【初心者】スレッド立てる前に質問をPart38【歓迎】
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夫婦仲が良い前田利家まつは子だくさん
夫婦仲が良い山内一豊千代は子はできなかった
夫婦仲が悪い島津家久亀寿は子はできなかった
では夫婦仲が悪くてある程度子が産まれた夫婦はいるのでしょうか 読みにくい文字の場合、前後の文字も見て文脈で判断せざるを得ないこともあるんだから、一文字だけ切り出さないで2行か3行分ぐらいまとめて提出する方がいい 平成日本は没落の時代
まさかここまで厳しい時代になるとは思わなかった 日清戦争は陸奥宗光が計画的に引き起こしたのでしょうか 江戸時代、かごに乗れる身分、馬に乗れる身分。なにも乗れない身分と決まりがあるのか?あればどのような階級で分けられているのか教えて頂きたい。 >>15
武士の身分は「侍」と「徒士」に大きく分けられる。侍は本来の武士であり馬上で戦う。徒士は南北朝時代あたりからの
集団戦が主体の戦いに対応するために増員された身分であり徒歩で戦う下士である。江戸幕府で言うと旗本は
侍であり御家人は徒士である。足軽は士分に入らず徒士より下となる。町奉行所の与力は「侍」で同心は「徒士」で
ある。時代劇で大捕物の時に奉行とか与力は騎馬だけど同心は走っていくのはそういう訳だ。
駕籠はいろいろややこしい。だいたいこうらしい。
武家諸法度に、「乗輿ハ、一門ノ歴々・国主・城主・一万石以上ナラビニ国大名ノ息、城主オヨビ侍従以上ノ嫡子、
或ハ五十歳以上、或ハ医・陰ノ両道、病人コレヲ免ジ、ソノ外濫吹ヲ禁ズ。但シ免許ノ輩ハ各別ナリ。諸家中ニ至リテハ、
ソノ国ニ於テソノ人ヲ撰ビコレヲ載スベシ。公家・門跡・諸出世ノ衆ハ制外ノ事。」とあり、「乗輿」は、「乗物」と理解されますが、
「或ハ五十歳以上、或ハ医・陰ノ両道、病人コレヲ免ジ、ソノ外濫吹ヲ禁ズ」の条文は「駕籠」にも適用され、江戸初期には
厳しく遵守を命じる法令が出ていますが、逆に言うと守られないことが多々あったので、禁令が出されたことでもあります。 子どもの頃に、大きな庄屋だったという親戚の家で甲冑を着させてもらったことがある。農民なのに何で甲冑があったのだろう。他に刀、火縄銃があった覚えがある。 百姓が庄屋になるのではない
地方の豪族というべき旧家が庄屋に任ぜられる
元は武装して領主を張っていた家だ
そこらの侍が及びもつかない旧家
大庄屋となればその格式たるや大層なものだ
家に何が伝わっていようと驚くものではない
明治を迎えればはばかることもなく甲冑でも何でも出してくるだろう 江戸時代の大名達の官職名に国名に守てのは凄い一杯いますけど
たまに中務大輔、大膳大夫とか変わった官職名を名乗ってる人達がいます
その名乗りの基準的な物はあるのでしょうか? 伊達政宗
従五位下・左京太夫、越前守
従四位下 右近衛権少将 陸奥守
正四位下 参議
従三位 権中納言
浅野長矩
従五位下 内匠頭
井伊直弼
従四位下 玄番頭、左近衛権少将、掃部頭
そうせい侯 毛利敬親
従二位 権大納言
‥大名でもなんとかの守でない人多いよ そうせい侯の従二位権大納言は明治維新の功績で明治2年に叙されたもので江戸時代の
毛利家としては破格。江戸時代の歴代は従四位上参議とか従四位下侍従とかでしょう。 >>22
井伊は同じ官位で3つも貰ってるのは何か使い分けみたいな物があるんでしょうか? >>23
幕府での役職を得たときに、役職によっては相応の官職名がつく
官職名には幕府内で一定の基準がある、内容までは知らないけど。
だれか続き頼む 弘化3年(1846年)12月16日:従四位下侍従兼玄蕃頭に叙任。
嘉永2年(1849年)12月16日:左近衛権少将に任ぜられる(玄蕃頭兼任)。
嘉永3年(1850年)12月27日:玄蕃頭から掃部頭に遷任(権少将如旧)。
安政2年(1855年)12月16日:左近衛権中将に転任し、掃部頭は従前通り兼任する。
安政4年(1857年)12月16日:従四位上に昇叙。左近衛権中将掃部頭は留任。
安政6年(1859年)12月15日:正四位上に昇叙。左近衛権中将掃部頭は留任。
最初が侍従兼玄蕃頭
次が玄蕃頭兼左近衛権少将
次に左近衛権少将兼掃部頭
次に左近衛権中将兼掃部頭
次に従四位上に昇進して左近衛権中将兼掃部頭
最後に正四位上に昇進して左近衛権中将兼掃部頭
つまりほとんど兼任で箔をつけるためですね。 室町時代の最大の悲劇のヒーロー足利義嗣は上杉禅秀の乱と連携して山城国高雄へ出奔したのかな
臣下に無理やり連れられた可能性もあるか >>26
のへーっと生きてたら世襲の官職だけ
幕府に貢献したらバシバシ追加される感じですかね >>28
井伊直亮 正四位上左近衛権中将兼掃部頭
井伊直中 従四位下侍従兼玄蕃頭>掃部頭>少将>中将
井伊直幸 従四位下侍従兼玄蕃頭>掃部頭>少将>従四位上>中将>正四位上
直弼の兄で先代藩主である直亮は11代将軍家斉の大老として最終的に正四位上左近衛権中将兼掃部頭だった。
その先代で直亮・直弼の父である直中は老中松平定信の老中就任の要請を断って従四位下侍従兼
玄蕃頭>掃部頭>少将>中将とゆう官暦。
その先代直幸は田沼意次とともに10代将軍家治の大老を務めた。上昇志向が強くて度々幕府に働きかけて
50歳を機に功績も考慮して正四位上を貰った。
そういうわけで井伊家の伝統として従四位下侍従兼玄蕃頭からスタートして掃部頭を経て左近衛中将という
流れで、功績や幕府への働きかけで兼任したり官位が少し上がったりということですね。 徳川慶喜
慶応二年 正二位、大納言、征夷大将軍
慶応三年 官位剥奪
明治五年 従四位
明治十三年 正二位
明治二十一年 従一位
中曽根康弘 従一位
正一位 稲荷大明神 室町時代の庶民は髷を結っていましたか?
髷の機嫌はカブトをかぶるときに頭がむれないように髪をそって
髷でかぶとをうかせたとのことですが、
江戸時代はともかく室町時代もカブトをかぶらない庶民が髷をしていたと思えないんですが 〜□位なんて関係ないんだよ、
そういう制度などを採用、取り入れたりする以前に・・・
(大げさにいうと神)・・・だったという家があって
そういう家や人々などは、すべてを超越している、
知っている人は知っているはずなんだけど
他の国から倣った、取り入れたものだとするなら、
取り入れた先の国の人々のほうが・・(上)・・になるでしょ >>29
もう世襲で先代の官職をなぞってるだけなんですね >>31
兜をかぶった時に頭が云々ってのは髷じゃなくて月代な
成人男性のほとんどは飛鳥〜奈良時代くらいから髷を結っていたみたい 髪は長く伸びるものであるから、まとめて括っておかないとザンバラ髪になって見苦しい
異性へのアピールにもかかわる
縄文、弥生の人たちに短く刈っておけと言っても難しいだろうから髷を結ってもらうしかない 平安時代の貴族は何故、
頑なまでにいついかなる時も帽子を被ってたの?
(´・ω・`) 平安時代には烏帽子にいくつかの種類があり、使い分けて格式を表した
次第に庶民も被り物をするようになり、鎌倉から室町前半には成人男子が被り物をしないのは恥と思うようになっていた
被りものは男性の象徴と捉えられるようになったので、これを取られて髷を露出させてしまうことは大変な恥辱であった
このような特に実質的な理由からというのではなくある習慣が根強く支持されるというのが文化というものであろう
だが、戦国時代以降は日常生活から次第に何も被らなくなっていった
それでも、明治、大正のころには外出時に男性が帽子をかぶることはごく普通のことだった
今は制服の中に帽子着用が残っている 明治以降の帽子は西洋に倣って被るようになったんだが、その後の世界的無帽化の趨勢で日本でも廃れた 細川氏が戦国時代になってからも将軍から名前の一字を貰ってるってなんのポーズなの
忠誠するつもりがない相手から名前貰って嬉しいか >>36
ハゲが隠してたからまわりもそれに合わせたんだよ 武官束帯姿の?って目の風よけであるんでしょうか? 弓でねらいつけるときにあると便利なんですかね・・
http://costume.iz2.or.jp/costume/34.html 女の割礼なんてアフリカの中央部くらいのもんだ
男でもここらでは朝鮮くらいだわ Wikipediaの千利休のところに
秀吉は元々わび茶が嫌いで、ある日彼の命令で黄金の茶室で「大名茶」と
よばれる茶を点てた頃から利休は密かに不満を募らせていた。さらにこの後、
利休が信楽焼の茶碗を作っている事を聞いて憤慨した秀吉はその茶碗を処分するよう利休に命じたが、
利休が全く聞く耳を持たなかったために秀吉の逆鱗に触れたという説。
とあるのですが信楽焼だとなぜ怒るのですか? >>47
秀吉は派手な黄金の茶室や北野大茶会のような大掛かりなイベントが好みでワビサビは貧乏くさくて嫌い。
信楽焼はワビサビを体現する焼き物であり秀吉の好みではない。
だから貧乏くさい侘び茶はやめてもっと派手にしろ、と命令した。
利休が到達した侘び茶という高みを否定されたので利休も黙って受け入れるわけにはいかない。
という説なわけだ。 秀吉の派手好きって自らの出自に対する劣等感だよな
それに加えて人間不信もあるし
天下人になってはいけない人間だった >>48
ありがとうございます 信楽は地味なんですね
>>49
今でも例えばスカイツリーをあえて地味に3メートルで作ろうとか言ったら
問題になりますし、単に政治と芸術の折り合いがつかなかったんじゃないでしょうか
とはいえ茶人の功績は生活全般にわたってると言われますね 秀吉流の「大名茶」とか言うのは、当時としてはむしろ詫び茶以上のレベルの完成度、1つの到達点だった!
と言う意見だってあるんだぞ。
後継者なく消滅した大名茶と違って詫び茶は連綿と引き継がれてるから、歴史の重さでは間違いなく詫び茶の圧勝ではあるが。 大名茶(武家茶道)は武士階級だけの楽しみであって、庶民には縁が無いからなぁ。
>>50
>信楽は地味なんですね
桃山時代の焼き物では織部焼なんかが造形や絵付けに凝ってて面白いけどわざと形を歪ませたりもするので
その辺は秀吉の好みじゃないかもしれない。もしかしたら秀吉はキラキラ光る曜変天目とかが好きかもしれん。
一方利休の好みは真っ黒い黒楽茶碗とか。信楽も割と素朴な作りです。 今はお布施は封筒に神のお札をつつみますが江戸時代はどうでしたか? 地方によって風習も違うが、葬祭で現金は大して使うこともなかった
百姓なんか現金など持ってない
裕福な者では野辺の送りの途中でも銭を撒きながら進んだりしたが、菩提寺へも銭撒きとして二貫、三貫の銭を送る者もあった
懇意・近隣・町内の者は香典として香、饅頭、赤飯、米などを持参(何も持参しない者も多かった) >>54
なるほどお金じゃなかったんですね
なんか大根とかを渡してる姿が浮かびましたw 昔は紙幣がなかった
(原則から外れて藩札が一部であったりしたが)
その頃、人に手渡す紙と言えば、手紙、書き付け、書状の類だ
現代の香典を包む紙はこうした書状の包みを応用しているのではないか 昔は葬儀業者などなかったので、葬儀は村内近隣、町内の協力で執り行った
村八分を受けている家も、残りの二分のうちの一分で葬儀は皆から協力を得た
田舎では1960年代にはまだ葬儀業者は居なかったので、葬式の祭壇を飾る花から紙細工、木工まで近隣の人が手作りしていた、 戦いの名前って誰が決めてるんですか?関係ないかもしれないけど。 徳川「姉川の戦い」
織田・浅井「野村合戦」
朝倉「三田村合戦」
ワーテルローの戦い(仏語読み)
ウォータールーの戦い(英語読み)
ラ・ベル=アリアンスの戦い(独呼称)
声の大(多)さじゃねぃ? 太平洋戦争の大本営発表で、日本軍のかくかくたる戦果発表と共に、この戦いを〇〇航空戦と呼称するなんて放送があったと思う
軍当局が戦いを名付けたと言っても、その名前も誤認だらけの戦果と共に後の世では否定されてしまったりする
結局、後の歴史家‥に限らず、歴史を眺める目が戦いの名前も固めてゆくんじゃないか 大東亜戦争とか支那とか満洲とか中共とか、言葉狩りで一時廃れた言葉はあるけど、
否定された戦いの名って何?
あと、米も英も負けてる間は「誤認だらけの戦果」で自国民を騙してるけど、誰も否定しないね。
寧ろWWUで負け戦の最中でも正確に報道した国ってどこよ?
俺はそっちを知りたいわw 日本海海戦みたいな戦艦同士のガチンコ対決って世界的に他にもありますか? ジュットランド沖開戦とか?
ド級戦艦辺りなのかポストジュットランドなのかww2なのか… 1942年11月、ガダルカナル島をめぐる第三次ソロモン諸島沖海戦では戦艦を含む日米の艦隊が夜間、探照灯を点じての砲撃戦を展開
先ず、戦艦比叡が沈没して日本初の戦艦喪失となった
翌日夜にも夜戦があり、戦艦霧島は米戦艦サウスダコタに損害を与えて戦場離脱させたが、戦艦ワシントの砲撃により航行不能に陥って沈没した
比叡は、2019年1月31日、故ポール・アレン氏の探索チームにより海底に沈没しているのが発見された 日露戦争ン時、近代海軍の世界の海戦史上ではじめて、砲戦による沈没が起きたとかいってなかったっけ
それまでは航行不能による廃棄に際して爆薬で沈める自沈ぐらいしかなかったとか? ホントなのか知らんけど。 砲弾は大体は喫水線より上に当たるものだから、船体に穴が開いて浸水沈没と言うのはしにくい
比叡、霧島も共に砲戦で被害を被ったあと随分後に航空機や駆逐艦による魚雷攻撃を受けて開いた水線下の穴から浸水して沈没している
日本海海戦でも、砲戦で動きが鈍ったところへ日本の水雷艇による肉薄魚雷攻撃で沈めたものも目立つ
砲戦の被害で降伏したり沈んだものもあったが >>65>>66
ありがとうございます調べてみます
航空戦力が無い時代の海戦が知りたかったです 畠山義就と斯波義廉どこで差がついたんですかねえ?
どちらも応仁の乱の敗者になって下国したところまでは一緒なのに、義就は討伐令もお構いなしに大暴れを続けているのに対して
義廉は一時は管領まで務めたというのに討伐令がだされると支持者を失って、行方不明という末路
似たような立場なのに何がどう違ったのやら 領地の武士たちをきちんと被官化してなかったからでしょ
斯波家と無関係な外部から無理矢理養子入りさせられたから、一部の有力者、甲斐とか朝倉とかの重臣としかつながりがなかったんじゃね
斯波家の一門、親類たちとすら没交渉では、凋落が早いのもしかたない 細川政元や上杉謙信は何故家督争いを起こすような養子を迎えたのでしょうか? 政権運営の都合で、必要だから養子に入れたんでしょ
謙信の場合だと、後継者候補はひとりに決めていて後継争いが起きるとは思っていなかった可能性が高そうだけど。
謙信生前の景勝の立ち位置を見る限り、景勝は後継者候補とみられてはいなかったとしか思えない。 >>39
内裏に住まう貴い方の風俗を真似る
平安朝の十二単だったりするが、髪は江戸時代になって可能になった型をしていたりする
ひな壇の一番上の男女が「内裏様」で、そのほかに官女や囃子方などのひな人形を追加する
童謡「ひな祭」では♪お内裏様とおひな様、二人並んですまし顔‥となっていて、作詞のサトーハチローは勘違いしたと恥じていた由 正解! 『萬葉集』から
命令に従っておけば平和だよって意味か
安倍首相が口出し「新元号は日本の古典から」の無知と不遜
ttps://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/248652 その記事を書いた記者の無知と不遜が無残なまでに顕となった。 この記事はひどい…
安倍憎しのあまりこんなバカの極みのような記事を書くのか… >>77
麻生叩きやってた時、北海道新聞は「ホテルの中にある〇〇というバーで高級生ビールを飲み」
とか書いて叩いてたけど、そこに掲載されたバーの写真には、「生ビール500円」って書いてたよ 日本人は「ハレとケ」を何より尊重するんだよ。日経連とは違うのさ。 田中角栄といえば政治的功罪+人間的魅力で語られることも多い傑出した首相の一人だと思うのだが、
山川日本史を読んでいると、「日中国交正常化」という見出しの中で3行だけ記載されていただけだった
一方、田中義一は「金融恐慌」の見出しの中で3行、「田中外交」の見出しの中で10行、
「金解禁と昭和恐慌」の見出しの中で3行も記載があり、さらに「満州某重大事件」というコラム欄の中で
そこそこの量の記載があった
現代人から見ると田中角栄のほうが首相(政治家)としていろいろ語るべき部分が多いように思うのだが、
歴史を俯瞰的に見た場合、田中義一のほうが語るべき部分が多いということなのだろうか?
触れられているのは日中国交正常化のみで、日本列島改造論や内政での様々な政策、金権政治、今太閤、
ロッキード事件などの記載はゼロだった >>80
同時代のことを知らないから分からないだけで、義一の影響は絶大だろ
記述量の差に相応の、絶大な影響を残してるじゃん >>81
あと何十年か経って角栄の時代が現代史から日本史に変わった時に
角栄関連の記述量が増えたりするもん?
増えるどころか減るんじゃないの、年々教科書のボリュームは増える一方だから
>>83
勉強不足で田中義一の功罪に詳しくないけど、そんなに重要な首相だったの?
満州某重大事件のことは知ってるけど
田中角栄は比較的現代に近いという点はあるけど、現在の行政制度の大枠を構築したって
言われるくらい功績は大きい
土建国家と揶揄されたりするけど、日本の土建行政、電波行政はまんま角栄が作ったと言われる
プラス面だけでなく、金権政治っていうマイナス面も大きい
当時の圧倒的カリスマ首相が失脚したロッキード事件もインパクト大きい
あとは首相政治家だけでなく、人間田中角栄の魅力もよく語られている
部下や有権者の心をがっちりと捉える人心掌握術、小卒から首相へ登りつめた今太閤、
頭の回転とタフな行動力を例えたコンピューター付きブルドーザー、
死後数十年、何度か繰り返された角栄ブーム
まあ人間的魅力とかは教科書に書かれる類のものじゃないけど、そういうことも含めて
田中角栄は傑出した首相の一人じゃないのかなって思うわけ
功罪含めていろいろ語れる要素が多い首相 >当時の圧倒的カリスマ首相が失脚したロッキード事件もインパクト大きい
ロッキード事件云々は田中退陣の後だよ。
田中より吉田や池田・佐藤の方が記述量は増えるだろうね。
田中は総選挙で勝てないし、対ソ連・中東で米を怒らせたから経済界からの心象が悪い。
田中のマイナス面の筆頭は土地の高騰と公害。
好意的に評価できる点は、在任中に様々な批判を浴びたが、それらへの一定の手当てを行ってきたことかな、俺的には。
田中義一はなぁ…とっくに嘘なのが明らかなのに未だに田中メモを事実として吹聴する現役教師がいるから、
サヨク教師は田中を語るのが大好きなんだよwそして歴史教科書の大手はどこの社も日本へのヘイトが大好き。
アトは分かるな。(テキトー 例外はあるとしても、本来、歴史教科書の記述量の大小は重要度に比例するよね 金融恐慌にしろ金解禁と昭和恐慌にしろ、近代史の転換点として比類なく重要じゃん
それと比べたら、ロッキード事件なんて鼻くそほどの価値しかない 田沼意次の賄賂政治が教科書に載ってるんだから、田中角栄の金権政治が教科書に載ってもいい 田沼の賄賂政治は松平定信の寛政の改革の前フリとして載せてんだろ。 政治家が金にクリーンになった時に、その対比として角栄の金権政治がクローズアップされる だが、世間が好景気に沸くことができるなら政治家が金権政治で儲けまくってても気にならんだろ
世間が不況なのに政治家だけ儲けてたら怨みが募って暴動ものだろうけどさ
いまみたいに、好景気とかいうのが口先だけで生活に反映されてないような状況だと田中政治が懐かしいと思う人が出てもしかたない 平成の首相では小泉、安倍あたりが重要っぽいけど、田中角栄でこんな評価なら
小泉さんでは出る幕ない?
小泉さんも功罪含めて語るべき要素はそれなりに多いと思ってるんだけど
まあそれこそ現代史すぎて、評価はまだ固まってないけれどね 歴史に与えた影響の大きさでいって、明治や大正頃の政治家ほどじゃないだろ
そんな明治や大正頃の首相が何人ぐらい教科書に載ってるか。
そう考えたら、小泉安倍あたりでも教科書に載る期間はせいぜい数十年、いずれ教科書には載らなくなる程度だよ ずっと教科書に載ってる紀貫之とか蘭渓道隆とか山崎闇斎とか
やっぱりそこまで重要人物なんでしょうか 紀貫之は文化人枠だけどね。
延喜5年(905年)醍醐天皇の命により初の勅撰和歌集である『古今和歌集』を紀友則・壬生忠岑・凡河内躬恒
と共に撰上。また、仮名による序文である仮名序を執筆している(真名序を執筆したのは紀淑望)。「やまとうたは
人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」で始まるこの仮名序は、後代の文学に大きな影響を与えた。
他にも「土佐日記」で日記文学と仮名文学を創始してるし。 象徴天皇制が続く限り、今後の天皇は誰も歴史教科書の本文に記載されないのか?
歴代系図みたいなのは掲載されるだろうけれど
為政者や統治者としてではなく、象徴として掲載されるケースはあるだろうか? 明治維新の時、明治天皇はまだ14歳位の少年だったわけだけど、
維新政府は天皇を新国家の中枢に据えようとしていた
明治のほとんどの庶民は天皇がまだ少年、未成年であるという認識を
持っていたのですか?
まだ少年、未成年だけれどすごく神聖で偉い人と認識していたのですか >>100
天子様なんだから普通の人間じゃないでしょ
江戸っ子あたりだと家内安全商売繁盛なんかの御利益を授けてくれる神様みたいなもんだと思ってたというし >>101
始皇帝みたい
始皇帝も即位してから死ぬまでの期間の過半を巡行の旅路で過ごしたほどに巡行続きだし それまでの御簾の内に鎮座おわします存在を脱して英国王室のように国民に姿をさらして歓呼を受ける存在にしようとした
昭和天皇の戦後の全国津々浦々への巡幸もたいしたものだった
人間宣言をして国民の前に近しく姿を現すことにした 明治初期に断髪令が出たとき月代を剃っていた人はどうしたのだろうか?
いったん月代を伸ばしてから髷を切ったのだろうか?
それとも月代のある状態でいきなり断髪したのだろうか? 二番目の人は月代が無精ひげ程度に伸びた上に髷を固めずに平べったくのせてるのかな
不自然な髪型だ 2番目と3番目の間に戊辰戦争か何かで右目を負傷してるのか >>101
自己レス。えー、巡行じゃなくて巡幸でした。天皇がどこかに行くのを行幸。複数の目的地を回るときは巡幸。
皇后・皇太后・皇太子・皇太子妃の場合は行啓/巡啓。天皇と皇后が揃いの時は行幸啓/巡幸啓。
うっかりミスした。 今後の天皇陛下が歴史教科書の本文に記載されるようなことをされれば掲載される。
屋上架に仮定を重ねているから,無意味な質問になっている。小室さんのお子さんが即位したら載ると思うよ何十年後の話かしらんが
歴史的事実になるのには >>116
例えば今上天皇(後世では平成天皇)の災害被災地訪問や国内及び海外の戦地における
慰霊行為、宮中における祭祀などが教科書本文に記述される可能性はいかがでしょう?
本文以外のコラム欄等で触れられる可能性は本文よりも高いとは思いますがね 文明開化期の錦絵だと東京のど真ん中でもチョンマゲと散切りが半々だが、
その中間くらいの人がなかなかいない。
幕末の武士は総髪や細い月代がはやってたから散切り移行はスムーズだったろうが、
商人や職人みたいにバッチリ月代剃ってた町人はどうしたのだろう?
朝ドラの「あさがきた」でもその辺はぼかしてたし。 >>118
よくわからないからボカすのだろう
この問題の解明が日本史学の大きな課題である
諸君の一層の奮起を望む 殿様がひとり居るというのではなくて、時代が違う髷がひとり居るのだ
(武家が公家風の髷をしていたのは古い)
歴史板に居る者として、志村けんあたりのコントによって髷の理解をしていてはいけない 新元号の話になると、いつも明治(M)、大正(T)、昭和(S)、平成(H)の直近4つが
大きくクローズアップされます
その理由は下記のどの要素が一番大きいと思いますか?
・現在の日本の原型(中央集権型近代国家)が明治から始まったから
・明治の一世一元制で元号の制度や存在感が大きく変わったから
・明治生まれの方がまだ生きていらっしゃるから(明治以前の方はいらっしゃらないから)
・その他 そのほかの元号はなじみがないだろう
一般国民に明治のひとつ前の元号は何でしたかと尋ねても知らないだろう 昭和三十年代なら文久生まれの老人も健在だったんだろうな >新元号の話になると、いつも明治(M)、大正(T)、昭和(S)、平成(H)の直近4つが
大きくクローズアップされます
>その理由は
これに対する回答だ >>126
某大在学生でも知らない人はいたんだよなw「何で大学名が明治と並列で載っているの?」って不思議がっていた
>>127
最高齢が116歳なので 践祚改元がこの4つで続いてるからねえ
あと政治主体が明治以降と慶応以前で全く変わってるってのもある
明治天皇の前の孝明天皇時代を考えても元号だけで弘化・嘉永・安政・万延・文久・元治・慶応と変わってるし、
「これ以前とこれ以降とは全然違う時代なのだ」というのを表すのに「明治以降」は有効なのでせう >>133
123の内容的には1つ目と2つ目が大きいってことやね 生年月日の記入欄で「明治」の選択肢は消さないから
書類でよく目にするという理由です >>127
平成27年の国勢調査データによると、改元のあった1912年生まれとそれ以前の合計が、
1万3000人以上 大隈重信が選ばれることはないなぁww
でもさぁ
大隈重信が選ばれない理由をはっきりとマスゴミは述べないよなww
そんなに中凶に忖度をしなければいけないのかねぇww 大隈重信はなぜ「お札」になれないのか 幻に終わった「10万円紙幣」
ttps://www.j-cast.com/2019/04/09354783.html?p=all >>133
明治の頃の日本が明や清のごとく一世一元制を導入したからでしょ 元号の存在感が明治以降大きくなってるのはやはり一世一元制の影響が大きそうだね
天皇在位=(同じ)元号っていう公式と明治からの天皇の存在感の大きさがリンクしている
平成や令和でも元号の存在感は維持されるだろうけれど、天皇の存在感が相当に
大きかった明治、大正、昭和の元号は別格だろうね 退位間近の平成天皇の表情は最早、御隠居の表情
もう天皇の金看板を張る表情ではない
終身天皇とは随分違うものだ 「昭和天皇」のように呼ぶときの呼び名は死後に追贈されるものであって生前につけられる名前ではない、はずだからな
存命なだけでなく退位すらしてないうちから呼ぶのは、むしろ悪意の発露と言える せめて「明仁」か「継宮」よねえ(一般人風に表すと継宮明仁さんみたいな名前になる)
その継宮明仁さんに「平成居士」と呼びつけるような莫迦さと不敬さがあるようなもんだ
不敬以上に「何も分かっちゃいない超莫迦」みたいな感覚を覚える https://la-sente.com/minoh/files/no27_image01.jpg
この髪の変な模様になってるところはなんでしょうか?
髪ですか、それともなにか布をかぶってるのでしょうか 徳川14代将軍争いで徳川斉昭や松平慶永ら一橋派は井伊直弼や松平容保ら南紀派に負けたのに
桜田門外の変で井伊直弼が暗殺されると
一橋慶喜に将軍後見職が松平容保には京都守護職が転がり込んで彦根藩は10万石没収された
そこから徳川家茂が主導権を失って一会桑政権が主導権を握った流れや
松平容保が徳川家茂から一橋慶喜にすり寄った経緯がよくわかりません
簡単におしえてください 幕府水戸間の調停と幕政参画[編集]
万延元年(1860年)、桜田門外の変が起こる。老中久世広周・安藤信正は尾張と紀伊に水戸家問罪の兵を
出させようとしたが、容保はこれに反対し、徳川御三家同士の争いは絶対不可なるを説き、幕府と水戸藩との
調停に努めた。これには家茂も容保の尽力に感謝した。これに続き容保は、問題となっていた水戸家への直接の
密勅の返還問題に着手する。家臣を水戸に派遣し武田耕雲斎・原市之進らの説得にあたらせる一方、容保は
委細を幕府に言上し言いなだめ、一滴の血も流さずして勅書を返上せしめ、解決に至らせる[5]。
つまり容保は桜田門外の変の後、幕府と水戸藩の間を調停することで将軍家茂の信頼を得た。また春嶽や
慶喜としても火中の栗を拾う京都守護職を押し付けるのにちょうどよかった。 >>153
>松平容保が徳川家茂から一橋慶喜にすり寄った経緯がよくわかりません
ここは鞍替えしたんじゃなくて家茂が死んだから新将軍に従っただけ。 大老を暗殺した水戸藩や軍勢を率いて江戸に来た薩摩藩,御所に濫入した萩藩を懲罰しなかったのは何故か?
だな。水戸藩は潰しとくべきだったね 長州藩は征伐したけど尾張公が総大将の権限で勝手に放免したんだよ。 百五十七の謂ふ所、時世を計る漏刻全く止まりたるが如し
百年も二百年も昔の幕閣の言にも似たり
御公儀の威光、既に昔日の如くあらず 江戸時代って武士の家を継ぐのって長男だけだったとしたら、
他の兄弟姉妹は、商人や職人農民にでも成ったんですか?
士農工商の人口比って江戸時代を通して、ずっと一定だったのですか? 養子に出ることも多い
たとえば、赤穂事件で殺された吉良上野介の子どもは母の実家である上杉家の養子に入っていて、事件当時には吉良家から離れていた
当時は意外と子どもの数は足りてなくて、跡を継がせるべき息子が生まれてないから婿養子を迎えたり、娘もいないとかで養子を迎えたりすることは多かった
相続の3割程度が息子以外(養子か婿養子が多い)だったと言われている
庶民だと家を継がせる為に養子を迎えることをせず絶家になる事例も数多かった
人口比は変動する。
変化が大きかったのは、被差別部落の人口が大きく伸びたとかかな、収入的に有利な生業を独占できた関係で、江戸時代にはけっこう裕福だったとかで人口が伸びやすかったっぽい >>161
返答ありがとうございます。
>被差別部落の人口が大きく伸びたとかかな
差別されたら増えるなんて意外だな。
江戸時代は、戦争が無くて人口が増えたなんて言うけど、
「農民に対してそれ以外の身分が増え過ぎたら食糧問題が発生しそうだ」なんて思っていた。 家の次男以下は他家へ養子に出るか、武芸、学問に優れて特に別家を立てることを認められるかである
どちらも無理なら「厄介叔父」として、一生を生家で暮らすこととなる
長兄から小遣いをもらって家の隅でひっそり一生を過ごす
武家に限らず、江戸をはじめとした都市に出た者でも結局独身者として終わる者は多かった
農民の次男以下でも家を出ることなく、農作業の担い手として生家に厄介となる者も珍しくなかった
今は嫡男でも「子供部屋おじさん」となりもするが >>163
×家の次男以下は‥
〇武家の次男以下は‥ 農家だって家督を継ぐのは長男だけだから次男三男は養子の口を探したり商家に丁稚奉公に行ったり
大工などの職人の弟子になったりだよ。真面目に奉公して商才もあれば暖簾分けして商人になれる。
武士で養子にならない場合は絵師(酒井抱一)とか茶人とか兵法家とか、芸は身を助くで一芸があれば
それで身を立てることもできる。井伊直弼は14男で32歳まで養子の口が無かったんで茶人として身を
立てようと思っていたら兄である藩主が急死して家督を継ぐことになった。 武家も町人、百姓も、家を興すのは大変
結局、奉公人として終わる者多し
会社で出世が誰でもできるわけではないのと‥‥ あと幕末の儒学者安積艮斎は安積国造神社の宮司の三男だったが学問で身を立てようと江戸に出て、
佐藤一斎や林述斎に学んだ。 >>166
もちろんその通りです。茶人になったら弟子が付くとも限らないし、剣道場を開いたら弟子が付くとも決まってません。
文筆で稼ぐのも不安定で滝沢馬琴が初めての専業作家と言われてるくらいだし。馬琴以外は大抵他に職業が
あって副業としての文筆活動。例えば太田蜀山人は旗本だし山東京伝は商人だし。 質問というか疑問なんですが、令和って諡りづらくないですか?
別に明代より前の武帝や文帝みたいに諡れってわけじゃなく、明治・大正・昭和みたいな雰囲気のがイメージしやすい感じがします 諡の読みは音読みで「し」または訓読みで「おくりな」であって「諡り」とか「諡れ」という送り仮名のつけ方には違和感がある。
ググった範囲では「諡する」または「諡される」しか見当たらないように思う。 倭と日本は同一の国なのでしょうか?
倭と言うのはJapanみたいな他称で
日本を指しているのですか? 倭は英語のJapみたいな侮蔑的な
表現なのですか?
英語のJapは侮蔑でJapanは侮蔑じゃない。
とすると倭は侮蔑だけど
和は侮蔑じゃない。
と言うことですか? そもそも倭は国名じゃない
Japは侮辱的な表現とも限らない 昔、中国の役人が周囲の国々を調べてるとき、お前らは何という国の人間かと問うと、問われた方は国の概念もない人々で、お前らは何者かと言われてもワ(一人称)なんですがと答えるのみ
じゃ、中央にはワで届けるから、えーと、字は矮小とかの意味の倭にしとこう、お前ら背が小さいから
こーんな感じで倭と呼ばれるようになったんだろうかしら
言われた方はその後、字の意味が良くないことを知って、和と書いたり、大きく大和と出たり、最後には倭て呼ぶな、国号は日本に変えたからな、こっちかて王ちゃう、天皇で同格なんやからなとやった
今になって倭などと呼ぶのは馬鹿にしたり、あるいは倭奴と恨みをこめて呼ぶ国もある感じ 倭は中国の王朝が付けた表記です。漢書地理志(漢書という歴史書の中の地理を扱う部分)が
最古とされています。侮蔑的な表現という説とそうではないという説と諸説あります。卑弥呼の「卑」に
卑しめる意味があるという説と邪馬台国には金印を授けているのに卑しめるのはおかしいという説と
あり、論者によって意見が分かれているのと同様です。時代が下ったヤマト王権は歴史的に中国の
王朝が「倭」と表記してきたことをそのまま受け入れましたが、その読みはヤマト王権の自称である
「ヤマト」であると国内的には定めました。中国や朝鮮にとってはそんなことは知ったことではないですが。
さらに時代が下って7世紀くらいになると「倭」という表記を「日本」と改めることに決めました。日本と書いて
「ヤマト」と読みます。日本書紀に「日本、此云耶麻騰。下皆效此(日本、ここにはヤマトと云ふ。
下は皆これに傚(なら)へ)」と書いてあります。日本という表記自体は聖徳太子の「日出ずる処の天子」とかで、
その頃に国内的に広まった自己イメージかなと思われます。
変更の理由は旧唐書に書いてある説によればイメージが宜しくないからです。「或いは曰く、倭国
自ら其の名の雅ならざるを悪(にく)み、改めて日本と為す」と書いてあります。日本側の資料は無いので
本当にそうなのかは不明です。さらに時代が下ると「日本」と書いてそのまま「ニホン」と呼ぶように
だんだんなっていきました。
まとめると日本側の自称である「ヤマト」を表記する文字はもともと無かった。中国側で「倭」という
字を付けた。日本はそれを受け入れたけど、ずっと後になって「日本」に変更した。 「倭」はバカにして付けた説の人は、なぜ金印をもらえたと思ってるんだろう? >>177
倭風みたいなもんだな
>>178
支那の周囲はみな野蛮だとして良くない意味の字ばかり付けてた
倭国は倭国と呼ばれて何ということもなく受け入れてたから、金印もらっても素直に喜んでたんじゃね
モンゴルなんて蒙古という悪い字をつけられてたし 「倭」は人偏がついているからな。
少なくとも魏王朝の人間は倭人は人間扱いしなければいけないと認識していたのでないの? 「倭」の表記は漢書以来の伝統だから前漢王朝からの認識だよ。 >>162
身分的に差別されてはいるけど、その生業たる「斃牛馬」の処理とか皮革の製造加工など、社会的に需要があり収入も多い仕事を独占的に請け負っていたので、
一般農村よりもむしろ裕福だった。
明治に入って特権(生業の独占)は廃止されたけど差別は維持され、他の生業に写ることができないことで貧しくなって今に至る。
という側面があるのと、江戸時代後半の農村で人口が伸びにくくなった理由の一つに若者が年季奉公に出て帰ってきてから結婚出産していたことによる出生数の減少がある
被差別部落からは都会に出稼ぎに出ることがないので年季あけてから帰って結婚というコースがない分だけ早くから結婚するのではないか、
だから出生数が多くなり人口が増えるのではないか
町へ出稼ぎに出て定着しちゃった人の多くは子孫を残せてないらしい
当時の都市部は農村よりも栄養状態が悪いのと人口密度が高いので伝染病の拡散が速いことから死亡率が高く、周辺農村からの出稼ぎを吸収し続ける傾向があった
それで都市周辺の農村は遠隔地の農村と比べて人口が伸び悩んだ
江戸周辺や機内周辺は江戸時代後半になって人口が減少傾向になった一方、遠隔地(中国地方西部とか九州南部とか)の人口は伸び続けた >>179
そうじゃなくて、「日本は中国にバカにされてた(キリ」っていう人は、
日本が金印をもらえた理由をどう解釈してたんだろうって話。
普通に考えて、バカにする相手に金印なんかあげないだろうし 実際卑弥呼が使者を送ったのは三国時代の魏で、周辺国からの使者は王朝としての正当性を主張する上で
非常に嬉しかったとされている。それなのに卑しめて卑弥呼と表記したというのは如何なものか? 周り全部、変な字を付けてるからな
当たり前すぎて文句言う気も起こらんかったやろ
ぶっちゃけ、文字というものも良う分からんかったし
なにしろ燦然と輝く中原の文明やからな
後にちょっと知識と自信つけてくると文句言うたけど 卑が昔は悪い字ではなかったという説もある
鮮卑なんかは鮮が良い字であれば矛盾しちゃうからね 詩歌など韻文で使う用に同音の文字を集めた字書があって、卑を含んだ同音グループでの先頭の文字が卑、同様に邪を含んだ同音グループでは先頭の文字が邪
ということで、同音グループの先頭の文字を拾っただけとの説がある
難点は、その字書の存在を確実にさかのぼれる上限より三国時代の方が古いので、物証がないこと ところで日本が物作り大国に成れたのって、渡来人の影響だったりする?
中国の技術や文化を学ぶ為に中国から誰かを連れてくるとしたら、
主に技術者だから、その子孫にあたる今の日本人の技術力が向上する・・・
昔の日本の人口が少なかったなら、ボトルネック効果も働いているのでは・・・ 戦前から戦後しばらく、日本はサルマネがうまいと言われてた
欧米の製品を器用にコピーして安く輸出する
だが、やがてそういう安易な戦術は段々と通用しなくなる
そうすると今度は品質の良さで売るように戦術転換してきた
そこには古代の刀鍛冶から戦国期の鉄砲鍛冶、江戸期の職人へと、技術者へのリスペクトの伝統があると思う 現代の状況に直結してるのは明治にお雇い外国人と言って欧米人を超高給で呼んできて
技術指導させたことだろう。「少年よ、大志を抱け」のクラーク博士もその一人。 そして日本は技術発展していき
世界一でなく世界トップクラスという言い方を変えて
すごい国と勘違いしていった
その結果、世界ランキングの年収平均が低いのにいまだに気づかないひどいことになった そういやぁ
纏向遺跡からカエルの死骸が多数発掘されたな。
てっきり卑弥呼の鬼道や大和朝廷の祭りごとは
中国の張角や張魯と同じ系統の道教系の祭りごと
思っていたのだけどな。
諏訪大社系の縄文系の神様だったとはなぁ。
諏訪大社は今でもカエルをなぶり殺しにして、その年の作物を出来を
占う儀式があるからな。 そういや、渡来人の影響で日本人の顔つきが変わったなんてテレビ番組で放送されていた事があったけど、
アレは、左翼御用学者による嘘らしいな 出土する人骨の顔形が縄文と弥生で違うと言われてたのは本当だよ
食生活が変わったことによる環境性の変化なのか遺伝的に違う別人種なのかどちらだろうと、長年にわたって議論されてきた もともと日本は複数の民族の溜まり場だったんじゃないか
グレートジャーニーの終着地として 島津義弘が伏見城の鳥居元忠に助太刀しようとしたら門前払いされ仕方なく西軍に付いたとの事ですが
このエピソードは本当でしょうか?
戦後の釈明での作り話ではないでしょうか?
鳥居方に生き残りの証人はいましたか?
仮に入城を許されていたら死んでたと思うのですが名将義弘がそんな死地に乗り込むようなことをしたのでしょうか? >>201
ありがとうございます
家康義弘内々の話でもなく会津征伐時の正式な軍令に基づいた行動だったのですね
話が違うと言えるのは義弘の方で非は徳川にあり
寧ろそこからの生き残り戦略こそが義弘の知謀が冴え渡った物だったのですね 天皇制が腐敗したのっていつなんでしょうか?
自分は奈良時代には既に「なんかよくわからんけどえらい人」
いうふうに教義など皆忘れて権威だけ認められている状態になっていたと思っているのですが。
もし教義が残っていたら中国や朝鮮の文化をあんな節操もなく取り入れたりしないと思います。
古墳時代には宗教としての意義が残っていたのでしょうか? >>203
蘇我蝦夷・入鹿親子は大王(おおきみ)に取って代わる勢いだったのでこれを成敗して大化の改新と
呼ばれる改革を行って大王の権威と権力を強大化した。それが頂点を迎えたのが天武天皇の頃で
天皇という称号もこの頃に始められたと考えられている。「古事記」や「日本書紀」の編纂も天武天皇の
時に始まったとされる。天孫降臨を中心とする日本神話の体系化もこの頃に始まったんじゃないのかと
疑う余地は十分ある。つまり今考えてるような体系化された日本神話はこの頃からじゃねってことね。
個別の話はもっと古いかもしれないけどさ。そして遅くとも聖武天皇の頃には天皇の宗教的権威は
既に形骸化していたから仏教に国の安定を頼る必要があった。宗教的にはそんな感じ。
政治権力としてはその後も院政という形で上皇が摂関家に取って代わって実権を握る時代が来る。 天皇陛下が豪華絢爛たる生活に傾いたという話は聞かないですね
強いてあれば,大陵墓を造営した仁徳天皇では。朝鮮人の血を受け入れた桓武天皇や仏教を受け入れた推古天皇は大したことは 【韓国紙】 日本人は子供の父親が誰か分からないので最後の性交場所を苗字にした
次に近い国、日本を調べてみよう。調べると日本の姓氏は約30万個を越える。
我が国より人口が2倍以上多いことを勘案してもだいぶ多い数値だ。
なぜこのように多様な姓氏が存在するのだろうか。
日本で数えきれない程多種の姓氏が突然生じた背景にはそれと関連した興味深い説が伝えられている。
それは過去、壬辰倭乱を起こした張本人・豊臣秀吉と深い関連がある。
豊臣秀吉は日本を統一する過程で長い戦乱により男の数が急減し、すぐに人口増加政策で苦心した。
少し後、人口を増やして日本社会を安定させるという名目で次のような王命を下した。
「すべての女たちは外出する時、常に毛布をまいて行くことを肝に銘じよ。下着は絶対着てはならない。
どこでも男に会ったら赤ん坊を作れ」 日本の伝統衣装「着物」がここで由来すると分かった。
このような背景のせいで現在でも女性たちは着物を着る時、下着をつけない風習がある。
豊臣秀吉の王命以後、戦場で生き残った男たちは気に入った女を望み次第獲得できる機会が与えられた。
また、日本の男女は王命を敬って時と場所を分かたず性交した。
この過程で数多くの女たちが身ごもったが、女たちは子供の父親が誰なのか分からず「最後に性関係を結んだ場所」を名前にしたという。
私たちに良く知られた「山本」は山と根本をあわせたもので、これを解説すれば「山中で会った男の子供」という意味だ。
同様にタケダ(竹田)は「竹畑で会った男の子供」、村井は「村の井戸の周りで会った男の子供」と知られた。
このように生じた名前が伝えられ、降りてきて日本の姓氏になったという説が大半の意見だ。
もちろんこのような主張に反旗を翻す一部学者もある。彼らは「漢字意味が歪曲されて伝えられた風説にすぎない」と指摘した。
姓氏の由来を明確に明らかにする歴史的な証拠や関連情報が不足したているために、いくつかの推測性仮説が存在するのは事実だ。
それでも多くの人々は日本の開放的な性文化、着物の由来などが結びついた興味深い主張に関心を見せている。
キム・ヨンジン記者
ソース:インサイト(韓国語) 日本の姓氏「山本」とは「山で楽しんだ性関係」を意味する?
http://www.insight.co.kr/news/133206 >>203
豪族・貴族間への仏教の普及定着より前の古代前半までは宗教には教義が伴っていない
古墳時代までは教義のある宗教などなく、ないものが残ることはない >>204
ありがとうございます 真実味がある話だと思いました
>>207
動くものと動かないものという対比があり
前者が生者、後者が死者を意味し、
天皇という不動の象徴のみがこの2つの世界の橋渡しができるとされるという
話をどこかで読んだ覚えがあり、なるほどと思ったのですが、
教義がないというのは「汝なすべし」という形態に教義を定義づけした場合ではないでしょうか
ハイデガーがキリスト教に対してやったように神道の哲学的な骨格を考えることはできると思います >>208
俺は204だけど天武持統朝で古来の信仰を体系化して天孫である天皇家を中心として
豪族たちとの結びつきの親疎で豪族たちを格付けするために神道という宗教が作られた。
これには仏教の影響もあるんだけど、仏教到来以前の信仰は原始的な祖先崇拝とか
自然信仰であって論理的な教義は無かったのよ。 >>208
神道での戒律とか教義とかは鎌倉時代頃にようやく整備されたもので、仏教を参考にして作られてる
哲学的な骨格と呼べるようなものは発達していなかった まあ今でも神道は人によって言うことがばらばらだと国学院の教授が明言しているしな。 仏教は宗派によってばらばらだと既に周知されているのになぁ
何故神道は一つという妄想が生まれたのでしょうか? だから国家神道はになりかねませんか >>212
神道は教義がないのが神道だと言われているからなぁ。 平城京からは若草山が善く映えますが
何故古代においては御蓋山(春日前山)の方が有名になるのですか? 藤原氏が春日大社を作って神の山にしたからでしょう。 天皇(皇室)と神道の関係ってどういうものですか?
自分はこれまで多少の変化はあるにしろ、基本的には
古代〜現代に至るまで天皇は神道のトップだと思っています
つまり、神官のトップ、あるいは日本人の代表として日本の神々を祀る存在
現にそういう趣旨の著述や言説は多くあります
しかし、色んな本やネットの書き込みの中には「天皇が神道のトップだったのは
明治〜敗戦までの国家神道の時代だけであり、それ以外の時代は神道の
トップではない」「国家神道以外の時代は天皇と神道を直接つなぐものはない」という
趣旨のものを見聞きします
特定の天皇で仏教に帰依した方がいるのは存じてますが、それでも当時は神仏習合的側面が
強かったのと、「仏教に帰依=神道を放棄」ではないと思います
また、現代においても、皇室最大級の重大祭祀の大嘗祭は神道形式に則っていますし、
現代の天皇も神道のトップ(表現が不適切なら代表)な気がします
どなたか詳しい方、天皇(皇室)と神道の関係についてご教示くださいませ 現在の皇室は国家と国民の幸福を祈っているけれども、その立場は全国の神社に号令したり
命令したり指示するような上下関係があるわけではありません。宮中祭祀に限って言えば代表者ですが
伊勢神宮でさえちゃんと別に宮司が居るので皇室とはいわば親戚付き合いみたいなもんです。
政教分離令のおかげで国や地方自治体などのお金は宗教に使うことができません。だから
大嘗祭を始め様々な儀式が宗教儀礼だと国家予算から支出できないのでいろいろと困ることが起こります。
だから宗教じゃなくて慣例(伝統行事)としてやってますという感じでお茶を濁す必要がある。
だから天皇が神道のトップと思われるのははっきり言って迷惑でしょう。
古代については俺は>>204に書いたように天孫降臨や国譲りの神話は天武天皇の時代に作られたと考える。
元々はそれぞれの豪族が大神神社みたいな地元の山や森に自分たちだけの神様を祭って個別に拝んでいた。
それがヤマト政権という形で連合する過程でそれぞれの神様をみんなが拝むようになり、さらにそれぞれの神様の
関係(続き柄など)を説明する系図や神話がだんだんと作られる。それがさらに高度に体系化されたのが
天武朝である。天武天皇は柿本人麻呂の歌に「我が君は 神にしませば」と歌われているから
ある意味現人神だった。戦前の昭和天皇のそれとは違って例えだけどね。
しかし天武天皇のひ孫の聖武天皇の時代には早くも天災続きで神道では国家を守れない事態となって
国家を鎮護するのは仏教しかないと鑑真を招来して自ら戒律を授かって僧になった。この時代はまだ神仏習合
してない。 日本民族の慣習・伝統・宗教=神道です
だから日本人(神道の実践者)の代表たる天皇陛下は神道のトップともいえる
しかし,日蓮正宗やら朝鮮人やらが私は神道ではないと騒ぐから,黙っとこになっている
あとはマッカーサー憲法という日本の伝統を逸脱した憲法の所為 >>218
いや、飛鳥〜江戸時代まで天皇は熱心な仏教徒で
仏教徒の埋葬方法である火葬が行われ寺が陵墓を管理していた 仏教徒だからと言って日本人を止めることは出来ませんよ >>219
聖武天皇より前の天皇・大王で熱心な仏教徒って誰?
火葬は持統天皇からだな 鎮護仏教の後も、歴代の天皇は日本の神々を祀る祭祀はしていたのですよね
こういう時、まさに天皇と神道と仏教の関係がすごく気になる
真偽はともかく以前読んだ書き込みでは、天皇は神道のトップという側面があるから、仏教に深く帰依した天皇は譲位してから出家したり、法皇になったりしたらしい
現役の天皇のままでは出来なかったとか云々 >>217
ありがとうございます
結論としては、天皇=神道のトップ、はあまり言わない方が良いって感じですね 時代やら視点によってはトップは神祇官の長官や次官の場合もある
長官は神祇伯(白川伯王家)、次官は神祇大副(から、新規の官職「神祇管領長上」と勢力拡大した、吉田家) >>225
ちなみに、国家神道においては間違いなく天皇=神道のトップで良いんですよね >>223
マジですか?それは初耳で驚きました
現役で出家って可能だったんですか 出家→政権運営に支障が出るから身代金? を払って還俗
というのを繰り返した。僧籍についていた期間は短い。
とはいえ、他の天皇は出家した時点で退位扱いが普通なんで、かなり例外 >>227
出家したから、朝廷が慌てて次の天皇を選んだ 選んだって言っても順当に娘の阿倍内親王だけどな。
女性の身で天皇になったおかげで結婚できなかったのは不幸だった。 >>228
それは何に書いてあるのですか?
続日本紀ですか? それ以前の女帝は推古天皇や持統天皇のようなかつて皇后だった人と、生涯独身だった元正天皇しか居ない。
元正天皇は聖武天皇の父文武天皇の同母姉であり孝謙天皇から見たら伯母さんです。文武天皇は若死にして
遺児首皇子(のちの聖武天皇)はまだ幼かった。つなぎとして文武天皇と元正天皇の母が元明天皇として
即位した。しかし寄る年波には勝てず娘に後を託すことにして譲位した。元正天皇は首皇子を「我子」と呼んで
大切に育てた。元正天皇が若いうちになぜ結婚しなかったのかは謎だけど、これが先例とされて独身で即位した
女帝は結婚しないことになったと思われる。 理由も無いのに「出来なかった」とする理由は無いのかよ? 律令に女帝の婚姻相手の規程がなかったからと言ってみる 作ればいいだろ。現代の安倍みたいな反対勢力もあったのか? >>235
文武天皇の同母姉という非常に強い立場なので夫が発言力を持つことを警戒されて出来なかったんじゃ
ないかと考えられる。文武天皇は天武天皇と持統天皇の孫で、この系統が皇位を継承していくことは
持統天皇の悲願だったので。称徳天皇で断絶するけど。 旧暦のときは1月2月3月という言い方はなかったのですか?
旧暦は一ヶ月ほど今より遅かったらしいですが師も走るほど忙しいのは11月だったということでしょうか? >>241
一月は立春が入るように決める
二月に春分、五月は夏至、八月は秋分、十一月に冬至
なるべくこういうふうになるように決める
ひと月は月の満ち欠けのひとめぐり
新しい月の始りである一日は、新月、闇夜である
十五日の夜は十五夜で満月、そうなるように決める
三日は三日月ね
大の月は三十日、小の月は二十九日である
(月の満ち欠けは二十九、五日だから)
29.5×12か月=354日
今の暦の365日より10日くらい一年が短い
3年もすると30日くらいずれてくる
そこで閏月(うるうづき)を挿入して調整する
なお、何月が大の月で、何月が小の月か、
また閏月はいつ挿入されるかは前もっては分からない
天体観測も伴う天文方の力を借りて作られるその年の暦、お伊勢さんの暦などを買わないとわからない
時代小説で「その年の閏(うるう)二月‥」などと書かれていたら、二回目の二月なのである
2019年旧暦表示カレンダー
http://accent.main.jp/calendar/2019q.htm >>241
太陰暦は月の周期である30日で一月です。12ヶ月で360日だから太陽暦の365日と
一年で5日ずれます。このずれを閏月を挟むなどの方法で処理するしてすり合わせるのが
太陰太陽暦です。それは置いといて。
五月雨が梅雨の雨で水無月が夏の暑さだと言われてるから、そうですねおおよそ一月ずれてます。 >>243
閏月は2,3年ごとに挿入されている
一年で5日ずれるのではない
大の月は三十日、小の月は二十九日です
旧正月は年によって新暦の1月中にやってくることもあれば、2月下旬になることもある
いつも一か月ずれているというのではない そういう感じだから、たとえば赤穂浪士が討ち入りを決行した日を現在の暦に直すと1月末になるのですね。1/30未明のはず 秀吉のように人間は血統より能力によって人は上に立つべきと言う潜在的な認識は昔からあったのでしょうか?
能力主義が培われた土壌のような物はいつ頃からあったのでしょうか? >>245
今年ならば旧暦12/14は1/19となる
その年によって違う >>247
多分、明治5年以前を太陽暦で遡った場合のはなしだと思う
(換暦サイトで確認したわけではない) そりゃぁ歴史家は当時の暦の元禄十五年十二月十四日がグレゴリオ暦1703年1月30日にあたると確認して書いているのだよ 南朝系の公家は百済来た朝鮮人だと言うことですが
北朝系の公家はどうなんですか? 百済なんて言い出したら
京都人、琵琶湖周辺、大阪人も朝鮮人だろ 訂正
百済なんて言い出したら
根っからの京都人、琵琶湖周辺、大阪人も朝鮮人だろ 滅びた南朝鮮国の王族が日本に逃れて貴族に迎入れられたんだろ
現朝鮮は北方の勢力で構成されてる >>255
当然だ!
本当の日本人なんぞこの島には4%程度しかいない!
もちろんワシはY染色体dの本物の日本人だ >>250
デタラメです
そういった出自に基づいて割れたわけではない。
たいていの公家は、一族内の相続争いで割れて南朝と北朝にそれぞれ属してます。
南朝だけ、また北朝だけに一族全員が帰属していたのはごく一部です。 >>246
秀吉だって自分が天下を取ってしまえば秀頼に天下を譲りたがったし
戦国時代が特殊な能力主義だっただけで基本は血統主義
江戸時代の徳川将軍には障がい者も幼児もいたが
すべて東照大権現家康公の血統だから将軍になれるのであって
能力無関係 家康が三代将軍は家光だと口出ししたのも本人の能力じゃなくて順番が大事ということだからな。
そうしないと後継者争いでえらいことになるから。 武田信玄も能力主義だよな
信玄は中国の歴史書をよく読んでるから血統に縛られないルーツは中国にあるのかも そうだなぁ。漢の高祖劉邦は正妻の呂后との子を廃嫡して寵愛する戚夫人との子である如意を
後継にしようとしたなぁ。張良が手を打って取りやめになったけど、これで戚夫人を恨んだ呂后が
劉邦の死後に戚夫人を人豚にすることになる。 質問です
幕末のころに外国と戦争した藩って薩長以外にありますでしょうか
よろしくお願いします 中国の歴史を勉強すると基本的にルール無用で勝ったものが正義。その代表が唐の太宗こと
李世民だ。高祖李淵の次男だが兄で皇太子である李建成を武力で滅ぼして皇帝になった。
それから明の永楽帝こと朱棣。甥の建文帝を武力で倒して自ら皇帝になった。李世民も朱棣も
初代の子で、建国の功臣でもあるから武力があってその後の政治がちゃんとしてたから
非道なことをしても正当化できた。隋の煬帝も同じことをやってるけど国を滅ぼしたから
正当化できなかった。 >>261
武田信玄は義信よりも能力が高いから義信を廃嫡して
勝頼を跡取りにしたわけじゃないだろう 義信は有能で人望も厚かったんじゃないのかな
あまりにも人望が集まりすぎて信玄と争いそうな勢いだったから、内乱を未然に防ぐために粛正せざるを得なくなった
徳川信康も同様で、徳川家を割そうなほどの勢いがあったっぽいしな 信玄は親を追放した時と同じ状況だったからな
因果応報をひしひしと感じてただろうな 平安時代の朝廷の公家や職員の規模と室町時代のそれとは明らかに違い、
後者のほうが規模は小さかったのでしょうか?
なぜなら室町時代には同じ京都市中に幕府があり、幕府の武士や職員が
いて統治、行政、その他を行っているわけですから、必然的に朝廷の
役割や仕事は平安時代に比べて少ないですよね?
そのへん、実際はどうだったのでしょう?
※職員という言い方は時代的に合わないと思いますが便宜上の表現です 朝廷の「職員」が早朝から一斉に出勤して朝礼の後で職務に励むというような風景は、早く平安時代の内に律令制の崩壊とともにもうなくなってしまっていたわけだが
室町時代となると守護大名の時代だから地方のことは大名がやる
律令制で朝廷が全国の口分田を管理する時代とはもう全然違うでしょうね 幕府の存否に関わらず、律令の形骸化で官司も仕事なんかほとんどなくなってるし 公地公民制は平安中期頃には崩壊してるな
それ以前でも税の徴収は国司の仕事で郡司が下請けだっけ、ぜんぶ地方で仕事してる
集めた税を保管して、必要に応じて中央に運ぶまでが国司の役目だったはず
そういった地方の仕事も「守護請け」で武士に任せるようになっていくわけだが。 朝廷が戸籍を整備して口分田を受けるべき者を特定し、与える
与えられた農民や貴族が死亡すれば田は収公される
国符の官司(官庁、官員組織)が六年に一度、戸籍を作り直して異動状況を把握して班田収受を行う
公地公民制ではこういう事務作業を要した 現代では六年に一度ではなく、戸籍の異動作業や不動産登記作業は不断に行われているが、これは大変な手間がかかる
全国の市区町村役場に戸籍係の人員を置き、全国に法務局を置いて大変なマンパワーを要している
こういうコストを嫌うアメリカ合衆国では、戸籍も不動産登記も制度がない
(一覧して明快な戸籍簿や不動産登記簿がないということ、個別の届出書類や契約書類の保存はある)
相続人調査はほとんと不可能なので遺言必須
不動産売買では嘘所有者に気を付けること >>270へのレス、ありがとうございました
平安時代の途中から公家や職員の数は減っていったようですが、明確なリストラでしょうか?
それとも自然な減少でしょうか?リストラであれば、下級貴族や職員らの子弟はその後どうしたのでしょうか? さぁてね、メシが食えるような身の振り方を考えてもらうしかないわな
下級貴族の娘が男に養ってもらうしかなくて、破れ屋敷で通ってくる男を待ち続けた‥なんてのが源氏物語にも出てくるね 朝廷の予算が足りなくなって専門職や下級職は兼業させるようになった
藤原氏などの有力な貴族の家で働いて給料もらいつつ朝廷でも働くんだ
もう少しあとになると、治天のとこで働いて給料もらうのも出る
治天のとこは朝廷とは別会計だしな そうやって、役人として身に付けた読み書き計算の特殊技能を生かせる職に付けた人はまぁいいよね 上皇様んところで働けるって凄いじゃん
親方日の丸だね
つてを頼って荘園の現地事務員の口にありついたけど、都落ち、ものすごい田舎だよ‥‥ 院近臣だね
信西とか藤原信頼みたいな、失政で世を乱すヤツとかいる かつての穢多非人と現在の部落(旧同和地区)は関係ないって説があるけれど、
歴史学的に見てどうなんですかね?
もし本当に関係ないなら、現在の部落(旧同和地区)のルーツはなんなんだ?って
話になる
単なる貧困者やヤクザもの、不逞外国人らの流入があったとしても、それらは
あくまで付加的なものであって本質ではないですよね 何故京都に都が置かれたのでしょうか?
広い平地があるとはいえ守るには不利な盆地ですし環境としても快適とは言い難いです
古い寺や神社は大抵地形的に安定した(≒天災の起こりにくい)場所にあるだけに「何故こんなクソ暑いところに?」という疑念が拭えません 大都市を造るには広い平地と生活水の確保(山が近い)
更に大量に物を運べる水運(川や琵琶湖)
北日本や東日本からの物流アクセス
この辺が合致したのでしょう なーる でも琵琶湖湖畔じゃダメだったんでしょうか?
あの辺は山と琵琶湖の間に結構平たい土地があるので
(正方形は無理としても)琵琶湖を中央に置いて環状に都市を築けたようにも思えます
昔はあの辺が平らでなかったり水害の危険性がかなりあったんでしょうか? >>285
>(正方形は無理としても)琵琶湖を中央に置いて環状に都市を築けたようにも思えます
長安に倣った正方形の都市を作るのが計画だから、それじゃダメじゃん。
九州方面との物流が瀬戸内海だから大阪湾と河川でつながってることも必要だし。
四神相応と思想が背景にあるという説もある。北に山(玄武)、南に水(朱雀)、東に川(青龍)、
西に大道(白虎)という土地がふさわしいというものだ。桓武天皇当時の史料には出てないから
そういう説もあるというレベルだけどな。 >>286
南の水は湖とか池とかな。それと中国の四神相応は>>286のと違ってて北に山、南に水、
東と西には低山が連なって中央部を囲むんだそうだ。平安京が盆地なのはこれを採用したかもしれない。 >>276
最初の質問に対してかもしれませんが
Wikipediaで官司請負制や諸司領を見てはいかがでしょうか >>286-287
なるほろ 日本史には疎いのでそのあたりさっぱりでした
総合的に当時の世情などを鑑みればきちんとした理由があるんですね >>289
それからね。飛鳥時代には琵琶湖のほとりに天智天皇が大津宮と呼ばれる都を置いたこともあった。
場所は今の大津市だ。この時は朝鮮半島の白村江で唐・新羅の連合軍に大敗北して最悪唐が
攻めてくるかもしれないという緊迫した状況の中で大津が選ばれた。なぜ大津なのかという説明は無いけど。 まあ大津にミヤコをおいてたのは大規模都市をつくって都にするより以前、
小規模な都市を天皇の代ごとに置き換えてた頃だから、平城京平安京は参考にできないけどね
時代の近い飛鳥の方が構造とか規模とか近いんだろうね 明治になって鉄道敷設するとき、新橋から横浜が先ず開通
その横浜港から西へ伸ばして琵琶湖畔の長浜へ至る
長浜から北の敦賀港へ線路敷設するとともに湖上交通で大津へ至る
大津からは西の神戸港へ線路をつなぐ
これが最初に整備すべき東海道線の敷設として行われた事業である
こうしてみると大津は、東へも西へも交通の要所となるところだ
天智天皇の御世でも、北陸道、東山道への交通路があり、西国へも行きやすい所と見られただろう >大津からは西の神戸港へ線路をつなぐこれが最初に整備すべき東海道線の敷設として行われた事業である
東日本は官主導だが、関西は民が主導。
大津から最優先で神戸に鉄道を繋ぐのなら、淀川を越えて路線なんか引かずに(現在の)新大阪辺りに大阪駅を造ってるよ。 東京大阪の路線でなくて神戸まで敷いたところを見てやれよ
大阪に立ち寄らない手はないんだから淀川だって渡るさ
あの時代に新大阪の場所を出すのは時代錯誤 (どうでもいいけど今の淀川もまだ掘られてなかった時代だったけどね) どなたか>>282に関してご存知の方はおられませんか? そりゃ一部では無関係なとこもあるんだろうけど、例外だぞ例外 先祖について調べていて気になった、庶民の名前・葬り方について質問です。
1.親族内に同姓同名がいる
亡祖母の名前を孫につける・・・幕末から明治に2件
亡伯母の名前を姪につける・・・明治初期に1件
亡兄の名前を弟につける・・・大正に1件
全系統調べたので、ある一家にだけ伝わる風習ではなさそうなんですが、昔は親戚と全く同じ名前をつけるのは一般的だったのですか?
また、特に長男長女に限らないのですが、どういう人の名前を誰に襲名したのでしょう? 長くなったので分けます。
2.仏壇の過去帳簿と戸籍の中身が違う
父方
二太郎さんが仏壇では仁太郎
繁吉さんが仏壇では繁一
ひらがなの女性が仏壇ではカタカナ
1910年〜1945年の人が仏壇では33歳
1912年〜1922年の人が仏壇では10歳
(数え年表記なので、仏壇が正しければ兄弟である二人が同じ年に生まれているので、明らかにおかしい)
父方
1897年〜1987年の人が、仏壇では数え年92歳で死んだことになっている
などなど、戸籍の記録と過去帳にズレが大量に見られます。少しなら間違いかなと思えますが、これだけあるとわざとかなと思ってしまいます。
家族の名前や年齢を忘れることなんてあり得ないと思いますが、わざと内容を変えるような風習などあったのでしょうか? 本名を知られると呪われる可能性があるので
寺には本名で届けて死ぬまで内緒にしてもらう
役所には偽名で届けて普段の生活ではそっちを使うという風習ならある
年齢についてはわからん 二太郎と仁太郎、繁吉と繁一
相通じて間違いやすい、あるいはどっちでも構わないと言えるような名前だな
坊主が耳だけで聞いて間違えたんじゃないか
年齢も元号で、明治二十九年7生で昭和六十二年没だとか、間違えそう‥‥ >>258
で、公家が先祖の人たちは偉いの?
そこが一番大事 >>300
その風習、詳しく書いてあるサイトなど無いですか?
>>301
私も聞き違いだと思いました。でも、文字にした時点で家族が抗議すると思うんです。しかも、二人とも親より先に死んでるので、我が子の名前の間違いを指摘しない親はいないかと思います。
年齢の方は、年月日だけじゃなく「九十二歳」と書かれているんです。戸籍だと数え91なのに。本人がずっと自分の年齢を一歳ずれて覚えてたのかなw でも実際違う字で登録されてるという例は少なくない。届け出る側がそもそも漢字をよく知らなかったりする。
それが斎藤とか漢字が難しいお名前の漢字の種類が多い原因と言われてる。 ちなみに中川翔子の本名は「しようこ」だそうだ。母親が人名で使えない漢字で「しょうこ」に
したくて窓口の役人と揉めて最終的にひらがなで殴り書きして出したら役人が「しようこ」で
登録して、母親がその時気がつかなかったんでそのままになったんだとさ。 今は出生届に医師の証明書が付いてるけども、昔は自宅出産で、届け出の出生年月日が本当であるか確かめるものがなかった
戸籍の出生年月日と実際とは違うというのはよくあった
昔の人の1月1日生の多いこと
歳を取るのは誕生日ではなくて正月だったので戦前生まれの人は誕生日の祝いなんてやる風習がなかった
自分の出生日はよく分からないというのも普通のことだった 30代男です。
映画「はだしのゲン」で国のために戦地で戦っている兵隊に向け作文を読む場面。
ゲンが「日本は戦争をすべきではない。戦争は悪い事。何もかも壊します。兵隊さん死なないでください。両親が悲しみます」
すると先生が「このバカタレが!それでも日本男児か!」と言って、ゲンをハリパンします。
この当時の日本は、戦争に反対するという事を言う事は、問題発言なんですか?
あと、これは今は亡きおじいさんもやっていた事です。
歌を歌う時に、腕を振るんですけど、女は見ない。
どうしてこの時代の男って歌を歌うと腕を振るんですか? 地蔵菩薩者夫れ剃髪僧形也
釈迦入滅後五十六億七千万年の間、衆生を救ふ菩薩也 >>308
「地蔵菩薩は「一斉衆生済度の請願を果たさずば、我、菩薩界に戻らじ」との決意で、その地位を退し、
六道を自らの足で行脚し、救われない衆生、親より先に死去した幼い子供の霊を救い、旅を続けている。」
釈迦が入滅して次の弥勒が現れるのは56億7千万年後と言われてて遠い未来の話です。その間迷える
衆生を救うべく地蔵菩薩は旅を続けているので坊さんの格好の方が便利がいいらしい。 >>308
僧侶だから剃髪してるんだ、禿げてない! 日本の歴史を取り上げた番組で、よく何百年前の物が寺に保管してあって、住職が見せてくれるものがありますね。
奇跡体験アンビリバボーでもそういうのがあります。
例えば呪われた面とか様々なもの。
寺ってどうしてそういう呪われたものが怖くないんですか?
あと、寺ってどうして何百年前のものが保管できるんですか?
天災などで無くなるものがありますよね? お寺は宗教施設なので、御仏の法力により呪いも解除されるというのが建前です。
坊さんが呪いにビビってたら誰も信用してくれません。
戦や家事などの人災や天災の時は大事なものから順に抱えて逃げます。
奈良の大仏みたいのは動かせないから平安時代の末と戦国時代に焼け落ちて再建されてます。
逆に興福寺の阿修羅像は乾漆という張子みたいな作りですごく軽いんですぐに運べます。 >>284
平安京は秦氏の勢力地だったから
奈良も京都も盆地であって平野ではないし
生活用水は川ではなく井戸を掘ってた
近江大津宮も渡来系氏族の勢力地だった まあ、川は水運と排水路用であって給水用ではない感じではあるな 戦で大量死があると、血や死肉エキスが入った水を飲んでたの? >奈良も京都も盆地であって平野ではない
一度も現地へ行ったことのない奴の妄想というよりは、
日本語は上手だけど漢字が苦手なんだろうなw >>315
ヤマトの首長が渡来人の傍でしか首都を張れなかったてのは何?
日本人が怖かったんか うちは何てことない庶民の家(というか、由緒や謂れが伝わっていない)家系なんですが、たまたま昔の戸籍を見たら戸主を中心に○○右衛門と言う名前が大量にいました。
○○右衛門や○○左衛門は門を構えた大きな家の侍の名前と言うイメージだったのですが、現状は違ったのでしょうか? 大身でなくても一応は武家である者や、町人でも村役町役を務めるような旧家が名乗るような百官名だとは思うが‥
自分ちの由緒やいわれを知らないんなら、まぁそういう名前を名乗るくらいの家だった可能性はあるんじゃないのかな 「時代が下がり室町時代以降になると、武士階級においては仮名・官名として、平民階級では名として
広く用いられるようになり、頭に親族・兄弟関係を表す文字を付けた「新左衛門」、「彦左衛門」等、
衛門府の官等である「尉」「佐」をつけた「左衛門尉」「左衛門佐」などとして多用された。」
平民階級でも普通に広く使われたそうです。 士の下に農や工や商が並列していたが、その同じ農、同じ商の中で上下はあった
旧家や豪商、親方などの下に零細な平民があった
そういう序列の中で、細民が名乗るには不遜と見られる名前というもの、名前の相場はあっただろう 上皇陛下の曾祖母である柳原愛子は1940年代まで生きていますが、曾孫である上皇陛下とは接点があったのでしょうか? 戦前までは、高貴な家では子供は実親ではなく乳母が育てるというのが主流なので、
あんまり接点を持てなかったのではないですかね
大正天皇のように乳母に任せたくない、できるだけ子供に接したい的な行動をとると眉をひそめられたと聞きますので、
大正天皇以外の皇族・親族たちは血縁でも顔を会わせることが少なかったと思います 教えてください
毛利元就の三男、小早川隆景が、豪快バイタリティのある人物で、
元就と示し合わせの上、わざと意見が対立しているように装い、
敵に毛利家が分裂していると思わせて誘い込みせん滅するといった逸話があったと思うのですが、
この時、まじめで温厚な長男毛利隆元、豪傑でまっすぐな吉川元春には知らせず、
後からあまりの見事さに二人が嫉妬するようなことまであったとか
具体的にどの戦いでの話でしょうか?
昔何かで見たのですが、思い出せず >>329
有難うございます
どこかで探してみてみます 関東で親王が死んだのって、
鎌倉に幽閉されて足利直義配下に殺された人が史上初ですか? そもそも皇族が京都から離れる事例自体が特殊だったしね
だがあえて言うなら、父親が大王(記紀の説明では天皇)であるヤマトタケルも関東で死去している。地位としては後代の親王と同等だよな ヤマトタケルが死んだのは伊勢国能褒野だけど関東なの?
日本書紀での表記日本武尊の「尊」は皇位継承者と目される者に使うとはされてるから
親王と同等というか大兄と同等ではあるが。 志賀島の金印って
東路軍の武将が悪徳骨董屋から買った金印を日本軍の夜襲から逃げる時に落としたんじゃないですか?
(´・ω・`) クルージング?
神風の術で難破して漂着した時の話を脚色してんの 賢いことを「頭が良い」、アホを「頭が悪い」、狂人を「頭がおかしい」と表現するのはいつ頃からでしょうか?
賢さを頭の中にある脳と言う部分が司っていると言うことを昔の人は知っていたのでしょうか? 西洋医学知識が普及して後に生まれた表現には違いない
いつ頃からというのは今後、励んで探求していただきたい
解体新書の翻訳出版が1773年
神経という訳語もできた
明治の落語家三遊亭園朝による怪談話「真景累ヶ淵」
この真景には神経が裏に隠されていて、種々の怪異も皆脳髄神経の働きによるものということが解題に隠されている
解体新書から圓朝まで、どのように知識の普及があったのか‥ 頭がおかしいとか頭が悪い、良いという表現はもっと新しいのでは?
近世ではなく近代の新語としか思えない 近代、日本の植民地化を狙っていた国は
どこですか?イギリス?フランス?
アメリカ?ロシア? ペリー来航から日米和親条約について質問です。
当時の日本は産業革命を迎えておらず、外国の資源に頼る必要の無い国でした。
また、産業革命は迎えてなくても日本国としては膨大な兵士と銃砲と経済力がありました。
また、日本に国交を求めたペリー(米国)も、
当時は日本を攻略できるような軍事力も国力も無く、
日本側がペリーとの交渉を拒否すれば経済制裁出来る訳でもなく、日本に侵攻できるわけでもなく打つ手が無い立場でした。
このように今と違って客観的には当時の日米の力関係は日本側に分がありながら
なぜ日米和親条約、日米修好通商条約のような日本側が不利となるような不平等条約が結ばれたのでしょうか。 文化露寇,フェートン号事件と英露から侵攻を受けました。
対して米国の要求は捕鯨船の寄港(給油)という下らない要求だったので人道的見地から受けてもダメージないかなと
あと自分の家の不始末は自分の家でやるのが普通なので
輸出入するものもないから関税設定も不要と考えた。不利って何? >日本国としては膨大な兵士と銃砲
インドや中国は日本より膨大な兵士がいたし、使えない鉄砲は数があっても…
>日本側がペリーとの交渉を拒否すれば経済制裁出来る訳でもなく、日本に侵攻できるわけでもなく打つ手が無い立場でした。
交渉受け入れ→御国法の形骸化
交渉拒否→国防費増大→財政悪化
>なぜ日米和親条約、日米修好通商条約のような日本側が不利となるような不平等条約が結ばれたのでしょうか。
片務条約付与は先進国間でのお約束 日米、互いに主張を為し、めでたく条約締結の運びとなった
黒船艦隊の旗艦に招待された侍たちは酒肴のもてなしを受けて上機嫌
論陣を張った林大学頭もその謹厳な相好を崩した
儒学者松崎満太郎はべろんべろんに酔っぱらい、日本もメリケンも心はひとつで御座るとペリーに顔を寄せてキスをした
ペリー慌てず、条約締結ならキスもするさと応じた >>343
日本は有用資源が掘れる場所が乏しいし農地面積も狭いので植民地化したがる国はなかったはず
>>344
欧米の習慣として、最初に条約をむすんだ国を最恵国待遇とするものがあった。
逆視点で見たら、最初に勢力圏に組み込んだ国を出し抜いてそれ以上に有利な条約を結ぶのは植民地かすめ取りみたいなものだから、植民地側の事情は関係なく紛争に直結すると言える。
つまり、日本側から見ると、最初に国際条約を結ぶ相手よりあとから結ぶ相手の方が厳しい条件で条約を結ぶことはないと言える。
最初に結ぶ相手を選んで、できるだけ日本側に有利な国際条約で開国する方が安全だったわけ
その条件に合う相手はアメリカしかなかったので、他国との交渉は先延ばししてアメリカとの条約交渉だけを急ぐ必要があったんだよ >>344
当時の江戸は、食糧や衣料等の消費物資の多くを外からの輸送に頼っていた。そして、陸路輸送よりも水運が主だった。
江戸へ運び込む舟運は江戸湾経由しかなく、浦賀水道に陣取った軍艦が付近を通る船を砲撃し続ければ容易に兵糧攻めができる状態だったわけで。
少なくとも江戸周辺が危機に陥りかねない状況ではあったはず 外国船も薪炭、食物、飲料水の補給受けざれば早々に退散するの他なし
本邦ハ宜しく台場を築きて攻めよかし >>331
鎌倉幕府最後の将軍だった守邦親王
それ以外の親王将軍は生前に将軍退任ですべて京へ返されため鎌倉で死んだ将軍はいなかったが
守邦親王のみは鎌倉幕府滅亡の3か月後に死亡したと記録されるのみで京へ帰った形跡がない
しかも33歳とまだ若かったことから殺害説がある 現在わかってる史料では、幕府はアメリカとの条約締結をのぞみ、ペリーの到着を待ちわびていたとのこと オランダから送られた警告を無視して到著までの1年間いたずらに時間を費消してたんじゃないか
「他国(イギリスロシア中国その他)は来日しても翻弄してなし崩しにできた」から幕府側もペリーの本気度を舐めていたわけで
「浦賀水道から一歩も動き申さん、何であれば江戸砲撃もしていいんやで?」という態度と、
ちょうど伊豆半島に来てたロシアのプチャーチンがペリーの条約を知って同じ待遇を求めたのもでかい
むしろここが幕府の致命的判断
(一カ国は何とかなっても、二カ国目が突破されると後は列強が入れ替わり立ち替わり)
つまりアメリカとロシアの硬軟波状交渉によって言質がどんどん取られたのが主因
彼らは連携どころか敵対してた、ということを幕府も知らなかったし(知ってたら言質は与えなかったかも) 戦中の日本は右翼、左翼、どちらでしょうか?
ドイツと防共協定を締結しているから
右翼になるんですか? 右翼は自由主義
左翼は全体主義
だから戦時中の日本は左翼
大正デモクラシーで右翼化した反動か 右翼、左翼は、フランス革命期の国民議会、立法議会で議場の右側に保守穏健、立憲君主派が陣取り、左側に共和革新派が陣取ったことに由来する
だが、右翼左翼論は時代によって意味変わりまくり、ぐしゃぐしゃやで ナチスドイツもソ連もどちらも全体主義ですよね?
全体主義に右左は関係ないのですか? ほんなら共産主義国家と言われるところは自由主義、民主主義が特徴か
この世を右翼と左翼の対立と捉えること自体が不毛
教条主義、もはや宗教 そもそも左翼は派閥争い、正統争いが激しくて左翼対左翼の争いを起こしやすいしな 右翼は保守
左翼は革新
主義ではなく政治スタンスの違い
だから共産主義国家でも旧来の体制を維持しようとするのであれば右翼
改革を進めて体制を変更しようとするのであれば左翼になる 国内政治の面で言うなら、第二次大戦の総力戦を戦い抜くためには国内改革は不可避だから、どこの国も革新勢力が主流だった
アメリカで言えばニューディーラーだな
国際秩序で言えば、新秩序の樹立というか、植民地/国際ブロックの再編を掲げる枢軸国が革新で国際連盟の秩序の復興を掲げる連合国が保守だな 奈良の大仏で、ウィキで調べたんだけど、大仏の完成式(752年)から今日に至るまでに、当時のままの部分ってほとんど存在しないの?
正確には、当時から使われているものって限りなくゼロに近いであって「ゼロ」ではない? 身体の部分はもう当初のものは残っていない
大仏が座っている蓮の華の花弁だとかそこらへんにしか残っていない
体が鎌倉時代の再建、頭部が江戸時代
大きな大仏殿が燃えれば発生する熱量もたいしたもので溶けてたり割れたりしてしまったんだろう 僕達以外にも、奥山氏を挑発して、楽しもうとしている人物が出現してしまった、、、 先祖の出身地を調べたら、もとは無人だったが徳川家から命じられて2組の夫婦が移住して村を作ったと書いてあります。
大正時代には数百名の集落に成長していましたが、たった2組の夫婦からその人数に増えるってありえるのでしょうか?
あり得たとしても、近親相姦しまくりなような・・・ 入植したのは夫婦だけだったの?
使用人とかも複数連れて行ったんじゃないのかな >>369
4人で入植したとあります。そもそも、漁師だから使用人を連れるような身分じゃないかと。 >>371
市誌には、皆彼らの子孫や分家だとあるんですよね・・・ 別の村から嫁貰ったり嫁に出したりすれば近親婚にはならずにすむよ 17世紀初頭〜大正時代 ⇒ 約300年? ⇒ 10世代間
3人の子供を平均的には設けたとする。2組の夫婦の1.5倍を10世代繰り返す
4 × 1.5^10乗 ≒ 230人 ⇒ 数百名に行きますね。従兄妹同士でも近親相姦? >>376
ほぼ常に従兄弟レベルの血の濃さと交配を繰り返すことになるね。
身内は嫌だと思っても選択肢が無いし。そこまで濃くて問題無いんだろうか。
先祖に公家がいます
自分にはチョンの血が混じってるんですか? >>375
娘が生まれたら婿をとり、息子が生まれたら嫁を取る、それを全員、村内じゃなく近隣の村から迎えたら世代ごとに人口は三倍四倍に増えるのでは >>379
日本に逃げてきた朝鮮人(任那・新羅)と北部から朝鮮を征服した朝鮮人(高句麗)は違うんじゃないかな たしか血液サンプルを送ればDNAをしらべてくれる会社があったと思う 二つの質問。
歴史の参考書で、その当時の様子が書かれた絵があるけど、その絵というのはその当時からある訳ではない?
例えば平安時代の生活の様子の絵は、後から「こうだったんじゃね?」みたいな感じで書かれたのであって、その絵(用紙)自体は、ここ最近百数十年以内のもの?
もう一つの質問。
「終わりに見た街」というドラマがあった。
このドラマの内容は、戦後生まれの戦争未経験の家族が突然戦時中の日本にタイムスリップさせられる。
その時の会話で、父親が「子供を学校に通わせないとな」というが、それに対して妻は「あなた、無茶言わないでよ。子供を戦時中の学校に行かせるつもり?やっていけないよ?」と反対する。
そのドラマ内の子供は平成生まれなんだけど、その時代の学校って今の学校とはそんなに違うもの? >>383
太平洋戦争中の小学校は児童を少国民と呼んで軍事訓練もやってたんですよ。
竹槍持って「鬼畜米英」と叫びながら的を突く練習とか。
絵についてはいろんなパターンがあります。例えば蒙古襲来絵詞は元寇の時に参戦した武士が
自分の活躍を残すために描かれたので同時代の作品です。平安時代末に描かれた源氏物語絵巻とか
応天門事件の三百年後に描かれた伴大納言絵詞とか。古い物は描いた当時の風俗で描かれてることが
多いです。 https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1523090654/689
689日本@名無史さん2018/05/11(金) 20:51:34.29>>691>>694
終わりに見た街という物語がある。
これは平成の家族が、戦時中の時代にタイムスリップする話。
子供たちが平成生まれで、親も戦後生まれ。
簡単に言えば家族全員が「戦争を知らない世代」という事。
で、疑問があります。
父親が子供を学校に通わせる話をしだして、妻が「無茶言わないでよ。子供をまさか戦争時代の学校に通わせるつもり?」
平成の子供を(昔は国民学校)学校に通わせるのはそんなに無茶な事ですか?
あと、小学生の男の子が外で遊んでいる子供たちの輪に入れず、引きこもりになってしまう。
男の子と外で遊んでいる子供たちっていうのは同世代だけど、どうして輪に入れないの? 甥っ子にコマ回しを教えようとしたら頑なに拒否する。
そのくせコマを回せと俺にせがむ。
回ってるコマを手でつかむ感覚が気に入って繰り返し要求してきた。
今の子供はコマを回したりタコをあげたりできるんだろうか。
石蹴りとかビー玉遊びとか、外でそれをやってる子を見かけたのは何十年前だったかなぁ…
あとCSの有料番組。國府が児童に軍事教練を課すのは誇らしげに語るのに、日本だとこき下ろすダブスタ。
制作者は自分の番組に何の疑問も持たないのだろうか。 皆さんにお聞きしたいのですが自分が興味のある時代、時期以外の日本史って覚えてますか?
中央公論新社の日本の歴史を全て読もうと思っているのですが、興味を持った時代以外は手をつけない内に忘れて行ってしまうだろうし
もうちょっとコンパクトなものを読むべきなのか悩んでいます。
ちなみに学生時代は歴史が嫌いでまったくと言っていいほど何も知りません。 一通り通読してから、あとは忘れるに任せる感じでいいんじゃない
まったく知らない状態から読むには少しハードルがあるかもしれないけど。 興味ない時代でも、いざ読んでみると、いろいろと面白い話題も見つかるから、いちど読んでみるべきだよ
基礎知識的には中公のが最有力だけど、学術文庫で出てる講談社版とか、少し古いけど小学舘ライブラリで出てたヤツとかも面白かった
そのあとに出てた小学舘のハードカバーの通史はまだ文庫になってないかな? これも面白くはあった
全時代的とは言えないけど、吉川弘文館から出てた戦争の日本史シリーズは、これはこれで面白かったな、文庫化してないけど。
似た名前の戦乱の日本史シリーズは駄作なので間違えないよう注意 奈良・平安・大正は教科書レベルのことしか知らないし、通史もよんだことない。
小学生以降、歴史好きの俺でも興味のない時代の関連本を読むのは苦痛なのだから、
最近何かで歴史に興味をもった程度なら読まなくていいと思う。
体系的な学問を修めるのではなく、趣味としての歴史なんだろう? >>388
>>390
中央公論新社の日本の歴史シリーズを読み通そうと思います!
戦争の日本史シリーズも凄い面白そうですね!
現時点では宗教と芸術に対する興味が強いのですが
中央公論新社の本を一通り読んでみて、戦にも興味が出たら読んでみたいと思います!
>>389
人名は学生時代は覚えるのが苦痛で歴史嫌いになりましたが、
今回は完璧に暗記する必要もないので適当にやっていこうと思いますw
>>391
割としっかりやるつもりでいます。とは言っても他にもやりたい学問がありますし
どこまで深堀するかはわかりませんが…
ありがとうございました! 近代以降の日本経済史をを考えたとき、
下記の3つのトピックスを重要度(影響度含む)で
格付けしたらどうなりますか?
・1920年代のブラックマンデー
・1970年代のオイルショック
・2000年代のリーマンショック 一番でかいのはプラザ合意な
これを呑まなかったら現在の米中関係より酷いことになってた 1929年のブラックサーズデー→日本に影響なし
1970年代のオイルショック →トイレットペーパーの買い占め
1987年のブラックマンデー ←プラザ合意
2008年のリーマンショック →自公内閣崩壊
なのでリーマンショック>>>その他 世界史レベルなら世界恐慌>>オイルショック>リーマンなわけだが、日本経済限定だと難しいな
世界恐慌>リーマン>オイルショックかな? 日本への影響だと、オイルショックの前の方に「プラザ合意」が入るような気はする
ショックだけが経済を滅茶苦茶にするわけじゃない バブルの崩壊は景気の循環サイクルの一過程に過ぎないから設問が阿呆
為替も価格も政治介入ごときで変わらん >>380
乳幼児の死亡率が高く全員は育たなかったからだろ
飢饉や疫病で集落全滅もよくあったし
餓死の心配がない支配階級では増えすぎて領地が兄弟で分散しないように
嫡男以外の男子は寺に入れて出家させてたな まあ今の安倍政権は徳川幕府に例えると
元禄バブルが終わった後の吉宗デフレの時代に相当すると思う。
おそらく今度の消費税増税も税収を増やすという点からみると大失敗になるだろうから、
元文の貨幣改鋳みたいな政策。すなわち政府紙幣を発行して定額給付金をばらまくというような
露骨な通貨発行量の増大政策をとるだろうな。 前半は真面目に突っ込もうかと思ったけど、
後半で台無し。頭の悪いコピペ厨だと自分で認めてどうすんだよw
民主党政権がゴリ押しした日銀総裁による通貨供給量抑制。
日本家電の衰退と韓国メーカーの躍進。
夢よもう一度と本国政府から指令でもでたのか… 民主党政権がゴリ押しした日銀総裁
↓
民主党が与党になる前にゴリ押しした日銀総裁 二つの質問。
昭和の終わり生まれで、私が6歳だかの時に平成が発表された。
その当時は過ごしているんだけど、その時の記憶はない。
なので、ユーチュブなどで、動画を見るしか方法はない。
あとはテレビで時々放送されるくらいかな。
次の令和の時は、私が35歳で、リアルに発表された時は時間的に仕事中だったから見れなかった。
録画した番組やユーチュブであれば見れる。
疑問だけど、平成といい、令和といい、昭和や大正の元号を見た事がない。
当時はテレビがなかったけど、写真とか存在しないの?
二つ目。
私は高校生の時まで学校の授業で日本史を学んだ。
ところが今の小学生や中学生なんて私の時より日本史の範囲が広い。
例えば私が小学生の頃の、阪神大震災や地下鉄サリン事件は今の小中学生は生まれていない。
日本史は当たり前だけど、自分の生まれる前(それも数百年前や数千年前)の事を学ぶわけで。
将来、日本史の範囲って削られるのかな?
ここは勉強を教えなくていいんじゃないか?って。 テレビのない時代に平成や令和のような大衆の視線を意識した会見はしない
平成以前、改元は凶事とセットの出来事だったから、お祭り騒ぎにはならなかった
映画や写真はあってもまだまだ高価で取り扱いしづらい代物
明治天皇や大正天皇の喪儀、大正天皇や昭和天皇の即位礼ですら、動画や写真は数少ない 官房長官がテレビカメラの前で元号額を持ち上げて発表などというのはテレビ時代の平成、令和でやり始めたことに過ぎない
昭和の発表時は新聞に新元号は「光文」とすっぱ抜かれて、急遽昭和に変えた
江戸時代なんてのは朝廷から幕府へ、幕府から各地方の庄屋まで新元号を知らせたが、行き渡るのに随分暇がかかっていた
江戸時代の水戸光圀による「大日本史」は神武天皇から南北朝まで、頼山陽の「日本外史」では源平の争いから徳川十代将軍までを扱っていた
今は列島への人類居住から近現代まで扱っているが、その時代、時代でそれなりに取捨選択して歴史を述べているんだからなんとかなるでしょ *今よりも扱う時代は短いかもしれないが、「大日本史」は全397巻、「日本外史」でも全22巻と大部のもの
今の教科書を読むよりも大変なんだから ありがとうございます。
明治や大正、昭和の即位に関する動画や写真は少ない。
となると今の人達がそれらを見れる機会なんてほぼ無理に等しいんですね。
改元に関する情報を伝える方法って今のようにテレビなどが無い時代は、極端に言えば元号が変わった事すら知らない人もいたくらいなんですね?
日本史の勉強範囲って、今のように教科書一冊なんてまだ易しい方なんですね。 徳川家茂、明治天皇はじめ亡くなってから葬られるまでかなりの日数が開いている人が沢山います。
冷蔵設備などもない時代、ましてや夏場などどうやって死体を安置していたのでしょう?
腐って悪臭放つのをひたすら我慢って訳じゃないですよね? >>404
>将来、日本史の範囲って削られるのかな?
既に坂本龍馬とかが削られると言われてる。そうやって時代が増える分項目を減らして調整するんでしょう。 坂本龍馬が削られるのはまた別
歴史小説で人気があるキャラと歴史的重要人物は分けないといけないという話だよ 日本史の教科書では宗教に関して、仏教伝来〜平安仏教〜鎌倉仏教あたりはかなり詳しく載っていて、
戦国期のキリスト教があり、その後はほとんどなくなって、幕末の頃に天理教、大本、黒住教あたりが
ちょろっと出てくる感じです
それだけ、古代〜中世に比べて近現代では宗教の存在が相対的に低下したということなんでしょう
しかし、戦後の高度成長期に田舎から都会に出てきた大勢の若者を取り込む形で、さまざまな
新宗教が百花繚乱勃興しました(立正佼成会、霊友会、真如苑、真光教団、PL教団、その他)
これらは純粋な宗教という部分にプラスして「地縁のない若者のコミュニティー」としての
側面があり、その意味で宗教の存在が相対的に上昇したといえると思います
後世において、教科書レベルでこの時代(高度成長期)の(新)宗教の記述ってなされますかね
(記述量の多少はともかくとして)
社会学や歴史、宗教に詳しい方の意見を聞いてみたいです
何卒よろしくお願いします >幕末の頃に天理教、大本、黒住教あたりがちょろっと出てくる感じです
明治 創価学会、オウム真理教、幸福の科学あたりは?
あと神社本庁、靖国神社 特定の団体、宗教法人の名前は出ないだろうけど、新宗教ブームみたいな言葉で記述があるかもしれないね
あと、特定の名前が出るとしたらテロを起こしたオウム真理教、自公政権から創価学会あたり? 歴史に詳しくて頭がいい人教えてください。
「旗本○○氏」というものの意味がわかりません。
以前から、よく、「浪速の○○」とか「土佐の○○」「三河の○○」「○○国の○○」みたいな、
江戸時代以前の地名で人を表すのを見て、カッコいいなと思ってたんですが、
つい先日、都内の大型図書館で、自分の生まれ故郷(市とか町レベル)の昔の地名を探してみたんです。
そしたら、すぐ隣の市なんかは「○○藩」ってなってるのに、私の町とかは「旗本○○氏」って
なっていました。
旗本○○氏って何ですか?その土地には縁もゆかりない人が幕府から派遣されてきて行政をやってたって
ことでしょうか?つまり、藩を構えようにもそれだけの人材がなく、農民ばかりなので、しかたがなく
中央から偉い人がやってきて治めた、ってことでしょうか?
そんなんありですか? 大名ばかりが領主ではない
旗本の領地というものもあった
徳川将軍家直属家臣団のうち石高が一万石未満で将軍にお目見えできる家格の者を旗本と言った
もっと石高の少ない御家人などは米やカネで禄をもらったが、中級旗本以上になると領地(知行所)を持ち、殿様と呼ばれた
石高の多い旗本なら知行地に陣屋(お城のかわりみたいなもの)を構え、代官を派遣して領地を治めた
石高の少ない旗本は地元の人間(在地代官、大庄屋、庄屋)に領地を治めさせた
こういうところでは殿様は江戸にずっと居るだけだし、村には家来の侍も居ないし、どうしても警察力が弱くなる
関東にそういうところが多かったので、関東取締出役が設置され、巡回して治安維持にあたったが限界がある
上州などは旗本領ばかりで大名が居ないものだから、やくざ、無法者の天国
上州名物はカラっ風とカカァ殿下にヤクザ者だ
黒澤明監督の用心棒の舞台は空っ風吹きすさぶ上州の宿場だし、テレビ時代劇でヒットした木枯らし紋次郎も上州三日月村の出身、史実では国定忠治大親分も上州国定村だ 単なる徳川の家来だけではなく、元々は大名もしくは大名の一族だったり、室町・戦国期以来続く由緒正しい武家の旧家も「旗本〇〇氏」として取り立てられている者がある 旗本領が集まってる地域とかだと、幕府代官が一括管理して、
年貢だけ旗本が受けとるようなことも多かったようだ
それでも年始挨拶とかで毎年最低一回は領民(代表ら数人だけかも?)と顔をあわせる機会はあった >>417
定義としては石高1万石以上が大名で一万石未満が旗本です。旗本は基本江戸定府つまり江戸に居て
参勤交代しないので領地の経営は代官に任されます。例外的に参勤交代する旗本は交代旗本と称されます。
江戸時代の領主は時代によっては「鉢植え大名」などと称されて幕府の意向でどこへ飛ばされてもおかしくない
時代もありました。それは大名であってもです。江戸時代の前の話になるけど豊臣秀吉は越後(新潟)の上杉を
会津へ移動したし、徳川家康だって本拠地の三河から関東へ移動させました。縁もゆかりもない土地へです。
それを拒否した家は次々と攻め滅ぼされますから仕方がないわけです。仙台の伊達家だって元々は福島県の
伊達郡が本拠地だし伊達政宗の生まれは米沢で宮城県とは何の関係もありません。 >>417
>つまり、藩を構えようにもそれだけの人材がなく、農民ばかりなので、しかたがなく
>中央から偉い人がやってきて治めた、ってことでしょうか?
例えば会津を例にとりましょう。東北の領主は源頼朝の奥州征伐の恩賞として鎌倉幕府の御家人に与えられた
例が多いです。伊達氏もこの時に伊達郡を得たので伊達氏を名乗りました。会津は三浦氏の一族蘆名氏に
与えられました。今の会津若松はその頃は黒川という名前でした。蘆名氏は勢力を拡大して戦国大名化して
いきますが伊達政宗に滅ぼされてしまいます。ところが新領主伊達政宗は秀吉を怒らせて仙台に飛ばされました。
それで空いた会津には近江(滋賀県)の蒲生氏郷を置きました。この氏郷が出身地にちなんで若松と名前を
変えました。それ以来ずっと若松です。またこの時に氏郷の家来のなんとかさんがそれまで信夫だった土地を
福島に変えました。福島県の由来は以外と歴史が新しいのです。そして蒲生氏は氏郷が死ぬと宇都宮に
飛ばされて後には越後の上杉氏が入ります。上杉氏は関ヶ原で徳川に負けて米沢に押し込められます。
米沢は会津領の一部として秀吉から与えられていたけど本体の会津を取り上げてオマケだけになった形です。
その後には蒲生氏、さらに加藤嘉明と縁もゆかりもない武将が次から次へとやってきて支配しました。それは
地元に人材がいないからではないのです。 地元に根付いている人間は庄屋、村役人、町役人などで自治組織を持ちますが、それ以上の領主となると住民が自分たちで選ぶのではありません
民主主義の時代じゃないんですから
将軍家が全国支配するには人事を握らなければなりません
大名領地、旗本領地の配置も全部指図し任命できることが重要なのです
庄屋以下の下っ端は地元に任せて置きますが コジュケイは外来種とのことですが戦国時代にいましたか? 秀吉に敗れた柴田勝家に半兵衛や官兵衛のような軍師はいなかったのでしょうか? そもそも日本では軍師という職掌がない
半兵衛も官兵衛も軍師じゃなくて武将 秀吉にニ兵衛、正宗に小十朗、景勝に兼続、家康に正信
戦国を生き延びた大名にはそういう戦略家のような人がちゃんと居ますよね
勝家は配下に恵まれなかったのかな?故に滅んだ? 勝家の配下というか寄騎の利家は裏切って秀吉についたからなぁ。 勝家は主君信長を生前・没後2度に亘って裏切ったから許より人望は望めない 民主主義&象徴天皇制に移行して以降、天皇が歴史教科書に掲載される可能性は
かなり小さくなったように感じますが、もしも今後女系天皇が誕生したり、
あるいは旧皇族の皇籍復帰からその系統の天皇が誕生したときは
教科書に掲載される可能性の大きさは如何でしょうか? >>431
>>今後の天皇陛下が歴史教科書の本文に記載されるようなことをされれば掲載される。
未来の天皇の行動行為云々はさておき、「女系天皇の誕生」または「旧皇族の皇籍復帰」、
「皇籍復帰した系統の天皇の誕生」ということそのものが教科書に記載されるレベルの
ことなのか、そうでもないのか、という疑問です 真面目に質問です
教えて下さい
子供のころは親の持ってた歴史小説や漫画を読んで
伊達政宗かっこいーとか
武田信玄VS上杉謙信かっこいーとか
零戦カッコいいとか
無邪気に歴史を楽しんでいました
大人になってから真剣に歴史解説本をよんだり
大河だったり歴史創作とか読んだりしたら
なんか悲しくて悲しくて辛くなりました
こんな事人に相談も出来ないし
歴史モノ好きだったはずなんだけど
どうなってるんだろうって
検索したら
歴史クラスタはすでに推しが死んでいるから
平気とか出てくるんですけど
ホントに平気なんですか?
平気になる方法あるんですか?
後、太平洋戦争モノのメカとかカッコいいってはしゃぎたいけど
なんか不謹慎な気がして艦これのファンを
装ってたりします
その辺の気持ちの折り合いはどうしてますか? だから何なんだ?
武田〜とか聞いた事もない人物ばかりなんだけど、
家の老婆も知らないと言っているし、なぜか?w これは本当の話
アマテラス〜、???、〜〜〜〜?とか、
あと最初のほうの天皇などは知っている
どこかで習ったと言っていたり、
なぜか山の上のほうに住んでいて〜とか >>433
今現在の世界で飢餓に苦しんでる人がいるとか内戦で苦しんでる人がいるという話と
過ぎ去った過去の話を同じレベルで悲しむのは如何なものかと思います。
もしかしたら創作のキャラクターも例えば酒呑童子だまし討ちにされて可哀想とか悲しくなるんですか?
兵器については宮崎駿もそれはそれ、これはこれ、と言ってるので気にしなさんな。 >>433
宮崎駿(昭16生)は従業員数千人を擁する「宮崎航空興学」を経営する家に生まれて、航空機他の軍事メカおたくになった
物心ついてからは戦後民主主義の中で育ち、人並み(以上)に平和主義、左寄り思想となった
質問者と同じく、頭の中が右と左に引き裂かれた状態となったはずだが、本人は気にしてないんである
この一筋縄ではゆかない人間というものを今後も歴史の中から探求していってください >>436
飢餓で苦しんでる人とか映像みるのもちょっと苦手です
寄付とかもしますが痛みを共感しやすいのかもしれないです
酒呑童子に騙し討ちは
物語へののめり込み度が高かったり
えぐい描かれ方してるときついです
大河は特に長い話で
俳優さんが演じてるのでイメージしやすくて余計に死のシーンが
悲しい気がします
近代だと写真が沢山残ってて逸話や資料が沢山残ってて
ひどい死に方したりしてると
割りと悲しいです……
>>437
一筋縄にはいかない人間性ですか……う〜ん 兵隊に行って戦争してくるんだな
もう命の値段の安いこと
死を見てもな〜んにも感じなくなる
いちいち感じてたらやってられないから
‥でも、やっぱり神経をやられてしまう者もあるけど >>439
ここは多分戦争に行ってない人の方が
多い気がするんですが
それでもみんな推しの死とかは平気なんですか?? >>440
例えば弁慶とか死に様あっての人気なわけで死んでなかったら人気が半分になるよ。 >>440
正直、歴史はたいていの場合は権力抗争の話ばかりだろう?
昔の権力抗争は武力行使が伴う例が多いよな?
となると戦争の話ばかりで、
歴史好き=戦争好き(戦争の話を聞くのが好き)になるからな。 >>433
>歴史クラスタはすでに推しが死んでいるから平気とか出てくる
‥わからない文章だな >>442
一人殺すと殺人犯だが数万人単位で殺せば英雄
昔からそういわれている タマヨリビメの説明に神武天皇(初代天皇)の母であり、天皇の祖母である豊玉毘売の妹とあるんですが、
天皇が息子でなんで姉が天皇の叔母でなく祖母になるのか全く理解できません
解説お願いします >>441
それは凄く分かります
>>442
たしかに戦国時代とか
戦争が多かった時代が人気ありますね
>>443
推しの死が悲しいので歴史好きな人はどうやって
悲しみをのりこえてるか
「歴史クラスタ 推し 死」などで検索したところ
「推しはすでに死んでいる(ので今さら悲しくない)」
という検索がいくつか出て来ました
自分もそういうふうにメンタル強くなれる方法を知りたいという感じです
>>444
言われてみればそうですね、不思議です ツイッター隠語やAKBおたく用語を多用されても多くの国民は理解しかねる‥ >>446
古代にはよくあった叔母と甥の結婚だから
彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊は母(豊玉姫)の妹(玉依姫)で叔母に当たる結婚
叔母と甥の結婚で神武天皇が生まれた
神武天皇にとって玉依姫は母、豊玉姫は祖母 >>445
とりあえず埋葬してしまってから、日を開けて葬儀したんじゃないの?
現代でも立場がある人が亡くなったらそうするケースはあるよ >>450
徳川家茂は徴収出兵に遠征中、大坂城において慶應2年7月20日に没した
遺体は8月12日に幕府がイギリスから購入した長鯨丸で運ばれることになった
家茂の遺体を乗せた長鯨丸は、9月2日に大阪出航、9月6日、江戸着
9月23日葬儀、江戸の増上寺に埋葬
同様に明治天皇は明治45年7月30日、東京の皇居で崩御
陵墓は京都の伏見桃山御陵に埋葬されることになっていた
9月13日、東京青山の陸軍練習場で明治天皇の大喪(葬式)が執り行われ
同日、明治天皇の棺は専用に造られた国鉄の霊柩車両に乗せられ東京出発、京都着
9月14日に伏見桃山御陵に埋葬された
どちらも亡くなった場所と埋葬場所が離れていて
輸送する船や列車が特注のためすぐには輸送させておらず
遺体は近場に埋葬して後日葬式だけということではない 古代の葬儀だと、殯(もがり)という儀式があるからねえ
とりあえずググれ >>452
明治天皇と徳川家茂の遺体をどうしたかという話なのに完全なスレチ
文盲? まあ偉い人だと「殯宮(もがりのみや)」作っておいてそこに安置だねえ
つまり「臭くなっても大丈夫! 隔離してるし!」みたいな感覚
庶民だと火葬とか塩漬けとかいう直接的な方法に打って出る 723年の三世一身の法である土地を開墾したとして3世代の間
その土地の収穫物は無税になるの? エンバーミングに相当する技術があったんじゃないの知らんけど 明治天皇は亡くなった2週間後に殯宮に移されたが
この殯宮は明治天皇が皇居として用いていた明治宮殿桐の間だった
つまり皇居宮殿の中に大喪まで1か月半の間遺体が安置されていた
(桐の間は明治天皇の皇后・昭憲皇太后が来客を謁見した部屋)
明治御殿は大正天皇、昭和天皇の皇居ともなり
昭和20年、空襲の類焼で焼けるまで皇居として機能していた
匂いがどうだったかは分からない 不平士族の反乱が倒幕に中心的役割を担った藩だったところで起こっているのが面白いね
倒幕して勝ち組になったと思ったら負け組になっちゃった なんで明治の初めの10年間を大久保利通体制っていうんだろ
政府のトップは太政大臣の三条実美だから三条実美体制じゃないの この画像の
一番左列上から二番目の家紋、どこの家か教えていただけませんか?
https://i.imgur.com/lQJspMm.jpg >>451
臭いや液体が漏れないように、棺を何個か重ねたり、その隙間に木炭や朱を詰め込んだりするらしい 殿様が江戸で急死したら、遺体をクニへ持って帰るの? >>465
ありがとうございます
私の先祖がこの家紋を授かって、少し変えて使っていたらしいです
秋田に上杉関連の何かがあったりしませんでしょうか? 上杉の家紋を伊達が授かったと言う逸話は有名ですね
直接授かったかもしれないし伊達の末裔かもしれないし
地域的にも近いので調べたら面白いかもしれませんね >>471
伊達政宗の大叔父(祖父の弟)に当たる伊達実元が上杉定実の養子に入るときに
(実元の祖父植宗の正室が上杉房実の娘。女系で上杉の血を引いている)
引き出物として上杉家から伊達家に与えられたんじゃなかったっけ
ところが定実が伊達家の精鋭を引き抜いて上杉へ同行しようとしたとして
定実の兄晴宗(伊達政宗の祖父)が激怒、定実を幽閉して養子入りを取りやめにしてしまった(後に幽閉は解かれる)
養子入りはなくなったが上杉から貰った紋はそのまま晴宗が使い続けて伊達家の紋にしたとか ありがとうございます
伊達から調べたところ、国分家というのが伊達の名字になって、最終的には秋田藩佐竹家の家臣になったらしいというのが出てきましたが、家紋は全然違いました
情報が少なくて難しいですかね
北海道の開拓に行ってそのまま今も北海道に本家があるらしいのですが 古代から中世ころの平均寿命は30歳代らしいけど、よくこの平均寿命で子孫や文化や仕事の継承ができたなあ
今みたいに高度な文化ではなかったとしても >>463
奇兵隊の末路も反乱を起こして壊滅だからな。
ちなみに松下村塾も門下生は萩の乱を起こしたしな。 >>474
早く死ぬ奴が平均下げてるだけで大半が30代で死ぬわけじゃないからな ほんの数十年前でも、25歳は立派な大人
30歳はおっさん、おばはん
40歳は髪白く薄くもう年寄り
50過ぎるといつ死んでもおかしくない老人という感じだったな
磯野波平なんかはまだ勤めてるから55歳の定年になってない
妻のフネはもっと年下だろうにお婆さんだ
昔の人はあんな感じだった >>474
0歳死亡が多いから平均したら30くらいになる。一人60まで生きても一人0歳で死んだら平均したら30になる。
平均値は30でも中央値は50手前くらい。 >>479
織田信長がいってた人生50年のとおりなんだな 江戸時代って無駄な時代だったのだろうか
参勤交代の負担が重くて経済が停滞してしまったし >>482
参勤交代のお陰で街道が整備され商人は儲かったんだがな
江戸が100万人都市になれたのも
全国の大名が参勤交代で家臣たち連れて江戸に集住
国元にいるときも正室と嫡子の江戸留め置きを命じられていたため
貧しい農家の二男三男は江戸に出れば人並みの生活ができたから 参勤交代がなかったら室町、戦国の世で見たような地方大名の幕府からの離反、戦乱があったやも知れない 結果的に薩長土肥くらいの戦力でひっくり返せるんだものな >>488
戦国時代には結婚して苗字が変わる夫婦同姓の風習は普及してないから、前田の妻の苗字は前田じゃないぞ >>488
天下人の城下町に諸大名集住はもともと豊臣秀吉がはじめたことで
秀吉の聚楽第や伏見城の周辺には各大名屋敷があった
関ケ原の時に諸大名の妻子が秀頼のいる大坂に集住
西軍の人質にされると噂になったのもそのため
前田利長は本来大坂に差し出さなければならない母を
関ケ原前に家康の人質として江戸へ差し出した
前田は豊臣ではなく徳川の家臣であると関ケ原前に表明したことが
関ケ原に大きく関係した なんで安土桃山時代なんだろ
秀吉の本拠地って伏見城より大阪城のイメージだけど >>490
秀吉以前にも、室町幕府ですでに行われているぞ
応仁の乱の終息後から、また明応の政変を期に、などと徐々に京都を離れていっただけで。
いやまあ、九州の大名やら関東・東北の大名は室町時代を通して常に、京都に出向いてないけどな
だから全国の全大名という意味では秀吉が最初かもな >>492
室町時代は管領が幕政を行うために京都常駐を命じられた程度
応仁の乱で勝手に大名が上洛してくるようにはなったが
将軍が諸大名に京都集住を命じたことはない >>491
天下に号令するのは関白として京都から行う
大坂城は豊臣さん家の私的な城として作った
あと、伏見の城跡に桃を植えて桃山と呼ばれるようになったのは明治のことなんだけどね
なぜか安土伏見時代とは言わない 利家の妻まつは12歳で初産し、11人も生んでいる。ただ、個人的には曾祖母が大正から昭和初期にかけて11人出産していたり、高祖母も10人生んでいたりとまつの凄さがよく分からない。
歴史に名の残る人で、もしくは日本人の中で最も多く出産したのは誰で、何人でしょうか?
男の子沢山は一夫多妻ならいくらでもあり得るが、女性は限られてる分同着多数かな。 >>493
命令という形をとってはいないけど、実態として、中部地方から中国四国地方までの大名は全員が在京原則で領地に帰る際には許可をとってたんだが
軍政の建前上、軍事貢献を求められる上、その目的で本営たる幕府のもとに在陣するのが事実上の前提条件だ >>496
それを言ったら鎌倉幕府だってそうだろうw
足利やら主要な御家人たちは領国に住まず鎌倉に屋敷を構えて住んでいた
奈良時代の律令制からして中央官僚を地方に派遣して国司をやらせるが
本邸は京都に構えていて妻子はそこに置いたままだったりしたし 江戸時代、下級武士は馬を持っていませんよね?
馬に乗る練習とかするの? >>494
私的というが、「豊臣氏の根拠地」という意味では京都ではなく大坂だぞ >>500
日本の歴史家は安土「桃山」時代と名付けたんだぞ
(秀吉亡き後はそれこそ大坂城が豊臣氏の根拠地となったが、秀吉が死んだら豊臣時代は実質終わってたと歴史家が見てるんだからしょうがない) >>501
大坂という名前を使いたくない誰かの作為があったとしか思えないな
同時代に存在しなかった桃山という地名を使ったあたり、公正でない意図の存在を疑わざるをえない 伏見の明治天皇陵が桃山御陵と名付けられているのに歴史家が忖度したのかな >>502
大名が服従の証として主筋の大名の城下町に生母を送り込むことを人質という
戦国時代に人質はいなかったといいだしそうだな >>503
秀吉は関白になると京都の聚楽第を本拠地にした
関白を譲って隠居し太閤となってからは京都の伏見城を本拠地にした
豊臣秀吉政権の本拠地はこの2つ
秀吉は天下人となった後の大坂城は豊臣家の支城の一つにすぎず
秀吉がここを主城にしたことはないんだよ
秀吉が死んだあと秀頼が大坂城に移されたことで秀頼の主城にはなったが >>505
まつの話してんのに莫迦じゃねぇーの。抽象的な話にすり替えるな >>507
まつは人質だと言う話をしているのに読めねえの?
文盲だな >>506
伏見や聚楽第って、信長の京都滞留時の逗留場所と大差ない機能しか果たしてなくないか
本拠地と呼ぶのは妥当ではない気がする 秀吉ってなんであんな金持ってたんだろう
やはり臣従するときとか金持ってくもの? まつは人質だと言う話をしていないのに読めねえの?
文盲だな
ageバカ問答 >>510
伏見城は関白豊臣秀吉の居城にしてここより天下に号令を為す
聚楽第は関白豊臣秀次の居所として天下治むる所
秀次を排除した後、次の関白たるべき秀頼のために関白屋敷として京都新城を築く
あくまで京都朝廷の重臣、関白として天下を治めるのである
実際には秀頼は関白となることがなく、京都新城は北政所が住み、秀頼は大坂城に移ったが、後の歴史家はもう大坂時代などという歴史区分を設けはしなかったのである
カワイソな秀頼ちゃん 天下分け目の関ヶ原の合戦はなかった
一次史料が伝える“通説を根底から覆す”真実とは――
ttp://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309248608/ >>514
それは、その文章を書いた人の意見、解釈にすぎないだろ >>510
秀吉は天下を取ってからはほぼ聚楽第→伏見城に滞在
秀吉はずっと大坂城にいてたまに聚楽第や伏見城に出張していたと思ってる馬鹿が
日本史板にいるんだなあ 桃山という地名は秀吉の時代はなかったんだから安土伏見時代でいいんじゃない 前九年の役・後三年の役もおかしいよな
前九年の役は12年だし後三年の役は5年だし >>519
いや、いちばん長かったのは九州の在陣だろ
長く居たとこが拠点なら伏見じゃなく九州の方じゃないの >>524
秀吉は関白となって政権を執った
関白は定期的に参内する必要があったから
参内可能な京都・聚楽第に基本的にはいた
関白を隠居してからは太閤となってから基本的に住んでいたのは伏見城
醍醐の花見は伏見城から出かけているし秀吉が没したのも伏見城
秀吉は朝鮮出兵の最中に没したから
当時の居城は名護屋城で九州で没したと思ってる人なのか >>518
歴史学者の脇田修先生が20年ほど前に「大坂時代と秀吉」という本を出してます >>440の推しの死が平気なのかについては
だれも回答無し? >>530
「そんなこと考えたことなーい。」ってことだろう。 >>530
悲劇的な死まで込みで推しってことじゃないのか
日本人が好きな大石内蔵助とか源義経とか真田幸村とか
平穏無事に寿命全うだったらそんなに人気でなかっただろうし 実際真田幸村以上の活躍をした上に大坂城に戻って秀頼の介錯を務めた後に自害した
とされる毛利勝永は全然有名じゃないもんなぁ。江戸時代の文人神澤貞幹が「惜しい哉後世、
真田を云て毛利を不云、是毛利が不肖歟」と書き残している。 源義経は大陸に渡って大帝国を築き上げたし,
真田幸村は秀頼とともに加護島に落ちのび太や 秀吉って信長の部下として働いていた時はすごく優秀だったと思うんだけど、なんで天下人になってからは暴走しちゃったんだろ >>536
高度経済成長が永遠に続くと思っていたからだろうな。 >>536
目の前の課題を解決するのに最適解を探してただけだろ
上から頭を押さえつけるヤツの圧力があるときと無いときで最適解は変わるから、制限のない状態で自分なりに最適解を探した結果が暴走になる 遅くなってすいません。
この時期毎回なんですけど
近年ww2にはまってて推しの命日とか
身内でもなんでもないのに勝手に落ち込んでました
>>531
そんなもんなんですね
羨ましいです
>>532 - >>533
言われてみるとなぜか
同じような活躍したけど長生きした人物より
悲劇的な死の人物の方が惹かれますね
不思議です
死んでるからその後の人生の
ドジったり恥ずかしいエピソードが無く美化されやすいのかも?
あと死んでると確実に出会う機会ないので
コミュ症の自分でも絶対安全圏で楽なのかも????
あと毛利勝永さん知らなかった、かわいそう
>>534
死が悲しくなってしまうので
生き延び説とかかなり好きです
その、下らない話だったかもですが
少し相手にして貰えたお陰で落ち着いて来ました
ありがとうございます
あと自己満足かもですが
博物館とか歴史関連施設とかに寄付したら
少しすっきりしました 昔の人は家紋であそこは格好いいとか言う感覚は合ったのでしょうか?
僕の個人的感覚では平氏系の蝶とか伊達の雀辺りが見た目格好いいですが
職人泣かせでも合ったかと思います
なのでゴテゴテしたのは逆に倦厭されてたんじゃないのかとも思ったりします
そう言った家紋についての逸話など無いでしょうか? 前田家当主が鼻毛伸ばしてたエピソードから
現代と同じく鼻毛でてるのNGという文化があったと思うのですが
いつごろからあったのでしょうか? 初書き込み失礼します
東京にある浅草寺についてですが、公式HPや個人サイトによると628年(推古36年)に観音像を供養して〜とあり、そこから歴史が始まったと書いてありますが、 628年といえば大化の改新の前であり、畿内でもそんなにお寺がなかったそんな時期から東国にこんなお寺があったのでしょうか この設立の経緯は「浅草寺縁起」という本に載ってるそうですが、その当時からあるなら、他の歴史書に載っててもおかしくないのに、他のソースがないようです。 偽書と言っては失礼ですが、他に浅草寺について載ってる文書についてご存知の方がいれば教えてください(4レスに渡り失礼しました) 四天王寺の縁起ですら偽書の疑いが強いってのに浅草寺の縁起がホンモノの可能性なんてゼロに近いだろ
ちなみに四天王寺の縁起は平安時代に偽作されたものっぽい 隅田川で漁師の網にかかった観音像が浅草寺本尊の聖観音‥なんてどうみても同時代の実録じゃないよね
寺の縁起なんてのはできあがったときからもう昔語りなんでしょ
浅草寺の本尊は5cm余りの金銅仏だというけど、秘仏として全く公開されていないというのもアヤシい‥ >畿内でもそんなにお寺がなかったそんな時期から東国にこんなお寺があったのでしょうか
寺じゃないが『延喜式神名帳』をみると東国にもそれなりに神社はあった
>浅草寺について載ってる文書についてご存知の方がいれば教えて
明治の神仏分離により浅草寺とは別法人になり、明治元年に三社明神社に改称、明治5年に郷社に列し、明治6年に現在の浅草神社に改称しているから、そっちで調べてみれば?
wikiによると浅草神社は、平安時代の末期から鎌倉時代にかけて、三人の子孫が祖先を神として祀ったものであると考えられている。ご神体として前述三氏を郷土神として祀っている。 >>540
すっきりしたんならとりあえずよかった。
>>541
伊達の「竹に雀」は越後(新潟県)の上杉氏から養子に入る引き出物としてもらったものだけど、
養子の話を反故にした上で家紋はそのまま使っている。ちょっと悪辣。やっぱりかっこいいと思ったんだろうね。
>>544
北関東から南東北に仏教を布教したのは空海や最澄と同時代の徳一と言われてます。 大規模な布教はなくても、仏教を信仰している集団が移住して、自分達のためだけの小規模寺院を作っていた可能性は古墳時代や奈良時代にも十分あると思う >>550
浅草寺の実在が明らかなのは鎌倉時代頃から
それ以前のことに関しては眉唾 とはいえ、もっとも古い鎌倉時代の時点ですでに大きな寺に発展したあとな訳で、遅くとも平安時代のうちには創建されていたのではないかとは思える
記録がないので空想しかできないだけだ 日本が直接当事国になったというのもあるけど、第二次世界大戦は世界史における現時点での
最後の世界大戦だし、人類史上初めて原子爆弾も使われたし、文字通り世界を舞台にして
行われたし、世界史の画期的トピックだと思っている
しかし、一部の歴史家などの間では第二次世界大戦よりも第一次世界大戦の方が扱いが上というか、
世界史の画期的トピックになっている面がある
自分的には信じられない
みなさんはどう思われますか? 信じられないもなにも、一次大戦で戦争と世界が大きく変わったのは事実なんだから仕方ない 日本は第一次世界大戦でドイツ領植民地への攻撃をはじめとして限定的にしか参加してないけど、ヨーロッパ諸国は第二次大戦時の日本と同等ぐらいの惨禍を受けてるんだよ
ちなみに第二次大戦時の被害規模でも日本は上位に食い込めない程度だぞ
上位はドイツフランスとソ連ぐらいだろうか(あと、東ヨーロッパに多かった非占領地の国々とか フランスは国土全体が戦場になってないから60万程度だよ。日本が断トツで上位
日本以上の被害国はドイツ・ロシア・ポーランドと戦争責任国いの一番やからね 日本のお城は何故、
戦艦大和や武蔵みたいな主砲や副砲を
装備しなかったんですか?
(´・ω・`) 規模はさておき二番手が一番手に勝つことは無い
トピックとして“初”の意味は大きいから >>561
その理屈もわかるんだけど、同時に第二次は最後の大戦って側面もあり、現在の国際社会の大枠を成したという点で画期だとおもうんだがね
あとはやっぱり人類史初の原子爆弾っていうのも大きい その前に機械化で戦場を一変させ、死傷者数を飛躍的に増加させたのが一次大戦
二次大戦はその延長上にある 本土決戦となったらやはり日本はサリンとか使いまくってたのでしょうか? 第一次の時に最初の「大量破壊兵器 」毒ガスが使われてるし いや、せいぜい竹槍
あと自決
親に尋ねたら民族の滅亡を覚悟していたというけど、流石に政府が戦争やめたでしょう
ドイツも市民、子供が使えるロケット砲まで用意したけど、そこまではさすがに行かなかった ドイツって第一次も第二次もボロカス負けたのに、戦後すぐに経済大国2位になったし、日本に抜かれてからも長く3位
だったから凄くね?って聞いたら、ドイツは他国に攻め込んでて負けたから、国内はそんなに被害受けてないって
言われたんだけど、どうなんでしょう?
ここではドイツの被害でかかったって書かれていたけど ベルリンがドイツの東の方だからソ連に蹂躙された範囲は狭かったと思われ 植民地というお荷物がなかったから
ベルリンから東の方をポーランドに割譲され,ドイツ国の範囲が狭まり人口密度が… NHK-BSの海外ドキュメンタリー番組でやってたな
敗戦で失った東方領土から本国へバッグ下げて徒歩で戻るドイツ人達
それを捕まえて道端で射殺する、恨み骨髄の地元民 摂家の九条家は邸宅が九条にあったから家名が九条家になりましたが
どうしてそんなに御所から離れた場所に邸宅を構えたのですか? >>560
大砲は装備してたが明治維新後に撤去された、のだと思う
少なくとも、大砲と鉄砲を使うことを前提として作られてる >>572
御所の近くは車が使えないとか、不便があったらしいです。 天草四郎の肖像画とか絵本の桃太郎みたいな髪型の名前の名称がわかりません
前髪をたらしたポニーテールで月代を剃っているのはなんというのでしょうか? >>575
若衆髷(わかしゅまげ)
元服前の男の子の髪型
女性も真似て結うことがあった
元服で前髪を落とす >>576
ありがとうございます
若衆髷で検索して出てくるのが前髪を垂らさずにオールバックにして
後ろもポニテでなくちょんまげにしてるのばかりだったのですが
あれも若衆髷だったんですね 若衆髷と言うとやはり前髪を後ろへという江戸期のアレなんだろう
それより古くて単純な髪は‥よく「前髪垂らした」という極く簡単な、名前もないものかも知れない
とにかく元服前は前髪があるというだけの‥‥ 天草像は昭和4年だけど江戸の浮世絵であの髪型ある? >>572
平安京ができてから平安末期になるまでに人口が増えたため
貴族の邸宅街だった二条〜三条には大邸宅を新築する場所がなかったこと
鴨川の治水工事により東側の土地が広がったことです
後白河法皇の法住寺殿は鴨川東七条末にありましたし
大富豪だった八条女院の御殿・八条殿はその名の通り八条にありました
平安末期の大邸宅は七条〜九条に新造されていったのです
>>574
御所の中は車に乗れないし(天皇から手車宣旨を受けた人のみ人力の車可)
御所の門までは何で来てもいい
「大鏡」には当時三条(東三条殿)に住んでいた藤原兼家が兄が死にそうだと聞いて
円融天皇に自分を関白にしてもらうため急いで牛車を走らせる様子が出てくる 大正時代には年間2000人もの50歳以上の出産があったと聞きました。
自然分娩しか無い時代に、50歳以上の妊娠と言うのは不可解です。ましてや大正時代の50代って今の感覚よりかなり老けているはず。
これって、未婚の娘が何らかの事情で出産した場合に娘が傷物になって将来に影響が出ることを気にした親が自分の子だと偽って届け出たんじゃないかと邪推しています。
皆さんの見解はいかがでしょうか?
当時の平均寿命を超えた婆さんが妊娠なんてあり得ないでしょう。また、男性も婆さんに欲情しないでしょう。 排卵の数が決まってるんだから初潮が遅ければ閉経も遅いんですよ 男の精も発射数が決まっていて、最後にはポンと赤い玉が出て終わり
そういう話があったな 各人が生まれつき持っている卵子の数は万余におよぶ
毎月一回の排卵で千年分近く、誰もが持っているわけ
実際には三十数年ぐらい?で終わるけど、ほとんど使ってないんだよ。余力だらけ >>583
赤ん坊を養子にもらうのに、戸籍の受付がザルなので実子として虚偽の届けを出すことも多かったと聞きます 今は出生届に医師の出生証明書を添付するが、昔は自宅で勝手に出産していたので証明書なんかない
実際とは違う届け出をしてもバレない わざわざ嘘を書く理由って何だろ?
やっぱり>>583に書いたような事情? 簡単にいえば、世間体だろ
江戸時代末期の伏見宮家では、当主の跡継ぎが家女房に手を出しまくって、
生まれた子供たちは祖父の子供(実父のきょうだい)として披露されて育てられた 令和になって3か月が経っています。
令和は万葉集から採用した文字でして、この万葉集は現存する日本最古の歌集。
「現存する日本最古の歌集」だったら、現存しないという事なら更に古い歌集というものもあったのですか? 枕詞というのはそれ以前に歌われた歌へのオマージュだから
万葉集の歌に枕詞があるという事はそれ以前に沢山歌があったという事だよ 万葉集自体、元は大伴家持の個人コレクションだからな。
おそらく他の人の個人コレクションもあったのでないの? 柿本人麻呂歌集や山上憶良の類聚歌林は現存しませんが、万葉集の素材となったようです 欽明の頃には大伴氏は移民担当というより総理大臣的ポジションだな
この大伴金村が葛城氏や蘇我氏などの権力者のうち、実在っぽいなかでの最初だと思う
それより以前の武内氏とか、架空っぽいしな 戦の時、進軍途中の街道から離れた山の上の城とかをわざわざ落とす意味は何ですか?放っておいて後ろから挟撃されるのを防ぐため? 荷だ隊とかの戦闘力のない部隊を攻撃される恐れもあるから放置できないでしょ
とはいえ、必ず攻め落とされると限ったものではない。
桶狭間の戦いの折り、三河西部の刈谷城だったかな、水野氏は織田方だけど攻め落とされてないでしょ
降伏勧告・開城交渉してたかもしれないけど。 基本正面の敵に当たる布陣で進むからね横から背後から突かれると脆い
奇襲は混乱する恐れもある
三方ヶ原の合戦で武田は家康をおびき出してちゃんと正面で当たるように布陣していたと思われ ピカソの有名なゲルニカはスペイン内戦での怒りや不安、様々な感情を表した作品と言われていますが、日本の絵画で似たような作品ってありますか?
源平合戦や応仁の乱、戊辰戦争、西南戦争などへの怒りや不安、様々な感情を表した作品とか 昔は偉い方の名前を呼ぶのは憚られたので、邸宅の門を呼ぶ→御門→帝→帝から派生して帝王、帝国など
こんな流れだったと思いますが、偉い方って天皇だけに限らず、大臣、将軍、提督、などは御門→帝にはならなかったのですか?
その国で一番偉い人だけって感じだったのですか?
ちなみに帝や帝王、帝国って呼び方は本国だけでなく、複数の植民地や属国を持っている国(帝国)やその国のトップ(帝、帝王)に使われる呼称で、本国だけの場合は使われなかったのでしょうか? >>607
殿様の殿はその人の住まい、御殿のこと
デーモン閣下の閣も住まいのこと
日清戦争で日本の後押しにより清の冊封体制を脱した朝鮮国王は大韓帝国皇帝を称した 国王と帝王の違い
王国と帝国の違い
を教えてください イギリスは国王でありながら大英帝国、英連邦の盟主
朝鮮王は大清帝国の向こうを張って皇帝を名乗るし、もうイロイロじゃね 徳川家康の正室も住まいの築山御殿から転嫁して築山御前と呼ばれるようになったとか 伊勢神宮外宮の神官で伊勢神道を確立した渡会家行って、義務教育たる中学日本史には
出てこないけれど、業績的にそこまでの人物ではないってことなんでしょうか
内宮よりも外宮の方が格上と主張して実際に世間を動かしたようですし、
空前の伊勢参拝ブーム(おかげ参り)の頃は内宮よりも外宮の方が格上とされて、
実際に参拝者も外宮の方が多かったみたいです
これって結構な影響力があったと(後世から見て)判断されてもおかしくないと思います
それと、外宮の神様は内宮の神様(天照大御神)の食事を司る神様なので、
どちらが上とか下とか考えなくてもいい気がしますが、それでもやはり
天照大御神は皇室の祖霊神なので、その皇室の祖霊神よりも格上って主張する
ことって当時の知識層、政治上層部的に如何なものだったんでしょうか? >>612
イギリスは国王がムガル帝国皇帝を兼任してるという仕組みなので、皇帝の地位としては正式な皇帝だよ
いまはムガル帝国がないので、イギリスは帝国じゃなく王国になった 日本がEmperorなんて言ってるけどナマイキ、日王がせいぜいだと言う向きもあるが >関ヶ原の戦いでは父の九鬼嘉隆(西軍)と子の九鬼
>守隆(東軍)が東西に分かれて戦い
こういうのって何とも思わないの。
内通してるんじゃないのとか?
家康が勝っても父親の敵になるわけだし >>615
神道の歴史上では大きなトピックではないかと
ただ、中学レベルだと神道の歴史そのものの扱いが低くて、ほとんど習わないからな。それだけだろ >>619
空也上人や一遍上人は中学日本史に出てきますが、度会家行と比較して、やはり
それだけの功績があると判断すべきですか? 仏教は重要だけど神道は仏教ほど重要ではないとの認識かと 空也、一遍らの寺院、教団に依らずして一途に民衆救済の生涯を送ったことなんて、教科書的にはカッコいいんじゃないかしら
神官の渡会さんが仏教界にもケンカ売ってまで自分のところを持ち上げたなんてのは、教科書に書いて全国の少年少女に知らしめなくても‥という感じかしらね >>618
真田もそうだし、普通のことです。どっちが勝っても家を残すことが一番大事なので。
家というのは仕える人間がいっぱいいる今で言えば会社みたいなものだから簡単に潰すわけにはいかないの。 >>621
仏教の方が重要ってのはその通りなんだろうけど、逆に仏教は鑑真、最澄、空海、
法然、親鸞、日蓮、栄西、道元など重要人物が多いから、もう一遍や空也はいいか、
ってなったり、神道は重要人物が少ないからせめて渡会家行や吉田兼倶あたりは
入れておこうかってなったりしないのかな
>>622
バランス考えて、行基、一遍、空也の中から1人って感じではダメなんかな
いやあまりにバランスが悪い気がするのでね >>588
泉重千代さんもいい加減な届出のパターンかな?
泉家が重千代さん(初代)を養子に貰う→重千代さん(先代)死去
→再び養子を貰うが届出が面倒なので、
そのまま重千代さん(二代目)にしてしまった。
なお重千代さん(初代)の死亡届は面倒だから出してない。
こんなところだろうか?
まさか二代目重千代さんが驚異的に長生きすると思わなかったんだろうな。 >>627
二代目養子の届出をしないということは、その二代目の実家での戸籍が消えない
実家で延々生き続ける 中山みき、出口なお、出口王仁三郎、このへんの開祖は? 武烈天皇が崩御してから継体天皇が即位するまで2年皇位が空位の時期があったようですが
その間の政治はどうしていたと思われますか? 中央集権国家じゃないので、政治の大半はそれぞれの領地内で完結します
各豪族の領地それぞれが国みたいなものです
中央政府たる朝廷の仕事がさほど多くなかったから、どうにか回ってたのでしょう
それでも、大王が空位だと困ることは多く、
どうにかして大王を決めて即位させたいと諸豪族が願う程度には
存在意義が認められていたとは言えます
中世の神聖ローマ帝国とかより、もう少し中央の存在意義が大きいのではないかと 明治天皇の有名な御製、「四方の海、皆同胞と思ふ世になど波風の、立ち騒ぐらむ」の
「など」はどういう意味なのですか?
意味は「四方の海、みんな同胞と思う世の中なのに、なぜ波風が立ち騒ぐのだろうか」って
感じですよね など←なんど←何と
➀「なぜ」という疑問詞 ➁「‥など」と例示する副詞
今日では例示の方の使い方しか生き残っていない >>634
ありがとうございます
この御製を詠むときに、この「など」の部分がどうにもしっくりこないのでした 「などて すめろぎは ひととなりたまひし」(英霊の聲 三島由紀夫) よく安倍首相が政治的レガシーを求めて、憲法改正を目論んでいるといわれますが、
安倍首相が憲法改正を果たした場合、歴史的に見て、吉田茂のサンフランシスコ講和條約、
岸信介の安保改定、佐藤栄作の沖縄返還&ノーベル平和賞、あたりと比較して如何でしょうか? 安倍首相の本心である天皇制廃止を入れ込んだ場合,皇紀2680年の歴史的偉業を果たすことになります >>637
講和条約>憲法改正>安保改定>沖縄返還&ノーベル賞 親鸞の主著は「教行信証」ですが、一般的には「歎異抄」が有名です
なぜなのでしょうか? 歎異抄のほうがわかりやすい、読みやすいから
教行信証は漢文体(親鸞が他の坊さんが読むために書いた専門家向けの本)だけど、
歎異抄は一般の人が読むよう(親鸞の弟子の唯円が書いた)書かれたもの
あと、歎異抄は短い章で区切られており、とくに前半部分は親鸞のエピソードなんかが
ちりばめられており、文章の平易さ、短さ、親鸞の話などがあって一般化した
ちなみに一般化したのは近現代で、清沢満之が流行らせて今に至る >>639
一般的な憲法改正は沖縄返還よりトピック性も重要性も低い
ただ、現行憲法は改正できないまま長く使われてて、しかもやたらと争点になってきたから、
普通の改正の場合よりトピック性が高いんだよな 自衛隊をちょいと書き足すのと全面改正とでは全然違うわな >>637に北方領土全島返還も付け加えたらどうなります? 北方領土は、ロシア側が返す気nothingだから、どうしようもない
2島先行でも無理なのに、ましてや四島一括とか。ロシアが滅びるほどの大事件でも起きない限り無理だろう
それですら、歴史的意義は沖縄返還より少しだけ上って程度だろうが 小泉元首相の拉致被害者帰国は政治レガシーと言えるだろ 拉致被害者を返してもらって見返りに経済援助するという話だったんだろうが、日本人同士、日本人とアメリカ人の夫婦一家だけ返してくれた
朝鮮人とのあと腐れのない分だけだ
被害者認定されているのはもっとずっと大人数
それも返せと言ったら、もう死んでしまったとか言ってニセモノの遺骨を渡して来たり‥
これどう評価する >>644
返還するの主語はプーチンだから,安倍のレガシーとするには「奪還」するしかないね >>647
だけど、それまで誰も行ってなかった北朝鮮に自ら乗り込んで
一部とはいえ拉致被害者を帰国させたのだから、レガシーと呼んでもいいと思う
問題はそのレガシー度をどう評価するか >>649
平和裏に奪還するのに?
>>644は改正憲法に北方領土全島返還を明記するなんて穂高以上の安倍は莫迦になるけどね 朝鮮人の荒らしをおちょくる流れでしょう
人物を並べているのか,事績を並べているのか,後者ですね。
安倍の事績として憲法改正を挙げられ,改正の中身の話題。この流れで付け加える箇所は? 昔、日本史の授業のプリントで
鎌倉幕府2代目の源頼家について「常軌を逸した行動」とあったのですが
具体的に何が常軌を逸していたのでしょうか?
よろしくお願いします 2013年のセンター試験日本史の問題に「18世紀末から19世紀後半は(中略)物価は高騰し、貧富の差が広がった」ってありますが
他方で『暴力と不平等の歴史』P155には「労働者間での所得の不平等は減少していた(中略)エリートと庶民の格差も縮まりつつあった可能性がある」と書いてあります
どちらが正しいのでしょうか? 複数の説が対立してるだけでしょ
似たような対立はたくさんあるよ
戦国時代だって、開発と発展の時代って説と飢饉連発の厳しい時代って説が対立してるし >>654
有力武将の合議制を廃止し独断専行に走ったとかだと思うけど
吾妻鏡は北条が監修した歴史書
比企氏の娘を娶った頼家は北条氏を遠ざけチーム頼家で固めようとしていたのね
焦った北条は先手を打って比企能員を謀殺し更には頼家を幽閉、後に暗殺した
その言い訳としてあること無いこと書いて自分らは悪くないってアピールしただけ >『暴力と不平等の歴史』P155には「労働者間での所得の不平等は減少していた(中略)エリートと庶民の格差も縮まりつつあった可能性がある」
『暴力と不平等の歴史』という本?はググってもでてこないけど『暴力と不平等の人類史』のことかな?
幕末は俺の専門じゃないが、江戸時代の特定の藩のエリートやら庶民とやらは何をサンプルにしたにせよ、300諸藩全てのデータがあるわけじゃなし、
江戸時代から明治30年頃というのは範囲が広すぎて、可能性を言うなら何とでも言えるよねとしか… 現代史の質問で恐縮ですが、お願いします
1950年代から70年代にかけて、学費値上げ反対運動とか60年安保とか70年安保とか全共闘運動とか左翼運動とか
とにかくいろんな形や内容で学生運動が熱く盛り上がっていました
しかし、80年代以降さっぱり学生運動が盛り上がらなくなりました
盛り上がらなくなったというより、学生運動自体がほぼなくなりました
これは何が原因だと考えられるでしょうか?
数十年の長きにわたり、断続的に熱く盛り上がった学生運動は、戦後史のひとつのトピックになるかと思います >>659
色々あるけど決定的だったのは、連合赤軍の内ゲバ。
印旛沼事件では2名、山岳ベース事件では12名の仲間をリンチ殺人するに及び、
浅間山荘事件ではライフルで武装し、無関係の女性を人質に取って警官2名を殺害。
これを見た普通の人たちは「学生運動って全然クールじゃないな」って思ったわけ。 >>660
ありがとうございます
連合赤軍の内ゲバやあさま山荘事件といえば、70年代中盤であり、学生運動の
末期の頃ですね
50〜70年代初期の間はそこまで酷いことはなかったのでしょうかね
あと、個人的には連合赤軍等も含めた「学生運動」は戦後史のトピックになりうるかと
思っているのですが、「もう一度読む山川」ではほとんど触れられていません
唯一触れられてたのは安保改定の時に大規模なデモがあったって点だけでした
客観的に見たとき、戦後史のトピックとするにはちょっと弱いでしょうかね >>661
80年代からは校内暴力、家庭内暴力の出番だからね 安保後の知識人の第三の問題は、「代用品」ということです。(中略)知識人は、最初、経済成長の過程で国民生活が豊かになって行く事実をあれこれと否認していましたが、そのうち、否認し切れなくなると、貧困は諦めるとして、
今度は、貧困に代わるものを探し始めました。何か探し出さなければ、国民は幸福になっているということになり、「現体制」-というのは、全く曖昧な言葉ですね-でよいということになり、シュンペーターの謂わゆる「批判的精神」の使い道がなくなるわけでしょう。
そこで、探し出されたのが、例の「疎外」という観念です。(中略)戦前の或る時期から、少数の人たちの間では用いられてた言葉ですが、経済の高度成長が進行するにつれて、猫も杓子も疎外ということを口にするようになりました。
確かに国民は豊かになって来ているが、しかし、貧困より更に不幸な疎外の状態にある、いや豊かになればなるほど、疎外は深くなって行く……。多くの知識人は、こういう合唱を始めました。 皇室と仏教、神道との関係がいまいちよく分からない
自分は天皇=神官のトップであり、神道のトップだと思っていたが、
歴代天皇は仏教徒であり、神道になったのは明治以降だとの意見もある
確かに聖武天皇や後白河法皇のように仏教を重用したり、出家した歴代天皇が
何人もいたのは知っているけれど・・・
敗戦+GHQによる神道指令によって国家神道は解体され、天皇の立ち位置も
変わったけれど、それ以降も皇室最大の重要祭祀「大嘗祭」は神道形式で
なされているし、皇室祭祀も見た感じ神道っぽいイメージ
しかし、敗戦以降の天皇が仏教祭祀や仏教的行事をすることはないし、
現在においては仏教との関係は薄そうに見える
この辺り詳しい方の見解を聞いてみたい 最初期の仏教導入の頃は、仏教を神道の諸神の一員に加える方向性のつもりだった模様
外蕃の神と見ていた
仏教を国政の柱のひとつに加える必要がでた奈良時代ごろには、
施設の質素さで外見的に見劣りする神道へのてこ入れに邁進したが、なかなか進捗がわるく、百年以上かけてようやく神殿設備が普及するようになった(それまでの神社には拝殿などなかった)
平安時代になると、神殿への配慮は弱まり、仏教の方が優越する感じ。
神道界の盛りかえしが始まるのは鎌倉時代には行ってからだが、それでも常に、神道より仏教の方が優越だった
神道が強盛になったのは明治維新後だが、その過程では零細神社の統廃合による大規模な整理(小規模な神社の過半が整理され消滅した)や、
民間習俗に関与する神社の活動の禁止など無茶な政策が強行されたりもしている 明治の神仏分離以前は神仏習合があたりまえ
神道は体系化された宗教とはいえない状態だったし
本地垂迹が主流で仏が主で神が従だと考えられてた
だから皇室も仏教を篤く信仰してた
それが神仏分離で、表向き皇室の仏教色はかなり薄められ、神道色が前面に出された
さらに戦後の政教分離で、神道ぽいけど表向きは神道ですらなくなった
しかし、歴史的経緯から、全国の有名神社だけではなく、
仏閣との間でも皇室の私的なつながりは今も残る >>664
近世までは一部の例外をのぞいて神道信者=仏教徒
皇室と仏教界は切っても切れない間柄だった
皇族が有力寺院のトップを務めていたし
天皇や院の指示による加持祈祷がバンバン行われていた
宮中行事も仏教的なものが行われていた
天皇=神道というイメージは近代のみの限定的なもの 本来は仏教徒であり、明治維新で維新政府の都合により神道に特化した、ということであれば、敗戦や国家神道解体に伴って、また仏教徒に戻りそうなところ、そうではなく仏教色よりも神道色が強いまま令和に至っている印象 他のいろんな制度も明治以前に戻らず、むしろ戦前踏襲に近いんだしな、宗教だけ戻すとはいかなかったんじゃないの >>668
仏教は江戸時代特権を利用して好き放題したせいで人々からの印象が悪い
戦後、敢えて「旧弊」に戻る必要もないよな政教分離も憲法に書かれたし、という感じかと しかし、歴代天皇のご真影やそのイラストなどを見ると、後白河法皇などごくわずかな例では仏装スタイルだけど、多くの例では衣冠束帯の神装なんだよね
天皇の正装=衣冠束帯という公式はある程度正しいのではないかな?
難しいね 衣冠束帯は神道の装束なの?
別にそういうことでないのなら、出家してない人が普通の衣装として着ているんだと思うけど >>671
衣冠束帯って、単に貴族の正装なだけで神道とは関係ない 衣冠束帯と神道って全然関係ないの?
神職の格好ってまさに「ザ!衣冠束帯!」だから関係あると思っていたよ >>674
衣冠束帯って言葉をググってWikipedia読んだら冒頭の概説部分で即座に解決してたのにな 歴史と神話
遺跡・遺物が偽物だったり、古文書に虚偽記載があったりすれば、それは神話であろう。しかしそれは、その偽遺跡・偽遺物や虚偽記載もまた、一つの歴史的遺産・歴史的遺物、歴史文書なのである。
それはなぜか? 例えば、エジプトのピラミッドには、ナポレオンがダイナマイトで爆破した穴がある。同じくエジプトのスフィンクスには、イギリス軍が射撃訓練で撃ちまくった銃弾の跡がある。
作られただけが、ピラミッドやスフィンクスの歴史ではない。フランス軍に爆破されたり、イギリス軍に銃撃されたりしたことも、ピラミッドやスフィンクスの歴史なのだ。 旧約聖書の創世記、ギリシャ神話、ローマ神話も、日本神話同様、それが史実であろうと史実でなかろうと古文書の一つであることに変わりはない。 ノンフィクションだけが古文書でフィクションは古文書ではないというのならば、旧約聖書も古事記も日本書記も全て古文書ではないということになるだろう。 慰安婦像や徴用工像は、平成・令和にかけて造られている。強制的連行が史実であろうと史実でなかろうと、慰安婦像や徴用工像が平成・令和に造られた一つの歴史的遺物であることに変わりはない。歴史はこれまで刻まれてきたと同様、これからも刻まれていくのである。 過去の世界が歴史を刻んできた。
現在の世界が歴史を刻んでいる。
未来の世界が歴史を刻んでいく。 歴史は、人類の頭の中にではなく、この現実世界に刻まれている。ジュラ紀の文書などない。しかし、恐竜たちの化石が彼らの歴史を証明している。 天皇を形容する時、「日本人の代表として神々を祀る最高の神官」、これ以上の言葉がなかなかないもんね 創価学会というと今でも池田大作氏(3代目会長)のイメージが強すぎて、
初代や2代目、4代目、5代目を凌駕しているように思います
これは池田大作氏がまだ健在なこと(同時代ということ)、活躍期間が
長かったことが影響しているだけであり、池田大作氏が亡くなった後
一定期間が過ぎて創価学会を俯瞰的に見たとき、社会における知名度や
ネームバリューはやはり初代の牧口常三郎氏や2代目の戸田城聖氏の方が
上になる可能性が高いのでしょうか
それとも池田大作氏が初代や2代目を超えている可能性が高いのでしょうか?
4代目、5代目は完全に3代目の陰に隠れてしまっていますが 漢字が入ってくる前は日本列島には文字がなかったんですよね?
漢字伝来は4世紀後半という説が一般的なようですが、それ以前に大きい国というものは可能だったんでしょうか?
文字で管理されてない国というのは自分には想像しづらいのですが
日本神話等も漢字抜きで存在したとは想像しにくいです インカ帝国は文字を持ちませんでした。それでも帝国を維持してますよ。
神話などの伝承は口伝えです。古事記の序文にも書いてある。 例えば古事記で一番初めに現れたとされる神々のうちで、至高神とされる天之御中主神はいかにも
中心的な神として後知恵で付けたような名前ですが、ウマシアシカビヒコヂ(宇摩志阿斯訶備比古遅神、
可美葦牙彦舅尊)は意味不明な音だけ伝承されて後から漢字を当てたと見えます。 文字はもってなかったけど、なわにむすびめをつくることでかずをしるしたりしてた 文字のない頃は地方のことは豪族に丸投げしていたけど、文字を入れてからは風土記や万葉集を編んだりして全国の隅々まで土地や人民を直接把握した気分になったろうね 北部九州の遺跡で確認された弥生時代中期中ごろから後半(紀元前2世紀末〜前1世紀)の硯(すずり)の国産を示す遺物は、紀元前には既に国内で文字が普及していた可能性を強くうかがわせる。
https://mainichi.jp/articles/20190219/k00/00m/040/244000c >>688-693
ありがとうございます
確かに神の名前に残滓が感じられますね!
マヤ文明文字かわいすぎですね、最近のサブカル色強いマンガ家が描いたようにしか見えません
数を記す方法はあったんですね >>694
>数を記す方法はあったんですね
紙に書くとかじゃなくて縄の結び目で記録するんだけど解読されていません。
キープと言います。 せんせい質問です∩(´・ω・`)
前方後円墳って、建造当時あの形状は何か固有名詞あったんでしょうか?
また後年、山の上とかから形を見た人が何かあの形を表現したとかあるんでしょうか? 固有名詞がわかってたら、埴輪とか須恵器みたいに、その名前で呼んでるよ 後の時代の人達は前方後円墳を見て
車塚とか二子山とか茶臼山とか
銚子塚とか鉗子塚とか呼んでるよ 塚という文字そのものが墓と関係する(墓の盛り土部分のこと)んだし、たいていの古墳は墓であることぐらいは知られてたんだろうな
被葬者は忘れられてた(江戸時代の学者が推測した研究結果をもとに関連付けしてるだけ)けどな 江戸時代、徳川が外様大名家に養子を送って松平姓を名乗らせる事は良くありますが
譜代家臣にそう言う事をして松平姓となった例はありますか? 譜代で一族のものを養子に入れたと言うと保科家? たしか家光の弟(庶弟)が養子に入ってたような気が >>702
蜂須賀は将軍の子が入ってますね
他は娘かな?松平姓の名乗りを許される条件は徳川の血が入ったらですよね? >>705
島津も伊達も毛利も入ってない
初期なら家康娘の池田、秀忠娘の前田くらい >>704
会津松平家だから松平名乗ってる。初代保科正之は養父に感謝して松平を断ったけど二代目から松平。 江戸幕府と朝廷の関係がよくわからないのですが
朝廷を滅ぼそうという動きはなかったのですか? >>708
スルタン・カリフ並立の制度と似てるだろ >>708
日本国の政治権力と天皇の関係に似てるだろ
天皇は総理大臣を任命する
天皇は宣下により征夷大将軍に任ずる 天皇は国会の指名により総理大臣を任命する
天皇は幕府の意向により征夷大将軍を任用する >>711
なるほど
じゃあ討幕ならぬ討朝?運動はなかったのでしょうか 江戸時代と現代を例えた場合、
将軍は総理大臣
幕府は内閣
天皇は天皇
朝廷は?
天皇+宮内庁かなと思ったけれど、宮内庁は内閣の一部だから違うか
天皇+旧皇族+旧華族みたいなイメージ? 朝廷には右大臣、左大臣から右大将、大蔵頭、膳部太夫から主水、主計まで全部揃っている
現代で言えば総理大臣から防衛大臣、事務次官、吏員まで従えている存在だ >>716
じゃあ、江戸時代には内閣がふたつある感じですか? 名前だけの行政府が京都にあった
しかし、武家の権力者自身、朝廷の一機関である征夷大将軍に任ぜられるという名目に乗っていた
時の覇者が全ての権力を自分に集中させるという支那形式にはならないのよ、この国は 織田信長が将軍になろうとせず、朝廷の権威を否定する人間だったとの描かれ方が流行ってきたが、近頃はそうでもない
天子様が居て将軍様が居て天下が治まる
その形を再び現出させるために足利義昭を奉じて上洛した
そののちに義昭の離反・敵対、信長包囲網構築と続き、行き掛かり上、それろ打ち破る経過となり、朝廷でもいよいよ信長を太政大臣か関白か征夷大将軍にという動きが出たところで本能寺の変となった 信長は斯波家の配下であり足利幕府の再興に尽力することは何もおかしくない立場なんだよね 昨日、高野山金剛峰寺の秀次自刃の間を見てきた
秀次は秀吉への謀反を疑われ、追放&自刃の沙汰になったわけだけど、謀反の可能性って実際どれくらい考えられるのだろう?
今の学会的には秀吉の言い掛かり、秀頼を後継者にするための口実っていうのが主流だよね 後継ぎがいなかったから秀次を自分の次の関白にした
そうしたら秀頼が生まれた
秀頼元服の折には秀次は関白を秀頼に譲ればよいが、本当に譲るだろうか
自分の寿命もそこまではないだろうからどうすることもできない
秀次が秀頼をdisるのはこれは謀反だ
どう考えても心配‥‥心配、あぁ心配‥ >>723
それで秀次の追放&自刃の沙汰ならば、あまりにも秀次が不憫
謀反が本当なら仕方なしとは思うけど 「真田丸」の時の話では秀吉が責めたわけでもなく、秀次が勝手に精神的に追い込まれて自害したらしい。 >>724
不憫は間違いない
だが、あの状態になってしまったら、秀次秀頼のどちらか一方が死なないと決着がつかなくなってて、どうしようもない。不可避だ 世間が真相を見破るのも都合が悪い
秀次様は何も悪くなかったなんて思われたら困る
そこでいろんなありもしないことまで罪状として挙げ、秀次の側に居た者たちの口も封じなければならない
京の六条河原、秀次の生首の前で秀次の子(いたいけない幼児たち)や、側に仕えた女たち数十人の首を次から次に切った
京の民衆もこんなにむごい仕打ちは見たことがないと涙を流した
亡骸は集めて河原に埋めてしまい、「秀次悪逆塚」の捨て札を差した >>727
秀次の、秀吉秀頼への絶対恭順では済まなかったんだろうか?
秀吉はそりゃ自分の死後が不安だろうけど、諸大名の前で秀吉秀頼への絶対恭順を誓っていれば、秀吉が死んだからって好きにはできんだろうに おとなしくしていても、そのうち秀吉に含むところのある勢力に担がれて敗者復活を図るやも知れない
有名どころの血筋の者はよく担がれるのよ
徳川も秀頼を殺してしまわねば安心できなかった 秀次は罪を重ねたから成敗するのである
そうなんだからいろいろ申すでない
頭下げたからと言って許されはしない
御免で済むのなら首切り役は要らぬ 高野山で出家されたから全て許される
なのに秀次は抗議の意で自ら切腹した。聖なる高野山を血で汚された秀吉が激怒
秀頼は托卵で生まれた子は秀吉も知っていたけど,継がすのに適当な者が他にいなかっただけ 比叡山延暦寺は権力や煩悩により、聖なる地とはだいぶん違っていたけれど、
高野山金剛峰寺はまだ当時聖なる地としてのステータスや権威を保っていたのかな? 信長は本願寺との抗争で最終的に本願寺と和睦(信長側が有利)したと思うんだけど、
延暦寺とはどうなったの?
焼きっぱなし? 戦力を保持したままの本願寺とは交渉しただろう
しかし、戦力も何も失った延暦寺とは交渉する必要がない
交渉相手もいない
跡地は織田勢の管理下に入った
羽柴秀吉により山門再興が認められたのはおおよそ13年後のことだった 信長は石山本願寺と10年も戦っていたが、叡山焼き討ちは一日で終わったでしょうが 江戸時代の剣術道場の内弟子ってどういう身分だったのでしょうか?
道場やってる家の武家奉公人? 内弟子は住み込みの弟子というだけの意味だが
剣術道場には百姓町人も押しかけたので身分がどうのというものでもない
土方歳三も百姓身分だった 金剛峯寺って名前は特定の寺院の名前じゃなく、高野山全体の総称だったようですが、
明治2年に高野山の中核寺院だった青巖寺のことを金剛峯寺としたそうです
これって誰が決めたのでしょうか?
高野山の高僧が決めたのか、それとも明治政府か、はたまた全然違う人なのでしょうか? 明治二年、高野三方と呼ばれる学侶、行人、聖の僧侶身分を新時代を迎えるにあたって廃止した
それにより、それぞれの僧侶が拠っていた青巌寺、興山寺、大徳院の三つの寺が統合されてひとつの寺(金剛峯寺)となる流れとなったのであろう 江戸時代の経済について質問です。
江戸時代は地方分権でしたが、
各藩の1人当たりGDPの差は一番豊かな藩と一番貧乏な藩でどの位差があったのでしょうか?
また、江戸幕府は藩毎の経済格差を埋めるために施策をしていたのでしょうか? 幕府の領地政策を見本にしながら、それぞれ頑張って生きてゆけってのが基本
あんまり悪政を敷いて百姓が悲鳴を上げたり一揆を起こせば、大名の改易、処罰もある
富士山宝永噴火では東麓の農地が灰をかぶってエライことになったが、地元の藩にはとても手に負えない
被災者は自分で頑張れと布告を出しただけ‥
幕府が資金とお助け役人を出して灰の除去を指揮した例がある
あまりにも見てられなかったんだろうな
島原の乱みたいに幕藩体制をゆるがすような事態では幕府自体も鎮圧に出動する
幕府は四公六民だとか五公五民などと言ってたが、貧乏藩だと九割取ってしまうのも珍しくなかった
一方、経済力を蓄えた"雄藩"は倒幕する力を持ってしまった 近年の説では、9公とかいうのは名目石高と実収入の乖離が激しい都市部の事例ではないかと言われている
たとえば、輪島塗の産地で会った輪島村が(実態は手工業メインの都市部だが行政区分では村)9公1民だ 戦後史になってしまいますが、よろしくお願いします
警察予備隊→保安隊→自衛隊と変わってきましたが、
警察予備隊のまま組織改組や規模の拡大などを行うことはできなかったのですか?
警察予備隊→保安隊→自衛隊と2回組織名が変更になっていますが、
同一組織名で組織改組や規模の拡大をするのが不可能なくらい、
根本的、本質的な変更だったのでしょうか? 自衛隊というと自衛戦争をするところだ
戦争を思い起こすような刺激的な言葉は避けたい
軍隊じゃなくて警察だからと始めて、次は保安であって軍隊じゃないよ
こうやって段階を踏んで自衛隊までたどりついた
そういう命名者の心の動きを感じるんだがねぇ >>749
ありがとうございます
水平社→部落解放同盟はいかがでしょうか?
ネーミング的には絶対に水平社の方が良かったと思うのですがね
水平社のままでの組織改組や規模拡大は無理だったんでしょうかね 運動体の合同や分裂があると、従来の運動とは違うということを示すために名前を変えるのは普通のことだ
合同のとき、元の名前を存続させると、まるでそちらの系統に自分のところが降参したかのように感じて、名前を変えでもしないと収まらないのだろう >>751
水平社の他に類似の運動体があったのですか?それは知りませんでした
それらの運動体が合同、分裂する中で解放同盟が生まれたというわけですね
ありがとうございました 明治以降の「国家神道」
戦後のGHQによる国家神道解体を指示した「神道指令」
どちらも近代日本を語る上で良くも悪くもかなり重要なトピックだと
思うのですが、如何せん、あまり重要だとされてないような
感じを受けます
社会や世間がわざと「国家神道」「神道指令」を忘れている(ふりをしている)
そんな不自然さを感じます
良くも悪くも、近代日本におけるこれらの重要さについてどう思われますか? 土方歳三ってそんなすごい人?
イケメンで五稜郭で死んでスター性があるってのはわかったけど、それと実際の功績って違うじゃん?
どんな功績残したの? 凄いかどうかは分からないが
副長として汚れ役、恨まれ役を買って出た所かな
それに近藤は半ばに退場したけど土方はその後の新選組を牽引して最後まで戦った
旗色が悪くなろうが信念を曲げなかったって所でしょうね人気な所は
農民の出身でありながら武士よりも武士らしいとかそういう所 >>755
ありがとう
けど、教えてもらって何だけど、それイケメン補正かかってない? イケメンじゃなかったら埋もれてそうな経歴だなぁ
いやね、地元がゆかりの地らしくて土方土方うるさいんよ。だからそんなすげーのかって。どこ見てもポスター貼ってあんの。
でも、俺は何した人か知らなくてさw
でもあんがとね。
ジョジョ描いた人だよ、とか言われてもしゃあなしと思って質問したw 新撰組メンバー(特に幹部級)のうちで数少ない、最後まで戦った人なんだよな
幕府がなくなったあたりから次々とリタイア者が出るなかで戦い続けて最後まで戦ったってだけで十分にすごい 土方は歴史的な意義よりも
生き様が文学的に取り上げられて好まれた
真田幸村とか坂本龍馬とかと一緒 そうだなぁ。大河ドラマ「真田丸」の真田信繁も「あんたは何にも成し遂げてない」とヒロインのダーコさんから言われた上に
最後の見せ場の大坂夏の陣でも成し遂げられなかったもんなぁ。 >>757
アニメ版ラブライブで、どんどん人が抜けてったアイドル部をたった独りで三年間守り続けた「にこ」みたいなもんか。そう考えると健気ではあるね
>>758
>>759
あー、幸村枠かぁー
なんか腑に落ちたw そっかぁ… 各地の「地元の戦国大名」たちの多くも、ろくな成果を残せないまま滅亡してったけど、地元じゃ人気だろ
「浅き巧みの守」(=バカ殿)さんだって、本人はなにもやりとげないで打首」形式上は一応切腹)だけど、人気だし >>757
え、あれ、ちょい待ち
幕府側の人だよね?
幕府無くなっても戦うのって変じゃね?
???
にわかでwiki流し読んだけど
慶喜がギブした後、函館行ったんよね?
戦う大義名分無くね? もと幕府関係だった人とか奥羽列藩同盟の関係で薩長と戦った残党とかで、
降伏しがたい立場の人たちが逃げ延びて、函館を拠点に独立国作ろうとしてた
降伏しても助かりそうにない人が多かったみたい >>763
なるほど! 全部繋がった、ありがとう!
ヘッドが折れた上、戦犯として居場所が無くなって死ぬか生きるかで(死んだけど)独立国家か
確かにロマンはあるね、なるほどー >>764
その独立国の親玉榎本武揚はのちに外務大臣や文部大臣などを歴任してるけどね。 それを扱うと民衆運動であった「廃仏毀釈」のトピックに繋がってしまうからです。
今世の中を支配している創価学会にとって触れて欲しくない暗部なんですよ。かつては徳川幕府と癒着し
今また安倍自民党と結託している負の歴史があります 廃「仏」毀釈とは言うけど、実際には神社だって半分以上は潰されてるし、それまでの神社の主要な収入源は明治には国に取り上げられてるんだよ 国家神道っていっても国が神社を統制下に置いただけで
神仏分離後、神道の国教化は早くに挫折していて
神道政策が国民生活に大きな影響を与えることはなかったからな 日本史で神道を過小評価してるんじゃないか、
ていうやつが定期的に湧いてくるな 国家政策と民衆運動をごっちゃにしているね。
民衆運動に対して創価の言う宗教弾圧あーの論理は通じないよ >>772
実際、これは議論のテーマとして面白いと思う
自分も神道は過少評価されてるとは思う テーマとして面白いと言っただけなのに、なんだコイツ 日本語が不自由な方にも丁寧に接しましょう!
× ていうやつが定期的に湧いてくるな
◎ 不定期
■神社・仏閣■
総合質問スレ
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/kyoto/1406213669/ 仏教、神道単体っていうよりも、日本においては神と仏が同一であるっていう
神仏習合の歴史が一番長かった
いうなれば、神仏習合こそが日本の伝統でありお国柄
だけど学校教育では神仏習合なんて出てこなかったぞ 高校日本史なら確実に習っているはず
日本の学習指導要領に基づいた授業をしてる高校ならね 自己紹介乙。“アスペ”しか言葉を知らない人なんだろうなぁ
ここは議論スレではなく質問スレです >>780
高校でも習ったかな?
歴史は得意だったが記憶がないわ
中学歴史では出てこなかった
でも、仏教習うなら神仏習合は出さなきゃって思う 断言した割には記憶は曖昧とかw
いい加減だな、おいw 神道を宗教として指定した占領軍の命令のことですね。
これが仏教勢力による神道弾圧の嚆矢となった。言い換えれば純日本文化の排斥 GHQの行なった様々な改革の中でも神道指令はなぜか影が薄い GHQの行なった様々な改革の中でも神道指令はなぜか影が薄い >>785
明治大正期の神道は明治以後に新造された伝統的でない宗教要素の方が大半なんだけど、どこをどうみたら純日本なんだよ では。慶應以前の神道は純日本文化と認めますね?
実際は聖明王・厩戸皇子以来穢されて来ましたが,隔離宣告を受けたということです 自分はそこまで思わないけど、一部では国家神道が日本人を戦争へ駆り立てた、
あるいは国家が国民を戦争へ駆り立てるのに神道を利用した、なんていうことを
言う学者や政治家もいるやん
そういうことも含めて、近代日本にとって国家神道、並びに国家神道の解体を
指示した神道指令って重要なトピックだと思うのだけどね
さらに言うと、国内世論を分断し、外交問題にも発展することもある靖國問題
良い、悪いの価値判断はしないけど、純粋に問題としてある
古代や中世とは違い、近代においては仏教よりも神道の方が重要度高い気がする
しかし、相変わらず神道は影が薄いし、存在感が低い 神道自体は清いのにそれを汚れた奴らが悪用するんだよね
そろそろ天誅が下るんじゃね?どっかから キリスト教が欧米人を戦争に駆り立てたレベルにも国家神道は達していなかったよ
徴兵制はフランス革命の産物だし,利用というか… 日本の文化を守るためだろ
どこの国でも同じだが,日本ではその要素は薄い 神道政治連盟ってあるけど
政治に利用しようとする人は国賊だわ >>792
戦争に駆り立てたのは神道だけじゃなく仏教もだが >>796
実態はわからないけど、いま、仏教が日本人を戦争へ駆り立てたっていう学者や政治家っていなくない?
あくまで太平洋戦争の想定だけど
そういえば日蓮系は血盟団事件とかあったね 駆り立てるとまではいかないが、かなり戦争協力をしてたのはたしか あの時代に戦争協力しなかった団体や組織なんてあんのかね 神道だって戦争に対して組織的活動をして協力したわけじゃないだろ
現人神思想、神国思想といった、神道から派生した思想が
戦争にいたる過程に大きな影響を与えたのは事実だろうけど 靖國のA級戦犯合祀の問題も、いまはまだ現代史、あるいは社会問題だけど、このまま時代が下れば歴史的史実、歴史的トピックとかになっていくのだろうか?
それともそこまでいかないか
大きな問題なのか、そこまでいうほど大きな問題ではないのか、よくわからん 戦前の陸軍軍大臣、海軍大臣、参謀総長、軍令部総長の序列ってどうなっていたのですか?
また、軍令部の総長ってことで軍令部総長だと思うのですが、参謀本部の総長は
参謀本部総長ではなくて参謀総長なのはどうしてですか? 陸軍の方がエラい、軍の根幹を為すと言うのが多くの国で普通だったが、日本海軍はとてもそんなことは認めなかった そのせいで、海軍が活躍できる戦争様態を求めて対米戦争に手を出したのではないかと疑う余地が少し。 ありがとうございます
>>802の後半もよろしくお願いします 陸軍参謀総長と海軍軍令部長(後に軍令部総長)とは対等
日本でも陸軍が圧倒的に規模が大きいため最初は陸軍参謀本部しかなかった
対等の地位を求め続ける海軍はすぐに海軍参謀本部を設け、軍令部と名を変えた >>806
参謀本部総長と軍令部総長
あるいは
参謀総長と軍令総長
なら対応した敬称で座りがいいと思ったんだけど 陸海で対抗心燃やしてるから、対応がどうのこうのは後回し それだけ対抗心が強かったのは、薩長の藩閥意識のせい?
陸軍=長州
海軍=薩摩だっけかな 違う
陸(東條)も海(米内)も岩手県が仕切ってた。反長州の怨念 己れの省益を図るのは昔も今も同じだが、陸海が互いになぁなぁでやるほど海軍の方に余裕がなかっただろう
規模からみて陸軍の方が主で海軍が従なのは、日本でも免れなかった所
太平洋戦争終結に至るまで、戦力の統一強化のための陸海統合、海軍消滅の危機はずっとあった 維新三傑の二人が薩摩藩だったのに、明治以降長州藩が上手いこと牛耳っちゃったよね
現代から見れば、薩長というよりも長薩じゃない? >>813
でも、その西郷を討って、初代の内務卿として明治国家のグランドデザインを敷いたのも
薩摩藩の大久保
その後が続かずに長州藩にしてやられたって感じなのかな 大久保が暗殺された時点で後継者はどうなってたんだろうなぁ? 長州藩の伊藤博文が初代内閣総理大臣、同じく長州藩の山県有朋が軍部のトップに
座ったのが大きいのかな 文化史について質問です。
テレビでは、江戸時代は平和が長く続いたので、庶民文化が花開いたとテンプレートのように良く言われますが、
そもそも日本は源平と元寇と応仁と戦国時代以外は一部の紛争除いて概ね平和かと思います。
一部の紛争なら江戸時代にもありましたし。
江戸時代以外の大半の平和な時代には庶民文化は花開いて無いのでしょうか? 意外とそうでもないんだよ
平安時代後半から室町時代まで(戦国時代も含む)は、地方では小規模な戦いが日常的に起きてるといっていい 庶民レベルが違った。平安時代は清少納言等の宮廷文化が栄えたから 冷蔵庫と洗濯機の普及が女性を家事から解放した。と言われている。
その日暮らしで一日を終える庶民が一定の文化に親しむためには、市の存在と貨幣経済の発展を待たねばならなかった。
鎌倉期から緩やかに広まっていった貨幣が農村に浸透し、必要なものを、必要な時に手に入れられる生活の余裕ができてこそ、
庶民は文化的な生活をおくれるのである。
鎌倉期に萌芽がみられる庶民文化が花開く室町期まで、この国の庶民には文化を顧みる余裕がなかった。 石川県にある気多大社の歴史として、奈良時代に歌人大伴家持が参詣したとのことですが、
当時は社殿などはなく、岩か木かわかりませんが自然物の磐座があったということですよね?
当時の有名(有力)神社の境内ってどんな状態だったのでしょうか?
何もないところにポツンと磐座だけがあったのですか?
社殿はないはずですが、それなりに整備されてきちんとした状態だったんでしょうか? 仁徳天皇陵などに拝むための簡素な鳥居だけしつらえてあるけれど、昔の雰囲気を出しているのかな
八幡さまは名のとおり、やはた(多くの旗)で飾り付けてあったのかしら 神社に社殿が建てられるようになったのは仏教の影響であり、当然仏教よりも遅れ、
平安時代の途中〜鎌倉時代くらいからって話を聞いたことがある
でも確か、出雲大社には古代から現在の本殿をも上回る高さの神殿があったんじゃなかったっけ?
古代っていうのが具体的にいつ頃なのか知らないけど 出雲大社に本殿が作られるようになったのがいつかってのは知らんけど、古代から中世への移行は平安時代の半ばか後半ぐらいだぞ
その辺から作られ出したんだとしても古代から云々ってのはウソではない
んで、そのへんの由緒とか創建譚とかには後代の創作が多いもんだから、神社の自称を鵜呑みにできないんだよね >>826
出雲大社の社殿の高さは平安時代の歌にも詠まれていたから史実だろ
神社の社殿が普及したのが平安時代〜鎌倉時代ってだけで、一部の有力神社とか、早いところはもっと早かったんじゃないの? 徳川家康の家臣で武田攻めののち敵将の娘を家康に黙って嫁? 妾にした人って誰でしたでしょうか 良雲院(りょううんいん、生年不明 - 寛永14年3月12日(1637年4月7日))は、徳川家康の側室。父は武田家の旧臣である市川昌永とされる。 武田滅亡より2年ほど前にすでに家康の子を産んでる人は「武田攻めののちに嫁になった」との条件に合わないから別人ですね 今後、後付けでドンドン条件を増やしていく予定です。 最初の質問の時点で「武田攻めののち」って明記してるのを読み落としてるんじゃないか?
それを横レスで指摘したら、後付けで条件云々とか 家康が武田を攻めたのは長い生涯で一度だけ!
誰でも知ってることだよなw 違うぞ
もともと織田と武田の同盟が続いてた中で徳川が武田と争い出した、武田に攻勢をかけたのが最初だ
当初は信玄から信長に向けて徳川の武田攻撃を止めるよう求める手紙を送ったりしてたが、埒があかなかったので義昭の求めに応じて織田に攻撃しようとした
それ以後も何度も国境紛争をし続けてたぞ、攻められることも多かったが反攻も繰り返してた 確実なのは、過疎スレで、
「武田攻め」と言えば天正10年
と、思い込んでいるのが、
質問者と、横レス云々と称している二人もいることだな。
フシギナグウゼンだなー(棒読み) 質問は曖昧で年も書いてなかったのに,思い込んでいると何故思い込んだの?
「のち」すぎるが滝川一積(真田太平記)は? 詭弁の特徴のガイドラインに、知能障害を起こすというのがあったね。 >>834
長篠は侵攻じゃなく防衛戦だろ、「武田攻め」には含められないと思うが 白村江は侵攻じゃなく防衛戦だろ、朝鮮人なら知ってることだよなw
「武田攻め」と言えば天正10年
「武田攻め」と言えば侵攻 松下村塾周りについて質問です。
明治維新発生の地であり、
要はこれからの国のあり方について議論してた場と理解しますが、
都からも遠いあの地が国家天下を語る場になった背景は何なのでしょうか? 大内義興が管領代になった太古から毛利氏が受け継いだから
高杉晋作の地縁繋がり 三百諸侯があって各地で世の行く末、藩の行く末について議論があったと思うが
江戸時代も押し詰まってくると勤皇思想も盛んになって、諸侯各家で勤皇か佐幕か議論があり、外様を始め譜代でも結構勤皇で藩論統一していたところも少なくない
両派閥の死闘で多くの人材を失ったところもあった
殿様が幕閣なのに家来が勤皇とか、いやはやなかなか大変なようで‥
日本中が沸騰していた 大内氏は海外貿易で得た資金を金食い虫の軍事より文化に投資した
大内氏は戦国を生き残れ無かったけど文化は滅ばなかったってことだろう 文化=朝廷との繋がりってことね。
徳川宗家が真の勤皇だったけど,実用的な毛利の天皇利用が勝った >>841
明治に入って「松下村塾の門下生だった」って言うのは一種のステータスに
なったもんだから、時間的・空間的にお前は無理だろ? って奴も門下生を
自称してたようで。だから、ものすごく広範な学習をしてたかのような誤解を
受けることもあるそうでs。 >>840
ひとつの戦いは、視点によって攻撃にもなり防衛にもなる
誰の視点なら攻撃で誰の視点なら防衛なのか、ってだけな
で、白村江は誰にとって防衛戦と言えるのかな
その視点は白村江という名前と対応する視点かな
武田攻めなら、攻める側の視点であることが名称によって示されている
武田側の視点ではないことが明瞭な名称だからな
長篠の戦いは、武田が侵攻してて徳川は防衛側だ。
武田軍に包囲されていた徳川方の長篠城を救援するために駆けつけているんだから、
徳川にとって明白に防衛戦だ。徳川の視点で見て武田攻めと呼ぶはずはない 違うわー。領土内の敵部隊を攻撃しているだな(元は武田方の城だが)
日本語不得手? 自領に攻め込んだ敵軍を攻撃すると防衛戦じゃなくなる?
すごく斬新な発想だね。防衛戦って何? 庄屋についてですが初中期は名誉的なもので豪族が選ばれていたそうなんですが
後期に至って面倒が多いからと分家筋に遣らせて本家筋はやらないことが多かったらしいのですが
庄屋という役職についてくる特権(門構えや式台、苗字帯刀)などは「庄屋格:通常庄屋を
務める格がある」ということで継続的に許されていたのでしょうか?
そうでないと分家筋である庄屋の方が偉くなってしまうのでは? 日朝貿易に用いられた象牙符(日明貿易でいうところの勘合符に相当する割符)
これって明応の政変のときに将軍家から大内氏に渡っているようですがこの経緯を詳しく教えて下さい 日本の長い歴史の中で、画期的なトピックを少数挙げるとすれば、
@大化の改新・・・天皇を国家の中心とする古代国家の成立&様々な社会制度の変革
A鎌倉幕府成立・・・武家政権の成立&様々な社会制度の変革
B明治維新・・・封建社会から中央集権の近代国家へ&様々な社会制度の変革
C太平洋戦争敗戦・・・日本史上最大の国難&様々な社会制度の変革
あたりは有力だと思うのですが、あと2〜3挙げるとしたら何が相応しいと思いますか? 大宝律令、鎮護仏教、秀吉の全国統一、大日本帝国憲法、はどない? 荘園公領制の成立、鎌倉幕府の成立、承久の乱あたりをまとめて
Aを「中世社会の成立」としてもいいかもしれません
あと江戸幕府の成立も大きいと思います 「近世社会の成立」としては“画期的なトピック”ではなくなるよ
もう日本社会の成立でまとめよう みなさん、いろいろご意見ありがとうございます
さすがに、奉天会戦、バブル崩壊、前九年の役、安倍政権誕生、継体天皇即位あたりは
厳しい気がしますが
でも、こういうの考えるのも楽しいもんです でもさぁ
松下村塾の最期とか
奇兵隊の最期には誰も触れないのだよな。
例えば田舎の公立の進学校なんか近くに藩校があっただけで、
藩校の成れの果てだと強調するのに、
松下村塾は誰も再建しようと言わないしな。
伊藤博文なんか先祖が出た神社だと言っては、バカでかい鳥居を奉納したりしているのに、
奇兵隊に至っては。 >>853
@遣唐使廃止 国風文化が花開く。実質中世のはじまり
A応仁の乱 戦国時代の幕開け。実質中世のおわり
B関ヶ原の戦い 乱世終了。江戸時代という二度目の中世社会
キーワード<中世>で考えてみた 戦国時代は近世の要素は薄くて、中世の最終期だろ
応仁の乱ではまだ、中世の終わりになってない
むしろ江戸時代が中世的要素が薄くて近世寄り 世界史になっちゃうけど、蒸気船を使って世界の国々が海を渡って
交易や交流、あるいは進出や侵略をした時代を「大航海時代」なんて呼ぶじゃん
じゃあ、近代以降、飛行機を使って世界の国々が空を駆け
交易や交流、あるいは進出や侵略をした時代を「大航空時代」と呼んで
後世の歴史本に記述されたりするのかな? 次は宇宙航海時代だな
侵略ってよりフロンティアに向かう時代の意だろ 帝国主義時代
グローバル時代
宇宙世紀
朝鮮人は言葉を知らなさすぎ >>867
そんな時代に入ったのは第二次大戦前後からだし、特に時代区分の名前にする意味はないだろうな
それ以外の変化による区分の方が大きいし >>865
安土桃山時代から近世
明治以降は近代なので
江戸時代は中世的要素が薄くて近世よりなのではなくまさしく近世 >>872
大航海時代だって正式な時代区分ではないだろ
しかし、歴史用語としてはしっかりとあるし、定着している 飛行機の次が出てきて、それが定着して初めて、「大航空時代」って概念が残るのだろう 大航海時代って大発見時代とかなわけでそういう意味では大航空時代てできなそう 中世はわかりにくかったんでモードで考え直してみた
@大化の改新で建国しイケイケモード
A遣唐使廃止して閉じこもり、マッタリモード
B応仁の乱からまた血の気の多いイケイケモードに
C関ケ原を制した徳川家康がまたマッタリモードに戻す
D黒船来日で西洋に負けるな、イケイケモード化
Eバブル崩壊でまたマッタリモード
明治維新以来のイケイケモードを終わらせたバブル崩壊は
個人的に入れたい >>861 戦国時代はやり一本でのし上がるようなサクセスストーリーがありますが
鎌倉室町の混乱期に出世して成り上がったような人はいますか? >>877
バブル崩壊の前に一回太平洋戦争敗戦でイケイケを止められていると思う
そこからまたイケイケになるのは早かったけど >>878
悪党から大名にのし上がった楠木正成のことでしょうか。 2019年(令和元年)
4月:異例の事前公表となる新元号発表
5月:譲位による約200年ぶりの改元
7月:戦後最悪クラスの放火事件(京都アニメーション)
9月〜:日本で初のラグビーワールドカップ開催
10月:消費税10%へ増税
10月:日本人のノーベル賞受賞 (化学賞)
10月:100年に一度クラスの超大型台風(台風19号)
10月:即位を内外に示す即位礼正殿の儀 (世界のVIPが日本に集結)
11月:天皇一世一代の大嘗祭(皇室最重要儀式)
11月:安倍首相在職歴代最長(見込み)
4月から11月のおよそ8か月の内容が濃すぎ
良いことも悪いことも含めて、ここまで内容が濃い数ヶ月って
近代以降の日本にありましたか?
太平洋戦争終戦前後の数ヶ月も濃いですが、そっちはほとんど悪いことばかりですしね 譲位関連4つ
期間限定2つ
世界行事2つ
数字増加2つ
明治元年か開戦前後とかいっぱいありそう 即位正殿の儀について質問です。本日天皇陛下は
「さきに、日本国憲法及び皇室典範特例法の定めるところにより皇位を継承いたしました。
ここに「即位礼正殿の儀」を行い、即位を内外に宣明いたします。」
と述べられました。
この、「日本国憲法及び皇室典範特例法の定めるところにより」との文言ですが、つまりは皇位を継承した根拠は法律であり、その根拠法はこれこれですと言っていますが、
過去の歴代天皇の即位正殿の儀も、大宝律令以降は各時代の法律に基づいて継承したと宣明してきたのでしょうか。 不改常典と呼ばれる、文面が存在しないらしい慣習法と、後には律令に基づいて即位していたはず
後醍醐天皇みたいな、オレが法律だ的な例外はあるけど 最高格式の御装束を纏い、即位を国の内外に宣明する即位礼正殿の儀と、
皇室最大の重大儀式と言われる大嘗祭(即位して最初の新嘗祭)は、
どちらの方が格式の高い儀式となるのでしょうか?
日本国としては即位礼正殿の儀、
皇室としては大嘗祭、
という解釈が妥当でしょうか?
詳しい方のご見解を聞かせてください 農民か町人からご落胤として天皇になった、
みたいなエピソードの天皇がいた気がしますが、誰ですかね? >>888
仁賢天皇と顕宗天皇の兄弟でしょうか。父がのちの雄略天皇に殺されたんで逃亡して
身分を隠して屯倉で牛馬の飼育に携わっていたとされます。 サツマイモって衣が紫色だけど
高貴な食べ物という扱いはなかったの? >>885
即位の礼が始まったのは平安時代頃から、それ以前から天皇はいたわけで
即位の礼自体はもともと天皇が神々に即位を報告する神事を行った後
紫宸殿の高御座にお出ましになって
南庭に整列した貴族・公家たちに対して宣言しただけのもの
もっとも天皇家の財政に余裕があった平安時代にはこの後
天皇は鳳輦に乗りカーテンのような幕を開けて
見物する庶民にも顔を見せて洛中をパレードしていた
(今はオープンカーでパレードしているが
平安時代にも輿でパレートしていたのが面白い)
その後天皇家の財政難とともにパレードはなくなり
江戸時代の天皇は幕府によって御所に軟禁されていたため外へ出られなかった
外国要人を招いて対外的に行うようになったのは大日本帝国憲法下から
天皇が国民に対して即位を宣言する形式になったのは戦後、日本国憲法下から >>889
天皇ではなくて伏見宮貞致親王のこととか?
最初の名は長九郎といい西陣で鍛冶屋の徒弟をやっていたが
伏見宮家の血筋が絶えた時にご落胤だと母方親族が京都所司代に申し出て
急に宮家の当主になった >>890
歌舞伎の助六が頭に巻いてる紫のハチマキは「病鉢巻」という。
病人がしめるものだ。
日本では紫が高貴な色というイメージは無い。 いや、古代の服飾規定にはあったんだぞ
冠位十二階の色を上から挙げたら分かるだろ さつまいも(薩摩芋)はもともと琉球で栽培されていた食物で
江戸時代に琉球を併合した薩摩に伝わり薩摩で多く栽培されたことからこの名がついた
品種改良前は風土的に日本本土では鹿児島を除き花が咲かず育たなかったため
都近辺で見ることはなかったはず 吉宗が青木昆陽に栽培法を研究させてるけどね。
冠位十二階はころっと忘れてた。 >>892
あ、それっぽいですね。回答ありがとうございます。 >>896
吉宗が紫は高貴な色だと思っていたとは思えない
将軍は紫を着ると決まってたわけではないし
吉宗の頃でも関東の幕府御領内、小石川薬園などで試作が行われた程度
全国普及はもっと後 結局のところ
【中世的兵農分離】
武士も農民も農村で農業をしているところは共通だけど、
・武士の家は戦に行く代わりに税をある程度or完全に免除される。
・農民の家は税を納めるが戦には原則として行かなくていい。
で中間の半農半武士的な家がほとんどなくなった状態。
【近世的兵農分離】
・武士は城下町に住み、農村には立ち入らない。
・農村には(寺や医者などの特殊身分は別として)広義の百姓だけが住む。
(もちろん、薩摩藩などはこうではなかったことを知っています)
という認識で良いんですか? いや、中世の武士(の原型)は平民じゃなく、村のなかでは領主のような立場にある 昔、特に小さな村では近親婚が当たり前だったと思います。民法と言うものが出来てから4親等以上しか結婚できなくなったけど、民法ができる前の江戸時代以前は普通にもっと近い血が結婚することもあったのでしょうか?
それか、古くから暗黙の了解でいとこより近いのはタブーだったのでしょうか?
また、3親等以内で結婚や出産を経験した大名や皇族が居たら具体的に知りたいです。聖徳太子の両親は異母兄弟ですが、特殊な例? 江戸時代に人間を真っ二つにしたりいろんな死刑の方法があったが
浮気したら死刑になるみたいなのもあって
理解不能だったわ
海外だと客人がくると村の娘を差し出してHさせる風習があるところはある
その方が子供が強いのがわかってるみたいだったから >>902
古代だと異母兄弟はギリギリ許容範囲らしい
事情によっては許容される程度には。
同母兄弟は論外でダメだった模様
庶民レベルでもOKなのはおじ甥、おば姪あたりからのはず >>903
不倫は人の道に外れる行為だからそんな人非人は処刑するのが当然なのだ。
今の人は軽く考えてるけど。 亡くなった三宅翁が生前言っていた言葉
「佐藤栄作首相なんかは廊下ですれ違うだけで風圧を感じてよろけそうになった。
今の政治家は小粒になって、もうそんな貫禄のある人はいない」みたいなこと
これって本当に佐藤栄作は貫禄があり、最近の政治家、例えば安倍晋三や鳩山由紀夫、
麻生太郎、小泉純一郎、あたりは小粒ってことなんだろうか?
三宅翁も佐藤栄作がいたころはまだ政治記者として大御所ポジではなく、中堅ポジのはず
三宅翁が中堅ポジの時に安倍や小泉と相対しても「小粒」と感じたのか、
三宅翁が大御所ポジの時に佐藤と相対しても「風圧」を感じたのか、
興味は尽きない 浮気の罪状の重さは身分によって千差万別だろ
統治に関わる人間の妻妾の浮気は、近世までなら組織の存亡に関わることさえあるので、どうしても罪が重くなる
庶民の浮気はそこまで重罪じゃない >>902
ガチの離島や山村は別だけど、他の村との交流がそこそこある場所の場合、
『どの範囲と婚姻するかは、地域市場のカバーする範囲とおおむね一致する』という法則がある。 >>904
古い家系図みたらいとこ婚だらけなんだけど3親等以内は見事に皆無。地域によってはおじ姪やおば甥も一般的だったの?
>>908
すんません、どういう意味がわかりません...
範囲とは場所の話?親等の話?
市場のカバーって何のこと? 同性婚ではないので異母兄妹
大国主,天武天皇,長宗我部盛親,鶴松… >>909
範囲は場所の話です。
「本当に辺境の村を男が訪れたら、『余所者の血が欲しい』と言われて村の多数の女の相手をさせられた」
的な都市伝説を聞いたことがあるかもしれませんが、
『村内結婚を繰り返すと近親婚だらけになる』というのは当然意識することであり、
周辺の村との交流がある程度あるような地域ではむしろ村内ではなく、近くの別の村の相手との結婚が推奨されました。
速水融先生が東海地方のある村で江戸時代の婚姻を分析した結果によると、
村内結婚が2割、近くの別の村との結婚が8割だそうです。
そして中世や近世レベルならば『この村まではここの市場が面倒を見る』という暗黙の了解があるわけであり、
ある程度周囲との交流があるような村では、村の範囲を越えてその市場の範囲内で結婚する傾向があるそうです。 >>911
中世前半まではよくあったらしいけど、後半になると余所者を嫌悪・排斥するのが一般化してくる
中世のなかばごろ(おおむね、南北朝時代ごろ)に何かあったらしい >>910
同母妹との婚姻の嫌疑で皇位継承権を停止されてたという天智天皇?
の話の信憑性は、いかばかりなのか >>903
西洋でも浮気で殺していいみたいのあるっぽい。
青ひげの話は青ひげが異常な殺人者みたいなストーリーになってるが
当時浮気をした妻を殺すことが許されていて青ひげは浮気した妻を殺していたのだ、
みたいな話があった >>911
>>912
何か話がズレてきているような... 大正時代は15年という期間で終わった。
これは大正天皇が病弱だったため。
もし仮に、大正天皇が健康体だったら、大正時代が20年とか30年まであった。
昭和が64年とかではなく、50年とか45年で終わった可能性ありますか? 大正がプラス5年なら 昭和がマイナス5年で59年
大正30年なら 昭和はマイナス15年で49年
したがって、50年とか45年になる計算は誤り 昭和天皇は在位歴代最長だけど、皇位に就く前約10年間くらいを大正天皇の摂政として、皇室の前面に出られていた
つまり、やや大袈裟に言えば、昭和天皇の在位は74年くらいになる
昭和の時代背景も相まって、昭和天皇の存在感が傑出するのはよく理解できる >900
平井上総『兵農分離はあったのか』平凡社
によると、長州攻めの為に不足する江戸城警護には民兵を挑発している江戸幕府のやり方は
後北条氏の民衆動員と類似しているとの藤木久志の指摘や各地の藩が民を組織に組み込んでいる例を取り上げ
従来言われている「兵農分離」には疑義を呈している
もっとも何を指して「兵農分離」とするかについては、戦争時の動員・身分制・土地所有・居住地等々、どれを基点にするかによって研究者の見解は異なる >>920
うちの田舎(栃木)の地域。まあ百姓地帯なのに、鉄砲持っててさ。
「何かあったときは殿様の助けに行く」みたいな書状が各家にあって、苗字もこっそり
持っててOK。でも表に出すな。
……という話があるんじゃよ、と生前、爺様が教えてくれたんだ。
今の今まで明治期に自分らの身分を高めるためのウソだと思ってたんだが、もしかして
本当にあったのかな。ごめん、爺ちゃん。 質問。対馬の宗氏の参勤交代は『3年に1度』とありますが、これは
a.2年国元にいて1年江戸
b.3年国元にいて1年江戸
c.3年国元にいて3年江戸
d.それ以外
どれですか? d
鹿苑寺・ノートルダム寺院と違い首里城は支配の象徴でしょうか? 中世日本の教育現場の学習体系について質問です。
現在の日本の学校では、大まかに国語・算数(数学)・理科・社会・英語
の五科目がテンプレートになっています。
江戸時代以前の日本の寺子屋等子供に対する教育の現場では、
知の体系はどのように分けられていたのでしょうか。 庭訓往来:寺子屋で習字や読本として使用された初級教科書。
往来物(往復の手紙)の形式をとる。
衣食住、職業、領国経営、建築、司法、職分、仏教、武具、教養、療養など多岐にわたる一般常識を内容とする。 >>925
中世では一般的な教育はなく、多くの知識が家伝として秘匿されてます
そのため、大抵の職業は家職として世襲されました
そこの家で専門知識を習わないと職に就けないんだから、世襲以外では無理なんですね 私達が教科書やテレビで見てきた聖徳太子やそれ以外の歴史上の人物って、実は想像上で描かれたものであって、描かれたのもほんの数十年とかに過ぎないんですか?
つまり例えば聖徳太子なら顔写真は、千数百年前から絵が存在するんではないんですね? >>929
聖徳太子を描いたとしてよく知られる画像は唐本御影と呼ばれ、法隆寺で伝えられているのを尊重して聖徳太子の絵だと言っている「伝聖徳太子肖像」
あくまで「伝」
唐の風俗をしたこの人物は太子とは何の関係もないとの説も近時、唱えられている
太子は6世紀から7世紀にかけての人だが、唐本御影は8世紀奈良時代の作とみられる
平安時代の模本とみる説もある
お札の肖像の聖徳太子は、この絵を元に印刷局の職人が銅板彫刻したものである
唐本御影
https://stat.ameba.jp/user_images/20170828/11/kazenofukuoka2/5a/b9/j/o0427060614014882222.jpg?caw=800
旧一万円札
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/ea/Series_C_10K_Yen_Bank_of_Japan_note_-_front.jpg >>930
そもそも、この絵は何なのだろう?
唐の風俗を伝える資料だったのかな? よく見りゃ太刀が膝くらいの低い位置で携えられてるな。走るのに邪魔じゃないのかな >>933
歩くのにも邪魔そうだね
このまま動かないのを前提の装束なんだろか? 正殿の儀を見てもそう思ったんだろうか,この朝鮮人は? >>905
人の道に外れるといいつつ
それが実際に外れてるのかというつきつめた議論は歴史上されたことはないと思うよ
NHKでもスルーだし
実際すると悪くないという答えがどうしても出てしまう 不倫にむち打ち刑推進派の男性、不倫発覚でむち打ち インドネシア
https://www.cnn.co.jp/world/35144827.html
何かこれを思い出した 金さんは旗本で忠相は大名という違いより、金さんは北町奉行から後に南町奉行、忠相は南町奉行から寺社奉行という幕府での役職の違いの方が重要だろう
町奉行より寺社奉行の方が上だから、注目するとこは違っても結論は変わらんのだけど。 遠山景元 美濃国恵那郡─5,401石
大岡忠相 西大平藩─1万石
遠山景元は南町奉行止まり
大岡忠相は南町奉行から寺社奉行兼奏者番
三奉行である勘定奉行、町奉行は旗本から任命されるのに対して、寺社奉行は譜代大名から任命され、三奉行の筆頭格とされた。Wiki調べ
大岡忠相の方が能力的にも群を抜いていたと思われる 大岡の主な働きが将軍吉宗の目的を実行することであるのに対して
遠山の主な働きが水野忠邦の天保の改革に抵抗することであったのが
上司の評価の分かれ目ともなったであろう。
改革で庶民を締め付けるのをやり過ぎであるとして抵抗したわけだ。 スタート時点家柄の違い。どちらも養子だけど
遠山の分家 500石
大岡家 1920石 家柄&遠山景元で思ったのですが、鳥居耀蔵(養子なのは知ってる)に繋がる旗本鳥居家の系図を教えて下さい。 >>932
伝・聖徳太子像は日本製説と中国製説があるしね
中国製の場合、勿論描かれているのは日本人の聖徳太子などではない
聖徳太子が神格化した平安時代以降
聖徳太子が現れ出たという伝説をもとにその姿を描いたものであるとされる
聖徳太子の衣装が中国風であるのは描いた人が唐人であったからだということらしい
飛鳥時代に実在の聖徳太子の肖像画として描かれたものでないことだけは確か 徳川家康の「しかみ像」だって江戸時代の作で神君家康公として神格化されてるけど
だからって家康が存在しなかったなんて馬鹿なことは誰も言わないのになぁ。 >>947
徳川家康は本名で名が伝わっているけど、
聖徳太子は本名の厩戸皇子では知名度が低いからな。
それに聖徳太子の名前は生きている間は誰も言わなかっただろうし。
非実在説が真顔で言われた人物の大物は何といっても
親鸞だろう? 江戸時代の江戸城は半蔵門が正門、
現在の皇居は二重橋のところが正門、
であってますか? >>948
否。世良田二郎三郎元信の名は知られてないね
徳川家康も聖徳太子も本名は知らないだろう。そも本名とは? 日本史では(世界史でも?)太平洋戦争が基準となって、
太平洋戦争後が「現代史」となっている
今後、特に大きな国の根幹を揺るがす出来事や大きな価値観の変化がなければ、
この先もずっと太平洋戦争以降が「現代史」という形が続くのでしょうか?
大きな事柄がなければ、100年後でも太平洋戦争後(1945年〜2119年)の174年間が
「現代史」になるのですか?
また、極端な例ですが、短期間でかなり大きな事柄が続いた場合、その短期間の間で
「現代史」の範囲が変化するということですか? >>952
時間がたてば変化するだろうね。
おいらがガキの時代(昭和50年代)は明治維新以後を現代史扱いにしていて、
戦後はあまりに生々しすぎたから、パスしていたからな。
時間がたってから、明治から戦前までのこともやり始めたけど。
おそらく令和が終わって次の元号になると、
また近代・現代の範囲も変わると思う。 >>953
自分も昭和50年代が子供時分だったけど、戦争後が現代だった印象だけどな〜
明治維新からが現代って印象はない
この辺は人や地域によるのかな?
まあレスありがとう >>947
法隆寺や四天王寺を建てた仏教かぶれの皇族・厩戸王は実在した
しかし聖徳太子は実在しなかったってだけでしょ
だいたい当時は皇太子制度はなかったのだし
蘇我馬子の功績を削って聖徳太子がやったことにした部分が多い 初物だから当時以前に制度はなかったは当然のこととして
>>954
現代「社会」であって歴「史」にはなってないから >>954
井沢元彦の逆説シリーズは明治になっても詳しくやっているな。
明治も歴史として語られるようになったのだなと
しみじみ思った。
おいらがガキの頃は明治生まれが総理大臣をやっていたから、
明治は歴史として語られる対象ではないと認識してたのだけどな。 >>957
それはないわ
受験でも明治はちゃんと勉強しなくてはならなかった もうだいぶ前のことだが多賀城市の東北歴史博物館が出来た頃に見に行ったら常設展示の
最後の方が昭和の文物で昭和も歴史の一部になったのかと驚いた。 大東亜戦争が近代史の終わりだとして新たな区切りはどこになるんだろうね?
1. 冷戦終結 は思いの外日本史に影響がない。新冷戦で終わりともいえなかった
2. イラク戦争
3. リーマンショック
も同様。周回遅れで日本に来るかもしれないがテロも恐慌も少し縁遠い >>961
オイルショックとバブル崩壊、
1985年のプラザ合意、
大穴で小泉の靖国参拝騒動でマスゴミの力とネットの力関係が変わった
ことだと思うけど、
教科書で取り上げるかどうかは疑問だな。
元禄バブルの崩壊でも教科書ではあまり取り上げないしな。 明治以前の天皇の名称についての質問です。
一世一元の制が制定された明治以降に亡くなられた天皇はその時代の元号を取って「(元号名)天皇」になるようになったのは分かります。
疑問に思っているのは明治以前の天皇の名称です。明治以前は元号がコロコロ変わっていたので「(元号名)天皇」という風にできないのは分かります。
例を一つ挙げると、慶応時代にいた天皇は「孝明天皇」と記されます。「孝明天皇」自身の名前は統仁(おさひと)でありますが「統仁天皇」とは言いませんよね。孝明天皇の孝明とは一体どこから来たのでしょうか? >>963
生前の事績に基づく「贈り名」
初代神武〜四十四代元正は天平の頃に淡海三船により一括推撰された
この一括諡号の前のものとしては例えば聖武天皇は勝宝感神聖武皇帝とされていたと伝わる >>963
中国では諡号(しごう)と言って死後に生前の事績に基づいて号を贈ります。諡を大和言葉では
「おくりな(贈り名)」と読みます。中国に倣って日本もそういう制度になってます。
ただし日本では天武天皇という漢風諡号とは別に天渟中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきの
まひとのすめらみこと)という和風諡号があったとされています。淡海三船が漢風諡号をまとめて
つけた歴代の天皇も和風諡号はあったとされます。
そうすると中国の文化が入ってくる以前から諡号という文化があったのか、中国の歴史書に記録の
ある「倭の五王」以前から大陸の文化を取り入れていたのか、その辺は謎です。 >>963
日本の元号ももともと中国の唐に倣って美字を当てて始まったものですからね
天皇号は奈良時代に歴代天皇にも美字2文字を当てて号にしようと始まったんですが
平安時代中期以降には退位した天皇が住んでいた院御所
(冷泉院とか三条院とか白河院とか)
の名前で呼ばれてそれがそのまま天皇号になったりもしていました
江戸時代末期に閑院宮家から即位した光格天皇が故事復興に熱心で
奈良時代につけられた古代天皇の名称のような
美字2文字を選ぶ形式に戻せと言いだして
縁起がいい漢字を2つ選んで付ける形式に戻ったものです 和風諡号がはじまったのが、飛鳥時代頃だっけ(もしくは奈良時代初頭)。それ以前の大王の諡号は追贈。
奈良時代後半頃に漢風諡号がはじまり、そのとき過去の大王・天皇に追贈された 引退した天皇のことを院と呼ぶようになった経緯とか理由とか教えてください
院の御所とか院政もすべてはそこからですよね >>968
嵯峨上皇が今日の大覚寺の地に御所を新造、嵯峨山荘、嵯峨別館などとも呼ばれたが天皇在位中に離宮として使われていた時に既に嵯峨院との記述がある
嵯峨上皇は嵯峨院と称せられるようになった
これ以後、上皇の異称として院号が定着するに至った >>968
院はもともと垣根を設けた建物を意味しており
平城宮や平安宮でも朝堂院とか豊楽院とかいう風に使われた
天皇の離宮や上皇の御所も一般人が入れないよう
垣根を設けて周囲と区別していたので地名+院の名称で呼ばれた
退位した天皇は太上天皇、通称上皇と呼ばれたれども
藤原摂関家の台頭とともに幼帝が即位して成人すると退位させられるケースが増え
同時期に上皇が大勢いることも普通になった
一院、新院などと呼んで区別するのだけど増えすぎると訳が分からなくなる
そこで住んでいる場所(地名+院)で呼んで区別した 巨勢人(こせ の ひと)や紀大人(き の うし)って
やっぱり身体が大きかったの? 巨勢は姓だから変えられないし
紀大人は父の名前が紀大口だから一字取っただけでは
この時代の名は読みに漢字を当てただけだから人は比等とも書くし
藤原不比等も藤原史(読み方同じ、ふひと)とも書くしね 下記の二つ、日本史的にはどちらの方がより重要なトピックでしょうか?
・明治維新期の「王政復古の大号令」
・敗戦時のいわゆる「人間宣言」 >>972
ありがとう
巨人とか大人とかそういうところが目について気になったけど
そういう意味はないのね 本居宣長を鈴屋大人(すずのやのうし)と呼ぶなど、
大人(うし)とは体の大きな人という意味ではなく、
先生とか貴人とか立派な人みたいな意味。 https://i.imgur.com/Iv0Ibjn.jpg
木版の浮世絵に書いてある歌で、
4行目は「こぶしの枝」らしいのですが、
全体で何て書いてあるのか分かりません。
お分かりになるから、ご教示ください。 >>981
一行目の終わりは「笑ふ」かもしれない。
二行目の終わりと三行目は「ん とや」かもしれない。
全然違うかもしれない。 >>982
ありがとうございます。
いまのところこんな感じでしょうか。
□む□□笑ふ
小□□う□ん
とや
こぶしの枝を
□□□□□く
浅春庵 トウモロコシについての質問です
「無限の住人」という江戸時代を舞台にしたアニメを見ているとトウモロコシがでてきました
えっ昔からあったんだ?と思ったのでWikipediaを軽く眺めてみて概ね納得はできました
主食にならなかったのも日本の環境に向いてなかったのだろうなとか考えましたが1つだけ理解できない点があります
「玉蜀黍」という漢字表記は何故一般的にならなかったのでしょうか?
今でこそ外来のものはカタカナ表記させたりしてますがこれは今の考えであり江戸時代では一般的ではありません
感じで表記していたなら「小麦」や「薩摩芋」のようにそれなりの認知度があります
何故「玉蜀黍」は現代の人間に馴染みがないのでしょうか? >>984
「とうもろこし」は今でこそ漢字表記・玉蜀黍で統一されてるが
もともとは「唐(とう)」「唐土(もろこし)」で
中国から来た食べ物という意味だったという
玉蜀黍と書かれた文献はあるもののこの漢字は一般的ではなかった
全国的には「とうきび(唐黍)」と呼ぶ地域も多く
「なんばんきび(南蛮黍)」と呼ばれたことも
とうもろこしはイネ科で同じイネ科の黍(きび)に似ていたことかららしい
全国統一表記にしたときに教科書や辞書など
平仮名で「とうもろこし」としたせいでは トウモロコシに、中国起源の漢名「玉蜀黍」を無理やり当てたのは、
江戸時代の本草学者たちかと。
蒲公英(たんぽぽ)とか、仙人掌(サボテン)とか、
すでに和名があるものにも、漢籍からとってきた漢名
を当てていました。大陸にない場合には無理やり漢語を
つくったりもしてました。(紫陽花など)
単純に、その中でも受け入れがたいものは廃れていったんだと
思います。裙蔕菜(ワカメ)とか。 >>983
□む来し笑ふ
小鳥□う□ん
とや
とわしの枝を
すきること清く
? >>985-986
なるほど「唐土」も使われてないけど確かにワカメもあまり漢字表記しないね…
この辺りは完全に当時の人の感覚で決めてて
そこまで漢字表記にはこだわらなかったのか >>981
五行目、こぶしの枝じゃなくてとわの夜 という可能性も考えた
5文字で文字数足りないけど、前の行の末に二文字だけ分けて書いてあるのがセットになってて合計で7音とか >>988
単に、普及しなかった当て字がいくつもあるだけなのでは。難しく考える必要はないと思う >>987
>>990
ありがとうございます。
みみずくの絵なので、「とわの夜」はありそうですね。
自分でもMojizoで調べたのですが、お手上げでした
https://mojizo.nabunken.go.jp/ 浅春庵だけで検索しても「天受玉園浅春庵安良 こぶしの枝 ミミズク」と出てくる
こぶしの枝で間違いない あ、ググってトップのヤツが、そのまんまの図像(クッキリしてる)
ukt310-天受玉園浅春庵 こぶしの枝 ミミズク
と書かれてるな。少なくとも、絵が こぶしの枝 ミミズク であることは間違いない
文章がわからない みなさん、どうもありがとうございました。
やっぱりくずし字は難しいですね。
海外の方になんて書いてあるのかと質問されたのですが、
特別な修行をしないと読めない、と答えておきます。 もう遅いだろうけど
相むれし笑ふ
小鳥もうらむ
とや
こぶしの枝を
すぎるみ々つく
じゃないかな? 思いなおしました
相むれし笑う
小鳥をからむ
とや
こぶしの枝を
すぎるみ々つく
旧案では歌の意味がいまいちわからないものだったけど
新案だと歌の意味がはっきりします いや、よくわからないが‥
だいたい外国人でも昔の人の書いた欧文の筆記体とかちゃんと読めるのかな >>999
相むれし笑ふ小鳥をからむとや
たくさん集まって笑っている小鳥を狩ろうとしたのか
こぶしの枝をすぎるみ々つく
こぶしの枝をかすめたミミズクは
意訳
こぶしの花が咲き誇っているよ
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