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【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬六
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0003日本@名無史さん
2019/01/18(金) 10:33:08.78
>>1
Good Job 乙
0004日本@名無史さん
2019/01/18(金) 12:29:58.77
>>1
Good Job by泡
0005日本@名無史さん
2019/01/18(金) 13:26:15.68
>>1
Good bye泡
0006日本@名無史さん
2019/01/19(土) 14:58:32.68
正始八年(247年)記事の骨格部

@ 其八年太守王頎到官
A 張政等因齎詔書黄幢拜假難升米爲檄告喩之
B 復立卑彌呼宗女爲王國中遂定政等以檄告喩壹與
C 壹與遣掖邪狗等二十人送政等還因詣臺獻上何々
0007日本@名無史さん
2019/01/19(土) 17:44:55.32
正始八年(247年)以降〜おそらく魏朝終末(265年)までの記事・・・(年次確定できず)
@ 其八年太守王頎到官
A 張政等因齎詔書黄幢拜假難升米爲檄告喩之
B 復立卑彌呼宗女爲王國中遂定政等以檄告喩壹與(西晋代に入っていたかもしれない)

泰始元年(265年)以降〜西晋朝時代の記事・・・(年次確定できず)
@ 壹與遣掖邪狗等二十人送政等還因詣臺獻上何々
(魏代のことであれば年次が入る。しかし西晋代の外交事項であったので、年次記載を遠慮した)
0008日本@名無史さん
2019/01/19(土) 18:11:06.40
>>6
B 復立卑彌呼宗女爲王國中遂定政等以檄告喩壹與

これは、247年に 張政が 壹與 に 檄 を 告喩 したという事実。
しかし、日本は247年以降、魏、晋、というか 韓 には出兵していない。
女王国は 247年以降、魏 韓 との交流は一切ない。

九州筑紫の邪馬台国と魏の外交は、247年で終っている。
これが、考古学の奈良や阿波や、奴国等の存続九州国であっても

卑弥呼が倭王であった という事実が間違いだった以上、
歴史は、議論の為のディベート以上、では有り得ない。

これが、邪馬台国論争だ。
本当のことは、ここは、張先生説、壊しちゃったから
また、正しく読むために、どっかで話すか?

邪馬台国、247終了って、真実は不幸だなwww
0009日本@名無史さん
2019/01/19(土) 18:14:21.31
> @ 其八年太守王頎到官
正始八年(247年)には半島戦が全て終了
半島戦での毌丘儉の代理指揮者の
元玄菟太守の王頎が帯方郡太守に着任した

半島戦終了の総仕上げは
○ 詣闕朝貢詔更拜不耐濊王
○ A 張政等因齎詔書黄幢拜假難升米爲檄告喩之
   B 復立卑彌呼宗女爲王國中遂定政等以檄告喩壹與
正始八年倭國で起こったことは男王から女王の交替劇
> C 壹與遣掖邪狗等二十人送政等還因詣臺
これはB の女王就任のお礼だからこれも 正始八年
0010日本@名無史さん
2019/01/19(土) 18:27:09.39
>>8 訂正
238年の 

卑弥呼が倭王であった という、帯方郡の報告?=事実が間違いだった。

倭人伝の女王なんて言う、一代名称の王が、
なんで代々以上に、 今でも続いてる日本の倭王よ? 
九州の女囚だろ? 

倭国は247年以降、半島進出して、
牛馬の移入や鉄の国内生産始めているんだが?
他にない。
0011日本@名無史さん
2019/01/19(土) 18:37:32.93
>>6
B 復立卑彌呼宗女爲王國中遂定政等以檄告喩壹與

これは、247年に 張政が 壹與 に 檄 を 告喩 したという事実。
しかし、日本は247年以降、魏、晋、というか 韓 には出兵していない。
女王国は 247年以降、魏 韓 との交流は一切ない。

九州筑紫の邪馬台国と魏の外交は、247年で終っている。
これが、考古学の奈良や阿波や、奴国等の存続九州国であっても

卑弥呼が倭王であった という事実が間違いだった以上、
歴史は、議論の為のディベート以上、では有り得ない。

これが、邪馬台国論争だ。
本当のことは、ここは、張先生説、壊しちゃったから
また、正しく読むために、どっかで話すか?

邪馬台国、247終了って、真実は不幸だなwww
0012日本@名無史さん
2019/01/19(土) 18:51:34.95
すこし高いところから鳥瞰してみる

參問倭地絶在海中洲島之上或絶或連周旋可五千餘里
---------------------------------------------
景初二年六月倭女王遣大夫難升米等詣郡求詣天子朝獻
         から
壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還
因詣臺獻上
男女生口三十人貢白珠五千孔青大句珠二枚異文雜錦二十匹
---------------------------------------------

倭人伝の締め括りの部分は朝貢記事の列挙である

その構成は

T) 景初二年(238) 戦中遣使記事
U) 正始元年(240) 奉詔書印綬詣倭國拜假倭王 記事
V) 正始四年(243) 時期尚早のようにみえる再度の遣使記事
W) 正始六年(245) 黄幢の準備記事
X) 正始八年(245) 男王から女王の交替とその答礼記事
0013日本@名無史さん
2019/01/19(土) 18:55:01.22
× X) 正始八年(245) 男王から女王の交替とその答礼記事
○ X) 正始八年(247) 男王から女王の交替とその答礼記事
0014日本@名無史さん
2019/01/19(土) 18:55:18.98
倭人伝を、正しく読むための 第一歩↓

倭人 在帶方東南 大海之中 依山㠀為國邑 舊百餘國 漢時 有朝見者
今 使譯 所通 三十國 從郡至倭

循海岸水行 歴韓国 南乍東 到其北岸 狗邪韓國 七千餘里

始度一海千餘里 至對海國 其大官日卑狗 副日卑奴母離
所居絶㠀 方可 四百餘里 土地山險 多深林 道路 如禽鹿徑
有千餘戸 無良田 食海物 自活乗船 南北市糴

又 南渡一海千餘里 名日 瀚海 至一大國 官亦日 卑狗 副日 卑奴母離 方可三百里 
多竹木叢林 有三千許家 差有 田地耕田 猶不足食 亦南北市糴

又 渡一海 千餘里 至末盧國 有四千餘戸
濱山海居 草木茂盛 行不見前人 好捕魚鰒 水無深淺 皆沉没取之

東南 陸行五百里 到伊都國 有千餘戸 官日爾支 日泄謨觚柄渠觚
丗有王皆 統屬女王國 郡使 往來 常所駐

東南 至奴国 百里 官日兕馬觚 副日卑奴母離 有二萬餘戸
東行 至不彌國 百里 官日多模 副日卑奴母離 有千餘家

これが、倭人伝の 第一節である。
現代語訳、みたいなモンは必要ないし、読めばわかる。
質問有る?
0015日本@名無史さん
2019/01/19(土) 19:00:59.04
>>6
@〜Cの主文に挟まれて事情説明文が2つ記載されている

A) 倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和
   遣倭載斯烏越等詣郡説相攻撃状
B) 卑彌呼以死大作冢徑百餘歩徇葬者奴婢百餘人
   更立男王國中不服更相誅殺當時殺千餘人

2つの事情説明文のなかみはいずれも正始八年(247)以前の出来事
0016日本@名無史さん
2019/01/19(土) 19:01:52.17


南至 投馬國 水行二十日 官日彌彌 副日彌彌那利 可五萬餘戸
南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七萬餘戸

自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳

次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國
次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國
次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國
次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國
此女王境界所盡

其南有 狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王
自郡至女王國 萬二千餘里

普通は、読めば判るが、相当デタラメな現代語訳が多い。
普通に読むならだけど、質問ある?
0017日本@名無史さん
2019/01/19(土) 19:12:46.89
倭人伝を正しく読むための 場所特定? 行程論は
2レス で終ってしまう訳だけど、意味が判らないで
何十年も、論争してるって、なんなの?
0018日本@名無史さん
2019/01/19(土) 19:23:30.11
>>13
>>15

B) 「卑彌呼以死大作冢」
       の記事は下の記事と同期している
V) 正始四年(243) 時期尚早のようにみえる再度の遣使記事
0019日本@名無史さん
2019/01/19(土) 19:29:07.90
>>15 >>12 >>13
B) 卑彌呼以死 更立男王國中不服更相誅殺當時殺千餘人

男王の在位期間は
V) 正始四年(243) 時期尚早のようにみえる再度の遣使記事
X) 正始八年(247) 男王から女王の交替とその答礼記事

この間の4年間であると読める
0020日本@名無史さん
2019/01/19(土) 19:30:49.57
>>17
>何十年も、論争してるって、なんなの?

畿内説も九州説もどちらも間違い説だからだよ。 それ以外にある?  @阿波
0021日本@名無史さん
2019/01/19(土) 19:39:02.10
>>20
>畿内説も九州説もどちらも間違い説だからだよ。 @阿波

残った阿波が正しい邪馬台国だった・・、といいたいんだろ。
ま、いうだけは只だから、なんぼでも云え。阿波が言いくたびれたら、そのあと真打ち登場だ。
0022日本@名無史さん
2019/01/19(土) 19:43:23.05
>>21
>そのあと真打ち登場だ。

そんなこと言ったって、江戸時代からずっと、真打ちが誕生していないじゃん。  嘘つき説さん。  @阿波
0023日本@名無史さん
2019/01/19(土) 19:55:32.71
ま、その真打は、流され流されて福津上陸の阿波の目には入らぬだろうな。
無理もない、無理もない。。。
0024日本@名無史さん
2019/01/19(土) 20:01:47.33
『震えながら探してる』というのも『松傾』でしょ?

日本昔話・・・・自演か何かなのかな?
0025日本@名無史さん
2019/01/19(土) 20:13:42.87
>>20
残念なお知らせなんだが、

247年以降に邪馬台国というものは無い。
これが、阿波であるためには、阿波は滅びる必要が有る。

しかし、そういうことは無い。
247年に、魏と邪馬台国の国交が終わった。
この、原因を合理的に説明してみな。

247年の 魏使の報告は
使大倭監之 自女王國以北 特置 一大率 檢察諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國 皆臨津捜露傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯
だ。 何言ってるか判るか?
0026日本@名無史さん
2019/01/19(土) 20:16:44.22
>>23
なんとしても福津上陸を阻止せんといかんからね、九州説とすれば。  @阿波
0027日本@名無史さん
2019/01/19(土) 20:20:27.86
あわすとーりぃ?

あの系統、そのなかの誰かが、弟子か何かだったのかな?
なぜか合致していたり

酒〜飲み明かそう、震えながら探してるとか、
その他(ほとんど?)も同じようなコンセプトなんだけど
0028日本@名無史さん
2019/01/19(土) 20:29:33.06
あわ、は、ただの聞き分けの無い子供だろ?
でも、真実は、悲しいな。
0029日本@名無史さん
2019/01/19(土) 20:33:32.84
『記紀神話』〜『松傾』・・・・・・・・。誰にも、わからない。
0030日本@名無史さん
2019/01/19(土) 20:39:43.42
記紀神話を解明すると
相当の馬鹿にナってしまう訳だが

単純な、倭人伝 読了はともかく
そうなる、価値は有るかね?
0031日本@名無史さん
2019/01/19(土) 20:59:18.61
>>26 名前:日本@名無史さん 2019/01/19(土) 20:16:44.22
>>23
>なんとしても福津上陸を阻止せんといかんからね、九州説とすれば。  @阿波

阻止する必要など全くない。
早く福津に着いて、そして迷子になってくれればそれでよい。
間違いなく福津に上陸して、東へ東へ、どこまでも行くのだぞ。(・・そして帰ってこなくていい)
0032日本@名無史さん
2019/01/19(土) 21:08:20.68
『神のみぞ知る』

というか、もれ(仮)の家が知っていることなのかな?
0033日本@名無史さん
2019/01/19(土) 21:11:52.69
神と言っても、どの神のことなの?
という話にもなるんだけど
0034日本@名無史さん
2019/01/19(土) 21:25:09.46
『The Beach Boys』~『スクナビコナ』国造りの話でしょ
0035日本@名無史さん
2019/01/19(土) 21:58:35.63
>>31
>間違いなく福津に上陸して、東へ東へ、どこまでも行くのだぞ。(・・そして帰ってこなくていい)

なに言ってんの?  倭国(阿波)へは東南陸行五百里行くように書いてあるだろ。  
倭人伝通りに行けば倭国(阿波)に着くように書いてあるなるんだから、迷子になる訳ないわね。  @阿波
0036日本@名無史さん
2019/01/19(土) 23:18:18.31
寒い寒い貧乏風よ去れ
0037日本@名無史さん
2019/01/19(土) 23:31:11.39
この作品も同じでしょ、なぜだと思う

『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない』
0038日本@名無史さん
2019/01/19(土) 23:46:48.62
川崎の隣に鶴見(横浜)というところがあるんだけど、
本当は、そういう話じゃないの?

メイ子(五月?)というキャラとか、
ほとんど同じような気がする
0039日本@名無史さん
2019/01/20(日) 00:37:47.71
猿田というスレを読んでみて
0040日本@名無史さん
2019/01/20(日) 00:46:27.02
その作品のとあるキャラ

川で溺れて〜みたいな事が書いてあるでしょ、
そういうコンセプト?

????????????????????
????????????????????
0041日本@名無史さん
2019/01/20(日) 00:48:26.35
かくれんぼ?をしている、いわど?・・・河童の川流れ?
0043日本@名無史さん
2019/01/20(日) 07:53:21.57
>>23
なんとしても福津上陸を阻止せんといかんからね、九州説とすれば。  @阿波
0044日本@名無史さん
2019/01/20(日) 08:12:04.62
帯方東南大海の中、女王に率いられた平和な共立国家・・、
これは戦乱の三国志時代にあって、陳寿が描いた倭の理想郷・ユートピアだ。
(シャングリラ、ガンダーラ、イーハトーブ、あるいは「高天原」も同類)

戦中〜戦後〜団塊世代は、そういうイメージで、町おこし村おこしを夢見つつ邪馬台国捜しをしてきたのだろうな。
それは、ある意味で当たっていたが、
実は邪馬台国は、鉄で完全武装した渡来の侵入者軍団で、倭国大乱の覇者だったのだ。
後世でいえば、関ヶ原の戦いで戦国の世を制した徳川家康・徳川幕府のような存在だったのだろう。
0045日本@名無史さん
2019/01/20(日) 08:27:44.88
倭地は温暖にして、冬夏生菜を食す。
皆、徒跣。屋室有り。
父母、兄弟は異所に臥息す。
朱丹を以ってその身体に塗る。
中国の紛を用いるが如し。

男子は大小無く、皆、黥面文身す。
古より以来、その使中国に詣(いた)るや、皆、自ら大夫と称す。
夏后少康の子は会稽に封ぜられ、断髪文身して、以って蛟龍の害を避く。
今、倭の水人は沈没して魚、蛤を捕るを好み
文身は、亦、以って大魚、水禽を厭(はら)う。
後、稍に以って飾と為る。諸国の文身は各に異なり
或いは左し、或いは右し、或いは大に、或いは小に。尊卑差有り。
その道里を計るに、まさに会稽東冶(”現中国の浙江省”) の東に在るべし。

女王国より以北は、特に一大率を置き検察し、諸国はこれを畏憚す。
常に伊都国に治す。国中に於ける刺史の如く有り。
王が使を遣わし、京都、帯方郡、諸韓国に詣らす、及び郡が
倭国に使するに、皆、津に臨みて捜露す。
文書、賜遺の物を伝送し女王に詣らすに、差錯するを得ず。

「魏書」第30巻『 魏志倭人伝 』 普平陽侯相 陳寿撰
0046日本@名無史さん
2019/01/20(日) 09:07:00.69
>>45
まさに、倭国(阿波)の自然・風俗説明である。  @阿波
0047日本@名無史さん
2019/01/20(日) 11:50:39.90
>>1
サンクス
しばらくスレが立てられず
すいませんでした

九州に決まっとろうが
福岡県山門郡、筑紫、糸島、大宰府、鐘崎、鹿児島県川内、出水、阿久根、宮崎県日向、延岡、高千穂、熊本県熊本、阿蘇、八代、球磨郡、人吉、佐賀県唐津、伊万里、長崎県松浦、佐世保、雲仙、島原、天草、潜木、塩田周辺を今すぐ発掘せよ!

邪馬台国畿内説の根拠は
邪馬台=大和=奈良(完)と言う
風潮に論理的に反論するスレです
九州中南部説、九州南部説、魏志倭人伝から邪馬台国の位置を推測する議論等々も大歓迎です!

*荒らしはスルーで
過剰なコピペは厳禁
0049日本@名無史さん
2019/01/20(日) 13:09:36.00
倭人伝が示す邪馬台国とは何か?

【240年正始元年 建中校尉梯儁の行軍 奉詔書印綬卑弥呼時の報告】

南至 投馬國 水行二十日可五萬餘戸
南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 可七萬餘戸

次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國
次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國
次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國
次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國
此女王境界所盡

其南有 狗奴國 男子為王 不屬女王
自郡至女王國 萬二千餘里
(陳寿の説明文25字、官略)

説明
南至 水行二十日水行十日陸行一月 が 自郡至女王國 萬二千餘里
の、福岡、筑紫平野 であり、
この、女王の所属国は参問した 次有21国 で 7万戸 である。
これを記録した梯儁が女王之所都を見た際に、邪馬壹國 と命名した。

補足
参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連周旋可五千餘里

* 現代語訳が必要と、言うほどのことも無い。
0050日本@名無史さん
2019/01/20(日) 13:12:44.40
>>49
>* 現代語訳が必要と、言うほどのことも無い。

そうだね。
まさに、倭国(阿波)への行程説明である。  @阿波
0052日本@名無史さん
2019/01/20(日) 14:00:40.36
>>50
ああ、四国なら、別であるよ。

女王國東 渡海千餘里 復有國 皆倭種
又有 侏儒國 在其南 人長三四尺

小人国 だってよ。
四国は多分、良いけど、阿波かな? 
心当たり無いかな?
0053日本@名無史さん
2019/01/20(日) 19:21:38.54
邪馬台国論争の嚆矢、「倭女王卑弥呼考」(白鳥庫吉、明治43年・1910)

>白鳥庫吉は、邪馬台国論争において、邪馬台国の位置を「九州の熊本県菊池郡山門」に比定した。
>また、当時盛んに言われていた、卑弥呼が神功皇后である可能性よりは、
>むしろ神話上の天照大御神(アマテラス)に近い存在とした。
>またアマテラスには係争した弟のスサノヲがおり、男王との不和という記載もこうしたものを比したものか、とも指摘。

九州説のルーツは、まずこのあたりから辿ってみてはいかがかとおもう・・・
0056日本@名無史さん
2019/01/20(日) 21:27:18.50
否、行程は、完全に解決している。

今 使譯 所通 三十國 從郡至倭
循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸 狗邪韓國 七千餘里

始度一海千餘里 至對海國 其大官日卑狗 副日卑奴母離
所居絶㠀 方可 四百餘里 土地山險 多深林 道路 如禽鹿徑
有千餘戸 無良田 食海物 自活乗船 南北市糴

又 南渡一海千餘里 名日 瀚海 至一大國 官亦日 卑狗 副日 卑奴母離 方可三百里 
多竹木叢林 有三千許家 差有 田地耕田 猶不足食 亦南北市糴

又 渡一海 千餘里 至末盧國 有四千餘戸
濱山海居 草木茂盛 行不見前人 好捕魚鰒 水無深淺 皆沉没取之

東南 陸行五百里 到伊都國 有千餘戸 官日爾支 日泄謨觚柄渠觚
丗有王皆 統屬女王國 郡使 往來 常所駐

東南 至奴国 百里 官日兕馬觚 副日卑奴母離 有二萬餘戸
東行 至不彌國 百里 官日多模 副日卑奴母離 有千餘家

行程は、到 伊都國 までで終わり、郡からは一万五百里である。
東南 至奴国 及び 東行 至不彌國 は、行程には含まれない。
これは、247年の張政の行程であり、伊都に駐留し、女王宮には行っていない。

南至 投馬國 水行二十日 官可五萬餘戸 
南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
は、240年の行軍であり、上記、247年の行程には、含まれないし、
投馬國 邪馬壹國 は、都市間を里程で示した行程内ではなく、
馬韓54国、辰韓12国、邪馬台国21国、といった概念の国名である。
帯方郡からの、都市間、行程に、直列で、繋がることは無い。
伊都ではなく女王宮名でであり、これは、一万二千里である。
0057日本@名無史さん
2019/01/20(日) 21:29:55.18
倭女王卑弥呼考 (白鳥庫吉)
>以上地理上の考證によりて、女王の都せし邪馬臺國は肥後の國内にありて、
>其領土は九州の北半に亙りたりと思はるるが故に、
>之と對抗して而も之を敗北せしめたる狗奴國も、亦決して小國にあらざりしなり。

白鳥庫吉の文に、「女王の都せし邪馬臺國は肥後の國内にありて・・」と書かれている部分は見つけた。
熊本県菊池郡山門郷の件は、まだみあたらない。
(大国であるとの認識だったので、郡や郷にはこだわっていなかったのかも)
0058日本@名無史さん
2019/01/20(日) 21:31:27.74
道里を記した文章は行程の説明文ではない
0059日本@名無史さん
2019/01/20(日) 21:57:15.93
循海岸水行 歴韓国 狗邪韓國 七千餘里
始度一海千餘里 至對海國
又 南渡一海千餘里 至一大國
又 渡一海 千餘里 至末盧國
東南 陸行五百里 到伊都國

行程文は、動詞+距離+至 地名で繋がり 到 で終る。

東南 至奴国 百里 は動詞が無い。行ってない。
東行 至不彌國 百里 は 至 地名 の後に距離がある。

南至 投馬國 水行二十日
南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月

これも、同様。 至 地名 動詞 距離時間 の語順である。
前節の継続行程文内に繋がってはいない。
国の概念が違い、人口も単純な有ではなく、概念の違う可に変わる。

残念ながら、結論は出せていなかったが、張先生の文法論は成立していると考える。
0060日本@名無史さん
2019/01/20(日) 21:59:11.81
倭女王卑弥呼考 (白鳥庫吉)
>菅氏ノ説ニ「漢土ニ渡ルニモ、對馬ニ趣クニモ、コノ美彌良久埼ヨリ船發キセシナリ。
>西北ニ向フニ便リヨキ地ト思ハルレバ、海路モオシハカリ知ラルベシ」ト云ヘリ。
>と説かれたり。魏國の使者が倭國に渡れる時も、亦此美彌良久の埼に由りしなるべし。
>而して此埼は松浦郡値嘉島にあり。(ちかしま、血鹿島。現在の平戸一帯をさす)

白鳥庫吉は、末盧国の港を、平戸付近といってるなあ。ちと違うんでないの。
0061日本@名無史さん
2019/01/20(日) 22:11:11.32
>>54
白鳥庫吉
又文中に「到其北岸狗邪韓國」とある北岸の文字甚だ穩かならざれども、
之を倭韓兩國の間に横はる海洋の北岸と見れば文意通ずべし。
狗邪韓國より九州の北岸に達するには三海を通過す。

>北岸の文字甚だ穩かならざれども
半島南岸の倭人国の存在が投馬国である。 
ということは禁句だったのかね?

絶対解決せんよwww
0062日本@名無史さん
2019/01/20(日) 22:12:11.16
倭人は帯方の東南、大海の中にあり、山島に国を作っている。
土地は平野少なく山林多く、良田はない。海産物を食す。
昔は百余の小国が互いに接す。魏の時に至って、三十の国があり親しく交流す。
戸数は七万あり、男子は大人、子供はみな、顔と体に入れ墨をしている。

倭人たちは自ら太伯(古代中国の周王朝)の子孫だという。
また昔、倭国の使者が中国を訪れた時、倭人は自ら大夫(周朝の貴族)と称す。

いにしへの夏朝(中国大陸初の王朝)の少康(夏朝皇帝)の子は
中国会稽に封じられると、髪を切り、入れ墨をし蛟龍の害を避けたが
今まさに倭人達は沈没して魚を取るのを好み、同様に入れ墨し水魔を払う。

倭国までの道のりを計算すると、まさに会稽東冶(”現中国の浙江省”)の東にあたる。
その男子の衣服は横長の布を結び合わせてつなぐだけで、ほとんど縫いつづることがない。
婦人の衣服は一枚の掛け布団のようで、中央に穴をあけ頭を入れる。
皆おかっぱ頭で、裸足である。
0063.
2019/01/20(日) 22:12:47.36
倭人の地は温暖で、稲やカラムシを植え、養蚕して布を織る。
土地に牛、馬は無し。刀、楯、弓矢があり、鉄をヤジリにしている。
倭国には家屋があり、父母と兄弟は異なる場所で寝る。
食飲にはまな板状の台と高坏を用いる。
正月や四季の区別が無く、ただ秋の収穫の時を数えて年紀としてる。
死に際し棺はあるが槨なく、土を盛って墓を作る。初め喪中は哭泣して肉食を絶つ。
葬儀が終わると、家中の者が水に入り、体を洗い清潔にし穢れを取り除く。(神道の源流)

重大な決断時には、太占を行い骨を焼いて吉凶を占う。
倭人は長生で、百歳とか八、九十歳の者が多い。
婦女は淫らではなく、嫉妬もしない。争いや訴えはない。
軽罪を犯した者は家族ともども身分を奪って奴隷にし、重罪者は一族を滅ぼす。

その倭国の王家は昔は男子を君主として立てていたが
漢末に倭人達は乱れ戦うことなり倭人は共に女子を立てて倭国の女王とす。
其の名は卑弥呼という。
宣帝(魏の宣王、司馬懿仲達。晋の建国後、宣帝と諡された)が公孫氏を平らげると
その女王は遣使して帯方に至り朝見した。その後も貢ぎ、遣使することは絶えなかった。
文帝(司馬昭)が魏の相国になると、また何度か使者を遣わし中国に来朝す。
晋の泰始元年(司馬炎)に遣使し、倭人は通訳を重ねて中国へ朝貢に遣って来た。

「晋書」第97巻  『 四夷伝倭人伝 』 房玄齢撰
0064日本@名無史さん
2019/01/20(日) 22:15:11.83
白鳥庫吉は、
末盧国の港を、平戸付近といい、
東に行って伊都国は怡土郡、その東南の奴国は東の那の津の博多付近、
そして東行不彌国は、東南の大宰府とすれば、概ね間違いなかろう・・・、(結構大胆ですなあ)、
0065日本@名無史さん
2019/01/20(日) 22:32:12.54
「司馬懿仲達」
こういう言い方は中国では絶対にされない
「司馬懿」か「司馬仲達」どちらか
0066日本@名無史さん
2019/01/20(日) 22:32:23.98
>>64
判ってるのに、何かに忖度が有るんだろうね。

>伊都国は怡土郡、その東南の奴国は東の那の津の博多付近
だいたいあってる。

末盧は糸島半島北岸、伊都は今宿〜早良、奴国は博多周辺、不彌国は博多湾岸
考古学検証が進んじゃって、末盧、南東500里が成立するパズルはもうないんじゃないのかな?

なんで、平戸なんてスーパー僻地に上陸するんだ?
それって、博多湾まで船で来るだろ? わざと、デタラメ言ってんだよ。
0067日本@名無史さん
2019/01/21(月) 10:07:41.09
>>64
白鳥庫吉は短里に気付かなかったんですね
>>66
末盧国は東松浦半島北岸、伊都国は糸島市東南部、奴国は福岡市とその周辺、不彌国は那珂川町、春日市付近ですよ。
0068日本@名無史さん
2019/01/21(月) 10:34:37.13
倭女王卑弥呼考 白鳥庫吉
>本居氏の説出でてより以後、本朝の學者は殆ど卑彌呼を熊襲の類と見做すに於いて一致し・・・、
>又近藤芳樹氏は倭女王の都邪馬臺を肥後の菊池郡山門郷なるべしと説かれたれば・・・
>(この説は)尤も余輩の意を得たるものなり。

(近藤芳樹)
幕末明治期の国学者。
周防国岩淵村(防府市)田中源吉の長男。早くから上方に遊学して村田春門,本居大平,山田以文に国学,律令を学んだ。
天保11(1940)年長州(萩)藩士近藤家を継いで藩の和学方となり,萩に居を構える。
藩主毛利敬親に重用され,元治1(1864)年には藩校明倫館の教官となった。
維新後しばらく山口県庁に勤めたが,明治8(1875)年宮内省に出仕して文学御用掛に任じられた。
明治天皇の東国行幸,北陸行幸に供奉して『陸路の記』『十符の菅薦』の供奉日記を著す。
0069日本@名無史さん
2019/01/21(月) 10:47:27.30
>>68 つづき
倭女王の都邪馬臺を肥後の菊池郡山門郷とする説は、
東京帝国大学の白鳥庫吉の発説と思っていたが、ちがっていたようだ。
実は、これには別の発信元があり、驚くべきことに・・・、
宮内庁の文学御用掛で、明治天皇にも供奉した近藤芳樹氏から出たことらしい。
0070日本@名無史さん
2019/01/21(月) 15:17:55.67
白鳥庫吉 その他の先人は 末盧国=松浦 という
邪馬台国=大和 それ以下の記紀などの過信による思い込みによって

倭人伝を方角、距離も違えることなく、
正しく読むことを 完全に放棄してしまっている。
里程や方角が誤記誤記の九州説なんて要らない。
キナイコシw に馬鹿にされて当たり前だwww
むかしからだったのかorz

考古成果の乏しい時代でも 常識によって、
伊都国以降で修正が可能だったのは、ただ一満二千里によるだけのようだ。

女王宮 菊池郡山門郷の可能性はゼロではないにしても
狗奴国である方がぴったりとくる。

この、邪馬台国も狗奴国もたいした軍事国家では無いし
宗教対立程度のもんなんじゃないのかな?

これは、卑弥呼と卑弥弓呼という名前のイメージと
熊本程度との 小競り合いで、大国を想定するのは
400年辺りに成立してる大倭王と違うと考えた為である。
300年辺りで熊本は筑紫文化圏と融合してないか?
0071日本@名無史さん
2019/01/21(月) 15:50:20.52
>>70
>女王宮 菊池郡山門郷の可能性はゼロではないにしても
>(菊池郡山門郷は)狗奴国である方がぴったりとくる。

菊池郡山門郷を狗奴国にすると、邪馬台国は筑紫平野の筑前・甘木・朝倉になるが、
近年の発掘結果では、
その筑前・甘木・朝倉の邪馬台国が倭ヱ蝸垂ナ完全に敗退し放棄されたことになり、
倭国大乱後に、邪馬台国が卑弥呼を擁立したという倭人伝の記事とまるきり矛盾してしまう。
0072日本@名無史さん
2019/01/21(月) 16:38:20.37
明治のことではあるが、東京帝国大学の白鳥庫吉と、宮内庁文学御用掛の近藤芳樹とが気脈を通じ、
「邪馬台国女王之所都は、肥後の菊池郡山門郷なるべし」と説いたそうであるから、
これは、まるきり故なきこととは思い難い。
0073日本@名無史さん
2019/01/21(月) 17:02:05.50
>>71
>筑紫平野の筑前・甘木・朝倉は

筑前・甘木・朝倉は 150〜190年辺りの大乱で完全に敗退し放棄されてるなら
240年の邪馬台国が、糸島、福岡、筑紫平野の21国である。
ってことで、考古立証的に完全に一致だろ?
ならば、狗奴国は熊本。
0074日本@名無史さん
2019/01/21(月) 18:10:35.59
>>73
筑前・甘木・朝倉は、どこから来た勢力に負けたと思ってるの。
狗奴国? それとも糸島・福岡?
0075日本@名無史さん
2019/01/21(月) 18:26:26.59
考古立証との一致という意味で、 卑弥呼の墓は何処か?

247年の張政は、倭人船に便乗し末盧国に上陸、
南東陸行500里の伊都国に到り、壹與 難升米に為檄告喩之。
東南 至奴国 百里 東行 至不彌國 はついでに、紹介している。

基本的には、この間(糸島北岸〜今宿、早良)で卑弥呼の墓を見ている。
というか、末盧国から伊都まで500里は無駄に歩いてる可能性も高い。
敵性国に伊都の軍港を見せない、か、盛大な卑弥呼の墓を見せるためではないのかな?

もちろん、無駄に糞僻地から歩かせる、
という意味では、唐津以西も無いとは言えない。

松浦半島?なんで? 外洋船、王船、軍船だぞ。
今津、今宿、早良、博多へは 普通なら海路で移動するだろ?
0076日本@名無史さん
2019/01/21(月) 18:38:39.82
>>74
中国人が知ることのできた、倭国大乱。 であれば、
女王を共立するまでの糸島福岡筑紫平野と熊本程度の内乱だろ。

三国志という、数代に渡る戦国史を記した陳寿が
女王国などという、一代王の名称で、帯方南東の大国、日本国を紹介するか?

陳寿は、238年に半島進出した帯方郡が倭王と紹介した卑弥呼が
参問倭地21国の共立王で 絶在海中洲㠀之上 九州北部2千里で 
周旋可五千餘里の領土だけの ローカル王でした
と、紹介している。
0077日本@名無史さん
2019/01/21(月) 18:44:34.29
>>75
>敵性国に伊都の軍港を見せない、か、盛大な卑弥呼の墓を見せるためではないのかな?

つまらん妄想は時間の無駄使いだよ。  @阿波
0078日本@名無史さん
2019/01/21(月) 18:45:49.36
>>76
>女王を共立するまでの糸島福岡筑紫平野と熊本程度の内乱だろ。

つまらん妄想は時間の無駄使いだよ。  @阿波
0079日本@名無史さん
2019/01/21(月) 19:07:13.43
>>77
もう、めんどくさくてうんざりなんだけど、
アラシに反応するアタシもアラシなんですが・・・

つまらん妄想は時間の無駄使い、
じゃなくて、有効に使ってもらいたいんだけど。

阿波は邪馬台国以前のBC200年
青銅器=銅鐸時代以前から日本の中心に関与している。
247年には邪馬台国のせいで、日本と魏の国交は終わっているが、
これ以降、牛馬の移入や、鉄の国内生産で富国強兵をけん引したのは
日本海ルート、および新規の瀬戸内海ルートだ。

九州東岸、宗像以東、小倉、行橋、中津、宇佐は瀬戸内海勢力下。
238から247の、魏が、たまたま見ちゃった女王国のことより
BC300 〜卑弥呼以前の阿波の歴史の方が、価値は高いと思うぞ。
当然、九州東岸の 247以降との考古的関与。

ディベートに陥ってる倭人伝論争にはうんざりだ。
何言ってるか判るか? がんがれ!
0080日本@名無史さん
2019/01/21(月) 20:04:36.75
東京帝国大学の白鳥庫吉と、宮内庁文学御用掛の近藤芳樹とが気脈を通じ、
邪馬台国の女王之所都は、肥後の菊池郡山門郷・・、と説いた。
何かの由縁あってのことだろう。、
0081日本@名無史さん
2019/01/21(月) 20:07:41.22
東京帝国大学の白鳥庫吉と、宮内庁文学御用掛の近藤芳樹とが気脈を通じ、
邪馬台国の女王之所都は、肥後の菊池郡山門郷・・、と説いた。
何かの由縁あってのことだろう。、
0082日本@名無史さん
2019/01/21(月) 20:20:12.64
「邪馬台国の女王之所都」と曲げて読むのはいかがものかと

「邪馬壹国女王」之「所都」は
北側に不彌國が広がる早良平野の高みにある
0083日本@名無史さん
2019/01/21(月) 20:44:16.14
南至 投馬國 水行二十日 官日彌彌 副日彌彌那利 可五萬餘戸
南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月
官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七萬餘戸

北側に不彌國が広がる早良平野?
なんだそれ?

そういう都市間里程の行程中の、町とは無関係に21諸国をもって
卑弥呼という女王を共立する21国による 邪馬台国 が有り

投馬国 から 水行十日で九州上陸、
さらに、陸行一月の行軍をもって、女王宮に到達した。

これが、240年の卑弥呼印綬で、魏の軍船で渡航した梯儁の使譯だよ。
水行二十日 水行十日 陸行一月 を要した。 これは、一万二千里だった。

他の読み方、が、合理的であり得る可能性が、あんのか?
0084日本@名無史さん
2019/01/21(月) 20:44:17.84
福岡平野東端の三笠山(宝満山)から、糸島平野西端の一貴山までは、40余qあり、
両山を結ぶ直線ライン上には、漢委奴国王の4世(4時代)の王墓がおよそ10qごとに築造されている。
すなわち、福岡平野東端から糸島平野の西端までは、博多・奴国王家の支配下にあったのである。
<東端・三笠山> − 須玖岡本王墓 − 吉武高木王墓 − 三雲南小路王墓 − 銚子塚王墓 − <一貴山・西端>
0085日本@名無史さん
2019/01/21(月) 21:01:43.72
>>82
倭人伝女王国の範囲として合ってると思う。
遠賀川、宗像? 直方、飯塚、田川は、日本海ルートか、瀬戸内海系だ。
非属女王国である。 

この、邪馬台国の歴史は238年〜247年でしかない。

参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連周旋可五千餘里
が、どこまでか? は、現代考古学の成果が相当部分で解明できてる。

唐津以西や、宗像以東を、含むべきかどうかは、文献に考古学がついてくる。
0086日本@名無史さん
2019/01/21(月) 21:36:27.92
後漢書における邪馬台国までの里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(の王都、邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界(国境)である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。

邪馬台国が倭の王都であったのは卑弥呼の年代だけではない。
漢委奴国王印を貰った倭王も邪馬台国にいた。
0087日本@名無史さん
2019/01/21(月) 21:39:58.22
倭人伝での「女王國」の用法を拾って解析してみる必要がある
「去女王」に安易に「國」を補って読み込むのはいかがものかと
直前の「復有國」の「國」と「女王境界」との関係を考えてみる必要がある
「去女王」は「去女王境界」の省略形と考えると
1,000里+4,000里=5,000里の等式が成立する
「參問倭地 絶在海中洲島之上或絶或連 周旋可五千餘里」の
「五千餘里」は12,000里を超えた追加の「道里記事」ということにはなる
0088日本@名無史さん
2019/01/21(月) 21:49:29.79
邪馬台国卑弥呼の塚は、阿蘇・高千穂神社のご神体山
>国道218号からそれて高千穂神社の駐車場に駐車。駐車場から境内へ進みます。
>境内で拝殿と本殿(重要文化財)をお参りした後、
>本殿裏の小山を周回する小径へ。
>何処か裏の小山の頂上に行く経路は無いか、周回してみましたが道無し。
>磐座的なにかがあるのかと思いながら確認出来ず残念なのでした。
>おそらくこの本殿裏の小山は、古くからご神体山の扱いなのでしょうね。
https://akiba9echo.exblog.jp/19202164/
0089日本@名無史さん
2019/01/21(月) 22:10:04.58
>>87
そのとおりだね。
両方の女王ともに、女王国=邪馬台国とは違う。
これは、女王の覇権の境界、即ち「倭国の境界」の意味だろうね。

此女王境界所盡(此処女王の境界尽きるところ)。、、、
去女王四千余里(女王の境界を去る四千余里)。、、、
0090日本@名無史さん
2019/01/21(月) 22:26:52.22
>>87
又有侏儒國在其南人長三四尺 去女王四千餘里

「女王境界」って何?

去女王四千餘里 又有裸國 
は 240年の女王国の位置は特定しているから 言える。

裸國 は女王宮=上陸2千里 から、4千里。
つまり、九州南岸であると 読める。

それだけのことだ。
0091日本@名無史さん
2019/01/21(月) 22:32:26.57
参問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連周旋可五千余里。

ここで目を引くのは「参問倭地」の表現ですね。
女王の覇権のもとの倭国ではなく、「倭地」としてあるのは、女王の覇権の境界の南に狗奴国があったからでしょう。
つまり倭地とは・・、

女王の覇権内の倭国と女王に反抗した狗奴国を足した地域のことであり、
筑紫島(九州島)全体を指していたのではないでしょうか。
よって周旋可五千余里とは、筑紫島(九州島)が周旋可五千余里ということになります。
現地でいえば、九州島の北端から南端(開聞岳辺り)までのことだったのでしょう。
事実、対馬海峡を三千余里とすれば、九州島の南北は五千余里に相当します(図上で計ってみてください)。

0092日本@名無史さん
2019/01/21(月) 22:34:59.61
なんで? 
文章の話だよ。 っ原文

南至 投馬國 水行二十日 官日彌彌 副日彌彌那利 可五萬餘戸
南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七萬餘戸

自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳

次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國
次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國
次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國
次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國
此女王境界所盡

其南有 狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王
自郡至女王國 萬二千餘里

これで、邪馬壹國が列記21国構成 の 可7万戸 
其南有 狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王
自郡至女王國 萬二千餘里


南至 投馬國 水行二十日 官日彌彌 副日彌彌那利 可五萬餘戸
南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月

じゃない、なんていう文章の読み方は無いヨw
0093日本@名無史さん
2019/01/21(月) 22:38:02.81
九天神章経
道教の神学最高峰の教理書

九天応元雷声普化天尊が日本の神々を従える
神々が誕生する日本神話や神道、日本各地の神社創建の元になった
日本書紀や古事記の一般人には目も触れることができなかった極秘教理書
0094日本@名無史さん
2019/01/21(月) 22:56:03.04
おまえら馬鹿だろwww

魏時の中国人は
使譯2回で、知った倭地 以外は知らんって言ってるだろ。

女王國東渡海千餘里 復有國皆倭種
意外でも、山海経みたいな荒唐無稽な
又有侏儒國在其南人長三四尺 去女王四千餘里
又有裸國 黒齒國在其東南船行一年可至

は、有る。

女王国以北は知ってる。 他は知らん。 つまり
韓と海峡と九州の狗奴国以北が自女王国以北だろ?
船行一年や、有り得ない奇譚国、以外の 国名も知ってないだろが?

21国は 240年の 建中校尉梯儁 が 軍船で行軍して、参問して漢字にした。
里程行程は、倭人船便乗で247年の張政が記録した。
他に記録される可能性は、有り得ない。

それが、倭人伝、238〜247 である。
0095日本@名無史さん
2019/01/21(月) 23:36:40.25
21ヶ国は回っていないと思うよ。
それに倭国についての知識は漢代から少しはあった。
でも、中国から見た倭とは対馬海峡だけというのは確かだな。
0097日本@名無史さん
2019/01/22(火) 07:26:53.50
>>6
魏志倭人伝のスタートは238年

景初二年六月 倭女王遣大夫難升米等詣郡 求詣天子朝獻
238年最初の?朝貢から始まる。

正始元年 太守弓遵 遣建中校尉梯儁等 奉詔書印綬詣倭国 拝仮倭王
240年、金印を持って最初の?使者がやってくる。

其四年 倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪拘等八人 上獻生口倭錦絳青縑緜衣帛布丹木拊短弓矢
243年、再度魏に朝貢する。

其六年 詔賜倭難升米黄幢 付郡假授
245年、黄色い旗をもらう。

其八年太守王頎到官 倭女王卑弥呼與狗奴國男王卑弥弓呼素不和
247年、狗奴國とドンパチ中だと帯方郡に報告。帯方郡から2回目の?使者がやってくる。

明確に時期が書かれているのはこれだけ。
このあとは卑弥呼が死んだ話しと、男王が立って纏まらず壱与が立った話しがさらっと書いてるだけだが

魏志倭人伝の最後の文は

壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪拘等二十人 送政等還

壱与が帯方郡からの2回目の使者を送り返した。
とあるので、247年に帯方郡を出立した使者の送迎とすれば、247年から250年頃の出来事であると考えられる。

魏志倭人伝に書かれているのは238年から250年頃までの、たった12年程度の話しだよ。
0098日本@名無史さん
2019/01/22(火) 08:44:47.42
>>97
魏志倭人伝は、時系列に則りながら書かれている。
スタートは漢時で、奴国の朝見から。

その後、年次に従って記事を重ね、
全文の2/3ほどが経過したところで、
始めて「景初二年六月の倭女王遣大夫難升米等詣郡 求詣天子朝獻」に至る。
魏の238年から250年頃までの記事は、最後の1/3の部分にしか書かれていないのだよ。
0099日本@名無史さん
2019/01/22(火) 08:57:09.83
>>95 
その通りです。 21国は印綬した女王国の規模を参問した際の所属国
今 使譯 所通 三十國 は
斯馬國 巳百支國 伊邪國 都支國 彌奴國 好古都國 不呼國
姐奴國 對蘇國 蘇奴國 呼邑國 華奴蘇奴國 鬼國 為吾國
鬼奴國 邪馬國 躬臣國 巴利國 支惟國 烏奴國 奴國←240年の邪馬台国21王国

狗邪韓國 對海國 一大國 ←非女王国 
末盧國 伊都國 不彌國←240年所属王国に含まないが 女王国内部の地域名
邪馬台国 投馬国 狗奴国←領地名都市名ではない通常概念の国名

参考 ・奴国は247年の行程と240年参問国で重複
・狗邪(韓)國は韓伝の(弁辰)狗邪国と考えられるが投馬国も半島南岸倭人国であり、
韓伝のいう辰韓と弁韓が入り交ざっていた状態によって帯方郡は把握していない謎の国。
246年韓王朝滅亡で、馬韓、辰韓の王たちは臣智以下、郡の官として冊封された。
しかしこの、弁辰韓、投馬国には、郡の官制は及んでいない。

漢代の倭国についての知識
女王國東渡海千餘里 復有國皆倭種 又有 侏儒國 在其南人長三四尺
去女王四千餘里 又有裸國 黒齒國在其東南船行一年可至 にたいして
参問倭地 は 絶在海中洲㠀之上 の 或絶或連 周旋可五千餘里 の
九州島の上、福岡筑紫平野程度の領地しかない小国でしかなかった。
これが、倭人伝の言う邪馬台国です。
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