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記紀の天皇と考古学における大王墓の比定
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0001日本@名無史さん垢版2019/03/01(金) 00:49:04.79
崇神…行燈山
垂仁…宝来山?
景行…渋谷向山?
成務…佐紀石塚山
仲哀…仲ツ山?
神功…五社神?
応神…誉田御廟山
仁徳…上石津ミサンザイ?
履中…大仙陵?
反正…土師ニサンザイ
允恭…市ノ山
安康…?
雄略…岡ミサンザイ
清寧…白髪山?
顕宗…高屋築山?
仁賢…野中ボケ山?
武烈…?
継体…今城塚
安閑…?
宣化…?
欽明…見瀬丸山
0002日本@名無史さん垢版2019/03/01(金) 00:51:21.24
神功は水戸学以前は天皇として扱われていたようなので便宜上天皇として扱う
0003日本@名無史さん垢版2019/03/01(金) 00:57:26.29
渋谷向山古墳は柳本古墳群に属していて行燈山の次の大王墓である蓋然性が高く、宝来山古墳は一応は佐紀楯列古墳群に位置するので
垂仁陵と景行陵は逆かもしれない(ただ、古事記では景行陵は山辺の道にあるとされているので微妙なところ)
0004日本@名無史さん垢版2019/03/01(金) 01:03:05.37
宮内庁から仲姫命陵と治定されている仲ツ山古墳(古市古墳群)は規模からして実際は大王墓と思われ、タラシナカツヒコの名を持つ仲哀天皇の真陵である蓋然性は高そう
ただ、仲哀の後の(事実上の)大王たる神功皇后が佐紀楯列古墳群の五社神古墳の被葬者とすると、これまた垂仁・景行の時と同様に順番が逆になってしまう
0005日本@名無史さん垢版2019/03/01(金) 01:06:29.82
最大の古墳として有名な大仙陵古墳は仁徳天皇陵とされているが、実際は履中天皇陵とされる上石津ミサンザイ古墳の方が先に築かれているので
上石津ミサンザイ→仁徳陵
大仙陵→履中陵
とするのが妥当か
前述の二例と異なりどちらも百舌鳥古墳群に属していて近くにある古墳なので逆だとしても不都合は生じない
0006日本@名無史さん垢版2019/03/01(金) 01:23:47.90
安康天皇の真陵の治定はかなり難しそう
宮内庁治定の場所は考古学的には中世の山城であって古墳ですらないので明らかに誤りだが、まあ一応佐紀の地に築かれたのは本当だとすると、ヒシアゲ古墳やウワナベ古墳あたりが時代的には近いか
時代はややずれるが市庭古墳も怪しい

或いは、全く考え方を変えて「応神〜雄略までの七天皇は全員が古市or百舌鳥古墳群に葬られた」と仮定する
この場合、古市の軽里大塚古墳が時代的には近いが前後の古墳と比べると大きさ的に見劣りするのが難点
0007日本@名無史さん垢版2019/03/01(金) 01:36:04.78
>>6
続き

七天皇は全員古市or百舌鳥の古墳の被葬者だとする場合のもう一つの考え方として、そもそも反正陵=土師ニサンザイ、允恭陵=市ノ山の治定すら誤りとする考え方もできる
この場合は規模からして墓山古墳(225mで市ノ内とほとんど同じ大きさ)が大王墓の最有力候補となる
そうすると、誉田御廟山→上石津ミサンザイ→墓山→大仙陵→土師ニサンザイ→市ノ山→岡ミサンザイの順番で大王墓となりそうだが(大仙陵と墓山は逆かも)、
せっかく仁徳、履中、反正の三天皇陵が連続して百舌鳥に築かれたとする記紀の記述に適合していたそれまでの治定を棄却することになるのが最大の難点
0008日本@名無史さん垢版2019/03/01(金) 01:44:42.66
白髪山→清寧陵、野中ボケ山→仁賢陵は宮内庁の治定と考古学における年代測定が概ね一致しているので蓋然性は高そう
だがそもそも、この時代の大王墓小さすぎじゃね?というのが単純に疑問点(白髪山115m、野中ボケ山122m、それ以前の確実な大王墓は滑ら200m超)
まあ、同時代に200m超の古墳が存在しないのでしょうがないのだが
0009日本@名無史さん垢版2019/03/01(金) 01:51:43.15
顕宗天皇陵の参考地として馬見古墳群の築山古墳が治定されているけど年代が明らかに誤りなので、
実際は白髪山や野中ボケ山と同じ古市古墳群に属する高屋築山古墳の方が妥当と思われる
この古墳は宮内庁は安閑天皇陵に治定しているが、6世紀初頭の古墳を安閑天皇陵とするのは不自然なので安閑天皇陵は別の古墳と思われる
0010日本@名無史さん垢版2019/03/01(金) 01:53:05.42
>>8
× 滑ら200m超
○ 全て200m超
0012日本@名無史さん垢版2019/03/01(金) 02:14:41.77
眠いので武烈以降は明日書こうと思うけど、その前に行燈山以前の大王墓にも触れておく
崇神天皇以前の天皇は欠史八代とも呼ばれて実在否定論も強いが、こと考古学的な大王墓に関して言えば崇神陵=行燈山以前にも四つ存在する
箸墓、西殿塚、桜井茶臼山、メスリ山の四古墳がそれに該当する
機械的に崇神以前の天皇を当て嵌めると、
箸墓→孝安陵
西殿塚→孝霊陵
桜井茶臼山→孝元
メスリ山→開化
となる
更に箸墓古墳以前のヤマト王墓(規模が小さいので"大"王墓とはされない)の纒向型前方後円墳五つを加えると
纒向石塚→神武陵
纒向矢塚→綏靖陵
纒向勝山→安寧陵
東田大塚→懿徳陵
ホケノ山→孝昭陵
となって一応は数が一致する
0013日本@名無史さん垢版2019/03/01(金) 02:23:38.34
>>12
まあ、実際のところ箸墓は魏志倭人伝に見える女王卑弥呼の墓と言う見方が有力であるのは今さら言うまでもないでしょう
邪馬台国=畿内説(邪馬台国とは初期の大和王権)とする現在の有力説に立つなら、初期大和王権で卑弥呼、台与という二人の女王がいたのは確実で、欠史八代を機会的に当て嵌めても辻褄は合わない
記紀のヤマトトトヒモモソヒメやトヨスキイリビメが事実上の女帝だったのをすり替えたと考えても、トヨスキイリビメは欠史八代より後の人物になるのでやはりイマイチ辻褄が合わない
流石に実在性すら危うい崇神以前の天皇をそのまま当て嵌めるのは色々と苦しそうではある(数だけは一致するのが唯一の救いか)
0014日本@名無史さん垢版2019/03/01(金) 03:18:33.07
箸墓古墳を卑弥呼の墓と想定するのは無理がある。
魏書に於いては一貫して短里が用いられているのだから、1里=300歩、100歩は25.3m、百余歩は30m程度ということになる。
箸墓古墳は、墳長が約278m、後円部の直径が約150mであり、百余歩よりも桁違いに大きい。
畿内説信者は苦し紛れに「当初は円墳として築造され、前方は後年増築された」と言い出したが、桜井市教育委員会の橋本輝彦氏らによって完全に否定されている。

また三国志に於いては「塚」と「墳」が明確に区別されていたことに留意せねばならない。
諸葛亮伝の「山に因りて墳を為し、冢は棺を容るるに足る」や、大君公侯の墓が「墳」であったという記述からも高さのある人工の大きな墓を「墳」と呼び、棺を入れるのに十分な程度の高さしかない墓を「塚」と区別していた。
周礼には「漢律に曰く、列侯の墳は高さ四丈、関内侯以下庶民に至るまで各々差あり」とあり、高さが四丈もあれば、墳として扱われていたことになる。
一丈の長さは時代によって2-3mの間で変化するが、8-12mを超えれば間違いなく墳である。
箸墓古墳は高さ30mもあるので、魏使が見たら「大いに塚を作る」ではなく「大いに墳を作る」と書いていなければ辻褄が合わない。
0015日本@名無史さん垢版2019/03/01(金) 04:46:30.05
「邪馬台国」畿内説はデータの改竄を平然と行い、しかも結論(女王国の所在地)そのものに影響をあたえる改竄を行っています。
たとえば倭人伝には「南、邪馬壹国に至る」とあるのを「東、邪馬台国に至る」というように、「南」を「東」に、「壹」を「台(臺)」に改竄し、「邪馬台国」なるものをでっち上げ、
方向を南ではなく東として、むりやりに「邪馬台国」畿内説を提起しているのです。
もし、これと同じことを理系の研究論文で行ったら、即レッドカード(退場)です。
それ以前に、論文掲載を拒否されるでしょう。
ところが、一元史観の日本古代史学界は「集団」でこの研究不正を行い、「集団」でこの研究不正を容認しているのです。
この一点だけでも、「邪馬台国」畿内説は研究不正の所産であり、学説(学問的仮説・学問的態度)に値しないことは明白です。
マスコミがなぜこの研究不正をバッシングしないのか不思議です。
0016日本@名無史さん垢版2019/03/01(金) 04:47:50.06
「邪馬台国」畿内説が「研究不正」の上で成り立っていることを指摘しましたが、畿内説論者が何故『三国志』倭人伝の
「南、至る邪馬壹国。女王の都する所」という記事の「南」を「東」に、「壹」を「台(臺)」に改竄(研究不正)したのか、その「動機」について解説します。

倭人伝には邪馬壹国の位置情報としていくつかの記述がありますが、行程記事の概要は朝鮮半島から対馬・壱岐・松浦半島・糸島平野・博多湾岸と進み、
その南、邪馬壹国に至るとあります。
したがって、どのように考えても邪馬壹国(女王国)は博多湾岸の南方向にあることは明確ですから、「南」を「東」に改竄しなければ、
方角的に奈良県に邪馬壹国を比定することは不可能です。
そこで、「南」を「東」とする改竄(研究不正)に走ったのです。

しかし、それだけでは畿内説にとっては不十分です。
というのも、改竄(研究不正)により、邪馬壹国を博多湾岸よりも「東」方向にできても、それだけでは四国や本州島全域が対象地域となってしまい、
「畿内」(奈良県)に限定することはできないからです。
そこで、畿内説論者はもう一つの改竄(研究不正)を強行しました。
0017日本@名無史さん垢版2019/03/01(金) 04:49:29.60
「邪馬台国」畿内説論者が倭人伝の原文(基礎データ)の文字を「南」から「東」に改竄(研究不正)していることを指摘しましたが、
彼らはもう一つの改竄(研究不正)にも手を染めています。
それはより悪質で本質的な改竄で、こともあろうに倭国の中心である女王国の名称を原文の邪馬壹国から邪馬台国(邪馬臺国)にするというもので、
理系の人間には信じられないような大胆な改竄(研究不正)です。

今回はこの研究不正の動機について解説します。
既に述べましたように、邪馬壹国の位置を博多湾岸の東方向とするために、「南」を「東」に改竄しただけでは畿内説「成立」には不十分なので、
畿内説論者は女王国の国名をヤマトにしたかったのです。
実は改竄(研究不正)はこの国名改竄の方が先になされました。
畿内説論者の研究不正の順序はおおよそ次のようなものでした。

(1)倭国の中心国は古代より天皇家がいたヤマトでなければならない。(皇国史観という「信仰」による)

(2)ところが倭人伝には邪馬壹国とあり、ヤマトとは読めない。(「信仰」と史料事実が異なる)

(3)「壹」とあるのは誤りであり、「壹」の字に似た「臺(台)」が正しく、中国人が間違ったことにする。(証拠もなく古代中国人に責任転嫁する。「歴史冤罪」発生)

(4)「邪馬臺国」を正しいと、皆で決める。(集団による改竄容認・研究不正容認)

(5)しかしそれでも「邪馬臺国」ではヤマトとは読めない。(改竄・研究不正してもまだ畿内説は成立しない)

(6)「臺」は「タイ」と発音するが、同じタ行の「ト」と発音してもよいと、論証抜きで決める。

(7)「臺」を「ト」と読むことにするが、同じタ行の「タ」「チ」「ツ」「テ」とは、この場合読まないことにする。(これも論証抜きの断定)

(8)こうしてようやく「邪馬臺国」を「ヤマト国」と読むことに「成功」する。

(9)この「ヤマト国」は奈良県のヤマトのことと、論証抜きで決める。(自らの「信仰」に合うように断定する)
0018日本@名無史さん垢版2019/03/01(金) 04:50:33.57
これだけの非学問的な改竄や論証抜きの断定を繰り返した結果、「邪馬台国」畿内説という研究不正が「完成」したのです。
ですから、畿内説は学説ではありません。
学問的手続きを経たものではなく、研究不正の所産なのです。
ここまでやったら、「毒を食らわば皿まで」で、先の「南」を「東」に改竄することぐらい平気です。
しかも集団(古代史学界)でやっていますから、恐いものなしでした。

ところが、「信仰」よりも歴史の真実を大切にする歴史学者の登場により、彼らの研究不正が白日の下にさらされたのです。
0019日本@名無史さん垢版2019/03/01(金) 04:54:02.83
「邪馬台国」畿内説論者による研究不正は他にもあります。
それは自説にとって決定的に不利な記事(基礎データ)を無視(拒絶)するという研究不正です。

この方法が許されると、たとえば裁判などでは冤罪が続出することでしょう。
学問としては絶対にとってはならない手法です。

理系論文で自説を否定する実験データを故意に無視したり、隠したりしたら、これも即レッドカード(退場)ですが、
日本古代史学界では集団で研究不正を黙認していますから、「古代史村」から追放される心配はなさそうです。

倭人伝には行程記事以外にも女王国の所在地を示す総里程記事(距離情報)が明確に記されています。次の通りです。

「郡より女王国に至る万二千余里」

「郡」とは帯方郡(ソウル付近と考えられています)のこと、女王国は邪馬壹国のことですが、その距離が一万二千里余りとありますから、
一里が何メートルかわかれば、単純計算で女王国の位置の検討がつきます。
少なくとも、北部九州か奈良県のどちらであるかはわかります。

「古代中国の里」の研究によれば、倭人伝の「里」は漢代の約四三五mとする「長里」説と、周代の約七七mとする「短里」説の二説があり、
それ以外の有力説はありません。それでは倭人伝の記事(基礎データ)に基づいて単純計算してみましょう。

短里 77m×一万二千里=924km
長里 435m×一万二千里=5,220km

短里の場合は北部九州(博多湾岸付近)となりますが、長里の場合は博多湾岸はおろか奈良県(畿内)もはるかに通り越し、
太平洋の彼方に女王国はあることになってしまいます。

従いまして、倭人伝の総里程記事(基礎データ)に基づくのであれば、倭人伝は短里を採用しており、女王国の位置は北部九州(博多湾岸付近)と見なさざるを得ません。
短里であろうと長里であろうと、間違っても奈良県(畿内)ではありません。

この基礎データに基づく小学生でもできるかけ算が、少なくとも義務教育を終えたはずの畿内説論者にできないはずはありませんから、
彼らは自説を否定する基礎データ(万二千余里)を無視・拒絶するという、非学問的な態度をとっていることは明白です。
これは研究不正であり、「邪馬台国」畿内説が学説(学問的仮説・学問的態度)ではない証拠の一つなのです。
0020日本@名無史さん垢版2019/03/01(金) 04:56:11.05
『三国志』倭人伝には行程記事・総里程記事以外にも女王国の所在地を推定できる記事があります。
この記事も畿内説論者は知ってか知らずか、多くの研究者からの指摘があるにもかかわらず無視しています。
こうした無視も学問的態度とは言い難いものです。

倭人伝冒頭には畿内説を否定する記事がいきなり記されています。次の記事です。

「倭人は帯方の東南大海の中にあり、山島に依りて国邑をなす。」

倭人の国、倭国は帯方(ソウル付近とされる)の東南の大海の中にある島国であると記されています。
中国人は倭国を島国と認識していたのですが、九州島は文字通り「山島」でぴったりですが、
本州島はこの時代には島なのか半島なのかを認識されていた痕跡はありません。
本州島を島と認識するためには津軽海峡の存在を知っていることが不可欠ですが、
『三国志』の時代に中国人が津軽海峡を認識していた痕跡はないのです。

従って、倭人伝冒頭のこの記事を素直に理解すれば、倭国の中心国である女王国(邪馬壹国)が九州島内にあったとされていることは明白です。
ですから、倭人伝は冒頭から畿内説が成立しないことを示しているのです。
畿内説論者は自説の成立を否定するこの記事の存在を、延々と無視してきました。
こうした態度も学問的とは言えません。
ですから、「邪馬台国」畿内説が学説(学問的仮説・学問的態度)ではないことを、倭人伝冒頭の記事も指し示しているのです。
0021日本@名無史さん垢版2019/03/01(金) 04:58:12.91
「邪馬台国」畿内説が学説の体をなしていないことは、これまでの説明でご理解いただけたものと思いますが、
文献史学では成立しない畿内説に対して、物(出土物・遺跡)を研究対象とする、ある意味では「理系」に近い考古学の分野では、
どういうわけか畿内説論者が少なくありません。

これは一体どういうことでしょうか。

『三国志』倭人伝を基礎史料とする文献史学の結論として、畿内説は学説として成立しない場合でも、考古学的に畿内説が成立するケースが無いわけではありません。
それは、倭人伝に記された倭国の文物の考古学的出土分布が畿内が中心となっていれば、畿内を倭国の中心とする理解は考古学的には成立します。
このケースに限り、考古学者が畿内説に立つのは理解できますが、考古学的事実はどうでしょうか。

まず倭人伝に記された倭国の文物には次のようなものがあります。
(金属)「銅鏡百枚」「兵には矛・盾」「鉄鏃」
(シルク)「倭錦」「異文雑錦」

遺物として残りやすい金属器として、中国から贈られた「銅鏡百枚」について、弥生時代の遺跡からの銅鏡の出土分布の中心は糸島・博多湾岸です。
「鉄鏃」を含む鉄器や製鉄遺構も弥生時代では北部九州が分布の中心です。

畿内(奈良県)の弥生時代の遺跡からはこれらの金属器はほとんど出土が知られていません。
シルクの出土も弥生時代の出土は北部九州が中心です。

このように考古学的事実も畿内説は成立しないのです。
「邪馬台国」論争の基礎史料である倭人伝の記述と考古学的出土事実が畿内説では一致しないのに、
畿内説を支持する考古学者が少なくないという考古学界の状況は全く理解に苦しみます。

物(遺物・遺跡)を研究対象とする考古学は、近畿天皇家一元史観(戦後型皇国史観)ではなく、
「自然科学」としての観測事実や出土事実にのみ忠実であるべきだと思うのですが、畿内説を支持しなければならない、
何か特別な事情でもあるのでしょうか。

わたしは、それを学問的態度とは思いません。
0022日本@名無史さん垢版2019/03/01(金) 04:59:24.00
最後に、『三国志』倭人伝に記された女王国(邪馬壹国)の所在地を考える上で、倭国の「文字文化」という視点を紹介したいと思います。
倭人伝には次のような記事が見え、この時代既に倭国は文字による外交や政治を行っていたことがうかがえます。

 「文書・賜遣の物を伝送して女王に詣らしめ」
 「詔書して倭の女王に報じていわく、親魏倭王卑弥呼に制詔す。」
 「今汝を以て親魏倭王となし、金印紫綬を仮し」
 「銀印青綬を仮し」
 「詔書・印綬を奉じて、倭国に詣り、倭王に拝仮し、ならびに詔をもたらし」
 「倭王、使によって上表し、詔恩を答謝す。」
 「因って詔書・黄幢をもたらし、難升米に拝仮せしめ、檄を為(つく)りてこれを告喩す。」
 「檄を以て壹与を告喩す。」

以上のように倭人伝には繰り返し中国から「詔・詔書」が出され、「印綬」が下賜されたことが記され、それに対して倭国からは「上表」文が出されていることがわかります。
従って、弥生時代の倭国は詔書や印に記された文字を理解し、上表文を書くこともできたのです。
おそらく日本列島内で最も早く文字(漢字)を受容し、外交・政治に利用していたことを疑えません。
従って、日本列島内で弥生時代の遺跡や遺物から最も「文字」の痕跡が出現する地域が女王国(邪馬壹国)の最有力候補と考えるのが、
理性的・学問的態度であり、学問的仮説「学説」に値します。

そうした地域はどこでしょうか。
やはり、北部九州・糸島博多湾岸(筑前中域)なのです。
0023日本@名無史さん垢版2019/03/01(金) 05:00:22.95
筑前中域には次のような「文字」受容の痕跡である遺物が出土しています。

志賀島の金印「漢委奴国王」(五七年)
室見川の銘版「高暘左 王作永宮齊鬲 延光四年五」(一二五年)
井原・平原出土の銘文を持つ漢式鏡多数

これらに代表されるように、日本列島内の弥生遺跡中、最も濃厚な「文字」の痕跡を有すのは糸島博多湾岸(筑前中域)なのです。
この地域を邪馬壹国に比定せずに、他のどこに文字による外交・政治を行った中心王国があったというのでしょうか。
0024日本@名無史さん垢版2019/03/01(金) 12:59:10.91
古墳それぞれの成立年というのはかねがね気になっていたので
わかりやすく整理されて、大変参考になります。 しかし、 >>17 は、どうだろうか?
後漢書では「邪馬臺国」を採用しているが、意味不明な「邪馬壹国」妄信より理由は有ると思う。
他スレから持論↓

南 至投馬國 水行二十日
南 至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月
次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國
次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國
次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國
次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國
此女王境界所盡 其南有狗奴國 不屬女王

この一連文の国名は、240年将校の建中校尉梯儁による卑弥呼印綬の行軍の際に
倭人から女王共立の21王国を参問し、漢字にして記録した国名である。

魏時の使譯は240年と247年の二回であるから
中国人が、この時の和名の国名を漢字化するチャンスは他にない。

海峡の島名も表意文字だが、
投馬國 については、馬韓の向こうなので、表意文字での命名と思う。
邪馬壹國 これは、同じ梯儁命名の邪馬國が存在するので、ここで見た女王の臺を表意文字とし
これをランドマークとして一代名称の女王国表現を改め邪馬臺国と命名したと考えられる。

この二つの国名が歴史上で使われたのは、残念ながら梯儁の記録だけである。
陳寿はこれを 倭人の女王国って、247年まであったよねw で終らせた。
投馬國は後の、加羅任那、邪馬壹國は筑紫国となる。

こういった命名の方向性として、狗邪韓國は韓伝の弁辰狗邪國と思われるが、
和音の狗邪に 韓を表意文字で付け足している。
0025日本@名無史さん垢版2019/03/01(金) 14:22:39.74
>>23
結構同意

当時の畿内は新興都市としての開発の痕跡が目立つ
一方卑弥呼の邪馬台国は伝統の継承と連合を意識した痕跡であるはず

数世代続いた祭祀痕跡を意識したとき三輪山は新しすぎる(三世紀後半からの痕跡しか出てこない)
00261垢版2019/03/01(金) 14:28:38.94
武烈天皇の真陵として可能性が考えられるのは西山塚古墳と鳥屋ミサンザイ古墳だろうか

西山塚古墳は大和古墳群の主要古墳では唯一の6世紀前半の古墳であり、手白香皇女の真陵ではないかとされているが、114mは当時として大王墓でもおかしくはない大きさである
西山塚に近い桜井の地に武烈天皇の宮が置かれたとされているところも根拠になりそうだ

鳥屋ミサンザイ古墳は宣化天皇陵と治定されているが、年代的には武烈陵でも矛盾は無く、130mという大きさは当時としてはかなり大きく、大王墓である可能性は高いと思われる
0027日本@名無史さん垢版2019/03/01(金) 14:34:09.53
>>25
纒向遺跡最古の首長墓と見られる纒向石塚古墳は2世紀後半〜3世紀初頭のものだよ
箸墓から首長墓が巨大化するのは重要なことではあるが、それ以前の纒向の地にも纒向石塚〜ホケノ山まで五代分の首長墓が存在する
00281垢版2019/03/01(金) 14:43:36.79
安閑・宣化の真陵治定も難しそうだが、少なくとも片方の真陵は河内大塚山古墳(335mという6世紀最大の古墳で今城塚と見瀬丸山の間に築かれた大王墓)である可能性は極めて高いと想われる
もう片方に関しては恐らく梅山古墳ではないかと思う
140mあるこの古墳は蘇我稲目の墓という説もあるが、当時のこの規模の前方後円墳は大王墓である可能性が高い(蘇我稲目の古墳は方墳の都塚古墳であろう)

では、どちらがどちらか
安閑天皇の陵は古市高屋丘陵とされているが、河内大塚山古墳は古市古墳群に近い
宣化天皇は都を飛鳥の地に置いていたとされることから、飛鳥の地にある梅山古墳が有力候補となる

よって、安閑陵=河内大塚山、宣化陵=梅山ではないだろうか
00291垢版2019/03/01(金) 14:45:59.19
自分で書いてて思ったが、
安閑…河内大塚山
宣化…梅山
って割と蓋然性高そうだな
同時代の古墳調べてみても有力な対抗馬が存在しない
武烈の真陵はう〜んという感じだが
0030日本@名無史さん垢版2019/03/01(金) 15:03:31.47
>仲哀…仲ツ山?

津堂城山

>神功…五社神?
>応神…誉田御廟山
>仁徳…上石津ミサンザイ?

仁徳は大仙。
上石津ミサンザイは次期大王確実で皇太子にまでなった菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)

>履中…大仙陵?

大仙陵の南。
つまり後方部で後円部に埋葬されたお父さんの仁徳とともに眠ってる。


反正…土師ニサンザイ
00311垢版2019/03/01(金) 15:17:52.45
参考までに
最初期の大和王権の王墓+行燈山以前の大王墓+推定天皇陵の大きさ

纒向石塚…96m
纒向矢塚…96m
纒向勝山…115m
東田大塚…120m
ホケノ山…80m
箸墓…278m
西殿塚…230m
桜井茶臼山…207m
メスリ山…224m
崇神陵…行燈山 …242m
垂仁陵…宝来山…227m
景行陵…渋谷向山…300m
成務陵…佐紀石塚山 …218m
仲哀陵…仲ツ山…290m
神功陵…五社神…267m
00321垢版2019/03/01(金) 15:18:21.83
応神陵…誉田御廟山 …425m
仁徳陵…上石津ミサンザイ…365m
履中陵…大仙陵…525m
反正陵…土師ニサンザイ …推定300m以上
允恭陵…市ノ山 …227m
(安康陵…ヒシアゲ…219m)
雄略陵…岡ミサンザイ …245m
清寧陵…白髪山…115m
顕宗陵…高屋築山…122m
仁賢陵…野中ボケ山…122m
(武烈陵…鳥屋ミサンザイ…130m)
継体陵…今城塚 190m
安閑陵…河内大塚山 335m
宣化陵…梅山 140m
欽明陵…見瀬丸山 318m

安康陵と武烈陵は疑いの余地が特に大きいので( )をつけた
00331垢版2019/03/01(金) 15:28:20.08
>>32
安康陵…ヒシアゲとした
菅原伏見東陵(垂仁陵)=宝来山古墳という治定が正しければ、菅原伏見西陵とされている安康陵は位置関係からヒシアゲ・コナベ・ウワナベの何れかである可能性が高そうなので
年代が概ね合致するヒシアゲということにした

武烈陵…鳥屋ミサンザイとした
これが一番微妙だが
規模や形状からして大王墓である可能性が高く、年代が一致するので
00341垢版2019/03/01(金) 15:38:06.17
>>30
津堂城山は年代的に大きな問題は無いので候補たりうるが
仲ツ山の方が巨大で、なおかつこちらも誉田御廟山以前に築かれたものと見られているので仲ツ山の蓋然性が高いと判断した
仲哀の名がタラシナカツヒコというのもある

仁徳陵、履中陵は確かに位置関係が逆になってしまうのだが、考古学的に上石津ミサンザイ→大仙陵の順なのは確実だからなあ…
菟道稚郎子の墓が上石津ミサンザイという事実上の大王墓で、対して履中は合葬というのは流石に…
菟道稚郎子の陵墓が古市or百舌鳥にあるなら墓山か御廟山でも良さそうだが
0035日本@名無史さん垢版2019/03/01(金) 15:45:08.95
しかし確かに、上石津ミサンザイ・大仙陵の築造順と即位順をそのまま当て嵌めて、上石津ミサンザイ=仁徳陵、大仙陵=履中陵としてしまって良いのかは再考の価値がありそう

自然な順番を重視するなら、渋谷向山と宝来山の推定(景行と垂仁)、五社神と仲ツ山の推定(神功と仲哀)も逆になっておかしくないが、そこはあくまで記紀の陵墓の記述を重視したんだから
そう考えると
仁徳陵…大仙陵
履中陵…上石津ミサンザイ
と言う風に考古学的にやや不自然だが記紀重視の姿勢で推定するのも不合理とは言えないな
00361垢版2019/03/01(金) 16:05:57.77
にしても、雄略朝から先の数世代はどうしてこうも墓が小さいのか
これらが大王墓ということにどうしても首を傾げてしまう
同時代の畿内に巨大古墳が全然無いので仕方ないのだが、「磐井の岩戸山古墳(135m)に負けるとは何事か」って思っちゃうよね
単に、後に来るコンパクト古墳(方墳・八角墳)時代への過渡期と見るには河内大塚山・見瀬丸山という6世紀後半の巨大古墳の説明がつかないし
0037日本@名無史さん垢版2019/03/01(金) 16:17:50.48
新田開墾の際の余った土を使っているという説だと
古墳のサイズは単に新たに開墾した土地の面積次第であり
被葬者の格は関係が無いそうだよ
0038日本@名無史さん垢版2019/03/01(金) 17:44:06.30
>>34
>考古学的に上石津ミサンザイ→大仙陵の順なのは確実だからなあ…
>菟道稚郎子の墓が上石津ミサンザイという事実上の大王墓で、対して履中は合葬というのは流石に…

応神元年390年として当時の平均在位は11年。
天皇に即位してから大王墓を造り始めたのなら間に合わない。
だから一番分かりやすいのは天皇陵でなく次期大王墓、つまり皇太子墓。

応神と、仁徳に皇位を譲った菟道稚郎子の死亡時期はほぼ同じ。
応神=誉田御廟山=5世紀初頭=菟道稚郎子=上石津ミサンザイ

ピタリ合うじゃん。
00391垢版2019/03/01(金) 18:58:23.74
参考までに
その他の大王墓候補たりうる古墳

佐紀楯列古墳群
佐紀陵山古墳(4世紀末 207m)
市庭古墳(5世紀前半 推定253m)
コナベ古墳(5世紀前半 204m)
ウワナベ古墳(5世紀中頃 205.4m)

古市古墳群
津堂城山古墳(4世紀後半 208m)
墓山古墳(5世紀前半 225m)
軽里大塚古墳(5世紀後半 190m)

百舌鳥古墳群
御廟山古墳(5世紀前半 203m)

馬見古墳群
築山古墳(4世紀末 210m)
巣山古墳(4世紀末〜5世紀初頭 推定220m)
島の山古墳(4世紀末〜5世紀初頭 200m)
新木山古墳(4世紀前半 200m)
川合大塚山古墳(5世紀後半 215m)
狐井城山古墳(5世紀末〜6世紀初頭 140m)

その他
岸和田市 摩湯山古墳(4世紀後半 200m)
御所市 室宮山古墳(5世紀初頭 238m)
茨木市 太田茶臼山古墳(5世紀中頃 226m)
天理市 西山塚古墳(6世紀前半 114m)
太子町 太子西山古墳(6世紀前半か? 113m)
00401垢版2019/03/01(金) 19:34:58.54
>>38
まあ仮に皇太子時代から大王墓を造っていた(即位でなく立太子した人物を大王墓の被葬者に治定する)として、どうして仁徳陵=大仙陵で履中が追葬されたことになるのか
突然皇位継承することになったのは仁徳なんだから、仁徳が上石津ミサンザイに追葬されて、履中は大仙陵の被葬者っていうならまだ分からなくもないが
00411垢版2019/03/01(金) 19:48:23.36
ふと思ったが、日本武尊の白鳥陵、河内のものに関しては軽里大塚ではなく津堂城山古墳だとすると年代的には合致するよな
大和の白鳥陵は現状の御所市の治定地は古墳なのかすら怪しいが、じゃあ室宮山古墳を真陵と見て良いかは微妙なところだな
年代からすると、佐紀石塚山(成務陵)のすぐ隣にあって佐紀石塚山より前に築かれた佐紀陵山なんかはそれっぽいけど

まあそもそも、日本武尊は神話的な要素が強いし、伝説を抜きにして考えると陵墓が複数あること自体疑わしいのだが
0042日本@名無史さん垢版2019/03/01(金) 20:26:05.90
調査可能な最古の古墳って言うのは纏向? 出雲の四隅突出?

古墳型の中央集権の軍隊出来たのは、銅鐸繋がりが背景だと思うのだが、
おそらく銅鐸繋がりからの国々からの徴兵が有って、
国営の徴税労働の開墾で、王墓を古墳にしたと思うんだよね。

縄文一万五千年の原始共産制から、穀物、鉱物で資産形成
開墾地の私有、軍隊の私有が国家形成だろ?

九州が銅鐸連携無かったって言うのは、
卑弥呼が死んだ、247年までの九州は、外国だったんだろ。
倭の五王の400年以前の、記紀はデタラメで、良くネ?

250年から600年の古墳は、事実が埋蔵されてるはずだよね。
なんで、考古学は、倭人伝で ミスリードなの?
0043日本@名無史さん垢版2019/03/01(金) 20:52:34.00
>>42
同じ言語を話してたことは明白なんだから外国ではないだろw
00441垢版2019/03/01(金) 21:12:13.46
>>39
細かいミスに気づいたが、新木山は4世紀前半じゃなくて5世紀前半だった

しかしこうして書き出してみると、狐井城山古墳はかなり臭いな
顕宗陵はこっちかもしれん
00451垢版2019/03/01(金) 21:18:40.94
推定顕宗天皇陵は狐井城山に変更かな
規模や年代的に蓋然性は高そうだし、あと一応宮内庁の参考地の築山古墳に近い
0046日本@名無史さん垢版2019/03/01(金) 21:40:17.37
>>43
今でも判らない、九州と本州の言語が 明白に同じ?

現代日本語が形成できたのは、
異国状態の九州語も文法の語法で共有したからだろ?

倭人伝を素読で理解せず
現代語誤読で読んでるアホには呆れるよ。
0047日本@名無史さん垢版2019/03/01(金) 21:42:37.84
>>46
何言ってんだお前は?
アホは首突っ込んでくるなって・・・
0048日本@名無史さん垢版2019/03/01(金) 21:46:21.18
呆れた、って言ってんだが、日本語判るか?
漢字とばして、読むなよ。
0049日本@名無史さん垢版2019/03/01(金) 22:02:54.55
>>48
アホはアホらしくしとけよ無能
0050日本@名無史さん垢版2019/03/01(金) 22:04:43.52

記紀の天皇と考古学における大王墓の比定

記紀の天皇=デタラメ
考古学= >>1 >>15 ~ 23

存在価値有るのかね?
だから、呆れた って言ってんだよ。
0051日本@名無史さん垢版2019/03/01(金) 22:10:55.55
>>50
無能は邪魔だから死ね
0052日本@名無史さん垢版2019/03/01(金) 22:23:43.06
真実 以外のものは 日本の歴史に必要なくないか?

せっかく、記紀のデタラメから抜け出せそうな
古墳の年代で歴史の真実に近づいたのに、残念だね。

日本人じゃない場合だけど、
多分、歴史認識を改めた方が良いんじゃないかな?
0053日本@名無史さん垢版2019/03/01(金) 22:26:13.61
>>40
>どうして仁徳陵=大仙陵で履中が追葬されたことになるのか

疲弊。
あれだけの大古墳を連発するのなら、いくら何でも一度休む期間が必要だ。
まぁ 履中=御廟山でもいいんだけどね。
0054日本@名無史さん垢版2019/03/01(金) 22:26:22.05
【徳島市大原町千代ヶ丸山 観音山古墳は、反正天皇の御陵跡であった】
元禄年間に徳川幕府から「阿波淡路右両国之内、古代之天子葬之場所有之由ニ候云々」として阿波で古代天皇の埋葬が行われた痕跡を徳島藩に調査させている。

元禄十四年四月二十四日(同日)、勝浦郡大原村千代ヶ丸の観音山古墳を徳島藩普請奉行 猪子理五郎等が掘り出した時の記録も残っている。

『(元禄)同十年十一月十九日、土屋相模守殿、御留守居呼出左之書付御渡、 覺  阿波淡路右兩國之内、古代之、
天子葬之場所有之由に候、淡路國三原郡有之旨に候、場所吟味有之候䔡其所に矢奈等被申付、雑人不入込候様可被申付候(中略… )
同十四年四月廿四日、勝浦郡大原村千代ヶ丸觀音山へ、普請奉行猪子理五郎、森脇彌五兵衛罷越、石之櫃堀出し申處に、内に右左品々有之、
一、石櫃長九尺八寸、深貮尺九寸、幅三尺餘、切ふさ貮枚、むぎ合に仕、内樋有之、
一、しやれかうべ貮つ、長サあぎとまで壹尺四寸、丸サ三尺七寸廻り、兩眼の間三寸、
一、上下の齒長さ八分、左奥齒より右之奥齒まで壹尺四寸、兩方の耳幅長さ壹尺五分、
一、今一つかうべの儀は不分明
一、刀一腰長さ六尺八寸、幅貮寸五分、
一、釼二振有之内一振は長五尺五分、幅三寸五分、今一振は長壹尺五寸、幅三寸五分、
一、鉾一、長さ貮尺は丶七寸、石突八寸、
一、矢根廿五本有之、長壹尺貮寸、幅三寸、
一、からうとの内かうや貮つに書付添、
右之通 以上』

「古代天子葬之場所有之由の候… 」 この記述から、徳川幕府は阿波国に古代天皇陵が存在することを知っていたことになる。

反正天皇は「古事記」に「御身の長(たけ)九尺ニ寸半、御歯の長さ一寸、広さニ分、上下等し斉(ととの)ひ、既に珠を貫けるが如くなりき。」
と記録されているが、こちらの記録と千代ヶ丸 観音山古墳の埋葬者の身体サイズときちんと一致している。

徳島市は大原町千代ヶ丸。この千代ヶ丸山 観音山古墳は、実は反正天皇の御陵跡であった
0055日本@名無史さん垢版2019/03/01(金) 22:32:00.60
>>54
邪馬台国四国説などというものは平然とデータの改竄を行うことを前提としたトンデモ説であり、学説と呼ぶのが痴がましい下劣ものであります。

大前提として魏志倭人伝には「南、邪馬壹国に至る」とあるわけですが、この大前提を無視して「東、邪馬台国に至る」と、方向も国名も好き勝手に改竄するところからスタートしているのが邪馬台国四国切なのであります。

これと同じような下劣な行いを理系の研究論文で行おうものなら、立ちどころにレッドカード(退場)となることはお分かりいただけるでしょう。
それ以前に、論文掲載を拒否され、二度と学者としての振る舞うことは許されなくなることでしょう。

この一点だけでも、邪馬台国四国説は研究不正の所産であり、学説(学問的仮説・学問的態度)に値しないことは明白なのであります。
0056日本@名無史さん垢版2019/03/01(金) 22:35:05.22
>>40

あと大仙陵墓後方部の石棺の模型。

http://www.city.sakai.lg.jp/kanko/hakubutsukan/kofun.images/nintokusekikan.jpg

後円部にも石棺があることが確認されてる様だがこれは仁徳自身であろう。

後方部石棺は后の磐之媛命とも思ったが、磐之媛命はそそくさと葛城に帰ってるのでそれはないだろう。
やはり在位の短かった履中ではないだろうか。
0057日本@名無史さん垢版2019/03/01(金) 22:36:59.37
後方部じゃなくて前方部だ、訂正する失礼。
0058日本@名無史さん垢版2019/03/01(金) 22:43:20.43
安寧は磯城津彦、崇神は磯城宮
磯は海を表す
海の無い奈良は関係ありませんってね
当然お墓もありませぬ
0059日本@名無史さん垢版2019/03/01(金) 22:44:23.23
本当に真実に近づいていることに期待はしている。
なぜ、日本に古墳時代は必要だったんだ?
0060日本@名無史さん垢版2019/03/01(金) 22:55:46.41
大仙陵が仁徳である根拠。
まず須恵器の時代が5世紀前半ごろ、仁徳の死亡時期と合う。
そして仁徳の妃の墓としか思えない地方の墓が、仁徳時代に巨大化してる。
その一つ、吉備の造山古墳は全国4位だ。
被葬者は仁徳の寵愛を受けた妃の黒日売か、その親父の吉備海部直しか思いつかない。
そして宮崎西都原の九州最大の墓、男狭穂塚・女狭穂塚は、
美人の誉れが高かった仁徳の妃、日向髪長媛とその親父の諸県君牛諸井しか考えられない。

つまり仁徳の関連人物が地方で巨大墓を造ってるという事は、
大仙陵墓はやはり仁徳であろう。
00611垢版2019/03/02(土) 00:21:06.39
>>53>>56
当時の国の威信をかけての建築が「民衆の疲弊」で一旦休みになるというのは、根拠としては如何なものかと思うが
大仙陵の前方部にも石棺があるというのは確かに重要な情報だ
二代の大王が何らかの理由で合葬された可能性は否定できない

>>60
やっぱり大仙陵は仁徳陵っぽいっすね…
考古学的な築造順と記紀の天皇の即位順に固執しない限り仁徳陵という蓋然性はかなり高くなる
0063日本@名無史さん垢版2019/03/02(土) 04:26:58.95
>>31>>32
それぞれの古墳の推定年代と宮内庁が指定している陵墓も記載していただけると助かります
0064日本@名無史さん垢版2019/03/02(土) 08:54:28.97
仁徳天皇は別名難波天皇
香川県津田町は少なくとも平安時代には難波と呼んでいて大阪より古い
中国では仁徳天皇は讃と呼ばれた
讃岐から取られた可能性大である
仁徳天皇は別名難波天皇
香川県津田町は少なくとも平安時代には難波と呼んでいて大阪より古い
中国では仁徳天皇は讃と呼ばれた
讃岐から取られた可能性大である
仁徳天皇は生涯を香川で過ごした
大仙陵が仁徳の可能性は低い 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b)
0065日本@名無史さん垢版2019/03/02(土) 09:58:24.00
仲哀…津堂城山
神功…五社神
応神…誉田御廟山
仁徳…大仙陵後円部
履中…大仙陵前方部
反正…土師ニサンザイ

こんな感じかな。
上石津ミサンザイが誉田御廟山と同じ5世紀初頭となってる以上、
仁徳の墓とするわけにはいかない。

やはり皇太子にまでなり、次期大王間違いなしという事で大墳墓を造り始めたが、
途中で仁徳に皇位を譲った菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)であろう。
00661垢版2019/03/02(土) 12:37:17.05
纒向石塚 3世紀初頭 96m
纒向矢塚 3世紀前半? 96m
纒向勝山 3世紀前半〜中頃 115m
東田大塚 3世紀後半 120m
ホケノ山 3世紀後半? 80m
箸墓 3世紀後半 278m
西殿塚 3世紀後半 230m
桜井茶臼山 4世紀初頭 207m
メスリ山 4世紀初頭 224m
行燈山 4世紀前半 242m
渋谷向山 4世紀後半 300m
宝来山(佐紀楯列) 4世紀後半 227m
佐紀陵山(佐紀楯列) 4世紀末 207m
佐紀石塚山(佐紀楯列) 4世紀末 218m
五社神(佐紀楯列) 4世紀末 267m
00671垢版2019/03/02(土) 12:43:36.36
>>66はミスって途中送信した

纒向石塚 3世紀初頭 96m
纒向矢塚 3世紀前半? 96m
纒向勝山 3世紀前半〜中頃 115m
東田大塚 3世紀後半 120m
ホケノ山 3世紀後半? 80m
箸墓 3世紀後半 278m
西殿塚 3世紀後半 230m
桜井茶臼山 4世紀初頭 207m
メスリ山 4世紀初頭 224m
崇神陵…行燈山 4世紀前半 242m
垂仁陵…宝来山 4世紀後半 227m
景行陵…渋谷向山 4世紀後半 300m
成務陵…佐紀石塚山 4世紀末 218m
仲哀陵…仲ツ山 4世紀末? 290m
神功陵…五社神 4世紀末 267m
00681垢版2019/03/02(土) 13:07:06.15
応神陵…誉田御廟山 5世紀初頭 425m
仁徳陵…大仙陵 5世紀前半〜中頃 525m
履中陵…上石津ミサンザイ 5世紀初頭 365m
反正陵…土師ニサンザイ 5世紀後半 300m以上
允恭陵…市ノ山 5世紀後半 227m
安康陵…ヒシアゲ 5世紀中頃〜後半 219m
雄略陵…岡ミサンザイ 5世紀末 245m
清寧陵…白髪山 6世紀前半 115m
顕宗陵…狐井城山 5世紀末〜6世紀初頭 140m
仁賢陵…野中ボケ山 6世紀前半 122m
武烈陵…鳥屋ミサンザイ 6世紀前半 130m
継体陵…今城塚 6世紀前半 190m
安閑陵…河内大塚山 6世紀後半 335m
宣化陵…梅山 6世紀後半? 140m
欽明陵…見瀬丸山 6世紀後半 318m
0069日本@名無史さん垢版2019/03/02(土) 13:11:17.72
>>67>>68
仁徳陵…大仙陵
履中陵…上石津ミサンザイ
顕宗陵…狐井城山

に変更した

一応これで宮内庁の治定を極力尊重した形になったとは思うが(国レベルで推定古墳が異なることはなく、なるべく同一古墳群に)
00701垢版2019/03/02(土) 13:33:54.13
ちなみに宮内庁治定
私の推定と合致するものに○をつけた

神武陵〜孝霊陵 考古学的に古墳でない
孝元陵…中山塚1-3号墳(年代不明 円墳2基+前方後円墳1基)
開化陵…念仏寺山 5世紀前半 100m
○崇神陵…行燈山 4世紀前半 242m
○垂仁陵…宝来山 4世紀後半 227m
○景行陵…渋谷向山 4世紀後半 300m
○成務陵…佐紀石塚山 4世紀末 218m
仲哀陵…岡ミサンザイ 5世紀末 245m
○神功陵…五社神 4世紀末 267m
○応神陵…誉田御廟山 5世紀初頭 425m
○仁徳陵…大仙陵 5世紀前半〜中頃 525m
○履中陵…上石津ミサンザイ 5世紀初頭 365m
反正陵…田出井山 5世紀中頃 148m
○允恭陵…市ノ山 5世紀後半 227m
安康陵…考古学的に古墳でない
雄略陵…島泉丸山・島泉平塚 5世紀後半(直径75mの円墳+一辺50mの方墳)
○清寧陵…白髪山 6世紀前半 115m
顕宗陵…考古学的に古墳でない
○仁賢陵…野中ボケ山 6世紀前半 122m
武烈陵…考古学的に古墳でない
継体陵…太田茶臼山 5世紀中頃 226m
安閑陵…高屋築山 6世紀初頭 122m
宣化陵…鳥屋ミサンザイ 6世紀前半 138m
欽明陵…梅山 6世紀後半? 140m
0071日本@名無史さん垢版2019/03/02(土) 15:25:33.52
あんなに沢山あると権力の誇示の為と言う理由はイマイチだね。
富の誇示はありそうだ。
巨大古墳は寿陵だから、金のある奴が大きなのを作った。
0072日本@名無史さん垢版2019/03/02(土) 16:46:07.76
ピラミッドと同じで公共事業化して食いっぱぐれを雇用した説が有力
治水で置き場のない土が材料
0075日本@名無史さん垢版2019/03/02(土) 23:10:49.46
見瀬丸山は欽明陵じゃねーよ。
当時の天コロは飾り物。あんなデカい墓を用意できるはずない(笑)

テンノー陵を暴いてやる!!と息込んでも、稲目の墓を壊す結果に終わろうwwwww
0076日本@名無史さん垢版2019/03/02(土) 23:29:10.09
>>75
いや、蘇我氏は方墳勢力なんだから、都塚古墳こそ蘇我稲目の墓でしょ
見瀬丸山は欽明の代までは大王家がギリギリ最高権力者であった証拠
敏達の代から大王家が蘇我氏に譲歩して(権力関係が逆転して)陵墓が方墳になる(敏達陵は太子西山だと年代が合わないので葉室塚が真陵)
大王墓が蘇我氏と同様の方墳から、大王家特有の八角墳になるのは、大化の改新(大王家の権力奪還)を待たねばならない
0077日本@名無史さん垢版2019/03/03(日) 17:41:02.20
テンコロの墓掘ったら出てくるのは扶余の遺物というオチ
0079日本@名無史さん垢版2019/03/03(日) 20:11:21.35
>>77
そんな馬鹿なこと言い張ってなきゃ生きていけないゴミ人生なら
燐廻転生で純日本人に生まれ変われるワンチャンに賭けて首吊ったら良いのに

あ、人間じゃないから人生じゃなくて虫生か
0080日本@名無史さん垢版2019/03/04(月) 10:04:02.89
>>76

蘇我の出自は葛城。
その葛城に方墳、たとえば4世紀の鴨都波墳墓とかがあるのは面白いね。

5世紀に仁徳の后、磐之媛は葛城に帰ったのだが墳墓はどこだろう。
前方後円墳ではなく、おそらく葛城の神々の伝統に従って高天原(御所市高天)に埋葬されたと考える。
魏志倭人伝に書かれた径百余歩の奴婢(土蜘蛛)が埋められた塚がある。
http://bbs10.aimix-z.com/gbbsimg/e_asia/114_0.png

この中央の塚以外にも墓域らしき塚が複数ある。

さすがは高天原だ。
0081日本@名無史さん垢版2019/03/04(月) 10:11:11.91
>>69
>仁徳陵…大仙陵
>履中陵…上石津ミサンザイ

いやそれは無理だって、上石津ミサンザイ は5c初頭。
応神と同時期に死んだ超大物を想定する以外にない。
皇太子にまでなり次期大王確実だった菟道稚郎子(うじのわきのいらつこ)
0082日本@名無史さん垢版2019/03/04(月) 10:35:27.62
次期大王確実だった菟道稚郎子(うじのわきのいらつこ)のために上石津ミサンザイという大墳墓を造りはじめた。

ところがイラツコさんは大王にならず、皇位を仁徳に譲り自殺したとも伝えられる。

困った。
次の仁徳はイラツコさんの墓を超える巨大墓を造らないと恰好がつかない。

必死になって造ったら世界一の大墳墓が出来たというわけさ。

https://goo.gl/maps/g7oMZkWJdvK2

JR阪和線の二駅区間に二つの古墳が同じ方向に向いている。

大仙陵は「ほら、イラツコさんの墓より立派でしょ、大きいでしょ」とアピールしてるようだ。

即位しなかったヤン坊と即位したマー坊のようだ。
0083日本@名無史さん垢版2019/03/04(月) 10:45:47.60
履中はその頃の苦労を知ってるから自分の墓はお父さんと同じ墓の前方部に埋葬されることを望んだのではないだろうか。
前方部とは南側になる。

つまり百舌鳥耳原南陵ではなく、百舌鳥耳原陵南ではないだろうか。

余談だが、大仙陵前方部から石棺などを掘り出したのは、
明治新政府の初代堺県知事であった税所 篤(さいしょ あつし)。
彼は西郷隆盛の右腕とも評された切れ者で名知事であった。
しかし反面、盗掘マニアという変な性癖があった。
大雨で墳丘が崩れたという理由で盗掘をしていたらしい。
0084日本@名無史さん垢版2019/03/04(月) 15:39:24.04
>>4
仲哀陵は津堂城山古墳と
0085日本@名無史さん垢版2019/03/04(月) 15:53:46.21
>>12
数で言えば、200m級の前方後円墳は他にもあって、それらを古代の天皇陵に「でっち上げ」
していないところから見ると、「言い伝え」をそのまま書いているとも言えるな。
でっち上げるなら、河合大塚古墳や島の山古墳やらをでっち上げただろうから。

200m級で天皇陵の伝承がないもの。
上記の4つプラス2つの他に、
室宮山古墳、築山古墳(大和高田)、新木山古墳、巣山古墳、ウワナベ古墳、コナベ古墳、
市庭古墳、合計13あって余るほどあるw
見瀬丸山古墳を入れれば14で、天皇陵等(皇后陵含む)9つを足すと、合計23ある。
0086日本@名無史さん垢版2019/03/18(月) 15:47:22.80
崇神から仁徳までは、仲哀(津堂城山)をのぞき、ほぼ「あってるんじゃね?」って感じ。
明らかに間違っていて正しいものの候補があり、学者の意見がほぼ一致しているのは、
仲哀ー津堂城山
継体ー今城塚
欽明ー見瀬丸山

明らかに間違っているが、候補の意見がばらけてるやつ
雄略ー河内大塚山?仲哀比定の岡ミサンザイ?

全国の前期の前方後円墳の相似形を比較すると、佐紀陵山古墳に似たのが多いらしい。
これは垂仁皇后の日葉酢媛命陵の伝承があるやつだ。
彼女が嫁に来た経過は、記紀の狭穂彦の反乱伝承に出てくる。
彼女(と姉妹)が嫁に来たことにより、同盟が強化され、その子(景行)が王位につく
ことで談合政権が安定し、国に平安をもたらし、その墓の形状が一気に広まったと
考えることも出来る。

景行の代、内輪もめ(王権争い)は記述がなく、関東や九州へ遠征する内容になる。
この頃が、ヤマト王権の中の天皇家の地盤固めの時期かもわからん。
ヤマトタケルの草薙の剣を渡した伊勢神宮の斎宮の倭姫の母は日葉酢媛命であり、
草薙の剣を預けた後の熱田神宮を建てたミヤズヒメは尾張氏(つまり丹後の海部の同族)だ。
この頃はまだ別れていなかった可能性がある。
伊勢神宮の外宮の神様は、ご存知のとおり丹後から呼んできた豊受大御神だ。

前期の大規模前方後円墳があるのは、大和以外では丹後だけだ。
0087日本@名無史さん垢版2019/03/18(月) 19:48:17.09
天皇家は10代崇神以降、明治天皇になるまで1500年間に伊勢神宮を一度も参拝していない。
内宮で皇室の祖神・天照大御神を祀ってるのにおかしな話だ。
天皇即位の報告に行ってもいいのに。

内宮のご神体といわれる鏡は崇神が怖くて手元から放逐したもの。
崇神は大物主を倒した、いや頃したんだ。
その時の鏡が今の伊勢神宮にあるんだ。
だから皇室は怖くて伊勢神宮に行けなかったんだ。
その鏡はいまだ一か所にに落ち着かず、式年遷宮という形で20年に一度移動する。


日本では一度だけクーデターがあった。
現天皇家はそのクーデターを起こした側の末裔だ。

卑弥呼もトヨも倒された前王朝にいる。
0088日本@名無史さん垢版2019/03/18(月) 19:55:30.01
>>87
考古学で語れよ
そういうスレなんだから
0089日本@名無史さん垢版2019/03/18(月) 20:40:11.37
>>88

崇神は行灯山古墳だろうね。
べったりへばりついている櫛山古墳はお母さんのイカガノシコメあたりか。
0091日本@名無史さん垢版2019/03/19(火) 16:43:57.23
巻向遺跡は三世紀から四世紀前半にかけての遺跡で、四世紀半ば頃には捨てられるらしい。
景行は、最初は巻向に宮を置いたが、途中からは滋賀県の大津に移したという伝承がある。
次の成務もそのまま使ったとされる。(この間10年もない模様)
仲哀は宮は落ち着かず、すぐに死んでしまい、神功皇后が磐余若桜宮に定める。
伝承にある、崇神、垂仁、景行の宮と時期的に矛盾しない。
0092日本@名無史さん垢版2019/03/19(火) 21:15:18.19
仲哀の宮は穴門だろ。
ほぼ九州だよ。
0095日本@名無史さん垢版2019/03/19(火) 22:39:15.76
仲哀は香椎宮に入ってしばらくして急死してしまう。
遺体は密かに穴門に戻された。
仲哀は景行の孫だが、筑紫の倭王であることは間違いない。
0096日本@名無史さん垢版2019/03/19(火) 22:40:56.84
景行の都は穴門にも近い京都郡だし。
0098日本@名無史さん垢版2019/03/20(水) 01:39:06.09
>>97
Youは池沼少年?
0099日本@名無史さん垢版2019/03/20(水) 10:59:13.91
継体朝以降は

継体陵…今城塚古墳
安閑陵…高屋築山古墳?
宣化陵…鳥屋ミサンザイ古墳?
欽明陵…見瀬丸山古墳
敏達陵…葉室塚古墳?
用明陵…春日向山古墳
崇峻陵…赤坂天王山古墳
推古陵…山田高塚古墳
舒明陵…段ノ塚古墳
孝徳陵…山田上ノ山古墳?
斉明陵…牽牛子塚古墳?
天智陵…御廟野古墳
弘文陵…無し(そもそも明治以前は天皇と見なされてない)
天武・持統陵…野口王墓
文武陵…中尾山古墳

ついでに
厩戸皇子陵…叡福寺北古墳
草壁皇子陵…束明神古墳
蘇我稲目墓…都塚古墳
蘇我馬子墓…石舞台古墳
藤原鎌足墓…阿武山古墳


後は
太子西山古墳、河内大塚山古墳、梅山古墳、二子塚古墳、岩屋山古墳
あたりが問題だねえ、特に河内大塚山
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