歴史学博士らがあらゆる質問に即答するスレ47
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前スレ
歴史学博士らがあらゆる質問に即答するスレ46
http://lavender.2ch.net/test/read.cgi/history/1530453710/ 前スレの「大王」の読みですが
記紀の古い写本のルビから考えると、漢語っぽいものも基本的に訓読みだと思います。
「皇子」は「ミコ」でしょうし。
音読みするのは後の時代の便宜的なものでしょう。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 ちょっと前のNHKの特集で橋本左内が欧米勢力に対抗するために朝鮮や満州を併合すべしって唱えてたらしいのですが
そういう欧米勢力に対抗するために大陸に進出すべしって説を最初に唱えだしたのは誰なんでしょうか? 佐内がそういうことを書いたのは二十歳そこそこか十代のうちじゃなかったかな
優秀な人だったから、お勉強したことを元にぐーんと理論構築してしまうんだろうね
後に石原莞爾も世の行く末を考えて「世界最終戦争」の構想から、実際に満洲を取る満州事変を起こしたが 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >5世紀には稲荷山古墳出土鉄剣銘文・江田船山古墳出土鉄刀銘文のように
>仮借が通例であって訓読みは確立していないとして、「武 = タケル」からの比定を批判する説もある
この説だと「治天下大王」は「ちてんかだいわう」と読んでいたってこと? ワカタケルは倭語なのだから音訳するしかないとすれば獲加多支鹵となる
倭語でもその意味を汲み取って漢訳しようとなれば幼武となる
後者の場合、ヨウブと読むのは有り得る
しかし>>2が言うように古いルビ様のものの書き方からして訓読みをしていたのが伺える
渡来人ならまだしも、倭人は古くから倭語のように読み下していたのではあるまいか
I am a boyという外国語をアイ・アム・ア・ボーイと音読みするのではなく、われはをのこなりと訓じていたと 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 前スレ995を投稿しましたが、再掲します
「稲荷山古墳から出土した鉄剣の「ワカタケル大王」ですが、
この銘文の「大王」を「おおきみ」と読んでいたのか、「だいおう」と読んでいたのかどちらでしょう?
また、そう考える理由を教えて下さい」
引き続き回答をしてくださった方ありがとうございます 2019年から2020年にかけての約1年半の間に起こること
・天皇陛下の代替わり(改元)
今回の代替わりは退位(譲位)によるもので約200年ぶり
日本における最高の儀式である退位礼や即位礼、大嘗祭も行われる
・東京オリンピック
世界的なビッグイベントであり、東京を主会場として行われるのは約50年ぶり
世界中の超一流アスリートが東京に集まってしのぎを削る
・消費税の増税
日本国民全体へ現実的な影響を与える政治的政策
わずか1年半ほどの間に全く違う分野でこれほど大きな出来事が続くのはなかなかすごくないですか?
戦後日本で一番くらいの濃密な1年半じゃないですかね? すみません、教えてください。
ネットで織田信長が明智光秀に送った手紙の中に、
「もっと直臣を雇うように云々。有能な部下ばかり集めると寝首を掻かれる云々」
と言った内容の物が有ったとの記述を見ましたが、検索しても詳細が分かりません。
この内容の手紙は現存するのでしょうか?
また信用できる資料なのでしょうか?
お教えください。 >>16
>ネットで織田信長が明智光秀に送った手紙の中に
その当時、ネットで手紙は送れなかった 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. >「もっと直臣を雇うように云々。有能な部下ばかり集めると寝首を掻かれる云々」
佐久間信盛への折檻状に家臣を雇えという件はあるけどなぁ…
つーても折檻状自体信長公記に書いてあるだけだが 正倉院の宝物には何故、
金貨や銀貨が無いの?
(´・ω・`) >>22
聖武天皇の愛用品とか大仏の開眼供養で使った物だから貨幣はない。 -= 彡 ⌒ ミ
-=と(´・ω・`) ようこそ ここへ〜
-=/ と_ノ
-=_//⌒ソ
◎◎ ◎◎
彡⌒ ミ ≡=-
(´・ω・`)┐≡=- 遊ぼーよパラダイス
と´_,ノ゙ヾ.≡=-
(´ ヽ、 \≡=-
◎◎\__)≡=-
◎◎ 聖武天皇の愛用品が正倉院に保管されてたのは有名だけど、
聖武天皇以外の歴代天皇の愛用品もどこかには保管されてるんじゃないのですか?
全部が全部ではなくても、それなりには保管されてそうなもんなんですが、
歴史展や宝物展みたいなのに出てこないですよね
その辺はどうなっているのでしょう? 相続されたり形見分けで贈られたりしてるうちに四散してしまいます。聖武天皇の場合は
光明皇后が正倉院にまとめて仕舞い込んだおかげでそのまま残ったわけです。 雄略天皇つまり獲加多支鹵大王は百済と関係のあるそうです
オホハツセノワカタケルの「ハツセ」からそれは分かります
古代中国語で百済はpeak-tzyeiで韓語ではpaek-jeになります
ゼミの先生から聞いた話ですが「ハツセ」を泊瀬と書くのは「百済」の「百」の音を「泊」で書き「済」を「瀬」と書いたことから来ているそうです
「オホハツセノワカタケル」は百済国の官位を持っている武という意味で百済から官位を与えられた人なのかもしれません 国境線は戦争によって変わるものだし、領土というものは歴史のある時点からその国の領土になったのであって、地球が誕生したときに国家が存在していたわけではない。
だから世界中のどこの地域ももともとは無主の地だったわけで、ゆえに「固有の領土」という地域はそもそも存在しない。
日本政府がよく使う「固有の領土」という言葉は歴史用語ではなく国家の政治的主張にすぎない。
もちろん国際法にも「固有の領土」という言葉は存在しないわけだから、「固有の領土」という言葉を使って国際社会に訴えたところで意味がないし、国際社会にはまったく通じない。
日本政府はこのことを全然分かっていない。 >>26
以後の歴代天皇の宝物も正倉院には多く保存されてます
正倉院の宝物のうち、聖武天皇のものは一部で、大半はそれ以後の天皇のものです ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 日本政府は「沖縄県の尖閣諸島は日本固有の領土」と言うが、なぜか「沖縄は日本固有の領土」とは言わない。
日本政府は過去に一度も「沖縄は日本固有の領土」と言ったことがない。
日本政府がなぜ「沖縄は日本固有の領土」と言えないかというと、沖縄はかつて琉球王国という日本の主権(統治権)が及ばない異国(独立国)だったから。
皮肉なことに沖縄が日本固有の領土でないことは1879年に日本政府が軍隊を動員して沖縄の前身である琉球王国を武力併合したことで日本政府自らが証明してしまった。 >>36
>過去に一度も「沖縄は日本固有の領土」と言ったことがない。
佐藤栄作が言ってる >>34
不鮮明ですし、以前にもおっしゃる方がいたように前後の文脈がないと判断しづらいことが多いです。
なんの文章かわからないので、お答えする上での面白みも乏しいです。 江戸時代後期〜農地解放までの農民の階層について質問です。
あるサイトでは、江戸後期の地主:自作:小作の割合が15:25:60されています。
また、農地解放時に出てくる「地主」の割合も、調停委員割合や農地数(延べ数であることを割り引いても)から見て、
2〜3割は居ることになります。
地主と言えば、土地だけで生活できる人や富農・大農といった金持ち・富裕層を指すと思うのですが、
江戸後期の15%や、農地解放時の2〜3割という数字は、しっくりこないのですが
どういうことか教えてください。 戦時中の統制経済について。
物資が配給制になり、奢侈品が規制され、自由な経済活動が禁止された時期に、
特に流通・小売り・飲食などの消費者向けの日常物品を扱う人はどうしていたのですか?
大商社から小商店主・行商・兼業の商人に至るまで、多くいたと思うのですが、
統制経済では普通に商売はできないですよね?
統制経済のもとで、商人はどうやって商売で稼いでいたのか?
また、工業農業の生産に国民が総動員されるなかで、商人は今までも職業を全員が認められたのか?
認められない場合、どうしたのか?
教科書では書いて無いので、教えてください。 >江戸後期の15%や、農地解放時の2〜3割という数字は、しっくりこない
多いはずだと考えているのか、もっと少ないはずだと考えているのか分かんないし、
あるサイトとか出所不明の数字の羅列で不満を口にされてもなぁ…
農地解放って二十世紀の話だよね?新地租の間違い?
旧貢租にせよ新地租にせよ、学問的な批判に耐えうる統計データなんか誰が集計したの?
抽出した文章でかなり開きがあると思うけどなぁそれ
戦後の混乱期でも明治初頭でも、中央は兎も角、僻地の数字なんか… >>41
このサイトで割合が出てました。
http://kakeizunotobira.denshishosekidaio.com/2016/04/11/post-93/
農地改革のwikiには、
>最終的に193万町歩の農地が、延237万人の地主から買収され、延475万人の小作人に売り渡された。
延べ数ですが、直感より相当多いので質問しました。 「歴史とは何の定義を持って歴史というか考えたことがあるか。>>1よ。
今までの私ならば人間が移り変わっていた過去を示すものだと思っていた。
歴史学とはかくあるべき、歴史学者である私達はそれを信じて毎日を費やしてきた。
ここに一つの仮定を、もうけてみようではないか。
過去から現代へと至る道が、唯一無二の、一つの道では無いとしたら、どうか。
バカバカしいと思うのならば、道が唯一無二のものであるという論証を、お前にできるかな?
歴史とはなんだろうな・・・人類変遷の記録か?
違うな、それは単に、ある時刻に起きた事象の記録に過ぎないのだよ。それは歴史ではない。」
「時の流れとは不可逆なものとして存在するのではなく、可逆な概念であることを理解するのだ。」
>>1「可逆だって?じゃあ歴史は繰り返されるということなのかよ」
「そうではない。歴史は不可逆な概念なのだ。
その差は微細にして多大であることを知れ。
その違いに気付いた私は、ある場所へおもむく決心をした・・・。
歴史は繰り返さぬ・・・だが時の流れは可逆であるのだからな。
この手紙を読んでいるころは、私は貴様の前から姿をくらましているだろう。
だがそれは、私自身の死を意味するモノではない・・・・。 日本政府は2013年4月28日に主権回復の式典を開催したが、このとき、安倍首相は「サンフランシスコ講和条約が発効された1952年4月28日に日本は完全に主権を回復した」と国会で発言している。
しかし、日本は形式的には主権を回復したが、実質的にはまだ完全には主権を回復できていない。
その理由は以下の通り。
1.安倍首相が「主権回復の日」の式典が開催された翌日にロシアに行き、北方領土の返還を求めている。
2.東京、埼玉、神奈川、静岡、山梨、長野、群馬、栃木、新潟の上空約5000mまでは米軍の管制空域である。
3.岩国基地がある山口県の上空も米軍の管制空域である。
4.日本の領土(民間地域)に米軍機が墜落、または機体の一部が落下しても日本の警察は現場検証すらできない。
5.嘉手納、横須賀の住民が爆音訴訟を起こしても、日本の裁判所は米軍に対して訓練の飛行禁止を命じられない。
サンフランシスコ講和条約が発効された1952年4月28日は日本が主権を回復した日どころか、逆に対米従属を決めた日であると言える。 >>37
沖縄が日本固有の領土であるという法的根拠はない。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>44
昭和44年2月6日の予算委員会で、川崎寛治委員からの質問に対し、時の首相・佐藤栄作は
「いまお答えいたしましたように、沖繩は日本固有の領土でありますし、また、ここに
住んでおる百万の同胞、これは沖繩県民といわれ、同胞といわれしておりますが、みんな
日本人であります」と回答している。 韓国と同じように沖縄も独立するべきです
沖縄市民が立ち上がれば韓国の人達も同情して経済支援すると思います
同じ植民地支配を経験した間柄ですから 今、日本戸籍を持っていて本土に住んでいる沖縄出身者はどうなるの
日本人と沖縄人の線をどこに引くの >>48
日本政府の公式見解ではなく佐藤栄作の個人的見解にすぎない。
佐藤栄作は琉球史を勉強したことがないし、そもそも「固有の領土」の定義も分かっていない。
琉球大学名誉教授で琉球史の第一人者である西里喜氏や高良倉吉氏は「琉球王国を前身に持つ沖縄を日本固有の領土と思っている人は琉球史を勉強したことがない人」とはっきり言っている。 <昭和天皇は米軍による沖縄の長期占領を望んでいた>
戦後の1946年、大日本帝国憲法から日本国憲法に変わって天皇が政治に介入できなくなったにもかかわらず、その翌年の1947年に、昭和天皇は政治に介入した事実がある。
当時、昭和天皇は宮内庁御用掛を務めていた寺崎英成に「米軍による沖縄の長期占領を望む」という自身の希望を伝え、その天皇のメッセージがGHQの政治顧問だったウィリアム・シーボルトを介して米国国務省にも伝わっていているが、
サンフランシスコ講和条約第3条により北緯30度以南が米国施政権下に置かれたことは、まさに昭和天皇の望みが見事に叶えられたものといえる。
昭和天皇が米国に伝えたとされる「天皇メッセージ」の原文は雑誌「世界」(岩波書店、1979年4月号)で詳しく取り上げられていて、後に「分割された領土」という書名で岩波現代文庫からも発行されている。
「分割された領土」(岩波現代文庫)
https://www.iwanami....KS/60/X/6000910.html
昭和天皇は沖縄がもともと琉球王国という独立国で日本固有の領土でなかったことをよく知っていたから、その沖縄を外国に譲渡することになんのためらいもなかったといわれている。 >>49
韓国が同情で支援するって本気で言ってるの?
> 同じ植民地支配を経験した間柄ですから
これだけが根拠? 北方四島のうち、国後、択捉は日本の領土ではない。
その証拠に日本は第二次世界大戦で敗れた後、1951年にサンフランシスコ講和条約を締結したが、そのサンフランシスコ講和条約の条文に「千島列島を放棄する」と書かれている。
当時の吉田茂首相は、サンフランシスコ講和条約の受諾演説で「国後と択捉は千島南部」と発言しているし外務省の西村条約局長も国会で「国後と択捉は千島列島に含まれる」と発言している。
千島列島に含まれる国後と択捉は、当時の吉田茂首相がサンフランシスコ講和条約に調印した時点で日本は放棄したことになる。 139年前の1879年3月27日に日本政府が軍隊を動員して沖縄の前身である琉球王国を武力併合した歴史的事実を挙げて、
「武力併合して以降、『我が国固有の領土』と言えるなら、どこかの国が日本を武力併合したら、その瞬間からその国は『日本は我が国固有の領土』と言えることになるが、そのとき、日本政府はその国の主張を認めるのか?」と外務省に聞いてみたが、だれも答えられなかった。
139年前の日本政府が軍隊を動員して沖縄の前身である琉球王国を武力併合したのは歴史的事実。
琉球王国が日本の領土だったなら日本政府が軍隊を動員して武力併合するわけがないし、併合する必要もない。
沖縄が日本固有の領土でないことは皮肉なことに日本政府自らが軍隊を動員して沖縄の前身である琉球王国を武力併合したことで見事に証明してしまった。 >>51
首相の予算委員会答弁は個人的見解ではないでしょう
>「固有の領土」の定義も分かっていない。
「固有の領土」は国際法上意味がないんじゃなかったでしたっけ?
西里喜とは誰ですか?
西里喜行氏のこととしても、この方は…
高良倉吉氏の言葉を引用しておきます
「復帰後のこの45年間、沖縄と本土の相互認識は、日米安保・米軍沖縄基地問題という衝立を挟む関係にのみ終始してきたのだろうか。
沖縄の人びとと本土の人びととの交流は様々なレベルにおいて、量的・質的に拡大し続け、彼我の相互理解は格段に進んだ。」
「現在の沖縄は、日本の一員として「本土の諸地方との同等化」が急速に進行している。」 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>57
明治政府は1871年(明治4年)に全国一斉に廃藩置県を行い、全国の諸藩は藩から県に変わったが、琉球に対しては廃藩置県ができなかった。
なぜ明治政府が琉球に対してだけ廃藩置県ができなかったのかというと、当時の琉球は藩どころか日本の領土ですらなかったからである。
それどころか明治政府は1871年(明治4年)に廃藩置県を行っておきながら、逆に琉球に対してはその翌年の1872年(明治5年)に琉球国から琉球藩に変えている。
ただし、これは国家の統治機構の改変を伴うものではなく、単なる名称変更という形式的な変更にすぎなかったのは言うまでもない。
廃藩置県後の全国の各県は大蔵省の管轄下にあったが、明治政府が琉球だけを外務省の管轄下に置いたという歴史的事実は、まさに日本政府にとって触れられたくない不都合な真実である。
当時の琉球が日本の統治権が及ばない帰属未確定地であり、日本の領土でなかったことは歴史が証明しており、故にその琉球を前身に持つ現在の沖縄は日本固有の領土とは言えない。 琉球王国が独立国だったことは日本政府が認めている。
その証拠に沖縄県公文書館、沖縄県立博物館、那覇市歴史博物館のホームページには「かつての沖縄は、琉球国王の治める独立国であり」などと書かれているが、
日本政府はこれに対して沖縄県や那覇市に一度も抗議したことがない。
琉球王国が独立国でなかったなら日本政府は沖縄県や那覇市に抗議するはずだが、
一度も抗議したことがないということは日本政府が「かつての沖縄は、琉球国王の治める独立国であり」などとホームページに書いた沖縄県公文書館や沖縄県立博物館や那覇市歴史博物館の主張を認めている証拠である。
よってその琉球王国を前身に持つ現在の沖縄は日本固有の領土とは言えない。 江戸時代は平均寿命が40歳前後だったようです。
そうなると親の早世に直面した子供が少なくなかったと思いますが、そういう子供はどのように生きていったのでしょうか。 本郷和人も新聞のコラムで勘違いしてたけど
幼児死亡率が低いから平均年齢が下がってるだけで
40、50になれば皆死んでるわけじゃないよ >>63
乳幼児の死亡率が「高い」の間違いでないかい? 【日本の神は韓国起源】古代出雲は渡来人が大半だった
https://www.yomiuri.co.jp/culture/20181118-OYT1T50055.html?from=ytop_top
鳥取市青谷町の青谷上寺地遺跡で見つかった弥生時代後期の人骨について、
鳥取県埋蔵文化財センターや国立科学博物館などが実施しているDNA分析調査の中間報告会が17日、同町の市青谷町総合支所で開かれた。
大半の人骨のルーツが大陸からの渡来系だったといい、同博物館の篠田謙一副館長は「日本人の成り立ちを知る重要な手がかりだ」と話す。 国後島・択捉島辺りまでなら何かイメージ的に日本っぽいから
返還していただきたいという論理はロシアには通じませんか?
(´・ω・`) 古代出雲国と現在の島根県は同一ではない。
古代出雲国をどの範囲で考えるかによる。場合によっては、新潟の出雲崎まで古代出雲国だったという論もある。
ともあれ、出雲が新羅人の国だったことはよくしられていること。
出雲大社に祀られている大国主命も新羅人で、出雲神殿に鎮座ましますお顔の方向も西方の新羅国だ。 いわゆる出雲の国譲り神話と今回の青谷事案は、
おおむね同時期に起こった可能性がでてきたな、、、 出羽の語源が出雲の端だから出羽(いずは)と聞いた事がある
であれば新潟あたりまで出雲というのはわからないでもない スサノオ尊は韓国起源です
江原道の神様でした
日本に五穀を携えて渡来していきました
韓半島から日本に文明をもたらしたのでしょう 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>72
>出羽の語源が出雲の端だから出羽(いずは)と聞いた事がある
出羽(でわ)は、平安時代以前は 伊テ波(いでは)と書かれた。
矢羽に使う鷹の羽を産したことから、または越後から出てる出端(いではし)から、と言われている。
出雲では無いです。 ちなみに出羽という地名の始まりは庄内地方あたりを指す出羽郡だ。
その頃置賜郡や最上郡は陸奥国だった。
出羽郡が国に昇格した少しあとに置賜郡と最上郡も編入された。
それより北はもっとあとに蝦夷征伐が進んでから編入された。 >>69
ロシアは北方領土返す気満々だよ。
でも、現状では返還された途端、それらに米軍基地が作られるから嫌がってるだけ。
日米同盟を解消すればすぐに帰ってくるよ。ありえないけど。 昭和の朝日新聞だな。
未だに日教組や全共の教師は言ってそう…
事実は、二島を即時返還、後は日本次第。
米がこれにいちゃもんをつけてきて、二島返還で平和条約を結ぶなら沖縄は返さないと言い出した。
日本は沖縄のために北方領土問題を塩漬けに。
ゴルバチョフが政権末期に円欲しさでこの問題を蒸し返したが、これも米の横槍でぽしゃった。
二島にせよ四島にせよ、返ってくるかどうかは米次第。
で、今の米大統領は、アレなわけだw 日本人は戦争の敗北を受け入れるべきです
北方領土は日本の領土と主張することは出来ません
沖縄も日本の領土ではありません
韓国は日本から解放されましたけども今でも日本の右翼勢力は何の反省もなく独島を日本に併合しようと目論んでいます
日本人は敗戦の時に放棄した領土を取り戻すような事を続けていますけども今すぐやめなければいけない
日本が1960年代に再度奪った沖縄は日本から分離解放されなければいけません
それが敗戦の結果を受け入れるという事です
敗戦の時に放棄した独島やその他の島は日本のものではありません 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 高校の山川の日本史の教科書には平成太上天皇って書いてあるけどなんで平成上皇じゃないの? 平城太上天皇のことでしょ
薬子の変は最近は平城太上天皇の変というようになったんだね >>84
でもさ白河 堀川 鳥羽とかは上皇なのに平城天皇だけなぜ略さないの? >80
>ロシア政府の人間が言ってるんだよ
朝日新聞が昭和の頃から布教している嘘なのも事実だけどね。
あと、ロシアの人が言ってたで連想したのだが。
小学生レベルの計算もできない、左翼系出版社が好んで使う「十五年戦争」
中国人がこれを言うのは聞いたことがないが、何年か前、研究者とのテロップ付きで、
ロシア人がこれを口にしたのは驚いた。
旧社会党系議員の子息が局内で好き勝手やってるNHKが勝手に意訳したのかもしれんけどw 豊臣秀吉の太閤検地から農民と武士の線引きをはっきりさせたと
通説になっていますが、
中世以前では農民と武士(領主は除く)の身分は曖昧だったのですか?
武士も普段は農業していたのですか? 農民が駆り出されて戦をしてた
農閑期しか戦ができなかった >>89
博士じゃないし、通説とやらも不勉強だけど
「たとえ建前上ではあっても農業専従者を確定させます(つまり農民)」って意思表示を行政組合のトップがした事で、建前的に出稼ぎ足軽くらいしか出来なくなるって事
それまでの"武士"は 農業もやってる
とはいえ、身分制としての武士と農民が分離していたと言われる江戸時代になっても農耕に携わる武士や、武士になる農民もいた 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>89
中世っつっても鎌倉時代までは兵農分離に近かったのが南北朝の頃から雑兵の大量動員が始まって農民兵が出てきた感じだね
本格的な農民動員は応仁以後かな?
秀吉のときに非農民を(武士とか、その下人とか)農村に住ませないように命令があって兵農分離を強制された(徹底できてはいないらしい) >>91
このスレに博士らしき人が来ることはほとんどなくなって、いまの回答してる人は大半が一般人だし、いいんでない?
質問スレに統合するべきと言う意見が何度も出て、それでもタイトル詐欺状態の博士スレとして続いてるのが現状 信西が崇徳院・藤原頼長を追い落とそうとして保元の乱が勃発したように、平治の乱も信西が藤原信頼・源義朝を追い落とそうとして勃発したのかな >>93
逆じゃないの?
鎌倉時代というと、平時は、武士も在郷で、家臣と一緒に所領を耕したり開墾したり。
招集がかかると、普段は田んぼ耕してたり馬曳いてたりする農民同然の家臣を連れて、参戦。
遅い時代の薩摩の郷士みたいな感じで。
段々と、御家人→大名の支配規模の身長にともなって、城砦の規模の拡大、戦闘員の城砦の常駐、城下町の集住が進んで、
戦闘員も従卒も専門化してくる。農民を駆り出すのは、精々、普請と荷駄くらいになって、すんなり、兵農分離。 武士が在郷なのはたしかだけど、戦場に引き連れていくのは少数の側近だけで、その多くは戦闘に参加すらしない
そして、農民は動員しない
農民を動員しないんだから兵農分離だ 家の敷地を耕して自分で食べるのに足りない分を補うためだけどね。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています