『美濃国諸旧記』によれば、信長生母は六角高頼息女とされている
寛永年間(1624年 - 1645年)の記事があるため、寛永末期の成立とみられる。作者は不詳。

六角高頼は六角氏12代当主で妻は山名宗全の娘
応仁の乱では西軍に属し東軍の京極氏を討ち取った

京極政経との合戦では土岐・斉藤・斯波義廉らの尾張美濃援軍で勝利
このころのより六角氏と尾張と斎藤氏の同盟関係はあった

応仁の乱終結後には幕府により近江守護に任ぜられた


織田信長のおじいさんは六角高頼で近江守護・78万石の大国の太守
ひいおじいさんは山名宗全で10数か国の守護で応仁の乱の総大将。今川ごときはあいてにならん

後年、信長がどうどうと南近江に安土城作って居城としたのは、タダの強盗ではなく
祖父が近江守護だったから、頼もしい地盤だったん

だから濃姫との娘を蒲生にやってさらに地侍の支持を固める戦略。