一流考古学者「倭人はワイ人です」
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ワイ【さんずいに歳】人と倭人 西北大学考古学部 王建新
中国の学者は古代日本の倭人についてあまり研究していません。
一部の研究者は、古代文書の単なるフレーズや散らばった考古学的資料に基づいて、
倭の人々とその文化的起源を中国本土と単純に関連付けることがよくあります。
日本の学者はこの分野の研究を非常に重視していますが、国民感情よって制限されるため客観的に議論することはできません。
これまでのところ、それら古代の人々(倭人など)と彼らの文化の起源は未解決の問題です。
1996年から1999年にかけて、著者は北東アジアの青銅器時代の考古学的文化に関する予備的な体系的研究を実施し、
日本で「北東アジアの青銅文化」という本を出版しました[1]。
著者は、以前の研究を基礎に考古学的資料に基づいて仮説をたて、さらに、異なる時代の文献に関する研究を加え、
それぞれ、ワイ人と貊人、ワイ人と倭人などの古代北東アジアの人類集団とその関係を体系的に分析しました。
「山海經・海内北經」、「後漢書・鮮卑伝」、「論衡」などの古代文献には、古代倭または倭人に関する記録があり、
多くの学者がそれらを日本列島の古代倭人として直接関連づけて研究しています。
しかし、これらの文書に記録されている倭の状況から判断すると、彼らは日本列島に住んでいる倭人ではなく、
遼東、吉昌、長白山周辺地区及び朝鮮半島北部に住んでいた古代ワイ【?歳】人です。
http://big5.china.com.cn/chinese/zhuanti/beijingforum/651170.htm google翻訳で>>1くらいの文章がアウトプットされるのか
ずいぶん進歩したもんだ ワイ族って小便で顔洗うキタねー連中じゃなかったっけ
あまりの汚さに穢れのノギヘンをサンズイにして小便をイメージしたんだろ >>8
ねずきちこと小名木善行さんが言ってることだよね
ちなみにねずきちの2ちゃんでの評判はこちら
ねずさん(=小名木善行)ってどうよ Part.7
https://egg.5ch.net/test/read.cgi/sisou/1520127801/
>小便で顔洗う
それは沃沮だね
沃沮がいたとされるウラジオストックあたりの沿海州のシニガイ文化が
縄文末期から弥生初期にかけての日本列島で発掘された土器との関連が指摘されてる
そしてこの考古学者は弥生人がその濊人だったと結論付けてる >>9
沃沮は朝鮮北東部
沿海州南部の小便洗顔はユウロウ
ユウロウの1300年くらい前に沿海州南部で栄えたのがシニ・ガイ文化
これの土器文化が弥生土器の故郷 あの辺の民族は時代によって名前コロコロ変わるから暗記面倒だわ
つまりツングース系なんだろ
ユウロウとかモツキチとかニブフとかエベンキとか満州族とか元は小便洗顔民族だろ 古代の史書を読むために必要な知識が音韻学
おまえらの低レベルの知識を上げるために最適な動画を発見したので貼っておく
https://youtu.be/ME8wzyR6pO8 九州に上陸してブイブイ言っていたワイ族は
さらに北上して畿内にいた倭人を蝦夷に追いやり
ヤマト・ワイ国(ヤマタイ国)を建て
首都を朝鮮語で国を意味するナラと称した
一人称はワイ 飛鳥文化は古墳時代でも異質なんだわ残念ながら
ワイ人(倭人)系統ではない 初期ワイ人、弥生人になる
北方ワイ人が古墳期に渡来して古墳人になり
仏教により古墳人どもに秩序を叩き込み強化し支配して飛鳥文化を広めたのが百済の先遣隊である蘇我氏
こういう流れ >>19
だったら弥生開始土器は朝鮮土器から始まらなきゃ話がおかしいだろが
古墳時代の朝鮮帰化人が遺した土器は新羅系と百済系の朝鮮南部のもので
朝鮮北部の土器の出土など聞いた事がない
単なるおまえの願望なだけで何も考古学になっていない 古墳時代になってそれまで日本列島にいなかった馬がいきなり現れて身長も伸びて自由に乗馬できるようになったんだからな
すごいよw 飲尿療法といって小便飲むくらいだから顔洗っててもおかしくない 日本古来のウマは小型で、体格が貧弱な古代中世日本人でもなんとか乗れた サラブレッド(肩の高さが180cm近い)の登場は17世紀以降、それまでは「八寸」以上の馬(144cm以上)が「大馬」と呼ばれた サラブレッドは品種改良されたからだろ
モンゴルの馬も小さかったらしい
そもそも騎馬民族ってのは馬に乗るだけって思ってるの多いみたいだけど
正確に言うと馬を乗り捨てて別の馬に飛び乗って進軍できる連中という意味らしい
今のサラブレッドでそれやれば落馬すれば死んでしまうだろ
背の低いモンゴル馬だからできたこと 矮小の矮の意味も込めたのかも知れんが
元は委面(顔に入れ墨の意味)から
そこから委人となり倭人とした 全部違う
日本人の「わ」という発音を聞いて韻書から漢字を当てはめただけ、意味は無いのよ それっぽい卑字をあてたということは
中華帝国とは無縁の蛮族だとみなしているという意味がある
つまり三国志正史にある「呉の末裔」云々いうのは
あくまで倭人の自称であって中華帝国はそのような自称は認めていないという宣言 古代の中国人が日本列島やそこの古代人を感知してると思ってるほうがお花畑すぎる
https://i.imgur.com/K50kCKE.jpg 安倍ちょんのじいさん
「おいは熊毛田布施の部落からきた朝鮮人たい」 朝鮮半島から来たなら、朝鮮土器から弥生土器が始まってるはずだろ
ところが弥生土器は同期する沿海州南部と一致する土器から始まってるの
どこから来たのか、もう言う必要ないだろ この考古学者によると中国史書に登場する倭人とは日本列島に居た古代人ではなく
もとから朝鮮半島や遼寧省吉林省あたりにいた古代の漁労農耕民
それから日本列島の弥生人について濊人が在来化したものではないかと推測してる >>45
だったら朝鮮土器と一致する土器から弥生土器が始まってるはずだろがカス
ところが弥生土器は同期する沿海州南部と一致する土器から始まってるんだよ
しかもその土器は朝鮮半島では10例も出土例がないの
ワイなら朝鮮半島で出土例が多数の土器のはずだろ 縄文人は朝鮮半島も支配してたんだろ
時代とともに徐々に押し戻されたらしいが
そいつらの生き残り種族だったりして >>48
だったら朝鮮半島にその証拠の在地産の縄文土器遺構がワンサカあるはずだろうが中卒
朝鮮半島には在地産の縄文土器遺構が全くないんだぞ
考古を語るレベルに全然ないぞゴミカス 朝鮮半島の東北部でも刻目突帯文土器(沿海州のと製法が同じかは知らん)が見つかったって記憶があるな
今の所見つかってないだけで探せば日本列島までのルートの途中で出てくる可能性があるんじゃねーの >>52
ないね
朝鮮半島では今まで掘りに掘って10例も出土例がないんだから
ほとんど搬入土器だろう 倭人がワイ人なら、朝鮮土器から弥生土器が始まってるはずだろ
ところが弥生土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致する土器から
始まっている
倭人はワイ人ではないね >>57
反日在日ヒトモドキの民族願望に釣られちゃダメ 最初の「倭人」の言葉は後漢の王充が著した「論衡」に見え、「成王時 越裳献雉 倭人貢鬯」と書かれている。
周の2代王の成王の時に越裳が雉を献じ、倭人が暢草を貢献した、というもの。
成王の在位は前1042年〜前1021年。雉も暢草も長寿の薬。
この時期、日本はまだ縄文時代なので、この「倭人」は日本の縄文人を指していない。
越と対句的に倭人が用いられていることからすると、呉越の呉地方、今の江蘇省あたりの人民のこととみられる。
そこで、この「倭人」をどう発音したかというと、「イジン」の発音だと思われる。
この「イジン(倭人)」は周の5代王穆王のときに大規模に攻められたことから四散し、
その一部が北部九州に移住して菜畑で水田稲作を開いた可能性が高い。
時の中国人はこの江蘇省あたりの「イジン(倭人)」と日本に渡った「イジン(倭人)」を区別するために、
「倭(イ)」の発音に替えて「矮(ワイ)」系の「ワ」の発音を当てて「倭(ワ)」とし、
日本に渡った「倭人(イジン)」のことを「倭人(ワジン)」と呼んだもの。
したがって、「倭人(ワジン)」とは中国江蘇省あたりにいた淮河下流域の淮夷と呼ばれた種族を先祖にもつ北部九州への移住民のことであり、
その後、先住縄文人と混血して人口を増やしたことから、北部九州の人民を総称して倭人(ワジン)とする呼称が中国人の間に定着した。
3世紀後半に表された史書の魏略に、その北部九州の住民が「(自分たちは、呉の)太伯の後裔だ」と話したと書かれていることは、
北部九州へのそうした淮夷種族の移住があったことを証言しているものと考えて間違いない。
したがって、「ワジン(倭人)」の先祖が朝鮮半島の「ワイ人(濊人)」であるとする見解は、誤りではないかと思われる。
「ワジン(倭人)」の先祖が「ワイジン(濊人)」であるとすると、「濊」字から「倭」字へと変わったことの説明がつかない。 >>59
倭人はワイ人よりもっとないね
ぜーんぜん考古整合してないし、何らの考古立証もできない
で、中国江蘇省あたりにいた淮河下流域の淮夷が九州北部や菜畑に渡来定着した事を
証明する中国系の衣食住に関する生活痕たる生活密着文物と住居文化である
三足や耳の付いた中国系土器の炊飯器や調理器である鬲や鼎と
竈や釜や甑や皿や大きな双耳の付いた壺と
石刃の中国系耕作用農具の石耜と石鋤と
中粒種の中国系イネと
土壁の中国系住居と
漢服と
龍信仰と
亀卜と、
渡来時に伝わった中国系言語の単語は?
で、中国江蘇省あたりにいた淮河下流域の淮夷が九州北部や菜畑に渡来定着したと
提唱している頭のおかしな考古学者の論文は?
. >>60
渡来時に伝わった中国系の単語は? ということだが、O2系の漢族はこのときには来てないから、
語彙の地層としては、この時期の語彙はO1b1系のベトナム語と同系の語彙が多数あり、例えば、コメ(米)はベトナム語のcom(コム=米、米飯、果肉)と同系の語彙といえる。
ということは、現在の日本で3分の1の多数派となっているO1b2系がこのコメ(米)の語彙をもたらした種族であることが高い確率で推定できる。
語彙からみると、O1b2族は今のベトナム族と親戚だったというわけだな。 >>61
だったら、炊飯器も耕作用農具もイネの粒種も当時の中国系じゃないと話がオカシイよねえ
で、中国江蘇省あたりにいた淮河下流域の淮夷が九州北部や菜畑に渡来定着した事を
証明する中国系の衣食住に関する生活痕たる生活密着文物と住居文化である
三足や耳の付いた中国系土器の炊飯器や調理器である鬲や鼎や竈や釜や甑と
皿や大きな双耳の付いた壺と
石刃の中国系耕作用農具の石耜と石鋤と
中粒種の中国系イネと
土壁の中国系住居と
漢服と
龍信仰と
亀卜は?
で、中国江蘇省あたりにいた淮河下流域の淮夷が九州北部や菜畑に渡来定着したと
提唱している頭のおかしな考古学者の論文は?
. 銅鐸が発掘されとるのがタイ周辺〜フィリピン島〜大和(やまと)だから当たり >>63-64
銅鐸の登場は菜畑遺跡で稲作が始まったBC10Cから800年くらい後のBC2Cからだぞ
渡来してから800年も経ってから伝えるのかよカス(嘲笑
で、中国江蘇省あたりにいた淮河下流域の淮夷が九州北部や菜畑に渡来定着した事を
証明する中国系の衣食住に関する生活痕たる生活密着文物と住居文化である
三足や耳の付いた中国系土器の炊飯器や調理器である鬲や鼎や竈や釜や甑と
皿や大きな双耳の付いた壺と
石刃の中国系耕作用農具の石耜と石鋤と
中粒種の中国系イネと
土壁の中国系住居と
漢服と
龍信仰と
亀卜は?
で、中国江蘇省あたりにいた淮河下流域の淮夷が九州北部や菜畑に渡来定着したと
提唱している頭のおかしな考古学者の論文は?
. >>62
前10世紀頃は、中華のO2と東夷のO1b1、O1b2はまだ混じり合ってない。
中華は畑作主体、東夷は水田稲作主体。
炊飯器も農具もそれぞれ違っていたのよ。
東夷は中華系の生活道具を持っていなかったのとちゃうの。 濊は元々黒竜江流域にいたツングース系の狩猟種族。
2世紀頃に後漢の力が引くと、朝鮮半島東側の中部地帯まで進出した。
この濊が中華系のO2や東夷系のO1b2と混じり合ったのが今の朝鮮族じゃないの? >>67
中国大陸の水田稲作主体の人々は7000年前から炊飯器に釜と竈と甑と鼎を、
耕作用農具に耜を持ってましたが何か?
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑と骨耜
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
で、中国江蘇省あたりにいた淮河下流域の淮夷が九州北部や菜畑に渡来定着した事を
証明する中国系の衣食住に関する生活痕たる生活密着文物と住居文化である
三足や耳の付いた中国系土器の炊飯器や調理器である鬲や鼎や竈や釜や甑と
皿や大きな双耳の付いた壺と
石刃の中国系耕作用農具の石耜と石鋤と
中粒種の中国系イネと
土壁の中国系住居と
漢服と
龍信仰と
亀卜は?
で、中国江蘇省あたりにいた淮河下流域の淮夷が九州北部や菜畑に渡来定着したと
提唱している頭のおかしな考古学者の論文は?
. >>69
前10世紀頃の淮河下流域の生活道具の例を写真付きで挙げてみてちょ。 あまり大きくないな。
小家族用の煮炊き器のようだ。
周代には井田制が敷かれ、一里四方の耕地を井形に9等分し、この9区画の真ん中を公田、周囲の8区画を8家族の私田とした。
そして、真ん中の1区画を8家族で耕作して収穫物を租税とした。
このことからして、農民は大家族ではなく、小家族が単位だったことが分かる。
前漢の1戸の平均家族数は4.87人という研究がみられる。唐で6.03人、清で5.17人。
両親と子供の家庭が農民の1単位ということになる。
このような小家族が煮炊きに用いたのが写真の鼎、鬲ということだろうな。
一方、この時期、菜畑は部族社会だから1集落でもって甕で共同炊飯し、これを家族が器に取り分けて、その場で食べたり、あるいは竪穴住居に戻って食事したのだろう。
5家族程度が1つのまとまりとなり複数の竪穴住居の中心に炉を設けて炊飯する形が出てくるのは古墳時代の初め頃だというが考古学の知見だそうだ。
なので、菜畑では1家族が煮炊きする鼎や鬲のような炊飯器はあり得ず、そうした部族社会に同化した淮河からの渡来稲作民が小家族用の炊飯器を再生産することはなかったと考えるのがよい。
鼎や鬲が菜畑で出土しないのは、そうした理由からだろうな。 ∩_
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(___) / >>68
そもそもが、新石器時代には遼東、満州、朝鮮半島にはN,O2、C2、D1aの種族しかおらず、
陸稲や水稲がこの地域で栽培されるようになる時期には、O1b1とO1b2が中国から進出してくる。
満州はC2が活躍した地方で、濊もC2の種族だろう。
ただ、遼東のNはこの地域で最初に畑作を始めた種族で、その後満州などに拡散したために濊族にはNの遺伝子も含まれるようだ。
そして、D1aはO2、C2の半島への南下で圧迫されて北部九州へ移動したことから、半島ではD1aはみられなくなっている。
濊は元々狩猟種族なので、半島での人口の増加は決して大きくないが、朝鮮半島の文化の基層には相当な影響を与えたのではないだろうか。 >>72
家族の規模が違うから鬲鼎を作らなかったというのは不自然すぎる強弁、詭弁だろ
そんなものは鬲鼎のサイズと数でいくらでも調節すれば良いだけの話
それなのに鬲鼎がないのは、ただ単純に来てないだけの話だろ
で、中国江蘇省あたりにいた淮河下流域の淮夷が九州北部や菜畑に渡来定着した事を
証明する中国系の衣食住に関する生活痕たる生活密着文物と住居文化である
三足や耳の付いた中国系土器の炊飯器や調理器である鬲や鼎や竈や釜や甑と
皿や大きな双耳の付いた壺と
石刃の中国系耕作用農具の石耜と石鋤と
中粒種の中国系イネと
土壁の中国系住居と
漢服と
龍信仰と
亀卜は?
で、中国江蘇省あたりにいた淮河下流域の淮夷が九州北部や菜畑に渡来定着したと
提唱している頭のおかしな考古学者の論文は?
. >>75
鬲鼎がないのは、ただ単純に来てないだけの話だろ、ということだが、
日本語にあるクワ(鍬)の言葉とベトナム語のcuoc(クオ=鍬)の言葉の発音と語義がほとんど同じということがあるからには、
やっぱO1b1のベトナム人と親戚であるO1b2が菜畑にやって来ていたと考えるのが筋だわ。 >>76
それに鍬という漢字は国字だぞ
つまり後世に日本から中国やベトナムに伝わった日本生まれの漢字だ
現代中国語の鍬は元は「耜」だ
ベトナムには日本からクワという農具と漢字とともにクワという読みまで伝わったようだ
おそらく日本町時代だろう ∩_
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(___) / >>74
この図↓のO-M134とO1b2のルートな
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/0d/Migration_map_of_Y-DNA_haplogroups_in_East_Asia.png
これらのルートは大間違い
まず縄文弥生を通して日本には中国大陸から渡来定着した事が証明できる中国系の
衣食住に関わる生活痕遺構がない
全く考古立証できないし、全く考古整合していない
2億%間違いである >>76
で、中国江蘇省あたりにいた淮河下流域の淮夷が九州北部や菜畑に渡来定着した事を
証明する中国系の衣食住に関する生活痕たる生活密着文物と住居文化である
三足や耳の付いた中国系土器の炊飯器や調理器である鬲や鼎や竈や釜や甑と
皿や大きな双耳の付いた壺と
石刃の中国系耕作用農具の石耜と石鋤と
中粒種の中国系イネと
土壁の中国系住居と
漢服と
龍信仰と
亀卜は?
で、中国江蘇省あたりにいた淮河下流域の淮夷が九州北部や菜畑に渡来定着したと
提唱している頭のおかしな考古学者の論文は?
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だめだめ。
問題なのは、発音。
クワよ。このクワの発音が鍬という農具を意味してるの。
ほんで、ベトナム語のcuoc(クオ)も鍬の意味。
日本町ができる以前はクオじゃなく、別の語彙を使っていたと証明せんとな。 >>83
それ以前にBC10Cにベトナムにクワがあったという証拠は?
ダメダメはおまえだよおまえ
で、中国江蘇省あたりにいた淮河下流域の淮夷が九州北部や菜畑に渡来定着した事を
証明する中国系の衣食住に関する生活痕たる生活密着文物と住居文化である
三足や耳の付いた中国系土器の炊飯器や調理器である鬲や鼎や竈や釜や甑と
皿や大きな双耳の付いた壺と
石刃の中国系耕作用農具の石耜と石鋤と
中粒種の中国系イネと
土壁の中国系住居と
漢服と
龍信仰と
亀卜は?
で、中国江蘇省あたりにいた淮河下流域の淮夷が九州北部や菜畑に渡来定着したと
提唱している頭のおかしな考古学者の論文は?
早く持ってこいよ願望を語るだけのチンコロ >>77
鋤(ジョ)は、日本語ではスキ(鋤)。
スキ(鋤)は、スクウ(掬う)の名詞形。
縄文の掘り棒から発展したのが、日本のスキ(鋤)とされている。
写真の「鋤(ジョ)」は、日本では鋤簾(ジョレン)として用いられている。 >>84
嘘がバレて動揺の末に火病を発症させる
哀れな在日ヒトモドキの成れの果て
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ファビョ━ l|l l|l ━ン!
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<ニニニ'.ノ >>85
ぜんぜん違う
鋤(ジョ)という農具は古代日本にはないの
鋤をスキと読んでるのは間違いで、日本人の言うスキは「耜」が正しいの
スキは半島南部から弥生前期に取り入れた農具で、弥生早期にはまだ日本には存在していない
鋤簾が日本に入ってきたのは江戸時代以降の話 >>84
ベトナム語に鍬を表す言葉はcuoc(クオ)しかない。
cay(サイ)は鋤,dia(ディア)はフォーク、xuong(コン)は骨。
ずっと昔から、鍬はcuoc(クオ)一択だよ。 >>87
中国の鋤(ジョ)は菜畑にない。
スキが掘り起こし農具として用いられた。
このスキは縄文由来。
除草は手で取り除いたか、二股などの鍬を用いたかだろう。 >>88
だから、それ以前にBC10Cにベトナムにクワがあったという証拠は?
画像持ってこいよ
>>89
スキは弥生早期にないの
スキは弥生前期に半島南部から取り入れたの
掘り起こし道具は最初からクワで、弥生早期の菜畑に最初に半島南部から
取り入れられた日本最古の耕作用農具 >>90
cuoc(クオ=鍬)の言葉しかないんだから、その物も一つしかない。
古代の遺跡から出たcuoc(クオ=鍬)の写真探してこい。 >>91
「バウチョー遺跡」で検索し、一番上の「16H07273研究成果報告書-KAKEN」を開け。
下のほうの写真に青銅器の鍬があるだろう。
これがcuoc(クオ)だ。 >>91
鍬という漢字は日本生まれの国字だぞ
鍬という漢字が日本から伝わる前のクオのベトナム漢字は?
>>92
それ銅斧と銅矛だぞw >>90
半島南部の水田稲作は菜畑が起源の可能性が高い。
そして、クワはその菜畑から半島へもたらされた。
芋田里遺跡の米搗き杵が菜畑のものとそっくりで、菜畑などの杵が半島にもたらされたのと同じ。
半島最古の水田につながる貯水池であるその芋田里遺跡は2700年前と時期が定説化している。
半島から菜畑に水田がもたらされたとする説は、根拠がない。 >>93
ベトナム語のcuoc(クオ)の英訳はhoeだ。
hoeは鍬、鋤の意味だ。 >>94
菜畑にそれらの開発過程がないだろうが
で、菜畑から半島南部に水田が伝わったと唱えている頭のおかしな考古学者の論文は?
で、菜畑にはどこから稲作が伝わったの?
>>95
穴の位置を見ろバカチンコロw >>94-96
で、中国江蘇省あたりにいた淮河下流域の淮夷が九州北部や菜畑に渡来定着した事を
証明する中国系の衣食住に関する生活痕たる生活密着文物と住居文化である
三足や耳の付いた中国系土器の炊飯器や調理器である鬲や鼎や竈や釜や甑と
皿や大きな双耳の付いた壺と
石刃の中国系耕作用農具の石耜と石鋤と
中粒種の中国系イネと
土壁の中国系住居と
漢服と
龍信仰と
亀卜は?
で、中国江蘇省あたりにいた淮河下流域の淮夷が九州北部や菜畑に渡来定着したと
提唱している頭のおかしな考古学者の論文は?
早く持ってこいよ願望と妄想を語るだけのバカチンコロ >>94
鍬を意味する韓国語はgwaeng-i(フェンイー)で、これは満州語のfetembi(フェテンビ=掘る)と同系の言葉だ。
つまり、韓国語の鍬を意味するフェンイーは、満州語の畑作の農具由来の語彙ということになる。
呼称としては、韓国の鍬を意味するフェンイーは、和語のクワとは関係ないということだな。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています