>>193
>「南→東」などの論点から逃げてるのは大和説者の方だ。

逃げてないぞw

たとえその場で方角を間違わなかった「としても」史書の編纂までの間にいくらでも方角の錯誤は起こりうるし、
実際、九州上陸後の末盧国ー伊都国間、伊都国ー奴国間の方角は明確に間違っている
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1546683723/463
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1546683723/498

次に、記録の不備の可能性も高い
投馬国への水行、丹波までの水行の方角が記録の中でまぎれてしまえば、最後の丹波から大和への「南陸行」が水行二十日以降の方角とされる可能性が高い

記録はおそらく木簡や竹簡を使ったと考えられるが、東水行と書いた木簡がどの行程のものか分からなくなれば、朝鮮半島南岸の東水行と紛れてしまう

また、水行時は海岸沿いなので方角を気にせずに進むことができるので方角を記録していないとしても問題ない

さらに、陳寿が倭国を会稽の東にある相当な南国だと考えていたことから、倭国を南北に長く続く州島だと考えていたのは明らかで、
その場合倭国内での長距離移動は「南北方向でなければ整合性が取れない」ことになる

以上、
1.その場の方角認識と、史書記述の方角記述は同一視できない
2.実際の史書では方角の間違いが複数存在する
3.記録の不備から方角の錯誤は容易に生じる
4.陳寿の認識(倭国は南国)から、長距離移動は「南向き」が妥当とされる
という理由から、「南→東」と考えるべき状況証拠は十分にある
番外
ザラコク理論では、実際の方向ではなく出発方向が記されていれば、あとは倭人の案内や道なりで到着できることになる
つまり、最初に5メートル南向きに水行し、その後倭人の案内で日本海の海岸沿い(道なりに相当)に東に進めば邪馬壹國に到達できる、ということで構わない
ザラコクは「南≠東だから×」といえる立場にないww

オウム返ししてもただのウソにしかならないぞww