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邪馬台国畿内説 Part403
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0001◆UiepmfCeDJqf 2018/12/04(火) 00:36:43.40
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1543505552/

◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。
0002◆UiepmfCeDJqf 2018/12/04(火) 00:38:17.02
◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある 
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述する
0003◆MNpGsKl37u9I 2018/12/04(火) 00:38:49.95
とおり、ここ纒向が女王の所都である。
0004◆MNpGsKl37u9I 2018/12/04(火) 00:39:26.53
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
0005◆MNpGsKl37u9I 2018/12/04(火) 00:39:46.76
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。

 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地
0007◆MNpGsKl37u9I 2018/12/04(火) 00:40:28.84
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
0008◆MNpGsKl37u9I 2018/12/04(火) 00:40:48.03
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
0009◆UiepmfCeDJqf 2018/12/04(火) 00:41:43.45
◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。

 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。

 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
0010◆UiepmfCeDJqf 2018/12/04(火) 00:42:10.04
◆6−2
 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
0011◆UiepmfCeDJqf 2018/12/04(火) 00:42:30.32
◆6−3
 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
0012◆UiepmfCeDJqf 2018/12/04(火) 00:42:54.36
◆7−1(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
0013◆UiepmfCeDJqf 2018/12/04(火) 00:43:11.34
◆7−2
 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
0014◆UiepmfCeDJqf 2018/12/04(火) 00:43:30.32
◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
0015◆UiepmfCeDJqf 2018/12/04(火) 00:43:47.97
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf


◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収

●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」

●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
0016◆UiepmfCeDJqf 2018/12/04(火) 00:44:23.15
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
  1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
  2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
  3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
  4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
  4世紀第4四半期〜5世紀中頃
   (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 IA期ー 大和庄内0〜1    ー 河内庄内I〜II
 IB期ー 大和庄内2〜3    ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山                  
  IIA期ー 布留0古相      ー 河内庄内III   ●箸墓、権現山51号
  IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V  ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
                           浦間茶臼山、西求女塚
  IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
                           メスリ山、行灯山、祇園山
0017◆UiepmfCeDJqf 2018/12/04(火) 00:44:46.39
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。
 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都よく観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。

 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。

 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
0018◆UiepmfCeDJqf 2018/12/04(火) 00:45:03.86
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
 逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)
  「泝流」が6回
  「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある。
0019◆UiepmfCeDJqf 2018/12/04(火) 00:45:28.18
◆FAQ 3
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法からは、筆者が里程等から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。

 以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りが含まれていること、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌ほどの南方に過ぎず、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
 三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
 筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,57も参照)

※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
 遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
 予章郡:雒陽南二千七百里  南海郡:雒陽南七千一百里
 蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)

 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、会稽山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
 また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。
0020◆UiepmfCeDJqf 2018/12/04(火) 00:45:50.52
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。


◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。

 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
0021◆UiepmfCeDJqf 2018/12/04(火) 00:46:12.85
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 伊豆七島などは唐古鍵の時代から畿内と交流圏である。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。


◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。
有力な候補である。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
0022◆UiepmfCeDJqf 2018/12/04(火) 00:46:34.46
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。


◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
0023◆UiepmfCeDJqf 2018/12/04(火) 00:47:20.60
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。

 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。

 3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。

 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。

 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
 の指摘は今日も有効である。
0024◆UiepmfCeDJqf 2018/12/04(火) 00:47:41.50
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。

 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。

 現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響と思われはするものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状であり、古代中国人に木槨と認識されるとは考え難い。
 畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
 逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。

 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
0025◆UiepmfCeDJqf 2018/12/04(火) 00:48:57.34
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
   
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
   
 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
 遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
   
 纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。
   
 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
 
   
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
  
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
 
 
0026◆UiepmfCeDJqf 2018/12/04(火) 00:49:23.98
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。


◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、そのような測定実施の記録がない。
 万が一にも、そのような測定があったなら福岡県が魏の許都の真東近くに所在することが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。

 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
0027◆UiepmfCeDJqf 2018/12/04(火) 00:49:43.35
◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!

A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。

 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。

 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
0028◆UiepmfCeDJqf 2018/12/04(火) 00:50:38.95
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
  これで説明が付く!
  
A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。

 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
   
 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
  
   
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
   
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
    
 中国本土では前漢代の雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中華王朝では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。
  
0029◆UiepmfCeDJqf 2018/12/04(火) 00:51:01.99
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した!
  これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
 もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。

 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。

 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示している。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)

 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。
0030◆UiepmfCeDJqf 2018/12/04(火) 00:51:24.12
◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!

A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。

箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築 
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。

 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
 隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png

 前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。

 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項
0031◆UiepmfCeDJqf 2018/12/04(火) 00:51:50.92
(承前)
◆FAQ 23−2

◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。

◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
 ・ 森将軍塚   :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
 ・ 前橋王山古墳 :上毛
 ・ 持塚二号墳  :上総
 ・ 高千穂七号墳 :上総
 ・ 山伏作一号墳 :上総
 ・ 長沖八号墳  :武蔵
 ・ 温井一五号墳 :能登
 ・ 見手山一号墳 :但馬
 ・ 西穂波16号墳 :東伯 
 ・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
 ・ 高鼻二号墳  :伯耆
 ・ 日拝塚古墳  :筑前
 ・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)

◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等
0032◆UiepmfCeDJqf 2018/12/04(火) 00:52:36.53
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
     
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
   
 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
 
  
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国が大和の日本に取って代わられたことは、旧唐書に明らかではないか!
  
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
  
 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記されており、中国側の認識の混乱を表している。以下の各項等を勘案すると、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等として片付けて毫も問題ない。
・唐代に書かれたことが明らかな史料がみな倭=日本という認識を示していること。
・唐会要(倭=日本と認識)より、旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に認識できること。
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認できること。
    
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家であり、政変の頻発する中で、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前にようやく完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複するという不体裁が発生しているばかりでなく、他にも同一人物の伝が二本別に収録されるなど、他の史書に例を見ない杜撰が複数件発生している。
0033◆UiepmfCeDJqf 2018/12/04(火) 00:53:16.25
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
  ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!

A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
 統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。

 遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。

 さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
 ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。

 古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。
0034◆UiepmfCeDJqf 2018/12/04(火) 00:54:48.85
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
     
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
  
    
0035◆UiepmfCeDJqf 2018/12/04(火) 00:55:07.75
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!

A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。

 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。

 以上のとおり、墳丘本体に殉葬痕があるか否か卑弥呼冢の判定基準にしようという考えには合理性が無い。
0036◆UiepmfCeDJqf 2018/12/04(火) 00:55:28.70
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう!
  弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出であり、景初の遣使が献上した班布がこれであると推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退している。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。

 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が連続していない。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示している。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色が行われていた状況(金原2013,2015)と一致する。茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用されているため、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解されるからである。

 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
 九州説にとって不利な条件と言える。
0037◆UiepmfCeDJqf 2018/12/04(火) 00:55:56.01
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう!
  弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出であり、景初の遣使が献上した班布がこれであると推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退している。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。

 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が連続していない。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示している。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色が行われていた状況(金原2013,2015)と一致する。茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用されているため、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解されるからである。

 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
 九州説にとって不利な条件と言える。
0038◆UiepmfCeDJqf 2018/12/04(火) 00:57:06.13
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。

 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
0039◆UiepmfCeDJqf 2018/12/04(火) 00:57:28.18
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。

 弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
   https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。

 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。

 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。
0040◆UiepmfCeDJqf 2018/12/04(火) 00:58:24.64
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
  
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
   
 これが部分的利用に留まる所以である。
   
   
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでないところに行くことだから、女王国は本州にある畿内ではないな?
   
A:陸続きのところへも渡海するので、伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
   
 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
 
 
0041◆UiepmfCeDJqf 2018/12/04(火) 00:59:12.62
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。

 当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)

 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。

 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。

 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
0042◆UiepmfCeDJqf 2018/12/04(火) 00:59:29.54
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
0043◆UiepmfCeDJqf 2018/12/04(火) 01:00:47.14
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
  
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
       
 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
      
 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
    
 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
 
 
0044◆UiepmfCeDJqf 2018/12/04(火) 01:01:11.58
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
0045◆UiepmfCeDJqf 2018/12/04(火) 01:01:58.85
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
 にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
 新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
0046◆UiepmfCeDJqf 2018/12/04(火) 01:02:21.86
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。


◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
  http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
0047◆UiepmfCeDJqf 2018/12/04(火) 01:02:38.74
 捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
0048◆UiepmfCeDJqf 2018/12/04(火) 01:03:06.90
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。

※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
0049◆UiepmfCeDJqf 2018/12/04(火) 01:03:30.71
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!

A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。

 申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。

 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。

 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
0050◆UiepmfCeDJqf 2018/12/04(火) 01:03:53.11
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!

A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。

その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である

以上から
 1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。

 楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
0051◆UiepmfCeDJqf 2018/12/04(火) 01:04:10.71
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。
0052◆UiepmfCeDJqf 2018/12/04(火) 01:04:31.98
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
0053◆UiepmfCeDJqf 2018/12/04(火) 01:05:01.27
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
0054◆UiepmfCeDJqf 2018/12/04(火) 01:05:23.73
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。

 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。

 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
0055◆UiepmfCeDJqf 2018/12/04(火) 01:05:52.58
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?

A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。

 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。

 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)

 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
0056◆UiepmfCeDJqf 2018/12/04(火) 01:06:13.40
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。

 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。

 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
0057◆UiepmfCeDJqf 2018/12/04(火) 01:06:37.99
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?

A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。

 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。


◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。

A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
0058◆UiepmfCeDJqf 2018/12/04(火) 01:06:59.87
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!

A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。

 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
0059◆UiepmfCeDJqf 2018/12/04(火) 01:07:40.41
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。


◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
0060◆UiepmfCeDJqf 2018/12/04(火) 01:08:07.17
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
   (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
   (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
   (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
  狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
    山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
    海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
0061◆UiepmfCeDJqf 2018/12/04(火) 01:08:42.06
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定
0062◆UiepmfCeDJqf 2018/12/04(火) 01:09:38.82
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!
        
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
 
 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
 
 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
 
 
0063◆UiepmfCeDJqf 2018/12/04(火) 01:10:34.44
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。

 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。

 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。

 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
0064◆UiepmfCeDJqf 2018/12/04(火) 01:10:54.49
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
  の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!

A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。

また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。
0065◆UiepmfCeDJqf 2018/12/04(火) 01:11:13.71
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
  「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
  所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!

A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。

(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
     北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
    南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
    東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
    西與犂「革偏に于」・條支接。
    行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
    …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
    …東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。

                (以上、漢書西域上)
0066◆UiepmfCeDJqf 2018/12/04(火) 01:11:56.53
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
  これは実測したとしか考えられない!
  誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。

 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
              (後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。

 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
0067◆UiepmfCeDJqf 2018/12/04(火) 01:12:16.99
◆FAQ 62−1
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!

A:定説に従う。

 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。

 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域と考えられる。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制の異なる碧城郡・海州市は郡域外であろう。
(本項 続く)
0068◆UiepmfCeDJqf 2018/12/04(火) 01:12:36.59
(承前)
◆FAQ 62−2
 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。

 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 

◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!

A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
0069◆UiepmfCeDJqf 2018/12/04(火) 01:12:57.45
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
  径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!

A:基礎知識の誤りである。
  現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する

ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)
0070◆UiepmfCeDJqf 2018/12/04(火) 01:14:49.25
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!

A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。

 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。

《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)
0071◆UiepmfCeDJqf 2018/12/04(火) 01:15:26.54
(承前)
◆FAQ 65−2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」

とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。

 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。

 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。


 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
  古者周尺 17.3cm
  今周尺  21.0cm
  秦漢尺  23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。
0072◆UiepmfCeDJqf 2018/12/04(火) 01:17:44.75
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!

A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。

 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。


◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!

A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。

 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。

 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。

古代の海岸線に沿って「東南陸行」することは、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png

 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。
0073◆UiepmfCeDJqf 2018/12/04(火) 01:18:24.33
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい!

A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半と考えられる。

 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
 しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0に遡る情況と整合する。
 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は但丹・近江などの地域で弥生後期〜終末の弥生墳丘墓で発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。
0074◆UiepmfCeDJqf 2018/12/04(火) 01:19:58.41
◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!

A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。

 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
 
0075◆UiepmfCeDJqf 2018/12/04(火) 01:21:18.23
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足相赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!

A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
郭沖三事にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。

 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。
0076◆UiepmfCeDJqf 2018/12/04(火) 01:22:28.32
◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!

A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。

 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(十二世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(十三世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
 魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。

 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州に限定し得ないことは明らかである。


◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!

A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。

 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
0077◆UiepmfCeDJqf 2018/12/04(火) 01:25:31.02
◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
   
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png
   
 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。
0078◆UiepmfCeDJqf 2018/12/04(火) 03:03:55.55
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!

A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。

 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。
0079◆UiepmfCeDJqf 2018/12/04(火) 03:05:14.11
◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!

A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。

 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。
0080◆UiepmfCeDJqf 2018/12/04(火) 03:06:03.92
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!

A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。

 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。

 弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。
0081◆UiepmfCeDJqf 2018/12/04(火) 03:06:51.31
◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
 前方後円墳体制など、夢想だ!

A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。

 萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
 当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。

 奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。


◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!

A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。

 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
続けて
 「甲県一万戸、行道八日」「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近・戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=125
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。

 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識
0083◆UiepmfCeDJqf 2018/12/04(火) 03:08:54.38
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?

A:倉庫群は均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ。
  纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。

 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部に存し、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉するため、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。

 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。


◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!

A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。

 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。
0084◆UiepmfCeDJqf 2018/12/04(火) 03:11:55.91
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!

A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。

 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。

 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。

 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
0085◆UiepmfCeDJqf 2018/12/04(火) 03:13:01.89
◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!

A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。

 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。

 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
 黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。暮壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。

 このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。
0086◆UiepmfCeDJqf 2018/12/04(火) 03:14:54.18
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!

A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。

●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。

●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。

 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。

 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
 鏡師が東渡し作鏡したという記述ではない。
0087◆UiepmfCeDJqf 2018/12/04(火) 03:17:15.93
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!

A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。

 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。

 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。

 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。
0088◆UiepmfCeDJqf 2018/12/04(火) 03:20:12.17
◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!

A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。

 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものと思われる。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭と考えられる。

 古墳主体部の年代は、殉葬の可能性を完全に放棄するならば、これより多少の時代遡求もあり得るが、山の中腹の尾根上という仰ぎ見られる視野角の広くない立地からは、あまり広域を支配していない首長像が瞥見される。
0089◆UiepmfCeDJqf 2018/12/04(火) 03:24:34.87
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!

A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png


◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正しい!
  特鋳説の根拠にはならない!

A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量と思われ、市中から雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しいと思われる。

 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。

 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。
0090◆UiepmfCeDJqf 2018/12/04(火) 03:30:14.14
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するの不可解だ!

A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
 中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。

 また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。

 江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
 参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
 https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。

 このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。
0091◆UiepmfCeDJqf 2018/12/04(火) 03:37:58.50
◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
   3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!

A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。

 下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
 この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。

 夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。

https://i.imgur.com/EXTU3lu.png
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

注意*書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】 なし
0092日本@名無史さん2018/12/04(火) 05:07:02.00
>>966
地平線上に沈む太陽の日没点を特定の一点からみると、日没の最南点から最北点までの1日ごとの太陽位置の角度は変化しており、最南点で最小角度に、真西点で最大角度に、そして最北点では再び最小角度になる。
確かに、特定の一点からみると、太陽の1日ごとの角度は変化している。
そして、この南北間の太陽の移動の半年の日数は約182日になるが、この182日の間に季節を表す12の節気を等間隔に配置したのが二十四節気の半年分。
実際の太陽の半年分182日の南北移動では、特定の一点からみると真西線から最南点までが約30度(実際には29度)の角度であり、また真西線から最北点までは約30度であり、合わせて太陽の移動は真西線をはさんで合計60度の角度を測ることになる。
この南北60度の間に12の節気を等間隔に配置しているので、一節気当たりの角度は5度となる。
また、日数では一節気当たり15日の日数となる。
このように、目視できる太陽の日没地点の南北間に人為的に各節気を配置しているのが二十四節気の元々の形であるので、特定の一点からみた一節気当たりの角度が5度となるもの。
この二十四節気の3年分を円環上に配置すると、角度120度(1年分)×3年=360度となり、ちょうど円環上に収まることになる。
二十四節気の円環上の3年暦が用いられているケースは、近江の伊勢遺跡と纏向遺跡でみられる。
0093日本@名無史さん2018/12/04(火) 05:49:32.27
>>92
伊勢遺跡と纏向遺跡で3年暦が用いたかどうかは不明では?
0094日本@名無史さん2018/12/04(火) 06:56:32.48
2018/07/13
【人類学】縄文人、ラオス・マレーシアにルーツ? ゲノム配列解読[07/11]
https://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1531460749/1,28,272,380,385
https://www.asahicom.jp/articles/images/c_AS20180711004656_comm.jpg
https://pbs.twimg.com/media/DhZwL_LWkAAZH4i.jpg
http://tokyox.matrix.jp/wordpress/wp-content/uploads/2014/08/20140806-083728-31048521.jpg

2018/09/22
【愛知】渥美半島の縄文人はムキムキ?! 上腕が極端に骨太、舟こぎ発達か[09/19]
https://egg.5ch.net/test/read.cgi/femnewsplus/1537627890/54
2018/11/12
【九州説】邪馬台国 魏志倭人伝を正しく読む
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1542023631/593,594,596-602,640,665

2018/11/23
【考古学】縄文土器に大量の「米食い虫」=北海道・館崎遺跡から出土−熊本大[11/23]
https://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1542962973/141,143,142,144

2018/07/31
邪馬台国沖縄(琉球)説 Part1
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1533027941/

2018/11/28
【朗報】天皇家、縄文人だった。皇族のハプログループはD1b1a2b1a1(縄文人)、藤原氏はO1b2a1a1(弥生人)と判明 [483053163]
https://leia.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1543380625/204,206-208
https://famousdna.wiki.fc2.com/upload_dir/f/famousdna/c9776942f03942da3061bcf81e421f08.jpeg
0095日本@名無史さん2018/12/04(火) 08:22:38.25
鎮魂歌
卑弥呼→台与の頃を歌ったものだろうか?
邪馬台国、初期のヤマト政権は、【石器作り】や【狩猟】を生業にしていた勢力が主体だったことが窺える
また、【フル】、【アチメ】という言葉は大和言葉では意味が分からないが、朝鮮語では【流れる】【朝日】という意味になる
初期のヤマト政権は、朝鮮半島と日本列島を行き来していた日本海側の勢力も関係していたのかもしれない
石上神宮の布留の謂れは、刀が【流れてきて】布で受け止めたら留まったというもの。

【アチメ】 オオオオ オオオオ オオオオ
 天地ニキ揺ラカスハ サ揺ユラカス 神ワカモ 神コソハ キネキコウ キ揺ラナラハ
アチメ オオオオ オオオオ オオオオ
 【石ノ上】 【布瑠】社ノ 【太刀】モガト 願フ其ノ児ニ 其ノ奉ル 
アチメ オオオ オオオ オオオ
 【猟夫】ラガ 持タ木ノ【真弓】 奥山ニ 御狩スラシモ 弓ノ弭見ユ
アチメ オオオ オオオ オオオ
 上リマス【豊日霎】カ 御魂欲ス 本ハ金【矛】 末ハ木矛
アチメ オオオ オオオ オオオ
 【三輪山】ニ アリタテルチカサヲ 今栄エデハ 何時カ栄へム
アチメ オオオ オオオ オオオ
 吾妹子ガ、【穴師】ノ山ノ山ノ山モト 人も見ルカニ 深山カ縵為ヨ
アチメ オオオ オオオ オオオ
 魂筥ニ 【木綿】取リシデワ 魂チトラセヨ 御魂上リ 魂上リマシシ神ハ 今ゾ来マセル
アチメ オオオ オオオ オオオ
 御魂ミニ 去マシシ神ハ 今ゾ来マセル 魂筥持チテ 去リクルシ御魂 魂返シスナヤ
0096日本@名無史さん2018/12/04(火) 08:25:43.26
邪馬台国と対立していた狗奴国は、道饗祭と関係があるかもしれない

道饗祭

高天之原に事始めて、【皇御孫之命】と称辞竟へ奉る、大八衢に湯津磐村の如く塞り坐す皇神等の前に申さく、
  八衢比古・八衢比売・【久那斗】と御名は申して辞竟へ奉らくは、
【根国】【底国】より麁び疎び来む物に、相率り相口会ふ事無くて、下より行かば下を守り、上より往かば上を守り、夜の守・日の守に守り奉り斎ひ奉れと、
進る幣帛は、明妙・照妙・和妙・荒妙に備へ奉り、御酒は・辺高知り、・腹満て雙べて、汁にも穎にも、
山野に住む物は、毛の和物・毛の荒物、青海原に住む物は、鰭の広物・鰭の狭物、奥津海菜・辺津海菜に至るまでに、
横山の如く置き足らはして進る宇豆の幣帛を、平けく聞食して、
大八衢に湯津磐村の如く塞り坐して、皇御孫命を堅磐に常磐に斎ひ奉り、茂御世に幸へ奉り給へと申す。
  又親王・王等・臣等・百官人等、天下の公民に至るまでに、平けく斎ひ給へと、神官、天津祝詞の太祝詞事を以て、称辞竟へ奉らくと申す。
0097日本@名無史さん2018/12/04(火) 08:26:35.56
>>95
>卑弥呼→台与の頃を歌ったものだろうか?
邪馬台国、初期のヤマト政権は、【石器作り】や【狩猟】を生業にしていた勢力が主体だったことが窺える<

台与も邪馬台国も存在しないものだから、×。
0098日本@名無史さん2018/12/04(火) 09:09:52.47
>>96
>邪馬台国と対立していた狗奴国は、道饗祭と関係があるかもしれない<

「邪馬台国」なんて存在もしない嘘つき騙し文言であり、国民を騙そうとしてはいけない。
0100日本@名無史さん2018/12/04(火) 10:56:22.74
今日も朝から異常者が訳の分からん妄想を喚いてるなぁ
0101日本@名無史さん2018/12/04(火) 11:15:56.05
邪馬台国畿内説は、完全に破綻してしまい、異常者が作製した訳の分からんテンプレートも論破されてしまったので、今後は、国民から空想科学小説として扱われます、、、
だから、次回のスレッドを、SFの掲示板に作製しました。。

邪馬台国畿内説 part1
http://mevius.5ch.net/test/read.cgi/sf/1541650797/
0102日本@名無史さん2018/12/04(火) 11:17:25.20
>>101
SFの掲示板が、人気なのではないのかな。。。
0103日本@名無史さん2018/12/04(火) 12:00:27.14
SFだからと言って、宇宙人を出す必要はない。
なんとなく科学的な雰囲気を漂わせればいい。
そう、畿内説のように。
本当の科学である必要もない。
少し不思議(SF)なのだ。
0105日本@名無史さん2018/12/04(火) 13:14:22.13
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0106日本@名無史さん2018/12/04(火) 15:36:07.53
>>104
ゴミスレ作るなよ
0107日本@名無史さん2018/12/04(火) 16:23:04.13
よく銅鐸が突然無くなって鏡に変わった!畿内は征服されたんだ!とかアホ丸出しの珍説言う奴がいるけどさ、
九州の変化の方がよっぽどハッキリと分かりやすい激変なんだけどな
その辺なんで考えもしないのか謎

・甕棺、銅矛が弥生時代後期後半に急激に消滅に向かう
・墓制に規格性、中心性がなくなりそれまでの一律的秩序が崩壊
・それまで継続されていた鏡の大量副葬墓が平原を最後に消滅しどこにも卓越性が無くなる
・鏡が古い鏡の破鏡中心に変わり配布主体も中心地も分からない状態になる
・大和、畿内の土器が急激に入り込み在地土器を塗り替える
・九州が破鏡中心になったころに今まで鏡が少なかった地域に新式の完形鏡が出始める

むしろ九州の勢力としての急激な衰退と他地域の伸長が見える状態になってる
この変化はとても急激な物で「激変」と言うにふさわしい物になっている
この状態は時間経過ごとにドンドン進んで九州の主体性が失われていき、邪馬台国の時代を迎えることになる

これがちょうど倭国大乱の時期に始まってる辺りが示唆的で面白い
0108日本@名無史さん2018/12/04(火) 16:32:43.42
銅鐸が突然無くなって鏡に変わって、畿内は征服されたという新しい情報が、発表されたのでは、ないのかな。。。
0109日本@名無史さん2018/12/04(火) 16:33:49.22
銅鐸とは、どのような物質だろうか、、、
0110日本@名無史さん2018/12/04(火) 16:36:00.16
九州に前方後円墳ができ始め三角鏡が副葬され
機内型の豪族居館ができてくるのは
何が起きたか一目瞭然だろ
0111日本@名無史さん2018/12/04(火) 16:38:01.69
銅鐸が突然無くなって鏡に変わって、畿内は征服されたという、「激変」が何だったのかが、畿内説が破綻した原因にとって、重要ではないのかな、、、
0112日本@名無史さん2018/12/04(火) 16:40:02.06
銅鐸が突然無くなって鏡に変わって、畿内は征服されたので、墓場になった可能性が高いな。。。
0114日本@名無史さん2018/12/04(火) 16:57:34.29
>>93
伊勢遺跡の円周上の建物は、中心点からみてそれぞれ10度角の方位上に建てられている。
これは二節気ごとに建物を建てたことを示している。
その季節ごとに農耕祭祀を行ったということだろう。
纏向遺跡の建物群の最大建物の中心点を通る東西線に対して、西向きの方角でそれぞれの建物は南へ5度振る向きに並べて建てられている。
この東西線に対して南への5度角は、二十四節気の啓蟄に重なる。
また、纏向遺跡と東側の山麓の大墳墓群は、それぞれ3つの墓域内にきっちり設けられている。
この3つの墓域からはみだして設けられている大王級の前方後円墳はない。
この3つの墓域は、いずれも円環3年暦の冬至から夏至までの角度内に設けられていて、それをはみ出る前方後円墳がないことから、墓域が二十四節気を基に設計されたものであることが高い確率で想定される。
さらに、難波の応神朝の墓域は、百舌古墳群などであるが、この墓域全体も3年暦の第一年目の冬至から夏至までの間に設定されていて、これをはみ出る前方後円墳はない。
これらが、弥生後期には、二十四節気暦が用いられていたことの証拠だと考えている。
そして、筑後山門にも、この二十四節気が用いられていた痕跡がみられる。
それが、筑後山門が倭國連合の都であったと推測する理由の一つだ。
0115日本@名無史さん2018/12/04(火) 17:00:54.17
>>95
アチメは、博多の安曇のことだ。
0116日本@名無史さん2018/12/04(火) 17:02:19.33
>>107
> ・大和、畿内の土器が急激に入り込み在地土器を塗り替える

この「大和、畿内の土器」は
倭国(阿波)の「東阿波型土器」の間違いね。 そこんとこよろしく。  @阿波
0117日本@名無史さん2018/12/04(火) 17:03:59.50
>>99
>>114、読んでチョンマゲ。
0118日本@名無史さん2018/12/04(火) 17:47:28.30
>>107
>・甕棺、銅矛が弥生時代後期後半に急激に消滅に向かう<

甕棺部族は倭国乱などで敗退し、銅矛は、鉄器に変わってますます強くなった。

>・墓制に規格性、中心性がなくなりそれまでの一律的秩序が崩壊<

元々百余の国があったのであり、卑弥呼の頃にもまだ30国位に分れていた。

>・それまで継続されていた鏡の大量副葬墓が平原を最後に消滅しどこにも卓越性が無くなる<

消滅していない。 鏡の大量副葬墓は、天孫族やその中の倭奴國系の阿毎氏系が中心が能力習俗であり、
阿毎氏に合同した姫氏系や、地方の豪族や東征毛人五十五國などに広がった。

>・鏡が古い鏡の破鏡中心に変わり配布主体も中心地も分からない状態になる<

卑弥呼の鏡片は、筑紫が中心に配られ、その後も平原や那珂八幡や、一貴山銚子塚の黄金鏡などが発展させたが、
317年頃に、姫氏の久留米付近に遷宮してからは、九州倭国では鏡祭祀がメインではなくなり、 東征毛人五十五國などの地方の豪族や将軍らに中心が移った。

>・大和、畿内の土器が急激に入り込み在地土器を塗り替える<

これは×ね。筑紫の庄内は卑弥呼の前からであり、大和の庄内は、3世紀末の石塚からであるから、筑紫から近畿に伝播したもの。

>・九州が破鏡中心になったころに今まで鏡が少なかった地域に新式の完形鏡が出始める <

渡来して来た呉系楽浪鏡師らが、筑紫では商売にならなくなり、地方らの豪族や将軍らのところへ行って商売したから。

>むしろ九州の勢力としての急激な衰退と他地域の伸長が見える状態になってる<

なっていない。 倭奴國〜白村江まで、倭国は列島盟主であったのであり、
「復立卑彌呼宗女臺與爲王、其後復立男王、並受中國爵命。晋安帝時、有倭王賛・・・」であり、 「世與中國通」であった。
0119日本@名無史さん2018/12/04(火) 17:55:42.16
>>117
10度角が二節気とか
5度角が一節気とか
最初から妄想

だって、根拠ないでしょ?
0120日本@名無史さん2018/12/04(火) 18:00:29.04
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0121日本@名無史さん2018/12/04(火) 18:04:12.47
>>110
>九州に前方後円墳ができ始め<

撥型前方後円墳の石塚よりも、
「くびれ部彎曲」の前方後円墳の那珂八幡の方が、
モンゴルや高句麗の物に近く、古い。

>三角鏡が副葬され <

△も、筑紫の志登や祇園山や藤崎西新町や那珂八幡などの方が、
4世紀の大和の△よりも古い。

>機内型の豪族居館ができてくるのは 何が起きたか一目瞭然だろ<

豪族居館とはどこの事を言っているのか?は知らんが、
吉武高木の方がはるかに古い。
0122日本@名無史さん2018/12/04(火) 18:35:26.92
>>119
5度、10度というのは、われわれが理解しやすいように角度で表現しているもの。
当時としては、15日一節気で表現していたのかも知れない。
その15日分が、現代の分度で5度角だと言っているわけ。
お気にめさなければ、一節気当たり15日分と表現してもいい。
中心点からみて、春分点から南に15日目が啓蟄の初日に当たる。
このようにして、円環上の365日目が真北に当たる。
円環上の真北から東へさらに15日目の方角が、吉野ヶ里の中軸線の方向と一致する。
などなど、そういうわけ。
0123日本@名無史さん2018/12/04(火) 18:41:48.58
定説通説に反抗する目的のみで根拠ない作り話するだけ
ザラコクはもう会話が成り立たんレベルまで悪化
0124日本@名無史さん2018/12/04(火) 18:50:54.42
>>107
平原女王(卑弥呼)の絶対的な王権ぶりが強調されているな。
そして女王の亡き後に混乱と九州北部全体の興隆が来るわけだ。
九州説では三雲南小路に代表される甕棺墓の天孫族が筑紫を去った後に卑弥呼が共立されたので、

>>107
>・甕棺、銅矛が弥生時代後期後半に急激に消滅に向かう

などはむしろ九州説によく一致する。

>>107
>・墓制に規格性、中心性がなくなりそれまでの一律的秩序が崩壊
>・鏡が古い鏡の破鏡中心に変わり配布主体も中心地も分からない状態になる

なども、筑後や肥国などへの倭国の拡大と繁栄を示しているわけだし、九州説は考古学的事象をうまく説明できている。
キナイコシが批判しようと持ち出したことは、すべて九州説を補強している。
0125日本@名無史さん2018/12/04(火) 19:05:47.72
合うって主張するのはいいけど説明ないんじゃな
0127日本@名無史さん2018/12/04(火) 19:44:51.88
後漢代の倭国の王都は、考古学的には福岡ではなく糸島の伊都国なわけだけど、それは筑紫の日向として記紀に記録されている。
伊都の高祖宮の祭神が日向王家のヒコホホデミとされている。
高祖宮を含む高祖山全体(クシフル山を含む)が山城(後の怡土城、高祖城)であり、記紀の高千穂宮だろう。
三雲南小路の王と王妃は、祭殿である細石神社の祭神にあるようにニニギと木花咲耶姫だろう。
記紀の日向三代が魏志倭人伝の男王70〜80年に相当する。
その途中で分家が生まれて投馬(都萬)に隼人の祖が生まれた。
日向王家の時代が終わり天孫族が筑紫を脱出するのが倭国大乱であり、甕棺王家の終焉となる。
その後に伊都で共立されたのが卑弥呼であり、太陽神の象徴である八咫の鏡とともに平原遺跡に葬られたのだろう。
祇園山や高良大社、河上神社など、その後の倭国は狗奴国(肥後熊本)を吸収しながら中枢を南下させたのだろう。
中心が見えなくなるのは、筑紫だけでなく肥国、豊国を含めた九州北部全体が栄えるからだ。
0128日本@名無史さん2018/12/04(火) 19:46:27.67
ちなみに漢委奴国王印(金印)は、江戸時代まで伊都の細石神社が保管していたそうだ。
もとは倭王の王宮だったのかもね。
0130日本@名無史さん2018/12/04(火) 21:18:09.72
スレをホームページ
制作を作製
築造も作製
日本語が不自由過ぎw
0131日本@名無史さん2018/12/04(火) 21:37:06.91
>>128
やたらめったら
そういうデマ流すから
九州説は信用を失った
0132日本@名無史さん2018/12/04(火) 21:39:53.11
つまり、邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだね、、、
0134日本@名無史さん2018/12/04(火) 21:52:56.64
>>122
>5度、10度というのは、われわれが理解しやすいように角度で表現しているもの。

その5度とか10度というのがアンタの作り話なんだから、アンタの言うこと全部が根っこから成り立たないトンデモだろ
0135日本@名無史さん2018/12/04(火) 21:56:53.36
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0136日本@名無史さん2018/12/04(火) 21:59:04.30
角度のことで、中学生に敗北した3寸男が、新しい討論を挑んだな、、、

134 名前:日本@名無史さん 2018/12/04(火) 21:52:56.64
>>122
>5度、10度というのは、われわれが理解しやすいように角度で表現しているもの。

その5度とか10度というのがアンタの作り話なんだから、アンタの言うこと全部が根っこから成り立たないトンデモだろ
0139日本@名無史さん2018/12/04(火) 22:18:01.44
>>137

もう、それぐらいしか出来る話題がないのだからほっといたらいいのではないのかな。。。  @阿波
0141日本@名無史さん2018/12/04(火) 22:29:49.96
敦賀〜多賀〜甲賀〜伊賀〜雑賀〜那賀〜香賀〜英賀
畿内周辺にラインを作る賀
何かの名残りかもしれない

環大阪湾、淡路島を真ん中に本当綺麗な円ができるんだよね
0142日本@名無史さん2018/12/04(火) 22:32:10.20
>>131
「南→東」などの嘘吐き騙しのように、
やたらめったら そういうデマ流すから、
大和説は、国民の信用を失った。
0143日本@名無史さん2018/12/04(火) 22:42:25.21
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している


これが今のおおよその意見。
でもこれは見つけられない人たちの言い訳。

卑弥呼(ヒミコ)とは簡単。

I崇神(310年頃 318年没)
H開化
     G孝元
          F孝霊   
トヨ津          E孝安 D孝昭
トヨ津       (250年頃) C懿徳 
ヒメ(踏鞴五十鈴)        B安寧
ヒメ(踏鞴 五十鈴)       A綏靖
ヒメ(踏鞴五十鈴) (200年頃) @神武 

魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の墓が高天原にあった。

高天原最有力地・御所市高天の日本最古の神社・高天彦神社の境内に、
径百余歩(約150m)の塚があり、魏志倭人伝の記述通り奴婢が埋葬されている。
埋葬された奴婢とは土蜘蛛である。

http://bbs10.aimix-z.com/gbbsimg/e_asia/114_0.png
0144日本@名無史さん2018/12/04(火) 22:51:21.45
>>134
周髀算経にも24節気が載っているが、正午の8尺棒の影長で決められるようになっている。

凡八節二十四気,気損益九寸九分、六分分之一。
冬至カゲ長一丈三尺五寸,夏至カゲカゲ長一尺六寸。問次節損益寸數長短各幾何?
冬至晷長一丈三尺五寸,小寒丈二尺五寸,大寒丈一尺五寸一分,立春丈五寸二分,雨水九尺五寸二分,ケイ蟄八尺五寸四分,
春分七尺五寸五分,清明六尺五寸五分,穀雨五尺五寸六分,立夏四尺五寸七分,小滿三尺五寸八分,芒種二尺五寸九分,
夏至一尺六寸,小ケイ暑二尺五寸九分,大暑二尺五寸八分,立秋四尺五寸七分,處暑五尺五寸六分,白露六尺五寸五分,
秋分七尺五寸五分,寒露八尺五寸四分,霜降九尺五寸三分,立冬丈五寸二分,小雪丈一尺五寸一分,大雪丈二尺五寸。

そして、各節気の影長差を見てみると、
0146日本@名無史さん2018/12/04(火) 22:57:30.24
西殿塚、桜井茶臼山も見たけど、時代がズレていたりで、
結局、箸墓に引き戻されてしまうんだな。

もう俺は卑弥呼の墓は箸墓でイイわ。

台与の墓が西殿塚かな?
0147日本@名無史さん2018/12/04(火) 23:01:51.89
>>146
>結局、箸墓に引き戻されてしまうんだな。

トンデモだから、そんなにブレるんだよ。  @阿波
0148日本@名無史さん2018/12/04(火) 23:04:45.70
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0149日本@名無史さん2018/12/04(火) 23:32:19.97
>>136
ちゃんと説明しただろうが。
お主が理解せんだけだ。
円環上に15日単位で二十四節気を配置した暦は、近江の伊勢遺跡にみられる。
伊勢遺跡の円周上の建物について、よく勉強してみたまへ。
0150日本@名無史さん2018/12/04(火) 23:36:34.00
櫛八玉命って何だろうな
杵築大社の湊神社に祀られている
別火とはどういう意味何だろうか

櫛ってどういう意味何だろうな
詳しい人いないかな
0151日本@名無史さん2018/12/04(火) 23:40:10.93
円周上の建物は伊勢遺跡だけだろ?
0152日本@名無史さん2018/12/04(火) 23:45:28.59
>>144
周髀算経の七衡図に関連した七衡六間図には、太陽運行と二十四節気が対照されている。
また、漢代には太陰暦の正月を二十四節気の冬至に置くことで新しい暦を作った。
これが太陰太陽暦であり、天文官だった司馬遷もその作業に関わった。
漢代には、二十四節気は完成していたことが分かる。
0153日本@名無史さん2018/12/04(火) 23:57:14.67
事代主は玉櫛入彦
スサノオの嫁は櫛
ニギハヤヒ系は父系に櫛
櫛だらけだな
0154日本@名無史さん2018/12/05(水) 00:07:59.16
>>151
伊勢遺跡は、円環上に二十四節気の節気が等間隔で配置されている実例だ。
纏向遺跡の墓群と東側の山麓の大型前方後円墳群は、二十四節気を3年分円環上に配置した3年暦に基づいて墓域を設定した実例だ。
さらに、河内の百舌鳥古墳群などは、畝傍山に3年暦の中心点を置いて設定した墓域であり、これも二十四節気暦が4世紀後半にも用いられていたことを示す実例だ。
筑後山門にも、そうした二十四節気暦が用いられた痕跡がある。
こうした実例を研究して、ワイの言っていることを思い出して、博士論文書いて、博士号をとったらいいぞ、アイデアはお主にやるから、ぜひそうしろ。
0155日本@名無史さん2018/12/05(水) 00:12:30.24
>>154

その3年分の円環というのはどこにある?
0156日本@名無史さん2018/12/05(水) 00:15:47.40
櫛は別れを招く呪力
櫛を付けた巫女の埴輪
0157日本@名無史さん2018/12/05(水) 00:18:33.17
神名の櫛は奇し御魂のくしだろ
0158日本@名無史さん2018/12/05(水) 01:15:34.61
>>146
>もう俺は卑弥呼の墓は箸墓でイイわ。
> 台与の墓が西殿塚かな?

ヒミコが誰なのかキチッと」だしてないからそんな間違いをしてしまう。
纏向古墳群は物部の墓だ。
0159日本@名無史さん2018/12/05(水) 01:38:34.57
http://bbs10.aimix-z.com/gbbsimg/e_asia/114_0.png

新井白石が常陸説を出すまで、ここ御所市高天が普通に高天原であった。
にもかかわらず誰も注目してこなかった。
ここに何かあると足繁く通った変わり者はわしくらいだ。

そして今年の5月頃、突然ひらめいた。
「魏志の殉葬された奴婢って土蜘蛛か…」

ここ高天原が日本の歴史の原点。
そして魏志倭人伝の卑弥呼の墓もあった。

箸墓が卑弥呼墓だと言ってる馬鹿学者ども、
この単純明快な真理の前にひれ伏せ。
0161日本@名無史さん2018/12/05(水) 02:24:18.93
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0162日本@名無史さん2018/12/05(水) 02:37:04.32
>>155
伊勢遺跡の円周上の建物と、纏向遺跡の墓群&東側山麓の古墳群がそれだ。
試しに、伊勢遺跡を扱ったサイトから円周上の建物の平面図を印刷し、
その複数の建物が向かっている中心点を求め、この中心点を通る真東真西の東西線に対して東側では10度の角度ごとの線上に建物が建っていることを確認すること。
そのうちの一つは10度より2度ずれているが、そのことは置いておく。
そして、その建物のうち最も北の建物は小満の節気に当たるが、実際の太陽はその節気の位置まで進まずに夏至から折り返して南へ戻る。
ということは、この二十四節気の暦では、冬至からスタートした実際の太陽の運行を無視して、円環上で夏至よりもさらに先の小満に進んでいることが分かる。
円環上に5度の角度の節気をぐるっと360度3年分の暦を用いていることが分かるのだ。
西側の建物についても同じ作業をすること。
そうしたら、博士号をとる意欲が出てくるだろう。
弥生時代に、日本には暦はなかったとされているのだから、画期的な業績になるぞ。
とにかく、やってみたまへ。
0163日本@名無史さん2018/12/05(水) 03:25:45.81
>>162

伊勢遺跡は楕円上に10度の角度ごとなら二十四節気の1年半分だろ?
5度の角度に何がある?

http://ise-iseki.yayoiken.jp/ensyuu.htm
0164日本@名無史さん2018/12/05(水) 05:54:47.32
>>163
5度の角度には何もない。
10度ごとに建物がある。
0165日本@名無史さん2018/12/05(水) 06:38:04.63
圧倒的に畿内説が不利
スレの締め時かな
5ちゃんだから負けてもいいが・・・
0166日本@名無史さん2018/12/05(水) 06:42:04.78
>>162
邪馬台国近江説ですか?
0167日本@名無史さん2018/12/05(水) 06:57:33.88
>>166
テンプレでは狗奴国の一部じゃねーか
0168日本@名無史さん2018/12/05(水) 07:26:52.05
勘違いしてねーか
前方後円墳は大和王政が勢力拡大の根拠となるが
邪馬台国とまったく関係ない
倭人では記述されていない倭種の別国の話じゃねーか

狗奴国の文化とか・・・狗奴国がヤマト王権発祥でも成り立たないか
0169日本@名無史さん2018/12/05(水) 07:28:57.71
すまん
倭人伝では記述されていない倭種の別国の話じゃねーか
前方後円墳は その後全国に広まったとか
0170日本@名無史さん2018/12/05(水) 07:33:36.51
ごめん。仕事で出なければならなくなって、途中で切れてしまったから、
>>144の続き
そして、各節気の影長差を見てみると、影長差が同じ間隔になっていない。
そして問題は、魏略の「其俗不知正歳四節、但計春耕秋收爲年紀」という説明。
人間は、何かの気候や季節の認識方法が分からなければ、
「農耕の開始時期」などの判断が出来ず、だから、部族指導者や王は、
太陽の日の出日の入りの位置や、正午頃の8尺棒の影長のような、
目安や目印がなくては、農耕が出来ないもの。
また魏略のこの「正歳」とは、約365日の事であり、「四節」とはの春夏秋冬の事であり、
周髀算経を知っている中国では、計測法を知っているが、
倭人は、それを知らず、
春と秋という曖昧な判断だけしか知らないで、年の区切りとして「年紀」を計算したのだ、
と言っている事になる。
0171日本@名無史さん2018/12/05(水) 07:34:21.67
テンプレはいろいろとひどすぎるな。
だから畿内説が信用されない。
0172日本@名無史さん2018/12/05(水) 07:38:32.16
>>146
>西殿塚、桜井茶臼山も見たけど、時代がズレていたりで、 結局、箸墓に引き戻されてしまうんだな。
もう俺は卑弥呼の墓は箸墓でイイわ。 台与の墓が西殿塚かな? <

よくない。「南≠東」などに拠って、×。
0173日本@名無史さん2018/12/05(水) 07:47:31.94
>>170
>農耕には日の出、日の入りの位置が不可欠

これは理解できる
つまり、東西南北は明らかに認知している
だから魏志倭人伝の南を東に変えることはできない
0175日本@名無史さん2018/12/05(水) 09:04:02.76
次々にホームページが作製されたのではないのかな、、、
邪馬台国纒向説 part4
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1541980709/
邪馬台国畿内説 避難所
http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/entrance/1539752632/
邪馬台国畿内説 part1
http://mevius.5ch.net/test/read.cgi/sf/1541650797/
邪馬台国畿内説 part440
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1541819761/
考古学者の邪馬台国畿内説離れは集団心理なのか
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/psycho/1542857513/
邪馬台国畿内説 part4001
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1542985752/
邪馬台国畿内説が敗北を宣言したね
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1542631006/
邪馬台国畿内説 箸休め
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1540975350/
邪馬台国纏向説が破綻した理由part3
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1541036706/
邪馬台国畿内説の角度
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/math/1543928789
邪馬台国畿内説 part1
http://mao.5ch.net/test/read.cgi/management/1543927675/l50
邪馬台国畿内説 part1
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/soc/1543922864/l50
邪馬台国畿内説が破綻した理由 part1
http://mao.5ch.net/test/read.cgi/lifework/1543919660/l50
邪馬台国畿内説 part1
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/loser/1543546433/
0176日本@名無史さん2018/12/05(水) 09:49:46.38
>>173
>>農耕には日の出、日の入りの位置が不可欠

>これは理解できる
>つまり、東西南北は明らかに認知している
>だから魏志倭人伝の南を東に変えることはできない

おおよその方角しか意識してないから間違えることもあるという話なのだが。
0177日本@名無史さん2018/12/05(水) 09:53:50.26
百姓はお日様がいのち、季節ごとの日の出の方角や時刻を間違えたりしない
ただし、農耕しない貴族・役人は知らん
0178日本@名無史さん2018/12/05(水) 09:59:23.62
弥生時代にはすでに銅鐸勢力が畿内から中部、
銅剣勢力が九州から瀬戸内と住み分けられてるのだ。

http://book.geocities.jp/piezo_comic/9shumapnew09.jpg

これは畿内にあった王権を九州瀬戸内の防人武人たちが守ってたという事。
白村江敗戦後と同じ。
つまり王権は畿内にあった。
0179日本@名無史さん2018/12/05(水) 10:01:19.15
>>177
百姓は山や海を基点にして位置を判断するのでそもそも四方自体を意識することはない。
0180日本@名無史さん2018/12/05(水) 10:20:01.91
>>178
http://book.geocities.jp/piezo_comic/9shumapnew09.jpg

「銅剣・銅矛・銅戈」も「平形銅剣」も「銅鐸」も全て倭国(阿波)がその中心に位置する。
これらすべての青銅器分布が含まれているのは唯一倭国(阿波)だけ。
まさに、阿波に【大国主神を祀る、全国唯一の式内社「八鉾神社」】が鎮座するのも尤もな話である。
これは、倭の王権が「倭国(阿波)」にあった証拠。 
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。   @阿波
0181日本@名無史さん2018/12/05(水) 10:36:44.41
>>176
>>>農耕には日の出、日の入りの位置が不可欠<

>>これは理解できる つまり、東西南北は明らかに認知している
だから魏志倭人伝の南を東に変えることはできない <

>おおよその方角しか意識してないから間違えることもあるという話なのだが。<

周髀算経の「日の出日の入りで東西を決め、それと直交する方法で南北を決める」方法や、
礼記の「棒を立ててそれを中心とする円を書いて棒の影端がその円周を横切る2点を結んで東西を決める」
方法を知っている中国人や、農民や魏の役人や陳寿らは、
東西南北は殆ど間違えない、という話なんだが。
0182日本@名無史さん2018/12/05(水) 10:37:17.33
>>175
これらを埋めてくれってことか

犯罪者が犯行を得意気に話す、みたいなノリなのかね
日本人とはとことん価値観が違うな
0183日本@名無史さん2018/12/05(水) 10:39:14.44
方角は間違えないっていうのが九州説の最後の砦みたいだけど、
その場で間違えなくても、何ヶ月もたってから、あの時どっちに向かってたっけ?って時には
普通に間違えるだろ?

そして、魏志倭人伝を書いたのはその場にいなかった陳寿なんだから、間に伝言ゲームが挟まるし
普通に間違うときは間違うだろ
0184日本@名無史さん2018/12/05(水) 10:45:16.50
>>178
>弥生時代にはすでに銅鐸勢力が畿内から中部、
銅剣勢力が九州から瀬戸内と住み分けられてるのだ・・・<

畿内なんて存在もしない嘘つき騙し文言だから、×。
また、銅鐸は、出雲系の祭祀。

>これは畿内にあった王権を九州瀬戸内の防人武人たちが守ってたという事。
白村江敗戦後と同じ。 つまり王権は畿内にあった。<

「正北抵新羅」に拠って、盟主の倭国は北部九州にあったのであり、
大和は、
筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国であり、
九州倭国の「東征毛人五十五國」の中の東方倭種の一国であり、
「南≠東」に拠って、卑弥呼らがいた倭国中心ではない。
0185日本@名無史さん2018/12/05(水) 10:50:26.00
>>182
大和説者は、「南→東」などの嘘つき騙しは、決して止めない、ってことか?。
犯罪者が犯行を得意気に話す、みたいなノリなのかね?。
国民の7割や、まともな日本人とは、
とことん価値観が違うな。
0186日本@名無史さん2018/12/05(水) 11:18:03.86
>>183
>方角は間違えないっていうのが九州説の最後の砦みたいだけど、
その場で間違えなくても、何ヶ月もたってから、あの時どっちに向かってたっけ?って時には
普通に間違えるだろ?
そして、魏志倭人伝を書いたのはその場にいなかった陳寿なんだから、間に伝言ゲームが挟まるし
普通に間違うときは間違うだろ<

魏志倭人伝の「行程の方角記載」情報は、
(倭人からの伝聞ではなく)ほぼ全て魏の役人らの記録であり、
周髀算経や礼記の「東西南北の決め方」を知る事が業務である中国人や、
中国の王や農民や、魏の役人や陳寿らは、
「東西南北」は殆ど全く間違えない、って話だろ?。
0187日本@名無史さん2018/12/05(水) 11:42:13.90
単に畿内大和の者が、古代人はよく間違えた、と思いたいだけだろ
0188日本@名無史さん2018/12/05(水) 11:52:50.07
間違えたのか意図的に変更したのかは不明だが南では海上に突き抜けてしまうから間違いなのだろ
0189日本@名無史さん2018/12/05(水) 12:01:41.94
文法を以て、古典を読みこなせばよいのか?
現場の地理・地勢・地形に合致しなければ意味はない。南に突き抜けるような読み方のほうが間違ってるのだ。
0190日本@名無史さん2018/12/05(水) 12:08:29.12
>>188
>間違えたのか意図的に変更したのかは不明だが南では海上に突き抜けてしまうから間違いなのだろ

魏志倭人伝では、
不彌國で「萬二千余里」がほぼ終わっているから、邪馬壹國女王之所都は、
不彌國の南すぐ付近である事になり、
九州内であり、「海上に突き抜けてしまわない」から、
「海上に突き抜けてしまう」と言ったこの大和説男は、
「嘘つき騙しの・・・・詐欺師」であったんだろう。
0191日本@名無史さん2018/12/05(水) 12:21:06.82
現場はワシが住んでるところ
ワシだけの邪馬台国
0192日本@名無史さん2018/12/05(水) 12:26:33.43
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
0193日本@名無史さん2018/12/05(水) 12:36:25.10
>>181
>周髀算経の「日の出日の入りで東西を決め、それと直交する方法で南北を決める」方法や、
>礼記の「棒を立ててそれを中心とする円を書いて棒の影端がその円周を横切る2点を結んで東西を決める」

異国でそんな面倒臭い事をしない。
今でも旅行先で方角なんかだいたいの事しか分からない。
0194日本@名無史さん2018/12/05(水) 12:41:38.51
帯方郡から女王国まで一万二千里、そのうち九州上陸までで一万里なので、南海上には突き抜けない。
女王国は九州の中にある。
0195日本@名無史さん2018/12/05(水) 12:48:45.17
>>194
それだと会稽にぜんぜん届かないから、×。
0196日本@名無史さん2018/12/05(水) 12:53:08.46
>>194
>帯方郡から女王国まで一万二千里

正解


>そのうち九州上陸までで一万里なので

関係なし。  勝手読み。


>女王国は九州の中にある。

断じて、ない。  @阿波
0197日本@名無史さん2018/12/05(水) 12:53:37.75
二千里間にある国々が特に置いた一大率が檢察している諸国
そこから2ヶ月移動して女王之所都
0198日本@名無史さん2018/12/05(水) 12:56:13.54
都合よく水行も陸行も全無視する九州バカだった
0199日本@名無史さん2018/12/05(水) 13:02:45.59
畿内説が破綻し、畿内説の宣伝係が作製したテンプレートが、完全に論破されたので、これからは、少しレベルの高いことを討論すれば良いな、、、
0200日本@名無史さん2018/12/05(水) 13:10:11.97
筑前に辿り着いてるのにまた一つ以上の行程をかけて筑前に戻るという

最早方向どころじゃない滅茶苦茶な動きをしてる
だけどそれは何の問題もないと疑問さえも感じない

九州バカのバカもここに極まれりだな
0201日本@名無史さん2018/12/05(水) 13:16:07.94
>>193
>今でも旅行先で方角なんかだいたいの事しか分からない

だいたいのことが判れば、南⇒東とはならない
0202日本@名無史さん2018/12/05(水) 13:21:17.13
だいたいのことが判るのは旅行に行った人
陳寿はまた聞きした人
0203日本@名無史さん2018/12/05(水) 13:27:00.21
>>199
畿内説が破綻し、畿内説の宣伝係が作製したテンプレートが、完全に論破されたので、これからは、どうして畿内説を信じた者や宣伝する者が出現したかという、脳の医学や、観光の商業に関係性があることを、討論すれば良いのではないのかな。。。
0204日本@名無史さん2018/12/05(水) 13:30:26.68
>>193
>>周髀算経の「日の出日の入りで東西を決め、それと直交する方法で南北を決める」方法や、
礼記の「棒を立ててそれを中心とする円を書いて棒の影端がその円周を横切る2点を結んで東西を決める」<

>異国でそんな面倒臭い事をしない。
今でも旅行先で方角なんかだいたいの事しか分からない。<

勿論、
皇帝への報告なんかどうでもよく、いい加減な事でも嘘吐き騙しでもどっち道分かりはせんのだから、
なんて思っているどこかの役人たちや、ヤクザ暴力団のような人種や、嘘吐き騙しの大和説者であれば、
同僚や後続の役人たちの確認でウソがばれて、首が飛ぶだけなんだが。

普通の人間は、報告を書く限りその記録は、確認を取った事を記載するもの。
0205日本@名無史さん2018/12/05(水) 13:35:09.16
>>195
>それだと会稽にぜんぜん届かないから、×。<

嘘を書くな、大和説詐欺師。
陳寿は「会稽」だなんて書いていない。
「会稽東治之東」という推定を書いているんであり、
それにほぼぴったりだから、〇。
0206日本@名無史さん2018/12/05(水) 13:47:12.11
>>197
>二千里間にある国々が特に置いた一大率が檢察している諸国<

「二千里」とかが全くの嘘吐き騙し。
對海國と一大國のそれぞれの国内見聞移動をした事を記載しているから、
その分の約1400里は「折れ線的な道のり距離」説明に含まれ、
だからやはり、不彌國で「萬二千予里」がほぼ終わる事になる。

>そこから2ヶ月移動して女王之所都<

2か月なんて移動していないから、この男も嘘吐き騙しの詐欺師であり、
「南→東」などに拠っても、 勿論×。
0207日本@名無史さん2018/12/05(水) 13:51:46.87
邪馬台国畿内説はなぜ駄目なのか

1つ目の理由
箸墓古墳を作製した崇神天皇は、720年に完成した日本書紀を作製した人物の、16回の親子関係で繋がった先祖です。。。。
日本書紀の記録した時代の、父と子の年齢差は、学部によると、平均が21.6歳であるから、箸墓古墳が374年頃に完成しました。
720-21.6✕16=374.4

2つ目の理由
箸墓古墳は大きすぎて、人民の少ない纏向では、馬がいないと製作できません。
箸墓古墳には、石や土を製作中の古墳の上に運んだ馬が通行した、スロープの痕があります。
朝鮮半島で高句麗の馬と馬主を捕獲した倭国と日本国が取引をして、馬と馬主を連れてきました。
倭国が新羅を降伏させて、高句麗の馬と馬主を捕獲したのは、4世紀後半です。
だから、箸墓古墳は4世紀後半に作製されました。。。

3つ目の理由
箸墓古墳を作製したときに掘った穴の数十年かかって積もった固い土の中の、底から20年分の部分に、紀元後400年頃の畿内馬具が落ちているのが、発見されました。。。
だから、箸墓古墳が380年頃に完成しました。

4つ目の理由
2013年に実行された箸墓古墳の大規模調査で、纏向遺蹟は全体も、魏志倭人伝時代の後の遺蹟だと判明しました。。
0208日本@名無史さん2018/12/05(水) 13:52:12.24
5つ目の理由
何十年もかかった、延べ数十万人の調査では、掘立柱の周りには、鉄と人民の家がありませんでした。。
そして、桃の種が発見されました。
だから、掘立柱は大物主の桃の倉庫の柱でした。。。

6つ目の理由
魏志倭人伝時代には、奈良盆地は沼地でした。
だから、人民が都会を作れませんでした。

7つ目の理由
畿内説の宣伝係には、頭の悪い人が多いです。
だから、畿内説の嘘の宣伝が、国民に信用されません。。。

8つ目の理由
畿内説の宣伝係には、インターネットの掲示板での、悪質な荒らし行為を実行する人が多いです。
根拠が必要な討論では、敗北したからです。
だから、悪質な荒らし行為を実行する畿内説が、破綻しました、、
0209日本@名無史さん2018/12/05(水) 13:56:40.64
>>198
>都合よく水行も陸行も全無視する九州バカだった<

この大和説男も、
投馬國は、至の前に途中移動をした事を示す文言がなかったから、
不彌國からの側副傍線國説明であって、魏使らは行っていない事や、
「水行十日陸行一月」はその前の「女王之所都」の合計所要日数記載になる事を、
都合よく隠し、
「南≠東」などの嘘吐き騙しもしている・・・・詐欺師の、大和説アホだった、。
0210日本@名無史さん2018/12/05(水) 13:57:35.89
>>205
>陳寿は「会稽」だなんて書いていない。
>「会稽東治之東」という推定を書いているんであり、

九州説の詐欺師さん
「会稽東治」なら「会稽」の中だよ
0211日本@名無史さん2018/12/05(水) 14:08:21.74
>>200
>筑前に辿り着いてるのにまた一つ以上の行程をかけて筑前に戻るという<

そんな事は言わないし、
不彌國の南のにある邪馬壹國女王之所都にほぼ届いているのに、
「また一つ以上の行程をかけて筑前に戻る」なんて嘘吐き騙しをしてまでして、
世間の人々わ騙す詐欺をし続けるなんて・・・。

>最早方向どころじゃない滅茶苦茶な動きをしてるだけどそれは何の問題もないと疑問さえも感じない
九州バカのバカもここに極まれりだな<

それに未だに「南≠東」などの嘘吐き騙しをして、
こっそり隠して世間の人々を騙そうとする・・・。
大和説の・・・・アホ詐欺も、ここに極まれり、だな。
0212日本@名無史さん2018/12/05(水) 14:15:51.45
>>198
>都合よく水行も陸行も全無視する九州バカだった<

この大和説男も、
投馬國は、至の前に途中移動をした事を示す文言がなかったから、
不彌國からの側副傍線國説明であって、魏使らは行っていない事や、
「水行十日陸行一月」はその前の「女王之所都」の合計所要日数記載になる事を、
都合よく隠し、
「南≠東」などの嘘吐き騙しもしている・・・・詐欺師の、大和説アホだった、。
0213日本@名無史さん2018/12/05(水) 14:16:22.27
>>198
>都合よく水行も陸行も全無視する九州バカだった<

この大和説男も、
投馬國は、至の前に途中移動をした事を示す文言がなかったから、
不彌國からの側副傍線國説明であって、魏使らは行っていない事や、
「水行十日陸行一月」はその前の「女王之所都」の合計所要日数記載になる事を、
都合よく隠し、
「南≠東」などの嘘吐き騙しもしている・・・・詐欺師の、大和説アホだった、。
0214日本@名無史さん2018/12/05(水) 14:16:44.72
>>198
>都合よく水行も陸行も全無視する九州バカだった<

この大和説男も、
投馬國は、至の前に途中移動をした事を示す文言がなかったから、
不彌國からの側副傍線國説明であって、魏使らは行っていない事や、
「水行十日陸行一月」はその前の「女王之所都」の合計所要日数記載になる事を、
都合よく隠し、
「南≠東」などの嘘吐き騙しもしている・・・・詐欺師の、大和説アホだった、。
0216日本@名無史さん2018/12/05(水) 14:21:01.14
>>202
>だいたいのことが判るのは旅行に行った人陳寿はまた聞きした人 <

魏使らは実際に行ったのだから、自分の見聞通りに記録出来る。
陳寿はそれをほぼ転載しただけだから、魏使らの記録とほぼ同じである。
0217日本@名無史さん2018/12/05(水) 14:26:24.79
インターネットの掲示板での、悪質な荒らし行為を実行する畿内説の宣伝係が、自分の犯罪行為を棚に上げただけではなく、相手に罪を被せたな。。。

215日本@名無史さん2018/12/05(水) 14:17:58.52
>>208がやってるのが、悪質な荒らし行為だよ
0218日本@名無史さん2018/12/05(水) 14:28:15.66
>>210
>>陳寿は「会稽」だなんて書いていない。
「会稽東治之東」という推定を書いているんであり、<

>九州説の詐欺師さん 「会稽東治」なら「会稽」の中だよ <

「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説の詐欺師さん。
「会稽」でいいんなら「会稽」とだけ書けばよいんであり、
「会稽東治」なんて書く必要が全くなく、
だから、陳寿は、「会稽」ではなく「会稽の東の治所」であったから、
「会稽東治」だと書いたんだよ。
0219日本@名無史さん2018/12/05(水) 14:33:06.58
>>166
ノー、ノー。
伊勢遺跡は、大和の纏向遺跡の前身。
邪馬台国は、九州筑後の山門。
0220日本@名無史さん2018/12/05(水) 14:33:18.73
>>186
>ほぼ全て魏の役人らの記録であり、

魏の役人だろうとなんだろうと、何ヶ月か前に一度行った場所の方角なんて、
普通に間違うだろ?
0221日本@名無史さん2018/12/05(水) 14:34:37.46
>>187
>古代人はよく間違えた、と思いたいだけだろ

現代人だって普通に間違うだろ?
>>187は、2ヶ月前の日曜日の午後三時、どちら向きだったか方角で言えるかい?
0222日本@名無史さん2018/12/05(水) 14:43:53.95
役人というのは、文字で記録してなんぼのお仕事なのさ。
2か月前のことを忘れてもいいように、硯と筆と竹簡木簡は肌身離さず、さらさらさ−・・・
0223日本@名無史さん2018/12/05(水) 14:46:00.60
筑後の山門の二十四節気が用いられていた痕跡というのは何?
0226日本@名無史さん2018/12/05(水) 15:28:12.91
>>222
>2か月前のことを忘れてもいいように、硯と筆と竹簡木簡は肌身離さず、さらさらさ−・・・

で、その竹簡、木簡は、倭国滞在中に何本書けばいいんだ?
1000本超えたら、どれに何が書いてあるか分からなくなるぞ?
まあ、数百本でも怪しいだろうけれど
途中で何本か抜けたら、それこそ方角とかは分からなくなるだろ?

方角を間違うはずがないってのは、ただの思い込み
普通に間違うし、実際大陸の史書でも間違いは見つかっている
0227日本@名無史さん2018/12/05(水) 15:40:03.65
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
0228日本@名無史さん2018/12/05(水) 15:50:40.31
破綻した畿内説の宣伝係が、また、頭の悪さを公表しているな、、、

220日本@名無史さん2018/12/05(水) 14:33:18.73
>>186
>ほぼ全て魏の役人らの記録であり、

魏の役人だろうとなんだろうと、何ヶ月か前に一度行った場所の方角なんて、
普通に間違うだろ?
0229日本@名無史さん2018/12/05(水) 15:51:56.65
>>228
そうだね、、、
破綻した畿内説の宣伝係が、中国の役所にやってきた、何十人もの旅行者が全員間違った報告をしたと思っているのではないのかな。。。。
0230日本@名無史さん2018/12/05(水) 15:58:53.72
魏志倭人伝の製作者は、中国に何十人もいた生口から、直接、倭国の様子や、邪馬台国の場所を聞き出した可能性が、99.5パーセントあるな。。。
0231日本@名無史さん2018/12/05(水) 16:01:58.16
>>230
中国に何十人もいた生口達が、マツラ国の港が、邪馬台国の北にあることを、魏志倭人伝の製作者に教えてあげたのではないのかな。。。
0232日本@名無史さん2018/12/05(水) 16:04:41.41
魏志倭人伝の製作者は、魏志倭人伝を製作するために、熱意があったので、方角を間違わなかったのだね、、、
0233日本@名無史さん2018/12/05(水) 16:08:12.42
破綻した畿内説の宣伝係が、空想を根拠にして、次の空想を実行するので、竹簡、木簡が1000本あったことにして、一本無くしたことにしたのではないのかな。。。
0234日本@名無史さん2018/12/05(水) 16:11:03.68
>>233
方向を間違えやすいのは、角度の計算が苦手な、畿内説を宣伝する、3寸足りない男ではないのかな。。。
0235日本@名無史さん2018/12/05(水) 16:14:44.32
>>220
お前は馬鹿か
>魏の役人だろうとなんだろうと、何ヶ月か前に一度行った場所の方角なんて、
普通に間違うだろ?

倭人伝を好き勝手に解釈するなよ
径百歩は間違えてると他説が言いだすぞ バーーー科
他説は良識あるから言わないがね・・・・

畿内説のご都合主義には困ったもんだ
だから国民から支持を受けない
可哀そうなのは、関西の学生さん(オカルト畿内説教に染められる)
0236日本@名無史さん2018/12/05(水) 16:15:48.18
>>231

中国に何十人もいた生口達が、丹が採れる山が、邪馬台国にあることを、魏志倭人伝の製作者に教えてあげたのではないのかな。。。  @阿波
0237日本@名無史さん2018/12/05(水) 16:15:50.92
>>218
>だから、陳寿は、「会稽」ではなく「会稽の東の治所」であったから、
>「会稽東治」だと書いたんだよ。

九州説の詐欺師さん、そんなインチキは通用しないよ
「会稽の東の治所」だって
「会稽」のどこかだろ
0238日本@名無史さん2018/12/05(水) 16:25:20.69
>>237
そだね
でもそうだとしたら東治なんて記述する必用あるかね?
0241日本@名無史さん2018/12/05(水) 16:40:14.47
>>200
>最早方向どころじゃない滅茶苦茶な動きをしてる

周旋のことかな?
ウロウロすることなんだろ?
0242日本@名無史さん2018/12/05(水) 16:41:08.69
>>219
>伊勢遺跡は、大和の纏向遺跡の前身。

日本海側、出雲の傘下だろう。
0245日本@名無史さん2018/12/05(水) 16:44:40.65
>>243
建物の様式の共通性、地理的関係など。
むしろ纒向と結びつける根拠がない。
0246日本@名無史さん2018/12/05(水) 16:47:30.25
>>244
そこなんだよ!
報告者は短里で報告して、陳寿は長里だと勘違いしたからこそ、会稽の東に倭があると思い込んだんだ。
畿内説だと、会稽の東はまったく説明できないけど、九州説では説明できる。
0247日本@名無史さん2018/12/05(水) 16:52:58.76
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
0248日本@名無史さん2018/12/05(水) 16:57:11.10
>>235
そうだね、九州説は「解釈」という名の「捏造」をした上で、
魏志倭人伝は正しいって言い張るから、魏使倭人壇は正しいんだよねwww

短里も、島巡り仮説も、水行の起点を帯方郡に戻すのも、末盧国が呼子なのも
全部「解釈」だもんな

ただ、全部、結論からの逆算だから、循環論法にしかなってないんだけどさww
0249日本@名無史さん2018/12/05(水) 16:59:07.50
>>246
>報告者は短里で報告して、

報告者も短里なんて知らない
魏の役人が、魏の皇帝の決めた度量衡以外を使えるはずがないだろうに

そこが、九州説の「捏造」なんだよ
0250日本@名無史さん2018/12/05(水) 17:02:43.95
>>220
>>ほぼ全て魏の役人らの記録であり、<

>魏の役人だろうとなんだろうと、何ヶ月か前に一度行った場所の方角なんて、
普通に間違うだろ? <

大和説者らのような嘘つき騙しの宗教的な・・・・人間ではない限り、
郡や魏の役人らは、
実際に確認計測したものでなくっちゃ、記録記載出来ないものだよ。
0251日本@名無史さん2018/12/05(水) 17:12:26.48
円環に建物を建てるのは縄文時代の環状集落だから
東日本の文化との融合だろう
旧石器時代には日本独自の環状ブロック群が関東中心に分布する
0252日本@名無史さん2018/12/05(水) 17:14:11.08
他人がたびたび間違えたと連呼する畿内・大和人は、
自らもたびたび間違えることに対する責任感に乏しいのだろう
0253日本@名無史さん2018/12/05(水) 17:21:34.80
>>221
>>古代人はよく間違えた、と思いたいだけだろ<

>現代人だって普通に間違うだろ?
>>187は、2ヶ月前の日曜日の午後三時、どちら向きだったか方角で言えるかい?<

関係がない。
魏使らは、皇帝らに報告しなければならない事だから、
きちんと確認したり計測したりした記録を残すもの。
現代日本政府に媚びへつらって、
「南→東」などの嘘つき騙しで誤魔化す詐欺師のような大和説学者など、
始めから、遣使には選ばれないもの。
0254日本@名無史さん2018/12/05(水) 18:13:16.94
ザラコクの最終解決は時の流れに任せるしかないんだろうな

もうザラコクには、現実を振り返るという能力はないようだ
0255日本@名無史さん2018/12/05(水) 18:17:05.50
>>226
>>2か月前のことを忘れてもいいように、硯と筆と竹簡木簡は肌身離さず、さらさらさ−・・・<

>で、その竹簡、木簡は、倭国滞在中に何本書けばいいんだ?
1000本超えたら、どれに何が書いてあるか分からなくなるぞ?
まあ、数百本でも怪しいだろうけれど 途中で何本か抜けたら、それこそ方角とかは分からなくなるだろ?
方角を間違うはずがないってのは、ただの思い込み<

これも、もう反論否定済みの事。
魏使らは、詔書や金印や極めて大量の下賜品を運んで来たんだから、人員には事欠かないし、
卑弥呼も上表をしているんだから、倭人側にも竹簡木簡や紙や布などがあった可能性まである。

>普通に間違うし、実際大陸の史書でも間違いは見つかっている<

普通に間違わないし、
実際「大陸史書の方向間違い例 」とやらも、
全てで、「役人たちの間違い例ではなかった」という事で反論済み。
0256日本@名無史さん2018/12/05(水) 18:37:14.99
魏志倭人伝では帯方郡から九州北岸まで一万里なんだが、一里は何メートル?
結論ありきで資料を歪曲しているのは畿内説だろ。
0258日本@名無史さん2018/12/05(水) 18:53:36.80
>>237
>>だから、陳寿は、「会稽」ではなく「会稽の東の治所」であったから、
「会稽東治」だと書いたんだよ。<

>九州説の詐欺師さん、そんなインチキは通用しないよ 「会稽の東の治所」だって
「会稽」のどこかだろ<

大和説の詐欺師さん、そんなインチキは通用しないよ。
陳寿は、文章を、余分な饒舌を避けて、出来るだけは簡素化した説明をしようとしており、
「会稽郡の中の治所」の事だ、と思えば、単に「会稽」とだけ書くのであり、
それをわざわざ「会稽東治」と書いた、という事は、女王國の位置を説明するのに、
会稽郡の関連歴や支配地歴のある東方地域、という事を示している事になる。
だから、呉郡や浙江省や江蘇省海岸付近も示す事になり、
だから「会稽東治之東」はほぼ九州でぴったりであった、という事になる。
0259日本@名無史さん2018/12/05(水) 18:58:35.65
>>239
>会稽東冶が正しいのさ<

宋明清代の校勘では、「治→冶」の校勘は一切されておらず、
5世紀の范曄の後漢書は、
「自己解釈に拠る魏志の高慢な書き換え」が多くて採用不可であり、×。
0260日本@名無史さん2018/12/05(水) 18:58:57.25
1万2千里をいくら追ったって
帯方から倭地まで1万里と准南子の世界観の
概念上の数値に合わせて記述しているだけだから
それは邪馬台国を指しているものではない
0261日本@名無史さん2018/12/05(水) 19:00:24.29
>>256
>魏志倭人伝では帯方郡から九州北岸まで一万里なんだが、

これが、実測値の加算で得られた数値ではなく、「万里の修交」を謳うために
最初から「一萬里」と設定された数値だといっている

実際、渡海3回で
狗邪韓国(プサン)ー対馬国     100km/1000里=100m/1里
対馬国ー一大国(壱岐)       70km/1000里=70m/1里
一大国(壱岐)ー末廬国(唐津)    50km/1000里=50m/1里
と2倍も異なる数値になる

短里で測った、なんてことはないんだよ
0262日本@名無史さん2018/12/05(水) 19:02:09.18
>>240
>陳寿は長里だと思い込んでいたから。<

これは、全くの×ね。
長里だ、と思い込んでいたら、赤道付近にまで行ってしまい、
九州は勿論の事、沖縄も大和も全てに合わず、×。
陳寿は、長里だ、とは思いこんでいない。
0263日本@名無史さん2018/12/05(水) 19:05:21.22
都合よく水行も陸行も全無視する九州バカだった
0264日本@名無史さん2018/12/05(水) 19:08:28.98
>>244
>当然だ 中国人はだれも短里なんて知らないからね<

周髀算経や、淮南子や山海経や戦国策や漢書や三国志や江表伝や海賦や、後漢書や唐代史書位まで、
短里を使っていたし、
日本の書紀や風土記も使っていた。
0265日本@名無史さん2018/12/05(水) 19:11:32.33
>>264
それらが短里で書かれている証拠が
それらが短里で書かれているからは循環論法
0266日本@名無史さん2018/12/05(水) 19:17:31.82
>>248
そうだね。
大和説は、「戦前の万世一系皇国史観宗教という結論先にありき」に拠って、
「正北抵新羅」という史料事実を否定し、
「解釈」という名の「捏造」をした上で、「魏志倭人伝は正しくない」って言い張るから、
逆に、魏使倭人伝は正しい、という事になるんだよねwwwになる。

長里も、島巡り説否定も、水行の起点を不彌國以後だとするのも、
末盧国が呼子説だけだ、とするのも、全部「解釈」だもんな。

ただ、全部、結論からの逆算だから、循環論法にしかなってないんだけどさww。
0268日本@名無史さん2018/12/05(水) 19:25:02.28
しかし特にここに書き込む九州説の
自分でも信じてない説で出来れば歴史を改ざんしてやろうという心理は
どうなったらそうまで愚かな考えに取り付かれるのか逆に興味深いな
0270日本@名無史さん2018/12/05(水) 19:27:05.24
>>249
>>報告者は短里で報告して、<

>報告者も短里なんて知らない<

報告者も陳寿も魏略も、短里で報告しており、長里は使っていない。

>魏の役人が、魏の皇帝の決めた度量衡以外を使えるはずがないだろうに
そこが、九州説の「捏造」なんだよ <

魏の初代文帝の即位の詔書の「受命改制」で、
「始皇帝の決めた度量衡での混乱」の統一を指示し、
重臣たちが次々に「周制への復古」の上表をしたから、
周の周髀算経の度量衡への復古になり、
漢代末に再収集注釈された周髀算経の度量衡に復帰させる事になり、
おそらく明帝の時から実施された。
0271日本@名無史さん2018/12/05(水) 19:27:12.36
キナイコシはどうやったらここまで歴史を改ざんする気になれるのやら。
こんな論法なら、史書なんて意味がなくなってしまう。
畿内説は妄想でしかない。
0272日本@名無史さん2018/12/05(水) 19:28:23.58
>>270
>報告者も陳寿も魏略も、短里で報告しており、長里は使っていない。

根拠なし
思考停止

対馬海峡が三千里なんだが、一里は何メートル?
0273日本@名無史さん2018/12/05(水) 19:28:24.25
>>267
魏の度量衡を記した律歴志
それと見つかってる当時の物差しから換算するとそうとしか出ない
それ以外の当時使われていた尺度の算出方法があるならこっちが聞きたい
0274日本@名無史さん2018/12/05(水) 19:29:28.40
>>261
>と2倍も異なる数値になる

弥生時代にしては頑張ったと思うよ。
0276日本@名無史さん2018/12/05(水) 19:31:30.78
>>270
>報告者も陳寿も魏略も、短里で報告しており、長里は使っていない。

ダメだね
それじゃあ倭が会稽より南にならないよ
0277日本@名無史さん2018/12/05(水) 19:35:15.44
>>269
准南子にある概念上の倭国までの距離1万里と一致する事と
1万2千里を魏で使われていた1里430mで換算すると
邪馬台国はパプアニューギニア
よって邪馬台国まで1万2千里は概念上の数字で
邪馬台国を指してないと誰の目にも明らかになる
0278日本@名無史さん2018/12/05(水) 19:38:54.21
>>275
魏で使われた尺度を記した律歴志と
当時使われていたモノサシから換算すると1魏里は約430m
0279日本@名無史さん2018/12/05(水) 19:43:38.59
>>275
100mのところを間違えて50mと印刷ミスした地図がありました
100mは何メートル?
0280日本@名無史さん2018/12/05(水) 19:45:20.55
>>251
縄文の環状集落は季節を意識したものではなく、墓地を取り巻くことで形成された集落形状だから、季節の推移を考慮した伊勢遺跡の円周上の建物とはまた別のものだろう。
環状集落は、実際に人が住んだ集落であり、一方、伊勢遺跡は人が住んでいない祭祀施設だとされている。
まったく別ものだろう。
0281日本@名無史さん2018/12/05(水) 19:54:43.26
>>242
弥生中期以降、墓制で近江、木津川、大和は同じ様式。
ゆるやかな連合を形成していた。
出雲の交易圏に属していたものの、近江は吉備や瀬戸内、尾張、東海との交易圏も形づくっていた。
0282日本@名無史さん2018/12/05(水) 20:02:17.97
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国や朝鮮から渡来人があったなんてあり得ないのである。
0283日本@名無史さん2018/12/05(水) 20:03:34.95
>>254
「戦前の八紘一宇の万世一系皇国史観の戦争狂」の、
大和説の学会教育界や、安部政府文部省や、右翼マスコミやキョクウ人種の最終解決は、
時の流れや、また戦争を起こして国民を死なしてしまう、という事に任せるしかないんだろうな。

もう大和説者には、現実を振り返るという能力はないようだ
0284日本@名無史さん2018/12/05(水) 20:07:40.36
>>257
>魏の1里は約430m <

周朝と魏朝と西晋朝の1里は、約76.5m。
西晋時代の陳寿までが短里を使っている。
0285日本@名無史さん2018/12/05(水) 20:08:21.01
>>283
畿内説が「戦前の八紘一宇の万世一系皇国史観の戦争狂」?

こんな下劣な中傷しかできない九州説は
もう死んでるね
0286日本@名無史さん2018/12/05(水) 20:13:29.24
>>237
そだね
でもそうだとしたら東治なんて記述する必用あるかね?
0287日本@名無史さん2018/12/05(水) 20:14:02.94
>>260
>1万2千里をいくら追ったって
帯方から倭地まで1万里と准南子の世界観の
概念上の数値に合わせて記述しているだけだから<

魏志倭人伝の記載は、「淮南子の世界観」と一致していないし、
むしろ「淮南子の世界観」を否定しているもの。

>それは邪馬台国を指しているものではない<

魏志倭人伝の記載は、「南≠東」などに拠っても、大和説を否定しているものだし、
「邪馬台国」なんて存在もしない嘘つき騙し文言でもあるから、×。
0288日本@名無史さん2018/12/05(水) 20:15:27.06
>>223
特定の一点から二十四節気の冬至、立春、春分、穀雨、小満、夏至の方位上に神社が建てられるなどしていて、この神社建立の位置には何かの標識があったことが推測される。
計6本の節気の線上にきっちり神社などが建てられていることは、偶然にしてはできすぎている。
山門が卑弥呼の宮室があったところだとする説があることからすると、この二十四節気の痕跡を考えれば、その説は相当根拠のある話になってくる。
0289日本@名無史さん2018/12/05(水) 20:20:58.03
キナイコシは距離の比例計算ができないのではないのかな
0290日本@名無史さん2018/12/05(水) 20:21:33.75
>>260はチョン
日本人なら対馬を倭地だと認識し、文献の知識があれば朝鮮半島南部すら倭地と認識する。
間違ってもタイホウから倭まで、一満里とは主張しない。
畿内説は、韓国政府のステマに荷担している。
0292日本@名無史さん2018/12/05(水) 20:28:41.01
伊勢遺跡は畿内じゃねーし

近畿説にしちゃうのかな
0293日本@名無史さん2018/12/05(水) 20:28:46.09
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
0294日本@名無史さん2018/12/05(水) 20:29:55.97
>>284
だから魏で使われた里は律歴志と当時使ってたモノサシで換算して
1里430mと史料事実で判明しておりまして
0295日本@名無史さん2018/12/05(水) 20:32:40.76
>>170
日の出日の入りなどによる季節推定ができなくて農耕はできない、というまでは正しい。
しかし、不知正歳四節は、仙人郷の豊かな土地ではそのような暦に従った農耕の必要はなく、春に種まいて秋に収穫するという単純理想的な生き方をしているということを言っており、
その文章を倭人伝に注としてを入れた裴松之は、その理想郷に邪馬台国があるのだと言っているもの。
なので、「知らず」は、無知で暦を知らないという意味ではなく、暦を必要としない理想的な環境だと言っているもの。
0296日本@名無史さん2018/12/05(水) 20:33:52.16
>>290
朝鮮人ですが何か問題でも
桓武天皇の聖母は朝鮮人なのですが
0297日本@名無史さん2018/12/05(水) 20:37:14.97
>>287
准南子は漢の国境から地の果てまでを1万里と定義している
魏志倭人伝の記述も九州北部まで同じく1万里
一致してるだろ
してないか?してるだろ
魏志倭人伝の女王国まで1万2千里は実測値じゃなく概念上の数値
恐らく奴国と国交した後漢からの伝承
0299日本@名無史さん2018/12/05(水) 20:50:09.56
1200年前の百済系渡来人と現代日本に住んでる朝鮮人じゃぜんぜん違う
0300日本@名無史さん2018/12/05(水) 20:51:00.91
>>261
>>魏志倭人伝では帯方郡から九州北岸まで一万里なんだが、<

>これが、実測値の加算で得られた数値ではなく、「万里の修交」を謳うために
最初から「一萬里」と設定された数値だといっている <

いや、魏使らが、
6倍も狂うような「長里での一萬里」設定での記録をする筈がない。
当然、実測値。

>実際、渡海3回で
狗邪韓国(プサン)ー対馬国     100km/1000里=100m/1里
対馬国ー一大国(壱岐)       70km/1000里=70m/1里
一大国(壱岐)ー末廬国(唐津)    50km/1000里=50m/1里
と2倍も異なる数値になる <

いずれをとっても、長里の「435m/1里」とは、4〜8倍も違うから、
長里は否定であり、
この男の計算数値も、出航港や到着港の比定失敗や、
計測値が「有効数字1程度の近似値であった」という事を無視したインチキ論である。

>短里で測った、なんてことはないんだよ<

長里で測った、なんて事は、全くないんだよ。
0301日本@名無史さん2018/12/05(水) 20:52:17.55
九州説は短里説を推すなら
漢の時代も短里を使って辺りを正確に実測し
そして准南子が書かれたと証明しなければならない
大変だなあ
0302日本@名無史さん2018/12/05(水) 20:55:30.53
>>298
わらわは、桓武天皇の父ですが・・
0304日本@名無史さん2018/12/05(水) 20:58:36.92
>>263
>都合よく水行も陸行も全無視する九州バカだった<

この大和説男も、
「南→東」などの史料事実の否定曲解をする嘘つき騙しであっただけではなく、
魏志は「里数」で女王之所都の位置の「萬二千余里」を説明をしている事を隠して、
付属的付加的な「日数」説明記載を「萬二千余里」に含める、
というインチキ解釈をする、
大和説詐欺師の・・・・であった。
0305日本@名無史さん2018/12/05(水) 21:00:57.22
まあ恒武天皇のお父さんが畿内説推してるなら心強いけど
0307日本@名無史さん2018/12/05(水) 21:02:55.60
『河童考』調べてみた?

あと、このスレにも貼り付けたはず

キュウリのような葉、葱の華・・・・・・・・・、
あの写真、『松傾』という家の写真なんだけど、どういう話だと思う
0308日本@名無史さん2018/12/05(水) 21:04:19.51
『アドベ イソラ』とかネット、PC用語?
0309日本@名無史さん2018/12/05(水) 21:06:07.01
龍宮が何やら〜、うらしまマリン・・・・その他


仮名、キャラクター名でしょ
0310日本@名無史さん2018/12/05(水) 21:08:30.66
>>288
それ、なんていう神社だ?
「具体的に」っていつも言ってるだろうが!

でないと検証できないだろ?
0311日本@名無史さん2018/12/05(水) 21:09:35.81
>>287
邪馬台国は魏志倭人伝を引用した
後漢書、隋書、北史、通史、太平御覧の倭人伝に
旧字体で邪馬臺國と出てくる
0312日本@名無史さん2018/12/05(水) 21:10:08.63
>>265
>それらが短里で書かれている証拠が
それらが短里で書かれているからは循環論法<

史料事実を根拠にして、それからの帰納的推論をする事は、
結論先にありきではないから、循環論法にはならない。
それに対して、「長里だけしかない」という結論先にありきで、
史料事実の否定をする大和説者側の論法は、循環論法の詐欺そのもの。
0313日本@名無史さん2018/12/05(水) 21:13:50.36
>>292
>伊勢遺跡は畿内じゃねーし

>近畿説にしちゃうのかな

北部九州以外の先進的な地域では、勢力の広域連携が進んでるってことだよ
その中で、畿内の勢力に伊勢遺跡に集まる各地が相乗りして、卑弥呼の共立が成る

そして伊勢遺跡の機能を引き継ぐ纒向遺跡の建設が始まるんだよ
0314日本@名無史さん2018/12/05(水) 21:16:06.42
>>268
しかし特にここに書き込むスレ主や大和説者の、
「史料事実を否定曲解」してまでして大和説を唱えて、
出来れば歴史を改ざんしてやろうという心理は、
どうなったらそうまで愚かな考えに取り付かれるのか?が、
逆に興味深いな。

おそらくオームと同じように、
「戦前の万世一系の八紘一宇の皇国史観」の殺戮戦争主義に狂った・・・・集団だから。
0315日本@名無史さん2018/12/05(水) 21:16:29.22
>>288

いつ建立した神社だよ
0316日本@名無史さん2018/12/05(水) 21:23:25.33
木版印刷が普及した宋代以降とそれ以前の写本とは区別すべきでしょ
0317日本@名無史さん2018/12/05(水) 21:23:42.48
>>312
史料事実では魏の1里は430mになっとりますが
それと食い違うのをどう説明する気だい
0318日本@名無史さん2018/12/05(水) 21:23:53.61
木版印刷が普及した宋代以降とそれ以前の写本とは区別すべきでしょ
0319日本@名無史さん2018/12/05(水) 21:23:56.95
>>302
>わらわは、桓武天皇の父

「わらわ」は女性の一人称ww
父が女性でどうするw

さらに念のために書いておくと、桓武天皇の父は光仁天皇
桓武天皇の母が百済系の高野新笠だけれど、その時点で倭国に来て10世代目
0320日本@名無史さん2018/12/05(水) 21:26:11.80
>>317
逆に対馬壱岐間が「千餘里」と書いてあるのはなぜだと考えているの?
0322日本@名無史さん2018/12/05(水) 21:30:38.81
>>319
イギリスが香港を利用してたように古代日本は百済を支配してことを見ても

日本人の流入が激しかった百済で育った高野新笠はどうも倭系百済人だろうな
0323日本@名無史さん2018/12/05(水) 21:31:05.94
聖造の人が本当の神様なんだろう
と言ってる人がいたんだけど

日本の神?
0324日本@名無史さん2018/12/05(水) 21:31:09.97
奈良判定を実行した闇の勢力と、邪馬台国畿内説の関係性を研究している、謎の人物が出現したのでは、ないのかな。。。

290日本@名無史さん2018/12/05(水) 20:21:33.75
>>260はチョン
日本人なら対馬を倭地だと認識し、文献の知識があれば朝鮮半島南部すら倭地と認識する。
間違ってもタイホウから倭まで、一満里とは主張しない。
畿内説は、韓国政府のステマに荷担している。
0325日本@名無史さん2018/12/05(水) 21:31:50.49
>>320
准南子の世界観
帯方郡から最果ての地倭国までは1万里に合わせた
魏志倭人伝でも帯方郡から韓国の端まで7千里
それから海を渡って3千里で九州北部に上陸
0327日本@名無史さん2018/12/05(水) 21:35:09.46
なぜ、韓国政府は、魏志倭人伝時代の討論で、邪馬台国畿内説を応援するのだろうか、、、
0329日本@名無史さん2018/12/05(水) 21:37:00.46
>>325
距離も縁起物であてにならず、方角も南が東の書き間違えってんだったら、最初から魏志倭人伝読む意味ないじゃん? 人を説得するのはムリだ。
アンタが思ったところでいいから、人に言わずに黙って心に秘めておけよwww
0331日本@名無史さん2018/12/05(水) 21:40:38.12
>>328
じゃあなんで「計其道里當在稽東治之東」だなんて書くんだ?
明らかに「計其道里」してないじゃん。
0332日本@名無史さん2018/12/05(水) 21:41:01.31
韓国政府に雇用された畿内説の宣伝係員が、宣伝を実行しているのではないのかな、、、

329日本@名無史さん2018/12/05(水) 21:37:00.46
>>325
距離も縁起物であてにならず、方角も南が東の書き間違えってんだったら、最初から魏志倭人伝読む意味ないじゃん? 人を説得するのはムリだ。
アンタが思ったところでいいから、人に言わずに黙って心に秘めておけよwww
0333日本@名無史さん2018/12/05(水) 21:42:34.04
大和説は感覚でしかものを言わない
だからコミュニケーションがとれない
0337日本@名無史さん2018/12/05(水) 21:47:41.95
つまり、邪馬台国畿内説は、韓国政府が偽造した宣伝だったのだね、、、
0338日本@名無史さん2018/12/05(水) 21:49:18.40
>>335
そうだな
1里420m程度だった時代の准南子の中でも使われてないな
それで?
0339日本@名無史さん2018/12/05(水) 21:49:35.78
>>272
>>報告者も陳寿も魏略も、短里で報告しており、長里は使っていない。<

>根拠なし 思考停止 対馬海峡が三千里なんだが、一里は何メートル?<

また、この男が変な事をしゃべっている。
「対馬海峡」と言えば、普通は、対馬と壱岐との間の海峡を意味し、
その部分の渡海里数は、魏志では「千里」と書かれていて、
この男はそれを「三千里」と書かれているような、嘘つき騙しの言い方をしている。

そして、對海國の出発港と思われる巌原から、一大國の到着港と思われる勝本までは、
60km位の筈で、更に、始めに「南」へ向かっているから、
「航海路の里数」は短里での76.5kmとほぼ同じになり、
長里は6倍位違って、全く×。

また、対馬海峡を半島と九州の間の海峡全体とした意味での「三千里」と言ったのであれば、
海峡幅は、235km位であった筈で、1里は78.3m位になり、ほぼ短里になり、
長里では6倍位の距離になってしまって、長里は×。
0340日本@名無史さん2018/12/05(水) 21:54:52.36
>>339
>>>報告者も陳寿も魏略も、短里で報告しており、長里は使っていない。<

>>根拠なし 思考停止 対馬海峡が三千里なんだが、一里は何メートル?<
これを書いた人は「1里は78.3m位になり、ほぼ短里になり」、「長里は×。」と言いたかったんだと思うけど。
0341日本@名無史さん2018/12/05(水) 21:55:09.71
>>315
この線上には、タケミナカタを祀る諏訪神社とタケミカズチを祀る春日大明神社があったりするから、この二神が相撲をとって五穀豊穣が祈られるのは江戸時代ではないか。
水田地帯だから、そうした神を祀ることがあったのではないか。
ただ、春日大明神の社は冬至の線上、諏訪神社は春分の線上にあるから、元々、そうした稲作に関連したいわれがあったのかもしれん。
その他の線上にある神社も稲作に関連した豊富な水を求める社名であるから、元々の軸線がそのような稲の豊作を祈るものとしてあったことが考えられる。
0342日本@名無史さん2018/12/05(水) 21:57:35.15
>>329
魏志倭人伝に書かれてある事と
実際に見つかる考古遺物や史料と照らし合わせながら読めばいい

地名が一致してるから大和国=邪馬台国の可能性高い
銅鏡送ったと書いてあるからその頃の魏の年号入りの
三角縁神獣鏡が畿内で見つかる
卑弥呼の死で大きな墓を作ったとあるけど
同時代の前方後円墳がある
逆に1万2千里は魏で使われていた尺度に照らし合わせたら
パプアニューギニアになるから邪馬台国を指すものじゃないとか
0343日本@名無史さん2018/12/05(水) 22:01:03.49
基本的には魏使は地元の単位で報告している。
短里はもとより倭国内の日数も、
倭人は里を知らず日数を求めるのみ、
と不満たらたらながら、
結局日数で報告されている。
0344日本@名無史さん2018/12/05(水) 22:03:10.01
>>341

要するに、筑後の山門の二十四節気が用いられていた痕跡というのは
江戸時代のものなんだな
0345日本@名無史さん2018/12/05(水) 22:03:18.63
右翼とか何だとかは関係ないのw
どこの国の人間なんだ?と聞いているんだよ


頭の病院、自殺するか、刑務所に行くか
はやく決めたほうが良いぞ


極刑(死刑)という意味
0346日本@名無史さん2018/12/05(水) 22:04:10.61
>>273
>魏の度量衡を記した律歴志 <

それは、魏よりもずっと後の「長里」時代の史書に書かれた「魏代の度量衡」説明文書であり、
魏朝の度量衡の証拠にならない。

>それと見つかってる当時の物差しから換算するとそうとしか出ない<

「見つかっている当時の物差し」というのは、「尺定規」であり、
「尺」寸法は、周代からずっと「大体同じ位」であり、6倍もは違っていないんだから、
長里か?短里か?の議論に関係がない。
関係するのは、
始皇帝の「1歩=6尺」という、里歩系単位と尺寸系単位との換算規定。

>それ以外の当時使われていた尺度の算出方法があるならこっちが聞きたい<

「尺度」は大体同じで変わっていない。
「歩」の寸法は、周髀算経などの一寸千里の8尺棒の影長の「尺寸」表記と、
北回帰線との距離関係が産出方法になる。
0347日本@名無史さん2018/12/05(水) 22:04:10.50
>>273
>魏の度量衡を記した律歴志 <

それは、魏よりもずっと後の「長里」時代の史書に書かれた「魏代の度量衡」説明文書であり、
魏朝の度量衡の証拠にならない。

>それと見つかってる当時の物差しから換算するとそうとしか出ない<

「見つかっている当時の物差し」というのは、「尺定規」であり、
「尺」寸法は、周代からずっと「大体同じ位」であり、6倍もは違っていないんだから、
長里か?短里か?の議論に関係がない。
関係するのは、
始皇帝の「1歩=6尺」という、里歩系単位と尺寸系単位との換算規定。

>それ以外の当時使われていた尺度の算出方法があるならこっちが聞きたい<

「尺度」は大体同じで変わっていない。
「歩」の寸法は、周髀算経などの一寸千里の8尺棒の影長の「尺寸」表記と、
北回帰線との距離関係が産出方法になる。
0348日本@名無史さん2018/12/05(水) 22:05:12.47
>>342
それは普通の考古学の研究で十分でしょ。
魏志倭人伝や邪馬台国に関係づける必要ない。
0349日本@名無史さん2018/12/05(水) 22:05:18.54
邪馬台国畿内説が、韓国政府が偽造した宣伝だったことが、はっきりした今、僕達は戦争を防止するために、どうすれば良いか考えれば良いのではないのかな、、、
0350日本@名無史さん2018/12/05(水) 22:06:44.92
謎の311なんかも人工地震だと知っているでしょ
0352日本@名無史さん2018/12/05(水) 22:07:56.87
『ずっとオレのターン』

〜のライフはゼロよというセリフとか
0354日本@名無史さん2018/12/05(水) 22:09:20.30
>>349
防衛を活発にすれば、良いのではないのかな、、、
0355日本@名無史さん2018/12/05(水) 22:09:31.25
>>348
何でだよ
まあ九州説にとって邪馬台国の位置比定は考古学や学問ではなく
思想や宗教の類だろうから
0356日本@名無史さん2018/12/05(水) 22:10:05.23
歩里単位系と丈尺寸分単位系は別物
丈尺寸分単位系は度量衡で決められ
日本でさえそう変わりはないが
歩里単位系は地域で大きく違う。
日本の里などは変わりすぎて一桁近く変わっている。
0357日本@名無史さん2018/12/05(水) 22:12:29.69
>>355
だから純粋に学問すりゃいいじゃん。
判じ物の魏志倭人伝に記述なんか無視して。
邪馬台国とも魏志倭人伝とも関係ない古代日本を研究したらいい。
0358日本@名無史さん2018/12/05(水) 22:12:38.86
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
0359日本@名無史さん2018/12/05(水) 22:13:32.64
>>343
また新しい発見をしたみたいなノリでそんなデタラメを
じゃあ魏志倭人伝に使われた地元の里ってどこの地元だ
0360日本@名無史さん2018/12/05(水) 22:14:17.65
なぜ松傾、長竿・・・・は神なんだ?となるはず

神だから神なんだよとしか言えない
0361日本@名無史さん2018/12/05(水) 22:17:33.85
>>357
邪馬台国の位置比定は学問じゃないの?
大学でも研究してるのに?
0362日本@名無史さん2018/12/05(水) 22:20:15.55
あと騙り、成り済まし〜〜〜〜〜〜?
そういう類がいたりするけど、なぜ偉そうにしているんだ


どこどこ、誰々は、
偽の〜〜〜〜を祀っているというのも有名な話みたいだし
0363日本@名無史さん2018/12/05(水) 22:24:20.39
>>361
>まあ九州説にとって邪馬台国の位置比定は考古学や学問ではなく
>思想や宗教の類だろうから
とのことだから。
それに文献の記述を全部変えちゃうようなのは「邪馬台国の位置比定」とは言えないかも。
0364日本@名無史さん2018/12/05(水) 22:29:01.33
>>346
後代に書かれた史料だから信頼できないとするなら
短里は史料そのものがないから信頼できないどころか
存在しなかったという事になるな
魏志倭人伝の距離がそう書かれてるからあったは循環論法な

およそどの時代の律歴志にも
1歩=6尺
1里=300歩で変更はなし
唐の時代は1歩=5尺

一寸千里法は架空の数値なのが明らかで実測値ではなく
短里の根拠としては使えない
0365日本@名無史さん2018/12/05(水) 22:29:24.91
>>322
>日本人の流入が激しかった百済で育った高野新笠はどうも倭系百済人だろうな

そういうウソはダメだよ
高野新笠は10代前から倭国に住み、9代前から倭国の生まれ(ということになっている)
それほど身分の高くない一族が百済王家まで系図を繋いだだけという可能性もある
0366日本@名無史さん2018/12/05(水) 22:33:43.92
つまり、韓国政府が偽造した宣伝だったことがはっきりとした、邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだね、、、
0367日本@名無史さん2018/12/05(水) 22:33:47.01
他のスレにも書いたw『Akira   motorbikes scene』

動画を観てみて
0368日本@名無史さん2018/12/05(水) 22:36:16.83
>>357
>判じ物の魏志倭人伝

これが九州説の本質を突いてるよな
九州説は、魏志倭人伝を判じ物だと思って「解読」するんだよな
そしてその解読がその実「捏造」になっている

史書は判じ物でも暗号書でもなく、読んで分かるように書いてあるものだ
水行の起点をいきなり帯方郡に戻すみたいな読み方は、陳寿も想定してないよ
0369日本@名無史さん2018/12/05(水) 22:38:30.16
邪馬台国畿内説が、韓国政府が偽造した宣伝だったことがはっきりとして、その邪馬台国畿内説は、完全に破綻したので、韓国政府に雇用された3寸男が、焦っているな。。。
0370日本@名無史さん2018/12/05(水) 22:39:59.62
>>368
違うよ。
距離はデタラメ、方位は東を南に書き間違えってやってる連中のことを言ってるんだよ。
0371日本@名無史さん2018/12/05(水) 22:40:56.75
『河童 自殺』

頭の病院・・・?この人物関係の話じゃないの?
0372日本@名無史さん2018/12/05(水) 22:42:51.13
『河童バビィ』
というキャラもいたりするんだけど、どういう話なんだろう
0373日本@名無史さん2018/12/05(水) 22:46:49.01
脳タリンの九州説のお陰で畿内説の反論がどんどん先鋭化されていく
それでも書き込むのをやめない九州説は本当に哀れ
0374日本@名無史さん2018/12/05(水) 22:47:02.61
何度、書いても同じ、
キュウリのような葉、葱の華・・・・・・・・・w

『松傾』こういう名前の家の写真
0375日本@名無史さん2018/12/05(水) 22:47:09.24
>>276
>>報告者も陳寿も魏略も、短里で報告しており、長里は使っていない。<

>ダメだね それじゃあ倭が会稽より南にならないよ<

また、変な・・・・大和説の男?。
短里でなら、女王國は、会稽東治の東に、ほぼなる。
0376日本@名無史さん2018/12/05(水) 22:51:19.44
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
0377日本@名無史さん2018/12/05(水) 22:52:05.57
>>373
距離はデタラメ、方位は東を南に書き間違えってやってる連中の一人として以下に「先鋭化した反論」とやらをどうぞ。
「史書は判じ物でも暗号書でもなく、読んで分かるように書いてある」んだから対馬壱岐間は千余里だし、南は南で東じゃないはずだ。
0380日本@名無史さん2018/12/05(水) 22:58:10.78
>>294
>1里430mと史料事実で判明しておりまして

それでは帯方郡から女王国まで一万里にならない。
やり直し。
0381日本@名無史さん2018/12/05(水) 22:59:19.57
>>313
>北部九州以外の先進的な地域では、勢力の広域連携が進んでるってことだよ

伊勢遺跡は畿内と関係ない。
あれは出雲の傘下。
0382日本@名無史さん2018/12/05(水) 22:59:31.02
□□□兆円


いつになったら持ってくるんだ?とか、
そういう話もしているんだけど


なぜだと思う?


家の話だからだとしか言えない
0384日本@名無史さん2018/12/05(水) 23:00:47.02
>>379
こんな半ば支離滅裂になってる文を書く精神状態のヤツには
何を言って聞かせても無駄だろうて
0386日本@名無史さん2018/12/05(水) 23:03:31.04
>>359
>じゃあ魏志倭人伝に使われた地元の里ってどこの地元だ

東夷伝全体で一里は100メートル弱で統一されているらしいぞ。
0387日本@名無史さん2018/12/05(水) 23:03:55.44
>>380
女王国まで1万里は間違いって事になるだけじゃん
なにか困るのか
0388日本@名無史さん2018/12/05(水) 23:04:33.01
>>277
>准南子にある概念上の倭国までの距離1万里と一致する事と
1万2千里を魏で使われていた1里430mで換算すると 邪馬台国はパプアニューギニア
よって邪馬台国まで1万2千里は概念上の数字で
邪馬台国を指してないと誰の目にも明らかになる <

すでに反論否定済みの事ばかり。
魏志は淮南子を使っていない事と、
魏で使われていた1里430mが間違いである事と、
邪馬台国なんて存在しない嘘つき騙しである。
0389日本@名無史さん2018/12/05(水) 23:05:07.76
実際は同じ家の話なんだよという話

『八百万神 事代主』
0390日本@名無史さん2018/12/05(水) 23:05:27.42
>>364
>およそどの時代の律歴志にも
>1歩=6尺
>1里=300歩で変更はなし
>唐の時代は1歩=5尺

なんで最後だけ唐の時代なんだよ。
魏の時代の一歩が歩幅ではなく足の長さなら、全て矛盾なくなるぞ。
0391日本@名無史さん2018/12/05(水) 23:05:45.57
>>278
>魏で使われた尺度を記した律歴志と
当時使われていたモノサシから換算すると1魏里は約430m <

これも、反論否定済み。
0392日本@名無史さん2018/12/05(水) 23:06:30.33
>>387
>>380
>女王国まで1万里は間違いって事になるだけじゃん
>なにか困るのか

魏志倭人伝を無視しちゃダメだろ。
邪馬台国についての大元の資料なんだから。
0393日本@名無史さん2018/12/05(水) 23:07:12.86
>>385
そっちこそ自分の書いた文をもう一度よく読む事をオススメするよ
0395日本@名無史さん2018/12/05(水) 23:10:57.74
>>285
>畿内説が「戦前の八紘一宇の万世一系皇国史観の戦争狂」?
こんな下劣な中傷しかできない九州説は もう死んでるね <

「畿内」説?。
それ「戦前の八紘一宇の万世一系皇国史観の戦争狂」の文言そのものではないか。
こんな下劣な中傷しかできない大和説は もう死んでるね。
0396日本@名無史さん2018/12/05(水) 23:11:00.94
>>383
矛盾してても別にどうって事ないがな
ついでに言うなら准南子も当時の尺度と矛盾している
これをどう説明するのかな
0397日本@名無史さん2018/12/05(水) 23:11:42.71
魏志倭人伝は書いた事が本当になる竹簡に書かれたので全て本当です
0399日本@名無史さん2018/12/05(水) 23:16:36.69
『何者にもなれない お前たち』
こういう作品もそうなんだけど、なぜ知っている人がいるのか?


『猫神やおよろず』
大黒天、大国?の孫というキャラがいて
五月メイ生まれ「ともみ」(『たまごっち!』)という名前とか
0400日本@名無史さん2018/12/05(水) 23:18:08.11
>>390
唐の時代がそうなってんだから仕方ないだろ
そんな事すら知らんのか
そして今まで1歩が1歩(今の2歩)相当だったのが
何で魏の時代だけ足の裏の長さになるんだよ
0401日本@名無史さん2018/12/05(水) 23:18:12.99
>>294
>だから魏で使われた里は律歴志と当時使ってたモノサシで換算して
1里430mと史料事実で判明しておりまして<

だから律歴志の記載は、魏朝で使われた里ではなく、
当時使われていたモノサシで換算して、
魏朝は1里76.5m76.5位と史料事実や史料実態で判明しておりまして。
0402日本@名無史さん2018/12/05(水) 23:21:47.64
>>392
魏志倭人伝の記述より実際ある史料や考古物を無視しちゃダメだろが
0403日本@名無史さん2018/12/05(水) 23:23:22.53
>>295
>日の出日の入りなどによる季節推定ができなくて農耕はできない、というまでは正しい。
しかし、不知正歳四節は、仙人郷の豊かな土地ではそのような暦に従った農耕の必要はなく、
春に種まいて秋に収穫するという単純理想的な生き方をしているということを言っており、
その文章を倭人伝に注としてを入れた裴松之は、その理想郷に邪馬台国があるのだと言っているもの。
なので、「知らず」は、無知で暦を知らないという意味ではなく、
暦を必要としない理想的な環境だと言っているもの。<

いや「魏略曰:其俗不知正歳四節、但計春耕秋收爲年紀」は、
倭地では、正歳四節を知らないから、中国に比べて遅れていたのではないか?、
と言っている。
0404日本@名無史さん2018/12/05(水) 23:23:32.59
>>402
魏志倭人伝は邪馬台国についての最優先されるべき史料だよ。
0405日本@名無史さん2018/12/05(水) 23:28:02.14
>>388
淮南子によれば楽浪から1万里が最果ての地
魏志倭人伝は1万里で九州上陸
どう見ても一致してるだろ
魏志倭人伝が准南子の記述に合わせたんでなければ
漢の時代も短里を使って測った事になり
漢の時代も短里は使われていなかったのでどの道短里は破綻
0406日本@名無史さん2018/12/05(水) 23:28:43.68
>>297
>准南子は漢の国境から地の果てまでを1万里と定義している
魏志倭人伝の記述も九州北部まで同じく1万里 一致してるだろ してないか?してるだろ
魏志倭人伝の女王国まで1万2千里は実測値じゃなく概念上の数値
恐らく奴国と国交した後漢からの伝承<

一致していない。
魏志は、侏儒國までの萬六千余里を記載し、
更に、船行一年の裸國や黒歯國まで記載している。
0407日本@名無史さん2018/12/05(水) 23:31:47.22
>>401
魏の律歴志によれば
1里=300歩=1800尺
当時のモノサシ1尺=約24cm
換算して1里=約430mと判明しておりまして
0408日本@名無史さん2018/12/05(水) 23:33:15.64
>>301
>九州説は短里説を推すなら 漢の時代も短里を使って辺りを正確に実測し
そして准南子が書かれたと証明しなければならない 大変だなあ <

漢朝は、秦朝の始皇帝の決めた「1歩=6尺」の長里。
魏朝は、周朝の一寸千里の短里。
ちっとも大変ではない。
0409日本@名無史さん2018/12/05(水) 23:34:31.51
畿内説が追い求めているものは、邪馬台国ではない何かだよ。
0410日本@名無史さん2018/12/05(水) 23:36:10.16
>>406
呉の国が1万6千里にあるという大月氏と朝貢関係にあったから
それに対抗して女王国まで1万2千里に数値を4千里足したんだよ
合わせて1万6千里
ほらピッタリだ
0411日本@名無史さん2018/12/05(水) 23:37:14.12
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
0412日本@名無史さん2018/12/05(水) 23:37:57.66
なぜかトンキン(東京)?なんて必要ないんだけどな
と言ってる人たちがいたり


ちなみに家は川崎(神奈川)
0413日本@名無史さん2018/12/05(水) 23:38:37.62
>>306
>九州説を推してるのが日本人なら日本の将来が心配だ<

「南→東」などの嘘吐き騙しの「国民の7割が否定する大和説」を、
日本国民が推してるのなら、
日本の将来が心配だ。
0414日本@名無史さん2018/12/05(水) 23:43:00.61
>>408
何の反論になってもねーぞ
准南子は漢の国境、楽浪から南1万里をこの世の最果てとしている
これは長里で実測したのか?
したとすると赤道辺りになるが?
概念的数字とすると魏志倭人伝の記述も一致してるから
魏志倭人伝にある里も概念上の数値になるんじゃないか?
九州説の短里短里じゃこれらに答えようがないのである
0415日本@名無史さん2018/12/05(水) 23:48:28.47
>>311
>邪馬台国は魏志倭人伝を引用した後漢書、隋書、北史、通史、太平御覧の倭人伝に
旧字体で邪馬臺國と出てくる<

邪馬台国なんて、史料事実に存在しない文言であり、
魏代においては、「臺」と「台」とは別字。
魏志は邪馬壹國であり、
後漢書の邪馬臺國は、邪馬壹國とは別内容の異なる概念の国名。
唐代史書の「後代の自己解釈に拠る邪馬壹國→邪馬臺國の書き換え」は、
根拠にならず×。
0416日本@名無史さん2018/12/05(水) 23:50:56.64
>>414
じゃあ「計其道里當在會稽東治之東」と書かれた会稽東治も洛陽から見て南一万里のこの世の果てということなのかな?
0417日本@名無史さん2018/12/05(水) 23:51:12.12
>>404
魏志倭人伝の記述と実際の考古資料
これら2つに合致して初めて邪馬台国の証拠となるのである
0418日本@名無史さん2018/12/05(水) 23:54:13.88
>>417
魏志倭人伝の記述を、これはデタラメだ、これは書き間違えだ、と変えながら考古資料に寄せていったら証拠にはならない。
0419日本@名無史さん2018/12/05(水) 23:55:46.75
何だ史料事実って
現存の魏志倭人伝より古いヴァージョンの魏志倭人伝を参照してる他の史書にこぞって書いてあるのだからそっちが正しいだろ
0420日本@名無史さん2018/12/05(水) 23:56:43.01
>>416
准南子と魏志倭人伝は書かれた時代が違うから
概念上どうなるのかわからんがとにかく南の最果ての国って事だったんだろ
どうでもいいが
0421日本@名無史さん2018/12/06(木) 00:03:27.86
>>418
なるわボケェー
というかそれが史学だろうに
メソポタミアの粘土板に天使や悪魔の伝承とか書かれてたらそれが本当に居たと思うのか
0422日本@名無史さん2018/12/06(木) 00:08:16.87
D4C(スタンド)みたいな話
0423日本@名無史さん2018/12/06(木) 00:08:56.39
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
0424日本@名無史さん2018/12/06(木) 00:12:22.55
『ボーボボ』?

ほんとうに何なんだろう、
ネギのようなものを持っているキャラがいたり
0425日本@名無史さん2018/12/06(木) 00:14:29.81
倭国を救ったスーパーヒーローのモモソ姫が女王になった経緯

西暦181年 ニュージーランドのタウポ火山の大噴火(過去100万年で最大級の大噴火)
西暦181年  『後漢書』によると「空が黄色くなり太陽が覆われた。」 「6月に雹が降った。大きさは鳥の卵ほどもあった。」
西暦182年  『後漢書』 によると「井戸の中が凍ってしまった」異常気象を示す記述は2年続く。
西暦182年(崇神5年) 『日本書紀』によると「倭国の人口の半分が死んだ。」
西暦183年(崇神6年) 『日本書紀』によると「崇神天皇の徳でも国を治める事が困難になった。」
西暦183年(崇神6年) 『日本書紀』によると「渟名城入姫の髪が抜け落ち身体が痩せ細って神を祀れなくなった。(崇神天皇の娘も餓死寸前)」
西暦184年 黄巾の乱が勃発
西暦184年(崇神7年) 『日本書紀』によると「モモソ姫(卑弥呼)が奈良で大物主神を祀ったら、五穀豊穣になった。民百姓は喜んだ。」
西暦184年 『梁書』によると「卑彌呼という一人の女性を共立して王とした。」
0426日本@名無史さん2018/12/06(木) 00:14:29.81
倭国を救ったスーパーヒーローのモモソ姫が女王になった経緯

西暦181年 ニュージーランドのタウポ火山の大噴火(過去100万年で最大級の大噴火)
西暦181年  『後漢書』によると「空が黄色くなり太陽が覆われた。」 「6月に雹が降った。大きさは鳥の卵ほどもあった。」
西暦182年  『後漢書』 によると「井戸の中が凍ってしまった」異常気象を示す記述は2年続く。
西暦182年(崇神5年) 『日本書紀』によると「倭国の人口の半分が死んだ。」
西暦183年(崇神6年) 『日本書紀』によると「崇神天皇の徳でも国を治める事が困難になった。」
西暦183年(崇神6年) 『日本書紀』によると「渟名城入姫の髪が抜け落ち身体が痩せ細って神を祀れなくなった。(崇神天皇の娘も餓死寸前)」
西暦184年 黄巾の乱が勃発
西暦184年(崇神7年) 『日本書紀』によると「モモソ姫(卑弥呼)が奈良で大物主神を祀ったら、五穀豊穣になった。民百姓は喜んだ。」
西暦184年 『梁書』によると「卑彌呼という一人の女性を共立して王とした。」
0427日本@名無史さん2018/12/06(木) 02:50:29.15
>>342
>逆に1万2千里は魏で使われていた尺度に照らし合わせたら
パプアニューギニアになるから邪馬台国を指すものじゃないとか

郡から伊都国まで1万500里
あと1,500里でパプアニューギニアにはつかないよ
比例計算ぐらいしろよ
0428日本@名無史さん2018/12/06(木) 04:42:50.24
本当に、どのスレの話になるんだろう


老婆が、このような事を言っていたよ
と親に話してみるんだけど、そんな話は知らないと言っていたり


頭が悪いのかな、とくに父親
0429日本@名無史さん2018/12/06(木) 04:44:41.22
所詮 纏向は吉野ケ里へのかませ犬
吠えるだけで弱っちい犬
0430日本@名無史さん2018/12/06(木) 04:47:10.78
そう、伊達郡には伝説の刀があると
老婆が話していた
0431日本@名無史さん2018/12/06(木) 04:47:28.70
あの謎の掲示板(伊達郡の川俣町)

老婆と同じような話をしている人がいるんだけど
という話をしても

他の家の話だろうと言っていたり、
確実に家の話なのに・・・飯野町というところがあって、蚕を飼っていて、
何やら〜という家があって
0432日本@名無史さん2018/12/06(木) 04:58:03.99
老婆談によると、
蚕を飼っていて、機織りをしていた・・・・・・・・
そういう家の人(乙姫?)と結婚したんだよ


うらしまん、チャルロス?もんきーD?
同じようなコンセプト、シンクロ現象?
0433日本@名無史さん2018/12/06(木) 05:06:51.50
『乙姫』

ググってみると・・・・銀??
というキャラの画像が出てきたり
0434日本@名無史さん2018/12/06(木) 05:10:18.13
河童〜亀仙人?みたいな事を言ってる人もいたり
0435日本@名無史さん2018/12/06(木) 05:17:55.45
きんどーさん〜便所すっぽん?みたいな事を言ってる人もいたり
0436日本@名無史さん2018/12/06(木) 05:53:08.68
>>313
>北部九州以外の先進的な地域では、勢力の広域連携が進んでるってことだよ<

史料実態は、梁代までは、九州倭国の「東征毛人五十五國」が、
毛人蝦夷や、出雲銅鐸祭祀地域や、越の大漢國や、侏儒國や、女國に及んで、
広域支配になった、という事。

>その中で、畿内の勢力に伊勢遺跡に集まる各地が相乗りして、卑弥呼の共立が成る
そして伊勢遺跡の機能を引き継ぐ纒向遺跡の建設が始まるんだよ<

畿内なんて、存在もしなかった嘘吐き騙しであり、
卑弥呼も「南≠東」などに拠って、×。
0437日本@名無史さん2018/12/06(木) 05:55:58.84
>>429
なんとなくわかる
遺跡としては吉野ケ里の方が弥生期の貴重な都市遺跡であろう
纒向を宣伝するのに邪馬台国や卑弥呼を利用しようとしただけだろうな
0438日本@名無史さん2018/12/06(木) 05:59:03.16
>>316
>木版印刷が普及した宋代以降とそれ以前の写本とは区別すべきでしょ <

木版印刷も、写本の一種であり、仲間。
区別すべきは、他本での自己解釈に拠る内容説明的な書き換え本であり、
写本版本よりも、はるかに価値が落ちる。
0439日本@名無史さん2018/12/06(木) 06:02:13.36
>>317
>史料事実では魏の1里は430mになっとりますが
それと食い違うのをどう説明する気だい <

ウソをつくな。
同時代の実地の見聞計測記録では、魏朝の1里は430mになっていない。
0440日本@名無史さん2018/12/06(木) 06:02:46.02
行書とか見間違えやすい手書きと楷書の印刷本と一緒の訳が無い
0441日本@名無史さん2018/12/06(木) 06:10:12.85
『チャルロス』〜『デスラー』
0442日本@名無史さん2018/12/06(木) 06:12:14.13
>>321
>こういったオウム返しをやる心理も理解が不能<

「人類皆兄弟」という大原則が分からないらしいし、
唯我独尊弱肉強食思考は、結局人類全滅になってしまう、という事が分からない男は、
脳の・・・・人間。
諸行無常、万物流転、栄枯盛衰、おごる平家久しからず。
0443日本@名無史さん2018/12/06(木) 06:13:48.34
チャルロス〜貴族でしょ?・・・三貴子(神)
0444日本@名無史さん2018/12/06(木) 06:14:11.35
>>440
印刷本も、手書き本を基にを作っているから主張は✖
0445日本@名無史さん2018/12/06(木) 06:15:36.87
あとデスラー?

ヤマトというのと敵対している、していたの?
他の勢力だという話でしょ
0446日本@名無史さん2018/12/06(木) 06:17:19.63
>>325
>准南子の世界観
帯方郡から最果ての地倭国までは1万里に合わせた
魏志倭人伝でも帯方郡から韓国の端まで7千里
それから海を渡って3千里で九州北部に上陸 <

魏志倭人伝は、淮南子の世界観になっていないし、
むしろ、侏儒國や裸國や黒歯國を記載した事によって、
淮南子の世界観を否定している。
0447日本@名無史さん2018/12/06(木) 06:25:51.20
>>326
>魏では、洛陽と会稽東治の距離を何里としていた? <

陳寿は、「江東方数千里」という計算をしているから、
洛陽〜会稽東治は、萬里位の認識。
0448日本@名無史さん2018/12/06(木) 06:44:30.94
>>342
>地名が一致してるから大和国=邪馬台国の可能性高い<

邪馬台国なんて存在しない嘘つき騙し文言であるから、×。

>銅鏡送ったと書いてあるからその頃の魏の年号入りの三角縁神獣鏡が畿内で見つかる<

明帝が贈ったのは、筑紫の卑弥呼へ、であったし、
、明帝の詔書は景初二年12月だから、景初三年以後の年号△は、×。
また、大和からは、魏の年号△は、出土していない。

>卑弥呼の死で大きな墓を作ったとあるけど<

「大きな墓」とは書かれていない。「大いに作った」とだけ。

>同時代の前方後円墳がある<

卑弥呼の墓は「冢」であり、前方後円墳ではない。

>逆に1万2千里は魏で使われていた尺度に照らし合わせたら
パプアニューギニアになるから邪馬台国を指すものじゃないとか<

魏朝の尺度は、1里≒76.5m位の短里だから、始めからパプアニューギニアにはいかないし、
邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙しである事からも、×。
0449日本@名無史さん2018/12/06(木) 06:50:30.06
畿内説の奴は何故こうも頭が悪いのだろうか
0450日本@名無史さん2018/12/06(木) 06:50:49.03
>>343
>基本的には魏使は地元の単位で報告している。
短里はもとより倭国内の日数も、 倭人は里を知らず日数を求めるのみ、
と不満たらたらながら、 結局日数で報告されている。<

7世紀時点でも「夷人不知里數、但計以日」とされるから、
3世紀では、一部の上層部の漢字が使える人以外は、「里」を知らない。
だから、魏使らは、行程記載の「里」は、実測した。
0451日本@名無史さん2018/12/06(木) 06:54:24.08
漫画やアニメ・・・ゲームなど制作している人たちがいるでしょ

創価か何かなんだろう?と言ってる人もいたような、
何宗というの?
0452日本@名無史さん2018/12/06(木) 06:57:55.55
>>345
>右翼とか何だとかは関係ないのw どこの国の人間なんだ?と聞いているんだよ <

地球、という国の人間。人類皆兄弟。

>頭の病院、自殺するか、刑務所に行くか はやく決めたほうが良いぞ 極刑(死刑)という意味<

戦争を起こして、家族や子や孫らまで殺してしまわない前に、
自殺しておいた方が、子や孫らのためにも、良いぞ。
0453日本@名無史さん2018/12/06(木) 06:58:00.16
千葉 ネズミーランド?
0454日本@名無史さん2018/12/06(木) 07:01:20.64
最近、千葉辺りに多いなwと言ってる人がいたり

『千葉 地盤沈下』?『南海トラフ』?
0455日本@名無史さん2018/12/06(木) 07:04:09.54
>>348
>それは普通の考古学の研究で十分でしょ。
魏志倭人伝や邪馬台国に関係づける必要ない<

国内の「普通の考古学」者は、
「戦前の万世一系の八紘一宇の戦争皇国史観」という結論先にありきでの、
「南→東」などの嘘吐き騙しを平気でするから、困る。
「邪馬台国」という史料に存在もしないウソつき騙し文言を使う事でも、困る。
0456日本@名無史さん2018/12/06(木) 07:06:35.81
テレビ〜〜何やら〜〜など必要ないんだよ、
と言ってる人もいた
0457日本@名無史さん2018/12/06(木) 07:07:55.29
>>353
>1里=400〜500m(中国)、4000m(日本) <

周朝や魏朝や西晋朝や、日本の書紀までは、1里≒76.5mの短里。
0459日本@名無史さん2018/12/06(木) 07:10:07.72
損害賠償、□□□兆円?

なぜ持ってこないんだ?
人の家の話だろう?と言っているのに
0460日本@名無史さん2018/12/06(木) 07:10:10.89
>>355
何でだよ。
まあ大和説にとって、
邪馬壹國女王之所との位置比定は、
考古学や学問ではなく思想や宗教の類だろうから。
0461日本@名無史さん2018/12/06(木) 07:18:02.62
>>357
>だから純粋に学問すりゃいいじゃん。 判じ物の魏志倭人伝に記述なんか無視して。
邪馬台国とも魏志倭人伝とも関係ない古代日本を研究したらいい。<

不可知部分が殆どである自然や歴史においては、
学問や科学は、知り得た情報からの推論の、確率の大小を競う事になるもの。
だから、「魏志倭人伝に記述なんか無視して」なんて事は、始めから、邪道であり、×。
勿論、邪馬台国なんて存在もしない文言を使う嘘吐き騙しも、×。
0462日本@名無史さん2018/12/06(木) 07:18:08.43
熊本地震というのもあったみたいなんだけど、
創価?何宗なの?
0463日本@名無史さん2018/12/06(木) 07:21:57.48
>>361
>邪馬台国の位置比定は学問じゃないの? 大学でも研究してるのに?<

邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙しの文言が×であるし、
大学も「南→東」の嘘吐き騙しを前提にした研究をしているから、×なの。
0464日本@名無史さん2018/12/06(木) 07:26:59.87
『河童 自殺』

この人物は何宗なの?
0465日本@名無史さん2018/12/06(木) 07:30:59.10
畿内説は宗教だから。
0466日本@名無史さん2018/12/06(木) 07:33:43.55
あと『AKIRA』という作品があるでしょ、どう考えてもキチ外の話
0467日本@名無史さん2018/12/06(木) 07:34:46.62
>>364
>後代に書かれた史料だから信頼できないとするなら
短里は史料そのものがないから信頼できないどころか 存在しなかったという事になるな<

同時代の実地の見聞計測の史料だから、確率が非常に高く、
存在した確率が非常に高い事になるな。

>魏志倭人伝の距離がそう書かれてるからあったは循環論法な<

確率の非常に高い記載を根拠にした帰納的推論は、循環論法になっていないな。

>およそどの時代の律歴志にも1歩=6尺 1里=300歩で変更はなし
唐の時代は1歩=5尺 <

律歴志自体が、同時代の記録ではなく、後代記録であるから、取捨選択という作為が入っており、
客観性が確率が低くて、×資料だな。

>一寸千里法は架空の数値なのが明らかで実測値ではなく短里の根拠としては使えない<

北回帰線での夏至正午の 8尺棒の影長が0になる、という実態数値なので、
根拠として十分に使えるな。
0468日本@名無史さん2018/12/06(木) 07:39:06.43
>>386
>判じ物の魏志倭人伝

これが大和説の本質を突いてるよな。
大和説は、魏志倭人伝を判じ物だと思って「解読」するんだよな。
そしてその解読がその実「捏造」になっている。
史書は判じ物でも暗号書でもなく、読んで分かるように書いてあるものだ。
「南→東」などや、「里記載が6倍も違う」などというような読み方は、
陳寿も想定してないよ。
0469日本@名無史さん2018/12/06(木) 07:41:10.02
>>405
>淮南子によれば楽浪から1万里が最果ての地

それは不正確
淮南子では東西南北の極と中央之極がそれぞれ萬二千里
楽浪までが中央之極だから、そこから萬二千里で東の果てになる
0470日本@名無史さん2018/12/06(木) 07:41:30.82
>>373
脳タリンの大和説のお陰で、
九州説からの反論がどんどん先鋭化されていく。
それでも書き込むのをやめない大和説は、本当に哀れ。
0471日本@名無史さん2018/12/06(木) 07:47:34.96
>>406
>魏志は、侏儒國までの萬六千余里を記載し、
>更に、船行一年の裸國や黒歯國まで記載している。

相変わらずザラコクはバカだなぁww
淮南子の世界観は
東方之極、萬二千里
南方之極、萬二千里
西方之極、萬二千里
北方之極、萬二千里
中央之極、萬二千里
で、世界全体は南北、東西ともに三萬六千里の方形(天円「地方」)なんだよ
中央之極の東の果て・帯方郡から東に出ても、南北方向には三万六千里ある

淮南子の世界観通りだよ

萬二千里は、世界の果てを想起させる符牒
0472日本@名無史さん2018/12/06(木) 07:49:58.83
相変わらずキナイコシはバカだなあ
0473日本@名無史さん2018/12/06(木) 07:55:55.38
『植松事件』?
0474日本@名無史さん2018/12/06(木) 07:59:03.44
畿内説の完璧な理論を前にして
九州説はバーカバーカと罵り言われて悔しかった事をオウム返しするのみ
0475日本@名無史さん2018/12/06(木) 07:59:16.17
>>410
>1万6千里にあるという大月氏

漢書西域伝では、大月氏は長安から萬千六百里とされている
「大月氏國治監氏城去長安萬一千六百里」

万六千里は後漢書の値
「大月氏國 居藍氏城。 西接安息,四十九日行,東去長史所居六千五百三十七里,去洛陽萬六千三百七十里。」

魏志倭人伝というか陳寿が意識していたのは、漢書の萬千六百里の方だと思う
0477日本@名無史さん2018/12/06(木) 08:02:41.06
何度、言えばわかるんだ?と言っているんだよ


基地外、池沼なのか?
0480日本@名無史さん2018/12/06(木) 08:05:02.36
>>446
>むしろ、侏儒國や裸國や黒歯國を記載した事によって、
>淮南子の世界観を否定している。

淮南子も読んでないのにデタラメ書くなよ

黒齒國は山海經にも出てくる伝説上の国だし、裸國も淮南子に出てくる世界の端の国

淮南子:墬形訓
自西南至東南方,結胸民、羽民、歡頭國民、「裸國民」、三苗民、交股民、不死民、穿胸民、反舌民、豕喙民、鑿齒民、三頭民、修臂民;
自東南至東北方,有大人國、君子國、「黒齒民」、玄股民、毛民、勞民;

そして、前にも挙げた淮南子:時則訓を再掲すると
東方之極,自碣石山過朝鮮,貫大人之國,東至日出之次,木之地,青土樹木之野,太?、句芒之所司者,萬二千里。

魏志倭人伝の世界観では、
淮南子:墬形訓の大人國、時則訓の大人之國を倭國に当てているように見える
だからこそ「倭」國なのかもしれない
墬形訓の自「東南」至東北方だから、倭國は倭人在帶方「東南」大海之中だし、
時則訓の世界の端だから「萬二千里」
そして東の端を南へ下っていくと「黒齒民」がいて、
墬形訓の自西南至東南方の段落にある「裸國民」はさらに遠くの扱いになる

こうして見ると、魏使の報告書になかった部分は、
淮南子を参照して書いているのは明らかだな
0481日本@名無史さん2018/12/06(木) 08:07:01.24
中国の歴史書は
怪しい記述とわかっていても前代の書の内容を踏襲するのが作法
0482日本@名無史さん2018/12/06(木) 08:08:35.22
なぜ人工地震、災害なのか?

〜権、〜権・・・・〜権、賠償金などがあるでしょ、
そういうものを払わないからなんだよ

あとオマエが死なないし
0483日本@名無史さん2018/12/06(木) 08:13:39.43
『AKIRA』という作品、
あれは基地外をベースにした話だから、どうでも良いとして


問題なのは他の作品だよ

漫画やアニメ、ゲーム・・・その他、一部の芸能など、
家の話じゃない?
0484日本@名無史さん2018/12/06(木) 08:18:24.28
何度、説明してもわからないんだろうw

松の木が立てられていて・・・。

『植松事件』?『チャルロス』?『デスラー』?
『』『』『』『』『ボーボボ』?・・・その他
0485日本@名無史さん2018/12/06(木) 08:21:40.01
淮南子の世界観に合わせるために帯方郡から女王国まで一万二千里になるような縮尺で、対馬海峡が三千里なんろう?
だったら地の果ての女王国は九州北部でいいよね。
その縮尺を現代人が短里と呼んでいるわけだ。

結論
淮南子の世界観にあわせるため、魏志倭人伝は短里で書かれている
0486日本@名無史さん2018/12/06(木) 08:22:35.41
例えば『河童 自殺』

詳しいことは、わからないけど、
この人物はヒトラーの仲間なんじゃないの?

自殺仲間
0487日本@名無史さん2018/12/06(木) 08:26:07.53
戦中、戦後〜何だか知らないけど、
死んだり、自殺したり

そういう類、仲間でしょ
0488日本@名無史さん2018/12/06(木) 08:47:00.52
wwwwwwwwwwwwwwwwww(笑い〜大爆笑という意味らしい)

頭が悪いんだろう、もともとの頭の出来が違うとか
0489日本@名無史さん2018/12/06(木) 08:50:46.59
家の老婆がいるでしょ、なぜ詳しかったのか?とか、
頭が良かったのかな、それとも寺子屋のようなところに通っていたとか?


そこにテングテングのような人物がいて・・・・何か教わったり
0491日本@名無史さん2018/12/06(木) 08:57:51.15
このようなコトバがあるとか

『天狗の高笑い』
0492日本@名無史さん2018/12/06(木) 09:06:31.66
何度も説明しているんだから理解出来ただろう、
どんな低脳、池沼でも理解出来るはず
0493日本@名無史さん2018/12/06(木) 09:10:17.87
>>384
「南→東」などの嘘つき騙しや、「郡〜倭地は長里で萬里だ」なんて、
こんな半ば支離滅裂になってる文を書く精神状態の大和説のヤツには、
何を言って聞かせても無駄だろうて。
0494日本@名無史さん2018/12/06(木) 09:10:37.63
『wwwwwwwwwwwwwwwww 大爆笑 意味』


草刈り鎌〜草薙の剣〜?
0495日本@名無史さん2018/12/06(木) 09:13:34.31
>>387
「郡から女王国まで1万里」は」、間違いない、って事になるだけじゃん。
なにか困るのか?。
0496日本@名無史さん2018/12/06(木) 09:22:09.21
『日本昔話 姥清水』
なぜか福島県の話だしな・・・。

引っ越してきて住んでいたというのは、
本当の話なんじゃないの?
0497日本@名無史さん2018/12/06(木) 09:26:02.14
帯方郡から、女王国の入口までは、一万二千里ではなかったのかな。。。
0498日本@名無史さん2018/12/06(木) 09:26:34.28
『winter fall』・・・という曲・・・その他、同じ話だと言っている人がいたりw
0499日本@名無史さん2018/12/06(木) 09:28:37.36
それにしても、昨日の夜、出現した謎の考古学者の意見の発表は、衝撃が大きかったな。。。

290日本@名無史さん2018/12/05(水) 20:21:33.75
>>260はチョン
日本人なら対馬を倭地だと認識し、文献の知識があれば朝鮮半島南部すら倭地と認識する。
間違ってもタイホウから倭まで、一満里とは主張しない。
畿内説は、韓国政府のステマに荷担している。
0500日本@名無史さん2018/12/06(木) 09:30:55.85
『肌を青く染めたね』〜『デスラー』とか

どのスレだったかな、そのような事を言ってる人がいた
0501日本@名無史さん2018/12/06(木) 09:31:31.34
謎の考古学者に、正体がチョンだと暴露された260番の発表した意見は、確かに対馬や壱岐を倭人の地ではないと言っていることになるな。。。

260日本@名無史さん2018/12/05(水) 18:58:57.25
1万2千里をいくら追ったって
帯方から倭地まで1万里と准南子の世界観の
概念上の数値に合わせて記述しているだけだから
それは邪馬台国を指しているものではない
0502日本@名無史さん2018/12/06(木) 09:34:26.16
>>400
>そして今まで1歩が1歩(今の2歩)相当だったのが
何で魏の時代だけ足の裏の長さになるんだよ<

魏の時代だけではないねえ。
周朝の一寸千里自体が「1歩≒1尺≒1足底長」であったんだから。
0503日本@名無史さん2018/12/06(木) 09:34:59.05
『河童の三平』げげげ?
0504日本@名無史さん2018/12/06(木) 09:38:02.24
>>501
そうだね。。。
7000+1000+400+400+1000=9800なのだから、壱岐に上陸した場所までは、1万里になってないな。。。
韓国政府に雇用されている邪馬台国畿内説の宣伝係は、日本の領土を減らそうとしているのでは、ないのかな。。。
0505日本@名無史さん2018/12/06(木) 09:40:26.78
>>501
チョンという言葉は、あまり良くないのではないのかな。。。
0506日本@名無史さん2018/12/06(木) 09:40:30.69
>>402
>魏志倭人伝の記述より実際ある史料や考古物を無視しちゃダメだろが<

自然や歴史においては不可知部分が殆どであり、
同時代の実見計測記録が最も確率が高いのだから、
魏志倭人伝の記述も、史料や考古物も、それぞれの「信頼性や客観性」の史料批判をしてからm
それらからの確率的なウエートを付けた推論をしなくっちゃダメじゃないか。
0507日本@名無史さん2018/12/06(木) 09:42:11.58
>>505
破綻した畿内説の宣伝係のキナイコシは、奈良判定を実行した人物と同じ立場の人物の可能性が、99.5パーセントあるな。。。
0508日本@名無史さん2018/12/06(木) 09:44:58.16
これはあムーの関係の話なのかな〜
『絶対神 奈良ヤナ』

マケマケ様だったはずなんだけど
0509日本@名無史さん2018/12/06(木) 09:45:10.46
>>507
奈良判定を実行した人物は、韓国人の子孫ではないのかな、、、
0510日本@名無史さん2018/12/06(木) 09:45:32.17
>>405
>淮南子によれば楽浪から1万里が最果ての地 魏志倭人伝は1万里で九州上陸
どう見ても一致してるだろ <

魏志倭人伝には、侏儒國まで行っている記載があるし、裸國や黒歯國の記録もあるから、
一致していない。

>魏志倭人伝が准南子の記述に合わせたんでなければ
漢の時代も短里を使って測った事になり
漢の時代も短里は使われていなかったのでどの道短里は破綻<

漢の時代にも、淮南子や介山の記録など、短里が使われていたので、
この男の脳が破綻。
0511日本@名無史さん2018/12/06(木) 09:47:57.43
>>504
魏志倭人伝時代には、朝鮮半島の南も倭国だった可能性が、あるのではないのかな。。。
0512日本@名無史さん2018/12/06(木) 09:50:40.34
>>407
>魏の律歴志によれば
1里=300歩=1800尺
当時のモノサシ1尺=約24cm
換算して1里=約430mと判明しておりまして<

「魏の律歴志」とは、後代の長里学者の著作でございまして、
「魏朝の公定里」の説明ではなく、
始皇帝の「1歩=6尺」信仰の民間レベルの説明であったようで、
悪しからずyorosiku.
0513日本@名無史さん2018/12/06(木) 09:55:27.66
きゅうりの葉、葱の華・・・、
なぜ家の写真の話なのか?なんだよ
0514日本@名無史さん2018/12/06(木) 09:57:44.19
>>410
>呉の国が1万6千里にあるという大月氏と朝貢関係にあったから
それに対抗して女王国まで1万2千里に数値を4千里足したんだよ
合わせて1万6千里 ほらピッタリだ<

古代中国の当初の支配地は九州であったんだから、
その先の地域への知見の到達区間は、同じ位になる可能性が十分あるんだから、
たまたま、一致した区間があっただけだな。
0515日本@名無史さん2018/12/06(木) 09:57:54.62
朝鮮半島南部すら倭地と認識することができる知識を、獲得できる文献とは、どのような文献なのだろうか。。。

290日本@名無史さん2018/12/05(水) 20:21:33.75
>>260はチョン
日本人なら対馬を倭地だと認識し、文献の知識があれば朝鮮半島南部すら倭地と認識する。
間違ってもタイホウから倭まで、一満里とは主張しない。
畿内説は、韓国政府のステマに荷担している。
0516日本@名無史さん2018/12/06(木) 10:02:18.45
>>414
>何の反論になってもねーぞ
准南子は漢の国境、楽浪から南1万里をこの世の最果てとしている
これは長里で実測したのか? したとすると赤道辺りになるが?
概念的数字とすると魏志倭人伝の記述も一致してるから
魏志倭人伝にある里も概念上の数値になるんじゃないか?
九州説の短里短里じゃこれらに答えようがないのである<

関係がない。
淮南子も、周髀算経の一寸千里の亜流を使っていたから、
原則として「短里」本である。
0517日本@名無史さん2018/12/06(木) 10:18:35.59
都合よく水行も陸行も全無視する九州バカだった
0518日本@名無史さん2018/12/06(木) 10:26:06.06
韓国政府に雇用されている邪馬台国畿内説の宣伝係が、出現したのではないのかな、、、

517日本@名無史さん2018/12/06(木) 10:18:35.59
都合よく水行も陸行も全無視する九州バカだった
0519日本@名無史さん2018/12/06(木) 10:30:43.00
とにかく何にでもこじつけようとするから
かえって短里なんて無いって確信できるな
0520日本@名無史さん2018/12/06(木) 10:41:22.45
>>485
>淮南子の世界観にあわせるため、魏志倭人伝は短里で書かれている

淮南子の世界観に合わせるために「数字を作っている」時点で、実測値ではないのが確定
実測値ではない数字で何かを言うのは無意味

つまり、短里などはなかったことが確定するだけ

作った数字に、比例関係とかは無意味だし、これを根拠に
「水行陸行を無視する」こともできなくなった訳だ

九州説の論拠は、瓦解した
0521日本@名無史さん2018/12/06(木) 10:44:25.14
>>519
その前に、短里を使う人が「どこにもいない」し「誰一人いない」

この部分を説明できた九州説の人は一人もいない

短里なんてないんだよ
ただ机上で作られた、誇張された数字があるだけ
0522日本@名無史さん2018/12/06(木) 10:49:29.62
というか、福岡、佐賀以外の九州説にも
古田里なんてものは必要ないだろ
0523日本@名無史さん2018/12/06(木) 10:56:09.59
朝鮮半島南部すら倭地と認識することができる知識を、獲得できる文献とは、どのような文献なのだろうか。。。

290日本@名無史さん2018/12/05(水) 20:21:33.75
>>260はチョン
日本人なら対馬を倭地だと認識し、文献の知識があれば朝鮮半島南部すら倭地と認識する。
間違ってもタイホウから倭まで、一満里とは主張しない。
畿内説は、韓国政府のステマに荷担している。
0524日本@名無史さん2018/12/06(木) 10:56:31.70
都合よく水行も陸行も全無視する九州バカだった
0525日本@名無史さん2018/12/06(木) 11:01:44.69
韓国政府に雇用されている、畿内説の宣伝係は、九州に怨恨がある3寸男なのではないのかな。。。

524日本@名無史さん2018/12/06(木) 10:56:31.70
都合よく水行も陸行も全無視する九州バカだった
0526日本@名無史さん2018/12/06(木) 11:04:53.75
>>525
観光関連に雇用されている、畿内説の宣伝係のキナイコシとは、別の人物の可能性もあるな。。。
0527日本@名無史さん2018/12/06(木) 11:06:50.69
韓国政府に雇用されている、畿内説の宣伝係の3寸男は、なぜ、九州に怨恨があるのだろうか。。。
0528日本@名無史さん2018/12/06(木) 11:08:21.21
魏志倭人伝時代の一里は、何メートルだったのだろうか、、、
0529日本@名無史さん2018/12/06(木) 11:14:04.15
>>417
>魏志倭人伝の記述と実際の考古資料
これら2つに合致して初めて邪馬台国の証拠となるのである<

また、文献と考古の優劣問題になるが、
本質的な問題は、文献も一種の考古である、という事であり、
考古でいうなら、文献は、金石文や印鑑や銘文という一級考古史料と同等であり、
それ以外の考古は「ものを言わない」から、発掘報告者という考古学者の「解釈」にしかならず、
それは、文献で言えば、後代学者や史書や現代学者らの「解釈」と同じ事になってしまうもの。
従って、文献も考古も、同時代的な客観性や信頼性の高い資料が確率が高い、という事。
0530日本@名無史さん2018/12/06(木) 11:29:01.02
>>419
>何だ史料事実って
現存の魏志倭人伝より古いヴァージョンの魏志倭人伝を参照してる他の史書に
こぞって書いてあるのだからそっちが正しいだろ<

ダメだ。
写本版本なら、一次的な史料であり情報であるが、
後代史家の「自己解釈に拠る内容紹介的説明」は、二次的史料であり、
価値や信頼性が大幅に低下するし、
また、写本版本での間違いを言うんなら、
後代本にも写本版本での間違いの可能性も十分にある事になり、
結局、写本版本での間違いの発生に関しては、
原本と後代史書とでは、ほぼ同じ量である、という事になる。
0531日本@名無史さん2018/12/06(木) 11:31:19.64
>>420
>准南子と魏志倭人伝は書かれた時代が違うから
概念上どうなるのかわからんがとにかく南の最果ての国って事だったんだろ
どうでもいいが <

いや、魏志倭人伝は、「南の最果ての国」だとは書いていない。
0532日本@名無史さん2018/12/06(木) 11:33:17.52
>>425
>西暦184年(崇神7年) 『日本書紀』によると「モモソ姫(卑弥呼)が奈良で大物主神を祀ったら、五穀豊穣になった。民百姓は喜んだ。」<

「南≠東」などに拠って、×。
0533日本@名無史さん2018/12/06(木) 11:37:29.75
韓国政府に雇用されている、畿内説の宣伝係の3寸男は、なぜ、九州に怨恨があるのだろうか。。。
0534日本@名無史さん2018/12/06(木) 11:39:31.88
>>440
>行書とか見間違えやすい手書きと楷書の印刷本と一緒の訳が無い<

「行書とか見間違えやすい手書き」のものは、まともな写本にはなっておらず、
一種の「内容説明本」レベルのもの、としかならない。
0535日本@名無史さん2018/12/06(木) 11:52:13.91
>>469
>>淮南子によれば楽浪から1万里が最果ての地<

>それは不正確
淮南子では東西南北の極と中央之極がそれぞれ萬二千里
楽浪までが中央之極だから、そこから萬二千里で東の果てになる <

魏志倭人伝には、侏儒國や裸國や黒歯國の説明があるから、
「萬二千里で東の果て」にはなっておらず、
淮南子の「萬二千里」記載は、根拠にならない。
0537日本@名無史さん2018/12/06(木) 12:18:51.91
朝鮮半島南部すら倭地と認識することができる知識を、獲得できる文献とは、どのような文献なのだろうか。。。

290日本@名無史さん2018/12/05(水) 20:21:33.75
>>260はチョン
日本人なら対馬を倭地だと認識し、文献の知識があれば朝鮮半島南部すら倭地と認識する。
間違ってもタイホウから倭まで、一満里とは主張しない。
畿内説は、韓国政府のステマに荷担している。
0538日本@名無史さん2018/12/06(木) 13:02:19.75
朝鮮半島南部を倭地と認識してるのは
朝鮮半島南部から北部九州までを倭地と認識している伊都厨だろ
0539日本@名無史さん2018/12/06(木) 13:05:59.69
都合よく水行も陸行も全無視する九州バカだった
0540日本@名無史さん2018/12/06(木) 13:08:04.04
韓国政府に雇用されている、畿内説の宣伝係の3寸男は、なぜ、九州に怨恨があるのだろうか。。。
0541日本@名無史さん2018/12/06(木) 13:14:03.90
>>538
「從郡至倭循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國」
0542日本@名無史さん2018/12/06(木) 13:17:20.52
帯方郡から倭に行くために、海岸に回り、航海し、韓国を、南に急いで、東に急いで、経由すると、(倭人の島の一つの)北の岸にある狗邪に至った。。。
韓国(の海岸沿い)は7000里(余り進ん)だ。。。

魏志倭人伝の一部分を、貼り付けた謎の考古学者が出現したのではないのかな。。。

541日本@名無史さん2018/12/06(木) 13:14:03.90
>>538
「從郡至倭循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國」
0543日本@名無史さん2018/12/06(木) 13:19:53.95
朝鮮半島南部すら倭地と認識することができる知識を、獲得できる文献とは、どのような文献なのだろうか。。。

290日本@名無史さん2018/12/05(水) 20:21:33.75
>>260はチョン
日本人なら対馬を倭地だと認識し、文献の知識があれば朝鮮半島南部すら倭地と認識する。
間違ってもタイホウから倭まで、一満里とは主張しない。
畿内説は、韓国政府のステマに荷担している。
0545日本@名無史さん2018/12/06(木) 13:29:32.56
魏志倭人伝の区切りを間違えたので、狗邪韓国という国名があると誤認した人物が多いのではないのかな。。。
0546日本@名無史さん2018/12/06(木) 13:32:53.80
魏志倭人伝の区切りを間違えなければ、狗邪という地名が、倭人の島の北の岸にある港の可能性が高いことを発見できるのではないのかな。。。

帯方郡から倭に行くために、海岸に回り、航海し、韓国を、南に急いで、東に急いで、経由すると、(倭人の島の一つの)北の岸にある狗邪に至った。。。
韓国(の海岸沿い)は7000里(余り進ん)だ。。。
0547日本@名無史さん2018/12/06(木) 13:34:13.93
狗邪があった島は、どの島なのだろうか。。。
0548日本@名無史さん2018/12/06(木) 13:54:03.56
要するに朝鮮半島南部は倭地で、
日本(の九州南部、本州以東)は倭地ではないと主張している民族だな
0549日本@名無史さん2018/12/06(木) 13:59:34.54
>>543
「狗邪韓国が朝鮮半島南部にあったという強力な証言が「韓伝」の中にあります。

韓在帯方之南 東西以海為限 南与倭接
(韓は帯方郡の南にある。東西は海をもって限りとなし、南は倭と接す。)

 帯方郡の南側にある韓の地は、東と西は海に至るまでが領域であり、南は倭と「接していた」と書かれています。つまり、韓国と倭(狗邪韓国と思われる)は海に隔てられることなく、地続きだったと明言しているわけです。
 以上のことから、狗邪韓国は現在の朝鮮半島南部、金海市・釜山市の辺りにあったと結論付けてよい」
https://gamp.ameblo.jp/yamatai-nihongi/entry-12290730510.html
0550日本@名無史さん2018/12/06(木) 14:06:24.83
韓の東西の海域は他の国と接していないが
南の海域は倭と接しているからだな
狗邪韓国には倭国の官名も戸数もない
0551日本@名無史さん2018/12/06(木) 14:12:04.84
>>550
「「魏志倭人伝」の記述でも、「帯方郡から倭に行くには」という文章を受けた形で、「其の北岸である狗邪韓国に到着する」と述べています。
「其」は「倭」を指したものであることは明白です。
 また、この一文は、『三国志』の魏書第30巻内の「烏丸鮮卑東夷伝(うがんせんぴとういでん)」にある「倭人条(倭人伝=いわゆる「魏志倭人伝」)」の冒頭部分にあります。
 「烏丸鮮卑東夷伝」は大きく「烏丸伝」「鮮卑伝」「東夷伝」に分かれています。そして、「東夷伝」では、現在の中国東北部や朝鮮半島に存在した
「夫余(ふよ)」
「高句麗(こうくり)」
「東沃沮(とうよくそ)」
「挹婁(ゆうろう)」
「濊(わい)」
「韓(かん)」
といった国々について順次記述していき、最後に「倭」に言及しています。
つまり、狗邪韓国が「倭人伝」に書かれているということは、倭の国であるということとイコールだと言ってよいと思います。
もし、狗邪韓国が韓に属する国であり、単なる経由地として登場しているというのであれば、「韓伝」にその国名が記されるはずですが、「韓伝」にその名はみられません。」
https://gamp.ameblo.jp/yamatai-nihongi/entry-12290730510.html
0552日本@名無史さん2018/12/06(木) 14:23:26.65
対馬までが倭国だからその北の岸が狗邪韓国
半島南部が倭地なら倭国の北は岸ではなくて半島の内陸
狗邪韓国が弁辰狗邪國とは別の国なら
馬韓人の辰王に属していない国
0553日本@名無史さん2018/12/06(木) 14:23:51.01
>>539
>都合よく水行も陸行も全無視する九州バカだった <

水行は川でも海でも可だよ
海なら 「始度一海」「又南渡一海」「又渡一海」という表現をしている
海なら「水行千余里」も成り立つわけで
不弥国以降は
敢えて水行としているよ
0554日本@名無史さん2018/12/06(木) 14:26:12.94
「從郡至倭循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國」

この文は、水行、つまり船上から見た航路・周囲の風景の描写である。
依って、其の北岸とは、船の進行方向から見て北側の岸という意味である。
なお、この「北」は、その次の「始度一海」を引き出す伏線にもなっている。、
0555日本@名無史さん2018/12/06(木) 14:29:58.76
帯方郡から倭に行くために、海岸に回り、航海し、韓国を、南に急いで、東に急いで、経由すると、(倭人の島の一つの)北の岸にある狗邪に至った。。。
韓国(の海岸沿い)は7000里(余り進ん)だ。。。

帯方郡から韓国を七千里余り航海し到着した、狗邪港があった島は、どの島なのだろうか。。。
0556日本@名無史さん2018/12/06(木) 14:32:14.94
>>553
他のスレから転載
>>66
川には水行の語は使わない
川の移動は、泝流か順流
大陸正史の地理・旅程記事で、川に水行の語を使っているのは、
ガンジス川の2例とソンホン川の1例しかない
全例検索、全例検討したからこれ以外ないと断言できる」
0557日本@名無史さん2018/12/06(木) 14:36:01.08
渡海十日陸行一月も成り立つが

水行となぜしたんだろう
0558日本@名無史さん2018/12/06(木) 14:40:08.22
倭人は、帯方郡の東南の大きな海の中の山の島を、国や村にして、拠り所にしている。。。。
昔、100余りの国から漢の時代に朝見に来る者があった。。
今、使いや通訳が行きかうことのできるのは30国だ。。
帯方郡から倭に行くために、海岸に回り、航海し、韓国を、南に急いで、東に急いで、経由すると、(倭人の島の一つの)北の岸にある狗邪に至った。。。
韓国(の海岸沿い)は7000里(余り進ん)だ。。。
0559日本@名無史さん2018/12/06(木) 14:40:27.54
中国地域への仏教の伝来は、1世紀頃と推定される。
0561日本@名無史さん2018/12/06(木) 14:47:02.06
>>556
>大陸正史の地理・旅程記事で、川に水行の語を使っているのは、
ガンジス川の2例とソンホン川の1例しかない <

水行=祈願や心身の鍛練のため、水を浴びて身を清めること

間違えてねーか
0562日本@名無史さん2018/12/06(木) 14:47:02.75
>>556
>大陸正史の地理・旅程記事で、川に水行の語を使っているのは、
ガンジス川の2例とソンホン川の1例しかない <

水行=祈願や心身の鍛練のため、水を浴びて身を清めること

間違えてねーか
0563日本@名無史さん2018/12/06(木) 14:48:09.26
>>558
「韓國 七千里 」で「韓国(の海岸沿い)は7000里(余り進ん)だ。」なんて意味になるわけないな。
文にすらなってない。
0564日本@名無史さん2018/12/06(木) 14:50:24.98
朝鮮半島南部すら倭地と認識することができる知識を、獲得できる文献とは、どのような文献なのだろうか。。。

290日本@名無史さん2018/12/05(水) 20:21:33.75
>>260はチョン
日本人なら対馬を倭地だと認識し、文献の知識があれば朝鮮半島南部すら倭地と認識する。
間違ってもタイホウから倭まで、一満里とは主張しない。
畿内説は、韓国政府のステマに荷担している。
0565日本@名無史さん2018/12/06(木) 14:50:40.16
>>562
冗談なのか? 笑えないが?
それともバカ?
0566日本@名無史さん2018/12/06(木) 14:51:51.42
帯方郡から倭に行くために、海岸に回り、航海し、韓国を、南に急いで、東に急いで、経由すると、(倭人の島の一つの)北の岸にある狗邪に至った。。。
韓国(の海岸沿い)は7000里(余り進ん)だ。。。

帯方郡から韓国を七千里余り航海し到着した、狗邪港があった島は、どの島なのだろうか。。。
0567日本@名無史さん2018/12/06(木) 15:04:38.22
>>566
帯方郡から韓国を七千里余り航海し到着した、狗邪港があった倭人の島は、対海国の北にあったのではないのかな。。。
0569日本@名無史さん2018/12/06(木) 15:11:10.69
>>557
陸行と対だ。
0570日本@名無史さん2018/12/06(木) 15:23:05.24
♪邪馬台国ドンと来い!♪126
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1407739737/
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528 名前:日本@名無史さん [sage] :2018/09/12(水) 10:44:23.60
水行を考える場合の補助として「陸行」を見てみた方がいい
「漢書 後漢書 三国志 宋書 南斉書 梁書 魏書 北斉書 隋書 南史 北史 
 旧唐書 新唐書」の範囲の「陸行」の全文検索結果について、書いておく

この範囲に「陸行」は全部で15件

漢書 3件
「陸行載車,水行乘舟,泥行乘毳,山行則梮」 
禹の治水エピソード
「轉粟西鄉,陸行不絕,水行滿河,不如海陵之倉」
陸を行くものは絶えず、水をいく者は河に満ち  人が非常に多い様子の表現
「孟賁,古之勇士也,水行不避蛟龍,陸行不避犲狼」
孟賁が、水を行くときは蛟龍を避けず、陸を行くときは犲狼を避けず 孟賁が勇猛な様の表現
0571日本@名無史さん2018/12/06(木) 15:23:51.09
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529 名前:日本@名無史さん [sage] :2018/09/12(水) 10:44:34.34
後漢書 1件
「孟賁水行不避鮫龍,陸行不避虎狼」
注釈上の漢書の引用(上記)のみ

三国志 2件
「東南陸行 五百里,到伊都國」
「南至邪馬壹國,女王之所都,水行十日,陸行一月」
上記2件はおなじみの倭人伝部分
0572日本@名無史さん2018/12/06(木) 15:24:39.39
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530 名前:日本@名無史さん [sage] :2018/09/12(水) 10:44:55.19
宋書 1件
「以表歸コ之誠,或泛海三年,陸行千日」
皇帝の徳に帰するを表するを以って(皇帝の徳が遠くまで届きそこから朝貢するのに)
あるいは海を三年かけ、陸行1000日の距離を超えて(朝貢に訪れる) (泛は浮かべる)

梁書 3件
「以表慕義之誠。或泛海三年,陸行千日」
上記宋書のコピペ
「又東南陸行五百里,至伊都國」
「又南水行十日,陸行一月日,至邪馬臺國,即倭王所居」
魏志倭人伝のコピペ2件 
陸行が「一月日」になっていて九州派の陸行「一日」の間違いという説の心の拠り所
531 名前:日本@名無史さん [sage] :2018/09/12(水) 10:45:18.93
北史 3件
「初發其國,乘船溯難河西上,至太沵河,沈船於水。南出陸行,度洛孤水,從契丹西界達和龍」
勿吉国のことで、難河は今の嫩江(アムール川の支流、もちろん大河)、太沵河は今の洮児河で嫩江の支流、洛孤水は西遼河で渤海に至る遼河の支流(これも大河だね)、和龍は今の遼寧省朝陽市
川を遡る旅程だが、水行とは書いていない
また川の遡上は困難で、船が沈んでしまい、南に出て陸行し、洛孤水を渡る
「又東南陸行五百里,到伊都國」
「又南水行十日, 陸行一月,至邪馬臺國,即倭王所都」
魏志倭人伝のコピペ2件
0573日本@名無史さん2018/12/06(木) 15:25:48.95
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532 名前:日本@名無史さん [sage] :2018/09/12(水) 10:45:58.55
旧唐書 1件
「皋遂命巡官崔佐時至牟尋所都陽苴棟驕C南去太和城十餘里,東北至成都二千四百里,東至安南如至成都,通水陸行」
ここでは、「水陸行を通し」で水行と陸行とを一緒にしている
陽苴棟驍ヘ現在の大理白族自治州大理市で、そこから東北に2400里で成都、東に水行陸行を通して成都に至る如し
(同じくらいの距離)で安南(ハノイ)に至る 実際には東南
0574日本@名無史さん2018/12/06(木) 15:26:40.50
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https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1407739737/
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533 名前:日本@名無史さん [sage] :2018/09/12(水) 10:47:52.68
新唐書 4件
「千里至鴨淥江唐恩浦口。乃東南陸行,七百里至新羅王城」
唐恩浦口は仁川付近、そこから東南陸行700里で新羅王城
「又泝流五百里,至丸都縣城,故高麗王都。又東北泝流二百里,至神州。
 又陸行四百里,至顯州,天寶中王所都」
丸都縣城:吉林省通化市集安市丸都山にあった高麗王都の故地
神州:吉林省臨江市西南葫芦套村の対岸(北朝鮮側)
どちらも、中国、北朝鮮国境の鴨緑江沿い
顯州:吉林省延辺朝鮮族自治州和龍
天寶中王所都は、天宝年間仁王が都を置いたの意味
「又西一日行,至烏剌國,乃大食國之弗利剌河,南入于海。小舟泝流,
 二日至末羅國,大食重鎮也。
 又西北陸行千里,至茂門王所都縛達城」
烏剌國:クウェート、大食國:イスラム帝国、弗利剌河:ユーフラテス川、
末羅國:バスラ、縛達城:バクダッド
クウェートまで海、そこからユーフラテス川を小舟で遡り(泝流)、
二日でバスラに着き、陸行1000里でバクダッドに着く
「江淮水陸轉運使杜佑以秦、漢運路出浚儀十里入琵琶溝,絕蔡河,至陳州而合,
 自隋鑿汴河,官漕不通,若導流培岸,功用甚寡;疏雞鳴岡首尾,可以通舟,
 陸行纔四十里,則江、湖、黔中、嶺南、蜀、漢之粟可方舟而下,繇白沙趣東關,
 歷潁、蔡,涉汴抵東都,無濁河泝淮之阻,減故道二千餘里」
これは、唐代の漕運(主に食料などの水運)の話
杜佑が江淮水陸轉運使となり、漕運路を浚渫などでほぼ全体が舟で通れるように
なったので、陸行はわずかに(纔)40里で、故道を二千餘里減らした、という話
0575日本@名無史さん2018/12/06(木) 15:28:02.00
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534 名前:日本@名無史さん [sage] :2018/09/12(水) 10:48:43.22
こうして見て来ると、水行何日とか、陸行何里とかいう、地理・旅程記事での「水行」「陸行」の使い方は、
三国志(魏志倭人伝を含む)がおそらく最初であることが分かる
それ以前の漢書・後漢書には、禹や孟賁の活躍を記したり、人が大勢いる様子を表現する部分でしか、
陸行の語は使われていない 

そして、そうした陸行は常に水行と対の言葉として使われている
これまで「地理・旅程記事の水行」という言い方をしてきたのは、
この陸行と対となる言葉としての水行を考えるべきだということ
0576日本@名無史さん2018/12/06(木) 15:29:19.27
♪邪馬台国ドンと来い!♪126
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1407739737/
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535 名前:日本@名無史さん [sage] :2018/09/12(水) 10:49:35.87
三国志以降の「陸行」は「陸行何里」あるいは「陸行何日」の形のみが見られる
魏志倭人伝以降の「水行」もこうした「陸行」と同じ使い方の部分について考えないと意味がない

また、地理・旅程記事で陸行と合わせて「川」を移動している部分では、ほぼ水行の語は
見られず「泝流(流れを遡る)」の語が多く使われていることも分かる
旧唐書で1例、通水陸行と、水行と陸行を合わせた表現があるが、これは例のソンホン川流域を
通ってハノイ(安南)に至る経路で、川沿いの陸行だったり川を行ったりしたのだろう
0577日本@名無史さん2018/12/06(木) 15:30:42.80
なぜ、韓国政府は、魏志倭人伝時代の討論で、邪馬台国畿内説を応援するのだろうか、、、
0579日本@名無史さん2018/12/06(木) 15:32:40.49
>>344
神社を立てたその場所が、何かいわれのある場所だったという想定。
江戸時代に、わざわざ二十四節気に合わせて神社建てるわけがないからね。
0580日本@名無史さん2018/12/06(木) 15:35:19.68
それにしても、昨日の夜、出現した謎の考古学者の意見の発表は、衝撃が大きかったな。。。

290日本@名無史さん2018/12/05(水) 20:21:33.75
>>260はチョン
日本人なら対馬を倭地だと認識し、文献の知識があれば朝鮮半島南部すら倭地と認識する。
間違ってもタイホウから倭まで、一満里とは主張しない。
畿内説は、韓国政府のステマに荷担している。
0581日本@名無史さん2018/12/06(木) 15:37:47.88
朝鮮半島南部すら倭地と認識することができる知識を、獲得できる文献とは、どのような文献なのだろうか。。。

290日本@名無史さん2018/12/05(水) 20:21:33.75
>>260はチョン
日本人なら対馬を倭地だと認識し、文献の知識があれば朝鮮半島南部すら倭地と認識する。
間違ってもタイホウから倭まで、一満里とは主張しない。
畿内説は、韓国政府のステマに荷担している。
0582日本@名無史さん2018/12/06(木) 15:40:57.44
帯方郡から韓国を七千里余り航海し到着した、狗邪港があった倭人の島は、対海国の北にあって、魏志倭人伝時代にはクジャ島と発音されたのでは、ないのかな。。。。
0584日本@名無史さん2018/12/06(木) 15:42:46.09
狗邪が、クジャだと、邪馬台国がジャマタイ国になってしまうので、困ってしまうのではないのかな。。。
0585日本@名無史さん2018/12/06(木) 15:45:38.31
倭人は、帯方郡の東南の大きな海の中の山の島を、国や村にして、拠り所にしている。。。。
昔、100余りの国から漢の時代に朝見に来る者があった。。
今、使いや通訳が行きかうことのできるのは30国だ。。
帯方郡から倭に行くために、海岸に回り、航海し、韓国を、南に急いで、東に急いで、経由すると、(倭人の島の一つの)北の岸にある狗邪に至った。。。
韓国(の海岸沿い)は7000里(余り進ん)だ。。。
0586日本@名無史さん2018/12/06(木) 16:00:55.18
トンデモ訳は旧習説のスレでやれ
0587日本@名無史さん2018/12/06(木) 16:26:19.91
>>582
驚いたな、、、
巨済島という島が対馬の、だいたい北にあって、コジェという発音だということが、判明してしまった。。。
0588日本@名無史さん2018/12/06(木) 16:30:31.09
邪馬台国は、ジャマタイ国という発音だった可能性が、急に高まってきたのではないのかな。。。
0590日本@名無史さん2018/12/06(木) 17:04:19.82
倭国は温暖だから

冬夏、生で野菜を食べるってなに?

冬はまだしも、夏は腐るだろ?
0592日本@名無史さん2018/12/06(木) 17:07:12.07
温暖なら、なおさら夏には腐りやすいだろうって


なんで、誰も突っ込まないんだ?
0593日本@名無史さん2018/12/06(木) 17:07:31.45
>>588
邪馬台=ジャマドイ(ないしはジャマダー)。
0594日本@名無史さん2018/12/06(木) 17:12:42.56
>>530
>また川の遡上は困難で、船が沈んでしまい、南に出て陸行し、洛孤水を渡る <


引用だろうが

畿内説の「初瀬川の水運」(テンプレにも記載)を否定することになるから✖
0595日本@名無史さん2018/12/06(木) 17:19:56.08
>>594は、なに言ってんだかイミフな文章だな
0596日本@名無史さん2018/12/06(木) 17:25:31.67
>>594

>>1のボケは無視でいいよ
0597日本@名無史さん2018/12/06(木) 17:25:31.88
>>594

>>1のボケは無視でいいよ
0599日本@名無史さん2018/12/06(木) 17:27:31.91
>>595

>>45
◆FAQ 38
0600日本@名無史さん2018/12/06(木) 17:30:25.09
>>592

>>1のボケが温暖化は地久規模だから、九州、畿内も同じと知らないんじゃないのかな
0601日本@名無史さん2018/12/06(木) 17:31:24.78
>>599は岡上並みにコミュ障
0602日本@名無史さん2018/12/06(木) 17:38:59.10
>>586

あんたが適任だ 
南⇒東の謎を解け(誤認、誤写、誤記は論じゃなく思う程度だから)

あと
九州説の成りすましの畿内説の某君の「チョン連呼」何とかならないかな
九州の人間は「チョン」って差別用語は使わない
0603日本@名無史さん2018/12/06(木) 17:40:14.00
>>599
確かに
畿内説では大和川の水路は欠かせない
0604日本@名無史さん2018/12/06(木) 17:41:35.65
スレ主
名無しでひっちゃかめっちゃか
0605日本@名無史さん2018/12/06(木) 17:45:08.13
なになに?
狗邪韓国(朝鮮半島南岸)は倭ではないとか言うアホがいるわけ?
0606日本@名無史さん2018/12/06(木) 17:48:19.51
畿内なら日本海と瀬戸内海をつなぐ淀川が最重要河川であるべきだが、畿内説はマキムク(笑)にあわせるために大和川を持ち出してしまう。
アホだよね。
マキムク(笑笑)からは河内系の土器があまり出ていないから、大和川はほとんど活用されていなかったことがわかる。
畿内は分断されていたんだよ。
マキムク(笑笑)は尾張の支配下の田舎だよ。
0607キウス ◆PyuQX798ps 2018/12/06(木) 17:50:19.20
テンプレは畿内説の代表じゃないです

畿内説の王都もいろいろある

葛城もあるし京都もある

南⇒東は

大平洋ルートで説明可能
0608日本@名無史さん2018/12/06(木) 17:51:39.47
ま、葛城は論外だけどな
0609キウス ◆PyuQX798ps 2018/12/06(木) 17:53:46.22
阿波説も太平洋ルートだと思うよ
0610日本@名無史さん2018/12/06(木) 17:56:48.18
木臼はいつから畿内説になったんだ。
そもそも、お前は何代目の木臼だ?
俺も昔は木臼と呼ばれたものだったのだが。
0611日本@名無史さん2018/12/06(木) 17:58:05.51
畿内説は大和川水路を放棄でいいの????
0612日本@名無史さん2018/12/06(木) 18:06:32.60
テンプレはそもそも破綻しているんだよ。
畿内説なんてなんの根拠もない。
0613キウス ◆PyuQX798ps 2018/12/06(木) 18:07:12.06
スレ主さんへ
   誰彼構わずキウス連呼は止めた方が良い
ザラコクさんへ
   南→東を太平洋ルートで検証してくれませんか
   投馬国は九州、宮崎県近辺と思います

あと誰かはわかりませんが「チョン」はいけません、「人権板」で語りましょう
0614日本@名無史さん2018/12/06(木) 18:08:10.17
纒向遺跡への搬入土器の出身地割合
伊勢・東海系 : 49%
北陸・山陰系 : 17%
河内系 : 10%
吉備系 : 7%
近江系 : 5%
関東系 : 5%
播磨系 : 3%
西部瀬戸内海系 : 3%

纒向には魏の使いが滞在していた筑紫からの搬入物がない。
邪馬台国が交流していたはずの楽浪郡からの土器も出ない。
目と鼻の先の河内との交流も乏しく、畿内の中では瀬戸内海や淀川の水運の利益を受けられない、尾張の支配下の後進地域であった。
0615日本@名無史さん2018/12/06(木) 18:10:00.59
>>613
全一病深刻
0616日本@名無史さん2018/12/06(木) 18:10:30.20
>>601
似非岡上=>>1じゃねーの
0617日本@名無史さん2018/12/06(木) 18:11:51.01
>>614
10%もあって交流が乏しいと言い張る神経がワカラン
0618日本@名無史さん2018/12/06(木) 18:14:24.62
>>616
あんたも全1病
0619日本@名無史さん2018/12/06(木) 18:16:29.43
>>471
>>魏志は、侏儒國までの萬六千余里を記載し、更に、船行一年の裸國や黒歯國まで記載している。<

>淮南子の世界観は
東方之極、萬二千里  南方之極、萬二千里  西方之極、萬二千里
北方之極、萬二千里  中央之極、萬二千里
で、世界全体は南北、東西ともに三萬六千里の方形(天円「地方」)なんだよ
中央之極の東の果て・帯方郡から東に出ても、南北方向には三万六千里ある
淮南子の世界観通りだよ <

魏志は、淮南子の世界観通りにはなっていないではないか。
お前は、変な男だよ。
0620日本@名無史さん2018/12/06(木) 18:19:58.23
公孫氏が魏に滅ぼされるまで、卑弥呼は公孫氏と交流していたと考えられている。
ならば、邪馬台国からはその領土である楽浪郡からの土器が出なくてはおかしい。
しかし纒向からは楽浪土器はまったく出ない。
邪馬台国とは無関係の倭種の地であったとしか言えない。
0621日本@名無史さん2018/12/06(木) 18:21:46.20
>>474
>畿内説の完璧な理論を前にして
九州説はバーカバーカと罵り言われて悔しかった事をオウム返しするのみ<

「畿内」なんて存在もしない嘘つき騙しだし、
九州説者の史料事実や史料実態からの帰納的確率的な推論を前にして、
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者は、バーカバーカと罵り、
言われて悔しかった論点から逃亡するのみ。
0622日本@名無史さん2018/12/06(木) 18:22:27.68
>>617
尾張や出雲の影響の方がずっと大きいよ。
河内からも尾張経由で土器が入ってきた可能性が高い。
0623日本@名無史さん2018/12/06(木) 18:31:57.34
>>475
>漢書西域伝では、大月氏は長安から萬千六百里とされている
「大月氏國治監氏城去長安萬一千六百里」
万六千里は後漢書の値
「大月氏國 居藍氏城。 西接安息,四十九日行,東去長史所居六千五百三十七里,去洛陽萬六千三百七十里。」
魏志倭人伝というか陳寿が意識していたのは、漢書の萬千六百里の方だと思う<

そもそも、陳寿は、倭地へ来た事がないんであり、
里数を記録したのは魏使らであるから、それだけでもこの男は脳がおかしい。
また、漢書も後漢書も、魏志の記録と合っていないから、×。
0624日本@名無史さん2018/12/06(木) 18:34:28.86
韓国5大姓の鄭の発音がチョンだな
全、銭、田、丁、鍾、宗、千の姓も発音はチョン
女性の名前の清もチョン
0625日本@名無史さん2018/12/06(木) 18:44:28.37
川もチョンだから、チョン(鄭)さんがチョンゲチョン(清渓川)に行ったみたいな会話を
日本人が聞いたらチョンの音ばっかり聞こえるんだよ
0626日本@名無史さん2018/12/06(木) 18:49:55.40
>>480
>黒齒國は山海經にも出てくる伝説上の国だし、裸國も淮南子に出てくる世界の端の国
淮南子:墬形訓
自西南至東南方,結胸民、羽民、歡頭國民、「裸國民」、三苗民、交股民、不死民、穿胸民、反舌民、豕喙民、鑿齒民、三頭民、修臂民;
自東南至東北方,有大人國、君子國、「黒齒民」、玄股民、毛民、勞民; <

ほら、倭人伝の示す位置と一致していない。

>そして、前にも挙げた淮南子:時則訓を再掲すると
東方之極,自碣石山過朝鮮,貫大人之國,東至日出之次,木之地,青土樹木之野,太?、句芒之所司者,萬二千里。
魏志倭人伝の世界観では、
淮南子:墬形訓の大人國、時則訓の大人之國を倭國に当てているように見える
だからこそ「倭」國なのかもしれない<

見えない。倭國は、朝鮮の南であり、淮南子時則訓のいう「東方」ではない。

>墬形訓の自「東南」至東北方だから、倭國は倭人在帶方「東南」大海之中だし、
時則訓の世界の端だから「萬二千里」<

侏儒國は、「萬二千里」になっていない。

>そして東の端を南へ下っていくと「黒齒民」がいて、
墬形訓の自西南至東南方の段落にある「裸國民」はさらに遠くの扱いになる<

どちらも、倭人伝の記載の「東南」とあっていない。

>こうして見ると、魏使の報告書になかった部分は、 淮南子を参照して書いているのは明らかだな<

魏使らた陳寿は、淮南子をむしろ否定している。
0627日本@名無史さん2018/12/06(木) 18:51:40.74
>>481
>中国の歴史書は
怪しい記述とわかっていても前代の書の内容を踏襲するのが作法<

結局、魏使らも、陳寿も、前代の書の内容を踏襲していなかった。
0629日本@名無史さん2018/12/06(木) 19:08:30.43
>>517
>都合よく水行も陸行も全無視する九州バカだった <

都合よく、「南→東」などの嘘つき騙しをし、
水行も陸行も全部曲解する、大和説バカだった。
0630日本@名無史さん2018/12/06(木) 19:23:39.71
>>519
>とにかく何にでもこじつけようとするから
かえって短里なんて無いって確信できるな <

「南→東」まどの嘘つき騙しの大和説者は、
とにかく何にでもこじつけようとするから、
かえって、淮南子が短里も使っていた、という事まで、
確信出来てしまったな。
かえって短里なんて無いって確信できるな
0632日本@名無史さん2018/12/06(木) 19:32:16.82
魏使がどんなだったか全く不明だからな
西域の記録を残した漢代の張けんみたいな優秀な奴はおらんかったのだろ
戦争中だし仕方ないか
0633日本@名無史さん2018/12/06(木) 19:32:51.45
>>553
>水行は川でも海でも可だよ

バカは何度行っても理解しないが、水行は海の沿岸航行

ただし川でもガンジス川、ソンホン川クラスの、現在でも内陸航路に使われている大河では
後の史書で水行とされている例がある
しかし、大陸史書の地理・旅程記事で、これ以外の川の水行は一例たりともない

川の水行はない!
0634日本@名無史さん2018/12/06(木) 19:34:57.17
>>557
>渡海十日陸行一月も成り立つが
>水行となぜしたんだろう

渡海していないからだよ
倭国到着後の水行は、日本海の沿岸航行

この一事をもって、水行の起点を帯方郡にいきなり
戻す読み方は成り立たないと分かる
0635日本@名無史さん2018/12/06(木) 19:35:13.16
>>633
当時日本にガンジス川がなかった証拠は?
0636日本@名無史さん2018/12/06(木) 19:36:29.67
>>561>>562
そう思うなら、大陸正史の地理・旅程記事で、ガンジス川とソンホン川以外の
「川の水行」を一例でも見つけて見せればいい

でも、そんなものはないってのは確認済みww
0637日本@名無史さん2018/12/06(木) 19:37:24.98
>>415
邪馬台国は旧字体で邪馬臺國と
当時代の魏志倭人伝を引用した史料
後漢書、隋書、北史、通史、太平御覧の倭人伝に載っている
これを史料事実と言わずして何という

あと魏代では「臺」と「台」とは別字というなら
証拠となる魏代の文書をここに書き出してみろ
古田先生が言ってただの誰かが書いてただのは通用しないから

邪馬壹國は12世紀に復刻された魏志倭人伝に生じた誤記
それ以前の魏志倭人伝を引用した史書はほぼ邪馬臺國と表記
0639日本@名無史さん2018/12/06(木) 19:40:45.03
>>619
>魏志は、淮南子の世界観通りにはなっていないではないか。

ザラコクの理解力が足りないだけww
0640日本@名無史さん2018/12/06(木) 19:43:52.75
>>427
1魏里430mで南1万2千里を換算すれば約5000kmは
帯方からパプアニューギニア
換算くらいしろよ

また残り1500里に南水行計30日と陸行1月が含まれる事になるので
少なくとも魏志倭人伝の記述は九州北部を指すものではない事になる
0641日本@名無史さん2018/12/06(木) 19:57:56.04
>>439
うん
魏志倭人伝の距離記述は
魏の律歴志と当時のモノサシという史料から換算された
1魏里430mと食い違っているね
だから魏志倭人伝の距離記述は正確ではないと証明された
0643日本@名無史さん2018/12/06(木) 20:07:44.60
>>640
対馬海峡は三千里。
では一里は何メートル?
0644日本@名無史さん2018/12/06(木) 20:09:53.43
2倍くらいの誤差は、弥生時代なんだからよく頑張って測った方だと思うよ。
それをもって正確ではないから採用しないと言うのは、都合が悪いから無視していると思われても仕方がない。
そうやって史料を捻じ曲げないと維持できないのが畿内説。
0645日本@名無史さん2018/12/06(木) 20:10:36.41
>>448
はいはい
邪馬台国は当時の魏志倭人伝を引き写した
後漢書、隋書、北史、通史、太平御覧に
旧字体で邪馬臺國と出てくるからね

卑弥呼が魏に使いを送ったのは景初3年と
梁書、日本書紀、翰苑、太平御覧に書いている
またそれ以降の記年鏡が畿内から出るのは
畿内と魏が継続して交流していた証

大いに塚を作るとはどういう状況?

冢は大きな墓
前方後円墳の大きさは当時国内でも随一

魏の1里は律歴志と当時のモノサシの史料事実から換算し
1里約430mと判明している
0647日本@名無史さん2018/12/06(木) 20:14:31.19
2倍くらいの誤差か
自郡至女王國 二萬四千餘里w
0649日本@名無史さん2018/12/06(木) 20:20:28.21
>鉄器ゼロ

なに言ってんの?w

3世紀に鉄器なんて
吐いて捨てるほど出土するだろがw
珍しくもないw
0650日本@名無史さん2018/12/06(木) 20:21:26.82
>>467
そもそもが魏志倭人伝が魏ではなく西晋時代の成立であり
同時代記録じゃない物は不正確というそっちの理屈によれば
魏志倭人伝の距離は不正確であり
短里は存在する確率が低いという事になるマヌケぶり

存在する可能性の低い距離記録で
存在する確率の低い距離記録を証明するのは
やっぱり循環論法という事になる
0651日本@名無史さん2018/12/06(木) 20:22:51.84
>魏志倭人伝が魏ではなく西晋時代の成立であり

年数を数えられない有害なバカw
0652日本@名無史さん2018/12/06(木) 20:23:38.00
ちょっと、なにかと推理するに・・・・・・
卑弥呼は纏向や難波に
かなり立腹してた節があるんで

まさか、自国がそこらにあったと思われてる
現代の事情知ったら、ブチギレそうではある
0653日本@名無史さん2018/12/06(木) 20:24:13.69
>>520
>淮南子の世界観に合わせるために「数字を作っている」時点で、実測値ではないのが確定
実測値ではない数字で何かを言うのは無意味 つまり、短里などはなかったことが確定するだけ
作った数字に、比例関係とかは無意味だし、これを根拠に
「水行陸行を無視する」こともできなくなった訳だ<

淮南子は、元々「一寸千里の法」の 改変法を書いていたから、
短里説であったらしかったのだが、その使用例は判らなかった。
しかし、この男の紹介で、東夷地域での東南方向が「短里」で書かれている、という事になったので、
淮南子の「短里」使用例が見つかった事になった。

>九州説の論拠は、瓦解した<

大和説の「短里はなかった」という主張が、瓦解した。
0655日本@名無史さん2018/12/06(木) 20:26:07.63
朝鮮半島南部すら倭地と認識することができる知識を、獲得できる文献とは、どのような文献なのだろうか。。。

290日本@名無史さん2018/12/05(水) 20:21:33.75
>>260はチョン
日本人なら対馬を倭地だと認識し、文献の知識があれば朝鮮半島南部すら倭地と認識する。
間違ってもタイホウから倭まで、一満里とは主張しない。
畿内説は、韓国政府のステマに荷担している。
0656日本@名無史さん2018/12/06(木) 20:32:22.78
>>475
どうも漢書西域伝の大月氏1万6百里は版を重ねた事による
誤記のような気がするんだよな・・・

多くの史書で細かい数値はキリよく丸めて書かれてるから
1万1千里という表記になりそうな気がする

そもそもこれも実際の里と2倍程度違っているから
正確なものでもないだろうし
後漢書の1万6千里の方が元の表記だったと思うな
0657日本@名無史さん2018/12/06(木) 20:33:40.58
しかしさ、仮に九州にあるとしたら(四国でもいいけど)

本州の畿内とは
対立してた蓋然性が高いはずで
(それこそ、記紀の熊襲の扱い考えてもわかるだろう)

九州に卑弥呼がいたなら、畿内説なんか聞いて
卒倒するんじゃないかと
0658日本@名無史さん2018/12/06(木) 20:34:11.86
>>521
>その前に、短里を使う人が「どこにもいない」し「誰一人いない」
この部分を説明できた九州説の人は一人もいない
短里なんてないんだよ ただ机上で作られた、誇張された数字があるだけ<

この男は、自分から、
淮南子の時則訓の「萬二千里」は、「自碣石山過朝鮮,貫大人之國,東至日出之次」の距離であるから、
ほぼ日本列島への距離になり、短里が使われている事をしゃべってしまっていた。
0659日本@名無史さん2018/12/06(木) 20:39:07.99
>>657
数年前に卒倒して博多駅前に大穴が空いたでしょ。

あの時は宗像三女神が介抱して
神功皇后に怒鳴られた住吉にさらに言われた
菅原公が穴埋めて大変だったんだからな。。。
0660日本@名無史さん2018/12/06(木) 20:42:35.92
>>522
>というか、福岡、佐賀以外の九州説にも
古田里なんてものは必要ないだろ<

というか、大和説は、
「南≠東」だけでも×なんだし、
短里でも長里でも全く合わないんだから、
論争そのものが、必要ないんだろう。
0661日本@名無史さん2018/12/06(木) 20:43:35.42
>>485
1万2千里は残念ながら九州北部を指すものではなく
概念上の倭国の極南界を指すもの
後漢書に後漢に朝貢した奴国がそう表記されている

よって1万2千里は後漢時代の概念上の倭国極南界にある
奴国を示すものでどこを指しているものでもなく
無理にこじつけるなら九州南部を指している
0662日本@名無史さん2018/12/06(木) 20:47:13.15
>>524
>都合よく水行も陸行も全無視する九州バカだった<

都合よく、淮南子の短里記載の隠蔽も、水行や陸行の曲解捏造も、「南→東」などの嘘つき騙しも、
何でもインチキ有りの、バカ大和説だった。
0663日本@名無史さん2018/12/06(木) 20:49:29.91
なぜ、韓国政府は、魏志倭人伝時代の討論で、邪馬台国畿内説を応援するのだろうか、
0664日本@名無史さん2018/12/06(木) 20:51:10.35
後漢と魏なんて一人の人間が生きてる間の出来事だぞ。
馬鹿じゃないの?w

半島南部まで7千里
そこから北部九州まで海だけで三千里
島も含めるなら五千里でついちまう
0665日本@名無史さん2018/12/06(木) 20:57:57.61
>>539
都合よく、「南→東」などの嘘つき騙しをし、
淮南子の短里記載の隠蔽し、
水行や陸行の曲解捏造をし、
「冢=全方向円墳」の嘘つき騙しをし、
何でもインチキ有りの、バカ大和説だった。
0666日本@名無史さん2018/12/06(木) 20:58:13.76
後漢書は北部九州経由のルートは書いてないからな
0667日本@名無史さん2018/12/06(木) 20:59:28.89
>>666
で、どのルートなん?

どんなルートなのか、聞きたいなあ?w
0668日本@名無史さん2018/12/06(木) 21:01:10.59
>>667

書いてない
0669日本@名無史さん2018/12/06(木) 21:02:38.67
1万2千里は漢時代の神仙思想の混じったこの世界の解説書
准南子の世界観の概念的数字
正確にどこかを指しているわけではない
0671日本@名無史さん2018/12/06(木) 21:06:22.83
「其地大較在會稽東冶之東」後漢書
0672日本@名無史さん2018/12/06(木) 21:10:53.97
どうあがこうが魏志倭人伝の壱岐対馬ルートしかない。

否定したければそれ以外のルートを捏造証明するしかない。
ガンガレ
超ガンガレ
0673日本@名無史さん2018/12/06(木) 21:27:28.09
しかし九州説もなぜあくまで九州北部にこだわるのか
魏志倭人伝ではそこは伊都国奴国であり
端のほうの不弥国の次は南に水行と出てくる
邪馬台国は伊都国に一大卒を置いて
それら北部の国々を監視させたとあるし
里数を合計したって不弥国までで1万7百里で次に南に水行とあるし
考古資料に関しては畿内が圧倒

およそ邪馬台国があったとするには魏志倭人伝だけでなく
後漢書や准南子の全ての内容に矛盾を生じる
地球上で最も邪馬台国とするに不適切な場所なんではなかろうか
0674日本@名無史さん2018/12/06(木) 21:33:55.89
>>550
>韓の東西の海域は他の国と接していないが南の海域は倭と接しているからだな<

ウソを付くな。「南の海域は倭と接している」ではない。
「韓在帶方之南、東西以海爲限、南與倭接」は、
「南は、以海爲限ではなく、與倭接だ」だと言っており、
「其toku廬國與倭接界」も「與倭接界であって、海を隔てて接すではない」。

>狗邪韓国には倭国の官名も戸数もない <

官名がないのは末盧國もそうだし、
戸数がないのは狗奴國のそうだし、
其餘旁國や倭種や侏儒國や裸國や黒歯國は、官名も戸数もない。
0675日本@名無史さん2018/12/06(木) 21:38:59.04
>>656
>どうも漢書西域伝の大月氏1万6百里は版を重ねた事による

何かを言うなら、まず事実を正確に把握しよう
漢書西域伝の距離は「萬一千六百里」11600里だよ
原文は
「大月氏國治監氏城去長安萬一千六百里」

萬六千里の間違いってのは難しい
0676日本@名無史さん2018/12/06(木) 21:40:24.89
いくらあがいても鉄器ゼロ
0677日本@名無史さん2018/12/06(木) 21:42:28.18
>>657
>本州の畿内とは
>対立してた蓋然性が高いはずで

記紀の記述よりも、実際の物理的な存在としての考古遺物の方が、根拠として強い
http://livedoor.blogimg.jp/bungchanblog-kodaishi/imgs/4/d/4d3e1010-s.jpg

この範囲は、一定の協調関係にある

この先は推測にしかならないが、初期の王権は祭祀王としてのもの
それが支配ー被支配の通常の権力関係になる過程が、記紀の征服譚だと考えれば、
特に矛盾はない
0678日本@名無史さん2018/12/06(木) 21:42:50.92
>>551
>といった国々について順次記述していき、最後に「倭」に言及しています。
つまり、狗邪韓国が「倭人伝」に書かれているということは、
倭の国であるということとイコールだと言ってよいと思います。
もし、狗邪韓国が韓に属する国であり、単なる経由地として登場しているというのであれば、
「韓伝」にその国名が記されるはずですが、「韓伝」にその名はみられません。<

成程。
0680日本@名無史さん2018/12/06(木) 21:44:53.11
>>552
>対馬までが倭国だからその北の岸が狗邪韓国
半島南部が倭地なら倭国の北は岸ではなくて半島の内陸
狗邪韓国が弁辰狗邪國とは別の国なら馬韓人の辰王に属していない国<

この男は、相変わらず、変な男。
0681日本@名無史さん2018/12/06(木) 21:45:32.56
>>661
>後漢書に後漢に朝貢した奴国がそう表記されている

これも誤読なんだな

後漢に朝貢した倭奴国は、北部九州の福岡平野の奴国でよい
後漢書で極南界とされる奴国は、余傍国の最後の奴国

この二つを混同してしまっているから、おかしな話になっているだけ
0682日本@名無史さん2018/12/06(木) 21:50:56.89
>>675
ああ見づらかったわ悪いな
11600里な

まあオレは後漢書の方の記録大月氏まで1万6千里を
陳寿が意識して1万2千里に4千里を足し魏志倭人伝に記述した説を採るよ
資料書いてくれてありがとな
0683日本@名無史さん2018/12/06(木) 21:52:18.37
韓国政府に雇用されている、畿内説の宣伝係の3寸男は、なぜ、九州に怨恨があるのだろうか。。。
0684日本@名無史さん2018/12/06(木) 21:55:08.63
対馬を奪うどころか(魏志倭人伝でも記紀でも勝ち目無し

半島南岸までもが倭人支配地だからだよwww
0686日本@名無史さん2018/12/06(木) 22:06:44.54
ついに短里が破綻して悪あがきしてるんじゃない
0687日本@名無史さん2018/12/06(木) 22:06:48.87
>>554
>「從郡至倭循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國」
この文は、水行、つまり船上から見た航路・周囲の風景の描写である。<

「歴韓國乍南乍東七千餘里」は、
「南と東の繰り返しの反復」であるから、
半島の西岸と南岸の激しいリアス式では全く不可能であるし、
三韓の韓國歴訪も全く不可能であるし、
南岸は倭であるから、「歴韓國」は不可能であるし、
韓は方四千里だから、韓の部分の西岸と南方の距離だけでも八千里になってしまって、
狗邪韓國までの七千里をはるかに越えてしまうし、
倭王武は「自昔・・・道kei百濟、裝治船舫」という上表をしているから、
昔から百済は陸路道を通るルートであった事になる。
0688日本@名無史さん2018/12/06(木) 22:22:40.16
>>502
だから魏の時代も1歩=6尺だって
魏の律歴志にそう書いてある
0689日本@名無史さん2018/12/06(木) 22:22:55.02
>>687
何言ってるかちょっとわからない。
再度説明願います。
0690日本@名無史さん2018/12/06(木) 22:25:37.98
>>506
魏志倭人伝も西晋時代のもので
さらに言うなら現在見るのは原本が失われてから復刻された
12世紀のものぞ
0691日本@名無史さん2018/12/06(木) 22:26:00.23
>>649
>3世紀に鉄器なんて
>吐いて捨てるほど出土するだろがw
>珍しくもないw

そう思うだろ?
でも例外があるんだよ。
纒向って言うんだけどさw
0692日本@名無史さん2018/12/06(木) 22:28:07.38
>>657
>本州の畿内とは
>対立してた蓋然性が高いはずで

3世紀の時点では本州は筑紫の植民地にすぎないよ。
0693日本@名無史さん2018/12/06(木) 22:30:29.13
魏志倭人伝を書いた人が当時最高の数学者ではあったが
最高に地図の読めない方向音痴だった可能性
0695日本@名無史さん2018/12/06(木) 22:31:54.06
後漢書

倭在韓東南大海中依山㠀為居凡百餘國 自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國 國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也) 楽浪郡徼去其國萬二千里其西北界狗邪韓國七千餘里 其地大較在會稽東冶之東與朱崖儋耳相近故其法俗多同

「倭は韓の東南、大海の中にある。山島に居住して、すべてで百余国。武帝が(衛氏)朝鮮を滅ぼして以来、漢と交流のあったのは三十国ほどである。国はみな王を称し、代々受け継いでいる。その大倭王は邪馬台国に居る(今の名を案ずると、ヤマユイ音のなまりである)。
楽浪郡の境界は其の国を去ること万二千里。その西北界の狗邪韓国を去ること七千余里。その地は会稽、東冶の東にあり、朱崖、儋耳に近く、法や習俗に同じものが多い。」

建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬

大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。

つまり、倭国とは狗邪韓國から倭奴国まで。
畿内は倭国の中に含まれず、まして倭国女王卑弥呼がいたはずもない。
畿内にいたのは、墓が大きいだけの地方豪族だけである。
0696日本@名無史さん2018/12/06(木) 22:33:15.02
後漢書における邪馬台国までの里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(の王都、邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界(国境)である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。

魏略逸文における里程
帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。

魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国まで七千里、女王国まで一万二千里。
対馬海峡が三千里であり、帯方郡から九州上陸までで一万里となるので、邪馬台国の位置は九州北部になる。

魏志倭人伝の邪馬台国までの日程
帯方郡から邪馬台国まで水行10日、陸行1月(1日の誤りか)
また、帯方郡から投馬国(宮崎都万)までは水行20日

邪馬台国時代の遺物の出土状況
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/image/zu11.gif
0697日本@名無史さん2018/12/06(木) 22:38:52.41
>>510
侏儒國も裸國も黒歯國も准南子に出てくるらしいぞ
魏志倭人伝は淮南子を下敷きにしたのは明らか

そして帯方より南1万2千里は淮南子における概念上の地の果て
九州説の言うように1万2千里は短里で正確に測られたものとするなら
淮南子の記述と一致する事の説明がつかず破綻
0698日本@名無史さん2018/12/06(木) 22:43:42.15
>>697
>淮南子の記述と一致する事の説明がつかず破綻

むしろ短里で一致して万々歳だと思う。
0699日本@名無史さん2018/12/06(木) 22:46:52.19
>>695
あくまで後漢書の記述やんけ
それに魏志倭人伝の記述も混じって正確性に難があるなあ
0701日本@名無史さん2018/12/06(木) 22:50:49.97
後漢書に書かれている後漢時代には大倭王が居る邪馬臺國
は遣使をしていない
概念的な萬二千里は倭人伝を踏襲しているが
後漢書が書かれた5世紀前半は、
直前の4世紀後半から沖ノ島祭祀が始まり
金海貿易に移行しているので、ルートは宗像経由の時代
後漢書のすぐ後に書かれた宋書は
「倭國在高驪東南大海中世修貢職」
0702日本@名無史さん2018/12/06(木) 23:03:31.69
>>697
>魏志倭人伝は淮南子を下敷きにしたのは明らか

>そして帯方より南1万2千里は淮南子における概念上の地の果て
なら、「計其道里當在會稽東治之東」の「計其道里」とは何を計ったんだ?
魏あるいは西晋の時代に「會稽東治」も淮南子の「概念上の地の果て」にある場所だと認識されていたと言ってるのか?
0703日本@名無史さん2018/12/06(木) 23:03:53.03
九州説はもう発狂するしか道は残されてねーな
淮南子も短里だから魏だけじゃなく漢も短里だったんだ!あるいは
長長距離を測るときは地面に棒立てて一寸千里法で測る天文里
すなわち短里を使ったんだ!
0705日本@名無史さん2018/12/06(木) 23:12:43.27
會稽東冶之東が概念上の地の果て
0706日本@名無史さん2018/12/06(木) 23:15:06.18
>>704
まったく...。
デタラメばっかりだな
0708日本@名無史さん2018/12/06(木) 23:20:05.44
>>706
何て言われようとも
淮南子の概念地の果て1万2千里と
魏志倭人伝の女王国まで1万2千里が一致している以上
1万2千里は正確な数値じゃなくて概念上の数字である事には変わらない
0709日本@名無史さん2018/12/06(木) 23:40:31.92
>>708
だから、だとしたら「計其道里當在會稽東治之東」の「計其道里」というフレーズは絶対に出てこない。
「會稽東治」はイメージできる距離にあると認識されていたはずだから、そこから推測できるべき距離を示している。

「何て言われようとも」なんて幼稚な言い方で説得力があるわけないだろwww
0710日本@名無史さん2018/12/06(木) 23:52:49.03
>>709
陳寿もしくは報告書書いた人間が
漢と交流していた倭の極南界倭奴国と邪馬台国を
すり合わせようとした結果の記述
0711日本@名無史さん2018/12/06(木) 23:55:58.34
里数+日数からすると會稽東冶くらいまで南に進んでるだろうということだな
孫権が探索失敗してるからどのくらい東に遠いかはわからない
0712日本@名無史さん2018/12/07(金) 00:10:20.51
>>618 正解
[全一病」連呼はね
「馬鹿スレ主を相手にするな」ということ
0713日本@名無史さん2018/12/07(金) 00:18:12.36
後漢書を持ち出すなら
日本史の謎の4世紀を説かなければいけない
記紀だよりなら、東遷となってしまわないかな
0715日本@名無史さん2018/12/07(金) 00:20:44.90
方位も距離の解説もできない畿内説は哀れ
0716日本@名無史さん2018/12/07(金) 00:21:19.26
畿内説は変なやつばっかだなあ
0717日本@名無史さん2018/12/07(金) 00:24:54.26
わざわざ畿内説スレに来てちょっかい出すのだから
ここの九州説の人はおかしい奴に決まってるのだぞ
0718日本@名無史さん2018/12/07(金) 00:26:54.90
変なスレ
九州説批判で畿内説を主張する馬鹿
倭人伝やそれに基づく遺物も九州が優位だよ
畿内説のスレだから畿内説を語れよ
畿内説への批判は勝負しろよ
九州説への批判は受けて立つが
スレ違いじゃねーか
九州説のスレやドンコイへ来い
0720日本@名無史さん2018/12/07(金) 00:37:59.36
>>673
短絡的
九州説をよくわかっていない
纏向と箸墓で決まりと言うほうがおかしいと思わないか?
葛城説あり、河内説あり、京都説あり、・・・・・

纒向病から抜け出すべきだよ
集落跡無し、魏との交流を示す遺物無し、掘立柱建物は王宮とぬかす
径百歩と前方後円墳をごり押しする
方位については誤認・誤情報・誤写で片付ける
距離についても同じ
国民から支持を受けないよ
0721日本@名無史さん2018/12/07(金) 00:41:44.72
九州説の王宮はどの遺跡の建物?
0722日本@名無史さん2018/12/07(金) 00:51:32.86
畿内説も伊都国は北部九州で決まりなのに
畿内説は郡から伊都国までの1万500里は説明してないね
畿内説では1里?メートルなの
0723日本@名無史さん2018/12/07(金) 00:54:45.87
>>721
俺流には邪馬台国の王都は甘木・朝倉だと思う
スレチですまん
0724日本@名無史さん2018/12/07(金) 00:57:28.96
>>723

のどこ?
0725日本@名無史さん2018/12/07(金) 01:00:03.91
>>721
最古は吉武高木遺跡だろ。
卑弥呼の時代は、平原遺跡の真東にそびえる高祖山の高祖宮だろう。
本来は山城らしいけど。
0726日本@名無史さん2018/12/07(金) 01:01:38.35
>>689
古田史学では、邪馬台国までの水行10日陸行1月の陸行は、
半島上の陸行だって言ってるからね

北部九州までで萬二千里を使い切ってるとかいうデタラメ読みを糊塗するために
陸行を半島に持っていくというウソにウソを重ねる状態になってる

半島陸行なんて方々で論破済みのありえない読み方なんだけど、
ザラコクは半島儒教の道徳価値観なんで、教祖の主張を変更できないんだよww

この辺まで理解してないとザラコクの書くことの意味は分からない
まあ分かったところでデタラメしか書いてないんだけどなww
0727日本@名無史さん2018/12/07(金) 01:02:23.30
金印を保管していたと言われる細石神社。
神社の建築は古代の王宮そのものだ。
三雲地区は硯が出土したり郡使も滞在した中心行政地区だろう。
0728日本@名無史さん2018/12/07(金) 01:05:05.50
>>695
>楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である

何度も何度も何度も書くが、インチキの誤訳
正しくは
「楽浪郡の国境は、その国(倭国)から一万二千里である」だ

間違った読みから間違った結論になってるのか、
間違った結論からの逆算で無理な誤読をしてるのか、どっちだ?
0729日本@名無史さん2018/12/07(金) 01:06:18.80
>>697
>侏儒國も裸國も黒歯國も准南子に出てくるらしいぞ

朱儒国は出て来ないよ
0730日本@名無史さん2018/12/07(金) 01:06:22.54
>>725

弥生前中期の建物は卑弥呼時代にはもう無い
見つかってもいない建物は家族と語りなさい
0731日本@名無史さん2018/12/07(金) 01:07:54.99
>>726
古田史学なんて全く信用してないぞ。九州だとは思うが、帯方郡から測り直しなんて説得力はないと思うぞ。
0732日本@名無史さん2018/12/07(金) 01:10:58.94
>>724
東遷説の安本美典氏の邪馬台国の会は、甘木の平塚川添遺跡を邪馬台国の候補地にしてるんだよ
その辺を読みかじったんだろ
0734日本@名無史さん2018/12/07(金) 01:12:43.16
>>725
>平原遺跡の真東にそびえる高祖山の高祖宮だろう。

これも昭和の妄想なんだよな
3世紀にそんなものがあったという記録も遺跡も伝承もない
0735日本@名無史さん2018/12/07(金) 01:15:30.37
>>731
>>726はザラコクの意味不明な書き込みの解説だよ?
水行の起点を帯方郡からにするのは、古田史学関係なしでバカ読み

水行陸行を無視しないとダメな時点で九州説はおかしい
0736日本@名無史さん2018/12/07(金) 01:35:23.89
>>695
これウソ混ぜてるよね。

「倭在韓東南大海中、依山㠀爲居、凡百餘國。自武帝滅朝鮮、使驛通於漢者三十許國。國皆稱王、丗丗傳統。其大倭王居邪馬臺國。樂浪郡徼去其國萬二千里、去其西北界拘邪韓國七千餘里。」
倭は韓の東南大海の中にあり、山島によりて居をなす。およそ百余国。
武帝、朝鮮を滅してより、使駅、漢において通ずる者、三十許国。国みな王を称し、世世、統を伝う。
その大倭王は、邪馬台国にいる。
楽浪郡徼はその国を去ること万二千里、その西北界の狗邪韓国を去ること七千余里。
だよね。

「案今名邪摩惟音之訛也」とか突っ込んで、何のつもりなの?
0737日本@名無史さん2018/12/07(金) 01:45:47.86
>>721
俺流には邪馬台国の王都は甘木・朝倉だと思う
スレチですまん
0738日本@名無史さん2018/12/07(金) 01:48:36.86
俺も聞きたい


722日本@名無史さん2018/12/07(金) 00:51:32.86
畿内説も伊都国は北部九州で決まりなのに
畿内説は郡から伊都国までの1万500里は説明してないね
畿内説では1里?メートルなの
0739日本@名無史さん2018/12/07(金) 01:52:45.78
>>730
纒向説もいいけど、決め打ち?
0740日本@名無史さん2018/12/07(金) 01:53:30.16
>>737
邪馬台国側の城が基肄城と大野城、狗奴国側の城が菊池城だと、甘木朝倉は戦闘に巻き込まれてしまう。
0741日本@名無史さん2018/12/07(金) 03:21:21.99
>>740
ヨコからすまん
狗奴国の比定地に問題があるのではないか
0742日本@名無史さん2018/12/07(金) 03:26:49.03
>>737
平塚川添遺跡のことを言っていると思うが都市機能に問題は無いと思うが
水行・陸行に難あり
0743>>7372018/12/07(金) 03:36:17.89
九州説を否定してるわけでは無い
倭人伝の記述との合致から
纒向より平塚川添遺跡のほうが王都にふさわしいと思うが
纒向ほどじゃ無いが課題も多いと思うよ
0744日本@名無史さん2018/12/07(金) 04:08:29.24
>>741
どこに?
0745日本@名無史さん2018/12/07(金) 05:06:47.06
城の年代が合わない
0746日本@名無史さん2018/12/07(金) 05:22:28.38
>>738
「一里=435m」は「長里」
長里で1万500里を計算すると郡から伊都国まで4,567キロとなるので
伊都国どころかはるか南方になる
畿内説は距離についての記述はデタラメという
九州説は短里で解き明かそうとする

研究者の倭人伝に向き合う姿勢の違いだろうな
0747日本@名無史さん2018/12/07(金) 05:24:38.94
追記
倭人伝の、こことここはデタラメと言いだしたら

邪馬台国がいたるところに存在してしまう
0748日本@名無史さん2018/12/07(金) 05:31:36.30
訂正
〇長里で1万500里を計算すると郡から伊都国まで「1141」キロとなるので
伊都国どころかはるか南方になる
0749日本@名無史さん2018/12/07(金) 05:35:32.00
すまそ、恥かいちゃった 原文通りで可
〇長里で1万500里を計算すると郡から伊都国まで4,567キロとなるので
0750日本@名無史さん2018/12/07(金) 05:37:29.78
「唯呉時扶南王范旃遣親人蘇物使其國、從扶南發投拘利口、循海大灣中正西北入歴灣邊數國、可一年餘到天竺
江口、逆水行七千里乃至焉。」
ガンジス川河口より600kmのぼった所に天竺がある。三世紀には河口はもっと上の方にあった筈で500km程度
が7000里である。

同じく『梁書』諸夷伝に
「扶南國,在日南郡之南,海西大灣中、去日南可七千里」とあります。
日南郡は今のドンホイ辺りになる。扶南國はプノンペンだ
ハノイから南に3000kmも行ったらオーストラリアまで行ってしまう。
これで計算するとプノンペンまで600km位になる。短里の86mだ。
0751日本@名無史さん2018/12/07(金) 05:38:21.89
更に「狼牙脩國,在南海中。其界東西三十日行,南北二十日行,去廣州二萬四千里」
「狼牙脩國」は現マレーシアと思われるが広州から二萬四千里(一万キロ)も行くんでしょうか?
南極まで行ってしまう。
実際は直線で二千キロで1里83mと言う所だろう。

結論として短里がなければ説明不能な距離記載が沢山あり、倭人伝の距離は短里で書いてあると考えるのが妥当
である。
0752日本@名無史さん2018/12/07(金) 05:49:51.81
沃祖の墓制
東夷伝に沃祖の墓制の記述がある。
「其葬作大木槨、長十餘丈」とある。当時の単位と言われる「丈」であれば長さが23m以上と言う事である。
幾ら大木槨と言っても25mは長すぎであろう。五分の一で5mくらいの長さでも大木槨で十分通用する。
沃祖は洗骨を実施して小さな骨壷として家族の墓としていたのだから。

「径百歩」の1歩の単位も考え直す必要が有るかもしれないが、これについては確たる根拠を持ち合わせないのでやめます
0753日本@名無史さん2018/12/07(金) 05:54:48.62
>>745
菊池城の起源は不明
0754日本@名無史さん2018/12/07(金) 05:58:41.97
一歩が畿内説の主張の五分の一になれば、平原遺跡がぴったりの大きさだよ。
足の長さを一歩として測定の基準にしたんだね。
つま先と踵をつけて歩くと測定できる。
0755日本@名無史さん2018/12/07(金) 07:46:59.91
>>738
1里約430m
不彌国までが1万7百里は倭地まで1万里に割り当てた数値
残り1300里は普通の里で約500kmに換算

なぜなら魏に短里など存在してなかったから
陳寿は当然その感覚で書いている
九州南端か東に行けば畿内に到達
0756日本@名無史さん2018/12/07(金) 08:04:51.36
>>754
古代人そんな歩き方してたんかw
0757日本@名無史さん2018/12/07(金) 08:11:57.26
九州説は小保方脳なので新しい単位を捏造する事も平気
0758日本@名無史さん2018/12/07(金) 08:18:46.80
>>607
>テンプレは畿内説の代表じゃないです
畿内説の王都もいろいろある
葛城もあるし京都もある<

「畿内」なんて存在もしない嘘つき騙し文言だから、×。

>南⇒東は 大平洋ルートで説明可能<

皇帝の詔書や金印や大量の下賜品を届けなければならない魏使らは、
「安全最短が大原則」であり、
殆ど水行や、黒潮に浮かんで漂流コースのような、
危険な冒険ルートを選択するはずがないから、始めから×。
0759日本@名無史さん2018/12/07(金) 08:18:51.83
>>755
>なぜなら魏に短里など存在してなかったから

キナイコシは常に自分に都合の良い結論が先にありき
0760日本@名無史さん2018/12/07(金) 08:22:42.50
>>743
>倭人伝の記述との合致から

何が合致するのか具体的にお願いします
0761日本@名無史さん2018/12/07(金) 08:24:08.93
>>757
>>750 >>751の指摘している他の史書、他の箇所でも1里=430mが不適当だという点にきちんと反論しろよ。
「誰も使っていない」はずの「短里」がなぜ多くの箇所で記載されていたのか。
これは少なくとも史書においては使われていた証明だと思うが。
0762日本@名無史さん2018/12/07(金) 08:36:16.94
>>630の訂正
かえって、淮南子も、東方方面では長里なんて使っていなかった、って確信できるな。
0763日本@名無史さん2018/12/07(金) 08:36:28.04
>>759
>キナイコシは常に自分に都合の良い結論が先にありき

だという理由は?
0764日本@名無史さん2018/12/07(金) 08:40:09.79
>>631
>50mとか30mのとこがあって3倍も誤差があるらしいぞ <

この大和説男の、
出航地や、到達上陸地の比定の失敗や、捏造の失敗が、
原因。
0765日本@名無史さん2018/12/07(金) 08:47:59.88
>>764
具体的に、何が失敗?
0766日本@名無史さん2018/12/07(金) 08:48:36.50
>>632
>魏使がどんなだったか全く不明だからな
西域の記録を残した漢代の張けんみたいな優秀な奴はおらんかったのだろ
戦争中だし仕方ないか<

「南→東」などの史料事実の否定曲解のウソ付き騙しの大和説者が、
どんな性格であったのか?や、どれだけ悪い犯罪者であったかであ?は、
全く不明だからな。
魏使らや、陳寿や、西域の記録を残した漢代の張けんみたいな、
優秀な奴はおらんかったのだろ。

「戦前の万世一系の八紘一宇の皇国」史観にクルって、
殺人鬼になってしまったんだから、仕方ないか。
0768日本@名無史さん2018/12/07(金) 08:55:04.84
>「戦前の万世一系の八紘一宇の皇国」史観にクルって、

とか、おかしな中傷ばっかりしてる九州説が
世間から相手にされなくなるのは
理の当然
0770日本@名無史さん2018/12/07(金) 09:04:31.42
やっぱりアワビマンってキウスなのかな
馬鹿さ加減は似ているが
0774日本@名無史さん2018/12/07(金) 09:10:08.26
キナイコシはヤケ糞で思考停止か
0777日本@名無史さん2018/12/07(金) 09:20:17.06
うめ
0778日本@名無史さん2018/12/07(金) 09:20:42.43
うめ
0779日本@名無史さん2018/12/07(金) 09:21:21.04
うめ
0780日本@名無史さん2018/12/07(金) 09:21:43.86
うめ
0781日本@名無史さん2018/12/07(金) 09:24:01.51
纏向遺蹟に、人民の住居跡がないという情報が、インターネットの公式ホームページで、確認できてしまうことが公表されたので、破綻してしまった畿内説の宣伝係が、焦っているな。。。
0782日本@名無史さん2018/12/07(金) 09:24:09.49
>>761
は?

具体的な計測方法の提示なく「短里」があると断定されても返答しかねる
追試ができないから

帰納的にそういう単位があると立証して主張するなら考慮するよ
そうでなきゃ、過大な計測誤りの実例として畿内説を補強するだけの事例だ
0783日本@名無史さん2018/12/07(金) 09:24:48.16
纏向遺蹟は、やはり、墓地と倉庫だけの、沼地だった可能性が、高いな。。。
0784日本@名無史さん2018/12/07(金) 09:25:36.04
4世紀まで沼地だったから、倉庫用地と墓地にしか利用できなかったので、纏向遺蹟を作製したのではないのかな。。。
0785日本@名無史さん2018/12/07(金) 09:28:36.22
>>782
ちゃんと
>>750>>751の指摘している他の史書、他の箇所でも1里=430mが不適当だという点にきちんと反論しろよ。
反論になってないぞ。
0786日本@名無史さん2018/12/07(金) 09:28:53.24
城の回りや内側に、人民の住所が無い城は、あるのだろうか。。。
0787日本@名無史さん2018/12/07(金) 09:29:23.99
破綻した畿内説の宣伝係員の、脳には、城の回りや内側に、人民の住所が無い城は有るのでは、無いのかな、、、
0788日本@名無史さん2018/12/07(金) 09:41:52.46
>>746
そもそも「長里」なんてないんだよ

あるのは、漢里あるいは魏晋里だ
「短里」などという捏造をするから「長里」などというものまで作らないといけなくなる

「短里」という単位があって、その単位で距離を実測したというのは、完全に否定されてる

現実は、西域の大月氏を朝貢させた曹真の功績に見合うように、
東夷で最遠の朝貢国・倭国を遠く見せかけるために、淮南子に見える世界の果てまでの
距離を女王国までの距離に当てはめただけ
晋の高祖・司馬懿の功績を褒め称えるために、距離を誇張して盛ってあるだけだよ
0789日本@名無史さん2018/12/07(金) 09:45:23.78
>>785
だから、不適当だって理由はなに?
0790日本@名無史さん2018/12/07(金) 09:46:48.41
>>750
・海の距離は測れない
・遠くの国は遠めに書く
・伝聞で不正確
の合わせ技だろ

九州説でも「梁書の時代に短里を使ってた」と主張しているやつはいないぞ
0791日本@名無史さん2018/12/07(金) 09:47:30.87
>>785
つか「反論になってない」という理由はなんなんだ?

???
0792日本@名無史さん2018/12/07(金) 09:47:43.66
>>789
ちゃんと
>>750>>751の指摘している他の史書、他の箇所でも1里=430mが不適当だという点にきちんと反論しろよ。
反論になってないぞ。
0793日本@名無史さん2018/12/07(金) 09:48:47.14
>>754
>つま先と踵をつけて歩くと測定できる。

また出たよww
「歩」は、文字の成り立ちから徹頭徹尾、複歩を表す文字であり
大陸史書では複歩の長さ以外では使われていない
0794日本@名無史さん2018/12/07(金) 09:49:58.15
うめ
0795日本@名無史さん2018/12/07(金) 09:50:13.54
うめ
0796日本@名無史さん2018/12/07(金) 09:50:14.52
>>634
>>渡海十日陸行一月も成り立つが 水行となぜしたんだろう<

>渡海していないからだよ 倭国到着後の水行は、日本海の沿岸航行
この一事をもって、水行の起点を帯方郡にいきなり 戻す読み方は成り立たないと分かる<

「水行」は、当然「陸行」との対比的な使用文言であり、
「水行」は、川行も、湖沼行も、沿岸航行も、沖合洋上航行も、渡海などの、
全ての「水上を行く」事を含む文言。
0798日本@名無史さん2018/12/07(金) 09:50:35.31
うめ
0799日本@名無史さん2018/12/07(金) 09:51:49.96
そろそろ、この重複偽物スレッドにも、次回のスレッドが必要なのではないのかな、、、
0800日本@名無史さん2018/12/07(金) 09:52:09.29
800
0801日本@名無史さん2018/12/07(金) 09:54:23.91
魏志倭人伝時代の一里は、何メートルだったのだろうか。。。
0802日本@名無史さん2018/12/07(金) 09:54:45.91
>>788
>現実は、西域の大月氏を朝貢させた曹真の功績に見合うように、
>東夷で最遠の朝貢国・倭国を遠く見せかけるために、淮南子に見える世界の果てまでの
>距離を女王国までの距離に当てはめただけ
>晋の高祖・司馬懿の功績を褒め称えるために、距離を誇張して盛ってあるだけだよ

じゃあ「計其道里當在會稽東治之東」なんて記載したら台無しじゃん?
「會稽東治」はちゃんと具体的に伝わる距離なんだから。
0803日本@名無史さん2018/12/07(金) 09:56:00.54
>>801
一寸千里という計算方法が、一里の長さを決定するという情報が、重要ではなかったのかな。。。
0804日本@名無史さん2018/12/07(金) 09:57:17.47
>>796
633 名前:日本@名無史さん [sage] :2018/12/06(木) 19:32:51.45
>>553
>水行は川でも海でも可だよ

バカは何度行っても理解しないが、水行は海の沿岸航行

ただし川でもガンジス川、ソンホン川クラスの、現在でも内陸航路に使われている大河では
後の史書で水行とされている例がある
しかし、大陸史書の地理・旅程記事で、これ以外の川の水行は一例たりともない

川の水行はない!
0805日本@名無史さん2018/12/07(金) 09:57:51.05
>>803
一寸千里という計算方法を、机上で計算するには、角度の知識が、必要になるのではなかったのかな。。。
0806日本@名無史さん2018/12/07(金) 09:59:27.14
>>791
短里じゃなくて>>790だからだと
みんなは考えてるんだよ

だから、「>>790を否定できるだけの根拠がない」と「反論になってない」という事になる
0808日本@名無史さん2018/12/07(金) 10:08:34.34
>>637
>邪馬台国は旧字体で邪馬臺國と<

邪馬台国なんて、史料事実のどこにも存在しない造作インチキ文言。
また、3世紀頃においても、「臺」と「台」は、意味も使用例空文字列別字。

>当時代の魏志倭人伝を引用した史料後漢書、隋書、北史、通史、太平御覧の倭人伝に載っている
これを史料事実と言わずして何という<

後代史家や学者の、
前代の魏志に対しての「自己解釈に拠る内容説明的な書き換え」は、
現代大和説者や学者らの「史料事実の否定曲解の書き換え」と同じように、
前代史書期での史料根拠には、ならない。

>あと魏代では「臺」と「台」とは別字というなら
証拠となる魏代の文書をここに書き出してみろ
古田先生が言ってただの誰かが書いてただのは通用しないから<

どなたかが、「台」は「星の名前に使われた」という事の例を書いておられた。
「臺」は、勿論「盛り土」や「天子の宮殿や中央政庁建築」の意味。

>邪馬壹國は12世紀に復刻された魏志倭人伝に生じた誤記
それ以前の魏志倭人伝を引用した史書はほぼ邪馬臺國と表記<

写本版本全体における誤字発生確率は、0.5%以下。
後代史家の「前代史書の引用」での文字差異発生確率は、50%位か,それ以上。
0809日本@名無史さん2018/12/07(金) 10:12:16.28
>>792
だからさー

1里=430mが不適当だという理由は?
0810日本@名無史さん2018/12/07(金) 10:13:43.78
観光関連や韓国政府が宣伝する邪馬台国畿内説は、角度の計算に失敗した者達が、騙されてしまって信じている可能性が、高いな。。。
0811日本@名無史さん2018/12/07(金) 10:15:18.81
魏志倭人伝時代の1里=430mが不適当だということが、もう、角度の知識がある者達には、常識になってしまったな。。。
0812日本@名無史さん2018/12/07(金) 10:16:57.92
破綻した畿内説の宣伝係が、新しいことを宣伝するときに、失敗しないために、1里=430mが不適当だという理由を知りたいのではないのかな。。。

809日本@名無史さん2018/12/07(金) 10:12:16.28
>>792
だからさー

1里=430mが不適当だという理由は?
0813日本@名無史さん2018/12/07(金) 10:19:09.79
観光関連や韓国政府が宣伝する邪馬台国畿内説は、騙されてしまって信じている者達は、角度の計算に失敗したので、8尺棒の長さを3寸短く発表した、3寸男の嘘に騙されてしまったのではないのかな。。。
0814日本@名無史さん2018/12/07(金) 10:19:51.90
短里マンは
「正常な単位系と合わない」=「別の単位系が存在する」
というおかしな論理を使っているだけ
「測定を間違った」という一番ありそうな可能性を認めない

九州説は、自分が使ってる論理の
 どこが「おかしい」か
を自覚できないので
どんどん一般人の感覚からズレていく

それが、九州説の衰退した理由なんだ
0815日本@名無史さん2018/12/07(金) 10:21:05.73
>>809
750 名前:日本@名無史さん :2018/12/07(金) 05:37:29.78
「唯呉時扶南王范旃遣親人蘇物使其國、從扶南發投拘利口、循海大灣中正西北入歴灣邊數國、可一年餘到天竺
江口、逆水行七千里乃至焉。」
ガンジス川河口より600kmのぼった所に天竺がある。三世紀には河口はもっと上の方にあった筈で500km程度
が7000里である。

同じく『梁書』諸夷伝に
「扶南國,在日南郡之南,海西大灣中、去日南可七千里」とあります。
日南郡は今のドンホイ辺りになる。扶南國はプノンペンだ
ハノイから南に3000kmも行ったらオーストラリアまで行ってしまう。
これで計算するとプノンペンまで600km位になる。短里の86mだ。

751 名前:日本@名無史さん :2018/12/07(金) 05:38:21.89
更に「狼牙脩國,在南海中。其界東西三十日行,南北二十日行,去廣州二萬四千里」
「狼牙脩國」は現マレーシアと思われるが広州から二萬四千里(一万キロ)も行くんでしょうか?
南極まで行ってしまう。
実際は直線で二千キロで1里83mと言う所だろう。

結論として短里がなければ説明不能な距離記載が沢山あり、倭人伝の距離は短里で書いてあると考えるのが妥当
である。
0816日本@名無史さん2018/12/07(金) 10:27:30.70
方二万四千里の思想に合わせるため、淮南子も短里を使っていたということか。
キナイコシが何か言うたびに九州説が補強されるな。
0817日本@名無史さん2018/12/07(金) 10:30:33.88
長里だと倭人伝の最初の七千里で
移動に失敗するから、
長里を使ってるとは言えない。
0818日本@名無史さん2018/12/07(金) 10:36:06.89
邪馬台国畿内説を宣伝するために、観光関連や韓国政府が雇用した宣伝係員が、角度の計算ができなかったので、8尺棒の長さを3寸短く発表してしまったのではないのかな。。。
0819日本@名無史さん2018/12/07(金) 10:37:36.28
邪馬台国畿内説を宣伝するために、観光関連や韓国政府が雇用した宣伝係員が、分度器の使い方を知らなかった可能性があるな。。。
0820日本@名無史さん2018/12/07(金) 10:39:00.57
820
0821日本@名無史さん2018/12/07(金) 10:40:18.87
僕たちは、今、文献を探しているのだったな。。。
0822日本@名無史さん2018/12/07(金) 10:42:58.94
>>802
つまり、「南」という情報が間違いだってことだろ
0823日本@名無史さん2018/12/07(金) 10:44:12.24
方2万4千里が短里なら中国内地だけで世界が尽きてしまう
0824日本@名無史さん2018/12/07(金) 10:45:23.71
>>817
短里を使っているとも言えない
0825日本@名無史さん2018/12/07(金) 10:45:35.58
朝鮮半島の海岸の島ではなく、朝鮮半島にも、倭人の領地があったことが、発表されている文献は、どういう文献なのだろうか。。。
そして、日本書紀に発表されている任那日本府とは、何だったのだろうか、、、
0826日本@名無史さん2018/12/07(金) 10:46:23.20
対馬海峡が三千里なので、魏志倭人伝が長里で書かれていないことは明らかだな。
キナイコシの主張は成り立たない。
0827日本@名無史さん2018/12/07(金) 10:46:28.38
>>823
そもそも「会稽東冶の東」にならない
0828日本@名無史さん2018/12/07(金) 10:49:23.81
>>815
あのー

「具体的な計測方法の提示なく『短里』があると断定されても返答しかねる」
「追試ができない」
「帰納的にそういう単位があると立証して主張するなら考慮する」

と指摘されてますけど
0829日本@名無史さん2018/12/07(金) 10:50:56.38
分かりやすいたとえ話があると彼にも理解できるんじゃないかな?
0830日本@名無史さん2018/12/07(金) 10:51:30.78
うめ
0831日本@名無史さん2018/12/07(金) 10:53:21.02
チンパンジーと会話しようとしてる奴がいたらそいつの方が異常者だから
お前らよく理解しとけ
0832日本@名無史さん2018/12/07(金) 10:53:42.60
魏志倭人伝の時代に、朝鮮半島にも、倭人の領地があったことを、隠そうとしている闇の勢力は、どのような勢力なのだろうか、、、
0833日本@名無史さん2018/12/07(金) 10:54:43.92
破綻した畿内説を宣伝するチンパンジーが、宣伝を実行しているな。。。
0834日本@名無史さん2018/12/07(金) 10:56:08.58
>>832
なぜ、邪馬台国畿内説は、魏志倭人伝の時代に、朝鮮半島にも、倭人の領地があったことを、隠そうとしている闇の勢力に、応援されているのだろうか、、、
0835日本@名無史さん2018/12/07(金) 10:57:45.13
朝鮮半島の海岸の島ではなく、朝鮮半島にも、倭人の領地があったことが、発表されている文献は、どういう文献なのだろうか。。。
そして、日本書紀に発表されている任那日本府とは、何だったのだろうか、、、
0836日本@名無史さん2018/12/07(金) 10:57:55.97
対馬海峡が三千里。
では一里は何メートル?
0837日本@名無史さん2018/12/07(金) 10:59:53.31
>>835
戦争を、予防するためには、真実の歴史の知識を獲得しなければ、いけないのではないのかな。。。
0838日本@名無史さん2018/12/07(金) 11:05:01.66
>>836
それ、三世紀に正しく測れたっていう根拠は?
0839日本@名無史さん2018/12/07(金) 11:07:22.06
・海の距離は測れない
・遠くの国は遠めに書く
・伝聞で不正確
の合わせ技

これに尽きる
0840日本@名無史さん2018/12/07(金) 11:08:14.81
破綻した畿内説を宣伝する係員のキナイコシが、また、頭の悪さを発表したな、、、

838日本@名無史さん2018/12/07(金) 11:05:01.66
>>836
それ、三世紀に正しく測れたっていう根拠は?
0841日本@名無史さん2018/12/07(金) 11:09:20.97
>>840
頭の悪いことを、教えてあげたので、感謝されたのではないのかな、、、
0842日本@名無史さん2018/12/07(金) 11:10:59.61
破綻した畿内説を宣伝する係員のキナイコシは、なぜ、対馬海峡が三千里が、正しく測れたかどうかに、興味を持ったのだろうか、、、
0844日本@名無史さん2018/12/07(金) 11:12:35.65
経験論ですが、頭の悪い人は九州説になります
0845日本@名無史さん2018/12/07(金) 11:13:05.30
>>842
破綻した畿内説の宣伝係が、新しいことを宣伝するときに、失敗しないために、対馬海峡の三千里が、正しく測れたかどうかを知りたいのではないのかな。。。
0847日本@名無史さん2018/12/07(金) 11:15:01.65
破綻した畿内説の宣伝係は、頭が悪いので、全ての経験が無駄になっているのではないのかな。。。
0848日本@名無史さん2018/12/07(金) 11:16:12.73
破綻した畿内説を宣伝するチンパンジーが、宣伝を続けて実行しているな。。。
0849日本@名無史さん2018/12/07(金) 11:16:18.19
そう言えば、しばらく二十四節気三年暦くんが来ないね



孤独死してなければいいけど
0850日本@名無史さん2018/12/07(金) 11:19:14.34
850
0851日本@名無史さん2018/12/07(金) 11:20:40.21
朝鮮半島の海岸の島ではなく、朝鮮半島にも、倭人の領地があったことが、発表されている文献は、どういう文献なのだろうか。。。
そして、日本書紀に発表されている任那日本府とは、何だったのだろうか、、、
0852日本@名無史さん2018/12/07(金) 11:53:30.76
>>640
>また残り1500里に南水行計30日と陸行1月が含まれる事になるので
少なくとも魏志倭人伝の記述は九州北部を指すものではない事になる<

ダメだ。
投馬國と奴國へは、実際に移動した記載がなく側副傍線國説明であり、
「水行十日陸行一月」は「女王之所都」の説明であるから、郡からの所要日数説明であり、
また、對海國と一大國には国内見聞移動をした記載があり、
国の大きさの里数も書かれているからその分も途中移動里数に加えなければならず、
従って、郡からの「折れ線的道のり里数」は、不彌國で「ほぼ萬二千余里」に達してしまっており、
だから、邪馬壹國女王之所都の入り口は、不彌國のすぐ南にある事になり、
従って、女王國は、九州内だ。
0853日本@名無史さん2018/12/07(金) 11:54:01.50
うめ
0854日本@名無史さん2018/12/07(金) 11:56:40.47
>>851
潤色なしだと在安羅諸倭臣とかになってるから大使館みたいなもんだったんだろ
0855日本@名無史さん2018/12/07(金) 12:00:36.38
>>641
>うん 魏志倭人伝の距離記述は
魏の律歴志と当時のモノサシという史料から換算された1魏里430mと食い違っているね
だから魏志倭人伝の距離記述は正確ではないと証明された <

いや、
同時代の魏使らの実見記録に拠った、と考えられ、
客観性と信頼性の非常に高い魏志倭人伝の距離記述」と比較して、
後代文書である「魏の律歴志」の1里430mは、6倍位も食い違っているから、
だから、後代文書である「魏の律歴志」の距離記述は正確ではない、
と証明された 。
0856日本@名無史さん2018/12/07(金) 12:03:41.63
>>642
やっぱり、
「南→東」などの嘘つき騙しの「戦前の八紘一宇の万世一系皇国史観」の、
侵略殺戮戦争のキョクウの・・・・大和説者は、
頭のネジが飛んでるな 。
0857日本@名無史さん2018/12/07(金) 12:04:03.17
>同時代の魏使らの実見記録に拠った、と考えられ、

考えられるという理由は?
0858日本@名無史さん2018/12/07(金) 12:05:45.42
いくら言っても短里なんて架空のものだしな
現実世界と結びついてるものが何も無い
0859日本@名無史さん2018/12/07(金) 12:10:34.57
対馬海峡が三千里。
では一里は何メートル?
早く答えろよ。
0860日本@名無史さん2018/12/07(金) 12:22:15.49
>>645
はいはい邪馬台国は、史料事実のどこにも存在しない嘘つき騙し文言であるから、
始めから×であるし、
3世紀当時の魏志倭人伝は、魏志らの実見記録に拠った客観性と信頼性の非常に高い情報であり、
後代の後漢書、隋書、北史、通史、太平御覧の史家の「自己解釈に拠る内容説明的な高慢な書き換え」は、
全く信頼性がなく、邪馬臺國記載は、魏志の邪馬壹國記載の訂正根拠にならず、
×。
0861日本@名無史さん2018/12/07(金) 12:24:54.23
朝鮮半島の海岸の島ではなく、朝鮮半島にも、倭人の領地があったことが、発表されている文献は、どういう文献なのだろうか。。。
そして、日本書紀に発表されている任那日本府とは、何だったのだろうか、、、
0862日本@名無史さん2018/12/07(金) 12:28:29.31
>>844
あなたも九州説なんですね!
0863日本@名無史さん2018/12/07(金) 12:28:43.23
倭人は、なぜ、朝鮮半島で大規模に馬や人民を捕獲することができたのだろうか、、、
0864日本@名無史さん2018/12/07(金) 12:29:29.30
うめ
0865日本@名無史さん2018/12/07(金) 12:29:48.01
うめ
0866日本@名無史さん2018/12/07(金) 12:36:03.55
倭人が朝鮮半島で大規模に人民や馬を捕獲した後、なぜ、沼地だった纏向に大規模な墓地が作製されたのだろうか。。。
0867日本@名無史さん2018/12/07(金) 12:38:30.15
>>859
約400m
0868日本@名無史さん2018/12/07(金) 12:58:45.87
>>860
>後代の後漢書、隋書、北史、通史、太平御覧の史家の「自己解釈に拠る内容説明的な高慢な書き換え」は、

誹謗中傷しても史料価値は貶められない
0869日本@名無史さん2018/12/07(金) 13:06:09.26
>>796
>「水行」は、当然「陸行」との対比的な使用文言であり、

だから、沿岸航行なんだよ
それ以外の例はない
0870日本@名無史さん2018/12/07(金) 13:08:32.33
>>802
>じゃあ「計其道里當在會稽東治之東」なんて記載したら台無しじゃん?
>「會稽東治」はちゃんと具体的に伝わる距離なんだから。

帯方郡から會稽東治まで、南北方向で何里になる?
倭国は東南方向だから、「ずっと遠く世界の果てまで」にあたる萬二千里でいいんだよ
0871日本@名無史さん2018/12/07(金) 13:12:10.99
つまり、邪馬台国畿内説は破綻し、観光関連と韓国政府の宣伝は、失敗したのだね、、、
0872日本@名無史さん2018/12/07(金) 13:12:52.62
うめ
0873日本@名無史さん2018/12/07(金) 13:13:18.73
>>816
>方二万四千里の思想に合わせるため、淮南子も短里を使っていたということか。

おいおい、計算もできないのか?
東西方向は、中央之極、東方之極、西方之極がそれぞれ萬二千里で、合計三万六千里
南北方向も同じで、三万六千里

淮南子は、誰も言ったことのない世界の果てまでを「観念的に」描いた世界観なんだから
実測値とは関係ない

つまり、「短里で実測した」という九州説の主張とは、「根本的に無縁」のもの
0874日本@名無史さん2018/12/07(金) 13:13:24.04
うめ
0875日本@名無史さん2018/12/07(金) 13:14:38.40
また九州説のイヤガラセ狂人が活動してるな
0876日本@名無史さん2018/12/07(金) 13:15:43.41
>>831
>チンパンジーと会話しようとしてる奴がいたらそいつの方が異常者だから

いや、チンパンジーやゴリラは、手話を教えるときちんと会話ができるんだよ
彼らはある程度の抽象概念も理解していることが確認されてる

九州説のザラコク、連続句読点、キウスは、会話が成立しないから、
チンパンジー、ゴリラ以下
0877日本@名無史さん2018/12/07(金) 13:16:40.69
畿内にあったという邪馬台国は、破綻した畿内説の宣伝係を雇用した者達の観念の国だった可能性が、高いな。。。
0878日本@名無史さん2018/12/07(金) 13:18:00.88
破綻した畿内説を宣伝する3寸男が、意見を発表したのではないのかな、、、

876日本@名無史さん2018/12/07(金) 13:15:43.41
>>831
>チンパンジーと会話しようとしてる奴がいたらそいつの方が異常者だから

いや、チンパンジーやゴリラは、手話を教えるときちんと会話ができるんだよ
彼らはある程度の抽象概念も理解していることが確認されてる

九州説のザラコク、連続句読点、キウスは、会話が成立しないから、
チンパンジー、ゴリラ以下
0879日本@名無史さん2018/12/07(金) 13:20:51.13
>>878
破綻した畿内説を宣伝する3寸男は、角度のことで中学生にも負けたので、間違った意見の発表を繰り返していることが判明しているのではないのかな、、、
0880日本@名無史さん2018/12/07(金) 13:20:59.87
>>873
しかし朝鮮半島と対馬海峡などの大きさはきちんと比例関係が取れている。
その縮尺は一里が100メートル以下であったことを示している。
0881日本@名無史さん2018/12/07(金) 13:21:54.20
うめ
0882日本@名無史さん2018/12/07(金) 13:23:34.18
比例関係という重要な関係は、どのような関係性だろうか、、、
0883日本@名無史さん2018/12/07(金) 13:24:54.98
>>870
アンタもチンパン君かぁ...
0884日本@名無史さん2018/12/07(金) 13:25:05.25
キナイコシは自分に都合が悪いデータを無視したいだけなんだよね?
0885日本@名無史さん2018/12/07(金) 13:27:33.48
>>645
>卑弥呼が魏に使いを送ったのは景初3年と <

同時代の客観性と信頼性の非常に高い魏志では、景初二年であり、
詔書を出したのは、景初二年12月。

>梁書、日本書紀、翰苑、太平御覧に書いている<

写本ではなく、はるか後代の史家の
「後代での高慢な自己解釈による前史の内容説明的な書き換え」は、
客観性も信頼性も非常に劣り、証拠にならない。

>またそれ以降の記年鏡が畿内から出るのは畿内と魏が継続して交流していた証<

景初三年以後の紀年鏡は、明帝の下賜の銅鏡百枚には始めからならず、
また畿内なんて存在もしない嘘つき騙し文言であり、
大和からは、3世紀には△は出ないから、「魏との直接的交流があった」事の証拠にならない。

>大いに塚を作るとはどういう状況?冢は大きな墓 前方後円墳の大きさは当時国内でも随一<

大きな前方後円墳を否定する状況。冢は大きな前方後円墳ではない。

>魏の1里は律歴志と当時のモノサシの史料事実から換算し1里約430mと判明している<

その「魏の律歴志」は、魏朝のものではなく、
後代の学者の「高慢な自己解釈」文言であり、根拠にならない代物。
0886日本@名無史さん2018/12/07(金) 13:29:51.12
帯方郡とは、どこに在ったのだろうか。。。
0887日本@名無史さん2018/12/07(金) 13:33:52.47
>>647
>2倍くらいの誤差か<

いや、普通の折れ線的道のり距離の誤差は、2割前後まで。

>自郡至女王國 二萬四千餘里w<

この男も、おそらく、
「南→東」などの史料事実の否定曲解をする嘘吐き騙しの大和説者仲間。
0888日本@名無史さん2018/12/07(金) 13:42:31.96
>>650
>そもそもが魏志倭人伝が魏ではなく西晋時代の成立であり
同時代記録じゃない物は不正確というそっちの理屈によれば
魏志倭人伝の距離は不正確であり
短里は存在する確率が低いという事になるマヌケぶり<

いや、陳寿や魏略が見たのは、3世紀前半の魏使らの魏朝の記録。

>存在する可能性の低い距離記録で 存在する確率の低い距離記録を証明するのは
やっぱり循環論法という事になる<

史料事実を出発点での根拠にして、
それからの帰納的確率的な推論は、循環論法にならない。
この男のように「存在する可能性が低い」という事自体が、
「結論先にありき」になっており、循環論法になる。
0889日本@名無史さん2018/12/07(金) 13:45:04.96
>>882
メートルではっきりわかっている距離を、魏志倭人伝の中の里で発表された距離で割れば、一里が何メートルか、判明するのではないのかな。。。。
0891日本@名無史さん2018/12/07(金) 13:46:56.67
>>889
では、魏志倭人伝の中の里で発表された距離で、メートルではっきりわかっている距離はあるのだろうか。。。
0892日本@名無史さん2018/12/07(金) 13:48:39.75
>>891
どうだろうか。。。
出発先や、行き先がはっきりしていても、道が曲がりくねっていれば、比べられないのではないのかな。。。
0893日本@名無史さん2018/12/07(金) 13:50:37.61
結局九州説の主張する「短里の例」は
・観念上のもの     
・誇張して盛った距離 
・遠くでよく分からない距離 
しかなくて、実際の地理を実測して得られた例が「一例もない」

これらが「現実の地理に合わないから短里だ」と主張するのは、
論理の方向が最初からおかしい
0894日本@名無史さん2018/12/07(金) 13:51:06.99
>>665の訂正
都合よく、
「南→東」などの嘘つき騙しをし、
淮南子の短里記載の隠蔽し、
水行や陸行の曲解捏造をし、
「冢=前方後円墳」の嘘つき騙しをし、
何でもインチキ有りの、バカ大和説だった。
0895日本@名無史さん2018/12/07(金) 13:52:16.64
>>892
だが、僕達の計算では、慎重に物差しを当てて、同じ経度上で北緯35度の地点と、北緯34.31度の地点との距離の縮尺を計算できたな。。。
そして、76834メートルということが、判明したね。。。
0896日本@名無史さん2018/12/07(金) 13:53:57.06
同じ経度上で北緯35度の地点と、北緯34.31度の地点では、夏至の正午の8尺棒の影の長さが、1寸違うのだったな。。。
0897日本@名無史さん2018/12/07(金) 13:56:17.18
同じ経度上で夏至の正午の8尺棒の影の長さが、1寸違う北緯35度の地点と、北緯34.31度の地点との距離が76834メートルという、一里の長さだったのだな。。。
0899日本@名無史さん2018/12/07(金) 13:58:52.81
>>897
76834メートルは、一里の長さではなく、千里の長さだね。。。
0900日本@名無史さん2018/12/07(金) 13:59:04.99
>>671
>「其地大較在會稽東冶之東」後漢書<

後代の後漢書の、
「同時代の陳寿の判断記録の東治」」に対する、
自己解釈に拠る内容説明的な書き換えの「東冶」は、
根拠にならない。
0901日本@名無史さん2018/12/07(金) 13:59:33.17
900
0902日本@名無史さん2018/12/07(金) 13:59:45.72
自演連句点
0903日本@名無史さん2018/12/07(金) 14:02:02.82
>>900
あんたもオカシな日本語使いすぎ
0904日本@名無史さん2018/12/07(金) 14:02:53.94
コジェ島と対馬と壱岐との間は、それぞれ76834メートルの航海で良いのではないのかな。。。
0905日本@名無史さん2018/12/07(金) 14:05:37.63
帯方郡とマツラ国は、どこにあったのだろうか、、、
0907日本@名無史さん2018/12/07(金) 14:10:01.47
>>904
そうだな、直線で船を進めることは難しかったので、航海の道は曲がってしまっただろうね。。。
0908日本@名無史さん2018/12/07(金) 14:12:08.41
>>673
>しかし九州説もなぜあくまで九州北部にこだわるのか
魏志倭人伝ではそこは伊都国奴国であり<

そこは、不彌國のすぐ南の「邪馬壹國女王之初都」だ。

>端のほうの不弥国の<

不彌國は、(奴國が側副傍線國説明になるから)伊都国の東百里のところ。

>次は南に水行と出てくる<

投馬國は、(奴國と同じく)「至」の前に移動した文言がないから、
側副傍線國説明であり、魏使らは移動していない。

>邪馬台国は伊都国に一大卒を置いて<

邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙し文言。

>それら北部の国々を監視させたとあるし
里数を合計したって不弥国までで1万7百里で次に南に水行とあるし<

對海國や一大國の「大きさの里数記載」が書かれていて、国内見聞移動があった記載があるから、
その分を「折れ線的道のり距離」計算に加えなければならないし・・・。

>考古資料に関しては畿内が圧倒 <

畿内なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
文献考古共に、九州が大和を圧倒。
0909日本@名無史さん2018/12/07(金) 14:12:50.06
>>904
なるほど、、、
魏志倭人伝の里の長さは、曲がってしまうことを考えて、直線距離より短く計算しなければいけないのだな。。。
0910日本@名無史さん2018/12/07(金) 14:16:33.69
魏志倭人伝は、対馬海峡の距離を正確に知っているらしい。。。

どうやって距離を測ったのだろうか。。。
0911日本@名無史さん2018/12/07(金) 14:17:25.83
マツラ国は、長崎県松浦市だった可能性があるのではないのかな。。。
0912日本@名無史さん2018/12/07(金) 14:19:58.12
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
0914日本@名無史さん2018/12/07(金) 14:20:57.47
>>673
>およそ邪馬台国があったとするには魏志倭人伝だけでなく
後漢書や准南子の全ての内容に矛盾を生じる<

魏使らも実地の自己見聞記録に拠る魏志の客観性や信頼性の高さに比べて、
別の時代の、実地の見聞計測を伴わない淮南子や後漢書の内容は、
信頼性が半減するもの。

>地球上で最も邪馬台国とするに不適切な場所なんではなかろうか<

邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
この大和説男らは、地球上で一番学問や科学に向いていない、
・・・・詐欺師の戦争宗教家なんではないだろうか。
0915日本@名無史さん2018/12/07(金) 14:30:09.40
千里の長さの丈夫な糸を船で引っ張れば、測れるのではないのかな。。。

910日本@名無史さん2018/12/07(金) 14:16:33.69
魏志倭人伝は、対馬海峡の距離を正確に知っているらしい。。。

どうやって距離を測ったのだろうか。。。
0916日本@名無史さん2018/12/07(金) 14:33:08.31
>>915
なるほど、、、
魏志倭人伝の里の長さは、糸が海の中で曲がってしまうことを考えて、直線距離より長く測ってしまったかもしれないのだな。。。
0917日本@名無史さん2018/12/07(金) 14:34:26.34
道の長さも、糸で測った可能性が高いな。。。
0918日本@名無史さん2018/12/07(金) 14:38:06.65
>>915
千里を超えてたらどうするのだろう。。。
そもそもそんな長さの糸をどうやって作って持ち運ぶんだろう。。。
0919日本@名無史さん2018/12/07(金) 14:38:15.19
魏志倭人伝には、千里の巻き尺があった可能性が高まってきたな。。。
0920日本@名無史さん2018/12/07(金) 14:41:06.37
>>919
現代でも巻き尺はせいぜい50mで、100mは特殊な方で使いにくいのに
それを千里とかwww
しかも雨や海水を含んだらとても重くなる糸とかwww
0921日本@名無史さん2018/12/07(金) 14:45:35.98
魏志倭人伝時代に、なぜ、航海の距離を測るための千里の巻き尺を、作製したのだろうか。。。
0922日本@名無史さん2018/12/07(金) 14:47:58.52
>>921
昼の間に、安全に航海できる距離が千里だったので、航海の道を作製するために、必要だったのではないのかな。。。
0923日本@名無史さん2018/12/07(金) 14:50:42.55
>>922
一日で移動できる距離は、海流に乗れば距離は長くなるし、逆らうと短くなる
季節風や風向きでも同様なので
千里である必要がない。。。
0924日本@名無史さん2018/12/07(金) 14:53:43.85
ゴミ投稿すな
0926日本@名無史さん2018/12/07(金) 14:55:59.36
>>921
帯方郡の使者が、対馬海峡の長さを調査するために、作製したのではないのかな。。。
0927日本@名無史さん2018/12/07(金) 14:57:11.08
>>926
そもそも長さを知る必要があるのだろうか
一日で行けるのか、二日かかるのか
概略がわかればいいのではなかろうか。。。
0928日本@名無史さん2018/12/07(金) 14:57:55.01
帯方郡の使者が、千里の巻き尺を作製して、対馬海峡の長さを調査したのは、何故なのだろうか。。。
0929日本@名無史さん2018/12/07(金) 15:02:14.17
帯方郡とは、どこに在ったのだろうか。。。
0931日本@名無史さん2018/12/07(金) 15:13:42.54
蔚山倭城と帯方郡の関係性は、有るのだろうか。。。
0932日本@名無史さん2018/12/07(金) 15:17:38.30
魏志倭人伝時代に、なぜ、航海の距離を測るための千里の巻き尺を、作製したのだろうか。。。
0933日本@名無史さん2018/12/07(金) 15:20:06.95
朝鮮半島の海岸の島ではなく、朝鮮半島にも、倭人の領地があったことが、発表されている文献は、どういう文献なのだろうか。。。
そして、日本書紀に発表されている任那日本府とは、何だったのだろうか、、、
0934日本@名無史さん2018/12/07(金) 15:22:09.52
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
0935日本@名無史さん2018/12/07(金) 15:24:59.13
僕たちは、今、文献を探しているのだったな。。。
0936日本@名無史さん2018/12/07(金) 15:42:12.88
>>849
宣言。
筑後山門では、3年暦二十四節気が用いられていた。
卑弥呼の宮室は、山門にあった。
歴史の真実だ。
わははははは。
0937日本@名無史さん2018/12/07(金) 15:53:28.62
>>844
その経験のまとめ方が間違っており、それが頭悪い証拠。
0938日本@名無史さん2018/12/07(金) 16:07:48.92
>>710
大正解!
0939日本@名無史さん2018/12/07(金) 16:14:04.31
>>677
>記紀の記述よりも、実際の物理的な存在としての考古遺物の方が、根拠として強い<

客観性や信頼性の高い歴代中国史書群の証言は、否定し難く、
「正北抵新羅」などに拠る北部九州倭国や、それの「東征毛人五十五國」などがあった、
という事に違反する 考古解釈や判断は、成立し難い。

http://livedoor.blogimg.jp/bungchanblog-kodaishi/imgs/4/d/4d3e1010-s.jpg
この範囲は、一定の協調関係にある <

その協調性の原点は、やはり九州倭国の存在とそれの「東征毛人五十五國」であり、
この地図での、筑紫と大和の庄内の年代説明や、前方後円墳などの年代説明などには、
歴代中国史書群の証言に合わないから、おそらくインチキ。

>この先は推測にしかならないが、初期の王権は祭祀王としてのもの
それが支配ー被支配の通常の権力関係になる過程が、記紀の征服譚だと考えれば、
特に矛盾はない<

「東征毛人五十五國」に合わないような推測は、×。
0940日本@名無史さん2018/12/07(金) 16:15:57.21
>>673
倭人伝が、沖縄あたりに邪馬台国があると書いたその理由を解読できない者が、必然的に至る結論がそれ。
ということは、>>673は、倭人伝の解読に失敗しているということになる。
0941日本@名無史さん2018/12/07(金) 16:21:15.58
>>681
>これも誤読なんだな 後漢に朝貢した倭奴国は、北部九州の福岡平野の奴国でよい
後漢書で極南界とされる奴国は、余傍国の最後の奴国
この二つを混同してしまっているから、おかしな話になっているだけ<

それ以前に、後漢書は、
「同時期の実地の実見計測記録」に拠らず、
前史の「高慢な自己解釈に拠る内容説明的な書き換え」を実行している、半分×書であるから、
絶対的な根拠にはなり難い、という代物。
0942日本@名無史さん2018/12/07(金) 16:24:35.67
>>686
ついに「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者が、
長里接までもが破綻して、悪あがきしてるんじゃない?。
0943日本@名無史さん2018/12/07(金) 16:30:02.30
>>688
>だから魏の時代も1歩=6尺だって 魏の律歴志にそう書いてある<

だから、魏朝の時代には1歩≒1尺だったんだって。
「魏の律歴志」は、魏朝よりもはるかに後代の長里時代の学者の文書であるから、
魏朝の度量衡の根拠にはならず、
魏志などで使われた度量衡の方が、正しい確率が高い、
という事になるんだって。
0944日本@名無史さん2018/12/07(金) 16:41:25.43
>>690
>魏志倭人伝も西晋時代のもので <

陳寿は、若い頃は卑弥呼のいた魏代であったし、
その後も、西晋朝の史官として、魏朝や魏使らや郡の記録を、
実見確認する地位にあったんだし。

>さらに言うなら現在見るのは原本が失われてから復刻された
12世紀のものぞ<

さらに言うなら、写本版本全体における誤字や差異の発生確率は0.5%以下であるし、
後代史書の自己解釈による「魏志写本の内容説明記載での差異発生確率」は、
殆ど100%であるし、
しかも、それらは版本時代までの写本版本で、
同じように0.5%位の差異発生をしている確率が高いものだから。
0945日本@名無史さん2018/12/07(金) 16:48:12.79
>>693
>魏志倭人伝を書いた人が当時最高の数学者ではあったが
最高に地図の読めない方向音痴だった可能性<

現在大和説学者らや、文部省学会教育界や右翼マスコミは、
現在日本の「戦前の万世一系八紘一宇の皇国史観」の殺し合い戦争狂であって、
「南→東」などの嘘つき騙し人種であって、
最高に「史料事実の否定曲解」の嘘つき騙しの犯罪者であった可能性について。
0946日本@名無史さん2018/12/07(金) 17:05:46.96
>>697
>侏儒國も裸國も黒歯國も准南子に出てくるらしいぞ <

侏儒國は、南洋にはいた、と匂わせてあるかも知れないが、
東方には、いる、とは書かれていない筈。

>魏志倭人伝は淮南子を下敷きにしたのは明らか <

魏志は、淮南子を(踏襲せず)否定修正した事は明らか。

>そして帯方より南1万2千里は淮南子における概念上の地の果て<

いや、淮南子も、
「燕の南にいた倭が半島の南方に移った」という情報を得ていた可能性があり、
その場合の萬里は、短里の推定里数として書かれていた可能性がある。

>九州説の言うように1万2千里は短里で正確に測られたものとするなら
淮南子の記述と一致する事の説明がつかず破綻<

この大和説男の言うように、1万2千里は長里で正確に測られたものとするなら、
淮南子の記述が「短里」であった事の説明がつかず、破綻。
0947日本@名無史さん2018/12/07(金) 17:17:38.35
>>700
>淮南子は短里でこの世の果てまでを正確に測った記録なの?<

まだ、全情報を読んだ事もないが、
また、山海経には短里と長里が混在している、という谷本分析を読んだ事はあるし、
漢書などの西域への里記載には、短里とは思えない長里のような記載があったような記憶もあるし、
しかし、淮南子は亜形の一寸千里を書いているから短里があったし、
東方への「萬里」は明らかに短里であるから、
淮南子は、短里と長里の「混在」なんだろうなあ。
0948日本@名無史さん2018/12/07(金) 17:31:11.05
>>755さん
頭が俺悪いから理解できない 下記詳細に計算式を示してくれないか
>1里約430m
不彌国までが1万7百里は倭地まで1万里に割り当てた数値
残り1300里は普通の里で約500kmに換算 <
0949日本@名無史さん2018/12/07(金) 17:34:33.46
>>755さん
頭が俺悪いから理解できない 下記詳細に計算式を示してくれないか
>1里約430m
不彌国までが1万7百里は倭地まで1万里に割り当てた数値
残り1300里は普通の里で約500kmに換算 <
0950日本@名無史さん2018/12/07(金) 17:34:35.53
>>701
>後漢書に書かれている後漢時代には大倭王が居る邪馬臺國<

後漢時代には「大倭王」なんて存在せず、
後漢書は、5世紀の倭の五王らの東征毛人五十五國や渡平海北九十五國の実態を知って、
「大倭王」という呼称を与えたもの。
また、邪馬臺國も、その大倭王らが、
久留米付近の「臺」の地の「邪馬臺」の言う地の居した事で、呼ばれた小地域国名。

>は遣使をしていない  概念的な萬二千里は倭人伝を踏襲しているが
後漢書が書かれた5世紀前半は、直前の4世紀後半から沖ノ島祭祀が始まり<

いや、沖ノ島には縄文弥生の遺物が残っており、
「4世紀後半から沖ノ島祭祀が始まった」のではなく、
天照らの天孫族の阿毎氏らの、古くからの祭祀の島であり、
古田さんは、天の岩屋に比定しておられた。

>金海貿易に移行しているので、ルートは宗像経由の時代 後漢書のすぐ後に書かれた宋書は
「倭國在高驪東南大海中世修貢職」<

金海貿易も、対馬や壱岐を外して沖ノ島だけを経由、なんて事が起きる筈もなく、
あくまで、九州倭国の筑紫が主体であって、
伊都国と同じ阿毎氏の大和は、伊都国や倭国を介しての交易。
0951日本@名無史さん2018/12/07(金) 17:37:30.84
>>703
大和説はもう発狂するしか道は残されてねーな。
淮南子も短里だから魏だけじゃなく漢も短里だったんだ!。
あるいは、長距離を測るときは地面に棒立てて一寸千里法で測る天文里 、
すなわち短里を使ったんだ!。
0952日本@名無史さん2018/12/07(金) 17:40:36.58
>>705
>會稽東冶之東が概念上の地の果て<

會稽東冶之東は、後漢書の范曄の、
「自己解釈に拠る魏志の内容説明的な書き換え」
という、脳内で造った妄想。
0953日本@名無史さん2018/12/07(金) 17:44:50.70
>>708
>何て言われようとも 淮南子の概念地の果て1万2千里と
魏志倭人伝の女王国まで1万2千里が一致している以上
1万2千里は正確な数値じゃなくて概念上の数字である事には変わらない<

何て言われようとも、
淮南子の概念地の果て1万2千里と
魏志倭人伝の侏儒國まで1万6千里が一致していない以上、
陳寿は、淮南子を否定して訂正している、という事である事には変わらない。
0954日本@名無史さん2018/12/07(金) 17:46:33.33
>>709
>だから、だとしたら「計其道里當在會稽東治之東」の「計其道里」というフレーズは絶対に出てこない。
「會稽東治」はイメージできる距離にあると認識されていたはずだから、そこから推測できるべき距離を示している。
「何て言われようとも」なんて幼稚な言い方で説得力があるわけないだろwww <

成程。
0955日本@名無史さん2018/12/07(金) 17:48:59.62
>>952
結局そうやって都合の悪い史料を恣意的に抹殺していかないと、九州説は主張できないわけだ
0956日本@名無史さん2018/12/07(金) 17:51:14.11
狗邪韓國の比定地は畿内説では何処?
「從郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里」
郡から狗邪韓國まで7000里まで 長里(1里430メートル)だと約3000キロなのだが
海岸沿いでも、1,000キロもいかない
また倭人伝の記述では郡から狗邪韓國まで海岸沿いだから、
海岸沿いでも、1,000キロもいかない

>>790は不正解となる
>・海の距離は測れない ・遠くの国は遠めに書く ・伝聞で不正確
の合わせ技だろ
0957日本@名無史さん2018/12/07(金) 17:53:28.10
>>949
しゃーねえな
悪いが細かく書くのは面倒だから端折るが

魏志倭人伝の行程で
里数の書いてある帯方〜不彌国までの里数を合計すると1万7百里
ここまでは倭国まで1万里という漢の伝承に沿って国々の間に
そうなるように距離を当てはめていった記述

そして帯方より女王国、邪馬台国までは1万2千里だから残り1300里
不彌国より残りの1300里を陳寿は1里75mの短里ではなく
1里430mの感覚で書いている
なぜなら魏で使われた尺度が記載されてある律歴志には
短里じゃなく普通の里しか載ってないから

1魏里430mだから1300里は約500km
不彌国から南へ水行するんだから九州南部に到達
東へ行くとするなら畿内に淘汰もする距離
0958日本@名無史さん2018/12/07(金) 17:53:57.91
>>951
と、ま、こんな具合に
九州説はあらゆる分野の既存の学問にケンカを売らないと立ち行かなくなった
悲惨な袋小路だね
0959日本@名無史さん2018/12/07(金) 17:54:43.24
>>711
>里数+日数からすると會稽東冶くらいまで南に進んでるだろうということだな
孫権が探索失敗してるからどのくらい東に遠いかはわからない <

これも×。
「女王國萬二千余里」は魏略にも載っているから、魏使らの記録であり、
陳寿の「計其道里、當在會稽東治之東」も、「里」数だけからの位置推定記載。
「日数」は、関係のない計算。
0960日本@名無史さん2018/12/07(金) 17:57:13.97
>>953
魏志倭人伝の邪馬台国までの1万2千里に
呉が国交を持っていた大月氏までの1万6千里に対抗して
4千里足したんだよ
両方ピタリと数字が合う
0961日本@名無史さん2018/12/07(金) 17:58:51.21
>>946
畿内説は誰も1万2千里を
短里だろうが長里だろうが正確に測ったなんて主張してないねえ
0962日本@名無史さん2018/12/07(金) 18:03:25.26
九州説のじいさん達は畿内説側の話を何も聞かず
自分の脳内にある仮想キナイセツ相手に
反論ゴッコしてるだけ
だからな
0963日本@名無史さん2018/12/07(金) 18:04:11.88
>>944
なら律歴志も晋時代の記録であるから
扱いは魏志倭人伝と同列という事にならなければおかしいではないか
0964日本@名無史さん2018/12/07(金) 18:05:37.00
>>943
残念ながら魏志倭人伝そのものに魏で使われた度量衡は記されてないね
0965日本@名無史さん2018/12/07(金) 18:07:35.66
>>955
別に都合悪くないよ
7世紀でも日本は中国からみて日本は東だよ
「日出処(日本=東)の天子書を没する処(隋=西)の天子に致す」
0966日本@名無史さん2018/12/07(金) 18:09:42.25
>>908
奴国が副側なんちゃらとはどういう事だ?
邪馬台国に向かう途中にあるのに行かなかったという事か?
奴国を通らずにどうやってその先の不彌国に行くんだ?
0967日本@名無史さん2018/12/07(金) 18:11:34.30
>>965
だよな
南が東なら東は北かな
ヤマトでは太陽は北から昇るかもなww
0968日本@名無史さん2018/12/07(金) 18:12:43.16
>>885
卑弥呼が魏に使いを送ったのは
景初二年と書いているのは12世紀に復刻した魏志倭人伝のみ
それ以前の魏志倭人伝を引用した梁書、日本書紀、翰苑、太平御覧には
景初三年
0969日本@名無史さん2018/12/07(金) 18:15:20.95
>>713
>後漢書を持ち出すなら日本史の謎の4世紀を説かなければいけない
記紀だよりなら、東遷となってしまわないかな<

「日本史の謎の4世紀」なんて事が、そもそも存在しない。
九州倭国は、梁書の、
「復立卑彌呼宗女臺與爲王、其後復立男王、並受中國爵命。晋安帝時、有倭王賛・・・」
というように、中国への遣使を続けており、
唐会要などの、「古倭奴國也。在新羅東南、居大海之中。世與中國通」に拠っても、
倭奴國の頃から中国と「絶え間なく通じていた」事が記録され、
半島とも、七支刀や好太王碑や、
「渡平海北九十五國」などの関係があった事が記録されている。

「謎の4世紀」なんて、
九州倭国の別種の旧小国の大和にとっては、海外との国交がなかった、
という事の証拠。
0970日本@名無史さん2018/12/07(金) 18:15:51.83
>>855
度量衡の基準と6倍も違った距離が書いてあるなら
どっちが間違ってるかは一目瞭然
0971日本@名無史さん2018/12/07(金) 18:16:42.49
>>714
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は、
変なやつばっかだなあ。
0972日本@名無史さん2018/12/07(金) 18:19:05.64
>>852
不彌国まで1万7百里な
対馬国と一支国は方400里、300里とあるだけで
そちらのいう行や至の途中移動の文言がないので移動はしてない

そもそも渡海中に島があって1周400里あったとしても
それを行程には加えない
0973日本@名無史さん2018/12/07(金) 18:19:15.84
>>967
いつまでも
こういうレベルの低いこと言ってるから
九州説は亡んだ
0974日本@名無史さん2018/12/07(金) 18:20:17.83
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
0975日本@名無史さん2018/12/07(金) 18:23:06.72
>>808
だからどなたかが書いたは通用しないと言っただろ
台と臺は別の意味だったと主張するなら
三世紀の魏で台と臺が別の意味で使われている文を
出展付で書くしかない
出せなければ邪馬台国はあったし九州説ザラコク及び古田は嘘をついていた証拠証明
0976日本@名無史さん2018/12/07(金) 18:23:50.69
>>973
あんたが適任だ
畿内説の南⇒東の謎を解いてくれないか
各説「倭人在帶方東南大海之中」の方位については異論が無いと思うが
0977日本@名無史さん2018/12/07(金) 18:24:27.42
>>717
わざわざ畿内説スレに来てまでされて、ちょっかい出されるのだから、
ここの大和説の人はおかしい奴に決まってるのだぞ。
0978日本@名無史さん2018/12/07(金) 18:25:53.77
>>976
テンプレで解かれてるよ
0979日本@名無史さん2018/12/07(金) 18:27:09.86
>>977みたいな文章は
気の狂ってない人には
書くのは難しい
0980日本@名無史さん2018/12/07(金) 18:33:29.28
>>721]
>九州説の王宮はどの遺跡の建物? <

古くは、吉武高木があったし、
3世紀頃には、吉野ケ里や朝倉付近、での発掘があったが、
最近三雲付近でも、宮殿様の発掘があった話もあったし、
まだ完全な発掘はなされていないようだが、安徳台にも宮殿があった可能性がある。
0981畿内説への素朴な疑問2018/12/07(金) 18:35:29.73
魏の使者が邪馬台国に一回しか行っていないなら、
南⇒東の誤認の可能性は低いが少しは譲歩できるかも
しかし
一回しか行っていないのなら、卑弥呼の墓の径百歩は伝聞??
さて
畿内説では魏の使いは何回 邪馬台国に行ったのですか?
0982日本@名無史さん2018/12/07(金) 18:36:31.05
>>980
九州に三世紀の宮殿跡はナシ
0983日本@名無史さん2018/12/07(金) 18:42:19.59
>>948
畿内説はご都合主義だから諦めなよ ごり押しはするけどな
畿内説支持者の減に拍車をかけるスレだよここは
☟ 笑わしてもらうから>>755答えろよ
>>755さん
頭が俺悪いから理解できない 下記詳細に計算式を示してくれないか
>1里約430m
不彌国までが1万7百里は倭地まで1万里に割り当てた数値
残り1300里は普通の里で約500kmに換算 <
0984日本@名無史さん2018/12/07(金) 18:45:00.98
>>983
計算式って、何を計算する式のこと?
0986日本@名無史さん2018/12/07(金) 18:46:33.25
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
0987日本@名無史さん2018/12/07(金) 18:49:28.36
>>957
ありがとうございました。
從郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里
の7千里はどう理解すればいいですか?
0988日本@名無史さん2018/12/07(金) 18:51:44.49
>>726
>古田史学では、邪馬台国までの水行10日陸行1月の陸行は、 半島上の陸行だって言ってるからね
北部九州までで萬二千里を使い切ってるとかいうデタラメ読みを糊塗するために
陸行を半島に持っていくというウソにウソを重ねる状態になってる <

相変わらず、この男は嘘つき騙しばっかりだなあ。
古田説の陸行場所は、半島での「歴韓國乍南乍東」部分と、
對海國と一大國の国内見聞移動と、
末盧國の後の女王之所都まで。
0990日本@名無史さん2018/12/07(金) 18:52:45.58
>>978
テンプレは行程はアテにならないでしょ
これってご都合主義だよ 御都合主義なら邪馬台国はいたるところに存在してしまう
あなたに明快な解説を望んでるんだが・・まじで解答くれないか
0991日本@名無史さん2018/12/07(金) 18:54:57.95
>>985
何だ。やっぱりギャグかwww
0993日本@名無史さん2018/12/07(金) 18:57:26.16
>>982
>九州に三世紀の宮殿跡はナシ

九州に卑弥呼がいたのなら、
その宮殿は今では神社(式内・名神大社)になっているであろう。
がそれらしき神社もない。
0994日本@名無史さん2018/12/07(金) 18:57:46.75
>>992
笑うとこなのかマジなのか迷った。
マジで書いてたら異常者だから、ギャグでよかった。
0995日本@名無史さん2018/12/07(金) 18:58:51.33
>>988
>古田説

古田って野球の?
キャッチャーやね。
それが何か?
0996日本@名無史さん2018/12/07(金) 18:59:20.17
>>987
単純に、倭国本土上陸までを一萬里に「設定」していて、
その前に渡海千里(実測距離じゃなくて、1日の渡海距離を一律千里としている)が3回あるから
10000−3000で七千里にしてるだけ

さらに言えば、この七千里に合うように、韓地方四千里は逆算で出してる
0997日本@名無史さん2018/12/07(金) 19:01:06.94
1万2千里は淮南子の概念の漢国境よりの地の果て
またはそれに則した後漢の概念上にある倭の極南界奴国
魏志倭人伝はそれを踏襲し行程に里を当てはめて記述されている
1000日本@名無史さん2018/12/07(金) 19:04:46.40
>>993
住吉宮、高良宮、箱崎宮、香椎宮、高千穂宮、岡田宮、豊浦宮、香春宮、老松宮、、、

日本最古の宮である吉武高木の高床建物は紀元前まで遡る。
筑紫は弥生文化の担い手である倭国王権の成立の地だよ。
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