〜チョンコよ、使持節 都督 倭 新羅 任那 加羅 秦韓 慕韓 六國 諸軍事 安東将軍の偉大さを思い知れ♪〜

無能ヒトモドキはフィクション超大作(爆笑)「ヒトモドキ視点からの古代史妄想(https://sites.google.com/view/jhistory/」において
倭国王は宋の武帝に「使持節 都督 倭 百済 新羅 任那 秦韓 慕韓 六国 諸軍事 安東大将軍」という官職を求めたのに対し
文帝は「使持節 都督 倭 新羅 任那 加羅 秦韓 慕韓 六國 諸軍事 安東将軍」つまり百済の支配権は認めなかったとホルっていますが
文盲と無知の極みと言わざるを得ません。

まず武帝は「倭賛萬里修貢 遠誠宜甄 可賜除授(倭賛 万里貢を修む 遠誠宜しく甄すべく 除授を賜うべし)」と官職の下賜を推奨し
倭国王が官職を求めたわけではありません(これは織田信長が実効支配という実態に基づき、官位不要としたのと同様の思想)。
それならと実効支配域から「使持節 都督 倭 百済 新羅 任那 秦韓 慕韓 六国 諸軍事 安東大将軍」という官職を求めたのです。
この要求に対し、文帝は百済を除き、加羅を加えた「使持節 都督 倭 新羅 任那 加羅 秦韓 慕韓 六國 諸軍事 安東将軍」としました。

この時点で高句麗王の高lは「使持節 都督 営州(高句麗) 諸軍事 征東大将軍」であり百済王の余映は
「使持節 都督 百済 諸軍事 鎮東大将軍」であることを根拠に朝鮮ヒトモドキどもは安東より鎮東。鎮東より征東のほうが格上ニダ!
とホルりますが、征東・鎮東・安東を「序列」としたのは梁代からであり、順帝までは「大」も含め、あくまで「順」でしかありません。
高句麗は安東や鎮東を経ずに征東将軍となり、百済も安東を経ずに鎮東将軍となっているのがその傍証です。
そして梁代には高句麗王の高雲、百済王の牟大、倭王の武は三者揃って征東大将軍となっています。

刮目すべきはその支配域です。
高句麗王も百済王も支配域は自国のみであるのに対して、倭王の支配域は自国と新羅、任那、加羅、秦韓(辰韓)、慕韓(馬韓)という広範囲です。
百済は馬韓の中の伯済がルーツであることは、朝鮮ヒトモドキがいかに無能でも理解しているでしょう。 当時を現代のイタリア半島で例えるなら
高句麗は北部8州+トスカーナ州、馬韓はラツィオ州に位置と規模ともに相当し、百済はラツィオ州内の独立国であるバチカン市国程度なのです。