邪馬台国畿内説 part4001
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
4001回目のスレッドが、始動したのでは、ないのかな。。。 >>2
重複偽物スレッドが、まだ401番なので、この本物の公式ホームページに、間違われずに、アプローチし易いな、、 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 畿内説を精力的に主導してきた学者達が、インターネットの公式ホームページで、事実上、敗北を宣言してしまった 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 重複偽物スレッドが、まだ401番なので、この本物の公式ホームページに、間違われずに、アプローチし易いな、、 畿内説を精力的に主導してきた学者達が、インターネットの公式ホームページで、事実上、敗北を宣言してしまった 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 重複偽物スレッドが、まだ401番なので、この本物の公式ホームページに、間違われずに、アプローチし易いな、、 破綻した畿内説の宣伝係のキナイコシが、優れた考古学者達によって、ゴキブリが叩き潰されるように、論破されてしまったので、あの重複偽物スレッドがキナイコシの言い放つ、悪口や嘘ばかりの中身の無い抜け殻のように、寂れてしまったな。。。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1542983556/ 破綻した畿内説の宣伝係のキナイコシが、優れた考古学者達によって、ゴキブリが叩き潰されるように、論破されてしまったので、あの重複偽物スレッドがキナイコシの言い放つ、悪口や嘘ばかりの中身の無い抜け殻のように、寂れてしまったな。。。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1542983556/ 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 自分で発表したので、日本史板の、邪馬台国畿内説 part402、スレッドには、触らない方が良いなw
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1543505552/
98日本@名無史さん2018/11/30(金) 07:37:30.08
キチにさわるんじゃねー ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 日本史板の、邪馬台国畿内説 part402は、破綻した畿内説の宣伝係員が作製した重複偽物スレッドなのだけれどもね。。。
今朝も、破綻した畿内説の宣伝係員が、ゴキブリが叩き潰されるようにして、論破されてしまっているな、、、 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 韓国政府が応援を実行している、邪馬台国畿内説が嘘だと判明したので、日本国が対馬の領地を防衛できるのでは、ないのかな、、、 このスレで一休みしよう
一応ここで書込んでおき、キナイコシが夜中に立てるスレで張り付ければ良い
キナイコシの馬鹿相手のスレはおもろいぞ まあほっとけば、いずれ4000スレまで行くのはわかってるがw また転写保存
>>714
>女王国は文脈によって邪馬台国中心の連合国全体をあらわす場合と
邪馬台国そのものを指す場合があるよね。<
女王國は、原則として、卑弥呼共立國範囲。
狗奴國は、おそらく共立に同意しなかったから書き分けられているし、
東方の渡海に拠って区別されている倭種も、
女王國と書き分けられていて、女王國ではない。
それに対して、倭國と言うときは、狗奴國も含むようであるが、
東方倭種を含むか?は、不明である。 九州説はバカみたいな書き込みするのを
やめた方がいいのではないかな。。。 >>716
>魏志倭人伝でも1万2千里に追加で南4千里つけ足したりしてるよ
これは呉が東1万6千里にあるという大月氏と国交を結んでいたため
それに対抗した表記 <
呉と大月氏の国交関係と、魏や女王國と侏儒國のや関係は同じではない。
侏儒國は、魏と国交を持っていた形跡がない。
>短里で書かれてるらしい距離を換算したら短里になったから短里は証明されたというのは
循環論法的証明<
史料事実や史料実態からの帰納的推論をsiteirukara、循環論法になっていない。 >>54
>東方の渡海に拠って区別されている倭種も、
これはおそらく四国だよな。 本州と四国とそれぞれ書いてあったろ。
九州が女王国。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>721
>歩測したりできるところは計れるし、騎馬で一日で進む距離でも概算はできるだろ
だが、大陸王朝に水行や渡海の距離を測る手段はない <
手段はある。一寸千里と簡易三角測量。
>3世紀に短里を使う人はどこにもいない <
如淳注や、魏朝西晋朝の役人たちや、、陳寿や、魚豢や、江表伝?などがある。
>親魏倭王と親魏大月氏王は、この二つしかない特別な称号
曹真の功績と並ぶためには、倭を大月氏と対等以上に遠くする必要があるんだよ<
ない。卑弥呼の遣使は司馬懿と直接的な関係がないし、
距離も、大月氏は長里で萬二千里であるが、倭は短里で萬二千里だ。 >>724
>張政が倭国に来たのは260年<
正始八年の話に書かれているから、正始8〜9年頃であるから、×。
>この時は恐らく畿内の邪馬台国まで行っている<
畿内も邪馬台国もなかったから×だし、当然行っていない。 >>739
>九州北部から瀬戸内海航路で投馬国(鞆の浦)にしばし停泊
そこから邪馬台国に向かう<
「南≠東」などに拠って、×。
>航路だから距離を稼げるのでそんなに停泊しなくてもいいはず<
これも、×。
後世の推古や斉明の頃でさえも、半月位はかかっていた筈。 >>762
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者って、
人間として壊れてるやつが多いね。 韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 邪馬台国畿内説を5ちゃんねるで宣伝するために、韓国政府が雇用した係員のキナイコシや3寸男が、真実を暴かれたので、焦っているな。。。 倭人というのは、後に何という家になるの?
某氏とかあるでしょ、代表的な人物の名前とか 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 また転写保存
>>336
>邪馬台国大和説は、ありえん。
大和の纏向遺跡は、近畿、東海、瀬戸、北陸勢力の連合政権の祭祀所。
前方後円型墳丘墓は、各有力勢力が持ち回りで派遣した大祭祀者の墓。
ホケノは、博多制圧した連合軍派遣隊指揮者の墓。
箸墓は、そのあと南九州阿多から招いた海人族宗家の大祭祀者。
これが3世紀前半〜後半の大和のリアルな歴史。<
大和は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国であり、
九州倭国の「東征毛人五十五國」の中の一国であるから、
×だ。 >>356
循環論法とは、端的には「結論先にありきでの論」だ、という事。
大和説者は、それをぜんぜん証明しないで、ただ結論だけ叫ぶから、
九州説に、常に議論に負けるんだよ。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>357
「あの史料は嫌だ」は、「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者の議論態度。
実に大和説らしい態度で笑える。
「あのデータはダメ」と指摘されダメな理由を具体的に示されてもまったく反論しない。
上記のようにただゴネる、悪口を言う。
実に大和説者らしい態度で笑える。 尺→里の換算はどうして漢書の律暦志に書かれないで食貨志にだけ記載されたんだろう?
尺→里の換算式は、前漢から晋まで一切変更されなかったんだろうか?
「漢書食貨志
六尺為步。步百為畝。畝百為夫。夫三為屋。屋三為井。井方一里。是為九夫。
六尺を歩と為す。步百を畝と為す。畝百を夫と為す。夫三を屋と為す。
屋三を井と為す。井は方一里。これ九夫を為す。
最初の六尺=歩、次に「畝」の長さが百歩と規定される
次に畝を百本並べたもの(百歩の正方形)が「夫」
夫を3つ並べたもの(三百歩×百歩)が「屋」
屋を3つ並べる(三百歩×三百歩)と「井」
井が一里四方で、九夫になる
つまり百歩の正方形「夫」を縦3つ横3つ、井の字に並べたものが一里四方だから
一里=三百歩となる」 >>364
このように、
「南→東」などの捏造を指摘されても抗弁できない 。
ダメ出しされても反論できない。
大和説は、こんな「説」。 >>372
は?、大和説さん。
「南→東」などの嘘つき騙しについての、
あなたの「きちんとした論証」って、どこにあるの?。
具体的に示してね。 >>378
「南→東」などの嘘つき騙しに関して、具体的な反論を何も言わない大和説。
ただ、人格誹謗のヘイトスピーチをして、気勢を揚げるだけ。
キョクウサルでもできるね。 >>379
>まだ言ってるのかw そんなにチェリーピッキングがしたいのか?
というか、チェリーピッキング以外の論点って、九州説にはないだろ?
代替案も何も、データベースの説明書きに
『地域によって精度、更新頻度が異なり、近接自治体との情報格差が存在』
と書いてあって、
精度・頻度に格差のあるものをそのまま比較してもしょうがないだろってこと<
いや、総数や各地の地域数などだけでも、十分に、
居住民数や文明度や国力の根拠になり得る。 >>384
大和説者は、キョクウのヘイトスピーチの・・・・猿か?。
まあ、奈良のシカとハカよりましと思って受け入れよう。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>396
>>「大作冢」は、「冢を大いに作った」であって、
「大きな冢を作った」ではない。<
>大いに作って小さいのができたの? ばかですか?<
いや、サイズも高さも殉葬も副葬も含めた「墓造り」や「埋葬」全体が」や、
「大いに」であった。 >>397
>>周初の周髀算経は、既に短里を使っていた。<
>周初に周髀算経なんて存在しません<
「昔者周公問於商高曰・・・」から、本文が始まっている。 >>402
>九州説はサルか むしろザル 取りこぼし多過ぎ <
大和説は、詐欺師サルのザル。
「南→東」などの嘘つき騙しの取りこぼしが多過ぎる。 >>408
>>漢朝は始皇帝の長里継承であったが、民間的では淮南子や介山のように短里も混在していた<
>が本当なら
「上古之始有君也、必崇恩化以美風俗、然百姓順教而刑辟厝焉。
今朕承帝王之緒、其以延康元年爲黃初元年、議改正朔、易服色、殊徽號、同律度量、承土行、大赦天下。
自殊死以下、諸不當得赦、皆赦除之。」
二行目の解釈
律度量は同じにする(変えない)
土行はそのまま継承(変えない)
の「土行の継承」で使われ続けることになるのでは?<
それ以前に、「律度量は同じにする(変えない)」というのでは、
漢代の度量衡の混乱状態を踏襲せよ、と命じている意味になり、
そんなつまらん事を即位の「受命改制」という大方針の詔書に書く必要が全くない、
という大矛盾が発生するから、そんな意味ではなく、
「同」は、「新たに統一せよ」という指示である、と解した方がよい。
つまり、始皇帝の「1歩=6歩」という命令が失敗であった、という事の指摘。 >>410
>筆者は、短里であったつもりだがら、会稽東治之東と明記してる。<
>短里であったら会稽東治之東にならないでしょ サギはダメだよ <
会稽東治は浙江省〜江蘇省の海岸地域であり、
短里では、九州がその地域の「東〜東北東」の中に入るから「之東」のなって、
短里で合っているが、
長里では、赤道付近になってしまって、「会稽東治之東」に全く合わないから、×ですよ。
嘘つき騙しのサギは、ダメだよ。 >>415
>短里ってもう破産してるのに、なに騒いでるの?<
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は、反論が出来ずにもう破産しているのに、
今更「長里だ」なんて、大和説者は、なに騒いでいるの?。 >>435
>短里は他の制度と整合しないから無いでしょ
短里で周代の井田法なんか施行したら国民はみんな餓死してしまう<
井田法自体が、まだ明確ではない。
9分の1を、一家族が耕作するのか?、8家族の共同耕作になるのか?など。
一家族では、140m四方位の田畑の管理耕作は、非常に困難。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. また転写保存
>>186
>>出発の「南」と目的地の「至投馬國」との間に、途中移動をした、という文言がないから、
魏使らは移動しておらず、<
>それ、もう完全否定されたから 通用しないよ <
大和説者の「南→東」などの嘘吐き騙しはバレて、
もう完全否定されたから、大和説の話は、もう通用しないよ。 >>194
>>だから、投馬國説明は、(移動説明ではなく)側副傍線国説明。<
>その移動していないとか、側副傍線国だとかいうインチキ説明の上でも、
「間に水行十日分の距離」が入ることにはかわりがない<
距離説明のための「所要日数」表示。 >>199
>>「同律度量」は、(漢代には)同一ではなかった度量衡を同じに統一せよ、<
>同律度量は、同じ律度量をそのまま使う、という意味で統一するという意味にはならない
統一するという意味だったら、「どれを基準にして」統一するかを言わないと意味ないだろ?w <
漢代に周朝里の短里と晋漢朝里の長里が混在混乱していたから、統一する。
そして、お前が言ったように、
「承土行」は、漢の「五行」を継承変更して「土行」とするんだから、
やはり、漢代と違うから、文帝は詔書に書いた、という事になる。 >>200
>おまけに魏文帝本人が短里など使っていない<
当たり前。
部下の重臣らの上表の方針が出揃って、個々の新政策が決まってから、皇帝も実行するもの。
周里の採用は、明帝時代にずれ込んだらしかった。 >>233
>地上に正確な円を描くために周囲を少し広めに整地することの、どこが
「ほぼ同じ事になって、不必要になってしまう」ような記載なんですか? <
始めから、二つの同心円を作る、という解釈をした事が、
漢初期の収集者も、現代の大和説者も失敗であったの。
「立二十八宿,以周天曆度之法。術曰:倍正南方,以正勾定之」は、
太陽の黄道とその上の二十八宿の星座を地面に書き並べるのであり、
太陽は、夏至正午に南の萬六千里の上空にあり、
冬至正午に南の十三万五千里の上空にあり、
その間の十一萬九千里を直径とする円周上に、二十八宿を立てる事になるから、
上空に設定してあった「周地上空と北極星の造る直径十一万九千里の円周」を、
「倍正南方,以正勾定之」してものを作って、
それを地面に投影するだけでよく、
わざわざ二重円など造る必要が全くなかった。
だから、漢代初期の周髀算経収集者の失敗収集であったのであり、
それに乗った現代大和説者もアホであったの。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>234
>現実には畿内説側が逆質問で追及をかわそうとしたような局面は無いので、ザラコクは単にウソをついて中傷しただけということになる<
いや、現実には大和説側が逆質問で追及をかわそうとしたような局面が一杯あり、
それを指摘し続けて来てあったので、
この大和説者も、単にウソをついて中傷しただけということになる。 >>247
大和説って、九州説をを攻撃するために、
「南→東」などの嘘つき騙しだけではなく、
こんなヘイトスピーチのようなことまでするの?。 >>278
>無党派なんだろうな<
いや、この貼り付け男は、
畿内とか邪馬台国とか台与とか倭国大乱とか天皇と神功などの、
存在もしない嘘つき騙しの大和説文言を使っているから、
「南≠東」などの嘘つき騙しの大和説仲間。 >>287
>しかし九州説の言う通りなら古代中国人は頭のおかしい奴ばかりになるな
魏使はいきなり自国で使われてない短里で距離測るし<
周朝や漢代にも使われていた。
>魏の皇帝は漢が1歩=6尺の漢と同じ単位を使えという表現で
1歩=1尺への変更を命じて<
魏の文帝の詔書の指示や重臣たちの上奏で、始皇帝の「1歩=6尺」よりも、
周朝の一寸千里の度量衡を使う事になった。
>古代史家は揃いも揃って邪馬壹國を邪馬臺國と書き換え
魏志倭人伝には邪馬臺國と書いてあったとウソまでつく始末 <
後漢書の邪馬臺國は、魏志の邪馬壹國とは、記述対象が違う国であった。 >>290
>場所によって3倍4倍誤差のある短里で距離を正確に測りながら<
誤差は、2割以内位。
>魏使は倭国に着いたら南方向の山地へどんどん踏み込んでいって
何もない山地を奴国と言い張り <
奴國は伊都国の東南百里だから、日向峠西麓〜早良平野付近。
>さらに南に行くに急流の日本の川を20日も船で遡る<
投馬國は、不彌國から一旦玄界灘に出て、東回りでも西周りでも海岸沿いの水行二十日の位置。 倭とは倭大國魂神社がある美馬を中心とした四国のこと
簡単な話 >>295
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説で、
他人を騙し続けてると、
人としての良心も摩耗するんだなぁ。 >>313
>不弥国から水行30日陸行一月で九州は無いよね
真面目な九州説の人もいないみたいだし <
不彌國で、「折れ線的道のり距離」合計がほぼ「萬二千余里」に達しているから、
邪馬壹國女王之所都の入り口は、不彌國の直ぐ南にある事になり、
だから、「不弥国から水行30日陸行一月」と読んだこの男は、
真面目な人ではないみたいだし。 >>110
だいぶん少なくなってきたとは言え、その簡単な話に耳をふさぐ、トンデモ妄想説信者がまだまだここには居るんだよね。 @阿波 >>318
>じゃあ一寸千里の法則は崩壊だな
八歩、ではなく八尺の棒を使って影長を測ってるんだから
そこから計測されるのは里歩系の尺度じゃないものという事になる<
ならない。
一寸千里は、南北千里という里歩系計測地での、
それぞれ尺寸系での「棒の影長」を計測したから、
それで、里歩系と尺寸系との関係を示した事になるの。 >>319
>その歩は、どこから出てきたんだ? <
「止」という文字を背中合わせにくっつける事で、
前後に止まっている状態の「1足底長」を示す長さ単位として、出て来た。 >>320
>そもそも1歩≒1尺がわからん 1歩と1尺はそれぞれ何センチよ <
魏の頃は、1歩≒25.5cm、
1尺≒24cm位だったらしい。 >>333
むしろ「南→東」などの嘘つき騙しの大和説が、
嘘つき詐欺師と、荒らしと、キチガイしか居なくなったんじゃないか?。
大和説は、論としては終わってる。 >>342
>倭国に来たことはなくても淮南子は読めるよな
淮南子にあるこの世の果ては1万2千里
かつて漢に朝貢した由緒正しい朝貢国漢の倭奴国は
万里の彼方にあるという倭国の極南界
じゃあ邪馬台国もそこにあった事にしたら
皇帝様はさぞお喜びだろうと書かれたのが魏志倭人伝
極端に言えば魏使が距離を測らなくても魏志倭人伝は書ける<
魏使らが、計測確認もしないで、いい加減な報告を書き、
従者や後続の使節に確認されて皇帝らにバレたら、
そりゃ、魏使らの首が飛ぶ。
何だか、どこかに財務局員のように、自殺しなければよいが。 >>110
あんたな〜たとえば年賀状で宛先を書くとき「日本国 東京都、、、」と書きはじめるのか?
当たり前なことは普通省略するだろう。
倭に敢えて「倭」なんか付さないんじゃないか?
祟神天皇、縁の神社なのか?
とても由緒正しい神社とは思えないが。 >>344
>インチキしても儀使しか知らないからバレようがない <
同僚や部下や後続の使節らにバレて、首が危ない。
現在の安部政府でも、バレた。
>後漢から倭は万里の彼方で都はその極南界にある事になっていたから
淮南子に書いてある1万2千里を使って報告しても何の問題もない
そもそも魏使の報告書の原文が見つかってないから<
魏略が、同じような里数を書いているから、魏使らの報告の原文があった事になる。
>もしかしたら陳寿など後世の史家が自己解釈による書き換えを行ったのかも知れない<
魏略は、魏志と同時代か少し前らしい。
魏使が短里を使って報告していない、という話には、
これだけ反証がある。 >>355
>で、不弥国から
水行20日 五万戸の投馬国はどこ?<
不彌國の南の方にあるから、南九州。
>水行10日陸行一月 七万戸の邪馬台国はどこ?<
「水行十日陸行一月」という数量説明は、その直前の文言の説明になるから、
行程の目的地である「女王之所都」の説明になるので、
郡から女王之所都の所要日数。
邪馬台国なんて存在しないから×であり、
邪馬壹國なら、不彌國で「折れ線的道のり距離合計がほぼ萬二千余里になってしまっている」から、
残りはほぼ0里になり、
だから、不彌國の直ぐ南に入り口がある事になる。 >>120
>倭に敢えて「倭」なんか付さないんじゃないか?
あんたな〜 倭国だから「倭」が付くんだよ。 倭国(阿波)じゃない所は付けるに付けられないの!! これ、常識。 @阿波 >>120
だいぶん少なくなってきたとは言え、その簡単な話に耳をふさぐ、トンデモ妄想説信者がまだまだここには居るんだよね。 @阿波 >>366
>周尺(約20cmとして)で八尺の棒(160cm)を使ったら
1里は60mと出なくては計算が合わない
1歩=1尺だから1里=300尺になるだろ
60割る300で0、20で1尺は20cm<
周髀算経の一寸千里では、
南北千里地点での、夏至正午の「棒とその影長が作る角度差」が必要なのであり、
何尺棒を使おうと角度は同じであり、
だから、淮南子のように10尺棒を使っても結果は同じであり、
「棒とその影長の寸法」は、直接関係がないから、×。
「1歩=1尺」でもなく「1歩≒1尺」。
>もし八歩(200cm)の棒を使うなら 1里が75mだと割る300の0.25
25cm=1歩でそっちの言う通りの計算になるが
しかし八尺の棒を使って影長を測ったと書いてあるので 1里は60mにならなくてはいけない
しかし谷本計算では1里75mと言っている 25cmは20cmじゃないので計算は破綻<
谷本計算も「南北千里地点での、夏至正午の棒とその影長が作る角度差」から計算された。 >>373
>測ったものじゃなくて机上で割り当てたものだから 短里とは言えないよ
架空里とでも呼ぶのがふさわしい<
「机上で割り当てた架空里」であれば、同僚や後続の使節らに拠ってバレて、
確実に首が飛ぶから、×だし、
韓の方四千里や天柱山などの、
倭人伝以外の「短里」記載の存在が説明出来ない事でも、×。 >>386
>漢書食貨志を教えてやっただろ?
六尺為步。步百為畝。畝百為夫。夫三為屋。屋三為井。井方一里。是為九夫。
六尺を歩と為す。步百を畝と為す。畝百を夫と為す。夫三を屋と為す。
屋三を井と為す。井は方一里。これ九夫を為す。
最初の六尺=歩はいいな? <
漢書食貨志では、始めから長里だから、西晋代の短里時代の文書の証拠にならない。
>次に「畝」の長さが百歩と規定される
次に畝を百本並べたもの(百歩の正方形)が「夫」
夫を3つ並べたもの(三百歩×百歩)が「屋」
屋を3つ並べる(三百歩×三百歩)と「井」 井が一里四方で、九夫になる
つまり百歩の正方形「夫」を縦3つ横3つ、井の字に並べたものが一里四方だから
一里=三百歩となる
夫が100畝で、九夫が1里四方だから 「一里四方が900畝」であってるよ
これはその後もずっと踏襲されてる<
短里時代であった西晋代にであった、踏襲された、という保証がない。 >>393
学者気取りだったけど、
「南→東」などの嘘吐き騙しの詐欺屋だった事がバレたからな、
大和説学者ら。 >>394
>この時代の役人は科挙エリートとは違うからな
本だってどのくらい普及してたのか <
魏使や記録官に選ばれる位なら、
周髀算経も読んでいなくっちゃ勤まらないし、選ばれないよ。 >>395
>勉強してもしなくても測量には短里は無い<
周髀算経は、短里だ。 >>396
>個人ブログが根拠っていうの、いいかげん止めたら? 例えば、
夫餘、在長城之北。去玄菟千里、南與高句麗、東與挹婁、西與鮮卑接、北有弱水。
方可二千里、戶八萬。
これは秦漢里で問題ない
「全部短里だ」と、いくら文字列を並べても、それが現実になったりはしないんだ<
例えば、高句麗は「方二千里」と書かれているが、それが秦漢里の長里であれば、
鴨緑江河口沖の黄海から豆満江河口沖の日本海までの大きさになってしまって、
楽浪や遼東や沃祖やyup婁までを覆ってしまうような国になってしまい、大矛盾。
それは、扶余でも同じ。
韓の「方四千里」も、
秦漢里の長里なら中国本土全域位の巨大な国になってしまって、大矛盾。 >>399
>>里程と日程の二重の表記ですよ。<
>その二重の表記の実例を魏志倭人伝以外で一つでも出したためしがないんだが?
結論ありきの、自説に合わせるためだけの無理読みの代表だよ <
いや、魏志倭人伝そのものの記載が根拠だ。
陳寿は、自分の「女王國の位置説明」に、
「計其道里、當在會稽東治之東」という別判断を書いているから、
魏志倭人伝の女王之所都への里数記載と日数記載は、いずれも、
「魏使らの記録」が元になった、という事になる。 >>402
>投馬国は邪馬壹国より先に書かれていて、戸数道里がきちんと略載されているから
女王国以北の国 根拠はこれ
自女王國以北、其戸數道里可得略載
狗奴国より南ではおかしい <
投馬國には、
不彌國からの「南至・・・水行二十日、官曰彌彌、副曰彌彌那利、可五萬餘戸」
という「其戸數道里」が「可得略載」されているから、
「自女王國以北」という範疇には入らない。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>407
>>「同律度量」なんて無駄で無意味な事を書く必要がないの。<
>度量衡の制定は「皇帝の専権事項」
即位の「受命改制」の詔書だから、皇帝として度量衡の制定を宣言する必要がある
そして、文帝の名において、前代の度量衡と同じものに「決めた」という宣言
皇帝権力の行使を明文化してるんだよ<
中国での歴代新王朝の初代の受命改制においては、
全員が「度量衡」の件について、「変更とか継続」とか指示を出した訳ではなく、
何も言わなければ、前王朝の採用度量衡をそのまま踏襲する事になる、
というだけであったんだから、
文帝も、変更しないのであれば、そんな事を言わなければよいだけであり、
「同律度量」と言った、という事は、「(混乱していたものを)同じにせよ」と、
言った事になる。 >>410
>九州説は反論一つできないから、ここのテンプレがなにより苦手で大嫌いww
というよりも、各項目が九州説が論破されてぐうの音も出なくなった項目の記録だからねw <
2chに引っ越して来た時は、
「古田史学」スレと、「邪馬台国どんとこい」スレに投稿していたが、
すぐに「邪馬台国畿内説」スレにも参加して、
すぐに、テンプレ全部に3回反論をしてあるんだし、
その後も、個別のテンプレ引用があれば、全部反論否定しておいた筈だよ。 >>419
>里は尺の従属単位なんだよ<
別に従属単位であるわけではない。
里歩系と尺寸系は、対象や発生理由が別の単位系であり、混乱していたのであり、
だから、始皇帝のような「1歩=6尺の換算規定」の命令が出現した。
>尺が決まれば、歩と里は自動的に決まる
まあ、歩と里だけではなく、寸も丈も同様に決まるんだけど<
周代には決まらなかったし、魏代でも「≒」程度にしか決まらなかった。 ERROR: We hate Continuous..
連投してるで
問い合わせID:48d608112934ae93
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名前: 日本@名無史さん
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>>431
大和説を信奉している人は異常に知能が低いというお話でございます また転写保存
>>205
学会教育界や文部省や右翼マスコミで優位なのにで、
学会以外の学者や国民には7割が「大和説不支持」である不思議。。。 >>210
>>距離について誤情報で逃げ切る畿内説よりマシ <
>誤情報で逃げ切る畿内説なんて何処にいる?<
ほら、お前の中にいる。 >>213
>>纏向は集落跡が無いのに何故 「都」と言えるのか?<
>また、あたまの変なやつが涌いてるな 纏向は集落なのに<
あれ?、また頭の変な奴が湧いているな。
纏向の例の掘立式建築やその周りには、集落跡はなく、
集落跡が少しあったのは、周囲の端っこの方の僅かであったのに。
「都」なんて、全くあるもんかい。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>993 名前:日本@名無史さん 2018/12/25(火) 16:47:02.50
全ての論者に聞きたいのだが、
方角・距離云々を言う前に、
上陸後、末盧国からの最初の一歩を、なぜ倭人伝に逆らって北東の糸島へいったのか、
そして、倭人伝には親切に書かれているのに、なぜその指図通りに東南の佐賀平野へ向けて踏み出さなかったのか、、、
・・・最初の最初で、あえて倭人伝に逆らった人々の心理を全く理解しかねている。
⇧
末盧国の比定地が問題ですが・・唐津説が多いので唐津とします
倭人伝では
・・「末盧国に至る。四千余戸があり、山と海すれすれに沿って住んでいる。草木が盛んに茂り、行く時、前の人が(草木に隠されて)見えない。」
と記述が有ります。
そして「東南陸行 五百里 到伊都國」と記述されます
前の人が見えないくらいの密林?を行きます。
魏の使者は記述通り東南に向かい、右往左往し各説一致する伊都国についたものと考えます。 >>147
正論だよ
畿内説の学者は事実を無視し大集落と言う
マスコミは鵜呑みにする
しかし良識ある国民はオカシイと思うから畿内説の賛同者が少ない一つの要因 思い込みって怖いよね〜
しかも学者(専門家)だ。
事ある度「畿内説」⇒「九州説」⇒「畿内説」、、、
とコロコロ宗旨替えするワケにもいかない。
そんな事してたら学者として信用されなくなる。
多少の疑念が生じても突っ走るしかない=初志貫徹するしかない。
哀れだな、、、
長いものに巻かれてを多数派である畿内説を唱えてた方が学者人生として無難だろうよ。
たとえ論敗れても死なば諸共だし「赤信号、ミンナで渡れば怖くない」んだってさw >>221
>倭国の朝廷が大和朝廷で、それがそのまま日本国を名乗るようになっただけ<
倭国中心は、唐会要の「正北抵新羅」に拠って、北部中心にあり、
晋の惠帝への遣使の時に日本国を名乗った。
大和は、九州倭国の筑紫城の倭奴國の阿毎使から別れた別種の旧小国であり、
九州倭国の「東征毛人五十五国」の中の一国であり、
九州倭国の地方の市を監督する大倭國の国であったが、
九州倭国が、白村江で唐に大敗し、亡国の運命に晒された時に、
大和が九州倭国を併合吸収継承して、日本国を継承した。 >>225
>オラここは畿内説研究最前線の場だ 九州説は邪魔をするな <
コラ、ここは、原則自由投稿の掲示板だ。
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者は、邪魔をするな。 >>227
>九州説は頭のおかしい奴しかいないのか <
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者には、
頭のおかしい奴しかいないのか?。 >>227
>九州説は頭のおかしい奴しかいないのか <
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者には、
頭のおかしい奴しかいないのか?。 >>225
>オラここは畿内説研究最前線の場だ 九州説は邪魔をするな <
コラ、ここは、原則自由投稿の掲示板だ。
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者は、邪魔をするな。 韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 九州説は人間どこまでクズになれるかっていう試練だよね ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 また転写保存
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410の>>398
>>千里も計測しなければ、どこからも求まらない。<
>そんなことはない 蓋天説を前提にすれば、<
蓋天説は前提ではない。
大地平面の周地付近でので一寸千里の計測から推論された「結果」の天地像。
>冬至でも夏至でも北京でも南京でも、机上の計算で「必ず一寸千里になる」んだよ<
これも逆。
南北千里地点での夏至正午の8尺棒の影長が1尺5寸と1尺7寸と計測された実態が、
「大地は平面だ」という事場合にのみ起こり得た。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 また転写保存>>204
>だから、魏志倭人伝の旅程は比定地探しには使えないってのが
畿内説の立場なんだが? <
根拠の全くない「結論先にありき」の循環論法では
確率の非常に高い史料事実の否定の根拠にはならない。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 韓国人が精一杯計算したが、自信が無いので適当に計算したと言いながら、意見を発表したが、また、計算を間違えているの可能性が高いので、
ここは、学部の討論の掲示板なのだから、 1尺=10寸と1尺=8寸の二つ通りで、真実の里の長さを計算すれば良いのでは、ないのかな。。。
705日本@名無史さん2018/12/27(木) 19:04:36.84
ちなみにオレの計算では
1尺20cmで八尺160cmの棒の影の長さは
周ヒ算経にある1尺5寸じゃなく1尺2寸になったな
955日本@名無史さん2018/12/28(金) 18:45:22.98
一寸が約2.3cmとして
1尺=10寸なら23cm
1尺=8寸なら20cm弱
どちらの尺=寸だったかによって周髀算経に書いてある影の長さを測る八尺の棒の長さが違ってくる
そして周で使われた1尺20cm弱のモノサシが見つかっているので周の1尺は20cm弱
谷本氏は周は1尺=10寸だったとしているので夏至の北緯35度付近で八尺(186cm)の棒の影長が
1尺6寸になるのでそう実測されたとしているけれど 周の八尺は実際には160cm弱なのでそこから違っている事になる
そして160cm弱の棒の影長が1尺6寸になる場所は
北緯35度付近よりも北になり、それに連れて
棒の影の伸びる距離も短くなっていくので
186cmの棒と160cm弱の棒の影長がそれぞれ
1尺6寸→1尺5寸と1寸差になる距離は違ってくる事になる
概算だと186cmの棒だと74km程度で160cm弱だと60kmぐらい
つまり一寸千里の法則に出てくる八尺の棒の1尺が
何センチかによって距離はこうして変わってくる
ちなみに俺の適当な計算だと
北緯35度付近で160cm弱の棒の影長は
1尺6寸じゃなくて1尺3寸ぐらいになった 卑弥呼共立の倭國は、北部九州。
倭國の乱は、玄界灘側の王家と有明海側の王家との騒乱。
有明海側の有利で和平の手打ちしたため、祭祀王は有明海側が擁立した。
しかし王が博多湾沿岸に移り本家の有明海沿岸が手薄になったので、そちらで王を名乗るものが現れた。
その頃、一足早く大和に東征していた玄界灘勢力の一派が纒向に大型建物の祭祀施設を建てていた。
敗者となった玄界灘勢力の本体が大和に落ち延びて合流した。
これが、リアルな2世紀末の歴史。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
土人!
馬鹿どもよ、
邪馬台国の記述は、全部が朝鮮半島だ。
小国がたくさん記述に出て来るのは、朝鮮半島での土人(原始人)の部族名のことだ。
当時の朝鮮半島での領土の境界が地図によって変幻自在してるだろ、
ようするに移動狩猟民の部族だからだ。
世界の歴史地図では、朝鮮半島などはツングース系採集狩猟民の住むところで
文明の範囲外であるので、真っ白の空白地帯となる。
狩猟民は、原生林の中を獲物を求めて部族単位で
移動してたんだ。
で、記述のなかでいろいろと探検していって最後に最南方の邪馬台国に到着だな。
これ、ようするに日本領土だった朝鮮半島南端の任那日本府のあったあたりのことだ。
その、日本大使館か日本総領事館のような砦があった任那では、
原始部族のシャーマンであった卑弥呼が原住民のほうの族長だったということだ。
わかったか、
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417の>>984
>倭地一周で5千里(短里)だとすると
投馬國を南九州にはできない <
「參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里」であり、
「參問」したのは、女王之所都までであり、
だから魏使らは、南九州の投馬國には「參問」していない。 >>185の訂正
417ではなく、146の>>984だった 416の>>987
しかし、大和説が「南→東」などの、
ありとあらゆる嘘を付いて騙して誤魔化しても、
前方後円墳や三角縁神獣鏡という証拠の前でも、
結局は、崩れ去るしかなかいのだった。 416の>>990
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は、
嘘を言うんじゃなく嘘しか言わない ERROR: We hate Continuous...
連投ですよ
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416の>>1000
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説が、
どんどんトンデモになっていく だから大爆笑だと言っているんだよ、
お前たちのしている事というの? >>69
>邪馬台国は岩手県の八幡平 国立公園の中なので発掘はできない<
邪馬台国なんて存在しない嘘つき騙し文言であるし、
「南≠東」などに拠っても、×。 >>70
>魏志韓伝を読みなさいと忠告したでしょう 陳寿は韓にも行っていません <
当たり前。
>ここがキー
●「韓伝」には、韓国の大きさについて、『方可四千里』とある。つまり、韓国の大きさは『一万六千里』だと言うのであるから、
それに比べると、倭国の大きさは、極めて小さい。<
この大和説者?、ちょっと、脳がおかしいじゃないのか?。 >>76
>邪馬台国へは投馬国から水行十日陸行一月と書いてある <
邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙しの文言であり、
「水行十日陸行一月」は、郡〜女王之所都の日数説明。 邪馬台国は、女王に率いられた平和なユートピア国邑ではなかった
鉄器で完全武装した渡来侵入者の奈良ず者集団で、九州の弥生の村々を襲って倭国大乱の勝者となり、
やがては畿内へも迫り、征服・建国したのだ。 北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 改竄、剽窃、捏造、収賄
畿内説に犯罪の種は尽きない また」転写保存
430>>429
>>庄内の時期に交流を持ち始めたのでしょう<
>ぶぶー その前の畿内第X様式土器から、北部九州で畿内様式土器が出てるよ<
第X様式の、筑紫と大和の先後の根拠が、不明。
しかし、庄内が、
筑紫が三雲や祇園山に拠って3世紀前半頃であるが、
大和は、石塚の3世紀末からであるから、
第X様式も、九州が先行した可能性が高い。
>交流は縄文時代からあるんだから、誤魔化しても無駄<
交流なら、饒速日が一番古くなるが、縄文期からであるのか?は、不明。
大和は、饒速日以前は、出雲銅鐸祭祀系と毛人との混合地域であったらしい。 考古学を食い物にしている畿内説
在野の学者は泣いている >>316
在野の研究者ww
それはただの素人の趣味!ww 邪馬台国畿内説を宣伝している在日韓国人が、邪馬台国畿内説を論破されてしまった腹いせに、この公式のスレッドを荒らしているな。。。。 ここは、火星人降臨論の鉄板、纒向説のスレです。
【骨 子】
・火星には宇宙で一番古い前方後円墳があった
・4世紀中葉には、足をそろえたタコを形どった前方後円墳の時代が開始した。
・火星人が纏向に出現した段階で、火星を中心に太陽系規模の政治連合が形成され始めていた。
・火星の陸上には、既にこの政治連合のロケット基地があった。
ゆえに、火星人の降臨があったのは畿内である。
火星人論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
◆0【 要 旨 】
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った火星の教えの指導者が降臨しており、それは各惑星の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つタコであったと考えられる。
その死亡時期は4世紀中葉とみられる。畿内に火星文化が急速に浸透する時期である。
これらを火星の陸上の古墳と対照すると、箸中山古墳の被葬者がタコ型の生物であり、纒向がタコ型火星人の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の太陽系規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、4世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
火星人の惑星間活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が火星社会と二星間のロケット移動を開始した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の火星人の降臨地である。
4世紀前半末に火星人はどこ降臨したであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 また転写保存
434>>241
唯我独尊のタカ派の、
何でも殺人戦争をしても相手を殺してでも勝たなくては気が済まない、
ヤクザ暴力団noyons・・・・大和説は、
マウント取られるのが何よりも我慢できない 434>>247
>吉井信号の塩泥沼地で満鮮豚育てるのに農耕カレンダーはいらん<
類スレ主は、結局人種差別的殺戮戦争狂の皇国史大和説の・・・・人間。 434>>255
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は
なぜ九州説にマウントを取られてしまうのか?
それは類スレ主や大和説者が、キョクウの殺し合い戦争にクルったった、
・・・・アホだからだ 434>>261
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は、
九州説にマウント取られて、根絶の憂き目に会う 434>>277
というか
「南→東」などの嘘吐き騙しの根拠は無いが、
ワシの大和説は正しいんじゃぁ〜
だから文献史学や考古学やの九州は
×なんじゃぁ〜
が大和説だし 434>>291
そうだよ
だから「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は、
文献と考古資料両方に基づく九州説と違って、
デタラメ文献読み替えの・・・・アホ説と揶揄される 434>>315
>神武東征はトヨの後で3世紀末の出来事だし<
トヨなど魏志に書かれていない嘘つき騙し文言だし
>天照は鏡祭祀の時代の人物で銅鐸祭祀の終焉は2世紀末なんで
天照は2世紀末以降の人物となる
神武は天照よりの5世代後の人物なんで
100くらい後ってことで3世紀末の人物ってことになり
崇神と同年代となり神武=崇神となる<
出雲系の銅鐸祭祀と、九州倭国系の鏡祭祀は、併行的時代があったし、
神武即位元年は、二中歴に拠っても紀元前91年頃で、
天照はそれよりも5〜6代以上古いから、×。 ほっといてもキナイコシが保守してくれているじゃんw このスレッドは1000を超えました。
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