百済の「日本」part4
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禰軍墓誌の「日本餘噍」は扶余勇のことだろう
百済あたりから、幾重にも、倭国に渡ってきた王族がいたのだろうね
https://sites.google.com/view/jhistory/ を読んで議論しよう
扶余勇は百済義慈王の王子
翹岐は百済武王の王子で義慈王の弟
倭の五王は辰王
脱知爾叱今は金官伽耶王の弟
前スレ https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1543143373/ 武が任那の都督を失うと継体がでてきて4県を百済に割譲
継体が用いた威信財の広帯二山式冠の出土状況から河内は継体の配下に入っていない
なぜ任那の権利が争いなく五王から継体に渡ったか?
からくりは外圧 隅田の鏡の威力は五王を屈服させた おそらく 西暦500年以降の倭国には力がない
「以倭為大国」は百済新羅が大国扱いしただけで大国と勘違いしてはいけない
書紀は妄想ワールドを展開して自国を大国と思いたかった
その書紀の妄想に後世の人はすっかり騙され客観性を失った
国の強弱はいったん白紙にして考えれば正解が得られる ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています