邪馬台国畿内説 Part393
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1540562714/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。 ◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。 ◆6−2
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。 ◆6−3
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 ◆7−1(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。 ◆7−2
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等 ◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都よく観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。 ◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)
「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある。 ◆FAQ 3
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が里程等から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りが含まれていること、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌ほどの南方に過ぎず、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,57も参照)
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、会稽山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。 ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
伊豆七島などは唐古鍵の時代から畿内と交流圏である。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。
有力な候補である。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。 ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響と思われはするものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状であり、古代中国人に木槨と認識されるとは考え難い。
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、そのような測定実施の記録がない。
万が一にも、そのような測定があったなら福岡県が魏の許都の真東近くに所在することが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。 ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。 ◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代の雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中華王朝では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。 ◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した!
これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示している。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)
一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
・箸中山古墳の後円部と段築が接合しないこと。
・箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと。
初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
・椿井や黒塚で見られた土質相違、中山大塚の葺石構造、河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳での前方部盛土欠如
・円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国が大和の日本に取って代わられたことは、旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記されており、中国側の認識の混乱を表している。以下の各項等を勘案すると、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等として片付けて毫も問題ない。
・唐代に書かれたことが明らかな史料がみな倭=日本という認識を示していること。
・唐会要(倭=日本と認識)より、旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に認識できること。
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認できること。
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家であり、政変の頻発する中で、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前にようやく完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複するという不体裁が発生しているばかりでなく、他にも同一人物の伝が二本別に収録されるなど、他の史書に例を見ない杜撰が複数件発生している。 ◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。 ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
以上のとおり、墳丘本体に殉葬痕があるか否か卑弥呼冢の判定基準にしようという考えには合理性が無い。 ◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう!
弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出であり、景初の遣使が献上した班布がこれであると推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退している。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が連続していない。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示している。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色が行われていた状況(金原2013,2015)と一致する。茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用されているため、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解されるからである。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
九州説にとって不利な条件と言える。 ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでないところに行くことだから、女王国は本州にある畿内ではないな?
A:陸続きのところへも渡海するので、伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、 という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。 ◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。 ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。 ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。 ◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。 ◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。 ◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(以上、漢書西域上) ◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。 ◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域と考えられる。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制の異なる碧城郡・海州市は郡域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。 ◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通) ◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1 ◆FAQ 65−2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。 ◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
古代の海岸線に沿って「東南陸行」することは、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
地名が実際の地勢と著しく異なる。 ◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半と考えられる。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0に遡る情況と整合する。
箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は但丹・近江などの地域で弥生後期〜終末の弥生墳丘墓で発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。 ◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!
このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。 ◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足相赴。
乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
郭沖三事にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。 ◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(十二世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(十三世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州に限定し得ないことは明らかである。
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
「服」は他動詞として使う。
「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。 ◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
参考に、正始年間薨の魏仮節龍驤将軍予州刺史李簡子墓誌銘を挙げる。
https://i.imgur.com/MRmSyqP.png
能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。
◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。 ◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。 ◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
前方後円墳体制など、夢想だ!
A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。
萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。
奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。
◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
続けて
「甲県一万戸、行道八日」「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近・戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=125
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表している。 ◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。
建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部に存し、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉するため、望楼状の高床式建築物と考えられる。
建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。
◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
魏志に邪馬臺と書かれていたのではない!
ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。 ◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。 ◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。暮壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。 ◆FAQ 83−1
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
◆FAQ 83−2
国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
鏡師が東渡し作鏡したという記述ではない。
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。 ◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものと思われる。
庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭と考えられる。
古墳主体部の年代は、殉葬の可能性を完全に放棄するならば、これより多少の時代遡求もあり得るが、山の中腹の尾根上という仰ぎ見られる視野角の広くない立地からは、あまり広域を支配していない首長像が瞥見される。 ◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
日本の古墳は平坦で、高くない!
卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
「好物」は「よきもの」と訓じるのが正しい!
特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量と思われ、市中から雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しいと思われる。
全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。 ◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するの不可解だ!
A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。
また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。
江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】 ◆FAQ 23誤字修正、82,87に加筆 >>346
>いくら畿内説をが否定しても、九州に有ったってことにはならないぞ
邪馬台国が九州に有ったってことの根拠を書いてみな<
根本的に、畿内も邪馬台国も、史料事実に存在せず、嘘つき騙しの詐欺文言だ。
そして、邪馬壹國は、共立女王国(≒倭国)の之所都の国であり、
その倭国は、唐会要倭國伝の「西北接百濟、正北抵新羅」に拠って、北部九州にある事になる。 >>347
>ザラコクさんの主張では「1歩=1尺」ではなく「1歩≒1尺」らしいよww
1尺=約24センチで 1歩=約25.5センチらしい
じゃないと、古田史学の会がいう短里の長さに合わないからねww<
根本的には、尺寸系の寸法単位と、里歩系の長さの単位は、対象が別であり、
始めから完全統一されていたものではなかった、という事だ。
だから、秦の始皇帝が「1歩=1尺」という換算律を命令し、統一しようとしたのだ。
>1歩=6尺は認めないのに、1里=300歩は正しいらしい<
1里=300歩は、里歩系の中での決まりであるからだ。 >>349
>>五塚原古墳でも、一旦前方部の下の段築が造られていた、というの事になり、<
>最初に、前方後円形の地割をするので、その時点で外形は決まっている
前方部の墳丘が積まれていなければ、円墳に見えるという話 <
馬鹿だね。最初に前方後円形の地割をした段階で、
始めから前方後円墳型の墓を造る、という意図がはっきりしており、
後円部での埋葬祭祀が終了した後に続いて前方部に段築する、という変なことになり、
仮に魏使らが実見していれば、円墳ではなく、前方後円墳だ、認識し、
「冢」ではなくなってしまうではないか。
>テンプレ読みな といっても読みに行かないだろうから転載・・・<
そのテンプレ部分も、既に、
後円部の埋葬祭祀がおわれば、前方部の段築などする必要もなく、
前方後円墳化させる必要がない、
と反論してあるよ。 >>350
>方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。・・・<
後円部での埋葬祭祀が済めば、前方部の段築増築なんてする必要がない、
という反論が済んでいるよ。 >>353
「1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周濠、渡り堤等を削り出しで整形構築」というように、
始めから前方後円墳の形に造っておきながら、
後円部での埋葬祭祀が終わったら、それで終了である筈なのに、
更にはるかに後の時期になってから、前方部の段築を実行した、
という奇妙な推定を、根拠と断定する、
それが「南→東」などの嘘吐き騙しのトンデモ大和説ガキの性癖。 >>359
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐き騙しのトンデモ大和説ガキらは、
「史料事実根拠から推定する」ということを殆ど知らない。
つまり彼の人生は今まで一度も「推定」したことがない?。 >>363
>洛陽から出て来たのなら決まりじゃん<
0〜1枚では、個人の移転などでの持ち運び鏡であった可能性も否定出来ず、
当然列島の500枚以上の△の根拠にならず、
三角縁や神獣鏡は、呉地域で盛行していたから、
△を明帝が卑弥呼への銅鏡百枚に採用する筈もなく、×ね。 >>85
反論?
なんの証拠もないこと言い張っても
反論にならんぞ普通 >>87が根拠を出してないので
オウンゴール
詰み 大和弥生社会の展開とその特質
寺沢薫
(纒向学研究 第4号より抜粋・引用)
もともと第一の道論(注釈:奈良盆地の独自の発展によるヤマト王権の誕生)は、奈良盆地の自然環境の卓越性を根拠に、生産力の先進性をことさらに高く見積もり、
前期古墳に見る隔絶性から前段階の強力な権力の存在を推定するという本末転倒の論理によって説明されてきた感が強い。
以降、第一の道論は吉備連合論、河内(大和川水系)連合論、鉄ルート開発 ・ 確保論、倭国乱での巻き返し論等々を巻き込み、修復を繰りかえしながら多くの論者によって支持され続けてきた。
しかし証明のための論理や手法に根本的な改善は見られない。
私は第一の道を否定する立場である。
第二の道は多様である。
私は北部九州や2世紀以降とくに強大な勢力として新興してきた吉備を中心とした瀬戸内海勢力を維新主要勢力とした政治的談合による倭国の再編成(私の言う「新生倭国」の誕生)と考えている。
畿内や大和ではその直前まで首長墓を含む一般的墓制は方形墓なのであって、しかも王権を構成した主要地域に比べると、
墓に反映されるほどの階級的に隔絶した首長権力が存在した形跡は微塵もないのである。
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf >>83
>1里=300歩は、里歩系の中での決まりであるからだ。
よくザラコクは魏代には周制に戻したとか言ってるが、
その周代の里步系でも、一步=六尺≒1.35メートルの複歩だよ
そして里は約405メートルで田圃の広さじゃないよww
田圃には「田」という別の字があるんだから、里が田の大きさのはずがないだろ?
漢字を分解して意味を捏造する試みは無駄ww
「歩」=「複歩」
「冢」=「高墳」 >>93
>墓に反映されるほどの階級的に隔絶した首長権力が存在した形跡は微塵もないのである。
だからこそ、卑弥呼の共立の画期の大きさが浮き彫りになり、
卑弥呼の共立と纒向遺跡の建設開始をもって「倭国の新しい秩序=古墳時代」が
始まったと考えるのが寺澤先生の立論の基礎だよ
そして、古墳時代の倭国の中心は大和王権であることが疑いない
そして纒向遺跡の建設開始が3世紀前半初頭なのも確実
この時点で九州説を支持する研究者はいなくなった >>94
>だからこそ、卑弥呼の共立の画期の大きさが浮き彫りになり、
>卑弥呼の共立と纒向遺跡の建設開始をもって「倭国の新しい秩序=古墳時代」が
>始まったと考えるのが寺澤先生の立論の基礎だよ
無理なこじつけ。 @阿波 >>93
邪馬台国論争から距離を置いただけ
寺澤はヤマト王政のルーツ探求に徹しようとしているのが今の状況と思う >>96
>寺澤はヤマト王政のルーツ探求に徹しようとしているのが今の状況と思う
やっと、倭国(阿波)に気づいたんじゃないの? @阿波 >>96
寺澤の行きつくところは阿波になるような気がした
@阿波に洗脳されたわけでは無いが・・ 文献学
-邪馬台国女王卑弥呼は、2世紀倭国大乱を収めた功績で、魏帝からと「朕が汝の背後にいることを従えた各国の王に示せ」として金印紫綬「親魏倭王」銅鏡百枚を下賜された。
→遠く隔たった大和にいてどうやって、北部九州から瀬戸内海で展開した倭国大乱を収めたのか?
→倭国大乱の震源地にして、その痕跡が生々しく出土する北部九州にいないとおかしい。
考古学の成果
-纏向遺跡は3世紀後半〜4世紀初頭(卑弥呼没後)の祭祀遺跡(×都市遺跡)≠邪馬台国(7万戸)、中華大陸や朝鮮半島、北部九州との活発な交流、倭国大乱の痕跡なし。
-ホケノ山までは大和在地(唐古鍵)の王墓、その直後に一気に巨大化した石塚・箸墓は、吉備の技術(版築土木技術・葺石・特殊器台)で築かれた。その築造年代は3世紀末・4世紀初頭。
-伊都国王(平原1号)墓から出土した国内最大の内向花紋鏡は、伊勢神宮の八咫鏡と同じ。
この3つを総合すると、3世紀前半卑弥呼の時代、北部九州の筑紫連投(邪馬台国)と大和の畿内連合(吉備王が大和・唐古鍵王を征服して成立)は併存していた。
台与没後、邪馬台国に代わり倭王となった伊都国王が、大陸の戦乱の影響を避けるため、東遷して筑紫と大和を合併し、大和朝廷が成立したことを示している。 >>98
>寺澤の行きつくところは阿波になるような気がした
寺澤氏だけじゃなく、石野氏はじめ、常識があれば倭国(阿波)になるのは、必然。 @阿波 >>99
近年の考古的発見や化学分析の結果が全く何も反映されてないな
やっぱり九州説は吸収しない説に改名するべきだ 九州説はいつまで基地外踊りを踊り続ける気なのかな? >>96
纏向はヤマト王権の祭祀遺跡ではあっても、邪馬台国「親魏倭王」卑弥呼とは無関係という当然の帰結に移行しつつあるんだろう。 >>102
それ以前に、文献的根拠と考古学的根拠と
どちらも書いてないんじゃないか?
2世紀倭国大乱を収めた功績で金印紫綬「親魏倭王」銅鏡百枚を下賜された、という文献的根拠?
書いてない
纏向遺跡が3世紀後半〜4世紀初頭だという考古学的根拠?
書いてない
石塚や箸墓が3世紀末・4世紀初頭だと言う考古学的根拠?
書いてない
平原1号墓の内向花紋鏡が伊勢神宮の八咫鏡と同じだという根拠?
書いてない
3つ(4つ)とも根拠がない 畿内土人はいつもヨソからの人間に住んでもらって
文化も治世も頼りきってるのがよくわかるスレになってる感じ
それが畿内説ってことでおk? ヤマト王権≠邪馬台国 という当たり前の事実をかき消すように、土器編年やC14で考古年代を操作して
ヤマト王権=邪馬台国 を連呼して墓穴を掘り、味方のはずだった橿原考古学研究所にまで「箸墓の築造年代は280年以降」とされて、自らその穴に収まったのが畿内説 それにしても、筑紫や出雲は記紀に記録が残っているのに、吉備の記録に乏しいのはどういうわけか。
ヤマト王権が吉備王国の末裔ならば、なぜ筑紫の末裔という記紀を書いたのか。
そこがさっぱりわからない。
さらにもう一度の政権交代があったのか。 大和のルーツは吉備として、
その吉備のルーツの半分以上は九州になるだろう。
結局のところ、ワンクッション挟んで、九州説の直撃を避けたということさ。 >>110
結局、筑紫を頂点とする西高東低の状況には変わりないということか。
倭国の王都である邪馬台国は九州北部で決まりだな。 >>96
>寺澤はヤマト王政のルーツ探求に徹しようとしているのが今の状況と思う<
⇧
最近の論調からわかるような気がする >>109
>それにしても、筑紫や出雲は記紀に記録が残っているのに
福岡や島根と勘違いしてはイカン。 記紀は倭国(阿波)国内での出来事の記載。 @阿波 情報の出所をなにひとつ書いていないことで
九州説の流しているのが
デマだと判る >>96
>寺澤はヤマト王政のルーツ探求に徹しようとしているのが今の状況と思う<
⇧
最近の論調からわかるような気がする 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>112
文明レベルは西高東低。では、王がいるのはどこ? そして、古墳時代の倭国の中心は大和王権であることが疑いない
そして纒向遺跡の建設開始が3世紀前半初頭なのも確実
この時点で九州説を支持する研究者はいなくなった 纒向遺跡が邪馬台国とは無関係である事がはっきりした現在
纒向遺跡は纒向学として研究されている。 しかもその時期は、人為的に操作していた、というオチが付き... >>364
>>「記述が全く合わない」部分が沢山あるから、「書き換え」が確実にあった。<
>確実にあったよ
いまの三国志は宋の学者たちが研究してマチガイだと思ったところを「書き換え」ていまの形にしたんだから
そのホームページを書いた畿内説の人も、そういうつもりで書いてる<
ダメだよ。
宋明清代の校勘学者は、全て、
魏志記載と、「唐代以後の他の史書記載」との差異のある部分を、
校勘対象にしないで、魏志記載の方を肯定して採用しているから、
「唐代以後の他の史書にあった差異」記載の方を否認している。 >>366
>A弥生時代の大和は、孤立していたわけではなく、近江〜木津川〜大和の緩やかな連合体制をとっており、墓制も共通し、生産資材の域内流通も整っていた。
この近江、木津川、大和連合に近江と深い関係にあった尾張と北陸を加えた同盟が成立し、纏向連合の核心となった。
このことが、とても興味深い。
日本の古代の歴史の大転換点の核心がここにある。<
これも、「南→東」の嘘つき騙しを隠蔽し、
九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」があった事が「日本の歴史の大転換点であった」核心があるという事を、
隠蔽しているから、×。 >しかもその時期は、人為的に操作していた、というオチが付き...
箸墓ね。
放射性炭素測定で240〜260年の20年幅って(笑)
どれだけ恣意的に数値を『卑弥呼』に持って行こうとしたのかが丸わかりだね。 >>368
>それが吉備と同盟して、全国政権の核が出来たわけだね <
この男も「九州倭国が東征毛人五十五國をした」という事を隠した投稿をしているから、×ね。
世間の皆さま、この大和説者らの、
「根本的な史料事実の隠蔽」という騙しをした説明に、
騙されないように、気を付けましょうね。 >>369
>それがどうかしたか
そもそもお互い千里離れた距離の8尺の棒の影の長さが
丁度1寸差になりましたなんて偶然はありえん
一寸千里は適当に作られた数字 <
大地平面近似が出来る範囲内では、一寸千里は十分に成立し得る。 >寺澤はヤマト王政のルーツ探求に徹しようとしているのが今の状況と思う
ならば崇神以前の王権、特に6代考安以前は王権が葛城にあるので、
纏向なんて捨てて葛城を見なければな。
ところが考古学馬鹿は「遺跡がない」というのだろね。
卑弥呼やそれ以前の男王の宮跡は神社、特に古い式内・名神大社。 困ったらでっち上げだと分かるが容易に検証できない事を言って泥沼化させるのが九州説だよな
子供がなぜなぜと言って大人を困らせるのに似てる ま、疎開先の吉備へ骨を埋めることになるだろうな、、、 崇神の時代に大神神社が出来た。
4世紀前半であろう。
ならばトヨやヒミコの時代、またはそれ以前までさかのぼる式内・名神大社が、
日本の一カ所に集中している。
記紀の記述通り葛城だ。
邪馬台国とは葛城なのだ。
こんな簡単なことが分からないバカどもwww >>128
近年の発掘成果から橿原考古学研究所が箸墓の築造年代を280年以降と修正したことから、箸墓=卑弥呼の墓 は跡形もなく消滅した。
畿内説は仕方なく、纏向勝山やホケノ山など箸墓以前の古墳に比定しようとしているが、百家争鳴しちゃって迷走中w >>370
>そうやって全く根拠を出さないのが「ナンチャッテ推定」ね 推定ではない<
いや、箸墓などの早期の巨大前方後円墳では「造り出し」がなかった、という事は、
前方後円墳の前方部分が高地過ぎたから、だんだん造り出しが必要になった、
という事であり、
という事も、前方後円墳は、前方部が後円部と殆ど同時代に造られていた、
という事の証拠。 >>136
>畿内説は仕方なく、纏向勝山やホケノ山など箸墓以前の古墳に比定しようとしているが、百家争鳴しちゃって迷走中w
そうだな。
勝山説やホケノ山説なんてさらにに迷路に迷い込むだけだからな。
もっと記紀を注視して王権が葛城にある事さえ分かれば話も早いのに。
高天原に径百余歩の奴婢が埋葬された塚があるのだから。
https://goo.gl/maps/SnEKaJ2co5m
奴婢=土蜘蛛を誅した男こそ神武。
そして残った土蜘蛛を束ねカシハラに住んだ。
だからカシハラでは今でも水平社博物館の隣に神武天皇社があるのだ。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AE%B8%E5%A2%93%E5%8F%A4%E5%A2%B3
箸墓古墳の築造時期
墳丘形態や出土遺物の内容から白石太一郎らによって最古級の前方後円墳であると指摘されていたが、陵墓指定範囲外の周辺部である箸中大池西側の堤改修工事に先立って、
奈良県立橿原考古学研究所が行った事前調査で周濠の底から布留0式(ふるぜろしき)土器が多量に出土した。
これの実年代について、奈良県立橿原考古学研究所は炭素14年代測定法により280〜300年(±10〜20年)と推定している。
しかし土器は古墳自体から発見されたものではなく、陵墓指定範囲外の周濠の底から発見された土器に付着していた炭化物が3世紀後半のものだとしても、
この古墳が発掘された纒向遺跡には縄文時代から古墳時代までの遺跡が存在しているのでそれが箸墓古墳の築造年を代表しているとは言えないし、仮に3世紀後半であったとしても卑弥呼の没年より新しいことになる。
さらに魏志倭人伝では牛馬がいなかったと記述されているが、周壕から馬具が出土していることも矛盾点である。
研究者の年代観によって造営年代は若干の異同がある。
広瀬和雄はその時期を3世紀中期ないし後期としているが「魏志倭人伝にしたがうかぎり、箸墓古墳が卑弥呼の墓であることの可能性は低い、というよりは証明しがたい」と述べている。
白石太一郎は3世紀中葉過ぎとしているが、「3世紀半ばすぎというのは、卑弥呼は亡くなっているが、その後継者である台与の時代である」とも言っている。
寺沢薫は260〜280年頃、石野博信は3世紀後半の第4四半紀、西暦280年から290年にかけてとしている。
日本最古の前方後円墳などと紹介されるが、前方後円墳としてホケノ山古墳、纒向勝山古墳、纒向矢塚古墳、神門5号墳、神門4号墳、辻畑古墳など多数ある。
これらの纒向型といわれる帆立貝形古墳と異なり箸墓古墳は方墳の部分が拡大した定型的な前方後円墳となっており、築造時期は3世紀後半以降と考えるのが一般的である。 >>376
>桜井で正始元年鏡が出てることを今だに知らないの?
それとも九州説には都合が悪いことを無かったコトにする習性があるの?<
桜井の鏡は、「正始元年」年号は存在せず、
見えた一つの文字の字形が群馬の蟹沢の正始元年鏡の文字と同じであった、
というだけであり、
だから陳氏とやらの鏡師が、使用文字の「版」を持っていて、その版を使ってその文字を造った、
という事であっただけ。
だから、この男らも、史料実態を曲解する嘘つき騙しの詐欺師であった、という事になる。 >>132
>卑弥呼やそれ以前の男王の宮跡は神社、特に古い式内・名神大社。
だから、神社でも倭国(阿波)だと何度言えばw @阿波 箸墓古墳の被葬者
宮内庁によって第7代孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の墓として管理されているが、この古墳を卑弥呼の墓とする研究者もいる。その根拠としては、
この古墳の後円部の直径が『魏志倭人伝』にある卑弥呼の円墳の直径「百余歩」にほぼ一致することとしている。定説では、魏・晋時代の一尺は24.3cm[10]、一里は1800尺=300歩であり、
魏・晋時代の1里は約435メートル、1歩はほぼ145センチメートルとなり100余歩は約145メートル強となる(日本では、これを長里と呼ぶ説がある)。
一方日本では、一里約76m(これを短里と呼ぶ)とする説も唱えられており[要出典]、魏志倭人伝で距離表示に短里が用いられているとすれば直径は約30mとなる。
後円部にある段構造が前方部で消失することから、当初は円墳であり前方部が後世に付け加えられた可能性があること。この点は調査により当初から前方後円墳であったことがわかり否定されている。
大規模な古墳の中では、全国でももっとも早い時期に築造されたものであること。しかしC14炭素年代測定法では土器の年代が100年度程度古く推定されることがわかっており、
古墳の築造年代は3世紀後半以降と推定されるにいたっている。このような議論があり、意見の一致を見ていない。
白石太一郎は「箸墓古墳が卑弥呼の墓であることの可能性は低い、というよりは証明しがたい」と述べるのに対し、石野博信は3世紀後半とすれば台与の墓、また、
箸墓を寿陵と考える寺沢薫は壹与の墓説やミマキイリヒコ(崇神)などの男王の墓説も浮上してこようと評価している。
奈良県立橿原考古学研究所自体は築造時期を280〜300年(±10〜20年)と推定しており、卑弥呼の没年とは年代的に矛盾する。
またC14炭素年代測定法による推定は100年程度古く出ることがわかっており、この墓が卑弥呼の墓である可能性は低くなっている。 >>377
>>倭人は、自分等は「(中国での燕の南の)九州」の住民であった、という事を知っていた<
>魏志倭人伝にそんな話は一切出てこないが<
魏志倭人伝には、「大夫」を名乗った事や、「夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害」との関係を匂わすだけであるが、
魏略は、「聞其舊語、自謂太伯之後」という事も記載し、
その後の史書群をそれを踏襲し、
通鑑前編では、呉王夫差の遺民が海に入って倭人になった」という事も記載して、
倭人が燕の南一帯にいた、という事を説明している。 >>378
相変わらず、「南→東」などの嘘つき騙しの根拠ヒトコトも言わずに、
「証拠は?」を言い続けたり、「言葉尻へのヘイトスピーチ」などばかりの、
大和説・・・・か。
大和説者って人種は、どいつもこいつもマイ妄想を言い張るばっかりだな。 もし最初から全長280mの前方後円墳として箸墓が造られていたなら、「径二百歩(290m)」と書いてなければおかしい罠w >>379
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しと、
「都合の悪い史料事実の否定抹殺隠蔽」と、
「証拠は?」の連発でのヘイトスピーチ街宣ばかりの、
無知と思い込みが、
大和説を作った。 >>145
その通り。
だから>>1は後円部先造論を言って大恥かいたでござるの巻www >>380
>呉からは三角縁神獣鏡が1面も見つかっていない なので呉鏡ではなし<
「呉鏡」なんて言わないよ。
「海東」鏡があるから、△は「呉系の鏡」だ、と言って来たのだよ。 文献(径百歩余)にも見放され、考古学(箸墓古墳の築造時期は280年以降)にも見放され、別の前期古墳に比定し直すしかなくなった見苦しい畿内説。 >白石太一郎は「箸墓古墳が卑弥呼の墓であることの可能性は低い、というよりは証明しがたい」と述べるのに対し、石野博信は3世紀後半とすれば台与の墓、また、
箸墓を寿陵と考える寺沢薫は壹与の墓説やミマキイリヒコ(崇神)などの男王の墓説も浮上してこようと評価している。
崇神は古事記の記述通り行燈山古墳として箸墓は崇神の1世代ないし2世代前の磯城の王。
この王は一人ではなく男女一対のヒメヒコ制。
1世代前はイカガノシコメ・イカガノシコオ
2世代前葉ウツシコメ・ウツシコオ
山代の五塚原古墳と交野の雷塚古墳が箸墓と強い関連が見られるので、
イカガノシコオであろう。
箸墓古墳被葬者イカガノシコオとその相関関係だ。
長溝(山城県主の祖・五塚原古墳)
┃
iイカガノシコオ(箸墓)━━ 真木姫
┃
タベノ宿祢(交野連・雷塚古墳) 高天原最有力地・御所市高天の日本最古の神社・高天彦神社の境内に、
径百余歩(約150m)の塚があり、魏志倭人伝の記述通り奴婢が埋葬されている。
埋葬された奴婢とは土蜘蛛である。
https://goo.gl/maps/SnEKaJ2co5m
卑弥呼(ヒミコ)とは簡単。
I崇神(310年頃 318年没)
H開化
G孝元
F孝霊
トヨ津 E孝安 D孝昭
トヨ津 (250年頃) C懿徳
ヒメ(踏鞴五十鈴) B安寧
ヒメ(踏鞴 五十鈴) A綏靖
ヒメ(踏鞴五十鈴) (200年頃) @神武
ヒメ(踏鞴五十鈴)もトヨ津媛も鴨族。
鴨の語源はカミ。
鴨族の聖地が高天原。
ヒメ(踏鞴五十鈴)もトヨ津媛も死後に高天原の神々になった。 >>121
>纒向遺跡が邪馬台国とは無関係である事がはっきりした現在
これがデマ
纏向学研究センター所長が畿内説でヤマト国を邪馬台国としている
>纒向遺跡は纒向学として研究されている。
これは、キャラクター展開等をするために纏向学で商標登録を取ったってこと
纏向遺跡の研究は誰がやってもいいけれど、纏向学という言葉は桜井市が町おこしに
独占的に使いますってだけ 邪馬台国畿内説はなぜ駄目なのか
1つ目の理由
箸墓古墳を作製した崇神天皇は、720年に完成した日本書紀を作製した人物の、16回の親子関係で繋がった先祖です。。。。
日本書紀の記録した時代の、父と子の年齢差は、学部によると、平均が21.6歳であるから、箸墓古墳が374年頃に完成しました。
720-21.6✕16=374.4
2つ目の理由
箸墓古墳を作製したときに掘った穴の数十年かかって積もった固い土の中の、底から20年分の部分に、紀元後400年頃の畿内馬具が落ちているのが、発見されました。。。
だから、箸墓古墳が380年頃に完成しました。
3つ目の理由
2013年に実行された箸墓古墳の大規模調査で、纏向遺蹟は全体も、魏志倭人伝時代の後の遺蹟だと判明しました。。
4つ目の理由
何十年もかかった、延べ数十万人の調査では、掘立柱の周りには、鉄と人民の家がありませんでした。。
そして、桃の種が発見されました。
だから、掘立柱は大物主の桃の倉庫の柱でした。。。
5つ目の理由
魏志倭人伝時代には、奈良盆地は沼地でした。
だから、人民が都会を作れませんでした。
6つ目の理由
畿内説の宣伝係には、頭の悪い人が多いです。
だから、畿内説の嘘の宣伝が、国民に信用されません。。。
日本史板にスレッドを作製すると、悪質な荒らし行為によって、討論が妨害されるので、避難所を製作しました。
http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/entrance/1539752632/1 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 邪馬台国畿内説はなぜ駄目なのか
1つ目の理由
箸墓古墳を作製した崇神天皇は、720年に完成した日本書紀を作製した人物の、16回の親子関係で繋がった先祖です。。。。
日本書紀の記録した時代の、父と子の年齢差は、学部によると、平均が21.6歳であるから、箸墓古墳が374年頃に完成しました。
720-21.6✕16=374.4
2つ目の理由
箸墓古墳を作製したときに掘った穴の数十年かかって積もった固い土の中の、底から20年分の部分に、紀元後400年頃の畿内馬具が落ちているのが、発見されました。。。
だから、箸墓古墳が380年頃に完成しました。
3つ目の理由
2013年に実行された箸墓古墳の大規模調査で、纏向遺蹟は全体も、魏志倭人伝時代の後の遺蹟だと判明しました。。
4つ目の理由
何十年もかかった、延べ数十万人の調査では、掘立柱の周りには、鉄と人民の家がありませんでした。。
そして、桃の種が発見されました。
だから、掘立柱は大物主の桃の倉庫の柱でした。。。
5つ目の理由
魏志倭人伝時代には、奈良盆地は沼地でした。
だから、人民が都会を作れませんでした。
6つ目の理由
畿内説の宣伝係には、頭の悪い人が多いです。
だから、畿内説の嘘の宣伝が、国民に信用されません。。。
日本史板にスレッドを作製すると、悪質な荒らし行為によって、討論が妨害されるので、避難所を製作しました。
http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/entrance/1539752632/1 >>382
>陳寿は過去の文献を寄せ集めて編纂しただけ
元となった陳寿が入手出来た倭国関連の文献として、漢の文書、呉が遺した文書、公孫氏の遺した文書、魏の文書の四つが考えられる
魏志倭人伝ではその4つの勢力の距離単位がごっちゃ混ぜになってると考えなければならない <
いや、陳寿は、確か、
項羽の話で、「江東千里」の記録を「江東数千里」と書き換えた例があった筈であり、
漢代記録を魏の短里で訂正した事になり、
意図的に出来るだけ短里での記載に直していた、という可能性もある。 >>149
箸墓古墳の築造時期は280年以降だなんて、誰が言ってるんだ?
九州説は怪しげな情報ばかりで出来ているな >>157
>九州説は怪しげな情報ばかりで出来ているな
怪しげな情報だけじゃないよ
デマ
ごまかし
でたらめ
捏造
恣意的解釈
無理読み
の複合技が九州説だよ
まあ、全部ひっくるめて「怪しい情報」ってことでもいいけどさw >>123
>畿内説は時期しか一致しない情けなさ
時期が一致することは認めるんだ
じゃあ、もうそれで決着だね
纏向遺跡で古墳時代が始まっていて、北部九州も古墳時代に最初から参加している
その時期が卑弥呼の時期と一致しているなら、それで最終結論になる
おめでとう! 破綻した畿内説の宣伝係が、論破されてしまったので、真実の情報に対して中傷するだけになってきたな。
157日本@名無史さん2018/10/29(月) 09:59:16.11
>>149
箸墓古墳の築造時期は280年以降だなんて、誰が言ってるんだ?
九州説は怪しげな情報ばかりで出来ているな
158日本@名無史さん2018/10/29(月) 10:04:30.86
>>157
>九州説は怪しげな情報ばかりで出来ているな
怪しげな情報だけじゃないよ
デマ
ごまかし
でたらめ
捏造
恣意的解釈
無理読み
の複合技が九州説だよ
まあ、全部ひっくるめて「怪しい情報」ってことでもいいけどさw 畿内の学者は、
九州の原田大六の箸墓説にあおられ、手柄を横取りしようとして失敗したってことよ。 破綻した畿内説の宣伝係が、また、頭の悪さを自分で公表してしまったな。
159日本@名無史さん2018/10/29(月) 10:10:19.27
>>123
>畿内説は時期しか一致しない情けなさ
時期が一致することは認めるんだ
じゃあ、もうそれで決着だね
纏向遺跡で古墳時代が始まっていて、北部九州も古墳時代に最初から参加している
その時期が卑弥呼の時期と一致しているなら、それで最終結論になる
おめでとう! >>385
>「魏志倭人伝小考」より ・・・
九州説は、こうした「史料の限界」を無視して、魏志倭人伝原理主義を振り回し
現実の地理を魏志倭人伝の記述に合うようにするために、読み方を「発明」するww <
元々、三国志は同時代記録を元にしたから、客観性と信頼性が非常に高い、と言って来たのであり、
原稿版本でも差異の発生は0.5%以下であって、殆ど正確なものであったのであり、
「100%完全なものだ」などとは言ってこなかったのであり、
「魏志倭人伝小考」の筆者自身が、「邪馬台国」なんて存在もしない嘘つき騙しを書いている詐欺師なんであり、
この投稿子もおそらく「魏志倭人伝の記載が自分の大和説にとっては都合が悪い」という事を自覚しているから、
こんな詐欺師の文を紹介した。 大和説の学者連は、
九州の原田大六の箸墓説にあおられ、手柄を横取りしようとして失敗したってことよ。 >>162
そうだね、、、
時期しか一致しないという意見を発表した考古学者が、畿内には証拠になるものが何もないということを、言いたかっただけということを、破綻した畿内説の宣伝係は、頭が悪いので理解できなかった可能性が、高いな。。。 邪馬台国畿内説はなぜ駄目なのか
1つ目の理由
箸墓古墳を作製した崇神天皇は、720年に完成した日本書紀を作製した人物の、16回の親子関係で繋がった先祖です。。。。
日本書紀の記録した時代の、父と子の年齢差は、学部によると、平均が21.6歳であるから、箸墓古墳が374年頃に完成しました。
720-21.6✕16=374.4 邪馬台国畿内説はなぜ駄目なのか
2つ目の理由
箸墓古墳を作製したときに掘った穴の数十年かかって積もった固い土の中の、底から20年分の部分に、紀元後400年頃の畿内馬具が落ちているのが、発見されました。。。
だから、箸墓古墳が380年頃に完成しました。 纏向に、古墳を作製した者達は、何時、高句麗から渡来してきたのだろうか、、、
そして、箸墓古墳が380年頃に完成したという真実は、その究明に役立つのだろうか、、、 >>386
>現在畿内と呼ばれる地域で魏の年号が入った三角縁神獣鏡が見つかる<
畿内なんて存在もしないし、存在したのは、
九州の倭国と、それが東征した「東征毛人五十五國」と、
出雲の文身國や越の大漢國や足摺の朱儒國や碧眼紅毛の女國や蝦夷やアイヌ。
大和は「東征毛人五十五國」の中の一国。
>なので現在畿内と呼ばれる地域はかつて魏と交流していた<
△は、魏から0~1枚の出土であり、明帝の敵国の呉系の鏡であり、
明帝が下賜鏡に選択する筈もなく、
魏が倭国の附庸國の「毛人五十五國」と直接的な交流をするバズもなく、
「海東鏡」などがあるから、
呉系の楽浪鏡師らが戦乱から逃れて鏡の好きな倭国に渡来して来たもの。
>魏志倭人伝に魏は邪馬台国女王に銅鏡を下賜したとあるので
魏年号入りの胴鏡が見つかる機内は邪馬台国と考えられる<
邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙しの文言であり、
魏帝が銅鏡百枚を下賜したのは、九州倭国の邪馬壹國女王之所都の卑弥呼。 乗馬軍団の馬を連れてきた者達は、なぜ、天皇家の墓の製作を手助けしたのだろうか。。。 >>164
>大和説の学者連は、
>九州の原田大六の箸墓説にあおられ、
違うだろ?
九州説の連中は、原田大六氏の平原1号墓出土鏡「八咫鏡」説に引きずられて
訳の分からないことになっているだけじゃないかw
「八咫鏡」じゃないし、天照大神の墓でもないし卑弥呼の墓でもないから安心しなww >>170
馬のことを研究した結果、高句麗人が、纏向にモンゴルの馬を連れてきたが判明したのではなかったのかな、、、 >>388
>>漢の文書、呉が遺した文書、公孫氏の遺した文書、魏の文書<
>でもその4つの文書の距離単位は、すべて秦の始皇帝の度量衡統一後の
1里=1800尺の単位なんだが? 短里なんて使う人がどこにもいない、捏造単位だよ<
漢と呉の文書は、殆ど長里であり、短里は僅か。
魏朝と公孫氏の文書は、殆ど短里であり、長里はほぼない。 >>172
日本が、高句麗と関係性を持ったのは、何時のことなのだろうか。。。 >>389
>「魏志倭人伝小考」より ・・・<
現代日本の「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者の書いた、
国民を騙そうとする犯罪者的な詐欺師の文。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>164
九州説信者は嘘ばかりつく
原田大六は大正6年生まれ
彼が子供の頃から箸墓=卑弥呼冢説はある >>391
>「古本(こほん)三国志」というものがあります。これはごく古い時代の『三国志』の写本の一部分で、
現在までに6編ほど見つかっています。その中に、「吐魯番(トルバン)出土 三国志 巻五七(呉書一二)
虞翻伝・陸績伝・張温伝残卷」というのがあり、陳寿が書いた直後の晋代の写本と見られています。
姚李農氏という学者が、これを現代 目にするものと比較した研究がありまして、それによると、
全1192字中、画数の同じでない文字が416字。全体の1/3を越えます。
また、用語から見て、「紹煕本」と異なるものが40句にのぼる・・・となっているんです。<
姚李農という男も、
文献には、
写本のように「そのまま転写」する事を目指すものと、
自己解釈に拠っての内容紹介的な「分かりやすく書き換え」をするものと、
小説のように「意図的な造作」をするものがある、という区別が付かないアホ人種。
古本三国志が、そのような文字の書き換えをしている、という事は、
「内容説明紹介」文書であったのであり、写本ではない、という事。 >>173
>魏朝と公孫氏の文書は、殆ど短里であり、長里はほぼない。
何度書いても嘘は嘘ww 破綻した畿内説の宣伝係が、追い詰められてしまい、元気がなくなってきたな。。。 >>178
>古本三国志が、そのような文字の書き換えをしている、という事は、
>「内容説明紹介」文書であったのであり、写本ではない、という事。
つ「陳寿が書いた直後の晋代の写本」 短理と長里とは、それぞれ、何メートルなのだろうか、、、、
そして熊本城から、船で5000里はを進めば、何処に行き着くのだろうか。。。 >>393
>「魏志倭人伝小考」より
「ということで、「魏志倭人伝」の内容が正確かどうかには、大きな疑問符がつきます。<
疑問符は付きません。99.5%以上の客観性や信頼性や正確性があります。
そしてこの男も、自分の大和説にとっては都合の悪い史料を、口先で否定抹殺しようとする、
悪質な・・・・大和説者です。
>ですが、邪馬台国について書かれた同時代資料はほとんどこれだけなので、他の資料と
比較検討することもできません。<
魏略や後漢書の記録や、晋書などもあります。
>そこで、邪馬台国問題では考古学資料が重視されるようになってきているんです。」
「でも、考古学重視というふうに書くと、「考古学の出土物に、ここが邪馬台国と書いて
いるわけじゃないだろ!文献をないがしろにするな、邪馬台国は文献史学の問題だ、ムキー!!」
と怒る人が、特に九州説の中にはたくさんいまして、困ったもんだなあと自分は思っているんです。」<
当然、考古資料も、発掘の記録そのものは、ある程度の信頼性がありますが、
「南→東」などの史料事実の否定曲解のような嘘つき騙しである事が分かった大和説学者の、
発掘考古事実への自己解釈説明には、信頼性が全くありません。
>完全同意ww<
「南→東」などの嘘つき騙しの同じ穴の貉の大和説者同士のなれ合い。 >>394
>墓制の変遷から考えればある程度見えてくるんだよね 漢時の百余国ってのは方形周溝墓だろう
それが青谷上寺地で方墳勢力に打ち破られて、これが倭国大乱の始まり
そして近江で前方後方墳が誕生し、大和で前方後円墳が派生
前方後方墳はその勢力を失わずに東日本へ広がった <
九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」という事を全く無視抹殺した、
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者の欠陥説。 >>120
前方後円墳を作り始めた時はまだ九州を含む倭国の中心勢力ではなかったんだよ。
わずか数十年の誤差が大きな誤解を招き、畿内説につながっている。 >>152
>纏向遺跡の研究は誰がやってもいいけれど、纏向学という言葉は桜井市が町おこしに
>独占的に使いますってだけ
最低だな、桜井市 卑弥呼がアマテラスのモデルだったのだろう。
それですべて説明がつく。 >>187
>最低だな、桜井市
そうか?
別に纏向遺跡の研究をしたり論じたりするのに、「纏向学」という文字列を使う理由も
必然性もないだろ?
他人にはほぼ迷惑をかけないやり方だぞ?
逆に、桜井市以外の人が「纏向学」という文字列を使って商売をする状況が
想定できないんだが? 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 モンゴルや高句麗の、前方後円墳や乗馬が4世紀後半に纏向に、渡来したのはなぜなのだろうか、、、、 熊本城から船で出発し、島伝いに五千里進んだ場所にあったという、倭地の果てとは、何処なのだろうか、、、 儋耳朱崖に有った物と無かった物が、倭地に有った物と無かった物と同じなのは、なぜなのだろうか。。。 モンゴルや高句麗の、前方後円墳や乗馬が4世紀後半に纏向に、渡来したのはなぜなのだろうか、、、、 古代中国のイネの粒種の変遷グラフは、魏志倭人伝時代に対しての討論会に、どのような反響を起こすのだろうか。。。 モンゴルや高句麗の、前方後円墳や乗馬が4世紀後半に纏向に、渡来したのはなぜなのだろうか、、、、 >>119
>文明レベルは西高東低。では、王がいるのはどこ?
手工業者は賤民 畿内説は、破綻してしまったのだから、このスレッドは、モンゴルや高句麗の、前方後円墳や乗馬が4世紀後半に纏向に、渡来したのはなぜなのかを、討論するためのスレッドにすれば良いな、、、 賤民とは、何だろうか、、、
そして、それは、モンゴルや高句麗の、前方後円墳や乗馬が4世紀後半に纏向に、渡来したことと、どのような関係性があるのだろうか。。。 畿内説が破綻したわけではない
>>1以下が破綻しただけだ >>202
その通りだよ。
>>1は偉い先生の言う事ばかり追いかけて自分で考えるという事をしなかった。
その偉い先生たちやれが勝山だホケノ山だと迷路に迷い込んでいる。
卑弥呼の墓は纏向にはなかったのだ。
もっと記紀を注視すれば、邪馬台国とは6代考安以前の宮があった葛城だと容易に分る。
日本の歴史の原点・葛城の高天原にある奴婢が埋葬された径百余歩の塚がこれだ。
https://goo.gl/maps/whQ2JDcFgMD2
今回は3Dバージョンでお届けしよう。 × その偉い先生たちやれが勝山だホケノ山だ
〇 その偉い先生たちがやれ勝山だホケノ山だ 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>399
>邪馬台国は畿内で決まりすぎていて
九州説は最終的に荒らすしかないからな<
邪馬台国も畿内もないから、この男も嘘つき騙しの大和説者であり、
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者は、人間ではなく、
最終的に、アメリカの白人至上主義のテロリストらと同じように、
ヘイトスピーチや大量殺人で荒らすしかないからな。 >>403
>邪馬台国ってのは、どれよ?<
邪馬台国なんて、史料に存在もしない嘘つき騙し文言だよ。
>1)倭国大乱前の方形周溝墓の近江
2)方墳勢力に権力を掌握された後の前方後方墳の近江
3)象鼻山に逃れ隆盛を築いた濃尾
4)両勢力の和合で生まれた前方後円墳の大和<
全部「南≠東」に拠って×だし、
全部、九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」の中の小国群だな。 >>404
「南→東」などに嘘つき騙しの大和説側の、
その推定の根拠が、第三者からみると、バカバカしいと言っているのじゃないの?。 >>405
>魏志倭人伝に書いてる卑弥呼がいて魏と国交してた国<
「正北抵新羅」の九州にあって、
「自昔・・・東征毛人五十五國」をした倭国。 >>406
>じゃ、濃尾だな 畿内でも九州でもないw <
畿内なんて、存在もしない嘘つき騙しであるから×であるし、
濃尾も「南≠東」で×であるし、「東征毛人五十五國」の旧小国であるから、×だな。 >>407
うむ。 確かに、この男も、
「南→東」などの嘘つき騙しだし、
「自昔・・・東征毛人五十五國」を隠蔽してはばからない詐欺師だ。
面白い。 >>407
>三角縁神獣鏡が出てないからたぶん違うよ<
九州には△は幾つも出ているが、
濃尾は出ていないようだし、大和の△は4世紀以後だから、×だな。 >>410
>・・・倭国大乱は弥生の神殺し 革命 <
倭国大乱というのもないね。
倭国乱なら、九州で起こり、
その後は、九州倭国が「自昔・・・東征毛人五十五國」が、瀬戸内から南関東まで達したんだろうね。 後漢書に邪馬臺國とあっても、邪馬臺國はないといい
後漢書に倭國大亂とあっても、倭國大亂はないといい
ザラコクの魏志倭人伝原理主義はすごいな
クロスチェックとか、まったく考えていないww 邪馬台国畿内説はなぜ駄目なのか
1つ目の理由
箸墓古墳を作製した崇神天皇は、720年に完成した日本書紀を作製した人物の、16回の親子関係で繋がった先祖です。。。。
日本書紀の記録した時代の、父と子の年齢差は、学部によると、平均が21.6歳であるから、箸墓古墳が374年頃に完成しました。
720-21.6✕16=374.4
2つ目の理由
箸墓古墳を作製したときに掘った穴の数十年かかって積もった固い土の中の、底から20年分の部分に、紀元後400年頃の畿内馬具が落ちているのが、発見されました。。。
だから、箸墓古墳が380年頃に完成しました。
3つ目の理由
2013年に実行された箸墓古墳の大規模調査で、纏向遺蹟は全体も、魏志倭人伝時代の後の遺蹟だと判明しました。。
4つ目の理由
何十年もかかった、延べ数十万人の調査では、掘立柱の周りには、鉄と人民の家がありませんでした。。
そして、桃の種が発見されました。
だから、掘立柱は大物主の桃の倉庫の柱でした。。。
5つ目の理由
魏志倭人伝時代には、奈良盆地は沼地でした。
だから、人民が都会を作れませんでした。
6つ目の理由
畿内説の宣伝係には、頭の悪い人が多いです。
だから、畿内説の嘘の宣伝が、国民に信用されません。。。
日本史板にスレッドを作製すると、悪質な荒らし行為によって、討論が妨害されるので、避難所を製作しました。
http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/entrance/1539752632/1 >>212
>濃尾は出ていないようだし、
まっ赤なウソ
愛知岐阜で35枚
これだから九州説は・・・ >>416
>邪馬台国ってのは、呉や公孫氏から武器供与されて反乱起こした(呉や公孫氏の言うところの)奴国に対して劣勢になってたけど、魏が帯方で公孫氏を滅ぼしたという情報を得て、魏に使者を送りそのお墨付きを得て形勢挽回した(同じく呉や公孫氏の言うところの)狗奴国の事だよ<
何を言いたいのか?がさっぱりわからんが、「邪馬台国」って存在しないから、×だよ。 4世紀の日本人は、なぜ、三角縁神獣鏡を製作したのだろうか。。。 >>420
>“短里”説は、お遊びだからなあ。<
「長里だけしかなかった」説は、史料実態無視の詐欺師だからなあ。 >>218
4世紀に、乗馬方法や、前方後円墳の製作の方法を伝達した、高句麗人と関係があるのではないのかな。。。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>423
>九州説にとっては、積極的に九州だといえる(と思っている)唯一のポイントだから、
必死で「短里があった」ことしたがってるよ <
九州説は、「西北接百濟、正北抵新羅」や「南」や、弥生銀座や祇園山や平原などの考古で、
始めから決まり切っているよ。 >>434
>どっちにしろ、“短里”はお遊び。<
どっちにしろ、“長里だけ”説は、
魏志の史料事実や史料実態を否定する、
ウソ付き騙しのお遊び。 5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わった石犂とは、何だろうか、、、
そして、それは、モンゴルや高句麗の、前方後円墳や乗馬が4世紀後半に纏向に、渡来したことと、どのような関係性があるのだろうか。。。 >>438
>けど3世紀に臺と台が別の意味で使われていると断言しときながら
いつまで経ってもその実例を上げられないなら<
古田本での「台は星の名前」に使われた事と、
三国志には「台」はなく、全部「臺」である事。 >>439
>狗奴国は邪馬台国と同一 <
邪馬台国なんて存在しない。
>蔑字が使われてるか否かでどの勢力なのかが判別出来るようになってる<
邪馬壹國の「壹」は、蔑字ではない。 >>447
>狗奴国は河内彦が寝返り、台与の時代に吸収されたんだろう<
「台与」なんていないから、×。
>卑弥弓呼は、吉備阿波連合に殺されたんだろうな<
卑弥弓呼は、筑紫の南の王だから、吉備阿波連合など関係なく、×。
>大阪南部の神社には吉備系支配の痕跡が残っているわ <
大阪南部の神社も、「南≠東」などによって、×。 九州の原田大六の箸墓説にあおられて、
手柄を横取りしてやろうと飛びついては見たものの、よくよく見たら贋作だったってこったwww 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>222
>九州説は、「西北接百濟、正北抵新羅」や
九州も倭国の一部ってだけ
>「南」や、
九州説は「計其道里、當在會稽、東冶之東」で破綻
>弥生銀座や
弥生銀座なんてないから×ww
>祇園山や平原などの考古で、
祇園山は古墳時代、平原1号墓は2世紀でどちらも卑弥呼の時代に合わないし
殉葬墓は一つもない
>始めから決まり切っているよ。
そうだね、九州説は捏造とでたらめだとはじめから決まり切ってるね! >>226
>古田本での「台は星の名前」に使われた事と
それを一度も原典で示せないじゃないかww
要するに、でたらめってことだろ? >>231
九州の原田大六の「平原1号墓出土鏡は八咫鏡」に乗せられて、
いまだに伊都国が卑弥呼の都って言ってる人がかわいそうで仕方がない 畿内説に確信を持ってた学者はもう居ないと思う
と考える、と推理する学者は居る
過去に畿内説を声高らかに唱えていた学者はヤマト王政の生い立ちの研究に力を注いでいる
結果、邪馬台国や卑弥呼にぶち当たるかもしれないが期待と言うより研究の結果がそうなれば
それでよしとする立ち位置だと思う
桜井市は村興しで必死だ県立橿考も本来の姿に戻り、畿内でなく奈良県の古代について研究し始めている >>236
>じゃあ、どんな鏡を八咫の鏡と呼ぶんだい?
庶民に分かる訳ないよ。 @阿波 >>451
「南→東」などの嘘つき騙しや、
「畿内」なんて存在もしないウソ文言を使いながら、
新しい批判を受けても、何も吸収しない。
やはり大和説はアホの塊。 平原の大鏡は、なんかデザインがダサい
手抜き曲線で、やっつけしごとで、・出来損ないの臭いがする。 >>452
魏朝の公定の短里とか短歩とかを使わず、
秦漢朝のインチキ里やインチキ歩なんか使ったら、
当然クビが飛ぶよな。 >>454
大和説は、「南→東」などの嘘つき騙しの指摘を「吸収しない」と言えば、
また更に脳の病気が進行した、という事を言ってることになるな。 原田は原田で、平原の大鏡にコシ抜かし、、
伊都国は糸島だ〜〜、と大声で触れ回った。
しかし、伊作の佐賀ルート説登場で、糸島怡土国はあえなく沈没、玄界灘の彼方に消えた。 >>458の訂正
魏使らは、当然墳長(長径)で大きさを報告する。 >>237
奈良は畿内の首都ではなく、東海など東の影響の方が強かった一国だと思うね。
埋葬時の副葬品の置き方などは滋賀と共通しているが、他の畿内では見られない。 ザラコクが遠くから石投げてやーいやーいとやってるだけだな >>238
どちらかというと九州説が駄々っ子のように暴れてるんだが? >>468
「畿内」なんて存在しない嘘つき騙しだし、「南→東」も嘘つき騙しだから、
大和説が間違いであり、
「正北抵新羅」だから、九州説が正しい、ということにはなるよるよね。
論理的思考は苦手な人ですか?w。 >>237
学者はもう畿内だ九州だの段階はとっくに通り越して畿内前提で個別研究やその他全ての話が進んでるから >>477
>見てない 伝聞情報!<
見てないで、伝聞で書いて、
部下や後から来た張政らに間違いがバレたら、当然首が危ないね。 >>241
まあ、それは国産でデザイナーが
育っていないんだから仕方がない。
最初期のチャレンジらしいと言える。
熊本の石包丁形鉄包丁とか
最初期のチャレンジが見える遺物が
九州にはたまにあるね。 >>226
三世紀の星座の名前で台という字が使われている例をここにあげられなければ
ザラコク及び古田は嘘つき騙し確定 神武東征紀がなぜあんなに誇張され脚色され日本書紀のメインになってるのか。
答えは神武の時代が女王国だったから。
だから女王国の時代を神武東征紀で猛々しくマッチョな男王国に変えた。
7世紀の朝廷は卑弥呼が誰なのか知られると困った。
卑弥呼に問題があるからではない、卑弥呼から100年前の人物に問題があり、
この人物が誰なのか知られると困ったからだ.
朝貢年
266年 台与 トヨ津
・
238年 卑弥呼 ヒメ(踏鞴五十鈴)
・
・
・
・
・
107年 倭國王・帥升 スサノオ
日本の歴史は中華皇帝・安帝への謁見要請、つまり土下座から始まる。
この屈辱の史実を隠したのだ。 >>474
大和説は、「南→東」などの嘘つき騙しや、
このような、全て「1歩=6尺」だ、という妄想の中にだけ存在する。 >>240
畿内という文言は存在してるだろ
おかしな奴だ 太宰府の条坊制跡もチャレンジ失敗の跡かな。
中国を参考に条坊制都市にしようとしたのはいいが
おそらく住民が多すぎて完成できなかった。
部分的にしか痕跡がないのだ。
それらの反省から藤原京や平城京は
人がほとんど居ない場所に
作られるようになったね。 >>476
「森岡の説の紹介」も出来ず、「南→東」などに嘘つき騙しの指摘に反論もできず、
ヘイトスピーチ中傷ばかりはできる。
それが大和説。 >>237
畿内説はなくなりつつあるのは確かだ
BUT 邪馬台国とヤマト王政は繫がりがあるだろう まあ九州説がおかしくなればなるほど
畿内説有利の印象を与えるだけだけど 不思議なことに九州説を提唱した新井白石は高天原が九州にあるとは言わなかった。
突然、常陸国などと言われても意味が分からない。
これは逆に考えるべきだ。
新井白石は邪馬台国や高天原が「大和ではない」ということを強調したかった。
邪馬台国も高天原も大和にあった事を知ってたからだ。
高天原や邪馬台国が大和にあったなら、大和朝廷や古代天皇が中華へ朝貢してた事を意味する。
国学者としてこれほど辛い事はない。
つまり邪馬台国は九州、高天原は常陸と発表することで大和に焦点があたることを避けたのだ。
九州説とは新井白石が創ったデマである。 ザラコクは、歩が複歩であることを否定している
これだけで、ザラコクがトンデモであることが万人に分かるww >>229
前スレの書き込みにレスしてるってわけか
未来にレスするキチガイかと思ったわ 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>478
>>投馬國が、南九州であり、邪馬壹國が筑紫付近であるから、<
>投馬國が南九州だなんて何の根拠もない<
不彌國の南方にあって、水行二十日で行けるところだ、という位置指定だから、
南九州だろ。
>女王国以北と書かれてるんだから可能性ゼロだろ <
「自女王國以北、其戸數道里可得略載」は、
魏使らが「得た情報」だとして記載しており、
投馬國は、倭人からの伝聞情報であるから、魏使らが直接得ておらず、
関係がないだろ?。
また、「自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之」も、一大率は以北の国を検察している、とだけ言っているんであり、
投馬國は、以南だから、検察していないんだろ?。
勿論、投馬國は、天孫族の阿毎氏の伊都国と同じ阿毎氏の支配地でもあったようだし。 >キチガイかと思ったわ
基地外だよ。
大和説者を人殺し、殺人鬼呼ばわりしてるし。 九州説は学問的にはもちろん
当初の国民の天皇中心皇国史観への回帰を防ぐという根底が崩れ政治的存在意義すらなくなった >>269
分かったような、わっからないような、尤もらしいような、尤もらしくないような
なにいってんだかねえ、
正しいことは、学問的にも、政治的にも、天皇家にも、国民にも、超大切なことだ。 テンプレも時代にそぐわない部分が出てきたので
概ねは良いが、再考した方が良い
テンプレの3割ぐらい修正すれば良い >>270
九州説はどうやら隣国系政治的団体の政治的主張だよ
皇国史観反対とかちらほらそういう発言をしてきたからな
しかし日本の歴史に詳しくないから九州説こそが実は皇国史観だったという事に気づかなかったマヌケぶり >>91
この論は、纏向遺跡の外来土器の割合が、吉備より尾張のほうが多いことを無視しているね。
しかも、次第に吉備や西部瀬戸の割合は減っていき、ついにはごくわずかな割合しかみられなくなる。
吉備が終始一貫して主要勢力だった、という根拠がない。
それに、石塚など前方後円型墳丘墓が吉備由来だとする寺澤の想定は、崩れ始めている。
纏向の政権が吉備からの東遷だとする根拠がどんどんなくなってきている。 >>272
負け惜しみに聞こえるから止めた方が・・・・・・・・・・・・ 九州説が皇国史観というのは、九州王朝説のことだろうな。
三世紀に九州という呼び名は存在しなかった。dから、九州王朝なんてあるはずなかったのだ。
正しい九州説では、邪馬台国は筑紫以外のところにあったのだ。 畿内説の
捨て駒
>>1ガンバレ
「歩」が「と金」になるかもしれん >>91
この論は、大型墳丘墓が出雲、吉備、尾張で造られていたことを忘れている。
尾張の前方後方型墳丘墓が、弥生後期〜終末期にかけて大型化して、尾張・東海地方で政治的、経済的まとまりの要となっていた。
纏向の連合政権の主導勢力はその大和、近江、尾張の三角地帯の勢力と考えられる。
石塚などの前方後円型墳丘墓の由来は、周濠によって馬蹄形がほぼ完成していた尾張の前方後方型墳丘墓をベースとして、後方部を吉備の円墳に置き換えたものであり、この墳形は尾張と吉備の合作である。
そもそも前方後円型墳丘墓が平地に造られていることが、尾張の前方後方型墳丘墓が平地に造られているのと同じであることに注目すべきで。
吉備の円墳がなぜ前方後円型墳丘墓に採用されたのかについては、纏向連合結成の目的が博多にもたらされる舶載貴重財を独占することにあり、その博多制圧のために吉備はなくてはならない勢力であったからである。
一旦、その計画が達成されると、吉備の重要性はほとんどなくなった。
それが、纏向から吉備、西部瀬戸の土器がなくなってく理由だと考えられるのだ。 纒向みたいな過疎地にその中心があったとは思えないな。
吉備や尾張の役割を考えるのはいいが、纒向を過大評価している。 >>93
寺澤は、吉備から東遷したのが卑弥呼の勢力で、その卑弥呼の墓は石塚などの前方後円型墳丘墓のうちのどれかだという考え。
そのために、石塚古墳と吉備の楯築双方中円墳を結ぶのが加古川の西条52号墳だとしている。
しかし、西条は柄鏡型円墳であって、双方中円墳の参道の片方を取り除いたものだと考えられるとしても、この西条が石塚古墳にはつながらない。
なぜなら、西条の柄部分は、石塚古墳の前方部のようにバチ形に開いていず、石塚古墳へつながって行く気配がないからだ。
そして、石塚古墳につながるものとしてみられていた播磨の有年原突起付き円墳も、そののちには方墳へと変化して行き、前方後円型へは発展しないことが分かった。
つまり、吉備と石塚古墳をつなぐ証拠はなくなってきた、というのが現状。 >>481
>南九州も会稽より北だよ ダメだね <
上海も佐多岬も北緯はほぼ35度であり、
上海から九州は、「東〜東北東」の間であり、「ほぼ東」で合っている。
そして、会稽東治も、揚子江河口部の南北両側だから、「大体」の範囲。 >>489
「南→東」などの嘘つき騙しを指摘され、反論が出来ず、
罵るだけになるのは、論破された大和説者。 >>490
>纏向のような場所にヒミコはいない。 正しくは「高天原(葛城)の大和」<
「南≠東」などに拠って、×。 ここはザラコクが日々古田尊師のお題目を唱え続けるサティアン道場 >>94
違うだろ。
纏向の建設は2世紀末頃から。
3世紀前半初頭は、石塚古墳の築造時期。 >>281
先輩の森浩一さんや上田正昭さんが言ってた先代旧事本紀の重要性を無視した学者のなれの果てが寺沢。
瀬戸内集団を引き連れて大和入りしたニギハヤヒという名前を出すのが恥ずかしいのかな。 >寺澤は、吉備から東遷したのが卑弥呼の勢力で、
吉備から東遷したのはニギハヤヒ。
筑紫の物部、播磨の物部、讃岐の三野物部などを引き連れて(天神本紀)
不思議なことに「吉備の物部」とは書かれてない。
吉備こそ物部の本家であったからだろう。
だいたいニギハヤヒが神武に屈した場所は桜井の外山(とび)あたり。
桜井の纏向こそ物部の奥津城だと分かりそうなものなのに。 >>508
>井田法とか知らんのか?<
井田法でも、1里位の枠内の話だから、「里」は集落単位であり、
9区分するんだから、一辺は3分の1の25.5mであり、
独りで耕す面積が25.5m四方になり、
ちっともおかしくないぞ。
1里≒76.5mであってもおかしくないよ。 >>127アホなやっちゃな。
この纏向連合成立について魏志倭人伝が書いたのが、女王国東渡海して千余里のところに倭種の国々がある、という特記。
女王国は筑紫にあるの。
その東にあるのが大和、近江、尾張、吉備、北陸、東海の連合じゃ。
この纏向連合が卑弥呼の倭國を潰して、大和独走体制をつくる。
ただし、九州王朝はないからな。 >>521
「南→東」などの嘘つき騙しで幾ら誤魔化しても、
大和説は破綻だ。 >>965 (前スレ)
>詔書を出した皇帝名は「明帝」の名前しか存在しないし、
>その明帝は景初二年12月に詔書をだしているから、
>景初二年12月以前の鏡しか「銅鏡百枚」にならないし、
>明帝は景初三年元旦に亡くなったから、景初3年は祝賀的な行事は控えるもの。
魏志倭人伝に「明帝」という文字はありませんよ
《通史》には「明帝詔」がありますが「魏景初三年」です
外交は祝賀的な行事ではありませんね
詔書を一年も放置したとしたら、それこそ斬首でしょう >>290
>桜井の纏向こそ物部の奥津城だと分かりそうなものなのに。
その「物部の奥津城」に見合う弥生集落がないんじゃ、話にならないんだよ。 @阿波 >>524
「会稽東治之東」→「会稽東冶の東」の誤魔化をしてるを大和説者は、
素直でない 。 筑紫の1000里東って75kmなのか400kmなのかどっちよ >>726
素直と言うより近視眼的。
九州で、大和より大きな国は「邪馬壹國女王之所都」だ、
と認められないのは、大和説の愚か者。 >>527
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は、「誤魔化しなので、素直でない」、
という証拠を出しました。 >>530
「北東から東南の間でいいんだから、会稽東治之東と書いちゃおー」
だったら筆者は正確な推論だ。
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者は、陳寿や九州説みたいな筆者ではないので、
大和説はマチガイでOK。 >>292
魏志倭人伝には筑紫辺りの次の記述に水行して投馬国、そして邪馬台国に至るとあるぞ >>533
長里が率直て?。
存在もしない「畿内」や、
「南→東」などの嘘つきだましの大和説が、清純な乙女て?。
客引きババアが清純なら、長里も清純だわ。 >>535
>「会稽東冶の東」<
魏志は、「計其道里、當在會稽東治之東」だから×。 >>558
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者は、
古代史も、宗教や小説のようなお遊びだし。 >>561
「南→東」のウソや、日本史捏造にとどまらず、
「歩という漢字の発生」まで捏造する大和説は、殺人戦争詐欺師だから、
怖れるべし。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>564
「南→東」などの嘘つき騙しの、この粘着偏執荒らしの大和説ガキ共は、
「援交買っただけ」とネットで拡散する強姦魔みたいな、
品性下劣厚顔無恥の悪党だな。 >>246
河内や播磨の墓制と大和、木津川、近江の墓制は異なる。
近江と尾張は文化的に強いつながりがある。
纏向連合の中核は、大和、近江、尾張。 >>273
庄内までは吉備の物部さん主役やな?
布留期に近江から東海に拡大してた人らと合体(宗像なのか和邇なのか?? >>290
>吉備こそ物部の本家であったからだろう。
これって、何が根拠なの?
>だいたいニギハヤヒが神武に屈した場所は桜井の外山(とび)あたり。
登美の地名は何箇所かあるよ。 前方後円墳の前に前方後方墳あり(帆立貝の始原はお話し別 >>570
お前さんがどう言おうが、周朝も魏朝も西晋朝でも、「歩」は「1足底」長だよ。
「オウム返しされ」は何も論証<もなかったアホという証拠。
東周銅尺のような考古遺物の実物サイズも、「尺寸」系は殆ど変化をしていないから×。
律暦志のような後代史書に書かれても、自己解釈での書き換えでは証拠にならない。
実際の歩の例などの根拠を示して、それらが全て一歩≒25.5センチ≒1尺を示している。
1歩=足底長は、文字構成要素での実態。
周朝を倒した秦は、周代には周朝とは違った「歩」の寸法を持っていて、
だから、始皇帝は、「1歩=6尺」なんて変な命令を出した。
この辺りの知識のなさも致命的。
始皇帝の統一前には周朝は既に統治しておらず、
そのため戦国の各国が変乱法度をそれぞれに作っていた 。
先の東周銅尺は戦国時代の遺物で周朝の尺より少し長いが、
「里歩」系度量衡と違って、「尺寸」系度量衡は、殆ど変わっていない。
そして一歩≒一尺は、周朝の身体尺の時代と同じ換算を維持している。 ニギハヤヒと神武は、互いに同族であることを確認して和睦したという感じだな。
本来の大和の支配者は、前方後円墳を完成させた物部氏(ニギハヤヒ)なのであろう。 つうか皆さんアホ曝しお爺ちゃんのスレあらしたるな?
鴨せんせーのスレのが話しが深い(深すぎて絡みづらい 何々部とか、何やら神だとか
そんな話は聞いたこともない、
そろそろ頭の病院に行けと言っているんだよ
ホンモノは、
そういう事は気にしていないんだよ >>571
>>始皇帝の「1歩=6尺」は、2足以上歩かないと成立しないから、
漢代以後には、民間では、「歩く」意味に変質してしまい、
魏西晋朝の訂正変更も効無く、現在に至ってしまったんだよ。<
>「步」は象形文字の時代から意味は「歩く」だよ<
象形文字の「足底二つ」は、2個の「止」を前後にくっつけたために、
止まっている状態に変わってしまったんだよ。
この男の「複歩」説明で納得する人間がいたら、バカ以外の何者でもないな。 >>573
つまり「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者に特有の珍解釈で、
相手を誹謗罵倒するのね。
・・・・は怖い怖い。 長髄彦の別名は登美彦。
登美はもともと長髄彦ら鴨主の土地だったが、天孫である饒速日がやって来て君臨し、長髄彦の妹のところに入り婿した(妻問婚の時代なので)。 >>吉備こそ物部の本家であったからだろう。
>これって、何が根拠なの?
吉備の楯築遺跡にみられる双方中円墳が纏向の櫛山古墳に受つがれる。
崇神墓で間違いない行灯山古墳の隣だ。
崇神の母系は物部。
通い婚の時代は母親の実家が子供を育てるわけで、
崇神の母のイカガノシコメが纏向にいた証拠。
纏向遺跡は物部の遺跡なのである。 >>309
どっちが粘着偏執荒らしだよ
そもそも頼んでもないのに畿内説スレに突撃してくる九州説こそ荒らしだろ 大和へ侵入した外来勢力を年代順に並べると、三島溝杭耳や長髄彦などの鴨族、饒速日らの物部氏、次いで神武らの天孫族ということになるのだろう。
すでに河内など沿岸部は開発が進み余裕が無くなっており、開拓の遅れていた奈良盆地に各勢力が流入したということだ。
神武の世代において、大和の実質的な支配者は饒速日であり、纒向は饒速日の宮、箸墓などの前方後円墳はそれに続く物部氏の墓制。 わえも最近まで物部さんが吉備から来たのはわからんかった
凡人には理解できんやろなー(優しい目 物部の家にいた崇神の墓が前方後円墳であるのは当然と。
記紀は男系重視で書くから天皇家の連続性を強調するが、実態は物部氏の女系継承政権だった可能性もあるのか。
少なくとも、天皇家が物部氏より下であったという根拠はない。
物部氏もアマテラスの直系であり、饒速日は先代旧事本紀における称号は天照国照(天照の海と大国主の陸を統合した王)だから、これはもう大王に等しい名前だ。 >>575
>横だが、どの解釈が正解なんてわからないよ 晋書は倭は七万戸の解釈みたいだし<
晋書も、はるか後代の唐代成立だから、他の唐代史書などと同じように、
「前史の自己解釈に拠る前史の書き換え」がいくつもあるから、
その部分は信頼性がなく、×なんだよ。
>つまり、邪馬台国=連合国=倭国の解釈だったか、<
邪馬台国なんて存在せず、嘘つき騙し文言であり、
そんな言葉を使ったこの投稿子も嘘つき騙しになってしまうんだよ。
>または倭人伝が戸数誇大表記だったか、だね<
ほら、また、この男(おそらく「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者)は、
魏志が、使節の往来記録もあって、同時代性や客観性や信頼性が非常に高い、
という事を隠して、倭人伝の表記を否定抹殺しようとしている。
>少なくとも晋書では倭国は十数万戸の国ではない<
晋書の7万戸の記載は、自己解釈に拠る書き換えである事になるから、×ね。 >>325
>大和へ侵入した外来勢力を年代順に並べると、三島溝杭耳や長髄彦などの鴨族
三島溝杭耳はヒメ(踏鞴五十鈴)の母方の祖父。
なんで大和に「侵入」せなならんのだ。
いい加減なことを言うな。 >>280
いんや。
これらの各地の勢力から等距離の位置を確保できるのは大和しかなく、大和は弥生後期にはすでに吉備、伊勢、近江、尾張と交易でつながっていて、連絡網の拠点として十分な立地だった。 >>331
>連絡網の拠点として十分な立地だった。
だが、それに見合う十分な集落はなかったというお粗末。 @阿波 >>580
>テーマ日本史じゃないけど、邪馬台国から進まないのはなぜだろうね。
歴史家や文献は多いけど、日本史を生涯有意義にするには、時代時代の掘り下げるテーマを
時代にしばらせず、連関していって、研究する必要性を感じる。<
それ以前の問題として、「邪馬台国」なんて存在もしない嘘つき騙し文言。
キミは、そんな嘘吐き騙しの文言を使っていちゃ、
「学術」に違反してしまっている、という事も分かっていない。
自然や歴史における「学術」とは、知り得て存在確認が取れた事実を否定曲解しては、
成立しないのであり、
否定曲解するのは、分裂幻覚の妄想の病気や小説や宗教になってしまうんだよ。 >>581
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は、
宗教や疑似科学と同じ。 泡は纒向と奈良盆地に区別がついてないだろ?
いつもトンチンカンだ >>330
三島溝杭耳は大山祇の息子で、博多湾沿岸から瀬戸内ルートで伊予(大三島神社がある)を経て畿内を開拓した。
それ以前の畿内の主は不明。
物部氏の祖は博多湾沿岸から瀬戸内ルートで吉備を経由して畿内に来た。
神武は瀬戸内ルートで安芸と吉備を経由して畿内に来た。
出雲の大国主時代は、縄文以来の日本海ルートが倭国の枢軸だったが、この頃から明確に瀬戸内ルートが主力になったように見える。 >>335
>泡は纒向と奈良盆地に区別がついてないだろ?
だが、纏向にそれに見合う十分な集落はなかったというお粗末。 @阿波 >>591
>台与没後、邪馬台国に代わり倭王となった伊都国王が東遷して筑紫を大和を合併し、
大和朝廷が成立したことを示している。<
台予も邪馬台国も大和朝廷もなかったから、×だし、
「南→東」などの嘘吐き騙しに拠っても、×。 >>331
内陸に残った空白地帯が奈良盆地であり、よく言えば開拓のフロンティアだったんだよ。
悪く言えば後進地域。 饒速日と神武は、後からやって来て土地を欲しがったので、もともと畿内を開拓して来た鴨一族の長である登美の長髄彦は「どうしてまた天神の子が来て土地を奪うのか」と怒って戦いとなった。 テンプレを論破した子どもには景品がもらえます
簡単すぎかな >>290
物部が布留の地に入ったのは、6世紀前半頃。
その頃に石上神社が創祀されたようだ。
それ以前は、物部がどこにいたか不明だ。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>593
>桜丼市教委は、「輪鐙(馬具)は四世紀初めに周濠に投棄されたと推定され、
国内最古の馬具である可能性が高い」と発表してる。
公的な見解は、馬具は、周濠に投げ捨てられた(落とした?)ものだ。<
桜井市教育委員会が、何故「推定の公的見解」なんて出す必要があるんだい?。
まあ、大和説という宗教思想にクルっているんだろうなあ。
>箸墓とは直接関係ない。残念だったな><
箸墓は、何度も言うように、ホケノの「庄内〜布留」の後だから、
4世紀以降。 ちなみに饒速日は天照の孫でイザナギの3世孫、神武は天照の4世孫でイザナギの5世孫。
長髄彦は天照の家系ではないが、イザナギの5世孫(大山祇がイザナギの孫なので)。 >>342
記紀と先代旧事本紀を読むように。
饒速日は天照の孫の一人。
倭国の中心であった筑紫の天孫族の視点で書かれた記紀には、東に行った饒速日が王国を打ち立てているという話を聞きつけ、筑紫を出発した。 >>342
>それ以前は、物部がどこにいたか不明だ。
倭国(阿波)の「忌部の郷」に居たのは明らか。 @阿波 しっかしみんな物語好きだな
実在したかどうかさえ不明な人物の話を長々と語って >>600
>「當在稽東治之東」 「當」っていう字が入ってるから
倭人伝の作者は、邪馬台国は会稽の真東(沖縄県あたり)にあることを強調してる<
邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
沖縄は、会稽東治之東ではなく、東治(揚子江河口部付近)のほぼ東南であるから、×。 >>337
>だが、纏向にそれに見合う十分な集落はなかったというお粗末。 @阿波
だからそんなに自分の無知をさらさなくていいんだってw
纒向は新造の都なんだから、建設開始以前には集落はないさ
纒向近くの拠点集落としては芝遺跡があるし、纒向川を下っていったところには
奈良盆地の中心拠点集落の唐古鍵遺跡がある そういえば、先代旧事本紀には尾張のことも載っていたな。
纒向で見つかった外来の土器は大半が尾張のものだから、考古学的にも纒向が物部一族の遺跡ということでいいようだ。
なるほど。 >>348
いやいや、くだらない里程も相当好きなようだ。 @阿波 >>349は九州説なの?
九州説が魏晋里を採用したらそれで終わりだよ? >>351
>纒向は新造の都なんだから、建設開始以前には集落はないさ
だが、建設後の纏向にそれに見合う十分な集落はなかったというお粗末。 @阿波 >>602
>なぜ倭人伝の作者は、邪馬台国は会稽の真東(沖縄県あたり)にあることを強調したのか。<
邪馬台国なんて存在もしないから×であるし、
「会稽の真東(沖縄県あたり)」も「ほぼ東南」であるから、×。
>1、純粋に邪馬台国のある場所を知らなかった。
2、呉(魏の敵国)の真東に邪馬台国(呉の同盟国)があるということにしたかった
おそらく2だろうな<
邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙しであるし、
倭国は呉の同盟国でもない。 >>302
それは、中国人が伝統的に考えてきた神仙郷。
その神仙郷にあるのが倭人の国だと観念されたのは、奴国が後漢に朝貢してから。
その次が倭人伝の卑弥呼の邪馬台国。
皆、中国人の観念。
実際の卑弥呼の宮室は、北部九州筑後の山門。 >>603
>延喜式祝詞には、 皇御孫之命は、【天】之御蔭 【日】之御蔭と【隠】坐てとある
同じく、坐摩神社の【井戸】の神々は、皇御孫之命にお仕えして、
【天】之御蔭、【日】之御蔭と【隠れていた】とある
また道饗祭の祝詞には、【クナト】が高天原で事を始めた皇御孫之命で、
【根の国底の国の侵略に抗った】と書かれている。
これが平安時代の朝廷の認識 どう見ても狗奴国の系譜 <
どう見ても狗奴國の系図ではないし、
この男も、分裂幻覚の妄想男の系図。 >>355
纏向は巨大な集落なんだが
知らないのか? >>604
>だいたい他の記述の「南」と「東南」だって45°の方位角の誤差を許容してるだろ?<
魏使らは8区分方向の記載分けをしており、45度の方位の誤差を許容しない。
>西南でなく東南でなければ南だし、 南でなく東でなければ東南なわけだから。
まぁ南は東にはならんけどな、<
了解。 >>359
>纏向は巨大な集落なんだが
では、竪穴住居跡は何棟? @阿波 >>605
>会稽の真東(現在の沖縄あたり)の沖合に、
南北に細長い三日月みたいな形をした倭列島があり、
魏がそれ取り込むことで、呉の孫氏を挟み討ちにできると考えたのだろう。
「水行十日陸行一月」の記述は、
まさにその希望的観測 魏→呉←)倭 の現われだろう。<
「会稽の真東(現在の沖縄あたり)の沖合に、南北に細長い三日月みたいな形をした倭列島」
という所が、始めから×。 >>357
しかし現実には畿内大和から卑弥呼の遣使した年度の年号入りの魏鏡が出るし
集権的な統治者の存在を伺わせる前方後円墳も畿内
これは九州には存在しないし
やはり邪馬台国は畿内であって吸収から船出した先にあるという事では >>332
弥生後期までは伊勢東海も、吉備播磨も、唐古鍵の製品買いにやってきていた。
唐古が大和の中核拠点。
終末期になって纏向をその中核拠点として新造した。
だから、物流の拠点としての機能も維持し、大市という交易所も造った。 >>608
>魏の地理認識としては、倭地(九州島)とは
「北部九州〜沖縄まで陸続きの、南北に細長〜い島」ということだ。<
魏使らの地理認識は、郡から七千余里で狗邪韓国であり、
狗邪韓国から女王國までが5千余里だ、という認識だ。 >>364
>終末期になって纏向をその中核拠点として新造した。
>だから、物流の拠点としての機能も維持し、大市という交易所も造った。
だが、建設後の纏向にそれに見合う十分な集落はなかったというお粗末。 @阿波 >>347
それなら、纏向の建設に参加してなかった。 >>350
沖縄本島は、福州市あたりの沖。
東冶の沖。
揚子江の河口の東は、屋久島あたり。
会稽東治(冶)の東は、屋久島から沖縄本島までの間。
そこが邪馬台国。
大国だった、という中国人の観念。 >>354
終わりなのは、短里屋。
魏晋里派は健在。 【筑紫を中心とする倭国の交易路】
もともと日本海ルートが倭国の交易の主力だった。出雲が諏訪や武蔵(大宮)に進出した。
瀬戸内ルートは三島溝杭耳(伊予・摂津の三島の神、京の鴨主)、饒速日(吉備から京籠神社へ、子孫は尾張に進出)、神武(安芸、吉備を経由)らが開拓し、畿内の発展につながった。
4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備され、瀬戸内ルートが完成した。
筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父→武蔵
↓ ↓
↓ 近江三上祝→尾張→登美・纏向
↓
宇佐→安芸・伊予→阿波・吉備→淡路島→摂津
【九州北部勢力による倭国の拡大】
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入
1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入
2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→畿内から庄内式土器が博多湾へ流入
3世紀に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入 >>355
芝遺跡に関連した人民の集落などもまだ未発見。
纏向遺跡も同じ。
人民が住んだ集落は未発見。
それだけの話。 >>363
女王国から東へ船出して着いたところが、倭種の国=大和。 >>373
発見しないうちから畿内説なんて唱えちゃうんだもんな。
おめでたいよ。 神武も倭国の王都である筑紫の日向を船出して、東にあるという饒速日の王国を目指した。 >>372
トピ主が、論客になって出てきたか。
2世紀末に畿内から庄内式土器が博多湾へ流入は、間違い。
それが起こったのは、3世紀中頃のこと。
3世紀後半には筑前型庄内甕が北部九州に広がった。 >>375
正統九州説は、大勢いる。
短里屋は少数派。
古田の本読んで感動した者らが、古田が東北の偽書にからんで評判落として、それから古田を詐欺師と呼ぶようになった。
短里は、古代史の遊びと心得ていたらよい。 >>376
短里屋と大和屋は、似たようなもの。
どっちも、遊び。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 そもそも揚子江河口部付近が東冶だなんてのが
古田説特有の真っ赤なウソだからな 一時期?数十年、数百年くらい?
そっちのほうに住んでいて、帰ってきた・・・・日本昔話みたいな話 畿内説の
捨て駒
>>1ガンバレ
「歩」が「と金」になるかもしれん 三角縁神獣鏡の銘文
京都産業大学の森博達教授の三角縁神獣鏡の銘文についての研究を紹介する。
そもそも魏の時代は、曹操父子を中心として詩壇が形成され、「建安詩」「正始詩」の時代として
文学史上高く評価されている。詩は銘と同じく韻文であり、音韻の知識も深まっていた。
卑弥呼を親魏倭王に任命した景初三年は、まさにこのような詩文隆盛の時代である。
そのとき明帝(曹操の孫)は卑弥呼に銅鏡百枚などを賜わり、次のように詔した。
「これらすべ てを汝の国内の者たちに示し、わが国家が汝をいとおしく思っていることを知らしめよ。
それゆえに鄭重に汝に良き物を賜与するのである」
この荘重な詔書とともに、「景初三年」銘の三角縁神獣鏡が下賜されたと、魏鏡論者は主張する。
魏の 詩人がこの三角縁神獣鏡の銘文を見れぱ、押韻の意識すら持たない拙劣さをあざ笑うだろう。
「朕はアホなり」と言うに等しい銘文である。
親魏倭王のみならず、皇帝自身の権威にも傷がつく。
こんな銘文をもつ鏡を特鋳して賜わるはずがない。 三角縁神獣鏡魏朝特鋳説は幻想だ。
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/innritu.htm 纒向 箸墓のどんちゃん騒ぎも終わりに近づいているなww 纒向 箸墓を邪馬台国と結び付けようとしたところに誤りがある
寺澤さんの主張も邪馬台国から離れ初期ヤマト政権説に傾注 >>609
>「當」という字が入ると真東に近いニュアンスになる。
他の記述の「南」や「東南」には「當」の字は使われてないだろ <
「當」は、「当たるべき」であり、推定である事を示す。 >>614
>だから「まさに」って強調してるんだから、真東ってことだろう。
だいたい東って意味なら、会稽じゃなくもっと大都市を書くよ。
わざわざ会稽と書いてるのは 会稽の真東を強調したいから以外に理由がない<
会稽≠会稽東治。
会稽の東の治域は会稽よりも広い。
おそらく、揚子江河口部の南北であり、江蘇省も含む地域であり、
九州島に、ほぼ真東に正対している。 >>615
>(當)そういう意味もあるってことだから、
他の解釈がウソつきなんてことはないってことだね。<
沖縄では、会稽東治之東に、全くかすめない。 伊都は千戸で王都にしては人口が少ないとか言われるのに、纒向はもっと少なそうだな。 >>617
>「當在稽東治之東」 この文は、魏志倭人伝に書かれてる方角の中で最も重要
結論として邪馬台国は【まさに会稽の東】にあると書いてるわけ。
真東じゃなく、だいたい東って解釈するほうがおかしいよ<
陳寿は「計其道里、當在會稽東治之東」と書いており、
「計其道里、當在・・・」で、女王國(≒倭国)の位置推定をしており、
「當在」=「まさに在るべし」で「位置推定」をしており、
「会稽東治」で古代から知られていた会稽地域の東の治地域を位置推定の基準にしており、
揚子江河口の南北地域を指定しており、江蘇省も含む事になり、
その「揚子江河口の南北地域の東」に、確かに九州島はすっぽり入る。 >>656
会稽東治の東を指摘されて
明らかに大和説が困りきって
スレ流しをしてるな >>663
>駅が帯方郡 コンビニが北部九州 図書館が邪馬台国
北部九州までが距離表記 邪馬台国までが時間表記 <
大和説者は、
邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙しだし、
「南≠東」にも違反している。 >>665
文献も考古も、大和説はメチャクチャだ。 >>668
また大和説学者らが論破されて、
その弟子たちのヘイトスピーチ係が呟きモードに入りました。。。 >>673
>正しくは東北東と東南東の間の方位角45°な。
もう一度地図を見てみてください。<
正しくは「揚子江河口の南北地域のほぼ東」な。
もう一度地図を見てみてください。 >>674
それは、「南≠東」などの嘘吐き騙しと、どろぼう大和王朝説。 交通の要衝で集落跡が何故ない???
⇓
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。
この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、
初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。
乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。 >>678
>>中国大陸や北部九州との交流の痕跡がほとんど出土しない纏向遺跡が<
>邪馬台国7万戸は、大和+河内〜環大阪湾の範囲であり、<
邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙し文言であり、
「大和+河内〜環大阪湾」は、「南≠東」に拠っても、×。
>その中の中心地大和の音訳で邪馬台国と記録されているだけ<
「大和の音訳が邪馬台国」」も、邪馬台国なんて存在もしないから×。
>纒向遺跡はその中心の宮室と祭祀のための場所<
纏向に宮室建築は発見されなかった事からも、×。 >>680
>その九州説では水行の起点はどこになるの?<
投馬國への水行の起点は不彌國。
女王之所都への「水行十日陸行一月」の起点は「郡」。 >>682
纏向説も大和説もお亡くなりです
アーメン >>385
>一般人の住居なんて別に必要ないだろ
一般人????誰 弥生時代の代表的な遺跡として、歴史の教科書にも登場する「吉野ヶ里遺跡」。
今では「吉野ヶ里歴史公園」として整備され、古代の暮らしを見て、感じて、体験できるスポットになっています。
ここに邪馬台国はあったの?卑弥呼はいたの?
歴史のロマンに駆り立てられ、多くの観光客が全国各地から訪れています。 >>697
>鎮魂歌 卑弥呼→台与の頃を歌ったものだろうか?
邪馬台国、初期のヤマト政権は、石器作りや狩猟を生業にしていた勢力が主体だったことが窺える・・・<
台与も邪馬台国も存在しないから、この男も×。 >>699
妄想連呼で荒らしているのは、
纏向=邪馬台国チョンボと、どろぼう大和説偽書の会。
お笑いが、「南→東」の、嘘つき騙しの・・・・爺さん。 >>700
必死でニセ情報を流しまくる敗者、大和説 >>711
>このようにトンデモ説は考古学的な層位分析を完全に無視。<
このように、
「南→東」などの嘘吐き騙しの文部省や右翼マスコミや、
皇国史観、という結論先にありきの学会などに、
完全に飼いならされて狂った考古学学徒の報告では、
全く信頼性も価値もない。 >>713
畿内説なんて存在もしない説の研究者って、
嘘吐き騙しの・・・・素人です。
w >>714
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は、
必死で抵抗。 >>717
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説考古学者たちの判断に、
素人でも「考古学的にマチガイ」とか文句を付ける事が出来る喜劇的状況が 、
昨今の、「女王之所都の倭国」談義 。 >>721
「南→東」などの嘘吐き騙しのように、
まったく理由を言わないのがトンデモ大和説だよ。
上司の意向を忖度して、最初から思考停止してる。 >>722
こういう「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説学徒の発言を見ると、
アンチ九州説の学会教育界の・・・・爺さんらが頭がおかしい、
としか思えないね。 >>318
>象形文字の「足底二つ」は、2個の「止」を前後にくっつけたために、
>止まっている状態に変わってしまったんだよ。
ではなぜ今「歩」は、「止まっている状態」を示す語ではなく
「歩く」という象形文字の時代から変わらない意味で使われているんだい?
ザラコクの言うことは矛盾だらけで、小学生の思いつき以下 >>359
>纏向は巨大な集落なんだが
これはウソでおk? @阿波 ◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するの不可解だ!
A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
ないよw >>381
>正統九州説は、大勢いる
どこに?
九州説にしようと思ったら、
水行の起点をごまかすとか
水行と陸行を重ねるとか
川の水行はありまーすとか
何かしらインチキごまかしをしないといけない
そのどこがまともか?
その前に現状の発掘成果、研究成果をきちんと把握してたら
まともな判断力のある人は九州説では居られない
現状では、新しい情報を見ない聞かない情弱か、
妄信系カルト気質の人しか九州説に残っていないよ >>427
水行を理解していないね
テンプレにも載っているが・・・・ 卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、殉葬者奴婢百餘人
殉葬者は生き埋めではない。
まつろわぬ者どもが誅された。
可哀想なので慰霊の意味を込めて王族と一緒の場所に埋め弔ったのであろう。
それが高天原の約150mの塚の周りの蜘蛛窟である。
https://goo.gl/maps/iwZmv3rL6112
そして今でも高天彦神社拝殿の左に小さな土蜘蛛塚もある。
https://omairi.club/img/pictures/posts/477/027/000/628d191c1692d889fb2b687b2d91da01.jpg?p=800&v=1502740679
高天彦神社に参拝するという行為は土蜘蛛の怨霊を鎮める事でもある。
卑弥呼(ヒミコ)=ヒメの時代、まつろわぬ者ども(土蜘蛛)を誅したのは日向から来た男・神武である。 >>423
>歩く・・・・訓読み
中国語でも意味は歩くだよ
1. 行走:〜兵。〜行(xíng )。徒〜。信〜。闲〜。固〜自封。望而却〜。
2. 踏着别人的足迹走,追随:〜韵。〜其后尘。〜武前贤。
3. 行走时两脚的距离:〜伐。〜测。寸〜难行。 >>428
>水行を理解していないね
>テンプレにも載っているが・・・・
実はテンプレは水行に関してはそこまで正確じゃない
水行は基本海の沿岸航行
ガンジス川とソンホン川の現在でも内陸航路に使われている、水行距離が
千里を超える大河で川の水行が記されている例があるのみ 纏向に徑百余歩の塚はない。
よしんば後円部だけを徑百余歩だと説明しても、
奴婢埋葬の痕跡もない。
高天原(御所市高天)には徑百余歩の塚があり、
奴婢埋葬の痕跡がある。
これはもう決定だろ。
太古からの神話を素直に受け止め、そこを注視したらば、いつか誰かが見つけたはず。
高天原神話など観念上の産物、あるわけがないなどと、
傲慢な現代知識人には見つけられない様になっていたのだ。 倭地は温暖にして、冬夏生菜を食す。
皆、徒跣。屋室有り。
父母、兄弟は異所に臥息す。
朱丹を以ってその身体に塗る。
中国の紛を用いるが如し。
会同、坐起では、父子、男女は別無し。人性は酒を嗜む。
男子は大小無く、皆、黥面文身す。
古より以来、その使中国に詣(いた)るや、皆、自ら大夫と称す。
夏后少康の子は会稽に封ぜられ、断髪文身して、以って蛟龍の害を避く。
今、倭の水人は沈没して魚、蛤を捕るを好み
文身は、亦、以って大魚、水禽を厭(はら)う。
後、稍に以って飾と為る。諸国の文身は各に異なり
或いは左し、或いは右し、或いは大に、或いは小に。尊卑差有り。
その道里を計るに、まさに会稽東冶(”現中国の浙江省”) の東に在るべし。
女王国の東、海を渡ること千余里。復(また)国有りて、皆、倭種ありや。
又、侏儒国有りて、その南に在り。人長は三、四尺。
女王を去ること四千余里。又、裸国、黒歯国有りて、復、その東南に在り。
船行一年にして至るべし
女王国より以北は、特に一大率を置き検察し、諸国はこれを畏憚す。
常に伊都国に治す。国中に於ける刺史の如く有り。
王が使を遣わし、京都、帯方郡、諸韓国に詣らす、及び郡が
倭国に使するに、皆、津に臨みて捜露す。
文書、賜遺の物を伝送し女王に詣らすに、差錯するを得ず。
「魏書」第30巻 『 魏志倭人伝 』 普平陽侯相 陳寿撰
神々からの日本最古の捏造教科書とされる古事記や日本書紀には記述されてないが
致密かつ高度な中華文明を生み出した古代中華帝国漢人官僚には正確に記述されてた
神々しい伝説の邪馬台国や女王卑弥呼、倭人達の倭国群は日本の何処にあったんだろう? >>432
>奴婢埋葬の痕跡がある。
これ、何のこと? >>373
>芝遺跡に関連した人民の集落などもまだ未発見。
>纏向遺跡も同じ。
>人民が住んだ集落は未発見。
発見してから「大遺跡」と名乗って欲しいですね。
広場に建物がぽつんと立っていて、それが大遺跡だと言い張っているだけ。
無人の王都なんて、王都ではない。 >>738
「南→東」などの嘘つき騙しで破綻したキョクウ戦争狂の大和説は、
しかたなく、今日もまた ひたすら、
ヘイトスピーチデマを流し続ける。 w >>435
なにをムチャクチャなこと言ってるんだ
そんなもんが有ろうが無かろうが
大きい遺跡だから「大遺跡」だろう
アタマ変なのか? >>435
「河内平野+大和盆地の人口を全部合わせて7万戸(35万人)。
纏向遺跡は、邪馬台国の墓域を管理するセレモニーホールと、各国の王からの貢ぎ物が集まった物流拠点(倉庫群)」
つまり、卑弥呼の宮殿ではないと自爆してしまった奇(な)説こと、畿内説(実年代を特定でき、大陸半島・北部九州との交流を示す銅鏡・刀剣類は全く出土せず)w
畿内説も、確実な卑弥呼の宮殿が見つかっていない、という点では九州説と全く同じレヴェルということだw 朝早くから、また、破綻した畿内説の宣伝係が、頭の悪さを公表しているな。。。
437 名前:日本@名無史さん 2018/10/30(火) 08:39:34.03
>>435
なにをムチャクチャなこと言ってるんだ
そんなもんが有ろうが無かろうが
大きい遺跡だから「大遺跡」だろう
アタマ変なのか? >>439
そうだね、多数の作製物が、同じ集落の人民が作製したことを証明しなくて良いのならば、タコ型古墳が出現した崇神天皇が、占領した大半の日本国領土が、一つの遺蹟になってしまうのにな。。。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 畿内説は、破綻してしまったのだから、このスレッドは、崇神天皇がなぜ高句麗のタコ型古墳を作製したのかを、討論するスレッドとして使用すれば、良いな。 なぜ、纏向遺蹟と名付けられた人民のいない遺蹟は、範囲が決定されたのだろうか。。。 >>443
観光関連の宣伝団体の、縄張りではないのかな。。。 商標登録という時点で、浅ましい思惑が透けて見えるよ。
纒向は学問ではない。 卑弥呼とは無関係の団子を、卑弥呼の遺族に無断で、商標登録してしまったのではないのかな。。。 商標登録ねえ??
つまりは墓地なんだから、誰も真似しようとは思わないだろう・・・。 纒向は顧みられず、過去のものとなっていくのだろう。 ttp://www.tokyo-np.co.jp/article/forum/list/CK2014092002000221.html
日本書紀をみると、王宮では崇神天皇が天照大神(あまてらすおおみかみ)の御霊代(みたましろ)を祭っていた。
天皇は御殿で「同床共殿(どうしょうきょうでん)」の祭祀(さいし)を行っていたが、神の霊威(れいい)を恐れて、宮内の大庭にホコラを建てて、大神(おおみかみ)のご神体である宝鏡をお納めした(神宮雑例集)。
これが建物Cである。それでもまだ恐れ多いので、垂仁天皇の時代に伊勢に社を造り、宝鏡をお移しした。
それが伊勢神宮であり、建物Cの復元形態は神宮の正殿と極めてよく似ている。
神明造(しんめいづくり)の形が倉庫と近いのは、王宮における建物Cが宝庫だったことによるのである。
ということで、纒向建物群は崇神天皇の磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)であり、倉庫から発展した伊勢神宮のモデルとなる、独立棟持柱を持つ建物が含まれていたということ。
卑弥呼とは関係ない。 泡や九州説の考えでは、住居跡が出ない限りは人がいなくて
無人の地で大古墳や、運河が作られるらしいよ?
ほとんど神の業だねw >>449
>纒向建物群は崇神天皇の磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)であり
磯城瑞籬宮はもっと南 >>449
日本書紀の伝える古代の宮殿建築そのものだってことだろ
飛躍して「卑弥呼と関係ない」と言う結論が出てくるような論理がない 人を追い出すのは大変だからね。
それでもただの農民ならどうにかできても
有力豪族でもいたら、戦争だからね。
平城京も人の少ない良地を探すのは
大変だったりだろうね。 >>451
物部氏の宮と言ってあるのと同じなのだから、構わないような気もする。
他に磯城瑞籬宮の明確な遺構はあるのかい? 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>785
>博多で庄内式土器が出るのは庄内2式段階のもので、<
柳田がついうっかり漏らしたのでは、三雲の庄内の方が博多の庄内よりも古いんだがなあ。
>その庄内式土器を博多の土で造った筑前型庄内甕がでるのは古留0式期なんだけどなあ。<
三雲の庄内も博多の庄内も、筑紫の胎土で造られた、という事になってきたはずなんだけどなあ。
>庄内2式は纏向3類と時期が同じで、実年代は250年〜270年頃。
この1の大和説者は、その庄内2式の時期を半世紀前倒しする古い年代観で論を張っている。<
祇園山からも庄内(土師器の古い方)が出ており、庄内何式?かは判らない。
また三雲の庄内も庄内何式か?が分からないが、当然纏向2類と思われ、卑弥呼の生存の頃(3世紀前半)になる。
>だから、高地性集落と倭國の乱を同定して、倭國の乱で成立した纏向政権は卑弥呼の政権だとしているわけ。
高地性集落と倭國の乱は時期がズレることはすでに通説となつていて、
倭國の乱の具体的証拠がみいだせなくなっているのが実態。
倭國の乱は、瀬戸内以東のことは含まれず、北部九州での出来事ととらえるのがよい。<
賛成です。
>そして、博多で庄内土器が出るのは250年頃で、筑前型庄内甕がでるのはそれ以降のこと。<
これは不賛成。庄内のような高温焼成技能が伝来するのは、筑紫の方が大和などの田舎より断然早い筈。
>大和の勢力が博多に入ったのは、卑弥呼死去の前後ということになる。<
これも×。大和に庄内が起こったのは石塚の頃であり、
筑紫→大和の伝播を考えて280年頃以後 >>456
>崇神天皇と卑弥呼は関係ないからな。
崇神天皇が魏志倭人伝の佐治国の男弟だよ
彦姫制のヒコ王 >>790
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者に特有の妄想だな。 >>457
>祇園山からも庄内(土師器の古い方)が出ており、庄内何式?かは判らない。
またデマ
九州説はデマ漬けだな >>450
>ほとんど神の業だねw
ほとんど「忌部はん」の業だねw @阿波 土器片年を100年早め、C14年代測定法を根拠に「箸墓の築造=3世紀中期」とし、纏向遺跡=邪馬台国と直接証拠もなく決めつけることで、成立したが畿内説。
しかし、C14年代測定法が最近、実年代より100年古く測定されることが明らかになって、
土器編年100年繰り上げ操作も馬脚を現し、橿原考古学研究所まで箸墓の築造年代はどんなに古く見積もっても280年以降とされ、
学問的には崩壊してしまった、関西のボケ老人限定の誤謬、畿内説www 似非学問を纏った関西ボケ老人限定の民間伝承、それが畿内説(都市伝説) >>793
「南→東」などの嘘つき騙しの、何も理由を言わないトンデモ大和説の老人が、
何も証拠も出戦争ないまま、
支離滅裂な妄想やヘイトスピーチに浸っているな。 >>796
「南→東」などの嘘つき騙しを言い張るだけがを大和説 。
理由は何も言わない 。 箸墓なんて大型古墳が初期の定型化なわけない。
3世紀に大型が登場してから5世紀などの中型や小型の前方後円墳がつくられた?
アホだろ。 驚いたな。。。
破綻してしまった畿内説の宣伝係が、追い詰められて、知識の足りないことと、頭の悪さを同時に公表してしまったな。。。
458日本@名無史さん2018/10/30(火) 10:19:39.87
>>456
>崇神天皇と卑弥呼は関係ないからな。
崇神天皇が魏志倭人伝の佐治国の男弟だよ
彦姫制のヒコ王 >>465
それこそがウソだろう
テンプレでちゃんと理由が掲載されてるのに >>467
そうだな、、、
僕も、驚いているよ。。。
破綻してしまった畿内説の宣伝係は、箸墓古墳に埋まっている、崇神天皇の祖父の妹を、崇神天皇の姉だと誤認し、更にその女性が卑弥呼でもあると誤認したのではないのかな。。。
458日本@名無史さん2018/10/30(火) 10:19:39.87
>>456
>崇神天皇と卑弥呼は関係ないからな。
崇神天皇が魏志倭人伝の佐治国の男弟だよ
彦姫制のヒコ王 >>462
そんなデマを平気で流してるから
九州説が信用を失って落ちぶれたのに
学習しない奴らだな >>812
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は、
情報の出所を絶対言わないから、
デマだとわかりやすいね。 (唐古鍵を征服した吉備勢力が主導したであろう、東海北陸までの)ヤマト(地方連合)王権は邪馬台国じゃないってことは、学界ではもう共通認識になっている
要するに、畿内説は関西ボケ老人のひとつ覚えであり、連呼絶叫に過ぎない >>813
>それ、誰が決めたの? また「世界の常識」? <
「南→東」などの嘘つき騙しの・・・・大和説者らには分からないような、
普通の人類の常識。 >>469
>崇神天皇の祖父の妹を、崇神天皇の姉だと誤認し、更にその女性が卑弥呼でもあると誤認したのではないのかな。。。
欠史八代の直系相続をそのまま信じる必要はない
古系図の研究家(宝賀寿男)は、豪族との世代数の比較で神武から崇神まで五世代としている
そして、孝霊と孝元が兄弟、開化と崇神が従兄弟とすると、世代数が合う
ここで、崇神を孝霊の末弟とすると、孝霊皇女の倭迹迹日百襲姫命は、3代前の天皇の皇女だが
崇神の姉ということになる
倭迹迹日百襲姫命の箸でホトを突いて亡くなった逸話は、
死ぬ直前まで妻問を受ける年齢だったことを示しており、
崇神朝で2世代前(祖母世代)の年齢ではないことを示している
倭迹迹日百襲姫命を卑弥呼、崇神を佐治国の男弟とするのは、それほど突飛ではない >>817
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者の、
殉葬説否定も、涙目… >>822
「南→東」などの嘘つき騙しのゴミような、
素人のようなような話が山のように出てくる大和説って、
切実な問題じゃないの?。 >>823
「南→東」などの嘘つき騙しのような、
そういう捏造体質が大和説のガン。 >>824
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は、
情報の出所を絶対言わないからデマだとわかりやすいね。
これ、決定打。 >>824
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は、
情報の出所を絶対言わないからデマだとわかりやすいね。
これ、決定打。 >>828
>>唯一最大の根拠である箸墓の築造年代を280〜320年とした橿考研に
完全に見放され、事実上畿内説は消滅した。<
>九州説は情報の出所を絶対言わないから デマだとわかりやすいね <
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は、
情報の出所を絶対言わないからデマだとわかりやすいね。
これ、決定打。 >>833
>テンプレに書いてあることを今更持ち出して
どうして畿内説がおしまいなんだ?<
テンプレも「南→東」などの史料事実の否定曲解のウソ付き騙しだし、
畿内なんて存在もしない嘘つき騙しであるから。
大和説ってやってると脳が病むのかな?。 >>835
>追祭祀も知らない無学がトンデモを言う それが九州説<
追祭祀を、前方部に更に段築してまでして実行する、なんて事がしない、
という事も判らないような無学のトンデモを言う。
それが「南→東」などの嘘つき騙しの大和説。 >>475
>倭迹迹日百襲姫命を卑弥呼、崇神を佐治国の男弟とするのは、それほど突飛ではない
突飛というか、こじつけだろ。
「それほど突飛ではない」はキナイコシが嘘をついてごまかす時の常套句だな。 >>846
「南→東」などの嘘つき騙しなどのように、
いっさい根拠を出さない大和説 。 箸墓は3世紀末〜4世紀の初頭(280年〜320年)に、「当初から」前方後円墳として設計築造された。
仮にこの古墳が卑弥呼(〜248年)の墓とすれば「径百歩余(150m)」じゃなく、「径二百歩(290m)」と書かれなければおかしい。 >>849
「南→東」などの嘘つき騙しなどのように、
いっさい根拠を出さない大和説 。 >>851
「南→東」などの嘘つき騙しの作り話と中傷だけでは、
大和説は息を吹き返さないよ 藁)。 >>851
「南→東」などの嘘つき騙しの作り話と中傷だけでは、
大和説は息を吹き返さないよ 藁)。 >>486
このような結論だけの断定を
なにも証拠なく、ただ言い張る
それが九州説 魏志倭人伝の記述「卑弥呼以死大作冢、径百歩余(150m)」に続き、橿考研にまで突き放された畿内説、哀れよのう〜 「卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩 殉葬者奴婢百餘人」
ちなみに箸墓に殉葬の痕跡は出土しているのでしょうか? つまり、畿内説は、天皇家が公式発表した、日本書紀も偽造しなければ、成立しない説だったのだな。。。
475日本@名無史さん2018/10/30(火) 11:43:32.65
>>469
>崇神天皇の祖父の妹を、崇神天皇の姉だと誤認し、更にその女性が卑弥呼でもあると誤認したのではないのかな。。。
欠史八代の直系相続をそのまま信じる必要はない
古系図の研究家(宝賀寿男)は、豪族との世代数の比較で神武から崇神まで五世代としている
そして、孝霊と孝元が兄弟、開化と崇神が従兄弟とすると、世代数が合う
ここで、崇神を孝霊の末弟とすると、孝霊皇女の倭迹迹日百襲姫命は、3代前の天皇の皇女だが
崇神の姉ということになる >>494
崇神を孝霊の末弟とするということは、孝霊天皇の父親がひ孫の奥さんを寝取ったことになるので、破綻した畿内説の宣伝係の発表は、天皇家に対して礼儀が悪いのではないのかな、、、 >>495
ひ孫の奥さんを、寝取るということは体力が不足してしまう可能性が、高いので、失敗するのではないのかな、、、 >>495
畿内説は天皇崇拝の皇国主義者じゃないからね
学問と政治思想は関係ない
九州説は皇国主義が創った政治思想みたいだけどね この文章は、日本書紀の内容を誤認しているだけではなく、文章内で矛盾している可能性が高いな。。。
475日本@名無史さん2018/10/30(火) 11:43:32.65
、、、、
ここで、崇神を孝霊の末弟とすると、孝霊皇女の倭迹迹日百襲姫命は、3代前の天皇の皇女だが
崇神の姉ということになる 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 記紀を論じたらなんでも皇国史観だというのは短絡的だ。 >>499
破綻した畿内説の宣伝係が、論破されて、発狂して作製した文章だから、真面目に受け取る必要がないな。。。
475日本@名無史さん2018/10/30(火) 11:43:32.65
、、、、
ここで、崇神を孝霊の末弟とすると、孝霊皇女の倭迹迹日百襲姫命は、3代前の天皇の皇女だが
崇神の姉ということになる >>501
>記紀を論じたらなんでも皇国史観だというのは
記紀を論じることではなくて
「破綻した畿内説の宣伝係の発表は、天皇家に対して礼儀が悪いのではないのかな、、、」
とか
「畿内説は、天皇家が公式発表した、日本書紀も偽造しなければ、成立しない説だったのだな。。。 」
とか言うのが
皇国主義だな
残念だったね九州説 >>91
纏向学研究センターの寺沢薫氏の立場としては、まず箸墓や纏向遺跡の調査結果から、ヤマト王権の形成時期・過程を明らかにし、
魏志倭人伝「邪馬台国」の直接的な証拠(金印「親魏倭王」)が出てきた時点で確定しましょう、ということだろう。
しかし、肝心要の箸墓が、魏志倭人伝の記述「卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩(長里で150m、短里で30m) 殉葬者奴婢百餘人」 と、
最初からいきなり矛盾している上、頼みの綱だった築造年代も、橿原考古学研究所によって280年代以降と、卑弥呼の没後30年以上経ってからという決定的な矛盾が露呈し、
纏向勝山やホケノ山に比定し直している最中。
よって現在、まともな研究者は、畿内説から距離を置いているのは当然の帰結だろう。 >>486
このように
なにも根拠を言わず断定するのが
九州説
学問として死んでいる 破綻した畿内説の宣伝係が、論破されて、発狂したので、皇国史観という魏志倭人伝時代の討論とは無関係で、討論会には存在しない思想を相手に、一人で戦っているな。。。
503日本@名無史さん2018/10/30(火) 13:18:48.40
>>501
>記紀を論じたらなんでも皇国史観だというのは
記紀を論じることではなくて
「破綻した畿内説の宣伝係の発表は、天皇家に対して礼儀が悪いのではないのかな、、、」
とか
「畿内説は、天皇家が公式発表した、日本書紀も偽造しなければ、成立しない説だったのだな。。。 」
とか言うのが
皇国主義だな
残念だったね九州説 そもそも大和が倭国の中心でなくてはならぬという思い込みが皇国史観だよね。
前世紀の亡霊だよ。 >>506
破綻した畿内説の宣伝係は、皇国史観というものを、本当はあまり知らない可能性が高いな。。。 勝手に定義を変えるのも九州説の特徴
そうやって世間常識と離れていった
そうして滅んだ 九州説の創作者が皇国主義者だったのは歴史的事実だよ
そして戦前の官学も九州説で、畿内説は不敬者よばわりされてきた
今さら畿内説を皇国史観呼ばわりするなんて
捕まった泥棒が警備員を泥棒呼ばわりするようなもんだよ
九州説はデタラメすぎる 勝手に魏志倭人伝や日本書紀を変換して、読んでいた、破綻した畿内説の宣伝係が、論破されたので、また嘘を言い放っているのではないのかな。。。
509日本@名無史さん2018/10/30(火) 13:29:07.07
勝手に定義を変えるのも九州説の特徴
そうやって世間常識と離れていった
そうして滅んだ >>511
そうだね、、、、
畿内説が、全国からだけではなく、巻向駅の近所の住民からも、嘲られ笑われているので、焦りが高まって、嘘を言い放った可能性が高いな。。。
509日本@名無史さん2018/10/30(火) 13:29:07.07
勝手に定義を変えるのも九州説の特徴
そうやって世間常識と離れていった
そうして滅んだ 破綻した畿内説の宣伝係が、論破されたので、反論するための脳の活動を停止して、発狂して、嘘だ嘘だの繰り返しだけになってきたな。。。
512日本@名無史さん2018/10/30(火) 13:37:15.14
嘘ばかりつくから九州説は終わった
514日本@名無史さん2018/10/30(火) 13:41:18.52
嘘しかつけない九州説
515日本@名無史さん2018/10/30(火) 13:43:36.65
>>504のように、九州説はひたすらウソをつく 嘘をついたら世間から信用されなくなるって
こんな当然のことも分からなくなってるのかな
九州説は 三角縁神獣鏡の銘文
京都産業大学の森博達教授の三角縁神獣鏡の銘文についての研究を紹介する。
そもそも魏の時代は、曹操父子を中心として詩壇が形成され、「建安詩」「正始詩」の時代として
文学史上高く評価されている。詩は銘と同じく韻文であり、音韻の知識も深まっていた。
卑弥呼を親魏倭王に任命した景初三年は、まさにこのような詩文隆盛の時代である。
そのとき明帝(曹操の孫)は卑弥呼に銅鏡百枚などを賜わり、次のように詔した。
「これらすべ てを汝の国内の者たちに示し、わが国家が汝をいとおしく思っていることを知らしめよ。
それゆえに鄭重に汝に良き物を賜与するのである」
この荘重な詔書とともに、「景初三年」銘の三角縁神獣鏡が下賜されたと、魏鏡論者は主張する。
魏の 詩人がこの三角縁神獣鏡の銘文を見れぱ、押韻の意識すら持たない拙劣さをあざ笑うだろう。
「朕はアホなり」と言うに等しい銘文である。
親魏倭王のみならず、皇帝自身の権威にも傷がつく。
こんな銘文をもつ鏡を特鋳して賜わるはずがない。 三角縁神獣鏡魏朝特鋳説は幻想だ。
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/innritu.htm 奈良県民と一緒にしないでくれ 大阪府民より
京都にも馬鹿にされている奈良・・これは県民ショーで聞いた 嘘をついて、破綻した畿内説の宣伝係が、論破された後に、正しいことを呟いたな。。。
519日本@名無史さん2018/10/30(火) 13:53:49.22
>>516
ウソをついたら他人を論破は出来ないよ 纏向学研究センターと橿原考古学研究所というものが、あるのではないのかな。。。 >>524
両方とも奈良県の地方自治体の組織じゃないのかな >>524
奈良の古代遺蹟の製作時期を主導的に検査し、偽造を実行したので逮捕された人物や、税金で購入した備品や税金で雇用した係員を私的に使用した人物は、どちらかの係員だったのだろうか。。。 >>457
三雲の庄内式の甕は、いわゆる筑前型庄内甕で在地の土でつくったもの。
筑前型庄内甕は布留0式と時期が同じとされる。
大和や河内でつくられた庄内甕が福岡で出るのは、博多が先。
三雲などは、そのあとの筑前型で纏向4類=布留0式。
庄内2式は纏向3類と時期が同じで、250年〜270年。
筑前型は庄内3式=纏向4類=布留0式で、270年〜290年。
(最近の庄内式の編年は1〜3式が200年頃から250年頃に圧縮されている)
大和の庄内式と時期が重なるのは九州では西新町式。
大和の勢力が博多に入ったのは280年頃以降とすれば、その時期は筑前型庄内甕の時代であり、その筑前型が造られる前に大和庄内甕が博多に現れるのだから、博多に大和の勢力が入るのは280年以前にならなければおかしい。 ひたすらウソをつくことで無理な延命を図ってるのが
いまの九州だな
またオウム返しするかな >>523
ほら、こんな中傷しか出来ないのが九州説 >>527
>筑前型は庄内3式=纏向4類=布留0式で、270年〜290年。
>>527
庄内3式=纏向4類は間違いなんだが モンゴルや高句麗の、前方後円墳や乗馬が4世紀後半に纏向に、渡来したのはなぜなのだろうか、、、、 畿内説は、破綻してしまったのだから、このスレッドは、モンゴルや高句麗の、前方後円墳や乗馬が4世紀後半に纏向に、渡来したのはなぜなのかを、討論するためのスレッドにすれば良いな、、、 邪馬台国畿内説はなぜ駄目なのか
1つ目の理由
箸墓古墳を作製した崇神天皇は、720年に完成した日本書紀を作製した人物の、16回の親子関係で繋がった先祖です。。。。
日本書紀の記録した時代の、父と子の年齢差は、学部によると、平均が21.6歳であるから、箸墓古墳が374年頃に完成しました。
720-21.6✕16=374.4
2つ目の理由
箸墓古墳を作製したときに掘った穴の数十年かかって積もった固い土の中の、底から20年分の部分に、紀元後400年頃の畿内馬具が落ちているのが、発見されました。。。
だから、箸墓古墳が380年頃に完成しました。
3つ目の理由
2013年に実行された箸墓古墳の大規模調査で、纏向遺蹟は全体も、魏志倭人伝時代の後の遺蹟だと判明しました。。
4つ目の理由
何十年もかかった、延べ数十万人の調査では、掘立柱の周りには、鉄と人民の家がありませんでした。。
そして、桃の種が発見されました。
だから、掘立柱は大物主の桃の倉庫の柱でした。。。
5つ目の理由
魏志倭人伝時代には、奈良盆地は沼地でした。
だから、人民が都会を作れませんでした。
6つ目の理由
畿内説の宣伝係には、頭の悪い人が多いです。
だから、畿内説の嘘の宣伝が、国民に信用されません。。。
日本史板にスレッドを作製すると、悪質な荒らし行為によって、討論が妨害されるので、避難所を製作しました。
http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/entrance/1539752632/1 熊本城から船で出発し、島伝いに五千里進んだ場所にあったという、倭地の果てとは、何処なのだろうか、、、 乗馬軍団の馬を連れてきた者達は、なぜ、天皇家の墓の製作を手助けしたのだろうか。。。 明治政府、国家神道がしたことは、皇祖神を天照大御神に書き換えたこと
明治になり突然伊勢神宮の神紋に菊の紋章が使われるようになる
皇室の歴史を蔑ろにし、政治の道具にした責任は重い 畿内説は口を開けば論破されるから罵声に終始ってとこかな 『天皇 人権がない』
本当なのかな?
そうなるように工作した人々がいるとか 交通の要衝で集落跡が何故ない???
⇓
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。
この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、
初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。
乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。 >>431
>>428
>水行を理解していないね
>テンプレにも載っているが・・・・
実はテンプレは水行に関してはそこまで正確じゃない
水行は基本海の沿岸航行
☟
テンプレ
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、 >>541
倭国内の交通、地政的意味と、魏使の行程とは同一とは限らない >>542
明確に纏向は瀬戸内航路の終点と言っているのだが
文句があるなら>>1に言え >>493
出土していない
誰かが纏向郊外に埋めたと言っていた モンゴルや高句麗の、前方後円墳や乗馬が4世紀後半に纏向に、伝来したのはなぜなのだろうか、、、、 モンゴルや高句麗の、前方後円墳や乗馬が、纏向に伝来した4世紀後半、一体、天皇家に何が発生したのだろうか。。。 >>540
だから纏向は集落なんだが?
なにをトンチンカン言ってるの? >>544
というか、大池あたりだったなら永遠に見つからない
見つからないからダメという論理は成り立たない 奈良の古代遺蹟の製作時期を主導的に検査し、偽造を実行したので逮捕された人物や、税金で購入した備品や税金で雇用した係員を私的に使用した人物は、本当に、国家や奈良県の地方自治体の組織に雇用された者達だったのだろうか。。。 つまり、邪馬台国は国宝熊本城の下にあるから、発掘できないのでダメという論理は成り立たないな。。。
548日本@名無史さん2018/10/30(火) 16:34:02.63
>>544
というか、大池あたりだったなら永遠に見つからない
見つからないからダメという論理は成り立たない >>547
>だから纏向は集落なんだが?
どうしても纏向を集落遺跡にしたいらしい。 竪穴住居もないというのにw @阿波 >>550
破綻した畿内説の宣伝係が、発表した意見のおかげで、邪馬台国国宝熊本城地下説が、絶対論破されない完璧な説に、なってしまったのではないのかな。。。 >>531
じゃ、庄内3式の実年代はいつ頃よ。
(今の庄内式は、200年頃〜250年頃とするものもあるが) ついに、大和説者の追加主張が、具体性を欠きはじめた。
なんと言っても、箸墓円墳先造説が致命傷の墓穴となったなあ。
これで、箸墓を無理やり卑弥呼の墓にこじつけようとしている大和説者の姿勢がさらされて、
大和説そのものが、邪馬台国と関連づけようとする無理やりの偽者であることを、証明してしまった。
393回の老舗を誇るこの大和説の雛壇も、今回で最後だろう。
もう何を言っても、もうダメ。
みんな箸墓円墳先造説の類だ、ということになった。
さあ、神社参拝。
柏手パンパン。 九州説の空しい勝利宣言
畿内説はそれ見て笑ってるよ ホケノで良かったのに
箸墓と言いだしたから・・畿内説が堕落した >>854
>これら出現期の古墳は、多くは前方後円墳もしくは前方後方墳で、
長い木棺を竪穴式石室に収めた埋葬施設や、多数の銅鏡をはじめとする呪術的な副葬品をもつなど、
画一的な特徴をもっていた。
それは古墳が各地の首長たちの共通の意識のもとにつくり出された墓制で、
その背景には古墳の出現に先だって広域の政治連合が形成されていたことが考えられる。
出現期の古墳の中でもっとも規模が大きいものは奈良県(大和)にみられ、
この時期大和地方を中心とする近畿中央部の勢力によって政治連合が形成されていた。<
これも×ね。
大和は、九州倭国の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国であり、
九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」の中の一国であったから、その政治連合とは、
東征された国々の纏まりでしかないの。 何か畿内説が橋墓を卑弥呼の墓に比定しようと必死になってる風にしたがってるけど
全然んな事ないからね
畿内には魏志倭人伝に書かれてるような大きな墓がある事だけは確かだけど 箸墓古墳
宮内庁職員によって宮山型特殊器台・特殊壺、最古の埴輪である都月型円筒埴輪などが採集
・・・・・・埴輪??倭人伝(徇葬者奴婢百餘人)
岡 >>543
>明確に纏向は瀬戸内航路の終点と言っているのだが
瀬戸内航路の終点であると同時に、丹波回りの日本海航路で出雲とも連絡してるんだよ
東海とは、陸路の関が原・不破の関越え、近江から平城山越え、あるいは伊勢湾横断で
志摩から宇陀越えでつながる
こういう地政学的な結節点であるのはテンプレのとおり
「水行20日+10日は日本海航路で、陸行1月が丹波からの陸路」という点が
テンプレと私の意見の相違
魏使の経路は、出雲と大和の往還路をそのまま使ったものだと思う
テンプレは瀬戸内航路を採る >>547
>だから纏向は集落なんだが? なにをトンチンカン言ってるの?
吉野ヶ里では復元した弥生期の建物が98棟あるのですが・・・・ >>563
>で、纒向には何万戸あるの?
いい加減に、邪馬台国七万戸と、纏向遺跡の区別がつくようになりなよ
東京都庁のどこに1千万人住んでるの?とか
東京都庁に何万戸あるの?とかいう質問に意味はないだろ?
邪馬台国七万個は、畿内第V様式が共通に使われた範囲で「大和+河内〜環大阪湾」の範囲
纏向遺跡はその中心施設で祭祀と卑弥呼の宮室がある計画都市 >>568
馬鹿 大馬鹿
都庁の敷地面積知ってるのかな >>561
>世間常識と乖離しているのら畿内説
そこなんだよ、以前は畿内説に好感を持っていたが纒向・箸墓から畿内説の研究者が信じられなくなった
物証重視から方向転換してしまった 積み上げ方式の説から逸脱してしまった 都庁は千人を超える職員が勤務できる建物がある。
纒向には、魏志倭人伝にあるような千人の奴婢が働ける建物はあるのか? どうでもいいイチャモンばかり
本当に九州説は終わったんだな 纒向纒向と叫ぶわりには、魏志倭人伝に見合ったものが何も出ていないんだよ。
ただ根拠なく言い張っても、誰も納得しない。 >>570
>馬鹿 大馬鹿
>都庁の敷地面積知ってるのかな
それ反論になってないw >>520
テンプレのFAQ 87にもあるだろ
全唐文には昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文
昔魏は倭国にはなむけるに銅鏡の鉗文を止め
つまり今までの形式ばった物とは違う鏡を新たに作って下賜したんだよ >>574
>魏志倭人伝に見合ったもの
これが、九州説が恣意的に言っているだけのもの
九州 畿内
萬二千餘里 ー ー 邪馬台国のことじゃないのでどうでもいい
水行三十日陸行一月 × ○ 九州では収まらない
兵用矛〜鐡鏃或骨鏃 ー ー 邪馬台国のことじゃないのでどうでもいい
倭地温暖 ー ー 邪馬台国のことじゃないのでどうでもいい
有棺無槨 ー ー 邪馬台国のことじゃないのでどうでもいい
父母兄弟卧息異處 ー ー 邪馬台国のことじゃないのでどうでもいい
出真珠青玉 ー ー 邪馬台国のことじゃないのでどうでもいい
其山有丹 × ○ 邪馬台国が九州だと仮定すると和種の地でしかないはずの畿内が女王国圏内になってしまう
女王國以北特置一大率 × ○ 伊都国の近くに邪馬台国があれば、わざわざそんなもの置かない
倭國亂相攻伐歴年 ー ー 邪馬台国のことじゃないのでどうでもいい
其南有狗奴國 × ○ 九州では存在する土地の余裕がない
東渡海〜復有國皆倭種 ○ ○ 女王国の東(北)に海を渡った地に倭人の地があるか
周旋可五千餘里 ○ ○ 参問できるところの倭地が周旋五千里
五尺刀 × ◯ 東大寺山古墳中平銘大刀
鉛丹 × × 鉛丹の出土数 奈良時代まで無い
銅鏡百枚 ▲ ○ 漢鏡7期は畿内優勢
神獣鏡が国産だとしても魏との繋がりがないと作れない
倭錦 ー ー 邪馬台国のことじゃないのでどうでもいい
白珠 青大句珠 ー ー 邪馬台国のことじゃないのでどうでもいい
基本的に倭国の情報は、邪馬台国の特定にとってはどうでもいい この一覧表には邪馬台国と関係ない倭人一般、倭国一般の風習風土がやたら載ってる一方で、極めて重要な項目が抜けてる
また邪馬台国固有の記述も抜けてる
九州説にとっては致命的なので意図的に除外したのではないかと勘ぐられても仕方がないだろう
・邪馬台国の発音に近い地名
・戸数7万戸
・30近くの国々の盟主
・宮室、楼観、城柵
・卑弥呼の墓径百歩
・徇葬百人 九州 畿内
邪馬台国の地名 × ○ 九州の候補地を山門郡に絞る場合は○になる
戸数7万戸 × ○ 九州に収めるのは不可能
30の国々の盟主 × ○ 倭国の盟主≒日本列島の盟主とすれば、邪馬台国論争は決着
宮室、楼観、城柵 ▲ ▲ 九州の候補地を吉野ヶ里に絞る場合は○になる
卑弥呼の墓径百歩 × ○ 箸墓の円墳部分
徇葬百人 × × 九州は集団墓地、畿内は記紀の記述のみで証拠なし
そもそも邪馬台国論争とは3世紀における倭国の盟主がどこの国であったかを探すもの
なお考古学的事実として畿内ヤマトが日本列島の盟主であった >>581
国民から見放された象牙の塔で威張っているだけ。
砂上の楼閣。 そういえば、纒向のどこに卑弥呼の宮城の楼閣があるの? >>585
九州説は嘘を積み上げて作った塔のクセに
跡形もなく崩れてしまったようだがな
畿内説の手によって いや九州説は三途の川原で子供が積み上げる石
少し積み上がったと思ったら鬼がきて崩されてしまう
延々とな 日本には嘘つきは死後閻魔大王にやっとこで舌をひっこ抜かれるという言い伝えがあってな 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>588
>跡形もなく崩れてしまったようだがな
>畿内説の手によって
それは、絶対にない。 @阿波 >>600
>さて次は阿波説をこの世から抹消してやろうか
さぁ、やってみよう! @阿波 他人の中傷ばかりしていないで、畿内説を固めればいいのに。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 https://www.youtube.com/watch?v=aljW2VJn7f8&feature=youtu.be
私の 説は 邪馬台国 の 位置を 球磨郡 にあった です
魏志倭人伝の 翻訳 とか みなさん 読んで かたってますか?
ぼくも 読む前は 邪馬台国 やまたい 大和 ヤマトゥ と このよみから 近畿だと ゆってましたが
これは 本居宣長 の 策略でした まんまとはまってました
魏志倭人伝には 邪馬壹國 と あり これは 中国よみで シュマイ 日本語で よんでも やまいこく 臺灣 台湾 誤字ったにしろ とにかく ソウル から 邪馬台国 まで 1マン2000里 である 100里が7KMとしても 近畿にはとどかないので
九州しかないのです そのへんも 動画にしました 調べなくても まとめました なっとくしていただけるでしょう >>606
邪馬壹國は3世紀に書かれた原本が焼失し
12世紀に魏志倭人伝が復刻された時に生じた誤記
それ以前の後漢書、隋書、北史、通史、太平御覧では邪馬臺國(邪馬台国)
特に7世紀の隋書、北史、11世紀の太平御覧は
その当時現存していた魏志から魏志にある所の邪馬臺、
魏志曰く〜邪馬臺國などと引用している >>580
その解釈は違うのではないか。
「昔、魏は倭国にむくいるに銅鏡鉗文をとどめ…」
銅鏡鉗文は、銅鏡を何枚かに分けて、模様を織り込んだ紐でそれをきっちりと縛ること。
百枚を十枚程度に分けて、それをしっかりくくって、それぞれを箱に入れたのだろう。
この文は、銅鏡を特注したという内容ではないな。 >>602
>阿波には邪馬台と読めるような地名がない
邪馬台=倭
倭と言えば、「倭大國魂神社」「倭大國敷神社」が日本で唯一鎮座する、倭国(阿波)。
終了 @阿波 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>608
そんなのわざわざ記録せんでも良くないか
現実に鉗文じゃない今までの形式と違う魏鏡が畿内から見つかっている事実を認めよう >>609
畿内には神社どころか
大和という地名そのものがある
はい阿波説は終了 >>612
>機内には神社どころか
>大和という地名そのものがある
あれ? 魏志倭人伝に「大和」なんてあったっけ?
はい畿内説は終了 @阿波 >>96
寺澤は、最初からヤマト王権のルーツは吉備だと言ってるし。
いまさら、ルーツ探しはじめるわけない。 >>571 有難うございす
>そこなんだよ、以前は畿内説に好感を持っていたが纒向・箸墓から畿内説の研究者が信じられなくなった
物証重視から方向転換してしまった 積み上げ方式の説から逸脱してしまった<
炭素年代とか、桃の種とか、径百歩とか
言葉足らずかも知れないが、畿内説が迷路に陥ったと思います
畿内説の原点に戻るべきです
>>547
>だから纏向は集落なんだが? なにをトンチンカン言ってるの?
吉野ヶ里では復元した弥生期の建物が98棟あるのですが・・・・ >>613
卑弥呼が居て魏と国交していたのは邪馬台国
そして畿内には阿波にはない大和がある
阿波説は終わり >>617
卑弥呼が居て魏と国交していたのは邪馬台国
そして阿波には畿内にはない倭がある
機内説は終わり @阿波 以前から言ってるけど九州説は畿内説スレに突撃してくる意味はあるのか
九州説スレがあるのに
そこで好きなだけ短里だ何だとやってたらいい 他説
撃ち方止め‐‐‐‐
撃ち方止め‐‐‐‐
このスレ閉じるぞ >>94
君の論理は、円墳先造の主張とおんなじ。
卑弥呼を大和へもっていくためのこじつけ。
ちゃんとした根拠なしの空論。 >>619
倭があるというのは意味不明
九州も機内もぜんぶひっくるめて倭
阿波説は破滅 >>620
貫録示すスレ!!!
>>1
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。 >>623
>倭があるというのは意味不明
阿波にだけ、あるから倭国(阿波)。 @阿波 >>626
>阿波VS九州かな
九州も「其山有丹」で、最初っから論外。 @阿波 出雲と阿波の謎は難しい
邪馬台国のカギを握っているのが出雲と阿波と思う今日この頃 どうやったら貫禄出るかな
反論する前にそうだね君のいう事も一理あるねと付け加えてみるか 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>127
九州王朝はだめ。
それより、阿波王朝が出てきたのだから、そっちとやり合え。 >>631
>出雲と阿波の謎は難しい
ちっとも難しくないよ。
日本海へ倭国(阿波)の海人族が進出しただけのこと。 @阿波 >>635
そうだね
君の言う事も一理あるね
漢倭奴国王印が阿波じゃないとこで見つかってるから
阿波説終了 >>637
「漢倭奴国王印」
ウソはイカン。 @阿波 >>584
九州 畿内
>戸数7万戸 × ○ 九州に収めるのは不可能 <
可能 畿内の耕作面積の数十倍 北部九州で可能
>30の国々の盟主 × ○ 倭国の盟主≒日本列島の盟主とすれば、邪馬台国論争は決着<
30の国々を北部九州以外でどこに比定する7
>宮室、楼観、城柵卑弥呼の墓径百歩 × ○ 箸墓の円墳部分 <
箸墓は「其死有棺無槨」該当すのだろうか >>280
それじや、当時列島最大の墓が、なんで纏向に造られたの。
それに、その初期の3基の墓を真西にするように大型建物群が建てられたのは、なんのため。
この大型建物が、その3基の墓より5度南に振った角度でなぜ建てられているの。
その5度の角度が意味するのは、なに。
纏向は、特別なところだったのだよ。
もちろん、ここには卑弥呼も難升米もいなかったがね。 >>620
貫録示すスレ!!!
>>1
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。 >>638
ネットでも調べられるから嘘じゃない
阿波説風前の灯火 >>130
九州王朝は、3世紀半ば以降の大和の歴史を盗んだ窃盗罪で島流し。 だれだ畿内説をクチャクチャにしたのはこれか
========================
纒向=王都
箸墓=卑弥呼
=========================
誰だ!でてこい >>640
>それじや、当時列島最大の墓が、なんで纏向に造られたの。
ヨコだけど、倭国(阿波)が手狭になったため。
>それに、その初期の3基の墓を真西にするように大型建物群が建てられたのは、なんのため。
たまたま、その位置に「古墳造営前線基地」を構えただけ。 @阿波 >>547
>だから纏向は集落なんだが? なにをトンチンカン言ってるの?
吉野ヶ里では復元した弥生期の建物が98棟あるのですが・・・・ >>642
>ネットでも調べられるから嘘じゃない
ウソの上塗りは、なおイカン。 @阿波 >>645
纏向の墓には、なんで石積まなんだのよ。
大型建物が真西より5度南に向けて断ててるのに? >>614
そこに寺澤の苦悩がある
義理と人情の世界から寺澤は逃れたいが逃れられない
寺澤の自業自得 阿波から畿内に進出できたのは後にも先にも戦国時代の三好氏しか無いのだけれどね 他説
撃ち方止め‐‐‐‐
撃ち方止め‐‐‐‐
このスレ閉じるぞ 他説
撃ち方止め‐‐‐‐
撃ち方止め‐‐‐‐
このスレ閉じるぞ >>651
>阿波から畿内に進出できたのは後にも先にも戦国時代の三好氏しか無いのだけれどね
橿原市に忌部町があるねぇ。 忌部神社もあるねぇ。 わざわざ地名残さなくてもいいのに。 @阿波 >>636
@阿波
阿波説では出雲の位置づけは?
阿波説では投馬国の比定地は? >>648
ネットで調べた人が何だ阿波って嘘ついてるじゃんとバレて阿波説終了 >>655
>阿波説では出雲の位置づけは?
出雲は倭国(阿波)の南方(阿南市周辺)
>阿波説では投馬国の比定地は?
宿毛市周辺あるいは宮崎市周辺 @阿波 >>1
テメーは脳天気で幸せな奴
書き込み者に感謝しないとダメだよ
他説の書き込みがないと このスレ393まで来ないよ
ザラコクに感謝
キウスに感謝
全一病に感謝
岡上に感謝
@阿波に感謝
他 しらん 九州説がアホやらなかったら普通に平和だったろうが
そもそも歴史を改竄しようとかとんでもねーよ
現状じゃ無駄な労力もいいとこだし >>657
>出雲は倭国(阿波)の南方(阿南市周辺)
申し合わせたように、倭国(阿波)の南方(阿南市周辺)に大国主が登場する。
【大国主神を祀る、全国唯一の式内社「八鉾神社」】
徳島県阿南市長生町に鎮座する「八鉾神社」。祭神は大己貴命。延喜式内社である。
この「八鉾神社」には四つの重要文化財が神宝として保管されている。
また「八鉾神社」自体も重要文化財に指定されているので、合計五つの重要文化財を持ち合わせている神社となる。
一つは「大己貴命 木造彫刻立像」
二つ目は「少彦名命 木造彫刻立像」
三つ目が「二品家政所 下文 」
四つ目が「附紺紙金泥法華経」である。
この八鉾神社、阿波では出雲の「杵築大社(出雲大社)」の元社であると伝えられている。
八鉾とは八千矛神(やちほこのかみ)。
出雲の主であり、長(おさ)である大国主神のこと。
大国主神の別名、大己貴神は、長国の偉大な主を意味している。
大国主神は、スサノオ命の子孫で、稲羽の素兎の物語で有名である。
オオクニヌシは、兄さん達から大きな袋を持たされる等、色々のいじめを受けたが、それらの試練を乗り越え、出雲国を治める立派な人となった。
オオクニヌシの子供にコトシロヌシ(えべっさん)と建御名方神(たけみなかたのかみ)がいる。
コトシロヌシは、式内社の事代主神社として、勝浦町沼江と阿波市市場町伊月に祀られ、タケミナカタは、式内社の多祁御奈刀祢神社として石井町浦庄字諏訪に祀られている。
平安時代に記録される3132座の式内社の中に、これら八鉾神社や事代主神社・多祁御奈刀祢神社等の国譲りに遣わされた神達を祀る神社は、阿波にしかない。 @阿波
【大国主神を祀る、全国唯一の式内社「八鉾神社」】
https://blogs.yahoo.co.jp/noranekoblues/47852915.html?__ysp=44CM5YWr6Ym%2B56We56S%2B44CN44CR >>658
おまえ・・・ひとから感謝されない人生送って来たんだな >>662
短里とか三角縁神獣鏡は国産で呉鏡だとか
前方後円墳は4世紀からとかさんざん言ってきた九州説が何だって? >>659
>宮崎から南に向って阿波はねーぞ
宮崎から南に向って出航したんじゃないの? @阿波 >>647
だから何なの?
日本語の文章書けない人? >>667
>何処へ 奄美か沖縄か
うん、南へ漕ぎだしたはいいが、黒潮に流されて、倭国(阿波)に着いたとさ。 @阿波 >>647とか>>649とか見ると
明らかに脳の論理を扱う部分が
壊れてる人だろう 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>655
>阿波説では出雲の位置づけは?
出雲=倭国(阿波)の南方(阿南市周辺)=狗奴国 @阿波 「出雲」とか「筑紫」とか「日向」とか、好字令で好き勝手に付けた後付け地名だからw @阿波 >>677
用字を変えただけで、勝手につけたわけじゃないだろ >>678
>用字を変えただけで
その用字ってどういう字を?
だから、好き勝手に「用字を変えた」後付け地名。 @阿波 >>859
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は、デマ流しすぎ。 >>860
>近畿中央部だけではなく、吉備から関東、近江、北陸など広
範囲の勢力によって構成されていた、というのがが正しい。<
瀬戸内〜南九州は、九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」の中の旧小国群であった、
というのが正しい。 >>861
>関東、近江、北陸など広範囲の勢力
この辺りは国っていうより大きな村みたいなもんだったと思う
で地元の名産物を大和王権に気に入られようと貢いでたんだろう<
この辺りは、九州倭国の「東征毛人五十五國」の中の国々であり、
で地元の名産物を九州倭国に気に入られようと貢いでたんだろう、
と思う。 >>677
そうだね
粟は雑穀の粟
大宜都比売の国 粟國謂大宜都比賣 >>871
大和説は、
「南→東」などの嘘吐き騙しや、
「会稽東冶之東」で、九州説の「会稽東治之東」に負けて、
崩壊したんだったな。 >>332
だいたい、人間が歩ける距離は決まっている。
朝起きて、顔洗って、飯食って、一息入れて、会合に出て、さあ今日の祭祀に行こうか、となるまで2時間。
夜明けとともに起きるから、まあ、8時。
それから歩いて祭祀所入りするのが9時。なんやかや準備して、一息入れて、ここで何か腹に入れて、さてとなるのが12時。
真上に太陽が来たのをみはからって、ここから本式の祭祀の開始。
まあ、こういう段取りならば、祭祀所から歩いて1時間くらいの同心円の線上に祭祀者や人民が住む集落はあるのではないか。
この見取り図で、桜井市は発掘を行ってもらいたい。 倭国の祭祀は朝行う決まり。
日の出の少し前に家を出て、日の出とともに朝議を行い、昼前には解散して自宅で遅い朝食をとる。
室町より前は1日2食が基本だ。
日の出の遅い冬などは、片道1時間では朝議の時間が取れない。
もっと狭い範囲に少なくとも王宮で働く千人の奴婢の集落がなければいけない。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>686
>もっと狭い範囲に少なくとも王宮で働く千人の奴婢の集落がなければいけない。
どうして?
理由は? >>691
バカだから、じゃないかな?
>>686がw 知能の低い人間は、筋道立った説明が出来ない
出来ないから、他人から「何故?」と聞かれると
キレてイキリって
「理由は書いてある」
「解らないお前が馬鹿なんだ」
「馬鹿に説明しても無駄だ」
「勉強しろ」
などと怒鳴って、そして逃げる
これが延々と繰り返すパターン >>355
近江の伊勢遺跡の場合、そのエリア外周縁から1kmあたりのところに集落がある。
伊勢遺跡は、纏向遺跡のプロトタイプかとみられているので、伊勢遺跡にならえば、
纏向遺跡外周縁から1km程度のところに集落があることになるが、纏向遺跡は伊勢遺跡の3〜4倍大きいので、
もう少し離れることになるかもね。 >>427
その言い回し、効果ゼロになったんだから、はやく気つこうね。 邪馬台国のエッセンスがこれに詰まってる気がする
倭地は温暖にして、冬夏生菜を食す。
皆、徒跣。屋室有り。
父母、兄弟は異所に臥息す。
朱丹を以ってその身体に塗る。
中国の紛を用いるが如し。
会同、坐起では、父子、男女は別無し。人性は酒を嗜む。
男子は大小無く、皆、黥面文身す。
古より以来、その使中国に詣(いた)るや、皆、自ら大夫と称す。
夏后少康の子は会稽に封ぜられ、断髪文身して、以って蛟龍の害を避く。
今、倭の水人は沈没して魚、蛤を捕るを好み
文身は、亦、以って大魚、水禽を厭(はら)う。
後、稍に以って飾と為る。諸国の文身は各に異なり
或いは左し、或いは右し、或いは大に、或いは小に。尊卑差有り。
その道里を計るに、まさに会稽東冶(”現中国の浙江省”) の東に在るべし。
女王国より以北は、特に一大率を置き検察し、諸国はこれを畏憚す。
常に伊都国に治す。国中に於ける刺史の如く有り。
王が使を遣わし、京都、帯方郡、諸韓国に詣らす、及び郡が
倭国に使するに、皆、津に臨みて捜露す。
文書、賜遺の物を伝送し女王に詣らすに、差錯するを得ず。
「魏書」第30巻 『 魏志倭人伝 』 普平陽侯相 陳寿撰 >>695
効いてる効いてるww
これでいいかな?w
現状の発掘成果、研究成果をきちんと把握してたら
まともな判断力のある人は九州説では居られない
現状では、新しい情報を見ない聞かない情弱か、
妄信系カルト気質の人しか九州説に残っていないよ
情報を一番精査している現役の研究者で、九州説が一人も居ない時点で
もう決着済みなんだよ >>347
物部が大和に来たのは6世紀前半頃。
阿波から来たとしても、遅すぎ。
それなのに、紀元200年頃には先祖が大和にいたなんて、盛りすぎ。 >>695
>その言い回し、効果ゼロになったんだから
まあ、カルト気質のザラコクやキウス、偏執狂の連続句読点には効果ゼロだね
>>695もその同類ってこった 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>611
鉗文のあとに、「漢は単干に犀毘綺袷を過ごさず」という文章がついているので、鉗文は(模様の入った紐をきっちりと締める)という意味になる。
皇帝が東夷北狄の部族に贈り物をするときは、その贈り物がちゃんと相手の気に入るものかどうかすこしも違えない、という意味だ。
倭人が鏡好きなことをちゃんと押えていて、その通りに贈り物をする、ということだな。
そういうことが書かれた記録があった、ということだよ。 >>694
>>693の悔し紛れの中身のない中傷よりは、まだマトモな理性的意見だね。 >古系図の研究家(宝賀寿男)は、豪族との世代数の比較で神武から崇神まで五世代としている
>そして、孝霊と孝元が兄弟、開化と崇神が従兄弟とすると、世代数が合う
>ここで、崇神を孝霊の末弟とすると、孝霊皇女の倭迹迹日百襲姫命は、3代前の天皇の皇女だが
>崇神の姉ということになる
これすごく興味深い。
西暦57年の漢委奴国王と神武天皇は同一人物だろうから
5世代後の西暦200年頃、卑弥呼と崇神天皇は活躍したでちょうど合う。 金印が重要で 、「漢委奴国王」を
初代天皇として数えていたとすると年代が合うんだよな・・・
西暦57年 漢委奴国王(初代天皇)
西暦57〜137年 倭国で男性の王の時代が続いた(70-80年間)
西暦146〜189年 倭国大乱、桓帝と霊帝の間(146年 - 189年)
西暦189年頃 卑弥呼が女王になる。 倭人伝には記紀における同時代の皇室王室のメンバーがそろっている。
官のトップは伊支馬(いきま) → 第11代垂仁天皇 「伊久米入日子伊佐知命」
次席は弥馬升(みます) → 垂仁天皇后 「氷羽州比賣命」
三席は 弥馬獲支
(みまかき) なら 「御間城姫」 崇神天皇の皇后
(みばかし) なら 「美波迦斯毘賣命」 皇太子大帶日子命、後の第12代景行天皇妃
四席は奴佳醍(ぬはだい) → 垂仁天皇妃 「沼羽田入毘賣命」
いずれにせよ崇神、垂仁、景行天皇の範囲に収まる。 漢委奴国王印は博多湾で見つかっており、畿内は関係ない。
神武に頼る皇国史観の亡霊にはご退場願いたい。 西暦239年 卑弥呼は第10代・崇神天皇の娘である十市瓊入(都市牛利)を使者として魏に送っている。
西暦239年、この時の十市瓊入(都市牛利)の年齢を仮に25歳とすると西暦214年生まれ。
十市瓊入(都市牛利)は、崇神天皇が30歳の時の子供とすると崇神天皇は西暦184年生まれ。
卑弥呼が崇神天皇の姉だとすると完全に合うね。 畿内説が皇国史観だというのがよくわかるスレですね。 >>709
193年頃、飢えた倭人1000人超が食料を求めて朝鮮半島に渡ったという記録が残ってるから
大飢饉によって九州は壊滅的なダメージを受けて
首都を奈良に移したんだろうね。
人々が神頼みになって巫女(雨乞いする女性)を王にしたんだろう。 伊勢遺跡は位置的に言って、近畿圏の首長連合を示唆する遺跡なんじゃないかな
纒向遺跡は在地の墓制を棄てているし、東海山陰吉備を中心とした外来勢力による集落跡
纒向遺跡の祭祀遺構は諏訪大社の生贄祭祀に似ているが、伊勢遺跡の祭祀遺構とは全く似ていない
伊勢遺跡に集っていた近畿圏の勢力が排除され、ヤマトの地に外部勢力による政権ができたんだろう >>681
瀬戸内〜南九州は、吉備の交易圏。
阿波は、安曇の勢力圏。
紀氏と安曇が結託した。
阿波は走り使い。 纒向のWikipedia読んでみたが酷いもんだな
さっぱり意味がわからん編集してるわ
短里なんかも載ってるし >>686
いくらなんでも2食では、もたん。
昼に間食してたはず。
近江の伊勢遺跡の場合、伊勢遺跡から1kmのところに集落がある。
ぞろぞろ歩いて、1時間。 卑弥呼が女王になった頃
はっきりと火山噴火による寒冷化の記録が残ってるな。
『後漢書』によると
西暦181年
空が黄色くなり太陽が覆われた。東からの日の出が全く明るさがない。
空が黄色くなった年の夏「6月に雹が降った。大きさは鳥の卵ほどもあった。」
西暦182年、「井戸の中が凍ってしまった」と書かれています。異常気象を示す記述は2年続く。
西暦184年、黄巾の乱が勃発 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>714
伊勢遺跡は、纏向遺跡が造られる直前に廃絶しているから、伊勢遺跡の祭祀機能が拡大的に纏向遺跡に移ったのだろう。
なので、纏向の祭祀施設は伊勢遺跡からの継承。
そして墓制も近江、木津川、大和の墓制が引き継がれた。
ただ、墓形は尾張の前方後方型墳丘墓と吉備の円墳の合作で、墓の立地と墳形には近江、木津川、大和連合は口をはさまなかった。 >>718
どこが噴火したんだろう?
中国には噴火の記録がないから中国ではないことは確か。 >>718
尾瀬沼の花粉から気候の変動を調べた先生の気温変化図をみれば、一目瞭然。
なぜ、倭國の乱で騒乱続けた勢力が、2世紀末に手打ちして和睦し卑弥呼を共立したのか、その理由が分かる。 >>723
西暦181年、ニュージーランド北島の超巨大火山「タウポ火山」の大噴火。
ニュージーランドなので中国には火山噴火の記録がない。 >>724
噴火による寒冷化
大飢饉が原因とすると倭国大乱は、戦というより農民の暴動だろうね 纏向に徑百余歩の塚はない。
よしんば箸墓後円部だけを徑百余歩だと説明しても、
奴婢埋葬の痕跡もない。
高天原(御所市高天)には徑百余歩の塚があり、
奴婢(土蜘蛛)埋葬の痕跡がある。
https://goo.gl/maps/UBGNWbZvBvA2
これはもう決定だろ。
太古からの神話を素直に受け止め、そこを注視したらば、いつか誰かが見つけたはず。
高天原神話など観念上の産物、あるわけがないなどと、
偉そうで傲慢な現代知識人には見つけられない様になっていたのだ。 金印が重要で 、「漢委奴国王」を
初代天皇として数えていたとすると年代が合うんだよな・・・
西暦57年 漢委奴国王(初代天皇)
西暦57〜137年 倭国で男性の王の時代が続いた(70-80年間)
西暦146〜189年 倭国大乱、桓帝と霊帝の間(146年 - 189年)
西暦181年 ニュージーランド北島の超巨大火山「タウポ火山」の大噴火
西暦181年 「空が黄色くなり太陽が覆われた。」 「6月に雹が降った。大きさは鳥の卵ほどもあった。」 (『後漢書』)
西暦182年、「井戸の中が凍ってしまった」異常気象を示す記述は2年続く。 (『後漢書』)
西暦184年、黄巾の乱が勃発(漢の衰退)
西暦184年頃、漢が衰退したことによって漢委奴国王印の権威喪失、卑弥呼が女王になる。首都が筑紫から大和に移る。 畿内説(邪馬台国は畿内)と
纒向説(王都は纒向 箸墓は卑弥呼の墓)を別個に考えてもらいたい
纒向から畿内説の一部の学者が暴走したと考えてくれんか >>730
卑弥呼の墓=円墳=150mがすぐ見つかったなら話は早い。
が、大和盆地を見渡しても150mの円墳がない。
箸墓という前方後円墳の円墳部分が150m。
ここではないか。
日本書記にモモソ姫の墓という記述がある。
モモソ姫は一皇女だが、うんまぁいいか。
いやモモソ媛という記述は箸墓が女性墓という伝承があったからだ。
ここに間違いないだろう。
この程度のポン助どもが今までの畿内説。
まず卑弥呼が誰なのかキチッと煮詰めればい、ならば墓の場所も分かる。
I崇神(310年頃 318年没)
H開化
G孝元
F孝霊
トヨ津 E孝安 D孝昭
トヨ津 (250年頃)C懿徳
ヒメ踏鞴 B安寧
ヒメ踏鞴 A綏靖
ヒメ踏鞴 (200年頃) @神武
ヒメ(踏鞴五十鈴)もトヨ津媛も鴨族。
鴨の語源はカミ。
鴨族の聖地は高天原。
その高天原にある日本最古の神社・高天彦神社の境内に、
径百余歩(約150m)の塚があり、魏志倭人伝の記述通り奴婢が埋葬されている。
埋葬された奴婢とは土蜘蛛である。
https://goo.gl/maps/Ar6EmsVKhEC2 >>728
>金印が重要で 、「漢委奴国王」を
>初代天皇として数えていたとすると年代が合うんだよな・・・
合わない。 >>728
ワイも、天才やと思う。
最後の184年頃の一行が、特に天才印。
この飛躍は、だれにも越えられん。 >>900
>九州は会計東冶の東にならないって事実に無駄に抵抗してるね w<
「南→東」などの嘘吐き騙しの・・・・殺人集団の大和説やくざ暴力団の大和説者が、
「東治→東冶」の嘘吐き騙しで、
事実に無駄に抵抗してるね。
w >>912
>奈良も東京も東北東に収まるよ 福岡はダメ、佐賀もダメ 九州説死んだな <
「会稽東治之東」などの方向記載が合っているんなら、
「南→東」が嘘つき騙し合ってであった事になる訳で、
奈良も東京もダメ、
九州は〇になる事になるんだよ。 >>913
「南→東」などのような、
そういう嘘つき騙しの妄想ばかりしてるから、
大和説が死んだんです。 上海あたりが会稽東治だとか
嘘つきで騙しをしようとした
古田説は死にました >>917
>>槨が「凄く広く」なったんなら、そりゃ普通は「室」という。<
>槨は棺を納める構造物 棺を納める目的に空間を作るのが槨 <
それでも構わないが、槨は「棺を容るに足り構造物」。
だから、ホケノは「有槨」であり、大和説は×。 >>738
>「会稽東治之東」などの方向記載が合っているんなら、
間違いだったので九州説がダメになった >>919
>あいかわれす、なんも証拠ださんな九州説は ww<
あいかわれす、なんも証拠ださんな。。大和説はww >>741
素人オジンが勝手にそんな変な定義をお手盛りて作っても駄目でしょ >>731
>卑弥呼の墓=円墳=150mがすぐ見つかったなら話は早い。
そんなもの倭国(阿波)で、とっくに見つかっていると何度言えばw @阿波
「天石門別八倉比売神社」裏手の円墳。
天照大神伝説の地は徳島市国府町「天石門別八倉比賣神社(あまのいわとわけやくらひめじんじゃ)」。
御祭神は大日孁女命(おおひるめむちのみこと)こと天照大神。
また、大宜都比売命(おおげつひめのみこと)が祀られているのが徳島の神山町にある上一宮大粟神社(かみいちのみやおおあわじんじゃ)。
大宜都比売命の別名を天石門別八倉比売命(あまのいわとわけやくらひめのみこと)と言われている。
※「大宜都比売命」=「天石門別八倉比売命」=「大日孁女命」=「天照大神」
「八倉比賣神社」
https://bqspot.com/shikoku/tokushima/569
http://kamnavi.jp/en/awa/yakura.htm >>020
>>「南→東」などの史料事実を否定曲解のウソ付き騙しの大和説学徒の坂が、
いくら「わかった」なんて自画自賛したって、 信頼性が全くなく、ダメだよ。<
>坂靖は森浩一の教え子で、九州説最後の生き残りだよ<
何だ?、大和説者は、
考古学者では九州説者は吉野ヶ里の高島氏だけだ、
と言っていたでではないか。
ウソを付いていたのか?。
それに、
「「古墳の造り方としては、後円部側を先に造り、それに付け足すように前方部をくっつけていることがわかった。」
なんて書いていちゃ、
箸墓が、先に周溝や渡り堤を「前方後円」の形に造っていた、
という話と矛盾するではないか。
「先に周溝や渡り堤を「前方後円」の形に造っていた」のなら、
そりゃ、始めから、前方後円墳の形に土盛し段築するつもりであった事になるのであり、
箸墓の前方部は
後円部の埋葬祭祀が終わった後で,何時か?は判らんが前方部を段築して付け足した、
なんて大和説が、×であった、という事になるんだよ。 >>922
その「南≠東」と「会稽東治の東」で、大和説学会教育界死んだわけだが。 >>926
>その道里を計るに、まさに会稽東冶(”現中国の浙江省”) の東に在るべし。<
「東治→東冶」の書き換えも嘘つき騙しになるから、×。 >>704
文章がついているじゃなくて
漢は匈奴に黄金犀毗を与えたという記述だぞ
どうして鉗文は銅鏡をヒモで縛ったというホラ話の根拠にしてるんだ >「南≠東」に拠って
そもそも現代人は東西南北の四極で方位を捉えることを当然だと思っているが、これとて自明のことではない。
非常に素朴な段階の生活を考えてみると、 初めは地勢によって方位を決めたのである。
例えば一方にしか山がない地域ならば、山側とその逆側、
それに山を前にしてその左右といった捉え方をする。
地域によっては海や川が基準となる。
地形によってはもっと複合的な基準を持つこともありうるだろう。
しかし行動や交流の範囲が広がると、ある地域でしか通用しない方位観では不便になる。
そこでやっと太陽を仰ぐ。
太陽は、どこから見ても、東から出て、南に昇り、西に沈む。
これによって東西南北の段階に達するが、まだ人類普遍の方位観を獲得したとは言えない。
なぜなら、日の出・日の入りの方角は季節によって変動するので、
どこを正位とするかには選択の余地が残るからである。
太陽によって東西を決定するときには、日の出・日の入りの、
夏至の日の方角を基準とするか、冬至とするか、その中間にするか、
または季節に従って正位が変動すると考えることもありうる。
だから東と西が一直線で結ばれるとも限らないし、東西南北の領域が四等分されるとも限らない。
方位とはかくも人為的なものなのである。
さらに複数の方位観が併用されるときには、それらを組み合わせてより複雑な方位観が形成されることもありうる。 >>728
>西暦184年頃、漢が衰退したことによって漢委奴国王印の権威喪失、卑弥呼が女王になる。首都が筑紫から大和に移る。
西暦184年頃、漢が衰退したことによって漢委奴国王印の権威喪失、伊都国にいた天孫族が筑紫を脱出。
卑弥呼が筑紫倭国の女王になる。 >>741
>>槨は棺を納める構造物 棺を納める目的に空間を作るのが槨 <
>それでも構わないが、槨は「棺を容るに足り構造物」。
>だから、ホケノは「有槨」であり、大和説は×。
この「棺を納める目的の空間」というのは、追葬や墓所の管理のために
「人が出入りできる空間」なんだよ
棺を外から封じ込める粘土槨や合掌型石槨は槨の類型には入らない
一時期の日本の考古学者が勝手に「槨」の字を使ったことに引きずられすぎ >>756
>畿内は会稽の東が説明できないから無理
?
その記述があるから、東を南と判断したんだろうと分かる訳だから、
畿内説にとってこの記述は重要だよ? 魏志倭人伝より「卑弥呼以って死す 大い(盛大に)に冢を作る (直)径は百余歩(150m) 殉葬者として奴婢を百余人」
箸墓(280m)は「径二百歩(290m)」、殉葬の痕跡なしwww
また、橿原考古学研究所は、C14年代測定法の誤差(-50〜-100年)や最新の発掘成果から箸墓の築造年代を3世紀第4四半期(275〜300年)以降としている。
現在、畿内説学者は纏向勝山、ホケノ山に比定し直している真っ最中www >>757
つまり当時の魏が、倭(邪馬台国)は「会稽の東(の沖合)にある」という地理観を持てていたということは、
南を東と間違えて書くこと(畿内説)はあり得ないということだねwww >>759
何を言ってるんだ
当時の魏が、倭(邪馬台国)は「会稽東治の東(の沖合)にある」という間違った地理観を持っていたということは、
南水行の「南」は確実に東の間違いだ(=畿内説が正しい)
ということなのだが? >>758
>また、橿原考古学研究所は、C14年代測定法の誤差(-50〜-100年)や最新の発掘成果から箸墓の築造年代を3世紀第4四半期(275〜300年)以降としている。
それ、どこから湧いてきた情報?
九州説はいつも怪情報ばかりだな 観念と現実の区別が付かないから九州説なのだから理解してあげないと >>758
箸墓は最初から前方後円墳として造られていたかは疑問。
後円部にはハッキリ残る段築が前方部の括れ部で消え、正面では後円部の段築を模していることから、
当初は円墳として造られ、3世紀第4四半期(275-300年)に前方部が追加されたのである。
よって箸墓は卑弥呼の墓であり、殉葬痕は前方部と後円部の接続部分(正面方向)の地下を墳丘を崩して発掘すれば見つかるはず。
九州説はもう死んだんだよw >>766
3世紀第4四半期という話が怪しさ全開なんだが >>766
>よって箸墓は卑弥呼の墓であり
卑弥呼の墓を沼地の平地に造るなど、以ての外。 無礼千万。 @阿波 >>766
箸墓は前方後円墳が定説
悪あがきはヨセ 南を東に読み替えても、畿内は会稽の東にはならない。
短里の報告書を長里の魏で受け取って読むと、倭国は会稽の東にあると思ってしまう。
短里が東夷でだけ使われていた証拠になるので、会稽の東は九州説の完封勝利だね。 >>770
箸墓の後円部(160m)が3世紀中頃に築造され、前方部(120m)が3世紀第4四半期(280〜300年)に追加されたということは明らかで、
後円部は卑弥呼の墓、前方部が台与の墓というウルトラCの可能性もある。
じゃあ、卑弥呼の墓は一体どこのあると言うんだい?九州説のおバカさん
w >>771
>南を東に読み替えても、畿内は会稽の東にはならない。
当たり前だろう
だから南は間違いだと確認出来た >>771
>短里の報告書を長里の魏で受け取って読むと、倭国は会稽の東にあると思ってしまう。
誰が短里で報告書なんて書くの?
魏に反逆したい人?
まさかね
あり得ない設定をいくら作ったところで
九州説の無理さが引き立つだけだ まとめると、
箸墓の後円部(卑弥呼の墓)…3世紀中(250年)頃
箸墓の前方部(台与の墓)…3世紀第4四半期(275〜300年)
西殿塚(男弟の墓?)…4世紀初頭 >>775
>誰が短里で報告書なんて書くの?
魏里を知らない東夷の人だろ。 >>770
九州設定がニセ情報流すと、泣くのは良識ある人々だ >>777
そんなひとが、なんで魏に宛てて報告書かくの? いつ覗いても、テンプレートが論破され、キナイコシが発狂しているね。。。 >>770
ヒントをありがとう!
箸墓当初(250年頃)(径百余歩)150mの円墳として造られ、台与の死後(275〜300年)に、
その円墳を覆う形で土を足し(160m)、前方部(120m)を追加して、改めて前方後円墳(280m)として増改築された、と言うことかもしれない。
これにより、箸墓で王墓が一気に巨大化した理由も説明できる。
畿内説の大勝利!!! 短里と長里の1里は、それぞれ、何メートルなのだろうか、、、、 崇神天皇が、祖父の妹の墓を作製するために、高句麗の者達を連れてきたので、馬の力で大きな古墳を完成することができたのではないのかな。。。 >>781の関西人やけど、
つまり、現在わいらが知っとる「当初から前方後円墳として築かれた」とされる箸墓の中に、卑弥呼の円墳「径百余歩(150m)殉葬者奴婢百余人」が埋まっているわけで、
今すぐ箸墓の後円部の墳丘をトレンチ入れて徹底調査すべき!!そして後円部の地下に埋まっている、当初の卑弥呼の墓の棺に「親魏倭王」の金印も入ってるわけや!
ヒントをありがとう、九州説のアホのみなさん!www 人民が大坂山の石を運んでいる間に、馬が古墳に石や土を積み上げたので、古墳が早く大きくなっていくことが不思議だった可能性が、あるな。。。 >>785
人民は、謎の集団が自分達のいない間に、古墳が大きくなっていくので、夜に神が作製していると誤認したのではないのかな。。。 >>784
つまり箸墓は、卑弥呼の円墳を内蔵した、マトリョーシカ古墳と言うわけですねw やはり、箸墓古墳を作製を手助けしたのは、4世後半に渡来した高句麗の馬主だったのか。。。 古墳が即位儀礼のステージだという通説からすると
男王と壹与で二回使われてることになる
つまり改築されたと考えるのが自然 箸墓古墳を作製するために必要な、高句麗の馬や馬主を連れてくることが、どうして可能だったのだろうか、、、 箸墓(笑)平原(笑)祇園山(笑)
まずはヒミコが誰なのかキチッと理解してから墓の場所を考えよう。
10代崇神=行燈山=布留1式=4世紀初頭から前半。
I崇神(310年頃 318年没)
H開化
G孝元
F孝霊
トヨ津 E孝安 D孝昭
トヨ津 (250年頃)C懿徳
ヒメ踏鞴 B安寧
ヒメ踏鞴 A綏靖
ヒメ踏鞴 (200年頃) @神武
ヒミコもトヨも迦楼羅魏に住んでました。
終わり。 >>787
そうです。そしてまさに箸墓の後円部地下に埋まっている卑弥呼の円墳の棺の中に、「親魏倭王」金印、大陸半島・北部九州との交流を示す貴金属(銅鏡・刀剣類)が収められているわけです。
誰か、纏向学研究センターの寺沢所長に電話して、卑弥呼の円墳は箸墓の内部にスッポリ内蔵されてますよ〜!って教えてあげて! >>790
日本国の崇神天皇は、倭国の王と取引したのではないのかな。。。 >>794
倭国の王は、4世紀に、朝鮮半島で活動していた可能性が、99.5パーセントあるな。。。 倭国の王が、4世紀に、朝鮮半島に軍団を輸送していた証拠が、あるのではなのかな。。。 倭国の王は、4世紀に、朝鮮半島で活動していたので、高句麗の馬や馬主を捕獲できた可能性が、あるな。。。 >>788
高句麗の馬や馬主は、左側スロープを通行していたのでは、ないのかな。。。 >>799
わしはあれ(左側の道)はマジで参道の名残りだと思ってるし。
五塚原は右に道らしきものがあるし。
葬儀の際の「葬送隊」が登る道はあっただろう。 金印が重要で 、「漢委奴国王」を
初代天皇として数えていたとすると年代が合うんだよな・・・
西暦57年 漢委奴国王(初代天皇)
西暦57〜137年 倭国で男性の王の時代が続いた(70-80年間)
西暦146〜189年 倭国大乱、桓帝と霊帝の間(146年 - 189年)
西暦181年 ニュージーランド北島の超巨大火山「タウポ火山」の大噴火
西暦181年 「空が黄色くなり太陽が覆われた。」 「6月に雹が降った。大きさは鳥の卵ほどもあった。」 (『後漢書』)
西暦182年、「井戸の中が凍ってしまった」異常気象を示す記述は2年続く。 (『後漢書』)
西暦193年(183年の間違いと思われる) 倭国が大飢饉となり1000人以上が食料を求めて朝鮮半島に渡る。(『新羅本記』)
西暦183年 大飢饉によって九州は壊滅的なダメージを受ける。九州の王族の権威失墜
西暦184年、黄巾の乱が勃発(漢の衰退)
西暦184年頃、漢が衰退したことによって漢委奴国王印の権威喪失。
西暦184年頃、大飢饉によって人々が神頼みになり巫女の卑弥呼が女王になる。首都が筑紫から宗教色の強い大和に移る。 朝鮮半島に軍団を輸送していた、4世紀の倭国の王は、どこを、自分の城にしていたのだろうか。。。 倭国の軍団に捕獲された、高句麗の馬や馬主は、何と引き換えに、日本国に輸送されたのだろうか。。。 >>804
外国でも金印が発見されて
科学的な分析もすすんで
流石にまともなところでは贋作説はなくなったよ。 >>806
発見場所と発見状況のあいまいさは永久不滅。
本来国宝にしてはいけない考古学的価値ゼロの代物。 >>807
科学的には価値あるし、本物だと確定してる。 4世紀後半に作製された箸墓古墳の穴に埋まっていた、畿内馬具についての、研究が、高句麗と日本国と倭国の、関係性の謎を、究明していくのではないのかな。。。 国宝金印「漢委奴国王」の紫綬(紫色のヒモ)を通す紐(穴)が蛇なんだけど、当初の駱駝の首を切って、頭と目と蛇の目を造って無理矢理蛇に改造してるらしい。
もし偽物なら、最初から蛇と判る形につくるハズで、(駱駝→蛇の)改造痕が逆に本物だということらしいyo! 漢委奴国王を初代天皇とすると
漢委奴国王が神武天皇ということになる。
西暦815年に編纂された『新撰姓氏録』には
神武天皇の兄である稲飯命は新羅王の祖であると書かれている。
西暦57年 神武天皇が漢委奴国王になった。
西暦57年 倭人の脱解尼師今が新羅の王になった。(『新羅本記』)
『新羅本紀』によれば、
新羅には朴氏・昔氏・金氏の3姓の王系がある。
そして昔氏の始祖は、西暦57年に新羅の王になった倭人の脱解尼師今である。
西暦815年に日本で編纂された『新撰姓氏録』には
神武天皇の兄である稲飯命は新羅王の祖であると書かれている。
※「漢委奴国王」を 初代天皇として数えていたとすると『新撰姓氏録』と『新羅本記』の記述が一致する それよりもドラクエだよ、
邪馬台国みたいなところが出てきたり
主人公達に退治される
キャラじゃなかった? 『松傾』に退治された、滅ぼされたみたいな話?
『倭猿』と言ってる人がいたり
『やまとねこ』? 津〜、〜神?
〜神というのも系統が違うようなことが書いてあったり まとめると、
瀬戸内海の特産品・塩と桃の財力に物を言わせ、吉備王家(楯築)が大和王家(唐古鍵)を征服して建てたヤマト王権(邪馬台国)は、
卑弥呼の代で倭国大乱の原因である衰えた北部九州の奴国王家(王なし)をも従えて、倭国の盟主に共立され、魏帝から親魏倭王と認められる。
吉備王家(鬼道=呪術)卑弥呼の死後、楯築墳丘墓に似た直径150m円墳(冢)を築いた(248年)。
跡を継いだ吉備王家・台与の死後、卑弥呼の冢(150m円墳)をスッポリ取り込む形で、最初から前方後円墳として(現・箸墓)を築き(280年〜320年)、
箸墓の地下に埋められている卑弥呼の墓の比定を巡る現在の百家争鳴状態に至る。 『松傾』
天皇、皇后が何やらとか
嘘(訳。解釈。)だと言ってる人がいたりw 『松傾』?
家と同じような気がするんだけど、
蚕を飼い、機織りとかしていたみたいな話をしていた
山の上のほうに住んでいて・・・? 倭・・・ヤマトタケルなどの系統でしょ、
系統が違うと書いてない? 驚いたな。。。
新羅というのは、高句麗の属国になったが、元々は倭人が朝鮮半島に建国したのだな。。。 仲哀天皇は、本当に、崇神天皇の子孫なのだろうか。。。 4世紀後半に作製された箸墓古墳の穴に埋まっていた、畿内馬具についての、研究が、高句麗と新羅と倭国と日本国の、関係性の謎を、究明していくのではないのかな。。。 吉備の勢力だって、もともとは筑紫から来たんだろう。
筑紫を出た神武が吉備に何年も留まっていたからね。 知っていると思うけど
すさのお?あまてらす・・・?、
兄弟(兄妹、姉弟、姉妹。なんでも良いけど)なんだけどw >>801
2世紀末の火山大噴火による大飢饉さえなければ、黄巾の乱も倭国大乱も起こらず、漢王朝は安泰で、漢委奴国王(倭王)も引き続き歴代奴国王家が担ったはずで、吉備&大和の農村田舎者・卑弥呼が政権を取る余地はなかった。
吉備&大和の邪馬台国が、歴代倭王である北部九州奴国王家に取って代わって親魏倭王になれたのは、北部九州ほどは大飢饉の影響を受けず、余剰食糧を大量に供給することができたお蔭とも言えるかも。
権力闘争に明け暮れていた北部九州の王たちも、食糧を次々に送ってきて民の命を救ってくれる吉備&大和の邪馬台国女王卑弥呼の力を目の当たりにして、跪くしかなかったのだろう。 最初の熊本城を建設した卑弥呼は、なぜ、幣立神社で人民を惑わしていたのだろうか、、、 >>930
>確率を無理に考えると 九州説と山形説がだいたい同じレベルw
山形説の人、ごめんなさい <
自然や歴史の資料事実や確率を無視すると、大和説や東京説と大体同じレベル。
東京説のお人、ごめんなさい。 記紀神話
むか〜〜〜〜しの中国の神話からの引用だぞ
と言ってる人ばかりだし >>800
>わしはあれ(左側の道)はマジで参道の名残りだと思ってるし。
ずいぶん弱気になったねw
箸墓の渡り堤の位置を画像で示されてからこの件に触れなくなったから
逃げたのだとばかり思ってたけど?
>五塚原は右に道らしきものがあるし。
もし万が一それが道だとしても、古墳の手前までしかない道は、今回まったく関係ないだろ
>葬儀の際の「葬送隊」が登る道はあっただろう。
それが、テンプレに書いてある「隆起斜道」
>>28 FAQ23
「スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。
棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に
墳頂に赴くため造成された通路である。 」 最初の熊本城を建設した天照大御神は、なぜ、高天原で人民を惑わしていたのだろうか、、、 >>933
もう「南→東」などの嘘つき騙しや、
ヘイトスピーチ的デマ流すくらいしか打つ手のない大和説。
あわれ。 「神殺し」の何が、おかしいのか?
天皇が何やらとか、アサノという人物が出てきたり、
そういう話じゃなった? >>938
「南→東」などの嘘つき騙しをし、
何も証拠の出せない大和説が、
ひたすらヘイトスピーチ的な街宣誹謗で誤魔化そうと、
足掻いてる。 4世紀後半に、高句麗の馬や馬主は、左側スロープを通行して、天皇の娘の墓を積み上げていったのではないのかな。。。 家の老婆と同じような事を言っているし、
アサノセメントというのがあって・・・という話 >>940
>真の卑弥呼墓は高天原だよ。<
「南→東」などの嘘つき騙しであるから、×。 >>944
「南→東」などの嘘つき騙しのような、
そんな妄想してるから大和説が死んだ。 アサノセメントがあるでしょ、
関係の会社で仕事をしていたみたいな話
他のスレにも書いたことがあるんだけど、
家は土木作業員ではないし
そこで仕事をしているときの話? >>947
史料実態からの計算根拠や確率が出せないとか、
「南→東」などの嘘つき騙しをするとか、
出所の示せない情報とかだけ・・・。
大和説は末期症状だね。 >>840
人民の家はなかったから、人民は少なくても、高句麗の馬がいたので、箸墓古墳を作製できた可能性が高いな。。。 >>949
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説の悲惨な歴史はもはや、明らか。 >>825
驚いたな。。。
うまかいべとは、新羅で捕獲した高句麗の馬主だったことが、判明したのではないのかな。。。 >>955
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は、
なんの反論根拠もない「ようで」、失笑 。 右翼、皇国史観?
何だか知らないけど、
成り済ましだと言っているんだよ もれ(仮)が言っているんだからそうでしょw
記紀神話なども、むかーしの中国の神話などからの引用 天皇家が纏向に最初に墓を作製したのは、箸墓古墳が作製された4世紀後半の、何年前なのだろうか。。。 >>830
黄巾の乱も倭国大乱もフランス革命も、古今東西、民は餓死するような段階に至って初めて、どうせ死ぬなら...ということで革命が起きる。
北部九州の奴国王家にマリー・アントワネットのような贅沢三昧の夫人がいて「パンがなければケーキを食べればいいじゃない」くらいのことを言ったんではないか?
これで一気に北部九州の民の怒りが爆発して革命が起き、(王なし)奴国王家の崩壊→食糧を大量供給した農村ヤマトの女王・卑弥呼に倭王の座が移った、と推測。 >>958
ほら、「南→東」などの嘘つき騙しの、
なんの根拠も出せない大和説。
つまり、インチキ。 『天皇 人権がない』
ガンダム?みたいな話になったんだと思う
『ガンダム サングラス』 シンクロ現象か何かなの?本当に何の話なんだろう
ダイクン・・・徳川?
声優:池田だいさく? 『河童の三平』
家に同じような写真があるんだけどw
タヌキ・・・徳川家康?
むかーし、どこかの城に通っていたんだよと言っていたり >>959
>布留1がおおよそ崇神の時代で古墳は行燈山、
なら纏向石塚は2世紀末、約120年くらいのスパンがある<
石塚は、撥型前方後円墳で庄内であるから、
卑弥呼の「冢」よりも後であり、
高句麗の前方後円墳の「くびれ部分が反り返り湾曲」に類似する那珂八幡よりも後であり、
大和の庄内も、筑紫よりも50年位以上新しいのであるから、
3世紀末頃。 >>961
「南→東」などの嘘つき騙しに執着する大和説ってのは、
もともと学説じゃなくて、万世一系皇国史観戦争主義の・・・・だから、政治思想なんだよ。
だから街宣車みたいにヘイトスピーチ連呼するけど、
根拠を示す意思も能力もない。
そういうことだ。
解り易い ザラコク氏も、前方後円墳が、モンゴルや高句麗から伝来したという真実を、知っているのではないのかな。。。 大物主の倉庫が、建築されたのは、何時なのだろうか。。。 >>972
>http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
これ、2016年w これより新しい九州説の論文貼ってよ
そしてこの論文中で
「私はこの仮称「ヤマト」国こそが
『魏志』倭人伝に記された「邪馬台国」であろうと考えている。」
思いっきり畿内説そのもので、距離なんて置いてないよ <
「邪馬台国」も「畿内」も存在せず、
勿論「南≠東」にも違反しており、
この男やスレ主らの大和説者らって、全くの・・・・詐欺師だよ。
この男らやスレ主らは、 大物主に、夜、忍び寄られていた天皇の娘は、何歳だったのだろうか。。。 4世紀後半に、高句麗の馬や馬主は、左側スロープを通行して、天皇の娘が埋まっている箸墓古墳を積み上げていったのではないのかな。。。 詳しいことは、わからないんだけど、
家というか老婆は二本松?
そっちのほうの話ばかりしている >>991
>私は第一の道を否定する立場である。 第二の道は多様である。
私は北部九州や、
2世紀以降とくに強大な勢力として新興してきた吉備を中心とした瀬戸内海勢力を、
維新主要勢力とした政治的談合による倭国の再編成(私の言う「新生倭国」の誕生)と考えている。
畿内や大和ではその直前まで首長墓を含む一般的墓制は方形墓なのであって、
しかも王権を構成した主要地域に比べると、
墓に反映されるほどの階級的に隔絶した首長権力が存在した形跡は微塵もないのである。<
ここまで言っているのに、寺澤は、尚も、
「南→東」などの嘘つき騙しや、
九州倭国の「東征毛人五十五國」の証言事実を、
一顧だにしない詐術的な説明をし続けており、
半分狂気の大和説学者だ、というしかない。 >>996
>これは寺澤氏の論文の一部をコピーして、ここに転載したものということか。
とすると、UiepmfCeDjqf氏がテンプレの中で使っていた「新生倭国の誕生」と、この寺澤氏の論文コピーの(「新生倭国」の誕生)が一致しているのだから、
UiepmfCeDjqf氏は寺澤氏と同一人物ということになってくるじゃないか。
だがしかし、Uiepm氏が寺澤氏と同一人物であろが、箸墓古墳円墳先造説が同じ大和派からも反論される状況では、
邪馬台国大和説はみごとに崩壊しており、すでに崩壊記念日が制定され、皆が神社参拝しているのが今の状況なのだから、いさぎよくUiepmf氏も皆と一緒に神社参拝柏手パンパンくらいしなければいけない。 <
成程。 >>867
>畿内や大和ではその直前まで首長墓を含む一般的墓制は方形墓なのであって
「土壙墓」も「甕棺墓」も「木棺墓」も「石棺墓」も「配石墓」も「方形周溝墓」も「円形周溝墓」も「円墳」も「前方後方墳」も「前方後円墳」も全て在るのは倭国(阿波)だけ。 @阿波 寺澤氏とokuyama氏には、どういう関係性があるのだろうか。。。 >>745
>「天石門別八倉比売神社」裏手の円墳。
これ?
https://goo.gl/maps/NShYzqtk3co
ショボっwww
さすがは「徳島県民が通ったあとはペンペン草も生えない」と言われるだけあるw
で奴婢の痕跡は?w >>830
前方部先造説と同じ。
邪馬台国畿内説のこじつけ。 浅野セメント?
調べてみると徳川某という人物がいたりするんだけど、
何か関係しているのかな? 『浅野セメント 徳川』
何の写真なんだろう『河童の三平』? >棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に
墳頂に赴くため造成された通路である。
「墓壙に直結する作業用墓道」ってわしが言ってた事そのままなのだが。 >>873
>俺が言ってるのはここに来るまでの道のり。
この時点で、話をずらしてごまかそうとしている
この斜路、スロープの話は、最初から墳丘構造の話
墳丘の外の話にすり替えようとした時点で、論点ずらしのインチキ >>876
>「墓壙に直結する作業用墓道」ってわしが言ってた事そのままなのだが。
また嘘でごまかそうとしている
>>876が言っていたのは、それが「左側スロープ」だっていう主張だっただろ?
素直に間違っていた部分は間違っていたって認められるといいね! あと天孫〜皇統〜、何の話なんだよ、
デタラメなんだけどw >>877
>>878
いくら言っても箸墓円墳部先造説にはならないので基本どうでもいい。
俺はちゃんと卑弥呼が誰なのか提示して、
その一族が住んだ場所の径百余歩の奴婢が埋葬されてる塚を提示してるし、
また箸墓被葬者も崇神の前の磯城の王だと提示している。
五塚原とか雷塚とも深く関わる王なので間違いなかろう。 どうでもいい、という言葉で、自分の間違いを糊塗するんだね!
了解!
間違いであることをいうときには、「どうでもいい」というんだww 天神が何やらというのもデタラメだし、
後付けだろと言っているんだよ >>872
遺体を収めるのは円墳の部分なので
現代人の感覚でも円墳を先に作るのは妥当だが
こじつけっていうのはどこがこじつけなの 左側スロープ君は、全面的に間違いを認めました
左側スロープ論争はここで終結です
あとは、ことある毎に掘り返して、
「左側スロープ君」こと、葛城厨の人は、
資料の見方の分かっていない、間違いを素直に認めることができない人と
いう事実を共有しましょう >>881
おまえが箸墓円墳部先造説(笑)を間違いと認めるなら俺もスロープを間違いと認めよう。 誰が作ったのか知らないけど、謎のチェーンソーのゲーム
「渡来人どもめ〜」と言っているし、敵の台詞 >>880
>奴婢が埋葬されてる塚
前にも一度訊いたんだが、それの根拠となるソースは示せる?
少なくとも考古学的な発掘遺物はなかったと思うんだが?
伝承か何かなのかい? >>885
これに答えて
遺体を収めるのは円墳の部分なので
現代人の感覚でも円墳を先に作るのは妥当だが
こじつけっていうのはどこがこじつけなの >>883
円墳部分を先に作ったなら周濠に何かしらの痕跡が出るって。
若干の時間差が地層の変化などに現れる。
それがないのは円墳部分を先に作ったなんて「ない」からだ。 他のスレにも書いている事なんだけど、名前は?
あと国宝が何やら〜とか決めている人間の名前とか >>888
国宝になったのは昭和6年満州事変の年。
大和朝廷及び古代天皇は朝貢していない、朝貢してたのは九州だという印象操作。 >>870
寺澤信者が1
しかし、寺澤も纏向王都はあきらめた FAQ 23に書いてるのは
高さ30mの円丘を造る工程の推定だよな
大量の土を運ぶには作業用スロープをつけて円丘から先に造らないと
方丘に同時に土を盛ったら効率悪いだろ
棺を方丘を完成させてから運ぶのか、円丘が完成した段階で運ぶのかだな >>893
最近の話じゃないの?誰が国宝だと言ったんだ >>887
>少なくとも考古学的な発掘遺物はなかったと思うんだが?
アホ。
名神大社の御神域を発掘などできるか、この下人。
>伝承か何かなのかい?
神武の土蜘蛛征伐。 もう一度言おう。
円墳部分を先に作ったなら周濠に何かしらの痕跡が出るって。
若干の時間差が地層の変化などに現れる。
それがないのは円墳部分を先に作ったなんて「ない」からだ。 伝説の『河童の三平』の写真は、
明治の〜頃のものだと言っているから、神級? 馬蹄形の基壇部を先に造ったら
円墳部分から先に完成した痕跡は周濠には出ないだろ 本当の神級は機織りなどをしていたんだよ、
なぜわからないんだろう
国宝だ〜何やらとか決めていたのも、
騙り、成り済ましだろう >>885
スロ爺は事実を認めないの?
あんたは言ってた
384 名前:日本@名無史さん :2018/10/25(木) 20:33
https://www.sankei.com/west/news/141016/wst1410160069-n1.html
>箸墓古墳は卑弥呼の墓説もある古墳で、全長約280メートル。
>陵墓指定され発掘できないが、平成24年に奈良県立橿原考古学研究所などが3次元航空レーザー測量を行い、
>箸墓古墳の前方部の横にスロープ状の面があることが確認されている。
>
>つまり送葬の段階で前方部があったんだwww
>
>アホの>>1 糞どアホォの>>1
いま言ってることと違うよね もし、前方部を後に作ったとしたら魏使は不完全な墓を見たことになる >>904
意見を変えたんだよ悪いかい?
おまえが箸墓円墳部先造説(笑)を取り下げたら間違いを謝罪しようw
さぁ取り下げろw 国宝ではなかった・・・?という、
そういう取り消しもあるはずなんだけど あと、この曲w
Dead Or Alive『Turn Around and Count 2 Ten』
『カラステング』
みたいな事を言ってる人がいたり、何の話なんだと思う 棺は緩やかなスロープで運ばないと
卑弥呼様が棺の中で団子みたいになってしまうぞ 箸墓=(卑弥呼の冢が地下に埋まっている)台与のマトリョーシカ墓 本当の話なんだよ
どこそこ、誰々は、
偽の〜〜〜を祀っている
ネットなどでも言われていたりw 家は・・・、
むかーし山の上のほうに住んでいたんだよ、
いまの福島県?そっちのほう
でっど・おあ・あらいぶ?
鬼太郎のようなキャラだったりw >>916
円墳部先造説(笑)の痕跡がない。
そういうと、
痕跡がない根拠は?
その証拠は?
といつものパターン。
円墳部先造説(笑)は河上邦彦さんあたりの「そうあって欲しい」と言う願望説。 よくわからないんだけど、
家の真似をしているのがいたんだろう?
(神様の)真似なんてしているから、
このような事になってしまった
と言ってる人がいたり >>911
全くその通り。
俺は前方部側道から葬送隊が棺を引き上げた説を変えない。
まぁ基本、箸墓は卑弥呼の墓ではなく五塚原や雷塚とも深い縁を持ってたイカガノシコオであることは明白なのだが。 高さ30m(10階建)の土盛をどうやって造るかの話 神が何やら〜とか、
どうでも良い話なんだけど
すさのお〜天津神と書いてない?
やまと?系統が違う すさのおには、
兄弟(姉でも妹でも良い)がいるという話なんだけど、
どういう事だと思う 箸墓は卑弥呼の冢(円墳)の横に前方部を付けたしたのではなく、それを上から覆うように最初から前方後円墳として造ったということ。
これならその築造年代が280年〜320年にも合う。 >>907
>意見を変えたんだよ悪いかい?
悪いでしょう
あなたが言ってたことが間違いだと
動かぬ証拠を突きつけられたら
結論が変わらないように意見を変える・・・
ほかの人には見えない幻のスロープを発明する・・・
それって、汚い行為だよね >>922
それはおまえの主観。
どっちにしても一番低い部分から引き上げたことに変わりはない。
円墳と方墳の付け根あたりだな。
しかし平地からするとかなり急角度ではある。
そこで強引に引き上げるよりはなだらかな道(スロープ)を造る方が効果的。 >>925
>ほかの人には見えない幻のスロープを発明する
見えてるだろ。
誰かが農道と言ってたし。
おまえこそ円墳部先造説(笑)を謝罪せよ。
全く痕跡がないのだから。 >>926
方部左下からの等高線が斜めに横切る農道としか繋がっていない >>928
>方部左下からの等高線が斜めに横切る農道としか繋がっていない
方部左下からの等高線が斜めに横切る農道としか繋がっていないと言ってるわけだが。 >>933
「破壊して」には見えないが。
段差部分が緩やかに消失している。
最初から存在した可能性も捨てきれない。 農道っていうけど箸墓が果樹園か何かになってたっけ? >>830
応仁の乱が起きなければ、尾張の留守番家老の信長が天下を取ることもなかっただろうね 農道は農家と農作業場,耕地との間や,耕地と耕地との間に設けられた農作業上必要な道路 >>941
アホ。
その模型を作ったやつが大雑把に創っただけ。 大雑把な模型なんて出して馬鹿じゃね?
何のためにレーザー測量したんだい? レーザー計測データから復元模型を製作したのは桜井市立埋蔵文化財センター >>934
「段差部分が緩やかに消失している」って証拠は? >>944
ないという前提で簡素な模型を造ったのだろうね。
で桜井市立埋蔵文化財センターは円墳部先造説(笑)なのかい? 桜井市立埋蔵文化財センターは、
円 墳 部 先 造 説(笑)な の か い?
どうなんだアホの>>1 後世に削られた農道が最初からあるように見えるのは
雑木林を王墓だと連呼するやつだけ 桜井市立埋蔵文化財センターは、
円 墳 部 先 造 説(笑)な の か い?
どうなんだアホの>>1 桜井市立埋蔵文化財センターは円墳部先造説(笑)ではない。
以上。
アホの>>1
アホのぉ>>1 4世紀後半は、人民の家がなく、人民は少なくても、高句麗の馬がいたので、馬が通れる左側スロープを伸ばして、天皇の妹を埋める箸墓古墳を作製できた可能性が高いな。。。 天皇の、名誉が下がった時代に、天皇の娘の墓を削って農道を作製したのは、何時代なのだろうか。。。 >雑木林
日本最古の神社の御神域。
口を慎め下人。
>誰の学説
なんで誰かの学説でないといけないのかな?
卑弥呼が誰なのか答え切れてないやつの学説なんて、
たとえ有名な学者であれ全然意味がない。 箸墓古墳は、雑木林を植えるための謎の物体だった可能性が、出てきたのではないのかな。。。 >雑木林は墓である根拠すらない
あるよ。
そんなに古くはないが墓群があるから。
地元「高天原」で墓域であった証拠。
恐らく水源地なので土葬が出来なくなったのであろう。
「棺あり 槨なし」だ。
纏向と大違いwww 御神域に小便を放った男が、憤っているのではないのかな、、、
956日本@名無史さん2018/10/31(水) 15:29:11.89
>雑木林
日本最古の神社の御神域。
口を慎め下人。 >>956
神域であろうが雑木林であることは間違いない
墓である根拠を見つけてから言え、東側スロープカモ太郎 畿内説が、同士討ちで、全員死体になってしまったな、、、 >>961
高天彦神社拝殿左にも土蜘蛛が埋まってますよん♪ >>963
知らんが明治以降か。
地元のジジイに話しを聞きたいがなかなかジジイが出てこない。 >>968
お前が勝手に100人分にしてるだけだろ 高天原に径百余歩の卑弥呼の墓がある。
そしてちゅち雲が埋葬されている。
この圧倒的事実にひれ伏せ、下人w
ヒミコは庄内0期
I崇神(310年頃 318年没)
H開化
G孝元
F孝霊
トヨ津 E孝安 D孝昭
トヨ津 (250年頃) C懿徳
ヒメ(踏鞴五十鈴) B安寧
ヒメ(踏鞴 五十鈴) A綏靖
ヒメ(踏鞴五十鈴) (200年頃) @神武 >>970
>高天原に径百余歩の卑弥呼の墓がある。
それはただの雑木林と天然の洞窟だ、目を覚ませカモごろう >>972
太古、神社というのは墓でもあった。
これ常識。 >>973
神社は神が降りる神聖な場所
元々は山などを御神体にしていた
その神聖な場所で立小便したのがカモ作お前だ その土蜘蛛というのは、いつ頃の話なんだ?
ちなみに家の老婆(旧姓:渡辺)は死んだよ
謎の震災(311)が起きてから、具合が悪くなり 老婆の親戚などには連絡しなかったんだけど、
本当に近所の人は知っているはず、何度も入院したりしていたの
朝起きてトイレに入っていたとき、
苦しくなって・・・苦しくて死んじゃないそうだから電話をして
入院〜また同じような状態になり・・・四回くらい入退院 >>946
>>>944
>ないという前提で簡素な模型を造ったのだろうね。
>で桜井市立埋蔵文化財センターは円墳部先造説(笑)なのかい?
なんて鋭いところをつくんだw 左側スロープを通行して、高句麗の馬が、何十メートルも上に、石や土を運搬したのだな。。。 退院してきたときも、
本当に死んじゃうかと思ったと言っていた、
呼吸が出来なくて苦しくなり、なにか汗が出てきて
何なんだと思う?
震災が起きて、どれくらいだったんだろう
なぜか『北斗の拳【再】』を観ていた 桜井市立埋蔵文化財センターというものも、あるので、税金が莫大に浪費されているのでは、無いのかな、、、 後世に削ったから築造時の模型には農道はない
FAQ 23は築造法を推定しているのだから
誰か学者が円墳部先造説を主張してるかどうかは関係ない 纏向学研究センターと橿原考古学研究所というものも、あるのではないのかな。。。 奈良の古代遺蹟の製作時期を主導的に検査し、偽造を実行したので逮捕された人物や、税金で購入した備品や税金で雇用した係員を私的に使用した人物は、本当に、国家や奈良県の地方自治体の組織に雇用された者達だったのだろうか。。。 モンゴルや高句麗の、前方後円墳や乗馬が、纏向に伝来した4世紀後半、一体、天皇家に何が発生したのだろうか。。。 邪馬台国畿内説はなぜ駄目なのか
1つ目の理由
箸墓古墳を作製した崇神天皇は、720年に完成した日本書紀を作製した人物の、16回の親子関係で繋がった先祖です。。。。
日本書紀の記録した時代の、父と子の年齢差は、学部によると、平均が21.6歳であるから、箸墓古墳が374年頃に完成しました。
720-21.6✕16=374.4
2つ目の理由
箸墓古墳を作製したときに掘った穴の数十年かかって積もった固い土の中の、底から20年分の部分に、紀元後400年頃の畿内馬具が落ちているのが、発見されました。。。
だから、箸墓古墳が380年頃に完成しました。
3つ目の理由
2013年に実行された箸墓古墳の大規模調査で、纏向遺蹟は全体も、魏志倭人伝時代の後の遺蹟だと判明しました。。
4つ目の理由
何十年もかかった、延べ数十万人の調査では、掘立柱の周りには、鉄と人民の家がありませんでした。。
そして、桃の種が発見されました。
だから、掘立柱は大物主の桃の倉庫の柱でした。。。
5つ目の理由
魏志倭人伝時代には、奈良盆地は沼地でした。
だから、人民が都会を作れませんでした。
6つ目の理由
畿内説の宣伝係には、頭の悪い人が多いです。
だから、畿内説の嘘の宣伝が、国民に信用されません。。。
日本史板にスレッドを作製すると、悪質な荒らし行為によって、討論が妨害されるので、避難所を製作しました。
http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/entrance/1539752632/1 モンゴルや高句麗の、前方後円墳や乗馬が4世紀後半に纏向に、伝来したのはなぜなのだろうか、、、、 熊本城から船で出発し、島伝いに五千里進んだ場所にあったという、倭地の果てとは、何処なのだろうか、、、 邪馬台国畿内説はなぜ駄目なのか
1つ目の理由
箸墓古墳を作製した崇神天皇は、720年に完成した日本書紀を作製した人物の、16回の親子関係で繋がった先祖です。。。。
日本書紀の記録した時代の、父と子の年齢差は、学部によると、平均が21.6歳であるから、箸墓古墳が374年頃に完成しました。
720-21.6✕16=374.4
2つ目の理由
箸墓古墳を作製したときに掘った穴の数十年かかって積もった固い土の中の、底から20年分の部分に、紀元後400年頃の畿内馬具が落ちているのが、発見されました。。。
だから、箸墓古墳が380年頃に完成しました。
3つ目の理由
2013年に実行された箸墓古墳の大規模調査で、纏向遺蹟は全体も、魏志倭人伝時代の後の遺蹟だと判明しました。。
4つ目の理由
何十年もかかった、延べ数十万人の調査では、掘立柱の周りには、鉄と人民の家がありませんでした。。
そして、桃の種が発見されました。
だから、掘立柱は大物主の桃の倉庫の柱でした。。。
5つ目の理由
魏志倭人伝時代には、奈良盆地は沼地でした。
だから、人民が都会を作れませんでした。
6つ目の理由
畿内説の宣伝係には、頭の悪い人が多いです。
だから、畿内説の嘘の宣伝が、国民に信用されません。。。
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