>>856 >>857
阿蘇邪靡堆の狗奴国王・継体は、磐井の乱で、邪馬台国系の筑紫応神朝(♂武内宿彌&♀神功皇后)を乗っ取った後、武烈の妹・手白香皇女を娶って欽明皇子を産ませることで、歴代倭王統の維持を図っている(倭国大乱の再発予防)。

この欽明皇子が、古代東アジア標準の中央集権強化手段=仏教による国家祭祀(墓制)変更のため、奥津城(王家の谷)大和に下向して大和分家(飛鳥)を築き、
その後、663年に白村江の惨敗により唐・新羅の連合艦隊による倭王征伐がいよいよ現実味を帯びたため、
〔607年日没処「天子」隋煬帝に日出処「天子」を自称し、倭独自の九州年号を創設して、唐への忖度(記紀)で消された〕多利思比孤系統の九州本家・天智が、欽明が築いた奥津城大和に東遷(大化の改新)。

倭国独自の年号を創設した継体朝による九州年号一覧
継体・善記・正和・教知・僧聴・明要・貴楽・法清・兄弟・蔵和・師安・和僧・金光・賢称・鏡當・勝照・端政・告貴・願転・光元・定居・倭京・仁王・僧要・命長・常色・白雉・白鳳・朱雀・朱鳥・大化・大長
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/nengo/nengou.html

熊本県玉名市和水町前原の石原家文書で判明。継体朝創設の九州年号(善記正和教知〜白雉白鳳朱雀朱鳥大化大長)
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaiho122/kai12204.html

>>149
ここに倭王権は史上初めて九州島を出て、藤原京→平城京→平安京へと続く畿内中心の歴史が始まるのである!

欽明以前の古墳畿内には、記紀伝承地に王宮が一つも出土せず(石碑のみ)、巨大王墓と倉庫しか出土しないのは、そのためである。