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邪馬台国四国説 part2
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0003日本@名無史さん垢版2019/01/17(木) 18:15:27.00
3年ぶりの新スレか。
新スレ、開けましておめでとうございます。
0004日本@名無史さん垢版2019/01/17(木) 18:20:51.79
邪馬台国は,
畿内大和説があこがれたような、女王を戴くユートピア国家ではなかった。
事実は、鉄器で完全武装した渡来人侵入者で、(奈良にあらざる)奈良ず者国家だったのだ。
そして@阿波の先祖も、鉄の片棒を担いでいたのだよ。
0005日本@名無史さん垢版2019/01/17(木) 20:03:37.58
蓮華谷古墳群(U)二号墳
「蓮華谷古墳群」
当物件は、平成2年に四国縦貫自動車道建設に伴い発掘調査された板野郡板野町犬伏所在の蓮華谷古墳群(U)二号墳の出土品である。
調査により古墳時代前期(3世紀後半〜4世紀)の粘土槨を持つ円墳であることが判明し、本県の粘土槨の始原を考える上で重要な古墳である。
副葬品には銅鏡1、鉄製武器工具(鉄刀1、鉄剣1、鉄斧1、鉄鉇1)、装身具(翡翠勾玉1、碧玉管玉11)、土師器壺1があり、徳島県立埋蔵文化財総合センターで展示されている。
前期古墳の出土資料は全国的にみても数少なく、特に銅鏡は仿製鏡の古墳への副葬開始時期を考える上で重要な資料である。
蓮華谷古墳群(U)二号墳出土品
http://www.geocities.jp/yamatai4/oasa/renge.html
0006日本@名無史さん垢版2019/01/17(木) 20:46:45.26
「蓮華谷古墳群」
県道12号線の上で、標高は高そうだから、津波安全地帯を選んでいるようだ。
鉄斧その他は、熊本の方保田東原につうずるから、やはり邪馬台国同友の奈良ず者だったのだろうな。
0008日本@名無史さん垢版2019/01/18(金) 14:42:34.16
砂鉄をなんに使ってたんだろうね?
砂鉄は製鉄で使うもので
鍛冶には使わない(使えない)

今のところ、日本国内での製鉄遺構は
5世紀以降で、
それ以前は鍛冶遺構だからね。
0009日本@名無史さん垢版2019/01/18(金) 18:30:33.32
>>8
製鉄を試みたかもね。  @阿波
0010日本@名無史さん垢版2019/01/19(土) 08:35:50.14
倭国大乱は、西日本を巻き込んだ動乱で、
徳島へも押し寄せたようなことが書いてあるな。
四国山脈沿いの、いわゆる中央構造線ハイウエーを伝って、
九州から、鉄のクニのならず者たちがなだれ込んできたのだろう。
0011日本@名無史さん垢版2019/01/19(土) 10:08:53.16
矢野遺跡の発掘結果には、なにか不自然みたいなところを感じるけどな。
なぜ、銅鐸があんな横倒しの姿形で出てきたのかな?
なぜ、貴重な砂鉄入り壺とかが放棄されたのかな?
ホントは遺跡全体が、津波とか、洪水で洗われた跡なんだけど、解説してないんじゃないのかな?
0012日本@名無史さん垢版2019/01/19(土) 11:12:54.97
>>11
>なぜ、銅鐸があんな横倒しの姿形で出てきたのかな?

小屋建てして、丁寧に埋納されているんだけど?  @阿波
0013日本@名無史さん垢版2019/01/19(土) 11:17:39.39
>>11
>ホントは遺跡全体が、津波とか、洪水で洗われた跡なんだけど、解説してないんじゃないのかな?

もちろん、津波や洪水被害は有っただろうが、すぐに再興したんだろうね。 邪馬台国の国力をもって。  @阿波
0014日本@名無史さん垢版2019/01/19(土) 11:41:13.27
銅鐸小屋の説明はそうだが、
出雲の銅鐸は、邪馬台国からの侵入者ヤマタノオロチに慌てて隠した様子だ。
だから、阿波のはなんか腑におちない。
トイレでも装って隠したのかな。それともその前に、小屋ごと洪水で流されたか…
0015日本@名無史さん垢版2019/01/19(土) 11:47:45.79
>>14
>だから、阿波のはなんか腑におちない。

「忌部はん」 の本拠地(邪馬台国)なんだから、特別なんだよ。  同じ「忌部はん」 でも、出雲忌部とはわけが違うわね、そりゃ。  @阿波
0016日本@名無史さん垢版2019/01/19(土) 11:55:42.74
なんだ、ヤマタノオロチとは忌部のことだったのか。
そーいや、出雲にも忌部という地名があるようだ。どのみち同類の大蛇オロチか。
まてよ、高千穂の後ろの祖母山には大蛇が住んでいたという平家物語の一節もあった。もしかして邪馬台国のヤマタの大蛇のことかもしれぬ。
0017日本@名無史さん垢版2019/01/19(土) 12:14:37.06
出雲でヤマタノオロチを退治したのは、新羅系のスサノオノミコト(大国主命も新羅系)
なるほど、ヤマタノオロチとは邪馬台国のオロチ(大蛇)のことか・・・、
だから、退治したら、オロチの腹から草薙の剣が出てきたのだな
0018日本@名無史さん垢版2019/01/19(土) 13:07:17.80
>>16
>そーいや、出雲にも忌部という地名があるようだ。

出雲の勾玉も、倭国(阿波)を発った出雲の「忌部はん」作製だからね。  @阿波
0019日本@名無史さん垢版2019/01/19(土) 13:15:31.57
アワ忌部は、山陰だけでなく、あちこち荒らしまわったのか、
だから、頭が八つもある大蛇だと、各地で忌み嫌われたのだろうな。
0020日本@名無史さん垢版2019/01/19(土) 13:36:46.35
>>19
>アワ忌部は、山陰だけでなく、あちこち荒らしまわったのか、

その通り。 関東はおろか、朝鮮半島まで荒らしまわってるよ、「忌部はん」 は。  @阿波
0021日本@名無史さん垢版2019/01/19(土) 14:28:18.07
九州スレも、荒らしまわってるしな、、、
0022日本@名無史さん垢版2019/01/19(土) 17:33:51.30
>>21
>九州スレも、荒らしまわってるしな、、、

畿内スレもね、、、  @阿波
0023日本@名無史さん垢版2019/01/19(土) 22:57:13.36
福津に上陸した@阿波は間もなく帰ってくるだろうな
なんせ、邪馬台国と女王の都は、阿波の忌部の邑にあるんだからな、、、
それにそのすぐ先には、女王の裸国もある、パラダイスが待ってるぞ〜〜
0024日本@名無史さん垢版2019/01/19(土) 23:49:06.00
フフフの福津に上陸したはずの阿波はどこかで迷子になったようだな、、、
どうせ、阿波には帰り着けないだろうな。かわいそうに・・・
0025日本@名無史さん垢版2019/01/20(日) 01:27:22.47
邪馬台のオロチなのか
0026日本@名無史さん垢版2019/01/20(日) 07:33:54.40
>>24

なに言ってんの?  倭国(阿波)へは東南陸行五百里行くように書いてあるだろ。  
倭人伝通りに行けば倭国(阿波)に着くように書いてあるなるんだから、迷子になる訳ないわね。  @阿波
0027日本@名無史さん垢版2019/01/20(日) 08:23:53.76
それにしては、まだあちこちで悪さをし、道草を食っておるようだ・・・
阿波国にとっては、頼りになりそうもない男だな。
0028日本@名無史さん垢版2019/01/20(日) 08:33:22.59
>>27
>それにしては、まだあちこちで悪さをし、道草を食っておるようだ・・・

いや、とっくに卑弥呼より前から倭国(阿波)に到着しているよ。 ご心配なく。


>阿波国にとっては、頼りになりそうもない男だな。

倭国(阿波)にとって、もともと私など無用だよ。  遺跡や遺物、神社などが真実を物語ってくれているから。  @阿波 
0029日本@名無史さん垢版2019/01/20(日) 09:12:30.96
おう、苦労しつつも無事帰ってきたか、、、
なかなかのご苦労であった。これで女王卑弥呼も、阿波国も、阿波の人々も、末永く安泰であろう。
0030日本@名無史さん垢版2019/01/20(日) 10:13:01.88
消去法で四国説支持だが
出雲、日向が阿波にあった説は苦しいな
0031日本@名無史さん垢版2019/01/20(日) 11:08:45.81
>>30
>出雲、日向が阿波にあった説は苦しいな

えっ、出雲や日向が記紀において、地名だと思ってるの?
宮崎の「日向」も、福岡の「筑紫」も、島根の「出雲」も、和銅6年(713)5月の「好字令」によって勝手気ままにつけた地名だよ。 
何か勘違いしてないかい?  @阿波
0032日本@名無史さん垢版2019/01/20(日) 12:08:43.76
で、阿波博士に聞きたいのだが、
阿波は、いつ名づけられたのか?、
0033日本@名無史さん垢版2019/01/20(日) 12:52:54.34
>>32

和銅6年(713)5月の「好字令」によって勝手気ままにつけた地名だよ。  @阿波
0034日本@名無史さん垢版2019/01/20(日) 14:22:23.06
さすが阿波博士は、畿内説のなりすまし
0035日本@名無史さん垢版2019/01/20(日) 15:03:53.60
>>34
>さすが阿波博士は、畿内説のなりすまし

???  なに考えてんの?

@ 最初は、北の邪馬台国(粟国) と 南の狗奴国(長国)
A その後、「粟国」に統一
B 和銅6年(713)5月の「好字令」によって「阿波国」となる。  @阿波
0036日本@名無史さん垢版2019/01/20(日) 15:14:44.14
さすが阿波博士は、畿内説の覆面パトカー
0037日本@名無史さん垢版2019/01/20(日) 16:55:16.18
残念だが和銅より前に筑紫や出雲はあったんだよ
九州や山陰を飛び越して、アワが栄えることもない
どうやったら、そうなるのか説明してみ
 
0038日本@名無史さん垢版2019/01/20(日) 17:28:27.18
>>37
>残念だが和銅より前に筑紫や出雲はあったんだよ

残念だが、妄想。


>九州や山陰を飛び越して、アワが栄えることもない

まぁまぁ、  
九州や山陰がどうあれ、たびたび大陸・半島と倭国(阿波)は往来し、鉄素材や中国鏡や中国朱などを交易してるんだから、そんなこと、どうでもよろしいがな。  @阿波 
0039日本@名無史さん垢版2019/01/20(日) 17:34:49.98
>>37
>どうやったら、そうなるのか説明してみ

弥生人にとって、「阿波」はまさに理想の土地。
温暖な気候・多数の大河の恵み・大河流域の土地の恵み・黒潮流れる大海の恵み・山深い森林の恵み・多種類の希少鉱物の恵み
県北部(邪馬台国)には、銅、泥質片岩、緑色片岩、翡翠、蛇紋岩、紅蓮石
県南部(狗奴国)には、辰砂が採れる。
阿波に人が集まり、独自文化が発祥・全国展開したのは、当然といえば当然。   @阿波
0040日本@名無史さん垢版2019/01/20(日) 17:36:24.77
>>37
>どうやったら、そうなるのか説明してみ

「倭国(阿波)の最先端文化・技術」  九州や畿内などとの圧倒的な差ですね。  @阿波
@勾玉
A軽量薄型土器
B前方後円墳
C水銀朱
D緑色片岩製柱状片刃石斧
E泥質片岩製石棒
FT類鉄鍛冶炉
G航海術
その他いっぱい
0041日本@名無史さん垢版2019/01/20(日) 17:55:02.11
大事な金製品と絹は?
0042日本@名無史さん垢版2019/01/20(日) 18:00:48.17
>>41
>大事な金製品と絹は?

なにそれ? それがなにか?  @阿波
0043日本@名無史さん垢版2019/01/20(日) 18:03:43.33
さすが阿波博士は、(畿内〜)阿波にかけては、なかなかの博識ではないか、、、
0044日本@名無史さん垢版2019/01/20(日) 18:10:27.27
>>43
>さすが阿波博士は、(畿内〜)阿波にかけては、なかなかの博識ではないか、、、

有るものを挙げただけだよ。
これといったものが無いところは、出来ない話だけどね。  @阿波
0045日本@名無史さん垢版2019/01/20(日) 21:30:35.68
宮崎や島根は和同より前は何と呼んでいたの?
0046日本@名無史さん垢版2019/01/21(月) 07:04:51.43
>>45
>宮崎や島根は和同より前は何と呼んでいたの?

分かっているのは、やはり倭国(阿波)だけじゃないの?  @阿波
0052日本@名無史さん垢版2019/01/25(金) 06:30:06.14
日本最古のお寺が阿波に在った可能性が、非常に高いってこと。

「郡里廃寺跡 (白鳳寺院)」
吉野川の北岸、扇状地上に営まれた白鳳時代創立の寺院跡である。
早くから立光寺跡として知られていたものであり、調査の結果「法起寺」式伽藍配置をとるものであることが判明した。
塔跡基壇は各辺12メートルをはかり、塔軸部初重の1辺は中の間が2.3メートル、両脇間はそれぞれ2.08メートルと復原することができる。
塔心礎は旧地表下に据えたものであり、中央に径13センチ、深さ6.5センチの舎利孔が穿たれている。
心礎上に据えた心柱は、南北径1.06メートル、東西径1.08メートルをはかる不整八角形を呈し、心柱四周を根巻板で囲むことが知られた。
金堂跡は東西18メートル、南北15メートル前後と復原される。塔、金堂間の心を東西に47メートルへだてた位置に石敷列が走り、
その下方に土塁を発見しており、また塔、金堂心より南北に60メートルをへだてた位置で同様な遺構を発見し、寺域をほぼ知ることができる。  @阿波
0053日本@名無史さん垢版2019/01/25(金) 06:31:53.27
「石井廃寺跡」
石井廃寺は、南に緩く傾斜する段丘面上にある古代寺院である。
古くから瓦の出土などにより寺院の存在が推定されていた。
1957年(昭和32年)〜1959年(昭和34年)発掘調査が行われ、東に塔、西に金堂が並ぶ
法起寺式の伽藍配置であることが分かった。
また、明瞭な遺構は確認されないものの、二つの伽藍の北に講堂、南に中門が存在した
と推定されている。
出土遺物には瓦・土師器・須恵器の他に瓦塔などがある。
瓦の文様などから奈良時代前半に建立されたと考えられる。  @阿波
0054日本@名無史さん垢版2019/01/25(金) 06:32:44.41
「入田瓦窯跡」 
http://goutara.blogspot.jp/2011/06/blog-post_25.html
内御田窯跡群の中のひとつであり、気延山南の東斜面にある。奈良時代に屋根瓦を焼いた
窯跡で、外に須恵器も焼かれている。
18段の小さい段状の燃焼部と煙出し部分が確認されているが、燃料を燃やす焚き口部分は
残っていない。全長10m、幅1.3m、勾配45度の瓦窯様式である。
軒丸瓦と軒平瓦が出土しており、阿波国分寺跡・阿波国分尼寺跡・石井廃寺跡などで見つ
かっていることから、瓦を供給されるために作られたことが分かる。
奈良時代から平安時代初頭と案内の看板には記されているが、石井廃寺跡出土瓦
と同形式であるならば白鳳文化と呼ばれる頃と推測される。  @阿波
0055日本@名無史さん垢版2019/01/25(金) 09:37:11.27
阿波路に古代鉄の遺跡があるだろう
0056日本@名無史さん垢版2019/01/25(金) 09:47:23.75
阿波は阿波路でもつ、阿波路は阿波でもつ
0057日本@名無史さん垢版2019/01/25(金) 09:58:13.22
淡路島は倭国(阿波)の数ある諸島の一つだから。   @阿波
0058日本@名無史さん垢版2019/01/25(金) 10:17:36.85
我が家のご先祖は、伊弉諾尊を奉る阿波路の豪族だった。
@阿波氏はその一の重臣だったのだろうな。
0059日本@名無史さん垢版2019/01/25(金) 10:35:35.54
四万十国→邪馬台国
0060日本@名無史さん垢版2019/01/25(金) 17:11:35.01
>>49
おもしろい
Wコージの都市伝説で取り上げて欲しいな
0062日本@名無史さん垢版2019/01/26(土) 09:32:35.03
>>61
>法隆寺、四天王寺、飛鳥寺は阿波人が創立?

倭国(阿波)に在った寺院を解体して奈良で再建したんだろうね。 遷都で急を要し、手っ取り早く。  @阿波  
0063日本@名無史さん垢版2019/01/26(土) 10:09:15.83
アワアワアワアワうるさいスレだなw
0064日本@名無史さん垢版2019/01/26(土) 10:51:57.31
>>63
どうしても、アワアワアワアワが気になって、気になって、仕方がないようだね。 そりゃ、アワって興味湧くもんね。  @阿波   
0065日本@名無史さん垢版2019/01/26(土) 11:03:37.00
そうだねえ
四国スレのアワアワアワは超秀才、超有名人だからねえ
(ま、他スレはあれだが、、、)
0066日本@名無史さん垢版2019/01/26(土) 11:34:23.02
淡路島のナントカ鉄遺跡は、やはり五畿内へのアワヒトの拠点だったのだろうねえ。
折角の足掛かり手がかりなのに、
@アワヒトは、そこいらのツッコミが足りねえな
0067日本@名無史さん垢版2019/01/26(土) 21:44:16.68
>>62
法谷寺→法隆寺
●●寺→四天王寺
●●寺→飛鳥寺

●●に郡里廃寺が入る?
0068日本@名無史さん垢版2019/01/26(土) 21:59:14.85
郡里廃寺(法興寺)→飛鳥寺かもね。  @阿波
0069日本@名無史さん垢版2019/01/27(日) 18:25:25.47
「郡里廃寺跡 (白鳳寺院)」
吉野川の北岸、扇状地上に営まれた白鳳時代創立の寺院跡である。
早くから立光寺跡として知られていたものであり、調査の結果「法起寺」式伽藍配置をとるものであることが判明した。
塔跡基壇は各辺12メートルをはかり、塔軸部初重の1辺は中の間が2.3メートル、両脇間はそれぞれ2.08メートルと復原することができる。
塔心礎は旧地表下に据えたものであり、中央に径13センチ、深さ6.5センチの舎利孔が穿たれている。
心礎上に据えた心柱は、南北径1.06メートル、東西径1.08メートルをはかる不整八角形を呈し、心柱四周を根巻板で囲むことが知られた。
金堂跡は東西18メートル、南北15メートル前後と復原される。塔、金堂間の心を東西に47メートルへだてた位置に石敷列が走り、
その下方に土塁を発見しており、また塔、金堂心より南北に60メートルをへだてた位置で同様な遺構を発見し、寺域をほぼ知ることができる。

瓦は同じ美馬市内にある坊僧窯跡群で焼かれたものと考えられている。この坊僧窯跡群の存続は白鳳時代から平安時代にかけてである。

http://awakouko.info/modules/xpwiki/?%C8%FE%C7%CF%BB%D4%2F%B7%B4%CE%A4%C7%D1%BB%FB%C0%D7
https://sueyasumas.exblog.jp/13240604/
https://sueyasumas.exblog.jp/13230836/
0070日本@名無史さん垢版2019/01/28(月) 11:18:34.02
千葉県成田市台方の式内社「麻賀多神社」は麻が社紋。

千葉県印旛(いんば)郡栄町の 大鷲神社 天乃日鷲尊を祀り、社殿天井に「金の鷲」が取り付けられている。

社伝によると「天乃日鷲尊はその子孫代々麻植の神として神功があり,麻に係りのある当地においても祭神となっております」という。

『安房志』によると「天日鷲尊の神霊が,天下に異変がある時は,金色の鷲となって現れるので,

その霊験を畏敬して小鷹の神と称した」とあり、印旛沼の由来は「忌部沼」が訛ったもの。   @阿波
0072日本@名無史さん垢版2019/01/28(月) 17:53:06.15
千葉県勝浦市浜勝浦の 遠見岬神社 の宮司歴代の墓碑には「勝占忌部」と書かれている。阿波忌部の後裔である。 @阿波
0073日本@名無史さん垢版2019/01/28(月) 19:06:06.71
千葉県館山市大神宮の式内大社 安房神社 は天富命が祖父・天太玉命を祀った神社。

宮司の安房忌部系図には,天富命の娘の飯長媛(イイナガヒメ)と天日鷲命の孫である由布津主命(ユフツヌシノミコト)とが結婚して,堅田主命(訶多多主命)を生んで安房忌部の祖としている。

神社境内には「忌部塚」と呼ばれる弥生以前の洞窟遺跡もあり,阿波忌部の先遣隊の塚であろう。  @阿波
0074日本@名無史さん垢版2019/01/28(月) 19:52:35.12
千葉県館山市相浜にある 楫取(かんどり)神社 の祭神は 宇豆彦命(ウズヒコノミコト)で天富命に従ってこの地に渡り,漁業を主として指導したといわれる。

この楫取という名は今も徳島県の吉野川で使用されている川舟である楫取舟と関係すると思われる。  @阿波
0075日本@名無史さん垢版2019/01/30(水) 17:52:34.20
阿波忌部が上陸した地・千葉県館山市布良の 布良崎神社 (祭神:天富命)周辺に「神余」(かなまる)という地名があり,これは安房神社に奉仕する忌部神戸が増えてあふれた人達が新しく開拓したことに由来する。

「安房神戸(あわかんべ)」という地名もある。  @阿波
0076日本@名無史さん垢版2019/01/30(水) 18:22:11.56
茨城県新治(にいはり)郡新治村の 鷲神社 は社殿が平成7年に焼失したが氏子の寄付により平成11年に社殿を復興。

ご神体に徳島の忌部神社から分祀を依頼。鷲神社再建竣工記念碑には「本宮四国徳島市忌部神社」とある。  @阿波
0077日本@名無史さん垢版2019/01/30(水) 21:34:57.27
茨城県結城(ゆうき)市小森の 大桑神社 の社伝には「古代,東国に養蚕・織物を伝えたとされる阿波斎部が,稚産霊尊(ワカムスビノミコト)を祭神として,

北方の大水河原に創建。 この辺り一帯を大桑郷と名付けた」とある。  @阿波
0078日本@名無史さん垢版2019/01/30(水) 21:41:11.97
また保存転写
420の>>291
光谷の年輪年代が、「庄内0 AD177+18 纏向石塚 」の根拠であったんでは、
大和説の上司のどんな「結論先にありき」のインチキ命令が入っているのか?も判らん代物だし、
森井の河内の編年も、庄内0を2世紀末にしていて、大和の石塚の庄内0の3世紀末との乖離が大き過ぎるから、
×のようだな。
0079日本@名無史さん垢版2019/01/30(水) 21:42:27.62
◇栃木県小山市栗宮の式内社 安房神社 の祭神は天太玉命。

◇栃木県小山市萓橋の 日鷲神社 の祭神は天日鷲命。

◇栃木県下都賀郡石橋町橋本の 鷲宮神社 は天日鷲命。

◇栃木県佐野市「鷲神社」

◇東京都浅草「鷲神社」  @阿波
0080日本@名無史さん垢版2019/01/31(木) 18:51:09.19
稲持遺跡(徳島県三好郡東みよし町稲持)は、弥生時代後期の玉作遺跡として代表的である。

斉一性の強い小型勾玉の一群が阿波地域を中心に 讃岐地域・吉備地域と西縁・伊予地域・豊前、筑前、肥前地域 に点在しており、

石材・色調・形状から特定の場所で作られたと考えられる。

蛇紋岩の製作遺跡 東みよし町稲持遺跡・徳島市矢野遺跡・上板町七条経塚遺跡

原石産出地 徳島県吉野川加茂谷川水系蛇紋岩

徳島県で勾玉が出土された遺跡:稲持遺跡、矢野遺跡、黒谷川郡頭遺跡、井出上遺跡など。

井手上遺跡(徳島県三好市井川町西井川)(弥生時代後期終末〜古墳時代前期初頭の集落)出土の翡翠製勾玉は、

新潟県糸魚川で産出する翡翠を使用し北陸周辺で加工されたものであることがわかっている。

出土した遺物は、吉野川下流域、讃岐、吉備等の搬入土器が含まれており、

当時の交易の範囲を知る上で貴重な発見となっている。  @阿波
0081日本@名無史さん垢版2019/01/31(木) 21:12:41.79
また転写保存

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名前: 日本@名無史さん
E-mail:
内容:
420の>>545
「南→東」などの嘘つき騙しのように、
仮定から断定が出る大和説マジック
誰にでもバレる
0082日本@名無史さん垢版2019/02/01(金) 02:24:01.45
四国地方の銅鐸は生け贄文化
生け贄だから憐れ
憐れみが阿波になったんすか
他で書いてあったけど
0083日本@名無史さん垢版2019/02/01(金) 12:29:28.56
徳島県の銅鐸出土地
『日本古代遺跡37徳島』14ページより  後ろの数値は銅鐸の高さ(cm)
                       
1. 檜銅鐸           鳴門市大麻町檜字乾谷    90
2.神宅銅鐸         板野郡上板町神宅      41
3. 川島銅鐸          麻植郡川島町神後     45.6
4. 森藤銅鐸         麻植郡鴨島町森藤      21
5. 牛島銅鐸         麻植郡鴨島町上浦      34.7
6. 伝久勝銅鐸        阿波郡阿波町久勝   
7. 久千田銅鐸        阿波郡阿波町久勝      30
8. 伝榎瀬銅鐸        徳島市川内町榎瀬      44.5
9. 星河内美田1号銅鐸  徳島市上八万町星河内美田
10. 星河内美田2号銅鐸  徳島市上八万町星河内美田
11. 星河内美田3号銅鐸  徳島市上八万町星河内美田
12. 星河内美田4号銅鐸  徳島市上八万町星河内美田
13. 星河内美田5号銅鐸  徳島市上八万町星河内美田
14. 星河内美田6号銅鐸  徳島市上八万町星河内美田
15. 星河内美田7号銅鐸  徳島市上八万町星河内美田
16. 源田1号銅鐸      徳島市国府町西矢野源田   41.3
17. 源田2号銅鐸      徳島市国府町西矢野源田   41.3
18. 源田3号銅鐸      徳島市国府町西矢野源田   52.0
19. 安都真1号銅鐸     徳島市入田町安都真     29.5
20. 安都真2号銅鐸     徳島市入田町安都真     21.7
21. 安都真3号銅鐸     徳島市入田町安都真     24.6
22. 安都真4号銅鐸     徳島市入田町安都真     21
23. 名東銅鐸        徳島市名東1丁目       40
24. 多家良銅鐸       徳島市八多町多家良     90.9
25. 多家良銅鐸       徳島市八多町多家良     45.4
0084日本@名無史さん垢版2019/02/01(金) 12:32:24.50
26. 伝福万谷銅鐸      徳島市八万町福万谷     
27. 勢合銅鐸        小松島市立江町赤石     36
28. 畑田銅鐸        阿南市下大野町畑田     54.02
29. 八貫渡銅鐸       阿南市下大野町八貫渡    
30. 才見銅鐸        阿南市才見町
31. 長者原1号銅鐸     阿南市山口町長者原     64.25
32. 長者原2号銅鐸     阿南市山口町長者原     41
33. 田村谷銅鐸       阿南市山口町田村谷     62 
34. 曲がり1号銅鐸     阿南市椿町曲り          42.4
35. 曲がり1号銅鐸     阿南市椿町曲り          31
36. 伝長生銅鐸       那賀郡長生町
37. 榎名銅鐸        三好郡西祖谷山村榎名     推定55
38. 伝吉野川沿岸銅鐸   美馬郡脇町拝原        6.2
39. 伝脇町銅鐸
40. 伝阿波銅鐸
41. 江原小銅鐸

遺跡発掘後進県なのに、なぜ徳島で、このように非常に多くの場所から出土するのだろうか? 推して知るべし。  @阿波
0085日本@名無史さん垢版2019/02/03(日) 08:11:54.41
徳島県出土の同范銅鐸

川島銅鐸(吉野川市) − 加茂岩倉遺跡銅鐸(島根県雲南市)

伝脇町銅鐸(美馬市) − 荒神谷遺跡銅鐸(島根県出雲市)

安都真1号銅鐸(徳島市) − 種松山銅鐸(岡山県倉敷市)

伝榎瀬銅鐸(徳島市) − 山町銅鐸(奈良県奈良市)

倭国(阿波)から各地へ拡がっていった銅鐸たち。  @阿波
0086日本@名無史さん垢版2019/02/03(日) 12:06:00.96
てか、忌部ってなに?w
0087日本@名無史さん垢版2019/02/03(日) 12:33:42.16
忌部は、海部(あまべ)とともに日本各地に進出して、麻、穀を植え、農業、養蚕、織物、製紙、建築、芸能などを伝えた祭祀族、海民族、産業技術集団。  @阿波
0088日本@名無史さん垢版2019/02/03(日) 15:35:26.60
阿波から奈良大倭への遷都(7世紀後半〜710年)によって、忌部の本家は阿波に留まる一方、その一部が奈良大倭に渡り、

やがて諸国の忌部を統括することになる。これが中央忌部である。阿波に残った忌部の本家は、同家の本源的職掌である

麁布・木綿及び高天原の山の幸を由加物として、践祚大嘗祭の度ごとに新都に送った。母国からの調進である。

忌部の本家が阿波に残った理由は、天照大神以来、天孫(天皇)の祭祀に必要な神具は「高天原で採取調整されなければならない」という、

天岩屋戸神話に由来する神典を墨守したからである。

「由加物使」一行が阿波から京に向かうに、通過する国々の道路は掃き清められ、国司らが出迎えるという『延喜式』の別格規定は、

高天原から新都に向かう「宗国からの使」という意味からである。また、「麁布」がすべての貢進物の中で、唯一神祇官扱いになるなど、

超絶した扱いとなっているのは、記紀神話で、天照大神が高天原において機織女を召して織らしめ、また大神自らも織られたとする

「神御衣」と見立てているからであり、それを忌部の本家(阿波忌部)が、畏れ多くも代行厳修し、麁布として織り上げたものを、

新天皇が践祚大嘗祭に奉奠して天照大神にお示しし、大神から、日嗣の認承を賜る「物実」(正当な皇位継承者であることを大神の御前で証明するための品)

と観念されたからである。   @阿波
0089日本@名無史さん垢版2019/02/03(日) 16:28:17.92
天皇陛下即位式である大嘗祭に、麁服を調進する大役を太古から担う御衣御殿人(みぞみあらかんど)の家柄である三木家は、

木屋平村の三木山山頂に居を構える。

貢(みつぎ)、あるいは三ッ木とも呼ばれる地名は、深く調進に関わる為でもあろう。 南北朝時代にあっては、山岳武士の頭目として南朝に関わった。

さて、この三木山こそは、太古の高天原であると同時に、天皇家の故郷でもある。このお山から御霊を大嘗宮へ運ぶ為には何か媒体が必要である。

つまり、依り代に付いて初めて示現されるのが神霊であるなら、「麻」こそ媒体であると云える。

古来より伊勢神宮の神札は神宮大麻と呼ばれ、御師が領布した御祓大麻を指すからだ。

後世、大麻(おおぬさ)は紙に変わってしまい、現代人は麻の持つ意味を忘れようとしている。  @阿波   @阿波
0090日本@名無史さん垢版2019/02/03(日) 17:47:28.59
大麻(麻)の繊維は、日本では古くからしめ縄、祓い具(おはらい)としての神事の大麻などに用いられてきた。

また、麻から作った大麻(マリファナ)は薬理作用があり、紀元前から古代人が嗜好品、また医薬品として用いてきた。

大麻(マリファナ)は喫煙、気化、飲食により成分を摂取する。

麻といえば、阿波忌部。 

『名曰卑彌呼事鬼道能惑衆』  『名を「卑弥呼」といい、「鬼道」に仕えて人心を惑わしている』

卑弥呼は大麻(マリファナ)を利用して「鬼道」を操ったのだろう。  @阿波
0091日本@名無史さん垢版2019/02/04(月) 08:21:21.56
山の民と海の民との交流―水運 御衣御殿人(みぞみあらかんど) 三木 信夫

 道が整備されていない古代迄の交通路は,水運が徐々に発達し,すでに縄文時代には鳴門市からこの阿南市・海陽町にかけて海運交通のあったことが遺跡からみられます。

 阿南市の若杉山遺跡は,弥生時代に赤い顔料の水銀朱をつくるため,全国唯一の辰砂(しんしゃ)の原産地遺跡でした。

 辰砂=水銀と硫黄化合物の鉱石,辰砂を粉砕して水銀朱を取り出す。

 弥生時代から古墳時代を中心に,遺骸や棺に朱色を塗る風習が盛んに行われて,水銀朱は朱・丹等と呼ばれ使用流通したのです。

 この遺跡をみますと,板野郡板野町の黒谷川郡頭(こうず)遺跡や名東遺跡などから朱の精製用具等が発見されており,

弥生時代終末期(西暦200年頃)の若杉山辰砂が,海や河川を利用して運ばれております。

 若杉山遺跡にある土器類も,吉野川流域土器や鮎喰川上流の結晶片岩の混在した土器,また畿内的土器など各地の土器が混在しており,

河川や海を通じて運び込まれています。すでに若杉山遺跡には,辰砂を運び出す人や食料等を運び入れる人等の組織化された海上交通に関わる集団がいたとも考えられています。

 古代に下りますと,都を起点に諸方に陸上交通である宿駅が整備され,駅路すなわち国道がつくられていきます。

 阿波でも鳴門の撫養から讃岐・伊予・土佐に抜ける南海道と呼ばれる国道があり,それ以外に阿波国から土佐国へ通じる駅路の国道が,

おおよそ現在の国道55号線沿いに阿南市から海陽町までの海岸沿いを,奈良時代初期の養老2年(718)設置され,

平安時代初期の延暦15年(796)廃止されるまで,水上交通路と並行して多くの港や津を経て延びていたのです。

 「津」とは陸上交通路と水上交通路が交わる人の集まる交通の要衝に,物資の集積拠点として形成されたものです。
0092日本@名無史さん垢版2019/02/04(月) 08:25:48.44
山の民と海の民との交流―水運                                                  御衣御殿人(みぞみあらかんど) 三木 信夫

 道が整備されていない古代迄の交通路は,水運が徐々に発達し,すでに縄文時代には鳴門市からこの阿南市・海陽町にかけて海運交通のあったことが遺跡からみられます。

 阿南市の若杉山遺跡は,弥生時代に赤い顔料の水銀朱をつくるため,全国唯一の辰砂(しんしゃ)の原産地遺跡でした。

 辰砂=水銀と硫黄化合物の鉱石,辰砂を粉砕して水銀朱を取り出す。

 弥生時代から古墳時代を中心に,遺骸や棺に朱色を塗る風習が盛んに行われて,水銀朱は朱・丹等と呼ばれ使用流通したのです。

 この遺跡をみますと,板野郡板野町の黒谷川郡頭(こうず)遺跡や名東遺跡などから朱の精製用具等が発見されており,

 弥生時代終末期(西暦200年頃)の若杉山辰砂が,海や河川を利用して運ばれております。

 若杉山遺跡にある土器類も,吉野川流域土器や鮎喰川上流の結晶片岩の混在した土器,また畿内的土器など各地の土器が混在しており,

 河川や海を通じて運び込まれています。すでに若杉山遺跡には,辰砂を運び出す人や食料等を運び入れる人等の組織化された海上交通に関わる集団がいたとも考えられてい    ます。

 古代に下りますと,都を起点に諸方に陸上交通である宿駅が整備され,駅路すなわち国道がつくられていきます。

 阿波でも鳴門の撫養から讃岐・伊予・土佐に抜ける南海道と呼ばれる国道があり,それ以外に阿波国から土佐国へ通じる駅路の国道が,

 おおよそ現在の国道55号線沿いに阿南市から海陽町までの海岸沿いを,奈良時代初期の養老2年(718)設置され,

 平安時代初期の延暦15年(796)廃止されるまで,水上交通路と並行して多くの港や津を経て延びていたのです。

 「津」とは陸上交通路と水上交通路が交わる人の集まる交通の要衝に,物資の集積拠点として形成されたものです。
0093日本@名無史さん垢版2019/02/04(月) 11:00:22.75
畿内地域の古墳の石材調査が進むにつれて、倭国(阿波)の結晶片岩を石室や葺石に用いた前期古墳の事例が増加してきた。

大阪府の「闘鶏山古墳」、「将軍山古墳」、「鍋塚古墳」、「牧野車塚古墳」、神戸市の「西求女塚古墳」などが典型例だ。

そして、そうした結晶片岩を使う事例が、畿内北部の淀川流域から瀬戸内北岸にかけての一帯に多い傾向もより明瞭になってきた。  @阿波

http://www.let.osaka-u.ac.jp/kouko/061018awaitano.htm
0094日本@名無史さん垢版2019/02/07(木) 22:46:44.01
>さっきから、どこどこは低身長とかいうのがたくさんあるけど、侏儒は人長三,四尺だから
>10センチ低いとかではないんだよ
>魏晋尺は23センチだから、三、四尺なら69センチとか92センチとか、1メートル以下になる
>もっとも身長が低い短身種族のネグリロでも身長137〜159cm

・侏儒國は表意文字。(北部九州の説明は倭語に対応した表音文字)
・朱が其の山に有る、ではなく、侏儒國では朱を産出していた
・考古学的に朱を産出していたのは阿波のみ

侏儒國に阿波が含まれているのは考古学的に確定。
若杉山遺跡で見つかった朱を採取した坑道跡の大きさは、
奥行き約14メートル、高さは約70〜90センチ。

『高さは約70〜90センチ』
0095日本@名無史さん垢版2019/02/07(木) 22:47:11.26
表意文字だから、名前の中にも情報を内包しているわけだ。
水銀朱を採掘すると言っても、露天掘りと坑道堀りがあるからね。

黒歯國=黒い歯をした人々の国(関西の文化)
裸国=裸で過ごせるほど暖かいが、一方で未開な南方僻地の国
というように、名前そのものが情報源となっている。

儒という漢字には、小さいという意味があるから、
陳寿ら中国の知識人にとっては、
『侏儒國』という名前を聞いただけで、

あ、露天掘りじゃなくて、
坑道にかがんで身を低くして採掘に入ってるんだな、
というイメージが湧くわけだな。

さらにそれを補足する情報が、人長三四尺であり、
倭人の水銀朱採掘レベルは、原始的な露天掘りではなく、
坑道を掘って採掘するレベルに達している
そしてその坑道の高さは、70-90センチを維持できるだけの技術力なのだな。
と、当時の知識人には伝わったわけだ。
0096日本@名無史さん垢版2019/02/09(土) 17:14:56.14
徳島の宅宮神社の平安時代から続く神踊り

伊豆毛の国の伯母御の宗女、御年十三ならせます、こくちは壱字とおたしなむ

なぜ壱与をこんな片田舎で歌う?
0098日本@名無史さん垢版2019/02/10(日) 13:13:28.69
延喜式内社で「伊邪那美命」が単独で祀られているのは「伊邪那美神社」一社だけで、その鎮座地は高越山山頂であったと一部では伝えられております。

伊邪那美命は埴山比賣(はにやまひめ)と弥都波能売(みつはのめ)の神を産んだあとに薨ったと日本書紀には記され、高越山が含まれる美馬郡には、この三神が式内社で祀られているという背景もあり…

その他に伊邪那岐命(いざなぎ)との争いの仲介役をした菊理比賣命、伊邪那岐命が投げた桃が神となった意富加牟豆美命(おおかむづみのみこと)が阿波町に祀られ条件が一致しているんです。

http://awa-otoko.hatenablog.com/entry/2014/11/07/005405
0099日本@名無史さん垢版2019/02/10(日) 15:27:52.73
その「菊理比賣命」を祀る神社

阿波市 阿波町勝命北に鎮座する「勝命神社」

御祭神は菊理媛命(くくりひめのみこと)

「阿波誌」に「菊理祠勝命村に在り、旧事記に云ふ伊奘諾伊弉冉二尊、泉津平坂に相争ふ。菊理媛神白す事あり伊奘諾尊聞きて之を善とす」とあります。

菊理媛神(くくりひめのかみ)は、日本の神。加賀の白山や全国の白山神社に祀られる白山比盗_(しらやまひめのかみ)と同一神とされる。 wikipedia

http://goutara.blogspot.com/2012/11/blog-post_29.html 
0100日本@名無史さん垢版2019/02/10(日) 17:55:01.08
徳島県吉野川市山川町忌部山字白山

「白山(しらやま)比売神社」

石碑には「忌部社摂社 志良夜末比賣神社」とあります!!

「忌部神社」の七摂社の一つで、祭神は「伊佐奈美尊」です(*^_^*)♪

ここはイザナミ命の「遥拝所」・・・。

この「白山比売神社」の南西には「高越山」があり、山頂に「イザナミ」が祀られていると言われています♪

イザナミ命・イザナギ命の神号は海の霊物「イナサ(雄魚)」より名付けられたという説があり、イザナミ命の生前の名は「白山比売」であったという伝承があるそうです!!

https://sueyasumas.exblog.jp/17016171/
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