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邪馬台国畿内説 Part416
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0001◆UiepmfCeDJqf 2019/01/12(土) 03:26:35.00
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1546950095/

◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。
0215日本@名無史さん2019/01/12(土) 22:34:02.60
聖化 日神・・・、
あの人物のところにも同じような事が書いてなかった?

どういうことなんだろう
0216日本@名無史さん2019/01/12(土) 22:36:50.88
>>208
北海道のアイヌが、道東に住む先住民コロポックルを身の丈3、4尺だと信じて青森辺りの倭人に伝え、
それが伝言ゲームで魏使まで伝われば、そう書かれても不思議ではないと思う。
0217日本@名無史さん2019/01/12(土) 22:40:45.48
あの謎のキュウリの葉、葱(葱の華)・・・などの写っている写真、
事情はわからないんだけど、泥棒のようなものに入られたという話とか、
有名人、有名な話なのかな


『ネギ坊主』wikiによると

>ロシアあるいはソビエトを表す隠語として用いられることがある。
0218日本@名無史さん2019/01/12(土) 22:41:38.27
>>384
>出雲の四隅突出型墳丘墓は
筑紫の甕棺が没落するころから大型化し北陸にも拡がる<

出雲の四隅突出墓は、それまでの出雲や筑紫の墓とは全く違うし、
モンゴル方面に同じ型の墓があるから、
やはり、モンゴル方面からの(筑紫とも別の)新たな部族の進出渡来、
があったんだろうなあ。
0219陳寿90度回転さん2019/01/12(土) 22:43:06.79
>>216
を書いたのは、私『陳寿90度回転さん』です。

いずれにしても、当時はメルカトル図法による正確な地図などないのだから、
歪みに歪んだ地理感の上に、クニとクニが街道や海路で結ばれており、
そこで言われる距離というのはGPSで測るような直線距離ではなく、
歪みに歪み、湾曲し、迂回し、山地では直線距離の軽く数倍にもなる、
街道や海路に紐づけられた実体感距離なんだ。
0220日本@名無史さん2019/01/12(土) 22:45:34.73
>>188
史記・河渠書

禹抑洪水十三年 過家不入門 陸行載車 水行載舟 泥行蹈毳 山行即橋

(陸行載車)は車に載ることなので、陸行は(陸上)というよりも(陸路)を行くこと。
(水行載舟)は上と同じ用法なので、水行は(水上)というよりも(河路、海路)を行くこと。
陸路と同じで、河の場合も航路があり、海の場合も海の航路があって、その路(みち)を行くことを意味している。
つまり、道なき道を行くのとはわけが違う。

渡海は渡河と同じ用法で、岸から岸へ海を越えること。
0221陳寿90度回転さん2019/01/12(土) 22:47:08.34
むしろ当時としては直線距離に全く意味がない。
現代人感覚のままメルカトル図法で考えると間違う。

クニとクニ、集落と集落が街道や海路で結ばれた、
グラフ理論のグラフ的な地理感に頭を切り替えないといけない。
0222日本@名無史さん2019/01/12(土) 22:48:35.03
本当に偶然なのかな?
『聖化 日神 日霊』〜と同じ家の写真w

AD200頃に〜という話でしょ、〜〜〜と渡ってきたとか
0223日本@名無史さん2019/01/12(土) 22:48:50.23
>>387
史料事実を否定し、自在に空想を繰り広げるのは、
一種の宗教的な小説や、分裂幻覚の妄想の患者と同じだな。
0224日本@名無史さん2019/01/12(土) 22:51:23.75
>>389
>神武の東征は邪馬台国よりずっと後だよね <

二中歴に拠れば、神武即位元年は、紀元前91年頃だな。
0225日本@名無史さん2019/01/12(土) 22:52:35.57
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
0226日本@名無史さん2019/01/12(土) 22:52:58.93
韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0227日本@名無史さん2019/01/12(土) 22:55:02.05
中国では短里なる架空の長さでは国家が運営された事は無いのは土地税制から明らかだ
0228日本@名無史さん2019/01/12(土) 22:55:51.26
>>390
>『東』を陳寿90度回転させると『北』なので、普通に考えればそうだよね。<

普通に考えれば、
「『東』を陳寿90度回転させると『北』」という事を言い出す大和説者も、
人類の常識が分からない、分裂幻覚の妄想の患者だろうね。
0229日本@名無史さん2019/01/12(土) 22:59:28.16
四隅突出型墳丘墓の発祥は出雲じゃないから
0230日本@名無史さん2019/01/12(土) 23:03:42.66
>>405
>「女王国東渡海千余里 復有国 皆倭種」
女王国が大和にあれば東の国々は全て陸続きですから渡海の必要はありません。
畿内説では説明できません。単純な話です。<

成程。
0231日本@名無史さん2019/01/12(土) 23:06:19.88
シルクロード関係なのかな?

『仏教 肉 食べない』

かなり詳しい人がいたり、あと老婆も同じような事を言っていた、
あの写真の話なんだけど、肉は食べなかった・・・

『肉 食べない 宗教』何だったんだろう
0232日本@名無史さん2019/01/12(土) 23:16:00.20
>>421
>崇神、垂仁、景行が纒向(周辺)に宮を置いたことが記されており、彼らが纒向のヒコ王
そして、纒向が卑弥呼の時代なのは確定<

記紀は、半分偽書であり、根拠価値も半分以下。
考古的にも、纏向は庄内3であり、
前方後円墳の庄内の石塚が、卑弥呼の冢のはるか後になるので、、3世紀末であり、
纏向は×。
0233日本@名無史さん2019/01/12(土) 23:23:55.39
『聖化 日神 日霊 津』

こういう名前の家の写真だから、
確実に宗教関係
0234日本@名無史さん2019/01/12(土) 23:28:27.89
これも以前書いたはず

テレビ・・・マスコミなどがあるでしょ、
なぜデタラメなことばかりしているんだ

日本の話
0235日本@名無史さん2019/01/12(土) 23:29:03.53
>>425
>辻地区の大型建物跡は周辺の祭祀土坑とセットの施設と考えるのが妥当
柱の抜き取り跡があるのは事実
祭祀土坑の供献土器、桃核の推定年代が230年程度まで
卑弥呼の遣使の頃には、宮は別の場所に営まれていたと考えるのが通説<

「祭祀土坑の供献土器」は庄内3。
桃核の推定年代は、AMSだから、50年位古く出るので、纏向は3世紀末。

>ただ、2世紀末に共立され248年頃に死去という卑弥呼60年在位説を採るなら
230年以前も大和の盟主は卑弥呼なのだから辻地区の建物も卑弥呼の宮の蓋然性が高い <

卑弥呼は240年頃に「年已長大(=30〜35歳)」であったので、
だから誕生が205〜210年頃で、
共立女王になったのが20歳とすれば、即位は225だから〜230年。
0236日本@名無史さん2019/01/12(土) 23:31:14.96
>>197
九州書紀には、そんなふうに書いてあるのか。
0237日本@名無史さん2019/01/12(土) 23:32:48.36
本当に日本の話でしょ?


肉は食べてはいけないんだけど、
誰が食べても良いと言ったんだ


騙り、成り済ましか・・・、
何かなんだろう
0238日本@名無史さん2019/01/12(土) 23:40:33.40
>>235
>桃核の推定年代は、AMSだから、50年位古く出るので、纏向は3世紀末。

zarakoku科学なら月刊ムーにでも投稿しなさい
0239日本@名無史さん2019/01/12(土) 23:42:36.59
もう無くなっている、絶えた家・・・・?、
そのように思っていたのかな?


「生きてたのか!」
「本当にそう、もう私ではない」・・・、
「真似なんてしているから、こんな事になってしまった」と言ってる人がいたり、
数年前の△の陰謀というスレ
0240日本@名無史さん2019/01/12(土) 23:49:15.58
>>232
>考古的にも、纏向は庄内3であり、

九州説さん・・・
そんなこと言ってる学者は世界に一人もいない
0241日本@名無史さん2019/01/12(土) 23:54:33.41
>>214
>後漢書の邪馬臺國は、魏志の邪馬壹國と、記載対象が違うもの

九州説は平気でこういうことを言うからなw

後漢書
桓・靈閨@倭國大亂 更相攻伐 歴年無主 有一女子名曰卑彌呼 
年長不嫁 事鬼~道 能以妖惑衆 於是共立爲王 
侍婢千人 少有見者 唯有男子一人給飲食 傳辭語 
居處宮室・樓觀・城柵 皆持兵守衞 法俗嚴峻

三国志
住七八十年、倭國亂、相攻伐歷年。乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼。
事鬼道、能惑衆。年已長大、無夫壻、有男弟佐治國。
自爲王以來、少有見者。以婢千人自侍、唯有男子一人給飲食、傳辭出入。
居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人、持兵守衞。

卑弥呼という固有名詞が一致していて、各事項も明確に対応している

三国志 邪馬壹國、女王之所都
後漢書 其大倭王居 邪馬臺國

で表現は違うが「王之都」「王居」と倭国の都を
「邪馬壹國」「邪馬臺國」としているのだから違うものと考える方が頭がおかしい
0242日本@名無史さん2019/01/12(土) 23:58:50.87
本当に、わかっている人はわかっているんだよ


「肉は食べなかったと言っていた」という書き込みをしたあと、
「肉を食べすぎた」というレスがあったり

数年前の△の陰謀というスレ
0243日本@名無史さん2019/01/13(日) 00:12:56.97
『僕は好きさ サカナが好きさ 筋肉少女帯』

こういう曲も・・・なぜ詳しいんだろう
0244日本@名無史さん2019/01/13(日) 00:14:59.35
『浦島太郎』〜『』〜『』『』『』・・・・・・・・
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

『松傾』
0245日本@名無史さん2019/01/13(日) 00:28:40.00
『聖書 漁師』

このような話があったり、どういう事なんだろう
0246日本@名無史さん2019/01/13(日) 00:44:03.65
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
0247日本@名無史さん2019/01/13(日) 01:12:30.70
>>20
庄内甕と併行し、あるいは後続する筑前型庄内甕が比恵那珂遺跡で出るのは、久住のTB期新相だけどな。
0248日本@名無史さん2019/01/13(日) 01:36:18.63
>>212
石野博信や豊岡卓之の纏向編年と、寺澤薫の庄内式の年代は大きく異なる。
庄内3式が270年〜290年とするのは、石野や豊岡の編年だ。
“大した違いではない”どころではない。
不思議だとか、どうだとかばかり言ってないで、自分でいろいろ調べてみるさ。
0249日本@名無史さん2019/01/13(日) 02:13:34.42
>>248

それ河内庄内V期だろ?
0250日本@名無史さん2019/01/13(日) 02:59:46.78
>>196
どうしても南を東にしたいのはわかるが
憶測で語るのは?????????
0251日本@名無史さん2019/01/13(日) 03:05:35.12
ザラコクの南と東は違うは
子どもでも理解できるか明快な反論である
0253日本@名無史さん2019/01/13(日) 04:33:30.86
>>429
>>卑弥呼が記紀から抹消されたのは朝貢外交だけだろうか<

>単に古すぎて十分な記録・記憶がなかっただけだと思うよ
欠史八代くらいの年代だから
卑弥呼の名前で書いてないだけとも考えられるし <

大和政権は、
卑弥呼や壹與が自国内の歴史伝承には存在しない、別の国の九州倭国の女王であった、
という事を知っており、
それが大和国内にもかなり周知であったから、完全無視も出来ず、
だから、書紀の神宮紀に「卑弥呼と壹與の名前を書かずにの事績のみを紹介する、
というインチキをして誤魔化した。
0254日本@名無史さん2019/01/13(日) 04:35:51.21
>>250
誰だって間違えることはある・・・これ人類の常識
0255日本@名無史さん2019/01/13(日) 04:43:32.01
>>430
>>女王国が大和にあれば東の国々は全て陸続きですから渡海の必要はありません。<

>魏略では、対馬や壱岐のこと
倭国ら辺にある島は、渡海千里で離れている島も含めて「皆」倭種だって言ってるだけ<

この大和説男は、何を言いたいのか?がよく判らず、バカ過ぎる。

>旧唐書の別種表記に引きづられて、別の国だと思っているのがバカすぎる<

記紀も、卑弥呼や壹與の名前が、大和内の伝承には存在しない、という事を知っており、
それを、「同じ大和國の中の女王だった」とするこの男は、バカ過ぎる。
0256日本@名無史さん2019/01/13(日) 04:57:37.66
>>433
>>畿内説は倭人伝の大部分を否定しないと成立しないの?<

>畿内説は「陳寿が倭国を会稽の東まで続く南北に長い島だと誤認していた」とするだけで
そのまま読めるよ <

「会稽の東」ではなく「会稽東治之東」だし、
信頼性や客観性が高い史料記載を、「都合が悪い記載を誤認だとする」、
というようなインチキ騙しの詐欺をすりゃ、
そりゃ、どんな小説でも妄想でも偽作出来るよ。

>まあ、個人的には末盧国から東南500里は、伊都国行きじゃない旅程が
紛れ込んでると判断しているけど <

まあ、スレ主や「類スレ主」らは、普通の人間ではなく、
・・・・詐欺師人種だろう、とは思っているけど。
0257日本@名無史さん2019/01/13(日) 05:01:09.92
>>434
>>撤去する理由が良くわからないので教えてくれないか <

>あの建物はね三輪神社の初期の祭殿
柱は三輪明神大神神社に移転されたのだよ
纒向は神社
境内で市も催されてるし、祭事も行われている
境内だから集落跡がなくてもOK
邪馬台国の王都では無い <

ふーん?、これは「葛城」の投稿か?。
0258日本@名無史さん2019/01/13(日) 05:02:26.69
>>248
>石野博信や豊岡卓之の纏向編年と、寺澤薫の庄内式の年代は大きく異なる。
>庄内3式が270年〜290年とするのは、石野や豊岡の編年だ。
>“大した違いではない”どころではない。

庄内3式が270年〜290年とするのは石野や豊岡の編年だって
どこの誰が言ってるの?

どこの誰が?


不思議だなあ
0259日本@名無史さん2019/01/13(日) 05:07:50.99
>>436
>>不彌國から、北へ玄界灘へ一旦出て、東回りか西回りで、海岸沿いに水行二十日した。<

>ザラコク理論では、出発方向が北なんだから北至邪馬壹國って書かれなきゃいけないだろ?ww<

投馬國説明は、「出発+途中+到着」の中の途中移動の文言がないから、
魏使らの移動行程説明ではなく、不彌國からの側副傍線國の位置の説明になっているの。
0260日本@名無史さん2019/01/13(日) 05:19:43.61
>>455
>理由もなく間違っていると言っても意味はない 現実には勝てないww <

「東南」は出発時点での出発方向だし、
「陸行五百里」の途中では、伊都国は全く見えていない。
0261日本@名無史さん2019/01/13(日) 05:21:24.77
>>259
「出発+途中+到着」の中の
途中移動の文言がないと
移動行程説明ではないって
誰が決めたの?
0262日本@名無史さん2019/01/13(日) 05:24:59.84
>>457
>>「東至安南如至成都,通水陸行」は、陽苴棟驍ゥら安南へ向かう通行路の説明 。
成都へ至る道と同じような東向きのコースを通って通水陸行をして至れる、
という説明文。<

>それだと今度は「『東北」至成都二千四百里」が間違いになる
最初は同じ昆明行きの道だからな<

「東北至成都二千四百里」には、「通水陸行」がないから、「通行路説明ではなく、
「至」は「位置説明」。
0263日本@名無史さん2019/01/13(日) 05:28:47.90
>>262
じゃあ、なんで伊都国のことは「位置説明」しないの?
0264日本@名無史さん2019/01/13(日) 05:30:28.26
>>462
>九州説の脳内では各種のデータからそうなってるんだよ<

大和説の脳内では、
「客観性や信頼性が高くで都合の悪い史料事実データ」を、
なんでも「過誤だ、誤認だ」とするインチキから、
なってるんだよ。
0265日本@名無史さん2019/01/13(日) 05:31:38.79
>>264
という証拠は?
0266日本@名無史さん2019/01/13(日) 05:32:14.37
>>465
ほら、また論破された大和説が荒らしをはじめますよー 。
0267日本@名無史さん2019/01/13(日) 05:36:40.40
>>266が、荒らしだよ
0268日本@名無史さん2019/01/13(日) 05:36:47.25
>>468
九州説は、史料事実や人類の常識に基づいた帰納的確率的な推論を組み立ててるからな。

大和説は、今日も史料事実や史料実態からの反論が出来ず、
インチキギャグで、世間の人々を騙そうとする事しかできないんだろうなぁ。
0269日本@名無史さん2019/01/13(日) 05:39:14.91
いっぱい書き込むけど決して証拠は明かさない
情報ソースは常に秘密

それが九州説
0270日本@名無史さん2019/01/13(日) 05:39:43.27
>>268
そんなことした証拠は?
0271日本@名無史さん2019/01/13(日) 05:40:46.40
>>469
大和説者は、帰納的って言葉の意味が分かってないんだよ。
あと、史料事実や、
史料事実からの帰納的推論に拠って得られた史料実態、
って言葉の意味もわからないわからならしい。」
0272日本@名無史さん2019/01/13(日) 05:45:38.94
>>430
実際に距離も方向も九州の中で決着が付いているのに、
「南→東は絶対!」とか喚いてる馬鹿が何をほざいてるのやら 。

魏志倭人伝の記載を、伝説の頃からの記載と変わらん、と都合のいい解釈叫んでるだけのサルが。
0273日本@名無史さん2019/01/13(日) 05:48:10.68
>>272
どう決着が着いてるの?
邪馬台国の位置さえ
九州説の仲間内で
絞れないのに
0274日本@名無史さん2019/01/13(日) 05:51:33.50
>>476
>方向を間違えるわけがない!とか喚き散らした後に
「会稽の東に無いのは方向を間違えたからだ」とか平気な顔で言い出すからな<

言い出さない。
「会稽の東」という文言が間違い。「会稽東治之東」だから。
0275日本@名無史さん2019/01/13(日) 05:58:37.12
>>477
>>それなら、太陽視角を0.5度として、
夏至正午の8尺棒の影端部での「地面での半影長」と、
冬至正午の8尺棒の影端部での「地面での半影長」とを計算して調べて、
どれ位の半影幅の差があるのか?を比べてみな。<  

>それを自分で計算して、相手に検算をお願いするのでなければ書き込みは無意味だよ <

何だ?、「類スレ主」は、確認計算もせずに、脱げるんかいな?。
すれば、13.5尺は、太陽視角の半影に「ぎりぎり」であった、
という事が分かった筈なのに。
0276日本@名無史さん2019/01/13(日) 06:00:01.63
あのーー
まだ見つからないの
纒向の大集落跡まだなの
斎場で決まりなの

あのーー
まだ見つからないの
纒向の高楼城柵大まだなの
市場で決まりなの 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b)
0277日本@名無史さん2019/01/13(日) 06:01:39.02
>>481
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説名物の、
論破された後の荒し行為、はーじまーるよー。
0278日本@名無史さん2019/01/13(日) 06:06:46.53
>>492
大和説者らの、
史料と常識に基づいた各種データからの判断、
なんてこの程度だと分かる。
0279日本@名無史さん2019/01/13(日) 06:08:41.51
>>274
「会稽東治之東」ならば
北緯30°の会稽よりはるか北の北部九州はあり得ない
つまり方位は間違いで、短里も使っていない
南九州には遺跡がない

九州説は絶望だね
0280日本@名無史さん2019/01/13(日) 06:10:01.85
>>278
この程度とはどの程度?
リンクに飛べないようにして
ウソ誤魔化しの大盤振る舞いか
0281日本@名無史さん2019/01/13(日) 06:13:54.85
>>502
都合よくぼくちゃんの妄想にすべてを合わせて好き勝手なことを喚き散らすのが、
大和サルの 「史料と常識に基づいた各種データからの判断」。
0282日本@名無史さん2019/01/13(日) 06:19:48.15
>>504
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説って、
間違っているといわれても無視して間違ったコピペを張り続けるよな 。
荒らしってことだけどさ 。
「東南」は末盧國出発時点での出発方向で、
「陸行五百里」の途中では、目的治の伊都国は見えていない、
というだけの事だぞ!。
0283日本@名無史さん2019/01/13(日) 06:22:38.78
こんなふうに延々とデタラメを貼り付け続けるだけが九州説でございますよ
0284日本@名無史さん2019/01/13(日) 06:25:24.30
>>506
>逆だ 大陸中華の知識人の間では、倭国は会稽の東の南国だと思われているから、
「南と書かない」と、その文書の信用が失われる<

逆だ。
陳寿は、蜀の役人出であるから、猶更、
魏使らの記録を曲解改竄をしてバレれば、更に信用をされなくなるもの。
0285日本@名無史さん2019/01/13(日) 06:35:24.96
>>282
で?

その魏使さん一行は末盧から伊都に着くまで
行程の9割以上にわたってお天道様の下を東南以外の方向に陸行していたわけだけど
「東南陸行」と書き残すことになんの疑問も感じなかったの?

九州説って不思議ですね
0286日本@名無史さん2019/01/13(日) 06:58:30.42
まぁまぁ、  

里程がどうあれ、たびたび大陸・半島と倭国(阿波)は往来して通交してるんだから、そんなこと、どうでもよろしいがな。  @阿波
0287日本@名無史さん2019/01/13(日) 07:28:51.34
>>508
大和説は、方角が間違っていない、と認めた瞬間、
九州説の方が明確に妥当だと分かってるから
方角が正しいという「可能性」すら認められない
大和説は、長里がなかったらその瞬間、論立てが一切できなくなるから、
長里があるんだーと わめき続ける
惨めなものよの
0288日本@名無史さん2019/01/13(日) 07:34:33.71
>>511
>魏志倭人伝の短里もそうなんだが、誇張された盛った数字を短里だと言い張ってるだけ<

「誇張」されたウソだ、と判った瞬間に、魏使らの首が危ないし、陳寿は認められないし、
魏略も信用されなくなるもの。

>日本書紀のは、よその盛られた数字をそのまま持ってきただけ
日本に短里があったわけじゃないww<

この「ww=類スレ主」は、日本書紀の「どの里記載」の事を言っているのか?を隠して伏せて、
またインチキ詐欺をしようとしている。
0289日本@名無史さん2019/01/13(日) 07:34:35.88
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
0290日本@名無史さん2019/01/13(日) 07:39:25.27
>>512
>仮に日本書紀にタンリとやらがあってだから何なんだ?w <

大和説者の「短里なし」説が×になるだけ。

>まぁ日本書紀を信じると言うなら神功皇后は卑弥呼に比定されてるんで畿内と言う事を主張してる事になるだけだがな
疑わしかろうが何だろうが信じるらしいし<

またこの大和説者は、変な事をしゃべっている。
書紀は、「卑弥呼と壹與の二人の事績」を一人の神功紀に入れてあるから、半分×書だ、と言われているんだよ。
0291日本@名無史さん2019/01/13(日) 09:11:54.13
畿内説だと卑弥呼の墓はどれ?
0292日本@名無史さん2019/01/13(日) 09:12:34.46
韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0293日本@名無史さん2019/01/13(日) 09:14:38.74
>>166
>瀬戸内航路は、卜骨や吉備型甕が出ている愛媛を通るだろうね

なぜ魏志倭人伝にはこれらの国への里程が書かれていないの?
0294日本@名無史さん2019/01/13(日) 09:18:21.74
【庄内式土器】

1,「庄内式土器研究会」の全国的(釜山〜関東)調査によれば、庄内式土器の中心出土地は纒向ではなく、中河内(八尾市・大阪市・東大阪市・柏原市)であり、その規模は纒向を「都市」とすれば、中河内は「大都会」である。
2.中河内の遺跡群には各地(特に多いのは吉備・播磨・四国地方などの西からの搬入)からもたらされた土器がかなりの頻度で出土している。大和の遺跡が東海や近江・北陸といった東の地域からの土器搬入が目立つのとは対照的。
3.河内の庄内式土器は西日本各地への移動が確認されているが、大和の庄内式土器はほとんど移動していない。
4.今まで日本各地から出土する大和の庄内式土器とされていたものは、ほとんど播磨の庄内式土器であって、大和の庄内式土器が移動している例は数えるほどしかない。
5.播磨で作られた庄内甕と畿内の遺跡の庄内甕は瓜二つで、近年の胎土の研究の進展により区別できるようになった。
6.大和盆地で庄内甕が出土するのは東南部だけである。すると庄内式が大和から全国に広がっていったとする従来の考え方を改めなければならなくなった。
7.胎土の研究を進めていくと、庄内式土器の次の段階の布留式土器が大和で発生し、初期大和政権の発展とともに全国に広がったとする現在の定説も否定しなければならない。
8.なぜかというと、胎土観察の結果、布留甕の原型になるものは畿内のものではなく、北陸地方(加賀南部)で作られたものがほとんどであることがわかった。
9.しかも北陸の土器の移動は畿内だけでなく関東から九州に至る広い範囲で行われており、その結果として全国各地で布留式と類似する土器が出現する。
10.したがって、日本各地に散見する布留式土器は畿内の布留式が拡散したのではなく、初期大和政権の拡張と布留式土器の広がりとは無縁であることが胎土観察の結果、はっきりしてきた。
0295日本@名無史さん2019/01/13(日) 09:19:16.64
後漢書

倭在韓東南大海中依山㠀為居凡百餘國 自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國 國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也) 楽浪郡徼去其國萬二千里其西北界狗邪韓國七千餘里 其地大較在會稽東冶之東與朱崖儋耳相近故其法俗多同

「倭は韓の東南、大海の中にある。山島に居住して、すべてで百余国。武帝が(衛氏)朝鮮を滅ぼして以来、漢と交流のあったのは三十国ほどである。国はみな王を称し、代々受け継いでいる。その大倭王は邪馬台国に居る(今の名を案ずると、ヤマユイ音のなまりである)。
楽浪郡の境界は其の国を去ること万二千里。その西北界の狗邪韓国を去ること七千余里。その地は会稽、東冶の東にあり、朱崖、儋耳に近く、法や習俗に同じものが多い。」

建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬

大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。

つまり、倭国とは狗邪韓國から倭奴国まで。
畿内は倭国の中に含まれず、まして倭国女王卑弥呼がいたはずもない。
畿内にいたのは、墓が大きいだけの地方豪族だけである。
0296日本@名無史さん2019/01/13(日) 09:20:56.34
その魏使さん一行は邪馬台国までお天道様の下を旅していたわけだけど
何日も東を南と思い込んでいたの?

畿内説って不思議ですね
0297日本@名無史さん2019/01/13(日) 09:25:55.28
嘘ばかりの九州説が陳寿の信用なんて心配するのは何かのギャグですか
0298日本@名無史さん2019/01/13(日) 09:30:55.16
>>293

東夷伝の他の国も書いてない
0299日本@名無史さん2019/01/13(日) 09:33:35.15
陳寿が信用できないと叫び続けている畿内説が何を言う。
0300日本@名無史さん2019/01/13(日) 09:34:40.80
>>298
倭については不弥国までは書いてあるんだから。
0301日本@名無史さん2019/01/13(日) 09:44:02.08
韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0302日本@名無史さん2019/01/13(日) 09:48:12.52
>>300

不弥国までは漢代の里程情報があったんだろう
従属している伊都國以降だんだんと詳細記述が薄くなっている
0303日本@名無史さん2019/01/13(日) 09:49:27.74
伝世文献を全面的に信用する方がおかしいのだが
0304日本@名無史さん2019/01/13(日) 09:50:38.04
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 
0305日本@名無史さん2019/01/13(日) 09:55:27.03
>>250
>憶測で語るのは?????????

これは憶測じゃなくて事実だろ?
史書に書いてある方角は間違うときは間違うんだよ

九州上陸後の末盧国ー伊都国間、伊都国ー奴国間の方角は明確に間違っている
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1546683723/463
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1546683723/498

九州説の言い分がダメダメなのは、これを認めないところ
「たとえその場で方角を間違わなかった「としても」史書の編纂までの間にいくらでも方角の錯誤は起こりうる」

これを否定するのは不可能であり、実際に間違っているという現実により九州説の言い分が間違っていることは、証明されている

>>250が憶測だと言っている部分も憶測ではなく推定
「史書の編纂までの間にいくらでも方角の錯誤は起こりうる」の、
多くの可能な錯誤の原因のうち、蓋然性の高いものが例示してある

>>250は批判にも反論にもなっていない
具体的な指摘もない
0306日本@名無史さん2019/01/13(日) 10:09:51.26
いくら騒いでも南は南。
0307日本@名無史さん2019/01/13(日) 10:29:34.75
韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0308日本@名無史さん2019/01/13(日) 10:35:51.75
>>262
>「東北至成都二千四百里」には、「通水陸行」がないから、「通行路説明ではなく、
>「至」は「位置説明」。

ザラコクや、お前さん本当にいい加減なデタラメ野郎だなww
以前は「成都に行く経路でも揚子江の上流の川が見えるから通水陸行するんだ」って
デタラメインチキを言い張ってたじゃないかww

それをザラコクは撤回修正してないぞw

つまり、「通水陸行」は成都、安南の両経路の説明というのがザラコクの主張だ
つまり両方ともザラコクの言う「通行路説明」になるんだよ、ザラコク定義ならなw

まあ、その前に、連続する一つの文中に、異なる概念がなんの説明もなく書かれていると
考えるのがそもそもおかしいんだがなw

どうがんばっても、成都行きまたは安南行きの方角は間違っている
旧唐書
皋遂命巡官崔佐時至牟尋所都陽苴?城,南去太和城十餘里,
東北至成都二千四百里,
東至安南如至成都,通水陸行

この陽苴?城から、成都が東北、安南が東という地理記事、明確に方角が間違っている
成都行きの東北は正しい
https://i.imgur.com/E4DWpA7.jpg
安南行きの東は、東南の間違い
https://i.imgur.com/RCcfxY6.png

地図を見れば一目瞭然
0309日本@名無史さん2019/01/13(日) 10:36:37.37
どうがんばっても南は南。
0310日本@名無史さん2019/01/13(日) 10:52:38.96
>>275
>何だ?、「類スレ主」は、確認計算もせずに、脱げるんかいな?。
>すれば、13.5尺は、太陽視角の半影に「ぎりぎり」であった、
>という事が分かった筈なのに。

それを論証する側が示さないと意味ないんだって!

半影まで考えた影の長さも計算されている

『周髀算経』の新研究1
 『周髀算経』影の測定 イワクラ(磐座)学会 江頭 務
http://www.geocities.jp/yamauo1945/shuhisankei1.htmlより引用


   測定条件      表の影の長さ
             夏至      冬至
A 本影(影は最短)S1  15.04寸    129.2寸
B 半影(影は中間)S2  15.42寸    130.6寸
C 半影(影は最長)S3  15.80寸    132.0寸
   『周髀算経』    16寸      135寸

一寸の影の長さを気にする周髀算経で3寸も影の長さが違ってたら何もいえないだろ?

周髀算経は影の長さを実測してない机上の計算の書で現実の地理とは無関係
従って短里の根拠にはならない
0311日本@名無史さん2019/01/13(日) 10:56:45.76
ほらな
やっぱり谷本計算の方が3寸間違ってたんだ
0312日本@名無史さん2019/01/13(日) 10:57:16.94
>>287
>大和説は、方角が間違っていない、と認めた瞬間、
>九州説の方が明確に妥当だと分かってるから

ならないよ?
方角が正しいと仮定しても、九州説では
会稽東治之東に合わない
水行十日陸行一月に合わない
径百歩の墓の候補すらない

などなど妥当だと考えるべき理由がない
0313日本@名無史さん2019/01/13(日) 10:58:08.93
あらら短里の根拠無くなったのか
短里に立脚してきた九州説終わったな
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