志賀島金印からも明らかなように、北九州域は漢代ですでに中華の冊封体制に組み込まれていた。
ゆえに、北九州には常的に郡使が来てたわけ。
郡使往來常所駐というのは、そういうこと。

魏帝が汝所在踰遠 乃遣使貢獻是汝之忠孝 我甚哀汝と賞賛したのは、卑弥呼使がそれより遥か遠くから来たから。
数百年前すでに冊封された北九州から朝貢に来たところで、特筆するわけがなかろう。

金印文と卑弥呼に与えられた称号を比較しても明らか。
印文は
「漢委奴國王」、つまり漢の支配下における委のうちの奴国の王、もしくは漢の支配下の委奴国王と、小ボス扱い。
もしも倭王扱いだったら、印文はシンプルに「倭王之印」となる。実際、滇王に贈られた印は「滇王之印」だ。
出雲や吉備の出土からもわかるように、中華は倭の範囲が九州を遥かに越えることを知っていたから、「倭王」とするわけにはいかなかった。

ところが、卑弥呼に与えられたのは
「親魏倭王」と、出雲や吉備など本州勢力も含めた上での倭王と、大ボス扱いの称号。

このとき、すでに北九州は女王国によって「官」の置かれる、地方政体となっていた。