柔然の鍛冶奴隷にされていた突厥の鍛冶技術と交野・大和の鍛冶工房を結びつける向きもあるが、
突厥が柔然の滅亡で独立するのは6世紀中頃なので、時期が合わない。
やはり、5世紀初頭に滅んだ匈奴のその鍛冶集団と5世紀頃に遡るたたら製鉄がつながる点があるから、
5世紀後半の交野・大和の鍛冶技術のルーツをそこにつなげることも可能かもな。

物部氏の鍛冶の原料となる鉄素材の入手経路は、半島からの鉄を受ける日本海の出雲と砂鉄を受け取る吉備の二つあるみたいだ。
日本海のルートでは宗像につながるし、宗像と秦氏は強力な関係だから、海外交易に強みを持つ秦氏が関与したその匈奴の製鉄鍛冶技術者の渡来が考えられるわな。