譲位・重祚・倭国王の客死・称制のイレギュラー連発は皇統を工夫した痕跡
孝徳=翹岐は政治手法の大変革、前期難波宮と百済武王の宮殿との酷似からあきらか
翹岐には死んだ子供以外に子供がおり、倭国王を継いだだろう
難波を蹴った皇極の重祚はありえないからだ(書紀の創作)
扶余勇と倭国王(翹岐の子)は従兄弟で、唐の前には百済王家の存続のために両者は一致
倭国王は逃げてきた扶余勇を扶余家存続のためにささえた
倭国王の支えがあればこそ扶余勇は特急で筑紫の防衛施設を造り近江にまで争いなく進めた
また、唐の封禅には扶余勇の身がわりに倭国王が出席した 

書紀が隠そうとした真実がここに白日の下にさらされる