極官 官位家格について語るスレ 武家公家
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公家の慣例なんてのは武家のゴリ押しの前ではほぼ無力で、
義満なんかはやり放題だったし秀吉なんかは数世代どころか過去一度も摂関を経験ない家系で関白になってるわけで。
ただ、まぁ承久の乱直後は歴史上初めて武家が公家より優位に立った時点で、義満ほどの絶対権力ではないのでその辺はどうだって話はある。 公経は父親が既に大臣で、自身は希代の謀略家で、既に朝廷の実権を握り太政大臣も経験済み、幕府の後見もMax
っていう点で公実とは一緒にできないと思うが、まぁ摂関を望んでなれたかっていうと微妙なところやな
絶対になれたとも言えないし、なれるはずなかったとも言えない、それこそ歴史のIFレベルの話かな なれるはずなかったってのは言えるでしょ。なれる資格のある家ではないのだから。それは微妙でもなんでもない。
武家は何でもありだから、とか言い出したら考えることが無意味になるね。
西園寺家は鎌倉幕府に操を立てて天皇暗殺まで考えたのに、室町幕府と密接だった日野家は根性なかったな。 >>136
いや、別に自分がIFに義理立てする必要はないけど、「なれるはずなかった」と断言はできないでしょ?そこは公平に見ようよ。
公家社会の前例になかったことは誰も否定してないけど、承久の乱後に武家が介入したらどう?って話してるんだから。
あんたの言い方も意図的に的を逸らしてるように見える。 > 武家は何でもありだから、とか言い出したら考えることが無意味になるね。
これはそうでもない。例えば義満が前例一切無視して関白になろうと思えばなれただろうが(別になるつもりも、なりたくもなかっただろうが)、
義満が皇位を継承しようとしても結局失敗しただろうとは言えると思う。何でもありだから何言ってもいいとかいう話は誰もしていない。 義満は、摂関になってその地位から公家武家を支配しようという発想はなかったのかね まずはなろうとおもったらなれたという証拠を出さないとifにもならんと思うよ。
少なくとも公経に摂関になりたいという意志があったとかであれば話しても面白いけど。
義満の皇位簒奪疑惑とか信長の三職推任問題は、それなりに話すに足る材料があるから議論になるわけでさ。
あと、摂関が御堂流の家職になってた以上、閑院流の人間がなれるはずなかったというのは断言して間違いでもなんでもないでしょ。信西が望んでも家職でない大学頭になれなかったのと同じレベルの話。 >>140
面白いかどうかとかそういう話じゃなくて、あなたが頑なに「絶対になれない」って言い張ってるのが明らかにおかしいと思うから、言ってるだけなんだが。
現に秀吉が関白になっている以上、日本の歴史で公家社会の慣習が絶対的でないことは(極めて当たり前だけど)実証済み。
ただ自分>>134だが、そこで言ったように、承久の乱直後の権力バランスは秀吉や義満の時代ほどではないから、そこは割り引いて考える必要がある。
だから「微妙なところ」と言っている。
で、これが「なろうとおもったらなれたという証拠」だと主張するつもりなくて、そもそも自分は「微妙なところ」と言ってるだけなので、
そんな証拠を出す必要もない。逆にあなたは「絶対になれない」って言ってるのだから、もしその主張を通すのなら、
あなたの方がその証拠(武家の圧力をもってしても慣習を破ることはできなかったという証拠)を出す必要がある。
でも、たぶんそんな証拠は出せっこないよね。
> 摂関が御堂流の家職になってた以上、閑院流の人間がなれるはずなかったというのは断言して間違いでもなんでもないでしょ。
これ、本気で言ってないよね?もしそれが断言できるのなら、全く同様に
「摂関が御堂流の家職になってた以上、豊臣家の人間がなれるはずなかったというのは断言できる」ってことになってしまう。
悪いがあなたの方に明白な論理の混乱があるように自分には見えるんだが、まぁこれ以上話してもムダそうに見えるし、
そもそも自分は>>116とは違って、公経の関白就任にそんなに思い入れがあるわけでもないので笑、まあこの辺にしておくけど。 秀吉は近衛家の猶子として、関白を継いだ後に豊臣氏を創設したわけだけど、関白という官職で天下を統治しようと思った発想は唯一無二で面白いと思うよ。摂家以外の公家社会全体がパニックになったんだから。
ただ、鎌倉時代の話をしているのに、はるか未来の秀吉を持ち出してきて何でもありと言われても失笑するしかないかな。せめてそれ以前の話で、例えば平氏政権はどうだったとかで考えるならまだしも。これが時空太閤ヒデヨシって奴?(笑) 秀吉の関白就任といえば、菊亭晴季の仲介で、藤原氏(近衛家)として関白を継いでいて、就任当初は近衛家嫡子への中継ぎという前提だったのが、豊臣氏創設で崩れてしまったわけだけど、最初から非藤原氏として摂関を望んだとしたら、公家社会はこれを受け入れたのかというifなら面白いかも。晴季はいつ秀吉の真意を知ったのかとか、そもそも秀吉は最初からそのつもりだったのかとか。気になる点はいっぱいあるね。
三職推任が朝廷からの提案であれば、信長の時点で関白=摂家の概念を自ら崩しているわけだけど。 三職推任って、太政大臣だけずいぶん格落ちの地位な気がする
何度も武家に与えた先例がある太政大臣なら家格秩序的にもハードル低そうだし 三職推任問題では、関白の場違い感が凄い。他は武家が就任しておかしくない官職なのに。
戦国時代の関白なんて摂家の証明でしかなくてロクな仕事もないのになんで話題に上がったんだろう。 1シーズン1カード26試合とする。
うち、半分を読売球団主催試合とする。
地方試合は考慮に入れないとする。
前年の読売の勝率から、
東京ドームの試合を、
1カード7勝6敗とする。
うち、空調設備操作で読売が勝った試合を7試合とする。
よって、
1カードの読売の勝敗は0勝13敗ということが判明した。 それでも、東京ドームは、
48000大観衆が詰めかける。
なぜだろう? 考えられる理由その1
サクラ
考えられる理由その2
チケットバラマキ
・・・
・・・
・・・
其れ以外に何が実効可能? 数字水増しか・・・
でも実数計上じゃなかったっけ今時?
だからか・・・ アメリカから金を貰ってるとしか思えない!!!!!!!!!!!!! >>144
三職以前の武家の太政大臣は清盛と義満だけじゃね?
江戸時代でも家康秀忠家斉だけで武家が何度もなったっていうのは無理あるだろ? >>151
関白や将軍が現役職なのに対して太政大臣は名誉職化していた
天皇に上奏前の議定に参加できるのは左大臣以下参議以上
議定の内容は天皇に上奏されて摂関と相談して決断を行う
太政大臣はどちらにも参加しない名誉職
平清盛が太政大臣だったのはたった3か月で翌年には出家
足利義満は将軍を譲った後で太政大臣に就任し半年で辞任して出家 武家官位は暴落後の制度だからな
後奈良院の時代までは大内氏のような猟官運動に熱心な太い客がいたから
まだ安売りせずに売り惜しみできるような状態だった 摂家以外の関白案といえば坂本龍馬発案の三条実美と徳川慶喜ってのがあったな、いつの時代も突飛な発想する人っているもんだ。
三職推任問題は、関白は誰でもなれる派の奴がまた暴れそうだけど事実摂家が独占してたし、将軍も室町期を通じて足利氏の家職という意識が醸成されてたっぽいし、太政大臣位しか現実的でなかったのが興味深い。ホント誰が言い出したのだろう。准后じゃ駄目だったのか? そもそも論言うなら関白なんて元は法的根拠はない地位なんだから誰がなれるなれないという話がおかしいんだけど その論で言うと慣習法や判例法なんて根拠ないから無視していいな 常道と奇道
常智と奇智、
どっちも兼ね備えてる人が最強かもね
諸葛亮や真田幸村など
真田幸村って善人? >>155
おかしいってのは単なるお前の感想だろ。
摂関が担当すべき事柄一切を先例に基づいて行えるのは代々これを伝承してきた御堂流しかないと当時の人間が理解していたんだよ。下々の家門も含めて法的根拠なんかなにもないのに自身の官職を家職化していた時代なのだから。
それを否定したらもうそれは歴史学じゃないね。 >>138が義満は関白にはなれただろうけど天皇にはなれなかったろうと主張する根拠が何なのかはちょっと知りたい。まさか関白は秀吉がなったからとかいうんじゃなかろうし。 法的根拠のない話で恐縮だけど、確か過去の公家スレで、大臣家の極官を列挙して羽林家の最上層(松木、中山、広橋)とそんなに変わらないって証明してた人がいて勉強になったけど、大臣家というカテゴリは清華家から待遇を下げたのか、それとも羽林家よりも優遇した結果なのか、どっちの考え方だったんだろうね。 >>160
清華の分家が発祥だからスーパー羽林じゃなくて劣化清華と考えるのが普通じゃないか?
まぁ官途は上位羽林家と大差ないからその面ではスーパー羽林とも言えるかもだが。 大臣家も最上位羽林家も伯爵
侯爵の清華とは明確に差があるな 最強では義満が室町殿という地位を攝家格に引き上げ
その後北山殿という太上天皇格の地位を築き上げ
義持が北山殿という地位を放棄して攝家格の室町殿という地位に固定させたという研究がある 清華は村上源氏の土御門 堀川 閑院流の洞院と全盛期はかなりの数があったんだよな。
速攻で没落した松殿は摂家とは言い難いか? 松殿は鎌倉〜戦国期は半家クラスの昇進しかしてない。
非参議か出世してもせいぜい権中納言。
断絶した頃は誰も気にも止めなかったんじゃないの? 断絶・再興で言うとそれこそ意味不明なんだけど
土佐一条家がなぜか明治に入って男爵家として再興されてるんだよな >>167
小早川家とか松園(松殿)とか北畠みたいに明治維新時 意味不明な再興男爵家が結構あるよね 単に一条家分家とかで良いと思うのに何故数百年前に断絶した家を再興しようとするんだろうね? 江戸時代にも断絶して久しい家を再興する例があるからその延長なのかも知れない あと一条家でいうと、フィクションの世界だけど
例のAAの人も大概おかしいんだよな
いい中年になってまだ三位って家格からしたらありえない話 公家っぽい名前をつけただけなんだろうけど、モデルを探すなら中御門流の一条家じゃないの。時代が合わないのは承知の上だけど極位から考えると。 俺も別流の一条ということで脳内処理してた
摂家なら中学生くらいの年齢で三位中将や中納言でもおかしくないし 一条三位って水戸黄門には頭下げないのに菊亭左大臣の言うことは聞くんだよなw
どうみても羽林クラスの平公家じゃん。 ともに極官は中将で正4位上に何度も上がった彦根と時々上がった会津、正4位上には全く上がらなかった薩摩 仙台はやっぱり
彦根>会津>薩摩>仙台なん? 正四位上になるということはそこで打ち止めで三位に上階できないという含みがある
実際公家では蔵人頭(殿上人の上首という立場)以外はほとんど正四位上にならない
正四位下止まりだったら何かのきっかけで従三位に上がれるかも知れない
実際薩摩は重豪が従三位になってる >>176
加賀前田未満の大名で従三位なんて例外中の例外だけどな
なんでなれたんだろう? 江戸時代以降 清華は大臣になっても数日〜数ヶ月で辞任だからなあ
室町期までは普通に大臣就任していたし期間も長かったけど 官位や家格について参照すべき研究書や論文を教えてくれ
官職要解とか当たり前すぎるのは措いておいて 公家ってプロゴルファー猿に出て来るキチガイだろw
ちょうどいまツベでやってるぜ 上にあがってるけど、岡野氏の久我家研究面白いよね。あれを読むと人臣では院政期以降の摂家が他の公家に比べて隔絶していた事が分かる。
しかし院政期以降の摂家なんて朝廷内でも浮いちゃってるのに、何でそうなったのかという疑問が出てくる。なんか院宮家を評価し過ぎの気もするし。 黒田基樹によれば1597年に羽柴侍從、1599年に羽柴土佐侍從または長宗我部土佐守と呼ばれているので任官してたっぽい ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています