《天平六年(七三四)七月辛未【十二】》○辛未。詔曰。朕、撫育黎元。稍歴年歳。風化尚擁。囹圄未空。
通旦忘寐。憂労在茲。頃者、天頻見異。地数震動。良由朕訓導不明。民多入罪。責在一人。
非関兆庶。宜令存寛宥而登仁寿。蕩瑕穢而許自新。可大赦天下。
(「続日本紀」巻第十一)


聖武天皇は奈良時代の天皇であるが、天照大御神の御神勅以来、常に民の幸福のために全ての責任を

引き受けられて己の一身を捧げてこられた天皇行・天皇道の今に変わらぬお姿を拝察することができ、

また他国の君主とはあきらかに異なる神聖なる祭祀王としての伝統をまことに有難く確認することができます。

すなわち、昭和天皇が大日本帝国の終焉告げる御前会議の時に言われた「私の身はいかようになろうとも」や

マッカーサー元帥に語られた「全ての責任は私にある」という発言は昭和天皇個人が思いつかれたものでは

なく皇室、天皇2600年のすめらみことのしらす伝統に基づくものである。

したがって一部左翼の残党がのたまうような人民を搾取する専制君主でもないし、封建制の遺物でもない

西洋的、マルクス的歴史観にはまったくあてはまらない尊いご存在であることは21世紀の今日では常識である

といえよう。