んなら一挙足を「歩」だと言った例を出して見な
0107日本@名無史さん
2018/10/15(月) 21:17:46.84
陳寿が「会稽東治之東」 と書いてる以上は方位も距離も間違ってることが確定なのに
九州説はこの話題から徹底して逃げるんだよね
0108日本@名無史さん
2018/10/15(月) 21:18:08.42
>>514
>それ「相互」に作用してないだろ?何回言えば理解するのけ<

遠い恒星からの光(電磁場)が、太陽重力場と相互作用をしないんなら、
遠い恒星からの光(電磁場)は、直進するのであり、
曲がる筈がないだろ?。
何回言えば、理解するのかい?、・・・・。
0109日本@名無史さん
2018/10/15(月) 21:21:10.18
>>515
その信頼性や客観性の高い魏志らの記録を元にして、陳寿が記載したものを、
「信頼性の非常に低いデータだ」とかと、断定するなんて
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は、脳が支離滅裂だな。
0110日本@名無史さん
2018/10/15(月) 21:21:28.07
西日本の覇権の推移
倭奴国(博多)の覇権→倭国大乱→邪馬台国(筑後)の覇権→倭奴国残党の分裂

倭奴国残党の分裂
1博多に残って邪馬台国の支配下に=伊都国、奴国
2南九州(西都原)に移住=天孫降臨
3近畿(巻向)移住=神武東征

近畿移住組の立場
はじめは近畿の覇者ニギハヤヒ傘下の豪族→四国、出雲征服→近畿覇権奪取(崇神=ハツクニシラス)

九州の再征服
景行遠征→仲哀遠征→継体遠征(磐井の乱)→白村江で九州政権滅亡→九州全域が支配下に

律令、神話の統一
大宝律令、古事記、日本書紀の制定
0111日本@名無史さん
2018/10/15(月) 21:22:18.41
もう教科書にまで
纒向遺跡に関して邪馬台国との関係で注目されていると書かれてるご時世なのに
オールドタイマーが元気なこと
0113日本@名無史さん
2018/10/15(月) 21:27:04.37
>>109
陳寿が記載したって
「信頼性や客観性の高いデータ」もあれば
「信頼性の非常に低いデータ」もある

盲信は歴史学の放棄
0114日本@名無史さん
2018/10/15(月) 21:27:58.84
>>521
九州説というのは、
古代天皇というような存在もしない文言や、
後代史家の新井白石や本居宣長の解釈や主張に関係がなく、
文献考古の史料事実などからの帰納的確率的な推論をしている物であり、
いまだに後代史家のデマに踊らされている馬鹿が、大和説者www。
0115日本@名無史さん
2018/10/15(月) 21:29:50.32
【東京】纒向遺跡は邪馬台国か、箸墓は卑弥呼の墓か議論 東京で纒向フォーラム
http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1539596991/

パネラー全員「纒向遺跡は邪馬台国、箸墓は卑弥呼の墓」で議論にならず司会涙目
0116日本@名無史さん
2018/10/15(月) 21:31:24.30
>>527
>いやいや 邪馬台国の女王=倭国王でしょ<

卑弥呼は「親魏倭王」だ。
0117日本@名無史さん
2018/10/15(月) 21:31:45.55
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
0118日本@名無史さん
2018/10/15(月) 21:32:03.78
>>114
なのに九州説には帰納的確率的な推論をした形跡が一切ないという

       奇妙な事実
0119日本@名無史さん
2018/10/15(月) 21:32:08.37
近畿の男系は縄文系の遺伝子は結構残っていて、他の地域と大差ない。
畿内の弥生時代の遺跡は縄文時代の遺跡に連なるものが多い。
渡来人が縄文人達の水源を奪った痕跡もない。
渡来人達が新たに住み始めたのは洲や井戸の技術がないと住めない水利の悪い台地。
2世紀半ば迄は環濠が要らなくなるくらい平和な時代になっていた。
神武東征前のヤマトの記述。
ナガスネヒコ、ヤソタケル、土蜘蛛、皆仲良く暮らしていたんだな。
温暖で河内湖の水資源も豊かで稲作も盛んになり、豊かな地域に発展したんだろう。日本書紀でいう食国、芦原中津國。 クニ、クナ。
スサノオが豊かな田に嫉妬して度々荒らしにきたとあるだろう。近畿周辺の東海や山陰の勢力が嫉妬したんだな。
そして征伐に来る。
倭国大乱、近畿征伐、記紀でいう神武東征だよ。


畿内の勢力は2世紀末に大きく変わる。
纒向遺跡でも、東海や山陰、吉備などの外来系土器が突然現れる。
記紀にもヤマト征伐によってヤマト政権が始まる様子が記述されている。
畿内征伐によって誕生した邪馬台国、ヤマト政権の主体は、尾張、出雲、吉備。

次に考古学的に大きな変化があるのは4世紀後半。 大きな政権交代があったんだろう。
初期のヤマト政権に虐げられていた元々の畿内の人々と関東の先住民が手を結び神功皇后応神を旗頭に立ち上がったんだろう。

神功皇后応神に該当する時代。
記紀や各地の伝承。
忍熊皇子の討伐、飛騨の顔が二つ頭が一つの怪物を討つエピソードがあったり、出雲の生馬の神がもう荒ぶらないと宣言したり。
神功皇后が三韓征伐の往路復路で、八雷神に似た頭が八つで牛の姿をした塵輪鬼を討つ話があったり。
纒向遺跡の外来系土器の中心、東海(飛騨の怪物)、山陰(出雲の生馬の神、牛荒神の木)、吉備(塵輪鬼)が討たれるエピソードばかり。
全て牛というキーワードが共通する。
同時代の若草山山頂古墳。かつては牛塚と呼ばれていた。牛頭天王と何か関係あるのかもしれない。
0120日本@名無史さん
2018/10/15(月) 21:33:36.25
東(ひむがし)の野に炎(かぎろひ)の立つ見えてかへり見すれば月傾(かたぶ)きぬ


真十鏡 可照月乎 白妙乃 雲香隠流 天津霧鴨

白を纏った雲、香、
シラの姫を娶った香具山の勢力、蜘蛛、火明命を連想させるな

纒向遺跡の外来系土器の主体尾張は火明命の地
天香久山の山頂に祀られている国常立神、鬼門に封じられた神
尾張一宮は火明命だが、本来は国常立神と言われている

三輪 能

思えば伊勢と三輪の神。思えば伊勢と三輪の神。一体分身のおん事。今さらなにと岩倉や。その関の戸の夜も明け。かくありがたき夢の告げ。覚むるや名残.なるらん.覚むるや名残.なるらん。

三輪の神さんと伊勢の神さんは一心同体で石。
天の岩戸は関。
関の向こう側に追いやられていた勢力が、ヤマトを征伐し邪馬台国、ヤマト政権を作ったんだろうな。

サルタヒコの遺言。
「底どく御魂」「つぶたつ御魂」「あわさく御魂」
底、独、常、立、阿波咋

国底立神、
国常立神、鬼門に封じられた神、天香久山に祀られている神、 尾張一宮に祀られていた神
阿波咋

倭国大乱を引き起こした張本人だろう
0121日本@名無史さん
2018/10/15(月) 21:34:18.97
魏志倭人伝
邪馬台国の官

官は伊支馬有り。次は弥馬升と曰う。次は弥馬獲支と曰う。次は奴佳鞮。

伊支馬は生駒。生馬。火の神。
弥馬升は三見宿禰、出雲醜大臣の子。
弥馬獲支はミミ鷲、日鷲。
奴佳鞮は中臣。
邪馬台国の官は、大和朝廷の官と瓜二つ。

出雲地方には生馬神が祀られているんだな。
生馬神社境内には「牛荒神の大木」と呼ばれる木があり木に藁が巻き付けられている。

出雲風土記かな、生馬神の子は、もう荒ぶらないと言ったとか。
ヤマトの地名と出雲の集落名、共通点が多い。

邪馬台国の官の筆頭
伊支馬。これがどういう勢力か解明できれば、邪馬台国卑弥呼に近付ける気がする。

伊支馬、生駒、生馬、伊熊、猪熊、生目などの地名が、ヤマト、出雲、三河、遠賀川、宮崎に見られる。
何か関係あるのか?
0122日本@名無史さん
2018/10/15(月) 21:35:00.53
鎮魂歌
卑弥呼→台与の頃を歌ったものだろうか?
邪馬台国、初期のヤマト政権は、石器作りや狩猟を生業にしていた勢力が主体だったことが窺える
また、「フル」、「アチメ」という言葉は大和言葉では意味が分からないが、朝鮮語では「流れる」「朝日」という意味になる
初期のヤマト政権は、朝鮮半島と日本列島を行き来していた日本海側の勢力が関係していたのかもしれない

アチメ オオオオ オオオオ オオオオ
 天地ニキ揺ラカスハ サ揺ユラカス 神ワカモ 神コソハ キネキコウ キ揺ラナラハ
アチメ オオオオ オオオオ オオオオ
 石ノ上 布瑠社ノ 太刀モガト 願フ其ノ児ニ 其ノ奉ル 
アチメ オオオ オオオ オオオ
 猟夫ラガ 持タ木ノ真弓 奥山ニ 御狩スラシモ 弓ノ弭見ユ
アチメ オオオ オオオ オオオ
 上リマス豊日霎カ 御魂欲ス 本ハ金矛 末ハ木矛
アチメ オオオ オオオ オオオ
 三輪山ニ アリタテルチカサヲ 今栄エデハ 何時カ栄へム
アチメ オオオ オオオ オオオ
 吾妹子ガ、穴師ノ山ノ山ノ山モト 人も見ルカニ 深山カ縵為ヨ
アチメ オオオ オオオ オオオ
 魂筥ニ 木綿取リシデワ 魂チトラセヨ 御魂上リ 魂上リマシシ神ハ 今ゾ来マセル
アチメ オオオ オオオ オオオ
 御魂ミニ 去マシシ神ハ 今ゾ来マセル 魂筥持チテ 去リクルシ御魂 魂返シスナヤ
0123日本@名無史さん
2018/10/15(月) 21:36:49.75
伊勢遺跡は時代的に倭国大乱における畿内征伐前の遺跡だな

伊勢遺跡の祭祀は夜に行われていたと言われている
夜の食国を治めたのは月夜見
農作業に使う暦を作って、首長たちに伝えていたのかもしれない

魏志倭人伝の女王国には暦がないという記述は興味深い
天津罪は、農業の作法を知らない人が適当に稲作をしたこととも読める。
0124日本@名無史さん
2018/10/15(月) 21:38:10.13
九州説というのは、
記紀神話盲信からくる古代天皇というようなイメージに踊らされた天皇制礼賛者の願望や
本居宣長のような国粋主義者の政治思想が作り上げた幻だよ
0125日本@名無史さん
2018/10/15(月) 21:38:15.72
古代の難波はどういう場所だったのか?
下の長唄は、なにわの地が芦原中津國や【食国】と認識されていたのが分かる。

聖武天皇の難波行幸に従駕した笠朝臣金村(かさのあそみかなむら)の詠んだ一首

押(お)し照(て)る 難波の国は 葦垣(あしかき)の 
古(ふ)りにし郷(さと)と 人皆の 
思(おも)ひ息(やす)みて つれも無く ありし間(あひだ)に積麻(うみを)なす 
長柄(ながら)の宮に 真木柱(まきばしら) 太高(ふとたか)敷きて 食国(をすくに)を 治めたまへば 沖つ鳥 
味経(あぢふ)の原に もののふの 八十伴(やそとも)の緒(を)は 廬(いほり)して 都(みやこ)なしたり 旅にはあれども
0126日本@名無史さん
2018/10/15(月) 21:39:29.66
邪馬台国の南の狗奴国
魏志倭人伝の狗奴国の版図は南河内と和泉だろう

元々狗奴国は畿内くらいの版図があったんじゃないかな
2世紀末の畿内征伐で、なにわ、北河内、ヤマトは卑弥呼を共立した勢力によって征伐されたんだろうな

狗奴国の官、狗古智卑狗は河内彦だろう
0127日本@名無史さん
2018/10/15(月) 21:41:14.71
狗奴国、卑弥弓呼は、道饗祭の神々と関係あるかもしれない
八衢比古・八衢比売・【久那斗 】

 道饗祭

高天之原に事始めて、皇御孫之命と称辞竟へ奉る、大八衢に湯津磐村の如く塞り坐す皇神等の前に申さく、
  八衢比古・八衢比売・久那斗と御名は申して辞竟へ奉らくは、
根国底国より麁び疎び来む物に、相率り相口会ふ事無くて、下より行かば下を守り、上より往かば上を守り、夜の守・日の守に守り奉り斎ひ奉れと、
進る幣帛は、明妙・照妙・和妙・荒妙に備へ奉り、御酒は・辺高知り、・腹満て雙べて、汁にも穎にも、
山野に住む物は、毛の和物・毛の荒物、青海原に住む物は、鰭の広物・鰭の狭物、奥津海菜・辺津海菜に至るまでに、
横山の如く置き足らはして進る宇豆の幣帛を、平けく聞食して、
大八衢に湯津磐村の如く塞り坐して、皇御孫命を堅磐に常磐に斎ひ奉り、茂御世に幸へ奉り給へと申す。
  又親王・王等・臣等・百官人等、天下の公民に至るまでに、平けく斎ひ給へと、神官、天津祝詞の太祝詞事を以て、称辞竟へ奉らくと申す。

其南有狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王 

倭女王卑弥呼與狗奴國男王卑弥弓呼素不和
0128日本@名無史さん
2018/10/15(月) 21:48:02.58
クナトと言えば、サルタヒコだな。

杵築大社の天井図。八雲が一つ欠け七つしかないだろ。 あれは、紀元前後出雲地方の内乱の結果、神庭にいた出雲の王族が追放されたから。

出雲地方で元々信仰されていたのは、姫神の幸神、東!から来て文物をもたらしたクナトの神。そしてその子のサルタヒコ。 サルタヒコ一族は、オオナムチに破れるんだな。 そして、畿内など各地に逃げ延びる。
加茂岩倉遺跡との同笵銅鐸が各地で出ている。

1世紀、畿内に逃れてきた出雲族と元々畿内にいた集団が国作りを行なったんだろうな
狗奴国の建国、クナはクニだな

サルタヒコ。
出雲族の姫神幸神と、クナトの神の子。
サルタヒコ、月夜見、大国主、卑弥弓呼は同一かもしれない。
0130日本@名無史さん
2018/10/15(月) 21:50:28.57
猿田彦で注目すべきは最初に出会った場所。
天の八衢。
道が幾つにも別れる処、方違。
面白いことに上町台地と泉北丘陵の間に方違【幸】大神を祀る方違神社がある。
なにわ、和泉、河内、淡の境。

その近傍にイシズ川。サルタヒコが消えたのはイスズ川の川上。

猿田彦が溺れたとされるのが、阿邪訶の海。
方違神社のすぐ北がアサカ、浅香。
浅香の北がオサカ、大阪。
浅香の南、泉北丘陵にコサカ、小坂。

伊勢と同じものが揃っているんだな。
凄い偶然。

更にサルタヒコはヒラブカイに挟まれて亡くなるとある。
泉北丘陵、イシズ川を遡った地に平井と深井という弥生時代から立地が変わっていない集落がある。
平井と深井の間が弥生時代の鈴の宮遺跡。
サルタヒコは最後はこの辺りに逃れていて、殺されたんだろう。
0131日本@名無史さん
2018/10/15(月) 21:52:06.94
>>129
このような具体性のない総論に終始したので
九州説は進歩が止まり
そして消えた
0132日本@名無史さん
2018/10/15(月) 21:55:21.74
伊勢遺跡の全盛期に同時代の墓が周辺に認められないんだよね。政治の中枢であるが墓がない、国会のような年に1回首長たちが集う祭祀の場であった可能性がある。
神無月に出雲に神々が集う言い伝えがあるが、伊勢遺跡の伝承だった可能性もある。

国作り神話や神無月の伝承、元々畿内の伝承だった可能性もあるな
0133日本@名無史さん
2018/10/15(月) 21:56:31.41
2013年の大規模調査なんてない

日本経済新聞(2013/2/20)
卑弥呼の墓?初の立ち入り調査 奈良・箸墓古墳
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG1905C_Q3A220C1CR0000/

研究進展に期待
日本考古学協会など考古学、歴史学の15の研究者団体は20日午前、
宮内庁が陵墓として管理している奈良県桜井市の箸墓古墳を立ち入り調査した。
宮内庁が研究者側からの要望に応じて立ち入りを認めるのは初めて。
同古墳は邪馬台国の女王・卑弥呼の墓とする説もあり、陵墓の公開や研究の進展につながると期待されている。

立ち入り調査をしたのは研究者16人。
約1時間半をかけて墳丘の最下段を一周し、地表に見える葺(ふ)き石や土器などの遺物の状態、墳丘の形などを観察した。

参加した日本考古学協会の森岡秀人理事によると墳丘表面で、築造以前の様子を示す弥生最末期の土器などが見えたという。
森岡理事は「古墳の詳しい状況を実感できた。今回得た知見や印象によって研究が加速するのでは」と話し、
今後の陵墓公開に向け「国民の文化遺産として大切に守るべきもの。宮内庁とさらなる協力体制を目指したい」と強調した。

研究者らは午後、宮内庁が管理する西殿塚古墳(同県天理市)も調査する。
0134日本@名無史さん
2018/10/15(月) 21:58:58.98
ヤマタノオロチの神霊が宿る伊吹山
和歌に於いて一途な思いの代名詞の伊吹山
ヤマト政権に最後まで抗った伊吹山の神

ヤマタノオロチ、

風宮の神(級長津彦命 級長戸辺命)
しなは息が長いという意味。
息が長い、吹子、鉄と関係あるかもしれない。

オキナガタラシヒコ、

龍神祝詞の神

全て同じじゃないか?
ヤマタノオロチの勢力は天武の時代まで存在していたのでは?
大津皇子は天武の子ではなく、オキナガタラシ系の皇子だったのかもしれない
天武はどうして草薙剣に祟られたのか?

最後に大津皇子の辞世の句と息長に関する万葉集の歌を載せておく

ももづたふ磐余(いわれ)の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ

金烏臨西舎 鼓声催短命 
泉路無賓主 此夕離家向

にほ鳥の息長川は絶えぬとも君に語らむ言尽きめやも
0135日本@名無史さん
2018/10/15(月) 22:03:43.84
「会稽東治之東」から逃げる九州説必死「すぎ
0136日本@名無史さん
2018/10/15(月) 22:03:47.11
>>535
>弥生時代からの王権の象徴は銅鐸であろうが、<

縄文期に「志羅紀の三埼」と「北門佐伎之國」と「北門良波之國」と「高志之都都之三埼」からの、
国引き神話に拠って出雲文身國が出来、
大国主と少彦名に拠って、西日本を支配を完成し、
そこで半島から伝えられた銅鐸が祭器として祝われた。

>朝鮮銅鐸は佐原さんの編年では最古ではない。<

「南→東」などの嘘つき騙しをした大和説者の佐原の編年なんて、全く信頼性がない。

>古代出雲王国の権力の波及先が朝鮮半島というだけ。<

銅鐸の祭器は、「志羅紀の三埼」と「北門佐伎之國」と「北門良波之國」からなら、
伝わった可能性がある。
0138日本@名無史さん
2018/10/15(月) 22:07:18.41
>>136
銅鐸は共同体の祭器であって
直接的には王権には繋がっらないね
0139日本@名無史さん
2018/10/15(月) 22:07:49.09
>>137
という根拠は?
0140日本@名無史さん
2018/10/15(月) 22:10:10.50
>>137
出雲にそんな影響力はないな
0141日本@名無史さん
2018/10/15(月) 22:11:48.62
畿内説w
0142日本@名無史さん
2018/10/15(月) 22:12:31.44
>>138
広域の政治勢力であることに変わりはないだろう
0145日本@名無史さん
2018/10/15(月) 22:13:57.39
祭器って、実用的な意味がわからない
ってことだからねえ。
0146日本@名無史さん
2018/10/15(月) 22:14:44.86
キジでも射つさ
0148日本@名無史さん
2018/10/15(月) 22:18:27.07
>>146
返し矢で二度死ぬ九州説
0149日本@名無史さん
2018/10/15(月) 22:21:28.95
>>145
少なくとも個人で所有してた後がないってことは、王権には結びつかない
0150日本@名無史さん
2018/10/15(月) 22:26:01.55
九州説の人が大和弥生の文化を理解できないのは、昔のアメリカ人が北米ネイティブの社会を理解できなかったのと同じではないだろうか
0151日本@名無史さん
2018/10/15(月) 22:31:16.52
>>132
>国会のような年に1回首長たちが集う祭祀の場であった可能性がある。

というか副首都ではないだろうか。
根拠は白村江の敗戦後、ソワソワ落ち着かない天智天皇が近江に遷都してるよね。
これはかなり昔から、もし大和に危険がせまったら近江に逃げるような決まり事があっとも思える。
0152日本@名無史さん
2018/10/15(月) 22:33:33.19
>>145
鎖で吊るした舌があるんだから
鳴らしたことは判ってる
0153スレ主どあほ 
2018/10/15(月) 22:34:03.32
エセスレが立ったからって
ひとりで貼り付けてレス進める必要ないよ
自分を信じろ ここまでの苦労を信じろ

お前の頭でっかちは容認してるよ 
0155日本@名無史さん
2018/10/15(月) 22:34:48.66
>>151
なんで副なの?
0156スレ主どあほ 
2018/10/15(月) 22:35:36.25
エセスレが立ったからって
ひとりで貼り付けてレス進める必要ないよ
自分を信じろ ここまでの苦労を信じろ

お前の頭でっかちは容認してるよ 
0158スレ主どあほ
2018/10/15(月) 22:37:05.48
小心者で一生を通し死ぬのはお前の勝手だが 
0159日本@名無史さん
2018/10/15(月) 22:37:50.73
>>156
全1病患者キウスが登場しました
0160日本@名無史さん
2018/10/15(月) 22:39:23.29
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
0161日本@名無史さん
2018/10/15(月) 22:41:54.28
>>154
なんで武器なの?
おへんじは?
0162日本@名無史さん
2018/10/15(月) 22:41:55.33
>>156
はからずもニセスレで自分が何やってるか自白するキウス
0163日本@名無史さん
2018/10/15(月) 22:45:03.51
九州説が「会稽東治之東」に触れるのはタブー
九州説が死にます
0165日本@名無史さん
2018/10/15(月) 22:54:15.45
実は既に18年前の1992年に謎が解かれていたことを最近知りました!!
 張明澄著『誤読だらけの邪馬台国』(久保書店刊)に書かれています。著者は台湾人で、魏志倭人伝の邪馬台国についての記述(漢文)を読み解いて、その位置をずばりと書いています。
https://blog.goo.ne.jp/akechikenzaburotekisekai/e/dfa3241cf12432febe1480c01c9f5375

張明澄氏は、邪馬台国を「川内平野の阿久根」とされた。


 帯方郡(ソウル
 ↓7,000余里
 (渡一海)→狗邪韓国(釜山
 ↓1,000
 対馬国(西ノ浦
 ↓1,000
 一大国(郷ノ浦
 ↓1,000
 末櫨国(佐世保)→100→不弥国(潜木
        →100→奴国(大塔
        →500→伊都国(塩田
 ↓2,000
 邪馬台国(阿久根

 以上の如くである!
https://blogs.yahoo.co.jp/eraser1eraser/41214268.html
0166日本@名無史さん
2018/10/15(月) 23:01:26.08
残念だったな
帯方郡がソウルじゃないことは
もう確定しちゃったから
0167日本@名無史さん
2018/10/15(月) 23:03:00.73
あとミカン(例え)を食べていたんだけど、
食べるかどうか、兄に聞いてくるからと言うと


持っていけば良いだろうコノヤロー



ネットなどで言われている創価説?
関係したりすると〜〜〜〜〜〜〜〜・・・〜〜〜〜〜〜に、
なるという話

でも、ならない人もいるから、
信用しないほうが良い


・・・・・・・・・家の話なのかな?
0168日本@名無史さん
2018/10/15(月) 23:09:43.87
>>536
>>陪 [常用漢字] [音]バイ(呉)1 そばに付き添う。伴をする。
「陪従・陪乗・陪食・陪席」2 補佐する。<

>こっちが正しく「倍跬」と書いているのを、ザラコクが自分で誤変換して「陪」の字に
文字化けさせてるのに、その自分の誤植の文字の意味を辞書で示して何が言いたいんだろうね<

「勿論、それも小爾雅の解釈であるに過ぎないもの」って書いておいただろ?。
辞書は、簡略説明であり、全ての用例の意味を書いたものではないし、
「旁」の部分が「本義」であり、「偏」は「旁」に対する形容だ。
「跬、一挙足也」なら、「跬」は足を挙げただけであり、
「倍跬謂之歩」の「倍跬」は、「足を挙げて降ろした」というだけの事になり、
「陪」と同じ事を意味していた可能性がある、
と言ってんだよ。
0169日本@名無史さん
2018/10/15(月) 23:19:45.90
>>538
>素人のザラコク爺さんが 現役学者たちの最新見解に対して
理由も言わずに「否定された」と断定しても 九州説が失笑を買うだけでしょ<


「南→東」などの嘘吐き騙しの現役学者が、昔とと現代の間で、
昔と現代の「前方後円墳時代は4世紀」という結論を否定して、
「前方後円墳時代は3世紀中頃だ」と叫んでも、
その現役学者が、失笑を買うだけでしょ?。
0170日本@名無史さん
2018/10/15(月) 23:25:59.58
>>168
>「跬、一挙足也」なら、「跬」は足を挙げただけであり、
>「倍跬謂之歩」の「倍跬」は、

九州説はそうやって
後先考えず両足あげるから
いつもスッ転ぶ
0171日本@名無史さん
2018/10/15(月) 23:26:56.58
>>540
>魏志倭人伝の邪馬台国は九州 だが畿内にも邪馬台国はあった
これがなぜ気に入らんのだ<

九州には「邪馬台国」や「畿内」という文言が起こり得る、という可能性があったが、
大和にはなかったから、完全な嘘つき騙しの文言であるから、気に入らんのだ。

0172日本@名無史さん
2018/10/15(月) 23:32:59.58
>>552
>邪馬台国と記録される候補には初期ヤマト王権しかない
と言ってるみたいだがな<

邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるから、×。
0173日本@名無史さん
2018/10/15(月) 23:37:07.41
>>561
>僕の考えたさいきょうの邪馬台国=テンプレ<

邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙しの捏造文言であるから、×ね。
0174日本@名無史さん
2018/10/15(月) 23:38:40.03
>>169
昔の学者は「前方後円墳時代は4世紀」と言っていた
研究がまだ進んでいなかったから

現代の学者は
「前方後円墳時代は3世紀中頃だ」と言っている
もう教科書にっも載っている

古代史を捏造していた古田一派が現代史まで捏造するようになったが
無駄だ

現代史は誰にでも調べ易いので捏造者がウソついても一発でバレるのだから
0175日本@名無史さん
2018/10/15(月) 23:44:31.73
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
0176日本@名無史さん
2018/10/15(月) 23:44:43.88
>>581
>畿内なんて無かったってどういう意味なんだろ、

畿内には「天子も皇帝も天皇」もまだいなかった、って意味なの。

>九州なんて無かったとも言えるのではないのか<

倭人は、燕の南にいたころカラー、中国の「九州」にいたから。
0178日本@名無史さん
2018/10/16(火) 00:31:59.96
>>168
《爾雅》云:“跬,一舉足也,倍跬謂之步”
跬,指行進間的両脚的距離,即現在的半步,
步,古指両脚各動一次的距離。即現在的両步。
0179日本@名無史さん
2018/10/16(火) 01:42:57.39
>>176
>畿内には「天子も皇帝も天皇」もまだいなかった、って意味なの。


畿内に「天子も皇帝も天皇」もいないと、なんで機内が存在しないんだ?

なに言ってんkだか意味わかんね
0180日本@名無史さん
2018/10/16(火) 05:54:53.99
>>584
>問題なのは、千余里をどのように理解しているか、ということ。
遠州灘あたりとするのか、房総半島の東とするのかでは、文意が大きく異なる。
一応、千余里の実距離をどう考えていのか、示さないと。
単に遠州灘あたりと言うだけでは、空想だと退けられてもしかたがない。<

スレ主は、始めから「南→東」などの嘘吐き騙しをして、
記載里数も、魏志に書かれた実態に合わない秦朝や漢朝の「長里」での解釈をしており、
嘘吐き騙しの×人間です。
0181日本@名無史さん
2018/10/16(火) 05:59:28.25
>>288
>誰も遠州灘あたりとか言ってないから 畿内説になんの問題もないな<

「畿内」なんて存在もしない嘘つき騙しの詐欺文言であるし、
スレ主らは、「南→東」などの嘘吐き騙しをしているから、
問題大有りの・・・・人種。
0182日本@名無史さん
2018/10/16(火) 06:01:48.41
>>590
「南→東」などの嘘吐き騙しや、
理由のないこと言い張っても、
大和説者らやスレ主が、ますます・・・・馬鹿に見えるだけだぞ。
0183日本@名無史さん
2018/10/16(火) 06:05:26.84
>>595
>テンプレに書いてあるのに、なんで
「決定できない」って決めつけるんだ?<

スレ主は、「南→東」などの嘘吐き騙しをした、
という事がバレているから。
0184日本@名無史さん
2018/10/16(火) 06:07:20.95
>>597
あんた、ちょっと頭変じゃないか?。
ここ、原則「投稿の自由」の掲示板だぞ。
0185日本@名無史さん
2018/10/16(火) 06:11:47.52
九州説はあえてその場で反論しないで相手が居なくなってから反論するスタイルによって不敗なのだ
0186日本@名無史さん
2018/10/16(火) 06:19:19.01
>>603
いくら専門家が「大和説」を言い張っても無駄だよ。
文献考古共に大和説なんてあり得ないよ。
現場で掘ってる発掘担当者たちのシンポジウムでも、
「南→東」などの嘘吐き騙しになる解釈をしていちゃ、・・・・アホに見えるだけ。
古いマスコミが面白おかしくするために「九州説x大和説どっち?」みたいに書くだけだ。
奈良や滋賀や京都で出てきた遺跡を見ても、
「ああ、九州倭国の東征毛人五十五國があった」事を示しているんだな、
と判るだけだ。
あ、見ても、・・・・アホに反するわからんか。
0187日本@名無史さん
2018/10/16(火) 06:24:48.11
>>610
>祇園山が出たの、西暦何年?<

列島で唯一の「大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」に適合する墓だから、
西暦248年過ぎ頃。
0188日本@名無史さん
2018/10/16(火) 06:28:59.53
>>612
を問い詰めると、
常識とは「南→東などの嘘吐き騙しの大和説」である 、
とか言い出しそうな気がしてならない。
0189日本@名無史さん
2018/10/16(火) 06:34:49.49
>>621
>ザラコクさん壊れてますね<

うん、
PCの故障と?、
「南→東」」のなどの嘘吐き騙しの5chのの妨害で?、
大和説者への反論が遅々として進まず、
メンドクサイね。
0190日本@名無史さん
2018/10/16(火) 06:41:51.73
>>633
>倭国大乱前の伊勢遺跡は興味深い・・・<

倭国大乱なんてなかったから、×ね。
文献史料は、出来るだけ、
信用性の高い最も古形の高い原史料の記載を使いましょうね。
0191日本@名無史さん
2018/10/16(火) 06:46:31.34
>>636
文献考古の史料理由が言えず、
「南→東」などのような史料事実の否定曲解の結論だけ言うのは、
大和説の宿痾だな。

だから学会の大和説は、国民の7割に否定され、世界中の学者からも否定され、
消えそうになった。
0192日本@名無史さん
2018/10/16(火) 06:47:37.95
>>638
何も理由の言えないトンデモ大和説は嘲笑されるだけ。
0193日本@名無史さん
2018/10/16(火) 07:12:05.26
今月末から宮内庁は、
仁徳天皇陵の内堤の一部を堺市と共同で発掘調査・・・するらしいな、ゾゾ
0194日本@名無史さん
2018/10/16(火) 07:23:23.75
>>168
>「倍跬謂之歩」の「倍跬」は、「足を挙げて降ろした」というだけの事になり、

「倍跬で二挙足で歩のこと」って書いてあるのにww
そういえば、ザラコクの歩は、止まって動かないんだっけ?wwwww

九州説はどう考えても意味の合わない無理読みでも、自説の詭弁のために
は平気でやりますっていう自白だな
0195日本@名無史さん
2018/10/16(火) 08:06:21.33
>>191
実際には
「会稽東冶之東」という史料事実を突きつけられて
困り果てて無視している

といいうのが九州説の悲しい現実
0196日本@名無史さん
2018/10/16(火) 08:08:20.40
纒向フォーラム(読売奈良支局 2018・10・15)
>渡辺義浩・早大教授(中国古代史)は、魏の文帝が「寿陵は自然の山を利用し、樹を植えてはならない」などと定めたことを紹介し、
「魏の使者は、卑弥呼の墓を見て中国の墓制にのっとった墓だと思っただろう」などと話した。

>また「倭人伝」の記述が「卑弥呼、以すでに死し、大いに冢を作る」なら、死んでしばらくしてから墓を造ったという意味になり、
渡辺教授は「死んだために墓を造ったという意味の『死するを以もって』と読むべきだ」と指摘した。
>その後、センターの寺沢薫所長の司会で4人が討論。箸墓古墳が卑弥呼の墓だとする見方に対し、
寺沢所長は、桜井市のホケノ山古墳など箸墓以前に築造された古墳のいずれかだと主張した。

寺沢センセも、ついに箸墓撤退を明らかにしたのか・・・。
0197日本@名無史さん
2018/10/16(火) 08:19:22.40
畿内は会稽の東とは言えないけどね。
ブーメランだろw
0198日本@名無史さん
2018/10/16(火) 08:21:12.55
>>196
またデマ流してるね
寺澤は10年前から箸墓を卑弥呼の墓とは考えてない
すっかり少数派になったようだな
0199日本@名無史さん
2018/10/16(火) 08:23:30.91
>>197
ブーメラン?

九州説に致命傷を与えた武器が手元に戻ってきたんだな
また投げてトドメを刺すか
0200日本@名無史さん
2018/10/16(火) 08:27:15.66
会稽に近いのはどちら?
0201日本@名無史さん
2018/10/16(火) 08:29:43.19
>>197
九州説というのは論理的思考のできない人しかいない
という実例を出してくれて有難う
0202日本@名無史さん
2018/10/16(火) 08:30:47.95
>>648
>最高学府の東大が九州説に見込み無くなって撤退したのだから諦めろ・<

「東大」が最高学府だ、という思考そのものが、×。
人間誰しも「自然や歴史においての99.5%以上の不可知部分が存在する」生物であり、
最高学府にいた、というだけでは、「100%万能」である訳もなく、
全て知り得た事実からの帰納的確率的な推論、をするしかないのであり、
この男も、史料事実や史料実態よりも、権力や学歴が全てである、という、
・・・・思想にかぶれた・・・・であった、という事になるだけ。
0203日本@名無史さん
2018/10/16(火) 08:37:02.01
>>651
>纏向のほかに卑弥呼の宮室として挙げられている場所が、ほかにあるのか?<

纏向自体が、卑弥呼のし、
「以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食、傳辭出入。居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衞」
には、全くなっていないし、
卑弥呼の都なら、弥生銀座地域が最も可能性が高いし、
卑弥呼の宮室地なら、安徳台、という地が可能性がある。
0204日本@名無史さん
2018/10/16(火) 08:39:03.39
>>200
どっちもはるかに遠いね
九州説死亡
0205日本@名無史さん
2018/10/16(火) 08:41:13.47
>>203
「全くなっていない」と
結論を言い張るだけ

理由を何も言わないのが九州説の特徴


だから九州説は学問でいられなくなった
0206日本@名無史さん
2018/10/16(火) 08:51:42.55
>>670
>新莽嘉量 現在は台北・故宮博物院にある。深一尺=23.1cmである。
魏陳留王景元四年の劉徽『九章算術』の注釈本において
「王莽銅斛は、魏尺で深九寸五分五厘だった。」とある。
つまり
魏尺=24.188・・・cm<

九章算術は、魏朝の度量衡には縛られず、秦漢朝の度量衡での算経を書いているから、
それ自体は、学者の自由であり、構わない。

>魏の步は145.130・・・・cm 魏の里は435.393・・・・m<

これは×。
魏朝は、秦の始皇帝の「1歩=6尺」を否定して、周制への復古を目指したから、
周髀算経の一寸千里の法の度量衡を採用した事になり、
「1里≒76.5m」になるから、1歩は300で割り算して、
「1歩≒25.5cm」であった事になる。
0207日本@名無史さん
2018/10/16(火) 08:58:14.00
0208日本@名無史さん
2018/10/16(火) 08:58:27.69
0209日本@名無史さん
2018/10/16(火) 08:58:56.99
0210日本@名無史さん
2018/10/16(火) 08:59:11.56
0211日本@名無史さん
2018/10/16(火) 08:59:43.49
0212日本@名無史さん
2018/10/16(火) 09:00:17.21
偽スレを埋め立てる命令ではないのかな。。。

188日本@名無史さん2018/10/16(火) 08:51:55.99
ほら、偽スレをちゃっちゃと埋めろ
0213日本@名無史さん
2018/10/16(火) 09:00:35.70
偽スレを埋め立てる命令ではないのかな。。。

188日本@名無史さん2018/10/16(火) 08:51:55.99
ほら、偽スレをちゃっちゃと埋めろ
0214日本@名無史さん
2018/10/16(火) 09:00:52.21
偽スレを埋め立てる命令ではないのかな。。。

188日本@名無史さん2018/10/16(火) 08:51:55.99
ほら、偽スレをちゃっちゃと埋めろ
0215日本@名無史さん
2018/10/16(火) 09:01:07.49
偽スレを埋め立てる命令ではないのかな。。。

188日本@名無史さん2018/10/16(火) 08:51:55.99
ほら、偽スレをちゃっちゃと埋めろ
0216日本@名無史さん
2018/10/16(火) 09:03:27.48
スレが違うことも認識できないキチガイ登場
0217日本@名無史さん
2018/10/16(火) 09:06:03.63
>>674
大和説は、
「南→東」などの嘘つき騙しをする事と、
相手が理由を言っても知らん振りして、読んでいない振りをして、
同じ事を繰り返し質問をしたり、
幾ら理由を言って貰っても、自分の対案を言うのではなく、
また「根拠は?」と堂々巡りになる無限質問をして、
世間の人々に、議論に勝ったかのように吹聴宣伝をする、・・・・詐欺師であり、

理由をいうのが大嫌い。
0218日本@名無史さん
2018/10/16(火) 09:07:17.45
ニセスレ立て常習者の悪党が、また汚いイヤガラセを始めたのだな

九州説敗北のサインだというのに
0219日本@名無史さん
2018/10/16(火) 09:10:22.61
>>217
そうやって九終説が
根拠も言わず
証拠も出さず
自分勝手な断定ばかりしているのだから
「根拠は?」と
問い詰められるのは当然の報いなんだがね

理解できないのは九州説が学問じゃないからだよ
0220日本@名無史さん
2018/10/16(火) 09:15:26.67
偽スレを埋め立てる命令ではないのかな。。。

188日本@名無史さん2018/10/16(火) 08:51:55.99
ほら、偽スレをちゃっちゃと埋めろ
0221日本@名無史さん
2018/10/16(火) 09:16:05.59
偽スレを埋め立てる命令ではないのかな。。。

188日本@名無史さん2018/10/16(火) 08:51:55.99
ほら、偽スレをちゃっちゃと埋めろ
0222日本@名無史さん
2018/10/16(火) 09:16:41.88
偽スレを埋め立てる命令ではないのかな。。。

188日本@名無史さん2018/10/16(火) 08:51:55.99
ほら、偽スレをちゃっちゃと埋めろ
0223日本@名無史さん
2018/10/16(火) 09:17:25.49
偽スレを埋め立てる命令ではないのかな。。。

188日本@名無史さん2018/10/16(火) 08:51:55.99
ほら、偽スレをちゃっちゃと埋めろ
0224日本@名無史さん
2018/10/16(火) 09:20:47.28
0225日本@名無史さん
2018/10/16(火) 09:21:08.12
0226日本@名無史さん
2018/10/16(火) 09:34:17.96
>>676
>邪馬台国の卑弥呼が住んだ王宮は纏向でなく葛城である。<

邪馬台国なんて存在しないし、
葛城も「南≠東」に拠って、×。
0227日本@名無史さん
2018/10/16(火) 09:34:40.14
>>217
>また「根拠は?」と堂々巡りになる無限質問をして、

根拠をちゃんと言えば終わるだろ
答えないから、答えるまで聞かれる

「南→東」とか、もぐもぐ誤魔化し呪文を呟いてばかりいるるから無限になる
0228日本@名無史さん
2018/10/16(火) 09:52:07.96
ほら、偽スレをちゃっちゃと埋めろ
0229日本@名無史さん
2018/10/16(火) 09:52:34.22
ほら、偽スレをちゃっちゃと埋めろ
0230日本@名無史さん
2018/10/16(火) 09:56:52.76
>>229
もしかして九州説さん

「会稽東冶之東」一発で
九州説が致命傷負ったから

あせってるの?
0231日本@名無史さん
2018/10/16(火) 09:58:27.17
それ、畿内説の方がもっと不利だよね?
正直、、意味不明
0232日本@名無史さん
2018/10/16(火) 10:03:06.31
>>231
畿内説の方がもっと不利だと思う理由をまったく言わないので
正直、、意味不明

これだから九州説はダメなんだよな
0233日本@名無史さん
2018/10/16(火) 10:06:35.23
九州説は説明能力の貧困ゆえに滅んだ
0234日本@名無史さん
2018/10/16(火) 10:12:44.66
畿内の方が会稽から遠いよ。
0235日本@名無史さん
2018/10/16(火) 10:14:41.37
そう言えば
「日本海の砂丘は寒冷化でない」とか言い出して
一発で論破されたのに
俺様は砂丘でテンプレを論破したゾと宣伝してるお馬鹿さんもいたね

九州説っておバカ・・・
0237日本@名無史さん
2018/10/16(火) 10:18:45.66
>>234
このように
断片的な意見を呟くだけで
論理の脈絡がある文章か書けない人とか・・・

・・・九州説人材なさすぎ
0239日本@名無史さん
2018/10/16(火) 10:21:38.79
重複偽スレッド埋め立て
0240日本@名無史さん
2018/10/16(火) 10:21:53.61
重複偽スレッド埋め立て
0241日本@名無史さん
2018/10/16(火) 10:22:23.62
重複偽スレッド埋め立て
0242日本@名無史さん
2018/10/16(火) 10:22:39.39
重複偽スレッド埋め立て
0243日本@名無史さん
2018/10/16(火) 10:23:10.98
重複偽スレッド埋め立て
0244日本@名無史さん
2018/10/16(火) 10:30:53.90
>>231
>それ、畿内説の方がもっと不利だよね?
>正直、、意味不明

いや、畿内説にとって重要な表記だよ?

陳寿は「計其道里、『當在』會稽、東冶之東」と書いていて、
最初から「會稽、東冶之東」に倭国があるという認識があったことを示している

だから、倭国内の長距離移動は「南でなければならない」ことになるんだよ
陳寿の認識の中ではね

南至投馬國水行二十日
南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月

の南が本来は東であることの、最重要の文献証拠だよ
0245日本@名無史さん
2018/10/16(火) 10:32:12.08
>>238
>かわいそうなくらいに九州説が不利だな

その認識は間違っているな
九州説は不利なんじゃなくて終わってるんだよ
0246日本@名無史さん
2018/10/16(火) 10:49:56.19
>>701
>ザラコクよ「南≠東」は横に置いて議論しないか<

嫌だ。
大和説学者らや、学会教育界や、右翼マスコミや、安部文部省らの嘘つき騙しをしている、
という事に関する根本的な証拠だ。
世界の学者らの「大和説」拒否の根本的な理由である、と言ってもよい。

>畿内説では説明がつかないのは皆知ってるから <

「畿内」なんても、存在もしない嘘つき騙しの文言だ。

>「南≠東」で一刀両断にすると話が進まない <

大和説者が、「南→東」を前提にした論を主張する限り、話が進まなくても構わない。
唐会要倭国伝の「正北抵新羅」でも、
九州倭国の「東征毛人五十五國」などでも、
神武東征でも、「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」でも、「海東鏡」などでも、
欠かす事が出来ない論理だ。
0247日本@名無史さん
2018/10/16(火) 10:54:35.64
>>705
>「根拠が述べられていない」っていう理由は?
理由もないこと、いくら言い張っても馬鹿にしか見えない <

相手の話が肯定出来なければ、対案や反論を示せばよいのであり、
「理由は?」という事いう事だけ言い放って、議論に勝ったかのような宣伝をする大和説者は、
「万世一系皇国史観」にクルった・・・・詐欺師にしか見えない。
0248日本@名無史さん
2018/10/16(火) 10:54:37.31
>>246
>>ザラコクよ「南≠東」は横に置いて議論しないか<

>嫌だ。

そりゃそうだよなww
ザラコクの知力で書けるのって、それが精一杯なんだからww
0249日本@名無史さん
2018/10/16(火) 10:57:32.09
>>711
説明がつかなかったっっっ、ということにしたいだけ。
だから大和説は議論から逃げる 。
0250日本@名無史さん
2018/10/16(火) 11:01:31.77
>>713
>呉系の鏡だって決めつけてるけど
なんの理由もないんだよね<

三角縁や神獣鏡が江南地域付近で盛行した事と、「海東鏡」などがあるから。
0251日本@名無史さん
2018/10/16(火) 11:04:25.96
>>714
>>A:[『銅鏡百枚』は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量と思われ、]
[市中から雑多な鏡鑑を購入するより『形大の揃った品』を『急遽一括生産』するほうが下賜品に相応しいと思われる。] <

>『銅鏡百枚』『形大の揃った品』『急遽一括生産』で理解できると思うが <

絶対それだけだ、という断定が困難。
0252日本@名無史さん
2018/10/16(火) 11:08:18.52
>>721
>九州説さんに言いたいことはこれだな
「他人に通じる日本語を書いてくれ」<

大和説者に言いたい事はこれだな。
国民や世界の人々に、意味が通じる日本語で書いてくれ。
0254日本@名無史さん
2018/10/16(火) 11:13:54.37
>>726
大和説学者さんらはら、
全員「南→東」などの嘘つき騙しの、・・・・コミュ障だから仕方ないんだな。
0255日本@名無史さん
2018/10/16(火) 11:22:16.86
>>731
大和説転落の軌跡
「南→東」などの嘘つき騙しを断定断定するが、証拠が出せない
    ↓
主張はするが理由は言えない
    ↓
主語述語、目的語の揃った文が書けない
    ↓
話しかけてる相手が指定できず、誤魔化そうとする
    ↓
嘘つき騙しや、何でも「証拠は?」とだけ言って、勝とうとするしか書き込めない
    ↓
泣きながら寝る、九州説を論破する夢を見る
    ↓
起きて、夢で見たことを現実のように書き込み始める  イマココ
0256日本@名無史さん
2018/10/16(火) 11:31:52.15
>>740
大和説転落の軌跡
「南→東」などの嘘つき騙しの、断定するが、証拠が出せない
    ↓
「証拠は?」と主張はするが、対案や反論が言えない
    ↓
主語述語、目的語の揃った文が書けない
    ↓
話しかけてる相手が指定できない イマココ
0257日本@名無史さん
2018/10/16(火) 11:33:57.62
>>743
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説の・・・・ガキさま、
錯乱状態。
0258日本@名無史さん
2018/10/16(火) 11:40:46.38
>>757
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は、
毎度のスローガンを連呼してるだけだな。

>畿内説に反論はしていない<

畿内なんて存在もしない嘘つき騙しの造語。
0259日本@名無史さん
2018/10/16(火) 11:42:32.41
>>756
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説とは、
示威脅迫の詐欺行為であって、説ではないんだよ。
0260日本@名無史さん
2018/10/16(火) 11:43:04.95
ここはザラコク隔離スレ
0261日本@名無史さん
2018/10/16(火) 11:59:47.26
>>792
大和説は、
方向も距離が嘘つき騙しなんだし、
考古発掘成果でも筑紫に負けているんだから。
0262日本@名無史さん
2018/10/16(火) 12:05:52.99
>>206
「王莽銅斛、於今尺爲深九寸五分五氂」
今尺=魏尺であり、魏代の劉徽による魏朝の度量衡で測定した結果である。
これこそ資料実態そのものだ。
本文の設問とは直接関係がないから、批判は的外れである。
そもそも王莽こそ周制を目指したのだよ。

「魏尺杜夔所用調律,比晉前尺一尺四分七厘。 」
魏尺とは杜夔により音律から作られたものだ。
晉前尺=王莽銅斛であり、1/0.955=1.047で両者の記述は一致する。
0263日本@名無史さん
2018/10/16(火) 12:13:25.12
ツーカ、九州説が古田短里デーとか言った瞬間にトンデモ認定でしょ世間的には
0264日本@名無史さん
2018/10/16(火) 12:18:18.86
ほら、偽スレをちゃっちゃと埋めろ
0265日本@名無史さん
2018/10/16(火) 12:18:41.23
ほら、偽スレをちゃっちゃと埋めろ
0266日本@名無史さん
2018/10/16(火) 12:18:52.51
ほら、偽スレをちゃっちゃと埋めろ
0267日本@名無史さん
2018/10/16(火) 12:55:42.99
敗残九州説のイヤガラセが汚いな
0268日本@名無史さん
2018/10/16(火) 13:04:48.78
1のトリップは前スレと同じだけどこっちが違うのか?
0269日本@名無史さん
2018/10/16(火) 13:05:58.90
会稽東冶之東を指摘された頃から荒らしが激化してるよ
やっぱり九州説の致命傷だったってことか
0270日本@名無史さん
2018/10/16(火) 13:09:56.67
畿内の方が会稽から遠いから、九州説で気にしている人はいない。
キナイコシが言い張っているだけ。
0271日本@名無史さん
2018/10/16(火) 13:15:25.41
致命傷も何も最初から死体そのものだろ
まともな点が一つもないのにどこがダメージなのかもわからんわw
0272日本@名無史さん
2018/10/16(火) 14:03:15.99
>>270
なにも反論できずに無為するってのは
決定的に論破されたってことだよ
九州説終わってるね
0273日本@名無史さん
2018/10/16(火) 14:05:02.55
畿内の方が会稽から遠いよ。
0274日本@名無史さん
2018/10/16(火) 14:07:16.27
偽スレ立てて嫌がらせすると九州に邪馬台国が出てくると思ってるキチガイの集まりだからな
九州説は
0275日本@名無史さん
2018/10/16(火) 14:07:21.15
>>273
>畿内の方が会稽から遠いよ。

>>244を読みなさい

萬二千里は、淮南子などの古文献上の数字をそのまま引用しただけで、
実際の距離とは関係ない盛った数字だから根拠にならない
0276日本@名無史さん
2018/10/16(火) 14:07:35.41
>>268
ここが本スレで、もう一つが
荒らしの立てたニセスレだよ
0278日本@名無史さん
2018/10/16(火) 14:15:03.46
>>275

会稽は畿内説にとってアキレス腱だから、都合の悪い文章は全て無視と。
いつしか、畿内説が描く邪馬台国は魏志倭人伝と似ても似つかぬ内容になってしまいましたとさ。
0279日本@名無史さん
2018/10/16(火) 14:22:50.54
>>278
「会稽東冶之東」ということは
”倭人伝の里数や方位が間違ってる”という証明なんで
九州説唯一の根拠が消えるってこと
つまり九州説の致命傷だ

「畿内の方が会稽から遠い」とか
的外れで、まったく反論になっていない
0280日本@名無史さん
2018/10/16(火) 14:26:26.91
九州説に根拠なんて皆無だし
好き勝手な行程を喚いてるだけで
0281日本@名無史さん
2018/10/16(火) 14:26:38.82
>>279
「会稽東冶之東」を根拠にしている九州説なんていないけど?
キナイコシは仮想敵を相手に喧嘩をするんだな。
それで勝ったつもりでイキがっているわけだ。

アホだろ。
0282日本@名無史さん
2018/10/16(火) 14:26:55.40
畿内説に根拠なんて皆無だし
好き勝手な行程を喚いてるだけで
0283日本@名無史さん
2018/10/16(火) 14:29:34.98
>>281

「会稽東冶之東」を根拠にしている九州説がいるとか
誰も言っていないが

キウスはまた発狂しているのか?
0284日本@名無史さん
2018/10/16(火) 14:33:48.10
>>282
>畿内説に根拠なんて皆無だし
>好き勝手な行程を喚いてるだけで

こういう露骨な嘘は九州説を不利にするだけ
0285日本@名無史さん
2018/10/16(火) 14:35:50.78
畿内説の根拠って何?
0286日本@名無史さん
2018/10/16(火) 14:37:29.27
>>285
テンプレに書いてあるよ
0287日本@名無史さん
2018/10/16(火) 14:40:25.79
恥ずかしくて答えられないのか。
0288日本@名無史さん
2018/10/16(火) 14:43:12.07
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
0289日本@名無史さん
2018/10/16(火) 14:45:57.10
>>287
九州説って恥ずかしいね
0290日本@名無史さん
2018/10/16(火) 14:51:28.15
>>288
>・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)

近畿中央部とは具体的にどこ?
大和でも畿内でも厳しいから、今度は近畿?
0291日本@名無史さん
2018/10/16(火) 14:56:05.23
前方後円墳や畿内式の土器を受け入れていたのは奴国とその東の地区だけで

肝心の伊都国周辺からは前方後円墳や畿内式土器は出てこないんだよね

そこ理解しないと
0292日本@名無史さん
2018/10/16(火) 14:56:33.46
>>291の事実だけでテンプレは破綻する
0293日本@名無史さん
2018/10/16(火) 14:57:22.55
古墳が営まれた3世紀中頃から7世紀を古墳時代と呼び、これを古墳がもっとも大型化する中期を中心に、
 前期(3世紀中頃〜4世紀後半)、
 中期(4世紀後半〜5世紀末)、
 後期(6〜7世紀)
に区分している。

古墳時代前期の前半を出現期という。この時期の古墳の中で最大の規模をもつものは、奈良県の箸墓古墳である。

 弥生時代の後期には、すでに大きな墳丘をもつ墓が各地で営まれていたが、3世紀中頃から後半になると、より大規模な前方後円墳をはじめとする古墳が西日本を中心に出現した。
これら出現期の古墳は、多くは前方後円墳もしくは前方後方墳で、長い木棺を竪穴式石室に収めた埋葬施設や、多数の銅鏡をはじめとする呪術的な副葬品をもつなど、画一的な特徴をもっていた。
 それは古墳が各地の首長たちの共通の意識のもとにつくり出された墓制で、その背景には古墳の出現に先だって広域の政治連合が形成されていたことが考えられる。
出現期の古墳の中でもっとも規模が大きいものは奈良県(大和)にみられ、この時期大和地方を中心とする近畿中央部の勢力によって政治連合が形成されていた。
この大和地方を中心とする政治連合をヤマト政権という。

奈良県桜井市の纒向遺跡では、2009(平成21)年に3世紀前半頃の整然と配置された大型建物跡が発見され、邪馬台国との関係で注目されている。
0294日本@名無史さん
2018/10/16(火) 14:58:03.60
やはり>>110が正しいな

旧倭奴国勢力が連携を取りながら邪馬台国を徐々に浸食して前方後円墳体制(ヤマト王権)を作った
0295日本@名無史さん
2018/10/16(火) 14:59:29.58
神武は岡田宮に寄り道して畿内に向かった

南九州-奴国の東側地域-畿内の連携だわな
0296日本@名無史さん
2018/10/16(火) 15:00:11.16
>>68
倭人伝では、その邪馬台国の位置は中国本土の会稽〜東冶の東に当たるだろうと書いてある。
沖縄付近になる。
倭國はそのような巨大島にあると、書かれているのだ。
0297日本@名無史さん
2018/10/16(火) 15:22:35.88
>>293
> 前期(3世紀中頃〜4世紀後半)、

卑弥呼の死後に政治状況が大きく変わったようだな。

>>294
>旧倭奴国勢力が連携を取りながら邪馬台国を徐々に浸食して前方後円墳体制(ヤマト王権)を作った

九州説そのままだな。
0298日本@名無史さん
2018/10/16(火) 15:23:19.72
>>296
短里で書かれた報告書をまともに長里で理解すると、そのようになるね。
0299日本@名無史さん
2018/10/16(火) 15:30:54.47
>>296
倭は島々と書かれている
巨体島とは書かれていない
0300日本@名無史さん
2018/10/16(火) 15:33:58.12
>>298
なんで魏の役人が
魏晋の中国人の知らない変な単位で
報告書を書くの?
0301日本@名無史さん
2018/10/16(火) 15:37:50.39
帯方郡の人間が測ったから。
0302日本@名無史さん
2018/10/16(火) 15:40:47.25
>>288
そんなバカな。
3世紀中葉とは、卑弥呼が死んだころ。
そして、纏向の政権が北部九州の卑弥呼の倭國を制圧したすぐあとに、箸墓が造られるの。
何を血迷ってるの。
0303日本@名無史さん
2018/10/16(火) 15:42:22.64
>>292
それが正しい歴史観。
0304日本@名無史さん
2018/10/16(火) 15:45:31.84
>>293
大型建物群と邪馬台国との関係を示す物的証拠はまだ発見されていない。
ここがキモね。
0305日本@名無史さん
2018/10/16(火) 15:47:36.55
>>297
間違い

邪馬台国の中心地とされる候補地の一つに、纏向遺跡がある。
この遺跡は奈良盆地の東南、三輪山のふもとに位置し、大量の土器が出土し、大型建物跡も発見されている。
巨大な運河などの土木工事がおこなわれた大規模な集落であり、政治の中心的地域であったと考えられる。
この地には帆立貝型の独特な古墳が見られる。
これは前方後円墳に先行し、山陰地方の四隅突出型墳丘墓、吉備地方の楯築墳丘墓(岡山県倉敷市)、などの弥生時代後期の大型墳丘墓や、吉備地方中心に墳丘に立てられている特殊壺・特殊器台など、各地方の文化の特徴を継承している。
0306日本@名無史さん
2018/10/16(火) 15:48:10.48
>>298
幼稚園児の短里妄想は、お遊びと証明されたよ。
0307日本@名無史さん
2018/10/16(火) 15:50:47.89
>>305
それは邪馬台国ではなく、ヤマト王権だよ。
0308日本@名無史さん
2018/10/16(火) 15:56:24.19
>>299
アホちゃう。
…倭…在海中洲嶋上…周旋五千余里
これ読んでちょ。
0309日本@名無史さん
2018/10/16(火) 15:56:41.73
>>307
という根拠は?
0310日本@名無史さん
2018/10/16(火) 15:56:46.64
>>304
九州と邪馬台国との関係を示す物的証拠はまだ発見されていない。
九州説はここがキモいね。
0311日本@名無史さん
2018/10/16(火) 16:02:16.02
>>308
読んだら何なんだ?、

また新しいトンデモを発明したのか?
0313日本@名無史さん
2018/10/16(火) 16:04:04.96
>>302
それ、なんか根拠あるの?
0314日本@名無史さん
2018/10/16(火) 16:08:24.37
九州説に理由なし

これは法則だなw
0315日本@名無史さん
2018/10/16(火) 16:10:40.45
>>310
何があれば物的証拠になるのかなw
0316日本@名無史さん
2018/10/16(火) 16:13:39.76
>>315
>何があれば物的証拠になるのかなw


「其山有丹」  @阿波
0317日本@名無史さん
2018/10/16(火) 16:17:22.58
>>310
3世紀前半〜中頃の遺跡から魏鏡が出てるんだが?
これでも物的証拠がないの?
0319日本@名無史さん
2018/10/16(火) 16:18:22.62
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0321日本@名無史さん
2018/10/16(火) 16:33:18.13
ぜひその論文を教えてください。
0322日本@名無史さん
2018/10/16(火) 16:53:17.02
>>321
まるで岡上みたいな奴だな
誰と会話する気だろう?
0323日本@名無史さん
2018/10/16(火) 16:58:11.77
結局、会稽東冶の東からは逃げ続けるしかない九州説みじめ
0324日本@名無史さん
2018/10/16(火) 17:16:21.19
>>799
>>ろうそくの炎の中でプラズマ化をしていたのは、「一部分」だけであった筈。<

>一部分でもプラズマ化するんだろ?
そしてプラズマ化したら、ベータ崩壊するんだろ? <

そりゃするだろうよ。

>キャンプファイヤー禁止しないとなww<

しかし、人間は、
生まれてから死ぬまでの間に、宇宙線や大地からの放射能をずっと浴び続けていて、
そのために、組織の損傷老化をし、遺伝子を改変して癌を発生をさせたりするんだから、
それからすると、量的にも期間的にも少ない被爆だろうなあ。
0325日本@名無史さん
2018/10/16(火) 17:16:27.49
馬鹿の一つ覚え
0326日本@名無史さん
2018/10/16(火) 17:28:19.04
>>801
>>単歩がなくては、複歩が存在しないから、単歩の存在が原点になるの。<

>何をトンチンカンなことを言ってるんだ? これのもとは、
「伊能忠敬の測定も複歩で1.38メートル、短歩に換算すれば69センチ」という説明に対して、
これが、伊能忠敬も単歩で測っていたとか訳の分からないことをザラコクが言い出したんだぞ?ww
伊能忠敬も複歩、秦の度量衡の歩も複歩<

例えば、二尺定規と一尺定規があったとすれば、当然、
二尺定規は一尺定規を元にして作られたものだ、という事になる。

>歩の文字の象形も複歩 どこに「歩が短歩」という情報がある? <

「止」は、先端と後ろで止まって真ん中がくっついている状態だから、
片方の足底の状態。
0327日本@名無史さん
2018/10/16(火) 17:48:05.68
>>805
>奴国は九州のどこか見果てぬ場所になる邪馬台国の傘下なのに、<

二万戸の奴國は、日向峠西麓〜日向峠〜早良平野部。
邪馬壹國は、福岡平野中央部〜筑紫平野及びその周辺丘陵地。

>どうして畿内様式土器に統一されて<

庄内は、
時期的に筑紫の三雲の方が古いし、祇園山も3世紀中程であり、
大和の庄内の石塚は前方後円墳だから、3世紀末になり、
大和は、九州倭国の東征毛人五十五國の中の一国であったんだから、
筑紫の弥生銀座から大和に伝播した、という事になる。

>どうして畿内纏向遺跡発祥の前方後円墳をいち早く取り入れてるの?<

大和の前方後円墳が、筑紫の那珂八幡や津古生掛などの伝播。 

>畿内大和の傘下としか見えないんだけどww<

大和は、筑紫倭国の傘下。
0328日本@名無史さん
2018/10/16(火) 18:01:22.63
>>819
(「南→東」などの嘘つき騙しの)
大和説、どっから出てきた「事実」やら
0329日本@名無史さん
2018/10/16(火) 18:09:50.80
>>308
>周旋五千余里

九州説はこれを、短里で一周だから狭い範囲と思っているけれど、
一方通行であって、一周したり戻ったりしないで五千里なので、相当長い距離だよ

陳寿はそういう認識、想定で魏志倭人伝を書いてる
0330日本@名無史さん
2018/10/16(火) 18:10:13.73
>>882
この「南→東」などの嘘つき騙しの大和説の狂人は、
どこかの病院に措置入院させとかないと、
いずれ(サリン事件のような)刑事事件をしでかしそう。
0331日本@名無史さん
2018/10/16(火) 18:13:14.31
>>291
>前方後円墳や畿内式の土器を受け入れていたのは奴国とその東の地区だけで
>肝心の伊都国周辺からは前方後円墳や畿内式土器は出てこないんだよね
>そこ理解しないと

佐々木論文をちゃんと読みな
「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」佐々木憲一(2010)
明治大学人文科学研究所紀要 第66冊 (2010年3月31日)251−312
https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/10881/1/jinbunkagakukiyo_66_251.pdf

伊都国でも、周りに先駆けて畿内様式土器が出るところがあって、
佐々木先生ははっきり書いていないけれど、畿内から派遣された一大率の居所の可能性がある

それから、古墳時代に入ってすぐ、三雲遺跡群の中に、端山古墳が作られてるよ
古墳時代最初の古墳は、その土地の首長が死んだ順番だから、数十年単位の幅があるけれど、
倭国の範囲で一斉に作り始めてるんだよ
伊都国もその中に入っている
0332日本@名無史さん
2018/10/16(火) 18:16:01.20
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0333日本@名無史さん
2018/10/16(火) 18:17:15.21
>>326
>「止」は、先端と後ろで止まって真ん中がくっついている状態だから、
>片方の足底の状態。

とことんバカだな
間違ってましたと言えば、これ以上恥をかかずに済むのにw

http://www.zdic.net/z/1c/zy/6B65.htm

甲骨文でも、金分でも、二つの足跡の間、空けてあるのは分かるな?
つま先とかかとをつけた足底長なんて意味は、どこからも出てこないよ
0334日本@名無史さん
2018/10/16(火) 18:18:17.98
>>326
>例えば、二尺定規と一尺定規があったとすれば、当然、
>二尺定規は一尺定規を元にして作られたものだ、という事になる。

今の言い方でいう「複歩」が、「歩」という単位なんだから、そういう戯言は通らないww
0335日本@名無史さん
2018/10/16(火) 18:28:21.28
>>2
大型建物群で祭祀を行った人物が女姓であろうとするのは、日本書紀のモモソ姫説話に立脚する意見なのであろう。
しかし、当時列島最大の規模である墓が、首長でもなんでもない一人物を葬ったものであるとは考えにくいということで、その説は否定的にみられている。
むしろ、大型建物は3世紀半ば頃以前には解体撤去されたとされているので、大型建物解体撤去後に首長の位についた人物の墓とみるのがよい。
0336日本@名無史さん
2018/10/16(火) 18:35:14.23
>>3
大型建物群は3世紀半ば以前には解体撤去されていたとされているので、この大型建物で祭祀を行った人物がその頃に死んだとすれば、箸墓古墳築造まで最低十数年さらには二十年ほどのの時間が経っている。
その間、遺骨を墓に葬らないでいることはやはり考えにくい、という説があり、その説が説得的だ。
長期間、遺骨を葬らないでいるには相当な理由が必要。
0337日本@名無史さん
2018/10/16(火) 18:38:57.69
>>946
やっぱり「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は、・・・・チンパンジー・
0338日本@名無史さん
2018/10/16(火) 18:41:52.69
>>947
「ズラをかぶった、ドジっ子キナコ」などと云う、
意味不明な文言をしゃべる大和説者?は、
分裂幻覚の妄想患者。
0339日本@名無史さん
2018/10/16(火) 18:50:33.48
>>951
>桃核のAMS法による14C年代測定で纏向遺跡の年代が3世紀前半には存在したことが確実になって<

AMS法が、プラズマ化に拠って、50年〜100年位古く出るという事が分かって、
纏向遺跡は3世紀末以後になった。

>黒塚古墳出土の三角縁神獣鏡の原料銅が魏晋鏡と同じだと分かって、<

黒塚の△が>、粗悪な副葬用の鏡と判って、ますます明帝の下賜鏡ではない事になり、

>次の歴史教科書改訂ではもう
畿内纏向に3世紀の列島の西半分地域の王都があった書かれるんじゃないかな<

次の歴史教科書の嘘つき騙しがバレて、
教科書会社や執筆者や文部省の責任を追及されるんではないだろうか。

もう、このスレの議論も決着がついた感があるな。
大和説が意味のあることを一切書かなくなった。

まあ、いろいろ書いてたことが全部論破否定されたからしょうがないか。
0340日本@名無史さん
2018/10/16(火) 18:53:59.76
>>955
>纒向フォーラム
>渡辺義浩・早稲田大教授(中国古代思想史)は、魏の文帝が「寿陵)は自然の山を利用し、樹を植えてはならない」、
などと定めたことを紹介し、「魏の使者は、卑弥呼の墓を見て中国の墓制にのっとった墓だと思っただろう」などと話した。
その後、センターの寺沢薫所長の司会で4人が討論。箸墓古墳が卑弥呼の墓だとする見方に対し、
寺沢所長は、桜井市のホケノ山古墳など、箸墓以前に築造された古墳のいずれかだと主張した。<

ふーん。
箸墓説は、崩壊していたのか。
0341日本@名無史さん
2018/10/16(火) 18:59:40.72
>>959
>九州説の邪馬台国比定地がやっと決定したか<

大和説の箸墓は、>>953で否定されていたらしいよ。

>なら畿内大和と比較だな<

畿内なんて存在しない、嘘つき騙し文言。

>畿内大和には径百歩、140mの魏志倭人伝にある
卑弥呼の墓と同じサイズの前方後円墳がある<

前方後円墳は、卑弥呼の墓の「冢」ではないから、×。
0342日本@名無史さん
2018/10/16(火) 19:21:55.60
>「ズラをかぶった、ドジっ子キナコ」などと云う・・・、

長年、このあたりを行き来してるものには、誰と誰のことを指してるのか、すぐわかるらしいよ。
0343日本@名無史さん
2018/10/16(火) 19:24:27.88
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0344日本@名無史さん
2018/10/16(火) 19:26:50.58
崩壊してんのは九州説信者の脳だろう
0345日本@名無史さん
2018/10/16(火) 19:32:10.27
>>4
日本書紀のこの時点の記事は、後漢書やその後の中国史書が倭國は奈良を都とする国であるとしていることと関連があり、そのために箸墓の被葬者を女姓であるとほのめかしているようだ。
一方、日本書紀編纂者が承知していた現実の倭國については、神功皇后紀において記述しているようだ。
したがって、モモソ姫の説話については、その信憑性が疑問視される。
0346日本@名無史さん
2018/10/16(火) 19:40:44.83
>>5
2世紀末の北部九州情勢と、奈良盆地の政治情勢とは、直接的には相関していない。
2世紀末に北部九州の動静に奈良の勢力が直接関与したことを示す考古学的知見はみられず、2世紀末に北部九州から奈良付近にまたがる連合政権が出現していたとする歴史観は根拠を欠くものといわざるを得ない。
0347日本@名無史さん
2018/10/16(火) 19:45:01.02
>>340
九州脳
なんでそういう結論が突然出るのか
他人には決して理解できないような答えを出す脳
0348日本@名無史さん
2018/10/16(火) 19:49:44.21
>>346
九州説名物:突然結論

w
0349日本@名無史さん
2018/10/16(火) 20:00:24.10
(常識論)
なんで魏の役人が
魏晋の中国人の知らない変な単位で
報告書を書くの?
   ↓
(非常識九州説)
帯方郡の人間が測ったから。
   ↓
(常識からのツッコミ)
 帯方郡って魏領だろが
0350日本@名無史さん
2018/10/16(火) 20:11:05.28
卑弥呼の政権が2世紀末に瞬間的に成立したとか
そんなこと考えてる人はどこにもいないよ
0352日本@名無史さん
2018/10/16(火) 20:33:17.90
>>349
直前まで公孫氏領だったから。
何度も蒸し返すなよ。
0353日本@名無史さん
2018/10/16(火) 20:40:59.74
>>12
瀬戸内海の高地性集落の盛行と倭國大乱は、従来は畿内W期〜X期前半で重なるとされていた。
しかし、その後、畿内土器と九州土器の併行関係が是正されたとこにともない、倭國大乱は畿内X期後半〜末に該当することとなった。
それで、高地性集落は、倭國大乱とは無関係する考えが主流となっている、とされる。
倭國大乱があったとされる畿内X期後半からは、むしろ戦乱の痕跡はみられなくなるのだそうだ。
ということは、瀬戸内海の高地性集落の時期に倭國大乱があって、その結果、奈良から北部九州にかけて一つの政権下にまとまる政治状況が出現したとするモデルは、根拠を失うこととなったのが現在だということができる。
0354日本@名無史さん
2018/10/16(火) 20:43:28.88
>>352
じゃ、その役人は
「魏には服属しません」
って宣言してるわけだな
当然死刑だよ
そんな記録が採用されるわけないな
0355日本@名無史さん
2018/10/16(火) 20:45:14.26
>>311
倭の地は、周囲五千余里の巨大島。
0356日本@名無史さん
2018/10/16(火) 20:46:07.96
>>353
で?

それは誰の説なのかな?
0357日本@名無史さん
2018/10/16(火) 20:46:57.39
公孫淵は後漢の度量衡は変えてないだろ
兄の公孫晃も洛陽で魏に出仕してるしな
0358日本@名無史さん
2018/10/16(火) 20:47:14.43
>>355
それ、なんて史料に書いてあるの?
0359日本@名無史さん
2018/10/16(火) 20:47:24.72
>>313
卑弥呼死んだの248年。
箸墓造られたのは、260年〜270年頃とされる。
0360日本@名無史さん
2018/10/16(火) 20:51:18.02
>>354
斬淵父子。城破、斬相国以下首級以千数、伝淵首洛陽。
遼東、帶方、楽浪、玄菟悉平。

皆殺しだね
0361日本@名無史さん
2018/10/16(火) 20:52:43.96
>>329
アホやな。
短里というような単位は、中国にはない。
あったら、すでに中国の学者が発表しとる。
五千里を魏晋の1里434mで計算してみるとええ。
起点を下関あたりにして計ったら、ちょうど沖縄往復の距離になる。
0362日本@名無史さん
2018/10/16(火) 20:52:49.12
>>359
それはもう少数派だな
3世紀半ばと見るのが多数派
0363日本@名無史さん
2018/10/16(火) 20:54:48.82
>>359
箸墓ができた頃の纏向は最盛期なんだよ
そして
2世紀末から連続して発展してきてる
東遷説は無理な空想だ
0364日本@名無史さん
2018/10/16(火) 20:58:03.18
>>340
へえ〜。
寺澤大先生はまだ、纏向が卑弥呼の宮の跡たと考えてるのか。
0365日本@名無史さん
2018/10/16(火) 20:58:03.93
>>352
魏の度量衡を使わないってのは
魏の皇帝を認めないっとことでは?
0366日本@名無史さん
2018/10/16(火) 20:59:49.23
>>351
あ、ごめん。
明記してるね。
0367日本@名無史さん
2018/10/16(火) 21:00:07.99
>>364
纏向の大型建物が神殿・宮殿だと思ってないのは
かなり特殊な人だけだね
九州説信者とか
0368日本@名無史さん
2018/10/16(火) 21:02:10.23
>>366
つか、伝承を日本書紀が改ざんしてる感は否めない
0369日本@名無史さん
2018/10/16(火) 21:04:01.79
>>356
一番最後の部分を除いて、資料はウィキ「弥生時代」などによる。
0370日本@名無史さん
2018/10/16(火) 21:04:19.84
九州説様はただの柱一本立てた穴こそが日本最高で至高で最上の大祭祀遺跡だと仰るからな

いやぁとてもかないませんわ
柱一本立ってるだけで無限の可能性を導き出すこの神聖な思考回路
こんな凄いもの出されたらぐうの音も出ませんわ

九州は間違いなく邪馬台国ですわ
0371日本@名無史さん
2018/10/16(火) 21:05:13.78
>>358
魏志倭人伝。
0372日本@名無史さん
2018/10/16(火) 21:06:55.49
>>367
だって、纏向には人住んでなかったんとちゃう?
0373日本@名無史さん
2018/10/16(火) 21:09:28.25
>>348
353を読んでね。
0374日本@名無史さん
2018/10/16(火) 21:10:35.30
鏡もない
絹もない
墓もない
宮城もない
祭祀遺跡もない
丹山もない

流石は九州だ
倭人伝に記載される事が大量に見つかるじゃないか
こりゃ間違いなく邪馬台国だ
0375日本@名無史さん
2018/10/16(火) 21:10:50.75
柱は、韓伝に「立大木」とある
0376日本@名無史さん
2018/10/16(火) 21:12:04.14
>>362
そりゃ、初耳やな。
めでたいやないか、大和説にとって。
わははは。
0378日本@名無史さん
2018/10/16(火) 21:15:52.39
そんなことよりも、老婆の言っていた

『ジギー クモスケ』

ググってみて、何の話なんだろう、
かなり詳しくない?

カブキが〜〜〜という話をしていたことがあったり、
確実に戦前の(老婆談)話
0379日本@名無史さん
2018/10/16(火) 21:16:52.71
>>368
そもそも、モモソ姫という人物がおったかどうか、怪しい。
この時代の系譜は、日本書紀などで血縁がはっきり明記されているが、まだ部族の時代だからなあ。
地位が血筋で継承されてないのじゃないの。
0380日本@名無史さん
2018/10/16(火) 21:17:34.31
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0381日本@名無史さん
2018/10/16(火) 21:18:08.28
クモスケ〜〜〜、何やらとか、
悪く言っているわけではないんだけど、
なぜ詳しかったのか?なんだよ
0382日本@名無史さん
2018/10/16(火) 21:20:45.00
柱一本立てて大祭祀遺跡だと主張する
4世紀後半から5世紀後半の古墳出土鏡を邪馬台国の証拠だと仰る
近畿を中心に数百はあろうかという小規模な方形周溝墓を卑弥呼の墓だと堂々と宣言する
討ち捨てられて誰も顧みない墓を畿内を征服した支配者の墓だと仰る

いやぁ流石は九州説様だ
物凄い説得力でとても反論の余地がない

これはもう邪馬台国に間違いないな
0383日本@名無史さん
2018/10/16(火) 21:23:26.54
>>379
いや、この頃はまだ地位が血筋で継承されてない
ってのは通説たよなあ
0384日本@名無史さん
2018/10/16(火) 21:26:58.68
>>383
詳しくいうと、血筋で継承されないとはいわない
血筋で皆が納得する時代はまだ遥か先ってこと
0385日本@名無史さん
2018/10/16(火) 21:27:43.41
5〜6期の古い漢鏡を打ち割って細々と配って、その後古墳出土鏡まで200年も当時の完形中国鏡を手に入れられないけど日本の代表として魏と交渉して鏡を沢山もらったと主張する
明かな激減を見せてたった一つだけ出てきた麻布よりも粗悪な糸くず一つで絹の中心地だと主張する

流石は九州説だ
完全無欠の理論構築だな
とてもじゃないが意見を差しはさむことが出来ない

間違いなく邪馬台国だ
0387日本@名無史さん
2018/10/16(火) 21:32:56.41
>>375
つまり伊都国とは、マレー人の土地に中国人が作ったシンガポールみたいな小国ってことだな
0388日本@名無史さん
2018/10/16(火) 21:33:50.52
>>386
芋虫100
0389日本@名無史さん
2018/10/16(火) 21:35:02.19
何が凄いのか・・・、
着ている服とかヴィジュアルの話をしていた


日本の話なのかな
『土蜘蛛』?


老婆の旧姓、渡辺というんだけど
0390日本@名無史さん
2018/10/16(火) 21:37:41.85
葛城の土蜘蛛は脛が長かったと言われているね
0391日本@名無史さん
2018/10/16(火) 21:42:10.16
本当に家の話なんだけど

凄い刀が飾ってあって・・・、
家の人にオニギリを作らせて・・・芝居ばかり観に行っていたとか

おにぎり?
0392日本@名無史さん
2018/10/16(火) 21:46:08.68
『松傾』?

家は、このような名前なんだけど、
どういう事なんだろう
0394日本@名無史さん
2018/10/16(火) 21:57:18.66
老婆は大正の一桁の生まれでしょ、
刀なの話なんかも、それ以前の話なんだけど、

誰々って、川崎に住んでいるんじゃないの?
と知っている人がいたり

『サイバーパンク special』?
0395日本@名無史さん
2018/10/16(火) 21:59:18.99
「会稽東治の東」で九州説が壊滅って
もう動かせない事実だよなあ
0396日本@名無史さん
2018/10/16(火) 22:02:41.78
川崎区の南部のほうに住んでいるんだけど、
工場地帯まで行かないところ

家の後ろのほうにある、道路を渡ると工場地帯
0397日本@名無史さん
2018/10/16(火) 22:06:17.16
呟き荒らしの存在が
九州説の堕落を
あらわしてる
0398日本@名無史さん
2018/10/16(火) 22:13:49.03
九州説唯一の拠り所「南」が死んだし
0399日本@名無史さん
2018/10/16(火) 22:19:51.84
都合の悪いことは徹底的に無視するだけじゃなく、力で相手の声を掻き消そうとする
そんな穢れた連中が、九州説なんだよ
0400日本@名無史さん
2018/10/16(火) 22:24:39.42
>>398
もう其山有丹で死んでるけどな
0401日本@名無史さん
2018/10/16(火) 22:29:46.18
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0402日本@名無史さん
2018/10/16(火) 22:35:23.20
>>387
それが邪馬台国ということだな。
0403日本@名無史さん
2018/10/16(火) 22:36:27.06
>>93
最後に寺澤が、ちゃぶ台返し。
寺澤が箸墓あきらめたということは、次第に皆が箸墓から撤退ということになりそうだな。
うわっはっはっはっ。
0404日本@名無史さん
2018/10/16(火) 22:39:43.87
>>403
なに妄想してんの?
寺澤がもう少数派って、時代の流れだろ
0405日本@名無史さん
2018/10/16(火) 22:41:38.32
>>361
>起点を下関あたりにして計ったら、ちょうど沖縄往復の距離になる。

五千里の起点は狗邪韓国だよ

帯方郡から狗邪韓国まで七千里、
そこから周旋五千里で萬二千里ってだけ

ただ机上でいじっただけの数字
0406日本@名無史さん
2018/10/16(火) 22:43:41.08
寺澤が、卑弥呼の墓はホケノ山だ、と言ったそうじやないか。
冗談だろう?
ホケノ山は、開化天皇と日本書紀が言っている男王の墓じゃないか。
まあ、しかし、卑弥呼に合わそうとすれば、ホケノ山しかないわな。
だから♪いったじゃないの♪
邪馬台国大和説は、無理。
0407日本@名無史さん
2018/10/16(火) 22:48:19.58
>>960
>決定的なのは、邪馬台国=大和国であれば、
日本の記紀には漢や魏との交流について詳しく記載されているはずだ。
別の政権だったからスルーしてるんだよ。
他人事だから。<

賛成。
0408日本@名無史さん
2018/10/16(火) 22:52:23.58
>>352
>直前まで公孫氏領だったから。

公孫氏も漢人で後漢の官職に就いてるんだよ
公孫康は左将軍

最終的に魏に叛旗を翻したのは滅亡直前の236年
それまでは漢、魏と同じ度量衡を使っている

236年から滅びるまでに短里を導入して東夷の地理を短里で計ったとかどんなトンデモなんだかww

>何度も蒸し返すなよ。

何度も蒸し返すなよ
短里を使う理由のある人間は、どこにもいないんだよ
0409日本@名無史さん
2018/10/16(火) 22:52:30.73
>>405
狗邪韓国の巨済島からでもいい。
大差ない。
ただ、帯方郡から1万2千里だと、1里434mでは赤道付近のセレベス島の南あたりになる。
誰かが書いていたように、1万2千余里は、淮南子や大月氏など西方諸国の国までの距離と同じで、(遠いところにある国までの距離)の代名詞だと考えるのがよか、ばってん。
0410日本@名無史さん
2018/10/16(火) 22:55:48.90
>>965
>ちゃうちゃう
魏志倭人伝に卑弥呼の墓は径百歩、144mとある
そして箸墓古墳の円墳直径がく140m <

ちゃうちゃう。
卑弥呼の墓は「冢」。箸墓は「前方後円墳」。
古代中国人は、「冢」と「墳」とを、違うものだ、として、
完全に区別しているし、
前方後円墳の大きさは「長径」であり、円墳部分ではなく、
「径百余歩」は、径25,5m位。
0411日本@名無史さん
2018/10/16(火) 22:56:47.88
>>404
まもなく、寺澤は桜井市教育委員会と喧嘩別れして、纏向学研究所長やめることになりそうだな。
0413日本@名無史さん
2018/10/16(火) 23:02:24.71
>>966
>記紀が書かれたのが、卑弥呼の時代から何百年後だと思ってるんだ?
卑弥呼の想定の一番人気、倭迹迹日百襲姫命は、欠史八代の第7代孝霊天皇皇女だぞ?
自分のところの祖先筋の大王の記録も残ってないのに、外国との交渉まで書いていられないだろうが?
それにそれで言ったら、九州には魏どころか大陸との交渉を記した書は一切ないだろ?
ブーメラン以前だよ <

書紀は、卑弥呼と壹與の二人の事績を、一人の神功紀に書く、という嘘つき騙しをしており、
という事は、卑弥呼と壹與の伝承が、大和には全くなかった、という事だ。
0414日本@名無史さん
2018/10/16(火) 23:02:28.14
寺澤先生は箸中山古墳の編年を260〜280年としてるから、卑弥呼には間に合わないという立場
その場合も、箸中山古墳に先行する纒向古墳群のいずれかになるだけだから、
畿内纒向でなんの変更もないよ
0415日本@名無史さん
2018/10/16(火) 23:06:33.97
>>413
嘘をつく人間は必ず本当のことを知らないという
メチャクチャな理屈
0416日本@名無史さん
2018/10/16(火) 23:06:37.05
>>970
>九州の地名はたくさん出てくる なぜなら九州は通過地点だから
目的地は邪馬台=大和
目的地だから大和という畿内の地名は1つしか出てこない<

邪馬台も大和も、魏志には存在しない嘘つき騙しの詐欺文言。
0417日本@名無史さん
2018/10/16(火) 23:08:32.45
>>410
もう論破され済み
前方後円墳という呼び名は江戸時代
それ以前はなになに塚
テンプレにもある通り墳は古代中国で方墳を表している
そもそも卑弥呼の墓は魏志倭人伝では大きな冢
0418日本@名無史さん
2018/10/16(火) 23:09:09.44
>>971
>九州には直径100m超の古墳がないからその時点でアウト<

「径百余歩」は、「径25.5m」。
0419日本@名無史さん
2018/10/16(火) 23:09:36.93
>>395
東治≠東冶だから、別に壊滅してないぞ
0421日本@名無史さん
2018/10/16(火) 23:14:15.05
>>418
1歩は約1,4m
つまり径百歩は約144m
箸墓は全長約140m
0423日本@名無史さん
2018/10/16(火) 23:15:40.77
>>418
>「径百余歩」は、「径25.5m」。

何度も言うが、歩と言ったら複歩なんだよ
だからどうやっても1歩は1メートルを超える
0424日本@名無史さん
2018/10/16(火) 23:17:22.89
>>419
そんなゴマカシいくら頑張っても
会稽郡は九州最南端より南なんだから
九州説はあえなく崩壊
ごまかせない
0425日本@名無史さん
2018/10/16(火) 23:18:45.95
>>421
>箸墓は全長約140m

それ、後円部だけの径
全長だと278メートル
0426日本@名無史さん
2018/10/16(火) 23:18:47.21
歴史偽造=九州説
0427日本@名無史さん
2018/10/16(火) 23:18:48.15
>>972
>ちゃうちゃう
魏志倭人伝に鉄がある ホケノの副葬品に鉄がある
鉄鏃 約60本  鉄製刀剣類 10口  鉄製農工具
倭人伝に銅鏡ある ホケノの副葬品に
画紋帯同向式神獣鏡 1面
画紋帯神獣鏡かと考えられる銅鏡片2個体分、内行花文鏡片<

ちゃうちゃう。
ホケノは、前方後円墳であって、卑弥呼の冢ではなく、
「有棺有槨」であって、倭人伝に書かれた「有棺無槨」ではなく、
庄内〜布留であるから3世紀末以後であって卑弥呼の死の3世紀半ばではなく、
「兵用矛、楯、木弓。木弓短下長上、竹箭或鐵鏃或骨鏃」にもなっていないから、×。
0428日本@名無史さん
2018/10/16(火) 23:21:26.30
>>978
>おれもホケノ 理由
1、箸墓よりホケノの方が卑弥呼の死に近い古墳
2、倭人伝に基く遺物は圧倒的にホケノ <

ホケノは、前方後円墳であって、卑弥呼の冢ではなく、
「有棺有槨」であって、倭人伝に書かれた「有棺無槨」ではなく、
庄内〜布留であるから3世紀末以後であって卑弥呼の死の3世紀半ばではなく、
「兵用矛、楯、木弓。木弓短下長上、竹箭或鐵鏃或骨鏃」にもなっていないから、×。
0429日本@名無史さん
2018/10/16(火) 23:23:41.10
>>427
>ホケノは、前方後円墳であって、卑弥呼の冢ではなく、

なんで?
0430日本@名無史さん
2018/10/16(火) 23:24:28.21
>>425
当時の魏の古墳はほとんど円墳だから
円墳の部分のみを墓と認識したんだろうね
0431日本@名無史さん
2018/10/16(火) 23:25:01.25
>>981
>>北部九州は、四千戸+千戸+二万戸+千戸+「七万戸」=九萬六千戸 <

>その最後の「七万戸」が北部九州には入る場所がないんですよ?
インチキしてんじゃねーよ! <

邪馬壹國は、「福岡平野中央部〜筑紫平野、およびその周辺丘陵地」。
インチキしてんじゃねーよ!。
0432日本@名無史さん
2018/10/16(火) 23:26:31.42
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0433日本@名無史さん
2018/10/16(火) 23:26:56.84
>>428
スローガンの連呼ばかりなのは
九州説という政治思想の特徴dね
0434日本@名無史さん
2018/10/16(火) 23:27:26.90
>>982
>箸墓が卑弥呼の墓なら 死んでから箸墓(3世紀後半)に葬るまで
卑弥呼はどこに葬られていたのか? それはホケノ以外にない 径百歩は実測では無い <

ホケノは、前方後円墳であって、卑弥呼の冢ではなく、
「有棺有槨」であって、倭人伝に書かれた「有棺無槨」ではなく、
庄内〜布留であるから3世紀末以後であって卑弥呼の死の3世紀半ばではなく、
「兵用矛、楯、木弓。木弓短下長上、竹箭或鐵鏃或骨鏃」にもなっていないから、×。
0436日本@名無史さん
2018/10/16(火) 23:33:21.48
>>888
>それはホケノが発掘できたからってだけだよ
それ以前の纏向石塚古墳や東田大塚古墳、箸中山古墳が発掘できてたら、
もっといろいろ出てくるだろ <

前方後円墳は、「冢」とははっきり区別されており、
卑弥呼の墓は「冢」であって、前方後円墳ではないから、
全部×。
0437日本@名無史さん
2018/10/16(火) 23:35:20.35
>>989
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説の、
妄想が痛すぎる 。
0438日本@名無史さん
2018/10/16(火) 23:35:22.71
結局、陳寿本人が「会稽東治の東」と書いてる以上
倭人伝行程記事に載ってる方位や距離が間違ってることは確定で
九州説壊滅も確定だよね
0439日本@名無史さん
2018/10/16(火) 23:37:23.49
>ちゃうちゃう
張政らは卑弥呼の墓の現地へ行ってない。
径百歩は、邪馬台国の役人から聞いた情報。
邪馬台国の役人は、倭人式に1歩を片足分として計算し、百歩と墓の大きさを知らせた。
張政としてはこれを中国式の両足分の百歩と理解した。
倭人の1歩は片足分だから、中国式だと五十歩。
これだと、1歩=1.38mとして、69mとなる。
しかし、倭人は背が低く、足は短いから、片足分は50cm。
なので、卑弥呼の墓は、径25mくらい。
平原1号墳が東西18m、南北14mの方墳だから、まあ、そんなものじやないの。
0440日本@名無史さん
2018/10/16(火) 23:37:40.19
>>436
「冢」だから前方後円墳でない
ってのが
妄想なんだよね
0441日本@名無史さん
2018/10/16(火) 23:45:36.61
魏の度量衡まで捏造しないと一歩も前に進めないのが
九州説
0442日本@名無史さん
2018/10/16(火) 23:49:59.69
>>438
2地点を結ぶ線の東側だから間違ってないんじゃない?
会稽と東治の2点をベースにして表現しているんだから、東は東側という意味で真東の方角を指しているわけない。
0443日本@名無史さん
2018/10/16(火) 23:50:35.87
>>439
>邪馬台国の役人は、倭人式に1歩を片足分として計算し、百歩と墓の大きさを知らせた。
>張政としてはこれを中国式の両足分の百歩と理解した。
>倭人の1歩は片足分だから、中国式だと五十歩。
>これだと、1歩=1.38mとして、69mとなる。
>しかし、倭人は背が低く、足は短いから、片足分は50cm。

仮にこの考えが正しいとしても
倭人の単歩で単歩50センチなら、「100歩で50メートル」になるね

>なので、卑弥呼の墓は、径25mくらい。

頭悪すぎww
そして

>平原1号墳が東西18m、南北14mの方墳

これもインチキ
これは周溝の大きさであって、墳丘サイズは12×8メートル
方形周溝墓としてごく普通のサイズだよ
王墓級ではない
0444日本@名無史さん
2018/10/16(火) 23:53:45.65
>>442
じゃあ、帯方郡も会稽、東治の東だなww
それじゃあ意味がないだろ?

「當在」會稽、東冶之東の、「まさにあり」を無視するなよw
0445日本@名無史さん
2018/10/16(火) 23:56:48.52
>>414
そらそうだが、桜井市は箸墓を卑弥呼の墓として桜井観光の目玉としてる。
ホケノ山が卑弥呼の墓ですと大衆人民の前でしゃべってしまったら、桜井市の面子まるつぶれ。
しかるによって、寺澤所長は近つ飛鳥の白石太一郎氏のように、所長退任となる予感がす。
0446日本@名無史さん
2018/10/16(火) 23:58:14.76
インチキ和訳に全面依存してたから九州説は死んだ
0447日本@名無史さん
2018/10/17(水) 00:00:50.13
>>444
だいぶ南の方になる、程度の意味だろ?
風俗習慣が会稽あたりと似てるから、その東にあるって言ってるんだろ?
0448日本@名無史さん
2018/10/17(水) 00:01:04.86
>>445
九州説はデマ流しすぎ

寺澤は所長就任前から
箸墓は卑弥呼の墓ではない、卑弥呼の墓は纏向型のどれか
と言っている
0449日本@名無史さん
2018/10/17(水) 00:02:01.00
>>436
>前方後円墳は、「冢」とははっきり区別されており、
>卑弥呼の墓は「冢」であって、前方後円墳ではないから、
>全部×。

ならば平原や祇園山も「冢」ではない。
そして「径」でもない。
箸墓も同じく。

では日本に径百余歩の「冢」はないのか。

それがあるのだ。

場所は高天原だ。
しかも奴婢=土蜘蛛が埋葬されている。

https://goo.gl/maps/F2R2iE6ZfqL2
0450日本@名無史さん
2018/10/17(水) 00:06:04.65
>>440
墳墓の形の話でないけれど、陳寿が「冢」と書いて、「陵」と書いてないところがミソだね。
0451日本@名無史さん
2018/10/17(水) 00:06:29.37
九州説のアホって箸墓を卑弥呼の墓じゃない!とか喚き散らせば何とかなると思ってるのが笑えるなw

そんなもんを論拠にしてる奴なんていねーし
0452日本@名無史さん
2018/10/17(水) 00:10:42.59
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0453日本@名無史さん
2018/10/17(水) 00:11:12.46
>>450
ミソでも糞でもない

中国の皇帝じゃない卑弥呼の墓を
中国人が陵と書くことはない
0455日本@名無史さん
2018/10/17(水) 00:16:10.56
>>448
>寺澤は所長就任前から
>箸墓は卑弥呼の墓ではない、卑弥呼の墓は纏向型のどれか
>と言っている

後円部に一人しか埋葬されない「古墳1基=1人説」では無理。
ヒミコのお父さん、お母さん、いたであろう叔父さん、叔母さん、男弟、トヨ、
いたであろう兄弟、そして其の国の男王を説明できないだろ。

正解は径百余歩のヒミコの一族の墓があったのだ。

場所は高天原だ。
しかも魏志倭人伝の記述通り奴婢=土蜘蛛が埋葬されている。

https://goo.gl/maps/F2R2iE6ZfqL2
0456日本@名無史さん
2018/10/17(水) 00:17:04.15
>>439
ん、ちょっと計算おかしいな。
卑弥呼の墓は、倭人式の片足分で百歩。
この倭人の片足1歩は、足が短いので、50cm。
それが百歩なので、卑弥呼の墓は50m。
平原1号墳で東西18m、南北14mだから、そんなもんだろう。
0457日本@名無史さん
2018/10/17(水) 00:17:47.36
纒向型前方後円墳は台与擁立以降じゃないか?
台与擁立より前に纒向型前方後円墳が作られていた根拠はあるのかな
0458日本@名無史さん
2018/10/17(水) 00:20:32.98
訳の分からん妄想を喚いてる奴ってやっぱり日本語も意味不明だな

異常者なのがよく分かるわ
0459日本@名無史さん
2018/10/17(水) 00:25:23.09
>>445
>しかるによって、寺澤所長は近つ飛鳥の白石太一郎氏のように、所長退任となる予感がす。

白石は80歳で任期満了退任しただけなのに変なデマを流す九州説の品性
0460日本@名無史さん
2018/10/17(水) 00:25:42.04
>>448
寺澤は、箸墓卑弥呼説に飽きあきしてたんだろう。
ほんで、今年度いっぱいで所長勇退が決まったもんで、もう自説をしゃべってもかまわんとなって、ふるさとtokyouでちゃぶ台返しのホケノ山卑弥呼説をぶちあげたというところだろう。
他のパネリストの顔、見てみたかったワイ。
0461日本@名無史さん
2018/10/17(水) 00:28:36.84
>>460
こういうデマを平気で流す九州説盲信者が
全く信用できない人間なのは誰にでもわかる
0462日本@名無史さん
2018/10/17(水) 00:28:38.68
卑弥呼の墓探しはあんま意味ないよ
例え古墳の中調査できても確定するのは難しいし
0463日本@名無史さん
2018/10/17(水) 00:29:54.27
>>459
いや、白石氏がもめて辞めたとは言っていない。
ワイもそのあたりは知っている。
立派な学者だ。
白石氏が辞めたので、寺澤も辞めたくなったというような意味だ。
0464日本@名無史さん
2018/10/17(水) 00:30:04.97
九州でないことは確定だから、それなりに意味はあるがな
0465日本@名無史さん
2018/10/17(水) 00:30:14.02
自己紹介しなくていいぞ
意味の通ることをかけ
0466日本@名無史さん
2018/10/17(水) 00:33:24.40
というかもう説がどうのじゃなくて畿内に関わる事を誹謗さえ出来れば何でもいいってレベルだな
嘘並べて訳の分からん事叫んでればそれで満足する程度なんだろうよ九州説は
0467日本@名無史さん
2018/10/17(水) 00:34:53.29
>>462
「例え古墳の中・・・」というのが強固な先入観というもの。
卑弥呼の墓は、考古学者が言う所の「いわゆる古墳」ではない。
0469日本@名無史さん
2018/10/17(水) 00:40:25.12
>>463
他の人が定年で辞めると自分も辞めたくなるって
どういう理屈よ?
0470日本@名無史さん
2018/10/17(水) 00:44:18.42
>>463
「ホケノ山が卑弥呼の墓ですと大衆人民の前でしゃべってしまったら、桜井市の面子まるつぶれ。
 しかるによって、寺澤所長は近つ飛鳥の白石太一郎氏のように、所長退任となる予感がす。」
って発言が
どうして
「白石氏が辞めたので、寺澤も辞めたくなったというような意味だ。」
なんだ?

インチキ九州説は病的なウソつき人間ばかりなのか?


0471日本@名無史さん
2018/10/17(水) 00:45:23.65
あとサイキバ?

『サカキバラ事件』
の事を言っているんじゃないの?
本当にあった事なのかな、どこかの役者とか工作員による演出?
0472日本@名無史さん
2018/10/17(水) 00:50:32.81
>>470
ザラコク、伊都クズ、キウス
みんな病的な嘘つきばかりです
0473日本@名無史さん
2018/10/17(水) 00:50:41.53
当時、報道などを観ていたんだけど、
ヘビィメタルが何やらとか言ってる人(論者、コメンテーター?)がいたり
0474日本@名無史さん
2018/10/17(水) 00:51:13.93
ヒミコが誰なのかキチッと判明させたならその墓も分かるのだ。

卑弥呼(ヒミコ)とは簡単。

I崇神(310年頃 318年没)
H開化
     G孝元
          F孝霊   
トヨ津          E孝安 D孝昭
トヨ津       (250年頃) C懿徳 
ヒメ(踏鞴五十鈴)        B安寧
ヒメ(踏鞴 五十鈴)       A綏靖
ヒメ(踏鞴五十鈴) (200年頃) @神武 

ヒメ(踏鞴五十鈴)もトヨ津媛も鴨族。
鴨の語源はカミ。
鴨族の聖地は高天原。

高天原最有力地・御所市高天の日本最古の神社・高天彦神社の境内に、
径百余歩(約150m)の塚があり、魏志倭人伝の記述通り奴婢が埋葬されている。
埋葬された奴婢とは土蜘蛛である。
https://goo.gl/maps/F2R2iE6ZfqL2
ヒメ(踏鞴五十鈴)もトヨ津媛も死後に高天原の神々になった。
0475日本@名無史さん
2018/10/17(水) 00:55:10.84
まあ、寺澤が卑弥呼の墓はホケノ山だと言っても、そもそも卑弥呼は筑後山門の都に住んだ祭祀者だから、なに言っちゃってくらいしか響かんがな。
0476日本@名無史さん
2018/10/17(水) 01:01:51.62
>>470
白石氏については、(所長退任)の部分しか掛かってないだろ。
白石氏が揉め事起こして退任したとどこにも書いてない。
あんたらは、白石氏の退任についてちゃんと知ってるとおもってるからな。
古代史好きな人間なら、その情報はもっとるだろが。
0477日本@名無史さん
2018/10/17(水) 01:03:22.73
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0478日本@名無史さん
2018/10/17(水) 01:03:42.83
>>475
盲信者に学問の光は届かない
0479日本@名無史さん
2018/10/17(水) 01:03:44.82
邪馬台国九州説も纏向説も新興宗教と同じ。

10代崇神以前の宮はどこにあった?
6代孝安以前の宮は葛城だろ。
だから邪馬台国は葛城だ。
こんな簡単なことが分からないなんて新興宗教と同じ。

葛城にそれらしき墓がないではないかと思うだろ。
そういうやつの何人が高天原最有力地・御所市高天に注目したのだ?
行ったことがあるのか。
行けなければ地図でも見ればいい。

それをしたやつも誰もいないだろ。

おまえらは馬鹿なのだ。
0480日本@名無史さん
2018/10/17(水) 01:05:25.98
>>468
卑弥呼以死大作冢。三国志の時代には、冢は墳ではないからな。
0481日本@名無史さん
2018/10/17(水) 01:15:53.88
>>469
自分が尊敬する人が仕事を定年でやめたりすると、それを見て自分もやめたくならんか。
ワイは、何回かそういう気分になったことあるぞ。
あんたは、そういうことはないのか。
0482日本@名無史さん
2018/10/17(水) 01:18:47.23
>>478
その寺澤の学問が、ところどころ変だなと感じる光降る今日この頃。
0483日本@名無史さん
2018/10/17(水) 02:19:03.89
張政は戦争中の邪馬台国へは行かずに伊都国の迎賓所に留まっていた。
そこで邪馬台国からやってきた難升米に皇帝の詔書と軍旗を手渡した。
卑弥呼が死んだときも、迎賓所に留まっていた。
卑弥呼の墓が造られたと聴いた。
その後、特定の勢力によって男王が立てられたが、反対勢力との抗争となり、台与が王に立てられて抗争は終結した。
張政はそこで台与に檄文を送って、台與を励ました。
そして、役目を終えた張政は帯方郡へ帰国した。
つまり、張政はずつと伊都国の迎賓所にいた。
卑弥呼の墓については「百歩」の大きさだとは聞いたが、直接は見ていない。

こうみてくると、本当に卑弥呼の墓は造られたのか、その墓は本当に「百歩」あったのか、すべて不確かだ。
それらは全て、邪馬台国の役人からの伝聞にすぎない。
0484日本@名無史さん
2018/10/17(水) 02:20:29.47
>>483
駄目だな
もうちょっと勉強しないと
0486日本@名無史さん
2018/10/17(水) 03:53:03.86
>>484
これが妥当なところだ。
張政が卑弥呼、台与に面会していないことは、間違いないだろう。
0487日本@名無史さん
2018/10/17(水) 05:01:42.60
>>486
>張政が卑弥呼、台与に面会していないことは、間違いないだろう。

つ 政等以檄告喩壹與

普通はこの記述をもって台与と会ってると考える
つまり張政は都、邪馬台国まで行ってる
0488日本@名無史さん
2018/10/17(水) 05:02:51.15
>>475
>そもそも卑弥呼は筑後山門の都に住んだ祭祀者だから

それの根拠、「山門が山門」
0489日本@名無史さん
2018/10/17(水) 05:05:22.90
>>475
>そもそも卑弥呼は筑後山門の都に住んだ祭祀者だから

それの根拠、「山門がヤマトと読める」ってだけだろ?
山門には弥生終末期の都を思わせる遺跡、遺構がない

何でも思いつきを言えばいいって訳じゃないぞww
0490日本@名無史さん
2018/10/17(水) 05:07:12.15
甲乙も違うし
0491日本@名無史さん
2018/10/17(水) 05:17:17.74
>>480
>卑弥呼以死大作冢。三国志の時代には、冢は墳ではないからな。

現代人は区別しない
考古学者も区別しない

よって
>卑弥呼の墓は、考古学者が言う所の「いわゆる古墳」ではない

という主張は間違い
0492日本@名無史さん
2018/10/17(水) 05:33:18.41
>>491
冢は古墳の範疇で良い
BUT
冢=古墳では無い
冢<古墳が正解
前方後円墳しか理
前方後円墳<古墳
0493日本@名無史さん
2018/10/17(水) 05:36:21.18
冢≠前方後円墳
0494日本@名無史さん
2018/10/17(水) 06:18:13.48
>>482
そういう中傷ばっかりしているから九州説は信用を失って今日の有様である
0495日本@名無史さん
2018/10/17(水) 06:21:10.34
>>493
なんでさ?

???
0497日本@名無史さん
2018/10/17(水) 06:24:15.41
なんの理由もないデタラメをひたすら言い張るのが旧醜説だ
0498日本@名無史さん
2018/10/17(水) 06:33:38.31
>>496
冢=円墳ってなんか根拠あるわけ?

それとも超えらい俺様のご託宣?
0500日本@名無史さん
2018/10/17(水) 06:38:01.45
貝塚は古墳とか貝墳は言わない
貝殻が積み重なったもののこと
盛り土されたものを冢という
おのずと丸くなる
0501日本@名無史さん
2018/10/17(水) 06:49:09.77
>>499
径は円の直径に使う専用じゃなくて、さし渡しくらいの意味で使う
方墳なら長辺、前方後円墳なら墳丘長が「径」で示される

あと、運河の幅も径だよ 小樽運河が運河沿いの小径(こみち)のつもりで
中国人観光客向けに「運河径600メートル」と書いたら幅600メートルの大運河が
あるのかと思われたって話もある
関門海峡が幅600メートルだからそんな運河はないな
0502日本@名無史さん
2018/10/17(水) 06:51:10.45
>>500
「冢」は説文解字に「高墳也」と書いてある
冢は高く土を盛った墳だよ
形に関する意味合いは特に含まない
0503日本@名無史さん
2018/10/17(水) 06:58:01.82
>>486
>これが妥当なところだ。

キナイコシが嘘をつく時の常套句
0504日本@名無史さん
2018/10/17(水) 07:08:53.80
冢が円墳だというのは思い込みの俗説ってことで
FA
0505日本@名無史さん
2018/10/17(水) 07:12:48.30
>>500
「ぼくのかんがえたさいきょうの冢」でワラタ
0506日本@名無史さん
2018/10/17(水) 07:12:50.44
>「冢」は説文解字に「高墳也」と書いてある

上を平らに均した平べったい形の古墳ではなくて、
その部分も含め全体を土で盛り上げた形の「小高い山のような墳」、ということだろ。
いわば「○○富士」といわれる形だな。
0507日本@名無史さん
2018/10/17(水) 07:17:33.23
>>506
それ、なにか根拠あるの?

また「ぼくのかんがえたさいきょうの冢」?
0508日本@名無史さん
2018/10/17(水) 07:19:43.98
九州説の50%は妄想で出来ています (残りはウソで)
0509日本@名無史さん
2018/10/17(水) 07:22:38.55
>>507
伝統の形だから根拠は伝統さ。
ピラミッドが背高なのは何か根拠があるのか・・・、それと同じ。
0510日本@名無史さん
2018/10/17(水) 07:23:15.59
>>503
>キナイコシが嘘をつく時の常套句

>>486は九州説の書き込みだぞ?
>>486が妥当としている>>483も九州説の書き込み

伊都クズ「キナイコシ」連弧厨は本当に判断力がない
0511日本@名無史さん
2018/10/17(水) 07:25:20.13
>>509
そんな伝統があるって証拠は?
0512日本@名無史さん
2018/10/17(水) 07:26:27.76
>>509
またも、なんの根拠もなく言い張るだけ
それが九州説だな
0513日本@名無史さん
2018/10/17(水) 07:27:47.90
>>510
連弧厨・・・暗にお鏡さんと・・・
0514日本@名無史さん
2018/10/17(水) 07:28:09.11
>>509
>伝統の形だから根拠は伝統さ。

どこの伝統?

>ピラミッドが背高なのは何か根拠があるのか・・・、それと同じ。

ピラミッドは金字塔であって金字冢じゃないぞ
>>506
「その部分も含め全体を土で盛り上げた形の「小高い山のような墳」、ということだろ。」
に当てはまる形だと思うがね?
0516日本@名無史さん
2018/10/17(水) 07:39:53.20
九州説がまた朝からボコボコにされてる
0518日本@名無史さん
2018/10/17(水) 07:48:11.99
>>506
祇園山も平原遺跡も当てはまらなくなるから、その解釈は間違いだろう。
0519日本@名無史さん
2018/10/17(水) 07:48:54.34
地に作る墳墓は四角に決まっている。
0522日本@名無史さん
2018/10/17(水) 07:57:04.38
はい、テンプレに載ってた始皇帝冢
上が平らだね
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
0523日本@名無史さん
2018/10/17(水) 07:57:22.51
>>514
ピラミッドは,
古代エジプト風にいうと金字塔であって、
古代中国風に表現すれば金字冢だ。うん・・・、これはなかなかいい表現法だな。
0524日本@名無史さん
2018/10/17(水) 08:01:04.14
てっぺんが平らな祇園山古墳の勝利。
0526日本@名無史さん
2018/10/17(水) 08:05:05.36
「始皇帝陵」としての「驪山」
>始皇帝が埋葬された場所は、史料によって文字が異なるが、「驪山」と呼ばれていた。
>現在は、始皇帝陵と呼ばれている。この名称は漢代以降になってからのことである。

おいおい、三国志の時代には「始皇帝冢」ではないぞ。
0527日本@名無史さん
2018/10/17(水) 08:17:20.80
一緒に載ってる大仙山と箸中も上が平らじゃないか?
0528日本@名無史さん
2018/10/17(水) 08:28:22.39
>>527
だから、みんな冢だな
0529日本@名無史さん
2018/10/17(水) 08:32:19.41
>>526
>おいおい、三国志の時代には「始皇帝冢」ではないぞ。

そんなこと決めつける証拠は?
0530日本@名無史さん
2018/10/17(水) 08:40:21.23
倭国大乱って祓戸四神と関係があるような気がするんだな

伊勢内宮神前祝詞

天照大御神、又の名は
撞賢木厳之御魂天疏向津比賣命とある

天から遠ざかった向津姫
伊勢の向かい側は尾張三河
何か関係あるのかな

また、『倭姫命世記』『天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記』『伊勢二所皇太神宮御鎮座伝記』『中臣祓訓解』においては、伊勢神宮内宮別宮荒祭宮の祭神の別名が「瀬織津姫」「八十禍津日神」であると記述される。

瀬織津姫を祀る槻神社のある三河と何か関係あるのか?

畿内を征伐してできた初期のヤマト政権、その女王卑弥呼は、後に天照大御神にされたんじゃないかな?
0531日本@名無史さん
2018/10/17(水) 08:47:44.81
>>530
東遷説は空想ばっかりだな

w
0532日本@名無史さん
2018/10/17(水) 08:50:35.79
>>527
箸墓は冢でよいな
0533日本@名無史さん
2018/10/17(水) 08:59:11.33
重複偽スレッド梅
0534日本@名無史さん
2018/10/17(水) 08:59:27.00
重複偽スレッド梅
0535日本@名無史さん
2018/10/17(水) 09:00:06.62
重複偽スレッド梅
0536日本@名無史さん
2018/10/17(水) 09:04:09.67
多くの畿内の古墳は、遠めに見ればなだらかな丘陵。だから戦国時代には、戦さの陣地にもされたくらい。
上が平らかであれば「墳」。
0537日本@名無史さん
2018/10/17(水) 09:08:25.31
>>536
それ、なんか根拠あって言ってるの?
0538日本@名無史さん
2018/10/17(水) 09:16:14.33
>>90
>九州説が邪馬台国は九州にあり
大和は中国に朝貢した事などない国と皇国史観を広めようとしてますなあ<

邪馬台国なんて、存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
大和は、九州倭国の別種の旧小国であり、
九州倭国の「東征毛人五十五國」の中の一国で、
九州倭国の地方の市を監督する大倭職の国であった、という事を、
この男も、万世一系皇国史観で、隠蔽しようとしていますなあ。
0540日本@名無史さん
2018/10/17(水) 09:19:48.98
>>538
>邪馬台国なんて、存在もしない嘘つき騙し文言であるし、

なんの根拠もなく自分の思想をわめきちらすのが
九州説か?
0541日本@名無史さん
2018/10/17(水) 09:28:15.89
>>93
>【東京】纒向遺跡は邪馬台国か、箸墓は卑弥呼の墓か議論 東京で、纏向フォーラム
http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1539596991/
全員畿内説 <

邪馬台国も畿内も存在しない嘘つき騙し文言であるし、
纏向フォーラム なんてしているようじゃ、参加学者も、
それを協賛したり応援した右翼マスコミや安部文部省政府も、
大和説説者らも、
「南→東」などの史料事実や史料実態を否定曲解する嘘つき騙しの、
・・・・詐欺師集団。
そりゃ、
0542日本@名無史さん
2018/10/17(水) 09:31:05.25
尚方作鏡と書いてあるから〜なんて理屈
どうやって漢鏡と魏鏡と区別する気なんだ?
0543日本@名無史さん
2018/10/17(水) 09:36:03.08
>>97
>根拠は陳寿の書いた「会稽東治之東」 ゆえに「南→東」で正しい <

魏使らの記録の女王國は、不彌國の直ぐ南であるから、九州島で正しく、
陳寿の女王國の位置推定の「会稽東治之東」の「東」に、ほぼ九州島があるから、
「東」も正しい。
依って、「南→東」などの史料事実の否定曲解は、嘘つき騙しの・・・・であり、
間違い。
0544日本@名無史さん
2018/10/17(水) 09:39:42.73
>>98
>九州説のパネラー探しても見つかんないよ <

大和説は、国民の7割にも否定され、世界の殆どの学者からも否定されているんだから、
パネラーを選択したフォーラム側も、インチキ騙しの詐欺師であったんだよ。
0545日本@名無史さん
2018/10/17(水) 09:43:10.11
>>543
んじゃ、会稽東治の東に当てはまらないな
九州説即死です
0546日本@名無史さん
2018/10/17(水) 09:44:50.57
>>103
>九州説はもう無くなった
学問的根拠も政治的存在意義すら失われたんだぞ?<

文献考古の史料事実や史料実態が存在する限り、
大和説も、その学問的根拠も政治的思想宗教的な意義もなくなった。
0547日本@名無史さん
2018/10/17(水) 09:49:13.78
>>546
その文献考古の史料事実や史料実態が
全力で九州説を否定してるよ
0548日本@名無史さん
2018/10/17(水) 09:57:18.75
>>105
>>>跬、一挙足也。倍跬謂之歩。(小爾雅)<

>>辞書は、表題に関する全ての意味や使用例を示しているものではなく、
部分的な意味や使用例を示す事しか出来ないものであり、 参考意見に過ぎないんだよ。<

>んなら一挙足を「歩」だと言った例を出して見な <

「一挙足」において、「歩」は着地地点での「足の先端と後端間」を示している事になり、
一寸千里の法から計算される「1歩≒一尺」や、
卑弥呼の墓の「径百歩余」が例。
0549日本@名無史さん
2018/10/17(水) 09:59:31.81
>>548
あんたの思想は聞いてない
一挙足を「歩」だと言った例を出して見な
0550日本@名無史さん
2018/10/17(水) 10:15:22.82
資料ねぇ

梁書:台与の後に男子王が立ち晋、宋、斉、梁と使節継続
北史:台与の後に男子王が立ち魏、宋、斉、梁と続けて使節を送ってきた
隋書:ヤマトは魏志の言う邪馬台国
新唐書:隋書のアメノタリシヒコ=用明天皇で当時の天皇に繋がる系譜に入れている=邪馬台国は畿内
宋史:上記の用明天皇の系譜を載せつつ太宗が「日本は皇統が途絶えずに継続している」と評価

台与の後の男子王は特に何の問題もなく継承している
で、中国はその後の系譜も断絶も王朝交代も認識してないのが分かる
九州説も九州王朝説も入り込む余地はないな
0551日本@名無史さん
2018/10/17(水) 10:18:46.77
九州説が大好きな唐書の日本と倭の部分もその本の中でタリシヒコと当時の天皇の系譜の継続を示してるんで断絶も何もないのが分かる
筑紫城とやらの記載も神代の神話の丸写しなだけ
どの道、タリシヒコの系譜の部分で九州説も九州王朝も否定される

どこを取り出して九州説とか九州王朝とかほざいているのか意味不明
0552日本@名無史さん
2018/10/17(水) 10:51:21.30
>>107
>陳寿が「会稽東治之東」 と書いてる以上は方位も距離も間違ってることが確定なのに
九州説はこの話題から徹底して逃げるんだよね<

この男も、相手の返事を待たずに、返事を逃げた、とヘイトスピーチする・・・・ね。
・・・・には、貼り付けにしておこう。

魏使らの記録の女王國は、不彌國の直ぐ南であるから、九州島で正しく、
陳寿の女王國の位置推定の「会稽東治之東」の「東」に、ほぼ九州島があるから、
「東」も正しい。
依って、「南→東」などの史料事実の否定曲解は、嘘つき騙しの・・・・であり、
間違い。
0553日本@名無史さん
2018/10/17(水) 10:52:25.73
>>548
>「一挙足」において、「歩」は着地地点での「足の先端と後端間」を示している事になり

なんで、そんなことになるんだ?
わけがわからない
0554日本@名無史さん
2018/10/17(水) 10:54:53.43
>>552
>魏使らの記録の女王國は、不彌國の直ぐ南であるから、九州島で正しく、
>陳寿の女王國の位置推定の「会稽東治之東」の「東」に、ほぼ九州島があるから、

北部九州だったら会稽からはるか北じゃないか
倭人伝と合わないぞ
0555日本@名無史さん
2018/10/17(水) 11:00:28.12
九州説は絶対だの確実だの喚く癖に口を開けばぼくちゃんの考えた支離滅裂な脳内行程しかないからな
0556日本@名無史さん
2018/10/17(水) 11:04:36.20
鏡もない
絹もない
祭祀遺跡もない
墓もない
宮城もない
丹山もない

九州は倭人伝の示す通りの証拠が山のようにあるな
こりゃ間違いなく邪馬台国だ
0557日本@名無史さん
2018/10/17(水) 11:05:56.17
>>552
>陳寿の女王國の位置推定の「会稽東治之東」の「東」に、ほぼ九州島があるから、

さすがにコレはウソが真っ赤すぎないか?
0558日本@名無史さん
2018/10/17(水) 11:06:18.14
畿内には倭人伝に書かれてるものが
なにもないからね。

九州になるのは仕方ないね。
0559日本@名無史さん
2018/10/17(水) 11:07:05.84
>>556
という証拠がまったく出せない九州説
0560日本@名無史さん
2018/10/17(水) 11:07:28.60
>>558
ないって証拠は?
0561日本@名無史さん
2018/10/17(水) 11:08:06.50
>>560
>>556
0563日本@名無史さん
2018/10/17(水) 11:13:36.63
>>561
ほらな

また九州説は全く証拠が出せない
0564日本@名無史さん
2018/10/17(水) 11:17:28.34
節穴だから見えんだけでしょう。

ニュー速でコテンパンにと言うよりもむしろ
まるでスルーされてたキナイコシが歯ぎしりして悔しがってたけどな。
0565日本@名無史さん
2018/10/17(水) 11:21:56.17
>>111
>もう教科書にまで
纒向遺跡に関して邪馬台国との関係で注目されていると書かれてるご時世なのに
オールドタイマーが元気なこと<

大和説は、国民の7割にも否定され、世界の殆どの学者からも否定されているんだから、
いくら教科書が、文部省や右翼マスコミや学会に忖度して、
「南→東」などの史料事実などの嘘つき騙しをする「ご時世」であっても、
そんなモノが永続する筈がない。
0566日本@名無史さん
2018/10/17(水) 11:23:25.36
>>557
>さすがにコレはウソが真っ赤すぎないか?

ザラコクの脳内では、「ほぼ」九州島があるから、の「ほぼ」で、東からのずれは
OKってことになってるんだよw

すごいよね、ご都合主義がww
0567日本@名無史さん
2018/10/17(水) 11:26:53.07
>>113
>陳寿が記載したって 「信頼性や客観性の高いデータ」もあれば
「信頼性の非常に低いデータ」もある 盲信は歴史学の放棄 <

何度も言うように、「史料の同時代性や客観性や信頼性」の確率の問題。
陳寿の魏志などの嘘つき騙し記載は、99.5%以上の確率がある。

「南→東」などの嘘つき騙し説を妄信する大和説者は、歴史学の放棄。
0568日本@名無史さん
2018/10/17(水) 11:28:50.66
>>115
>パネラー全員「纒向遺跡は邪馬台国、箸墓は卑弥呼の墓」で議論にならず司会涙目 <

ふーん。
0569日本@名無史さん
2018/10/17(水) 11:32:01.64
>>118
九州説は、「南」などの史料事実の「確率」を何度も計算しておいてあるのに、
なのに大和説には帰納的確率的な推論をした形跡が一切ないという、
奇妙な事実 。
0570日本@名無史さん
2018/10/17(水) 11:34:09.26
>>124
大和説というのは、
記紀神話盲信からくる古代天皇というような、
イメージに踊らされた天皇制礼賛者の願望や 、
本居宣長のような国粋主義者の政治思想が作り上げた幻だよ。<
0571日本@名無史さん
2018/10/17(水) 11:38:25.04
>>131
このような、「南→東」や「邪馬台国」や「畿内」や「朝廷」などや、
文献考古の史料事実の「否定曲解」の嘘つき騙しのような、
具体性のない総論に終始したので、
大和説は、嘘つき騙しがバレて、
そして消え出した。
0572日本@名無史さん
2018/10/17(水) 11:53:31.47
>>564
>ニュー速でコテンパンにと言うよりもむしろ
>まるでスルーされてたキナイコシが歯ぎしりして悔しがってたけどな。

ニュー速? なんだそれ?

  九州爺さんまた変な妄想してるのか?
0573日本@名無史さん
2018/10/17(水) 11:56:51.67
>>570
ここは畿内説のスレだから、大和説とか関係ないな
俺たち大和説とかじゃないし
0574日本@名無史さん
2018/10/17(水) 11:56:54.22
>>544
>大和説は、国民の7割にも否定され、世界の殆どの学者からも否定されているんだから、

どこからこういう妄想が湧いてくるんだろうね
0575日本@名無史さん
2018/10/17(水) 11:59:06.18
>>565
九州説が願望100%の日現実でワラタ
0576日本@名無史さん
2018/10/17(水) 12:01:19.27
>>570
>大和説というのは、
>記紀神話盲信からくる古代天皇というような、
>イメージに踊らされた天皇制礼賛者の願望や 、
>本居宣長のような国粋主義者の政治思想が作り上げた幻だよ。

本居宣長が創ったのは九州説ですが?
0577日本@名無史さん
2018/10/17(水) 12:02:11.57
九州説はコンサバティブで畿内説はプログレッシブなので意見が合う訳がない
0578日本@名無史さん
2018/10/17(水) 12:08:03.17
>>577
コンサバじゃなくて、単なるウソ
0579日本@名無史さん
2018/10/17(水) 12:08:51.33
九州説は学説としてもう死んでるからね
あとは現実認識のできない老人の妄想だけだよ
0580日本@名無史さん
2018/10/17(水) 12:10:19.73
>>574
インチキして統計を悪用する九州説の体質がよく出ている
0581日本@名無史さん
2018/10/17(水) 12:13:42.56
>>571
>このような、「南→東」や「邪馬台国」や「畿内」や「朝廷」などや、
>文献考古の史料事実の「否定曲解」の嘘つき騙しのような、
>具体性のない総論に終始したので、
>大和説は、嘘つき騙しがバレて、

その
>「南→東」や「邪馬台国」や「畿内」や「朝廷」などや、
>文献考古の史料事実の「否定曲解」の嘘つき騙しのような、

というのこそが、具体性のない総論に終始してるスローガン連呼ではないのかね?
0582日本@名無史さん
2018/10/17(水) 12:17:24.61
>>569
>九州説は、「南」などの史料事実の「確率」を何度も計算しておいてあるのに、

デタラメな数字を連呼することを確率計算とは言わない
0583日本@名無史さん
2018/10/17(水) 12:22:22.70
九州説って戦前の皇国史観時代のダイホンエー発と寸分も違わないね
0584日本@名無史さん
2018/10/17(水) 12:26:21.71
>>544
>大和説は、国民の7割にも否定され、世界の殆どの学者からも否定されているんだから、

「世界の殆どの学者からも否定されている」
なんて話、どこから出てきた?
0585日本@名無史さん
2018/10/17(水) 12:31:02.36
>>556
鏡もない
絹もない
祭祀遺跡もない
墓もない
宮城もない
丹山もない

そんな三世紀の九州に邪馬台国があったら驚きだ
0586日本@名無史さん
2018/10/17(水) 12:40:33.45
ノーベル賞とった本庶先生は科学は多数決では無いと言っているが九州説は違うらしい
0588日本@名無史さん
2018/10/17(水) 12:53:45.58
>>587
九州説に潤いはない
0589日本@名無史さん
2018/10/17(水) 12:55:42.20
九州説って何パーセントの人から支持されてるのかな?
0590日本@名無史さん
2018/10/17(水) 13:02:34.87
>>589
学者だと0.3%くらいかな
0593日本@名無史さん
2018/10/17(水) 13:10:28.05
>>587
北でも南でも西でもないから東側でいいんじゃない?
だいたいその記述は風俗習慣について書いてある節で行程を記述してる部分じゃない。
会稽あたりの南方の習俗に近いから、そういやあその東にあたるところだよ、と言ってるだけだと思うぞ。
0594日本@名無史さん
2018/10/17(水) 13:14:44.06
>>593
>そういやあその東にあたるところだよ

「その東にあたるところ」に九州はならないって話なんだが
0595日本@名無史さん
2018/10/17(水) 13:15:00.93
>>593
ありえない

「その道里を計ると」と書かれてる
0597日本@名無史さん
2018/10/17(水) 13:18:18.74
>>592
南九州はOKじゃん
0598日本@名無史さん
2018/10/17(水) 13:19:18.32
南水行の南は誤情報
東が正しいってことってことで決まりだな
0599日本@名無史さん
2018/10/17(水) 13:20:46.91
南九州のどこに何があるんだよw
九州バカはテキトーにいい加減なことを言うばかり
ついさっきまでは平原が間違いない!とか喚いてたのに「南九州なら良いんじゃん?」とか言い出すし

バカの品評会だな
0600日本@名無史さん
2018/10/17(水) 13:21:31.58
>>597
屋久島じゃなきゃダメだね

ww
0601日本@名無史さん
2018/10/17(水) 13:24:03.91
これからは、九州説じゃなくて九州妄言と呼ぶべきだね
0602日本@名無史さん
2018/10/17(水) 13:25:23.87
>>598
「会稽東治の東」の東は北なのか?
0603日本@名無史さん
2018/10/17(水) 13:28:10.16
>>602
陳寿が机上で計算したんだから、東は東だよ
0604日本@名無史さん
2018/10/17(水) 13:30:07.44
278mの前方後円墳の円墳部分だけをみて径百余歩(約150m)などとは実に馬鹿馬鹿しい。
ヒミコの墓は大和にあるはずだ、そして探したらこの部分しかなかった。
だから強引に結びつけただけ。
そして放射性炭素測定で箸墓をAD240〜260年というトンデモないミスリードをしようとしている。
放射性炭素測定で20年幅なんて分るわけがない。
箸墓をヒミコの墓だという論者は箸墓の瀬戸内の強い要素など全く説明できない、
せいぜい卑弥呼共立に瀬戸内勢力が中心となったなどの屁理屈で逃げる。

彼らは基本、神話というものを小バカにしている。
彼らは神話に耳を貸さない。
そういう自分が知的だと自惚れてさえいる。

江戸時代まで普通に高天原だと認識されていた場所に卑弥呼の墓はある。
何も難しくない、日本の原点かつ聖地に径百余歩の塚があり、
魏志倭人伝の記述通り奴婢も埋葬されている。
奴婢とは土蜘蛛であり、ヒミコの時代に土蜘蛛を征したのは日向から来た男・神武である。

https://goo.gl/maps/DocFtPTq6VJ2
0605日本@名無史さん
2018/10/17(水) 13:30:55.86
悲報 九州説死亡のお知らせ
0607日本@名無史さん
2018/10/17(水) 13:31:13.12
>>603
急に途中から南と東を間違えたわけか。
そんなことあるわけねぇだろ!
南九州が会稽東治のだいたい東側って方がまぁ普通に通用するわ。
0608日本@名無史さん
2018/10/17(水) 13:33:18.34
>>605
最初から死んでる
死んでる事に気が付かないで動き回ってるゾンビ
脳ミソの腐った仲間を増やしてそこらで暴れまわってる
0609日本@名無史さん
2018/10/17(水) 13:33:36.56
>>604が空想以外何も語っていない件について
0610日本@名無史さん
2018/10/17(水) 13:35:51.80
>>607
>急に途中から南と東を間違えたわけか。
>そんなことあるわけねぇだろ!

そうだよ、間違えるなんてそんなことあるわけないよ
間違えたんじゃなくて、確信を持って南と陳寿は書いたんだよ
大陸中華の常識では、倭国は「会稽東治の東」なんだから、
それに合うように倭人伝を構成している
0611日本@名無史さん
2018/10/17(水) 13:35:55.82
>>607
>急に途中から南と東を間違えたわけか。
>そんなことあるわけねぇだろ!

あるわけない、という理由は?
0612日本@名無史さん
2018/10/17(水) 13:36:27.00
>>609

実際にある事を示してるので空想ではない。
0613日本@名無史さん
2018/10/17(水) 13:38:31.94
南水行の南は誤情報
東が正しい

証明されたな
0614日本@名無史さん
2018/10/17(水) 13:39:08.59
>>612
「実際にある事」だって証拠は?
0615日本@名無史さん
2018/10/17(水) 13:43:23.53
>>614
地図が見えないのかボンクラ。
0616日本@名無史さん
2018/10/17(水) 13:45:21.14
>>615
地図って、どれ?
どこにある?
0617日本@名無史さん
2018/10/17(水) 13:47:38.81
>>616
>>604のリンクをクリックも出来ないのか?
おまえは人間として最低だな。
0618日本@名無史さん
2018/10/17(水) 13:49:54.18
>>617
クリックしても地図など出てこないな
航空写真だけだ
そして、特になにも無い
0619日本@名無史さん
2018/10/17(水) 13:49:57.20
>ヒミコの墓は大和にあるはずだ、そして探したらこの部分しかなかった。
だから強引に結びつけただけ。

>彼らは基本、神話というものを小バカにしている。
彼らは神話に耳を貸さない。
そういう自分が知的だと自惚れてさえいる。

この部分が>>1君には図星だったようだw
だから今必死で涙こらえて反論風を装っているw
0620日本@名無史さん
2018/10/17(水) 13:51:56.81
>>618

裸の王様w
0621日本@名無史さん
2018/10/17(水) 13:54:38.02
>>618>>1
涙を拭け。
寺沢に入れ込んだお前の負けだ。
纏向に卑弥呼など要るかよw
0622日本@名無史さん
2018/10/17(水) 13:54:54.11
>>619
妄想乙
0623日本@名無史さん
2018/10/17(水) 13:55:57.40
>>621
ぜんぶ貴方の空想ということで、よろしいですね?
0624日本@名無史さん
2018/10/17(水) 13:59:20.50
>>621
東遷厨、結局根拠はなにも無しか

ww
0625日本@名無史さん
2018/10/17(水) 13:59:52.51
>>617
クリックしても何もない
0626日本@名無史さん
2018/10/17(水) 13:59:55.45
>>623
空想は纏向説。

箸墓は長二百歩であり径百余歩ではないし奴婢が埋葬されていない。

わしは径百余歩の奴婢が埋葬されている塚を示している。
しかも和田萃さんの言うように和邇氏の系図から卑弥呼もトヨも見つけている。

   事代主
     ┣━━━━━━━┓
   天日方奇日方(鴨王) ヒメ踏鞴━━神武
     ┣━━━━━━┓
     建飯勝    渟名底仲媛━━ 安寧
     ┃            ┃
    建甕尻          息石耳    ※ヒメ踏鞴(248年没)
     ┃            ┃
    豊御気主         トヨ津━━ 懿徳
     ┃              ┃
   大御気主             孝昭
     ┃              ┃
    阿田賀田須        天足彦国押人命
                   ┃
                和邇日子押人命
0627日本@名無史さん
2018/10/17(水) 14:01:31.13
>>624
東遷厨って誰?
0628日本@名無史さん
2018/10/17(水) 14:02:20.69
>>626
箸墓が径百余歩ではない
という根拠は?
0630日本@名無史さん
2018/10/17(水) 14:03:14.01
>>626
>わしは径百余歩の奴婢が埋葬されている塚を示している。

ほんなものが、どこにあるの?
0631日本@名無史さん
2018/10/17(水) 14:05:29.50
哀れな>>1の狼狽ぶりをご覧ください。
ちょっと今から出かけるので夜に相手するからねw」
0632日本@名無史さん
2018/10/17(水) 14:05:44.13
>>626
証拠はなんにも無いんだろ?
0633日本@名無史さん
2018/10/17(水) 14:06:06.38
>>631
なんだ
もう、逃亡か
0635日本@名無史さん
2018/10/17(水) 14:09:05.51
九州が「会稽東冶之東」でいいと言ってた男
どこに雲隠れした?
0636日本@名無史さん
2018/10/17(水) 14:14:05.17
>>635
本スレに追いつかれそうなニセスレを進めるのに必死なんだろ
0637日本@名無史さん
2018/10/17(水) 14:17:17.35
九州説は死にました
「会稽東冶之東」がネックで
0638日本@名無史さん
2018/10/17(水) 14:19:51.67
>>635
東でなければどっち?
0639日本@名無史さん
2018/10/17(水) 14:22:34.82
>>631

>彼らは基本、神話というものを小バカにしている。
>彼らは神話に耳を貸さない。

それ、通説が普段から主張してることなんで
いまさらそんなこと改めて言われても
狼狽とかする余地はないんだが
0640日本@名無史さん
2018/10/17(水) 14:23:35.72
>>638
ハズレ
0641日本@名無史さん
2018/10/17(水) 14:27:33.33
福岡は
東京横浜の西
にあるって言うけど...
0642日本@名無史さん
2018/10/17(水) 14:29:44.53
東京横浜の西は浦項だって言うんだよね?
0643日本@名無史さん
2018/10/17(水) 14:31:28.95
倭の位置を計算してみると、ちょうど会稽・東冶の東にあたる。
その道程や里数を計算すると、ちょうど会稽の東冶の東に位置している( はずだ)。

松尾 光 訳


その行路の里数を計算すると、〔 倭国 は〕 とうぜん、会稽や東治( 冶)の東にあることになる。
田中俊明 訳
0644日本@名無史さん
2018/10/17(水) 14:37:43.72
九州は会稽東冶のちょうど東にはありません
0645日本@名無史さん
2018/10/17(水) 14:43:34.85
鏡=5〜6期の古い鏡を打ち割ったものを細々と配り、4世紀後半〜5世紀後半の古墳出土鏡まで完形鏡が出てこない
絹=麻布よりも粗悪な糸くずが一つ出るだけ。中期までの13遺跡から激減しており明確な衰退を示している
祭祀遺跡=柱を一本立てた穴が一つあるだけ
墳墓=経百歩どころか近畿や東国で広まり数百はある典型的な形とサイズの方形周溝墓くらいしかない
宮城=影も形もない
丹山=存在しない

倭人伝に記載される物が山のように見つかる九州
間違いなく邪馬台国だな
0646日本@名無史さん
2018/10/17(水) 14:46:43.60
陳寿本人(または彼の取材した原・倭人伝を書いた人)は旅程の数字から計算して
ちょうど会稽の東冶の東に位置していると結果を出した
つまり、旅程が間違っていた
0647日本@名無史さん
2018/10/17(水) 14:47:19.76
>>644
九州は東京の西にありますと言うのは間違いなのか?
東京の西には朝鮮半島があるけど。
0648日本@名無史さん
2018/10/17(水) 14:49:43.91
>>647
「九州は東京のちょうど西にあります」
と言う人は地理を間違えているな
0649日本@名無史さん
2018/10/17(水) 14:54:39.02
>>645
「倭人伝に記載される物が山のように見つかる九州」って
もう冗談でしかないね
0650日本@名無史さん
2018/10/17(水) 14:56:04.90
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
0651日本@名無史さん
2018/10/17(水) 14:56:52.98
>>649
九州、丹山もないし
0652日本@名無史さん
2018/10/17(水) 14:58:58.71
偉大なる平原王を崇拝していた!
鏡も何もかも平原が頂点!

とかほざいてるがその平原遺跡は祭祀さえも行われずに打ち捨てられて荒れ果ててるのが笑えるw
鏡も後から出る?製鏡の方が圧倒的に精緻で優れた物だらけなのもまた笑える
東遷だろうが九州王朝だろうが随分と丁重に扱われてる偉大なる王様だな
0654日本@名無史さん
2018/10/17(水) 15:05:41.19
>>653
解釈に不自然さを言ってるんだよ。
0655日本@名無史さん
2018/10/17(水) 15:09:10.89
>>653
解釈に ×
解釈の ○
0656日本@名無史さん
2018/10/17(水) 15:12:13.22
>>654
どこが不自然なの?、
0658日本@名無史さん
2018/10/17(水) 15:13:23.84
>>654
文法的におかしいとは言いださないかw
0659日本@名無史さん
2018/10/17(水) 15:14:40.96
>>652
カチ割られてる鏡が王権の象徴とか言い張る馬鹿もいたな
0660日本@名無史さん
2018/10/17(水) 15:19:03.63
>>654
「不自然」は論理的に説明できない人の逃げ口上
0661日本@名無史さん
2018/10/17(水) 15:19:08.09
何一つ見つからないから結局無理に無理を重ねた行程しか言うことがないのが九州説
0662日本@名無史さん
2018/10/17(水) 15:20:34.93
>>654
文脈が違えば、自然か不自然かも変わるんだがね
0663日本@名無史さん
2018/10/17(水) 15:23:23.17
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
0664日本@名無史さん
2018/10/17(水) 15:24:03.63
樹齢1800年以上のクスノキがある地域が倭国だ。
0668日本@名無史さん
2018/10/17(水) 15:31:28.23
本当にそこらで九州説とか喚いてる奴の話聞くと「弥生時代を通じて!」とかのネタを平気で叫んでるからな
小学生レベルの知能もないバカが飛びつくネタなのがよく分かる
0669日本@名無史さん
2018/10/17(水) 15:36:55.70
倭人伝解釈のごまかし
考古資料のごまかし
実年代のごまかし
色々やってるな
九州説・・・
0670日本@名無史さん
2018/10/17(水) 15:38:55.42
クズ説の名に相応しいかぎりだな
0671日本@名無史さん
2018/10/17(水) 15:44:45.07
そもそも九州説なんて説は存在しないだろ
博多説とか日田説とか熊本説とか、雑多な説の総称に過ぎない
0672日本@名無史さん
2018/10/17(水) 15:47:15.97
>>662
「夏后少康の子、会稽に封ぜられしに、断髪文身し、もって蛟竜の害を避く。

 今、倭の水人、よく沈没して魚蛤を捕え、文身し、またもって大魚・水禽を厭わせしも、後やや以て飾りとなす。諸國の文身各々異り、あるいは左にあるいは右にし、あるいは大にあるいは小に、尊卑差あり。

 その道里を計るに、まさに会稽東治【冶】の東にあり。」

という文脈だから「会稽」が出てきて、風習がそこと似ているから、その「会稽」の東側(真東じゃないよ)に位置することになる、と言っているだけの部分。
東が正確じゃないとかいうのは不自然だと思う。
0673日本@名無史さん
2018/10/17(水) 15:47:47.26
>>668
そういう人には卑弥呼の時代の直前くらいに大きな社会変革があったと説明しても、理解できないんだよね
0674日本@名無史さん
2018/10/17(水) 15:50:17.42
どのスレの話なのか、わからないけど、
老婆のほうが詳しいと言っているのに


インディアンみたいな音楽だな


と言っていたり
0675日本@名無史さん
2018/10/17(水) 15:52:32.30
真東じゃないから・・・、というのは負け惜しみに聞こえるね。
0676日本@名無史さん
2018/10/17(水) 15:52:32.93
>>672
むしろ会稽の話が出て、たん耳朱崖の話が出て
それを踏まえての会稽東冶の東なんだから
陳寿が倭をどれほど南と認識していたかってことだよね
誤差の範囲を大きくとって九州OKとかいうのは筋が違う
0677日本@名無史さん
2018/10/17(水) 15:52:51.56
『私に帰りなさい』
という曲も同じことを言いたのかもしれない
0678日本@名無史さん
2018/10/17(水) 15:54:27.35
>>675
願望から来る幻聴
0679日本@名無史さん
2018/10/17(水) 15:56:31.75
>>675
真東じゃないから、九州説が負けちゃったんだろ?
キミ、何を惜しんでるんだ?
0680日本@名無史さん
2018/10/17(水) 15:59:05.98
蚕を飼い、機織り、歌舞伎(白粉?)の話もしていたり、
でも、そういう音楽を聴いているわけでもないし・・・。

老婆の好きな・・・歌手(役者、芸能人?)、
誰々のファンだという話も、聞いたこともないし。

どういう事なんだろう
0681日本@名無史さん
2018/10/17(水) 16:03:16.76
>>675
実際・・・倭人伝に真東と書いてあるんだがな
0682日本@名無史さん
2018/10/17(水) 16:12:09.84
>>681
「計其道里當在會稽東治【冶】之東」
の「當」は「ちょうど(英語のjust)」程度の意味で正確に真東という意味ではないと思うよ。
0683日本@名無史さん
2018/10/17(水) 16:12:49.45
>>671
九州説って比定地ごとに集計したら、どれも零細泡沫説なんじゃね0の?
0684日本@名無史さん
2018/10/17(水) 16:14:15.28
>>682
ジャストちょうど東って、真東だろ
0685日本@名無史さん
2018/10/17(水) 16:15:44.36
何一つ見つからないのになぜ九州説とか叫んでるのか理解に苦しむ

纏向にケチつけて自分達が出すのがただの柱一本立てた穴と来たもんだ
画文帯が、三角縁がとか叫んでるけど自分達は大昔の砕いた鏡とか持ち出してくるし
しまいには4世紀後半から5世紀後半の古墳出土鏡を平気な顔で邪馬台国の証拠とか言い出すし
纏向の絹の小袋笑ってると思えばテメーらの土地からは粗悪な糸くず一つだし
墓は凡百の方形周溝墓を鼻の穴膨らませて卑弥呼の墓だとか言い張るし
纏向の大型建築物に因縁付けてるけど九州からはそんなもんそもそも影も形もない
遂には「吉野ケ里!」とか言い出すし

こいつらどんな宇宙の九州の話してんだろうな?
0686日本@名無史さん
2018/10/17(水) 16:19:01.25
極論?


『ヘビィメタル』というのも、
インディアンの音楽だと言いたかったのかな?

他の国の先住民(原住民)
0687日本@名無史さん
2018/10/17(水) 16:19:34.01
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
0688日本@名無史さん
2018/10/17(水) 16:20:18.36
>>684
それはいくらなんでも違う。
0689日本@名無史さん
2018/10/17(水) 16:22:10.73
>>682
会稽東冶の東は、南国って意味で我が国だったらどの辺りなのか説明してるんだよ
それを計算で出したわけだ
だから陳寿が出した結果によって徐州の東ということもできたし、淮水の東ということもできた
ちょうど会稽東冶の東だと書いたんなら、台湾くらい南だと認識してるんだよ
0690日本@名無史さん
2018/10/17(水) 16:22:54.87
>>688
違うって理由は?
0691日本@名無史さん
2018/10/17(水) 16:29:55.83
>>688
あんた、個人的感覚で押し通し過ぎ
0692日本@名無史さん
2018/10/17(水) 16:32:43.90
>>689
「夏后少康の子、会稽に封ぜられしに、断髪文身し、もって蛟竜の害を避く。」とあって、
1. 夏后少康の子が会稽に行ったがために断髪文身した。
2. 倭人の風俗習慣がそれによく似ていた。
3. そういえば倭は会稽東治のちょうど東側にあたるわけだなぁ。
という流れだから会稽なわけで徐州やら淮水やらでは風習が似ているっていう共通点がないから、記述の意味がなくなる。
ここは行程をいうためでなく風習について述べている部分だから。
0693日本@名無史さん
2018/10/17(水) 16:38:58.84
それだな
0694日本@名無史さん
2018/10/17(水) 16:39:21.08
>>692
そういえば道里を計算すると倭は会稽東治のちょうど東側にあたるわけだなぁ。

真東だな
0695日本@名無史さん
2018/10/17(水) 16:41:31.41
経験則
 賛成だーとヒトコトだけ言う奴は、超高確率で本人の自演
0696日本@名無史さん
2018/10/17(水) 16:43:13.55
>>692
それって
「倭は会稽東治のちょうど東側にあたる」ってどうやって知ったの?
0697日本@名無史さん
2018/10/17(水) 16:43:48.55
だから、そこが事実ではなかったんだよ。
0698日本@名無史さん
2018/10/17(水) 16:47:13.25
>>690
>>691
>>694
すまん。中国語が読めないので、「當」を英語のjustと同じ意味だとして考えてしまった。
もちろん英語でjustなら真東ではない。
皆さんのように中国語に長けた方々だとそれは違うんだな。
0699日本@名無史さん
2018/10/17(水) 16:47:38.50
>>697
そこって、どこ?
0700日本@名無史さん
2018/10/17(水) 16:50:22.86
>>698
真東でないという理由は?
0701日本@名無史さん
2018/10/17(水) 16:50:59.65
>>698
justが真東でないという理由は?
0702日本@名無史さん
2018/10/17(水) 16:51:19.23
倭が会稽の東というのは、思い込みだったということ。
倭人が短里を使っていたことによる誤解もあるだろうし。
0703日本@名無史さん
2018/10/17(水) 16:55:03.07
>>701
英語で真東を示すならjustは使わない。
justはもっと曖昧にちょうどっていう意味に使う。
普通に英語の勉強をしたり、ネイティブに聞けばわかる。
0704日本@名無史さん
2018/10/17(水) 16:55:24.41
倭人は百越の流れで南方の一族って言うのが、当時の中国の常識

その常識の上で、
萬二千里行くって計算したら、まさに会稽東治の東になるね と陳寿が書いてるわけだ

そういう陳寿の認識では、倭国(倭国の一部で入り口の九州)に着いた先の
長距離移動は南じゃないとつじつまが合わないから、「南」へ水行20+10日と
書いてあるんだよ
0705日本@名無史さん
2018/10/17(水) 16:56:54.05
>>703
>justはもっと曖昧にちょうどっていう意味に使う。

曖昧にちょうど、というより、まさにすぐそこの、くらいの意味だぞ
真東でも、1000キロも離れていたら、ジャストは使わない
0706日本@名無史さん
2018/10/17(水) 16:58:25.68
>>667
植生にクスノキ科の木が複数出てくるだろ?
ぱっとみて区別出来ないのにわざわざ細かく記載してあるのは強調してるって事だよ。
クスノキの大木でも見たんだろうよ。
神社の必須アイテムだし。
ちなみに奈良には無い。
0707日本@名無史さん
2018/10/17(水) 16:58:38.70
>>703
証拠は?
0708日本@名無史さん
2018/10/17(水) 16:59:07.98
>>135
「会稽東治之東」の「東」からも逃げる大和説 必死すぎ。
0709日本@名無史さん
2018/10/17(水) 17:00:26.02
>>702
なんで思い込みなの?
理由は?
0710日本@名無史さん
2018/10/17(水) 17:01:54.72
>>704
里数と戸数は略載できたが〜と書いてあるから日数表記は適当だという意味でしょう。
w
0711日本@名無史さん
2018/10/17(水) 17:03:29.51
>>710
じゃあ12000里はどうなるの?
0712日本@名無史さん
2018/10/17(水) 17:03:55.70
>>705
使わないという根拠は?
0713日本@名無史さん
2018/10/17(水) 17:05:23.97
>>708
追い詰められた九州説が発狂したな
0714日本@名無史さん
2018/10/17(水) 17:06:01.93
九州説は証拠なんて何一つないから異常な妄想を叫ぶしかないんだろう
そして本当に異常者になると
いや、最初から異常者なのか
0715日本@名無史さん
2018/10/17(水) 17:07:08.85
九州だと、帯方郡から南下するから会稽の東だと思い込むこともあり得るが、畿内だとどうやっても会稽の東にならないもんな。
そりゃあ、畿内説にとっては不利だろう。
ついでに言うと、朝鮮半島と九州では短里を使っていたという証拠でもあるしね。
0716日本@名無史さん
2018/10/17(水) 17:07:30.39
>>714
九州説やってたら異常になるのか
異常だから九州説に嵌るのか
難しい問題だ
0717日本@名無史さん
2018/10/17(水) 17:09:14.84
>>715
そう思い込んだのなら短里とかは妄想だな
0718日本@名無史さん
2018/10/17(水) 17:09:16.40
>>715
なんで畿内説が不利なの?
理由は?
0719日本@名無史さん
2018/10/17(水) 17:10:16.10
>>715
あり得るという理由は?
0720日本@名無史さん
2018/10/17(水) 17:10:46.30
>>711
オーソドックスに、
帯方郡から狗奴韓国まで7000里。
狗奴韓国から筑後川流域まで5000里。
0721日本@名無史さん
2018/10/17(水) 17:12:18.82
>>702
思い込み?

じゃあ、なんで倭人伝に
「その道里を計算すると」
書かれているんだ?
0722日本@名無史さん
2018/10/17(水) 17:13:39.58
>>692
おいおい

「倭は会稽東治のちょうど東側にあたる」ってどうやって知ったの?

無視して逃亡?
0723日本@名無史さん
2018/10/17(水) 17:13:54.97
で「當」は中国語ではどういう意味なのか教えてください。
0724日本@名無史さん
2018/10/17(水) 17:15:30.44
九州説はいくら聞かれても根拠を言わない
九州説はいくら追求されても証拠を出さない
九州説はいくら問われても合理的な説明をしない
0725日本@名無史さん
2018/10/17(水) 17:16:25.75
数年前に書いたはずなんだけど


鬼に横道なし〜〜〜嘘つかない


ほとんど同じような意味でしょ
あと『シベリア鉄道は まっすぐだ』?
0726日本@名無史さん
2018/10/17(水) 17:16:41.28
なんで会稽の東で揉めてるの?
会稽は今の上海あたりだからその東の方に九州があるのは明白だよね。
まあ、更に東に畿内があるのも確かだが、畿内説でいう東は北にあたるはずだよねw
0727日本@名無史さん
2018/10/17(水) 17:16:55.51
>>723
アホな質問返ししないで
自分が書かれてることに答えろよ
0728日本@名無史さん
2018/10/17(水) 17:18:25.55
>>726
会稽が今の上海あたりなわけないだろ
0729日本@名無史さん
2018/10/17(水) 17:20:08.88
>>710
>里数と戸数は略載できたが〜と書いてあるから日数表記は適当だという意味でしょう。

「里数と戸数」ではなく、「戸數道里」略載だよ
そして、道里の表現として、里数も日数もどちらも普通に使う
>>77◆FAQ 78

まあ、里数も日数も切りのいいところで丸めてるとは思うが、
日数表記が適当ということはない
0730日本@名無史さん
2018/10/17(水) 17:20:09.29
>>726
上海の東に北部九州は無いな
0731日本@名無史さん
2018/10/17(水) 17:20:23.51
『筋肉少女帯 シベリア鉄道は まっすぐだ』

老婆は、渡る世間に鬼はなし、と言っていたんだけど、
とあるドラマ?と逆のような事ばかり言っている?
0732日本@名無史さん
2018/10/17(水) 17:21:33.91
会稽が今の上海あたりって
誰が流してるデマ?
0733日本@名無史さん
2018/10/17(水) 17:22:45.82
>>715
>九州だと、帯方郡から南下するから会稽の東だと思い込むこともあり得るが、畿内だとどうやっても会稽の東にならないもんな。

逆だ
南方の国、会稽の東だという常識があるから、畿内へ行く旅程の記録があったとしても
「南へ行かないとおかしい」というのが、陳寿の認識なんだよ
0734日本@名無史さん
2018/10/17(水) 17:23:17.26
>>726
>畿内説でいう東は北にあたるはずだよねw

それは誰の説だ?

ww
0735日本@名無史さん
2018/10/17(水) 17:25:37.78
>>715
だから、なんで畿内説が不利になるの?
理由は?
0736日本@名無史さん
2018/10/17(水) 17:28:12.40
いつも理由を言わない九州説
0737日本@名無史さん
2018/10/17(水) 17:29:19.94
>>734
畿内説では南を東と読むんだろ?
だとしたら東は北だろw
0739日本@名無史さん
2018/10/17(水) 17:30:40.49
>>715
>九州だと、帯方郡から南下するから会稽の東だと思い込むこともあり得るが、

どうしてあり得るんだ?
0740日本@名無史さん
2018/10/17(水) 17:30:54.62
>>243
大和説は、「南≠東」だけでももう終わってるって。
0741日本@名無史さん
2018/10/17(水) 17:31:24.38
>>738
史実どおりの会稽郡だ
0742日本@名無史さん
2018/10/17(水) 17:32:16.96
>>737
畿内説では南を東と読むって
それは誰の説?
0743日本@名無史さん
2018/10/17(水) 17:33:10.83
>>144
笑っても、「南→東」などの嘘つき騙しがバレた大和説は、生き返らない。
0744日本@名無史さん
2018/10/17(水) 17:33:38.63
>>732
プルタ
0745日本@名無史さん
2018/10/17(水) 17:34:27.21
>>743
なにも説明できない
なにも証拠を出せない

それが九州説
0746日本@名無史さん
2018/10/17(水) 17:35:48.08
>>742
至南投馬国と至南邪馬台国の南は東の間違いだと言って始まったのが畿内説だるバカか?w
0747日本@名無史さん
2018/10/17(水) 17:36:05.72
>>147
>九州の銅矛だって同じことだ <

銅矛は、銅鐸とは違って、明らかに武器だった。
0749日本@名無史さん
2018/10/17(水) 17:37:02.87
>>746
で?

畿内説では南を東と読むってのは
誰の説?
0750日本@名無史さん
2018/10/17(水) 17:38:39.99
>>148
鸚鵡返しや返し矢で、二度死ぬ、
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説…
0751日本@名無史さん
2018/10/17(水) 17:40:48.75
>>748
杭州湾より南、厦門より北だ
0752日本@名無史さん
2018/10/17(水) 17:41:36.04
>>150
大和説の人が筑紫弥生の文化を理解できないのは、
「南≠東」などが分からない事や、
昔のアメリカ人が北米ネイティブの社会を理解できなかったのと、
同じではないだろうか。
0753日本@名無史さん
2018/10/17(水) 17:41:36.43
>>750
丸写し芸のないゲイ九州説
0754日本@名無史さん
2018/10/17(水) 17:42:42.61
>>747
あれで、どうやって戦うの?

w
0755日本@名無史さん
2018/10/17(水) 17:44:53.67
>>733
>南方の国、会稽の東だという常識があるから、畿内へ行く旅程の記録があったとしても

そんな記録はないよ。
0756日本@名無史さん
2018/10/17(水) 17:45:37.10
>>736
>いつも理由を言わない九州説

説明されているのに、アーアー聞こえない状態なだけだろ。
そっちの問題。
0757日本@名無史さん
2018/10/17(水) 17:45:59.27
>>741
キナイコシは説明が下手くそだな
0758日本@名無史さん
2018/10/17(水) 17:46:18.22
>>755
ないと断定する証拠は?
0759日本@名無史さん
2018/10/17(水) 17:47:34.68
>>754
矛と盾の説話は、矛が武器であることが前提なんだけど。
矛が武器ではないという主張は大変馬鹿馬鹿しいぞ。
あ、キナイコシは馬鹿なのか。
0760日本@名無史さん
2018/10/17(水) 17:49:38.17
>>151
>>(近江)国会のような年に1回首長たちが集う祭祀の場であった可能性がある。<

>というか副首都ではないだろうか。
根拠は白村江の敗戦後、ソワソワ落ち着かない天智天皇が近江に遷都してるよね。
これはかなり昔から、もし大和に危険がせまったら近江に逃げるような決まり事があっとも思える。<

大和自体が、九州倭国の筑紫城の倭奴國から別れた別種の旧小国であり、
九州倭国の「東征毛人五十五國」の中の一国であり、
九州倭国の地方の市を監督する大倭職の国であったんだから、
大和の副首都ではない。
0761日本@名無史さん
2018/10/17(水) 17:52:07.55
>>756
いつ、どこで説明した?
証拠は?
0762日本@名無史さん
2018/10/17(水) 17:52:48.28
>>757
下手だという理由は?
0763日本@名無史さん
2018/10/17(水) 17:53:01.24
>>163
大和説が「会稽東治之東」に触れるのはタブー。
「南→東」などの嘘つき騙しでつぶれた大和説が、
待た、死にます。
0764日本@名無史さん
2018/10/17(水) 17:54:14.87
>>759
矛と盾の説話に、九州の銅矛は出てこない
0765日本@名無史さん
2018/10/17(水) 18:06:42.20
老婆と同じような思考の人がいるのかな?

『ガンダム サングラス』

ほとんど同じだと言っていたり
0766日本@名無史さん
2018/10/17(水) 18:10:05.34
>>174
昔の学者は「前方後円墳時代は4世紀」と言っていた。
史料事実や史料実態からの帰納的推論が、進んでいなかったから。

現代の「南→東」などの嘘つき騙しの「万世一系皇国史観」の大和学者は、
卑弥呼の「冢」を隠して、「前方後円墳時代は3世紀中頃だ」と言っている。
教科書の大和説学者までウソを書いている。
のも載っている

古代史を捏造していた大和説一派の教科書執筆者までが、嘘つき騙しの捏造するようになったが
無駄だ。

現代は、誰にでも調べ易いので捏造者がウソついても一発でバレるのだから、。
0767日本@名無史さん
2018/10/17(水) 18:11:15.07
278mの前方後円墳の円墳部分だけをみて径百余歩(約150m)などとは実に馬鹿馬鹿しい。
ヒミコの墓は大和にあるはずだ、そして探したらこの部分しかなかった。
だから強引に結びつけただけ。
そして放射性炭素測定で箸墓をAD240〜260年というトンデモないミスリードをしようとしている。
放射性炭素測定で20年幅なんて分るわけがない。
箸墓をヒミコの墓だという論者は箸墓の瀬戸内の強い要素など全く説明できない、
せいぜい卑弥呼共立に瀬戸内勢力が中心となったなどの屁理屈で逃げる。

彼らは基本、神話というものを小バカにしている。
彼らは神話に耳を貸さない。
そういう自分が知的だと自惚れてさえいる。

江戸時代まで普通に高天原だと認識されていた場所に卑弥呼の墓はある。
何も難しくない、日本の原点かつ聖地に径百余歩の塚があり、
魏志倭人伝の記述通り奴婢も埋葬されている。
奴婢とは土蜘蛛であり、ヒミコの時代に土蜘蛛を征したのは日向から来た男・神武である。

https://goo.gl/maps/DocFtPTq6VJ2
0768日本@名無史さん
2018/10/17(水) 18:13:42.74
>>766
>昔の学者は「前方後円墳時代は4世紀」と言っていた。
>史料事実や史料実態からの帰納的推論が、進んでいなかったから。

それから、研究が進んだ結果が「古墳時代は3世紀前半(初頭)から」になった訳だ
この研究の進展についてこられないのが、いまだに九州説に張り付いているだけ
0769日本@名無史さん
2018/10/17(水) 18:14:37.06
>>766
ザラコクよ
パクリ鸚鵡の文章がムチャクチャだぞ
今夜も腐乱した脳は使えてないな
0770日本@名無史さん
2018/10/17(水) 18:18:33.47
九州説は何でまったく理由を言わないんだろう
一般人がついて行かなくなったのは当然だな
0772日本@名無史さん
2018/10/17(水) 18:25:42.36
>>771
つか、理由そのものが無いんじゃない?
九州説すべてが思い込みやアヤフヤ又聞きで出来てるから
他人に説明することすら出来ない
0773日本@名無史さん
2018/10/17(水) 18:25:43.98
>>178
>《爾雅》云:“跬,一舉足也,倍跬謂之步”
跬,指行進間的両脚的距離,即現在的半步,
步,古指両脚各動一次的距離。即現在的両步<

おや?、おかしいぞ。
「跬,一舉足也,倍跬謂之步」は、「小爾雅」の文であった筈だ。
という事は、
「跬,指行進間的両脚的距離,即現在的半步, 步,古指両脚各動一次的距離。即現在的両步」
は、「小爾雅」の後の何か?の引用であったんだな?。
そんなモノは、「爾雅」の証拠にはならんよ。
0774日本@名無史さん
2018/10/17(水) 18:26:27.53
バカが一つだけ助かるところは消しやすいことだな
0775日本@名無史さん
2018/10/17(水) 18:28:13.94
>>773
近現代中国人の書いた注釈だよ
九州説って、自分に都合の悪いものは理由もなく頑として拒むんだな
0776日本@名無史さん
2018/10/17(水) 18:32:23.68
証拠を聴くと黙るか誤魔化し始めるか
二つにひとつだからだから
九州説がウソついてることは、すぐバレる
0777日本@名無史さん
2018/10/17(水) 18:35:14.20
九州説の定番コント

九州バカ「畿内派は記紀や神話を無視してる!神武東征を見れば九州説は史実だ!」

じゃあ神功皇后は卑弥呼に比定されてるからお前も畿内派なんだな

という毎度のバカコント
0778日本@名無史さん
2018/10/17(水) 18:36:53.27
>>773
それだけ学問の常識に反することばかり言い張ってれば
古田説が学界で相手にされなくなったのも
当然だな
0779日本@名無史さん
2018/10/17(水) 18:40:00.74
真実が不安で仕方がない畿内弁慶説
0780日本@名無史さん
2018/10/17(水) 18:41:03.71
>>777
馬鹿は目の前の苦境を切り抜けることしか考えないからな
警察の取り調べを受けてる犯人みたいに右往左往するのさ
0781日本@名無史さん
2018/10/17(水) 18:41:33.60
>>779
そう思う理由は?
0782日本@名無史さん
2018/10/17(水) 18:43:29.11
そう思われる理由は?
0783日本@名無史さん
2018/10/17(水) 18:45:30.69
他のスレッドの話になるんだけど

家は『松傾』?
このような名前の家なんだけど、
何なんだろう?と聞いてみても

わからない(不明)?
みたいな事を言ってる人がいたり
0784日本@名無史さん
2018/10/17(水) 18:48:23.48
>>194
>>「倍跬謂之歩」の「倍跬」は、「足を挙げて降ろした」というだけの事になり、<

>「倍跬で二挙足で歩のこと」って書いてあるのにww <

小爾雅にも、「二挙足」とは書かれていない。
「歩」は「ジャンプ歩行」とか「走」ではないんだから、
「一挙足」は、ジャンプをしておらず、踵が挙上された事を示し、
次につま先を挙げて歩く、という事の説明であった、という可能性がある。
0785日本@名無史さん
2018/10/17(水) 18:50:20.20
>>764
矛が登場しているだろ?
0786日本@名無史さん
2018/10/17(水) 18:51:01.76
>>773
>「小爾雅」の文であった筈だ。

如何にザラコクがバカでも
《爾雅》云 が、「小爾雅」を意味することくらいは分かるだろうにww
0787日本@名無史さん
2018/10/17(水) 18:51:02.78
>>195
実際には、
「会稽東冶之東」という史料事実を突きつけられて、困り果てて無視している、・・・・
といいうのが、「南→東」などの嘘つき騙しのの大和説の、
・・・・詐欺師の悲しい現実。
0788日本@名無史さん
2018/10/17(水) 18:51:48.79
>>779
ほら、理由が答えられない

九州説とは衝動的に思いつきを口にしてるだけのもので、なにも理由が無い妄想ってことだよ
0789日本@名無史さん
2018/10/17(水) 18:53:41.33
>>784
>小爾雅にも、「二挙足」とは書かれていない。

「跬,一舉足也,倍跬謂之步」
で、跬が一舉足で、倍跬はその2倍
一舉足を2倍して二舉足にする以外に倍にできるところがあれば教えてくれ

>次につま先を挙げて歩く、という事の説明であった、という可能性がある。

ないよww
自分でもないと思ってるから「可能性がある」に逃げてる
バカすぎww
0790日本@名無史さん
2018/10/17(水) 18:55:03.70
>>199
ブーメラン?。
「計其道里、當在會稽東治之東」で、
大和説に致命傷を与えた武器が、手元に戻ってきたんだな。
また投げてトドメを刺すか。
0791日本@名無史さん
2018/10/17(水) 18:56:31.43
>>784
「跬」が一挙足だろ? わかる?
「倍跬で二挙足で歩のこと」だって
なんで理解できないの?

清白鏡?
0792日本@名無史さん
2018/10/17(水) 18:57:02.80
>>201
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説というのは、
論理的思考のできない人しかいない、
という実例を出してくれて有難う。
0793日本@名無史さん
2018/10/17(水) 18:57:53.87
>>790
会稽東治之東を指摘されて死んだのは九州だろ?
0794日本@名無史さん
2018/10/17(水) 19:00:05.00
>>785
九州の銅矛は登場していない
薄馬鹿でなければ理解できるはず
0796日本@名無史さん
2018/10/17(水) 19:06:10.41
>>204
>(九州と大和)どっちもはるかに遠いね 九州説死亡<

大和では、不彌國の南にならないし、
九州は、会稽東治から、海を隔てて直接的な陸地になるが、
大和では、九州までの距離の2倍位の遠距離になって、
間に中国四国などが介在していて、
陳寿が「計其道里、當在會稽東治之東」とするには全くふさわしくないね。
0797日本@名無史さん
2018/10/17(水) 19:07:20.19
>>790
九州は逆立ちしても会稽東治の東にはならないから
九州説はオシャカです
そう指摘されたのを、見えない聞こえない〜ですか?

九州説スゲー (神経が)
0798日本@名無史さん
2018/10/17(水) 19:09:24.33
>>796
誤魔化すな
九州は会稽東治之東じゃないだろ?
0799日本@名無史さん
2018/10/17(水) 19:12:55.22
しかしわしの>>604以降の>>1の狼狽ぶりにはワロタw

>ヒミコの墓は大和にあるはずだ、そして探したらこの部分しかなかった。
だから強引に結びつけただけ。

>箸墓をヒミコの墓だという論者は箸墓の瀬戸内の強い要素など全く説明できない、
せいぜい卑弥呼共立に瀬戸内勢力が中心となったなどの屁理屈で逃げる。

>彼らは基本、神話というものを小バカにしている。
彼らは神話に耳を貸さない。
そういう自分が知的だと自惚れてさえいる。

このあたりが図星で痛かったのであろうw

言うに事欠いて航空写真が見れないときたw

哀れな>>1  アホの>>1 アホのぉぉ>>1
0800日本@名無史さん
2018/10/17(水) 19:14:35.66
いちばん馬鹿な答えをザラコクにさせて
息を殺して隠れてる我が身かわいさ九州説男
イザとなったらトンデモ古田説を切り捨てればイイと
思ってるだろ卑しいな
0801日本@名無史さん
2018/10/17(水) 19:15:28.64
倭地は温暖にして、冬夏生菜を食す。
皆、徒跣。屋室有り。
父母、兄弟は異所に臥息す。
朱丹を以ってその身体に塗る。
中国の紛を用いるが如し。

魏志倭人伝 普平陽侯相 陳寿撰
0802日本@名無史さん
2018/10/17(水) 19:15:57.41
倭地は温暖にして、冬夏生菜を食す。
皆、徒跣。屋室有り。
父母、兄弟は異所に臥息す。
朱丹を以ってその身体に塗る。
中国の紛を用いるが如し。

魏志倭人伝 普平陽侯相 陳寿撰
0803日本@名無史さん
2018/10/17(水) 19:16:01.02
>>799
爺の妄想痛すぎるw
0804日本@名無史さん
2018/10/17(水) 19:16:21.01
倭地は温暖にして、冬夏生菜を食す。
皆、徒跣。屋室有り。
父母、兄弟は異所に臥息す。
朱丹を以ってその身体に塗る。
中国の紛を用いるが如し。

魏志倭人伝 普平陽侯相 陳寿撰
0805日本@名無史さん
2018/10/17(水) 19:17:52.02
九州説は追い詰められると荒らしを始めるから
わかりやすいな
0806日本@名無史さん
2018/10/17(水) 19:17:53.10
>>487
漢文の場合、檄とは木簡に督促や激励などの文言を書いて送ること。
檄を飛ばす、というのはそういう意味。
だから、台与と面会しているのに、檄を送るわけがない。
檄を作ったというのは、張政は、台与とは別のところにいたということ。
0807日本@名無史さん
2018/10/17(水) 19:19:10.21
倭地は温暖にして、冬夏生菜を食す。
皆、徒跣。屋室有り。
父母、兄弟は異所に臥息す。
朱丹を以ってその身体に塗る。
中国の紛を用いるが如し。

魏志倭人伝 普平陽侯相 陳寿撰
0808日本@名無史さん
2018/10/17(水) 19:19:38.97
倭地は温暖にして、冬夏生菜を食す。
皆、徒跣。屋室有り。
父母、兄弟は異所に臥息す。
朱丹を以ってその身体に塗る。
中国の紛を用いるが如し。

魏志倭人伝 普平陽侯相 陳寿撰
0809日本@名無史さん
2018/10/17(水) 19:21:08.35
>>803
278mの箸墓を径百余歩という方が妄想。
まぁほかに見つけられなかったのであろうが、あまりにも強引。
0810日本@名無史さん
2018/10/17(水) 19:22:51.50
>>806
基礎知識がダメダメだな
さすが九州説
檄文は、作って相手の前で読み上げて告諭するもんなの
張政は壱与に会っている
0811日本@名無史さん
2018/10/17(水) 19:23:21.42
高貴高度な文明は南から生み出され南に帰る
0812日本@名無史さん
2018/10/17(水) 19:24:31.84
>>809
後円部径なので何の問題もない
0813日本@名無史さん
2018/10/17(水) 19:25:26.50
>>809
強引だ、という理由は?
0814日本@名無史さん
2018/10/17(水) 19:28:08.41
>>488
ことは、簡単明瞭。
邪馬台国は、中国中古音ではヤマドイ。
ヤマドイは、卑弥呼のいる国の名前の音写。
山門は、古代九州ではヤマドと発音されたと推定。
そのヤマドの音写が、ヤマドイ。
ヤマトの音写では、ヤマドイにはならない。
こういうこと。
0815日本@名無史さん
2018/10/17(水) 19:28:08.76
>>812
>後円部径なので何の問題もない

大ありだ。
人間に例えたら「肩幅は50p、身長は不明」という報告書と同じだ。
そんな蓋然性のないことは言ってはダメ。
0816日本@名無史さん
2018/10/17(水) 19:33:59.48
>>814
>山門は、古代九州ではヤマドと発音されたと推定。

それが、根拠ないからダメでしょ

通説ではそれは甲類だから、曖昧母音で乙類と考えられる臺とは似ていない
大和は、乙類でピッタリ
だから学者に九州説支持者がいない
0817日本@名無史さん
2018/10/17(水) 19:34:27.45
>>815
なんで同じなの?

理由は?
0818日本@名無史さん
2018/10/17(水) 19:35:50.43
>>817
分からないのはお前の知的能力の問題であり俺は知らない。
0819日本@名無史さん
2018/10/17(水) 19:37:04.47
>>815
なんで蓋然性がないと?
0820日本@名無史さん
2018/10/17(水) 19:38:46.41
>>819
分からないのはお前の知的能力の問題であり俺は知らない。
0821日本@名無史さん
2018/10/17(水) 19:39:07.97
>>818
相手の知的能力の問題だという証拠は?
0822日本@名無史さん
2018/10/17(水) 19:40:59.19
>>820
つまり、あなたの主張には
根拠も証拠も無いのですね
0823日本@名無史さん
2018/10/17(水) 19:41:00.73
>>821
鏡を見ればいい。
馬鹿が映ってるはずだ。
0824日本@名無史さん
2018/10/17(水) 19:43:20.54
>>823
罵るだけになったということは
>>823が論破された、ということ
0825日本@名無史さん
2018/10/17(水) 19:47:08.30
>>822

径百余歩の周囲に奴婢が埋葬された楕円形の円墳を提示している俺と、
前方後円墳で奴婢の埋葬を提示できないお前では話にならない。
もうこんな畿内説の恥さらしの様なスレは廃止しろ。
0826日本@名無史さん
2018/10/17(水) 19:47:56.26
>>825
いつ、どこで
そんなものを提示したの?
0827日本@名無史さん
2018/10/17(水) 19:48:43.93
>>530
5世紀初頭、松阪に進出した畿内系豪族と三河の豪族は同盟していて、伊勢湾の海運を牛耳っていた。
また、この二つの勢力の同意なしには、東海地方との物資輸送もままならなかった。
0828日本@名無史さん
2018/10/17(水) 19:48:53.40
>>824
岡上がよくこういうパターンで論破されてるな
学習しろよ
0829日本@名無史さん
2018/10/17(水) 19:49:53.65
ここ、畿内説スレなのに、九州説をからかうスレになっちゃってるなぁ
自戒を込めて反省ww
0830日本@名無史さん
2018/10/17(水) 19:51:09.52
>>829
無能無謀な馬鹿が来るせいだ
0831日本@名無史さん
2018/10/17(水) 19:51:44.59
>>827

その「畿内系豪族と三河の豪族」って言ってるけど、「忌部はん」だからw  @阿波
  
0832日本@名無史さん
2018/10/17(水) 19:52:09.93
>>826
高天原最有力地の御所市高天の径百余歩の塚は何度も提示している。
その時に反論できないで何をいまさら反論めいたことを喚いてるのか。
0833日本@名無史さん
2018/10/17(水) 19:55:11.19
寺沢のケツでも舐めておけ>>1www
0834日本@名無史さん
2018/10/17(水) 19:57:17.03
>>550
皆、後漢書の倭国大和説を受けている。
後漢書は間違い。
0835日本@名無史さん
2018/10/17(水) 20:02:12.97
>>205
「南→東」や「邪馬台国」や「畿内」や「天皇」や「皇后」などの、
うそつき騙しの結論を言い張るだけで、
理由を何も言わないのが、大和説の特徴。


だから九州説は学問でいられなくなった
0836日本@名無史さん
2018/10/17(水) 20:05:26.92
>>218
「南→東」などの嘘つき騙しの常習者の悪党が、
また汚いイヤガラセを始めたのだな。
大和説敗北のサインだというのに。
0837日本@名無史さん
2018/10/17(水) 20:06:25.32
倭地は温暖にして、冬夏生菜を食す。
皆、徒跣。屋室有り。
父母、兄弟は異所に臥息す。
朱丹を以ってその身体に塗る。
中国の紛を用いるが如し。

女王国より以北は、特に一大率を置き検察し、諸国はこれを畏憚す。
常に伊都国に治す。国中に於ける刺史の如く有り。
王が使を遣わし、京都、帯方郡、諸韓国に詣らす、及び郡が
倭国に使するに、皆、津に臨みて捜露す。
文書、賜遺の物を伝送し女王に詣らすに、差錯するを得ず。

魏志倭人伝 普平陽侯相 陳寿撰
0838日本@名無史さん
2018/10/17(水) 20:07:56.18
>>798
中国人が、会稽の東だと思い込んだということだ。
0839日本@名無史さん
2018/10/17(水) 20:08:38.94
哀れな>>1  アホの>>1 アホのぉぉ>>1
0840日本@名無史さん
2018/10/17(水) 20:09:23.89
>>219
そうやって「南→東」などの嘘つき騙しの大和説が、
根拠も言わず、証拠も出さず、自分勝手な断定ばかりしているのだから、
「根拠は?」と問い詰められるのは当然の報いなんだがね 。

それが理解できないのは、大和説が学問じゃないからだよ。
0841日本@名無史さん
2018/10/17(水) 20:14:22.05
>>227
「南→東」などの嘘つき騙しの、根拠をちゃんと言えば終わるだろ。
答えないから、きちんと答えるまで「嘘つき騙しだ」と言われる。

もぐもぐ誤魔化して、「証拠は?」などと云い続ける呪文を呟いてばかりいるるから、
無限になる。
0842日本@名無史さん
2018/10/17(水) 20:15:16.64
「計其道里當在會稽東治【冶】之東」
の「當」は中国語ではどういう意味なのか教えてください。
本当に中国語では会稽東治の真東にあるって意味なんですか?
0843日本@名無史さん
2018/10/17(水) 20:16:17.23
>>838
どう言う理由で?
0844日本@名無史さん
2018/10/17(水) 20:16:26.49
>>696
水行三十日と陸行一か月の距離。
0845日本@名無史さん
2018/10/17(水) 20:17:09.66
>>230
もしかして大和説さん。

「南→東」や「会稽東冶之東」などの二発で 、
大和説が致命傷負ったから、あせってるの?。
0846日本@名無史さん
2018/10/17(水) 20:18:02.20
>>841
根拠を言って、九州説が終わったよ
九州説は証拠が出せなくて死んだまま
0847日本@名無史さん
2018/10/17(水) 20:19:51.67
>>842
安直に他人に聞く前に漢和辞典を引いて
それから、しっかりした学者の書いた訳本を何種類か読みなさい
0848日本@名無史さん
2018/10/17(水) 20:22:15.58
>>232
「南→東」や「畿内」や「邪馬台国」や「天皇」や「皇后」や「会稽東治之東」などの、
嘘つき騙しの大和説の方が、理由をまったく言わないので、正直、意味不明。

これだから大和説はダメなんだよな。
0849日本@名無史さん
2018/10/17(水) 20:22:31.92
>>728
アホちゃう。
会稽は今の紹興酒、いや紹興市だ。
0850日本@名無史さん
2018/10/17(水) 20:23:50.03
>>233
大和説は、「南→東」などのような嘘つき騙しや、
説明能力の貧困ゆえに、滅んだ。
0851日本@名無史さん
2018/10/17(水) 20:27:17.05
>>841
>「証拠は?」などと云い続ける呪文を呟いてばかりいるるから

>>1の「証拠は?」もウザいが、おまえの「南→東」の方がよっぽど呪文なのだが。
分かったか、このハゲ。
0852日本@名無史さん
2018/10/17(水) 20:28:55.86
>>847
漢和辞典は中国語の辞書じゃないし、中国語のできない学者ならわかるわけない。
0853日本@名無史さん
2018/10/17(水) 20:32:50.84
>>816
>>816
なら、ヤマトの音写がヤマドイになるという言語学的論証を、ぜひたのむ。
0854日本@名無史さん
2018/10/17(水) 20:36:46.49
>>235
そう言えば、Yahooでの議論で、大和説者が
「寒冷期には、極での氷河が増大して、海退して、海岸沿いの「元海底が露出」して、
砂地海岸になって、それが海風や波で吹き上げられて、砂丘が出来る、
と言っていた人がいたよ。

>「日本海の砂丘は寒冷化でない」とか言い出して一発で論破されたのに
俺様は砂丘でテンプレを論破したゾと宣伝してるお馬鹿さんもいたね <

砂丘は全て、「川から流れて来た砂で出来る」なんて話は、
誰が言い出したの?。
大和説のお馬鹿?。
0855日本@名無史さん
2018/10/17(水) 20:37:33.74
>>816
臺は、中国中古音ではドイ。
トではない。
大和発音でト(臺)は乙類であっても、そのト音は中国中古音の臺(
ドイ)とは別。
0856日本@名無史さん
2018/10/17(水) 20:40:15.95
>>237
このような「南→東」などの嘘つき騙しの断片的な意見を呟くだけで 、
論理の脈絡がある文章が書けない人とか・・・。

・・・大和説人材なさすぎ。
0857日本@名無史さん
2018/10/17(水) 20:40:59.76
>>238
かわいそうなくらいに大和説が不利だな。
0858日本@名無史さん
2018/10/17(水) 20:44:11.65
>>244の訂正
南至投馬國水行二十日
南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月
の方向は、本来は「南」のそのままあることの、
最重要の文献証拠だよ。
0859日本@名無史さん
2018/10/17(水) 20:46:19.56
>>245
>かわいそうなくらいに大和説が不利だな <

その認識は間違っているな。
大和説は不利なんじゃなくて、
「南≠東」などに拠って、
終わってるんだよ。
0860日本@名無史さん
2018/10/17(水) 20:51:54.10
魏志倭人伝に書かれた女王國(邪馬壹[臺]國)が大和に合致しないだけで、何らかの文明があったのは確かだし、日本になった可能性も高い。
0861日本@名無史さん
2018/10/17(水) 20:53:55.49
でもそれは邪馬台国ではない。
0862日本@名無史さん
2018/10/17(水) 21:03:48.34
>>262
>「王莽銅斛、於今尺爲深九寸五分五氂」
今尺=魏尺であり、魏代の劉徽による魏朝の度量衡で測定した結果である。
これこそ資料実態そのものだ。<

ダメだ。
劉徽の「九章算術注」の「九章算術」自体が、
秦漢朝の長里で書かれた書であるから、魏朝の度量衡の根拠になっていない。

>本文の設問とは直接関係がないから、批判は的外れである。
そもそも王莽こそ周制を目指したのだよ。<

度量衡を周制に復古したのか?が問題だ。

>「魏尺杜夔所用調律,比晉前尺一尺四分七厘。 」
魏尺とは杜夔により音律から作られたものだ。
晉前尺=王莽銅斛であり、1/0.955=1.047で両者の記述は一致する<

「魏尺杜夔所用調律,比晉前尺一尺四分七厘」とは、何からの引用なんだ?。
0863日本@名無史さん
2018/10/17(水) 21:07:22.31
>>263
ツーカ、大和説が「谷本氏の一寸千里の分析を知らない」とか言った瞬間に、
大和説は、トンデモ認定でしょ?、
世間的にも世界的ににも。
0864日本@名無史さん
2018/10/17(水) 21:08:57.56
>>267
「南→東」などの嘘つき騙しで負けた、
敗残九州説のイヤガラセが汚いな 。
0865日本@名無史さん
2018/10/17(水) 21:10:19.67
>>269
会稽東冶之東を指摘された頃から、荒らしが激化してるよ。
やっぱり大和説の致命傷だったってことか。
0866日本@名無史さん
2018/10/17(水) 21:12:29.55
>>271
致命傷も何も最初から死体そのものだろ。
「南→東」などの嘘つき騙しのようにまともな点が一つもないのに、
どこがダメージなのかもわからんわw。
0867日本@名無史さん
2018/10/17(水) 21:14:08.60
>>272
「南→東」などのように、
なにも反論できずに無為するってのは、
決定的に論破されたってことだよ。
大和説終わってるね 。
0868日本@名無史さん
2018/10/17(水) 21:17:08.39
>>274
「南→東」や「邪馬台国」や「畿内」などの嘘つき騙しの偽スレ立てて、嫌がらせすると、
大和に卑弥呼が出てくると思ってるキチガイの集まりだからな 、
大和説は。
0869日本@名無史さん
2018/10/17(水) 21:20:11.71
>>831
忌部さんの名もみえるが、服部さんの名もみえる。
服部さんは、赤引の糸を三河から入手していたとされる。
これらの海運を握っていたのが松阪と三河同盟のようだ。
0870日本@名無史さん
2018/10/17(水) 21:20:26.90
>>275
>萬二千里は、淮南子などの古文献上の数字をそのまま引用しただけで、
実際の距離とは関係ない盛った数字だから根拠にならない <

魏志は、萬二千余里の後に、更にその先に、
「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里。又有裸國、黒齒國復在其東南、船行一年可至」
と書いているから、淮南子の理解とは違うから、×。
0871日本@名無史さん
2018/10/17(水) 21:22:48.85
>>279
「会稽東冶之東」ということは、
”倭人伝の里数や方位が間違っていない”という証明なんで、
大和説唯一の根拠が消えるってこと。
つまり大和説の致命傷だ。
0872日本@名無史さん
2018/10/17(水) 21:24:29.59
>>280
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説に、根拠なんて皆無だし・・・、
好き勝手な行程を喚いてるだけで。
0873日本@名無史さん
2018/10/17(水) 21:27:47.39
南を東と読み替えてはいけないということだ。
畿内説は誤り。
0874日本@名無史さん
2018/10/17(水) 21:27:49.06
>>283
「会稽東冶之東」は、陳寿の位置推定の意見であって、
根拠にしている九州説がいるとか誰も言っていないが。

大和説者は、また発狂しているのか?。
0875日本@名無史さん
2018/10/17(水) 21:28:36.31
>>869
>忌部さんの名もみえるが、服部さんの名もみえる。


「服部さんは帰化人」だよ。

『和名抄』 阿波国板野郡の郷名に「田上」がある。 阿波の田上郷は鳴門市大麻町坂東に比定されている。
この郷の民の一部を記した延喜2年の「田上郷戸籍断簡」が遺っている。23氏487口の名簿である。
この「田上郷戸籍断簡」の中には、帰化人系の氏である「服部(はとりべ)」、「錦部(にしきべ)」、「漢人(あやひと)」、「秦(はた)」が見える。
このうち漢人(あやひと)を除く三氏はすべて衣手(職業集団)である。

この「田上郷戸籍断簡」により、倭国(阿波)に半島帰化人が来ていた事実が分かる。  @阿波
0876日本@名無史さん
2018/10/17(水) 21:30:55.21
>>284
大和説に根拠なんて皆無だし、好き勝手な行程を喚いてるだけで 。

こういう露骨な詐欺は大、大和説を不利にしているだけ。
0877日本@名無史さん
2018/10/17(水) 21:40:02.30
>>288
>・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)<

大和の前方後円墳は、石塚の庄内や、卑弥呼の墓は「冢」などに拠って、
3世紀末以後。

>・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)<

瀬戸内〜東海や南関東は、九州倭国の「東征毛人五十五國」地域であり、
九州倭国の地方の市を監督する大倭職の旧小国であった。

>・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)<

大和は、既に、北部九州博多湾岸地域の政治連合の、傘下にあった。

>ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。<

ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは筑紫であり、
「畿内」なんて、存在もしていなかった。
0878日本@名無史さん
2018/10/17(水) 21:41:24.06
>>289
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説って、恥ずかしいね =B
0879日本@名末ウ史さん
2018/10/17(水) 21:42:31.73
学者で九州説挙げてる人が皆無な時点で九州説はオカルト
学者崩れのおっさんの希望でしかない
0880日本@名無史さん
2018/10/17(水) 21:44:42.56
まあなんだ。
奈良にヤマトの大字、小字の地名がないのが、致命的だな。
0881日本@名無史さん
2018/10/17(水) 21:45:21.03
>>291
前方後円墳や庄内土器が早かったのは、筑紫や三雲であり、
大和は、北部九州からの伝播であり、
肝心の大和からは3世紀末までには、前方後円墳や庄内式土器は出てこないんだよね。

そこ理解しないと。
0882日本@名無史さん
2018/10/17(水) 21:51:23.18
>>393
>古墳が営まれた3世紀中頃から7世紀を古墳時代と呼び、これを古墳がもっとも大型化する中期を中心に、
 前期(3世紀中頃〜4世紀後半)、<

大和の前方後円墳は、3世紀末以後。

>3世紀中頃から後半になると、より大規模な前方後円墳をはじめとする古墳が西日本を中心に出現した。<

これ3世紀末だから、×。

>これら出現期の古墳は、多くは前方後円墳もしくは前方後方墳で、
長い木棺を竪穴式石室に収めた埋葬施設や、
多数の銅鏡をはじめとする呪術的な副葬品をもつなど、画一的な特徴をもっていた。<

九州倭国の「東征毛人五十五國」のため、九州倭国から伝来した。
0883日本@名無史さん
2018/10/17(水) 21:51:57.17
>>550
新唐書、宋史では用明のことを「始めて中国と通ず」と書いて、

それまでの倭国と中国との関係を黒歴史にしてなかったことにしてるだろ

そこに当時の日本政府の企みを見ないとダメだよ

真に受けてどうする
0884日本@名無史さん
2018/10/17(水) 21:54:33.46
畿内説は時代の流れを間違えている。
卑弥呼の死後に西日本に激動の時代が訪れた。
0885日本@名無史さん
2018/10/17(水) 22:00:31.68
>>863
>「谷本氏の一寸千里の分析を知らない」

『周髀算経』の中で、300歩=1里、6尺=1歩が記されているから、
1里=1800尺は、変更がない

そして、『周髀算経』の里が短里だというなら、尺も短尺でなければならなくなるし、
寸も当然短寸になる

で、1寸千里の一寸の長さは何センチなんだ?
谷本氏は「通常の寸」で計算してるよな?ww

まあ、八尺棒の方も短くなるから、比例定数的には変わらないけれど、
短寸の一寸は4ミリくらいだぞww

そんな小さな差が正確に測れるっていう主張もおかしいんだよなww
そもそも『周髀算経』の蓋天説が間違っているんだから、それを立論の根拠にしても
結局最初から間違っているってことにしかならない
0886日本@名無史さん
2018/10/17(水) 22:00:40.96
九州説は邪馬台国の大きさを間違えている
九州が辺境レベルの巨大国家だから
実際今も昔も辺境だけど
0887日本@名無史さん
2018/10/17(水) 22:03:35.17
奴国の位置までは確定したけど
九州にはそこより大きな国が無いから仕方無いよね
0888日本@名無史さん
2018/10/17(水) 22:04:12.08
>>296
>倭人伝では、その邪馬台国の位置は中国本土の会稽〜東冶の東に当たるだろうと書いてある。<

ウソを付くな、・・・・詐欺師。
倭人伝では「では「会稽東治之東」であって、「東冶」ではない。 」

>沖縄付近になる。<

ならない。
「東冶」は、後代史家の范曄の「自己解釈に拠る書き換え」であって、
証拠にならない。

>倭國はそのような巨大島にあると、書かれているのだ。<

この大和説男も、「南→東」などの嘘つき騙しと同じく、

史料事実を否定曲解する嘘つき騙しなのだ。
0889日本@名無史さん
2018/10/17(水) 22:05:40.22
>>882
>
大和の前方後円墳は、3世紀末以後。

そんなこと田舎爺さんが理由も言わずに断定したって
日本の教科書は書き換わらないよ
0890日本@名無史さん
2018/10/17(水) 22:05:58.53
九州て未だに珍走やDQNがイキってる田舎だしwww
0891日本@名無史さん
2018/10/17(水) 22:07:19.41
絹織物の技術では、中国が一番だったろうし、朝鮮の技術も良かったのではないか。
で、伊勢神宮に供える絹織物の職人集団が特別に松阪で仕事に励んだのだろう。
しかし、伊勢については、膳氏や物部氏の影響が強いところだ。
彼らが牛耳っていたのだろう。
0892日本@名無史さん
2018/10/17(水) 22:09:47.95
>>873
>南を東と読み替えてはいけないということだ。
>畿内説は誤り。

読み替えないとテンプレに明記されてるので
問題なし
0893日本@名無史さん
2018/10/17(水) 22:10:17.88
>>862
>ダメだ。
>劉徽の「九章算術注」の「九章算術」自体が、
>秦漢朝の長里で書かれた書であるから、魏朝の度量衡の根拠になっていない。

本文と無関係だから批判は的外れだ。

劉徽注には「當今大司農斛、正深一尺。」もある。
當今大司農斛=魏の銅斛も同時に測定されているのさ。

當今大司農斛:深一尺
王莽銅斛:深九寸五分五氂=23.1cm

これが資料実態。
0894日本@名無史さん
2018/10/17(水) 22:14:42.31
>>891
妄想?
0895日本@名無史さん
2018/10/17(水) 22:14:56.46
>>862
>ダメだ。
>劉徽の「九章算術注」の「九章算術」自体が、
>秦漢朝の長里で書かれた書であるから、魏朝の度量衡の根拠になっていない。

魏代になっても秦漢以来の1里=1800尺は変わっていないって証拠ですけど?
0896日本@名無史さん
2018/10/17(水) 22:17:01.84
>>887
邪馬台国の人口は、奴国を含むんだよ。
だから奴国が最大の国邑で間違いない。
0897日本@名無史さん
2018/10/17(水) 22:18:57.61
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
0898日本@名無史さん
2018/10/17(水) 22:19:01.76
>>297
> 前期(3世紀中頃〜4世紀後半)、
卑弥呼の死後に政治状況が大きく変わったようだな。<


ほらまた、「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者がウソを付いた。
大和の前方後円墳は、3世紀末以後。
0899日本@名無史さん
2018/10/17(水) 22:19:42.70
>>853
「薹」をなんて読む?
0900日本@名無史さん
2018/10/17(水) 22:22:42.42
>>298
>短里で書かれた報告書をまともに長里で理解すると、そのようになるね。<

ほらまた、「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者が、嘘を付いた。
短里で書かれた報告書をまともに解釈にすれば、
不彌國のすぐ南すれば萬二千余里だから、
沖縄にはならない。
0901日本@名無史さん
2018/10/17(水) 22:26:55.85
>>302
>そんなバカな。
3世紀中葉とは、卑弥呼が死んだころ。
そして、纏向の政権が北部九州の卑弥呼の倭國を制圧したすぐあとに、箸墓が造られるの。
何を血迷ってるの。<

ほらまた、「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者が、嘘を書いた。
纏向の庄内や前方後円墳は、3世紀末。
0902日本@名無史さん
2018/10/17(水) 22:34:06.29
>>305
間違い。

>邪馬台国の中心地とされる候補地の一つに、纏向遺跡がある。<

邪馬台国なんて存在しない嘘つき騙し。

>この遺跡は奈良盆地の東南、三輪山のふもとに位置し、大量の土器が出土し、<

筑紫の弥生銀座のなどに負ける。

>大型建物跡も発見されている。<

地方の市の祭祀建築。

>巨大な運河などの土木工事がおこなわれた大規模な集落であり、政治の中心的地域であったと考えられる。
この地には帆立貝型の独特な古墳が見られる。<

大和の前方後円墳は、3世紀末。

>これは前方後円墳に先行し、山陰地方の四隅突出型墳丘墓、吉備地方の楯築墳丘墓(岡山県倉敷市)、
などの弥生時代後期の大型墳丘墓や、吉備地方中心に墳丘に立てられている特殊壺・特殊器台など、
各地方の文化の特徴を継承している。<

筑紫倭国と出雲や越からの伝来が中心。
0903日本@名無史さん
2018/10/17(水) 22:36:04.25
>>306
「南→東」などの嘘吐き騙しや、幼稚園児の長里妄想は、
お遊びと証明されたよ。
0904日本@名無史さん
2018/10/17(水) 22:38:16.87
>>310
大和と邪馬壹國との関係を示す物的証拠はまだ発見されていない。
大和説はここがキモいね。
0905日本@名無史さん
2018/10/17(水) 22:40:36.20
>>314
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説に理由なし。

これは法則だなw 。
0906日本@名無史さん
2018/10/17(水) 22:44:19.43
>>323
結局、「会稽東冶の東」なんて「東治→東冶」のウソを付いて、
議論からは逃げ続けるしかない大和説みじめ。
0907日本@名無史さん
2018/10/17(水) 22:45:55.90
痛烈なパンチを食らった九州説が錯乱状態です
0908日本@名無史さん
2018/10/17(水) 22:47:35.68
>>899
0909日本@名無史さん
2018/10/17(水) 22:51:08.75
>>329
>周旋五千余里
九州説はこれを、短里で一周だから狭い範囲と思っているけれど、
一方通行であって、一周したり戻ったりしないで五千里なので、相当長い距離だよ<

韓が方四千里であり、三海峡のそれぞれが千里だから、その合計位 がであり、
郡から女王之所都の萬二千余里の半分以下位の距離だよ。

陳寿はそういう認識、想定で魏志倭人伝を書いてる。
0910日本@名無史さん
2018/10/17(水) 22:56:45.43
>>331
>伊都国でも、周りに先駆けて畿内様式土器が出るところがあって、<

いや、筑紫の自前の胎土で、最古の庄内を造り、
筑紫から「東征毛人五十五國」地域に伝搬した。

>佐々木先生ははっきり書いていないけれど、畿内から派遣された一大率の居所の可能性がある<

大和は、九州倭国の「東征毛人五十五國」の中の一国。

>それから、古墳時代に入ってすぐ、三雲遺跡群の中に、端山古墳が作られてるよ
古墳時代最初の古墳は、その土地の首長が死んだ順番だから、数十年単位の幅があるけれど、
倭国の範囲で一斉に作り始めてるんだよ
伊都国もその中に入っている<

前方後円墳は、卑弥呼の「冢」の後。
0911日本@名無史さん
2018/10/17(水) 22:57:08.50
九州説はいろんなとこで自己矛盾してるのに、いくら指摘されても知らん顔だからなあ
0912日本@名無史さん
2018/10/17(水) 22:59:15.46
>>910
>前方後円墳は、卑弥呼の「冢」の後。

つまり箸墓以降が定型化前方後円墳だな
問題ない
0913日本@名無史さん
2018/10/17(水) 23:01:18.68
>>333
>>「止」は、先端と後ろで止まって真ん中がくっついている状態だから、
片方の足底の状態。<

>甲骨文でも、金分でも、二つの足跡の間、空けてあるのは分かるな?
つま先とかかとをつけた足底長なんて意味は、どこからも出てこないよ<

「歩」の文字は、二つの「止」の間が空けていないから、
甲骨文字時代とは、違う文字になっていた事になる。
0914日本@名無史さん
2018/10/17(水) 23:01:55.55
>>「止」は、先端と後ろで止まって真ん中がくっついている状態だから、
片方の足底の状態。<

>甲骨文でも、金分でも、二つの足跡の間、空けてあるのは分かるな?
つま先とかかとをつけた足底長なんて意味は、どこからも出てこないよ<

「歩」の文字は、二つの「止」の間が空けていないから、
甲骨文字時代とは、違う文字になっていた事になる。
0915日本@名無史さん
2018/10/17(水) 23:07:02.48
>>1 はアホ曝しお爺ちゃんやったんもバレましたよ?
底浅すぎもバレバレやがせめてプラズマお爺ちゃんくらいはなんとかせー
0916日本@名無史さん
2018/10/17(水) 23:17:41.25
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
0917日本@名無史さん
2018/10/17(水) 23:42:49.81
>>896
>邪馬台国の人口は、奴国を含むんだよ。
>だから奴国が最大の国邑で間違いない。

そうすると、今度は九州の戸数をかき集めても7万戸には足りない
そもそも国を入れ子にして戸数を二重に数えるというのは二重帳簿詐欺w
0918日本@名無史さん
2018/10/17(水) 23:46:09.36
>>913
>甲骨文字時代とは、違う文字になっていた事になる。

違う文字だったらもう読めないし意味をなさない
詭弁にすらなっていないご都合主義

ザラコクにものを教えようというのはイヌに芸を教えるより困難
0919日本@名無史さん
2018/10/17(水) 23:46:47.07
>>917
伊都国説に至っては三重帳簿詐欺だな
0921日本@名無史さん
2018/10/17(水) 23:54:06.23
「会稽東冶の東」の件で陳寿が短里なんか知らないことは明らかになったし「南」もダメ
九州説、もうお手上げでしょ?
0922日本@名無史さん
2018/10/17(水) 23:57:26.51
九州が独立国として本州と対峙する力を持っていないことは古墳や遺跡みればわかる
そして九州は日本の2千年間でほぼ空気
経済政治の中心地にはなれない土地ってこった
0923日本@名無史さん
2018/10/18(木) 00:08:06.37
>>921
ごめん。何言ってるかわかんない。
ちょっと解説してくれないか?
0924日本@名無史さん
2018/10/18(木) 00:15:58.39
陳寿は短里を知らなかったろう
だからこそ、短里の資料をそのまま信じて会稽の東と誤解した
0925日本@名無史さん
2018/10/18(木) 00:17:51.35
>>917
30カ国もあるんだから、足りるだろ
0926日本@名無史さん
2018/10/18(木) 00:21:55.13
>>923
筆者は道里を計算して考えて、倭人の国を「会稽東冶の東」だと思ってる
ということは、筆者は自分が書いた道順どおり12000里進んで、もう長江より南まで行ってると思ってる
ということは筆者は短里なんかで書いたつもりはなく、書かれた方位も間違ってることが確定してる
0927日本@名無史さん
2018/10/18(木) 00:23:56.04
>>924
晋の史官が知らないような単位を使って、魏の役人が都に提出する報告書を書くわけないだろ
0928日本@名無史さん
2018/10/18(木) 00:28:44.71
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
0929日本@名無史さん
2018/10/18(木) 00:29:01.22
宮廷の公式記録を見れる立場の陳寿が知らないんじゃあ、魏晋朝の短里なんてものは存在しなかったってことだな
0930日本@名無史さん
2018/10/18(木) 00:32:41.13
九州説は荒らして誤魔化すしかないわけだ


ww
0931日本@名無史さん
2018/10/18(木) 00:43:09.53
公孫氏時代の単位だって言い訳もありえないな
魏の天下で旧政権の単位を使って報告なんか書くわけないもんな
そんなことしたら反逆者だから
0932日本@名無史さん
2018/10/18(木) 00:50:09.01
対馬-壱岐が千余里だから、しれをベースにするのが普通じゃないのか?
で、それが短里なんじゃないの?
書いてる本人が知らないってどういう意味?

「魏志倭人伝では狗邪韓國から對海國(対馬)までが千里、對海國から一大國(壱岐)までが千里とあるが、実距離もそれぞれ約70kmであり、短里が採用されていたことを裏付けている。」
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/邪馬台国
0933日本@名無史さん
2018/10/18(木) 00:54:48.09
>>932
明らかに普通ではない
トンデモ説名物1例帰納というやつだ
0934日本@名無史さん
2018/10/18(木) 00:57:35.93
陳寿は実際の距離なんか知らない。
千里と書かれた記録を魏志にまとめただけ。
で、実際の地理と比較して見るとかなり短い里だったんだよ。
でも陳寿は長い里だと思っていたから、倭は帯方郡からずっと南の会稽の東にある国だと思ってしまった。

なぜ短里のようなものが使われていたかは想像するしかないのだが、そのような里で魏志東夷伝が書かれていることは事実なんだよ。
0935日本@名無史さん
2018/10/18(木) 01:00:18.61
会稽の東という表現からは、魏の中央にいた人間が知らない、名前だけ同じで中身が違う単位があったことがわかるんだよ。
0936日本@名無史さん
2018/10/18(木) 01:02:04.92
>>932
そういうの、常識の世界では「裏付けている」とは言わなくね?
0937日本@名無史さん
2018/10/18(木) 01:03:49.50
>>935
どうやって「わかる」んだ?
0938日本@名無史さん
2018/10/18(木) 01:05:50.59
>>934
なんで陳寿が知らないような単位で報告書が書かれるんだ?
0939日本@名無史さん
2018/10/18(木) 01:10:19.45
>>935
魏の中央にいた人間が知らない単位なんて、誰が使って、誰に報告したんだ?
0940日本@名無史さん
2018/10/18(木) 01:11:16.50
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
0941◆UiepmfCeDJqf
2018/10/18(木) 04:12:38.70
新スレ立てました。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1539799656/
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
0942日本@名無史さん
2018/10/18(木) 04:17:46.59
>>334
>>例えば、二尺定規と一尺定規があったとすれば、当然、
二尺定規は一尺定規を元にして作られたものだ、という事になる。<

>今の言い方でいう「複歩」が、「歩」という単位なんだから、そういう戯言は通らない<

「歩」という長さの単位文言は、当然「一回の歩」の長さが単位。
0943日本@名無史さん
2018/10/18(木) 04:24:42.72
>>335
>大型建物群で祭祀を行った人物が女姓であろうとするのは、日本書紀のモモソ姫説話に立脚する意見なのであろう。
しかし、当時列島最大の規模である墓が、首長でもなんでもない一人物を葬ったものであるとは考えにくいということで、その説は否定的にみられている。
むしろ、大型建物は3世紀半ば頃以前には解体撤去されたとされているので、大型建物解体撤去後に首長の位についた人物の墓とみるのがよい。<

大型建物群の年代は「庄内3」が根拠になった筈で、
大和の庄内は、前方後円墳の石塚の庄内や、
河内の久宝寺や加美の陶質土器との共存や、
大和の土器編年が筑紫よりも50年位遅れる、という事などから、
3世紀末になる。
0944日本@名無史さん
2018/10/18(木) 04:27:17.52
>>336
>大型建物群は3世紀半ば以前には解体撤去されていたとされているので、この大型建物で祭祀を行った人物がその頃に死んだとすれば、箸墓古墳築造まで最低十数年さらには二十年ほどのの時間が経っている。
その間、遺骨を墓に葬らないでいることはやはり考えにくい、という説があり、その説が説得的だ。
長期間、遺骨を葬らないでいるには相当な理由が必要。 <

この「大型建物群は3世紀半ば以前には解体撤去されていたとされている」
という事が、
庄内3に拠って否定される。
0945日本@名無史さん
2018/10/18(木) 04:30:25.16
>>344
崩壊してんのは大和説信者の脳だろう。
0946日本@名無史さん
2018/10/18(木) 04:35:32.68
>>345
>日本書紀のこの時点の記事は、後漢書やその後の中国史書が倭國は奈良を都とする国であるとしていることと関連があり、
そのために箸墓の被葬者を女姓であるとほのめかしているようだ。
一方、日本書紀編纂者が承知していた現実の倭國については、神功皇后紀において記述しているようだ。
したがって、モモソ姫の説話については、その信憑性が疑問視される。<

「後漢書やその後の中国史書が倭國は奈良を都とする国であるとしている」
としたことが間違い。
倭国は、唐会要倭国伝時点でも、
「正北抵新羅」に拠って北部九州であった、とされていた。
0947日本@名無史さん
2018/10/18(木) 04:37:19.46
>>347
大和脳
なんでそういう結論が突然出るのか
他人には決して理解できないような答えを出す脳
0948日本@名無史さん
2018/10/18(木) 04:38:55.30
>>348
大和説名物:「南→東」などの嘘吐き騙しと、突然結論。

w
0949日本@名無史さん
2018/10/18(木) 04:43:06.83
>>349
(常識論)
なんで魏の役人が
魏朝や西晋朝の中国人の使った単位で
報告書を書かないの?
   ↓
(非常識大和説)
魏使らや帯方郡の人間が測らなかった、というから。
   ↓
(常識からのツッコミ)
 帯方郡って魏領だろが。」
0950日本@名無史さん
2018/10/18(木) 04:48:07.24
>>350
>卑弥呼の政権が2世紀末に瞬間的に成立したとか
そんなこと考えてる人はどこにもいないよ<

卑弥呼共立は、「年已長大」によって、3世紀の前半の中頃でしょうね。
0951日本@名無史さん
2018/10/18(木) 04:54:29.06
>>353
>瀬戸内海の高地性集落の盛行と倭國大乱は、従来は畿内W期〜X期前半で重なるとされていた。
しかし、その後、畿内土器と九州土器の併行関係が是正されたとこにともない、倭國大乱は畿内X期後半〜末に該当することとなった。
それで、高地性集落は、倭國大乱とは無関係する考えが主流となっている、とされる。
倭國大乱があったとされる畿内X期後半からは、むしろ戦乱の痕跡はみられなくなるのだそうだ。
ということは、瀬戸内海の高地性集落の時期に倭國大乱があって、
その結果、奈良から北部九州にかけて一つの政権下にまとまる政治状況が出現したとするモデルは、
根拠を失うこととなったのが現在だということができる。<

「倭国大乱」なんて存在せず
倭国乱は、九州付近を中心とする乱であり、
瀬戸内を中心とする高地性集落は、九州倭国の「東征毛人五十五國」のために、
毛人が高地に避難したものであった、
とする方がよい。
0952日本@名無史さん
2018/10/18(木) 04:59:47.73
>>357
>公孫淵は後漢の度量衡は変えてないだろ
兄の公孫晃も洛陽で魏に出仕してるしな <

それなら、兄の公孫晃は、最低、魏の「一寸千里の法」単位を使ったんだろうなあ。
0953日本@名無史さん
2018/10/18(木) 05:02:18.54
>>359
>卑弥呼死んだの248年。
箸墓造られたのは、260年〜270年頃とされる。<

箸墓は、「庄内〜布留」の3世紀末のホケノよりも新しいから、
4世紀以後。
0954日本@名無史さん
2018/10/18(木) 05:09:37.79
>>361
>アホやな。 短里というような単位は、中国にはない。
あったら、すでに中国の学者が発表しとる。
五千里を魏晋の1里434mで計算してみるとええ。
起点を下関あたりにして計ったら、ちょうど沖縄往復の距離になる。<

中国学者も、アホやな。
陳寿は、「計其道里、當在會稽東治之東」という位置推定を書いているから、
短里を使っておる。
勿論沖縄も否定している。
0955日本@名無史さん
2018/10/18(木) 05:12:06.82
>>362
>(箸墓)それはもう少数派だな
3世紀半ばと見るのが多数派<

3世紀末のホケノよりも後になるから、4世紀以後。
0956日本@名無史さん
2018/10/18(木) 05:16:20.20
>>363
>箸墓ができた頃の纏向は最盛期なんだよ
そして2世紀末から連続して発展してきてる<

奈良盆地には、もっと前から、毛人や出雲系銅鐸人がいた。
そして、纏向の大型建築は庄内3だから、3世紀末。
0957日本@名無史さん
2018/10/18(木) 05:20:14.30
>>367
纏向の大型建物が宮殿・宮室樓觀だと思っているのは、
かなり特殊な人だけだね。
大和説信者とか。
0958日本@名無史さん
2018/10/18(木) 05:26:22.07
>>370
>九州説様はただの柱一本立てた穴こそが日本最高で至高で最上の大祭祀遺跡だと仰るからな
いやぁとてもかないませんわ
柱一本立ってるだけで無限の可能性を導き出すこの神聖な思考回路
こんな凄いもの出されたらぐうの音も出ませんわ
九州は間違いなく邪馬台国ですわ<

この男は、「邪馬台国」なんて存在もしないウソを書いているし、
鏡がなく銅剣一本の「吉野ヶ里」の存在を隠蔽しているし、
弥生銀座や須玖岡本や安徳台を無視しているし、
いやぁとてもかないませんわ 。
0959日本@名無史さん
2018/10/18(木) 05:31:11.60
>>374
鏡もない
絹もない
墓もない
宮城もない
祭祀遺跡もない
丹山もない

流石は大和や纏向かいだ
倭人伝に記載される事が全くみつからないじゃないか
こりゃ間違いなく、邪馬壹國女王之所都ではないなあ。
0960日本@名無史さん
2018/10/18(木) 05:40:39.24
>>382
無人に近い建築を卑弥呼の宮室遺跡だと主張する
4世紀後半から5世紀後半の古墳出土鏡を邪馬台国の証拠だと仰る
近畿を中心に数百はあろうかという小規模な方形周溝墓を卑弥呼の墓だと堂々と宣言する
討ち捨てられて誰も顧みない墓を畿内を征服した支配者の墓だと仰る

いやぁ流石は大和説様だ
物凄い説得力でとても反論の余地がない

これはもう「嘘つき騙しの邪馬台国」に間違いないな
0961日本@名無史さん
2018/10/18(木) 05:47:49.44
考古学のことを何も知らない素人爺さんがアホな無根拠断定を連投しとるな
九州説の恥さらしとさぞ笑われてることだろう
0962日本@名無史さん
2018/10/18(木) 05:47:53.91
>>385
粗悪な副葬用の大量の△を、明帝の下賜鏡だ、と宣伝する
巨大な前方後円墳のお山を「冢だ」と宣伝する
たった一つだけ?出てきた麻布よりも粗悪な糸くず一つで絹の中心地だと主張する

流石は?大和説だ 完全無欠の理論構築だな
とてもじゃないが意見を差しはさむことが出来ない

間違いなく「邪馬台国なんて嘘つきだまし」が存在したな。
0963日本@名無史さん
2018/10/18(木) 05:50:11.26
>>395
「会稽東治の東」で、大和説が壊滅って、
もう動かせない事実だよなあ。
0964日本@名無史さん
2018/10/18(木) 05:51:02.72
>>397
呟き荒らしの存在が
大和説の堕落を
あらわしてる
0965日本@名無史さん
2018/10/18(木) 05:51:54.43
>>398
九州説唯一の拠り所「南→東」が死んだし
0966日本@名無史さん
2018/10/18(木) 05:52:50.72
>>399
都合の悪いことは徹底的に無視するだけじゃなく、力で相手の声を掻き消そうとする
そんな穢れた連中が、大和説なんだよ
0967日本@名無史さん
2018/10/18(木) 05:53:47.43
>>400
もう其山有丹で、大和説は死んでるけどな
0968日本@名無史さん
2018/10/18(木) 05:57:29.61
>>402
その「九州倭国から別れた別種の旧小国」が大和だった、
ということだな。
0969日本@名無史さん
2018/10/18(木) 06:05:14.52
>>408
>>(楽浪帯方)直前まで公孫氏領だったから。<

>公孫氏も漢人で後漢の官職に就いてるんだよ 公孫康は左将軍
最終的に魏に叛旗を翻したのは滅亡直前の236年
それまでは漢、魏と同じ度量衡を使っている <

じゃ、公孫氏も楽浪帯方も、魏朝の短里でいいな。

>何度も蒸し返すなよ 短里を使う理由のある人間は、どこにもいないんだよ<

何度も蒸し返すなよ。
周朝と魏朝と西晋朝は短里を使う理由があるんだよ。
0970日本@名無史さん
2018/10/18(木) 06:10:02.29
>>409
>ただ、帯方郡から1万2千里だと、1里434mでは赤道付近のセレベス島の南あたりになる。<

だから、長里は×になる。

>誰かが書いていたように、1万2千余里は、
淮南子や大月氏など西方諸国の国までの距離と同じで、
(遠いところにある国までの距離)の代名詞だと考えるのがよか、ばってん。<

魏志は、萬二千余里の後に、更に、
「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里。又有裸國、黒齒國復在其東南、船行一年可至」
と書いているから、
淮南子などの思想を否定してるばってん。
0971日本@名無史さん
2018/10/18(木) 06:13:49.53
>>414
>寺澤先生は箸中山古墳の編年を260〜280年としてるから、卑弥呼には間に合わないという立場
その場合も、箸中山古墳に先行する纒向古墳群のいずれかになるだけだから、
畿内纒向でなんの変更もないよ <

石塚が庄内で前方後円墳だから、那珂八幡などの後になり、3世紀末になり、
だから、「箸中山古墳の編年を260〜280年「」も×。
0972日本@名無史さん
2018/10/18(木) 06:15:17.05
>>415
「南→東」などの嘘をつく人間は、
必ず本当のことを知らないというメチャクチャな理屈
0973日本@名無史さん
2018/10/18(木) 06:18:19.83
>>417
もう論破され済み
3世紀では、墳と冢とは区別されている
そもそも卑弥呼の墓は魏志倭人伝では冢
0974日本@名無史さん
2018/10/18(木) 06:21:52.94
>>421
1歩は約25.5cm
つまり径百余歩は約cm25.5m余り
箸墓は全長約280m位だから、×。
0975日本@名無史さん
2018/10/18(木) 06:24:41.59
>>422
>>「径百余歩」は、「径25.5m」。<

>何度も言うが、歩と言ったら複歩なんだよ
だからどうやっても1歩は1メートルを超える<

何度も言うが、歩と言ったら単歩単であり、大体「1足底長」なんだよ
だからどうやっても1歩は25.5cm。
0976日本@名無史さん
2018/10/18(木) 06:27:31.37
>>424
そんなゴマカシいくら頑張っても
会稽東治は佐多岬と同じ緯度なんだから
沖縄説も大和説も、あえなく崩壊
ごまかせない
0977日本@名無史さん
2018/10/18(木) 06:28:28.76
>>426
歴史偽造=大和説
0978日本@名無史さん
2018/10/18(木) 06:32:48.99
>>430
>当時の魏の古墳はほとんど円墳だから
円墳の部分のみを墓と認識したんだろうね<

孔明の遺言は、
墳は山のような大きさ形のもの。
冢は「棺を容るるに足る大きさ形」のもの、
と区別している。
0979日本@名無史さん
2018/10/18(木) 06:35:13.68
>>433
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐き騙しの、
スローガンの連呼ばかりなのは
大和説という・・・・政治思想の特徴だね。
0980日本@名無史さん
2018/10/18(木) 06:38:26.89
>>435
>ホケノは庄内3だから3世紀前半だな<

庄内3は、久宝寺や加美での伽耶の陶質土器との共存に拠って、
太康6年の285年以後であるから、3世紀末なの。
0981日本@名無史さん
2018/10/18(木) 06:44:40.59
>>440
>ちゃうちゃう
張政らは卑弥呼の墓の現地へ行ってない。
径百歩は、邪馬台国の役人から聞いた情報<

ちゃうちゃう
張政らは、皇帝への報告として、
卑弥呼の墓の現地へ行ってなくては、
「大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」とは書けないし、
「径百歩は、邪馬台国の役人から聞いた情報」なんて嘘つき騙しがバレても、
首が飛ぶ。
0982日本@名無史さん
2018/10/18(木) 06:46:10.02
>>440
「冢」だから前方後円墳だ
ってのが
妄想なんだよね
0983日本@名無史さん
2018/10/18(木) 06:55:54.35
もはや妄言を吐くだけのキチガイ九州説ザラjコク
0984日本@名無史さん
2018/10/18(木) 07:03:01.77
>「冢」だから前方後円墳だ
ってのが
妄想なんだよね

それは全くその通り。
箸墓なら長二百歩となる。
円墳部分だけトリミングして径百余歩なんて都合がよすぎ。
0986日本@名無史さん
2018/10/18(木) 07:13:45.67
別に箸墓じゃなくても全長で径百歩に相当する古墳なんて
畿内にいくらでもあるけれど
まあ卑弥呼の墓の特定はそんなに邪馬台国の決定的要素にはならない
魏志倭人伝の記述が正確とも限らないし
邪馬台国と関係ない場所に作られたされたというのもあるかも知れない
0987日本@名無史さん
2018/10/18(木) 07:32:43.51
>別に箸墓じゃなくても全長で径百歩に相当する古墳なんて
畿内にいくらでもあるけれど

ごまかすな。
全長なら長、円墳なら径。

ほんと都合が良いにもほどがある。
0988日本@名無史さん
2018/10/18(木) 07:35:28.31
>>942
>「歩」という長さの単位文言は、当然「一回の歩」の長さが単位。

現代日本語で考えてどうする
何度も教えているように3世紀の(3世紀じゃなくても、だけど)大陸中華の歩は複歩
複歩が単位なんだよ

そして現代日本語で言う「1回の歩」は「跬」
>>61にも書いてあるだろ?
跬、一挙足也。倍跬謂之歩。(小爾雅)

本当にザラコクに物を教えるのはミジンコの知能指数を計るよりも難しい
イヌに失礼のないように表現変えたよw
0989日本@名無史さん
2018/10/18(木) 07:37:50.48
>>975
>何度も言うが、歩と言ったら単歩単であり、大体「1足底長」なんだよ
>だからどうやっても1歩は25.5cm。

歩が足底長だという例を出してみろよ
歩は6尺で紛れはない
歩が、6尺で複歩であることは何度も示している
0990日本@名無史さん
2018/10/18(木) 07:39:03.82
>>970
>だから、長里は×になる。

長里なんてないから×だww
0991日本@名無史さん
2018/10/18(木) 07:40:20.99
曲学さんの発見した御所市の玉手山は径百余歩に相当する。
しかし「謂れ」がない。
卑弥呼をはじめ王族の墓なら何なりかメモライズされて今も伝わっているはずだ。
例えば深い謂れのある式内・名神大社の境内とか。

あったw
高天原最有力地の日本最古の式内・名神大社の境内にあったw
https://goo.gl/maps/aaQoqDtPDyv

邪馬台国論争なんて終わりやがなwww
0992日本@名無史さん
2018/10/18(木) 07:42:30.00
>>978
>墳は山のような大きさ形のもの。
>冢は「棺を容るるに足る大きさ形」のもの、

これが誤訳
山を墳に見立て(ればよいから)自分の冢はは棺を容れるに足る程度の小さなものにしろ
という遺言
0993日本@名無史さん
2018/10/18(木) 07:52:25.18
https://goo.gl/maps/aaQoqDtPDyv
この奴婢(土蜘蛛)が埋葬された径百余歩の塚の右端の道が交差してる部分に鳥居がある。
この塚がご神域である証拠。
その鳥居とは柱を2本立てただけの簡素なもの。
https://divinus-jp.com/archives/26915
造化三神:天御中主神・高御産巣日神・神産巣日神のうち天御中主神がお隠れになっ様子であろう。

ここ高天原に王家があったのだ。
瀬戸内海洋集団の物部の地・纏向にヒミコがいるものか、バカが。
0994日本@名無史さん
2018/10/18(木) 08:03:06.51
>>441
魏の度量衡まで捏造しないと一歩も前に進めないのが
大和説
0995日本@名無史さん
2018/10/18(木) 08:08:07.95
畿内説に寄生しないと自説も唱えられないくらいに九州説が落ちぶれてるんだな
0996日本@名無史さん
2018/10/18(木) 08:09:56.28
ますます、負け惜しみ・・・
0997日本@名無史さん
2018/10/18(木) 08:11:12.27
>>444
>「當在」會稽、東冶之東の、「まさにあり」を無視するなよw<

ウソを付くなよ。
大和説は、「南→東」の嘘つき騙しだから、「東→北」だし、
「當在會稽東冶之東」」ではなく「當在會稽東治之東」」だし、
女王國は、帯方郡の東南萬二千余里の不彌國の南だ。
0998日本@名無史さん
2018/10/18(木) 08:13:14.95
>>446
「南→東」などの嘘つき騙しの、
インチキ和訳に全面依存してたから、
大和説は死んだ。
0999日本@名無史さん
2018/10/18(木) 08:15:11.35
>>448
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は
デマ流しすぎ
1000日本@名無史さん
2018/10/18(木) 08:17:55.59
>>451
大和説のアホって、
箸墓を卑弥呼の墓じゃ!とか喚き散らせば何とかなると思ってるのが笑えるなw

そんなもんを信用してる人奴なんていねーし
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