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【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬五
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0001日本@名無史さん垢版2019/01/08(火) 23:31:29.28
九州に決まっとろうが
福岡県山門郡、筑紫、糸島、大宰府、鐘崎、鹿児島県川内、出水、阿久根、宮崎県日向、延岡、高千穂、熊本県熊本、阿蘇、八代、球磨郡、人吉、佐賀県唐津、伊万里、長崎県松浦、佐世保、雲仙、島原、天草、潜木、塩田周辺を今すぐ発掘せよ!

邪馬台国畿内説の根拠は
邪馬台=大和=奈良(完)と言う
風潮に論理的に反論するスレです
九州中南部説、九州南部説、魏志倭人伝から邪馬台国の位置を推測する議論等々も大歓迎です!

*荒らしはスルーで
過剰なコピペは厳禁
0564日本@名無史さん垢版2019/01/12(土) 13:53:03.48
水行陸行を足し算と改ざんして
さらに一月を1日の間違いだと言い張る奴等は
畿内説論者と変わらんやんけ
0565日本@名無史さん垢版2019/01/12(土) 13:54:27.16
>>563
当初は魏志倭人伝を含む三国志全部が木簡か竹簡に書かれていたんだからな
陸行一日とあったのを僅か陸行一日を記載するはずはないと誰かが勝手に判断して陸行一月としたんだろうな。
0566日本@名無史さん垢版2019/01/12(土) 14:00:05.26
>>565
素直に水行でも陸行でも行ける所と読めば
水行十日陸行一月で、何の矛盾も無いですよ
0567日本@名無史さん垢版2019/01/12(土) 14:03:24.50
倭人伝を普通に読めば
邪馬台国は北部九州からかなり遠い場所で領域も広い
熊本、佐賀、福岡と長崎の南部を合わせた程度はありそう
0568日本@名無史さん垢版2019/01/12(土) 14:06:32.93
キナイチュウ、イトチュウの 難癖言い掛かり大会開催チュウ!!
0569日本@名無史さん垢版2019/01/12(土) 14:07:33.07
あと人口は昨日も書いたけど
九州説の考古学者高島氏によれば
吉野ケ里の最盛期で環濠内1500人、周辺部合わせて4000人
佐賀平野全体で2〜3万人
これは遺跡の数からの推測で、かなり確かな数字
0570日本@名無史さん垢版2019/01/12(土) 14:10:33.86
ヨオッ、鬼平軍団!!
0571日本@名無史さん垢版2019/01/12(土) 14:21:34.70
吉野ヶ里は伊都国
0572日本@名無史さん垢版2019/01/12(土) 14:48:03.86
>>571
吉野ヶ里は伊都国ではない
吉野ヶ里は傍国のどれかの国です。

>>566
隋書の月も日の誤記だよ。
其南海行三月 有𨈭牟羅國
其國境東西五月行南北三月行各至於海
0573日本@名無史さん垢版2019/01/12(土) 14:49:25.40
>>572
お前の邪馬台国は改ざんだらけだなw
0574日本@名無史さん垢版2019/01/12(土) 14:57:54.29
>>573
魏志倭人伝を正しく読むと伊都国が卑弥呼の都なんですよ。
0575日本@名無史さん垢版2019/01/12(土) 14:58:39.07
晋書

「王名は卑弥呼。宣帝が平定した公孫氏なり」

これは何?
0577日本@名無史さん垢版2019/01/12(土) 15:02:02.99
>>574
どう読んでもそれは無いです
伊都国は女王国の領域ですが
官の名前も違うし卑弥呼の拠点とは別物です
0578日本@名無史さん垢版2019/01/12(土) 15:06:40.74
>>577
都庁に大臣がいるかい?

邪馬台国は中央政府だから、大臣名が列挙。

伊都国は首都の都庁だから、他の県庁などと似た職名。
0579日本@名無史さん垢版2019/01/12(土) 15:11:05.59
平安時代だって、山城国にも国司はいただろ?

女王卑弥呼がわざわざ伊都の道路整備や水路掃除なんか決裁してらんないだろ。
伊都国の官がやってたんだよ。それが書かれているだけ。

国会議事堂と都庁が両方東京にあるのと同じことだ。
0580日本@名無史さん垢版2019/01/12(土) 15:16:56.54
伊都地方官 禰宜
対馬海峡を含む刺史監察 大率
対魏外交担当 難升米
国家代表 倭王卑弥呼

全て伊都にいた。
なかなか整った体制だね。
0581日本@名無史さん垢版2019/01/12(土) 15:20:09.82
伊都地方官 禰宜
対馬海峡を含む広域監察 大宰率
対魏外交担当 難升米
国家代表 卑弥呼

の方がわかりやすい?
0582日本@名無史さん垢版2019/01/12(土) 15:21:30.94
卑弥呼はラスボスだから
人の出入りが激しい都庁のような場所にはいないな、倭国の玄関から遠く離れた僻地かつ人口七万人が住める広大なエリア

僻地かつ人口七万人が住める広大なエリアだ
0583日本@名無史さん垢版2019/01/12(土) 15:23:43.89
人口七万人が住んでいた広大なエリア 奴国弥生銀座を中心とする北部九州

僻地 伊都千戸(海と山に囲まれた要塞首都)
0584日本@名無史さん垢版2019/01/12(土) 15:27:48.76
>>583
いいね!
0585日本@名無史さん垢版2019/01/12(土) 15:36:51.83
ついに糸島組もへき地を自認するようになってくれたか
0586日本@名無史さん垢版2019/01/12(土) 15:49:21.17
「自女王國以北」の内訳

對海國 1,000戸
一大國 3,000家
末盧國 4,000戸
伊都國 1,000戸
不彌國 1,000家
----------------
  〆て10,000戸あまり

総称として 伊・壹・壱・一 の名號
これを仮に「伊那」とおいて論を進めるのが有効かもしれない

伊那の治所は伊都國であり

伊那の代表者は伊都國王を称する卑弥呼の異父兄である
伊都國王が女王家の血筋にあることが記されているところが
「皆統屬女王」

伊那の発生は倭國乱による結果であり

倭國乱は「長大」補正を施すと
およそAD210年からAD225年の出来事であるとみられる
0587日本@名無史さん垢版2019/01/12(土) 15:53:48.82
>>582
島原半島
0588日本@名無史さん垢版2019/01/12(土) 16:57:24.57
「道里」とはみちのりを里を単位として表現したものである
里を単位として記されたものの内の一部を除外するためには
それ相当の妥当な理由が必要である

道里記事 主文の骨格部
--------------------------------
倭人在帶方東南大海之中依山島爲國邑
舊百餘國 漢時有朝見者今使譯所通三十國
--------------------------------
循海岸水行歴韓國乍南乍東 到其北岸狗邪韓國七千餘里
始度一海千餘里至對海國 方可四百餘里
又南渡一海千餘里至一大國 方可三百里
又渡一海千餘里至末盧國
東南陸行五百里到伊都國
東南至奴國百里
東行至不彌國百里
南至女王之所都
--------------------------------
自女王國以北其戸數道里可得略載
自郡至女王國萬二千餘里
--------------------------------

  7,000里
  1,000里 +400里 +400里
  1,000里 +300里 +300里
  1,000里
   500里
   100里
--------------------
〆て12,000里
0589日本@名無史さん垢版2019/01/12(土) 17:17:31.43
追記されたおまけの道里記事
--------------------------------
女王國東渡海千餘里 復有國 皆倭種
又有侏儒國在其南 人長三四尺 去女王四千餘里
又有裸國 黒齒國復在其東南 船行一年可至
參問倭地 絶在海中洲島之上或絶或連 周旋可五千餘里
--------------------------------


追記された道里記事の骨格部
--------------------------------
女王國東渡海千餘里 復有國
又有侏儒國在其南 去女王四千餘里
--------------------------------
參問倭地 絶在海中洲島之上或絶或連 周旋可五千餘里
--------------------------------

「去女王四千餘里」の「去女王」を「去女王(國)」として読み替えるむきがあるが
これは誤であって「去女王(境界)」の省略形が「去女王」と理解すべきである
陳壽に替わってより適切な表現を探ると
「去女王」は「去女王界」に差し替えてあげるのが妥当

1,000里 +4,000里 = 5,000里

ここでは女王國発 5,000里の追加の小旅行
0590日本@名無史さん垢版2019/01/12(土) 17:24:15.88
末廬国(糸島泉川河口)から水行10日、もしくは陸行一月で行ける所

末廬国から500里→伊都国(吉野ヶ里
末廬国から100里→奴国(三雲

末廬国から南へ2000里→熊本平野、島原、雲仙
侏儒国(種子島)から北へ4000里→熊本平野

邪馬台国の所在地

熊本平野
0591日本@名無史さん垢版2019/01/12(土) 17:26:30.72
>>588
それ相当の妥当な理由 も糞も方可三百や四百里は行程じゃない。
文法の話で言うと

始度一海千餘里 至對海國 其大官日卑狗 副日卑奴母離 所居絶㠀 方可 四百餘里

動詞+里程+至地名 が行程文 
其大官日卑狗 副日卑奴母離 所居絶㠀 方可 四百餘里 は土地の説明

本論
東南 至奴国 百里 は、至地名の後に里程、で動詞が無いから行ってない。
東行 至不彌國 百里 は 至地名の後に里程、行程中の文として直列しない町紹介。

なのに、末蘆でも奴国でも、行程文には繋がらない
南至 投馬國 水行二十日 至地名の後に動詞で里程 の起点が 末蘆国だと、
頓珍漢な読解力で、小学生も騙せないのが、>>3 なんだろ?

これ以下だって、判ってるか? 幼稚園?
文法スレだぞ、間違ってるけどwww
0592日本@名無史さん垢版2019/01/12(土) 17:32:50.43
むだに「行程」という技術用語を持ち出す必要はない

陳壽本人が「可得略載」と宣言している「道里」に集中して思考すべし
0593日本@名無史さん垢版2019/01/12(土) 17:34:03.95
現実に里が測られてるんだから行ってるだろ。恣意的に除外するなよ。
そもそも「合計12000里です」で行程記事を〆てるのに、
10700里で里の部分が終わってたら説明としておかしいだろうが。
0594日本@名無史さん垢版2019/01/12(土) 17:35:17.00
>>590
悪くないぞ
0595日本@名無史さん垢版2019/01/12(土) 17:39:17.51
ヒント:余
0596日本@名無史さん垢版2019/01/12(土) 17:40:24.24
ヒント:最小単位が100里
0597日本@名無史さん垢版2019/01/12(土) 17:51:02.95
>>593
247年張政の倭人船便乗の行程は
『到』伊都國 までの1万5百里 で終ってる。
東南 至奴国 百里 と 東行 至不彌國 百里 は女王国に向かっていない。

240年梯儁の行軍は 起点が、帯方郡に戻って、
南至 投馬國 水行二十日 南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
が、「合計12000里です」

投馬國 邪馬壹國 は、行程中の里程で示される寄港寄宿地名 では無く、
『到』伊都國までの1万5百里行程中の、歴韓国と 同様の概念での、隣接する国名。
この国に含まれる、都市間里程の行程と、直列で繋がるわけが無い。
0598日本@名無史さん垢版2019/01/12(土) 18:08:20.30
「道里」とはみちのりを里を単位として表現したものである
と陳壽に替わって彼の用語説明をしてあげた場合
同類表現の
みちのりを「日」を単位として表現したものは 「道日」というべきである

陳壽本人が「可得略載」と宣言しているところのものは「道里」であって
「道日」 ではない

みちのりを「日」を単位として表現した 「道日」記事はふろくのおまけにすぎない
0599日本@名無史さん垢版2019/01/12(土) 18:13:55.52
>>597
伊都が首都だが、女王国の中心が伊都であるとは限らないんだから、
別に12000里が奴国でも構わない。
ニューヨークやシドニーみたいなもの。
0600日本@名無史さん垢版2019/01/12(土) 18:19:09.70
>>598
陳壽本人が「可得略載」と宣言しているところは
その、「道日」中に在る。

南至 投馬國 水行二十日 可五萬餘戸
南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 可七萬餘戸(官略)

自女王國以北 其戸數道里『可得略載』 其餘旁國遠絶 不可得詳

以下 次有21国列記 此女王境界所盡 其南有 狗奴國
自郡至女王國 萬二千餘里

投馬國 は 女王國以北 である。
0601日本@名無史さん垢版2019/01/12(土) 18:20:34.77
奴国と伊都国を合わせたのが倭国の首都圏である邪馬台国
倭語では筑紫の日向
0602日本@名無史さん垢版2019/01/12(土) 18:25:40.11
伊都國は征服者の海の民1,000戸の居住区として
よりふさわしい所を伊都國として比定すべきところ
後漢代の奴國王の墓所のある三雲を伊都國と比定しているところが笑止

須玖地域は三雲・高木領域から拡張展開していく
奴國の拡張域に位置する新たな王都にすぎない
0603日本@名無史さん垢版2019/01/12(土) 18:30:36.38
>其国本亦以男子為王住七八十年

そうだね。
後漢代の國王の墓所のある三雲だからこそ伊都國と比定している。
日本中でここしかない。
0604日本@名無史さん垢版2019/01/12(土) 18:32:17.10
>>599
>伊都が首都だが、女王国の中心が伊都であるとは限らない ?

到 伊都國 が首都であることは
丗有王皆 統屬女王國 郡使 往來 常所駐
の説明に拠る。 なぜこの説明が、この行程中に必要か? は

247年の張政の渡航目的が、
黄幢拝假難升米 為檄告喩之 と 政等以檄告喩壹與 だからである。
伊都の機能が
女王に属する王や使者が常に往来する所で、郡使張政も一大卒の検閲で駐留した。

これによって、張政は行程 1万5百里の伊都で、任務を終えたのである。
0605日本@名無史さん垢版2019/01/12(土) 18:32:23.29
後漢代の奴國王の墓所のある三雲だからこそ奴國
0606日本@名無史さん垢版2019/01/12(土) 18:36:11.95
>>597
247年の後に240年の記事を挟むとか、1萬五百里と1万2千里をクロスさせるとか、
時系列、及び空間観念がぐちゃぐちゃ。珍しいほどの統合失調のお人だ。
0607日本@名無史さん垢版2019/01/12(土) 18:36:21.47
奴國王ってなに?委奴国王のこと?
狗奴国王のこと?
0608日本@名無史さん垢版2019/01/12(土) 18:39:49.12
>>606
陳寿の文章を、一字一句曲げないで読むとそうなる。
本スレの趣旨ではないのかな?
0609日本@名無史さん垢版2019/01/12(土) 18:46:27.63
>>608
一字一句曲げないという気構えなら、歴史の順番も曲げてはならない。
まずは240年度の記事を先に書き、その後から247年度の記事を書くことをお勧めしたい。
0610日本@名無史さん垢版2019/01/12(土) 18:46:27.69
>>588-589
これが全て。
女王国より先の道里まで書かれているんだから、
書かれた範囲の中で12000里ないと説明になってないだろ。
対海國と一大國のそれぞれ400×2と300×2も足さないといけない。

でもって、日程は別。
0611日本@名無史さん垢版2019/01/12(土) 18:51:35.95
[委奴國王]の[委]は[奴國王]を形容する

[委奴國王]とは[委面]して[南面]する[帝]に[率俾]する[奴國王]の謂い
0612日本@名無史さん垢版2019/01/12(土) 18:58:36.80
>>607
女王国に属する 大夫の国 は 21国で7万戸
次有
斯馬國 巳百支國 伊邪國 都支國 彌奴國 好古都國 不呼國
姐奴國 對蘇國 蘇奴國 呼邑國 華奴蘇奴國 鬼國 為吾國
鬼奴國 邪馬國 躬臣國 巴利國 支惟國 烏奴國 奴國
此女王境界所盡 其南有 狗奴國

だが、これらの漢字は、240年印綬で女王宮を訪れた梯儁がつけた。
倭人に参問した、和音を中国語で記録する方法は他にない。
邪馬台国は、邪馬国に在った女王の臺 をランドマークに命名した21国総称の暫定国名。

この国名の 中で 遣使、大夫名の
奴国王/(難)升米
都支国王/(都市)牛利
巳百支国王/(伊聲耆)掖邪狗
が、該当する可能性が高い。
(内)の 文字は 郡での奏上和音を別の役人が漢字化した。
0613日本@名無史さん垢版2019/01/12(土) 19:03:34.84
>>610
郡から女王国まで1万2千里と〆てあるのだから、
行程累計が1万2千里となる「奴国」が、邪馬台国であり、女王之所都であり、女王国でもあるというわけだな。
0614日本@名無史さん垢版2019/01/12(土) 19:03:54.37
後漢代の倭奴国は実は伊都国のこと。
0615日本@名無史さん垢版2019/01/12(土) 19:05:45.96
>>609
陳寿に伝えてねwww
0616日本@名無史さん垢版2019/01/12(土) 19:06:24.95
>>613
ちがうだろ。

郡から女王国まで1万2千里と〆てあるのだから、
行程累計が1万2千里となる「奴国弥生銀座」が、邪馬台国の中心=ニューヨークである。

女王之所都は伊都=ワシントンであり、
女王国とは広域国家邪馬台国=アメリカ合衆国であるというわけだな。
0617日本@名無史さん垢版2019/01/12(土) 19:11:28.77
邪馬台国なんて三国志には書かれていない

邪馬壹國女王というのは統治領域が添付された壹與のニックネームで
晋代初頭に陳壽がみつくろってあてはめたものでしょう
0618日本@名無史さん垢版2019/01/12(土) 19:12:11.96
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
0619日本@名無史さん垢版2019/01/12(土) 19:13:20.92
>>617
>邪馬台国なんて三国志には書かれていない

間違った説は結局そうなるよねww
0620日本@名無史さん垢版2019/01/12(土) 19:14:23.71
「奴国弥生銀座」って倭國乱で蹂躙された須玖区域のつもりなの
0621日本@名無史さん垢版2019/01/12(土) 19:32:04.23
邪馬壹國女王の統治領域は2つの領域により構成される
[邪馬]領域 +[壹]領域 である

 [壹] 領域のは[伊那]と仮称しておくが

[邪馬]領域とは[女王界]のことであり
[女王界] = [邪馬]領域 = [奴國] +[其餘旁國](20ヵ国)
これらは〆て60,000戸

[奴國] +[其餘旁國](20ヵ国)の構成は
20,000戸+40,000戸 となり
これに加えるに[伊那]領域が 10,000戸で
これらが〆て 70,000戸 となる
0622日本@名無史さん垢版2019/01/12(土) 19:38:15.73
結局のところ、福岡平野の中に主要国が集まったもろ福岡説=北部九州王朝説だったというわけか。
古田説と安本説の合弁合作みたいな国だな。
ということは、
1世紀の倭奴国王の後裔の三世紀の女王卑弥呼が、再び親魏倭王の金印もらったということになるな・・・、
0623日本@名無史さん垢版2019/01/12(土) 19:43:10.14
>>621
メチャクチャだなぁ
0624日本@名無史さん垢版2019/01/12(土) 19:43:13.89
>>622

そうだろうね。
おそらく卑弥呼の最初の国書には漢委奴国王印で封泥がされていたはず。
そうでないと倭王からの国書であることを証明できない。
倭は一貫して福岡なんだよ。
そして卑弥呼の墓は平原遺跡ということになるのだろう。
0625日本@名無史さん垢版2019/01/12(土) 19:52:03.19
女王卑彌呼は
女王俾彌呼とも綴る

[俾彌呼]の[俾]は [海隅出日罔不率俾] の [俾]
魏帝にたいするよいしょよいしょ
[委面]して[南面]する[帝]に[率俾]する成長した[奴國王]の謂い

[俾彌呼]の[呼]は [狗奴國王]の[卑彌弓呼]と共通
さらに[辰王]の [加優呼]とも共通する
ある種の統一酋長の名につく飾りもの

[狗奴國王]は倭國乱で弾き出された須玖区域の倭國王の流れかと推測される
0626日本@名無史さん垢版2019/01/12(土) 19:52:43.36
そうすると福岡平野に、
奴国の2万戸と、邪馬台国の7万戸と、投馬国の5万戸と、伊都国不彌国の2千戸ほどがあり、
帯方郡の役人の駐在所があり、一大率の治所もあってそれらの国々を検察し、
兵士に守られた女王卑弥呼の侍女1000人の宮殿があって、その径百余歩の塚もあったというわけだ。
なかなか立派なものだ。では、夫々、遺跡を示して説明してもらおうではないか・・・。
0627日本@名無史さん垢版2019/01/12(土) 19:55:08.41
>>624

倭waは越wo
0628日本@名無史さん垢版2019/01/12(土) 19:56:51.61
投馬国5万戸は朝鮮半島南岸

北部九州邪馬台国7万戸の中に、
福岡平野奴国2万戸や、伊都国不彌国の2千戸などがあり、
帯方郡の役人の駐在所があり、一大率の治所もあってそれらの国々を検察し、
兵士に守られた女王卑弥呼の侍女1000人の宮殿が高祖山にあって、
その径百余歩の塚である平原遺跡もあったというわけだ。
0629日本@名無史さん垢版2019/01/12(土) 19:56:56.33
>>623
トンデモだよな
0630日本@名無史さん垢版2019/01/12(土) 19:59:03.49
邪馬台国は未だ発掘されてない地区に眠ってる可能性が高い

たぶん北薩
0631日本@名無史さん垢版2019/01/12(土) 20:08:34.95
>>617
>邪馬台国なんて三国志には書かれていない

>邪馬壹國女王というのは統治領域が添付された壹與のニックネームで
>晋代初頭に陳壽がみつくろってあてはめたものでしょう

もともと『三国志』の中では“壹”と“臺”との間違いが非常に多く、有名な孫堅の兄の孫羌の字も、“聖台”であるのに“聖一”と間違えている。“孫聖台”は孫堅の兄として、中国で三国志のファンなら、ほとんどの人が知っている。
「誤読だらけの邪馬台国」張明澄 著
0632日本@名無史さん垢版2019/01/12(土) 20:11:24.88
単に邪馬台国を邪馬一国と間違っただけなのか。
それとも邪馬一国も存在していて、邪馬台国と邪馬一国を混同したのか。
それともやはり邪馬一国が正しくて、邪馬台国のほうが誤読なのか。

要するに、1つなのか2つなのかでだいぶ解釈が変わってくるね。
北部九州なのは同じだが。
0633日本@名無史さん垢版2019/01/12(土) 20:15:15.02
>>632
“一”は使われているから“壹”を“一”の意味では使わないのでは?
0634日本@名無史さん垢版2019/01/12(土) 20:21:02.44
>2世紀末頃、各地から大和に結集した勢力の中に、河内はいなかった。
>この頃の纏向から出る土器の中には、河内の土器はない。
>3世紀初頭頃になって河内の土器が出るようになる。
>それと引き換えに、吉備や西部瀬戸の土器が減少し始める。
>河内は、石塚古墳が造られる頃になってから、纏向臨時政権に加盟してくる。
>河内は、様子見していたのだろう。
>で、河内が来たので、吉備や西部瀬戸らは嫌気がさしてきたのだろう。

東北地方を除けば最後に残された毛人地域だった河内。

九州倭国が銅戈軍で河内を攻め落としたことで、
畿内を抜けて東西の交通ができるようになり、
大和に交易拠点を作り始めたわけだが、
(九州の旧三輪町にあった「大倭」の、畿内版ね)
占領したばかりの河内の支配行政体制を確立するのに時間を要しただけでしょ。

石塚古墳が造られる頃にようやく、
河内の行政が整って、
河内からの税を他へ振り向けることができるようになったということ。
0635日本@名無史さん垢版2019/01/12(土) 20:27:27.16
>>628
そりゃ大いに結構なことだ。
そうすると一世紀に金印を拝し、更に三世紀の祖孫も金印を拝受したのであるから、
後漢の王、並びに政権を禅譲された魏王朝の曹操らと、倭奴国王家とは長きに渡る親密な間柄にあったわけだ。
それはそれは、めでたいことだ。そういうわけか・・・。
0636日本@名無史さん垢版2019/01/12(土) 20:44:19.03
>>635
そりゃそうだ。
そうでなかったら倭という国号を継承できない。
大乱で王統が乱れていたことはバレている。
しかし引き続き王都である倭奴国(伊都国)を支配しているのなら、とりあえず倭王でいいか、と魏は判断した。

もし邪馬台国が倭奴国以外の場所であれば、王統は違うし場所も違う。
そんなものはもはや倭ではない。
そもそも倭が遷都した記録もない。
0637日本@名無史さん垢版2019/01/12(土) 21:22:08.68
国って別に王がいなくても村単位でもみんな
国なんだよな
0638日本@名無史さん垢版2019/01/12(土) 21:23:32.92
>>636
そもそも倭が遷都した記録はなぞ有るはずもないだろう。
漢時からの、王統の正統継承にかかる諸事情は、お互い良くわかっていたのだろうからな。
0639日本@名無史さん垢版2019/01/12(土) 21:26:09.37
爾支(ni-qi)の別称をもつ伊都國王王権の発生過程は倭國乱を通してのこと
それが公的に正式化されるのが景初二年(238)十二月の詔書
「今以難升米爲率善中郎將 假銀印青綬」
以降 難升米は正式に倭州率衆王を名乗ることが許容された
難升米こそは記紀に取り込まれて天孫族の孫の位置を占める邇邇藝
0640日本@名無史さん垢版2019/01/12(土) 21:27:08.83
勘違いしている人がいるが
倭の最南端は倭奴国と言うのは
57年の話だからな
0641日本@名無史さん垢版2019/01/12(土) 21:47:45.74
57年の話しと238年〜の話しが二重写しになってる人は少なくないね。

それは、日本でいえば江戸の天保時代と、今の平成時代ほどの違いがあるのだが、
その間に起こった数々の社会的・政治的・軍事的変動が受け入れられない人も少なくない。。。
0642日本@名無史さん垢版2019/01/12(土) 21:55:06.05
畿内説は、その間に倭国が大和に東遷したことを証明しない限り成り立たない。
0643日本@名無史さん垢版2019/01/12(土) 21:56:11.31
>>641
57年以前の倭人がどこにいたのかも
なんとなくタブー
0644日本@名無史さん垢版2019/01/12(土) 21:56:54.16
江戸時代も現代も、政権は変わり都市の名前も変わった(江戸から東京へ)が、実体としては同じ町なんだよ。
倭奴国から伊都国へ。
弥生王墓は継続して糸島平野に作られ続けていた。
0645日本@名無史さん垢版2019/01/12(土) 21:58:08.44
>>643
考古学的には筑紫と出雲が発展していた。
その出雲から政権を奪って成立したのが筑紫の日向の天孫族の政権であると記紀に記されている。
0646日本@名無史さん垢版2019/01/12(土) 22:00:31.39
>>645
出雲の発展って、具体的にはどの遺跡のことを言ってるの?
0647日本@名無史さん垢版2019/01/12(土) 22:05:04.14
>>644
それで、倭奴国から半島・大陸へ向かい、金印を拝受して帰国した倭船は、
どこの港から出港して、どこの港へ帰り着いたのだろう。
たぶん、博多湾か今津湾の港だったと思うのだが、、、
0648日本@名無史さん垢版2019/01/12(土) 22:06:51.84
wiki 出雲国から引用

古代出雲は、青銅器を主とする西部出雲(現在の島根県出雲市付近)と鉄器を主とする東部出雲(現在の島根県安来市、鳥取県米子市、大山町)との二大勢力から出発し、以後統一王朝が作られ、日本海を中心とした宗教国家を形成したと考えられている。
特に東部出雲は律令下のいう伯耆国まで連続的な文化的つながりがあったため、特に弥生期では出雲と伯耆(鳥取県西部)を出雲文化圏とする向きもある。
考古学的見地からは、古墳が発達する以前の特徴的埋葬様式四隅突出墳丘墓の分布状況からすると、北陸地方なども上古出雲とすべきとの説もある。
0649日本@名無史さん垢版2019/01/12(土) 22:10:57.38
畿内説でも九州説でも陥りやすい問題だけど

ようは、大昔でも国外のことが
神の眼で正確にわかってるって幻想を持ちがちなんだよね

むしろ、古くなればなるほど不正確で
いい加減だと、考えるべきなのに

このネット社会ですら
中国やアメリカの流行りのアイドルを
どれだけ知ってるかって話

……いや、ぶっちゃけた話
この板に着てる人間なら
日本の若者に流行ってるアイドルだって
そんな、よく知らんだろ?

大昔の情報じゃ、もっといい加減でも不思議なく

「情報は絶対なはずだ!」……んな訳ねぇだろって

中立な視点で考えても
随所にヘンで不正確な記事があるとみるべきだよ
0650日本@名無史さん垢版2019/01/12(土) 22:11:55.26
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
0651日本@名無史さん垢版2019/01/12(土) 22:14:56.64
>>648
その文章の中で、根拠となるのは四隅突出墳丘墓だけじゃないか。
四隅突出墳丘墓が発展するのは邪馬台国時代。
一世紀にはその祖先が山奥にちょっとだけ作られていたんじゃなかったかな。

出雲出雲と持ち出す人が多いけど、
根拠がよくわからないんだよね。
0652日本@名無史さん垢版2019/01/12(土) 22:17:32.46
>>649
不正確なはずだからといって史書を無視して勝手な理屈をこねるのが畿内説。
九州説の中でも伊都国説は内外の史書との一致、考古学的な証拠とに一致に成功しており、史書を否定する根拠がない。
0653日本@名無史さん垢版2019/01/12(土) 22:22:21.52
57年の最南端が福岡で250年には熊本南部まで
広がって、4世紀には九州全土と畿内まで広がって、後は欽ちゃんの仮装大賞のメモリが伸びて行くように本州全土を支配した

でOK?
0654日本@名無史さん垢版2019/01/12(土) 22:25:31.79
>>645
古代出雲は九州倭国とは別勢力じゃね?
0655日本@名無史さん垢版2019/01/12(土) 22:27:39.09
だから古代出雲の遺跡ってどれよ?
検討したいが検討のしようもない。
0656日本@名無史さん垢版2019/01/12(土) 22:28:30.78
>>653
西から東へ倭人メーターが伸びて行ったのなら
57年以前の倭国は東の出雲じゃなくて西の国だ
0657日本@名無史さん垢版2019/01/12(土) 22:29:52.00
荒神谷遺跡だけでも、そこにあった銅剣の総数はそれまでに全国で出土した銅剣の総数を超えていたことから、出雲に強大な権力があったことは間違いない。
その年代はおよそ弥生中期とのことなので、伊都国の成立よりも早くなる。
少数の銅矛(九州北部製)と銅鐸も整然と埋納されていた。
想像を働かせると、出雲の国譲りにおける武装解除で埋納した武器かもしれない。
四隅突出型墳は、その後に出雲を支配した出雲国造家(天津神の末裔)のものかもしれない。
あくまでも想像だけれどね。
0658日本@名無史さん垢版2019/01/12(土) 22:32:30.87
西からの流れ者と土着の縄文人が協力しあって
倭国を結成したのか?文字の無い百姓が国を作れるのか?
0659日本@名無史さん垢版2019/01/12(土) 22:33:57.18
>>654
>>645
>古代出雲は九州倭国とは別勢力じゃね?

覇権を争った別勢力だろうね。
スサノオは新羅(朝鮮半島のこと?)まで行って来たとされているため、その時代は出雲も半島と直接交流していたのだろう。
魏の時代には九州倭国が代表権を握って外交に当たっていたため、出雲は倭種としてしか記録されていなかったと考えられる。
0660日本@名無史さん垢版2019/01/12(土) 22:35:42.89
>>657
いや、それもう昔に何度も出てるし。

・強大な権力を想定したくても、その人々がいた遺跡がない。

どこぞの建物と同じで、
国とは人が集まっての国なわけだから、
栄えた集落遺跡がないことにはなんにも検討できない。
0661日本@名無史さん垢版2019/01/12(土) 22:37:24.42
>>658
スサノオは稲作を含め農業を広めた神でもあるので、出雲は弥生系。
そして文字はむしろ西(筑紫)にしかなかった。
筑紫の日向の三国遺跡群からは硯などが出土しており、卑弥呼が魏と国書をやりとりしていたことからも、筑紫には文字があった。
畿内には弥生時代の文字の使用の痕跡は見つかっていない。
特に纒向は硯や銅剣・銅矛はおろか、金属器がほとんど見つかっていない。
0662日本@名無史さん垢版2019/01/12(土) 22:47:05.74
>>661
一世紀から文字を書ける層の人達が
倭国を作ったんだろうね、そういう層の人達って呉の中枢にいた人達なのか?
0664日本@名無史さん垢版2019/01/12(土) 22:50:20.15
妻木晩田遺跡なんてどうだろうね。
濱田竜彦氏の「山陰地方の弥生集落像」という論文はネット上でも読めるみたいだ。
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