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【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬弍
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0001日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 10:48:09.04
九州に決まっとろうが
福岡県山門郡、筑紫、鹿児島県川内、出水、阿久根、宮崎県日向、延岡、高千穂、熊本県八代、球磨郡、人吉、長崎県佐世保、島原、塩田周辺を今すぐ発掘せよ!

邪馬台国畿内説の根拠は
邪馬台=大和=奈良(完)と言う
風潮に論理的に反論するスレです
九州中南部説、九州南部説、魏志倭人伝から邪馬台国の位置を推測する議論等々も大歓迎です!

*荒らしはスルーで
過剰なコピペは厳禁
0003日本@名無史さん
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2018/11/26(月) 10:52:04.48
0003 日本@名無史さん 2018/11/12 21:15:15
張氏の解説を踏まえて進めていきたい。
多くの学者は「到」「至」「従」「始」「又」を考えずに解釈してきたらしい。そのため、「帯方」「対馬」「一大」「末蘆」「伊都」「奴」と、いわゆる「直線読み」をしてきた。さらに「放射読み」をしてきた学者は、「起点」を

間違えて、「邪馬台国」までたどり着けなかった。「直線読み」は、文献を全く理解出来ない、まるで小学生並みの解釈だ。

では、何が正しいのか?問題はまず「伊都国」「奴国」の解釈に出てくる。『東南に陸行すること五百里、伊都国にいたる。』の「起点」は「末蘆国」である。しかし、「伊都国」の前には「到」があるため、そこは「起点」にはなりえない。

つまり、次の「奴国」の「起点」も「末蘆国」である。さらに『東行して不弥国にいたるに百里』と続くが、やはりこれも「末蘆国」が「起点」であり、「伊都国」や「奴国」を「起点」にしてはいけない。

「伊都国」を「起点」にしてしまっている学者が多い。これを正しく訳すと「末蘆国から伊都国までは五百里、末蘆国から奴国までは百里ですよ。」ということになるし、

それ以外の読み方はできないそうだ。まだ途中だが、ここまでくると、今までの学者の解読が
いかにいい加減かが分かってしまう・・・。
距離、方位等を考えると比定地は現在の「潜木」となる。

ここでひとつ矛盾が生じた。実は「奴国」には「至」が使われていることだ。つまり、今までの解釈では「奴国」も「起点」になる

はずだが、張氏は違うとはっきり言っている。
「起点」になるためには、まず「距離」が書かれた後に「地名」が書かれなければいけないが、「奴国」の場合、

「地名」の後に「距離」が来ている。
この場合は「・・・ならば・・・」と仮定として読まなければいけないそうだ。

つまり「末蘆国から伊都国までは五百里、末蘆国から奴国へ“行くならば”百里ですよ。」・・・つまり「奴国」へは行っていない、当然そこを「起点」にしてはいけない

ということだ!・・・続く!
参照:張 明澄著「誤読だらけの邪馬台国〜中国人が記紀と倭人伝を読めば・・・〜」
0004日本@名無史さん
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2018/11/26(月) 10:53:47.61
ここからはよく知られている文面になる。
『南して投馬国にいたるに水行二十日』に関して、ここでは距離が示されていないため、「邪馬台国」の比定の後になる。

さてさて問題の『水行十日、陸行一月』だが・日本では、「まずは水行を十日、その後で陸行を一月」と読んでいるが、張氏は「これも間違い」と指摘している。

もしそのように読むならば、間に「又」のような字が入らなければいけないし、水行十日の後、どこに着くのか、

陸行一月はどこから始まるのかが書かれていなければならないと言っている。それがなければ、上記のようには読めないそうだ。

従って、正しい読み方は「水行するならば十日、陸行するならば一月」・・・「ならば」が正解だそうだ。当時の船は命がけなほど危険な乗り物だったため、

「末蘆国(佐世保)」についた後、好きな方を選べるように両方記載したと思われる。

現代でも、「電車なら〇〇駅から〇分、車なら〇〇インターから〇分」と記載するようなものだろう。この場合の「起点」は文献上、「末蘆国」以外に無いのは

上記の説明の通りだが、さらに追加すると、「水行」したり「陸行」したりできる地域でなければ「末蘆国」に

なり得ないのだから、「直線読み」や「畿内説」で当てはまるかどうか、考えてもらいたい。ここまでで、素直に理解された方は、この本の信憑性を理解してもらえると思う。

張氏は、1・語学的に絶対に無理が無いこと。

2・原文を絶対に修正しないこと。

3・国々の位置が陸上にあること。・・・という前提を絶対に守らなければいけないと言っている。これを見ただけで、幼い時から感じていた矛盾を払拭された感じがする。・・・続く!

参照 張 明澄著「誤読だらけの邪馬台国〜中国人が記紀と倭人伝を読めば・・・〜」
0005日本@名無史さん
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2018/11/26(月) 10:55:08.38
『南して邪馬台国にいたり、女王の都するところ、水行すれば十日、陸行すれば一月』・・・
ここで問題になるのは、肝心な「邪馬台国」までの距離が記されていないことだろう。

しかし「魏志倭人伝」には『都より女王国までは、万二千余里』・・・つまり1万2千里なのだから、引き算すれば残りの距離が出てくる。

翻訳と計算が正しくできていれば・・・の話だが・・・!「帯方」から「其北岸」は約七千里、「其北岸」から「対馬国」が約一千里、「対馬国」から「一大国」が約一千里、「一大国」から「末蘆国」が約一千里・・・

残りは二千里ということになる。つまり、水行十日=二千里になる。「魏志倭人伝」を忠実に読むならば、「邪馬台国」は「末蘆国」から「南」に水行、或いは「陸行」できて、約二千里・・・一千里の約二倍の距離にあって、

『七万余戸』、つまり七万人ほどが生活できる場所で無ければならない。

これだけでも比定地は限られてくるが、「魏志倭人伝」はここで終わっている訳ではない。当然、この後の文献内容ともつじつまが合わなければ正しいとは言えない。

そのすべてを考えると、張氏は「邪馬台国は現在の出水平野あたりになる。」と解釈している。さらに「条件を当てはめると、現在の水俣市と阿久根市が考えられるが、水俣市では地形的に七万人が住むのは難しい。従って阿久根市が邪馬台国にふさわしい条件だ。」

と言っている。「えーーー」っと言われる人も多いだろう。「畿内説」は問題外で、「北九州説」も完全に否定されてしまったからだ。

しかし、まだ比定されていない「投馬国」にもたどり着ける地域でなければ「魏志倭人伝」と矛盾してしまうため、他の地域では有り得ないということだ。・・・続く!

参照:張 明澄著「誤読だらけの邪馬台国〜中国人が記紀と倭人伝を読めば・・・〜」
0006日本@名無史さん
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2018/11/26(月) 10:56:20.77
「『魏志』には”一大石””一大蛇””一大統”という言葉が出てくるので、”一大率”もこれらの”一大...”の中の一つだと思われがちであるが、じつはそうではない。
三字をさらに区切るなら、
”一大石”は”一 大石”
”一大蛇””は一 大蛇”
”一大統”は”一 大統”
というような、”一”は”一つの”という意味になる。
したがって、ちょうど英語のaやanのような冠詞になる。そして”大”を加えると、まさに、a bigと同じ意味になって、石、蛇、伝統いうのにちょうどいいようになる。
しかし、”率”にa bigというのはおかしいし、例え”大”をbigといわずにgreat、largeといい変えてもおかしい。
日本で”率”を”軍団”と誰かがでっち上げたから、”一大率”を”一つの大率”と取っても違和感がなくなったが、もともと”率”は”軍団”ではなく、”師”であり、分かりやすくいえば”司令官”という意味である。」
誤読だらけの邪馬台国
0007日本@名無史さん
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2018/11/26(月) 11:01:22.10
「諸国を検察するのにたった一人の司令官を置くのは、どう考えても辻つまが合わない。”率”は”司令官”であるから”小率”は絶対になく”大”とわざわざ書かなくても当然”大”である。
したがって”一大”が固有名詞でない限り、ここには”一”の”大”も出てくるはずがなく、したがって一大というのは、固有名詞であり、一大率は一大国の司令官である。つまり、一大国の司令官を使って諸国を統治していたのである。」
誤読だらけの邪馬台国
0008日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 11:03:36.43
「女王国以南の投馬国は、天領の邪馬台国と全く同じで、邪馬台国からの司令官が統治していたと思われる。一大国の司令官が統治したのは、狗邪韓国、対馬国、一大国、末盧国が主だと思われる。
そして、司令官による統治は、つまり、軍政だということである。だから諸国は恐れたり、畏怖したりしたのである。
しかし、司令官による統治は、軍政だということであるから、小国に対してはできたが、伊都国のように“世有王”という半独立国にはできない。
したがって、いつも伊都国に対する統治の仕方は、国の中に刺史に似たような長官を置いたのである。つまり、一大国の司令官で統治するような軍政を行わずに、刺史のような長官で、伊都国王に一目おきながら伊都国を統治したのである。」
誤読だらけの邪馬台国
0009日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 11:06:33.00
北薩の遺跡
「出水地方の弥生時代遺跡は,出水市六月田や高尾野町柴引・下高尾野町一帯に濃密に分布しているが調査が行われたことがない」
http://www.jomon-no-...ikodai_hokusatu.html
0010日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 11:22:26.52
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
0011日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 11:42:08.78
>>1
Good job 乙
0013日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 14:55:00.24
>>11
猿芝居して虚しくならないのか?
0014日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 16:52:51.36
思考が論理的でないな。
0016日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 17:40:40.76
>>13
オレは、猿でもないし、>>1 でもないぞ。
九州説の正しさを知らしめるために頑張ってるから、スレのあるじに敬意を表したのだ。
うらやましいのか、・・・>>11
0017日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 17:45:20.62
>>16
このスレ立ては九州説のフリして朝鮮起源説をブチ上げてようと手ぐすね引いてる統合失調症の在日コリアン
0018日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 17:48:49.59
>>17
よしよし、良くわかった。
スレタイどおり、正しい九州説を展開していくからな。応援してくれよ。
0019日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 18:03:57.83
>>18
チョンコロに負けずに頑張ってくだしゃい
0020日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 18:04:00.85
>>17
お前は日本人のフリをした馬韓ウンコだろうがwww
0021日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 18:07:27.26
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
0023日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 18:53:42.64
>>22
ウリナラ馬韓ウンコ
トンスル飲んではよ、しねwww
0024日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 19:01:12.58
>>23
そんな悔しがるな
自分の生まれを呪って今日中に排水溝に顔突っ込んで窒息死すれば良い
来世は人糞や朝鮮系じゃないことを祈っといてやるよ
0025日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 19:10:47.84
>>23
曰く、氏より育ち
韓は知らぬが、倭ではこのように云い習わすのだ。
0026日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 19:21:18.58
>>25
日本生まれで日本語しか話せない在日コリアンの性悪さを見れば、育ちより遺伝のほうが優位に働くのが穢族やエベンキの血脈だって分かるやん
0027日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 19:51:57.65
>>26
そうではないな。
日本では、努力をせよとの日本教が徹底しているのだ。
彌生以降、多くの渡来人がやってきたのだが、まずは、努力すべし、
の伝統を持つ社会であることを知ることが大事だ。。いわば「古代の新大陸アメリカ」のような社会なのだ。
0029日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 20:27:49.45
>>23
>>24


正体がバレて悔しさが滲み出てるウンコの図www
0030日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 20:29:11.27
>>29
そんな悔しがるな
自分の生まれを呪って今日中に排水溝に顔突っ込んで窒息死すれば良い
来世は人糞や朝鮮系じゃないことを祈っといてやるよ
0031日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 20:34:58.76
悪口でコピペとは...
どんだけ低能なんだコイツ
0032日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 20:41:17.14
>>31
そういうの良いからさっさと排水溝に顔突っ込んで窒息死しろって(笑)
0033日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 20:44:52.08
>>31
糞が発酵したんだろ
婆直伝のトンスル生産しなきゃいかん奴だからwww
0035日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 20:48:27.23
>>33
関わりすぎるとお前まで発酵するぞ
0036日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 20:50:44.82
>>34


大多数から嫌われてるのに
現実逃避するウンコの図www
0037日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 20:57:04.58
いやチョンコロの一人芝居って皆んな知ってるからw
一人芝居じゃなかった「一匹芝居」だわwwwwwwwwww
0038日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 20:58:39.01
あ〜あ発酵しちゃったよ
0039日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 21:00:45.79
>>37

少し考えた割にすべってる
ウンコの図www
0040日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 21:01:03.20
>>38
お前のトンスルの話か?
飲み頃なんだろ?
ホルホルしながら家族ですすれよ(笑)
0042日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 21:03:32.87
>>40
>お前のトンスルの話か?
飲み頃なんだろ?

お前自身の話だろwww
0043日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 21:04:54.61
>>42
いやトンスルはお前の国の伝統文化だから
日本で話さないでほしい
0044日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 21:05:45.76
>>41

少し考えて
別人を装うが
ウンコ臭が隠しきれない

ウンコwww
0047日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 21:24:44.66
>>45
>>46

つ、ついにファビョたウンコの図wwwwwwwwwwwwwwwwww
0048日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 21:28:56.62
>>47
汚族のくせにファビョるなんて難しい言葉知ってるんだね
偉いぞ〜
0050日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 21:36:32.29
>>49
お前の正体は穢族DNAを持つ統合失調症の在日朝鮮人

のウンコwww
0051日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 21:40:08.87
>>50
穢族ってちゃんと変換できたんだね〜偉いね〜
0052日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 21:47:40.31
ワイ族の沈黙ウケるw
顔真っ赤っ赤にして悶絶してんだろうな
得意の奇声とか上げてご近所に迷惑かけるなよ
0054日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 17:40:20.56
>>52
>得意の奇声とか上げて

だな、こんな感じに?www

>>49
0055日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 17:56:14.67
>>54
しつこいね
そんなに穢族認定されたのが辛かったのか
0056日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 18:24:48.85
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0057日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 18:52:22.05
>>55
お前がレス返すからだろ貸す
0059日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 19:03:09.58
>>58

叱られて真っ赤になったウンコの図www
0060日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 19:05:01.11
>>58
そう自分の先祖悪く言うなよムシケラ
0061日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 19:07:30.87
どっちもワイ族かよ
0062日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 19:32:00.53
程度が低いな...
酷いな
0063日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 19:34:38.40
>>62
ワイ族しかいないスレだからな
0064日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 01:25:45.70
ワイ族のワイは穢じゃない
ノギヘンではなくサンズイ

元々はツングース辺りから南下したエヴェンキ族が黒竜江省あたりに定住し遊牧生活を送っていたのが?族と貊族
しかし高句麗などの侵攻で吉林省や遼寧省あたりまで追いやられ扶余と合流
平原での遊牧の文化しか持たなかったのに、わずか数十年で山林だらけの地域に追いやられた結果
やむなく糞を食わざるを得ないほどの飢餓に悩まされた
もともと遊牧民として家畜の糞を乾燥させて燃料にしたり、建築資材として珍重してきた文化があったため
糞に対する抵抗感が低かったのも幸いして絶滅を免れた
そういう狂しい時代を乗り越えて高句麗に取り込まれ、新羅統一に紛れて朝鮮半島北部に拡大していき、後の高麗や李氏朝鮮に繋がっていった
0065日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 01:40:35.13
>>64
クソ食っても人肉には手を付けなかったんだからジャップよりマシ
0067日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 09:41:06.64
新井白石の邪馬台国論
>白石は、倭人伝に登場する国々の地名比定を行って、邪馬台国(大和国)への道筋を始めて明らかにした。
>しかし行程の里数や所要日数には触れず、もっぱら音韻の類似によって地名を比定している。

>そして、日本書紀の卑弥呼神功皇后説をひとまず肯定して、大和説を論じたものの、
>倭人伝の記事が、神功皇后の記事や日本の地理と必ずしも一致しないことに気付き、やがて沈黙し、九州説の可能性に触れた経過もある。
>その沈黙と混迷は、その後に始まる邪馬台国論争を予感させた。
0068日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 09:44:28.75
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
0069日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 09:46:38.64
 新井白石の地名比定
対馬(たいま・たま)国→→ 対馬(つしま)国(長崎県対馬)
一支(いちし・いちき)国→→ 壱岐(いき)国(長崎県壱岐)
末盧(まつろ・まつら)国→→ 肥前国松浦郡(佐賀県唐津市)

伊都(いと・いた・うた)国→→ 筑前国怡土(いと)郡(福岡県糸島地方)
奴(ぬ・な)国→→ 筑前国那珂郡(福岡市中央区)
不弥(ふみ・ほむ)国→→ 筑前国粕屋郡宇美(うみ)(福岡県粕屋郡宇美町)

投馬(とうま・つま)国→→ 備後国鞆(とも)の浦(広島県福山市)、または摂津国須磨の浦(兵庫県神戸市)
邪馬台(やまたい・やまと)国→→ 大和国(奈良県)
狗奴(くぬ・こな)国→→ 肥後国球磨郡(熊本県人吉市・球磨郡)
0070日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 11:54:56.94
ここで最大の問題は伊都国である。
伊都国として、ほとんどの論者が疑うことのない筑前国怡土郡付近は・・・、

大化の改新以前は「伊覩縣(いとのあがた)」が置かれていた。
日本書紀によると、その祖の名は、「高麗の意呂山(おろのやま)に天下った天日鉾命の後裔」の五十迹手(いとて)で、
仲哀天皇の筑紫親征の折に帰順し、これにちなんで、この地を伊蘇と呼ぶようになったとされる。

その後、伊蘇が訛って伊覩の縣になったのだが、この「覩」は、都の意味ではない。
「見る・よく見る・よく見分ける・・・」、などの意味だ。
「ホントに三世紀の伊都国だったのか、よく見分けるように・・」との、日本書紀の親心だったのではないか??
0071日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 11:59:36.43
>>70
>ここで最大の問題は伊都国である。

末盧(まつろ・まつら)国もだよ。  @阿波
0073日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 12:09:45.45
>>72
>福津・宗像ではないから安心して出ていって良いよ♪

それでは安心して出ていけないよ♪  @阿波
0074日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 12:35:51.88
それで阿波の漂流民に聞きたいのだが、
壱岐から福津・宗像は、どっちの方角なのかねえ。南か??
0075日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 12:49:03.79
>>74

東南。  @阿波
0076日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 13:00:25.59
そうか、壱岐から福津は東南か。
良し、勉強してみよう。
0077日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 13:10:59.98
>>76
よく勉強するように!  @阿波
0078日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 20:07:27.60
壱岐から東南に数百里行くと、なるほど立派な津が見えてくるじゃないか
砂浜が続いてて、松林もあって、まさに白砂清松の見事な津だ。
これが阿波の云う福津かな、、、
0079学術
垢版 |
2018/11/28(水) 20:09:26.82
日本軍快勝 日本軍敗北の歴史の方がいいんじゃない?進まない歴史時計より。
0080日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 20:09:49.21
>>78
>壱岐から東南に数百里行くと・・・

千里だよ。  @阿波
0081日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 20:22:15.52
およよ、
砂浜のはずれに、ちょっとした入り江みたいのがあるな。
潟かなんかのようだ。船も止められそうだし、、、
0082日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 20:55:29.82
負け惜しみログ
百済の「日本」part3
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1543143373/317

317 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2018/11/28(水) 20:50:47.35
しかも卑弥呼は馬韓卑弥国出身だしな

昔から倭国は馬韓(百済)の属国
0083日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 21:11:03.97
海水浴場に、その向こうには自然公園と、眺めは佳良。
入り江に入ると、結構奥が深いじゃないか。
左右に建物も続いてる。
進んでいくとなんか大きな建物もあるなあ。にぎやか、スピーカー音でかい。爆々音。。。

おい、コリャ、競艇場じゃないかや、福津競艇場!!
0084日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 22:36:42.56
倭地は温暖にして、冬夏生菜を食す。
皆、徒跣。屋室有り。
父母、兄弟は異所に臥息す。
朱丹を以ってその身体に塗る。
中国の紛を用いるが如し。

男子は大小無く、皆、黥面文身す。
古より以来、その使中国に詣(いた)るや、皆、自ら大夫と称す。
夏后少康の子は会稽に封ぜられ、断髪文身して、以って蛟龍の害を避く。
今、倭の水人は沈没して魚、蛤を捕るを好み
文身は、亦、以って大魚、水禽を厭(はら)う。
後、稍に以って飾と為る。諸国の文身は各に異なり
或いは左し、或いは右し、或いは大に、或いは小に。尊卑差有り。
その道里を計るに、まさに会稽東冶(”現中国の浙江省”) の東に在るべし。

女王国より以北は、特に一大率を置き検察し、諸国はこれを畏憚す。
常に伊都国に治す。国中に於ける刺史の如く有り。
王が使を遣わし、京都、帯方郡、諸韓国に詣らす、及び郡が
倭国に使するに、皆、津に臨みて捜露す。
文書、賜遺の物を伝送し女王に詣らすに、差錯するを得ず。

「魏書」第30巻『 魏志倭人伝 』 普平陽侯相 陳寿撰

神々からの日本最古の捏造教科書とされる古事記や日本書紀には記述されてないが
致密かつ高度な中華文明を生み出した古代中華帝国漢人官僚には正確に記述されてた
神々しい伝説の邪馬台国や女王卑弥呼、倭人達の倭国群は日本の何処にあったんだろう?
0085日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 22:38:42.87
倭人は帯方の東南、大海の中にあり、山島に国を作っている。
土地は平野少なく山林が多く、良田はない。海産物を食す。
昔は百余の小国が互いに接す。魏の時に至って、三十の国があり親しく交流す。
戸数は七万あり、男子は大人、子供はみな、顔と体に入れ墨をしている。

倭人たちは自ら太伯(古代中国の周王朝)の子孫だという。
また昔、倭国の使者が中国を訪れた時、倭人は自ら大夫(周朝の貴族)と称す。

いにしへの夏朝(中国大陸初の王朝)の少康(夏朝皇帝)の子は
中国会稽に封じられると、髪を切り、入れ墨をし蛟龍の害を避けたが
今まさに倭人達は沈没して魚を取るのを好み、同様に入れ墨し水魔を払う。

倭国までの道のりを計算すると、まさに会稽東冶(”現中国の浙江省”)の東にあたる。
その男子の衣服は横長の布を結び合わせてつなぐだけで、ほとんど縫いつづることがない。
婦人の衣服は一枚の掛け布団のようで、中央に穴をあけ頭を入れる。
皆おかっぱ頭で、裸足である。
0086日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 22:39:29.54
倭人の地は温暖で、稲やカラムシを植え、養蚕して布を織る。
土地に牛、馬は無し。刀、楯、弓矢があり、鉄をヤジリにしている。

倭国には家屋があり、父母と兄弟は異なる場所で寝る。
食飲にはまな板状の台と高坏を用いる。
正月や四季の区別が無く、ただ秋の収穫の時を数えて年紀としてる。
死に際し棺はあるが槨なく、土を盛って墓を作る。初め喪中は哭泣して肉食を絶つ。
葬儀が終わると、家中の者が水に入り、体を洗い清潔にし穢れを取り除く。(神道の源流)

重大な決断時には、太占を行い骨を焼いて吉凶を占う。
倭人は長生で、百歳とか八、九十歳の者が多い。
婦女は淫らではなく、嫉妬もしない。争いや訴えはない。
軽罪を犯した者は家族ともども身分を奪って奴隷にし、重罪者は一族を滅ぼす。

その倭国の王家は昔は男子を君主として立てていたが
漢末に倭人達は乱れ戦うことなり倭人は共に女子を立てて倭国の女王とす。
其の名は卑弥呼という。
宣帝(魏の宣王、司馬懿仲達。晋の建国後、宣帝と諡された)が公孫氏を平らげると
その女王は遣使して帯方に至り朝見した。その後も貢ぎ、遣使することは絶えなかった。
文帝(司馬昭)が魏の相国になると、また何度か使者を遣わし中国に来朝す。
晋の泰始元年(司馬炎)に遣使し、倭人は通訳を重ねて中国へ朝貢に遣って来た。

「晋書」第97巻  『 四夷伝倭人伝 』 房玄齢撰

神々からの日本最古の捏造教科書とされる古事記や日本書紀には記述されてないが
致密かつ高度な中華文明を生み出した古代中華帝国漢人官僚には正確に記述されてた
神々しい伝説の邪馬台国や女王卑弥呼、倭人達の倭国群は日本の何処にあったんだろう?
0087日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 23:26:08.55
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
0088日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/29(木) 19:44:09.50
新井白石の邪馬台国論
>新井白石は、倭人伝に登場する国々の地名比定を行って、邪馬台国(大和国)への道筋を始めて示した。
>しかし行程の里数や所要日数には触れず、もっぱら音韻の類似によって地名を比定している。
>そして、日本書紀の卑弥呼神功皇后説をひとまず肯定して、大和説を論じた。

>しかし倭人伝の記事が、神功皇后の記事や日本の地理と必ずしも一致しないことに気付き、
>のちに、九州説の可能性にも触れたという経過がある。
>その転変は、その後に始まる邪馬台国論争の混迷を予感させるものであった。
0090日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/29(木) 20:14:28.67
新井白石の地名比定

対馬国(たいま・たま国) →→ 対馬(つしま)国(長崎県対馬)
一支国(いちし・いちき国) →→ 壱岐(いき)国(長崎県壱岐)
末盧国(まつろ・まつら国) →→ 肥前国松浦郡(佐賀県唐津市)

伊都国(いと・いた・うた国) →→ 筑前国怡土(いと)郡(福岡県糸島地方)
奴国(ぬ・な国) →→ 筑前国那珂郡(福岡市中央区)
不弥国(ふみ・ほむ国) →→ 筑前国粕屋郡宇美(うみ)(福岡県粕屋郡宇美町)

投馬国(とうま・つま国) →→ 備後国鞆(とも)の浦(広島県福山市)、または摂津国須磨の浦(兵庫県神戸市)
邪馬台国(やまたい・やまと国) →→ 大和国(奈良県)
0091日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/29(木) 20:52:34.32
真の伊都国:
ほぼすべての論者は、300年前の新井白石の地名比定を100%信用し、
伊都国は、筑前国怡土郡付近で間違いないとして、疑うことがない。
NHKの邪馬台国番組ですらそうである。しかし最大の問題は、この怡土郡「伊都国説」の是非なのである。

日本書紀によると、怡土の地の祖であった五十途手は、仲哀天皇の筑紫親征の折に帰順したので、
この時から、この地を「伊蘇」と呼ぶようになったという。
その後、この伊蘇が訛って「伊覩」になり、大化の改新以前はここに「伊覩縣(いとのあがた)」が置かれていた。

しかし、この伊覩の覩(と)は、都(みやこ)とは関係がなくて、
一般的な「見る・よく見る・よく見分ける・・・」、などの意味である。
ましてや「三世紀の伊都国」に何らかの由縁を有するものか、大いに疑問なのである。
0092日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/29(木) 21:40:03.75
ま、新井白石以来の怡土郡→伊都国説には、
いくらか音が似ているかもね〜〜、以上の根拠はないってことだ。300年間、全く進歩ナシ・・・
0093日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/30(金) 05:41:05.18
こうして爺たちは、誰にも賛同してもらえない説を抱えたまま
伊作のように死んでいくのであった
0094日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/30(金) 07:32:33.22
おっ、早朝からおっかれさん。夜勤明けかい。
ま、伊作は死して、佐賀ルートを残したわけだ。 畿内説破綻で、年明けからはこっちが賑わうぞ〜〜
0095日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/30(金) 07:48:48.79
結論出せないから言いたい放題になってるけど
畿内説が一番説得力ある
0096日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/30(金) 08:03:24.19
畿内説も、大和説も、安物説も、古びた説も、腹ハラ説も、
みーんな新井白石のちょうちん持ちだったってことよ、過去三百年間まるきり進歩ナシ・・・
0098日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/30(金) 11:09:30.57
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
0099日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/30(金) 13:17:14.56
阿久根で決まり
0102日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/30(金) 18:15:48.98
北薩の遺跡
「出水地方の弥生時代遺跡は,出水市六月田や高尾野町柴引・下高尾野町一帯に濃密に分布しているが調査が行われたことがない」
http://www.jomon-no-...ikodai_hokusatu.html
0103日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/30(金) 18:19:06.45
>>100
魏志倭人伝の記述通りに進むと出水市、川内市なるらしい、阿久根もその界隈
0105日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/30(金) 19:57:55.28
>>104
あれ? ジャワ島じゃないのか?
0106日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/30(金) 21:18:40.61
邪馬台国:内藤湖南の比定国
㋐ 対馬国   対馬
㋑ 一支国   壱岐
㋒ 末魯国   肥前国松浦郡
㋓ 伊都国   筑前国怡土郡
㋔ 奴国    筑前国那珂郡博多辺
㋕ 不彌国   宇美        
-----------ここ迄は、新井白石も内藤湖南も同じ説です。

松浦郡の末盧国から「北東方向?」の筑前国怡土郡に伊都国はあった・・、と新井白石は断じた。
その後に登場した、畿内説も、大和説も、安物説も、古びた説も、腹ハラ説も、おまけに内藤湖南も、
みーんな新井白石のちょうちん持ちだったってことよ、過去三百年間まるきり進歩ナシ・・・
0107日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/30(金) 21:44:23.92
松浦・末盧国の港(唐津市中原港遺跡)から、筑前国怡土郡は明らかに北東だ。
倭人伝には、末盧国から東南陸行500里と明記されているので、行くべきは佐賀平野だった。、
何故、方向ちがいの怡土郡へ向かったのか。

時代柄、仲哀神功記を疑わなかった新井白石はともかくとして、
戦後昭和に登場した論者・出版社すべてが(中には復員兵も居たであろうが)、
命ぜられたわけでもないのに、無批判に、前を行く将・兵にゾロゾロくっついていったとは、、、、
0109日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/30(金) 21:55:22.07
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
0111日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/30(金) 22:14:06.57
>>104
んなわけねーだろ
0113日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/30(金) 23:18:11.37
>>111
時代によって変わる
道教も最初は鬼道と言われた
0114日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/01(土) 19:10:24.03
>対海国。無良田食海物自活、乗船南北巿糴。
>一大国。耕田猶不足食、亦南北巿糴。

対馬や壱岐の周囲は、月齢と時刻次第で東西南北に潮の流れが変わる。
こうした条件を生かし、航海術にたけた地元民は、東西南北へ自由自在に航海できたに違いない。

それにもかかわらず、倭人伝では、
「対海国、乗船南北巿糴」「一大国、亦南北巿糴」と、両国ともに南北2方向のみを記載している。
つまり帯方郡の役人にとって、ここは、南北2方向だけが頭にあったことを率直に記載したのであろう。
0115日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/01(土) 19:47:41.68
>>112
お前ウンコだろ?
0116日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/01(土) 19:49:55.32
>>115
鏡見てこいよトンスル
0117日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/01(土) 20:26:52.19
> 一大国、、、。亦南北巿糴。 ←←←これを受けて、次の文章に移っている。
>又渡一海千余里、至末盧国。 ←←←この場合、「又渡一海千余里」に、方角は書かれていない。
>有四千餘戸。濱山海居。草木茂盛、行不見前人。好捕魚鰒、水無深浅皆沈没取之。

しかし帯方郡の役人にとっては、壱岐からは南北(巿糴)限定であるので、末盧国へは南の航路と受け止めるのが順当であろう。
もちろん、格別の方角が示されていないということは、直前(直近)の対海国の例に倣うということでもある。

以上のことから末盧国の港は、南南東約700里の松浦郡の津(唐津)であったとみてよいであろう。
0118日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/01(土) 20:33:41.44
>>117

まだ頑張ってんの?  @阿波
0119日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/01(土) 20:35:32.13
>>118
あっちじゃ地元愛強すぎるマンのせいで万津浦が全否定されてんぞ
助けてやれよ
0120日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/01(土) 20:37:34.28
>>119
興味なし。  @阿波
0121日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/01(土) 20:55:05.78
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 
0122日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/01(土) 20:58:28.66
>>120
同じ福津・宗像=末盧國信者なのに興味なしとな?
0123日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/01(土) 21:09:36.49
>>122
それと、神社云々は関係ないよ。  興味なし。  @阿波
0124日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/01(土) 21:37:39.65
>>116
やはりウンコだったw
0125日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/02(日) 01:04:48.10
>>102
調査しろよ
0126日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/02(日) 01:58:09.47
>>125
それが人が住んでるから住民の反対食らって
なかなか難しいらしい
0129日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/02(日) 13:49:23.28
>>127
直線距離で南西35Km先に川内原発があるが、無関係だろう
0130日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/02(日) 18:16:34.10
一大国(壱岐)から見て末盧国の港(唐津)は、およそ南南東の方角700里にあたる。
しかし、古代の航海は潮に左右されるので、一気に唐津港を目指すことはできなかった。

壱岐−松浦半島間の潮流変化は目まぐるしく、急速な北東流の後に、数時間の停滞期を置いて、今度は西南向きの逆流に変わる。
渡海の好機は、この北東流がおさまりかけのときで、わずかに東へ移動する潮に乗って、いったん糸島半島沖まで至る。
そしてこの地点から、そのまま東へ進めば博多湾・今津湾方面、南方向へ舵を切れば糸島半島沿岸へ至る。、

また南西の方向へ向かう湾内反転流に乗れば、唐津から松浦半島方面へ労せずして至ることができた。
いうまでもないことだが、古代船といえど、潮のまにまに流されたのではない。
糸島沖において意図的に反転流を選択し、唐津湾深奥部の末盧港を目指したのである。
0131日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/02(日) 18:25:29.99
>>130
>一大国(壱岐)から見て末盧国の港(唐津)は、およそ南南東の方角700里にあたる。

近すぎ。  @阿波
「又渡一海千餘里至末盧國」  
0132日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/02(日) 18:39:20.32
俺は伊万里港推し
海流の問題もないし、南下してきた進路を急に東に帰る必要もないし、穴がなくて完璧
0133日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/02(日) 19:09:11.79
>>132
>海流の問題もないし

おお有りだよ。  @阿波 
0134日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/02(日) 19:56:15.06
さて唐津沖に達すると、眼前には見事な砂浜・砂山が広がる。其の砂山には黒松の林有り、
東西4q、幅500m内外、今名付けて虹ノ松原という。
これ自体は江戸期に手入れ・整備されたそうであるが、砂山に松はつきもの。古代においても同様の風景だったのであろう。

その西端に松浦川の河口がある。現河口は、これまた江戸期に開削されたらしいが、古代の河口も其のすぐ西隣りにあったらしい。
河口の内側は内湖(内水面)で、これを約4q遡上したところに、古代の末盧国中原港があった。

中原港遺跡(標高4-5m)と松浦川の間には、昭和45年に開設された唐津ボート(競艇場)が鎮座している。
この競艇場一帯は、遺跡より一段低く、標高2mほどであるので、おそらく古代の船着き場・舩溜りだったのであろう。
(かっての佐賀県は、遺跡よりも日銭稼ぎを優先したのだろうな。。。)

この中原遺跡は好立地にあった。
山裾から延びた微高地の先端に在り、後方の山すそを伝って松浦川沿いにさかのぼれば、多くの村邑に至ることができた。
上流約4qの現JR山本駅付近からは二手に分かれ、南西行300里で伊万里へ至り、東南陸行500里では佐賀川上の伊都国へ到った。、
0135日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/02(日) 20:04:08.60
わかる
鳴門の渦に全て呑み込まれるので
誰も阿波に辿り着けないし脱出も出来ない
0136日本@名無史さん
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2018/12/02(日) 20:10:27.01
>>134
情景は良さげなんだけど、千余里ないから論外なんだよなー
0137日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/02(日) 20:20:38.88
今は、先人伊作の道を訪ねて・・・、といったところかな。 ガハハ、、、
0138日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/02(日) 20:33:29.63
>>136
正直いって、正味700里というのはチト淋しいな。
でも、いったん糸島沖まで大回りし、そこから反転流に乗り換えて、徐々に唐津湾へ近づくので、航路としては千里を超える。
ま、そう考えて納得したい。
0142日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/03(月) 00:51:41.71
BC128 元朔元年秋 東夷薉君南閭等 口二十八萬人降 為蒼海郡
BC1C 夫租薉君 銀印

AD238 今夫餘庫有玉璧・珪?數代之物
      傳世以爲寶 耆老言先代之所賜也
      其印文言「濊王之印」

AD247 詣闕朝貢詔更拜不耐濊王

國出鐵 韓濊倭皆從取之
諸市買皆用鐵 如中國用錢 又以供給二郡 (弁辰)
0143日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/03(月) 03:42:41.47
>>135
そういえばもし邪馬台国が畿内なら鳴門の渦潮なんて一大スペクタクルを記録しないわけないよな
内陸国の魏人にとっては度肝を抜かれる光景だろうに
0144日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/03(月) 06:33:21.19
>>143
魏使は鳴門の渦を見たかもしれないね。 はるか東、渡海千里の倭種の地を手をかざしながら。  @阿波
0147日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/03(月) 12:46:57.63
>>146
海岸近くから阿蘇山なんて見えないから。
0148日本@名無史さん
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2018/12/03(月) 12:50:14.46
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
0151日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/03(月) 18:50:42.16
豊臣秀吉・肥前名護屋城(文禄・慶長の役と秀吉)

>天正20年(1592)、名護屋築城を命じた秀吉は、3月早々に京都を出発。
途中、筑前怡土郡の「深江神社」(糸島市二丈深江)に参詣した。
その際、秀頼誕生の知らせを受けた秀吉は大いに喜び、領主・小早川隆景に深江神社の社殿再建を命じた。

>そして4月25日、海路名護屋城に着陣した。  
その6月、自ら朝鮮半島渡海を目指したが、徳川家康・前田利家らの諫言により延期。
7月には、大政所の病状悪化のため、急きょ名護屋を発ち、大阪城に戻った。  

>しかし同年10月、秀吉は、再び名護屋へ出陣した。
途中博多で神屋宗湛宅の茶会に臨んだのち、今度は陸路名護屋城を目指した。
秀吉が佐賀川上を通過した日はあいにくの大雨で、川上川(佐嘉川)は氾濫し、渡河に困難を極めた。

>藩主の鍋島直茂は、尼寺宿で秀吉の軍をねぎらう一方、
急ぎ船橋を作って、無事、秀吉の大軍を渡した。
ゆえにここを「名護屋橋」(佐賀市大和町川上春日)と呼ぶようになった・・、と「普聞書」に述べている。
0152日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/03(月) 20:33:40.63
新井 白石(あらい はくせき)、1657-1725

>先祖は、上野国新田郡新井村(群馬県太田市)の土豪だったが、豊臣秀吉の北条氏征伐の余波を受けて没落した。
>のちに父・正済は上総久留里藩に仕官し、目付をつとめている。
>一介の旗本でありながら、六代将軍・徳川家宣の御側御用人を務めた。学問は朱子学、歴史学、地理学、言語学、文学と多岐に亘る。

新井白石は、秀吉より100年余りのちの学者だが、思わぬところで、秀吉と因縁があったようだ。
これでは、秀吉の名護屋出陣の際の海路/陸路行程のいきさつなど、知る気にもならなかったであろう。
0153日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/03(月) 21:40:40.38
>>149
阿蘇の何が見えた?
特筆するものがあったかい?
0155日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/04(火) 09:02:38.47
あはは、
朝はよから、モーモーでわろた、おかげで目が覚めたわい、、、
0157日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/04(火) 09:19:56.16
質問*伊都国は糸島なんですか?それとも違うんですか?
0158日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/04(火) 09:41:46.54
他人に聞けば、聞いた人数分の様々な答えが返ってくる。
倭人伝を読んで、自分で解読するに限る。
間違ってても自分の責任だけどな!

> 末盧国、、、東南 陸行五百里、到伊都国。
0159日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/04(火) 09:51:04.01
古来、糸島の深江は、読んで字の如く良好な入り江だったんだな。
玄界灘を行き来する船人にとっては、大事な寄港地で、だから秀吉も敬意を表して深江神社に参詣したんだろな。
0160日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/04(火) 10:04:01.03
>>102

>下高尾野町一帯に濃密に分布し

そこや
0161日本@名無史さん
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2018/12/04(火) 10:41:55.13
北の海岸寄りに出水ツル観察センターで、南の山よりに高尾野小中学校か、、、
自然地形的には台風の風裏になり、古来、生活にはよさそうな場所ではないか
0162日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/04(火) 10:57:51.65
>>158
> 末盧国、、、東南 陸行五百里、到伊都国。


末盧国(四千戸)(福津市辺り万津浦)

↓【東南】陸行500里  福津市→八木山峠越え(草木茂盛行不見前人)

伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方辺り)

※この八木山峠越え(草木茂盛行不見前人)がポイント。  @阿波
0163日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/04(火) 12:04:35.89
出水のツルは、卑弥呼と臺よちゃんの・・・
0164日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/04(火) 13:16:46.65
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0165日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/04(火) 13:17:27.44
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0166日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/04(火) 17:44:30.04
天候に恵まれるなら、玄界灘を船で行くのも快適だったであろう。
しかし、雨風・荒れ模様の季節になると、太閤秀吉といえど、陸行して名護屋城を目指したものらしい。
これが、古くからの知恵・経験に根差した賢明な選択だったのだろう。

もちろん朝鮮出兵組は、大中小の船で参陣したのであろうが
秀吉の守り役や、名護屋城控えの軍勢の多くも、この佐賀川上街道から〜唐津街道を通って駆けつけたことは疑いない。
ちなみに、唐津から名護屋城までは、新たに「太閤道」というのが作られていたのだそうだ。
0167日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/04(火) 18:11:12.35
戦国時代までは、なにかと賑わった大陸への玄関口唐津港も、
徳川の世になり鎖国令が敷かれると、ただのうら寂しい津に戻ってしまった。
もちろん唐津〜佐賀川上街道の歴史的有意義さも、長い眠りについた。

かく静まり返った中では、新井白石も、唐津から佐賀川上に抜ける古街道の重要性に気づくことはなかったのであろう。
しかし、明治になり鎖国令が解かれると、この唐津港、及び唐津〜佐賀川上街道は、
再び半島・大陸への表玄関の一つとして目覚めることになった。
0168日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/04(火) 18:22:51.42
>>167
>戦国時代までは、なにかと賑わった大陸への玄関口唐津港

戦国時代まで唐津が大陸への玄関口なのに、秀吉はなんで名護屋に城を築いたの?  @阿波
0169日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/04(火) 18:33:49.30
唐津も松浦郡でわりとご近所だし、
秀吉の唐入りでは、
唐津どころか佐賀城下まで溢れかえって
いたらしいよ。

遥か離れた佐賀市大和町に名護屋橋があるのがその名残。
0170日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/04(火) 18:34:52.48
ほう、阿波氏のお屋敷には表門しかないのか、、、
我があばら家には、東西南北の正門に加えて、通用門と隠し門の合計六つがある。
0171日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/04(火) 18:37:30.47
>>169
だから、戦国時代まで唐津が大陸への玄関口なのに、秀吉はなんで名護屋に城を築いたの?  @阿波
0172日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/04(火) 18:41:13.19
>>170
すごいお屋敷だね。
で、泣く子も黙る天下人の秀吉は、大陸への表玄関口の唐津に、城を築かなかったの?  @阿波
0173日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/04(火) 18:42:58.78
大和川上の名護屋橋の件は、
以前、2ちゃんねる時代の九州スレにカキコされてたのをおぼえているよ。
それにしても、渡航待ちの軍勢が佐賀城下まであふれかえっていたのか、凄いなあ、、、
0174日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/04(火) 18:44:18.11
>>171
3Dでグーグルマップでも見ればわかるけど
大陸方面の海上を監視するのに
いい場所だからでしょ。

船の出入りには唐津港も使ってますよ。
立花宗茂や小早川隆景の伝記では
唐津港や名護屋へ出入りする話がありますね。
0175日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/04(火) 18:52:11.71
>>174
>大陸方面の海上を監視するのに

何のために監視するの? 朝鮮軍が押し寄せてくる心配の為? そんな必要ある?  @阿波
0176日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/04(火) 18:56:45.04
>>174
>大陸方面の海上を監視するのに

監視する為だったら、あんな立派なお城まで築かなくともw 監視の兵が駐屯する陣屋ぐらいでいいんじゃないの? 
泣く子も黙る天下人の秀吉様は「表玄関口の唐津」でふんぞり返ってればいいのでは?  @阿波
 
0177日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/04(火) 18:59:22.04
>くだんの「名護屋橋」を仮に作った場所は、実態としては渡船場であったが、
>明治17年(1884)9月、その筋の許可を得て尼寺村と平野村協同の賃取橋を架設した。
>その時の標柱が、平野側のは平野の白山妙理権現社に、尼寺側のが尼寺の印鑰社にそれぞれ保存されている。

なるほど「賃取橋」ということは、有料の橋ということだろな。
昔は、あちこちに賃取り橋があって、悪代官どもの小遣いにでもなっていたのだろう。
もしかして一大率も、諸国検察と称して、その手の賃収入(租)を回収してまわっていたのかもしれぬなww
0178日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/04(火) 19:05:06.03
>>176
その頃はまだ唐津城がなかったからね。
むしろ唐津城が名護屋城の廃材を流用して
作られました。
0179日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/04(火) 19:07:42.75
>>174
>船の出入りには唐津港も使ってますよ。
>立花宗茂や小早川隆景の伝記では
>唐津港や名護屋へ出入りする話がありますね。

なるほど、秀吉は名護屋城で高見の見物だったが、
しもじもの軍兵は、呼子・名護屋浦だけでは足りず、唐津港も使っていたわけか、
それにしても二十数万の軍勢と船団は、大変な規模だな・・・。
0180日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/04(火) 19:08:02.42
名護屋橋

豊臣秀吉が征韓のため、この地を通過したのが文禄元年(1592)である。
その日はあいにくの大雨で、川上川は氾濫し渡河に困難を極めた。
鍋島直茂は尼寺宿で秀吉の軍をねぎらい、急いで船橋を作り秀吉の軍を渡した。
以来名護屋橋と称するようになったと「普聞書」に述べている。
0181日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/04(火) 19:08:16.08
唐津は昔は加羅津だそうだし古代でも朝鮮半島への出航地だったのかね
0182日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/04(火) 19:09:38.88
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0183日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/04(火) 19:09:42.00
>>178
>その頃はまだ唐津城がなかったからね。

なんか苦しそうだよ。
無かったんなら、なおさら「「表玄関口の唐津」に立派なお城を築いて、ふんぞり返っていればいいものをw  @阿波
0184日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/04(火) 19:10:07.69
秀吉も佐賀から唐津に向かっているんですね。
糸島ルートじゃないようですね。
0185日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/04(火) 19:21:07.65
>>178
>その頃はまだ唐津城がなかったからね。

唐津は「戦国時代までは、なにかと賑わった大陸への玄関口唐津港」じゃなかったんじゃないの?  @阿波
0186日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/04(火) 19:26:16.94
総軍の大将なら、少しでも高いところから采配を振り、出陣・出航を見送らねばならぬ。軍兵の士気を高めるには不可欠な行動だ。
だから、名護屋浦を見下ろす高見に名護屋城は作られたわけだ。
・・・泡も気が回らぬな、大将には向かない。
0187日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/04(火) 19:35:52.54
唐津港は、比較的浅い内水面で、しかも四方八方から見通しがきく。
その点、名護屋浦は小高い山に囲まれた奥深い入り江で、大軍が秘かに終結しても悟られにくい。
加えて、波風は穏やか、こういう場所はなかなか得難いな。良く選んだものだ。
0188日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/04(火) 19:42:37.81
>>184
俺も近年知ったのだが、秀吉ですら、そういうことだったらしい。
それというのも、佐賀川上の辺りはもちろんのこと、
唐津街道に入っても、さしたる曲がりも山坂もない、なだらかな道だったからのようだ。
0189日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/04(火) 19:57:28.42
>>187
>大軍が秘かに終結しても悟られにくい。

なんか苦しそうだよ。
密かにする必要ってある?
大勢の兵士が佐賀城下まで溢れかえっているというのにw
そんなの、朝鮮の密偵に筒抜けだよ。  @阿波
0190日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/04(火) 19:58:39.12
>>187

唐津は「戦国時代までは、なにかと賑わった大陸への玄関口唐津港」じゃなかったんじゃないの?  @阿波
0191日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/04(火) 20:07:02.66
そうだな、思いのほかの大軍勢になって、
遠く佐賀城下まで渋滞が起きるとは、さすがの秀吉も思い及ばなかったであろうな。
このことを聞いて、実は俺も驚いたし、一方で倭人伝の東南陸行500里のナゾも解けた気がした。。。
0192日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/04(火) 20:11:45.60
>>191
>一方で倭人伝の東南陸行500里のナゾも解けた気がした。。。

そうだな、
唐津は「戦国時代までは、なにかと賑わった大陸への玄関口唐津港」じゃなかったんだな。。。  @阿波
0193日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/04(火) 20:22:45.32
新井白石が、この秀吉陸行の故事を知っていたならば、
おそらく、東南陸行の伊都国は佐賀方面のどこそこと比定したであろう。
そして、未来永劫日本史に残る偉大な歴史学者として名を残すことになったに違いない。惜しかったよな泡。
0194日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/04(火) 20:29:38.18
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0196日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/04(火) 23:54:43.80
邪馬台国はどうでも良いが阿久根に住みてーな
0197日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/05(水) 08:24:43.66
阿久根行き−、オレンジ鉄道999・・、
雰囲気も良さげ、、、
0198日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/05(水) 10:34:42.37
邪馬台国纒向説 part4
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1541980709/
邪馬台国畿内説 避難所
http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/entrance/1539752632/
邪馬台国畿内説 part1
http://mevius.5ch.net/test/read.cgi/sf/1541650797/
邪馬台国畿内説 part440
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1541819761/
考古学者の邪馬台国畿内説離れは集団心理なのか
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/psycho/1542857513/
邪馬台国畿内説 part4001
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1542985752/
邪馬台国畿内説が敗北を宣言したね
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1542631006/
邪馬台国畿内説 箸休め
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1540975350/
邪馬台国纏向説が破綻した理由part3
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1541036706/
邪馬台国畿内説の角度
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/math/1543928789
邪馬台国畿内説 part1
http://mao.5ch.net/test/read.cgi/management/1543927675/l50
邪馬台国畿内説 part1
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/soc/1543922864/l50
邪馬台国畿内説が破綻した理由 part1
http://mao.5ch.net/test/read.cgi/lifework/1543919660/l50
邪馬台国畿内説 part1
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/loser/1543546433/
0199日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/05(水) 12:31:29.59
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
0201日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/05(水) 17:31:44.98
(36分〜)
今、アメリカの遺伝子組み換え農産物は頭打ちです。
それを日本ではさせない…ゴミ捨て場にしようというのが安倍政権です。
https://youと.be/TBUq_e4OZ8A
0202日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/05(水) 18:21:12.47
阿久根の景色はなかなか良い、
しかし、優れた天然自然の風景だけでは、人々は関心を寄せてくれない。
その優れた風景の中で、何事かに挑戦する人間のひたむきさと、その結果生み出されるものごとの秀逸さも同時に求められる。

この優秀秀逸な風景と人間との組み合わせの重要さは、古代から変わっていないようだ。
帯方東南大海の中、温暖・風光明媚な倭地において、卑弥呼を中軸に繰り広げられた女王共立劇は、
それゆえ千数百年を経た今日でも、数多くの人々の心を惹きつけてやまないのであろう。、
0203日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/05(水) 18:30:40.50
>>202
>帯方東南大海の中、温暖・風光明媚な倭地

その倭地とは、まさに倭国(阿波)。  @阿波
0204日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/05(水) 19:02:51.00
戦国の世には、秀吉指揮下の大軍勢も往来してにぎわった唐津ー佐賀の街道ではあったが、
徳川の鎖国令によって、長い眠りにつくことになった。
しかし二百数十年後、明治の文明開化・開国の流れを受けて、再び活気を取り戻す時がやってきた。

周知のとおり、明治5年には、新橋−横浜間に鉄道が開業し、
次いで明治10年には、京都−神戸間も開通した。
更に九州では、明治24年、博多を起点に門司、熊本、佐賀まで三方向の延伸が成った。

こうした動きの中、明治29年に、唐津ー佐賀を結ぶ鉄道建設を目指して唐津鉄道株式会社が敷設免許を取り、
明治30年に一部路線開業、明治34年には唐津から佐賀(多久)までの工事が完了した。
貨車184両、客車15両を擁し、主として沿線で採掘される石炭を唐津港まで運んだ。
0205日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/05(水) 19:54:51.89
            /.: : : : : : : .ヽ   
          R: : : :. : pq: :i}
           |:.i} : : : :_{: :.レ′
          ノr┴-<」: :j|    <ソースを書きなさい!
        /:r仁ニ= ノ:.ノ|!       >>203
          /:/ = /: :/ }!        |〕)  コツン
       {;ハ__,イ: :f  |       /´
       /     }rヘ ├--r─y/
     /     r'‐-| ├-┴〆    _, 、_  '⌒ ☆
      仁二ニ_‐-イ  | |      ∩`Д´)
      | l i  厂  ̄ニニ¬      ノ  ⊂ノ   < ヤダヤダー!!
     ,ゝ、 \ \   __厂`ヽ    (__ ̄) )
     / /\_i⌒ト、_   ノrr- }     し'し′
   └-' ̄. |  |_二二._」」__ノ
0206日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/05(水) 20:40:46.34
この唐津鉄道は、明治35年には九州鉄道と合併し、折からの石炭景気にのって大いに栄えた。
唐津鉄道が、数年で、全線開通にこぎつけられたのは、
唐津ー佐賀間はなだらかな道のりで、峠といっても標高100mほどにすぎず、順調な工事ぶりであったことが大きい。

倭人伝には、「末盧国から、東南陸行500里で伊都国に到る」とあるが、
これこそ唐津から佐賀へ向かった東南行の「唐津街道」であり、
それと着かず離れずで敷設されたのが、この「唐津鉄道」であったのである。
0207日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/05(水) 21:43:00.58
唐津と糸島を結ぶ筑肥線が
建設困難で挫折し長期に渡ったのとは
対照的ですね。
0208日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/05(水) 21:52:47.88
阿波は確かに聞いたことあるが
なんかダサい
0210日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/05(水) 22:13:36.82
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
0211日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/05(水) 22:20:45.23
北九州鉄道(筑肥線の博多ー前原ー東唐津間の開業)

1925年(大正14年)
 4月15日 - 姪浜ー前原間開業。
 6月15日 - 新柳町ー姪浜、及び虹ノ松原ー東唐津間開業(福岡市内ー 唐津市内間が結ばれた)。
1926年(大正15年)
 10月15日 - 博多ー南博多分岐点間が開業(博多駅から東唐津駅までが全通)。

唐津線(唐津ー佐賀多久)が明治34年開業だから、博多ー唐津間の大正14〜15年開業は、約25年遅れ。難工事だったことがわかるね。
0212日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/05(水) 22:33:04.28
>>211
そうだな、
唐津は「戦国時代までは、なにかと賑わった大陸への玄関口唐津港」じゃなかったんだな。。。  @阿波
0213日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/06(木) 14:14:14.91
>>209
ダサさに拍車が掛かるレスだな
0215日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/06(木) 19:00:15.36
邪馬台国九州説論者(Wiki抄)
>論者には、新井白石、白鳥庫吉、田中卓、古田武彦、鳥越憲三郎、若井敏明らがいる。

主たる邪馬台国の比定地(Wiki抄)
>筑紫平野説
 古くから支持が有り、平塚川添遺跡の甘木・朝倉説を始め、久留米説、八女説、吉野ケ里遺跡もこれに含まれる。
>福岡平野説
 奴国があったとされる福岡平野に隣接する形で邪馬台国もあったとする説。
 伊都国や奴国から放射説行程とする説もある。
>佐賀平野説
 松浦郡(まつら)の唐津から、松浦川沿いや現国道323号線などの経路で佐賀平野の邪馬台国に通ずる説。
 広くは吉野ケ里説もこれに含まれる。

昭和61年の吉野ケ里遺跡発掘を契機に、二〜三世紀の倭人伝の国々と佐賀平野との関連が注目されるようになった。
この発掘経過に合わせ、末盧国(松浦・まつら)から東南陸行500里で到るのは、
唐津街道を進んだ先の佐賀平野とする説が広まってきた。Wikiではこの動きが取り上げられている。
0216日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/06(木) 20:13:36.40
肥前国・佐賀県佐嘉郡(和名抄では、佐賀郡は6郷)

•城崎郷: 僭称地佐賀市大和町尼寺の国分地区城崎。
•巨勢郷: 佐賀市巨勢町付近。
•山田郷(也万多・ヤマタ): 佐賀市大和町東山田、及び同町川上の西山田付近。
•小津郷(乎都・ヲツ): 川上神社文書によると、小津郷の一地名に与賀里とある
•深溝郷: 佐賀市兵庫町から高木瀬町付近。
•防所郷: 遺称地なく不明、

以上のうち、
3番目の山田郷は、古くは也万多・ヤマタ郷とも書いたらしい。まさか、元祖ヤマタイ国か?
また4番目の小津郷も、古くは乎都・ヲツ郷であった。古来、都はツ、伊都国はイツ国と読んだとの説もある、
(例:投馬国=都万=ツマ、伊都尾羽張神=イツノオハバリ)。
0217日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/07(金) 10:36:04.13
ヅマは雲仙市の吾妻(あづま)も有り。
前方後円墳のある所。
0218日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/07(金) 12:01:04.14
>>216
川内を忘れてる
川内→センダイ→山台→邪馬台
0219日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/07(金) 12:09:22.12
>>218
センダイ→山台の飛躍っぷりに笑う
0221日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/07(金) 12:33:54.38
古代の佐嘉(肥前国風土記は、佐嘉郡の名の由緒を以下のように記している)
—肥前国風土記・佐嘉郡より一
古代、佐嘉郡には楠(クスノキ)の大木が連々と生い茂り、
朝日の影は杵島郡蒲川山(佐賀平野・ほぼ西端)、夕日の影は養父郡草横山(同・ほぼ東端)にまで届いたという。
此地を巡幸した日本武尊は、楠樹の栄え繁る様を見て、「この国は栄(さか)の国と呼ぶがよかろう」と述べた。
そこから「栄郡(さかのこおり)」と呼ばれるようになり、後に栄が佐嘉に転じたとする。
0222日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/07(金) 13:04:34.42
邪馬台国纒向説 part4
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1541980709/
邪馬台国畿内説 避難所
http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/entrance/1539752632/
邪馬台国畿内説 part1
http://mevius.5ch.net/test/read.cgi/sf/1541650797/
邪馬台国畿内説 part440
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1541819761/
考古学者の邪馬台国畿内説離れは集団心理なのか
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/psycho/1542857513/
邪馬台国畿内説 part4001
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1542985752/
邪馬台国畿内説が敗北を宣言したね
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1542631006/
邪馬台国畿内説 箸休め
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1540975350/
邪馬台国纏向説が破綻した理由part3
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1541036706/
邪馬台国畿内説の角度
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/math/1543928789
邪馬台国畿内説 part1
http://mao.5ch.net/test/read.cgi/management/1543927675/l50
邪馬台国畿内説 part1
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/soc/1543922864/l50
邪馬台国畿内説が破綻した理由 part1
http://mao.5ch.net/test/read.cgi/lifework/1543919660/l50
邪馬台国畿内説 part1
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/loser/1543546433/
0223日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/07(金) 13:26:48.27
>>221
>朝日の影は杵島郡蒲川山(佐賀平野・ほぼ西端)、夕日の影は養父郡草横山(同・ほぼ東端)にまで届いたという。

佐賀平野の西端から東端まで、鎮守の森のクスノキがやたらあちこちにあった・・・、では普通の景色になってしまう。
ここは、西の杵島から東の養父まで続く佐嘉古道の両側にクスノキ並木があり、
それが東西500余里にもわたって延々届いていた・・、ということだったのではないか。
0224日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/07(金) 14:21:35.73
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
0225日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/07(金) 15:44:34.46
日本武尊も讃えた楠樹並木の佐賀古道の西端に当たる杵島郡北側の多久からは、
北西の松浦港(まつら)への古道(唐津古道)が伸びていた。
また、西の伊万里・佐世保、南の鹿島・伊佐早方面へも、分かれ古道があった。

東端の養父郡から、更に東へ進むと鳥栖を経て基惟城下の基山から甘木・朝倉方面へ達する古道があった。
また、南への別れ古道を進み筑後川を渡れば、久留米から八女へも達した。
楠樹並木の佐賀古道は、佐賀平野・筑紫平野の国々を結びつける古代幹線道でもあった。、
0226日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/07(金) 21:45:23.52
松浦港唐津から唐津古道を下り、楠樹並木の佐賀古道に入って少し進んだ山裾の川上大環壕(大願寺廃寺跡)に伊都国はあった。
さらにこの東、佐嘉川を渡って百二十里ほどの処に不彌国があった。吉野ヶ里とその東西に接する郷邑である。
その一つである現在の目達原の名は、たぶん二世紀の面土国の名残であろう。
0227日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/07(金) 22:01:12.10
弥生時代の吉野ケ里(Wiki抄)
>前期の吉野ヶ里には、丘陵のところどころに分散して「ムラ」ができ始める。
>中期には、丘陵地帯を一周する環濠が出現し、集落が発展していくとともに、防御が厳重になっている。
>後期には、環壕がさらに拡大して二重になるとともに、建物が巨大化し、3世紀ごろには集落は最盛期を迎える。
>およそ1,200人、吉野ヶ里を中心とするクニ全体では5,400人くらいの人々が住んでいたと推測される

古墳時代の吉野ケ里
>古墳時代の始まりとともに、濠には大量の土器が捨てられ、埋め尽くされてしまう。集落もほぼ消滅して離散してしまう。
>このようなことは、近畿地方や各地の環濠集落でも同じような経過を辿る。また高地性集落も消滅する。
>戦乱の世が治まり、もう濠や土塁などの防御施設や高地性集落の必要性がなくなったからである。
0228日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/08(土) 08:46:12.83
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 
0229日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/08(土) 10:03:02.52
二世紀の面土国に、
吉野ヶ里遺跡を重ねると、
三世紀の不彌国が見えてくる。
0230日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/08(土) 17:15:24.40
>>220
いや、邪馬台かもしれないよ
0231日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/08(土) 17:17:00.48
>>219
それを飛躍と捉える白痴を哀れむ
0232日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/08(土) 17:59:19.05
>>231

>>220
現実を見れない無能さを憐れむ(笑)
0233日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/08(土) 20:17:30.47
>>232
マウンテンウンコを哀れむ(W)
0234日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/08(土) 20:19:17.15
>>220
千台の由来が山台
0235日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/08(土) 20:24:36.06
>>234
違うぞ無能
0236日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/08(土) 20:47:58.16
—肥前国風土記・佐嘉郡より一
>古代、佐嘉にはクスノキの大木が延々と生い茂り、朝日の影は佐嘉西端の杵島郡蒲川山、夕日の影は、
>東端の養父郡草横山にまで届いたという。此地を巡幸した日本武尊は、楠樹の栄え繁るを見て、「この国は
>栄(さか)の国と呼ぶがよかろう」と述べ、そこから「佐嘉郡(さかのこおり)」と呼ばれるようになったという。

佐嘉平野の西端から東端まで、東西500余里にわたって延々と続く楠樹並木の佐嘉古道があったとは、まことに雄大で素晴らしい。
今、空撮を見ても、川上あたりの古道バイパスには並木を設えてあり、古代ほどではないにせよ、往時を偲ばせる風景となっている。
0237日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/08(土) 20:49:40.08
>>235

ウンコさんよ
字を見れば分かるが「山」と「川」は
表裏一体なんですよ
人偏に山で仙台、山台もセンダイとも読める
ニニギノミコトが皇居を定めるにあたり
千の台を作らせたとも言うから
この地に邪馬台があったとしても不思議でも
なんでも無いっすよ、ウンコさん
0238日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/08(土) 20:54:33.40
>>237
瓊瓊杵尊の千台が川内の由来
山だった根拠はない
マヌケな妄想は百済スレでやっとけ無能
0239日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/08(土) 21:11:50.97
>>238
だからその千台が山台とも言えるんだよウンコ
しねや
0240日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/08(土) 21:18:58.63
>瓊瓊杵尊の千台が川内の由来

wikiに書いてある事の丸写し
なんの発展性も無い
こういうのを無能って言うんだろうな

まぁウンコだから仕方ないかwww
0241日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/08(土) 21:22:58.85
意味が分かると怖い話ふうに。


ここは本土から遠い離島。
私は、この島の地主だ。
ある日、山向いの集落から
こんな電話がかかってきた。
集落と言っても、本当に
ヘンピな場所で、家が数件あるだけだ。
電話も一軒ずつ入ってる訳じゃなく、
広場に共用のが一つ有るだけらしい。

???
「もしもし、ワコクと言う者だ。
あんたん所は島一番の地主なんで、
なんとか出来るんじゃないかと電話した。
どうも、南のウチが不穏なんだ。
……身に危険を感じてる。すまない、
長くはかけられない、また連絡する
           …ガチャッ」

おいおい、せっかちな奴だ。
だいたい、山向いの集落の姓は
皆、『ワコク』じゃないか。
下の名前を教えてくれないと。

翌日、またワコクからの電話だ。

ワコク
「言い忘れてた……ヤマタイだ。
最近、おかみがアルジとなって一家を
惑わしてる……ヤバいな…ガチャッ」
0242日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/08(土) 21:23:44.21
やれやれ、やっと下の名前を
告げてくれたよ。
とりあえず、『ヤマタイ』さんは
南にある家の『ウチ』さんを
危険視してる訳だな。覚えとくよ。

また、翌日。

ヤマタイ
「たびたび、すまん。
南のウチとは以前から不和だったんだが
ドンドン嫌な空気になっていってる。
大きな事件に発展するかも……ガチャッ」

私は、ちょっと心配になってきた。
そこで、ふと『金印』を送ってみたら
どうかと思いついた。あれなら
なにか防犯の役に立つかも知れない。
翌日、またヤマタイさんから
電話があったので、それを提案してみた。

ヤマタイ
「金印だって? ありがたい!
うちの住所を教えるから届けてくれ」

そこで、私は翌日、
小間使いの男に金印を託し、
該当の住所に届けさせた。
0243日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/08(土) 21:24:04.14
小間使いの男
「へっへ、行ってきましたよ。
なぁに心配はナンもいりませんっ!
住所を調べて『ワコク』って表札が
ついてたのも確認してから
郵便受けに入れてきやしたからねっ」

バカッ、あの周辺の姓は
みんなワコクだってのっ!
とぼけた男だ。
まあ、住所も教えた通りだし
ちゃんと、届いてる事だろう。

翌日、また電話があった。

ヤマタイ
「大変なんだっ……!
あ、金印は受け取れた。
しかし南のウチは、もう今にも
攻めいってきそうな感じなんだ!
一度、巡回に来てくれないか?」

まいったなぁ。いくら地主と
言ったって出来る事なんて限界が
有るんだが……。
だいたい、あの山は険しすぎて
忙しい私には簡単には行けない。
私は、うやむやに言葉をにごしつつ、
電話を切ってしまった。

そして、ついにその翌日の電話で…。
0244日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/08(土) 21:25:40.43
ヤマタイ
「うわぁっ!
ヤマタイとウチの奴らが交戦中だっ!
本当に戦争になっちまった!
早くっ!早くっ!助けに来てくれぇ!
一家の中で俺だけは、なんとか
電話の広場まで逃げてこれたが
ヤツら、追い掛け…………ガチャッ」

聞いて、思わずゾッとした。
『ヤマタイと(南の)ウチが戦ってる』って?
だが、私に何が出来る?
所詮、一般人だ。へたに山向こうに
踏み込んで行っても、殺されかねない。

翌日、私は本土に行き、頼み込んで
数人の警官について来てもらった。
これで足りるかはわからないが
ともかく、向こうの集落の様子を
見てこないといけない。
ところがだ、警官と一緒に
島の港に帰って来てみると
小間使いの男があっけらかんと
現れ、ワコクさんから電話を
受け取たむねを告げてきた。
電話口の相手は、ずいぶんと
落ち付いた口調で、こう言ってきたらしい。
0245日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/08(土) 21:26:07.95
ヤマタイ
「こんにちわ。
ワコクのヤマタイと言う者です。
ここ、数日、電話でご迷惑を
おかけして、申し訳ありません。
いえ、問題は全くありません。
ご心配なさらずに……」

応対した小間使いは
先日、金印を届けた男だったので
ことのついでに、こう聞いたとか。

小間使いの男
「例の金印の効果はありましたか?」

ヤマタイ
「………………キンイン?
……ああ、ええ、大変役立ちました。
あんな結構なモノをいただけるなんて
まことにありがとうございましたわ」

小間使いの男
「いえいえ、あげたんじゃなくて
貸したんです。返してもらわないと…」

このやりとりの後に、急にヤマタイさんの
声のトーンが変わったんだとか。
0246日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/08(土) 21:27:55.71
ヤマタイ
「実は、わたくし、この集落の者が
そちらと連絡を取るのは、良くない事と
思っていましたの。今までこちらから
勝手に連絡しときながらブシツケですが
このような連絡は、これを最後に
したいと考えております。北の奴も、
もう勝手に外部に連絡できない様、
一大卒にシッカリ見張らせてあ……
……いえ、こちらの話ですわ。
ごめんあそばせ   ……ガチャッ」

と、電話は切れてしまったそうだ。

気が抜けた……なんの事はない。
ヤマタイさんに、ずっと
からかわれていたのだ。
しかも、どうやら当人は
大変な気分屋と来たもんだ。

その後、警官に平謝りで帰ってもらった。

まあ、いいさ。一応、島民記録には
ここ数日のヤマタイさんとのやりとりに
ついて書いておこう。
なにしろ、ヤマタイさんとは
ここ数日ずっと話っぱなしだったもんな。
(最後の一回分だけは、
直接、声を聞けなかったが)
からかわれていたとは言え、
あの声に多少の愛着も有る。
0247日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/08(土) 21:28:34.62
しかし、結局、『南のウチの脅威』って
なんだったんだよ?(笑)

やれやれ、今となっては笑い話だ。

金印も、ちょろまかされてしまったが
これ以上の連絡も出来ないし
まあ、仕方ないさ。

(しかし、まるで金印そのものを
知らなさそうな対応は何だったんだ?)
0249日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/08(土) 22:50:59.90
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 
0251日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/09(日) 03:39:10.70
>>241-247
意味怖じゃなくて百済無能のウリナラトンスルファンタジーやんけ
0252日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/09(日) 09:29:08.18
>>250
お前はウンコなんだから
下水処理所から出てきてはダメじゃないかよwww
0253日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/09(日) 09:32:10.85
>山だった根拠はない


やっぱウンコさんは
日本語が苦手らしいな
0254日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/09(日) 10:02:41.34
>>252-253
いやもうマジで百済スレに帰ってくれよ
0255日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/09(日) 12:13:10.50
>東行至不彌国、百里。官曰多模、副曰卑奴母離、有千余家。

倭人伝には、不彌国は千余家とあるので、
吉野ヶ里の遺跡調査から導かれた「人口5400人規模のクニ」という数字に、概ね合致する。

この他、注目されるのは「副曰卑奴母離」である。
夷守というと、対馬や壱岐の辺境を守る将兵のイメージを持っていたのだが、不彌国は辺境ではない。

卑奴母離は、狗邪韓国から邪馬台国へ到る道すがらの対海国・一大国・奴国・不彌国に置かれている。
しかし伊都国・投馬国・邪馬台国の三国には置かれていない。どうやらこの三国が、ヤマタイ政権の枢軸をなしていたのではないか。
0257日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/09(日) 12:57:52.27
>南至投馬国、官曰彌彌、副曰彌彌那利、
>南至邪馬壹国、女王之所都、官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、

更に、不彌国の「彌」が、投馬国の官・副名、および邪馬台国の副名にやたら出てくる。
何かの所縁があったことを語っているのであろう。
0258日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/09(日) 15:58:17.68
吉野ヶ里や福岡の山門などは倭国の都市があったかもしれんが邪馬台国ではない

邪馬台国の場所は北薩だ
0259日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/09(日) 16:06:44.44
>>241-247
>ヤマタイ
>「うわぁっ!
>ヤマタイ『の一家』とウチの奴らが交戦中だっ!

見返すと、こう書いといた方が
ミスリードらしさが上がってよかったな。

あと、ちょっと構成上で、早めにワコクさんを
ヤマタイさんって事にしちゃったのは失敗だった。
(あと、戦争の流れはもっとボカすべきだった)
終盤まで、私には相手の名前がわからなくて
あくまで、ワコクさんとしかわからない事にして
最後の伝言で問題なかったと聞き、

ついでにヤマタイさんって名前を知って、
1日目の電話も、金印を届けた先も、
全部、ヤマタイさんだったんだなって
島民資料をまとめた感じにした方が良かった。
0260日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/09(日) 16:07:10.38
要点は、こうな訳だ。
(九州スレに描いてる通り、この例えでは
ワコクさんの集落に、畿内も朝鮮半島も全く関係ない。
あくまで九州内での話で完結してる)

ワコクさんの「南にヤバいウチ」があって
侵攻してきそうだと相談してくる。
(私は、ウチってのを固有名詞だと勘違いしてる。
もちろん、ウチってのはクニとかクナとかの暗喩)

ついに、連絡してきたワコクさんと
南の家が戦争になったらしいと知るが。
金印も渡しといたし、私はまさか、
ずっと会話してきたワコクさんが
南の国にコロッと敗けてしまうとは想定してない。

またワコクのヤマタイさんから連絡が着て、
「色々あったけど、もうおさまった」と連絡がくる。
あと北の国の王が、もう勝手に外国に
連絡できない様に一大卒が
監視してる、とも聞く。
散々、ワコクさんの方から連絡してきたのに
以後、ヤマタイさんは連絡してこなくなる。
(ヤマタイさんは、そもそも交流を望んでなかったのかな?)
0261日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/09(日) 16:10:11.80

「まあ、ともかく今までの情報を総合すると。
『ヤマタイさん家の南にヤバい国があった』らしい。

その南の国と戦争になったけど
ともかく、撃退したか、引き分けたかしたらしい。
ヤマタイさんは北の国を監視下に置いてるらしい。
(当人は代々、昔からと言ってたが……本当かな?)

金印を渡しといたけど……その金印が遠い未来で
なぜか、ヤマタイさんの北にあったとされる地域で
見つかったらしい……ん、なんでだ?

ヤマタイさんは、なぜか、その後に連絡をやめちゃったよ」


……ここまで、書くとさすがにオチがわかると思う。
……で、おそらくこれが真相なんよ。

ようは、今まで9割会話してきた相手と
最後に会話した相手が別人だったのに
最後の相手が全部当人って事にされてしまってる。
0262日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/09(日) 16:39:22.62
>>258
北薩の遺跡
「出水地方の弥生時代遺跡は,出水市六月田や高尾野町柴引・下高尾野町一帯に濃密に分布しているが調査が行われたことがない」
http://www.jomon-no-...ikodai_hokusatu.html
0263日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/09(日) 16:41:36.04
>>258
金印貰ったのは伊都国だろ
0264日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/09(日) 17:12:44.76
邪馬台国纒向説 part4
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1541980709/
邪馬台国畿内説 避難所
http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/entrance/1539752632/
邪馬台国畿内説 part1
http://mevius.5ch.net/test/read.cgi/sf/1541650797/
邪馬台国畿内説 part440
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1541819761/
考古学者の邪馬台国畿内説離れは集団心理なのか
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/psycho/1542857513/
邪馬台国畿内説 part4001
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1542985752/
邪馬台国畿内説が敗北を宣言したね
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1542631006/
邪馬台国畿内説 箸休め
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1540975350/
邪馬台国纏向説が破綻した理由part3
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1541036706/
邪馬台国畿内説の角度
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/math/1543928789
邪馬台国畿内説 part1
http://mao.5ch.net/test/read.cgi/management/1543927675/l50
邪馬台国畿内説 part1
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/soc/1543922864/l50
邪馬台国畿内説が破綻した理由 part1
http://mao.5ch.net/test/read.cgi/lifework/1543919660/l50
邪馬台国畿内説 part1
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/loser/1543546433/
0265日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/09(日) 18:43:50.27
二世紀、交通の要衝の吉野ケ里一帯を本拠地にしていた面土国は、平和の到来に合わせて変貌を遂げ、
三世紀の倭人伝には「不彌国」として登場することとなった。

此の不彌国から南へ至れば投馬国がある。(帯方郡からの所要日数は)水行二十日、戸数五万戸。
また同じく南へ至れば邪馬台国女王之所都がある。(帯方郡からの所要日数は)水行十日と陸行一月、戸数七万戸。

まさに交通の要衝・不彌国から至るにふさわしい巨大国家で、不彌国の約50倍、約70倍の規模であった。
0266日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/09(日) 19:10:54.85
>>263
時代が違う
0268日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/09(日) 20:41:57.63
そこでまず、不彌国・吉野ヶ里の南にあるという、其の約50倍の規模の巨大国家であるが、
それほどの遺跡で、しかもそれらしき伝承を伴う地となると、宮崎県の西都市都万以外にはあるまい。

不彌国からは、南南東に図上直線距離で180qの彼方になる。
仮に陸行すれば、熊本菊池郡から阿蘇カルデラの南路を登り、五ヶ瀬村〜椎葉村を通る山岳路の野宿行で、まず三か月を要する。

ならば、帯方郡から松浦港へやってきた郡船のまま九州西海岸を漕ぎくだり、平戸〜阿久根〜川内沖を経て、西都都万への直行が早い。
帯方郡から松浦港(唐津)まで約一万里を、一日千里で十日。松浦港から西都都万港までこれ又一万里を十日。水行計二十日で到着できる。
0269日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/09(日) 21:12:17.50
>>259
>>260
>>261
ここは学問板。
創作活動は他所でやりなさい。
0270日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/10(月) 01:44:37.37
>>266
100年ちょいで中心都市が変わるか?
0271日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/10(月) 08:38:20.02
>>270

世界中で民族移動があった時代だぞ
中心都市が変わってもなんら不思議ではない
0272日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/10(月) 09:31:56.12
263 名前:日本@名無史さん 2018/12/09(日) 16:41:36.04
>>258
金印貰ったのは伊都国だろ

一世紀の倭奴国
三世紀の倭女王(所都は邪馬台国)
・・・金印もらったのはこの2回だが、このうちどれを言ってるのか判断不可。、
0273日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/10(月) 11:48:08.23
こういう突っ込みをする奴は

「自分は他人より知識があって
賢いんだぞ」

って言いたいのかな?...
前後関係とか流れで分かりそうなもんだが
0275日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/10(月) 18:10:12.65
ガン無視されてますな、ウンコさんwww
0276日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/10(月) 18:54:54.62
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
0277日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/10(月) 19:14:10.63
>不彌国から、
>また同じく南へ至れば邪馬台国女王之所都がある。(帯方郡からの所要日数は)水行十日と陸行一月、戸数七万戸。

不彌国から南至るという邪馬台国・・には、いくつかの課題がある
1.秀吉でさえ、佐嘉川を渡るのに難儀したのであるから、
南の大筑後川と、その南の矢部川をどの地点で渡るかは、重要事項であった。
これは既述の通りで、筑後川は千代田辺りから満潮時を利用して渡河し、矢部川は八女南の岩礁地帯を利用して渡ったのであろう。

2.しかし高貴な人々はともかく、一般の民にはこの2つの川が大きな障害になり、日常的な往来はほとんどなかったと思う。
ということは、この2つの川に挟まれた今の筑後地方には、かなり大きな国があったと考えざるを得ない。
後世、高良台の主や、水沼の君、筑紫の磐井らが活躍した久留米・八女・広川・筑後・三潴・城島等の範囲である。

3.であるならばこのクニは、
倭人伝の「其余旁国遠絕不可得詳、次有・・・21国」のうちのどれかに当たると思われる。
しかし、せっかく陳寿が 遠絕不可得詳 といっているのであるから、ここではそっとしておくこととしたい。
0278日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/10(月) 19:40:25.14
>>277
筑紫に邪馬台国は無い
0279日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/10(月) 20:22:56.36
次の課題は不彌国から邪馬台国までの距離・里数と、邪馬台国の規模・広さである。

4.帯方郡から末盧国(唐津)までは一万里、そこから不彌国まで正味六百里で、合計一万六百余里となる。
正味といったのは、伊都国から東南奴国への百里は、参考数字を示しただけで、実際に行ったわけではないと考えたからである。
依って、自郡至女王国万二千余里からこの一万六百余里を差し引くと、残りは千四百余里になる。、、

5.不彌国吉野ヶ里から南へ千四百余里(約105q)というと、どう考えても熊本平野の南端辺りになるであろう。
またこの一帯に、伊都国や不彌国の約70倍に相当する七万戸の広がりを想定することになれば、
これはもう、熊本平野から阿蘇地方までをも含めた、肥後全体の広大な規模にならざるを得ない・・。、
0280日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/10(月) 20:26:57.41
『南して邪馬台国にいたり、女王の都するところ、水行すれば十日、陸行すれば一月』・・・
ここで問題になるのは、肝心な「邪馬台国」までの距離が記されていないことだろう。

しかし「魏志倭人伝」には『都より女王国までは、万二千余里』・・・つまり1万2千里なのだから、引き算すれば残りの距離が出てくる。

翻訳と計算が正しくできていれば・・・の話だが・・・!「帯方」から「其北岸」は約七千里、「其北岸」から「対馬国」が約一千里、「対馬国」から「一大国」が約一千里、「一大国」から「末蘆国」が約一千里・・・

残りは二千里ということになる。つまり、水行十日=二千里になる。「魏志倭人伝」を忠実に読むならば、「邪馬台国」は「末蘆国」から「南」に水行、或いは「陸行」できて、約二千里・・・一千里の約二倍の距離にあって、

『七万余戸』、つまり七万人ほどが生活できる場所で無ければならない。

これだけでも比定地は限られてくるが、「魏志倭人伝」はここで終わっている訳ではない。当然、この後の文献内容ともつじつまが合わなければ正しいとは言えない。

そのすべてを考えると、張氏は「邪馬台国は現在の出水平野あたりになる。」と解釈している。さらに「条件を当てはめると、現在の水俣市と阿久根市が考えられるが、水俣市では地形的に七万人が住むのは難しい。従って阿久根市が邪馬台国にふさわしい条件だ。」

と言っている。「えーーー」っと言われる人も多いだろう。「畿内説」は問題外で、「北九州説」も完全に否定されてしまったからだ。

しかし、まだ比定されていない「投馬国」にもたどり着ける地域でなければ「魏志倭人伝」と矛盾してしまうため、他の地域では有り得ないということだ。・・・続く!
0281日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/10(月) 20:34:04.49
>>259
ごめん、よく考えたら金印の漢の字を
ガチで忘れてたわw
だから、金印自体は別物だな。
ほんと、コロッと忘れたんで申し訳ないw
言い訳もしない。

……ただね、概要はたぶん合ってる。

最近、そう思いはじめた理由も
他にいろいろ有るんだけど
(辻褄が合うってのは、そっちも含めてなんだ)、
ただ……ここでは、ちょっと言えない。

その点は、適当な言い訳とかで無いし。
釣りとか、騙すつもりで言ってる訳でもない。
0282日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/10(月) 20:50:21.89
>>280
普通に阿久根だよな
0286日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/11(火) 01:21:55.96
ウンコ野郎はマゾなんか
0287日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/11(火) 01:40:53.40
ウンコだけに踏まれたいんだよwww
0288日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/11(火) 02:32:55.73
>>286
>>287
何でそんな簡単におびき出されちゃうかな・・・
黙ってスルーすりゃ向こうだって気づかないだろうよ
あんたらの応酬とか邪魔でしかないから、こっちでは別人格でやってくれ
0289日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/11(火) 09:16:29.97
魏志倭人伝を正しく読めば
阿久根になるんだから、仕方ない
0291日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/11(火) 17:13:24.86
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0292日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/11(火) 18:54:39.32
不彌国・吉野ヶ里の南にあったという、戸数七万戸の邪馬台国であるが・・、

6.その戸数からして、南は熊本平野の南端の山都町・甲佐町まで、西は天草諸島まで、東は阿蘇・高千穂・五ヶ瀬町まで、
そして北は、筑後/肥後境の矢部川までの広がりであったと推定される(すぐ南には筑肥山系もあるが、矢部川との間はごく狭い)。
ただし矢部川の下流から河口部にかけての南岸地帯と、東の筑肥山系との間には、最大幅数qほどの陸地がある。

7.ここが多くの論者によって卑弥呼の邪馬台国に比定された、筑後山門(みやま市瀬高町山門邑)である。
しかし此邑は、江戸時代、柳川藩下にあった山門郡のほんの一部にすぎず、三世紀の戸数はせいぜい400〜500戸であったと思われる。
また、東の山腹に残された「卑弥呼の女山神籠石」は、調査の結果、多数の須恵器が出土し、後世のものと判明した。

8.が、この地は交通の要所で、今東西5qの間に県道・国道・高速道・新幹線・JR在来線・私鉄電車の6本が、ひしめき通行している。
古代においては、南の肥後熊本から、北の筑紫・肥前の国々へ出立する正門の役目を果たしていたのではないか。
筑後山門というより、火の国邪馬門(ひのくにやまと)であったと考えれば、より良く納得できる・・。
0293日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/11(火) 20:17:21.10
佐世保が末盧国で、伊佐早が伊都国だろう
0294日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/11(火) 21:23:56.15
伊都国のつぎの奴国は長崎、
不彌国は雲仙市
そこから南に水行で、出水だちゃ
0295日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/11(火) 23:12:06.98
狗奴国の記述にクコチヒクがあって、現在菊池の地名があって、それと重なる。
なので、狗奴国は熊本だろう。
一方、唐津から邪馬台国に行く行程の最初に伊都、奴、不彌の国名が挙げられている。
それは、唐津から北東の伊都へ行き、奴国から東に転じて不彌へ行くのが実際の邪馬台国へ行く道順だったからだろう。
そうすると、不彌を筑紫野か小郡あたりとすると、邪馬台国は狗奴国の北にあるのだから、熊本の北部と筑紫野、小郡の間の地域といえば、大牟田、みやま、八女あたりがその地域に当たることになる。
この地域は、山門郷とその周辺だ。
つまり、筑後山門が卑弥呼の宮室があったところだろう。
倭人伝のデータから読み取れるのは、ここしかない。
0296日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/11(火) 23:41:57.89
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0297日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/12(水) 00:29:32.06
倭人伝には、狗奴国と邪馬台国の戦争のことが書かれていて、倭国へ送られた使節団が卑弥呼に檄を飛ばしたりして狗奴国の侵攻に交戦する卑弥呼を支援している。
これは、使節団の行ったことが本国に報告され、その報告に基づく記録が残っていたことを意味している。
そうすると、狗奴国と直接干戈を交えることができる地理的位置に邪馬台国がなければならない、ということになる。
また、そのような地理的位置に狗奴国と目される勢力が想定できない場所は、邪馬台国の地理的位置としては設定できないということになる。
邪馬台国が大和であるとする説が排除されるのは、狗奴国が大和の南に設定できないからである。
吉野熊野には、倭人伝が記述するような狗奴国らしき勢力はみられない。
倭人伝の記述からすると、そういうことになる。
0298日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/12(水) 00:59:54.33
>>292
ヤマトに惑わされない方が良いよ
畿内王権は「ヤマト=邪馬台」と強く思わせるように仕向けて来たからこそ「ヤマト」の名が残った可能性がある

地名の発音は時代を経て変わるのが普通
0300日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/12(水) 07:09:10.52
九州には、山門と書く地名が普通にある。
邪馬臺が地名由来だとすれば、九州が最有力。
奈良盆地には、ヤマトという地名が現存しない。
ヤマトは、奈良盆地由来の言葉ではないだろう。
0301日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/12(水) 07:39:37.31
>>300
>九州には、山門と書く地名が普通にある。

倭国(阿波)には、「倭」と書く神社が普通にある。  @阿波
0302日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/12(水) 07:44:11.29
>>301
神社www
0303日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/12(水) 07:53:07.49
>>302
山門www  @阿波
0304日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/12(水) 07:59:51.28
>>300
>九州には、山門と書く地名が普通にある。

お寺の山門? なんというお寺?  @阿波
0305日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/12(水) 08:05:16.97
大分には耶馬渓なんて地名もあるんやで
0306日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/12(水) 09:18:13.67
大和をヤマトと読ませるのは、宛て読みの強制だろう
0308日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/12(水) 09:21:30.12
>>301
その(倭)は、なんと読むんだね。
0309日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/12(水) 09:23:13.97
>>304
>>304
サンモンではないだろう。
サンモンが中国から来るのは、少なくとも天武以降だ。
0310日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/12(水) 09:26:32.26
阿波には、ヤマトの地名があるかね。
0311日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/12(水) 09:33:48.97
邪馬台国畿内説 part1
http://mevius.5ch.net/test/read.cgi/sf/1541650797/
邪馬台国畿内説 part440
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1541819761/
考古学者の邪馬台国畿内説離れは集団心理なのか
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/psycho/1542857513/
邪馬台国畿内説 part4001
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1542985752/
邪馬台国畿内説が敗北を宣言したね
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1542631006/
邪馬台国畿内説 箸休め
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1540975350/
邪馬台国纏向説が破綻した理由part3
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1541036706/
邪馬台国畿内説の角度
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/math/1543928789
邪馬台国畿内説 part1
http://mao.5ch.net/test/read.cgi/management/1543927675/l50
邪馬台国畿内説 part1
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/soc/1543922864/l50
邪馬台国畿内説が破綻した理由 part1
http://mao.5ch.net/test/read.cgi/lifework/1543919660/l50
邪馬台国畿内説 part1
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/loser/1543546433/
邪馬台国纒向説 part4
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1541980709/
邪馬台国畿内説 避難所
http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/entrance/1539752632/
0312日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/12(水) 10:05:07.96
>>300
ここは九州説を前提に
場所を議論するスレ
0313日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/12(水) 10:07:01.22
阿波スレ作れよ
0314日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/12(水) 10:13:12.87
峡谷?
0315日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/12(水) 10:13:44.59
>>305
峡谷?
0316日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/12(水) 10:40:24.69
倭人伝には、女王国(倭国)から東へ千余里海を渡ったところに、また倭種の国々があるとの記述がある。
この千里を当たり前の魏晋1里=434mで換算し、北部九州の行橋市あたりから瀬戸内海を東へ舟で行くと難波に着いて、それから天理市付近に至る。
一方、女王国を大和に置いた場合、千里では伊勢の鳥羽から遠州灘、相模湾、千葉の房総半島を越えて太平洋に着く。
このことからすると、女王国を大和に置くことは無理ということになる。
こうしたことを踏まえたうえで、北部九州の倭国から瀬戸内海を千里進むと大和に着くとわざわざ倭人伝が書いたことが、重大な意味を持ってくる。
途中には、安芸もあれば吉備もある。
倭人伝は、これらの拠点は一顧だにせずに、難波、大和を注目していることになるからだ。
そして、倭人伝がそう書いているということは、魏の公式記録にそれがあったということであり、魏の政権が卑弥呼の倭国に関連してなぜか大和を非常に気にしていたことを示している。
それから10年ほどして、邪馬台国が狗奴国と交戦中に、卑弥呼が謎の死をとげ、博多には大和系の土器が現れる…。
0317日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/12(水) 11:12:42.24
>>316
新井白石の受け売り、安芸たわ
0318日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/12(水) 11:27:20.38
>>317
魏晋1里=434mが肝。
1里76.5mじゃ、周防の光市あたりまでしか行かんからな。
光市じゃ、そこの人民の素性は割れてるから、短里無理。
0319日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/12(水) 11:44:08.73
光市にはどんな種族がおったんか
0320日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/12(水) 11:48:23.41
>>318
対馬壱岐間が「千餘里」と矛盾するが、どうごまかす?
0321日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/12(水) 12:32:34.96
>>318
アホか
狗邪韓国→対馬(千里)対馬→壱岐(千里)
と具体的な数値が出てるのになんで一里434
が出てくるんだよ
0322日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/12(水) 12:43:39.56
距離と地形的には川内、阿久根か延岡、日向かのどちらかに絞られる
延岡、日向には歴史的な伝説が残っていながら
調査もされてそれらしい遺跡が出てこないと言うことは
消去法で
大規模な弥生遺跡があると知られていながらまだ調査されていない川内、阿久根に決まり
0323日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/12(水) 13:22:00.66
必死薩摩のステマン
0324日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/12(水) 14:43:47.38
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
0325日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/12(水) 15:43:19.79
>>323
北部の訳がない
0326日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/12(水) 16:03:45.48
>>319
北部九州とおなじ。
0327日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/12(水) 16:05:53.76
>>320
1里=76.5mだと、1万2000里は大隅半島まで行ってしまうがな。
0328日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/12(水) 16:07:55.28
>>321
1里=76.5mなんて、お遊び。
魏晋1里=434mは、公定単位。
0329日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/12(水) 16:11:25.47
>>327
出発起点はどこー?
0330日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/12(水) 16:24:26.40
>>328
公定単位は、漢族の場合な、
東夷えびすには、えびす用の短小尺里を当てがッとくのが習わし
0331日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/12(水) 16:38:34.74
>>330
本当か?
0332日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/12(水) 16:45:00.87
>>328
答えになってねーぞ
ウンコはうせろwww
0333日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/12(水) 16:52:25.43
>>328
狗邪韓国(巨済島南端)→対馬国(対馬島北端) 千余里(70km)1里=70m
対馬(対馬島南端)→壱岐(壱岐島北端) 千余里(50km)1里=50m
壱岐→末盧国(福津市辺り万津浦)千余里(70km)1里=70m
女王国(鳴門)→東の倭種国(和歌山)千里(50km)1里=50m
帯方郡→女王国(阿波)万二千里(900km)1里=75m

∴1里=70mは、概ね妥当。  @阿波
0334日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/12(水) 17:05:19.19
Googleマップで計っても
釜山対馬、対馬壱岐間は
ほぼ76kぴったりなんだよな
0335日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/12(水) 17:23:13.58
邪馬台国畿内説 part1
http://mevius.5ch.net/test/read.cgi/sf/1541650797/
邪馬台国畿内説 part440
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1541819761/
考古学者の邪馬台国畿内説離れは集団心理なのか
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/psycho/1542857513/
邪馬台国畿内説 part4001
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1542985752/
邪馬台国畿内説が敗北を宣言したね
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1542631006/
邪馬台国畿内説 箸休め
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1540975350/
邪馬台国纏向説が破綻した理由part3
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1541036706/
邪馬台国畿内説の角度
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/math/1543928789
邪馬台国畿内説 part1
http://mao.5ch.net/test/read.cgi/management/1543927675/l50
邪馬台国畿内説 part1
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/soc/1543922864/l50
邪馬台国畿内説が破綻した理由 part1
http://mao.5ch.net/test/read.cgi/lifework/1543919660/l50
邪馬台国畿内説 part1
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/loser/1543546433/
邪馬台国纒向説 part4
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1541980709/
邪馬台国畿内説 避難所
http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/entrance/1539752632/
0336日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/12(水) 17:51:50.13
>>334
>釜山対馬、対馬壱岐間は
>ほぼ76kぴったりなんだよな

対馬の大きさが、南北70キロあるのにww
いくらでも都合のいいように調節可能だよねww
0337日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/12(水) 18:19:30.00
[對海國]を[対馬島]全域であるとするのはたんなる想定にすぎない
0338日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/12(水) 18:53:58.61
天然自然にできた島々が、チョッキリ千里おきに並んでるわきゃない。
陳寿は思い切りよく筆を進めているのだから、
各港間で概ね三千里なら上出来さ。
0339日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/12(水) 19:03:10.27
[對海國]と[一大國]の[行政区画]がそれぞれ
[方可四百餘里]および[方可三百里]と明記されている以上においては
2つの[千餘里]は2つの[行政区画]間の[みちのり]と考えざるを得ないだろう
0340日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/12(水) 19:06:27.28
弥生遺跡密度のさほど高くはない[厳原]が
[對海國]の[行政区画]内に収まると考えるのは早漏
0341日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/12(水) 19:27:33.17
陳寿の筆運びには、流れの如くリズミカルに進む特徴がある。
文中、固有名詞・数字を除き、各句の文字数を見ると、基本は漢詩同様の4文字主体に、2、6を加えた偶数句を連ねて朗々と進行している。

しかし、話題が変わるとき、視点・論点・時代・視野角度等がやや変わるときは、
3文字句・5文字句を挟んで変化を与えている。故に読む者は、退屈もなく、たいへんわかりやすく、記憶しやすい。

倭人在(3)、帶方東南(4)、大海之中(4)、依山㠀為國邑(6)、舊百餘國(4)、漢時有朝見者(6)、今使譯所通(5)、三十國。
0342日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/12(水) 19:29:30.44
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
0344日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/12(水) 19:56:31.47
>>341(つづき)
・南至(2)、邪馬壹國(4)、女王之所都(5)、水行十日(4)、陸行一月(4)

そこでくだんの此の部分であるが、
前後が偶数句の並びであるので、「女王之都」と、それに合わせて4文字で良さそうな気がする。
しかし陳寿は、女王之所都(5) と、五文字句を採用しているので、黙読しながらこの部分にくると、微かな変化・変調を感じる。
「邪馬台国の首都と卑弥呼の都では、ちょっとだけ趣が違っているのですよー」、と囁かれ、心が微妙に揺れるのである。
0346日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/12(水) 20:18:51.10
>>345
ほう、そのように読むのですか? それも一案でしょうねえ。
0347日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/12(水) 20:40:13.79
古都、故都、旧都
0348日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/12(水) 21:05:46.29
>>312
内容、ちゃんと読めんのか。
0349日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/12(水) 21:06:27.90
>>336
お前バカなの?w
0350日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/12(水) 21:09:06.28
>>321
アホは、お前だな。
1里=76.5mなんて、お遊びだ。
0351日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/12(水) 21:11:22.47
>>329
アホなこと聞くな。
倭人伝に書いとる。
よう読め。
0352日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/12(水) 21:12:16.25
>>330
遊んでろ。
0353日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/12(水) 21:13:09.96
>>332
お前が頭悪いだけ。
0354日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/12(水) 21:14:30.65
>>333
お前も“短里”お遊び派か。
遊んでろ。
0355日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/12(水) 21:15:19.00
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
0356日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/12(水) 21:16:12.65
>>350
1万歩譲って
直線距離+南北70を加算しても
一里400はおろか200にも届かんなwww

ウ・ン・コwwwwwwwwwwwwwwww
0357日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/12(水) 21:18:37.15
>対馬の大きさが、南北70キロあるのにww

したり顔で無能ぶり全快のウンコwww
0358日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/12(水) 21:19:33.60
>>334
1万2000里は大隅半島まで行くぞ。
0359日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/12(水) 21:23:59.75
>>354
>お前も“短里”お遊び派か。

そう。 短里も長里も興味なし。 どのみち、倭国(阿波)への説明なんだから、どうでもよい。  @阿波
0360日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/12(水) 21:24:00.62
狗邪韓国→対馬(千里約76k)対馬→壱岐(千里約76k)10km程度の誤差あり

近々トンスルの原料になるらしいウンコさんにはこれが読めないらしいなwww
0361日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/12(水) 21:25:22.14
>>356
“短里”はお遊び。
0362日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/12(水) 21:27:07.77
>>359
まあ、遊んでろ。
0363日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/12(水) 21:28:07.63
>>354
あん?
お前は“ゲリ”トンスル派か。
一生下ってろ。
0364日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/12(水) 21:29:53.76
>>361
>>360

魏志倭人伝にそう書いてあるんだよ
0365日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/12(水) 21:39:40.72
倭人伝では、邪馬台国を盟主とする倭国は北部九州から沖縄あたりまでの巨大島にあると想定しており、
唐津から有明海に出て水行二十日、また水行十日と陸行一月と長大な行程を記しているのは、そのため。
そのような巨大島上に各国があるとみなされていることと、その国の人口が非常に大きな規模に記述されていることとは、無関係ではないだろう。
0366日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/12(水) 21:42:02.92
>>363
遊んでるのがお似合いだ。
0367日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/12(水) 21:42:21.15
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
0368日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/12(水) 21:44:54.25
>>364
76キロと書いてあるんか。
遊んでろ。
0369日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/12(水) 22:24:57.12
倭人伝では、唐津に着いたあと魏などの使節団は常に伊都国に一時逗留すると書いてある。
これは、奴国が後漢の冊封を受けて、後漢の使節などが奴国に行く際にまず伊都国の宿所に落ち着いた慣例があったためだろう。
使節が伊都、奴国、不彌の道順で邪馬台国へ行くのも、その旧来のルートが用いられたからだろう。
唐津から佐賀平野へ出て、そこから筑後山門へ行くのが最短ルートであるにもかかわらず、伊都、奴国、不彌の北回りの道順で邪馬台国へ行ったのは、そうした慣例を重視したからだと考えるのがよいと思われる。
0370日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/12(水) 22:30:17.51
>>369
山門ってどこのお寺の山門?  @阿波
0371日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/12(水) 23:17:07.38
室見川がそそぐ淡海というラグーンの西南部の沿岸にも
山門の地名が現在でも残る
0372日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/12(水) 23:50:42.58
>>371
そう。
九州には、山門の地名が普通にある。
熊本にも鹿児島にも、山門はある。
邪馬台が、地名由来の国名の音写であるのなら、邪馬臺と山門は音が非常に近い。
ただし、3世紀当時、山門はヤマドの発音だったと思う。
0373日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/13(木) 00:44:01.33
>>368
狗邪韓国→対馬→壱岐
およそ76キロだよ
マップ見てみ
0374日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/13(木) 00:50:34.13
>>373
荒らしたいだけの
ウンコさんにレス返しても無駄
0375日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/13(木) 00:53:11.01
>>369
魏志倭人伝に唐津は出てこない
0376日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/13(木) 01:14:21.52
>>375
マツロのマの漢字IMEから出さんならんからな。
面倒だから、唐津にしている。
0377日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/13(木) 01:34:50.44
>>373
倭人伝に76キロと書いてあるんか。
0378日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/13(木) 01:35:48.34
>>376
マツロのロ、の間違いな。
0379日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/13(木) 01:41:39.43
>>377
死ね
0380日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/13(木) 01:43:50.72
>>376
否定地は他にもあるのに勝手に決められても...
0381日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/13(木) 01:48:24.17
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0382日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/13(木) 01:49:04.54
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
0383日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/13(木) 02:51:25.16
>>380
ワイが決めてるの。
オメはオメできめたらいいし。
0384日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/13(木) 04:16:54.45
短里は魏志倭人伝のみではなく、ずっと後の時代の隋書でさえ部分的に使われている
短里の存在を否定するのは複数の史書で使用されている現実を無視した暴論に過ぎない

隋書百済伝に「其南海行三月有耽牟羅國 南北千餘里東西數百里」とあるが、
耽牟羅國は済州島のことなので、この大きさは短里でしかあり得ない
なぜなら隋書では百済の大きさについて「其國東西四百五十里 南北九百餘里 南接新羅 北拒高麗」とあり、
数字のみで比較すると若干だが百済本国より済州島の方が大きくなってしまう

済州島は陸地から肉眼で目視できるのでそんな大幅な見間違えは不可能であり、
百済本国は長里、済州島は短里で書かれているとしか解釈のしようがない
ちなみに隋書では南北や東西とは方の南北辺、東西辺の長さを表すので上記は横長の範囲となる
https://blogs.yahoo.co.jp/furutashigaku_tokai/55410148.html
https://blogs.yahoo.co.jp/furutashigaku_tokai/55416161.html

また、三国史記 新羅本紀でも、鬱陵島の大きさについて短里が使用されている
「于山国在溟州正東海島 或名欝陵島 地方一百里」(『三国史記』巻第四 新羅本紀)
鬱陵島は突出部を除くと10km弱四方ほどの小さな島なので、方一百里は短里となる
http://livedoor.blogimg.jp/wildhorse38/imgs/9/7/9793bc97.jpg

これらの用例から、魏志が韓にも方可四千里と短里を使用していたのはどちらかと言えば例外的で、
短里はふつう離島に対して使うものだと考えられる
倭国が短里表記なのも島国だからだな
0385日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/13(木) 09:48:46.84
釜山対馬壱岐間の距離を目安に
計れば距離は出るから
九州北部は絶対ありえない
0386日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/13(木) 11:38:08.89
>>369
>唐津から佐賀平野へ出て、そこから筑後山門へ行くのが最短ルートであるにもかかわらず、伊都、奴国、不彌の北回りの道順で邪馬台国へ行ったのは・・、

まだまだ、仲哀天皇・神功皇后伝説に未練があるようだね。
0387日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/13(木) 12:24:32.33
>>372
邪馬臺の臺は、中国中古音ではドイ。
上古音はダーとされているが、上古音は未確定のようであるので、中古音のドイを臺の音とするのがいいと思われる。
そうすると、邪馬臺はヤマドイと発音したと想定することができる。
そして、この邪馬臺(ヤマドイ)は北部九州にある国の国名を音写したものと考えられるので、その国名の現地音はヤマトのトのような清音ではなく、濁音のヤマドであったと考えるのが妥当だろう。
そういうわけで、筑後山門の山門は3世紀頃にはヤマドと発音されていたとみなしているもの。
現在、山門の字はヤマト、ヤマド、ヤマカドの読み方があり、山門=ヤマドと読む苗字の人もいるし、また鹿児島県出水郡長島町山門野は実際にヤマドノと読んでいるので、ヤマドは決して有り得ない読み方ではない。
0388日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/13(木) 12:33:14.29
なるほど
そうすると山門の訛りで、山田なんかもありうるわけd。
0389日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/13(木) 12:36:28.66
>「ヤマドイ」と発音したと想定することができる。

ありえん
中国語だぞ、「ジィェミャァ〜ダァィ」
が近い
0390日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/13(木) 12:37:07.13
「山門=寺院の門をいう。寺はかつては一般に山上にあったので,その門を山門という。また寺院そのものをさして山門ということもある」とさ。   @阿波
0392日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/13(木) 13:02:09.08
邪馬台国ジェマーダイ説では、どうも気がかりだ
0393日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/13(木) 13:09:40.87
>>386
仲哀・神功伝説とは…。
0394日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/13(木) 13:15:14.67
>>388
中国上古音では臺をダーと発音するという説があるので、実際、邪馬臺=ヤマダー→ヤマダ説をいう人もいるようだ。
なので、有り得るということになるよね。
0395日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/13(木) 13:18:51.16
邪馬台国がヤマドイでも良いけど
卑弥呼がピミフ問題はどうする?
古代中国の発音ではピミフだぞ

日本人では無いと思うけど
0396日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/13(木) 13:27:23.63
>>392
リピートアフターミー

「ジィェミャァ〜ダァィ」
0397日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/13(木) 13:29:20.38
>>393(Wikiより)
>旧怡土郡付近は大化の改新以前は伊覩縣(いとのあがた)が置かれ、
『日本書紀』によるとその祖の名は五十迹手(いとて)で仲哀天皇の筑紫親征の折に帰順したとされる。
『筑紫国風土記』逸文には五十跡手が「高麗の意呂山(おろのやま)に天より下った天日鉾命の後裔である」と天皇に述べたとある。

(このほか神功皇后記にも、怡土に関連する逸話がある。)
(この怡土郡、伊覩縣の地名を元に、新井白石が比定を行い、これが今日の北部九州旧ルート説に至っている)
0398日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/13(木) 13:29:32.94
>>389
「漢字古音手冊」(郭錫良)2010年刊
上古音 ダー
中古音 ドイ

ジィェミャァ〜は、ヤマの音写でよし。
問題は、臺の読み方。
臺=ドイだと、山門=ヤマドが妥当。
0399日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/13(木) 13:42:10.82
そういえば
江戸時代の肥前肥後には、山門郡とか山門郷とか山田村とかがあるなあ
0400日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/13(木) 13:45:18.63
>>395
ピラフ…。

「学研漢和大字典」(藤堂明保編)

卑 
上古音 ピャグ
中古音 ピァ


上古音 ミャル
中古音 ミャ


上古音 ハグ
中古音 ホ

上古音では、(ピャグミャルハグ)
中古音では、(ピァミャホ)。

まあ、中古音ベースで(ピミフ)は、おかしくない。
0401日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/13(木) 14:02:38.59
・名日卑弥呼 事鬼道能惑衆、、 有男弟佐治國
・自為王以来 少有見者 、、 唯有男子一人 、、傳辭出入居、、、

鬼道の達人で、 唯有男子一人 、傳辭 であったということだから、倭人(日本人)でなかったかも。
0402日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/13(木) 14:05:53.14
>>398
俺も色々ググったり
中国人の発音を聞いたりしたが
答えはまちまち

邪はシィェかもしれないし
イィェかもしれないしジィェかもしれないし
特定不可能だよ
0403日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/13(木) 14:14:59.18
>>397
あるある。
「筑紫の伊覩縣主の祖五十迹手、天皇の行すを聞りて…」
和名抄に筑前国怡土郡があり、志摩郡と合わせて糸島郡というとの解説もみられる。

平原?で硯が出たそうだが、外交使節が常に留まったと倭人伝にあるから、硯が出ても不思議でない。
伊都にこのような施設があったのは、そもそもが使節が奴国へ詣でるための逗留所が設けられたからに違いない。
邪馬台国時代になってからも、魏の使節などは元の盟主の奴国の顔を立てて、挨拶も行ってから、邪馬台国へ向ったのだろうと思うね。
0404日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/13(木) 14:37:35.55
>>403
筑紫の伊覩縣≒筑前国怡土郡に、伊都国があった場合、
怡土郡には、深江という良港があったので、壱岐から、直接、怡土郡伊都国へ向かってよかったはず。
それを、壱岐からいったん松浦に入港し、わざわざ倭人伝の記述に逆らってまで、難儀な山坂道を北東越えしたという解釈は不可解・・。
筑前・怡土郡に向かったのでなく、肥前・佐賀平野のほうへ向かったのだろうね。、
0405日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/13(木) 16:37:19.33
あれって海沿いの地形を説明しただけで
実際には直接伊都に上陸したんじゃないの?
0407日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/13(木) 17:23:44.88
>>405
ほほう、良い見解だ。
まそれは、松浦・末盧国の次文の、東南陸行500里・・、をどのように理解するかによるな。
0408日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/13(木) 17:28:17.81
>>405
なんで、壱岐→末盧国千余里となってんの?  @阿波
0409日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/13(木) 17:30:30.96
伊都国には行っていない
そして末廬国は唐津の松浦じゃなくて
佐世保の松浦だ
0410日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/13(木) 17:32:22.15
>>402
ヤマトはおろか
ヤマタイも遠いなw
0411日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/13(木) 18:54:18.24
>>401
魏誌倭人伝は日本人が勝ってに日本の事だと騒いでるだけだもの
中国の歴史家だって日本とは断定してない
因みに倭人とは魏に従った異国の民の意味
倭国は魏に従った国
邪馬台国はその内の一つ

ただ邪馬台国は魏との間に使者を遣い国交を持ってるから、漢文の読み書きが出来る文字文化が合った

当時の日本は文字文化の形跡が無い

日本に漢文が入るのは7世紀
遣隋使の時代
中国は漢文の読み書き、文字文化の無い国と国交は持たなかった
0412日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/13(木) 19:01:04.42
>>411
流石に倭≠日本は立証難しくないか?
漢委奴国王印は出土してるし、国号を倭から日本に改めたって記録だって大陸側にあるわけだし
0413日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/13(木) 19:05:46.10
>>404
壱岐から九州本土への最短距離は、加唐島、加部島を経て呼子尾ノ下鼻のコース。
ここからは、海岸沿いに末蘆まで進むのが近くて最も安全。
立神岩から対岸の鹿家串崎まで一気に進むのは、途中何が起こるか分からない。
強風で転覆が一番怖い。
立神岩まで安全に海岸沿いを進んだからには、さらに安全第一に海岸に沿って松浦川河口まで行くのが一番。
一旦、陸に上がたらもう、舟主には責任は無くなる。
舟主としては、最後の段階に来て、危険を冒す理由はないのではないか。
0414日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/13(木) 19:11:53.25
>>413
>壱岐から九州本土への最短距離は、加唐島、加部島を経て呼子尾ノ下鼻のコース。

対馬海流に流されて、末盧国=呼子は有り得ない と、何度言えばw  @阿波
0415日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/13(木) 19:13:28.69
それにしても・・・・
あわストーリー?寺沢先生とか、何のスレなの?

音楽?
0416日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/13(木) 19:30:35.61
・南至 邪馬壹國 女王之所都
南、邪馬台国の女王が都する所に至る・・、多くの場合、このように読まれる。しかし、
南 邪馬台国の(中の)女王ノ都が置かれた所に至る・・
という読み方もできるのではないか。
即ちこれは、邪馬台国の首都と女王之都は、やや離れた場所に置かれていた・・、という含みを残す。
0418日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/13(木) 19:51:55.48
>>411
馬韓野郎かウンコ野郎のどちらかだろwww
0420日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/13(木) 20:00:02.69
>>418
ってことはお前自身ってことじゃねーかwwwww
0421日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/13(木) 21:00:56.38
つまり、「邪馬台国」は戸数7万戸のクニであるから、
その7万戸の民百姓を統治するに十分な組織・機構・官衙・官道等が構築されていたのであろう。
またその官衙は、これにふさわしい邪馬台国内の一等地に置かれ、民百姓もそれを誇らしく思っていたに違いない。
其の一等地は、火の国・肥後のどのあたりにあったのであろうか・・。

また、「女王之所都」についてであるが、
其の女王は倭の30国により共立され、鬼道(倭神道の如き)の魔力により、
30国の旧王・官人・軍人・民百姓の心をとらえるべく振る舞った(振る舞わざるを得なかった)わけであるので、
それにふさわしい倭国内の特等地に都を定める必要があったと思われる。
其の特等地は、火の国・肥後のどのあたりにあったのであろうか・・。、
0422日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/13(木) 21:09:56.16
>>420

あっさり自己紹介する
ウンコさんwwwwwwwwwwww
0423日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/13(木) 21:14:44.32
>>421
肥後の南部だろうな
もっともその当時は県境など無いから
肥後の下、北薩辺り
0424日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/13(木) 21:26:55.37
>>412
中国の文献に倭国は沢山有り
中国大陸内の揚子江周辺にも多数有る
つまり中国から見れば倭国である忠誠を誓った国は沢山合った
倭国を日本と改めたと言うのは倭国の一つだったけど日本(昇格?)になった

気に入れ無いかも知れないがあくまで中国の文献で中国中心に中国視点で記述されてる
0425日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/13(木) 21:47:06.86
松浦までで、実距離は中国の里の1/5程度であることがわかっている。
これを前提として5倍誇張説を仮定する。一里あたり87mである。

5倍誇張説の場合の計算結果と推定場所

帯方郡の場所
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b2/Ancient_Korea_Taihougun.png
帯方郡黄海北道鳳山郡説より、帯方郡側の海州を起点とする。

帯方郡から狗邪韓国まで、乍南乍東7000余里 7000里/5=1400里*435m=609km 海州―釜山広域市 700km
狗邪韓国から松浦まで3000里 3000里/5=600里*435m=261km 釜山広域市−唐津 210km
松浦から伊都国南東500里 500里/5=100里*435m=43.5km 唐津―小城 38.3km
東南100里の奴国まで 100里/5=20里*435m=8.7km 小城―佐賀 10.1km
東100里の不弥国までの道 100里/5=20里*435m=8.7km 佐賀―大川 9.5km
南水行20日の投馬国まで 20日/5=4日*30里=120里*435m=52.2km 大川―玉名 47q

水行10日、陸行1月の邪馬台国
水行10日 10日/5=2日*30里=60里*435m=26.1km 玉名―緑川 26q
陸行1月 30日/5=6日*30里=180里*435m=78.3km 緑川―人吉 86q

侏儒國 南4000里 4000里/5=800里*435m=348km 熊本緑川流域―屋久島 315km
裸国、K歯国 水行一年 365日/5=73日*30里=2190里*435m=952.65km
熊本緑川流域-奄美大島 580km
熊本緑川流域-沖縄本島 824km

おまけ
韓地、方4000里 (4000里/5)^2=800里^2=(800*435)^2 =121104km^2
wikipediaより、
韓国  面積 100,210km^2
0427日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/13(木) 22:03:08.76
>>414
古代九州の舟漕ぎ専門超マッチョ海人、知らんのか。
屋久島沖の黒潮本流でさえ乗り切る海人たちなのに、対馬〜壱岐ではなく、壱岐〜呼子なんぞへのカッパだ。
0428日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/13(木) 22:11:17.17
>>404
倭人伝は、外交使節などは常に伊都に逗留すると書いてあるが…。
0429日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/14(金) 07:52:53.64
佐賀伊都国に常所駐…、
0430学術
垢版 |
2018/12/14(金) 08:42:22.08
正史か。演義の方が編集や梱包がいいぞ。三国志演義、日本版リクエスト。
0431日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/14(金) 10:40:58.55
>>413
いずれにしても、海峡渡るのはその地域の海人たちの縄張り。
海流や風、いつどういう現象があるか知っているのは彼ら。
その彼らが長年の経験で得た舟行コースは絶対的なもの。
一時の乗客の都合で、そのコースは変えんだろう。
乗客は、彼らにまかせて従うよりない。
0432日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/14(金) 13:14:35.29
>>427
佐世保で見つかった弥生人の骨から
スーパーマッチョだった事が分かっている
だから末廬は佐世保
0433日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/14(金) 13:15:04.93
>>404
>肥前・佐賀平野のほうへ向った…。
これは、倭人伝が邪馬台国へ行く道筋として書いてあること。
伊都、奴国、不彌の国名を単なる道順を指すだけの表記だととらえると、実際の道順としては現在の多久、江北、嘉瀬河河口ということになる。
この多久などの道順は、当時も今も唐津から有明海に出る主要幹線だろう。
また、唐津から吉野ヶ里や鳥栖方面への幹線でもあったはず。
その主要拠点の多久、江北、嘉瀬河河口に伊都、奴国、不彌の国名を当てたということが考えられる。
それは、実際の邪馬台国に向う道順が、伊都、奴国、不彌だったからだと考えるほかない。
また、不彌が当てられた嘉瀬川河口は、弥生当時は現在の河口よりも2kmほど上流だったそうだ。
江北から東へ行くと、ちょうどその嘉瀬川河口から2km上流あたりに行き当たる。
有明海を舟で熊本や鹿児島へ行くための発着場があったのだろう。
なぜ、かくまで倭人伝の記述が正確なのかというと、このルートは博多から沖縄へ渡海して、貝輪の原材料のゴホウラ貝などを仕入れに行くルートだったからにほかならず、魏の役人はそのルートの詳細な情報を倭人の役人から入手していたことが考えられる。
なんとなれば、魏の役人には、邪馬台国がその沖縄あたりあると強固な固定観念があったから、そこに行く行程が知りたかったということだろう。
聞かれた倭人役人は、博多の商人から詳細に行程の日数などを聞き取ったということになる。
これが、邪馬台国までの行程の真実だ。
小説が書けるぞ。
このアイデアは、ただでやってもいいぞ。
0434日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/14(金) 13:25:03.47
唐津からわざわざ福岡に戻る訳がない
佐世保ならそのまま船で南に下りていけば
熊本南部か鹿児島北部にたどり着く
なんで普通に素直に読めないのかね
0435日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/14(金) 13:25:50.33
>>433
>この多久などの道順は、当時も今も唐津から有明海に出る主要幹線だろう。
>また、唐津から吉野ヶ里や鳥栖方面への幹線でもあったはず。
>その主要拠点の多久、江北、嘉瀬河河口に伊都、奴国、不彌の国名を当てたということが考えられる。

なるほど、有明沿岸の各方面へ通ずる道だったのか
0436日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/14(金) 13:34:26.11
>>432
この超マッチョ海人の骨は、北西九州のあちこちで出てるらしい。
佐世保だけでないようだ。
九州の大学の女性教授は、この超マッチョ海人たちがいる北西九州の者たちが沖縄までのゴホウラ貝を仕入れに行った当事者だっただろうと指摘している。
もちろん、雇ったのは博多の商人だがな。
0437日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/14(金) 13:34:35.70
>>434
>唐津からわざわざ福岡に戻る訳がない
>佐世保ならそのまま船で南に下りていけば

唐津説は佐世保説を否定したくてもできない。 ともに対馬海流を無視した説だから。  @阿波
0438日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/14(金) 13:41:39.04
>>434
超マッチョ海人が雇われたのは、有明海から沖縄往復の行程だろう。
長崎沖などの外洋沿岸を漕いで行くより、有明海を行くほうが安全だし、漕ぎやすい。
沖縄から戻ってきて、有明海の嘉瀬川河口に到着したら、積荷を岡人に引き渡して、ゆっくり舟漕いで佐世保に帰ったらよい。
こういうごく当たり前の常識で、倭人伝を読むのがよい。
0439日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/14(金) 13:56:31.51
イト国が何処か断定しないと
当時としては要所となる国際都市のはず
0440日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/14(金) 15:04:34.44
>>437

>対馬海流を無視

してないよ、目視出来る場所なら
海流があっても行ける、でも実際流された人達もいただろうな、流さたら能登半島に引っ掛かる、そこで出来たクニが輪島、古くは倭島
0441日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/14(金) 15:05:33.09
>>439
塩田
0443日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/14(金) 16:27:11.52
>>442
>普通に楽浪土器の出土量で糸島でいいでしょうね

頼りは「楽浪土器」だけ?  弥生後期の集落跡は?  お粗末。  @阿波
0444日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/14(金) 16:40:44.07
>>442
>普通に楽浪土器の出土量で糸島でいいでしょうね

それならむしろ出雲になるんじゃね?
0445日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/14(金) 16:54:18.30
唐津からの距離、方向的には小城だろう。
小城市街全体に弥生遺跡が並ぶし
小城の位置は肥前では中心的な位置になる。

北は唐津、西は佐世保、東は佐賀、
さらにその先の吉野ヶ里、南は長崎だ。

千戸単位の小国家群ににらみを効かせ
さらに肥後国の邪馬台国本国への
海路も把握できる場所である。

さらに肥前国風土記には、
佐賀市大和町の肥前国庁が置かれる
奈良時代以前には小城国府があったと
書かれている。

ちなみに佐賀市大和町の大和は
新しい地名なので気にしなくて良い。
0446日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/14(金) 17:14:55.16
>>442
三雲井原地区も古墳前期まで続く集落で大型建物もそれなりに出てるし、
潤地頭給の玉造り工房の周辺も住居跡がかなり出てるし、
上鑵子遺跡は弥生時代から古墳時代にかけての竪穴住居、掘立柱建物、土坑、取水施設などがあるし、
後、今宿五郎江は大型環濠集落だし
大塚遺跡は弥生終末(3世紀)の鍛冶工房・かまど・朝鮮半島系土器など出土してるし

糸島半島の特にくびれの周辺は、掘ればどこでも何かしらでるんじゃね?
前期古墳の密集地帯でもあるし
0447日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/14(金) 17:29:34.66
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
0449日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/14(金) 17:36:42.76
>>448
せっかく遺跡の名前も上げてあげたのに…
詳しく調べると他にもありそうだ

で、ペテンとする理由は?
0450日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/14(金) 17:49:10.46
>>438
追加
それに、沖縄に行くのに空舟で行ったわけではない。
向こうでゴホウラなどの貝殻と交換する貴重財も積み込まねばならない。
その貴重財を博多から嘉瀬川河口の発着場に集積しておけば、佐世保の超マッチョ漕ぎ手は舟を漕いで嘉瀬川まで行って、そこで積み込んで沖縄へ向えばよい。
そういうシステムができていたはず。
0451日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/14(金) 17:55:26.92
かつて栄えた伊都国が邪馬台国の時代には
衰えた可能性だってある
戦乱時代だから新興勢力に旧王朝を根絶やしにされて邪馬台国の領土となったから
人口が少ないとか
0452日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/14(金) 17:59:03.84
>>434
そもそも、沖縄のゴホウラ貝を貝輪にするために仕入れたのは最初は薩摩の阿多だが、弥生時代に入ると仕入れ元は博多に移っていた。
その仕入れ元が佐世保にあったということはない。
佐世保などの超マッチョ専門漕ぎ手は、博多の商人に雇われたのだろう。
このことは、九州の大学の教授がすでに明らかにしている。
これらは、公開情報だ。
そして、その沖縄への発着場が嘉瀬川河口にあったということだな。
倭人伝を率直に読むと、そうなる。
0453日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/14(金) 18:40:17.43
沖縄はなんの関係もない
0454日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/14(金) 18:56:50.74
>>452
その「博多商人」とやらは何を対価に商取引をしていたと考えてるんですか?
貨幣がある訳じゃなし、特別な物流手段もないのに。物々交換ならただのトレーダーなんて成り立つ訳がないと思う。
だいたい沖縄へ仕入れに行く部隊は何を対価に雇ったと思ってるの?
0456日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/14(金) 19:04:23.11
船で海を航る時に重要なのは目印だよ。
距離や方位以上に重要だから無視しちゃダメ。考慮してね。
0457日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/14(金) 19:11:23.10
>>455
「九州の大学の教授」はなんと言ってるの?
0458日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/14(金) 19:20:16.80
>>427
古代九州の舟漕ぎ専門超マッチョ海人、知らんのか。

その古代九州って、いつの時代なの? 


>屋久島沖の黒潮本流でさえ乗り切る海人たちなのに

本当に手漕ぎで黒潮を横断したの? 本当に???  @阿波
0459日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/14(金) 19:31:44.74
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
0461日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/14(金) 20:39:49.99
>>454

>>460のアドレスから見てちょ。
0462日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/14(金) 20:52:07.00
>>445
小城あたりは、地図で見ると、吉野ヶ里や鳥栖方面へ行くルートと佐賀平野東部方面へ行くルートの分岐点に当たる位置にあるようだ。
今の佐賀市が開発される以前の佐賀平野の中心地だったように見えるね。
国府があったそうだけど、納得する。
0463日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/14(金) 21:09:45.99
>>460
>屋久島沖の黒潮本流でさえ乗り切る海人たちなのに

本当に手漕ぎで黒潮を横断したの? 本当に???  @阿波
0464日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/14(金) 21:32:41.62
@阿波

ってどう言う意味なん?
0465日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/14(金) 21:45:19.64
海流を越えるのは命がけだから
船には乞食を立たせて難破よけにしたらしい
何の意味もなさそうだが
0466日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/14(金) 21:46:16.60
マッチョ種族のスーパー腕力もあるが、同時に北風の力も利用したのではとある。
琉球列島と九州・本州を行き来できるアサギマダラという「海を旅する蝶」だっている。
ちっちゃな蝶にできることなら、人間だってできるだろう。
0467日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/14(金) 21:49:46.58
>>466
>琉球列島と九州・本州を行き来できるアサギマダラという「海を旅する蝶」だっている。

「海を旅する蝶」といえども、黒潮を手漕ぎで横断はしないよ。  @阿波
0468日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/14(金) 21:51:53.96
だから、風を利用できる知能・能力も大事なんだよ
0469日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/14(金) 21:57:47.91
ま、阿波は空気読めない倭種だから、潮に流され、渡海は無理だわな
0470日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/14(金) 22:10:07.61
>>468
>だから、風を利用できる知能・能力も大事なんだよ

それよりもっと大事なのは、海流の流れを利用できる知能・能力が大事なんだよ。  @阿波
0471日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/14(金) 22:12:56.24
>>469
>ま、阿波は空気読めない倭種だから、潮に流され、渡海は無理だわな

ま、阿波は海流を読む知能・能力が優れているから、潮に乗って、渡海は楽勝だわな。  @阿波
0472日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/14(金) 22:13:47.55
>>469
>ま、阿波は空気読めない倭種だから、潮に流され、渡海は無理だわな

ま、阿波は海流を読む知能・能力が優れているから、海流に乗って、渡海は楽勝だわな。  @阿波
0473日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/14(金) 22:22:56.18
おや、阿波がミスってる
0474日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/14(金) 22:28:12.59
>>473
>おや、阿波がミスってる

「潮」で揚げ足を取りにくる御仁がいるからね。  @阿波 
0475日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/14(金) 22:33:20.26
>>469
>ま、阿波は空気読めない倭種だから、潮に流され、渡海は無理だわな

だけど、倭国(阿波)の海人族は、朝鮮半島まで鉄鍛冶素材を取りに行ってるからね、
海流を読む知能・能力が優れているから、海流に乗って、渡海は楽勝だわな。  @阿波
0476日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/14(金) 22:46:42.16
他人の揚げ足を取るのは得意だけど、
揚げ足取られるのは、阿波でもイヤなのか、(けっこう並みなんだなあ)
0477日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/14(金) 22:56:14.61
>>476
>(けっこう並みなんだなあ)

それってもしかして、並み以上に思ってくれてたの?  照れるなぁ〜〜〜  @阿波
0478日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/14(金) 22:56:39.39
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
0479日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/14(金) 23:10:39.36
nhkのこのマッチョの番組では、冬の北風に乗って黒潮渡ったかもと言ってるが、怪しい。
現に、同じnhkの天気予報番組では、北風が沿海州から噴出している雲の映像が流されるが、南に向っては吹いていない。
南東に吹き出している。
とすると、屋久島の南で黒潮に入ったら、小笠原方面への風を背にすることになる。
これは、黒潮の北東方向への流れの速度にさらにスピードアップして東方へ舟が流されることになる。
南の奄美方向へ進むどころではない。
ここで、よくよく考えなければならんのは、海の流れの性質だ。
黒潮の進む方向とは反対に流れる潮流があり、黒潮反流と呼ばれる。
黒潮本流の反対側に流れる潮流が黒潮の両脇に生じる。
速度は本流より遅いが、確実に流れている。
このことを考えると、屋久島から南へ向うと、まず黒潮反流に乗ることになる。
つまり、舟は西南方向に流れるようになる。
この流れに乗って手漕ぎでスピードアップしてどんどん南西へ進む。
そして、やがて黒潮本流に入るが、今度は北東方向への進路に変わる。
そこで、超マッチョの漕ぎ手たちがわんわん唸りながら、南東へ向けてスピードアップして漕ぐ。
すると、舟は相当東へ流されながらも、やがて黒潮を越えることができる。
そして、黒潮を越えると再び西南へ流れる黒潮反流があるので、それに乗る。
ゆっくり漕いでも、そのうち奄美方面へ向う位置に舟は流れ着く。
このような流れの知識があるので、必ずしも北風は必要ない。
北風はむしろ、黒潮の流れから離脱できなくさせる逆効果になる可能性がある。
nhkの北風利用説は、怪しい。
0480日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/14(金) 23:29:20.87
そもそも骨の太さと筋肉量は比例しない
シュワルツェネッガーの20代前半の画像探してみ
典型的なヲタヒョロだぞ
0482日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/15(土) 01:00:40.89
>>451
う〜ん、多くの遺跡が古墳前期まで続いているし…古墳前期の一貴山の出土物をみても相変わらず豊かな状況

卑弥呼時代は弥生終末だからある意味全盛期なんだよね

その後は、伊都の衰退というより、それ以上に隆盛したのが畿内だとは思う
0483日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/15(土) 06:31:57.02
>>482
>その後は、伊都の衰退というより、それ以上に隆盛したのが畿内だとは思う

畿内が隆盛した???  なにをもってそう思うのかね?  教えてPlease。  @阿波
0484日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/15(土) 08:37:15.89
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 
0485日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/15(土) 10:50:30.73
海を渡って日本中にアクセスできたマッチョ弥生人が邪馬台国の主軸だったんだろうな

> 910 :名無しさん@1周年 :2018/12/12(水) 02:40:59.22 ID:UOmdKGse0
> この図の伝阿曇居住地(水色の丸印)を見てごらん
> https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-0a-2d/kawakatu_1205/folder/1559278/18/54429718/img_3
>
> 北部九州の海人によって畿内は完全包囲されていたんだよ
> 独立を最後まで保ったのは山に囲まれた奈良盆地だけで、盆地の外の河内とかはもう北部九州に占領されていたわけ
> だから製鉄遺構も盆地の外ばかり
> つまり近畿の製鉄遺構は進出してきた九州勢のものだったってこと
> 中心地のはずの奈良に鉄製品が僅少なのはそのせい
> 実際、畿内の目と鼻の先の淡路島の製鉄遺構からは九州系のカエシの付いたヤスが見つかっている
>
>
> 北部九州の海人は縄文時代から日本全国の大半と交易しており各地の地理を熟知していたため、進出は容易だった
> 邪馬台国のころには近江、尾張、伊勢、越前あたりは全部北部九州の勢力下で、最後に残って抵抗していたのが奈良盆地
> https://pbs.twimg.com/media/DsWScScV4AEIsU0.jpg
> http://www.gondo.com/gyarari/photo/kokunaiiseki/pic/doigahama/a2.jpg
> http://4.bp.blogspot.com/-mYi5TCXdsF8/VDnqBtD4d9I/AAAAAAAAA2s/YwNSV2jEEZc/s1600/018E8B387E69699_R.jpg
>
> それがついに北部九州に屈服して、南部九州の熊襲を除いて西日本がほぼ統一されたのが4世紀初頭あたり
> それを境に鉄貧乏だった畿内にも急速に鉄器が増えはじめる
> つまり畿内を占領した九州の集団が鉄を持ち込んだということ
0486日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/15(土) 14:30:05.92
>>460 >>463
クローズアップ現代・謎のマッチョな弥生人=海の交易に携わる.
https://www.dailymotion.com/video/x6ua0hx

2018/11/23
【考古学】縄文土器に大量の「米食い虫」=北海道・館崎遺跡から出土−熊本大[11/23]
https://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1542962973/141-146

2018/08/28
縄文人 内陸より沿岸部で腕太く 手こぎ舟で鍛えられ[08/28]
https://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1535459213/
2018/09/22
【愛知】渥美半島の縄文人はムキムキ?! 上腕が極端に骨太、舟こぎ発達か[09/19]
https://egg.5ch.net/test/read.cgi/femnewsplus/1537627890/
2018/11/15
【古代】“マッチョ”な弥生人 その正体は!?上半身だけ特別に発達した弥生人!の人骨が発掘された[11/14]
https://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1542241403/78-79

2018/11/12
【九州説】邪馬台国 魏志倭人伝を正しく読む
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1542023631/593,594,596-602,640,665
0487日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/15(土) 19:35:21.85
魏志倭人伝での伊都国は脇役
末廬国からさほど遠くも無い場所に
あるから末廬と伊都は同じ北部九州
そして末廬国から南へ水行10 陸行一月にある邪馬台国は明らかに北部九州では無い
0489日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/15(土) 19:41:48.14
北部九州で確定してるよ。
もうみんなそう思ってるし。残念だったね。
0490日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/15(土) 19:45:57.88
伊岐、伊万里、伊佐早、伊佐、伊仙、伊良部・・、
伊の付く地名と、マッチョ腕パワーの弥生人の航海範囲は、けっこう似てる気がした。
「伊族」とでも呼ばれていたのかな、、
0491日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/15(土) 19:46:02.66
伊都国が脇役?
冗談は休み休み言え。
魏志倭人伝が一番文字数を割いているのが伊都国とそこにあった行政機構である大率だ。

「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」

「女王国(を含めたそこ)から北の諸国には、(女王卑弥呼が)特別に一大率を配置して検察させており、諸国は之(一大率)を畏れ憚っている。
(一大率は)伊都国で(女王国から北の諸国を)常に治めていた。
(その様子は)魏で(皇帝が)刺史(を州に派遣し検察させて洛陽で治めているの)と同じようだ」の意味となる。

女王卑弥呼が一大率を任命して治めさせているのは自女王國以北(女王国を含む)の対馬海峡の国々である。
女王国が伊都よりずっと東の畿内にあったら、一大率が支配していたのは畿内とその北である若狭湾沿岸になってしまうが、伊都に置かれていたという記述と齟齬を生じる。
つまり女王国は伊都国を含まなくてはいけない。
女王国以北はおよそ里程や概要を記すことができるとされているが、里程が記載されているのは対馬海峡と福岡県内の国だけである。
すなわち女王国以北(女王国を含む)は伊都から北であり、女王国(邪馬台国)が伊都国を含むことを示している。

「刺史」・・・各地方を治める監察官
「大率」・・・百済などにあった高級官僚の役職
0492日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/15(土) 19:49:48.85
内政も外交も伊都が中心なら、伊都が王都だろう。
記紀でも神代の王都である筑紫の日向と書かれている。
隋書では、代々の倭王は筑紫城に都すると書かれている。
0493日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/15(土) 19:50:02.00
>>489
>北部九州で確定してるよ。

それは絶対に、ない。  @阿波
0494日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/15(土) 19:51:45.02
>>490

「伊」は伊予の二名島の四国。  @阿波
0495日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/15(土) 19:57:32.32
>>490

「伊」はオオゲツヒメの阿波。  @阿波
0496日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/15(土) 20:19:04.02
伊は、伊邪那岐・伊邪那美の「伊」

佐賀伊都国は、伊邪那岐・伊邪那美の都だったのだ。
0497日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/15(土) 20:27:20.18
伊=佐賀・伊都国
邪=肥後・邪馬台国
那=佐賀・那国(奴国)
岐=壱岐・一大国

美=吉野ヶ里・不彌国
0498日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/15(土) 20:30:32.75
>>496
伊邪那美を祀るのも、倭国(阿波)。  @阿波
0499日本@名無史さん
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2018/12/15(土) 20:32:25.67
@阿波が必死に食らいつくのも畿内説じゃなくて九州説のほうか
0500日本@名無史さん
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2018/12/15(土) 20:36:48.75
>>499
>@阿波が必死に食らいつくのも畿内説じゃなくて九州説のほうか

九州説のほうが、よくトンデモを開陳しているだけのことだよ。 分け隔てはしていないから、ご安心を。  @阿波
0501日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/15(土) 20:37:53.35
@阿波が必死に食らいつくのも畿内説じゃなくて九州説のほうか
0502日本@名無史さん
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2018/12/15(土) 20:40:14.51
伊邪那岐・伊邪那美は、
自女王国以北の国々の連携の強さと、それによって成った共立王家の正統性を語る偉大な象徴
0503日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/15(土) 20:45:44.29
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 
0504日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/15(土) 20:48:15.75
@阿波は畿内説の寄生虫だからな
宿主が死んだら@阿波も消えてします
0505日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/15(土) 20:53:17.13
伊=福岡・伊都国
邪=福岡・邪馬台国
那=福岡・那国(奴国)
岐=壱岐・一大国

美=福岡・不彌国
0506日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/15(土) 21:05:06.28
後手に回ったな、フクヲカww
0507日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/15(土) 21:25:19.10
>>504
>@阿波は畿内説の寄生虫だからな
>宿主が死んだら@阿波も消えてします

いやいや、もう間もなく消え去るのは、畿内説と九州説だよ。
もはや、畿内説と九州説はガラパ説。 とにかく古臭い。 とにかく、進歩がない。 とにかく、昔のまんま。  @阿波
0508日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/15(土) 21:47:11.78
なんか、のたうち回っているようです、、、
0509日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/15(土) 21:53:25.09
倭人伝の東南500里到る・・、に逆らってまで、
山坂断崖超えの難路を、無理やり、北東に進むのはどうかと思うけどねえ。
0510日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/15(土) 22:07:16.26
>>489
水行十日陸行一月の邪馬台国は、沖縄あたり。
0511日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/15(土) 22:11:24.27
>>483
大和の墓に副葬品が入るようになるのはホケノ山から。
この時期から大和は、急に成金になった。
成金=隆盛。
0512日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/15(土) 22:15:07.42
>>511
>大和の墓に副葬品が入るようになるのはホケノ山から。

その「ホケノ山」も「忌部はん」 のお墓 と、何度言えばw  @阿波
0513日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/15(土) 22:17:20.71
>>502
九州王朝の祖は、イザナギ、イザナミか。
0514日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/15(土) 22:18:38.91
>>513
九州書紀のオノゴロ島はどこなん。
0515日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/15(土) 22:20:18.81
倭人伝に強烈に逆らったすぐあとで、
だが、ここからの行程は正しい、信用せよ・・・、といってみても、そりゃ無理ちゅうもんだ。
0516日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/15(土) 22:31:25.12
>>513
九州王朝の祖というより、その実態は、
自女王国以北の国々の談合で成り立った(担ぎ上げられた)邪馬台王朝の祖だったのではないかと思うのだが、、、
0517日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/15(土) 22:49:32.58
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 
0518日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/15(土) 23:05:52.58
>>491
「大率」なんて官名は特殊なもの。
普通名詞にはなり得ないから突然「一大率」なんて書いたって読者には何のことだかわからない。
一大の率と読むべき。一大國の軍司令官。
0519日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/15(土) 23:15:22.22
>>514
能古島
0520日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/15(土) 23:18:18.87
>>516
卑弥呼は邪馬台国にいたけど、称号は倭王。
イザナギは倭国の祖だから当然だろう。
女王国の以北つまり対馬海峡は天津国(海の国)だろうね。
高天原がその何処かにあるはず。
0521日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/15(土) 23:19:22.97
官有十六品。
長曰左平、次大率、次恩率、次徳率、次杆率、次奈率、次將徳:服紫帶、次施徳:p帶、次固徳:赤帶、次李徳:青帶、對徳以下皆黄帶、次文督、次武督、次佐軍、次振武、次剋虞、皆用白帶。
(隋書 東夷 百濟)
0522日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/15(土) 23:37:37.80
>>510
陸行で沖縄には行けない。
0523日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/15(土) 23:44:39.58
>>521
大率、恩率、徳率、杆率、奈率...
どれも百済でだけ使われた(らしい)特殊な官名で、
魏志倭人伝の記載している時代よりずっと後に作られた。その後だって全然普通名詞化してはいないし、歴代中国王朝でも全く使われていない。
刺史とは全然違う。
0524日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/16(日) 00:23:46.58
百済は半島の中で最も倭と近い関係の国だ。
時代がやや違うが、関係がないとは言えない。
ちなみに率も帥も同じ意味だから、一大率は太宰帥の前身とも言える。
九州北部には3世紀から19世紀まで一貫した制度があったことになる。
0525日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/16(日) 00:38:33.01
>>524
>ちなみに率も帥も同じ意味だから、一大率は太宰帥の前身とも言える。
そんなふうに思うのは勝手だが、他人を説得することはできないよ。
あくまで百済だけの特殊な官名の一つで、汎用性は皆無だね。

>九州北部には3世紀から19世紀まで一貫した制度があったことになる。
あなたが思うだけで、そんなことにはならない。
0526日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/16(日) 02:00:14.92
>>516
ワイの考えでは、博多は2世紀代には、背振山地以北の玄界灘の国々が連合した玄海連合の盟主だったと思う。
イザナギ、イザナミはどうかと思うが、その盟主博多の祖先神は磯良で、博多の安曇部族の祖先神の志賀島海大明神。

能古は、古くは残と書かれているので、残りの意味だろう。
志賀島が陸繋島となったので、陸に繋がらず海中に残った島という意味ではないか。
0527日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/16(日) 02:20:44.68
>>512
阿波は、埋葬部の石囲い技術を提供しただけ。
前方後円型墳丘墓は尾張と吉備の合作。
阿波は、その前方後円型墓そのものとは無関係。
阿波萩原は突起付き円墳の一種。
0528日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/16(日) 02:25:39.14
>>522
邪馬台国があるのは、北部九州からずうっと南に広がる巨大島という想定。
その巨大島の沖縄あたりの位置にあるのが邪馬台国。
そして、その南に狗奴国があるというもの。
このような巨大島が実際にあったことはないが、古代中国人は強固にその巨大島の存在を信じていた。
0529日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/16(日) 05:14:53.12
>>526
その玄界灘連合国こそ、大陸側から見た倭国でしょ。
0530日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/16(日) 05:27:35.46
>>488
明らかに南部九州
0531日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/16(日) 05:28:39.10
>>528
無い無い
気違いはよ、しね
0532日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/16(日) 07:40:42.13
>>527
>阿波は、埋葬部の石囲い技術を提供しただけ。

奈良は単なる倭国(阿波)の墓地だっただけ。  @阿波
0534日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/16(日) 08:09:00.62
>>526
>能古は、古くは残と書かれているので、残りの意味だろう。
>志賀島が陸繋島となったので、陸に繋がらず海中に残った島という意味ではないか。

なーるほど、博多方面の方言で、残ンの島(ノコンのシマ)か !
0535日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/16(日) 08:41:55.51
おが接頭語、ろが接続詞で、語幹はのこ、つまり能古島のことだとか。
0536日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/16(日) 08:46:05.67
>>526
>博多は2世紀代には、背振山地以北の玄界灘の国々が連合した玄海連合の盟主だったと思う。
>イザナギ、イザナミはどうかと思うが、その盟主博多の祖先神は磯良で、博多の安曇部族の祖先神の志賀島海大明神

この志賀島海大明神は、日本書紀では、別名・海神豊玉彦(わたつみとよたまひこ)で、
その子孫のタマヨリヒメの子(女系男子)が、ウガヤフキアエズで→次の神武天皇に続く。
因って博多王朝は、今の日向天皇家の女系祖先の一つということになるな。
0537日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/16(日) 09:02:42.08
そして男系は伊都国の筑紫日向三代の王家だよね。
記紀ではどちらもイザナギの末裔としている。
0538日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/16(日) 09:03:02.56
>>536

妄想は聞き飽きた と、何度言えばw  @阿波
0539日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/16(日) 09:04:44.44
>>536
>因って博多王朝は、今の日向天皇家の女系祖先の一つということになるな。

もう筑紫にいた倭国王家でいいだろ。
弥生時代から王墓もたくさんあるし。
金印もあるし。
0540日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/16(日) 09:07:30.29
【倭国】

紀元前に博多湾沿岸に倭国が成立して漢と国交を持ち、後漢の頃には漢委奴国王印により倭国王に冊封された。後漢書では、倭国は朝鮮半島南岸から九州北岸までの、対馬海峡の海洋国家として書かれている。
対馬海峡における貿易の権益が、天津神すなわち海の神を中心とした倭国の形成の原動力であったと考えることができる。

記紀の国生みは博多湾から始まる。伊奘諾が最初に手に入れた領土である淤能碁呂島は博多湾の小島である能古島のことである。
それに続きイザナギとイザナミの生んだ国(領土)のうち、天の冠詞がつく島である隠伎之三子島(天之忍許呂別)、伊伎島(天比登都柱)、津島(天之狭手依比売)、
女島(天一根、姫島)、知訶島(天之忍男、五島列島)、両児島(天両屋、男女群島)が天つ国の本来の領域である。
国産みにおける島々は九州北部沿岸の島を意味していたが、後に西日本全体の地名に拡大され再配置される。

博多湾岸を起点として対馬海峡から朝鮮半島南岸へ、日本海から山陰や北陸に広がる国が古代の倭国の姿である。
連合国家である倭国の盟主は筑紫であり、他に九州北部の倭国連合を構成する豊国、肥国がある。倭地とされた本州には出雲、越などがあった。
また、中国との交易は一貫して筑紫が独占していた。
筑紫の特に玄界灘周辺の勢力は、対馬海峡の権益を独占して力をつけ、海人の国、天津国と呼ばれ、その王族は天津神として九州や本州の王族である国津神と区別された。

九州で出土した副葬品の分布地図
http://www.netpia.jp/history/map-fukusohin237.gif
狗奴国(熊本)も元は卑弥呼と近い立場の同じ文化圏であり、卑弥呼共立をめぐって反対していただけである。
上記の地図は邪馬台国と狗奴国(熊本)を合わせた九州北部の国、倭国の中枢を示している。
実際にはこれに属州としての日本海沿岸、瀬戸内海沿岸の地域が付随する。
卑弥呼の時代の畿内は、奈良も京都も大阪もまだ沼地であり、特に奈良は主要交易路からはずれた名もなき辺境の沼地であった。

2世紀の倭国大乱後の女王の墓として3世紀に平原遺跡が作られた。
副葬された王位の証である八咫の鏡は、筑紫伊都国が王権の所在地すなわち倭国の王都であったことを示している。
0541日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/16(日) 09:07:34.77
つまり、
博多王朝の盟主那国(傍奴国)と、火の国・肥国王朝の盟主邪馬台国が、
倭国大乱前後の動乱期を二度の縁組を通じて順次融和を進め、
やがて共立卑弥呼の倭国体制を作り上げて、その後は東へ向かったという筋書きなのだろう・・・、
0542日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/16(日) 09:12:42.18
>>541

妄想は立派に語れるんだがねぇ・・・・  @阿波
0543日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/16(日) 09:32:39.67
>>540
>2世紀の倭国大乱後の女王の墓として3世紀に平原遺跡が作られた
>狗奴国(熊本)も元は卑弥呼と近い立場の同じ文化圏であり、卑弥呼共立をめぐって反対していただけである。

この2点が問題で、わがままっこの弱小狗奴国にとらわれ過ぎてるな。
張政ら数人の助っ人でカタが付いたんだから、そう気にすることはない。
(極南界とは、狗奴国を含む筑紫島の南の果てまでを極めている・・、と読むと良い)
「倭国の極南界」を盾に、倭国を博多沿岸に限定しようとするから、ちんまり固まる。
副葬品の出土地図を見ても、博多王朝の範囲と、火の国・肥国王朝の範囲の2系統があったと読めるだろう。
0544日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/16(日) 09:35:55.07
>>541
うーん、もう少し事態は複雑で、筑紫日向王家(伊都国)と豊国王家(当時は博多と志賀島)の安定した政権があったのだろう。
それが倭国大乱で崩壊して、肥国王家が台頭した。
肥国王家の中で伊都に進出した卑弥呼と、熊本に残った卑弥弓呼の主導権争いがあって、卑弥呼が日向王家の後継として魏の外交に臨んだのではないか。
0545日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/16(日) 09:39:27.32
>>543
>副葬品の出土地図を見ても、博多王朝の範囲と、火の国・肥国王朝の範囲の2系統があったと読めるだろう。

うん。
記紀にあるのはそのうち博多と伊都の連合王国の記録だと思う。
記紀に卑弥呼が登場しないのは、卑弥呼が肥国王家だからだろう。
狗奴国の卑弥弓呼の位置付けも説明できる。
0546日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/16(日) 09:40:30.66
>>540
チンケな糸島の墓にこだわるから、阿波なんかに小ばかにされる。
倭国女王卑弥呼にふさわしい、径百余歩のもっと品格に優れた墓を考えてくれぬかな。
0547日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/16(日) 09:44:45.69
筑紫の弥生王墓は平原遺跡だけではない。
紀元前の吉武高木以来、多数ある。
未発見のものも含めればおそらく数百年に渡って倭王朝が博多湾沿岸にあり、弥生文化の伝播を主導したのだろう。
言い換えれば、弥生時代とは筑紫倭王朝時代でもある。
記紀の神代だね。
筑紫の卑弥呼と並行して、筑紫を脱出した神武らが大和で力を蓄えていったのだろう。
0548日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/16(日) 09:49:53.83
>>546

では、その「阿波なんか」が教えて進ぜよう。

「天石門別八倉比売神社」裏手の円墳。 

天照大神伝説の地は徳島市国府町「天石門別八倉比賣神社(あまのいわとわけやくらひめじんじゃ)」です。

御祭神は大日孁女命(おおひるめむちのみこと)こと天照大神です。

また、大宜都比売命(おおげつひめのみこと)が祀られているのが徳島の神山町にある上一宮大粟神社(かみいちのみやおおあわじんじゃ)です。

大宜都比売命の別名を天石門別八倉比売命(あまのいわとわけやくらひめのみこと)と言われています。

※「大宜都比売命」=「天石門別八倉比売命」=「大日孁女命」=「天照大神」   @阿波

「八倉比賣神社」
https://bqspot.com/shikoku/tokushima/569
http://kamnavi.jp/en/awa/yakura.htm
0549日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/16(日) 09:53:34.02
>>544
倭国大乱の経過をシンプルにするため、豊国のことは省き、崩壊も省略しているが、
それらのことは考えに入れておくべき重要事項・・、と思っている。、
0550日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/16(日) 09:56:14.91
鳴門のコバンザメが、まとわりついてきたぞ
0551日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/16(日) 10:03:25.28
そう考えると、記紀も魏志倭人伝も、筑紫伊都が倭の王都だという記事で一致していて、考古学的証拠とも一致する。
その中で倭王卑弥呼はどこにいたかと聞かれれば、筑紫にいたとしか考えられない。
そして平原遺跡という倭国大乱後の女王墓がある。
0552日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/16(日) 10:06:59.38
その後に豊国は遠賀川流域や関門海峡付近に移ったけれど、神武が立ち寄ったり仲哀(直系ではないかもしれないが)を輩出したりしている。
肥国は熊襲として4世紀に討伐された可能性がある。
0553日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/16(日) 10:13:36.99
狗奴国のことは小競り合い程度だったのではないか。
ただ陳寿は、それを張征ら派遣の大義名分にして、本音は隠しただけのこと。
張政ら派遣の真の政治目的は、帯方郡による卑弥呼体制支援と「親魏倭国」の建国教化だったと認識すべきであろう。
0555日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/16(日) 10:20:08.14
>>553
魏の側としてはそうだろう。
しかし卑弥呼にとってはお家騒動だし、発展しつつある有明海沿岸を熊本に取られるのは我慢ならなかったろうね。
0556日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/16(日) 10:27:06.47
>>550
>鳴門のコバンザメが、まとわりついてきたぞ

鳴門だけじゃなく、阿南や阿波のコバンザメも黙ってはいないぞ。  @阿波
0557日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/16(日) 10:30:19.61
>>552
>肥国は熊襲として4世紀に討伐された可能性がある。

肥国王家に関する遺跡や地名などの痕跡があまりにも少ない
また、熊襲征伐に伴って新しい地名を与え、新しい地方支配者を取り立てたりして過去を清算してるので、
肥国・狗奴国残党の討伐のことも考慮されるべき重要事項だね。
0558日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/16(日) 10:32:58.97
卑弥呼は狗邪国とは争ってなどいない

「不和」の「和」字は『説文解字』によると「和、相應也。」とある。「集韻」は「和、應也」とする。
「和」の本義は「応諾」する、「呼応」する、「承諾」する、と言う意である。随って「不和」とは承諾出来ない、と言う意味になる。
何に応諾出来ないか、それは言うまでもなく、正始八年に魏朝の太守王?が官に到ったことに対してである。
卑弥呼は狗奴国の男王と共々、承諾出来なかったのである。

「相攻撃状」の「攻撃」の意である。これと酷似し倭人伝に載る語に「相攻伐」がある。
この語は倭人伝原文に「倭國乱相攻伐歴年」と使われている。「攻撃」も「攻伐」も「せめうつ」ことを言うが、「攻撃」には「他人を論じ、なじる」と言う義がある。
しかし「攻伐」にはこの義がない。この段の「相攻伐状」とせずに「相攻撃状」としたのは難升米等を押しのけて、太守王?が官に到ったことを卑弥呼と狗奴國
の男王が共に承諾出来ずに非難していることを説明した、と言う意味なのである。
卑弥呼の邪馬壹國と卑彌弓呼素の狗奴国との戦のことなぞ、何処にも書かれていないではないか。
0559日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/16(日) 10:36:35.09
>>540
まーたそれか
何度言われても改める気はないようだな

熊本の財宝は4世紀以降のもの
つまり2世紀において邪馬台国と争う狗奴国など熊本には存在しえない
0560日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/16(日) 10:56:03.04
>其八年、太守王頎到官。
>倭女王卑弥呼與狗奴国男王卑弥弓呼素不和。
>遣倭載斯烏越等詣郡説相攻擊状。

>>558
太守王頎到官とは、洛陽から帯方郡へ新しい太守王頎が赴任してきた、という意味だ。
其の太守王頎に対して、倭の載斯烏越等が帯方郡に詣で、相攻擊状を説明した。
そこで太守王頎は、塞曹掾史張政等を遣わし、難升米に拝假してうんぬん・・・、という順序だよ。
0561日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/16(日) 11:11:49.93
>>558
倭人伝は、時間の進行に合わせて順々に書かれている。
後に飛んだり、前に飛んだりしないで、そのまんま時間通りの順番で読めばわかるようになってる。
0562日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/16(日) 11:30:44.09
>>561
>後に飛んだり、前に飛んだりしないで、そのまんま時間通りの順番で読めばわかるようになってる。

そうだね。 そうすると、自然に倭国(阿波)に着くようになっている。  @阿波
0564日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/16(日) 11:54:56.41
何度もループしてる話題だが、自分が一番納得したのは、
歩幅は人によって異なるので、
役人はみな自分の足のどの部分までが1歩なのか事前に測っておいたという話。

1歩=20cmとして、役所の1歩物差しであらかじめ自分の足に当てて測っておく。

足の大きい役人なら、かかとから親指の付け根のふくらみまで、
足の小さい役人なら、かかとから親指の第一関節まで、

これなら自分の足だけでどこに行こうが正確な長さを測定できる。

張政も、大股に歩くのではなく、
足をピタピタと合わせながら実測したわけだ。
平原遺跡1号+2号の共通の周濠に沿って百余歩。
0565日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/16(日) 12:29:24.35
>>563
>この段の「相攻伐状」とせずに「相攻撃状」としたのは,、
>難升米等を押しのけて太守王?が官に到ったことを、
>卑弥呼と狗奴國の男王が共に承諾出来ずに非難していることを説明した、と言う意味なのである。
時間の順番が、まえに飛んだり、後ろに飛んだり
0567日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/16(日) 13:05:55.05
>>566
解釈が前後してるという意味な。
太守王頎到官とは、魏の洛陽から帯方郡へ新しい太守王頎が赴任してきました、・・という完了の意味で、それでこの文は終わり。
だから、その赴任完了後になって、この赴任は難升米等を押しのけたのだから、卑弥呼や卑弥狗呼が非難したなんて恨み言は、記事の順序からして有り得ない。
0569日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/16(日) 13:19:53.60
>>568
なんだ、青年の主張大会かww
0571日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/16(日) 13:27:53.92
馬韓説=沖縄説=阿波説=ウンコ
0572日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/16(日) 13:28:40.39
荒れる予感...
0573日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/16(日) 13:53:36.78
岩元という名からして、薩摩氏族の出身だろうな。
どうやら、中国語の倭人伝を日本語の記紀などと同一視して、日本語の語順で無理やり読んでるようだ。
解読ハチャメチャ、その本音は薩摩長州体制の擁護。
0574学術
垢版 |
2018/12/16(日) 13:56:11.72
現代史から歴史を紐解いて始めたものもあろう。
0575学術
垢版 |
2018/12/16(日) 13:56:35.46
はるか昔の研究で一生を費やすな。
0578日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/16(日) 14:21:56.59
北京大学医学部名誉顧問 岩 元 正 昭

医学部ねえ・・・
0579日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/16(日) 14:32:47.94
北京大学日本研究中心編「日本学」に掲載された論文です
0580日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/16(日) 14:48:57.24
医学部ねえ・・・
0581日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/16(日) 15:25:49.95
>>409
北部だったら畿内説と一緒で
倭人伝の記述と絶対に合わないよ
0582日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/16(日) 15:28:20.80
漢字は生き物であり時代と共にその本義を変える
(これを漢字の引伸と言う)というところはおおいにきにいった
0583日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/16(日) 15:35:18.21
漢字文化圏は多数のローカルなサブ文化圏により構成される
ローカルなサブ文化圏はそれぞれが
ローカルな漢字キャラクターセットをもっていて
ローカルな漢字音をもっていて
ローカルな漢字使用ルールをもっている

これは東夷伝中に陳壽が書き残してくれているわけだが
そこいらへんのところを読み取れていないのはまことに残念
0584日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/16(日) 15:41:40.60
>>581
俺は南部派なんだが...
0586日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/16(日) 16:18:17.35
岩元学説は一見の価値あり、だね

どう思うかは人それぞれだが
0587日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/16(日) 16:24:25.38
漢字については詳しそうではあるんだが、はてさて判断は難しい
0588日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/16(日) 16:33:54.23
岩元引伸学説は一見の価値あり、どう思うかは人それぞれだが
0589日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/16(日) 16:39:28.56
>倭人伝に「邪馬壹國、女王之所都」と書かれている。
この「邪馬壹國」は「邪馬台国」の事であり

始まりのところから先入観に支配されている
0590日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/16(日) 16:40:14.21
倭人伝には「邪馬壹國女王之所都」と書かれている
0591日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/16(日) 16:42:57.50
>誤訳の「都」字  と題して
>「都」字を『説文解字』で調べると、
「都とは旧宗廟の有るを曰う」と書かれている。

誤訳の「都」字の再誤訳をやらかしている
0592日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/16(日) 16:47:51.36
>>584
南部にこれと言った遺跡が無いよね
金印が見つかったのは北部だから
古代から北部に中心勢力があったのは事実だろ
その南だから
吉野ヶ里辺りで良いんじゃね?
0593日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/16(日) 16:51:10.12
>親魏倭王卑彌呼を帶方太守に制詔する
ですと
0595日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/16(日) 16:54:29.01
>>592
水行10日
松浦から吉野ヶ里まで海が無い
0596日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/16(日) 16:58:15.48
>>595
有明海が博多まで繋がってた
0598日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/16(日) 17:05:18.76
南側に狗奴国があるのだから、邪馬台国が南部だったら狗奴国が海の上に出てしまう。
そんな伝承も遺跡もない。
肥国(有明海沿岸)ならそこそこ遺跡もある。
吉野ヶ里もその一部だっただろうと思われるが、特別なわけではない。
狗奴国と邪馬台国の間の争いがどの程度の武力衝突を伴っていたかは確かに不明だが、実際に筑後平野に先頭の痕跡がある。
本質的には卑弥呼と卑弥弓呼のお家騒動だと思うけど。
0599日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/16(日) 17:08:48.23
>>596
それは宮崎康平が言い出した説だけど
それならわざわざ末廬国を通らず糸島を起点に吉野ヶ里まで行けば良いわけで
どう考えても吉野ヶ里は無いよ
0600日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/16(日) 17:11:51.18
>>598
>だったら狗奴国が海の上に出てしまう。

出ない出ない邪馬台国は中南部、クナコクは南部、境界の尽きる所だから背中合わせだったんだよ
0601日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/16(日) 17:15:20.66
熊本南部、鹿児島北部、宮崎北部
ここから絞りこんで行けば良いと言う事でOK?
0602日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/16(日) 17:16:41.79
>>596
>>595
>有明海が博多まで繋がってた
それはないことが地質学的に示されている。縄文時代の海岸線でも博多湾と有明海は繋がっていない。
0604日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/16(日) 17:25:37.32
>>601
宮崎康平の
島原半島も捨てがたい
0606日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/16(日) 17:27:19.67
>>603
見れん
0607日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/16(日) 17:30:04.69
>>602
だがかなり入り込んでたんじゃないかな
少なくとも吉野ヶ里までは
0609日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/16(日) 17:36:39.01
>>607
国土交通省筑後川河川事務所のボーリング調査で、当時の海岸線はわかっている。
吉野ヶ里は海岸から程遠く、海(筑後川河口)は数q沖だった。
0610日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/16(日) 17:57:07.31
>>606
見れますけど
0612日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/16(日) 20:02:59.06
吉野ヶ里

ここに人が生活し始めた大きな理由として、この地域が海と近かったことがあると考えられている。

最終氷期が終わり温暖となった縄文時代前期には、縄文海進と呼ばれる海面上昇があり、有明海は

吉野ヶ里丘陵の南端付近まで広がり、遺跡から2-3キロメートルほどの距離にあったと推定されている。

有明海は干満の差が平均で5-6メートルと大きく、また遠浅の干潟を持つ。この干満の差や筑後川などの河川を利用した水運に優れたこと、

また貝やカニといった食料が豊富に得られたことなどの好条件が揃い、この地域に人の定住が始まったと考えられている。
0613日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/16(日) 20:04:13.60
吉野ヶ里

現在は約20kmですが、弥生時代の中頃には、地質調査や有明海沿岸の遺跡分布から、4kmくらいだと言われています。

ただし湾の奥では約2kmまで迫っていたと考えられます。また、弥生時代の終わり頃は約10kmくらいまで後退したという説があります。
0614日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/16(日) 20:12:33.90
唐津から佐賀の方に行けば
不弥国から有明海に出られるよ。
0615日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/16(日) 20:26:49.82
>>610
見つかりませんって出てくるよ
0617日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/16(日) 20:34:37.86
>>615
あ、そうだな
メニューから古代、歴史の謎をクリック
邪馬台国関連のページが出てくる
0618日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/16(日) 20:45:20.23
>>617
サンクス見れました!
川内は狗邪韓国から真南だから除外で
東南の日向で決まりそうだな

しかし、なぜ今まで誰も気付かなかったのかな...
0619日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/16(日) 20:54:58.45
>>618
狗邪韓国から南でもオッケーだろ
東南は帯方郡からだぞ、川内は帯方郡からなら東南になる
そして末廬国からも南、日向は末廬国から東南になるから除外出来る
だから川内だよ
0620日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/16(日) 20:58:53.59
>>616
>女王国ははとても遠く道が険しく簡単にはたどり着けない、という印象を魏の使者に与える必要があります。
>実際、魏の使節は伊都国までしか行っていない。

なかなかおもしろく、関心深く読んだ。
ところで、せっかくの労作なのに「魏の使節は伊都国までしか行っていない。」というのは違うのではないか。
・正始元年、太守弓遵遣建中校尉梯儁等、奉詔書印綬詣倭国、拝假倭王。

此処に「拝假倭王」と明記してあるのだが、、、
0621日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/16(日) 21:07:20.62
>>619
川内にはこれと言った遺跡が無い
0622日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/16(日) 21:10:18.04
帯方郡からは、南へ行ったり、東へ行ったり、又南へ行ったり、東南へ行ったり、で目まぐるしい。
それに各々の区間距離には数百里〜百里の長短がある。
それを一切無視して、帯方郡から一気・一直線に東南1万2千里というのは強引、というか乱暴粗雑な推定だ。
0624日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/16(日) 21:18:17.98
>>622(修正、失礼!)
>それに各々の区間距離には数千里〜百里の長短がある。
0626日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/16(日) 21:25:02.51
>>621

北薩の遺跡
「出水地方の弥生時代遺跡は,出水市六月田や高尾野町柴引・下高尾野町一帯に濃密に分布しているが調査が行われたことがない」
http://www.jomon-no-...ikodai_hokusatu.html
0627日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/16(日) 21:27:11.60
楽浪土器が長期間出土するのだから
楽浪人は長期間行き来していたわけだ。
地理は知っていただろうし少なくとも伊都までは実測だな。
0628日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/16(日) 21:27:37.39
>帯方郡からは、南へ行ったり、東へ行ったり、又南へ行ったり、東南へ行ったり、で目まぐるしい。

どのみち狗邪韓国から倭国の領域に入るから
その部分は関係無いな
0629日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/16(日) 21:34:55.50
>>622
だがまずは距離と方角で推定するのは
基本だと思う、そこから山岳部などの複雑な地形の部分を割り引いて推定して行けば良いだろ
畿内説などは、その基本から無視している
0630日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/16(日) 21:41:24.24
みんな距離とか方角とか複数出てくる都市の名前や戸数とかに惑わされ過ぎ
結局の所

末廬国から南へ水行10 陸行一月
の所にしか邪馬台国は存在しない
0631日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/16(日) 21:47:59.31
くだんのリンク先は、羊頭狗肉、竜頭蛇尾・・・
0632日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/16(日) 22:02:58.64
>>630
だから、その水行10 陸行一月の邪馬台国の場所はどこかと聞いているんだよ。
0633日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/16(日) 22:22:23.51
邪馬台国の場所なんて捜すこと自体がまぬけ
邪馬壹國なら陳壽の脳内にはあるがね
0635日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/16(日) 22:53:13.05
>>590
倭人伝には「邪馬壹國女王之所都」と書かれている

[邪馬壹國女王]は
[邪馬壹國]の[官]として筆頭にあげられている
[伊支馬]と同一人物で
[壹與]そのひとである
[壹與]は[伊與]と記すのも良し

[A之所都]は
[A之治所]と等価であり
[女王之所都]は
[女王國]と等価である
[女王境界]の内側は[女王界]といいなおしてあげるのが親切

すなわちここの[都]は動詞として
[まとむ][すぶ][ことよる]の如き読みを
[都]に新規に設定して
不自由な日本語を改良してあげる必要がある
0636日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/16(日) 23:18:34.80
>>632
ウンコは黙ってろよwww
0637日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/16(日) 23:24:22.27
>>609
弥生時代で2〜4km
歩いて行ける距離じゃん
0638日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/16(日) 23:33:10.14
大海中にありだから
大和堆にあった
0639日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/17(月) 00:41:06.36
>>536
この磯良志賀島大明神は、綿津見神を奉じているから、日向天皇家の大祖先の分家筋だと思うけどな。
0640日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/17(月) 00:41:48.31
>>638
竜宮城だったんだな
0641日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/17(月) 00:49:54.38
>>529
第一次倭國というべきか。
帥升が倭國王さ書かれているので、この2世紀初頭頃にはまとまっていたかも。
そして、第二次倭國は、大乱後卑弥呼が共立された邪馬台連合(玄界灘連合と筑紫平野連合の合併)。
そのあと大和自称による第三次倭國。
0642日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/17(月) 01:00:11.26
>>531
これが分からなければ、倭人伝の行程の意味は解けない。
古代中国人が倭國に描いた幻想が、何であったのか。
倭國の朝貢に対する過大評価の正体が、この巨大島の幻影に潜んでいる。
0644日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/17(月) 06:10:47.69
>>642
実際にそんな幻想を持っていたわけではない
そういうことにしたかっただけ
0645日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/17(月) 08:39:06.64
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
0646日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/17(月) 10:14:18.52
>>619
筑紫はどう考えても水行10日、陸行一月に当てはまらない

まぁ、川内か日向だろな
0647日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/17(月) 10:48:12.16
>>642
でも沖縄は関係無い
0648日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/17(月) 10:49:00.47
>>646
日向は方角が違うよ
0649日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/17(月) 12:52:32.55
川内も、日向も、博多も、水行10日、陸行一月に当てはまらない
阿蘇地方が正解。
0650日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/17(月) 12:54:58.15
超時空(後付け)設定?
0651日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/17(月) 13:00:54.29
ひらがな なら よめるだろう

あたま の びょーいん に いけ


あと成り済まし、騙りのようなのがいるんだけど、何なんだろうw
調べたりすると系図のようなものなどがあるでしょ?

勝手に作成したりしている?
0652日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/17(月) 13:09:41.73
>>649
水行10日 then 陸行1月 と読んだの?
水行10日 or 陸行1月 と読んだ方がいいと思うけど。
0653日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/17(月) 13:27:09.97
水行10日なら寝そべってラクラク行けるのに、
汗かきながら重い荷物を背負ってワラジ履き、石ころ草木かき分けて陸路をテクテク行く者はいない。
だから、水行10日 then 陸行1月で決まり。
0654日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/17(月) 13:45:01.06
>>653
行程と途中の様子のの確認のための陸路の探検隊と船の回航と荷の運搬に分かれることはありうるから、「水行10日 then 陸行1月で決まり」ではと思う。
thenならば「又」を入れると思うし。
0655日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/17(月) 13:45:36.41
>>654
訂正
>>653
行程と途中の様子のの確認のための陸路の探検隊と船の回航と荷の運搬に分かれることはありうるから、「水行10日 then 陸行1月で決まり」ではないと思う。
thenならば「又」を入れると思うし。
0656日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/17(月) 14:03:41.14
>thenならば「又」を入れると思うし。

そりゃ逆じゃろ。
どう考えても、水行10日 又は=or 陸行1月 になるからな。
0657日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/17(月) 14:05:35.66
>>649
その中では
川内は当てはまる、当てはまるのはここしかない、阿蘇には海が無い
0658日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/17(月) 14:07:37.43
水行10日or陸行一月が正解
0659日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/17(月) 14:12:14.39
>>648
方角が違うと言ってもどちらも中南部九州だろ大きく方角が違う訳じゃない
それに伝説が残ってるのは日向
ヒムカとも読めるしな、距離、方角、伝説
どれをとっても日向しかないわ
0660日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/17(月) 14:15:19.82
>>657
阿蘇には海がないから、最後は陸行しなけりゃならんのだ。
これが最大の決め手。
0661日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/17(月) 14:15:28.56
>>657
なんで川内なんだよ
伝説も遺跡も無いだろ?
神武の伝説が残ってる日向だって
0662日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/17(月) 14:20:29.83
>>660
阿蘇だったらわざわざ命がけの水行しなくても陸行だけで行ける
0663日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/17(月) 14:24:00.47
水行10日 陸行一月を足し算するなら
「水行でどこどこまで」行ってと
水行で降りた場所が書かれてないと行けない
0664日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/17(月) 14:28:24.78
>>662
水行10日は、帯方郡から末盧国まで、
陸行1月は、末盧国から、伊都国、不彌国経由、阿蘇地方まで。これで全行程完ぺき。
0665日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/17(月) 15:17:17.77
>>656
中国語の「又」は日本語の「又は」とは意味が違う。
0666日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/17(月) 15:23:03.65
>>664
「南至投馬國水行二十日」の「水行二十日」は?
0667日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/17(月) 15:25:20.01
>>659
関門海峡経由?
0668日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/17(月) 16:16:38.86
陳壽氏の表記法として
[みちのり]を[里]数で表現するのが[道里]である

[みちのり]を[日]数で表現するのを[道日]とすると

[道日]表記のルールを推定するに
ふつうにそこのは
水行10日 and 陸行1月   たるべし
0669日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/17(月) 16:35:22.18
>>668
言い切るだけの根拠はないね。
0670日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/17(月) 16:47:22.16
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
0671日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/17(月) 17:21:23.94
陳壽氏が略載することができると宣言しているところのものは
自女王國以北に位置する行政区に関する
[戸數]および[道里]であり

[道日]に関して略載することができると宣言しているわけではない

[道日]に関するデータはもれなくついているわけではないから
[道日]データはふろくの如きものと理解せざるを得ない
少なくとも[道日]データに関しては[略載]されているレベルには至ってない

陳壽氏は加算程度の素養を備えた読者であろうことを想定して筆を進めているわけで
[里]数で示された数値は[道里]表現を行うための用として記録されている

郡より女王國12,000里で[自女王國以北]の[道里][略載]は完了している
0672日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/17(月) 17:36:24.25
>>666 名前:日本@名無史さん 2018/12/17(月) 15:23:03.65
>>「南至投馬國水行二十日」の「水行二十日」は?

まず、前半の水行10日は、帯方郡から末盧国まで一万余里、
そして、後半の水行10日は、末盧国から九州島西海岸回りで、宮崎西都市の投馬国まで一万余里。(これで、すべて矛盾なし)、
0673日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/17(月) 17:40:30.31
>>668
>水行10日 and 陸行1月  たるべし

そのとおり、これが当然の読み方だよねえ
0674日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/17(月) 18:10:42.76
>>673
それなら水行十日又陸行一月と書くと思うけどね。
0675日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/17(月) 18:20:17.96
>>672
「南至投馬國水行二十日」も
「南至邪馬壹(臺)國 女王之所都 水行十日陸行一月」
も帶方郡から南方向だ。
「倭人在帶方東南大海之中」と方位が合わないねぇ。

郡からなら
「從郡〜到其北岸狗邪韓國」の箇所と同じく「從郡」と付くと思うけど。
0676日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/17(月) 18:26:12.27
>>664
違う
末廬国から水行10日だよ
0677日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/17(月) 18:27:11.58
>>661
ニニギの命の伝説があるよ
0678日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/17(月) 18:29:00.79
>>674
そいつはウンコ野郎
と言って脳ミソも体もウンコで出来てるから
理解できねーよwww
0679日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/17(月) 18:35:04.13
>>678
スカトロ君www
0680日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/17(月) 18:37:16.44
>>677
海を越えて東にまたクニあり皆倭種なり

だから日向だ、川内の東に海は無い
なぜ川内に拘る?
0681日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/17(月) 18:38:39.38
>>679
お前は全身スカトロじゃねーかwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
0682日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/17(月) 18:39:42.72
>>680
日向には関門海峡経由で行ったのか?
0683日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/17(月) 18:41:45.38
>>680
別に拘って無いが、日向や高千穂は
すでに伝説があって遺跡もあるが
未だに邪馬台国
0684日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/17(月) 18:44:27.32
>>680
失礼683だが未だに邪馬台国の証拠が
見つかっていない

と言う事は邪馬台国未知の場所に埋まってる
に違いない

と言う考え
0685日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/17(月) 18:54:37.87
>>684
>失礼683だが未だに邪馬台国の証拠が
>見つかっていない

倭国(阿波)でとっくに見つかっている と、何度言えばw  @阿波
0686日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/17(月) 18:57:04.42
>>674 名前:日本@名無史さん 2018/12/17(月) 18:10:42.76
>>673
>それなら水行十日又陸行一月と書くと思うけどね。

具体的な理由も説明もなく、二通りの道を併記すると混乱のもとになるので、併記であれば、それなりの語が挟んである。
ここではすんなり一気に書いてあるので、連続の道と読むべきである(現地地理に照らしても、よく適合する)。
0687日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/17(月) 18:58:54.70
>>684
すなわち
証拠になりうる
遺跡は無いと言う事ですね
分かります
0688日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/17(月) 19:00:32.90
>>686
倭人伝だけを見れば、then の意味で「又」と書いた箇所はあるが、逆に併記であることを示す言葉はないように見えるが。
0689日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/17(月) 19:01:18.09
>>686
お前は黙ってろよ
0690日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/17(月) 19:06:17.60
>>687
逆に言えばそれが証拠じゃね?
本州にも九州に数ある遺跡が決定打に欠けてるんだから
埋まってるのがそれだろ
消去法だよ
0691日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/17(月) 19:12:14.67
>>675日本@名無史さん2018/12/17(月) 18:20:17.96
>「南至投馬國水行二十日」も
>「南至邪馬壹(臺)國 女王之所都 水行十日陸行一月」 も帶方郡から南方向だ。
>「倭人在帶方東南大海之中」と方位が合わないねぇ。

南至の部分、帯方郡から南至るでは合わないということは、此処は不彌国から南至るの証明でもある。
なお我々には不自然であるが、その次の二十日と、十日一月は、現地地理に照らして、帯方郡からの日数と理解せざるを得ない。
おそらく「水行二十日」と聞けば、中国人には、ハハン二万里のことか・・、というような相場観があったからではないか。
0692日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/17(月) 19:15:42.90
>>691
>>675日本@名無史さん2018/12/17(月) 18:20:17.96
>>「南至投馬國水行二十日」も
>>「南至邪馬壹(臺)國 女王之所都 水行十日陸行一月」 も帶方郡から南方向だ。
>>「倭人在帶方東南大海之中」と方位が合わないねぇ。

>南至の部分、帯方郡から南至るでは合わないということは、此処は不彌国から南至るの証明でもある。
>なお我々には不自然であるが、その次の二十日と、十日一月は、現地地理に照らして、帯方郡からの日数と理解せざるを得ない。
>おそらく「水行二十日」と聞けば、中国人には、ハハン二万里のことか・・、というような相場観があったからではないか。

>>666 >>672さん?
別の方?
0693日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/17(月) 19:17:15.95
>>689
はい、失礼しました。
0694日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/17(月) 19:23:35.48
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
0695日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/17(月) 19:24:16.16
>>692
664=672 で〜す。
0696日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/17(月) 19:38:03.00
>>690
じゃ、日向の伝説は何なんだ?
0697日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/17(月) 19:42:49.05
>>696
伝説に惑わされてはいけない
大体神武の東征が紀元前660年とか
どう考えてもおかしいだろ
これは大和が九州と奈良政権に連続性を持たせる為にでっち上げたんだよ
0698日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/17(月) 21:38:13.84
>>697
日向に邪馬台国があったからこそ
でっち上げたんだよ
0699日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/17(月) 23:31:14.90
邪馬台国は福井だわ
0700日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/17(月) 23:53:03.58
>>691
>おそらく「水行二十日」と聞けば、中国人には、ハハン二万里のことか・・、というような相場観があったからではないか。

なるほど。
九州北岸まで一万里も、水行10日に対応しているわけか。
0701日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/17(月) 23:54:21.10
>>698
残念ながら福岡と宮崎では国力に差がありすぎて、宮崎が倭を代表することはできない。
0702日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/17(月) 23:55:38.82
>>644
そもそも、そういう発想の元ネタがなんだったか、じっくりと考えてみようね。
0703日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/18(火) 01:14:34.87
>>700
675 名前:日本@名無史さん :2018/12/17(月) 18:20:17.96
>>672
「南至投馬國水行二十日」も
「南至邪馬壹(臺)國 女王之所都 水行十日陸行一月」
も帶方郡から南方向だ。
「倭人在帶方東南大海之中」と方位が合わないねぇ。

郡からなら
「從郡〜到其北岸狗邪韓國」の箇所と同じく「從郡」と付くと思うけど。
0704日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/18(火) 01:14:41.38
※スレ立てからのお願い※

ウンコネタやスカトロネタは百済スレでやって下さい。

※スレ建てからのお願いでした※
0705日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/18(火) 07:09:38.80
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
0706日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/18(火) 08:20:20.06
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0707日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/18(火) 08:36:34.52
>>697
伝説をでっち上げるにせよ
それがあった場所から話を作らないとおかしいだろ、俺は高千穂に一票
0708日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/18(火) 08:40:29.67
神道、鳥居と言えばやっぱり忌部の郷でしょう。

忌部の郷 徳島県吉野川市山川町忌部山字黒岩 

「忌部神社旧社地 真立石(上古神社鳥居)」

http://i.imgur.com/aaVKHYN.jpg @阿波
0709日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/18(火) 08:42:07.66
徳島県吉野川市山川町忌部山字峯石

「稚宮(わかみや)神社」 

祭神は、思兼尊・長白羽命です。長白羽命? と調べたら荒妙を織った神麻績部の祖神

https://sueyasumas.exblog.jp/16991385/  @阿波
0711日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/18(火) 08:43:11.30
徳島県吉野川市山川町忌部山字白山

「白山(しらやま)比売神社」

石碑には「忌部社摂社 志良夜末比賣神社」とあります!!

「忌部神社」の七摂社の一つで、祭神は「伊佐奈美尊」です(*^_^*)♪

イザナミ命の「遥拝所」・・・。

この「白山比売神社」の南西には「高越山」があり、山頂に「イザナミ」が祀られていると言われています♪

イザナミ命・イザナギ命の神号は海の霊物「イナサ(雄魚)」より名付けられたという説があり、イザナミ命の生前の名は「白山比売」であったという伝承があるそうです!!

https://sueyasumas.exblog.jp/17016171/  @阿波
0712日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/18(火) 08:59:18.56
>>703
南至の部分が、帯方郡から南至ると解釈すると合わないということは、
逆に言えば、ここは不彌国から南至るの証明となる。
なおその次の、二十日、十日一月は、
現代人の我々には不自然・不可解であるが、現地地理に照らして、帯方郡からの日数と理解せざるを得ない。
おそらく「水行二十日、十日」と聞けば、当時の中国人には、ハハン二万里、一万里のことか・・、
というような日常的な共通認識(常識数字、ないし相場観)があったので、あえて詳述するまでもなかったからではないか。
0713日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/18(火) 09:16:33.82
>>712
恣意的な解釈に思えるけどね。
0714日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/18(火) 09:24:19.56
>>713
恣意的ではない。
如何に高等な文法解釈でも、現地に合わなければただのゴミ。
その点、現地の地理・地勢に照らして考察検証を加えれば、>>712は、まことに適切・適正な解釈である。
0715日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/18(火) 09:34:19.92
>>714
>>712は、まことに適切・適正な解釈である。
自画自賛だねぇwww

>南至の部分が、帯方郡から南至ると解釈すると合わないということは、
>逆に言えば、ここは不彌国から南至るの証明となる。
不彌国の比定地は未確定なのにそんなことは「証明」になんかならないね。あなたがそう「思う」ってだけ。

>なおその次の、二十日、十日一月は、
>現代人の我々には不自然・不可解であるが、現地地理に照らして、帯方郡からの日数と理解せざるを得ない。
不自然・不可解な解釈なのに何の文献的傍証もない。
あなたがそう「思う」ってだけ。説得力はないね。

>おそらく「水行二十日、十日」と聞けば、当時の中国人には、ハハン二万里、一万里のことか・・、
>というような日常的な共通認識(常識数字、ないし相場観)があったので、あえて詳述するまでもなかったからではないか。
これもあなたの「仮説」(悪く言えば「妄想」)に過ぎない。何らかの根拠がないと説得力はない。
0716日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/18(火) 09:43:11.98
>>715
うん、いまのところ妄想であることは認める。
(が、グーグルマップでも眺めて、見比べてみてくれ。伊都国は佐賀川上郷、不彌国は吉野ヶ里を含む三根郡≒彌根郡な)
0717日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/18(火) 10:01:07.94
>>716
投馬国の水行二十日と邪馬台国の水行十日陸行一月を急に帯方郡起点にするというのは全く同意できない。
狗邪韓国の記述の箇所で七千余里の起点を帯方郡に戻すのに「從郡〜」と付いているから、もし帯方郡起点に書いているなら同じく「從郡〜」と入ると思う。
万が一書き漏らしたとしても投馬国と邪馬台国の二回連続でそのミスはないはず。
0718日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/18(火) 10:02:29.00
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0719日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/18(火) 10:33:48.80
>>717
>狗邪韓国の記述の箇所で七千余里の起点を帯方郡に戻すのに「從郡〜」と付いているから、

これには、若干の誤解があるようだ。
「従郡至倭」であるから、(洛陽から)郡を経由(従)して、倭(の地)へ至るには・・、と読む。
またここの倭(の地)であるが、
その内容説明は、始度(=渡と掛けてある)一海から、行程国名説明の最後の自郡至女王国万二千余里までとなっている。

このように考えると、「従郡至」は、投馬国の水行二十日と邪馬台国の水行十日陸行一月にも、かかっていると考えることができる。
というのは其のあとで、自郡至女王国万二千余里と重ね書きが出てくるので、
(ふんふん、女王国まで水行十日の一万里と、それに端下の二千里の陸行一月かあ・・、と再確認できる)
0720日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/18(火) 10:41:20.33
>>719
私は「至」と「到」は意味の違いで書き分けているという考えに賛同しているので、狗邪韓国に「到」が使われているところで、繋がりは切れていると考える。
だから
「『従郡至』は、投馬国の水行二十日と邪馬台国の水行十日陸行一月にも、かかっていると考えることができる。」
には全く同意できませんな。
0721日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/18(火) 10:45:51.89
>>720
「従郡至倭」が、狗邪韓国に「到」、で切れているということになると、
倭は狗邪韓国で終わりという理屈になる。


こりゃ全く同意できませぬ。、
0722日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/18(火) 10:50:37.53
>>721
わざとなのかな?
一旦行程が切れて、次の独立した行程が始まるという意味なんですが。
0723日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/18(火) 14:38:16.75
>>707
そうとは限らない、って言うかありえない
王権の目的は皇室の神格化
邪馬台国の存在自体が邪魔で歴史の闇
葬り去った
たぶん出てこないよ
0724日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/18(火) 14:49:40.88
卑弥呼の都をそっくりそのまま神格化すれば、葬る手間が省けるのではないのかな
0725日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/18(火) 17:56:21.51
>>723
アホか、新勢力が邪馬台国を乗っ取ったにせよ痕跡を全部消すとか無理、単に時代が古いから見つからないだけだよ
ただ魏とやり取りしていた文献なり王朝の家系図などは燃やしただろな
0726日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/18(火) 18:27:58.57
卑弥呼の都をそっくりそのまま神格化すれば、格式高き神社の下敷きになって、
興味本位の考古学者の発掘から守られるのではないかな。
0727日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/18(火) 18:44:37.88
>>540
九州説がみんな水行十日陸行一月の起点が帯方郡と考えてるわけじゃない。

「南至投馬國水行二十日」も
「南至邪馬壹(臺)國 女王之所都 水行十日陸行一月」
も帶方郡から南方向だ。
「倭人在帶方東南大海之中」と方位が合わない

郡からなら
「從郡〜到其北岸狗邪韓國」の箇所と同じく「從郡」と付くと思う。
0728日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/18(火) 18:45:48.21
>>727
誤爆です。失礼しました。
0729日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/18(火) 19:05:19.52
卑弥呼の都をそっくりそのまま神格化すれば、天皇家の故都に早変わりできるのではないかな
0730日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/18(火) 19:07:08.67
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0731日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/18(火) 21:10:37.09
私はこの部分は岩元学説に賛成
不弥国の「行」の字で行程終了を表す

伊都から奴国と不弥国は放射的に読む
「行」の字で工程は終了しているので、それからは帯方郡より放射的に投馬国と邪馬台国を説明

投馬国以降は魏略等に記載が無いことから、別文献情報とする

この説だとおおまかにではあるが、邪馬台国は九州でも畿内でも持って行けるのだがな

自分は邪馬台国は北部九州連合を表す説を押しているが
0732日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/18(火) 21:10:44.33
>>727
倭人伝の記述は、不彌国から南へ転じている。
有明海を南下した。
0733日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/18(火) 21:25:46.84
>>725
ヒント
大化の改新
0734日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/18(火) 21:28:50.97
>別文献情報とする

どこでもドアーwww
0735日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/18(火) 21:31:56.12
卑弥呼の都をそっくりそのまま神格化したので、天皇家の故都に早変わりできたのではないかな
それで痕跡が見えなくなった。
0736日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/18(火) 21:55:49.34
>>735

要らぬ心配ご無用。  @阿波
0737日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/18(火) 22:35:52.80
>>735
なるほどなぁ
いずれにせよ卑弥呼は天皇家と繋がりのある
人物である可能性大
0738日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/18(火) 23:28:24.37
>>707
高千穂は海が無い
高千穂だったら日向でも良いんじゃね?
0739日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/18(火) 23:37:10.91
>>737
卑弥呼は熊襲の女酋長だと思うよ
だから邪馬台国は熊本、島原半島か八代あたり
は魏志倭人伝の記述と矛盾しないと思う
0740日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/19(水) 02:15:19.37
>>735
滅ぼしたから祟らないように神格化したかもしれないよ
0741日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/19(水) 07:14:54.81
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0743日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/19(水) 08:40:01.12
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
0744日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/19(水) 09:47:53.61
>>742
足さないと思うよ
一月もかからない距離だし
だから高千穂は△
0745日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/19(水) 09:54:13.32
>>739
邪馬台国=熊襲ならな
狗奴国=熊襲説なら矛盾するよ
ただ島原半島か八代なら水行10日、陸行一月に
合いそうだな
0746日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/19(水) 09:59:23.96
>>744
足そうが、足すまいが、最後は陸行一月だもんな。
ちなみに、松浦(まつら、末盧国唐津)から熊本まで、中世の駅家で約20駅あった。
古代には毎日野営・炊飯したので一日一駅ずつだから、高千穂まで約一月で、概ね当てはまる。
0747日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/19(水) 10:15:32.26
>>746
足せばな
足さない場合は当てはまらん
0748日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/19(水) 10:23:52.94
足そうが、足すまいが、最後は陸行一月だ
0749日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/19(水) 11:02:12.72
>>748
死ね
0750日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/19(水) 12:56:29.60
天孫族が倭国大乱で伊都を去った後に、肥国が福岡も支配下に置いたけれど、肥国内部で福岡の倭王卑弥呼と熊本の卑弥弓呼で内紛があったと考えると、うまくいくと思う。
倭王壹與の時代に再統一され、王都は中間をとって肥前川上に遷都。
熊襲タケルの宮も肥前川上なので、熊襲タケルももちろん倭王。
熊襲タケルを滅ぼしたヤマトタケル(大和の支配者の意味)も倭王。
ヤマトタケルの実態が武内宿禰(筑前住吉の神、筑後高良の神)なので、仲哀を暗殺した武内宿禰も倭王。
その息子の応神も倭王。

「空白の」4世紀の倭王の系譜。
0751日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/19(水) 13:21:56.20
そうだよねえ
親魏倭王卑弥呼から始まる三〜四世紀の倭王の系譜は重要なこと。
その流れの始まりに、後漢書の大倭王居邪馬台国があり、
その終半の方には倭の五王があるわけで、これらも含め、一連のこととして考えるべきと思う。
0752日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/19(水) 14:03:39.34
邪馬台国は30国以上従えていたのだから
熊本も福岡も邪馬台国の一部
卑弥呼はその南にいて狗奴国が最南部だと
すべてが上手く行く
0753日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/19(水) 14:13:42.88
>>750
大和が後に作った伝説のような気がします
熊襲退治云々は邪馬台国と狗奴国の戦いで
邪馬台国が平定するが、後に邪馬台国の分家が大和を興してから二大勢力が平行して7世紀まで続き、白村江の戦い等で九州勢力が衰えたのを見計らってから

国記、天皇記を燃やして
大和が九州で興った数々の伝説をすべて大和の物にした
0754日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/19(水) 15:50:17.15
卑弥呼の出自が肥国だとしても、3世紀においては伊都にいて、平原遺跡が墓だと思う。
狗奴国は平定したのではなく、壹與の共立で家督争いが収まったのだろう。
0755日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/19(水) 17:04:05.17
>>753
九州王朝?
0756日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/19(水) 18:04:51.63
九州の呼称は、鎌倉・室町以降なんだから、(共立)倭国というべきだろな
0757日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/19(水) 18:44:53.99
>>755
九州王朝と言えば
古田を連想してトンデモと思われがちだが
委奴国も邪馬台国も九州王朝なんだよ
0758日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/19(水) 18:49:05.05
>卑弥呼は熊襲の女酋長だと思うよ

熊襲は大和尊に滅ぼされたんじゃ無いのか?
0759日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/19(水) 18:50:13.66
年魚あり
って書かれている古文の一部は
倭人伝のなかにありますか?
0760日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/19(水) 19:17:15.52
>>757
王朝といえば平安時代を連想する。
九州政権、または九州王権にしたまへ。
0761日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/19(水) 19:22:43.67
>>751
後漢書は、大和の南にあるはずの狗奴国を東の東海へ持って行った卑弥呼倭國=大和説の最初の史書。
そして今も、倭人伝の記述を無視する大和説者。
0762日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/19(水) 19:30:32.30
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
0763日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/19(水) 19:45:37.59
卑弥呼の所都をそっくりそのまま神格化したので、其所は天皇家の故都に早変わりできたのではないかな
これで卑弥呼の痕跡が見えなくなった。
(まさか天皇家の祖が卑弥呼だったとは・・、まさに鬼道で良く衆を惑わしたわけだ)
0764日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/19(水) 20:19:02.69
鮎とかいってるのは、これのこと?

夏四月壬寅朔甲辰、北到火前國松浦縣而進食於玉嶋里小河之側。
於是、皇后勾針爲鉤、取粒爲餌、抽取裳縷爲緡、登河中石上而投鉤祈之
曰「朕、西欲求財國。若有成事者、河魚飲鉤。」因以舉竿、乃獲細鱗魚。
時皇后曰「希見物也。希見、此云梅豆邏志。」故時人號其處曰梅豆羅國、今謂松浦訛焉。
是以、其國女人、毎當四月上旬、以鉤投河中、捕「年魚」、於今不絶、唯男夫雖釣、以不能獲魚。

日本書紀にしかないと思うけれど?
0765日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/19(水) 20:32:35.00
>>758
何故に伝説を信じたがる
0766日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/19(水) 20:58:15.92
>>764ありがとうございます
0767日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/19(水) 23:14:37.71
>>720
至の原義は、まっすぐ行き届く。
到の原義は、曲折を経て届く。
      (学研漢和大字典・藤堂明保編)
0768日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/19(水) 23:16:04.01
>>760
そもそも卑弥呼の称号は倭王だろ。
天皇家と無関係ならそれはそれで一大事かもね。
0770日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/20(木) 00:23:23.92
搬入土器が無いから邪馬台国と大和は関係無い
九州に中国系の勢力があって畿内に独立系の勢力があった、九州の方が発展していたが度重なる戦乱により自滅
一方畿内は着実に力をつけて7世紀あたりに
衰える九州を平定した
0771日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/20(木) 07:24:37.16
>>770

妄想は聞き飽きた と、何度言えばw  @阿波
0772日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/20(木) 09:03:59.56
>>767 >>769
なるほど納得した。
・至は、AB間を直線的に表した距離。
・到は、道なりの距離(途中で大きく角を曲がる、又は分かれ道などを曲がることがあるなどの意味)。
0774日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/20(木) 09:42:24.54
>>772(続き)
従郡至倭・・・郡と倭の位置関係を直線的に指して言っている
〜〜到狗邪韓国・・・南して東して、途中で大きく曲がった行程だから到ると表現している(旅が途切れるわけではない)。
〜〜到伊都国・・・松浦から最初は南へ向かったが、途中の多久で東に転じる行程なので、東南到る伊都国(同上)
ーー南至投馬国・・・途中の行程には言及せず、不彌国から南の方角に目的地の投馬国が有るとの表現
ーー南至邪馬台国・・・同上
0775日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/20(木) 09:45:51.26
>>774
3 名前:日本@名無史さん :2018/11/26(月) 10:52:04.48
0003 日本@名無史さん 2018/11/12 21:15:15
張氏の解説を踏まえて進めていきたい。
多くの学者は「到」「至」「従」「始」「又」を考えずに解釈してきたらしい。そのため、「帯方」「対馬」「一大」「末蘆」「伊都」「奴」と、いわゆる「直線読み」をしてきた。さらに「放射読み」をしてきた学者は、「起点」を

間違えて、「邪馬台国」までたどり着けなかった。「直線読み」は、文献を全く理解出来ない、まるで小学生並みの解釈だ。

では、何が正しいのか?問題はまず「伊都国」「奴国」の解釈に出てくる。『東南に陸行すること五百里、伊都国にいたる。』の「起点」は「末蘆国」である。しかし、「伊都国」の前には「到」があるため、そこは「起点」にはなりえない。

つまり、次の「奴国」の「起点」も「末蘆国」である。さらに『東行して不弥国にいたるに百里』と続くが、やはりこれも「末蘆国」が「起点」であり、「伊都国」や「奴国」を「起点」にしてはいけない。

「伊都国」を「起点」にしてしまっている学者が多い。これを正しく訳すと「末蘆国から伊都国までは五百里、末蘆国から奴国までは百里ですよ。」ということになるし、

それ以外の読み方はできないそうだ。まだ途中だが、ここまでくると、今までの学者の解読が
いかにいい加減かが分かってしまう・・・。
距離、方位等を考えると比定地は現在の「潜木」となる。

ここでひとつ矛盾が生じた。実は「奴国」には「至」が使われていることだ。つまり、今までの解釈では「奴国」も「起点」になる

はずだが、張氏は違うとはっきり言っている。
「起点」になるためには、まず「距離」が書かれた後に「地名」が書かれなければいけないが、「奴国」の場合、

「地名」の後に「距離」が来ている。
この場合は「・・・ならば・・・」と仮定として読まなければいけないそうだ。

つまり「末蘆国から伊都国までは五百里、末蘆国から奴国へ“行くならば”百里ですよ。」・・・つまり「奴国」へは行っていない、当然そこを「起点」にしてはいけない

ということだ!・・・続く!
参照:張 明澄著「誤読だらけの邪馬台国〜中国人が記紀と倭人伝を読めば・・・〜」
0776日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/20(木) 10:03:20.13
>>775
>「起点」になるためには、まず「距離」が書かれた後に「地名」が書かれなければいけないが、「奴国」の場合、
>「地名」の後に「距離」が来ている。

この言い分⤴では、狗耶韓国は起点になり得ない。
因って、元の帯方郡に戻って、南の対海国へ渡海することになるではないか、納得できぬぞチャン???、
・乍南乍東到其北岸狗邪韓国。七千余里。
0777日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/20(木) 10:14:48.82
>>776
だから「七千餘里」が付いてるのでは?
狗邪韓国から七千余里ではなく、郡から七千余里だから。
「從郡至倭循海岸水行韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國」
「七千餘里始度一海千里 至對海國 其大官曰狗 副曰奴母離 所居絶方可四百里 土地山險多深林 道路如禽鹿徑 有千戸 無良田食海物自活乗船南北市糴」
0778日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/20(木) 10:48:38.32
チャンミンの特徴は、ダブルスタンダードというよりも、
その都度スタンダードの自在説なんだな。
自由自在、360度首が回るちゃん。
0779日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/20(木) 11:16:20.22
>>775
張先生の解説は、非常に惜しい。
「到」「至」の違いは重要だし、奴国に行っていない、と言うのも正しい。
ただし、到る が起点にならない、と言う偏見に、拘泥してはいけない。

先生に学ぶ後継者へのヒントを提示しよう。
テンプレを読む限りでだが、惜しいのは動詞への考慮が欠けているから。

到狗邪韓国 到った、のは、循海岸水行 歴韓国が終わって 到達 したのである。
これによって、始度一海 つまり、海岸水行から渡海 の起点となっている。
以降、渡海 を動詞として末盧國に至り、陸行で 到伊都國 に到達する。

ここ伊都は、247年塞曹掾史張政の渡航目的 為檄告喩之 の終了点となった。
帯方郡から到狗邪韓国の後、至 で里程を示す 各地を経て、1万500里である。

次に、東南 至奴国 これには、動詞が無い。 奴国の位置を示したのである。
奴国は、黄幢拝假難升米 為檄告喩之 の 大夫=奴国王 奴の升米 の国である。
張政は伊都に駐留させられ、升米への檄告喩は伊都に呼びつけて行われたのだろう。 

東行 至不彌國 これは、動詞が有り伊都から出て、行った。
帰国の船便 >壹與 遣倭大夫率善中郎將掖邪拘等二十人 送政等還因詣臺
の母港であろう。 247年 使 張政の 從郡至倭 の 譯 はここまでである。

南至 投馬國 南至 邪馬壹國 は、経由地ではなく国名、
前段の経由地とは違い里程、動詞も無い。 上記、247年張政の行程説明とは別の、
240年の 使 建中校尉梯儁 の 從郡至倭 の 譯 が ここから始まる。
梯儁は将軍であり、魏の軍船によって水行30日及び陸行1月の行軍で卑弥呼宮で印綬した。

張先生の解説は、非常に惜しい。 
のか? 発表時期が 南至 投馬國 が 200年当時有った 半島南岸の倭国である。
に、関する存在否定への配慮なのかは、微妙って言えば微妙なのかもしれない。
0780日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/20(木) 12:19:28.24
張さんが一番分かりやすい
0781日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/20(木) 12:37:11.27
分かりやすいぶん、
複雑に入り組んだ現地の実態に合わないのがザンネン
0782日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/20(木) 12:44:44.44
>>781
根拠は?
0783日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/20(木) 12:51:59.87
>>780
張先生の間違いは、伊都国の「到」が起点にならないという
意味不明のご都合主義に近い、偏見に拘泥して
最終到達点として「到」ってしまっている、伊都の近所で
張政が行ってない 奴国でも、隣の不彌国 でもなく、

末蘆国迄引き返し、結局、行った渡った、という行程中の動詞で繋がらない、
概念違いの国名でもある、投馬国、邪馬台国 を里程行程の247年張政の行程と
別の段落 240年の梯儁 の行程に繋げてしまった、ということに尽きる。

>間違えて、「邪馬台国」までたどり着けなかった。
「直線読み」は、文献を全く理解出来ない、まるで小学生並みの解釈だ。
∧_∧  / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( ´∀`)< オマエモナー
(    )  \_____
| | |
(__)_)
0784日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/20(木) 13:04:04.69
>>783
>張先生の間違いは、伊都国の「到」が起点にならないという
>意味不明のご都合主義に近い、偏見に拘泥して
「至」と「到」が同一箇所で使われているときは意味が異なる、というのが考え方の根幹なんだからそこを根拠を示さずに「意味不明のご都合主義に近い」としてしまう理由がわからない。
0785日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/20(木) 13:07:46.14
>>784
770 名前:日本@名無史さん :2018/12/20(木) 00:23:23.92
搬入土器が無いから邪馬台国と大和は関係無い
九州に中国系の勢力があって畿内に独立系の勢力があった、九州の方が発展していたが度重なる戦乱により自滅
一方畿内は着実に力をつけて7世紀あたりに
衰える九州を平定した
0788日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/20(木) 13:11:26.35
>>784
>「至」と「到」が同一箇所で使われているときは意味が異なる、

この文章は、不正確で意味不明なのだが、わかるかな。
0789日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/20(木) 13:16:49.50
>>788
そうか、すまん。
「至」と「到」が同一箇所で使われているときは、
意味を区別して使用されている。
ならわかるかな?
0790日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/20(木) 13:16:54.09
どうやら、薩摩隼人が出没して頑張ってるようだな
0791日本@名無史さん
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2018/12/20(木) 13:22:28.19
>>789
>「至」と「到」が同一箇所で使われ・・・

二つの単語が同一箇所にあるという表現はおかしい。
また、同一文章内にあるというのも、なかなかありえないことだ
よって、。一連の行程説明文章の中で使われ・・・、だろうな。
0792日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/20(木) 13:25:33.75
>>784
ウンコさんを相手にしてもきりがないですよ
0793日本@名無史さん
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2018/12/20(木) 13:27:29.10
>>791
ご指摘のとおりです。修正ありがとうございます。
0794日本@名無史さん
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2018/12/20(木) 14:04:11.28
【折角だから、行程論 240年梯儁 の行程解説】
・南至 投馬國 水行二十日 官日彌彌 副日彌彌那利 可五萬餘戸
・南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
・官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七萬餘戸
起点は帯方郡である。南至投馬國 は韓伝の半島南岸 韓方可4千里の南の倭人国
南至 邪馬壹國 は、女王の所都がある、福岡筑紫平野である。←後説

「官有」 前段、247年倭人船便乗で同行、張政の雇った 副日卑奴母離 は
238年楽浪帯方を陥落した直後で韓西岸初行軍の240年梯儁の行程には出てこない。

張政は倭人船寄港の和名都市間を漢字化し里程で示した。
梯儁の行軍は、決まった寄港地名は無く国名と人口、行軍の全日程が示されている。

・自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳
女王國という表記は、数代に渡る戦史、三国志における、日本国の表記には不適。
238年から247年の間、筑紫にあった女王の国の話であり、倭王では無かった、と言うこと。

・次有 ―列記21国― 此女王境界所盡
次有 が21回繰り返され、此 全てで女王の境界は尽きる。
女王国は21王国で形成され、前段の 丗有王皆 統屬女王國 の意味が理解できる。

これを、梯儁が倭の一部を為す国邑、邪馬台国と命名し、印綬の際 参問した女王国の国勢が
日本列島の一部九州 絶在海中洲㠀之上 或絶或連周旋可五千餘里 であり21国で7万戸である。
其餘旁國遠絶 不可得詳 は後出の、女王國東渡海、侏儒國、裸國 黒齒國 の倭種の事。

・其南有 狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王  自郡至女王國 萬二千餘里
九州上陸2千里の南には狗奴国が有り、女王には属さない、未知の餘旁國の類。
この、女王までの行程が、水行30日、陸行1月の行軍で 自郡至女王國 萬二千餘里 である。

247年張政の行程は、伊都まで1万5百里。240年梯儁の行程は南端の女王宮まで萬二千餘里である。
九州説で女王国が この範疇に収まらないなら、何かが間違っている。
0795日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/20(木) 14:08:56.68
>>794
これって魏志倭人伝に書いてはいないことだらけだけど、何が根拠なの?
0796日本@名無史さん
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2018/12/20(木) 15:21:10.43
うてな遺跡:熊本県菊池市七城町臺(台・うてな)

環濠を有する弥生後半の遺跡調査の部分を読んでみると、
環濠の中に多数の土器類鉄器類などが放棄(投棄)されている。逆さに投げ込まれた石の腰掛なんかもある。
ちょうど、吉野ヶ里遺跡の終末のような印象を受けた。

この時代の九州は、そういう時代だったのだろうか。
file:///C:/Users/Owner/AppData/Local/Packages/Microsoft.MicrosoftEdge_8wekyb3d8bbwe/TempState/Downloads/16405_1_うてな遺跡%20(1).pdf
0797日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/20(木) 17:57:43.59
どなたかのブログです。
(唐津の東南に伊都国・吉野ヶ里あり)

邪馬台国は九州熊本にあった
http://www.pipi.jp/~exa/kodai/kaimei/yamatai.html
0799日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/20(木) 18:57:48.90
>>795
マジかよ?

概ねで、本文引用で、行間は
漢文で当然読むべき 張先生同様の 理解の基本だが、

これの
魏志倭人伝に 書いてない事
って何?
0800日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/20(木) 19:12:03.07
>>798
熊本説なら概ねで倭人伝は読めている。
大牟田や南関が、女王国かどうかはアタシも迷う。

女王宮は 九州上陸後、2千里。

半島南岸から壱岐。または、九州北岸から対馬。
この平均が、2千里であるとすると、九州上陸後、2千里は、熊本に届くかな?
0801日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/20(木) 19:31:41.14
>半島南岸から壱岐。または、九州北岸から対馬。
この平均が、2千里であるとすると、九州上陸後、2千里は、熊本に届くかな?

倭人伝行程での 算数の、命題はまだあるよね。
所詮、算数の命題、なのだが・・・

半島南岸から壱岐、九州北岸から対馬 が二千里=九州上陸から女王宮

壱岐 対馬間は、千里 九州北岸のどっか〜壱岐も千里。 
このどっかが 末盧國。

半島南岸のどっか 狗邪韓国〜対馬は 千里。
対馬から千里のどっかは狗邪韓国。

平均すれば、小学生でも千里は定義可能、だろ?
0802日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/20(木) 19:33:42.42
女王治所は 九州上陸後、600里
0803日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/20(木) 19:39:31.56
[里]を単位として記された[界]情報を
すぱっと切り捨てたがる理由はなんなんだろう
0804日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/20(木) 20:00:59.97
>>771
なら出ていけよ
0805日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/20(木) 20:01:32.67
上陸後の600里は古田説で、けっきょくたどり着けず、失敗に終わったやつだ。

だから、松浦上陸後2000里で女王の所都が、最も順当なところだな。
2000里というと150qくらいだから、博多回りでも余裕で熊本。
松浦から佐賀へ進んで伊都国(佐賀川上)と不彌国(吉野ヶ里)へ立ち寄り、
そこから真南に降って南関を抜けるなら、山鹿・菊池を経て、熊本平野の南端まで達する。
0806日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/20(木) 20:03:52.54
>>799
>・南至 投馬國 水行二十日 官日彌彌 副日彌彌那利 可五萬餘戸
>・南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
>・官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七萬餘戸
>起点は帯方郡である。南至投馬國 は韓伝の半島南岸 韓方可4千里の南の倭人国
これは書いてない。


>247年倭人船便乗で同行、張政の雇った 副日卑奴母離 は
>238年楽浪帯方を陥落した直後で韓西岸初行軍の240年梯儁の行程には出てこない。
これも書いてない。


>張政は倭人船寄港の和名都市間を漢字化し里程で示した。
>梯儁の行軍は、決まった寄港地名は無く国名と人口、行軍の全日程が示されている。
これも書いてない。


>238年から247年の間、筑紫にあった女王の国の話であり、倭王では無かった、と言うこと。
これも書いてない


>これを、梯儁が倭の一部を為す国邑、邪馬台国と命名し、
これも書いてない。


>247年張政の行程は、伊都まで1万5百里。240年梯儁の行程は南端の女王宮まで萬二千餘里である。
これも書いてない。
0807日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/20(木) 20:05:31.02
>>770
>九州に中国系の勢力があって畿内に独立系の勢力があった、九州の方が発展していたが度重

元はどっちも倭人
朝貢してるかしてないかの違いだ
0808日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/20(木) 20:06:35.01
当たり前のこととして書いてあるのを認めたくないだけ。
0809日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/20(木) 20:11:09.35
>熊本平野の南端まで達する

水俣市は小さい、八代市は沼地

結局川内平野だな、決まりだわ
0810日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/20(木) 20:11:57.18
東南陸行五百里到伊都國

@東南に五百里陸行したら伊都國に到る

A東南に陸行する 五百里のみちのりで伊都國に到る
0811日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/20(木) 20:18:11.93
500×0.0765 
40km近いみちのりを歩いてもらうのは過酷

途中に川があったらふつうに舟で渡るだろう
全行程陸行というわけにはいかんよ
0813日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/20(木) 20:54:23.11
>>811
>40km近いみちのりを歩いてもらうのは過酷

現代の電車・クルマ社会に慣れ切った人種には、たしかに無理じゃろうね
でも、江戸時代までは、箱根八里(32q)なんか、当たり前だった。
オレの生まれ故郷の山里では、昭和の中ごろまでそうだった。今でも、最寄り駅まで八里ある。。。
0814日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/20(木) 21:11:46.16
>>806
金印に卑弥呼って、名前書いてないと考古学立証しない
みたいな、世界で生きてんのか?

それは、三国志倭人伝を 読めてない ってだけだ。
張先生が言う、全て矛盾なく読める、ってことで筋が通る。

まあ、至 到 程度で 矛盾を指摘されたら、筋は通らん。
5ちゃんねる歴史板では、投馬国=半島南岸倭国 が真実で、忖度は存在しない。

魏の官僚や倭人伝読者の知性での認識は、【投馬国】が何処か を知っている。
この前提で、倭人伝を読めば、全文に疑問は生じない。

魏の遠征及び、使譯によって通じた、東夷朝鮮韓四郡 以遠には
馬韓54国、辰韓12国、弁韓12国、邪馬台国21国、投馬国○○国 があるwww
なぜ、投馬国や日本列島本州諸国は ○○国で、未知の辺境なのか?

中華統一前の魏は、冊封に応じない倭と言う辺境の大国を認めたくないのである。
筑紫卑弥呼の朝貢で帯方郡太守は大手柄と思って卑弥呼を倭王と皇帝に紹介した。

それが238年から247年にあった、倭の一小国、女王国を記した倭人伝なのである。
数代に渡る戦国三国志では 女王国 なんて呼ぶ故人の国は国のうちに入らない。
0815日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/20(木) 21:18:17.08
>冊封に応じない倭と言う辺境の大国
0816日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/20(木) 21:44:03.90
>>814
まだあなたの仮説(悪く言えば妄想)に過ぎないとしか思えない。
書くときは魏志倭人伝に記載がある確かなこととあなたが個人的にそう思ってるってことを分けてくれないとこちらはわからない。
0817日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/20(木) 21:51:03.63
>>814
>5ちゃんねる歴史板では、投馬国=半島南岸倭国 が真実で、忖度は存在しない。

だいぶいいことを書いているっぽいのに、ここで台無しだよ!
0818日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/20(木) 21:51:06.82
>>797
2018年の8月、9月のブログに登場してるから、最近、急に熊本説が増えたんだねえ。
0819日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/20(木) 22:54:25.10
>>797
起点は末廬国だから却下
0820日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/20(木) 23:08:02.01
九州は未発掘すぎわ
吉野ヶ里クラスの遺跡がまだありそうだな
0821日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/20(木) 23:27:17.40
伊都奴国クラス>>>吉野ヶ里クラス(≧唐古鍵)>九州その他
0822日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/20(木) 23:41:30.70
奴国の弥生銀座が最強だね。

現代の東京都心と同じで
そこだけで倭国の経済活動が成り立っている。

だから魏志倭人伝の一万二千余里も奴国弥生銀座を指し示しているんだね。
0824日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/21(金) 08:32:57.96
北九州だとは思えない
0825日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/21(金) 08:35:09.01
熊本平野だったら
人吉が狗奴国か
0826日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/21(金) 08:39:31.34
>>822
>奴国の弥生銀座が最強だね。
>そこだけで倭国の経済活動が成り立っている。

朱の精製跡や鍛冶遺跡もほとんど無いところに「倭国の経済活動」とは片腹痛い。  @阿波
0827日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/21(金) 08:41:08.85
博多・北九州の全盛期は、
金印もらった一世紀の頃
0828日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/21(金) 08:41:14.30
>>825
>熊本平野だったら
>人吉が狗奴国か

そんなところに狗奴国が勃興する道理が無い。  @阿波
0829日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/21(金) 08:43:48.96
>>827
>博多・北九州の全盛期は、
>金印もらった一世紀の頃

その「金印」とやらも、「博多・北九州」がもらったものじゃないよ。  @阿波
0830日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/21(金) 08:51:34.33
人吉は奈良盆地くらいある広い肥沃な土地だ。しかし意外なことに古墳が少ない。
遅い時期のは若干あるにはあるが、ややちがった文化を持っていたように感じる。
狗奴国は、軍師張政らに支援された邪馬台国と追っ払われ、しぶしぶ人吉に下がったのではないかな
0831日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/21(金) 08:55:43.11
大型古墳のない人吉は何者だったのか、大いに研究してみる必要がある。
0832日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/21(金) 08:58:15.14
>>827
いつ倭は東遷したの?
0833日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/21(金) 09:09:27.30
>>830

そんなところに狗奴国が勃興する道理が無い。  @阿波
0834日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/21(金) 09:32:56.24
>>817
逆の意味で 投馬国=半島南岸倭国 を承諾しないと
・南至 投馬國 水行二十日 官日彌彌 副日彌彌那利 可五萬餘戸
・南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
の起点が 240年梯儁の行軍の起点帯方郡であることが成立しない。

・投馬國 は半島南岸 ・邪馬壹國 は九州筑紫
であり、人口5万、7万、で並立する倭種の国 である。
またこの二国は、国とはいうが、地域都市間の里程を示す、前文に対し、
概念が馬韓54国、辰韓12国、邪馬台国21国のような概念の、いわゆる国名である。

国名邪馬台国は240年梯儁が印綬で女王国の規模を参問した際の、和名を漢字化した
女王属国21国の総称国名として、梯儁が命名、この内の邪馬国と関係は有るはず。
奴国が2回出てくるのは、247年の行程と、女王属21国が併記されているため。

247年の伊都、末廬、不彌は、港等で女王属の21王国名では無いか、
240年以降に出来た都市。 女王宮は卑弥呼時代、女王国南端であり、伊都ではない。

投馬國 は馬韓に応じる、表意文字であり、公孫氏時代から、既知の国名とすべきで、
これを知っている魏の官僚、軍人が倭人伝を読めば
南至 投馬國 水行二十日 と読んだ瞬間に起点が郡に変わったことを理解する。

投馬國は半島南岸倭人国、これだけで倭人伝の疑問は消滅する。
逆に言うと、これだけの為に倭人伝論争続けてんだろ?
(阿波とかの、アラシ系意外だけどwww)
0835日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/21(金) 09:37:01.85
『太陽』というのは、この時代に誕生したの?
邪馬台国の頃?

もっと昔からあると思ってたんだけど、
・・・・もれ(仮)が間違っていて、何かに洗脳でもされているのかな
0836日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/21(金) 09:50:58.47
>>833
お前は黙ってろ
0837日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/21(金) 09:56:38.41
>>827
>博多・北九州の全盛期は、
>金印もらった一世紀の頃

ねえねえ、倭はいつ東遷したの?
0838日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/21(金) 10:01:01.29
女王国の東、海を渡って千余里行くと、また国が有り、皆、倭種である。また、侏儒国がその(女王国の)南にある。

人の背丈は三、四尺(72p〜96p)で、女王国を去ること四千余里。また、裸国と黒歯国があり、また、その(女王国の)東南にある。船で一年行くと着く。
0839日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/21(金) 10:20:39.65
>侏儒国がその(女王国の)南にある。

これを種子島と比定してみる
種子島の北に女王国(九州)があると言う事が分かる

>東に海を渡って千余里行くと、また国が有り、皆、

中国地方か四国しかない
千よりにしては出雲は九州に近すぎるので
四国だと言う事がわかる、恐らくこれが阿波

と言う事は阿波から真っ直ぐ西へ千を引くと
重なる地域が邪馬台国

そこは
日向、高千穂、延岡
この辺りだ
0840日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/21(金) 10:22:16.34
>>827
>博多・北九州の全盛期は、
>金印もらった一世紀の頃

ねえねえ、倭はいつ東遷したの?
0841日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/21(金) 10:44:06.47
女王國東渡海千餘里 復有國皆倭種
又有侏儒國在其南人長三四尺 去女王四千餘里
又有裸國 黒齒國在其東南船行一年可至
参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連周旋可五千餘里

この段落は、これを一連で読む。
参問倭地(邪馬台国)は 九州島の上 周旋可五千餘里 であるが
中国の認識としての倭は 古い伝説など
女王國東渡海国 侏儒國 裸國 黒齒國 含め 
船行一年可 以上の大きさがある国土(の太平洋国家)である。

女王国は、倭王とするには小さすぎた事 を言っているのである。

ちなみに、在其東南船行一年を12月行とした場合、ぴったし小笠原島がある。 
(一月行は2千里、日程行程ではなく地図上の確定座標の存在が見える)
これは伝説のまぐれ当たりか? 海洋民情報か?
0842日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/21(金) 10:53:15.42
>>839
おい、阿波の西は九州北部だぞ
地図みて言えよまぬけ!
0843日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/21(金) 11:14:07.80
>>842
すまぬ!阿波があんなに北にあるのは知らなかった、四国南部の間違い
阿波、阿波って言う奴がいるから
吊られたw
0844日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/21(金) 11:24:07.68
スレの流れが中北部か中南部になってきてる
西海岸か東海岸か?
「東に海を渡って」と言う事は東海岸だよね
ここで熊本説と鹿児島説は崩れるが
残るは大分と宮崎しかないぞ
0845日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/21(金) 11:41:18.47
東南一年、裸国と黒歯国はインドネシアしか無い
0846日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/21(金) 11:52:01.22
>>839
朱儒国=種子島(シュジュ、シュシ)
は同意
と言うか種子島に小人族の遺骨が見つかったから、ほぼ確定だろ

逆から見て種子島の北は鹿児島、宮崎、大分、福岡、熊本

四国の西は宮崎、大分、福岡、佐賀、長崎、熊本
重ならない地域は消える
0847日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/21(金) 12:20:35.38
>>846
>四国の西は宮崎、大分、福岡、佐賀、長崎、熊本

そんなところに狗奴国や邪馬台国が勃興する道理が無い。  @阿波
0848日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/21(金) 12:29:07.84
>>845
初見です。 邪馬台国インド説 乙

>>486
又有侏儒國 在其南 人長三四尺 去女王四千餘里
で、読むと、種子島北4千里は筑紫平野南端で女王の居所だよ。

女王国九州北部一月行=2千里、九州島南北 三月行=6千里 の根拠でもある。
これは文献、京畿湾から済州島 三月行 とも一致する。
0849日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/21(金) 12:34:32.54
・又有裸國 黒齒國在其東南船行一年可至

これは誌国の東南だから、伊豆大島から八丈島にかけてのこと。
0850日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/21(金) 12:48:53.79
>>844
関門海峡を通過しないと南に水行できない。
0852日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/21(金) 12:50:30.13
>初見です。 邪馬台国インド説 乙

日本語の読めない方は
お引き取り下さい
0853日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/21(金) 12:59:19.72
阿波から去る南4千里なんて無いし・・・
てか、阿波も南=東で 不彌国以降直列読みでしょ。
里程方角全部 矛盾だらけだよ。 
張先生も所詮モナーの直列読みだけど・・・

対馬渡った初渡航の魏の船が、瀬戸内海で荷物積み替えとか
有り得ると思ってる、発想が有り得ない。 瀬戸内海フェリーかい。
0854日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/21(金) 13:06:40.40
>>4
うむ。だが...

>「末蘆国(佐世保)」についた後、好きな方を選べるように両方記載したと思われる。

だが末廬国を佐世保に比定するから
塩田やセンギとか出てきてややこしくなる
志賀島で金印が見つかったのは糸島市から持ち出された物と言う話があるから伊都国は糸島市で間違い無いと思う
糸島から500里西の港は唐津
壱岐の最北端から唐津まで70キロ(千里)あるから末廬国は唐津で矛盾しないよ

そうなると佐世保と唐津の距離をそのまま
張さんが比定した川内から北に繰り上がった場所が邪馬台国だろ
0855日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/21(金) 13:07:11.31
>>853
>対馬渡った初渡航の魏の船が、瀬戸内海で荷物積み替えとか
>有り得ると思ってる、発想が有り得ない。 瀬戸内海フェリーかい。

瀬戸内海???  なに言ってんの?  @阿波
0857日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/21(金) 13:16:57.29
>>854
唐津から南には水行できない
0858日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/21(金) 13:19:06.00
>>854
佐世保から唐津まで50km
張氏が比定した阿久根から50km北は熊本県芦北町、水俣と八代の間、内陸部に球磨郡と人吉がある
0859日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/21(金) 13:20:13.37
>>857
西周りで出来る
0860日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/21(金) 13:21:57.83
>>859
平戸を回るなら唐津には行かなくていいんじゃないかな
0861日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/21(金) 13:32:00.60
>>860
唐津は大陸からの玄関口(唐の津)
古来から栄えた港だ
菜畑遺跡もこの近くにある
0862日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/21(金) 13:37:30.28
>>861
>菜畑遺跡もこの近くにある

弥生時代早期初頭の「菜畑遺跡」しかないの?  お粗末すぎて却下。  @阿波
0863日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/21(金) 14:22:35.37
>>862
お前は黙ってろ
0864日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/21(金) 14:32:15.89
水行10日に
川を遡ると言う説もあるらしいな

卑弥呼は鮭かよ!
0865日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/21(金) 16:05:28.40
>>861
唐津が末盧国かどうかはまだ未確定なはずだけど
0866日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/21(金) 16:17:41.73
魏志倭人伝の文面だけを正しく読むなら、陸地に着地しないんでねーの?
0867日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/21(金) 17:14:24.98
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
0868日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/21(金) 17:27:57.36
邪馬台国論争が再び白熱 「九州説」派巻き返し

元昭和薬科大の原田実氏は「つくられる古代史」(新人物往来社)の中で、
纒向遺跡は「大規模古墳などの建築に関わった労働者の村ではないか」と仮説を示す。
自らは熊本県北部の「うてな遺跡」を候補地に挙げる。https://style.nikkei.com/article/DGXBZO35318230U1A001C1000000?page=2
0870日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/21(金) 17:45:14.72
>>868
>纒向遺跡は「大規模古墳などの建築に関わった労働者の村ではないか」と仮説を示す。

だから、纒向遺跡は「忌部はん」 の古墳造営前線基地 と、何度言えばw  @阿波
0871日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/21(金) 17:50:27.63
>>869
佐世保だと伊都国(糸島)まで遠すぎるぞ

伊都国=糸島市と比定した場合は
末廬は唐津しかない、壱岐から距離が短いのは
対馬海流の波に逆らって航行しなければならないため古代の人には距離が長く感じたのかもしれない
0872日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/21(金) 17:53:17.06
伊都国=糸島市なら
末廬国=松浦市
これで間違いなか
0873日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/21(金) 17:54:15.34
>>869
伊万里港最深部で全ての問題が片付くし、佐世保はちょっと遠すぎるかな
0874日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/21(金) 17:57:33.64
>>872
何気にそれで良いかも
0875日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/21(金) 17:57:38.75
>>871
>対馬海流の波に逆らって航行しなければならないため

対馬海流の波に逆らったら、「土左衛門」だよ。 ナンマイダ。  @阿波
0876日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/21(金) 17:58:14.05
古代中国の知見と価値観で読む邪馬台国・奇跡の解法
前人未到の道を行く (2011-07-28)
 倭人伝のいう通りに進めば、そこにはいったいどんな国々があるのか……。
 邪馬台国研究史上、かつて前例のなかった道に挑戦する。(森村伊作)

−東南へ−
先に私は、伊都は「いつ」だった可能性が高いことを幾つかの実例と根拠とともに提示した。
倭人伝のいう伊都国は「いつ」と呼ばれた国であった。
末盧国の港(唐津港)から、山あいを縫うように、松浦川沿いに(現在の唐津街道を通って)東南に500里陸行する。
https://blog.goo.ne.jp/dogs_ear/e/52dd43e7249aa8b9b4926229898ec2c4?fm=entry_awp_sleep
0877日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/21(金) 18:04:14.43
>>876
>倭人伝のいう通りに進めば、そこにはいったいどんな国々があるのか……。

倭国(阿波)。  @阿波
0879日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/21(金) 18:10:32.88
>>878
>それはない

と思いたいだけ。 
とっくに魏志倭人伝の「其山有丹」で、倭国(阿波)にたどり着いちゃってる♪  @阿波
0881日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/21(金) 18:39:24.44
>>880
>邪馬台国は筑後山門と肥後山門を合わせた超大国

そんなところに邪馬台国が勃興する道理が無い。  @阿波
0882日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/21(金) 19:11:21.53
熊本県人吉市駅裏の「大村横穴墓群」
(人吉は、前方後円墳のないめずらしい地方で、九州ではやや異文化の地)

>「横穴墓」は、古墳時代終末期の支配者層の墓の一種で、山の斜面に横穴を掘り、
羨道・玄室などを備えた墳丘を持たない古墓です。
>この形式の墓は、九州を起源とする説が有力で、5世紀末から7世紀にかけて、
>九州地方はもちろん、東北南部にまで至るほぼ全国に広がり、古墳時代約400年間の最後を飾るものとなりました。
https://blog.goo.ne.jp/tako_888k/e/43c526e27ccb7e3276ca86155baded26
0883日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/21(金) 19:18:20.16
人吉に、かの前方後円墳の文化が及んでいなかったということは、
倭国や邪馬台国や大和王権の葬送文化が及んでいなかったということでもある。
此処を素より不和の狗奴国に比定するのが、最も納得しやすいのではないか。
0884日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/21(金) 19:20:28.86
邪馬台国とヤマト王権を安易に結びつけるなよ。
0885日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/21(金) 19:26:05.14
>>883
>此処を素より不和の狗奴国に比定するのが、最も納得しやすいのではないか。


そんなところに狗奴国が勃興する道理が無い。  @阿波
0886日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/21(金) 19:29:48.95
>>884
そうかい、
邪馬台国と大和王権、其のどちらかに古墳文化がなかったのかい?
0887日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/21(金) 19:32:14.09
邪馬台国も狗奴国もどちらも九州にあり、当時は小さな地方勢力だったヤマト王権とは関係なかったのだろうね。
0888日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/21(金) 19:34:02.11
>>887

そんなところに邪馬台国や狗奴国が勃興する道理が無い。  @阿波
0889日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/21(金) 19:35:04.50
狗奴国は、邪馬台国に追っ払われて、遠絶の山中の人吉に逃れたわけだ。
いわば、古代の平家落人だな。
おお、そういえばたしか、人吉東方の深山幽谷には、椎葉村や五木村があったな。
0890日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/21(金) 19:56:20.26
狗奴国 = 球磨国
0891日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/21(金) 19:57:32.39
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学
0892日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/21(金) 20:09:17.20
>>869
それ鐘崎って言ってるやんけ
長いし、ユダヤが入ってくるし
四国説だし、読んで損したわ!
0893日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/21(金) 20:14:02.71
>>892
すまん、良い地図出てたから
他人のブログを借りてきた、読み進んでたら
眠くなってきた
地図だけは良いね、地図だけは
0894日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/21(金) 20:15:15.85
>倭人伝のいう通りに進めば、そこにはいったいどんな国々があるのか……。

11,900里で1,000戸の壹都國

壹都國から西に100里で
淡海[a-fu-mi]というラグーンの岸辺にひろがる
不彌國[fu-mi]に着く ここまで〆て12,000里
この岸辺には山門[ja-ma-do]の地名も現存している
この汽水湖の西側の入口が小戸[wo-do]である
ちなみに[山門]の3世紀現地表記は[邪馬戸]だろう
すなわち[邪馬]界への出入り口の意味である

女王治所の中心地は日向川河畔の[都地]地名が残るあたり
女王治所の界内は魏晋側から女王國の名で呼ばれる
0895日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/21(金) 20:16:26.28
× 西
○ 東
0896日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/21(金) 20:20:36.30
>>892-893

どう転んでも、倭国(阿波)に辿り着くんだよ。  @阿波
0897日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/21(金) 20:28:11.06
>>873
伊万里は入り組んでるから
「入り組んでる所である」って書くんじゃないかな

俺は唐津で良い気がする、海岸線は
今より遠いだろうし、距離は千里とか500里とか100とか切りの良い数字しか使ってないから
切りの良い数字を当てた目安だろ、だから壱岐→唐津間は660里かもしれないが、中途半端だから四捨五入して千里
0898日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/21(金) 20:31:43.13
>>897

どう転んでも、唐津には辿り着けないんだよ。  @阿波
0899日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/21(金) 20:31:52.93
肥後国が邪馬台国で、クナ国との
戦争の最前線が球磨地方の人吉盆地と思ってるんだが、
最終的には人吉盆地は肥後国に組込まれている。

出土物で日向大隅との関係も深い人吉だが
最終的には肥後国に組み込まれてるので
肥後国が勝ったということだろう。
0900日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/21(金) 20:36:44.23
肥後国は筑紫との戦いの痕跡も多いが
筑紫と熊襲との両面を敵に回すことは避け
筑紫に従属した。

筑紫は肥後を支配下において
九州東部の豊国や熊襲国に侵攻し
九州を統一する。
0901日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/21(金) 21:57:37.47
>>892
末廬が鐘崎だったら
例の日数で日向にたどり着けるぞ
0902日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/21(金) 22:00:27.29
>>871
伊都は塩田ですよ
0903日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/21(金) 22:25:22.82
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
0904日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/21(金) 22:36:53.52
>>901
関門海峡はほぼ真東じゃないかな。
南至〜と矛盾しない?
0905日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/21(金) 23:34:43.66
女王国の使われ方が二通りあると思う

一つは卑弥呼が住んでいる場所としての女王国

もう一つは卑弥呼が支配している広範囲な
地域としての女王国

これを踏まえて考えると
卑弥呼のいる邪馬台国は東海岸である必要は無い
0906日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/21(金) 23:39:39.86
>>905
「南至邪馬壹(臺)國 女王之所都〜」であって
「南至女王國〜」と書いてあるわけじゃないよ。
しかも水行で行かないといけないのに。
0907日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/21(金) 23:52:00.79
このスレ的比定地
九州西海岸
熊本県沿岸
熊本市、八代市、島原市、天草市、水俣市、芦北町

熊本県内陸部
阿蘇、球磨郡、人吉、山鹿、

鹿児島県沿岸
川内市、出水市、阿久根市

東海岸
宮崎県沿岸
日向、延岡

宮崎県内陸部
高千穂
0908日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/21(金) 23:58:10.71
邪馬壹國は女王を修飾する

建前上で女王が統治する領域は女王界+壹界
女王界は邪馬と称される


夏華本土の郡の規模と比べても
七萬戸の邪馬壹國の規模はかなりな大型

これに五萬戸の多婆那のなれのはてが加算されると
二郡で倭州もどきが形成されみたいなかんじ
0909日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 00:07:34.58
>>905
邪馬壹國が卑弥呼が都とするところ=卑弥呼が住んでる所。
女王国は卑弥呼をトップに据えた、30国ほどの連合勢力の仮称的なものではないか?
0910日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 00:13:17.84
>>909
それはそうだと思うが...。
もしかして>>905>>904にコメントしたものではなかったのかな?
だとしたら>>906でおかしなことを書いてしまった。
0911日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 00:42:52.64
>>905
西海岸かな?
末廬国が唐津にせよ佐世保にせよ
西海岸よりだから邪馬台国も西海岸と言う
解釈で良いの?
0912日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 00:55:04.14
「女王国の東、海を渡って千余里行くと、また国が有り、皆、倭種である。」

西海岸と言う人はこの部分をどう解釈する?
熊本、鹿児島から東の海まで遠い
0913日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 01:00:36.37
>>912
九州の南を回って...
0914日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 01:06:43.35
>>912
その場合の「女王国」こそ倭国の事で
九州の中部から狗邪韓国まで邪馬台国連合だったんだよ
卑弥呼が西にいようが東にいようが女王国の東に海を渡って数千里と言えば、本州と四国しかない
0915日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 01:10:39.88
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
0916日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 06:39:51.06
>>914

ヤケクソはイカンぜよ。  @阿波
0917日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 06:47:24.10
>>916
自己紹介しつこいわw
0918日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 07:34:22.36
女王国が九州で支配してないのは
狗奴国だけ?
0919日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 07:42:16.76
>>918

そんなところに邪馬台国や狗奴国が勃興する道理が無い。  @阿波
0920日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 08:01:00.07
>>918
投馬国
0921日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 08:04:13.90
倭国の範囲は、後漢書における半島南岸から九州北岸までと変わりないのではないか。
狗奴国も投馬国も女王の支配下ではないように見える。
0922日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 08:19:28.72
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 
0923日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 08:25:58.93
>>921
倭国=邪馬台国+狗奴国
邪馬台国=半島南岸から九州北部(奴国→数十国→奴国もある)
0924日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 08:31:20.47
>>923
>邪馬台国=半島南岸から九州北部(奴国→数十国→奴国もある)

そんなところに邪馬台国が勃興する道理が無い。  @阿波
0925日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 08:32:17.82
>>921 名前:日本@名無史さん 2018/12/22(土) 08:04:13.90
>倭国の範囲は、後漢書における半島南岸から九州北岸までと変わりないのではないか。

後漢書の時代は九州北岸まででよい。それが倭奴国。しかし、
その後、筑紫平野以南の肥前肥後に新興の火国が勢力拡大し、派遣を握った。
これが魏志倭人伝時代の倭国地図。
0926日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 08:38:03.55
>>923
倭国=倭女王傘下の30国
倭地=倭女王傘下の30国+狗奴国(注:狗奴国は倭地にあるが、倭国の下ではない)
0927日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 08:38:55.70
>>925
>その後、筑紫平野以南の肥前肥後に新興の火国が勢力拡大し、派遣を握った。

そんなところに邪馬台国が勃興する道理が無い。  @阿波
0928日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 08:40:57.30
邪馬台国=倭女王傘下の30国
倭国=倭女王傘下の30国(邪馬台国) +狗奴国
倭地=半島南部投馬国+邪馬台国+狗奴国

(注:倭国が邪馬台国と狗奴国に分かれて倭国王の座を争っている)
(注:だから卑弥呼は倭女王、倭王、であって、倭国王ではない)
0929日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 08:46:37.13
ありがたい話だよな。
古代中国様が、壱岐対馬プラスアルファまで倭人領土と記録してくれてるんだから。

あとは倭と日本の連続性だが、
こちらが日本になっても、
周辺国のほうが、倭寇だとか倭奴だとか呼んでくれて証明してくれてるんだから。
ありがたい話だよな。

これを崩すには、
<九州倭国≒北部九州邪馬台国→畿内日本>ではなく、
九州倭国vs<畿内邪馬台国→畿内日本>という形に分離させるのかな。
0930日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 08:48:48.02
>>921
卑弥呼の履歴書
・王女…(邪馬台国の王女時代)
・女王…(邪馬台国の女王になった時代)
・倭女王…、もしくは倭王(倭30国の共立女王に擁立されてからの時代)
・親魏倭王…(魏王朝に遣使し、親魏倭王の金印紫綬を拝受してからの時代)
0931日本@名無史さん
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2018/12/22(土) 08:54:15.86
師升は倭国王。
倭の五王も武以外は倭国王とされている。

倭国王と倭王では中国語での意味がまるでちがってくる。
倭国王=倭国の王様
倭王=倭人の王様
0932日本@名無史さん
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2018/12/22(土) 08:54:37.42
>>928
>倭地=半島南部投馬国+邪馬台国+狗奴国

これは、後漢書の描く後漢時代の政治地図だな。時代をごっちゃにしてるわ。
0933日本@名無史さん
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2018/12/22(土) 09:00:13.85
>>931
>倭王=倭人の王様

ホントは倭国王(倭地・倭人全体の王)にしたかったのだが、狗奴国が傘下にいなかったので、倭王という未完成の表現にしたのだろう。
0934日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 09:02:21.31
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 
0935日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 09:05:22.03
スレタイ通りに魏志倭人伝を正しく読むと、
旧100余国あって、今は30しか交流できないんだから、
@70が狗奴国

30のうち、対馬〜北部九州が、6+20=26なんだから、
@4が投馬国
0936日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 09:13:59.91
交流できるなら戸数や道里がわかるはずだから、
北部九州の20を交流できる30に含めないという考え方もある。

その場合、交流できる30は不弥国より手前になって、
投馬国が30-6=24
邪馬台国が6+20=26

狗奴国が100-(24+26)=50
0937日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 09:15:36.42
>>935
そりゃ、大間違い。
旧百余国というのは、卑弥呼から200年ほど前の後漢時代の倭地(筑紫島)のこと。
それが、倭国大乱を経て、200年後には女王を共立する30国+不属狗奴国1国に再編されたという意味だヨ。
0938日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 09:23:00.66
>>936 名前:日本@名無史さん 2018/12/22(土) 09:13:59.91
>交流できるなら戸数や道里がわかるはずだから、

読みが浅いねえ。
遠絶の21国というのは、戸数も道里もわかっていたが、
帯方郡や邪馬台国から見れば外様大名だったから、「国名以外はワカラン」で片づけたんだよ。
0939日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 09:24:59.12
>>938
倭人伝を読んでいないことがよくわかった
0940日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 09:26:12.63
>>937
倭人伝だけでなく、韓伝などでも小単位の国々が記されている。
当時の東夷世界での政治面積が、移動速度や通信速度によって、
伊都や奴国くらいの面積が一つの単位だったのだろう。
それらの小単位の国々を束ねたのが、
大きな括りの邪馬台国や狗奴国という大単位の国家であり、王がいる。

もう一つは、狗奴国は邪馬台国と激しく争っているのだから、
邪馬台国26vs狗奴国1では相手にならない。
邪馬台国を26国の集合体と考えるのなら、
同じ時期に同じ地域で争う狗奴国もまた似たような政治機構なわけであり、
狗奴国もまた数十の小国の集合体なわけだ。
0941日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 09:36:43.07
>>940
>もう一つは、狗奴国は邪馬台国と激しく争っているのだから、

激しく争っているなどとは書いてない。
郡にいって愚痴をこぼしたら、張ら数名の派遣と、軍旗・檄文をくれた程度だったそうだから、
(張らは、女王監視のための帯方郡の工作員だったのだろう)その程度のことさ。
0942日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 09:36:48.20
>>938
自分の説に結論を持ってくるために曲解をする最たるものだな。

>遠絶の21国というのは、戸数も道里もわかっていたが、
>帯方郡や邪馬台国から見れば外様大名だったから、「国名以外はワカラン」で片づけたんだよ。

わかっていたのに、わざわざわからんと書くことは「嘘」をつくことになる。
その重さすら理解していないようだな。

史家の陳寿が「わからない」と書いた。
これもまた情報なわけだ。
邪馬台国の内陸20国は戸数も道里もわからない。という貴重な情報ね。
つまり魏と連絡が取れない、取れていない。
0943日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 09:38:59.33
>>941
張ら数名を派遣して、軍旗・檄文までくれたわけだな。
激しく争っているではないか。

これで激しく争っていないと言いたいなら、
同じく魏が軍旗・檄文をくれたけれども、
実際は激しく争っていなかった例を史書から示す必要がある。
0944日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 09:40:41.77
魏志倭人伝を正しく読む とか見栄張っておいて
九州説などこの程度www
0945日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 09:41:38.02
>>942
読みが誤解だらけ。
倭人伝はまさに政治家軍人の手柄を宣伝する記紀だ。学術論文ではないんだからねえ、、、
0946日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 09:42:50.69
>>945
>史家の陳寿が「わからない」と書いた。
>これもまた情報なわけだ。
>邪馬台国の内陸20国は戸数も道里もわからない。という貴重な情報ね。
>つまり魏と連絡が取れない、取れていない。

へえ、どこが誤読?
0947日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 09:53:20.97
>>942
・其余旁国遠絕不可得詳

これを「距離的に遠い・・、」と読むのはギンギンの考古学者、文学者。
政治家・軍人・高級官僚などの支配階層ならば、「縁遠い・・」、つまり外様だったと読むわけだ(これ常識な)。
0948日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 10:05:23.64
>>947
それらの国は女王国支配下にある国だと思うよ。
詳しいことがわからないのは距離のせいだと言ってるから、ホントかどうかはわからないけど魏使や郡使は行っていないだけ。

縁遠いのは「女王國東渡海千餘里復有國皆倭種〜」の方でしょ。
0949日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 10:07:57.70
投馬国は日向
そして奈良政権の元

投馬こそ日本の星、日本ルーツ
0950日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 10:21:50.57
>>948
>縁遠いのは「女王國東渡海千餘里復有國皆倭種〜」の方でしょ。

そりゃあなた真逆でしょう。
東に海を渡ること千餘里と、明記してあるのだから、こちらのほうこそ、地勢的・距離的に遠いの意味であることは明白。
0951日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 10:24:29.14
>>949
>投馬こそ日本の星、日本ルーツ

それにしては、日向は皇室行事で蚊帳の外・・・  推して知るべし。  @阿波
0952日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 10:45:56.55
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 
0953日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 10:59:25.95
>>949
ゆけ、ゆけ、ひゅうが!どんとゆけ!
0954日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 11:22:36.20
ゆけ、ゆけ、ひゅう馬!どんとゆけ!
0955日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 11:24:26.10
ゆけ、ゆけ、ひゅう投馬!どんとゆけ!
0956日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 11:31:08.83
>>925
>その後、筑紫平野以南の肥前肥後に新興の火国が勢力拡大し、派遣を握った。
>これが魏志倭人伝時代の倭国地図。

概ね同意するけど、肥国から卑弥呼が共立された後に肥国が南北に分裂し、肥後狗奴国が敵対したため、結果的には魏から見た倭国の範囲はあまり後漢の頃と変わらなかったのだろう。
0957日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 11:33:58.05
ここが邪馬台国 消えた地名・熊本県菊池郡砦村臺

>現在の「菊池市七城町」の名は、かつて菊池一族が菊池城を中心に18もの城塞を作ったうちの7つの城の、
正光寺城、台城、馬渡城、増永城、神尾城、亀尾城、打越城が存在したことが由来となっています。
>其のうちの臺(台・うてな)城は、現在も小字名として残っていますね。
明治初期に、この台城を中心に作られた砦村は、迫間川(はざまがわ)の北側の国道325号線の沿線となります。
地名としては、ほとんど忘れ去られているようですが、かつての村名は生き残っているんです。
>一番わかりやすいのは砦保育園ですね。
2012年まで市営だったのですが、今は民営化されています。他にも「砦」の名残りは、農園名や温泉名に見ることができます。

歴史的行政区域データ・熊本県菊池郡砦村 (43B0060013) |
http://geoshape.ex.nii.ac.jp/city/resource/43B0060013.html
0958日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 11:37:06.41
>>956
狗奴国 = 球磨郡(人吉盆地)
0959日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 11:43:49.53
>>953
それが言いたかっただけやろw
0960日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 11:44:51.49
>>957
そこは狗奴国
0961日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 11:47:48.73
>>957
人吉盆地は、奈良盆地くらいある広くて肥沃な土地だ。しかし意外なことに古墳が少ない。
遅い時期の横穴式が若干あるにはあるが、いわゆる古墳(方墳・円墳・前方後円墳)文化とは、ややちがった文化系を持っていたように感じる。
狗奴国は邪馬台国に追っ払われ、しぶしぶ人吉盆地に引き下がったのではないかな
大型古墳文化のなかった人吉盆地は、いったい何者だったのか、大いに研究してみる必要がある。
0962日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 11:47:57.06
>>960
>そこは狗奴国

そんななにもないところに狗奴国が勃興する道理が無い。  @阿波
0963日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 12:09:31.38
>>938
魏の調査団が邪馬台国の役人にそれらの国のことを根掘り葉掘り聞いたら、その邪馬台国の役人は露骨に嫌な顔したんじゃね。
それで、調査団は、遠くて分からなんだとだけ、記録に残したということ。
0964日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 12:31:43.20
>>960
狗奴国には、球磨郡がふさわしい。(人吉盆地は奈良盆地ほどもある広大な国)
0965日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 13:12:40.32
>>963
個人の想像です
0966日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 13:16:23.90
球磨地方
>太古の昔、人吉盆地は、東西約40km、南北約10kmに及ぶ巨大な天然湖であった。
或る時、人吉盆地を取り囲む山々の中で最も低い球磨村の一勝地大坂間の地点が決壊し、
湖に溜まった水が溢れ出して急流・球磨川が誕生した。

>今、球磨川は、球磨郡水上村の石楠越(標高1,391m)及び水上越(標高1,458m)を源流とし、人吉盆地の田園地帯を巡り西に流れる。
人吉市を過ぎてからは狭い谷間を縫って流れ、JR肥薩線や国道219号が併走する。
そして球磨村の鍾乳洞・球泉洞の付近で流れを北向きに変え、八代平野に出て分流し、三角州を形成しつつ八代海(不知火海)に注ぐ。
0967日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 13:18:59.74
決まりそうで決まらんな
0968日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 14:30:44.69
>>963
卑弥呼は誰にも分からない所に住んでたんだろ
邪馬台国は九州の北半分の総称
卑弥呼は人目につかない山の中に住んでいた
九州の南半分は狗奴国と投馬国
0969日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 14:35:05.61
まぁ、宮崎南部は投馬国だろな
0970日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 14:43:05.33
人吉盆地で邪馬台国とクナ国が激しく争い
士気の鼓舞に卑弥呼が出てきて
その際に亡くなったという
ちょっと無理のある前提だが

その場合には人吉盆地の本目遺跡を
卑弥呼の墓の候補としたい。
0971日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 14:52:41.56
>>970
その場合は
末廬国は何処になる?
水行10 陸行1月をどう解釈する?
0972日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 14:56:59.89
>>970
伊都国も
0973日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 14:57:00.35
松浦までで、実距離は中国の里の1/5程度であることがわかっている。
これを前提として5倍誇張説を仮定する。一里あたり87mである。

5倍誇張説の場合の計算結果と推定場所

帯方郡の場所
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b2/Ancient_Korea_Taihougun.png
帯方郡黄海北道鳳山郡説より、帯方郡側の海州を起点とする。

帯方郡から狗邪韓国まで、乍南乍東7000余里 7000里/5=1400里*435m=609km 海州―釜山広域市 700km
狗邪韓国から松浦まで3000里 3000里/5=600里*435m=261km 釜山広域市−唐津 210km
松浦から伊都国南東500里 500里/5=100里*435m=43.5km 唐津―小城 38.3km
東南100里の奴国まで 100里/5=20里*435m=8.7km 小城―佐賀 10.1km
東100里の不弥国までの道 100里/5=20里*435m=8.7km 佐賀―大川 9.5km
南水行20日の投馬国まで 20日/5=4日*30里=120里*435m=52.2km 大川―玉名 47q

水行10日、陸行1月の邪馬台国
水行10日 10日/5=2日*30里=60里*435m=26.1km 玉名―緑川 26q
陸行1月 30日/5=6日*30里=180里*435m=78.3km 緑川―人吉 86q

侏儒國 南4000里 4000里/5=800里*435m=348km 熊本緑川流域―屋久島 315km
裸国、K歯国 水行一年 365日/5=73日*30里=2190里*435m=952.65km
熊本緑川流域-奄美大島 580km
熊本緑川流域-沖縄本島 824km

おまけ
韓地、方4000里 (4000里/5)^2=800里^2=(800*435)^2 =121104km^2
wikipediaより、
韓国  面積 100,210km^2
0974日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 15:03:30.53
>>971
伊万里港だと何度言えばw
0975日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 15:04:06.29
>>973
アキバから神保町まで説明するのに
2.295kmとか言う?

大体2K 歩いて30分 電車で10分って言わんか?
0976日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 15:05:12.45
>>974
伊万里なら伊都国は糸島市でO.K?
0977日本@名無史さん
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2018/12/22(土) 15:16:12.37
人吉だったら
水行10日でどこどこの港まで
そして陸行10日でって
書かれなくてはな
0978日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 15:19:30.71
古墳時代の球磨地方(人吉・狗奴国推定値)
>3世紀終わりから7世紀前半の約400年間を古墳時代といい、高塚式の小山のような墓が全国的に造られました。
>しかし、人吉球磨地方では、この地方独特の墓制(地下式板石積石室墓)等が受け継がれたため、高塚式古墳の造営が遅れました。

>この地方独特の墓制の1つである地下式板石積石室墓は、人吉市下原田町の荒毛遺跡が有名です。
>最近の地中レーダー探査により、荒毛遺跡には、約150基の地下式石積石室墓があることが判明しました。
>また、人吉市七地町の天道ヶ尾遺跡からは、6世紀の地下式横穴墓が2基発見されています。
>これらの事から球磨人吉地方は、南隣りの鹿児島県川内川上流域と同じ古墳文化を共有していたことがわかります。
0979日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 15:23:18.56
古墳時代の球磨地方(人吉・狗奴国推定地(続き))
>球磨地方における高塚式古墳の造営は、5世紀中頃、人吉盆地の中央部を中心に行われました。
>3基の前方後円墳からなる錦町・亀塚古墳群は、人吉盆地で唯一の前方後円墳が造られている場所であり、
>景行紀にみえる「熊の県」(球磨縣)との関係が考えられています。
0980日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 15:29:59.16
球磨地方は「熊の縣」として記紀に登場する。
この記事は「球磨縣≒狗奴縣」に通ずるので、
どうやらここが「狗奴国」で良いのではないか。
0981日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 15:30:16.02
球磨
「球を磨く」は卑弥呼と関連性あるか?
0982日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 15:33:07.57
卑弥呼は鏡を磨き、卑弥狗呼は球を磨いたのではないかな。
0983日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 15:43:26.86
>>980
かもしれないが
記紀の時代に北上したのかも知れん
ここはあくまで魏志倭人伝を読み取るスレ
0984日本@名無史さん
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2018/12/22(土) 15:45:38.34
>>982
いや、「卑弥呼は万華鏡を磨き、卑弥弓呼は玉を磨いた」
が正解
0985日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 15:49:55.74
>>973
唐津で海峡を渡ってきた船は乗り捨てるのか?
部隊を分けて大川へ回航するのか?
0986日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 15:56:18.86
熊県(肥後国球磨郡)
・『紀』景行十八年四月壬戌朔甲子
・『肥後国風土記』万葉集註釈巻第三
0987日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 16:09:18.44
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 
0988日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 16:38:34.13
>これらの事から球磨人吉地方は、南隣りの鹿児島県川内川上流域と同じ古墳文化を共有していたことがわかります。

なら川内だ
中心都市は川内平野で卑弥呼は人吉の山奥にいた熊本南部と鹿児島北部一帯が邪馬台国
そこから狗邪韓国までが女王国連合
0989日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 16:49:09.21
だからそれでは狗奴国の余地がなくなるだろ。
0990日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 16:54:19.63
川内ー宮之城ー菱刈ー大口ー球磨人吉

川内の上流を、宮之城というくらいだから、王や女王がいたのかもしれない。
だが、そりゃ卑弥狗呼の狗奴国だったのだろうな。
惜しい!
0991日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 18:15:06.35
>>989
人吉が狗奴国なら邪馬台国が北九州と狗邪韓国だけになってしまうぞ、領土が投馬国や狗奴国とあまり変わらなくなる
これじゃ倭国王とは言えんだろ
0992日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 18:20:00.25
>>991
人吉から上半分邪馬台国なら結構広いよ
九州の二分の一以上ある
下は狗奴国と投馬国で半々
0993日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 18:23:46.30
日本の星の投馬は日向でオッケーなのかよ
0994日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 18:24:39.43
>>984
し、下ネタかよっ!
0995日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 18:31:15.32
>>989
邪馬台国は熊本平野?
0996日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 18:34:20.97
比定地をあげたい人は
五つの都市を比定してくれないと
0997日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 18:38:56.80
>>996
どことどこ?
0998日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 18:53:03.99
>>992
お説の通り。
0999日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 18:57:03.77
福岡が邪馬台国、宮崎が投馬国、熊本が狗奴国
これでいいじゃないか
1000日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 19:08:50.20
1000
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垢版 |
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