北部九州にあったことが確実な不弥国からの道程を
「南に」水行二十日で投馬国、そこからさらに「南に」水行十日陸行一月、と「東→南」に、例外的に方角を書き換えることで、
道程(所要時間)については正しく、かつ見事に、歴代倭王権のあった北部九州の奴国同様、
新しく倭国の盟主となった邪馬台国が(北部九州同様、呉を背後からすぐに攻撃してくれる)「会稽の東」と書ける
つまり「邪馬台国=会稽の東」という結論ありきで不弥国〜大和までの道程を書こうとした時にのみ、まさに魏志倭人伝 のような記述になるの