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>>唐会要倭国伝には(大和日本国と区別して)「正北抵新羅」と書いているから、<

>FAQ71より 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、
「正北抵新羅」が倭国の位置を九州に限定し得ないことは明らかである。<

ダメだ。唐会要も、
倭國伝と日本国伝とを、全く別の場所に記載して、別の国であった事を主張しているし、
列島からの遣使に関しても、
則天以前でも以後でも、きちんと、人物を区別して書き分けているから、
倭國使を名乗った遣使は倭国伝に、日本国使を名乗った遣使は日本国伝に、
はっきり違う国からの遣使として書き分けているとして事になる。

>大和日本国と区別して書いてある倭国は、藤原常嗣のいる大和倭国なんだよww <

ダメだ。薜原朝常嗣等は、「正北抵新羅」の九州の倭國の使者を名乗った事になる。

>唐代を記した史書(旧唐書、唐会要、新唐書)に、倭国伝と日本国伝が別立てで置かれているのは
唐代に(正確には武則天の武周の長安四年)、倭国が日本国への改号を申し出たからだよ <

ダメだ。則天の前にも後でも、倭國使節と日本國使節とを書き分けている。