邪馬台国畿内説 Part416
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1546950095/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 >>127
>魏志「韓伝」を未だ読んで無いのかな???
頭悪いんだろ?
90度回転説は、半島、対馬、壱岐、九州上陸までを回せなんて、
今まで誰一人言っていない
壱岐から渡っていった先の、倭国本土がそこから会稽の東まで南へ長く続く
洲島だと陳寿が考えていたというだけのものだ
韓伝に何が書いてあっても、関係ない >>134
そこまで狂わないと辿り着かないのだなあ 韓国政府が邪馬台国畿内説を宣伝するために雇用した、韓国人の3寸男の脳が、90度回転し、破裂した可能性が高いのではないのかな。。。 >>131
>九州説は九州に邪馬台国はありで統一されてます
九州の「どこ」だよwwwwwwwwwwwwwwwwww
あんまり笑わせないでくれw
>纒向の研究費の少し分けていただくとありがたいのですが・・
分けてもらうのではなく、自分で申請して予算を取ればいいんだよ
公的予算じゃなくて、民間のスポンサーでも、クラウドファンディングでもいい
九州説を信じているのが日本国民の7割いるんだったら、クラウドファンディングを
立てればすぐに予定額に届くんじゃないの?w
>個人的には甘木・朝倉です
そこの中心集落は、川添平塚遺跡
6重環濠を持つ立派な遺跡だけれど、一番内側の環濠内面積は「2ヘクタール」だ
問題があるとか以前に、周辺を合わせても七万戸の都と見るのは不可能
正直に言えば「ふざけるな」というレベル 韓国政府が宣伝する邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだから、韓国人の無駄な抵抗が、面白いな、、、 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 熊本城は、大きくないが、御城下には人民が多かったな、、、 >>229
>弥呼共立の倭國は、北部九州。<
賛成。
>倭國の乱は、玄界灘側の連合と筑紫平野側の連合との騒乱。
筑紫平野側の連合有利で和平の手打ちしたため、祭祀王は筑紫平野側が擁立した。<
成程。
>その頃、大和に結集した広域連合政権では、<
「広域地域連合」というよりは、
九州倭国の「東征毛人五十五國」に依って出雲系銅鐸祭祀部族や毛人を支配し、
地方の市を監督する大倭職の小国家群が出来、
また、そのの中心は、(大和ではなく)おそらく河内であった。
>纏向の微高地を平らにする土木工事が行われていて、やがてそこには大型建物の祭祀施設が建てられた。
政権加盟勢力から持ち回りで代表祭祀者を出して、毎年盛大に農耕祭祀などを行っていた。
これが、リアルな2世紀末の歴史。<
纏向に東征将軍らが入って支配したのは、おそらく、3世紀末。 大物主の倉庫の周りには、人民の住所が無かったのでは、ないのかな。。。 >>137
申し訳ありません
畿内説のように税金で研究してないのです
多くが ボランティアです
だから、私利私欲はありません
人件費はいりません 熊本城の修理も、寄付金が多いのではなかったのかな、、、 いつも書きこんでるが
なぜ纏向から大集落跡が見つからんのだぁぁぁ--------------------- >>243
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は、
国内の万世一系皇国史観学会教育界や右翼マスコミや安部文部省らの、
キョクウの国家権力が推進しようとしているだけで、
日本以外の世界のまともな学者らからは、学術的に淘汰されかかった仮説だけど。 畿内説は2013年、もろくも破綻した。
論争は、段々、九州説同士の戦いになってしまうではないのかな。
有力な候補地が目白押しで、なかなか、結果がでないだろうけどもね。
畿内説の掲示板で、それをやるのは、一々、畿内説信者へ、論争の途中経過を教えてあげる手間を省くため。 >>144
行政や経済の仕組み何も分からないで書きこむなよ
熊本城は後世の建造物だから邪馬台国と関係ないよ >>144
寄付金なんだよな熊本城修復は
纒向はほとんど税金ジャン いつも書きこんでるが
なぜ纏向から大集落跡が見つからんのだぁぁぁ--------------------- 国内の万世一系皇国史観学会教育界や右翼マスコミや安部文部省らの、
キョクウの国家権力が推進しようとしている邪馬台国畿内説は、ゴキブリを叩きつぶすように、叩きつぶすせば、良いな。。。 >>143
>畿内説のように税金で研究してないのです
だから、クラウドファンディング立ち上げろって言ってるだろ?
税金を取ってこなくても、研究も発掘もできるぞ
ただ、きちんと手続きは取れよ
九州説を信じている人が国民の七割なら、すぐにいくらでも集まるって
逃げ口上ばかりで行動しないやつはだめ人間だww
>多くが ボランティアです
そういう話じゃなくて、狂信者が遺跡を荒らすのはだめだって話
きちんと発掘許可その他の手続きを取れよ 三輪山神話は下記としっくりいかない 倭人伝にも三輪山は言及されていない
「
其俗 擧事行來 有所云為 輒灼骨而卜 以占吉凶 先告所卜 其辭如令龜法 視火坼占兆 今日は、統計的に正しい一里の長さの推定値(信頼区間)を示せたし、
「魏志倭人伝を読めば短里が正解」というのが、デタラメだと明確になったな
またひとつ、物事がはっきりした あと、伊都GCが伊都国の入り口、とかいう戯言も衛星写真を示されて崩壊したな
短里がなくなるだけで、九州説は根拠がなくなるからなww >>107
分かってないな〜。
沖縄あたりに邪馬台国があるというのは、古代中国人の強固な固定観念。
そこに実際の邪馬台国があるわけではない。
なので、実際の邪馬台国の位置を割り出すのにこ“理想郷=邪馬台国”へ行く行程はほとんど意味がない。
ただ、唯一重要なのは、唐津→伊都→奴→不彌の国名。
これは、実際にの邪馬台国への道筋であるが、方角は地図をみれば分かるように、唐津から北東方向へ行くもの。
南東へ行く倭人伝の行程ではない。
ここのところを勘違いしてはいけない。
倭人伝の行程は、南東へ行くもの。
この南東から南へ行く方位は、実際の沖縄諸島へ行くためには重要であっても、実際の邪馬台国へ行くためには、まったく重要ではない。
実際の邪馬台国に行くには、唐津→伊都→奴→不彌→筑後山門だ。 韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 日本90度回転VS参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連 周旋可五千餘里 女王國東 渡海千餘里 復有國皆倭種 又有侏儒國在其南 畿内説の瀬戸内航路は
四国を何も語っていないのは卑怯だよな 瀬戸内航路は、卜骨や吉備型甕が出ている愛媛を通るだろうね
山口、広島西部は少ないから >>245
>女王國東渡海「千餘里」、復有國。皆倭種。 の「千餘里」を隠してごまかすなよww
九州と本州の間を「千餘里」とするのは、九州説お得意の短里でも無理w
つまり、本州の勢力は九州から見て東渡海「千餘里」の国とするのは不可能<
不彌國から長門海岸でも大体短里で千里に近いし、
豊前海岸から周防なら、ほぼで短里で千里であり、
それから南へで短里で三千里で足摺西沖の沖の島の侏儒國にも、ほぼぴったり合う。
しかし、難波や大和では、短里では全く合わないし、
長里でも侏儒國説明が全く合わない。 >>250
このように「南→東」などの明らかな嘘つき騙しの日本人学者の説を、
承認しなければ成り立たなくなってしまったのが、
大和説。 北九州で末盧国、伊都国、奴国、不弥国に比定される場所は、直線距離で測れば確かに短里に近いんだけど、
実際の当時の陸路は直線ではないだろうし、海路の場合も湾から湾に大回りする航路となり、これも直線からは大きく外れる。
標本和nが2とか3とかで信頼区間を求めるのは統計処理としてスジ悪だけど、それに入れるデータも直線距離を入れてはダメだと思う。 まあ、長里でも短里でも、投馬国や邪馬台国の比定にはあんまり関係ないんだけどね。 特に陸路部分は末蘆から奴国までは山越えだからね。
歩数で測るしかなかったろうから、直線距離とは大幅に異なる。 >>141
2世紀末頃、各地から大和に結集した勢力の中に、河内はいなかった。
この頃の纏向から出る土器の中には、河内の土器はない。
3世紀初頭頃になって河内の土器が出るようになる。
それと引き換えに、吉備や西部瀬戸の土器が減少し始める。
河内は、石塚古墳が造られる頃になってから、纏向臨時政権に加盟してくる。
河内は、様子見していたのだろう。
で、河内が来たので、吉備や西部瀬戸らは嫌気がさしてきたのだろう。 理由もなく起点を変えるのは九州説の悪いところ
結論ありきのいい加減な姿勢だとバレバレ >>165
四国はいつも、忘れられる。
神武も、四国を忘れたし。 直線距離ならソウルから纒向まで約860km
ソウルから紹興市の真東まで約830km >>134
陳寿が想定していたのは北部九州から南へ伸びる巨大島であって、この巨大島倭國の北部から東に千余里船で行くとまた別の倭人の国があると言っているように、普通に西日本も想定していた。
なので、九州島が巨大に想定されていること以外には、普通の日本の地理記述となっている。 今度は九州島を巨大にし始めたぞ
日本列島全体だと魏の版図よりデカイんじゃないかw >>317
>『又、裸国、黒歯国有りて、復、その東南』これは北東。
北海道を深く深く分け入ったところの話かも知れない。 <
北海道では、冬が寒過ぎて、裸では生きられない。 韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 かきかえれど かきかえれど なお
わが比定地に至らざり
ぢっと地図を見る >>167
紀伊半島の縄文系の人民は背が低かったのだろう。
紀伊半島から一年かけて東南へ行くと、ちょうどイースター島がある。 >>177
今度は、じゃないだろう。
ずっと前から、そう言っている。
お主が知らなんだだけじゃ。
魏の版図よりデカいから、魏は倭國を味方に引き入れる価値
有りと判断したのだろう。 『山海經』には黒歯国では「蛇をくらう」と書いてるが
沖縄は郷土料理が「イラブー(エラブウミヘビ)汁」
かつては宮廷料理 >>322
>メタメタなのは九州説の方だろ?w ・・・
それを全部つぶして回るのが面倒でしょうがない
まあ、一つ一つは矛盾だらけだから、簡単につぶせるんだけどねw <
九州説は、各種あっても、いずれも文献解釈での「可能性のある小差」の範囲内であり、
考古証拠も十分であるものばかり。
それに対して大和説は、始めから「南→東」や「正北抵新羅」や「東征毛人五十五國」などの文献との矛盾や、里数との矛盾があり、
考古においても、倭人伝記載考古では、九州よりも明らかに劣勢。 >>325の訂正
まぁ、大和説者は、
後漢書の会稽東冶の誤字をいいことに、会稽を限界まで南へ移動させて、
あまつさえ会稽郡の南にまで「会稽東治」を仕立て上げるという騙し計画も失敗して、
会稽東治が上海やが揚州(江蘇省付近)である事を否定する計画も、
水泡に帰したしなぁ。
もう大和説の生き残る道は無いでしょね 。 >>336
>「水行」は沿岸航行に限らず単に海を行くことだよ <
「水行」は、海であれ川であれ湖沼であれ、「水上を行く」事。
「渡海」は、文字通り「海を渡る」事であり、
「水行」の中に含まれる特別な移動、を意味する文言。 >>336
>女王を去ること四千余里。
女王(邪馬壹國)の東4000里とあるここは問題だな
邪馬壹國の先まで里数が分かっている
先まで里数が判明してるんだから途中から日数で邪馬壹國の行程を説明する必要がない
里数と日数を連続して読むのは間違いなんだ。<
賛成。 >>341
「南→東」などを口先で誤魔化して、すぐ逃げる、
無能な大和説 。 >>343
>半島南部のリアス式海岸を出たり入ったりしながら航行するはずがないからな
座礁しないためには陸が見える範囲で沖に出るんだよ
そして半島の概形に沿って進むのが循海岸の意味 <
それじゃ「歴韓國」は全く出来ないし、
南岸は倭だから「歴韓國」にならないし、
「乍南乍東」にもならないし、
「七千余里」をはるかに越えてしまうから、
全てにおいて×。 >>346
反論したかったら、論点を明確にして具体的な指摘をしてくれ。
「南→東」などの論点から逃げてるのは大和説者の方だ。 >>353
>飛び飛びロムですがスレの結論は卑弥呼さんは伊都で壹与ちゃんは葛木でOK?<
卑弥呼も壹與も筑紫倭国の女王であるから、×。 九州説は短里や九州倭国に逃げちゃダメよ
矛盾を指摘されるとそれとは別だと遁走してさ >>193
>「南→東」などの論点から逃げてるのは大和説者の方だ。
逃げてないぞw
たとえその場で方角を間違わなかった「としても」史書の編纂までの間にいくらでも方角の錯誤は起こりうるし、
実際、九州上陸後の末盧国ー伊都国間、伊都国ー奴国間の方角は明確に間違っている
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1546683723/463
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1546683723/498
次に、記録の不備の可能性も高い
投馬国への水行、丹波までの水行の方角が記録の中でまぎれてしまえば、最後の丹波から大和への「南陸行」が水行二十日以降の方角とされる可能性が高い
記録はおそらく木簡や竹簡を使ったと考えられるが、東水行と書いた木簡がどの行程のものか分からなくなれば、朝鮮半島南岸の東水行と紛れてしまう
また、水行時は海岸沿いなので方角を気にせずに進むことができるので方角を記録していないとしても問題ない
さらに、陳寿が倭国を会稽の東にある相当な南国だと考えていたことから、倭国を南北に長く続く州島だと考えていたのは明らかで、
その場合倭国内での長距離移動は「南北方向でなければ整合性が取れない」ことになる
以上、
1.その場の方角認識と、史書記述の方角記述は同一視できない
2.実際の史書では方角の間違いが複数存在する
3.記録の不備から方角の錯誤は容易に生じる
4.陳寿の認識(倭国は南国)から、長距離移動は「南向き」が妥当とされる
という理由から、「南→東」と考えるべき状況証拠は十分にある
番外
ザラコク理論では、実際の方向ではなく出発方向が記されていれば、あとは倭人の案内や道なりで到着できることになる
つまり、最初に5メートル南向きに水行し、その後倭人の案内で日本海の海岸沿い(道なりに相当)に東に進めば邪馬壹國に到達できる、ということで構わない
ザラコクは「南≠東だから×」といえる立場にないww
オウム返ししてもただのウソにしかならないぞww >>366
>2世紀末の大和行きは都落ちなのに、なんでそんなに東征したがるの。
尾羽うち枯らしてみすぼらしく流れていくのに、都へ上るように意気揚々な鼻息はなんで。 <
国生み神話や神武の昔から、
九州倭國ではうだつが上がらないと自覚した天孫族の将軍などが、
「猶東に行かむ」として、
生きて行くために、武装流民として、繰り返し東征して行ったの。 そんなことよりも
なぜ「CHOSEN ONE」(朝鮮No.1という意味でしょ)なのか?
実際は神に何やら〜選ばれたという意味みたいだよ 長崎県を中心に分布する西北九州弥生人骨と南九州弥生人骨は低身長 >>370
>それは無理筋
水行と渡海は区別されてるし、玄界灘から山陰の海岸へ移動するのは水行だよ
記録するのは魏使だからね<
それは無理筋。
「南≠東」などによって、「玄界灘から山陰の海岸へ移動」」は、始めから×だよ。
記録したのは魏使だからね。 >>77
庄内式土器の編年の実年代について、学者によって相違がある。
従来説では、庄内3式は270年〜290年だった。
しかし、寺澤編年では3式は3世紀中頃となる。
従来説からみると、寺澤編年は年代を圧縮し過ぎのようにみえる。 調べてみた?
そういう話ばかりだし・・・、
日本の神話とか、半島が何やらとか、半島辺りから始まったの? まさかアニメ起源という話でもないだろうし
『選ばれし者 ガンダム』 >>379
>北部九州より大国の出雲の人も大和の人も北部九州に来てるし<
卑弥呼の頃は、筑紫が倭国の都であったから。
>郡使も出雲を知ってるなら北部九州は倭国も代表と認められない<
出雲は、天照の頃に国譲りで筑紫に負けて、盟主の地位を失っていた。
>そして建中校尉梯儁は金印・皇帝詔書を倭国の都、大和まで運んでいるし <
倭国の都は、筑紫だから、×。
>塞曹掾史張政は以檄告喻壹與で、臺與のいる都まで行っているのが分かる <
臺與なんて存在しないし、壹與も筑紫の女王。
>その記録で、北部九州から都まで水行陸行合わせて2ヶ月と伝わっている訳だ <
「南≠東」に拠って×。
>九州のみの倭国は、状況からあり得ない <
女王國も倭国も九州島付近。「女王東渡海」地域は倭種。 『chosen 意味』
ガンダムも、そういうストーリーだったでしょ さっきから、どこどこは低身長とかいうのがたくさんあるけど、侏儒は人長三,四尺だから
10センチ低いとかではないんだよ
魏晋尺は23センチだから、三、四尺なら69センチとか92センチとか、1メートル以下になる
もっとも身長が低い短身種族のネグリロでも身長137〜159cm
1メートル以下とかの、そんな低身長なのは人間じゃない
要は伝説であって、具体的な比定地を探しても意味がない >>200
>「南≠東」などによって、「玄界灘から山陰の海岸へ移動」」は、始めから×だよ。
そんなことはない
のこの島辺りから一旦南に出発してから、海岸沿いに行けばそれは
「南至と出発方向が記載される」そうなので、方角が違うというのは否定の根拠にはならない
末盧国−伊都国間が90度間違った方角が記録されているのと同じだよ ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>201
>>九州説は何で年代を偽るの
>庄内式土器の編年の実年代について、学者によって相違がある。
大した違いではない
九州説だけが異常に違う
それも、理由を誰も言わない不思議な年代を主張する
>従来説では、庄内3式は270年〜290年だった。
「従来説」とは、誰が主張した、どんな説?
>従来説からみると、寺澤編年は年代を圧縮し過ぎのようにみえる。
みえるという理由すら言わない
九州説は不思議だ
誰も理由を言わない世界
ほんとうに不思議だ >>383
>大和は当て字 大陸側は邪馬臺という当て字で記録している<
後漢書の邪馬臺國は、魏志の邪馬壹國と、記載対象が違うもの。
>長里はないな あるのは1里=435メートルの魏晋里だけだ<
魏志の記載は、「1里=435メートル」ではなく、周朝や魏朝や西晋朝の短里だな。 聖化 日神・・・、
あの人物のところにも同じような事が書いてなかった?
どういうことなんだろう >>208
北海道のアイヌが、道東に住む先住民コロポックルを身の丈3、4尺だと信じて青森辺りの倭人に伝え、
それが伝言ゲームで魏使まで伝われば、そう書かれても不思議ではないと思う。 あの謎のキュウリの葉、葱(葱の華)・・・などの写っている写真、
事情はわからないんだけど、泥棒のようなものに入られたという話とか、
有名人、有名な話なのかな
『ネギ坊主』wikiによると
>ロシアあるいはソビエトを表す隠語として用いられることがある。 >>384
>出雲の四隅突出型墳丘墓は
筑紫の甕棺が没落するころから大型化し北陸にも拡がる<
出雲の四隅突出墓は、それまでの出雲や筑紫の墓とは全く違うし、
モンゴル方面に同じ型の墓があるから、
やはり、モンゴル方面からの(筑紫とも別の)新たな部族の進出渡来、
があったんだろうなあ。 >>216
を書いたのは、私『陳寿90度回転さん』です。
いずれにしても、当時はメルカトル図法による正確な地図などないのだから、
歪みに歪んだ地理感の上に、クニとクニが街道や海路で結ばれており、
そこで言われる距離というのはGPSで測るような直線距離ではなく、
歪みに歪み、湾曲し、迂回し、山地では直線距離の軽く数倍にもなる、
街道や海路に紐づけられた実体感距離なんだ。 >>188
史記・河渠書
禹抑洪水十三年 過家不入門 陸行載車 水行載舟 泥行蹈毳 山行即橋
(陸行載車)は車に載ることなので、陸行は(陸上)というよりも(陸路)を行くこと。
(水行載舟)は上と同じ用法なので、水行は(水上)というよりも(河路、海路)を行くこと。
陸路と同じで、河の場合も航路があり、海の場合も海の航路があって、その路(みち)を行くことを意味している。
つまり、道なき道を行くのとはわけが違う。
渡海は渡河と同じ用法で、岸から岸へ海を越えること。 むしろ当時としては直線距離に全く意味がない。
現代人感覚のままメルカトル図法で考えると間違う。
クニとクニ、集落と集落が街道や海路で結ばれた、
グラフ理論のグラフ的な地理感に頭を切り替えないといけない。 本当に偶然なのかな?
『聖化 日神 日霊』〜と同じ家の写真w
AD200頃に〜という話でしょ、〜〜〜と渡ってきたとか >>387
史料事実を否定し、自在に空想を繰り広げるのは、
一種の宗教的な小説や、分裂幻覚の妄想の患者と同じだな。 >>389
>神武の東征は邪馬台国よりずっと後だよね <
二中歴に拠れば、神武即位元年は、紀元前91年頃だな。 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 中国では短里なる架空の長さでは国家が運営された事は無いのは土地税制から明らかだ >>390
>『東』を陳寿90度回転させると『北』なので、普通に考えればそうだよね。<
普通に考えれば、
「『東』を陳寿90度回転させると『北』」という事を言い出す大和説者も、
人類の常識が分からない、分裂幻覚の妄想の患者だろうね。 >>405
>「女王国東渡海千余里 復有国 皆倭種」
女王国が大和にあれば東の国々は全て陸続きですから渡海の必要はありません。
畿内説では説明できません。単純な話です。<
成程。 シルクロード関係なのかな?
『仏教 肉 食べない』
かなり詳しい人がいたり、あと老婆も同じような事を言っていた、
あの写真の話なんだけど、肉は食べなかった・・・
『肉 食べない 宗教』何だったんだろう >>421
>崇神、垂仁、景行が纒向(周辺)に宮を置いたことが記されており、彼らが纒向のヒコ王
そして、纒向が卑弥呼の時代なのは確定<
記紀は、半分偽書であり、根拠価値も半分以下。
考古的にも、纏向は庄内3であり、
前方後円墳の庄内の石塚が、卑弥呼の冢のはるか後になるので、、3世紀末であり、
纏向は×。 『聖化 日神 日霊 津』
こういう名前の家の写真だから、
確実に宗教関係 これも以前書いたはず
テレビ・・・マスコミなどがあるでしょ、
なぜデタラメなことばかりしているんだ
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