>>13
この新しい交易路を開くというケースは、この時期には普通にあったこと。
よく似たケースは太秦に進出した秦氏の場合でもみられる。
秦氏が深草から太秦に進出したのは5世紀後半と考えられている。
その時期以前には、山城から中国地方へ向かう街道は向日が要衝となっていたようだ。
ここには5世紀後半以前からの古墳群がみられるので、向日の要衝に陣取っていた勢力がいたことを示している。
秦氏が太秦に進出し、この向日の要衝を通らずに、秦氏が専用できる街道を新たに開いたのが、嵯峨野から保津峡を経て亀岡へ出る山越えのルートだ。
これと同じで、天理などから淀川を越えるルートは下原田から四条畷に出て、三島江の渡しで淀川を渡河するルートだったのだろう。
そこで、5世紀後半に天理に進出した物部氏は、下田原から四条畷に続く街道を牛耳っていた馬飼い女真族を避けて物部氏が専用に仕える街道を開いたのが天野川の峡谷だったと思われる。
秦氏のケースと同じで、峠越えの難路となっている。
この天野川の峡谷の街道を開くときに、下田原の峰に鎮座していた四条畷女真族の氏神饒速日を物部氏が取り込んで、その街道の専用権を握ったのだろう。
この時期が、物部十市根のときではないか。