X



邪馬台国畿内説 Part725
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
0001◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/09/27(月) 15:18:57.52
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1632317099/l50

◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。
0002◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/09/27(月) 15:26:08.31
◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。庄内3式期のSD-2001、庄内3〜布留0式期のSM-1001,SD-1007が建物BとDをそれぞれ破壊し、建物Fが庄内2式期のSX-1001埋没後築造なので建物群の存続期間は庄内2〜3の中に絞り込まれた。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
0003◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/09/27(月) 15:26:59.26
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
0004◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/09/27(月) 15:27:32.25
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。

 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
0005◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/09/27(月) 15:28:02.33
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
0006◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/09/27(月) 15:28:33.95
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。

※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
 クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。
0007◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/09/27(月) 15:29:04.39
◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。

 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。

 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く)
0008◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/09/27(月) 15:29:35.75
(承前)
◆6−2
 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。

 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。

 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。

 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
0009日本@名無史さん垢版2021/09/27(月) 15:29:49.07
テンプレを荒らさないでぇええええ!!!
0010◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/09/27(月) 15:30:06.77
◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FAQ43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。

 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
0011◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/09/27(月) 15:30:55.84
◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
0012◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/09/27(月) 15:31:27.24
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf

◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」


◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
  1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
  2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
  3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
  4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
  4世紀第4四半期〜5世紀中頃
   (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
 IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III  ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山                  
  IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III    ●箸墓、権現山51号
  IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V  ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
                           浦間茶臼山、西求女塚
  IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
                           メスリ山、行灯山、祇園山
0013◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/09/27(月) 15:31:58.66
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。
 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。

 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。

◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
   「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
 以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。
0014◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/09/27(月) 15:32:29.85
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。

 以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
 三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。

 筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く)
0015◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/09/27(月) 15:33:01.41
(承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
 遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
 予章郡:雒陽南二千七百里  南海郡:雒陽南七千一百里
 蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
 交趾郡:雒陽南萬一千里
 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)

 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
 以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。

 また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。
0016◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/09/27(月) 15:33:36.15
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
 中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。

◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。

 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
0017◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/09/27(月) 15:34:08.71
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。


◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
 これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
0018◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/09/27(月) 15:34:39.84
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。


◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
0019◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/09/27(月) 15:35:11.11
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。

 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと


 3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。

 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。

 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
 の指摘は今日も有効である。
0020◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/09/27(月) 15:35:42.58
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。

呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。

 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。

 現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。

 畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。

 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
0021◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/09/27(月) 15:36:13.50
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。

 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
 他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。

 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。

 纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。
 纒向大溝建築材実測図 https://i.imgur.com/EPtpzEw.png 矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。
 纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半〜中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
 大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。

 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。事実、鉄製品の腐食に最も影響力の強い硫化物が海成粘土層が畿内中枢部の深層に分布している。
 また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。
0022◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/09/27(月) 15:36:44.51
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。


◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。


◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
 万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。

 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
 「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
  則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。
0023◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/09/27(月) 15:37:15.73
◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!

A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。

 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。

 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。


◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
  これで説明が付く!

A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)

 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。

 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
0024◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/09/27(月) 15:37:47.41
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!

A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。

 中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。

 湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png

 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。
0025◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/09/27(月) 15:38:19.10
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
 もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。

 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。

 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)この桃核12測定例の平均値をIntcal20で歴年代較正して次に掲げる。
https://i.imgur.com/VKIld2Q.png
 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。
0026◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/09/27(月) 15:38:49.35
◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!

A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。

箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築 
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。

 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
 隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png

 前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。

 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く)
0027◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/09/27(月) 15:39:20.64
(承前)
◆FAQ 23−2

◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。

◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
 ・ 森将軍塚   :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
 ・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳  :上総
 ・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
 ・ 長沖八号墳  :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
 ・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯 
 ・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
 ・ 高鼻二号墳  :伯耆 ・ 日拝塚古墳  :筑前
 ・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
 ・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等


◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!

A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、

 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
0028◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/09/27(月) 15:39:51.92
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!

A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。

 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
 
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。


◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
  ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!

A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
 統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。

 遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。

 さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
 ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
 古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。
0029◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/09/27(月) 15:40:22.69
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。


◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!

A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。

 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。

 墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。


◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。

 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
 九州説にとって不利な条件と言える。
0030◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/09/27(月) 15:40:53.93
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。

 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
0031◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/09/27(月) 15:41:25.29
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。

 弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
   https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。

 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。

 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。
0032◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/09/27(月) 15:41:57.24
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。

 これが部分的利用に留まる所以である。


◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!

A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
0033◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/09/27(月) 15:42:29.02
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。

 当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)

 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。

 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。

 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
0034◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/09/27(月) 15:42:59.59
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
0035◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/09/27(月) 15:43:30.81
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。


◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
0036◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/09/27(月) 15:44:01.27
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)

 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
 にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
 新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
0037◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/09/27(月) 15:44:33.12
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。


◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
  http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

 捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。

 倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
https://i.imgur.com/E6TFLyl.png
0038◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/09/27(月) 15:45:05.02
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
0039◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/09/27(月) 15:45:37.16
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!

A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。

 申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。

 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。

 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
0040◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/09/27(月) 15:46:09.02
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!

A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。

その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である

以上から
 1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。

 楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。

以上述べた楽浪の対外活動に列島における楽浪土器の出土量を対応させ(◆7参照)
 活発期:2世紀末〜239A.D.:久住IA期
 衰退期:塼室墓から遼東系が消え魏へ定期職貢あり:240〜247A.D.:久住IB期
 残存期:魏へ定期職貢途絶から最終朝貢記録まで:248〜266A.D.:久住IIA期
 途絶期:日本列島から楽浪土器消失:267A.D.〜:久住IIB期
の目安が得られる。
 三国鏡の雲紋編年において魏景元四年(263)銘鏡に一致するのが三角縁201番鏡(唐草文帯群、岸本V期)であることとも整合性が良い。
0041◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/09/27(月) 15:46:40.96
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
0042◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/09/27(月) 15:47:11.73
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
 文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。


◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。

 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。

 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
0043◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/09/27(月) 15:47:43.19
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?

A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。

 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。

 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)

 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。


◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。

 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。

 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
0044◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/09/27(月) 15:48:15.68
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?

A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。

 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。


◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。

A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
0045◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/09/27(月) 15:48:47.03
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!

A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。

 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
0046◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/09/27(月) 15:49:19.24
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。


◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
0047◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/09/27(月) 15:49:50.93
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
   (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
   (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
   (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
  狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
    山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
    海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
0048◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/09/27(月) 15:50:23.26
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定
0049◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/09/27(月) 15:50:55.45
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!

A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことが明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。

 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。

 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
0050◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/09/27(月) 15:51:24.93
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
 備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。

 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。

 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。

 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
0051◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/09/27(月) 15:51:55.04
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
  これは実測したとしか考えられない!
  誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
(「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀)

 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
              (後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。

 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
0052◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/09/27(月) 15:52:26.29
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!

A:定説に従う。

 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。

 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。

 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。

 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 

◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!

A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。

◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
  径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!

A:基礎知識の誤りである。
  現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する

ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)
0053◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/09/27(月) 15:52:57.33
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!

A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。

 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。

《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)
0054◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/09/27(月) 15:53:29.92
(承前)
◆FAQ 65−2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」

とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。

 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。

 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。


 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
  古者周尺 17.3cm
  今周尺  21.0cm
  秦漢尺  23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。
0055◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/09/27(月) 15:54:00.73
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!

A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。

 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
 乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。

 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。


◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!

A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。

 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。

 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png

 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。
0056◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/09/27(月) 15:54:32.08
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい!

A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。

 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
 しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。

 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。


◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!

A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。

 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
0057◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/09/27(月) 15:55:01.25
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!

A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。

 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。


◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!

A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。

 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
 魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。

 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。
0058◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/09/27(月) 15:55:32.77
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!

A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。

 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。


◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!

A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png

 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。
0059◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/09/27(月) 15:56:04.20
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!

A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。

 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。

 庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。

 生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。


◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!

A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。

 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。
0060◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/09/27(月) 15:56:34.62
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!

A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。

 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。

 弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。


◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
 前方後円墳体制など、夢想だ!

A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。

 萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
 当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。

 奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。
0061◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/09/27(月) 15:57:07.73
◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!

A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。

 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。

 これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。

 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。

三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
 旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
 其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
 不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
 逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」

とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。

 もとより倭人伝は倭人の国々を
  1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
  2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。

倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。
0062◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/09/27(月) 15:57:38.86
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?

A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)

 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。

 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。


◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!

A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。

 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。
0063◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/09/27(月) 15:58:09.71
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!

A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。

 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。

 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。

 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
https://i.imgur.com/XIb0RqF.png

◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!

A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。

 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。

 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
 黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。

 このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。
0064◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/09/27(月) 15:58:41.08
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!

A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。

●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。

●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。

 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。

 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
0065◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/09/27(月) 15:59:13.03
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!

A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。

 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。

 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。

 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。


◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!

A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。

 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。
0066◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/09/27(月) 15:59:44.75
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!

A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
https://i.imgur.com/EyIx7C7.png


◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
  特鋳説の根拠にはならない!

A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。

 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。

 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。
0067◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/09/27(月) 16:00:21.03
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!

A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
 中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。

 また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。

 江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
 参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
 https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。

 このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。


◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
   3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!

A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。

 下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
 この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。

 夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png
0068◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/09/27(月) 16:00:52.81
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!

A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。

「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
 ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
 ※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
 ※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
 ※「皇覽」(魏文勅撰)


◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
   10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!

A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。

 実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。
0069◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/09/27(月) 16:01:26.99
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
  周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!

A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。

 六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。

『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。

 また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。

 八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
 よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。


◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!

A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。

 北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
 西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
 南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
 東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
 ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。
0070◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/09/27(月) 16:01:58.46
◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
  畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!

A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。

 IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
https://i.imgur.com/KTMQyfU.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。

 畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。


◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
  布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!

A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。

ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。

科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。
0071◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/09/27(月) 16:02:29.78
◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
  彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!

A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
 これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。

 呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。


◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!

A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
  東漢にあっても普通に食用であった。
  「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
  「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
 纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。


◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!

A:合理的な理由がない。
 纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
 一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。

 纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。

以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。
0072◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/09/27(月) 16:03:00.68
◆FAQ 99
Q:ホケノ山古墳の年代は古木効果の影響を受けない小枝資料の炭素年代によるべきだ!
  4世紀後半だ!

A:後代の混入物として除外する通説が正しい。
 墓室内に落下していた丸底坩と加飾壺は、他古墳での類例を鑑み、墳頂に囲繞配列されていた祭祀用土器と見るのが妥当と思われる。明らかに混入物である小枝資料は天井崩落時のコンタミであろう。
 ラジオカーボンによる暦年代の較正に当たっては古墳寒冷期に対応する炭素14濃度の乱高下を考慮する必要がある。3世紀末にかけて大幅な炭素14濃度の上昇が観察される。また4世紀後半にはラジオカーボンの崩壊速度に見合う濃度上昇があり、これが撹乱要因となって較正曲線によって絞り込める暦年代が拡散している。
 Intcal20から見た炭素14濃度は西暦270年頃をボトムとして大きく上昇しており、布留1古相のyBP値が新相のそれより高く出る実態と合致している。また、同時代資料と見られる小枝の確率密度分布ピークが一方は4世紀中葉後半、他方が4世紀末から5世紀初頭の値を示すことも、気候変動による撹乱要因が深刻であることを読み取れる。逆に270年頃のピークは両資料とも適切に合致しており、より信頼度が高い。ここから、天井崩落の時期を布留0末から布留1初頭と推察する。
 周濠底のS字甕Aの年代(庄内3)に属する多数の測定例と整合している。
https://i.imgur.com/nHtnTXO.png


◆FAQ 100
Q:会稽東治は蘇州だ! いや上海だ! 長江河口近辺だ いや淮河より北だ!

A:卑弥呼が通交した時代の会稽郡は現在の浙江省および福建省、単独で「会稽」と言えば常に現・紹興市越城区にあった会稽郡治「会稽山陰」を指す。
 「越王句踐、其先禹之苗裔而夏后帝少康之庶子也。
  封於會稽、以奉守禹之祀」(史記越王句踐世家)
 「禹周行天下、還歸大越、登茅山以朝四方羣臣、封有功爵有コ。崩而葬焉。
  至少康、恐禹迹宗廟祭祀之絶、乃封其庶子於越、號曰無餘。」(吳越春秋)
 「會稽郡山陰、會稽山在南,上有禹冢」(後漢志郡国四)
✳︎茅山:会稽山の別称
 秦の王翦が楚を滅した時、楚に併合されていた呉越を分離して会稽郡とした。
 会稽郡治が現・蘇州市にった時期、当地は呉本国、呉県と呼ばれ、会稽は依然会稽山麓に所在す。
 以降変転を経て順帝永建四年(199A.D.)に呉郡を分割し、以降の会稽郡治は会稽山陰である。
「会稽東治」が呉郡や徐州に存在しないことは明らかである。

「東冶」は『捜神記』や『太平広記』並びに書陵部蔵三国志 南宋刊「紹熙」本に登場し、すべて越が楚に滅された後の越族の都となった閩越(卑弥呼朝貢当時の「東侯官治」)を指している。
(参考:FAQ40)
0073◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/09/27(月) 16:03:32.51
◆FAQ 101
Q:纒向の大型建物Dというのは東西二間しか見つかってないではないか!
  四間x四間に復元して大型大型というのはインチキだ!

A:「本来の建物規模は調査の状況や建築学的な検討から東西も4間であったと」
 と調査機関は公式発表している。

 事実、東西6・2m、南北19・2mはアンバランスに長大である。一般に偶数柱間の総柱建物は居館の系譜と考えられており、このような形態は異例であろう。
 建物Bと建物Cの間隔は建物Cの東西二間に等しく計画的に設計されている。
 建物Dで発見された柱列西端から建物Bまでの間隔は建物Dの東西四間に等しい。
 また建物Dと南柵列との間隔は建物Dの南北一間(束柱をカウントすれば南北二間)である。
 全体が規則的・計画的な配置であることを考慮すれば、総柱建物が正方形を志向する傾向も鑑み、建物CとDの間隔も建物Dの東西二間に等しく復元することは合理的である。つまり建物Dを東西四間、南北四間とした復元は合理的かつ妥当である。
 建物Dを破壊している溝SX-1001、建物Cを破壊している溝SX-1002ともに底の僅かな深さしか残存しておらず、両建物のあった地表面への削平が深かったことが窺知される。

大型建物群配置図 https://i.imgur.com/4W4mle2.png
同空撮 https://i.imgur.com/A1eBwbR.png
建物B空撮 https://i.imgur.com/HytoKvD.png
Dより西を望む https://i.imgur.com/LB1oG3k.png

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
0074◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/09/27(月) 16:04:04.37
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
 荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし
0075日本@名無史さん垢版2021/09/27(月) 16:43:08.15
ついに「南水行十日陸行一月」の謎が解けたyo!

魏志倭人伝の核心は「計其道里 當在会稽東冶之東(その道里を計るに、まさに会稽東冶の東にあるべし)」の一文。

1.西晋初代・武帝司馬炎は、祖父・司馬懿仲達(秀吉)を後見人に指名してくれた大恩人・曹叡(信長)の、(実は呉より北にいた)卑弥呼を特別待遇してしまった判断ミスを正当化し、呉を滅ぼす先鞭を付けた賢帝に仕立てる必要があった。
→曹魏の帝都・洛陽から見て東南にある孫呉との戦いにおいて、その背後に倭国「女王之所都」があれば、最高の牽制となる。
→孫権の帝都・建業とほぼ同緯度の会稽郡「東治(シ・さんずい)」ではなく、そこから更に約580km南で、帯方郡から12,000里の「東冶(ン・にすい)」の東にあると思わせたい。
2.しかし本当の位置も残さなければならない。
3.ところで倭国の気候&風俗(服装、産物、動物、武器)は、南越(ベトナム)国境にある儋耳朱崖に似ている。

そこで陳寿が行った忖度が、女王国(九州)島が、狗邪(伽耶)韓国の南から儋耳朱崖(ベトナム)まで届く、中国大陸をすっぽり包み込む、南北に細長〜い「2つの島」であるように思わせる印象操作。
まず「奴国」を2回使って「女王之所都」が「奴国だよ、奴国だよ」と正解の【奴国1】を暗示(ダチョウ倶楽部「押すなよ、押すなよ」→2回目の念押しがポイント)。
次に、投馬国(宮崎)から南水行十日にある奄美大島を海南島までグィ〜ンと引き伸ばして、女王国島のパラレルワールド「邪馬台国島」を、そこに東治⇔東冶間の「陸行一月」を転用して幻の【奴国2】を創り、「東冶(ン・にすい)」の東に「女王之所都」を合わせた。
同時に倭国に行ったことがある中国知識人には「陸行一日(奴国)」の間違いとすぐに気が付くようにもした(「日」の両端の棒を下に延ばし日+Л→「月」)。
卑弥呼は、漢委奴国王以来の奴国王・帥升「其國本亦以男子為王 住七八十年」の男系女子(孫娘)で、先祖である歴代倭王(死者=鬼)の神託を聞くイタコとして(鬼道政治)、北部九州30カ国から共立された巫女(斎王)。
邪馬台国七万戸=奴国二万戸(福岡平野)+(南の狗奴国に狙われた)後背地・筑紫平野五万戸。
0076日本@名無史さん垢版2021/09/27(月) 16:45:04.31
>>75の模式図だyo!【魏志倭人伝の「倭国≒儋耳朱崖」プロパガンダ】
   ┏━━┓帯方郡  ┏┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
←┐┃黄海┗狗邪韓国┛(伽耶)〜〜〜日本海〜〜
洛陽┃〜〜〜↓↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━
【魏】┃〜対馬▲↓南「水行10日」〜〜〜〜┃「女王国東渡海1,000里 複有国 皆倭種」 
 ↓ ┃「瀚海」↓↓玄界灘〜〜〜〜〜〜〜┗━━━━━━━━━━━┓(出雲・吉備=墳丘祭祀)
   ┃〜壱岐▲↓〜〜〜〜┌南「水行10日」┐関門海峡〜〜〜〜〜▲┃(大和・東海=銅鐸祭祀)
v✖s┃〜〜┏末盧国━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃ 
   ┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲▲↓国東半島┃侏儒国┃〜┗━━━┛
 ↑ ┃〜〜┃▲↘「陸行1日」(正)‗▲▲▲▲↓豊後水道┗━━━┛「在其南 人長3〜4尺(少彦名)
【呉】┃〜〜┃♀【奴国1】女王之所都▲▲┛↙〜〜〜〜〜〜〜〜〜去女王4,000里」
建業┃〜〜┃狗奴国▲▲▲▲投馬国←←┘宮崎平野=南「水行20日」
   ┃〜〜┗━━女王国島━┛↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜
会稽┃〜東シナ海〜┌南「水行10日」〜〜〜〜〜〜〜〜
東治┃〜〜┌─┌←▲奄美大島┐↙陳寿の創作(女王国島のパラレルワールド…幻)
 ↓ ┃〜〜│〜↓「陸行1月」_〜│←「※自女王國以北其戸数道里可得略載」(北部九州30カ国=30日=1ヶ月)
   ┃〜〜│〜↓▲沖縄〜〜〜│〜〜↓「自帯方郡至女王国 12,000里」
東冶┃〜〜│♀【奴国2】(幻).〜│★【(女王之所都)計其道里 當在会稽「東冶」之東】(魏晋のプロパガンダ…嘘)
   ┃〜〜│▲台湾〜〜〜〜〜│〜〜↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」
香港┃〜〜└┐〜〜〜〜〜〜〜│←「※其余旁国遠絶(幻)不可得詳」
┏▲海南島〜└邪馬台国島(幻)┘〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
┃↖儋耳朱崖〜〜南シナ海〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜…本当」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜↘▲裸国フィリピン〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其【奴国2】(幻)東南 船行1年…大げさ」
0077日本@名無史さん垢版2021/09/27(月) 16:54:38.94
「卑弥呼以死 大作冢 径百歩」〜卑弥呼は直径(円墳)百歩(140m)の冢を大いに作(るを以)って死んだ〜 のカラクリ

@265年、曹魏から禅譲を受け、280年、ついに呉を平定し中国を再統一。天下に再び平和と繁栄をもたらした西晋の功績を後世に書き残すための正史「三国志」を編集中、30年前の魏使の報告書「径百尺(25m)」を見た陳寿は、当時の倭国はすでに古墳時代に突入し、王墓だけはやたらと長大という情報を、官僚だけに読み知っていた。
A(膨大な餓死者を出しておきながら黄巾の乱を放置した後漢皇帝たちの厚葬に呆れた)曹操の薄葬に従ったのだろう卑弥呼でも、「径百尺(25m)」の墓ではいくらなんでも小さすぎる。地方豪族級の小さい墓しか作れない倭王に明帝曹叡が親魏倭王の金印を授けるはずがない。
B「径百歩」の誤りであろう。ついでに「以+【大】作冢」と補足しておこう。

こうして陳寿は仕方なく、形状●(直径)や数値「百」はそのままに、単位「尺(25cm)→歩(1.4m)」だけ替えた。
(もし誰かが気付いたとしても誤記と言い逃れればよい。少なくとも倭国にわざわざ渡海してまで確かめようとする者ももはやいまいw)

そして時は流れ、1740年後の日本…
当然のことながら、祇園山古墳(九州説)も箸墓(大和説)も「径百歩」に該当せず、短里だ長里だ、南だ東だと、行き止まりの枝葉を必死に追いかける枝葉末節な論争が継続中w

▶●もしも箸墓(全長280m)が卑弥呼の冢だったら…
→魏使は「卑弥呼以死 作【大冢】 長二百歩」と記録→陳寿は魏志倭人伝にそのまま転載(×不正解)
●もしも祇園山古墳(直径25m)が卑弥呼の冢だったら…
→魏使は「卑弥呼以死 作冢 径百尺」と記録→陳寿は「卑弥呼以死 【大作】冢 径百【歩】」と盛る→魏志倭人伝(○正解)

祇園山古墳は上方下円墳で、天(上)から見ると方格規矩四神鏡そのもの。まさに倭王に相応しい。

「殉葬者奴婢百人」は、曹魏の薄葬に従いつつも、死後の孤独に怯えた卑弥呼の面従背腹であろう。
面白いのでそのまま転載しようw(陳寿、心の声)
0078longinus_bouz ◆bq94Vh60JQ 垢版2021/09/27(月) 17:07:48.38
>>41 > 景初四年は実在したと考えざるを得ない//
  そりゃそうなんだけどさ。

> 史料上で抹殺された年号は珍しくない//
  景初四年を抹殺する必要性なぞ皆無だろ。御前さんの言い草ではな。

景初四年は確かに実在したのだが、それは抹殺されたのだから、抹殺された理由を考えな。
存在しても不自然じゃない、なんてハナシをダラダラ書いてるだけじゃ、意味ないね。
人様の言い草を踏襲するのは構わんが、所詮、付け焼刃の書生論でしかない。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1632317099/401-404n
0079longinus_bouz ◆bq94Vh60JQ 垢版2021/09/27(月) 17:13:43.83
>>1 > 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです//
>>2 > ◆1(女王所都)  奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が//

地域の特徴的な遺跡を邪馬台国呼ばわりするだけってのはさ、
その他の地域の邪馬台国ヨタとさ、何の変わりも無いんだよ。
クイズ番組じゃないんだから、当たってりゃエエってもんじゃない。
0080日本@名無史さん垢版2021/09/27(月) 17:13:46.57
>>76
>>77
卑弥呼の魏帝への朝貢目的は、蜀の牽制として西のインド・クシャーナ朝「親魏大月氏王」同様、呉の牽制として東の「親魏倭王」として、帯方郡が管理していた「伽耶の鉄」の倭国における輸入独占権(郡宛て鉄の発注書用の封泥金印「親魏倭王」)。
つまり狗奴国戦争における後方支援要請だったわけで、南の狗奴国の位置が決まれば、自動的に北の邪馬台国の位置も決まることになる。
長年続く邪馬台国所在地論争の核心は、実は【狗奴国の位置】であることに留意されたい。
そこで九州説、畿内説における狗奴国を検討すると、以下のようになる。

−女王国 東渡「海A」千余里 複有「国B」皆倭種【〇九州説…「海A」関門海峡「国B」本州、✕畿内説…「海A」鈴鹿山脈「国B」北海道】
−其南有狗奴國 不属女王【〇九州説…熊本もしくは薩摩、✕畿内説…仲良し東海+河内彦(大阪)←支離滅裂】

畿内説はいずれも当てはまらない上、「渡海複有国皆倭種(→東)」と「狗奴国(南⤴東)」が重複する。
また、鉄製武器(軍事力)も文字・駅伝制(通信手段)もない3世紀の畿内にいて、遠隔の北部九州を安定支配するのは物理的に不可能。
消去法により、九州説が正しいことになる。
では、狗奴国が熊本か鹿児島かだが、邪馬台国七万戸を統治する倭女王をして、魏帝に援軍要請させるほど窮地に陥れる国の軍事力を考えると、
その人口は邪馬台国と同等(七万戸)もしくはそれ以上の人口(八万戸)を想定。
面積から見て、川内平野でゎ「平野面積≒戸数」となる3世紀の開墾能力では無理があると思われ、狗奴国は菊地平野(狗古智比狗の本拠)+熊本平野+八代平野の3平野を合わせた超大国と考定して、
北の邪馬台国は、北岸の吉野ヶ里遺跡を始め、弥生拠点集落の宝庫「筑後(川)の賜物」筑紫平野、卑弥呼王宮はその最高所・甘木朝倉を、
卑弥呼の冢「大作冢径百余歩(尺)=0.25m×100歩=直径25m」は、3世紀中頃の築造で、筑紫平野を一望でき、同時期の殉葬者が少なくとも66人以上確認されている「有棺無槨」祇園山古墳を比定。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%87%E5%9C%92%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3
0081日本@名無史さん垢版2021/09/27(月) 17:16:14.08
75-80は荒らし
0082日本@名無史さん垢版2021/09/27(月) 17:28:44.76
>>953
>東遷も東征もないよ。

東征は、倭王武の上表文に「自昔・・・東征毛人五十五國」と書かれているから、
あった。

>元は小国である。魏志の時代には可7万戸成長

「南≠東」や「卑弥呼の冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、バツ。
0083日本@名無史さん垢版2021/09/27(月) 17:30:38.48
>>80
すると、欽明(現皇室開祖)の父にして、古代史の謎である継体の正体(呉の南の「越」王の分家=狗奴国王・卑弥弓呼の末裔。鯨魚@八代淡海→近江琵琶湖)も判明!古代史は以下のように一挙に解明できるのである!

漢委奴国王=1世紀(弥生後期)
帥升=2世紀(倭国大乱)
卑弥呼=3世紀(弥生終末)邪馬台国(帯方郡張政の仲介で狗奴国を併合)…伊都国王神武「更立男王国中不服」を、紀伊半島西部水銀鉱床で栄えていた大和纏向に東征させ「奥津城」として(帯方郡の鉄の代価)隠蔽&独占。
崇神朝=4世紀(前期古墳)伊都国(台与死後「複立男王並受中国爵命」)…垂仁、伊勢神宮を創建し紀伊半島東部も聖域化。紀伊半島の水銀鉱床完全独占。
応神朝=5世紀(中期古墳)邪馬台国(仲哀を武内宿彌&神功が暗殺)…魏晋【宋/斉/梁】南朝へ朝貢再開。479年「武」上表「安東大将軍倭王」任命(悲願達成)。
継体朝=6世紀(後期古墳)狗奴国(武烈死後、倭王磐井を暗殺「百済本紀531年、日本の天皇・皇太子・皇子共に薨去」、筑紫君と矮小)…阿蘇邪靡堆へ遷都。倭国独自(九州)年号創設。
日出処「天子」倭王阿毎多利思比孤、新羅の朝貢を契機に隋煬帝に対し対等外交宣言607年
欽明朝=7世紀(飛鳥時代)…仏教による墓制(国家祭祀)変更のため、欽明皇子、蘇我稲目と共に奥津城(王家の谷)に下向。大和分家として飛鳥疎開宮造営。
用明&厩戸…物部守屋を誅殺し前方後円墳廃止。大和分家を乗っ取ろうとした蘇我氏を九州本家の天智が誅殺し、近江大津宮へ東遷(大化の改新)。
天武朝=8世紀(奈良時代)記紀編纂→唐外交の火種【九州年号&多利思比孤】を抹消すべく、崇神朝〜応神朝〜継体朝の歴代倭王権@九州本家の交代が、すべて大和分家で起こっていたように史実歪曲。
畿内を記紀の歴史テーマパーク化(九州の地名をそっくり移植。阿蘇外輪山→三輪山、八代淡海→近江琵琶湖など)
桓武朝=9世紀(平安時代)

まとめると、
九州本家…卑弥呼台与(邪馬台国)→崇神朝(伊都国)→応神朝(邪馬台国)→継体朝(狗奴国/阿毎多利思比孤)→天智東遷(難波宮大津宮)→桓武(平安京)
大和分家…神武(伊都国)東征→崇神朝奥津城造営(紀伊半島の水銀鉱床目的)↘欽明朝(推古摂政厩戸)→天武持統(飛鳥宮藤原京)→元明(平城京)
0084日本@名無史さん垢版2021/09/27(月) 17:39:00.80
前スレ>986 https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1632317099/986
>道里の定義を言ってみなさい。

周回遅れ

前スレ>447 https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1632317099/447
「道里の定義は、古代の他国の言葉だから簡単ではないし、
 いちゃもんもつけやすいでしょ?

 だから、同時代資料で日数で道里を示している実例を直接明示しているんだよ
 その実例を見れば、道里が何であるかを正確に定義しなくても
 道里を日数で表現できることが確実に論証できる

 論理的でしょ?」

定義の問題に持ち込めばとっちもどっち論や
水掛け論にできると思ってるんだろうけど、お生憎様ww
0085日本@名無史さん垢版2021/09/27(月) 17:41:04.22
>>973
その道の「里」数表現になっていないから、バツだよ。
まあ、説なんて信じてる論理的思考の
出来ない御仁に何を言ってもしょうがないけれど
「里」数表現は、、道里の遠近を計算するのに必要なんだよ
漢文や九章算術が読めない人にはそれが理解できないんだよねぇ〜
道里を計算するのに、里数は必要
つまり、道里というのは里数を必要とする概念であるということ
まあ、どれだけきちんと説明したところで、
「南→東」や「冢→前方後円墳」「や「正北抵新羅の倭國は北部九州」の隠蔽などの大和説なんて、
信じてる論理的思考の出来ない御仁には、
無意味なんだけどさ
0086日本@名無史さん垢版2021/09/27(月) 17:43:06.98
前スレ>998
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1632317099/998

>違うな。「道里」の里数は全く出て来ず、関係もない。
>「行道での所要日数」の問題。

相変わらず無茶なことばかり(バカなことともいう)書いてるなww

『「道里」の里数は全く出て来ず』

そうだよ? それがどうかした?
道里の日数表記が出てきて、それで計算するんだけど?

つまり、日数表記が道里の表現

『「行道での所要日数」の問題』

その所要日数を道里の遠近の比例計算に使いなさいっていう問題なんだから
道里の遠近は行道の所要日数で書き表せるっていう実例じゃん?

小学生でも分かるぞ?
君は小学生以下の、ザラコク並みとこのスレでは思われているが、
それでいいんだね?ww
0087日本@名無史さん垢版2021/09/27(月) 17:43:32.30
>>974
問題文から解答まで、すべて「行道八日」は、道里にはなっていないんだから
0088日本@名無史さん垢版2021/09/27(月) 17:45:40.44
>>1
> 「道里」という概念は日数で数値化できるって事実<

自己流の解説?
学者の解説?
出典は?
0089日本@名無史さん垢版2021/09/27(月) 17:49:45.97
>>83
邪馬台国女王・台与の死後、倭王となった伊都国王・崇神「複立男王並受中国爵命」の玄孫(4世孫)・仲哀から王権を相続(奪還)した応神(胎中天皇)は、仲哀の実子ではなく、
筑紫女王・神功皇后(記紀が邪馬台国「卑弥呼」と混同させられる理由)と大臣・武内宿彌の子供説(リンク参照)がある(仲哀崩御の十月十日後に筑紫で出生)。
仲哀の息子(応神の異母兄)たち(籠坂かごさか&忍熊おしくま皇子)の反乱もこれが原因である。

ここに武内宿彌の正体も明らかになるのである!
伊都国崇神朝の景行/成務/仲哀、邪馬台国応神朝の応神(息子)/仁徳(孫)の5人の大王に仕えた彼は、筑紫女王・卑弥呼の男弟の末裔なのである!
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%86%85%E5%AE%BF%E7%A6%B0

その応神朝@筑紫(邪馬台国♂武内宿彌&♀神功皇后)を筑紫君磐井の乱で下剋上した狗奴国王・継体@阿蘇は、仁賢皇女・手白香姫を娶って欽明皇子を産ませることで、歴代倭王統の維持を図った(倭国大乱の再発予防)。

この欽明皇子が義理の父・蘇我稲目とともに、古代東アジア標準の中央集権強化手段=仏教への国家祭祀(墓制)変更のため、奥津城(王家の谷)大和に下向して大和分家(飛鳥)を築き(継体の大和入り20年に仮託)、
その次男・用明の代で、ついに強硬な廃仏派である大連・物部守屋を滅ぼして前方後円墳築造を廃止。用明の妹・推古が仏教の国教化を成就。
しかし、全国の官寺建設で国家予算を恣にした蘇我蝦夷・入鹿父子が大和分家の皇族を次々に粛正し、乗っ取ろうとしたため、九州本家の天智@太宰府(瓦葺き)が飛鳥(板葺)宮に下向。三韓大使の目の前で誅殺(乙巳の変)。
その後、663年に白村江海戦での完敗により、唐・新羅の連合艦隊による倭王征伐がいよいよ現実味を帯びたため、継体→安閑・宣化→阿毎多利思比孤系統の九州本家・天智が、近江大津宮に東遷。

ここに倭王権は史上初めて北部九州を出て、近江大津宮→飛鳥浄御原宮→新益藤原京→平城京→平安京へと続く畿内中心の歴史が始まるのである!
欽明以前の「畿内」には、崇神朝・応神朝はもちろん、直前の継体朝ですら記紀伝承地に大王宮が一つも出土せず(明治政府設置の石碑のみ)、巨大王墓と倉庫しか出土しないのは、そのためである。
0090日本@名無史さん垢版2021/09/27(月) 17:49:57.21
>>86
勘違いもはなはだしいよ。
聞く耳持たないなら、
君の友人の詳しく方に聞いてみてください。
0091日本@名無史さん垢版2021/09/27(月) 17:52:39.73
>>82
使者、倭人の間違いではない
南≠東は陳寿の書き換え、会稽による主観
別に前方後円墳とか書いていない
ヤマトの時代だな。卑弥呼の時代ではない。
東征毛人五十五國 西服衆夷六十六國 渡平海北九十五國
0092longinus_bouz ◆bq94Vh60JQ 垢版2021/09/27(月) 17:52:41.36
>>80 > 殉葬者が少なくとも66人以上確認されている「有棺無槨」祇園山古墳を比定//
>>77 > 祇園山古墳は上方下円墳で、天(上)から見ると方格規矩四神鏡そのもの。まさに倭王に相応しい//

祇園山古墳なんてね、区画整理で取壊されて、石棺をどかすのがメンドだったので、
集団墓地に再利用されたってだけの遺跡なんだよ。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1632317099/570

>>82 >「南≠東」や//
  クイズ番組じゃないんだからさ、当たってりゃいというモンではない。
そんなものはね、畿内説なんかではないんだよ。
張政が来た時点で、径100歩の墳墓は箸墓しかなかったのだから、
彼は卑弥呼墓を同定するID情報として、態々書いた。
箸墓が卑弥呼墓である事は、確定事項なんだよ。

> 「卑弥呼の冢≠前方後円墳」//
  張政が来た時点でようやく作った円墳を、前方後円墳に直したということ。

径100歩の円墓にしろ、そんなサイズの墳墓が、箸墓以外に何処にあるってんだよ。
むろん、短里なんてシロモノは存在しない。
會稽(紹興)の真東は、九州最南端の佐多岬の僅かに南、
東冶(福州)の真東は、台湾最北端の僅かに北となる。
つまり、佐多岬と台湾最北端それぞれでの、緯度測定データがあってこその記載だ。
北極星の仰角を測定すれば、それが即ち緯度という事になる、と当時の人は知ってたことになる。
距離の里ってのはね、メートルと同じ理屈で定義したんだよ。
距離の里は定義としては、キッチリと500mなんだよ。
もう一つ。
でっち上げた、まがい物の女王である神功皇后の墓って、五社神古墳だよな。
日本書紀はご丁寧にさ、同規模の古墳を、まがい物女王に振り分けたんだよ。
日本書紀の編集者達だって、距離の里は500mほどだと認識していた事になるだろ。
八゛力なりにさ、少しはモノを考える事だ。短里なんてヨタ話をマに受けてるんじゃないよ。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1632317099/976-979n
0093日本@名無史さん垢版2021/09/27(月) 17:53:20.45
>>89
ダイワとしか読めない大倭(大和)を(オオ)ヤマト と読ませるのはなぜか?
邪馬台国があったからではなく、その逆で、国内外(唐)に対し、新益藤原京を新設した「畿内」に、筑紫邪馬台も阿蘇邪靡堆もあったと思わせたかったからなのである!

白村江海戦惨敗で東遷した九州本家の天智の死後、壬申の乱で倭王権を獲得した大和分家の天武が正史記紀を編纂し(唐を刺激する九州本家=継体創始の倭国独自年号&日出処「天子」多利思比孤を抹消)、
それに合わせて九州の地名をそっくり移植し、「畿内」をその歴史テーマパーク化していったからで、そのテーマパークの名前が「大倭」(ヤマト)なのである!

7世紀唐(飛鳥時代)までの中国歴代王朝には、倭国は九州島のみと認識されていたことが判る。
魏志倭人伝「女王国(九州)東渡海千里複有国皆倭種(本州)又有侏儒国在其南(四国)」
隋書倭国伝(倭王阿毎多利思比孤@阿蘇邪靡堆)、旧唐書(原文略)
日本の使者Aは「日本国(本州)は昔の倭国(九州)とは別の国だったが、日辺(→東)にあったので、日本と名付けた」
別の使者Bは「倭(九州)と言う名前が優雅でないから日本(本州)と改名した」と言い、
また別の使者Cは「日本(本州)は昔小国だったが、倭地(九州)を併せた」と言った。
来朝した使者ABCの態度が尊大で、真実を言っている様子がなかったので、中国は彼らを疑った。

事実は逆で、白村江海戦惨敗で九州本家が近江大津宮に東遷後、実際はすべて北部九州で展開していた「倭国」の歴史テーマパークにするため、後漢書東夷伝の「大倭」@九州を借用しつつ、
発音は北部九州時代の都であった筑紫邪馬台&阿蘇邪靡堆(ヤマト)としたということなのである!
ゆえに「魏志倭人伝」の年代記述に合わせて箸墓の築造年代を50年繰り上げて生まれた「畿内」説、ならびに古墳時代「畿内」にあったとされる「ヤマト王権」(定説)は、
唐外交を最優先課題とせざるを得なかった天武・持統朝が国家事業として強行した、この複雑なからくりに惑わされて生まれた幻想で、
記紀(後付け地名=ヤマト王権)という虚構のゴール地点から、魏志倭人伝と土器編年の年代繰り上げ操作による強引付会に過ぎず、どこまで史実歪曲&洗脳を定着させられるのか?という、社会実験に過ぎないのである(今年は皇紀2681年w)。
0094日本@名無史さん垢版2021/09/27(月) 17:54:23.91
>>77 なるほど
0095日本@名無史さん垢版2021/09/27(月) 17:54:48.39
>>88
>自己流の解説?
>学者の解説?

史料事実
0096日本@名無史さん垢版2021/09/27(月) 17:56:57.67
>>90
>勘違いもはなはだしいよ。

反論できないなら、あなたは論破された

終わり
0097日本@名無史さん垢版2021/09/27(月) 17:57:13.85
>>94日本@名無史さん2021/09/27(月) 17:54:23.91
>>77 なるほど
0098日本@名無史さん垢版2021/09/27(月) 17:58:35.88
>>93
まとめると、663年8月の白村江海戦で(互いに先陣を競って無秩序な突撃を繰り返す)倭国水軍を全滅させた大艦隊を擁し、その気になれば、完全に無防備〔もはや陸軍のみ→夥しい神籠石(高句麗)式&朝鮮(百済)式山城の築造ラッシュ〕となった倭国に来襲して、天智の首都・太宰府を殲滅できた超大国・唐(外交)への忖度で生まれた記紀が消そうとしたのは、

A.倭国史上初めて北部九州を出て、近江大津宮に東遷した天智@太宰府以前の倭王権(崇神朝→応神朝→継体朝)がすべて北部九州(筑紫邪馬台→阿蘇邪靡堆→天智太宰府)にあったこと
→3王朝ともその奥津城(王家の谷)&新益藤原京を新設したばかりの「畿内」にあったことにした〔記紀の歴史テーマパーク「大倭」→「大和」聖徳太子(以和為貴)へ〕。
B.さらに、磐井の乱で応神朝@筑紫を乗っ取った、継体朝@阿蘇がやらかしていた3つの不都合な史実なのである!

1.(武寧王の百済を完全属国化した)継体が中国の南北朝二帝並立の隙に創始してしまった(時間の支配者=中国皇帝の冊封からの独立を意味する)倭国独自(九州)年号
→天智の【倭京】(太宰府)以前は全て抹消!(下記リンク参照)
2.鉄の産出により高句麗&百済に形勢逆転した新羅からの朝貢で調子に乗り、南北朝を再び統一した隋の「天子」煬帝相手に日出処「天子」を名乗ってしまった阿毎多利思比孤(冠位十二階)
→同時期の大和分家・厩戸皇子と合成し、憲法十七条(以和為貴)「聖徳太子」を捏造&抹消!
3.白村江海戦惨敗で唐新羅連合艦隊の倭王成敗(王族9親等全員処刑)に怯えた九州本家・天智@太宰府の、(裏口から船で高句麗に脱出できる)近江大津宮への遷都(臆病風→周辺国の笑い草)
→舒明♂皇極♀の長男=斉明皇太子として大和分家に接続&統合!(皇極斉明重祚&天智天武兄弟の秘密)

-継体朝@阿蘇による倭国独自(九州)年号一覧
継体・善記・正和・教知・僧聴・明要・貴楽・法清・兄弟・蔵和・師安・和僧・金光・賢称・鏡當・勝照・端政・告貴・願転・光元・定居・【倭京】・仁王・僧要・命長・常色・白雉・白鳳・朱雀・朱鳥・大化・大長
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/nengo/nengou.html
-熊本県玉名市和水町前原の石原家文書
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaiho122/kai12204.html
0099日本@名無史さん垢版2021/09/27(月) 17:59:00.51
>>87
>問題文から解答まで、すべて「行道八日」は、道里にはなっていないんだから

そんなこと断定する理由は?
結論を言い張るだけですか?
0100日本@名無史さん垢版2021/09/27(月) 18:00:27.99
今城塚古墳に眠る治天下大王の、ピンクの石棺は、なぜ遠路はるばる運ばれてきたのだろう。。。
0101コテ略垢版2021/09/27(月) 18:00:30.53
>>94 > なるほど//
  祇園山古墳なんてね、>>92で書いた通りでさ、
取壊された廃棄墓って程度のシロモノでしかないんだよ。
0102日本@名無史さん垢版2021/09/27(月) 18:02:11.65
>>83
逆です。
57年までは、倭国は九州。

元は小国の邪馬壹國
卑弥呼 壹與で可7万戸に成長
でアマ氏と結びつく
で筑紫国作る。伊都国は移動して
出雲国作る(国譲り)
0103日本@名無史さん垢版2021/09/27(月) 18:02:42.72
>>98
実年代=古事記の没年補正(卑弥呼=魏志倭人伝、※神功=日本書紀)+漢(×騎馬)民族皇帝への朝貢記録
◆奴国@博多【後漢の冊封を受けて外交デビュー→大陸や半島との貿易本格化】
漢委奴国王(情報なし)…57年(光武帝、金印下賜=鉄輸入開始!)
帥升(情報なし)…107年(安帝に謁見。生口160人を献上=鉄輸入急増→タウポ山大噴火→大飢饉(黄巾の乱)発生→倭国大乱へ)
◆邪馬台国@筑紫【狗奴国と戦争→水銀朱と引き換えに帯方郡の鉄の独占輸入権=親魏倭王】
卑弥呼(〜247年)…238年/240年/243年/245年
台与(235年〜?)…247年
◆伊都国@博多(崇神朝)…【国内統一→半島派兵(新羅攻撃)開始→任那日本府設置(鉄資源独自確保)】
10祟神(〜318年)…266年(西晋武帝へ)、四道将軍派遣270年頃。
11垂仁(情報なし)…330年頃没。伊勢神宮創建(紀伊半島の水銀鉱床独占)。
12景行(情報なし)…343年頃没。日本武尊の東征335年頃。 大臣・武内宿禰
13成務(〜355年)…国造/県主設置(国内統一完成)  
14仲哀(〜362年)…新羅征伐(関門海峡開削=北朝/高句麗艦隊の瀬戸内海侵入リスク)に反対、神罰で崩御(暗殺)
神功(※〜389年)…「旨」(「泰和4年」369年銘石上神宮七支刀→372年百済・近肖古王より贈呈)
◆邪馬台国@筑紫(応神朝)…【半島派兵(高句麗戦争&百済支援)本格化→大将軍位を求めて南朝(東晋/宋/斉/梁)に朝貢】
15応神(〜394年)…「禰(でい)」
16仁徳(〜427年)…「讃」(413年/421年/425年)
17履中(〜432年)…「倭国王」(430年)┐
18反正(〜437年)…「珍」(438年)…「弟、珍立つ!」
19允恭(〜454年)…「済」(443年/451年)
20安康(情報なし)…「興」(460年/462年)
21雄略(〜489年)…「武」@(477年/478年)「獲加多支鹵大王」…辛亥(471)年銘稲荷山鉄剣+江田船山鉄剣
22清寧(情報なし)/23顕宗(情報なし)/24仁賢(情報なし)
25武烈(情報なし)…「武」A(502年)
◆狗奴国@阿蘇(継体朝)…倭王磐井暗殺→本家・阿毎多利思比孤・天智太宰府→欽明皇子を本州の飛鳥へ分家→現在の天皇家へ
26継体(〜527年)…「男弟王」癸未(503)年銘人物画像鏡(隅田八幡宮)
0104日本@名無史さん垢版2021/09/27(月) 18:05:33.10
>>978
>近畿一帯で7万戸 開拓地で農業、宗教地、水銀採取地 ヤマトの台頭期(壹與あたり)

「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、バツ。

>ホケノ山古墳  鉄鏃60本以上 椿井大塚山古墳 鉄鏃約200本
関東、群馬あたりでも鉄鏃、

九州倭國の「自昔・・・東征毛人五十五國」の軍が齎したもの。

>古墳の巨大化は東海、関東から はさみ込んで、毛人地域を抑える。

前方後円墳などの巨大化は、九州倭國の「東征毛人五十五國」の軍が、
征服した在地の毛人や銅鐸祭祀部族を、生口や守墓人にして、造らせたもの。
0105日本@名無史さん垢版2021/09/27(月) 18:06:39.07
>>87
>問題文から解答まで、すべて「行道八日」は、道里にはなっていないんだから

あのさあ
問題文は
欲以「道里遠近」,「戶數多少」,衰出之。問︰粟、車各幾何?
となっていて、それに使う数字が
甲縣一萬戶,行道八日
の形式で与えてあるの

ここまでは理解できる?

で、
「戶數多少」に使うのが「一萬戶」でこれが戸数
「道里遠近」に使うのが「行道八日」でこれが道里

分かりやすいだろ?
これを『道「里」って書いてあるのに里数を使ってないから違うんだー』って
小学生以下ザラコク並みのバカなことを繰り返し繰り返し書いてるお馬鹿さんがいるってこと
0106日本@名無史さん垢版2021/09/27(月) 18:06:54.37
>>85
>その道の「里」数表現になっていないから、バツだよ。

根拠なく、いくら連呼したって、それこそバツなんだよ
アメフトで勝ったチームを「米国人じゃないからバツ、優勝と認めません」と言うのと同じだ
現実に道里という概念を日数で数値表記してる史料事実が全てを物語っているの

日数で書いてあっても道里は道里
投馬国は女王国の北にある
南九州には比定できません
0107日本@名無史さん垢版2021/09/27(月) 18:08:19.68
>>996
>国内産の使い初めが卑弥呼の時代では?

いや、筑紫忌部が「前方後円墳」を造り始めるのは、「卑彌呼」時代より遅い。 「卑彌呼」時代に「前方後円墳」はない。   @阿波
0108日本@名無史さん垢版2021/09/27(月) 18:10:22.49
>>976
>張政が来た時点でようやく作った円墳を、前方後円墳に直したということ。

女王の墓を後から改造だと?  無礼者のトンデモばか発想。   @阿波    
0109日本@名無史さん垢版2021/09/27(月) 18:12:51.69
>>981
>鹿児島、種子島は北部九州なのか?

「女王国」の範囲付近。
0110日本@名無史さん垢版2021/09/27(月) 18:14:50.57
>>87
>問題文から解答まで、すべて「行道八日」は、道里にはなっていないんだから

解答の方では
均輸術曰:令縣戶數,各如其本行道日數而一,以為衰

均輸術では:県の個数をそれぞれ、その本の行道日数を一の如くして
以て衰と為さしむ

道里の遠近を考えるのに、行道日数の一日当たりに直してってこと
行道日数が多い =道里が遠い
行道日数が少ない=道里が近い
それを一日分になるようにして衰を出す

行道八日とか行道十日が道里を表す数字だってのは、小学生でも分かるぞ?
0111日本@名無史さん垢版2021/09/27(月) 18:16:29.93
>>90
>勘違いもはなはだしいよ。
>聞く耳持たないなら、
>君の友人の詳しく方に聞いてみてください。

結論ありき(反論がしたいだけ)で聞く耳もたないのはそっちだろ?

とうとう、反論もできなくなって逃げたかな?ww
0112日本@名無史さん垢版2021/09/27(月) 18:17:24.69
>>90
>勘違いもはなはだしいよ。

と言いながら、何が勘違いなのかは具体的に言えないww

まあ、最初から無理は反論なんだから、こんなものかな?w
0114日本@名無史さん垢版2021/09/27(月) 18:19:33.75
>>992
>邪馬臺国の中に女王の都があって、

女王之所都の国は邪馬壹國であって、邪馬臺國ではないから、バツ。

>それの跡が纒向遺跡ってこと

「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國中心は北部九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、バツ。
0116日本@名無史さん垢版2021/09/27(月) 18:26:19.46
>>114
>女王之所都の国は邪馬壹國であって、邪馬臺國ではないから、バツ。

それって単なる誤字だから
0117日本@名無史さん垢版2021/09/27(月) 18:35:02.57
新羅人らは援軍出したときも軍兵だして仕掛けてきてる

つまり敵
0118日本@名無史さん垢版2021/09/27(月) 18:36:06.50
>>91
使者や倭人の間違いではない
「南→東」などは、史料事実の否定や曲解の書き換えの大和説学者らによる主観
別に冢は、前方後円墳ではない
九州倭國の時代だな。卑弥呼の時代であった。
「自昔・・・東征毛人五十五國 西服衆夷六十六國 渡平海北九十五國」は、
九州倭國の倭王武の上表文
0119日本@名無史さん垢版2021/09/27(月) 18:43:30.40
>>106
日数で書いてあったら、道里にはなりません
投馬国は女王国の中にある
ほぼ南九州には比定できます。
0120日本@名無史さん垢版2021/09/27(月) 18:45:09.70
>>118
このように全く理由なしで結論だけ連呼するのがトンデモの特徴
0121日本@名無史さん垢版2021/09/27(月) 18:46:26.40
>>118
>行道八日とか行道十日が道里を表す数字だってのは、小学生でも分かるぞ?

それ、小学生が考えやすい屁理屈ってこと。
行道八日とか行道十日は、「×道里」ではなくて、「◎道里の遠近」を表す数字だ、これを教わるのはのは中学生になってから・・、
つまりオメは、まだ小学生程度だっていうことだ。
0122日本@名無史さん垢版2021/09/27(月) 18:50:14.04
>>120
このように全く理由なしで、
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解は否定の嘘つき騙しをして、結論だけ連呼するのが、
トンデモ大和説者らの特徴
0123日本@名無史さん垢版2021/09/27(月) 18:52:17.22
>>121
>行道八日とか行道十日は、「×道里」ではなくて、「◎道里の遠近」を表す数字だ、これを教わるのはのは中学生になってから・・、

なら、行道八里とか行道十里も、「×道里」ではなくて、「◎道里の遠近」を表す数字だろ
園児かよ
0125日本@名無史さん垢版2021/09/27(月) 18:53:01.00
>>107
「前方後円墳」の造り始めとは書いていない
「前方後円墳」の造り始めは、
壹與の時代 あたりだろうな。
0126longinus_bouz ◆bq94Vh60JQ 垢版2021/09/27(月) 18:57:50.63
>>116 > 邪馬壹國・邪馬臺國・・・それって単なる誤字//
  それはそれで違うと思います。
本来は臺(台)だったのを、ワザと壹(壱)と記載してある。

邪馬台国の事は、邪馬壱国と、台与タソの事は壱与と記載されている。
台ってのは、辺境国ではなく、中国の京都・洛陽の事だ。
難升米等が遣使した景初二年六月に、帯方太守劉夏は、遣吏將送詣京都なんて書いてある。
一方、正始8年記事においては、送政等還 因詣臺(台)と書かれている。
「詣京都」と「詣臺(台)」は同じなんだからさ、京都・洛陽=台 という事だ。

おそらく難升米等は、表意文字によって単純に、邪馬都国とでも称したのであろうが、
魏は卑弥呼を親魏倭王に叙し、邪馬台国の表記に改めた。魏とは同格ですよ、といった事だ。

邪馬台国を邪馬壱国に、台与タソを壱与と表記したのは、
親魏倭王叙任は取消しですよ、といった意味合いだ。
しかしながら、晋とて魏と同様の中国王朝なんだから、綸言汗の如しは踏襲せざるを得ないので、
こういった間接的な記載で御茶を濁さざるを得なかったんだよ。

なお、正始8年記事の因詣臺(台)は、景初二年六月と同様に、因詣京都でも構わんのだが、
敢えて臺(台)としてるのはね、直近の三遍に渡る「壱与」表記や「邪馬壱国」表記は、
単純に似た字との書き間違えなんかじゃなくて、敢えての表記なんだよと、念を押してるんだよ。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1632317099/569

南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月 ・・・
正始八年 ・・・復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王 國中遂定 政等以檄告喻壹與 
 壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人 送政等還 因詣臺
獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雜錦二十匹
0127日本@名無史さん垢版2021/09/27(月) 19:05:19.44
>>121
>行道八日とか行道十日は、「×道里」ではなくて、「◎道里の遠近」を表す数字だ、これを教わるのはのは中学生になってから・・、
>つまりオメは、まだ小学生程度だっていうことだ。

一生懸命考えた末の反論がそれか?wwwwwwwwww

行道八日と行道十日で示された「道里」の遠近を
八日、十日という日数で計算するんだよ

日数の数字が、「大きいか、小さいか」が「遠近」
つまり、「行道八日」「行道十日」が道里の表現そのものww

やはり、小学生以下ザラコク並みだなww

>これを教わるのはのは中学生になってから・・、

妄想がひどいなww
お薬が必要なんじゃないか?
0128日本@名無史さん垢版2021/09/27(月) 19:05:34.64
>>104
ちゃうわい、公共工事だよ。
0129日本@名無史さん垢版2021/09/27(月) 19:05:58.77
>>125
>「前方後円墳」の造り始めとは書いていない

国内産水銀朱(阿波産)使用と「前方後円墳」は連動している。   @阿波  
0130日本@名無史さん垢版2021/09/27(月) 19:11:00.15
>>129
まあ、どうだかな?
奈良、三重、或いは混ぜかもね。

「前方後円墳」は卑弥呼の時代ではないよ。
0131日本@名無史さん垢版2021/09/27(月) 19:15:31.81
>>130
>奈良、三重、或いは混ぜかもね。

採掘していないのに、どうやって混ぜるんだ?  わははははは   @阿波
0132コテ略垢版2021/09/27(月) 19:15:52.84
>>114
> 「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國中心は北部九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、バツ//

zarakoku宝賀寿男、オ〆がマルでノー夕リソなのは、>>92で書いた通りだ。
八゛力は身の程を弁えな。
0133日本@名無史さん垢版2021/09/27(月) 19:16:22.78
>>130
>「前方後円墳」は卑弥呼の時代ではないよ。

その通り!   @阿波
0134日本@名無史さん垢版2021/09/27(月) 19:18:20.11
>>130
>「前方後円墳」は卑弥呼の時代ではないよ。

纒向石塚古墳・矢塚古墳・勝山古墳・東田大塚古墳を
前方後円墳とみなすかどうか、だな
0135日本@名無史さん垢版2021/09/27(月) 19:22:54.20
>>125
>「前方後円墳」の造り始めは、
>壹與の時代 あたりだろうな。

理由は?
0136日本@名無史さん垢版2021/09/27(月) 19:33:01.13
>>132
>zarakoku宝賀寿男、オ〆がマルでノー夕リソなのは、

いや、宝賀も鷲崎もダメだが教養はある
しかしzarakokuは無教養でダメの人だ
0137日本@名無史さん垢版2021/09/27(月) 19:35:32.72
>>123
>なら、行道八里とか行道十里も、「×道里」ではなくて、「◎道里の遠近」を表す数字だろ

頭が固いな、行道八里とか行道十里の場合、
上りでも下りでも八里は八里のまま、十里は十里のままで変化することはない。だからこれは「◎道里(=里数)」そのものである。

しかし、同じ八里の道でも、行きは下り坂で八日だが、帰りは上り道で十日かかることもある。
つまり、上り・下りによって同じ道里(=里数)でも遠近(つまり日数)に差を生ずる。
行道とはこの日数の変動を考慮した数字なので、九章算術では、特に「道里遠近=行道〇日」にように呼んで区別しているわけだ。
0138日本@名無史さん垢版2021/09/27(月) 19:39:49.05
>>137
それって資料無視したあなたの思い込みでは?
だって変な我流でしょ、それ
0139コテ略垢版2021/09/27(月) 19:40:41.82
>>136 > いや、宝賀も鷲崎もダメだが教養はある//
  トーダイ出ても、司法試験に受かっても、
所詮、八゛力はタヒ沼で治らなかった無教養の勹ソってだけ。
鷲崎ってのは、知らないよ。

> しかしzarakokuは無教養でダメ//
  中身が宝賀寿男なんだから、当たり前でしょ。
0140日本@名無史さん垢版2021/09/27(月) 19:44:17.59
>>137
>行道とはこの日数の変動を考慮した数字なので、九章算術では、特に「道里遠近=行道〇日」にように呼んで区別しているわけだ。

それって「道里遠近=行道〇里」の存在で否定されちゃうのでは?
0141日本@名無史さん垢版2021/09/27(月) 19:50:55.30
>>136
いや、宝賀氏も古田氏も、教養や人類の常識はある
しかし大和説学者やスレ主や東大理系博士号自称男らは、
無教養でダメの人だ
0142コテ略垢版2021/09/27(月) 19:55:38.76
>>141 > いや、宝賀氏//
  自分に蛆を憑けるなよノー夕リソ。
0143日本@名無史さん垢版2021/09/27(月) 21:53:23.86
zarakokuは、宝賀寿男って言うのか。 何屋なんだ?   @阿波
0144日本@名無史さん垢版2021/09/27(月) 22:02:56.88
>>95
史料事実はあー
その史料を君の解釈のようにした学者は?
文献を聞いているのだが
0145日本@名無史さん垢版2021/09/27(月) 22:04:43.67
>>99
常識ですよWw
0146日本@名無史さん垢版2021/09/27(月) 22:08:58.24
>>112
2000里だけ魏里を使うあんたの能力では、どんなに間違い指摘を受けても言い張るしか無いねWw
0147日本@名無史さん垢版2021/09/27(月) 22:17:28.51
>>138
間違いなく、あなたの誤解です
賦役の比率計算です。
日数は労働日数です。
戸数は多いほど、賦役が増すという比率計算です。
0148日本@名無史さん垢版2021/09/27(月) 23:09:42.81
>>137

上り・下りなどは書いていない
書いてあるのは道里遠近
0150日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 03:53:27.03
>>138
あなたが、
歴史資料の解読を間違えているのです。
均輸をそのように読み解いたのはあなただけです。あなたのように解読した学者や解説者が有れば示して下さい。
0151日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 03:55:30.40
>>150
×解説者
○解説書
0152日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 03:58:46.14
>>148
日数では距離が出ない例を、彼は提示しているのもわからないのですか?
0153日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 04:04:59.76
>>148
貴方に質問してみます。
何故、均輸に戸数が記述されてるかわかりますか?戸数は計算式にも出てきます。
0154日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 06:18:13.96
>>150
>歴史資料の解読を間違えているのです。

そんなこと決めつける理由は?
どうして理由を言わないんです?
0155日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 06:36:27.32
>>154
諦めた方が良い。君は九章算術均輸章を全く理解していない。彼らへの反論になって無く、無駄な抵抗をしているだけとしか映らない。
九章算術の解説書等は出版されているので、一読ください。
0156日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 07:03:17.45
>>155
「間違えている」と言い張るだけで
理由を一言も言えないなら
九章算術均輸章を全く理解していないのは貴方ですよ
無駄な抵抗は諦めた方が良い
0157日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 07:04:06.90
>>154
行道十日は、均輸では移動日数十日と捉えてください。
   中国古算書研究会 大川俊隆氏他
0158日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 07:17:36.65
>>156
今粟を均輸しようとする。甲県は10000戸で、移動には 8 日。乙県は9500戸で、移動
には10日。丙県は12350戸で、移動には13日。丁県は12200戸で、移動には20日で、各々
運ぶ地点に到る。凡そ 4 県の賦は25万斛を運び、車は10000乗を用いなければならな
い。移動の遠近と戸数の多少で、賦役を比例配分して出そうとする。問う、各県の粟
と車数はいかほどか。
   答えにいう、甲県は83100斛、車3324乗。乙県と丙県は63175斛、車2527乗。丁県は
40550斛、車1622乗。
   術にいう、各県の戸数を各々その元の移動日数で割り、それらを衰とする。甲県の
衰は125、乙・丙県の衰は95、丁県の衰は61となり、これらを別に併せて法とする。次に、
賦の粟の車数をまだ併せていない各々の衰に掛けて、各々を実とする。実を法で割る
と、車数を単位とする答えとなる。分数があれば、上下にこれを配分する。最後に、
25斛を車数に掛けるとそのまま粟数となる。
0159日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 07:22:41.59
>>157
まさにその通り
行道十日・・・行く道十日、道を行くこと十日、(そのまま読めばいいのだ)
0160日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 07:25:46.82
十年一日どころか、百年一日の水掛け論w
0161日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 07:33:04.13
いまだに、「阿波」を認める事ができない意固地の旧説ども。   @阿波
0162日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 07:33:53.72
>>157
それ、「道里」が日数で表記されてるって事実に対する反論じゃないよな?
何が言いたいのだろう
0163日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 07:46:12.62
>>160
>>77
0164日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 07:52:59.32
>>160
水掛け論????
あなたも九章算術を理解してないのですか?
スレ主の明らかな間違いなのは明白ですよ。
0165日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 07:53:41.64
>>164
何が間違いなの?
0166日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 08:02:01.87
>>163
まさにそれ。
「作大冢〜大きな墓を作る」じゃなく、「大作冢〜大いに墓を作る(意味不明w=陳寿の苦肉の策)」という不自然な記述がポイント
0167日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 08:06:23.00
キナイコシ今日も一手詰めだなwww
抵抗しても無駄だよ、あまえの頭脳を嘆け

それより、テンプレ2000里だけまだ魏里を使ってるな
おバカさんwww
0168日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 08:06:39.68
>>166
魏帝陵より大きい箸墓なら魏使は間違いなく「作大冢」と書いたはず
笑っちゃうほど小さい祇園山古墳だったから「大作(小)冢」とした陳寿の忖度が嬉しいw
0169日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 08:17:53.71
というわけで、誤説をまとめると、

−邪馬台国と狗奴国(さらに熊襲)の混同…熊本説(白鳥庫吉、森村伊作)

−邪馬台国とヤマト王権の遡上混同…「畿内」説
0170日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 08:24:04.16
トンデモ説必死の誤魔化しが始まったぞ
0171日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 08:29:51.81
>>80 伊作に教えてあげれば良かったのに…
0172日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 08:30:25.27
大の意味:
状態や程度を表す語に付いて、そのさまがはなはだしい意を表す。
「大世界」「大事業」「大作」「大作家」「大局観」「大好き」「大混乱」「大失敗」「大の大人」「大の仲良し」
0173日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 08:38:20.09
>>169
>−邪馬台国と狗奴国(さらに熊襲)の混同…熊本説(白鳥庫吉、森村伊作)

狗奴国は熊本の南半分の球磨郡と鹿児島の曽於郡(球磨‘曽於)だよ〜ん、
そして、北半分の熊本平野が邪馬台国で、東方の日向が投馬国。その中間の高千穂に女王の都する所。
白鳥や伊作は大正解。
0174日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 08:45:09.85
>>80 安本美典先生を囲む卑弥呼会のお姐様、おはようございますw
>>98 古田史学の会のお兄様、おはようございますw
本日もよろしくお願いいたしますw
0175日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 08:47:42.43
>>165
おまえの頭
0176日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 08:52:39.36
今城塚古墳に眠る治天下大王の、ピンクの石棺は、なぜ遠路はるばる運ばれてきたのだろう。。。
0177日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 09:46:31.31
>>167
>それより、テンプレ2000里だけまだ魏里を使ってるな

嘘ばかりついてる九州説はもう信用ゼロだ
0178日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 10:01:57.31
>>80
>では、狗奴国が熊本か鹿児島かだが、邪馬台国七万戸を統治する倭女王をして、魏帝に援軍 要請させるほど窮地に陥れる国の軍事力を考えると、

よく読んでみろ
その前々年の 軍旗(黄巾童) の仮授を受けて、単に状況説明しただけだ。
どうせ「狗奴国ごときは、この旗で追っ払え」とでも言われたのだろう。援軍要請などしておらぬ。
0179日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 10:31:43.09
>>137
>頭が固いな、行道八里とか行道十里の場合、
>上りでも下りでも八里は八里のまま、十里は十里のままで変化することはない。だからこれは「◎道里(=里数)」そのものである。

本当に頭悪いなww ただの思い付きは反論じゃないんだよw

頭が固いかどうかとか言ってる時点で論外
九章算術は算術書で計算の問題集!

頭柔らかく考える必要などさらさらなく、
書いてある通りの道里の数字、行道八日、行道十日を使って計算するだけ

お前の言い方に合わせて説明すると、上り坂だろうが下り坂だろうが
行道十日の道里はかわらないのだから、この道里の数字を使って
遠近を考えて計算するだけ

>「道里遠近=行道〇日」

まだ言ってるw
「道里=行動○日」で、丸のところの数字が大きいか小さいかが「遠近」だよ

いつまでも小学生以下の書き込みしていてよく恥ずかしくならないなww

一旦、畿内説への反論しなきゃ、というバカな動機を外して謙虚に読んでみな
自分がどれだかバカなことを書き続けているか、愕然とするぞ?ww
0180日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 10:33:15.98
>>139
>> しかしzarakokuは無教養でダメ//
>  中身が宝賀寿男なんだから、当たり前でしょ。

これはさすがに宝賀寿男氏に対する名誉棄損だよ
宝賀寿男氏の文章を読んだことがあるけど、
ザラコクと同一視される筋合いはない人だよ
0181日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 10:36:34.48
>>143
>宝賀寿男って言うのか。 何屋なんだ?

宝賀寿男氏は、古代系図の在野の研究者だよ
「記紀は正しい」論者で、邪馬台国論争的には北部九州説
祇園山古墳が卑弥呼の墓とか言ってる人

この祇園山古墳=卑弥呼の墓説をザラコクが採用しているから
ちょっと気の毒な人

あと、畿内大古墳の自分なりの比定者を出していて、
皇后墓も大古墳だという考えの人
0182日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 10:39:32.37
>>147
>日数は労働日数です。

だったら、この部分「欲以道里遠近,戶數多少,衰出之。」が
欲以「賦役多寡」,戶數多少,衰出之。にならないといけないって分からないかな?

行道八日が、道里遠近の計算に使う数字なんだから、行道八日が道里なのが道理だよ
無理は通らないし、道理が引っ込むこともない
0183日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 10:41:54.74
>>152
>日数では距離が出ない例を、彼は提示しているのもわからないのですか?

距離=道里ではない
日数で道里は書ける

日数を距離に換算する必要はなく、
与えられている「道理を示す数値」=「行道八日」等を使って
道理の遠近を計算すればよいだけ

バカがいくら頑張っても無駄ww
0184日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 10:47:54.95
>>157
>行道十日は、均輸では移動日数十日と捉えてください。

それがどうかしたか?

単に、日本人読者に分かりやすいように意訳しただけで
その行道十日(移動日数十日)が道里の計算に使う道里そのものの数字なのは、
何も変わらないぞ?
0185日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 10:50:12.21
>>158
>移動の遠近と戸数の多少で、

これが、道里遠近戸数多少の訳だな
道里が移動と訳してある

まあ、これは意訳だけれど「道里=里数(距離)」なんてことはない訳だ
0186日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 11:14:54.84
何が間違いなのかと聞かれて黙っちゃう>>164の知能程度が知れ渡る
0187日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 12:00:48.39
つまり、韓国人の奥山氏が宣伝してきた邪馬台国畿内説は、完全に破綻してしまったのだね。
0188longinus_bouz ◆bq94Vh60JQ 垢版2021/09/28(火) 12:03:25.46
>>77 > 30年前の魏使の報告書「径百尺(25m)」を見た陳寿は//
  張政は、径100歩の墳墓である箸墓が、当時において唯一の規模だったので、
卑弥呼墓を同定するID情報として、見たままに記載したんだよ。
箸墓が卑弥呼墓である事は、確定事項なんだよ。

日本書紀の編者とても、径100歩の箸墓が卑弥呼墓である事を知っていた。
以下は、ヌー速に立った関連スレからだがね。

でっち上げた、まがい物の女王である神功皇后の墓って、五社神古墳だよな。
張政の来た時の径100歩の墳墓は箸墓だけで、箸墓が卑弥呼墓であるのは確定事項なんだが、
その後には、より大規模な古墳も築造されている。
日本書紀はご丁寧にさ、同規模の古墳を、まがい物女王に振り分けたんだよ。
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1632219683/108

むろん、日本書紀の編者は、箸墓と五社神古墳が径100歩の塚に該当すると認識してたのだから、
距離の一里の定義は、キッチリと500mなのであり、短里なぞ存在しない。

> 当時の倭国はすでに古墳時代に突入し、王墓だけはやたらと長大という情報を、
官僚だけに読み知っていた//
  3世紀末であっても、大規模古墳なんてたいして無いだろ。
それにさ、正始8年のトヨたんによる断交で、魏も晋も、邪馬台国への興味は失ってるんだよ。
魏志倭人伝の最後のこのクダリは、トヨたんが魏に手切れ金を突き付けたという事だ。
「 壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人 送政等還 因詣臺
獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雜錦二十匹 」

> 「径百歩」の誤りであろう。ついでに「以+【大】作冢」と補足しておこう//
  それはオ〆の妄想にしか過ぎない。

> 行き止まりの枝葉を必死に追いかける枝葉末節な論争が継続中w//
  オ〆の八゛力げた妄想も、その部分集合にしか過ぎない。
祇園山については、>>92記載の通りで、廃棄墓にできた集団墓地ってだけ。
0189日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 12:03:28.62
>>187
貴方は、久しぶりに、真実を発表するために、嘘に塗れたテンプレートが貼り付けられている5ちゃんねるのスレッドに出現し、投稿に成功したな。
0190コテ略垢版2021/09/28(火) 12:09:44.22
>>180
> 宝賀寿男氏の文章を読んだことがあるけど、ザラコクと同一視される筋合いはない人だよ//
  どっちも九州王朝国なんてヨタに引っ掛かるノー夕リソにしか過ぎん。
粘着なところもマルで同じ、って、オ〆は文章を読んで、気付かないのかね。
というより、自分で文章を書いてて、気付きもせん訳だ。

> 名誉棄損だよ//
  そういうね、八゛力の癖して批判は許さんなんて態度だからさ、
宝賀寿男、オ〆はタヒ沼で八゛力が治らんのだ。

>>187
  オ〆の膿味噌は完全破綻だな。奥山というヒトの事は知らんがね。
0191日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 12:10:49.99
>>188
>箸墓が卑弥呼墓である事は、確定事項なんだよ。

所在が分かる大王墓だと論証された、近世の天皇陵で、
平地のくそ最悪最底辺地ズボズボ沼地に盛り土した古墳など一切存在しない。
よって、平地のくそ最悪最底辺地ズボズボ沼地に盛り土した「前方後円墳」は、大王の陵墓では有り得ない。   @阿波
0192日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 12:22:14.21
>>77 なるほど
0193日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 12:28:17.29
>>190
>  どっちも九州王朝国なんてヨタに引っ掛かるノー夕リソにしか過ぎん。

どの説を支持するかってことと、その人の人格は分けて考えないと

ザラコクはyahoo掲示板ですら出禁をくらう人格破綻者で
宝賀寿男氏は著書を世に問うことができるだけの社会性をちゃんと持ってる

それを一緒くたにするようなことをすると、>>190の方が人格障害扱いされるし
言っていることの信ぴょう性もその程度と思われることになる
0194日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 12:31:08.68
>>166
>>168
う〜ん…なるほど
0195日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 12:59:29.76
>>177
「南→東」や「卑弥呼の冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國中心は北部九州」の否定などの、
嘘ばかりついてる大和説学者らは、
もう信用ゼロだ
0196日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 13:12:07.93
>>195
ほら、人格が疑われる発言
0197日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 13:21:50.14
>>181
>宝賀寿男氏は、古代系図の在野の研究者だよ

宝賀さんは、弁護士の筈だよ。
0198コテ略垢版2021/09/28(火) 13:34:08.06
>>193 > どの説を支持するかってことと、その人の人格は分けて考えないと//
  九州王朝国なんてヨタ話に引っ掛かるなんてのはね、それが人格なんですよ。
むろん、そんなシロモノを説なんてホザく、オ〆もな、

> 宝賀寿男氏は//
  だからさ、自分に蛆を憑けるなよ、虫 (ナ ラが。

> 人 木各 樟害扱いされるし//
  人 木各 樟害者が、人様を人 木各 樟害呼ばわりするなよな、
身の程を弁えな、工〒公。
0199コテ略垢版2021/09/28(火) 13:38:36.05
>>195 > 嘘ばかりついてる大和説学者らは、もう信用ゼロだ //
>>196 > ほら、人格が疑われる発言//

態々分けて書くには及ぶまい、工〒公。
0200日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 13:44:24.91
>>193
>ザラコクはyahoo掲示板ですら出禁をくらう人格破綻者で

おや?、有難う。
何せ、Yahoo掲示板の管理かか潰れ、それが潰れた後のtextreamの管理者も潰れ、
2chの管理者も潰れて5chになっているが、
私は、合計4か所の掲示板の管理人から、全てで「一杯出禁を喰らった」位だから、
私の「南≠東」や「卑弥呼の冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國中心は北部九州」などの、
史料事実やそれからの帰納的高確率的な推論で得られる史料実態は、
Yahooやtextreamや2chや5chの、全ての管理者にとっては、
どうしても拒否し切れなかったんだ、という事を示しているようでですね。

>宝賀寿男氏は著書を世に問うことができるだけの社会性をちゃんと持ってる

賛成です。
0201日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 13:47:38.00
完全に脳みそが恐ろしいウイルスに破壊されてしまった韓国人の奥山氏は、なぜ、コテ略という
キャラクターを、新しく作り上げてしまったのだろうか。
0202日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 13:51:12.54
>>196
ほら、この大和説男も、
Yahooやtextreamや2chや5chなどの管理者らの行動と同じく、
人間性や人格が疑われる投稿
0203日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 13:52:20.63
八村塁氏が、メンタルヘルスに向き合うために、ワシントンウィザーズへの合流を遅らせたのではないのかな。
0205日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 13:57:43.99
>>204
貴方は、良いホームページを紹介したな。
貴方は、このくだらないスレッドに意見を発表するのではなく、
貴方は研究を再開し、ホームページに意見の発表を再開しようとしているな。
0206日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 14:01:24.40
>>205
やはり、貴方には見抜かれましたか。。。
その通りです。
僕達が研究し、発見した物事を、知りたいのならば、ホームページにアプローチしてください。。。

https://renzokukutouten.blogspot.com/
0207日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 14:05:01.33
>>182
まだ、まだ理解不足。
中国の古代数学の本でも買って読みなさい。
0208日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 14:07:22.47
>>182
道里遠近の計算って何?
頭おかしく無いかい?
0209コテ略垢版2021/09/28(火) 14:12:33.96
>>200 > おや?、有難う//
  zarakokuこと宝賀寿男、自分で自分に返事するなよ、
猿芝居しか取柄のない工〒公。
しか取柄がないってさ、何一つ取柄のない人 木各 樟害者って意味だ。

> 私の「南≠東」や「卑弥呼の冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國中心は北部九州」な//

短里なんてシロモノは存在しない。九州王朝国なぞ存在しない。
そんなシロモノをマに受ける、オ〆の膿味噌がバツなんだよ。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1632317099/979

張政が来た時点で、径100歩の墳墓は箸墓しかなかったのだから、
彼は卑弥呼墓を同定するID情報として、態々書いた。
箸墓が卑弥呼墓である事は、確定事項なんだよ。

>>>>200 > おや?、有難う//
  zarakokuこと宝賀寿男、自分で自分に返事するなよ、
猿芝居しか取柄のない工〒公。
しか取柄がないってさ、何一つ取柄のない人 木各 樟害者って意味だ。

> 私の「南≠東」や「卑弥呼の冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國中心は北部九州」な//

短里なんてシロモノは存在しない。九州王朝国なぞ存在しない。
そんなシロモノをマに受ける、オ〆の膿味噌がバツなんだよ。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1632317099/979

張政が来た時点で、径100歩の墳墓は箸墓しかなかったのだから、
彼は卑弥呼墓を同定するID情報として、態々書いた。
箸墓が卑弥呼墓である事は、確定事項なんだよ。
0210日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 14:15:12.48
完全に脳みそが恐ろしいウイルスに破壊されてしまった韓国人の奥山氏は、なぜ、コテ略という、頭の出来栄えが良くなさそうな名前のキャラクターを、新しく作り上げてしまったのだろうか。
0211日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 14:39:11.36
言い張るのは勝手だけど、
誰にも認められて無い事に気づいたら、
賛同者、誰かいるの?
0212日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 15:31:22.78
全く反論できなくなって>>207-208みたいなこと言ってるって
どんなに惨めだか自覚ないのかな
0213日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 16:21:20.55
>>212
論になってないから
反論なんか誰もしねーよ
間違いを指摘してるだけだよ
0214日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 16:25:06.93
>>213
間違いを指摘してるだけ?
どんな間違いを?

そう聞いても答えが無い
間違いがないってことは正しいんでしょ?
0215日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 16:40:27.26
前スレ117のこれと同じ
>計算は明らかな間違いを指摘できる。
>ここでは、単位が揃って無いので計算として成り立たない

間違いダー間違いダーとだけ叫ぶが
「単位が揃って無い」という事実を指摘できない
なぜなら実在しないから
0216日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 16:52:10.15
>>214
確認してよいですか?
===================================
◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!

A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、
投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
==================================
  ↑
確認1
(日数で表記された)・・・これは距離を限定している前文でしょ、主語は距離
よって(日数で表記されたという限定された狭義の距離)=(道里)ということでいいよね。
確認2
 Qでは里数が書いてないと投げかけてますね。 あなたのAで里数は解答していませんね。
確認3
 Aの>>投馬国は「戸数道里」の「略載」された>>
 戸数道里は「戸数と道里」?もしくは違う意味ですか?
0217日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 17:04:05.97
>>183
>距離=道里ではない
日数で道里は書ける

日数を距離に換算する必要はなく、
与えられている「道理を示す数値」=「行道八日」等を使って
道理の遠近を計算すればよいだけ<

????道里の遠近の計算する数式は?
単に日数が多いほど距離は延びるということ?
例えば水行20日のほうが水行10日より遠いといってるだけ?
FAQ78のQは里数が書いてないとの質問で、遠近なんて聞いていないし
0218日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 17:08:32.84
>>215
彼が正しいよ
まだ理解できないで、2千里だけ魏里で解説しちゃダメダメ
0219日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 17:10:59.40
>>214
おまえの頭脳が究極の間違い
0220日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 17:12:59.26
>>216
>確認してよいですか?

俺の意見を聞いてるの?
0221日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 17:13:23.85
■結論
3世紀頃の半島南部が投馬国、対馬海峡〜北部九州一帯が邪馬臺国
図:https://i.imgur.com/r68VjFt.png

■魏志韓伝より
「韓在帯方之南 東西以海為限南與倭接 方可四千里〜」
・韓国はソウルの南に有る4000里四方の国で、東西は海に面し南は倭と接する

■魏志倭人伝より
@女王国以北(女王国北部)は距離や戸数まで確認できた(対馬〜邪馬台国)
A@以外は遠いので国名のみ紹介(次有斯馬・次有已百支・次有伊邪〜)
B南には敵対する狗奴国がある
C東には海があり、その先にまた倭種の国がある

よって卑弥呼が居た都とは、女王国の南端と考えられる

水行行程の部分は朝貢に来た倭人の説明を書き写したものであり、その始点は帯方郡である
図:https://i.imgur.com/r68VjFt.png
この道のりが12000里

■参考文献
・倭人は里を知らず日を使って距離をしめした(隋書)
・伊都国の又南至る邪馬薹国(翰苑 広志逸文)
0222日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 17:14:58.83
>>218
>彼が正しいよ

正しいと思うなら
「単位が揃って無い」という事実を見つけてきて
できなければ、彼は正しくない
0223日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 17:28:52.55
>>199
なんでコテつけだしたのかな??
そこまでやるならIDつけたほうがよいよ
0224日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 17:29:54.38
>>183
>Aの>>投馬国は「戸数・道・里」の「略載」された国か?

そもそも倭人伝では、「以北の国は戸数と道と里を書いた」といっている。
(注:ここで道とは、東南の道、東の道、南の道のように方角を付して行くべき道を特定すること)
つまり、「戸の数、方角付の道、里」の三点セットで書いたといっているのであるから、里の無い投馬国は明らかに以北ではない。
簡単至極のバカチョン文章なのだが、これが理解納得できない畿内説はバカチョン未満の落ちこぼれ。
0225日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 17:30:40.56
>>185
その通り 奥山がアホなだけ
0226日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 17:32:25.64
>>224
>そもそも倭人伝では、「以北の国は戸数と道と里を書いた」といっている。

言ってないし
0227日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 17:32:47.18
>>184
>行道十日(移動日数十日)が道里の計算に使う道里そのものの数字なのは、
何も変わらないぞ?<
最後の?は何、悩みだしたなら良い兆候です
0228日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 17:36:54.80
>>222
簡単だよ、
あなたが2千里を出した計算式をキロでメートルでもいいから換算すれば良いだけ
2千里は倭人伝に記述無いから計算した数値なんだろ
0229日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 17:56:53.91
>>221
投馬国が女王国に属さないから
狗奴国に鉄を供給できるてことか?

狗奴国にも邪馬臺国にも供給
死の商人だな。
0230日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 17:58:48.93
>>226
もう一つのそもそもの問題として、
「南至る邪馬台国女王之所都」以前に登場した7つの国々が全て以北にあったのであれば、
「自女王国以北はその戸数道里略載」の文言は挿入の必要性が無い。ただの無駄文。
にもかかわらず書かれているということは、何かの意味があるからで、
それは7国のうちに以北でない国が有ったからではないか・・、とピンと来なくてはね。
0231日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 18:01:08.22
>>222
あなたは
1万2千里ー1万里=2千里の計算式で
2千里という答えが出たのでしょ。・・・別の方法があれば示してください
あなたはその答えの2千里を魏里を使いメートルで「単位変換」したのでしょ
   ・・・単位変換はわかりますよね
答えだけ単位変換すると、あなたの根本となる数式が成り立たなくなります。
全ての里を魏里でメートルに単位変換する必要があります。
すると郡から北部九州まで一万里=魏里で単位変換=4千キロとなります
それで良いですか

ここまで言っても理解できないなら、近くの頭の良い小学生か普通の中学生に聞いてください。
0232日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 18:06:19.97
>>220
あなたがFAQ78のQのアンサーおよびアンサーの内容がが正しいと思っているなら
よろしくお願いします
0233日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 18:17:04.40
>>1
姑息なことは止めたほうがいいよ
他説を装う投稿で他説を混乱させようとする手法は止めたほうがよい
イミフの投稿でばれてしまうよ
0234日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 18:24:41.17
>>231
やめといたら
馬鹿の>>1を相手にするのは
馬鹿に何を言っても無駄

馬鹿の作ったテンプレは無視でよいのだ
?が投稿してただろ。馬鹿が作ったテンプレは読まない?って
0235日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 18:30:23.78
>>197
>宝賀さんは、弁護士の筈だよ。

古代史に関しては、趣味が高じてというパターンの在野の研究者
で、専門分野が古系図

ただ、古系図の研究ってのが鵺のようなもので、宝賀氏自身が、
同名異人や異名同人がいるので注意が必要と書いていて、
何をもって同名異人と判断するのか、逆に異名同人と判断するのか、
かなり恣意的に決めている部分もあるような、、、ってところで
プロの研究者が手を出さない分野ってこともある
0236日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 18:35:09.12
>>1
スレ主=キナイコシ=奥山

テメーが

名無し投稿する理由がわかった

糞テンプレを擁護するためだな

それもクダラン駄弁と無能な投稿で
0237日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 18:35:18.11
>>208
>道里遠近の計算って何?
>頭おかしく無いかい?

ああ、バカの相手は疲れる

道里の遠近を使って比例計算するんだよ
まあ、比例計算と言ってもごく初歩の、
道里一単位当たりの戸数を出すってだけだけどな

令縣戶數,各如其本行道日數而一,以為衰
これが読めれば、何も問題ないって分かるだろうに

書き下し文というか現代語訳は>>158に誰かが書いてくれてるよ
0238日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 18:37:33.78
>>1
スレ主=キナイコシ=奥山

テメーが

名無し投稿する理由がわかった

糞テンプレを擁護するためだな

それもクダラン駄弁と無能な投稿で
0239日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 18:40:51.38
>>217
>FAQ78のQは里数が書いてないとの質問で、遠近なんて聞いていないし

日本語が読めないなら無理するなよww

FAQ78のQは
「里数が書いてないから、投馬国に水行二十日と書いてあるのは道里じゃない」って
言ってるんだよ

で、Aで九章算術という同時代の実例を出して、
「行道十日という形で道里が示されている」ことを論証している訳だ

Qの
「里数が書いてないから、水行二十日は道里じゃない」というのが、
完全に否定されているというだけ
0240日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 18:51:16.95
>>215
お前のせいで前スレ117見たぞ
これが117の主張だろ

102日本@名無史さん2021/09/23(木) 09:01:38.11
テンプレ>>51
>「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。 <

これさ、何で残りの2,000里だけ1魏里432mを用いるのかな
九州本島到着までに萬餘里相当も同じにしないと整合性が取れない。
すると九州まで432メートル✖1万里=4千320キロ、、そんな馬鹿な

そして117
117日本@名無史さん2021/09/23(木) 10:01:58.44>>124>>127

すまん
計算の仕方と言い訳とは違う。
計算は明らかな間違いを指摘できる。
ここでは、単位が揃って無いので計算として成り立たない

117が正しい
0241日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 18:59:52.00
>>216
何の確認にもなっていない
バカの相手は疲れる

>確認1
>(日数で表記された)・・・これは距離を限定している前文でしょ、主語は距離

いいえ、距離の限定ではないよ
「日数で表記された(もの)」と「距離」が同格
本来は「日数で表記された道里」なんだけど、今道里という言葉が問題にされているから
そこを距離という書き方をしているだけ

>よって(日数で表記されたという限定された狭義の距離)=(道里)ということでいいよね。

ダメだよ
(狭義の距離)などというものは最初から最後まで存在しない
「日数で表記された道里」=「道里」なんだけど、そう書くと訳が分からないと
言い出す人がいるから「日数で表記された距離」という書き方になっている

まあ、「歩いて五分の距離」という言い方は普通にあるので、
「水行で二十日の距離」=「日数で表記された距離」で元々何も問題はないのだけれど

>確認2
> Qでは里数が書いてないと投げかけてますね。 あなたのAで里数は解答していませんね。

これが、お前さんの日本語が理解できてないだろ?っていう点
何度も書いてるだろ?

このQは「里数が書いてないから道里じゃない」だ
これに対するAは「道里は日数で書けるから水行二十日は道里」となるのが当然
0242日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 19:00:22.28
>>216
>確認3
> Aの>>投馬国は「戸数道里」の「略載」された>>
> 戸数道里は「戸数と道里」?もしくは違う意味ですか?

こんなものは確認するまでもないだろう
「始度一海千餘里」對馬國(有千餘戶)
「又南渡一海千餘里名曰瀚海」一大國(有三千許家)
「又渡一海千餘里」末盧國(有四千餘戶)
「東南陸行五百里」伊都國(有千餘戶)
「東南至」奴國「百里」(有二萬餘戶)
「東行至」不彌國「百里」(有千餘家)
「南至」投馬國「水行二十日」(可五萬餘戶)
「南至」邪馬壹國「水行十日陸行一月」(可七萬餘戶)

「道里」と(戸数)がここまで略載してあるだろ
で、この後に
自女王國以北、其戶數道里可得略載。其餘旁國遠絕、不可得詳。
があって、この後国名だけの羅列になるんだから、九章算術なしでも
投馬国、邪馬台国には「水行二十日」「水行十日陸行一月」と
道里が略載されているのは、まともな読解力がある人には自明のことだ
0243日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 19:02:17.68
>>188
>箸墓が卑弥呼墓であるのは確定事項なんだが



どこで確定したのですか?
0244日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 19:04:38.45
>>225
>その通り 奥山がアホなだけ

いや、アホは>>225だぞ?

引用の>>185
「まあ、これは意訳だけれど「道里=里数(距離)」なんてことはない訳だ」

道里は里数(距離)ではない、って書いてあるのにww
テンプレにある通り道里は里数を意味する訳ではなく、日数でも書けるっていうのに
>>225は同意している訳だww

それで納得したなら「テンプレの通りで正しい」で終わりだなww
0245日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 19:06:47.40
>>227
>最後の?は何、悩みだしたなら良い兆候です

最後の?は、
「何も変わらないぞ(そんなことも分からないのか)?」
の?だよ

日本語が不自由な人には、そういうニュアンスは読み取れないんだねww
0246日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 19:10:18.39
>>230
>「自女王国以北はその戸数道里略載」の文言は挿入の必要性が無い。ただの無駄文。

読解力のない人はこんな読み方をするんだ びっくり!

自女王國以北、其戶數道里可得略載。其餘旁國遠絕、不可得詳。までがセット

ここまで略載してきた、ここからは略載すらできない、
その境目が女王国以北かどうか、ということを示す説明文だよ
以下の国名だけの羅列に入ることの導入の部分

これが無駄文とか、本当に、文章というものがそもそも読めない人なんだな
0247日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 19:16:25.03
>>237

>>158は私の投稿だが、私の投稿に振らないでくれるかな
道里の遠近を使って比例計算なんて読み取れないですよ。

また、>道里一単位当たりの戸数を出す<
???????

申し訳ないが現代語訳でそこまでは・・・・・
0248日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 19:23:11.96
>>245
お前はアホか、あいつの罠にまんまと引っ掛かったな
次に来るのを予想できないのか?
0249日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 19:23:40.21
>>247
>また、>道里一単位当たりの戸数を出す<
>申し訳ないが現代語訳でそこまでは・・・・・

現代語訳で「各県の戸数を各々その元の移動日数で割り、それらを衰とする。」
「もとの移動日数で割り」というのが、「道里一単位(行道1日)当たり」にするってこと

「そうやって出した値=衰」を使って、車の数を比例計算(案分)するんだよ
0250日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 19:25:27.55
>>219
おっしゃる通り 爆笑した

219日本@名無史さん2021/09/28(火) 17:10:59.40
>>214
おまえの頭脳が究極の間違い
0251日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 19:29:23.29
>>204
面白いね
お遊びかもしれませんが内容は良いですね
0252日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 19:36:01.73
>>247
>>158は私の投稿だが、私の投稿に振らないでくれるかな

道里を里数とも距離とも訳してないのは確認できるよね?

道里は「里で書いた距離でなきゃいけない」なんてことはないのが確認できる
0253日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 19:41:25.04
>>228
>>正しいと思うなら
>>「単位が揃って無い」という事実を見つけてきて
>>できなければ、彼は正しくない

>簡単だよ、
>あなたが2千里を出した計算式をキロでメートルでもいいから換算すれば良いだけ
>2千里は倭人伝に記述無いから計算した数値なんだろ

で?
「単位が揃って無い」という事実は何処にあった?
なかったんだろ?
つまり前スレ117つまり、彼は正しくない
テンプレが正しかったわけだ
0254日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 19:47:10.05
>>240
>117が正しい

どうして?
理由も言わずに言い張るの?
テンプレは「単位が揃って無い」計算などしてないだろ?
だから

>計算は明らかな間違いを指摘できる。
>ここでは、単位が揃って無いので計算として成り立たない

なんて言ってる117は間違ってるじゃないか
頭、大丈夫ですか?
0255日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 20:04:26.18
>>241
ありがとうございます。
引っ掛かる点がありますので考えてみます

>「日数で表記された(もの)」と「距離」が同格
「日数で表記された道里」=「道里」<
・・・イコールだと「道里」=「日数で表記された道里」???日数がないと道里は表記できない???

>「歩いて五分の距離」という言い方は普通にあるので、「水行で二十日の距離<
・・・・歩く これは平坦な道で普通時速4キロ程度は普通ですが、当時の水行一日は何キロぐらいですか

>「道里は日数で書けるから水行二十日は道里」となるのが当然<
・・・・ここが一番わかりません。日数=距離(里数)では無いのはわかりますが
0256日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 20:17:59.18
>>244
テンプレでそこまでは言及していない
0257日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 20:20:32.92
>>256
そこまでって、どこまで?
0258日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 20:21:12.59
>>239
あなたは漢文が読めないですね。
漢文の訳文解説書も出てますよ
0259日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 20:22:46.75
>>216
ストレートに奥山のアホでいいのに、ご苦労様
0260日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 20:25:57.35
>>215
あんたの計算式を出したら済むだけの話じゃん
どちらが正しいか知らんけど
あんたの計算式をみてから決めるよ
0261日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 20:31:23.83
>>257
>道里は里数(距離)ではない
0262日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 20:37:56.25
邪馬台国は、奈良でほぼ確定でしょう?
九州じゃ〜〜〜〜〜〜〜〜〜7万戸なんて人口を食わせるだけの農地はない
1万2千里は、伊都国までの距離
投馬国(岡山)、邪馬台国(奈良)には魏使節は行っていない(^^)
だって、サラリーマン官僚が、命がけの冒険などするはずがない
伊都国に着いて、任務を果たしたら、さっさと帰る
それが中国人官僚ってものだ
0263日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 20:45:46.14
>>246
南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月 (〜官略) 可七萬餘戸、
(自女王國以北 其戸數道里 可得略載)、 其餘旁國 遠絶不可得詳、 次有斯馬國〜

(自女王國以北 其戸數道里 可得略載)・・・
ここまでに出たすべての国は「戸数道里」が略記載されてること自明なので、
これらが全部女王国以北にあったのなら、この()内は省略して全く差し支え無し
0264日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 20:45:57.29
>>1はじめ
九章算術云々や魏里云々の畿内説の面汚しは去ってくれよ
畿内説が指示される立ち位置を今一度考えてくれよ
文献や物証でも畿内説が勝ってるよ
だから畿内説支持の学者も多い
畿内説を誤解させるような投稿はするな
0265日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 20:47:55.56
>>260
>あんたの計算式を出したら済むだけの話じゃん

ほら逃げ出したw
「あんたの計算式」とか関係ないだろ
こっちは存在しないと言ってるんだから
テンプレに「単位が揃って無い」と嘘のイチャモンをつけて
テンプレには「単位が揃って無い」計算式などないものだから逃げまくってる
詐欺そのものだよ
0266日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 20:48:54.60
>>264
>畿内説を誤解させるような投稿はするな

どんな誤解?
0267日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 20:52:11.50
>>241
>「歩いて五分の距離」という言い方は普通にあるので、「水行で二十日の距離<

「歩いて五分の距離」という言い方は普通にあるからそれでよい、ということではない。
九章算術でいくら良くても、陳寿が云うのは「歩いて五里の距離」という言い方でなければだめだということなのだ。、
0268日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 21:09:37.03
なぜ、奈良なのか?

重要なのは、方位ではなく、距離
方位については、北九州出向後、まず九州海岸沿いに南下し進んだので、「南」と表示された
これは、スエズ運河開通前、欧州からインドに行くのに喜望峰を回ったのと同じ理屈です

水行20日・・・・手漕船で1日15〜20キロ進むとして350キロ
北九州から350キロといえば、岡山付近が「投馬国」最有力地
その中でも、吉井川を遡った「津山盆地」が濃厚
ここには、養老年間に「苫田郡=とまた」があり、投馬(とま)国と近い


水行10日・・・・同様に250キロで奈良
岡山ー奈良間は、陸路(獣道程度)もあり、この場合は30日

これで、奈良に邪馬台国があっても、倭人伝記述との整合性もある程度取れている
0269日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 21:12:48.86
>>262
畿内で7万戸なんて人口を食わせるだけの
農地があるということを立証してからじゃねーの
0270日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 21:19:20.25
>>268
陸行一月が抜けてるのですが・・・・・ヨロシク
0271日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 21:31:19.43
>>270
30日=1ヶ月
0272日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 21:37:43.18
>>269
7万戸=4人*7万=28万人
年間150kgコメを食べるとすると、必要量は28万*0.15t=42000t
現在の奈良県のコメ生産量は4万t
当時の単位収量は少なかったので3万トンくらいでしょう
ま〜足りない分は、雑穀でカバーします
0273日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 21:38:48.32
>>268
以前奥山が郡から釜山まで、沿岸航路だから寄港地も多いから
7千里とか言ってたぞ。一日15から20キロなら、何日かかるんだ
0274日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 21:40:35.69
>>270
当時の筑後平野は有明海の底ですので、3万トンは収穫できません
九州で可能性があるのは、熊本・菊池・阿蘇付近です
0275日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 21:44:52.12
>>273

77m*7000里=540キロ
手漕ぎで40日、帆船なら、風向きしだいですけど、順風で半月ぐらいじゃないですかね?
0276日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 21:47:29.83
>>273
いずれにしろ、投馬国、邪馬台国、この二大国家は・・・北九州のせせこましいところにはありません
あるなら、魏の測量チームが測量して里程表示しているはずです
0277日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 21:47:31.71
>>249
それでよいよ、道里一単位を行道1日と仮定してもよいよ
仮定だけどね
それと、faq78の水行20日との因果関係は?
0278日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 21:48:58.83
>>188
>箸墓が卑弥呼墓であるのは確定事項なんだが



どこで確定したのですか?
0279日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 21:56:36.10
>>236
5ちゃんだよ 奥山の低脳を責めてもいいけどさー
投稿者も限られてるし、このスレ見てる奴なんてほとんどいないよ。
奥山と対峙して優越感を感ずるだけでいいよ。
他に何をこのスレで望んでるの
なんでもありの5ちゃんだよ、
楽しく奥山の低脳と遊べばいいよ
奥山も低脳ぶって楽しんでるよ。だから奥山も尋常でない投稿をしてるんだよ。
0280日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 21:58:56.56
卑弥呼は、邪馬台国連合(北九州〜瀬戸内〜奈良)と狗奴国(球磨地方に比定)との戦勝祈願のために、奈良から宇佐に来ていた
そして、そこで、死んだ(><)
取りあえず、宇佐に径100歩の塚を作って仮埋葬し、喪が明けてから、三輪山麓の箸墓古墳に埋葬した
これは・・・徳川家康が久能山から日光山に改葬されたのと同じ理屈です
宇佐の仮埋葬地が宇佐八幡となった

これで、埋葬地問題も解決です(^^)
0281日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 21:59:50.73
>>231
おーーー
単位変換、、
懐かしいな習ったな

すれ違い、ゴメンくさい
0282日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 22:02:56.08
>>267
>九章算術でいくら良くても、陳寿が云うのは「歩いて五里の距離」という言い方でなければだめだということなのだ。、

どうしてダメ?
ダメだダメだとゴネるだけ?

赤ちゃんですか?
0283日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 22:07:49.75
>>254
あんたも気がついていない
>>1の被害者だよあんたは
0284日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 22:09:36.04
>>268
>ここには、養老年間に「苫田郡=とまた」があり、投馬(とま)国と近い

で、そこに「投馬国」5万戸の集落遺跡があるのか?  わははははは   @阿波
0285日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 22:15:33.50
>>284

江戸時代津山藩の石高が18万5千石
1石=1人が年間に食べるコメですので、18万5千人を食わせる農地がありますので、投馬国5万戸=20万人は、可能です
また、津山までは昭和初期まで水運で瀬戸内海と通じていました
0286日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 22:17:27.29
>>284
吉井川流域〜津山盆地が「投馬国」

大和川流域〜奈良盆地が「邪馬台国」

食料生産面からみて、ほぼ間違いないでしょう
0287日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 22:19:04.65
>>285
「卑彌呼」の時代を頼む。   @阿波
0288日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 22:19:12.44
>>1
テンプレ久々に読んだよ
どこかで歯車が狂ったようだ
自論もいいが、隙間だらけはアカン
0289日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 22:20:23.70
>>286
だから、「投馬国」5万戸の集落遺跡を頼む。   @阿波
0290日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 22:20:44.12
ここのスレのひと詳しそうだから教えてください
奴国って魏志倭人伝の文中に2回出てくるよね
旅程の中の伊都国の次と女王国の境界の直前

これらは原文では違う漢字で書かれているんでしょうか?
あるいはこれらは同じ国だと解釈するべき?
斯馬国と邪馬国と邪馬壹国みたいにぱっと見で似ているのはあるけど
活字にしたときに同じになる国名は奴国だけのような
0291日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 22:21:52.00
>>286
>大和川流域〜奈良盆地が「邪馬台国」

だから、「邪馬臺国」七万戸の集落遺跡を頼む。   @阿波
0292日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 22:27:21.69
>>291
私の書いたことに納得出来ないなら、それはそれでかまいませんけど?(^^)
0293日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 22:29:22.27
>>292
>私の書いたことに納得出来ないなら

納得するから、「邪馬臺国」七万戸の集落遺跡を頼む。   @阿波
0294日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 22:32:21.97
>>291
奈良盆地も、津山盆地も、水田面積は弥生時代と大差ありません
なぜなら、
ザ・盆地だからです
現在のような治水土木がほとんどない弥生時代、水害のすくない盆地がコメ生産に最も適していたからです
また、盆地は防衛上も好都合です
だから国家は・・・巨大盆地に誕生しました
0295日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 22:33:17.45
>>293

納得したなら、それでいいではないですか?(^^)

発掘はあとのお楽しみにとっておきましょう
0296日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 22:35:30.86
>>294
>だから国家は・・・巨大盆地に誕生しました

なるほど。  だから、「投馬国」5万戸の集落遺跡を頼む。   @阿波
0297日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 22:36:50.17
>>295
>納得したなら、

してないよ。  納得するから、「邪馬臺国」七万戸の集落遺跡を頼む。   @阿波
0298日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 22:38:27.75
>>296

遺跡というのは、「放棄」されたから遺跡なのです
古代から連綿と人の営みが営まれている土地には遺跡ができることは少ない

吉野ヶ里だって戦いに負けたから放棄され、遺跡となった

ま〜邪馬台国や投馬国は・・・ローマみたいなものです
0299日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 22:40:07.26
>>297

納得出来ないなら、無理して納得していただかなくても結構ですよ(^^)
0300日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 22:41:48.20
>>283
>あんたも気がついていない

何に?
君の言うことは内容がなさすぎだ
0301日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 22:41:59.61
>>297

卑弥呼は、邪馬台国連合(北九州〜瀬戸内〜奈良)と狗奴国(球磨地方に比定)との戦勝祈願のために、奈良から宇佐に来ていた
そして、そこで、死んだ(><)
取りあえず、宇佐に径100歩の塚を作って仮埋葬し、喪が明けてから、三輪山麓の箸墓古墳に埋葬した
これは・・・徳川家康が久能山から日光山に改葬されたのと同じ理屈です
宇佐の仮埋葬地が宇佐八幡となった

これで、埋葬地問題も解決です(^^)
0302日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 22:42:21.37
>>298
>古代から連綿と人の営みが営まれている土地には遺跡ができることは少ない

「阿波」の吉野川流域や鮎喰川流域は、古代から連綿と人の営みが営まれていて、遺跡が一ぱい在るんだがw  わははははは   @阿波
0303日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 22:43:11.55
>>1

>邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが

御意(^^)
0304日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 22:48:14.47
>>302
>>302

奈良を開拓したのは、ニギハヤヒと奈良縄文人のナガスネヒコ

徳島と淡路島もその勢力圏内ですね
0305日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 22:50:33.77
>>302

徳島も、大和も水銀朱(辰砂)の産地
水銀朱は高級交易品
この富が、邪馬台国を日本最大の国家にした原動力でしょう
0306日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 22:51:56.71
>>304
>徳島と淡路島もその勢力圏内ですね

「忌部一族(阿波勢力)」のな。   @阿波
0307日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 22:52:59.92
>>305
>徳島も、大和も水銀朱(辰砂)の産地

大和はない。   @阿波
0308日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 22:54:30.73
>>231
>あなたはその答えの2千里を魏里を使いメートルで「単位変換」したのでしょ
>   ・・・単位変換はわかりますよね
>答えだけ単位変換すると、あなたの根本となる数式が成り立たなくなります。

つまり奥山がやった計算が「単位が揃って無い」と言ってたのは
ウソだったってことだよな
やっぱろテンプレFAQ 58が正しいんじゃないか
0309日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 23:31:15.05
>>261
>邪馬台国は、奈良でほぼ確定でしょう?

邪馬台国なんて、存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、バツ。

>九州じゃ〜〜〜〜〜〜〜〜〜7万戸なんて人口を食わせるだけの農地はない

「一戸当たりの住民は、大体1〜5人位(平均3人位)」だから、
7万戸は、7万〜35万(人)になり、食わせるだけの農地はある。

>1万2千里は、伊都国までの距離

邪馬壹國女王之所都までの距離や、女王國までの距離だ、と書かれているから、バツ。
しかし、伊都國の入り口では11900里余り位になるから、
大体、萬二千余里に近い、という事は認める。

>投馬国(岡山)、邪馬台国(奈良)には魏使節は行っていない(^^)
だって、サラリーマン官僚が、命がけの冒険などするはずがない

投馬国=岡山説も、邪馬壹国=奈良説も、
「南≠東」や「卑弥呼の冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國中心は北部九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、バツ。

>伊都国に着いて、任務を果たしたら、さっさと帰る
それが中国人官僚ってものだ

そんな中国人官僚など、いないと思うから、バツ。
0310日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 23:42:59.99
>>266
テメーの誤解
0311日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 23:44:15.24
>>264
>>1はじめ
九章算術云々や魏里云々の畿内説の面汚しは去ってくれよ

賛成。「畿内」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であったから、バツであるし、
「魏里」も、魏の官や民で「1里の長さが不統一」であったから、バツである。
魏朝では、明帝の頃から「魏朝里(周髀算経里)」に統一された。

>畿内説が指示される立ち位置を今一度考えてくれよ
文献や物証でも畿内説が勝ってるよ

いや、大和説は、
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「倭國の位置=正北抵新羅」などの、
史料事実や史料実態に拠って、バツ。

>だから畿内説支持の学者も多い

大和説学者らは、全員、バツ学者。

>畿内説を誤解させるような投稿はするな

畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言など、使うな。
また、人類の常識に反する大和説に賛成するような投稿は、するな。
0312日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 23:47:31.22
>>265
>ほら逃げ出したw「あんたの計算式」とか関係ないだろ
こっちは存在しないと言ってるんだから
テンプレに「単位が揃って無い」と嘘のイチャモンをつけて
テンプレには「単位が揃って無い」計算式などないものだから逃げまくってる
詐欺そのものだよ

「道里」と「日数」は、「=」では全くないから、
スレ主や東大理系博士号自称男らは、バツね。
0313日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 23:50:46.09
>>268の大和説者人種は、
「南≠東」や「卑弥呼の冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、バツね。
0314日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 23:51:09.23
>>265

レスが進みさえすれば良ければ良いのか
引き算ぐらい示してやれよ

なんか問題でも有れば、説明してやれば良い

俺は感知しない。
0315日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 23:51:09.88
>>265

レスが進みさえすれば良ければ良いのか
引き算ぐらい示してやれよ

なんか問題でも有れば、説明してやれば良い

俺は感知しない。
0316日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 23:53:04.07
>>258
>あなたは漢文が読めないですね。
>漢文の訳文解説書も出てますよ

残念ながら、国語も得意でねw
古文も漢文も普通に読めるんだよ

漢文の訳文解説書の添削ができるレベルだ

ここにいる九州説やアンチ畿内説で、まともに漢文の読めるやつがいないだろ
だから、無意味な妄想を書き散らすばかりなんだよ

バカしかいないww
0317日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 23:53:30.15
>>241
あんた詭弁どころじゃ無い、おバカさん
0318日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 23:54:28.95
>>271
はーー
0319日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 23:57:13.00
>>272
奈良盆地かよ、筑紫平野はその何倍と思ってるのか答えてみなさい
0320日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 23:59:25.76
>>256
>テンプレでそこまでは言及していない

テンプレが確認しているのは
「投馬国については戸数と道里が略載されている。

 倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。」

日本語がきちんと読める人間には紛れはないなw
0321日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 00:02:21.05
>>290
何が言いたいの?
後段?
前段は調べたらすぐわかる
0322日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 00:02:25.46
>>261
>>道里は里数(距離)ではない

それは、テンプレに書いてあることじゃなくて
>>158に引用してある現代語訳に書いてあること

そしてそれが、テンプレの論拠そのものになる
0323日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 00:05:03.46
>>276
完璧な阿保
0324日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 00:08:13.36
>>279
納得だが、奥山更生の慈善事業でも良いじゃん
0325日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 00:11:02.18
>>263
>ここまでに出たすべての国は「戸数道里」が略記載されてること自明なので、
>これらが全部女王国以北にあったのなら、この()内は省略して全く差し支え無し

まともに他人に読まれることを前提に文章を書く習慣のある人間なら、
そんな的外れなことは恥ずかしくて書けないぞ!

自女王國以北 其戸數道里 可得略載、 其餘旁國 遠絶不可得詳

この読点の前後が対になって、初めて読みやすい文章になる

前半部分がなかったら、「詳らかに得べからず」が何のことだか分からないだろ?
そして「その餘の旁國」の「その」も意味不明になる

>>263の批判擬きは最初から最後まで的外れ
まあ、もとより内容のないことを苦しまぎれに
思いつきレベルで強弁しているだけだから
意味のないことしか書けないのが当然なんだけどw
0326日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 00:12:33.68
>>317みたいに罵るだけになるのは、論破された人の特徴
0327日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 00:13:30.01
>>267
それは、道里という熟語を理解していないバカしか言わない戯れ言だって!ww
0328日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 00:15:16.68
>>298
違う、放置されていない

奈良の狭い地域で纏向、飛鳥しかり、藤原しかり、 
0329日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 00:17:28.09
>>277
>それと、faq78の水行20日との因果関係は?

何度も書いてるだろ?

行道八日が道里の表現
行道→水行
八日→二十日
対応関係も明確で、行道八日と水行二十日はどちらも普通の道里の表現ってこと
0330日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 00:19:57.70
>>280
>戦勝祈願のために、奈良から宇佐に来ていた

この時点でデタラメ

卑弥呼は限られた人にしか会わない引きこもりの女王なんだから、
宇佐までほいほい出歩いたりしない
0331日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 00:25:56.25
>>316
漢文読めるなら、九章算術ぐらい理解できるはず。
九章算術の訳文と解説が出回っているけど、あなたの漢文の訳と訳と違いがあるのですか
0332日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 00:29:08.81
>>290
>奴国って魏志倭人伝の文中に2回出てくるよね

この二つの奴国は別の国だというのが標準的な理解
定説と呼べるものはないけれど、
彌奴國、姐奴國、蘇奴國、華奴蘇奴國、鬼奴國、烏奴國、と
○奴国という国名が多いこともあって最後の奴国も○奴国の誤記、
脱字ではないか、と考える人が多い

個人的には有奴國が正しいんじゃないかと思う
次有有奴國を、有がダブってると思った転記者が
一文字「有」を落とした、というのがありそう

まあ、証明のしようもない戯言レベルではあるけれど
0333日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 00:31:35.80
>>326
奥山それだけかい
0334日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 00:32:45.34
>>317
>あんた詭弁どころじゃ無い

と言いつつ、内容には一切触れないww
いつもの負け犬九州説 orアンチ畿内説の虚しい一言書き込みww
0335日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 00:36:40.47
>>319
>筑紫平野はその何倍と思ってるのか

筑紫平野は弥生末期はまだかなりの部分が海の底で
陸化したところも海水が近く塩害があり、
また筑後川が暴れ川で灌漑に利用できない

山門に期待しても無駄だよ
0336日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 00:37:52.49
>>332
謙遜しないでください。
勉強になりました。
0337日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 00:39:51.89
>>331
>九章算術の訳文と解説が出回っているけど、

ここのテンプレで説明されているとおりのものしか世間にはないだろ?

どこが違うと思ってるんだ?
どこも違わないぞ?

まあ、意訳のレベルが著者ごとに異なる程度だ
0338日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 00:40:32.87
>>331
>九章算術の訳文と解説が出回っているけど、あなたの漢文の訳と訳と違いがあるのですか

あると言うなら具体的に指摘すれば?
指摘できないなら、反論は成立しない
0339日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 01:02:19.63
九章算術については以前、テンプレに書かれるようになった直後の頃に
キウスが暴れて、あんまりバカなものだからそのまま放置してたら
勝手に勝利宣言してそれで論争に勝ったと思い込んでるんだよね

キウスにとってある意味、数少ない勝利体験になっているから、
今回も相手がうんざりして放置状態になるまでがんばれば、
また勝てると思ってるんじゃないかと思う
0341日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 03:31:53.01
>>337
『九章算術』訳注†稿(17) 大 川 俊 隆
0342日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 03:40:58.16
>>339
俺も以前、反論したぞ。今回も反論は投稿してある。
抵抗して皆に馬鹿にされたのはキナイコシだぞ。2千里の魏里も含めて今も抵抗してる。理解できないのか、頑固なのかは知らんが、
0343日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 04:40:50.37
>>342
>抵抗して皆に馬鹿にされたのはキナイコシだぞ。

だという証拠は?
0344コテ略垢版2021/09/29(水) 05:17:08.03
>>243 > どこで確定したのですか?//
  はァ? 単純なハナシだよ。
張政の来た時の径100歩の墳墓は箸墓だけ、と書いたでしょ。
0345コテ略垢版2021/09/29(水) 05:22:56.60
>>278 > どこで確定したのですか?//
>>344
0346日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 05:55:00.41
>>325
>自女王國以北 其戸數道里 可得略載、 其餘旁國 遠絶不可得詳
>この読点の前後が対になって、初めて読みやすい文章になる

自女王國以北の記述は 其戸數道里 だけではない。風土・官名・若干の地理歴史等まで詳細にわたっている。
それにも関わらず 其戸數道里についてのみとりだして 可得略載事項 といい、其の余の傍国と対にしているとするのは、
取ってつけた不自然な読みである・・。此れ まさに不可得也。
0347日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 05:56:40.06
>>344
それだけかい単細胞男よ
0348日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 06:28:38.44
>>327
曰く、夷の人は里を知らず、日を以て計るのみ

つまり、歩いて5分とか、歩いて1時間とか、歩いて1日、とかいうように時間で大まかに距離を計るのは、
東夷のような未開の土人のすることだ・・、
しかし、高等学術に優れた漢民族は、「里」という高級な概念に基づき、
1里、10里、100里、1000里・・、の如く客観的で規則的な距離の測定・表記法を可得としている・・。
このような漢民族の自負・誇りが、三国志東夷伝を記した陳寿の頭脳の根底にある。
道里は日数だなどと、いつまで東夷の未開土人の遅れたノウミソをさらすのか・・、、
0349日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 06:39:05.70
>>346
>それにも関わらず 其戸數道里についてのみとりだして 可得略載事項 といい、其の余の傍国と対にしているとするのは、
>取ってつけた不自然な読みである・・。

やれやれ
自女王國以北
  其戸數道里可得略載、
其餘旁國
  遠絶不可得詳
これの対の構造が分からないって、かなり頭が悪いのでは?
「以北」と「其餘」が排中律の関係でしょ?
「可得略載」と「不可得詳」も明らかに対の構造でしょ?
「可」と「不可」は何がかといえば当然「戸數道里」だ
あなた、漢文無理ね
0350日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 06:46:49.07
>>308
ズルしたらダメ
抜けてるよ

>全ての里を魏里でメートルに単位変換する必要があります<
0351日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 06:50:26.72
テンプレを含め、3割は奥山の書き込みだな
暇な奴
0352日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 06:52:32.85
貼り付けたろ^_^

0231 日本@名無史さん 2021/09/28 18:01:08
>>222
あなたは
1万2千里ー1万里=2千里の計算式で
2千里という答えが出たのでしょ。・・・別の方法があれば示してください
あなたはその答えの2千里を魏里を使いメートルで「単位変換」したのでしょ
   ・・・単位変換はわかりますよね
答えだけ単位変換すると、あなたの根本となる数式が成り立たなくなります。
全ての里を魏里でメートルに単位変換する必要があります。
すると郡から北部九州まで一万里=魏里で単位変換=4千キロとなります
それで良いですか
0353日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 07:26:37.71
>>350
>>全ての里を魏里でメートルに単位変換する必要があります<

それはお前の考えだろ
奥山と関係ない
だからつまり奥山がやった計算が「単位が揃って無い」と言ってたのは
ウソだったってことだよ
やっぱりテンプレFAQ 58が正しいんじゃないか
0354日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 07:26:48.02
>>349
やれやれやれ・・、何を勘違いしておるのだ。
以南の国が混ざっているからこそ、それを前提にこの文章になっており、「以北」と「其餘」を追って排中律の関係にしているのだ。
全てが以北の国であれば、そもそもこのような対の書き方にはならない。
下記の対構文を主張することは、則ち、以南の国が有ったことを認めることなのだ、お分かり??

自女王國以北
  其戸數道里可得略載、
其餘旁國
  遠絶不可得詳、
0355日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 07:28:54.51
>>352
>それで良いですか

良いも何も、奥山がやった計算が「単位が揃って無い」と言ってたのは
ウソだった訳だ
やっぱりテンプレFAQ 58が正しいんじゃないか
0356日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 07:33:33.24
>>341
で、どこがどう違うのか、説明してみ?
できないんだろ?

お前はもともと、誰が何を言ってるのか理解できてないんだから、無理だよな!ww
0357日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 07:34:32.12
>>342
そもそもキナイコシって誰だよ?
それもただの全1病の亜種だろ?
バカしか罹患しないヤツww
0358日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 07:37:33.82
>>346
>自女王國以北の記述は 其戸數道里 だけではない。
>風土・官名・若干の地理歴史等まで詳細にわたっている。

お前バカだろ?
ていうか、魏志倭人伝をまともに読んでないだろ?
奴国、不彌國は本当に略載だぞ

漢文を読めないバカが一生懸命ひねり出したただの思いつきww
0359日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 07:41:16.64
>>348
>このような漢民族の自負・誇りが、

そうだとしたら、誇り高き漢民族の王朝の官人が、
皇帝勅定の単位系を無視して短里なるものを
考案したり使ったりするはずがないよな?

その場しのぎで適当なことを言い出すと、
自説の論理の根幹がすぐに崩壊するww

知的能力が足りないから九州説なんて信じていられるんだよって
何度も何度も言われるのはこういうバカしかいないからだw
0360日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 07:46:13.48
>>354
>以南の国が混ざっているからこそ、それを前提にこの文章になっており、

以南の国が混ざってて、それを特定した形で書かない、なんていうのは
史書の地誌記事として失格なんだよww

誇り高き漢民族の陳寿さんがそんなポカをやるはずがないじゃないかww

それから、>>354は投馬国が以南の国と言いたいようだが、
その伝でいくと邪馬台国も邪馬台国以南の国になるんだが?

自分の頭がおかしいことに早く気付けるといいね!
0361日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 07:53:49.97
>>359
>皇帝勅定の単位系を無視して短里なるものを
>考案したり使ったりするはずがないよな?

漢民族の自負がわかっておらんな、
神聖なる中華皇帝の単位を、東夷の未開土人の国に適用するわけがなかろ。皇帝の高貴な単位がけがれるわ。
未開の土人の国には、未開土人の短里が似合っておる。だからわざと旧短里を使っているのだ・・。お分かり??
0362日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 07:59:43.23
>>361
九州説って、ここまでデタラメなものだったのか
0363日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 08:05:16.06
東夷の未開土人といってるから日本人じゃないだろ
0364日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 08:12:37.00
>>349
>「可得略載」と「不可得詳」も明らかに対の構造でしょ?
>「可」と「不可」は何がかといえば当然「戸數道里」だ

その論に従えば、其余の傍国は「戸數道里」のみ「不可得詳」であり、その他の地誌事項はわかっていたとの解釈になる。
矛盾で不適切な読みだな。

>>360
>それから、>>354は投馬国が以南の国と言いたいようだが、
>その伝でいくと邪馬台国も邪馬台国以南の国になるんだが?

女王が都する邪馬台国については、その後の中締めで「自郡至女王国萬二千余里」と里数が明記されている。
このあたりの巧妙な筆使いが、希代の文筆家たる陳寿の陳寿らしさなのだが、ここが読み取れなくては、漢文読みの漢文知らずに終わる。
0365日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 08:14:37.50
>>357
おまえ
0366日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 08:37:41.61
>>362
察するに内心で、我が大和民族をコケにするとはけしからん! と思っているのではないかな。
それはそれとしても、眼前には相手の壁がある、
大陸の超優秀人種と自負する大漢民族はそうは思ってくれない。それが古代から続く悪名高き中華思想の現実なのだよ。
0367日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 08:38:38.62
>>274
>当時の筑後平野は有明海の底ですので、3万トンは収穫できません
九州で可能性があるのは、熊本・菊池・阿蘇付近です

いいえ、あの地図の解釈は、東大理系博士号自称男の「世間の人々を騙す詐術」でした。
実際には、久留米付近から吉野ケ里付近を結ぶ線上は、とっくに陸上平野化しておろ、
有明海の海岸もはるかに(現在の海岸線までの半分位?)離れた所にあり、
福岡平野〜佐賀平野〜筑紫平野〜筑後平野及びその周辺でも、十分賄えるでしょう。
0368日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 08:43:46.11
>>364
>その論に従えば、其余の傍国は「戸數道里」のみ「不可得詳」であり、その他の地誌事項はわかっていたとの解釈になる。

いや、知能のある人はそんな解釈しないからw
文の構造を見れば「戸數道里」について「可得略載」と「不可得詳」に2分類してるのが明らかだ
他のことは俎上に無い
0369日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 08:45:44.90
>>280
>卑弥呼は、邪馬台国連合(北九州〜瀬戸内〜奈良)と狗奴国(球磨地方に比定)との戦勝祈願のために、
奈良から宇佐に来ていた そして、そこで、死んだ(><>・・・

邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるからバツであり、
奈良説は、南≠東や、冢≠前方後円墳や、正北抵新羅の倭國は北部九州や、
大和の前方後円墳は3世紀末の庄内1の石塚など以後であるから、
バツである。
0370日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 08:47:41.47
>>364
>女王が都する邪馬台国については、その後の中締めで「自郡至女王国萬二千余里」と里数が明記されている。

それって邪馬台国=女王国とした場合だけに生きる解釈だね
0371日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 08:50:29.84
>>285
>江戸時代津山藩の石高が18万5千石
1石=1人が年間に食べるコメですので、18万5千人を食わせる農地がありますので、投馬国5万戸=20万人は、可能です
また、津山までは昭和初期まで水運で瀬戸内海と通じていました

「投馬國=津山」説は、南≠東などの史料事実や史料実態に拠って、
始めからバツです。
0372日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 09:02:49.40
>>286
>吉井川流域〜津山盆地が「投馬国」 大和川流域〜奈良盆地が「邪馬台国」
食料生産面からみて、ほぼ間違いないでしょう

「南≠東」などによって、始めからバツです。
0373日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 09:31:09.75
>>364
>女王が都する邪馬台国については、その後の中締めで「自郡至女王国萬二千余里」と里数が明記されている。

「自郡至女王國萬二千餘里」
なぜ魏志倭人伝で、「從郡至倭・・・」の行程記述とは別に、「自郡至女王國萬二千餘里」が ポツンと 分離して書かれているのだろうか?
それは、行程記述と「自郡至女王國萬二千餘里」が、別事項だからである。
「自郡至女王國萬二千餘里」は、帯方郡から女王国までの距離が、「直線距離」で一万二千余里を特記したもの。  
だからことさら、行程記述とは切り離して記述している。  

その心は、帯方郡から女王国までの距離が、「直線距離」で「萬二千餘里」だと言いたかったから。    
その心は、帯方郡から女王国までの距離が、「直線距離」なのであって、間違っても決して「行程里数加算距離」と取られないため。   @阿波 
0374日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 09:39:12.42
>>76 なるほど
0375日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 09:40:48.75
>>368
>他のことは俎上に無い

俎上にない無いのではなく、明白に倭人伝の行程説明という俎上に上がっているにも関わらず、
オメの目に入っておらず、従ってオメの脳みそにも達していないのではないかな。
>>370
>それって邪馬台国=女王国とした場合だけに生きる解釈だね

その通りだ、
この行程記事は女王共立記事のはるか前の行に書かれている。だからまだ卑弥呼は邪馬台国のみの女王だった時代の記事だ。
なお、女王共立の記事が書かれた行の後に登場する女王国は、「女王国東渡海千里復国有り」の部分の女王国だけである。
つまりこの行の女王国は共立後女王国、則ち「倭国=倭30国」を意味するのである。
0376日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 09:48:54.32
>>290
>奴国って魏志倭人伝の文中に2回出てくるよね
旅程の中の伊都国の次と女王国の境界の直前
これらは原文では違う漢字で書かれているんでしょうか?
あるいはこれらは同じ国だと解釈するべき?
斯馬国と邪馬国と邪馬壹国みたいにぱっと見で似ているのはあるけど
活字にしたときに同じになる国名は奴国だけのような

不彌國も、馬韓伝にも倭人伝にもあり、
魏の役人らは、当然、
「(全くの)同じ部族」や「同じ部族から分離した国である」と聞いているから、どちらも「不彌國」と記録した事になり、
それと同じように、奴國も、同じ倭人伝の中の違う場所にある国として書き分けられているから、」
魏の役人たちは、「同じ部族からの分離分裂した国である」、と聞かされていた事になり
だから、どちらも、「奴國」という國名で記録したんでしょう。
また、国名の中にも、
「〜蘇國」という国名や「〜奴國」や「〜馬國」などの国名群のあり、
また、独立的な一つだけの国名もあり、
韓伝にも倭人伝にも、構成部族が複数であるかのような国名も、沢山存在しているようです。
いずれにしても、韓伝と倭人伝の国名は、地域名や所属部族名との組み合わせの国名が多いようです。
0377日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 09:49:19.48
>>367
その通り
0378日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 09:52:33.85
>>292
>私の書いたことに納得出来ないなら、それはそれでかまいませんけど?(^^)

「南→東」などのように、
史料事実や史料実態を、否定や曲解するような説を述べられたら、
納得出来る筈がありませんけど?。
0379日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 09:55:27.36
>>285
何、津山藩が18.5万石

福岡県では目白押し
福岡藩47.3万石
小倉藩15万石
久留米藩21万石
柳川藩12万石
他、
0380日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 09:59:26.35
>>301
魏の役人らは、
邪馬壹國と邪馬台国とを間違える筈もありませんし、
東西南北程度の事を間違える筈がありませんから、
瀬戸内〜奈良説を唱えた時点で、あなたは嘘つき騙しの詐欺師であり、バツ人間です。
0381日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 10:03:09.70
>>303
>>1 >邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが

>御意(^^)

邪馬台国も畿内も存在もしなかった嘘つき騙し文言であるからバツであり、
それに「御意(^^)」と同意応援したこの男も、バツ人間です。
0382日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 10:06:07.12
>>375
>明白に倭人伝の行程説明という俎上に上がっているにも関わらず、

だから、国名以外に何にも情報がない国を其余の傍国と考えるんだよ、まともな人は
あなたは其余の人のようだ
0383日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 10:17:16.73
>>75 奴国が2回ってそういうことか
0384日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 10:22:03.59
>>305
>徳島も、大和も水銀朱(辰砂)の産地 水銀朱は高級交易品
この富が、邪馬台国を最大の国家にした原動力でしょう

邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、バツであり、
徳島も大和も、
「南≠東」や「卑弥呼の冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國中心は北部九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、バツね。
0385日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 10:30:12.35
>>76
>>77 もしこれらが本当なら、陳寿の香具師、滅茶苦茶やってくれたなw
0386日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 10:47:29.63
魏志倭人伝に書かれた事が絶対とは言いがたい。
魏志倭人伝そのものが史料事実や史料実態を曲解している部分もあるかもね。
0387日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 10:50:17.08
「正北抵新羅の倭國中心は北部九州」が史料事実や史料実態を曲解している。

魏志の時代に新羅も九州もないよ。
0388日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 10:56:23.87
>>316
>残念ながら、国語も得意でねw 古文も漢文も普通に読めるんだよ

「南→東」や「卑弥呼の冢→前方後円墳」や「正北抵新羅」の倭國の中心は北部九州の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘つき騙しの大和説学者らは、
詐欺が得意なのであり、
国語も古文も漢文も、普通に読まないで、
結論先にありきでの曲解捏造解釈が得意な人種。
0389日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 11:00:50.85
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘つき騙しの九州説学者も、
詐欺が得意なのであり、
国語も古文も漢文も、普通に読まないで、
結論先にありきでの曲解捏造解釈が得意な人種。
0390日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 11:01:29.39
>>388
国語も古文も漢文も、普通に読まないザラコクと似すぎ
0391日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 11:04:56.17
>>364
>その論に従えば、其余の傍国は「戸數道里」のみ「不可得詳」であり、
>その他の地誌事項はわかっていたとの解釈になる。
>矛盾で不適切な読みだな。

今度の思い付きはその程度?ww

普通に文章の読める人は「戸數道里」という基本事項すら詳らかに得べからずと
普通に読めるんだが?

反対解釈なんてのは法律の条文解釈以外ではほぼ使わないんだよw

不適切なのは>>364のオツムの程度だねw
0392日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 11:08:56.31
>>364
>女王が都する邪馬台国については、その後の中締めで「自郡至女王国萬二千余里」と里数が明記されている。

そこは>>364自身が「中締めで」と書いてあるように、其余傍国まで含めた全体の中締めで
自女王國以北 其戸數道里 可得略載、 其餘旁國 遠絶不可得詳とはある意味無関係な文だよ

相変わらず、文章の構造ってのが分からないのか、分かってて駄々を捏ねてるのかww
まあ、分かってないんだろうなぁww

>このあたりの巧妙な筆使いが、希代の文筆家たる陳寿の陳寿らしさなのだが、
>ここが読み取れなくては、漢文読みの漢文知らずに終わる。

陳寿は稀代の文筆家なんていう評価にはなってないよww
普通は読み取れないな、だってそんな読み方をするのは不正だものww
0394日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 11:12:39.65
>>334
と言いつつ、
「南≠東」や「卑弥呼の冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國中心は北部九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の、嘘つき騙しの指摘内容には一切触れない
いつもの負け犬大和説 orアンチ史料実態論者の、虚しい一言書き込み
0395日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 11:16:52.69
土台人古田の会員竹島どろぼう反日有害活動朝鮮人は
↓あたりだろうな

「多木製肥所による朝鮮半島の開拓をきっかけに、
加古川市別府の地に多くの朝鮮人が移住することとなった。」
0396日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 11:17:37.46
>>335
>筑紫平野は弥生末期はまだかなりの部分が海の底で
陸化したところも海水が近く塩害があり、
また筑後川が暴れ川で灌漑に利用できない
山門に期待しても無駄だよ

いいえ、その地図の解釈は、東大理系博士号自称男の「世間の人々を騙す詐術」でした。
実際には、久留米付近から吉野ケ里付近を結ぶ線上は、とっくに陸上平野化しており、
有明海の海岸もはるかに(現在の海岸線までの半分位?)離れた所にあり、
福岡平野〜佐賀平野〜筑紫平野〜筑後平野及びその周辺でも、十分耕作地でした。
0397日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 11:23:01.13
>>396
断定するけど証拠は出さず
ほんにあんたは九州説
0398日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 11:23:07.60
>>344
>はァ? 単純なハナシだよ。
張政の来た時の径100歩の墳墓は箸墓だけ、と書いたでしょ

箸墓説は、
「南≠東」や「卑弥呼の冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國中心は北部九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、バツね。
0399日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 11:27:48.74
>>398
「正北抵新羅の倭國中心は北部九州」が史料事実や史料実態を曲解している。

魏志の時代に新羅も九州もないよ、バツ
0400日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 11:38:21.37
>>359
そうだとしたら、誇り高き漢民族の王朝の官人が、
明帝勅定の単位系を無視して長里なるものを考案したり使ったりするはずがないよな?
その場しのぎで適当なことを言い出すと、自説の論理の根幹がすぐに崩壊する
知的能力が足りないから「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國中心は北部九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘つき騙しの大和説なんて、信じていられるんだよ
何度も何度も言われるのは、大和説学者らには、こういうバカしかいないからだ
0402コテ略垢版2021/09/29(水) 11:45:07.06
>>347 > それだけかい単細胞男よ//
  単細胞はさ、それだけの事すら分かんないオ〆だろ。
古墳編年が確立していない昔ならばさ、分からなくても仕方がない。
いわゆる白鳥内藤論争にて内藤は、垂仁嫡出ムスメで巫女的事績のある倭姫命を卑弥呼に比定し、
箸墓の被葬者とされるモモちゃんには言及していない。箸墓が最古形という概念が無かったからだ。

その後の形式編年で箸墓が最古形が知れ、昨今では卑弥呼の死亡時期との一致すら明らかなんだから、
オ〆に限ったハナシではないが、それだけの事すら分からん単細胞では、どうしようもないんだよ。

> 単細胞男よ//
  因みに、別カテ投稿からだがね。
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/archives/1628740129/495
> 男性といわれているが、女性である可能性も否定できない//

>>398 >「南≠東」や「卑弥呼の冢≠前方後円墳」や
「正北抵新羅の倭國中心は北部九州」などの//
  
短里なんてシロモノは存在しない。九州王朝国なぞ存在しない。
そんなシロモノをマに受ける、オ〆の膿味噌がバツなんだよ。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1632317099/979

張政が来た時点で、径100歩の墳墓は箸墓しかなかったのだから、
彼は卑弥呼墓を同定するID情報として、態々書いた。
箸墓が卑弥呼墓である事は、確定事項なんだよ。
0403日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 11:51:16.01
>>362
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國中心は北部九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘つき騙しの大和説者らって、
ここまでデタラメなものだったのか
0404コテ略垢版2021/09/29(水) 12:00:51.58
>>403 > 史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘つき騙し//
  ノー夕リソの宝賀寿男よ、オ〆が八゛力なのはさ、
九州王朝国だの短里だのといったヨタ話をマに受けちまって、
自分が嘘つきである事すら認識できない人 木各 樟害者だからなんだよ。
0405日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 12:16:30.92
>>221
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘つき騙しの
デタラメ プリタぺーテンから進歩だな。
0406日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 13:00:20.96
>>397
>396 の解説は正しい。
勉強不足の他所もんが、適当なことをしゃべくるな
0407日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 13:00:54.40
>>386
>魏志倭人伝に書かれた事が絶対とは言いがたい。
魏志倭人伝そのものが史料事実や史料実態を曲解している部分もあるかもね。

魏志倭人伝は、
殆どが、ほぼ同時代の魏の役人らの実地の見聞計測の記録を元にした記載と、
一部に、漢代や以前の記録や、陳寿の理解も記載したものであり、
信頼性や確率が非常に高く、
史料事実や史料実態の曲解をした部分は、殆どないもの。
0409日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 13:50:52.41
>>406

しゃべくるって福岡じゃ使わないな
0410日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 14:03:07.57
>>387
>「正北抵新羅の倭國中心は北部九州」が史料事実や史料実態を曲解している。

「正北抵新羅」は、唐代の事を書いた唐会要の(日本國伝ではなく)倭國伝の記載であり、
倭國は後漢代から北部九州の国として記録されており、
従って、「正北抵新羅」の倭國の位置は、北部九州である。

>魏志の時代に新羅も九州もないよ

新羅の、起源や淵源もかなり古いし、
九州も、倭人が「燕の南」にいた周代の頃からの、
倭人が自らの出目を「九州」としていた呼称であり、
魏志の時代にも当然倭人は「九州」という文言を知っていた。
0411日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 14:06:14.13
>>410
>九州も、倭人が「燕の南」にいた周代の頃からの、
>倭人が自らの出目を「九州」としていた呼称であり、

それ、帝王が支配する中国全土って意味なんだけど
0412日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 14:09:16.76
>>410
「燕の南」であり、
九州を呼称した記載もない。
魏志の記載ない
根拠がない。

「正北抵新羅の倭國中心は北部九州」が史料事実や史料実態を曲解している。
0413日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 14:13:27.27
>>397
以前に2回以上出した「有明海の海岸線の変化」の図を出さずに、
九州説者を否定誹謗の断定するけど証拠は出さずに、
ほんにあんたは「嘘吐き騙しの・・・・詐欺師の大和説」男。
0414日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 14:32:10.71
実は私は数年くらいこのスレを離れていたんだよね

久しぶりにのぞきに来て書き込みをしたのがPart712のこれ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1628316294/878
zarakokuまだいるんだww

見直してみると8月10日だね
私が不在の間もずっとザラコクは東大博士自称男の影に怯えてたみたいだけどww

一か月半ほど遊ばせてもらってスレ主にはありがとうというところだね
スレ主がずっとこのスレを立て続けてくれているおかげだ
ドン来いスレがなくなった頃に、5ちゃんの邪馬台国スレに来なくなったから

また私はいなくなるかもしれないけど、まあ九州説はおかしなのしかいないから
どうということはなさそうww
0415日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 14:35:27.09
>>414
>また私はいなくなるかもしれないけど、まあ九州説はおかしなのしかいないから
>どうということはなさそうww

あとは「阿波」に任せとけ。  わははははは   @阿波
0416日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 15:06:12.26
>>415
これ、泡の書き込みだよね?
今は亡き「♪邪馬台国ドンと来い!♪142」スレのコメ番68
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1543404937/68
「>泡的には年毛神社と永島文献の信憑性はどうなの?

 それらを、わざわざ偽造・偽装するほど誰にも価値があるとは思えないんだがw
 また、それらは泡的に末盧国=福津・宗像説の根本じゃないから、どうでもいい話。  @阿波」

それとも、泡の中の人が入れ替わったりしてるの?
0417日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 15:07:53.45
>私の説の根本は、
>@福津・宗像の大陸交流痕跡の存在
>A対馬海流の影響
>B元寇・朝鮮通信使の航路
>C魏志倭人伝の壱岐から千里  @阿波

「福津・宗像の大陸交流痕跡の存在」については、
大陸交流痕跡は、唐津にも糸島にも福岡平野にも合って、末盧国を特定するに
足るものではないし、福津・宗像あたりの交流痕跡はむしろ格下だよね?

「対馬海流の影響」
これは過大視しすぎ
海流の流速なんて公園の池の手漕ぎボート程度なんだからそれで大きく流されるなんてことにはならない
https://i.imgur.com/BO8F1We.jpg



「元寇・朝鮮通信使の航路」
これ、半月くらい前に渡土提知らずの捏造君も盛んに言ってたけど、
違う時代のものを持ち出しても意味ないよね
当時の港湾遺跡も博多湾沿岸では出ているのに福津・宗像あたりでは皆無だろ?

「魏志倭人伝の壱岐から千里」
短里で千里には意味がありません
当時渡海距離は測る方法がありませんでした

ということで、泡説は出だしの末盧国比定地からして事実上根拠がないw
0418日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 15:08:22.00
これで泡説は全否定ってことでいいかな?

頼りの万津浦を唯一記載している永島文書の真贋は争わないっていうし
 →万津浦という遺存地名は使わない
 →富津が末盧であるほぼ唯一の根拠が消滅w
 そもそも、日本語の音読みがトウである「東」の音はtungで、あちらの音韻では
 n、m、ngの音が入ってたらそれが音訳に反映されないという設定はおかしいんだよね
 ま「ん」つうらが末盧になる余地は最初からない

海流は泡が考えるほど強くないし
距離が短里で千里丁度の場所ってのは最初から意味がないし
秀吉の頃の出兵場所(渡海基地)は兵站も考えてのことで時代が違うし意味がない
0419日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 15:28:41.50
>>410
唐会要?時代が違うし
北部九州の記載もない。
倭國伝、日本伝に邪馬壹國の記載はない。
まして、魏志以降の隋、宋書等にも
邪馬壹國の記載はない。
「南→東」や「冢→前方後円墳」は否定も肯定もない

「正北抵新羅の倭國中心は北部九州」は
史料事実や史料実態を曲解だよ。
0421日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 15:56:20.96
>>414
九州説でも、半島南部を投馬国として
女王国に属さない説はユニークだよ。
属さないから
卑奴母離もない。
女王国にも狗奴国 両方に鉄や水銀供給できる。
魏志の漏れルートを思考させられる。
後の任那、伽耶 新羅派、百濟派にも絡むかも?
しかし、なんで戸数なのに米が出てくるのが不思議?
野菜、魚が主体。そのころの税は?
0422日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 16:00:49.37
>>409
そうか、オレは博多じゃないからな
正体は云わぬがもすこし南の方、もしかして肥前肥後かもしれんぞww
0423日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 16:13:51.97
>>401
伊勢湾台風の時、名古屋はもっとすごかった。木曽川、長良川、揖斐川、全て氾濫した。でも、名古屋経済はビクともしなかった。農家も次の年は大豊作。
濃尾平野の被害は筑後川程度では済まなかったが、人は強い。
戦国時代も、この三川の水を巡っての戦乱は絶えなかった。川は米なり。
0425日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 16:20:53.30
>>402
変な奴は思考も変
       ワハハ
0427日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 16:26:16.80
>>402
変な奴は思考も変
       ワハハ
0428日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 16:39:57.19
このスレ見てると

畿内説は他説批判するばかり

畿内説のスレなのに、

テンプレが泣いている
0429日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 16:45:55.47
南行を否定しているは、九州説
博多湾の南に海はない
結局 東、西の海岸を伝って南へ行く
末盧國 東南陸行五百里 伊都国と同じ理屈。
他の説にも使える。
0430日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 16:47:00.01
>>428
しかり、
他説批判しても返り討ちに遭う畿内説
フレーフレー 畿内説
0431日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 16:52:48.36
>>430
大笑い、気になる畿内説スレに来る。
まあ、どうぞどうぞ、阿保さらしてくれ
0432日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 16:59:42.08
>>428
>このスレ見てると
>畿内説は他説批判するばかり

そうやって目の前の現実も見えない人って、歴史研究とか無理だろうな
現実を見てごらん
畿内説スレにやってきて畿内説にイチャモンつけてる人が撃退されてるだけだから
0433日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 17:03:53.82
現実を見てごらん
出版された九州説の本とか説とかを批判してる畿内説の人っていないだろ?
よその誰かのHPも批判してないだろ?
ここに来た人の言ってることや、持ち出したネタ本が返り討ちで潰されてるだけだ
0435日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 17:10:49.83
>>423
>伊勢湾台風の時

伊勢湾台風は、何十年に一回
筑後川の氾濫は年中行事

伊勢湾台風時の名古屋の経済は、水田稲作が中心ではない
弥生時代は米作経済

時代も状況も違うものをあげて、時系列無視で訳の分からないことを書くのが
九州説のトレンドなのかい?w
0436日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 17:12:56.07
>>432
何処で撃退した
0437日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 17:15:44.52
>>435
>伊勢湾台風は、何十年に一回

何十年に一回なんてものじゃないぞ
未だに台風被害としては記録のある範囲で最悪

自然災害全体でも、東日本大震災、阪神大震災に次ぐ犠牲者が出てる
0438日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 17:20:09.74
>>418
>対馬海流を横切る方向なんだから

対馬海流を横切って、その速度の海流よりも速く、何十時間も漕ぎ続けられるお前はすごい。  

まっ、対馬海流をその程度と思っているのは、アホのお前だけだがな。  わははははは   @阿波
0439日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 17:20:42.22
>>435
ちゃう、ちゃう
繊維産業で潤ってた
地元だから良くわかる。
栄に長者街があるが、昔は繊維で大儲けした問屋街
一宮、岐阜、大垣、尾西、
繊維も恵まれた水のおかげ
尾張徳川家は62万石 
0440日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 17:21:55.00
>>435
俺、九州説じゃねーし
0441日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 17:22:35.71
>>418
対馬海流に邪魔されて、松浦や唐津や呼子が「末羅國」には成り得ない。
大陸からの玄関口「末羅國」は福津市( 万津浦)宗像方面。
だから「世界文化遺産」に選ばれたのも当然と言えば当然。  
壱岐の郷ノ浦町辺りから東へ流れる対馬海流に乗って、魏使の手漕ぎ舟は楽々、末盧国(福津市辺り・万津浦)に到着とさ。  
その証拠に、福津市周辺の韓国や中国の漂着物がそれを物語っている。   @阿波
0442日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 17:22:52.68
〜 畿内説は単なる馬鹿の妄想作文である 〜

■史書に基づけば九州説以外有り得ません
倭人伝における最大の謎「水行陸行」の行程は朝貢に来た倭人の説明を書き記したものであり、その開始点は帯方郡である。
・帯方郡を出て
↓南に船で20日
・半島南部の投馬国
↓南に船で10日
・末盧国に上陸し、伊都国の入国管理局で停留
↓入国許可が出て迎えが来る
・女王の都へ(約1か月後)

つまり中国は対馬海峡の両岸の総称を女王国と呼び、
倭人は半島南部を投馬国、北部九州を邪馬台国と呼んでいた。
女王の都とは、この邪馬台国の中にあった首都である。

位置関係の図:https://i.imgur.com/jMwIArA.png
※半島南部の投馬国がのちの任那になったと思われる

■魏志韓伝の記述
「韓在帯方之南 東西以海為限南與倭接 方可四千里〜」
・韓国はソウルの南に有る4000里四方の国で、東西は海に面し南は倭と接する

■魏志倭人伝の記述
@女王国以北(女王国北部)は距離や戸数まで確認できた(対馬〜邪馬台国)
A@以外は遠いので国名のみ紹介(次有斯馬・次有已百支・次有伊邪〜)
B南には敵対する狗奴国がある
C東には海があり、その先にまた倭種の国がある

■その他の記録文献より
・倭人は「里」を知らず「日」を使って距離を示す(隋書)
・伊都国の又南、至る邪馬薹国(翰苑 広志逸文)
0443日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 17:23:25.26
>>418
>末盧国の港付近は、草ボウボウで前を行く人が見えなかったとある。

それは、末盧国(福津市辺り・万津浦) から 伊都国(直方辺り)へ向かう道中の猿田峠・赤木峠越えの場面だ。  

こういう詳しい説明が出来るのは、倭国(阿波)への行程だけ。 わははははは   @阿波
0444日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 17:24:11.16
>>418
末盧国(福津市辺り・万津浦) : 「田熊石畑遺跡」・「今川遺跡」・「徳重高田遺跡」・「鐘崎上八遺跡」・「手光於緑遺跡」・「朝町町ノ坪遺跡」・「朝町竹重遺跡」・「新原・奴山古墳群」 
たとえば「今川遺跡」   
発掘者を驚かせたのは中国北辺の遼寧(りょうねい)地方で作られた遼寧式銅剣を再加した有茎両翼銅鏃(ゆうけいりょうよくどうぞく)や銅ノミでした。
また、二個の玉はアマゾナイト製(天河石)で朝鮮半島で産出し日本ではほとんど産しない石でした。
溝内の三号竪穴式住居は、韓国・松菊里(しょうきくり)遺跡と同形の竪穴でした。
発掘者の中には朝鮮半島から直接ここに住みついた可能性が高い遺物内容であると言う人もいたそうです。   @阿波 
0445日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 17:24:27.00
>>436
輪鐙が渡土提にお供え物として置かれた、とか?ww

トンデモさんの言うことはいつもこんな感じ
「あんたが阿波説なんてトンデモ説を強弁し続けるからだろ(笑)」

「ごめん、だれも阿波説なんてトンデモ説を叩き潰してくれないもんだから、ついつい強弁し続けてしまった(笑)  @阿波」

「いや何度も叩き潰されてるのに認めないだけやんけwww」

この頃の泡にはまだかわいげがあったのにな
0446日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 17:44:43.03
>>438
>対馬海流を横切って、その速度の海流よりも速く、何十時間も漕ぎ続けられるお前はすごい。  
>まっ、対馬海流をその程度と思っているのは、

泡の頭の中では対馬海流ってすごい流れになってるみたいだねww
つ 現実
https://i.imgur.com/yign3E4.jpg

壱岐と対馬の間、対馬と朝鮮半島の間は、それなりにまとまった流れになっているけれど
壱岐と九州島の間は、定まった流れがない
壱岐と九州島の間は流速も大体0.2ノット以下

海流は表層流じゃないから、深いところがメインの流路になる
そして、壱岐と九州島の間は浅いから、対馬海流と呼べるほどのものは流れていないんだよ
https://i.imgur.com/tEVUU89.gif

1ノットが0.51 m/sだから、0.2ノットでは毎秒10センチくらいだ
壱岐と九州島の間は流速も大体0.2ノット以下なんだから、
普通に手漕ぎの丸木舟でも、対した障害にはならないだろww

対馬海流(秒速10センチメートル以下)に流されるから
壱岐からまっすぐ南には行けない、とかいう泡は
最初から破綻しているww
0447日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 17:45:07.50
>>436
>何処で撃退した

テンプレのFAQ58と78に付けたイチャモンとか即殺されてたやん
0448日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 17:45:31.69
>>414
>見直してみると8月10日だね
私が不在の間もずっとザラコクは東大博士自称男の影に怯えてたみたいだけどww

君が不在の間も、東大理系博士号自称男は、ずっと、
「南≠東」や「卑弥呼の冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國の中人は北部九州」などの、
史料事実や史料実態にまともに反論出来ずに、逃げ隠れていて、
他の九州説者らとの議論でも、「言葉尻の曲解捏造の誹謗宣伝」や、
「何故?」「証拠は?」などを繰り返す「無限に質問を続ける」議論テクニックで、
議論に勝った?かのようにして、世間の人々の吹聴するインチキをしている事も、
バレており、
そのような半狂人的な人間とは、まともな議論をする事に関心がない。
0449日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 17:48:45.34
>>446
長々とご苦労だな。  「末盧国」=福津市(万津浦)辺り。 わははははは   @阿波
0450日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 17:50:03.74
>>446
>対馬海流を横切る方向なんだから

対馬海流を横切って、その速度の海流よりも速く、何十時間も漕ぎ続けられるお前はすごい。  

まっ、対馬海流をその程度と思っているのは、アホのお前だけだがな。  わははははは   @阿波
0451日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 17:57:55.64
>>448
>君が不在の間も、東大理系博士号自称男は、ずっと、

いやいや、私が東大で理系の博士を取った人なんだから、
私がいない間に、ザラコクの言う東大理系博士号自称男は
スレに一切書き込みしてないぞww
0452日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 18:00:39.83
>>449
>>450

これを地で行く反応だなww

「いや何度も叩き潰されてるのに認めないだけやんけwww」

>>446で完璧に論破されてるよww

>まっ、対馬海流をその程度と

現実「0.2ノット(秒速10センチ)以下の方向も定まらない流れww」
0453日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 18:01:36.66
泡は、反論できなくなると、短文の定型句を繰り返し
コピペ投稿するだけになるから、ある意味わかりやすいww
0454日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 18:03:08.90
>>442
畿内説も北部九州説は単なる妄想作文である

北部九州〜近畿が女王国ですね。
卑弥呼が北部九州にいるので使者は、役目は
全てが終わる。

翰苑 広志逸文?逆に否定するもん持ってくる。

邪馬薹国?


夏後少康之子封於會稽,斷髮文身以避蛟龍之害
當在會稽東治之東
0455日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 18:03:59.36
>>448
>「何故?」「証拠は?」などを繰り返す「無限に質問を続ける」議論テクニックで、
>議論に勝った?かのようにして、世間の人々の吹聴するインチキをしている事も、

九州説が
理由も言えない
証拠出せないってことでしょ

なら議論に負けてるよ
0456日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 18:04:53.08
>>448
>「何故?」「証拠は?」などを繰り返す「無限に質問を続ける」議論テクニックで、

それ、左側スロープ君も言ってたけど、私は>>446みたいに
根拠をimgurで用意して、長文できちんと論破するスタイルなんだけど?ww

アンチの人たちは、書き込みをしている人の区別もつかないww
0457日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 18:05:01.59
>>419
>唐会要?時代が違うし

唐会要の「倭國」伝の中の記載であるから、漢代の「帥升」の時からの倭國の事。

>北部九州の記載もない。

「正北抵新羅」は、逆に言えば「新羅のほぼ正南に倭國がある」と特定している事になり、
従って倭國は(大和ではなく)北部九州付近。

>倭國伝、日本伝に邪馬壹國の記載はない。
まして、魏志以降の隋、宋書等にも邪馬壹國の記載はない。

糸島の3世紀末頃からの一貴山銚子塚や端山や築山の頃から、倭國の中心は、
「福岡平野中央部〜筑紫平野及びその周辺丘陵地から)糸島付近に変わっており、
更に、3世紀末から4世紀の西晋滅亡や楽浪滅亡や、317年の東晋成立の影響を恐れて、
倭國では317年頃に「こうやの宮〜久留米付近」に遷宮して、
その久留米付近に邪馬臺國の地が出来、邪馬壹國は消失したらしい。

>「南→東」や「冢→前方後円墳」は否定も肯定もない 「正北抵新羅の倭國中心は北部九州」は
史料事実や史料実態を曲解だよ

史料事実や史料実態の否定は、非学問的であり、バツ。
0458日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 18:06:48.67
卑弥呼が北部九州にいるので使者の役目は
全てが終わる。だな。
0459日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 18:10:03.64
水行っていうのは、こういうところを進んでいくんだよ
https://i.imgur.com/LEf95qW.jpg

これ、関門海峡をちょっと沖から見たところ
北部九州から山陰(出雲)へ、船で日本海沿岸を進むのは
文字通り循海岸水行で、渡海じゃないんだよ

本州の国が九州倭国から見て東「渡海」千里の倭種というのは
現実に合わないんだよ
つまり、大間違いww
0460日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 18:11:18.22
>>458
>卑弥呼が北部九州にいるので

卑弥呼が北部九州にいたら、一大率は要らないと何度言えばww
0461日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 18:15:24.53
>>457
「正北抵新羅」は、逆に言えば「新羅のほぼ正南に倭國がある」と特定している事になりません。
倭国の一部です。

>>邪馬壹國は消失したらしい?
根拠なし
>>「南→東」や「冢→前方後円墳」は否定も肯定もない 
否定はしていないけど?

「正北抵新羅の倭國中心は北部九州」は
史料事実や史料実態を曲解で非学問的であり、バツ。
0462日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 18:19:51.02
>>460
卑弥呼が北部九州にいても
一大率は要る。一人で全部できるわけない。
0463日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 18:22:06.99
>>420
>こういう地理観だからねw
https://i.imgur.com/bcMCSqt.jpg

701年に、大和が「九州倭國を併合吸収継承」して大宝元年を建元した後、
大分経ってからの地図であり、卑弥呼の倭國の論拠にはならない代物だな。
0464日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 18:37:16.25
>>429
>南行を否定しているは、九州説
博多湾の南に海はない
結局 東、西の海岸を伝って南へ行く
末盧國 東南陸行五百里 伊都国と同じ理屈。
他の説にも使える

陳寿は、(陸行に対比される)水行という文言を、
更に、渡海ではなく、
海岸沿いなどの沿岸航行のような、水行に使って区別する記載をしている。
0465日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 18:44:40.21
>>460
普段は伊都国にいる。下賜品受け渡し
其國本亦以男子爲王 (伊都国 世有王)
居處宮室樓觀,城柵嚴設,常有人持兵守衛。
それを守るように周辺国に卑奴母離も配置。
0466日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 18:51:49.07
>>464
循海岸水行とは書いていない。
それなら北岸狗邪韓國みたいにはっきりと
循海岸水行と書くよ。
0467日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 18:52:10.08
>>462
>卑弥呼が北部九州にいても
>一大率は要る。一人で全部できるわけない。

するってぇと、>>462は卑弥呼は伊支馬、彌馬升、彌馬獲支、奴佳鞮の官たちとは
切り離されて、北部九州に来ているっていう想定なのかな?

そいつはすごいやww
その場合、有男弟佐治國の男弟はどこにいるの?
卑弥呼と一緒に北部九州に来ているなら、本国を治める助けにならないし、
北部九州に来ていないなら、卑弥呼と離れ離れでどうやって国を治めるのを
助けられるのかな?
いろいろ、無理があるねぇww

それとも、卑弥呼は伊支馬、彌馬升、彌馬獲支、奴佳鞮の官たちと一緒に
北部九州にいるという想定?

それだったら、一大率は要らないだろ?
0468日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 18:55:12.10
>>466
>循海岸水行とは書いていない。
>それなら北岸狗邪韓國みたいにはっきりと
>循海岸水行と書くよ。

これ、前にも書いたけれど、大陸史書としては地誌記事に水行という言葉を使った
初出が循海岸水行なんだよ

初出だから、水行というのは循海岸だという定義を示している
その後の水行も、基本的には循海岸

後代になると島伝い航行も水行で書かれるけれどね
外洋に出ずに、陸地の近くを進むのが水行ということ
0469日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 19:01:29.32
>>445
阿波はまだ理解して無いようだ、
畿内邪馬台国の出張所ぐらいが阿波だよな
0470日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 19:03:27.00
>>467
卑弥呼は倭国の王?邪馬台国の王? 
それとも兼務?
0471日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 19:11:38.93
渡海と水行の違いが良くわからない
畿内説のスレゆえ、敢えて畿内説の人に聞きたい。
ここが畿内説ではよく分からない
女王國東 渡海千餘里 復有國皆倭種 
0472日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 19:13:03.78
>>454
>畿内説も北部九州説は単なる妄想作文である

「畿内」なんて、存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、バツであり、
大和説は、「南≠東」や「卑弥呼の冢≠前方後円墳」や、
「正北抵新羅の(卑弥呼の)倭國の中心は北部九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、バツである。

>北部九州〜近畿が女王国ですね

「〜近畿」は、九州倭國の「東征毛人五十五國」で征服され、
地方の市を監督する大倭職の「旧小国」であり、倭種である。
0473日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 19:13:59.73
>>465
>普段は伊都国にいる。下賜品受け渡し

普段、卑弥呼が伊都国にいるなら、伊都国にこの記述があることになるんだよ
「女王之所都」
これが、伊都国に書かれずに邪馬台国のところに書かれているということは、
卑弥呼の都、卑弥呼が普段いる場所は邪馬台国であって、伊都国じゃないってこと

こういう基本的なところから妄想で話を進めるから、九州説はデタラメにしかならない
「女王国の範囲で北部九州〜近畿説」なのかもしれんが、
女王の都を勝手に動かす時点でデタラメだよ
0474日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 19:18:47.34
>>455
>>「何故?」「証拠は?」などを繰り返す「無限に質問を続ける」議論テクニックで、
議論に勝った?かのようにして、世間の人々の吹聴するインチキをしている事も、

>九州説が理由も言えない証拠出せないってことでしょ なら議論に負けてるよ

九州説は、ほぼ常に、
「南≠東」や「卑弥呼の冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの、
史料事実や史料実態の証拠を出して来てあるよ。
要するに、東大理系博士号自称男?は、その事を隠して、
世間の人々を騙そう、としている、悪質な詐欺師。
0475日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 19:25:12.71
>>471
>渡海と水行の違いが良くわからない

何度も書いてるだろ?

陸地の近く(循海岸)を航行するのが水行で、
何かあったら陸に上がればいい比較的安全な移動

外洋に出るのが渡海で、
何かあったら遭難して死ぬことになる持衰頼みの危険な航海

>ここが畿内説ではよく分からない
>女王國東 渡海千餘里 復有國皆倭種 

テンプレにも書いてあるだろ?
伊勢の辺りまで女王国(というか、卑弥呼を倭王と認める範囲が余傍国も含め女王国)で
そこから伊勢湾を渡って東海地方に向かうと狗奴国だって
「伊邪國」が伊勢っぽい

それから、テンプレとは意見が異なるけれど、魏略ではその文はこの位置にあるし、
「東」もない
倭在帯方東南大海中依山島為国「度海千里復有国皆倭種」
これがもともとの位置だとすると、
半島から南に行くと倭国
倭国の対馬から渡海千里して壱岐に行っても、壱岐から渡海千里しても
また倭人の国があって、みんな倭種で韓人や漢人の国ではない
という意味になる

これが本来なんだと思うよ
倭国は途中に海峡がある列島で、海峡を渡った(渡海千里)先もみんな倭種、
倭人の国だっていうだけの説明
0476日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 19:30:28.72
★奈良邪馬台国・完全版
邪馬台国への航路

山口県に邪馬台国連合敵対勢力があったため、上関は通れなかった
そのため

伊都国(筑豊地方に比定)より、一旦、九州東海岸を南下し、佐賀関から豊予海峡を渡って佐多岬半島へ

四国北岸ルート
佐多岬半島ー松山ー今治ー鞆の浦ー岡山(児島穴海)ー赤穂ー明石海峡ー大阪湾ー大和川河口ー奈良

投馬国(津山盆地に比定)
岡山ー吉井川ー津山


倭人伝で「南水行」と書かれているのは、九州東海岸を南下するという意味であり

これは、スエズ運河開通前、リスボンからアフリカ西岸を南下し、喜望峰を回ってゴアに向かったのと同じ理屈です
ですから、「南水行」を読み替えずとも、奈良へ行くことはできます
0477日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 19:40:15.89
★奈良邪馬台国・完全版2

卑弥呼の最後(><)

卑弥呼は、邪馬台国連合(奈良・岡山・四国・北九州)と狗奴国(熊本南部・球磨地方に比定)との戦争が始まると、戦勝祈願の
ために、奈良から北九州・宇佐(山国川上流の耶馬溪)に出張しました
当時の戦争は、巫女のお告げが重要でしたので、卑弥呼も最前線に行ったのです
しかし、その戦いの途中、卑弥呼は死にました
北九州軍は、卑弥呼の死を隠し、狗奴国との戦争を続けました
卑弥呼の亡骸は、宇佐に径100歩の塚を作り仮埋葬されました
これが、倭人伝の塚で、その場所は現在の宇佐八幡宮です

狗奴国との戦争が休戦になると、卑弥呼の亡骸は、生まれ故郷奈良三輪山山麓に作られたの箸墓古墳に改葬されました

これは、徳川家康公が死後1年後、久能山から日光に改葬されたのとおなじ理屈です
0478日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 19:44:19.54
>>477
>奈良から北九州・宇佐(山国川上流の耶馬溪)に出張しました

ここでもうトンデモになってる
卑弥呼は引きこもりの女王で、出張なんかには行かない
自爲王以來、少有見者
0479日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 19:58:33.32
>>442

投馬国=半島南岸地域
実に、斬新な解釈ですね(^^)
この仮説が成立するためには、投馬国・邪馬台国の記事(南水行20日、南水行10日、陸行1ヶ月云々)が、後世に追記され、追記者は注釈を残さなかった
という前提が必要ではないでしょうか?
さらに、その追記者は出発点(帯方郡より)を書き忘れた
この2点が成立すれば、あなたの解釈もOKでしょう
0480日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 19:59:41.47
>>478

私の完全版に
納得出来ないなら、それで構いませんよ(^^)
0481日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 20:17:30.85
>>459
>これ、関門海峡をちょっと沖から見たところ
北部九州から山陰(出雲)へ、船で日本海沿岸を進むのは
文字通り循海岸水行で、渡海じゃないんだよ
本州の国が九州倭国から見て東「渡海」千里の倭種というのは
現実に合わないんだよ
つまり、大間違いw

いや、魏の役人たちは、
女王國から「東渡海千余里」したところの、倭種の地に上陸した後、
その上陸地から南へ「女王國から四千余里になる侏儒國付近」へ行っており、
という事は、渡海したのは、瀬戸内〜豊予海峡付近になり、
関門海峡は通っておらず、
また、関門海峡であっても、沿岸航行にはならず、「小渡海」にしかならず、
反論論拠にもならない。
0482日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 20:23:26.56
はいはい対馬海峡から見るとこんな感じです

https://i.imgur.com/t1La2wr.png

邪馬台国は少なくともこの視界の中のどこかですよね
0483日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 20:27:17.72
>>466
>循海岸水行とは書いていない。
それなら北岸狗邪韓國みたいにはっきりと
循海岸水行と書くよ

「水行」は本来は「渡海も沿岸航行も両方含む文言」であるが、
魏の役人らは、郡から出発時の移動を「循海岸水行」と記載し、
三つの海峡を「渡海」と書いた、という事は、
「循海岸水行」と書いた時点で、
「水行という文言は沿岸航行という意味で使用する」、と定義した事になる。
0484日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 20:41:30.02
>>470
>卑弥呼は倭国の王?邪馬台国の王? 
それとも兼務?

邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、バツであり、
卑弥呼は「親魏倭王」であるから、「魏が認証した倭地や倭国の女王」であり、
その(所都する)支配下の一国が邪馬壹國であり、
邪馬壹國のトップは、伊支馬になる。
0485日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 20:50:42.86
奈良県民は邪馬台国の子孫であり「邪馬台国民」ということに誇りを持って欲しいですね

いっそ「邪馬台県」に県名を変えるべきではないでしょうか?
0486日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 20:51:19.77
>>475
>テンプレにも書いてあるだろ?
伊勢の辺りまで女王国(というか、卑弥呼を倭王と認める範囲が余傍国も含め女王国)

瀬戸内以東は「倭種」であって、「女王國とは区別されている」から、バツである。

>でそこから伊勢湾を渡って東海地方に向かうと狗奴国だって
「伊邪國」が伊勢っぽい

これは、当然「南≠東」に拠ってバツ。

>それから、テンプレとは意見が異なるけれど、魏略ではその文はこの位置にあるし、
「東」もない倭在帯方東南大海中依山島為国「度海千里復有国皆倭種」
これがもともとの位置だとすると、半島から南に行くと倭国
倭国の対馬から渡海千里して壱岐に行っても、壱岐から渡海千里しても
また倭人の国があって、みんな倭種で韓人や漢人の国ではない
という意味になる

魏略の情報自体が、はるか後代の逸文の中にしかなく、
後代史書と同じく、後代史家の判断や書き換えが存在する可能性がある半分バツ情報であるから、
根拠としての採用は、半分バツ。
0487日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 20:53:36.36
>>483
「水行という文言は沿岸航行という意味で使用する」、と定義した
事ならないよ。
「渡海も沿岸航行も両方含む」
倭人から聞いたのみかもしれない。
0488日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 20:57:53.17
>>476
>★奈良邪馬台国・完全版 邪馬台国への航路・・・

邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、バツであり、
奈良説自体も「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國中心は北部九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、バツであり、
大和は、九州倭國の東征毛人五十五國で征服された「地方の市を監督する大倭職」の、
旧小国の倭種にしかならないから、バツ。
0489日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 21:02:34.26
>>477
>・・・狗奴国との戦争が休戦になると、卑弥呼の亡骸は、生まれ故郷奈良三輪山山麓に作られたの箸墓古墳に改葬されました
これは、徳川家康公が死後1年後、久能山から日光に改葬されたのとおなじ理屈です

「南≠東」や「卑弥呼の冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州であった」などの、
史料事実や史料実態に拠っ「奈良三輪山山麓に作られたの箸墓古墳」説が、バツ。
0491日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 21:17:08.00
>>467
一大率は奴国( あるいは魏志の時代に
台頭してきた国を持たない阿每氏)
伊支馬、彌馬升、彌馬獲支、奴佳鞮
は邪馬壹國にいる。
共立され北部九州へ
邪馬壹國(近畿)
宗教中心地、開拓地、農業地、水銀産出
57年、「漢委奴国王」までは倭国は九州と認識
邪馬壹國は、倭國之別種也。
0492日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 21:20:06.61
>>473
「女王之所都」は宗教地としての都だな。
0493日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 21:21:10.18
>>472
九州倭國の「東征毛人五十五國」で征服され、
地方の市を監督する大倭職の「旧小国」であり、倭種である。

根拠なし
0494日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 21:22:05.78
★奈良邪馬台国・完全版

コメ生産の面から考える

倭人伝によると邪馬台国7万戸(推定人口28万人)とある
人間は、年間150kgのコメを食べる

邪馬台国に必要なコメは
150kg*28万人=4万2000トン
1haあたりの収量を現代より少ない3トン(現代は5トン)とすると、必要な水田面積は1万4000ha
現在の奈良県の水田面積が8000haなので、河内地方も含めれば、ほぼ、28万人のコメは確保できる
*若干の不足分は、粟、稗など雑穀でおぎなう

これだけの水田を確保できるのは、九州では熊本・阿蘇地方くらいでしょう

いずれにしろ、佐賀平野や筑紫平野などが水没していた弥生末期、佐賀、福岡に邪馬台国が存在できる農業基盤はない
おまけに、九州は台風なども多い・・・これじゃ〜食料不足で争いが起こる

治水灌漑の発達していない弥生時代、太古湖底で地味肥沃であり、水害の少ない盆地が、コメ作りに最も適している
(ただし、扇状地の発達した盆地は不向き)
おまけに、盆地は外敵の侵入から守るにも有利

弥生時代の国家は・・・・ザ・盆地にうまれた

ちなみに、奈良盆地は西日本最大の盆地

だから、邪馬台国が成立した
0495日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 21:30:33.58
>>478
★奈良邪馬台国・完全版2

卑弥呼の最後(><)

卑弥呼は、邪馬台国連合(奈良・岡山・四国・北九州)と狗奴国(熊本南部・球磨地方に比定)との戦争が始まると、戦勝祈願の
ために、奈良から北九州・宇佐(山国川上流の耶馬溪)に出張しました
当時の戦争は、巫女のお告げが重要でしたので、卑弥呼も最前線に行ったのです
しかし、その戦いの途中、卑弥呼は死にました
北九州軍は、卑弥呼の死を隠し、狗奴国との戦争を続けました
卑弥呼の亡骸は、宇佐に径100歩の塚を作り仮埋葬されました
これが、倭人伝の塚で、その場所は現在の宇佐八幡宮です

狗奴国との戦争が休戦になると、卑弥呼の亡骸は、生まれ故郷奈良三輪山山麓に作られたの箸墓古墳に改葬されました

これは、徳川家康公が死後1年後、久能山から日光に改葬されたのとおなじ理屈です
0496日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 21:33:38.55
>>475
九州、四国、近畿、渥美半島も近いから渡海にならない。
陸地が見える。豊後水道、紀伊水道、伊良湖水道は難所だが
倭人は長けていた。関東、千葉にも鉄、銅 出土。
0497日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 21:38:57.91
>>482
倭人在帶方東南大海之中です。
対馬海峡からではありません。
0498日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 21:41:38.95
>>475
>伊勢の辺りまで女王国

畿内説は、奈良大和では「魏志倭人伝」に合わないから、畿内へと範囲を広げた苦肉の策によるトンデモ説。  
挙句の果てに、女王国を「畿外」の伊勢湾まで広げる姑息な詐欺集団。  わははははは   @阿波
0499日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 21:46:43.76
>>496
>関東、千葉にも鉄、銅 出土。

関東忌部な。   @阿波
0500日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 21:57:23.19
伊都国 有千餘戶 ショボいな。
現糸島市、怡土想定が違うかもね
0501日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 22:02:03.22
>>499
半島から関東まで、或いはさらに先までの
航海術
唐と戦争で半島経由がオジャン。
慣れない直行便で難儀というのが見えますね
0502日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 22:32:53.70
>>471
畿内説では説明がつかない
0503日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 22:41:22.31
>>502
九州から四国、
四国から近畿
近畿から静岡
丹後から石川県
何説でも成り立つ
0504日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 22:58:07.99
>>497
畿内説もとうとう対馬海峡を無視するまでに思考が崩壊してしまったのかw
0505日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 23:04:38.39
>>504
対馬海峡を無視とは書いていない。
なんで書いていない事まで付け足しする
のか?

倭人在帶方東南大海之中
対馬海峡からではありません。
0506日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 23:11:12.63
狗邪韓國の想定地も定まっていません。
釜山、巨済島等とあります。
それぞれ定義があり、共通のコンセンサスすらない。
定義が違うから当然のこと
0507日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 23:23:49.09
>>475
バツ
伊勢湾知らないのかな。
伊勢湾の何処にいても陸地は見えるのだ、伊勢湾を舟で行くのは君の論法でいけば水行に該当する。
0509日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 01:23:15.16
>>332
回答ありがとうございます!

>>376
回答ありがとうございます!
対馬や壱岐や松浦や糸島は発音から予想できるけど
他の国は部族名でカテゴライズされているという説もあるんですね
勉強になりました
0510日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 04:50:07.43
>>491
>・・・邪馬壹國(近畿)・・・

「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、バツ。
0511日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 04:53:27.46
>>494
>★奈良邪馬台国・完全版・・・

「邪馬台国」なんて、存在もしなかった嘘つき騙し文言であるからバツであり、
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、「奈良」説はバツ。
0512日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 04:55:47.39
>>405
>★奈良邪馬台国・完全版2 卑弥呼の最後(><)
卑弥呼は、邪馬台国連合(奈良・岡山・四国・北九州)と狗奴国(熊本南部・球磨地方に比定)との戦争が始まると、戦勝祈願の
ために、奈良から北九州・宇佐(山国川上流の耶馬溪)に出張しました
当時の戦争は、巫女のお告げが重要でしたので、卑弥呼も最前線に行ったのです
しかし、その戦いの途中、卑弥呼は死にました・・・

「邪馬台国」なんて、存在もしなかった嘘つき騙し文言であるからバツであり、
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、「奈良」説はバツ。
0513日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 05:03:40.01
>>503
>九州から四国、四国から近畿 近畿から静岡 丹後から石川県
何説でも成り立つ

「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、女王國(≒倭國)は「ほぼ九州島付近」であり、
「女王國から東渡海千余里」の倭種は、女王國には含まれず、
半独立的な「倭種」であり、
「四国から近畿 近畿から静岡 丹後から石川県」説はバツ。
0514日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 05:27:28.94
>>507
同意
鳥羽から伊勢湾フェリーに乗ったが、伊勢から知多半島ははっきりと見える。
>>475水行に当たる
0515日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 05:31:23.51
>>514
補足
航行中、常に三重県の陸地、愛知県の陸地は常に見える。、>>475一度伊勢湾フェリーを乗ることを勧める。
あなたの考えも変わると思う
0516日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 06:55:17.03
>>475
>伊勢の辺りまで女王国


畿内説は、奈良大和では「魏志倭人伝」に合わないから、畿内へと範囲を広げた苦肉の策によるトンデモ説。  

挙句の果てに、女王国を「畿外」の伊勢湾まで広げる姑息な詐欺集団。  わははははは   @阿波
0517日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 07:16:07.08
>>483
>「循海岸水行」と書いた時点で、
>「水行という文言は沿岸航行という意味で使用する」、と定義した事になる。

ならば、南至る投馬国水行20日、南至る邪馬台国女王之所都水行10日陸行1月、も
沿岸航行に限定されるから、本州や屋久島・種子島には渡らない。つまり九州島を出ることはないな!
0518日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 07:34:26.90
>>517
>沿岸航行に限定されるから、本州や屋久島・種子島には渡らない。

豊予海峡(佐多岬)を渡って四国だ。   @阿波
0519日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 07:40:44.76
>>76
>>93
魏志倭人伝「女王国東渡海千里複有国皆倭種 又有侏儒国在其南 去女王国四千里」
東渡海が伊勢湾だとすると、その南にある侏儒国(女王国からは4千里)はどこ?
0520日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 07:46:50.25
>>518
>豊予海峡(佐多岬)を渡って四国だ。   @阿波

渡海、則ち渡ることはないといっているのに、強引に豊予海峡を渡るのかい土座衛門くんww
0521日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 07:49:36.47
伊勢湾なら「渡海」ではなく「水行」だろwww
0522日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 07:53:44.07
伊勢湾が「女王国【東】渡海千里」で、東岸に「複有国皆倭種」なら、【南】狗奴国はどこよ?w
0523日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 07:59:03.67
>>520
>強引に豊予海峡を渡るのかい

豊予海峡は勘弁しろ。  豊予海峡を絶海と言うには酷。   @阿波
0524日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 08:07:37.59
まさか「畿内」説の一端、「狗奴国尾張説(狗古智比狗=河内説)」が崩壊した瞬間を目撃する朝になろうとはw

やはり「畿内」説は「奇(怪)な異」説であることを再確認!北部九州説しかない!w
0525日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 08:21:42.25
>>168
>>169 う〜ん…なるほど
0526日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 09:28:55.68
九州、山陰(日本海側)、山陽(瀬戸内)、本州、四国、近畿も沿岸航法
避難地、食糧考えれば、沿岸航法になる。
0527日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 09:29:01.55
またまた、畿内説は
伊勢湾渡海は論破されてしまったな
ワハハ
俺も伊勢湾フェリーに乗ったこたがあったが、知多半島や三重県の陸地は雨天でも見えたな、
ワハハ
0528日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 09:31:02.56
渡海て千里以上なんだろうな。陳寿の定義?
0529日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 09:42:27.53
千里以上 対馬〜壱岐間と同じ距離を想定

志摩〜浜松は渡海だな。

各地でも成り立つな。
0530日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 09:47:58.31
>>527
伊勢湾通らない
太平洋ルート
志摩〜御前崎もあるよ。

渡海も水行、沿岸航法 日本各地どこでも想定できるだが?
0531日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 09:54:25.69
>>530
>渡海も水行、沿岸航法

絶海では、絶対に沿岸航行できない。   @阿波
0532日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 10:10:35.54
門司から下関はもっとはっきりと見える
0533日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 10:17:58.45
関門海峡を渡るのが渡海だと言い出す九州説は、もう世間の笑い者決定だな
0534日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 10:21:28.89
>>529
>千里以上 対馬〜壱岐間と同じ距離を想定 志摩〜浜松は渡海だな。
各地でも成り立つな。

「千里以上」なんて判断基準を造る事がそもそもバツなのであり、
「志摩〜浜松」の話に持ち込む事も、
「南≠東」などの史料事実や史料実態に違背しており、バツだな。
0535日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 10:26:38.03
>>530
>伊勢湾通らない 太平洋ルート 志摩〜御前崎もあるよ。
渡海も水行、沿岸航法 日本各地どこでも想定できるだが?

これも同じ。
「太平洋ルート 志摩〜浜松」の話に持ち込む事も、
「南≠東」や「卑弥呼の冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの、
史料事実や史料実態に違背しており、バツだな。
「南≠東」などの史料事実や史料実態に違背しており、バツだな。
0536日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 10:27:03.10
>>530
志麻も何国?
0537日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 10:27:55.47
>>522
>伊勢湾が「女王国【東】渡海千里」で、東岸に「複有国皆倭種」なら、【南】狗奴国はどこよ?w

FAQ 9のA
:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
 これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
0538日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 10:32:27.35
そのあたりが日本のあらゆる東西文化の境界だからな
0539日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 10:33:32.84
>>530
志摩から御前崎の航行も同じ、常に本州の陸地は見えるよ。
陸地が見えない遠海航行は何の意味無いしね。、、愛知県在住だから良くわかるよ
0540日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 10:36:20.51
>>537
渡海の説明が無いな。
0541日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 10:41:44.08
>>533
>関門海峡を渡るのが渡海だと言い出す九州説は、もう世間の笑い者決定だな

「女王國東渡海千餘里,復有國,皆倭種。又有侏儒國在其南,人長三四尺,去女王四千餘里。
又有裸國、K齒國復在其東南,船行一年可至。
參問倭地,絕在海中洲島之上,或絕或連,周旋可五千餘里。」の、
「女王國東渡海千餘里,復有國,皆倭種」の上陸の後、
「其の南」の侏儒國付近まで陸行する事が出来たんだから、
「復有國,皆倭種」は、どうしても四国の西北部付近になるしかなく、
関門海峡の話に摩り替える議論を持ち出すこの大和説男(東大理系博士号自称男?)は、
もう世間の笑い者決定だな。
0542日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 10:42:00.72
>>537
纏向の政治集団?
ハー
住居跡もろくに無いのに何が政治集団なんの?
纏向の調査
0543日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 10:46:31.58
>>541
水行と渡海の違いを述べて、伊勢湾とか御前崎、、は渡海と言う。
いい加減な事を言う畿内説の馬鹿が何を言う。
0544日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 10:54:55.17
>>537
纏向の政治集団も通勤で纏向ってか
ワハハ
0545日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 11:05:22.72
>>537
糞テンプレを出すとロクな事は無いの見本、
0546日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 11:07:29.16
>>544
巫女千人と兵と政治家は巻向まで
通勤なのらWw
0547日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 11:14:26.86
>>540
>渡海の説明が無いな。

渡海の説明はFAQ 33のA
:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
0548日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 11:16:02.05
>>542
>住居跡もろくに無いのに何が政治集団なんの?

纒向遺跡が政治的な場所だったというのは、もう通説だよ
0549日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 11:20:53.55
>>539
陸地が見えない遠海航行
遠海。

渡海に定義?
九州から四国も陸地が見える
四国から近畿も陸地が見える
0550日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 11:26:34.83
>>549
航路が外洋性なら渡海だろ
航海民なら知ってるはず
0551日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 11:39:06.51
>>537
>FAQ 9のA
:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。

推定年代も言えず、「分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域」というだけなら、
九州倭國などとの関係が皆無であり、
在地のS字甕や多孔銅鏃の文化や武器が存在した、というだけの事であり、
「南≠東」や「水行や渡海の論拠」にも全くならない。

>庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。

大和の庄内1〜布留は、3世紀末以後である事が確定しており、
卑弥呼や狗奴國は3世紀前半のであり、年代も始めから関係がなく、
狗奴國も九州であって毛野ではないから、バツ。

>これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、
東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある

まったく史料事実や史料実態とは関係がなく、分裂幻覚妄想的な弁舌に過ぎないから、バツ。
0552日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 11:40:38.33
>>487
>「渡海も沿岸航行も両方含む」

そんな話は聞いたこともない
川を遡るときは泝流
川を下るときは順流
循海岸の海の移動が水行
外洋に出るのが渡海

水上移動もすべて区別されている

>倭人から聞いたのみかもしれない。

水行、渡海という漢語表現を、倭人から聞くというのは無理があるだろ?
これは最初から漢文話者の用語だよ
0553日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 11:41:14.87
>>1
FAQ9の
> 渥美半島経由で東海航路に進出する<

ここで言う東海航路てどこからどこまて
渥美半島より東は分かったが、、
0554日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 11:42:33.37
>>538
>そのあたりが日本のあらゆる東西文化の境界だからな

九州の女王国(≒倭國)や狗奴國とは、直接的な関係のない論だから、
無駄で無意味だな。
0555日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 11:42:47.15
>>485
>いっそ「邪馬台県」に県名を変えるべきではないでしょうか?

ずっと、ヤマト国を名乗ってただろ?
0556日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 11:45:49.77
>>548
何でも通説をつけりゃ良いと思ってる馬鹿

畿内説内の通説?
畿内説でも纏向を王都としない意見もあるしな
0557日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 11:46:31.26
>>492
>「女王之所都」は宗教地としての都だな。

また、勝手な思い込みで決めつけをしているw
それ、トンデモカルトしかやらないバカなこと、だぞ

王の都と宗教の都が分離するためには政教分離が必要だが、
卑弥呼も含め古代では、王が宗教の上でもトップであり、
王の居所が同時に宗教の中心でもある

まあ、宗教上の故地、聖地はありうるが、
そういうところが都と呼ばれることはない
0558日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 11:47:00.04
>>539
>志摩から御前崎の航行も同じ、常に本州の陸地は見えるよ。
陸地が見えない遠海航行は何の意味無いしね。、、愛知県在住だから良くわかるよ

これも、「女王國東渡海千餘里,復有國,皆倭種」の問題とは、何ら直接的な関係が全くなく、
一種の分裂幻覚の妄想ごっこのような話だから、バツね。
0559日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 11:48:56.99
>>506
>狗邪韓國の想定地も定まっていません。

いやこれは、狗邪=伽耶で、のちの金官伽耶の辺りというのが既に定説だぞ

それを認めないにだーって言っている人がいるだけで
0560日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 11:49:54.97
>>552
外洋に出ていない
豊後水道、紀伊水道、伊良湖水道
は含まれない。
0561日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 11:54:14.30
>>548
それ馬鹿学者どもが、憶測、憶測で立てただけ
何が政治集団なんだよ。住居跡も僅か。
防衛機能は無い。生活臭はしない。現調査状況だろ。
巫女や兵は野宿かい。貴族も野宿かい。
0562日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 11:54:28.49
>>507
>バツ
>伊勢湾知らないのかな。

それ前半部分しか否定してない
それに、伊勢側から伊良湖崎は見えないし、船での移動は渡海だと体感されるだろ

それから、テンプレとは意見が異なるけれど、
魏略ではその文はこの位置にあるし、「東」もない
倭在帯方東南大海中依山島為国「度海千里復有国皆倭種」
これがもともとの位置だとすると、
半島から南に行くと倭国
倭国の対馬から渡海千里して壱岐に行っても、壱岐から渡海千里しても
また倭人の国があって、みんな倭種で韓人や漢人の国ではない
という意味になる

これが本来なんだと思うよ
倭国は途中に海峡がある列島で、海峡を渡った(渡海千里)先もみんな倭種、
倭人の国だっていうだけの説明
0563日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 11:54:58.42
>>554

朝鮮部落は東西文化とは別
0564日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 11:56:00.38
>>557
王の居所が同時に宗教の中心でもある

そんな絶対的な定義などないな。
0565日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 11:56:29.04
>>555
>>いっそ「邪馬台県」に県名を変えるべきではないでしょうか?

>ずっと、ヤマト国を名乗ってただろ?

古事記で「大倭」と名乗っていた、という形跡はあるが、
「ヤマト国」なんて国名の名乗り時期は不明だぞ?。
0566日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 11:58:38.31
>>517
>ならば、南至る投馬国水行20日、南至る邪馬台国女王之所都水行10日陸行1月、も
>沿岸航行に限定されるから、本州や屋久島・種子島には渡らない。つまり九州島を出ることはないな!

前にこの写真出しただろ?
関門海峡を沖合から見たところ
https://i.imgur.com/LEf95qW.jpg

関門海峡は水行していて通りかかっても、海峡だと意識されない

屋久島・種子島には渡らないけれど、日本海航路で北部九州から本州に移動するのは
間違いなく「水行」
0567日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 11:59:54.15
>>566
沿岸航行でもある。
0568日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 12:12:59.84
>>519
>東渡海が伊勢湾だとすると、その南にある侏儒国(女王国からは4千里)はどこ?

侏儒国、裸国、黒歯国は、淮南子の時則訓にも出てくる伝説の国
実在の国じゃないから、どこになるとか考えるだけ無駄
0569日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 12:13:19.15
>>553
>ここで言う東海航路てどこからどこまて

FAQ33に
「伊勢から遠駿相総等への東海航路」って書いてある
0570日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 12:15:40.35
>>522
>東岸に「複有国皆倭種」なら、【南】狗奴国はどこよ?w

陳寿の世界観では、日本列島は会稽東冶に向かってひたすら南に延びていることに
なっているから、「南」は帯方郡から遠い方向と読めばいい

伊勢(女王国)から先へ渡海したところが、倭種の国で狗奴国でいいよ

狗奴国→久努國でいい
0571日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 12:16:28.39
>>569
>伊勢の辺りまで女王国


畿内説は、奈良大和では「魏志倭人伝」に合わないから、畿内へと範囲を広げた苦肉の策によるトンデモ説。  

挙句の果てに、女王国を「畿外」の伊勢湾まで広げる姑息な詐欺集団。  わははははは   @阿波
0572日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 12:16:39.26
>>551
>推定年代も言えず、「分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域」というだけなら、

自分で
>庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
って引用してるのに白痴かよ

>大和の庄内1〜布留は、3世紀末以後である事が確定しており、

それ、素人爺さんが一人で言ってるトンデモ説だから
0573日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 12:24:47.37
>>570
女王国の範囲が北部九州〜近畿
邪馬壹國,女王之所都 近畿
女王は共立され滞在地は北部九州
次有奴國,此女王境界所盡。其南有狗奴國
邪馬壹國の南に狗奴国の記載はない。
南九州が狗奴国
0574日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 12:41:39.54
魏志倭人伝の書かれた紀元3世紀前半には、大和王権の力は、まだ九州に及んでいなかった。
その時期に、畿内から中国と交易しようとすると、瀬戸内海や九州を通過しなければならない。
無事に中国へたどり着けるとは思えない
0575日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 12:58:05.22
>>566
見た目だけで結論を下すのはよろしくない。
幅が広かろうと狭かろうと、激しい海流・潮流・干満差を超えるには高度な航海の知識が必要だった。
平家の末路を見てもわかるだろう
つまり、当時の危険極まりない関門海峡を越えるのは、決死の渡海だったのだ。
0576日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 13:01:16.43
>>畿内から中国と交易しようとすると、瀬戸内海や九州を通過しなければならない。
無事に中国へたどり着けるとは思えない

だから女王国の範囲が北部九州〜近畿。
日本各地で鉄、銅が産出する。
九州北部が不安定なら農具器具、開拓器具に使う鉄の供給できなくなる。
また、相互で食糧調達、交易にも支障
邪馬壹國も国々のひとつにすぎない。
卑弥呼が中心で邪馬壹國が中心ではない。

大和王権はその後の話
0577日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 13:04:52.49
>>561
邪馬壹國が開拓地という証拠だな。
なので官有伊支馬,次曰彌馬升,次曰彌馬獲支,次曰奴佳鞮
と4人いる。
4ブロックで開拓、その内の一つが纏向遺跡
それを記紀では一代でしようとするから、年齢がトンデモになる。
0578日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 13:14:00.02
>>576
>だから女王国の範囲が北部九州〜近畿。

「卑彌呼」の時代に、「北部九州〜近畿」を集権など出来るわけがない。

「狗奴国」にさえ、手こずっているのに、何を考えているのやら。  わははははは   @阿波
0579日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 13:19:04.02
>>578
集権?
共立に賛同しないのが
「狗奴国」のみなんだか?
0580日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 13:38:02.75
>>562
伊勢から伊良湖岬は良く見えるよ。
地理ですが、伊勢と知多半島に囲まれてるのが伊勢湾、知多半島と渥美半島に囲まれているのが三河湾。
伊勢からだと、渥美半島南端の伊良湖岬の方が知多半島南端より近いです。
伊勢から海へ出れば、知多半島も渥美半島も見えます。
蛇足ですが、南知多町の海老フリャーの美味しいお店、(まるは食堂)を紹介しておきます。
            愛知県在住
0581日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 13:41:59.22
>>579
南の「狗奴国」さえ、手こずっているのに、何を考えているのやら。  わははははは   @阿波
0582日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 13:46:51.41
>>569
すると
FAQ9の
> 渥美半島経由で東海航路に進出する<
は修正しなければなりません。
伊勢からだと渥美半島も東海航路ですから
0583日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 13:50:47.47
>>576
>だから女王国の範囲が北部九州〜近畿。

これは、「北部九州〜近畿」で共立した女王が支配しているということ。
「狗奴国」にさえ、手こずっているのに、何を考えているのやら。  わははははは   @阿波
0584日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 14:00:22.68
>>562
嘘つき、あんた伊勢にも伊良湖岬にも行った事ねーだろ。
どちらからも、互いに見えるよ。
0585日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 14:05:25.61
>>583
「北部九州〜近畿」で共立した女王が支配している?
支配?

わははははは 
0586日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 14:08:06.30
>>580
俺も行った。まるは食堂。南知多から、渥美半島も、伊勢方向もよく見えるのは確か。地図みたら、伊良湖と鳥羽はちかいね
0587日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 14:10:31.36
>>585
「狗奴国」にさえ、手こずっているのに、「女王国の範囲が北部九州〜近畿」だと?  何を考えているのやら。  わははははは   @阿波
0588日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 14:15:00.15
>>546
それ>>1奥山説
畿内説でそんな事言うやつは居ない。
0589日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 14:17:08.06
>>587
「北部九州〜近畿」で共立した女王が支配している?
支配?

わははははは 
0590日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 14:18:23.19
>>580
サンキュー、東海航路だったけ、畿内説流に言えば、渡海で無く水行に決まりだな。
お粗末だな畿内説は^_^
0591日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 14:21:25.74
>>589
支配がどうした? 支配していなかったら、、「女王国の範囲が北部九州〜近畿」になるのか?

「狗奴国」にさえ、手こずっているのに、何を考えているのやら。  わははははは   @阿波
0592日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 14:26:47.25
>>590
そうなると
四国も渡海でないな。
女王國東渡海千餘里,復有國,皆倭種,又有侏儒國在其南
て幻か、山海経等の古い文献と組み合わせ?
0593日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 14:30:32.98
>>591
支配していなかったら、、「女王国の範囲が北部九州〜近畿」になるのか?
わはは
0594日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 14:53:49.95
>>593
それ、反論しているつもりなのか?  下らんこと、考える前に、「狗奴国」をなんとかしてからにしろ!  わははははは   @阿波
0595日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 14:55:34.85
>>588
>畿内説でそんな事言うやつは居ない。

なんて言ってる?
0596日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 15:05:16.64
>>595
巫女千人、、、、、纏向へ通勤
0597日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 15:46:01.06
>>596
だから、1以外の人はなんて言ってるの?
0598日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 15:48:35.76
>>597
触れてないから言って無い
言ってる学者いたらあげなさいよ、
0599日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 16:03:11.34
>>597
纏向王都とぶち上げた奴は、逃げたか
一生懸命に住居跡を探してんじゃねーの
吐いた唾は飲み込めないから、
いまのところ、十数年前から進捗無し。
税金の無駄
0600日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 16:09:50.34
>>599
>纏向王都とぶち上げた奴は、逃げたか
>一生懸命に住居跡を探してんじゃねーの

「纒向遺跡は、3世紀初頭から4世紀初めにかけて営まれた、極めて大規模な集落跡である。《中略》同時期の居住域や墓域および祭祀遺構、大溝などが広範囲に広がってい
ることも明らかとなった」(文化庁平成25年)
0601日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 16:11:20.64
>>598
>触れてないから言って無い

つまり近隣の村落からの通勤であることを誰も疑っていない
0602日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 16:28:32.87
畿内説、「狗奴国」で苦戦
方位も距離もバタバタ
0603日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 16:32:42.28
>>601
相手にしてないか、通勤説なんて聞いた事が無いのだろうな。
疑って無い研究者の誰かも特定できないだろ。
0604日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 16:37:38.93
>>582
日本語わかりますか?
> 渥美半島経由で東海航路に進出する<
A経由でBに進出する。
名古屋経由で東京に進出する。
AはBに含まれない。
名古屋は東京に含まれない
0605日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 16:47:07.60
>>604
訂正
>>582ゴメン

再度
>>569 奥山へ
日本語わかりますか?
> 渥美半島経由で東海航路に進出する<
A経由でBに進出する。
名古屋経由で東京に進出する。
AはBに含まれない。
名古屋は東京に含まれない

よって、渥美半島までは東海航路に含まれない事になる。
それを、しゃあしゃあと良く言うよ

>FAQ33に
「伊勢から遠駿相総等への東海航路」って書いてある<

 
0606日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 16:50:48.14
>>603
>相手にしてないか、通勤説なんて聞いた事が無いのだろうな。
>疑って無い研究者の誰かも特定できないだろ。

頭悪いんだな
普通の通勤圏3〜5km以内に遺跡はたくさんあるので通勤と考えるのが当たり前
だから誰も疑問に思ってない
そもそも、たくさんの人が来ていることは確定してるんだから通勤していたか遺跡内に住んでいたか、二択だ
0607日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 16:53:26.93
>>605
渥美半島って遠駿相総に入らないぞ
0608日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 16:54:02.08
>>1
あとさ遠駿もいいけど
普通は駿遠
0609日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 16:56:04.52
>>607
入らないよ、でも東海航路に入るんだろ
0610日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 16:56:53.01
>>594
支配していなかったら、、「女王国の範囲が北部九州〜近畿」になるのか?
わはは
0611日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 17:00:37.32
>>605
>名古屋経由で東京に進出する。
>AはBに含まれない。

「品川経由で東京に入る」「新宿経由で東京に入る」って言わない?
0612日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 17:01:48.89
>>608
>普通は駿遠

たぶん奥山は西から列挙した
0613日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 17:03:09.07
>>606
それさ、各々の主張の文献なり示さないと、住居跡に触れたく無いと思われぞ。
だから、通勤と言う研究者名を挙げろよ、
0614日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 17:09:31.22
>>606
>通勤圏3〜5km以内に遺跡はたくさんあるので通勤と考えるのが当たり前 <

纏向にほとんど人が住んで無いとでも。
また、その通勤圏内の三世記と特定できる住居跡は何棟なの。
そして全て纏向勤務の人の住居なの。
証明してよ。
0615日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 17:10:53.17
>>611
目的地の東京って何処よ
0616日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 17:16:16.97
>>610
「狗奴国」にさえ、手こずっているのに、「女王国の範囲が北部九州〜近畿」だと?  何を考えているのやら。  わははははは   @阿波

下らんこと、考える前に、「狗奴国」をなんとかしてからにしろ!  わははははは   @阿波
0617日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 17:18:05.29
>>611
言いませんよ。
品川駅経由、東京駅なら言うけれど。

関西でも、難波経由、大阪に行くとは言いません。
0618日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 17:22:26.59
クスクス
奥山はいつでも一手詰で敗戦。
0619日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 17:24:55.88
>>616
阿波さん
馬鹿を相手に遊びすぎですよ。
0620日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 17:29:01.64
>>619
悪趣味かな?  わははははは   @阿波
0621日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 17:34:57.68
>>615
>目的地の東京って何処よ

だから、行き先が点じゃなくて範囲の場合は経由地がその範囲内でいいんだよ
0622日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 17:41:37.99
>>614
>また、その通勤圏内の三世記と特定できる住居跡は何棟なの。

またいつものバカが騒いでるのかw
纒向に人が住んでないなら通勤してたの一択
人が住んでたなら住居ないないダダコネが終焉
どっちにしろアンチの一手詰め敗北じゃないか
0623日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 17:43:17.70
>>620
「北部九州〜近畿」で共立した女王が支配している?
支配?

わははははは 
0624日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 17:49:54.05
>>617
>関西でも、難波経由、大阪に行くとは言いません。

岸和田から難波経由で大阪へ行くって普通言うだろ
0625日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 18:03:39.00
>>562
>魏略ではその文はこの位置にあるし、「東」もない
倭在帯方東南大海中依山島為国「度海千里復有国皆倭種」これがもともとの位置だとすると、
半島から南に行くと倭国
倭国の対馬から渡海千里して壱岐に行っても、壱岐から渡海千里しても
また倭人の国があって、みんな倭種で韓人や漢人の国ではない
という意味になる これが本来なんだと思うよ
倭国は途中に海峡がある列島で、海峡を渡った(渡海千里)先もみんな倭種、
倭人の国だっていうだけの説

ダメだ。
魏略は、後代学者らの「自己解釈に拠る引用」をしたと思われる「逸文」しか残っておらず、
そんなレベルの「逸文」では、
同時代の魏の役人らの実地の見聞計測の記録をそのまま記載した、
という確率が非常に高い魏志記述の方が、はるかに信頼性も確率も高い。
0626日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 18:06:14.42
>>624
難波経由で大阪の何処へ行くのですか?
0627日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 18:08:15.56
>>624
難波も大阪やん
経由しなくてもいいじゃん。
0628日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 18:11:40.08
>>624
難波に着いた途端に大阪に着いた事になりませんか?
大阪の定義はどの地域ですか?難波以外の地域なら分かりますが、、
なんはは大阪で無いのですか?
0629日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 18:22:40.78
>>628
どこまで大阪かなんて言ってる人の意識次第やろ
板橋は東京ちゃう言うてる東京人もいる
0630日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 18:34:11.81
>>629
その人も奥山さんのテンプレ同様の人です。板橋は東京都板橋区です。
0631日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 18:35:22.21
>>629
オモロ、
そのノリでテンプレ作ったのか
ダメだこりゃ
0632日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 18:50:50.89
>>1さんお頼みします。
畿内説支持はわかりますが、、いえ何も

参ったなー  
0633日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 18:51:28.28
>>568
>侏儒国、裸国、黒歯国は、淮南子の時則訓にも出てくる伝説の国
実在の国じゃないから、どこになるとか考えるだけ無駄

ダメだ。
「女王國東渡海千餘里,復有國,皆倭種。又有侏儒國在其南,人長三四尺,去女王四千餘里」
であり、
「參問倭地,絕在海中洲島之上,或絕或連,周旋可五千餘里」の「周旋可五千余里」が、
「絕在海中洲島之上,或絕或連」の倭地の陸路参問としての記載里数計算として、
400余×2+300×2+500+100+(4000里ー1000余)=5000余(里)
となっていて、ぴったり合っており、
魏の役人達が侏儒國付近まで陸路で行って見聞記録した事がはっきり書かれており、
「又有裸國、K齒國復在其東南,船行一年可至」も、
裸國とK齒國が、
其(侏儒國)の「東南に在し、船行一年可至る」のように、
「可」とする(倭人らからの伝聞に拠る)推定があった、という事を示す説明があり、
つまり、侏儒國は3世紀の魏の役人たちが実地に見聞計測した記録であり、
裸國とK齒國も、魏の役人たちは侏儒國人と話しをした形跡がないから、
倭人からの実在伝聞情報であった、という事になり、
「淮南子の時則訓」の伝説の「侏儒国、裸国、黒歯国」の3世紀での実在を、
魏の役人たちが倭人たちから実地に確認した、という事になる。
そして、5世紀の後漢書にも、
「自女王國南四千餘里至朱儒國,人長三四尺。自朱儒東南行船一年,至裸國、K齒國,使驛所傳,極於此矣」として、
魏志の卑弥呼女王の時に「使驛所傳,極於此矣」として「極めた」事を記し、
だから「建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也光武賜以印綬」の「倭國之極南界也光武賜以印綬」は、
「倭國の南界を極むるや、光武、印綬を以って賜う」事であった事になる。
0634日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 18:52:12.22
>>631
奥山はたぶん纒向型前方後円墳の分布で東海航路を考えてるから渥美半島はスキップしてる
0635日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 19:01:57.75
>>1
決定ですよ
FAQ9の 訂正決定は決定ですよ。
私も気づかず失礼。
あなたは、変えないだろうけど。テンプレの訂正はしたほうが良いです。
0636日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 19:04:04.46
>>634
奥山は知多半島もスキップだね
奥山は地理感ゼロ
0637日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 19:04:31.00
>>570
>陳寿の世界観では、日本列島は会稽東冶に向かってひたすら南に延びていることに
なっているから、

「会稽東冶」という文言が嘘つき騙しだからバツであり、
陳寿の女王国や狗奴國などの倭地観は、
「ほぼ九州島付近」と、その「女王國東渡海千餘里,復有國,皆倭種」の「東」しか書かれていない。

>「南」は帯方郡から遠い方向と読めばいい

魏の役人たちや倭人は東西南北をほぼ区別出来ており、
だから、この男(おそらく東大理系博士号自称男)は、嘘つき騙しのバツ男。

>伊勢(女王国)から先へ渡海したところが、倭種の国で狗奴国でいいよ

伊勢(女王國)自体が、「南≠東」などに拠ってバツ。

>狗奴国→久努國でいい

これも「南≠東」などに拠って、バツ。
0638日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 19:10:25.47
>>634
奥山はその程度でいいじゃん、
テンプレ長いし、読むのも少数
その少数の奴に逆ネジを食らってるな
0639日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 19:17:05.94
>>573
>女王国の範囲が北部九州〜近畿

いや、陳寿は、「女王國東渡海千餘里,復有國,皆倭種」とはっきり書いており、
女王国と倭種とをはっきり区別しており、
従って「〜近畿」は、女王国ではなく、
九州倭國の東征毛人五十五國に拠って征服された「旧小国」群の地域になる。

>邪馬壹國,女王之所都 近畿

当然「南≠東」や「卑弥呼の冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、「近畿説」は、バツ。

>女王は共立され滞在地は北部九州

これはほぼ正解。
0640日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 19:19:48.67
>>635
その通りだけど、
まず、2000里だけ魏里を使ったところは訂正をした方が良い。
一挙にテンプレを、畿内説の論客が一新すれば良いが、このスレには来ないだろうな。スレ主が奥山じゃなー
0641日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 19:21:45.99
>>631
だよな
0642日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 19:25:11.10
>>635
>FAQ9の 訂正決定は決定ですよ。

どうして?
0643日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 19:29:35.51
>>575
>見た目だけで結論を下すのはよろしくない。
幅が広かろうと狭かろうと、激しい海流・潮流・干満差を超えるには高度な航海の知識が必要だった。
平家の末路を見てもわかるだろう
つまり、当時の危険極まりない関門海峡を越えるのは、決死の渡海だったのだ。

関係がない。
「女王國東渡海千餘里,復有國,皆倭種。又有侏儒國在其南,人長三四尺,去女王四千餘里」
であり、
魏の役人たちは、東渡海千餘里した所から「其の南に在する侏儒國付近」まで、
四千余里ー千余里=三千余里ほど陸行した事になり、
という事は、関門海峡では渡海した後「南に陸行三千余里」する事が出来ず、
だから、渡海があったのは「南に陸行三千余里出来る四国の西北部」付近になる。
0644日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 19:41:37.08
>>640
彼の良いところもあるよ、
次スレ立ててくれるから
テンプレはどうでも良いと思います
失礼
0645日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 19:43:06.35
>>642
まだ分からないの、
ダメだこりや
0646日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 19:54:47.62
>>645
反論出来ないなら諦めろよ
0647日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 19:55:12.47
>>576
>だから女王国の範囲が北部九州〜近畿。

卑弥呼女王国(≒倭國)は、「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「倭國は正北抵新羅」などの、
史料事実や史料実態に拠って「ほぼ九州島付近」だと確定しているから、
「〜近畿」はバツ。「〜近畿」は、
九州倭國の「自昔・・・東征毛人五十五國」に拠って征服された倭種であり、
九州倭國の「地方の市を監督する大倭職」らがいた旧小国群。

>日本各地で鉄、銅が産出する。

卑弥呼の頃の倭地には、「兵用矛、楯、木弓。木弓短下長上,竹箭或鐵鏃或骨鏃」とあるのみであり、
「鉄と銅が産出した」、という記録がない。

>九州北部が不安定なら農具器具、開拓器具に使う鉄の供給できなくなる。

卑弥呼が共立された時点で、一旦ある程度安定した。

>また、相互で食糧調達、交易にも支障
邪馬壹國も国々のひとつにすぎない。
卑弥呼が中心で邪馬壹國が中心ではない。

女王之所都の邪馬壹國は7万戸もあり、中心になっていた。
0648日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 20:02:32.45
>>577
>邪馬壹國が開拓地という証拠だな。

いや、弥生銀座などがあり、列島最大の繁栄地。

>なので官有伊支馬,次曰彌馬升,次曰彌馬獲支,次曰奴佳鞮と4人いる。
4ブロックで開拓、その内の一つが纏向遺跡

纏向説は、「南≠東」や「卑弥呼の冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、始めからバツ。

>それを記紀では一代でしようとするから、年齢がトンデモになる。

記紀は、卑弥呼を隠蔽盗用造作している半分偽書であるから、キミの論がトンデモ。
0649日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 20:27:08.21
★奈良邪馬台国・完全版
邪馬台国への航路

山口県に邪馬台国連合敵対勢力があったため、上関は通れなかった
そのため

伊都国(筑豊地方に比定)より、一旦、九州東海岸を南下し、佐賀関から豊予海峡を渡って佐多岬半島へ

四国北岸ルート
佐多岬半島ー松山ー今治ー鞆の浦ー岡山(児島穴海)ー赤穂ー明石海峡ー大阪湾ー大和川河口ー奈良

投馬国(津山盆地に比定)
岡山ー吉井川ー津山


倭人伝で「南水行」と書かれているのは、九州東海岸を南下するという意味であり

これは、スエズ運河開通前、リスボンからアフリカ西岸を南下し、喜望峰を回ってゴアに向かったのと同じ理屈です
ですから、「南水行」を読み替えずとも、奈良へ行くことはできます
0650日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 20:28:00.93
★奈良邪馬台国・完全版2

卑弥呼の最後(><)

卑弥呼は、邪馬台国連合(奈良・岡山・四国・北九州)と狗奴国(熊本南部・球磨地方に比定)との戦争が始まると、戦勝祈願の
ために、奈良から狗奴戦の最前線阿蘇に出張しました
当時の戦争は、巫女のお告げが重要でしたので、卑弥呼も最前線に行ったのです
だから、卑弥呼の仮宮は、伊都国の南になります
しかし、その戦いの途中、卑弥呼は心筋梗塞で死にました
北九州軍は、五丈原の蜀軍同様、卑弥呼の死を隠し、狗奴国との戦争を続けました
卑弥呼の亡骸は、宇佐に径100歩の塚を作り仮埋葬されました
これが、倭人伝に記載された「塚」で、その場所は現在の宇佐八幡宮です

狗奴国と休戦が成立すると、卑弥呼の亡骸は、生まれ故郷奈良三輪山山麓に作られたの箸墓古墳に改葬されました

これは、徳川家康公が死後1年後、久能山から日光に改葬されたのとおなじ理屈です

このように考えれば、文献資料と遺跡が見事マッチングします(^^)
0651日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 20:43:38.97
>>600
>「纒向遺跡は、3世紀初頭から4世紀初めにかけて営まれた、極めて大規模な集落跡である。
《中略》同時期の居住域や墓域および祭祀遺構、大溝などが広範囲に広がってい
ることも明らかとなった」(文化庁平成25年)

平成25年の文化庁も間違い。
纏向は、3世紀末から4世紀に営まれた、
中〜小規模な集落跡や、祭祀後や、中小建築跡や、
「九州倭國の東征将軍が征服した毛人や出雲系銅鐸祭祀部族を、
生口や守墓人にして作らせた幾つかの大規模墓」しかない。
0652日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 20:52:12.83
>>639
陳寿は、「女王國東渡海千餘里,復有國,皆倭種」とはっきり書いており、
女王国と倭種とをはっきり区別しており
当然「南≠東」や「卑弥呼の冢≠前方後円墳」
実態に拠って、「北部九州説」は、バツだな。

「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの、
史料事実や史料実態がない。
0653日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 20:52:19.91
★奈良邪馬台国 完全版

邪馬台国の食糧生産能力

邪馬台国の人口は、戸数7万戸ですので、28万人と推定されます
ちょっと前の日本人は、1年間にコメ150キロ食べました
ですから、邪馬台国に必要なコメは150キロ*28万人=4万2千トン
このコメを収穫するのに必要な水田面積は、1haあたり収量3トン(現代は5トン)と仮定して、
42000トン÷3トン=1万4000ha
現在の奈良県の水田面積は8000ha
河内、吉野川流域・紀ノ川流域など邪馬台国勢力圏も含めれば、1万4000haは確保できるでしょう
*奈良盆地は弥生時代と地形が同じですので、水田面積も現代の面積と大差ありません
これだけのコメが収穫できる地域は、西日本では奈良盆地周辺だけです

邪馬台国が戸数1000戸程度のショボイ国なら、九州でも可能ですが、7万戸となると、九州では無理です

まず、中国人の書いたいい加減な文献より先に、当時、日本で最もコメが収穫できた盆地を邪馬台国最有力候補地
とすべきだと思います

ザ・盆地・・・・コメ作りにも、防御にも最適な土地
0654日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 20:59:18.08
>>606
>頭悪いんだな
普通の通勤圏3〜5km以内に遺跡はたくさんあるので通勤と考えるのが当たり前
だから誰も疑問に思ってない
そもそも、たくさんの人が来ていることは確定してるんだから通勤していたか遺跡内に住んでいたか、二択だ

この男も頭が悪い大和説者だな?。今のところ、
「以婢千人自侍,唯有男子一人給飲食,傳辭出入。居處宮室樓觀,城柵嚴設,常有人持兵守衞」
の「婢千人自侍」や「常有人持兵守衞」が通勤していた、という証拠はないし、
纏向付近の住居跡もそんなに見つかっていない(3〜5軒や10〜20軒のものだけ)し、
3〜5kmも離れていたら、急場には全く間に合わず、「以婢千人自侍」にもならない。
0655日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 21:00:17.45
★奈良邪馬台国 完全版

豊富な食料により、兵農分離が進んだ邪馬台国

豊富な食料は、人口の増大を可能にし、それが、兵農分離を可能にしたため、邪馬台国は、強大な兵力と豊富な兵糧で、ほとんど抵抗も受けず、周辺諸国を次々と
併合してゆきました
併合した国々の首長は、邪馬台国の「国造」として引き続きその地を治めました

ある意味、邪馬台国の全国統一は、後の豊臣秀吉による全国統一と似ています

圧倒的な兵力と物資があれば、孫子の理想である「戦わずして勝つ」ことができるのです

孫子に逆らったのが、大日本帝国です(^^)
0656日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 21:05:44.92
>>648
弥生銀座などがあり、列島最大の繁栄地
など魏志には記載なし。
0657日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 21:07:18.56
★奈良邪馬台国 完全版

なぜ、卑弥呼は狗奴国に苦戦したのか?
原因は2つ考えられます
1 卑弥呼が高齢だったこと
2 九州に出張したこと

巫女は・・・精霊や神と交わることで「神憑り」するわけですが
高齢になり性的魅力がなくなれば・・・交わる男神はいません(^^)
とくに、地元以外ではその傾向は強くなります

もし、老婆の卑弥呼ではなく、若いピチピチの台与が、卑弥呼レベルの霊力を備えていれば、
後の、神功皇后のように、遠征先でも能力を発揮できたでしょう
0658日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 21:07:48.38
北部九州説は、「南≠東」によってバツ
正北抵新羅の倭國の中心は北部九州という
史料事実や史料実態などない。
0659日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 21:16:57.15
>>649
>★奈良邪馬台国・完全版・・・

邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、この投稿子も嘘吐き騙しのバツ男であり、
「奈良」説も、「南≠東」や「卑弥呼の冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國中心は北部九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、はじめから、バツである。
0660日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 21:19:58.32
>>650
>★奈良邪馬台国・完全版2・・・
このように考えれば、文献資料と遺跡が見事マッチングします

邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、この投稿子も嘘吐き騙しのバツ男であり、
「奈良」説も、「南≠東」や「卑弥呼の冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國中心は北部九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、はじめから、バツである。
0661日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 21:20:28.33
@p
0662日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 21:20:28.49
>>650
>邪馬台国連合(奈良・岡山・四国・北九州)

>だから女王国の範囲が北部九州〜近畿。
「卑彌呼」の時代に、「北部九州〜近畿」で共立など出来るわけがない。
「狗奴国」にさえ、手こずっているのに、何を考えているのやら。  
下らんこと、考える前に、「狗奴国」をなんとかしてからにしろ!  わははははは   @阿波
0663日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 21:23:09.72
>>650
>邪馬台国連合(奈良・岡山・四国・北九州)

「卑彌呼」の時代に、「北部九州〜近畿」で共立など出来るわけがない。
「狗奴国」にさえ、手こずっているのに、何を考えているのやら。  
下らんこと、考える前に、「狗奴国」をなんとかしてからにしろ!  わははははは   @阿波
0664日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 21:29:55.45
>>653
その後の馬鹿デカい古墳があるので
相当な人数が必要なので可7万戸
可xx戸がつくのは、投馬国と邪馬壹國のみで
卑奴母離も置いていません。開拓地ですよ。
道路整備,河川整備、木材を川の上流から流したり
とかのインフラが先にないとつくれません
当然、食糧の確保があり、近畿全般の開発でしょうね。
女王之所都は三重、奈良、和歌山の山地〜海岸線である。

後の修験地、熊野信仰や高野山とかの宗教地になる。
0665日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 21:30:26.20
>>652
陳寿は、「女王國東渡海千餘里,復有國,皆倭種」とはっきり書いており、
女王国と倭種とをはっきり区別しており
当然「南≠東」や「卑弥呼の冢≠前方後円墳」などの史料実態に拠って、
「大和説」は、バツだな。
「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの事は、唐会要の倭國伝の記載実態であり、
その「倭國」は、
後漢書の帥升の国名として書かれたから、ずっと九州倭國の国名であった事になる。
0666日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 21:31:49.16
>>662
「北部九州〜近畿」で共立した女王が支配している?
支配?

わははははは
0667日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 21:32:08.60
★奈良邪馬台国連合  完全版

倭国大乱が・・・・奈良邪馬台国を生み出した

倭国王帥升の死後、2世紀後半の倭国は戦乱に明け暮れた
多くの人々が戦乱を避け、ボートピープルとなって瀬戸内海を東に進み、当時まだ未開の地であった奈良盆地にたどり着いた
奈良盆地は数万の北九州難民により、瞬く間に8000haの水田が開かれ半世紀ほどの間に戸数7万戸を数えるほどとなった
巨大な纏向遺跡が突如、三輪山山麓に現れたのは、こうした時代背景があったのである
0668日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 21:32:51.35
>>663

「北部九州〜近畿」で共立した女王が支配している?
支配?

わははははは
0669日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 21:35:23.46
>>664

邪馬台国候補地を絞り込む際に、重要なのは、食糧生産能力です
現在の海岸平野は、水没もしくは湿地帯でコメつくりはできません

水害のない盆地こそ、弥生時代のコメつくりの中心なのです
だから

奈良盆地

ザ・盆地
0670日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 21:38:16.90
>>669
>盆地こそ、弥生時代のコメつくりの中心なのです

現在の奈良盆地は、水没もしくは湿地帯でコメつくりはできません。  わははははは   @阿波
0671日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 21:42:45.26
★奈良邪馬台国 完全版

このシリーズの仮説のほとんどは・・・・○○県○○市のマック○○店で

サムライ肉厚バーガーセットを食べているときに閃いた

790円は・・・・ちょっと高いけど、醤油ベースのソースがいいですね
0672日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 21:43:06.47
>>653
>★奈良邪馬台国 完全版 

「邪馬台国」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、
この時点で、この大和説男は、嘘吐き騙しの詐欺師男になり、バツ男です。

>邪馬台国の食糧生産能力
邪馬台国の人口は、戸数7万戸ですので、28万人と推定されます

これもバツです。「戸」数は、(家数と違って)、
魏朝の直接的な支配下になった事を示す文言であり、
徴兵や納税の単位の数え方であり、
実際には、成人男子が1人以上あれば1戸と数えるのであり、
従って、夫婦になれば二人であり、子供が一人おれば3人であり、
子供が3人おれば5人であり、
まあ、1戸平均3人位です。
0673日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 21:45:08.42
>>665
陳寿は、「女王國東渡海千餘里,復有國,皆倭種」とはっきり書いており、
女王国と倭種とをはっきり区別しており
「北部九州説」はバツ
当然「南≠東」は史料実態に拠って、
「北部九州説」は、バツだな。
卑弥呼の冢は前方後円墳とかは書いていない。
「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの事は、唐会要の倭國伝の記載実態でない、
「倭國」は、
後漢書の帥升”等”なので範囲が広がる
倭國の国名であった事になる。
邪馬壹國はそのころは小国かな?

建武中元二年(57)光武帝は印綬
倭國は九州のこと。
0674日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 21:48:47.61
>>655
>★奈良邪馬台国 完全版
豊富な食料により、兵農分離が進んだ邪馬台国・・・

邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、
この投稿子も嘘吐き騙しのバツ男であり、
「奈良」説も、
「南≠東」や「卑弥呼の冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國中心は北部九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、はじめから、バツである。
0675日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 21:56:28.94
>>674
「正北抵新羅の倭國中心は北部九州」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、
この投稿子も嘘吐き騙しのバツ男であり、「北部九州」説も、
「南≠東」で 史料事実や史料実態に拠って、はじめから、バツである。
0676日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 21:56:35.38
>>656
>弥生銀座などがあり、列島最大の繁栄地
など魏志には記載なし

邪馬壹國は、魏志倭人伝の記載実態に拠って、
博多湾岸の不彌國の出口から「南」の50里以下(3.8km位以下)の所の、
福岡平野付近に入り口がある国である事になり、
弥生銀座の遺跡付近がぴったりである。
0677日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 22:00:26.41
>>672
これもバツです。「戸」数は、(家数と違って)、
魏朝の直接的な支配下になった事を示す文言であり、
徴兵や納税の単位の数え方であり、
実際には、成人男子が1人以上あれば1戸と数える


戸とは、家族の単位です(^^)
戸長=世帯主

つまり、今風に言えば、7万世帯

ふふふふふふ
0678日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 22:01:44.49
>>657
>★奈良邪馬台国 完全版・・・

邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、
この投稿子も嘘吐き騙しのバツ男であり、
「奈良」説も、
「南≠東」や「卑弥呼の冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國中心は北部九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、はじめから、バツである。
0679日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 22:08:13.40
>>676
邪馬壹國や弥生銀座などの記載がないから
不彌國の出口が50里以下となる。また不彌國は九州の東海岸でなければ
南に水行できない。博多湾から南には海がない。
東に沿岸航法で南に行くしかない。
「南≠東」である。
0680日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 22:10:24.27
>>658
同時代の魏の役人らの実地の見聞計測の記録である魏志倭人伝に記載の史料事実に拠って、
大和説は、「南≠東」によってバツであり、
「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」は、唐会要倭國伝の記載実態であり、
倭國は、後漢書記載の後漢代の帥升の国名の「倭國」からの国であるから、
九州の倭國の事になる。
史料事実や史料実態などない
0681日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 22:11:19.84
★邪馬台国 完全版

投馬国は・・・岡山県東部吉井川流域にあった

弥生時代の国家は・・・盆地にあった
これは、コメ生産と防衛に有利だったからである
だから、西日本最大の盆地である奈良盆地に邪馬台国は成立した

じゃ、第二の経済大国「投馬国」はどこかといえば、吉井川流域しかない
上流の津山盆地は、江戸時代の津山藩の石高が18万5千石
1石は人間1人が食べる一年分のコメ相当だから、18万5千人分の食糧生産能力があることを示す
もちろん、盆地地形は弥生時代と大差ないから、弥生時代も江戸時代相当のコメが収穫できた

おまけに、津山には奈良時代「苫田郡=とまたぐん」があり、これは「投馬=とま」に通じる
さらに、昭和初期まで津山まで船便があり、瀬戸内海と水運で通じていた

食糧生産能力、古代地名の類似性、水運

吉井川流域が倭人伝で言う「投馬国」の可能性は非常に高いといわねばなるまい
0682日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 22:13:29.52
>>680の訂正同時代の魏の役人らの実地の見聞計測の記録である魏志倭人伝に記載の史料事実に拠って、
大和説は、「南≠東」によってバツであり、
「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」は、唐会要倭國伝の記載実態であり、
倭國は、後漢書記載の後漢代の帥升の国名の「倭國」からの国であるから、
九州の倭國の事になる。
いずれも、史料事実や史料実態などが根拠である。
0683日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 22:21:06.83
>>664
>可xx戸がつくのは、投馬国と邪馬壹國のみで
卑奴母離も置いていません。開拓地ですよ。

投馬國は、倭人からの伝聞情報であるから「可」としての「推定」形であり、
邪馬壹國は、戸数が多過ぎて、魏の役人らは目測では数え切れず、
半分倭人からの伝聞情報が入っていたから「可」として、「推定」形にした。
0684日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 22:22:28.54
★奈良邪馬台国 完全版

邪馬台国までの航路

奈良説最大のネックである方位
しかし、船を操縦したことのない素人は・・・・「南」といえば、まっすぐ南に向うこと
と、考える
バカか?(^^)そんな航路、なんの障害もない太平洋のど真ん中にでなけりゃ、無理だちゅーの

伊都国から邪馬台国に行く航路は

まず、九州東岸を佐賀関まで南下する
なぜなら、上関は邪馬台国連合敵対勢力が押さえているので、山口沿岸は航行できないからだ
佐賀関でサバやアジを釣り、食料を確保したら、豊予海峡を渡って、対岸の佐多岬半島に着く
そこから、邪馬台国連合に加盟している四国沿岸に沿って東に進み、来島海峡を通って児島湾(当時は岡山平野全体が湾だった)に着く
投馬国(=津山)に行くには、そこから吉井川を遡上し、奈良へ直行する場合はそのまま播磨灘、明石海峡を抜けて大阪湾に入る

これは、リスボンからゴアに行くとき、アフリカ西岸を南下し、喜望峰を回ってゆくのと同じ理屈である

だから、「南水行」と書かれていても、それは、伊都国出航後九州東岸を南下することであり、その先で方向を変えてもいいのです
なぜなら、中国人は、伊都国より先には言っていませんから(^^)
0685日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 22:25:13.10
>>680
「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」は、唐会要倭國伝の記載実態はなく
倭國は、後漢書記載の後漢代の帥升の国名の「倭國」からの国であるから、
倭國の事になる。

九州という史料事実や史料実態などない。

漢委奴国王印、奴国を魏志で確認できる
建武中元二年(57年)ごろの倭国は九州のこと。
0686日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 22:29:09.11
>>667
>★奈良邪馬台国連合  完全版
倭国大乱が・・・・奈良邪馬台国を生み出した

倭国大乱ではない。魏志倭人伝では「倭國亂」である。

>倭国王帥升の死後、2世紀後半の倭国は戦乱に明け暮れた
多くの人々が戦乱を避け、ボートピープルとなって瀬戸内海を東に進み、当時まだ未開の地であった奈良盆地にたどり着いた

瀬戸内を東に進んだのは「自昔・・・東征毛人五十五國」の征服軍ら別種の倭種であり、
各地の征服地で、九州倭國の地方の市を監督する「大倭」職の旧小国を造った。
0687日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 22:31:25.41
>>684
九州説のいう末盧國 東南陸行五百里と同じだよ。
伊都国は東南方向にない。東南方向に歩きだしたと同様。
南方向に水行で東だろうが西でもいいんじゃないの?
0688日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 22:36:01.05
★奈良邪馬台国 完全版

伊都国ー投馬国ー邪馬台国航路は、なぜ、佐賀関経由だったのか?
それは、山口の敵対勢力が妨害していたから(^^)

当時は、陸地を見ながら航行していた
これは、羅針盤や海図がなかったこともあるが、一番の理由は、長旅時の食糧調達と万が一船が水没した場合、陸に泳ぐためである
北九州から邪馬台国に行く場合(または、その逆も)、船は沿岸の国々で交易をしながら旅をした

でも、それならば、周防灘を山口県沿岸に進むのがベストだが、当時の山口県には邪馬台国の敵対勢力に支配されていた・・・そう考えれば、この最短ルートを通れなかったことも納得できる
もちろん、これは、私個人のこじつけだけど、100%なかったとは言い切れまい

なぜなら、岩国市付近には古代「熊毛郡」があり、ここの首長が交通の要衝、上関を支配していたと考えられるからだ
みなさんは、山口に「熊毛郡」があることに違和感を感じないか?

私は・・・古代ヤマト王権、つまり、邪馬台国最大の敵「熊襲」に通じると思った

もし、熊襲が僻地の鹿児島だったら、大和朝廷はわざわざ征伐などしないだろう?
交通の要衝を押さえていたからこそ、執拗に征伐したのである!
0689日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 22:37:45.96
>>655
卑弥呼の時代に
邪馬壹國に強大な兵力など見当たらない。
鉄鏃などの出土少ないよ。
壹與あたりから増える。
それもほとんど古墳からしかでない。
0690日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 22:37:52.51
>>669
>邪馬台国候補地を絞り込む際に、重要なのは、食糧生産能力です
現在の海岸平野は、水没もしくは湿地帯でコメつくりはできません

東大理系博士号自称男が提示した海岸線地図でも、
卑弥呼の頃の筑紫平野の海岸線は、久留米と吉野ケ里を結ぶ線よりもはるかにずっと有明海側であり、
福岡平野や筑後平野や熊本平野も同じであり、水没部分は少なく、
全部が湿地帯、という事でもありません。


水害のない盆地こそ、弥生時代のコメつくりの中心なのです
だから

奈良盆地

ザ・盆>
0691日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 22:41:24.13
>>687

「南水行」と書かれたら・・・まっすぐ南に進まなきゃならない

ってのが、おかしい(^^)
0692日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 22:42:29.55
>>677
プルタぺーテン
0693日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 22:44:00.37
>>690

東大理系博士号自称男が提示した海岸線地図

あ、その地図は間違いです(^^)
3世紀に、佐賀平野や筑後平野はありません

朝倉盆地以南は、水没、湿地、おまけに筑後川の水害常襲地帯です
0694日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 22:45:00.16
>>673の訂正
陳寿は、「女王國東渡海千餘里,復有國,皆倭種」とはっきり書いており、
女王国と倭種とをはっきり区別しており
「大和説」はバツ
当然「南≠東」は史料実態に拠っても、
「北部九州説」だな。
卑弥呼の冢は前方後円墳とかは書いていない。
「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの事は、唐会要の倭國伝の記載実態である。
「倭國」は、後漢書の帥升等なので、倭奴國の「漢委奴國王」印の出土地の筑紫付近であり、
九州倭國の国名であった事になる。
邪馬壹國はそのころは小国かな?
建武中元二年(57)光武帝は印綬 倭國は九州のこと。
0695日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 22:45:41.05
>>691
末盧國 東南陸行五百里の例だな。
卑弥呼の時代に
邪馬壹國に強大な兵力など見当たらない。
鉄鏃などの出土少ないよ。卑奴母離もない
壹與あたりから増える。
それもほとんど古墳からしかでない。
0696日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 22:47:32.62
>>675
「正北抵新羅の倭國中心は北部九州」であるから、
大和説なんて存在もしなかった嘘つき騙し説であり、
この投稿子も嘘吐き騙しのバツ男であり、
「大和」説も、
「南≠東」で 史料事実や史料実態に拠って、はじめから、バツである。
0697日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 22:48:10.09
>>690

あ、それと、もうひとつ追加します
私は、奈良と確信してますけど、100%ではありません
九州にも唯一可能性がある地域があるからです

それが、熊本ー阿蘇盆地です
ここのほうが、当時の筑後平野や佐賀平野などより、はるかに、コメ生産に向いています

ここで、纏向遺跡に匹敵する大規模集落跡が出れば、奈良と互角になるでしょう
0698日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 22:51:46.44
>>694
勝手に訂正するなよ。
陳寿は、「女王國東渡海千餘里,復有國,皆倭種」とはっきり書いており、
女王国と倭種とをはっきり区別しており
「北部九州説」はバツ
当然「南≠東」は史料実態に拠っても、
「北部九州説」はバツだな

卑弥呼の冢は前方後円墳とかは書いていない。
「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの事は、唐会要の倭國伝の記載実態でない
「倭國」は、後漢書の帥升等 倭國の国名であった事になる。
後漢書に九州、筑紫の記載はない。
邪馬壹國はそのころは小国かな?

建武中元二年(57)光武帝は印綬 「漢委奴國王」までは
倭國は九州のこと。
0699日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 22:55:39.06
>>677
これもバツです。
魏志倭人伝の中で「戸」数記載の国と「家」数記載の書き分けがある事から、
古田さんは、魏朝などの「戸」と「家」の書き分け記載を調べて分析され、
「戸」数は、(家数と違って)、
魏朝の直接的な支配下になった事を示す文言であり、
家数は、魏朝の直接的な支配下になっていない場合に使われており、
「戸」は、徴兵や納税の単位の数え方であり、
だから、実際には、成人男子が1人以上あれば1戸と数える事になる。
0700日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 22:58:26.78
>>697
火山灰は向かない、魏志のいう野菜だな。
使者は、九州から出ていない。
邪馬壹國に行く必要はないから聞いたのみ。

卑弥呼等に合えれば済む。
有男弟佐治國。自爲王以來,少有見者。以婢千人自侍,唯有男子一人給飲食,傳辭出入。居處宮室樓觀,城柵嚴設,常有人持兵守衛
は北部九州。
0701日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 23:01:39.97
>>689

邪馬壹國に強大な兵力など見当たらない。
鉄鏃などの出土少ないよ。

邪馬台国本国(奈良盆地)は・・・戦火を受けたことはありません
だから、鉄鏃などの出土が少ないのです

鉄製武器は当時は大変貴重ですので、そういうものは農具などに再利用され
親から子へ
子からその子へ
と、代々受け継がれました

むしろ、そのような、ものが大量に出土するところってのは、負け組み国家なのです
0702日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 23:02:14.89
>>658
>北部九州説は、「南≠東」によってバツ
正北抵新羅の倭國の中心は北部九州という
史料事実や史料実態などない

大和説は、「南≠東」によってバツ
正北抵新羅の倭國の中心は北部九州というのは、
唐会要の(日本國伝と書き分けられた)倭國伝の方に書かれた史料事実や史料実態などあり、
その倭國の初出は、後漢書の倭國記載。
0703日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 23:06:11.71
>>700

卑弥呼は・・・狗奴戦争時、奈良から九州に戦勝祈願で出張していました
その仮宮がおそらく阿蘇付近にあったと推定しています
阿蘇山は、古代九州で聖なる山でしたからね

おまけに
熊本・阿蘇は、コメ生産にも適しているザ・盆地がある

邪馬台国=奈良本店
邪馬壱国=熊本支店

そう考えてもいいでしょう
0704日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 23:09:04.09
>>700


倭人伝の一説
・・・次有邪馬國・・・

これは、邪馬台国九州支店のことだと思いますね

ザ・盆地(^^)
0705日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 23:09:32.83
>>664
>その後の馬鹿デカい古墳があるので
相当な人数が必要なので可7万戸

九州倭國の「自昔・・・東征毛人五十五國」の征服軍が大和にも入って、
在地の毛人や出雲系銅鐸祭祀部族を生口や守墓人にして、
九州倭國の地方の市を監督する大倭職の、九州倭國の別種の旧小国になって、
巨大前方後円墳などを造り始めたのは、
3世紀末の庄内1の石塚などから。
0706日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 23:10:32.79
>>699
プルタペータンの典型だな。
鵜呑みしかないんだな。
0707日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 23:17:14.58
>>673
陳寿は、「女王國東渡海千餘里,復有國,皆倭種」とはっきり書いており、
女王国と倭種とをはっきり区別しており
「大和説」はバツ
当然「南≠東」は史料実態に拠って、
「大和説」は、バツだな。
卑弥呼の冢は前方後円墳とかは書いていない。
「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの事は、唐会要の倭國伝の記載実態である、
「倭國」は、
後漢書の帥升”等”なので倭國の国名であった事になる。
邪馬壹國は福岡平野の中央部の弥生銀座付近から筑紫平野、及びそれらの周辺丘陵地
建武中元二年(57)光武帝は印綬
倭國は九州のこと。
0708日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 23:18:29.65
>>705
巨大前方後円墳などを造り始めたとは書いていないよ。
「その後の」は呼んでいないのか?
道もなく、水路、人もなく、食糧もなくいきなり
デカい古墳など作れない。土台作りが卑弥呼の時代。
壹與あたりからだろうと思う。
0709日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 23:19:25.79
>>677の訂正
これもバツです。「戸」数は、(家数と違って)、
魏朝の直接的な支配下になった事を示す文言であり、
徴兵や納税の単位の数え方であり、
実際には、成人男子が1人以上あれば1戸と数える
0710日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 23:21:39.89
>>679
これもバツです。「戸」数は、(家数と違って)、
魏朝の直接的な支配下になった事を示す文言であり、
徴兵や納税の単位の数え方であり、
実際には、成人男子が1人以上あれば1戸と数える
0711日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 23:23:41.18
>>707
陳寿は、「女王國東渡海千餘里,復有國,皆倭種」とはっきり書いており、
女王国と倭種とをはっきり区別しており
「北部九州説」はバツ
当然「南≠東」は史料実態に拠って、
「北部九州説」は、バツだな。
卑弥呼の冢は前方後円墳とかは書いていない
「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの事は、唐会要の倭國伝の記載実態がない、
「倭國」は、後漢書の帥升”等”なので倭國の国名であった事になる
九州など記載はない。

建武中元二年(57)光武帝は印綬までの
倭國は九州のことだな。
0712日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 23:23:49.46
>>680
同時代の魏の役人らの実地の見聞計測の記録である魏志倭人伝に記載の史料事実に拠って、
大和説は、「南≠東」によってバツであり、
「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」は、唐会要倭國伝の記載実態であり、
倭國は、後漢書記載の後漢代の帥升の国名の「倭國」からの国であるから、
九州の倭國の事になる。
それが史料事実であり、史料実態。
0713日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 23:26:40.36
>>681
>★邪馬台国 完全版
投馬国は・・・岡山県東部吉井川流域にあった・・・

「南≠東」だけでも、それだけでこの男は、バツ。
0714日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 23:28:04.78
★奈良邪馬台国 完全版

弥生時代の「クニ」は食糧生産と防衛に適した「盆地」に誕生した

古代中国では、国とは城壁に囲まれた王の玉座のこと
だから、漢字のクニは国と書く

しかし、それは、都市を城壁で囲うなど労働力豊富な中国だからできることで、人口不足の弥生時代の日本では、山々に囲まれた「盆地」に巨大国家が出きた
盆地は水害もすくなく、地味も肥えていてコメ生産に適している場合が多い

だから、邪馬台国が存在した可能性が最も高いのは

奈良盆地ってことになる
魏志倭人伝の解釈に四苦八苦するのも、いいけど、所詮、倭国の事情に疎い中国人が書いたものであり、おまけに、長い年月でどこまで原本に忠実なのか?疑問も多いだろ?

むしろ、人間の営みを中心に考えたれば、まず、食糧生産能力がなければ、国家などできないよ
食料が豊富だから、多くに人が集まり、夜の営みも盛んになって労働人口が増える
当時の乳幼児死亡率は現代よりはるかに高い
いっぱい赤ちゃん作らないと、
戦争、飢饉、疫病・・・


あっという間に集落は滅びる(^^)
0715日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 23:31:06.30
>>712
陳寿は、「女王國東渡海千餘里,復有國,皆倭種」とはっきり書いており、
女王国と倭種とをはっきり区別しており
「北部九州説」はバツ
当然「南≠東」は史料実態に拠って、
「北部九州説」は、バツだな。
卑弥呼の冢は前方後円墳とかは書いていない
「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの事は、唐会要の倭國伝の記載実態がない、
「倭國」は、後漢書の帥升”等”なので倭國の国名であった事になる
九州など記載はない。

建武中元二年(57)光武帝は印綬までの
倭國は九州のことだな

同時代の魏の役人らの実地の見聞計測の記録である魏志倭人伝に記載の史料事実に拠って、
北部九州説は、「南≠東」によってバツ
0716日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 23:36:07.28
>>684
>★奈良邪馬台国 完全版
邪馬台国までの航路

邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるからバツである。

>奈良説最大のネックである方位
しかし、船を操縦したことのない素人は・・・・「南」といえば、まっすぐ南に向うこと
と、考える
バカか?(^^)そんな航路、なんの障害もない太平洋のど真ん中にでなけりゃ、無理だちゅーの

いや、倭人の松浦水軍家の「都市」氏は、当然東西南北を「ほぼ間違えない」し、
魏の役人らも、周髀算経や礼記の「東西南北」の計測法を知っているし、
漢代に発見された「磁石」のようなものも当然知っているから、
「東西南北」はほぼ間違えない。
0717日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 23:41:09.27
>>685
「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」は、唐会要倭國伝の記載実態であり、
倭國は、後漢書記載の後漢代の帥升の国名の「倭國」からの国であるから、
九州倭國の事になる。
九州という史料事実や史料実態は、
倭人が「燕の南」にいた時からの、自分らは「中国の九州にいた」と知っていた、
という事。
漢委奴国王印、奴国を魏志で確認できる
建武中元二年(57年)ごろの倭国は九州のこと。
0718日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 23:42:37.92
★奈良邪馬台国 完全版

前方後円墳は・・・・男女の交わりを現している(仮説)

古代国家でもっとも重要だったのは・・・・子造り
円墳(=女性器)
長方墳(=男性器)

もしくは前方後円墳(=男性器)、周濠(=女性器)

前方後円墳を見ると、妙に興奮を覚えるのは・・・私だけだろうか?(^^)

わが国独特の前方後円墳は・・・国家の繁栄=生殖を願うために考案された形状ではないか?

なぜなら、古代日本は、広大な中国大陸と比べ、耕地が狭く、自然災害が多く、集落間や国家間で紛争が絶えなかったから

だから、なかなか人口が増えなかった

仁徳天皇陵のような世界最大の墳丘が、極東の島国で作られた
我々の祖先が持っていた強烈なエネルギーは・・・ピラミッドを作った古代エジプト人や始皇帝陵を作らされた中国人よりも強烈だろう?(^^)
0719日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 23:43:13.41
>>717
陳寿は、「女王國東渡海千餘里,復有國,皆倭種」とはっきり書いており、
女王国と倭種とをはっきり区別しており
「北部九州説」はバツ
当然「南≠東」は史料実態に拠って、
「北部九州説」は、バツだな。
卑弥呼の冢は前方後円墳とかは書いていない
「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの事は、唐会要の倭國伝の記載実態がない、
「倭國」は、後漢書の帥升”等”なので倭國の国名であった事になる
九州など記載はない。

建武中元二年(57)光武帝は印綬までの
倭國は九州のことだな

同時代の魏の役人らの実地の見聞計測の記録である魏志倭人伝に記載の史料事実に拠って、
北部九州説は、「南≠東」によってバツ
0720日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 23:46:33.16
>>688
>★奈良邪馬台国 完全版
伊都国ー投馬国ー邪馬台国航路は、なぜ、佐賀関経由だったのか?
それは、山口の敵対勢力が妨害していたから(^^)

「伊都国ー投馬国ー邪馬台国航路」なんて史料事実には存在しないから、
嘘吐き騙し文。
実態は「女王國東渡海千餘里,復有國,皆倭種」と書かれているから、
女王國が出発地。
0721日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 23:50:20.73
>>689
>卑弥呼の時代に
邪馬壹國に強大な兵力など見当たらない。
鉄鏃などの出土少ないよ

倭人伝では、
「兵用矛、楯、木弓。木弓短下長上,竹箭或鐵鏃或骨鏃」と記録出来ている。
0722日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 23:51:58.68
>>690の訂正
>>669
>邪馬台国候補地を絞り込む際に、重要なのは、食糧生産能力です
現在の海岸平野は、水没もしくは湿地帯でコメつくりはできません

東大理系博士号自称男が提示した海岸線地図でも、
卑弥呼の頃の筑紫平野の海岸線は、久留米と吉野ケ里を結ぶ線よりもはるかにずっと有明海側であり、
福岡平野や筑後平野や熊本平野も同じであり、水没部分は少なく、
全部が湿地帯、という事でもありません。
0723日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 23:55:07.02
>>684
使者、倭人も
「東西南北」はほぼ間違えない。
からいいと思うよ。
末盧國,東南陸行五百里,到伊都國と同様に東南に伊都国はない。
南を否定しているわけでもない。南の方向へ水行だからいいんじゃないの?
0724日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 23:57:11.64
>>695
>卑弥呼の時代に
邪馬壹國に強大な兵力など見当たらない。
鉄鏃などの出土少ないよ

倭人伝には「兵用矛、楯、木弓。木弓短下長上,竹箭或鐵鏃或骨鏃」や、
「居處宮室樓觀,城柵嚴設,常有人持兵守衞」と書かれているから、
ある程度の武力があった。
0725日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 00:04:30.24
>>724
「兵用矛、楯、木弓。木弓短下長上,竹箭或鐵鏃或骨鏃」や、
「居處宮室樓觀,城柵嚴設,常有人持兵守衞」と書かれているから、
ある程度の武力があったけど、それが邪馬壹國という記載はないし
邪馬壹國に卑奴母離の記載もない。
0726日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 00:04:47.52
>>698
陳寿は、「女王國東渡海千餘里,復有國,皆倭種」とはっきり書いており、
女王国と倭種とをはっきり区別しており
「大和」はバツ
当然「南≠東」は史料実態に拠っても、
「大和説」はバツだな

漢語では、「冢」は始皇帝冢のような「錐体や錐体台」的な形状を示す文言であり、
馬韓の家屋の形状や、「崋山」と呼ばれる山々の山頂の形状も「錐体」的である。
卑弥呼の冢は前方後円墳とは書いていない。
「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの事は、唐会要の倭國伝の記載実態である
「倭國」は、後漢書の帥升等 倭國の国名であった事になる。
後漢書に九州の記載はある。
邪馬壹國は女王之所都の「可七万戸」の国。
0727日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 00:12:58.09
>>703
卑弥呼は・・・狗奴戦争時、
邪馬壹國女王之所都で、魏の役人らとのお話がありましたから、
殆ど邪馬壹國女王之所都にいました・
そこで、応対を指示していました
0728日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 00:13:39.44
>>726
陳寿は、「女王國東渡海千餘里,復有國,皆倭種」とはっきり書いており、
女王国と倭種とをはっきり区別しており
「北部九州説」はバツ
当然「南≠東」は史料実態に拠って、
「北部九州説」は、バツだな。
卑弥呼の冢は前方後円墳とかは書いていない
「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの事は、唐会要の倭國伝の記載実態がない、
「倭國」は、後漢書の帥升”等”なので倭國の国名であった事になる
九州など記載はない。

建武中元二年(57)光武帝は印綬までの
倭國は九州のことだな

同時代の魏の役人らの実地の見聞計測の記録である魏志倭人伝に記載の史料事実に拠って、
北部九州説は、「南≠東」によってバツ

卑弥呼の冢は前方後円墳とは書いていない。

邪馬壹國は女王之所都の「可七万戸」の国。

後漢書に九州のみの記載はない。
0729日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 00:16:57.63
>>727
邪馬壹國女王之所都で、魏の役人らとのお話がありました

そんな記載はない。

わざわざ、水行十日,陸行一月の遠い所にはいかないよ。
0730日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 00:18:13.06
>>711
陳寿は、「女王國東渡海千餘里,復有國,皆倭種」とはっきり書いており、
女王国と倭種とをはっきり区別しており
「大和説」はバツ
当然「南≠東」は史料実態に拠っても、
「大和説」は、バツだな。
「冢≠前方後円墳」だから、卑弥呼の冢は前方後円墳だとかは書いていない
「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの事は、唐会要の倭國伝の記載実態。
「倭國」は、後漢書の帥升”等”なので倭國の国名であった事になる
大和など記載はない。

建武中元二年(57)光武帝は印綬までの
倭國は九州のことだな。
0731日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 00:22:23.11
>>714
>だから、邪馬台国が存在した可能性が最も高いのは

邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、バツである。

>奈良盆地ってことになる

「南≠東」や「卑弥呼の冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國中心は北部九州」などの、
史料事実や史料実態に拠ってバツ。
0732日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 00:27:33.14
>>715
陳寿は、「女王國東渡海千餘里,復有國,皆倭種」とはっきり書いており、
女王国と倭種とをはっきり区別しており
「大和説」はバツ
当然「南≠東」は史料実態に拠って、
「大和説」は、バツだな。
「冢≠前方後円墳」であり、卑弥呼の冢は前方後円墳とかにはならない。
「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの事は、唐会要の倭國伝の史料実態
「倭國」は、後漢書の帥升”等”なので倭國の国名であった事になる
「漢委奴國王」印が出土した北部九州の国。

建武中元二年(57)光武帝は印綬までの
倭國は九州のことだな

同時代の魏の役人らの実地の見聞計測の記録である魏志倭人伝に記載の、
史料事実や史料実態に拠って、
大和説は、「南≠東」によってバツ
0733日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 00:34:10.86
>>719
陳寿は、「女王國東渡海千餘里,復有國,皆倭種」とはっきり書いており、
女王国と倭種とをはっきり区別しており
「大和説」はバツ
当然「南≠東」は史料実態に拠って、
「大和説」は、バツだな。
卑弥呼の冢は、前方後円墳とかとは違う形状のもの。
「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの事は、唐会要の倭國伝の史料実態であり、、
「倭國」は、後漢書の帥升”等”なので倭國の国名であった事になる
大和など記載はない。
建武中元二年(57)光武帝は印綬までの
倭國は九州のことだな
同時代の魏の役人らの実地の見聞計測の記録である魏志倭人伝に記載の史料事実に拠って、
大和説は、「南≠東」によってバツ
0734日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 00:34:33.49
>>732
陳寿は、「女王國東渡海千餘里,復有國,皆倭種」とはっきり書いており、
女王国と倭種とをはっきり区別しており
「北部九州説」はバツ
当然「南≠東」は史料実態に拠っても、
「北部九州説」は、バツだな。
卑弥呼の冢は前方後円墳だとかは書いていなし断言もしていない
「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの事は、唐会要の倭國伝の記載実態ではない。
「倭國」は、後漢書の帥升”等”なので倭國の国名であった事になる
北部九州など記載はない。

建武中元二年(57)光武帝は印綬までの
倭國は九州のことだな。
0735日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 00:35:28.23
>>733
同時代の魏の役人らの実地の見聞計測の記録である魏志倭人伝に記載の史料事実に拠って、
北部九州説は、「南≠東」によってバツ
0736日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 00:40:54.90
>>728
陳寿は、「女王國東渡海千餘里,復有國,皆倭種」とはっきり書いており、
女王国と倭種とをはっきり区別しており
「大和説」はバツ
当然「南≠東」は史料実態に拠っても、
「大和説」は、バツだな。
卑弥呼の冢は前方後円墳とかとは違う形態の墓。
「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの事は、唐会要の倭國伝の史料実態実態、
「倭國」は、後漢書の帥升”等”なので倭國の国名であった事になる
大和など記載はない。
建武中元二年(57)光武帝は印綬までの
倭國は九州のことだな
同時代の魏の役人らの実地の見聞計測の記録である魏志倭人伝に記載の史料事実に拠って、
大和説は、「南≠東」によってバツ
卑弥呼の冢は前方後円墳だとは書いていない。

邪馬壹國は女王之所都の「可七万戸」の国。

後漢書に九州のみの記載はない。
0737日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 00:51:21.21
★奈良邪馬台国 パーフェクト版(^^)

邪馬台国候補地の条件

1コメ生産量が4万2千トンあること(28万人分のコメ)
2北九州より手漕船で30日(600キロ)または10日(200キロ)の距離にあること
3直径100mほどの古墳があること
4地名の類似性
5都市遺構
6盆地であること

この6条件を全て満たすのは・・・奈良盆地しかない(^^)
0738日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 00:51:35.87
>>714
同じ地域だったら全滅だな。
卑弥呼の時代はそれからの脱却。
武力でなく、経済や宗教、物流だな。
狗奴国も敵対していたが、その中に入っていたかも?
加盟みたいなもんかもね
卑弥呼が死んでも、内ゲバがあても
狗奴国は出てこない。
壹與の時代に男女生口三十人に増える
卑弥呼時代の三倍
狗奴国滅亡も考えられる。
0739日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 00:52:36.40
>>703

阿蘇や南九州、関東、北海道に多い火山灰由来の黒ボク土では
植物養分として重要なリン酸欠乏になる草原土壌なので牧場に適している
家畜ふん堆肥にはリン酸と加里が多く含まれるので
牧で家畜を放し飼いする時代になると黒ボク土でも耕地化ができるようになる
0740日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 00:54:12.13
>>722

東大理系博士号自称男が提示した海岸線地図でも、
卑弥呼の頃の筑紫平野の海岸線は、久留米と吉野ケ里を結ぶ線よりもはるかにずっと有明海側であり、
福岡平野や筑後平野や熊本平野も同じであり、水没部分は少なく、
全部が湿地帯、という事でもありません。

それでは、伺いますが、何haの水田が可能だったのでしょうか?(^^)
0741日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 00:54:48.29
>>1

御意(^^)

鉄板ですね
0742日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 01:13:47.54
★奈良邪馬台国 完全版

邪馬台国比定地の最重要条件は、農業生産力

私も、かつては倭人伝の解釈に四苦八苦していた
しかし、5年ほど前、1800年昔の、しかも中国人の書いた文献に100%を求めること自体、無意味であると気がついた
そこで、国家の条件とはなにか?と考えた直したところ、「食料」「軍事力」を満たす地形を捜すべきと気付いた
人口7万戸を有する邪馬台国適地は・・・「巨大盆地」しかない!
盆地は河川下流域の低地帯に比べ、水害は少ないし、夏は高温だ
おまけに、周囲を山々に囲まれているので、防御に適している

その結果、奈良盆地が最も7万戸を擁する邪馬台国の本拠地として相応しい
問題は、おなじみの「南水行・・・」、方位問題だ
これも、山口県に敵対勢力が居て、周防灘を航行できず、九州東岸を佐賀関まで南下、豊予海峡を横断し、四国海岸沿いに大阪湾を目指す

という強引な設定で、クリア

奈良盆地には、纏向遺跡、箸墓古墳もあり、これで、90%以上の確率で奈良盆地で間違いないと思います

佐賀・福岡・大分説の方には申し訳ないけど、これ以上の仮説はないと思います

いずれにしろ、倭人伝など文献資料に偏った推理・憶測は・・・・やめましょう(^^)
0743日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 01:24:18.10
>>739

阿蘇外輪山に抱かれた
阿蘇谷・南郷谷
これに菊池川や白川中流域(下流は駄目)が加わる熊本県

福岡県や佐賀県よりはるかにいいですよ

熊本にあった場合、水田と畑作の比率は五分五分でしょう
いずれにしろ、水田ベースで1万4千haの農地を確保できる土地

そこしか、邪馬台国は存在し得ない

熊本の難点は、古墳と都市遺構
しかし、阿蘇山は太古より信仰の山だったので、狗奴戦争で卑弥呼が祈祷したのは阿蘇山録であるのは間違いない

熊本なら、阿蘇祈祷所は問題ない
奈良なら、出張ってことになる
0744日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 01:30:20.09
>>739

いずれにしろ、3世紀弥生時代の農業について、実態を100%把握するのは難しい
倭人伝にも栽培作物などについての記述もあるが、記録者は農業専門家ではないし、栽培方法など生産量推定の鍵は皆無
卑弥呼時代敵対していた狗奴国が台与時代の邪馬台国と和解したなら、邪馬台国の力は列島で比肩するものがない、圧倒的になったわけだ
0745日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 01:34:29.77
>>716

北九州ー佐賀関ー邪馬台国

リスボンー喜望峰ーインド

理屈は同じ(^^)
0746日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 02:14:58.71
水行
陸でも行けるが、船で行く事を指す
 南至投馬國 水行二十日
 南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月

渡海
陸では行けないから、船で行く事を指す
 始度一海 千餘里 至對海國
 又南渡一海 千餘里 名日瀚海 
 又渡一海 千餘里 至末盧國
 其行來渡海詣中國
 女王國東 渡海千餘里 復有國皆倭種 
この条件を、満たす地は九州しかありえない



つまり、渡海は陸続きの場所では使わない。本州間の船での移動は水行と言う。
畿内説では、渡海は
0747日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 02:21:23.24
畿内説では、渡海は説明できない
0748日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 02:26:07.52
>>747
どうして?
0749日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 02:29:14.31
反面
九州説の郡からの水行はありえない
0750日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 02:32:49.53
>>748
 女王國東 渡海千餘里 復有國皆倭種 の説明がつかない
0751日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 02:44:36.73
魏の使いが四国と九州が陸続きと
思ってた場合のみ阿波説は成り立つ。
0752日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 04:42:54.69
>>614
>通勤圏内の三世記と特定できる住居跡は何棟なの。
そして全て纏向勤務の人の住居なの。
証明してよ。<

無理、奥山で無くても誰もできない。
馬鹿の奥山は放置しときゃいいよ
0754日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 06:11:04.32
>>746
渡海
陸では行けないから、船で行く事を指す

そんな定義はない。
海を渡れば渡海。
0755日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 06:35:40.90
>渡海も水行、沿岸航法

絶海では、絶対に沿岸航行できない。   @阿波
0756日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 06:36:07.67
>>747
>>749
つまり、海岸水行 渡海水行 と読まなくては、九州にも大和にも行けないのだ。
0757日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 06:47:09.35
>>755
絶海と記載があればな。
0758日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 07:03:44.79
>>746

倭人伝用語の解説をさせていただきます

水行=陸に沿って水路、河川、海を船で進む

渡海、渡河=海または川を横断して対岸に行くこと

投馬国ー邪馬台国間は、水路でも陸路でも行ける

伊都国ー投馬国は陸路の障害があり、陸路は行けない
0759日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 07:05:12.33
>>736
陳寿は、「女王國東渡海千餘里,復有國,皆倭種」とはっきり書いており、
女王国と倭種とをはっきり区別しており
「北部九州説」はバツ
当然「南≠東」は史料実態に拠って、
「北部九州説」は、バツだな。
卑弥呼の冢は前方後円墳とかは書いていない
「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの事は、唐会要の倭國伝の記載実態がない、
「倭國」は、後漢書の帥升”等”なので倭國の国名であった事になる
九州など記載はない。

建武中元二年(57)光武帝は印綬までの
倭國は九州のことだな

同時代の魏の役人らの実地の見聞計測の記録である魏志倭人伝に記載の史料事実に拠って、
北部九州説は、「南≠東」によってバツ
0760日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 07:09:12.50
>>750

>女王國東 渡海千餘里 復有國皆倭種 の説明がつかない

横から失礼します
周防灘を渡り九州から本州に行く場合は「渡海」です
つまり、九州島の対岸である本州、四国にダイレクトに行く場合は、「渡海」となります
しかし、奈良の邪馬台国へ行く場合、とりあえず九州東岸に沿って南下しますので「水行」でよいのです
0761日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 07:34:57.85
>>760
水行10日は
0762日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 07:37:01.97
>>758
>伊都国ー投馬国は陸路の障害があり、陸路は行けない

証拠あんの
0763日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 07:39:30.11
★奈良邪馬台国   完全版

魏志倭人伝最大の謎=卑弥呼が共立された理由は不明

なぜ、卑弥呼はどの国にも居るフツーの「巫女」だったら「王」として魏と通交していた倭諸国の「王」として共立されたのか?
仮に、伊都国出身者だった場合、他の諸国が納得しないだろう?(数十年も戦ったんだから)

しかし、纏向(=邪馬台国)の巫女だったからこそ、大部分の諸国が「王」として認知したと思います
纏向がイスラム教でいうところの「メッカ」と仮定すれば、そこの巫女であったから、交戦国諸国が「象徴倭国王」として認知したのだと思いますね
*北九州の交戦国でない第三国出身というのもGOODだった
後の統治スタイルは、大和朝廷の歴代天皇も、雄略天皇や天智天皇、天武天皇などごく一部を除き、時の貴族や豪族の操り人形だったのと一致します
0764日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 07:40:17.43
>>756
確かに
やっぱり、熊本か宮崎辺りが邪馬壹国かな、、行程だけでの推測だけどね
0765日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 07:42:15.23
>>762


証拠はありませんし、なくても構わないでしょう?
だって、2世紀の話ですから
0766日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 07:45:13.32
>>762

伊都国ー投馬国は、間に敵対勢力が居て、南に大きく迂回して船で行かなければならない
投馬国ー邪馬台国は、船でも徒歩でも行ける
0767日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 07:50:21.22
>>765
>証拠はありませんし、なくても構わないでしょう?

それ、「阿波」には通用しない。   @阿波
0768日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 07:59:55.89
>>767

では、あなたは、1800年前の記録も出土品もない場合、どのように歴史を論じるのですか?(^^)
0769日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 08:06:02.54
>★奈良邪馬台国   完全版

変な奴が現れたなWw
日記つけてるみたい
自己満足もいいけど
前後の投稿者に失礼だよ
0770日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 08:07:35.04
>>767

よろしいですか?
なぜ、投馬国ー邪馬台国間だけ、「水行10日、陸行1ヶ月」なんてルートが2つも併記されているのでしょう?
他に、このように2ルート併記されている区間はありません

逆に考えれば、投馬国(岡山)と邪馬台国(奈良)の間にある兵庫県は友好国ということです
そして、伊都国(福岡)−投馬国(岡山)の間にある山口県は敵対勢力
ということになるわけです
そうなると、周防灘を本州に沿って東には進めませんので、一旦九州東海岸を南下し、佐賀関から四国に渡る「南回り航路」ということになるのです

もちろん、証拠も証人もありませんが、こう考えれば、すべてつじつまが合います

納得できないのは、あなたの問題ですし、私はあなたを納得させるためにここに書いているのではありません

納得できる方のみに読んでいただければいいのです
0771日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 08:09:05.35
>>758
>渡海、渡河=海または川を横断して対岸に行くこと

その通り、
陳寿は、大海、一海、海峡など、流れが強く困難な水域を横断することを、特に渡海(水行)・渡河(水行)と表した。
0772日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 08:10:18.70
>>767

泡さんは泡さんの自説を書くだけでいいじゃないですか?
他人の説にアヤ付けて、楽しいのですか?(^^)
0773日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 08:12:49.81
>>771

こういう基礎的なこともわからないで、なんで、倭人伝の解釈をしている人がいるのでしょうかね?(^^)
渡=対岸に行くこと
行=船、または徒歩、車、馬などで前に進むこと
0774日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 08:16:10.76
>>768
ヨコ
憶測なら誰にでもできます。
しかし、弥生期の遺跡は瀬戸内にいっぱいあります。陸路も可能な証拠でしょう。
0775日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 08:22:13.82
>>774

邪馬台国連合(畿内、岡山、四国、北九州)の友好国と敵対国の区別を、わずかな出土品でどうつけるのですか?
0776日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 08:22:35.05
>>735
同時代の魏の役人らの実地の見聞計測の記録である魏志倭人伝に、
記載された史料事実に拠って、
大和説は、「南≠東」によってバツだな。
0777日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 08:25:29.66
>>736の訂正
陳寿は、「女王國東渡海千餘里,復有國,皆倭種」とはっきり書いており、
女王国と倭種とをはっきり区別しており
「大和説」はバツ
当然「南≠東」は史料実態に拠っても、
「大和説」は、バツだな。
卑弥呼の冢は前方後円墳とかとは違う形態の墓。
「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの事は、唐会要の倭國伝の史料実態実態、
「倭國」は、後漢書の帥升”等”なので倭國の国名であった事になる
大和など記載はない。
建武中元二年(57)光武帝は印綬までの
倭國は九州のことだな
同時代の魏の役人らの実地の見聞計測の記録である魏志倭人伝に記載の史料事実に拠って、
大和説は、「南≠東」によってバツ
卑弥呼の冢は前方後円墳だとは書いていない。
邪馬壹國は女王之所都の「可七万戸」の国。
後漢書にも、大和の記載はない。
0778日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 08:39:05.33
>>737
★筑紫の邪馬壹國女王之所都の、 パーフェクト版(^^)
邪馬壹國女王之所都の候補地の条件
11戸当たり平均3人として、コメ生産量が21万人分である事
2博多湾岸より南に3.8km位以内の距離に邪馬壹國の入り口があること
3福岡平野から筑紫平野付近に径が25〜30mほどの冢があること
4地名の論理性
5弥生銀座位の都市遺構の存在
6 7万戸が住めるような平野環境であること

この6条件を全て満たすのは・・・福岡平野中程から筑紫平野及びその周辺しかない(^^)
0779日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 08:44:47.07
>>778

耕作可能適地の少ない北九州では、食糧生産をクリアすることは難しいでしょう?
九州で可能性があるとすれば

熊本北部&阿蘇

くらいですね

ここで、纏向遺跡や箸墓古墳相当の遺跡が発見されれば、奈良に対する対抗馬になりえます

それ以外の九州は・・・・奈良に太刀打ちできません
0780日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 08:49:47.34
>>741
>>1
御意(^^)
鉄板ですね

「南≠東」や「卑弥呼の冢≠前方後円墳」や、唐会要倭國伝の「正北抵新羅」などの、
史料事実や史料実態から逃げている>>1や東大理系博士号自称男ら大和説者らは、
皇国史観宗教に狂った・・・・アホのヤクザ暴力団なんでしょうね。
0781日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 08:54:45.94
>>750
>女王國東 渡海千餘里 復有國皆倭種 の説明がつかない

理由も言わずに「つかない」「つかない」と言い張っても、何の反論にもならんだろう。
説明がついて欲しくない人間がダダこねてるだけにしか
誰の目にも映らないよ
0782日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 09:11:30.99
>>76 なるほど
0783日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 09:14:40.15
>>742
>★奈良邪馬台国 完全版
邪馬台国比定地の最重要条件は、農業生産力・・・

邪馬台国なんて、史料事実に存在もしなかった嘘つき騙し文言であるからバツであり、
奈良説は、始めから、
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「唐会要倭國伝の正北抵新羅」などの、
史料事実や史料実態に拠って、バツであったのであり、
この男は、国粋皇国史観宗教に狂った・・・・アホの凶暴性のあるヤクザ暴力。
怖い、怖い。
0784日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 09:20:50.11
>>75
>>77 陳寿、凄すぎない?
0785日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 09:23:31.51
>>764
その前の不彌國が九州の東海岸又は西
海岸に存在しないと南に行けない。
博多湾から南には海はない。
「南≠東or西」
0786日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 09:26:04.02
>>783
陳寿は、「女王國東渡海千餘里,復有國,皆倭種」とはっきり書いており、
女王国と倭種とをはっきり区別しており
「北部九州説」はバツ
当然「南≠東」は史料実態に拠って、
「北部九州説」は、バツだな。
卑弥呼の冢は前方後円墳とかは書いていない
「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの事は、唐会要の倭國伝の記載実態がない、
「倭國」は、後漢書の帥升”等”なので倭國の国名であった事になる
九州など記載はない。

建武中元二年(57)光武帝は印綬までの
倭國は九州のことだな

同時代の魏の役人らの実地の見聞計測の記録である魏志倭人伝に記載の史料事実に拠って、
北部九州説は、「南≠東」によってバツ
0787日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 09:28:00.86
★奈良邪馬台国 完全版

魏志倭人伝は迷宮

自ら魏志倭人伝の迷宮に迷い込んでしまったら、邪馬台国の候補地を絞り込むことはできない

木を見て森を見ず

一旦、魏志倭人伝から離れ、国家の基礎的条件である

食糧生産(耕地面積)
国防(安全保障)

この2点を満たす地形は、ある程度の広さを持った盆地地形しかない
邪馬台国の7万戸(28万人)の食料確保を可能にする耕地は1万4000ha
そうなると、自ずと奈良盆地にたどり着く
そして、そこには、纏向遺跡や箸墓古墳も揃っている!!

魏志倭人伝の行程との整合性も、「南回り航路」を採用することで辻褄があう
狗奴国との戦争や1万2千里という記述も、卑弥呼が狗奴戦争中、熊本の最前線に設置していた司令部に出張していた
と、仮定すれば、これも・・・・クリアだ

証拠がないのだから、歴史の空白を埋めるのは・・・妄想
0788日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 09:30:35.30
プルタぺーテンと他の九州説は違うよ。
分けるべし
0789日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 09:38:41.04
>>80 安本美典先生を囲む「卑弥呼会」のお姉様、おはようございますw
>>98 古田史学の会のお兄様、おはようございますw
本日もよろしくお願いいたしますw
0790日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 09:42:17.20
>>746
>北九州ー佐賀関ー邪馬台国
リスボンー喜望峰ーインド
理屈は同じ(^^

邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言を使い、
魏の役人らに拠る実地の見聞計測の記録を元にして書かれた魏志倭人伝の、
「女王國東渡海千餘里,復有國,皆倭種・・・」
を曲解して、邪馬壹國が佐賀関よりも遠くにある、というような曲解捏造をして、
邪馬壹國が大和にあったかのような言い方をして、
国民を騙そうとするこの男は、オレオレ詐欺師のヤクザ暴力団のような犯罪者。
0791日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 09:48:21.05
布留田と夜須川は、九州番外地!
0792日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 09:50:15.57
>>89
大和ハウス営業のお兄様、おはようございます!って、目を覚ますべきなのは、どっちの説だ?w
0793日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 09:51:53.53
誤爆!!!スマソw
>>93 ダイワハウス営業のお兄様、おはようございますw
本日もよろしくお願いいたしますw
0794日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 09:54:19.04
>>759
陳寿は、「女王國東渡海千餘里,復有國,皆倭種」とはっきり書いており、
女王国と倭種とをはっきり区別しており
「女王国=大和」説はバツ
当然「南≠東」は史料実態に拠って、
「大和説」は、バツだな。
卑弥呼の冢は、前方後円墳では、全くない
「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの事は、唐会要の倭國伝の記載実態であり、、
「倭國」は、後漢書の帥升”等”なので倭國の国名であった事になる
大和など記載はない。
建武中元二年(57)光武帝は印綬までの倭國は九州のことだな
同時代の魏の役人らの実地の見聞計測の記録である魏志倭人伝に記載の史料事実に拠って、
大和説は、「南≠東」によってバツ
0795日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 09:58:56.32
>>794
陳寿は、「女王國東渡海千餘里,復有國,皆倭種」とはっきり書いており、
女王国と倭種とをはっきり区別しており
「北部九州説」はバツ
当然「南≠東」は史料実態に拠って、
「北部九州説」は、バツだな。
卑弥呼の冢は前方後円墳とかは書いていない
「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの事は、唐会要の倭國伝の記載実態がない、
「倭國」は、後漢書の帥升”等”なので倭國の国名であった事になる
九州など記載はない。

建武中元二年(57)光武帝は印綬までの
倭國は九州のことだな

同時代の魏の役人らの実地の見聞計測の記録である魏志倭人伝に記載の史料事実に拠って、
北部九州説は、「南≠東」によってバツ
0796日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 10:02:11.91
>>76
>>93
阿波爺ちゃん、もう死んだ??四国は侏儒(小人)国だってさ。
(瀬戸内)海の向こうからやって来て、出雲大国主命と国造り、掌に乗る少彦名命(小人)。ピッタリやん!w
0797日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 10:07:21.18
>>796
阿波爺風に
人長三四尺だ、掌に乗るとは小さすぎ
ワハハ 入れ歯かな?
0798日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 10:19:29.58
大和ハウス営業とプルタぺーテン鉄鋼か。

ワハハハ 
0799日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 10:52:23.12
山に囲まれた盆地は扇状地が多い
扇状地は平地に砂礫が堆積した地質であるため、河川の流水が地下に浸透し、流量が小さくなる
地上から浸透してきた河川の水は、地下の平地で大部分が受け止められ地下水になる

纏向遺跡、明日香(北半分)、藤原京、平城京、平安京、と大宰府は扇状地に立地している
0800日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 11:11:04.85
>>760
>横から失礼します
周防灘を渡り九州から本州に行く場合は「渡海」です
つまり、九州島の対岸である本州、四国にダイレクトに行く場合は、「渡海」となります
しかし、奈良の邪馬台国へ行く場合、とりあえず九州東岸に沿って南下しますので「水行」でよいのです

まず「奈良の邪馬台国」なんて、
存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、バツであり、
「女王國東渡海千餘里,復有國,皆倭種」として東渡海千餘里した後、
魏の役人たちは、「又有侏儒國在其南,人長三四尺,去女王四千餘里」を記録していますから、
「在其南になる侏儒國付近にまで行って」おり、その部分の道のり距離に関しては、
去女王四千餘里の内の千余里は女王國からの渡海に使っていますから、
四千余里の内の三千余里である事になり、
女王國東渡海千餘里した後に南へ三千余里行ける地点という事は、
山口県では南は海ですから有り得ず、
「四国の伊予の西北端付近」にしかなりません。
0801日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 11:28:16.27
>>799

>山に囲まれた盆地は扇状地が多い
その通りです(^^)
日本有数の扇状地である胆沢川流域も水不足で水田不適地でしたが、胆沢ダムの完成で、緑豊かな農地に変貌しました
でも、扇状地の面積は流れ込む川の水量、流速によって変わります

奈良盆地に流れ込む川は水量も少なく、奈良盆地自体が巨大な湖であったために、邪馬台国の食糧生産を支えることができたと、思います
0802日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 11:38:41.19
>>800
身長75cm未満の小人族が3世紀の日本列島付近に実在したと言い張る九州説の信用は
もちろんゼロ
0803日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 11:53:13.56
>>76
女王国(九州)→東渡海千里→複有国皆倭種(本州)
去女王国(九州)→四千里→又有侏儒国在其↑南(阿波) 
0804日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 11:57:58.82
>>803
>女王国(九州)→東渡海千里→複有国皆倭種(本州)

具体的にどこからどう海を千里渡って本州のどこへ行く気だ
九州説ってどこまで行っても具体的な内容のない観念論だな
0805日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 12:08:30.28
>>763
>★奈良邪馬台国 完全版

邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
「奈良」説は、「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、バツね。

魏志倭人伝最大の謎=卑弥呼が共立された理由は不明

>なぜ、卑弥呼はどの国にも居るフツーの「巫女」だったら「王」として魏と通交していた倭諸国の「王」として共立されたのか?
仮に、伊都国出身者だった場合、他の諸国が納得しないだろう?(数十年も戦ったんだから)
しかし、纏向(=邪馬台国)の巫女だったからこそ、大部分の諸国が「王」として認知したと思います

「思う」のは勝手ですが、
史料事実や史料実態からの帰納的で高確率的な、
十分な根拠のある推論をして下さいね。
0806日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 12:33:50.34
>>805
などと言いながら帰納は絶対にしないバツじいさん
0807日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 16:17:59.20
>>768
>では、あなたは、1800年前の記録も出土品もない場合、

ある。  「其山有丹」=「若杉山辰砂採掘遺跡」   @阿波
0808日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 16:21:02.95
>>772
>他人の説にアヤ付けて、楽しいのですか?(^^)

非常に楽しい。   @阿波

  
0809日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 16:22:17.89
>>1
1人何役もやって、良心の呵責の一欠片も無い・

レスを進める事が生きがいなら、
学問には向かない

数学も地理学もまるでダメ
中卒以下
0810日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 16:22:56.36
>>1
1人何役もやって、良心の呵責の一欠片も無い・

レスを進める事が生きがいなら、
学問には向かない

数学も地理学もまるでダメ
中卒以下
0811日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 16:25:12.15
>>778
>この6条件を全て満たすのは・・・福岡平野中程から筑紫平野及びその周辺しかない(^^)

福岡平野中程から筑紫平野及びその周辺に、この6条件を全て満たす弥生集落遺跡群が存在しない。 よって、却下。   @阿波
0812日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 16:30:48.66
>>803
関門を避けて、杵築・中津あたりから徳山方面へ渡海千里とみれば、
最も適切で合理的な読み方だと思うね
0813日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 16:37:36.16
>>810
畿内説は一人しかいないはずだから1が一人何役もやってるんだって思い込んでるお前の頭が異常なんだよ
0814日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 16:40:29.74
>>812
関門を避ける理由がわからない
0815日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 17:29:30.92
>>813
お前はアホか
反応するな
また、1人と思われるぞ
0816日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 17:31:35.43
阿波説よりは畿内説のほうが信憑性がある
0817日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 17:41:34.94
>>815
もっと発狂させてやれ
0818日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 17:41:37.94
>>770
>よろしいですか?
なぜ、投馬国ー邪馬台国間だけ、「水行10日、陸行1ヶ月」なんてルートが2つも併記されているのでしょう?
他に、このように2ルート併記されている区間はありません

「投馬国ー邪馬台国間だけが・・・ルートが2つも併記されている」という事はありません。
あなたの解釈の間違いです。
投馬國への南の方の「水行二十日」は、
不彌國からの側副傍線行程の(倭人からの伝聞の)所要日数説明であり、
「水行十日陸行一月」という文言は(行程の目的地である)女王之所都の説明文言になっていますから、
郡から女王之所都への所要日数説明です。

>逆に考えれば、投馬国(岡山)と邪馬台国(奈良)の間にある兵庫県は友好国ということです
そして、伊都国(福岡)−投馬国(岡山)の間にある山口県は敵対勢力ということになるわけです
そうなると、周防灘を本州に沿って東には進めませんので、一旦九州東海岸を南下し、佐賀関から四国に渡る「南回り航路」ということになるのです

逆に考えてはダメです。
漢文は、漢字やその熟語を、順次式に並べて行って、説明する言語ですから、
前の文字から順次式に受け止めて行く読み方が必要なのです。
0819日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 17:57:43.48
>>779
>耕作可能適地の少ない北九州では、食糧生産をクリアすることは難しいでしょう?

末盧國付近や早良平野や福岡平野には、紀元前数世紀から稲作が始まっており、
筑紫平野部も、弥生期には相当食糧生産が進んで来ており、
食糧生産は十分クリアされていたんでしょう。

>九州で可能性があるとすれば熊本北部&阿蘇くらいですね

狗奴國の地域でしょうね。

>ここで、纏向遺跡や箸墓古墳相当の遺跡が発見されれば、奈良に対する対抗馬になりえます
それ以外の九州は・・・・奈良に太刀打ちできません

纏向遺跡や箸墓は、3世紀末の庄内1の前方後円墳の石塚以後であり、
4世紀が中心の遺跡であり、
九州倭國の「自昔・・・東征毛人五十五國」に拠って征服支配された別種であり、
地方の市を監督する「大倭」職の旧小国であり、
始めから卑弥呼とは直接には関係がない地域です。
0820日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 17:57:54.56
>>818
そんな曲芸読みしないと守れない九州説はゴミでしょ
0821日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 18:00:19.16
>>819
>纏向遺跡や箸墓は、3世紀末の庄内1の前方後円墳の石塚以後であり、
>4世紀が中心の遺跡であり、

根拠もなくそんな異常な主張してるのは非科学九州説の素人じいさんだけ
0822日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 18:04:38.53
>>772

それじゃ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜仕方ありませんね
0823日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 18:05:55.80
>>770
>なぜ、投馬国ー邪馬台国間だけ、「水行10日、陸行1ヶ月」なんてルートが2つも併記されているのでしょう?

「水行10日」 または 「陸行1ヶ月」だ。 沿岸水行で10日 または 陸上歩行で1ヵ月 どちらでも行けると言っている。

「陸行一月」
陸行一月区間(旧土佐街道 別名土佐浜街道)  途中の河川は川船で渡河
投馬国(土佐国宿毛) → 途中、魏使一行 阿南市若杉山辰砂採掘現場視察 → 女王国(阿波国鮎喰川下流域集落群)
距離約350km 歩行速度11.7km/日   @阿波
0824日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 18:09:57.91
>>807

 >「其山有丹」=「若杉山辰砂採掘遺跡」

最初に淡路島、次に伊予の二名島

大和朝廷の前身、奈良邪馬台国は、3世紀の時点で奈良県、大阪府、淡路島、紀ノ川流域、吉野川流域を勢力圏に置いていた
辰砂が邪馬台国の財源(=重要交易品)のひとつだったのは確実でしょう
0825日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 18:13:40.71
>>785
>その前の不彌國が九州の東海岸又は西 海岸に存在しないと南に行けない。
博多湾から南には海はない。「南≠東or西」

当然、博多湾岸の不彌國から、一旦玄界灘に出て、
九州の東回りか?西回りかの「水行二十日」の沿岸水行をすれば、
不彌國の南の方に行ける。
0826日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 18:15:25.66
>>824
>最初に淡路島

最初に「粟島」な。  物部(忌部)の本貫地、麻植郡にある大河吉野川の中州だ。   @阿波
0827日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 18:17:36.38
>>823

私は、投馬国に津山盆地・吉井川流域を比定していますので
四国北岸を航路として想定していますが

土佐が投馬国なら、当然、四国南岸の航路で大阪湾に向かうことになるでしょう
四万十川流域を投馬国首都とすると、投馬国とは四国統一政権ってことですかね?

辰砂採掘なら、宿毛よ阿波池田に投馬国の首都があったのほうが、いいんじゃないですか?
0828日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 18:18:15.68
>>787
陳寿は、「女王國東渡海千餘里,復有國,皆倭種」とはっきり書いており、
女王国と倭種とをはっきり区別しており
「大和説」はバツ
当然「南≠東」は史料実態に拠って、
「大和説」は、バツだな。
卑弥呼の冢は前方後円墳とかは書いていない
「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの事は、唐会要の倭國伝の記載実態である。
「倭國」は、後漢書の帥升”等”なので倭國の国名であった事になる
大和など記載はない。
建武中元二年(57)光武帝は印綬までの倭國も、九州のことだな
同時代の魏の役人らの実地の見聞計測の記録である魏志倭人伝に記載の史料事実に拠って、
大和説は、「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「唐会要倭國伝の正北抵新羅」などの、
史料事実や史料実態によって、だな。
0829日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 18:18:21.03
>>820
曲芸と思う理由は?
0830日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 18:19:28.47
>>826

そんな、中洲など当時は存在しません(^^)
吉野川自体が、大きな入り江でしたので
0831日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 18:19:53.23
>>827
>私は、投馬国に津山盆地・吉井川流域を比定していますので

「投馬国」5万戸にふさわしい集落遺跡もないのに、無理無理!  諦めな。   @阿波
0832日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 18:21:26.44
>>827
何故、大阪湾に向かわなければならないの
、阿波は大阪湾じゃ無い
0833日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 18:23:42.76
>>814
>関門を避ける理由がわからない
狭い水道が急角度で曲がっているので、航行は難しかったとされ、
後世に彦島バイパス水道が出来てから利用が普及したと伝わる。

>>819
>>九州で可能性があるとすれば熊本北部&阿蘇くらいですね
>狗奴國の地域でしょうね。

三世紀以降の狗奴国は、熊本県南部の球磨郡(クマ)+隣接鹿児島県の曽於郡(ソー)で、記紀にいうクマソ
0834日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 18:23:57.97
>>827
>四国北岸を航路として想定していますが

無理無理。  「卑彌呼」の時代は、瀬戸内海一帯の統制がとれていない。 

「卑彌呼」の時代は、安心・安全に瀬戸内海を航行できない。   @阿波    
0835日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 18:24:54.98
>>826
それ、中央物部の植民地だよ
0836日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 18:25:10.78
>>821
だな。宮内庁管轄外なら
土器、鏡、玉等の出土分析より
被葬者を調べろ。
姻族関係、性別、死亡年齢、時期と様々なことがわかる。
データベース化しろ。学者ども。
0837日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 18:27:24.54
>>826

ま〜四国は投馬国の候補地にはなりえますが、邪馬台国に比定する遺跡は、現時点では発見されていないでしょう?
しかし、崇神天皇の四道将軍派遣記事にも、吉備派兵の記事はありますが、四国派兵の記事はありませんので、四国が早くから奈良邪馬台国の勢力圏だったのは、間違いないでしょう

仮に、山口・広島・岡山が邪馬台国敵対勢力だった場合、
九州ー畿内の瀬戸内海航路を航行することはできませんので、土佐経由となりますね
0838日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 18:28:12.73
>>787
>★奈良邪馬台国 完全版

邪馬台国なんて存在もしなかった(結論先にありきの)嘘つき騙し文言であるから、バツであり、
「奈良」説も、「南≠東」や「卑弥呼の冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、バツ。

>魏志倭人伝は迷宮

いや、同時代の魏の役人たちに拠って記録された事が中心の魏志倭人伝は、
信頼性も確率も非常に高く、正確に受け止めれば、迷宮にはならない。
自ら「魏志倭人伝否定の迷宮」に迷い込んでしまうアホであったら、
邪馬壹國女王之所都の候補地を絞り込むことはできない
木を見て森を見ず
0839日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 18:29:02.10
>>830
>吉野川自体が、大きな入り江でしたので

わははははは。  大きな入り江って、お前は大吉野川のどこまでを入り江にするつもりなんだ?  アホ晒しもいい加減にしろ、カス。   @阿波
0840日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 18:30:22.30
>>834

ま〜ポイントは、九州から見て邪馬台国の一つ手前にあったという「投馬国」が、何処にあったのか?
これが鍵でしょう?

宿毛?岡山?それとも・・・・

邪馬台国所在地を決定付けるのは

投馬国の所在地です

戸数5万戸ですので・・・それ相当の集落遺跡があるはず
0841日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 18:31:42.11
>>839

吉野川流域の徳島平野は3世紀には
大きな「入り江」です(^^)

地質的にもそうなっています
0842日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 18:32:29.16
>>837
>邪馬台国に比定する遺跡は、現時点では発見されていないでしょう?

お前は、「邪馬臺国」が一つの集落遺跡だとでも思っているのか?  出直してこい!   @阿波
0843日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 18:32:39.68
>>837
>仮に、山口・広島・岡山が邪馬台国敵対勢力だった場合、

ナイナイ
大和と吉備は雄略の頃までズブズブなかよし
0844日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 18:33:36.45
>>795
陳寿は、「女王國東渡海千餘里,復有國,皆倭種」とはっきり書いており、
女王国と倭種とをはっきり区別しており
「大和説」は始めからバツ
当然「南≠東」は史料実態に拠っても、
「大和説」は、始めからバツだな。
卑弥呼の冢は前方後円墳とかは書いていない
「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの事は、唐会要の倭國伝の記載実態がある、
「倭國」は、後漢書の帥升”等”なので倭國の国名であった事になる
大和など記載はない。
建武中元二年(57)光武帝は印綬までの倭國は九州のことだな
同時代の魏の役人らの実地の見聞計測の記録である魏志倭人伝に記載の史料事実に拠って、
大和説は、「南≠東」によってバツ
0845日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 18:34:32.20
>>840
>戸数5万戸ですので・・・それ相当の集落遺跡があるはず

それ相当の集落遺跡、あるよ。   @阿波
0846日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 18:35:58.37
>>840

ま〜徳島は、どんなにがんばっても、邪馬台国本国の条件を満たさない(コメ生産4万2千トン、水田1万4千ha)
おまけに、当時の吉野川は水害常襲地帯で、集落は作れず
さらに四国山地・讃岐山脈の斜面は急で、こちらも山腹に集落は作れない

だから・・・・徳島には3世紀の大きな集落遺跡がない

あなたは、徳島県に住んでいながら、徳島のことがわかっていないですね?(^^)

ふふふふふふふ
0847日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 18:36:27.45
>>842
遺跡群は?
0848日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 18:36:56.30
>>845
どこに?
0849日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 18:38:10.64
>>841
>吉野川流域の徳島平野は3世紀には
>大きな「入り江」です(^^)

あのなあ、 物部(忌部)の本貫地、麻植郡にある「粟島」は、大河吉野川の中流域の中州だ。  アホ晒しもいい加減にしろ、カス。   @阿波
0850日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 18:38:51.85
>>845

四国で
5万戸相当の集落遺跡を列挙してください(^^)
0851日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 18:41:50.96
>>846
>さらに四国山地・讃岐山脈の斜面は急で、こちらも山腹に集落は作れない

あのなあ、高天原・四国山地の集落が、急傾斜地農法で世界農業遺産に登録されているのも知らんのか?  アホ晒しもいい加減にしろ、カス。   @阿波
0852日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 18:41:56.08
>>849

徳島に大規模都市集落があったとするなら、マチュピチュみたいな感じでしょう?
剣山の山腹、そうですね那賀川中流域ですかね
0853日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 18:43:25.91
>>851

そんな焼畑だか棚田だかしりませんが小規模耕地で
1haあたり、何トンのコメが取れますか?

ふふふふふふ
0854日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 18:45:04.07
>>852
那賀川一帯は、「狗奴国」の領分だ。   @阿波
0855日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 18:46:04.70
>>851

徳島に限らず、現時点で四国には

纏向遺跡に匹敵する大規模都市遺構は、発見されていません

それほど、四国説に固執するなら
泡さんが、自腹で、四国全土を掘ってみたらどうでしょう?

ふふふふふふ
0856日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 18:49:06.43
>>854

四国は「四つの顔を持つ」といわれていましたので、複数の勢力に分かれていたと思いますね
0857日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 18:50:31.99
>>854

ま〜いずれにしろ、国家の根幹である
食糧生産

について、論じるには、農業経験のない泡さんにはちょっと無理だと思いますね
0858日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 18:50:32.47
>>853
お前なあ、コメしか頭にないようだな。 「魏志倭人伝」にコメがなんで出てこないのか分かるか? コメは主流じゃなかったからだ。

「阿波」の神様「大宜都比売命」も知らんのか?

「大宜都比売命」=「天石門別八倉比売命」=「大日?女命」=「天照大神」 
「阿波の神様 大宜都比売」
大宜都比売(大気都比売神、大宜津比売神、大気津比売神)は、日本神話に登場する女神。
名前の「オオ」は「多」の意味、「ゲ」は「ケ」の食物の意味で、穀物・食物・蚕の女神である。
『古事記』においては、「大宜都比売」は国産みにおいて伊予之二名島(四国)の中の「阿波国の名前」として初めて表れる。   @阿波
0859日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 18:51:55.17
>>355
じゃあ、弥生集落遺跡の比べっこするか?  わははははは   @阿波
0860日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 18:52:24.65
>>858

コメの栽培が普及したから人口が急増したわけで

粟や稗みたいな雑穀農業じゃ〜〜〜〜〜〜〜
人口は増えませんよ


第一、泡さん自体、コメ一粒も食べず、粟や稗だけで、生活したことなどないでしょう?
0861日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 18:52:35.48
>>857
農夫なんだがw   @阿波
0862日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 18:53:38.88
>>859

まず、四国で発見された大規模集落遺跡を列挙した上で

笑いましょう(^^)

ふふふふふふ
0863日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 18:54:41.26
>>860
>コメの栽培が普及したから人口が急増したわけで

お前はどこまでもアホだな。  レベルが低すぎ。  「阿波」の前に出てくんな、下郎!   @阿波
0864日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 18:55:34.72
>>861

いままでの、ご意見を拝読していると、とても農家の方とは思えませんね

ふふふふふふ
0865日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 18:55:43.41
>>862
じゃあ、弥生集落遺跡の比べっこするか?  わははははは   @阿波
0866日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 18:56:49.53
>>863

ふふふふふふ

四国には邪馬台国や投馬国を暗示する遺跡はない
0867日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 18:58:45.44
>>857
>食糧生産について、論じるには、農業経験のない泡さんにはちょっと無理だと思いますね

で、お前はどんな農業経験があるんだ?   @阿波
0868日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 18:59:06.19
>>865
泡さんも、邪馬台国の謎に迫りたいわけでしょう?

だったら、本の虫にならないほうがいいですよ

だって、100%正しい歴史書なんて存在してていませんからね

ふふふふふふ
0869日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 18:59:57.32
>>867

まず、泡さんは、四国の大規模集落遺跡をリストアップしてくださいよ

できるんでしょう?

ふふふふふふ
0870日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 19:00:37.40
>>866
>四国には邪馬台国や投馬国を暗示する遺跡はない

お前は「邪馬臺国」や「投馬国」が一つの遺跡だとでも思っているのか?   @阿波
0871日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 19:01:36.88
>>869
じゃあ、弥生集落遺跡の比べっこするか?  わははははは   @阿波
0872日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 19:03:27.37
>>857
>食糧生産について、論じるには、農業経験のない泡さんにはちょっと無理だと思いますね

で、お前はどんな農業経験があるんだ?   @阿波
0873日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 19:03:32.26
>>867

国家の基盤は食糧生産ですよ
ま〜フェニキアみたいな海上交易国家なら、造船技術でしょうけど、邪馬台国は間違いなく農業国

だから、耕地面積が重要なのですよ

ふふふふふふ
0874日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 19:06:33.20
>>873
>だから、耕地面積が重要なのですよ

碌な弥生集落遺跡や鍛冶炉遺構の無い九州や畿内に、「耕地面積」などあっても無用の長物!  わははははは   @阿波
0875日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 19:11:21.09
>>837
崇神天皇の四道将軍派遣記事
痕跡てあるのか?
道路インフラ等の開拓では?

邪馬壹國
官有伊支馬,次曰彌馬升,次曰彌馬獲支,次曰奴佳鞮
の4人がモデルかも?
0876日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 19:12:28.88
>>801
>山に囲まれた盆地は扇状地が多い その通りです(^^)
日本有数の扇状地である胆沢川流域も水不足で水田不適地でしたが、胆沢ダムの完成で、緑豊かな農地に変貌しました
でも、扇状地の面積は流れ込む川の水量、流速によって変わります
奈良盆地に流れ込む川は水量も少なく、奈良盆地自体が巨大な湖であったために、
邪馬台国の食糧生産を支えることができたと、思います

「奈良盆地に邪馬台国があった」という前提で書かれたこの文は、
まず「邪馬台国」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言を使っているから、
オレオレ詐欺師であり、
「奈良盆地」説を唱えた事になるから、これも、
「南≠東」や「卑弥呼の冢≠前方後円墳」や、「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘つき騙しをしている事になり、
オレオレ詐欺犯罪と同じですから、バツです。
0877日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 19:17:13.65
わたしは、京都が邪馬台国の都だと思う。
1.倭人伝に基づく、発掘遺物の中心は京都
2.纏向近辺は邪馬台国を含む地方豪族の葬儀場と墓地
3.畿内説では無く、京都周辺(含む近江)地域
4.太平洋ルートで投馬国は日向、
南に向かい黒潮に乗り南紀白浜から伊勢までの範囲からら陸行陸行で京都

5.行程を考えた場合、時間的に行きは太平洋ルート、帰りは瀬戸内か日本海ルート
0878日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 19:19:11.96
>>832

>何故、大阪湾に向かわなければならないの
大和川を遡るわけですから、

大阪湾ですね
0879日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 19:23:14.11
>>875

崇神天皇の四道将軍派遣
これは・・・・ほとんど戦争していないと思います
当時のヤマト王権の軍事力・経済力は圧倒的で、大和軍と戦える国はほとんどなかったわけです
ま〜一種のコンビニフランチャイズ加入みたいなものです
0880日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 19:24:46.01
>>877
キウス??
0881日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 19:25:52.88
>>874

四国にクニレベルの集落遺跡はないんでしょう?
0882日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 19:29:10.44
>>858
>お前なあ、コメしか頭にないようだな。 「魏志倭人伝」にコメがなんで出てこないのか分かるか?

えっ
阿波って漢文読めないの?
0883日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 19:31:48.78
>>877
京都も、バツだよ
女王國東 渡海千餘里 復有國皆倭種
の説明できんの?
0884日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 19:35:41.63
>>802
>身長75cm未満の小人族が
3世紀の日本列島付近に実在したと言い張る九州説の信用はもちろんゼロ

人類の低身長部族の存在は、アフリカと、インドネシアのネグルトに確認されており、
回りの高身長部族との生存競争にはどうしても不利になり、
ネグルト部族らが、軽量の利点を生かして、小舟を操って、
インドネシアからアジア大陸東南部の島嶼地域や太平洋の島々に移住した事は、
幾らでも有り得、
列島の侏儒國以外にも、種子島や、済州島の南側にも、低身長部族の存在の可能性が知られている。
また、足摺の西沖の「沖の島」には、江戸初期まで低身長部族が存在していた、という記録もあり、
江戸期に婚姻に拠ってか?、消失した事も記録されている。
0885日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 19:37:26.66
★奈良邪馬台国 完全版

最後に残った卑弥呼擁立の理由

これまで人口7万戸(28万人)を擁する3世紀列島最大の超大国邪馬台国の食糧生産面からの考察で、
必要とする水田1万4千ha確保できる場所は

奈良盆地しかないということと、纏向遺跡、箸墓古墳、三輪山太陽信仰なども揃っており
90%の確率で邪馬台国は奈良にあったと考えて問題ないでしょう

そして、畿内、四国、岡山、北部九州の倭人国家群の盟主として三輪山の巫女、卑弥呼が擁立されたわけですが
なんで、卑弥呼だったのか?その理由がイマイチはっきりしない
当時の日本には、卑弥呼以外にも有能な巫女は多数いたわけで

倭国王オーデションを受けて優勝したのか?
それとも、彼女が有力国家の親族だから選ばれたのか?

どちらかだと思いますが、常識的に考えて後者でしょう

そうなると、卑弥呼の父親ってのも、当時の倭国政界で相当な顔を持っていたことになります
現在に例えるなら、二階幹事長の娘みたいな・・・・

いずれにしろ、戸数千戸程度の小国の王族ではない
0886日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 19:40:15.78
>>881
>四国にクニレベルの集落遺跡はないんでしょう?

四国と言わずとも、「阿波」に「邪馬臺国」 と 「狗奴国」の集落遺跡群があるよ。  わははははは   @阿波
0887日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 19:44:14.94
>>886

聞いたことありませんね?(^^)

なんていう遺跡なんです?(^^)

ふふふふふふ
0888日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 19:46:23.08
>>887
>聞いたことありませんね?(^^)

じゃあ、「阿波」の遺跡を勉強してから、ここへ来い! カス。   @阿波
0889日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 19:49:04.30
>>883
魏の使いが、確かめた訳でも無いので
伝聞だと思います。魏の使いも邪馬台国の領土の範囲は分からないと思います。
戸数も実査したものでは無く、伝聞だと思います。
対、中国にいかに大きく見せるかの産物です。
魏国も配下に納めるべく、倭国の実態調査に来たのでしょう。倭国が招いていない。
政治戦略は相手を如何に料理するかだと思います。
0890日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 19:50:10.23
>>886

3世紀徳島の水田面積とコメ収量はどれくらいあったんですか?

ふふふふふふ
0891日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 19:53:34.78
>>890
>3世紀徳島の水田面積とコメ収量はどれくらいあったんですか?

碌な弥生集落遺跡や鍛冶炉遺構の無い九州や畿内に、「水田面積とコメ収量」がいくらあったも無用の長物!  わははははは   @阿波
0892日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 19:54:31.77
>>884
>>江戸初期まで低身長部族が存在していた、という記録

小人症という病気の記禄では?
何人くらい?
なんていう文献なの?
原本とか残っているのか?
誰の所蔵?
0893日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 19:55:51.37
>>891

つまり、知らないわけですね?(^^)

ま〜〜〜せいぜい奈良の10分の1がいいとこでしょう
0894日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 19:56:35.77
>>845
阿波さん
本気に倭人の、5ま万
0895日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 20:01:23.39
>>884
ほら、数値だせない
0896日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 20:06:33.16
>>891
阿波さん、お疲れ様です。

倭人伝の5万戸とか7万戸を魏の使者が
確認しようも無い。倭国の策略かも、、古代人口推計でも、九州、畿内、四国も該当するのは無理。


阿波さん、お遊びがすぎますよ。

他説をからかうのも、良いですが、
畿内説の手法そのものかも、、
0897日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 20:07:25.42
>>884
デマごくろう
0898日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 20:17:44.90
>>1
教えてください。
寺澤氏が纏向邪馬台国王都説に、最近の公演では触れないですね、
初期ヤマト王権の公演は聞き及んでます。
邪馬台国の王都について、最近触れないような論調です。、
0899日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 20:20:35.50
>>803
>女王国(九州)→東渡海千里→複有国皆倭種(本州)
去女王国(九州)→四千里→又有侏儒国在其↑南(阿波)

「女王國東渡海千餘里,復有國,皆倭種。又有侏儒國在其南,人長三四尺,去女王四千餘里」では、
「又有侏儒國在其南」の侏儒國の記載の「在其南」という文言の「其」は、
「復有國皆倭種」を指している事は、記載実態から明らかであり、
そして侏儒國は「女王國東渡海千餘里,復有國,皆倭種」の上陸後に、
その南へ「四千余里ー千余里=三千余里」行ったと所にある、という事になり、
その後で「參問倭地,絕在海中洲島之上,或絕或連,周旋可五千餘里」と総括しており、
それに拠れば「倭地の陸路参問里数が五千余里」であった、としており、
その五千余里の算出は、
「400余×2+300×2+500+100+(4000余−1000余)=5000余(里)
になっており、という事は、4000余−1000余=三千余(里)が、
「女王國東渡海千餘里,復有國,皆倭種」の上陸地から南へ陸路で三千余里行った所に侏儒國がある、
と言う事を主張している事になり、
という事は、「復有國,皆倭種」の地と侏儒國とが、同じ陸地内に存在した、と言っている事になり、
という事は、周防付近に上陸した、という説は、
その南は(本州ではなく)瀬戸内海の海上であり、陸地ではないから、バツである、
という事である。
0900日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 20:21:57.12
>>898
>邪馬台国の王都について、最近触れないような論調です。、

そりゃ、「阿波」の遺跡を知ったら、大っぴらには言えんわな。  わははははは   @阿波
0901日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 20:23:00.50
>>1
寺澤氏の方向転換とは言いませんが
邪馬台国の王都の所在地について纏向であるのトーンが下がった気がします、

根拠は、最近ね彼の論調です。
0902日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 20:25:43.52
>>897
デマの根拠ある?
0904日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 20:44:53.72
橋本 久和氏は好きだな、
成り行き上で畿内説支持のようだが、
彼が、関西の考古学に一石を投じる予感がします。 
いまが彼の岐路でしょう。
自分の将来なんて考え無くても良いです。
道は開けると思います。
0905日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 20:52:34.48
寺澤/奥山の後継は、どうやら阿波になりそうな気配・・。
0906日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 20:54:24.03
★奈良邪馬台国  完全版

邪馬台国が奈良盆地にあった確率は、90%と見ています

むしろ、わからないのは・・・・投馬国の位置のほうでしょう?

個人的には、岡山東部の吉井川流域〜津山盆地に比定しています
理由は、コメ生産に適した盆地であり、古代の郡名に苫田(とまた)郡が設置されており、投馬(とうま、とま)との発音類似性があるからです

岡山だとすると「南水行20日」っていうのがちょっとキツイ
しかし、これは山口に「敵対国」の存在を仮定すれば、説明がつきます

個人的には、今後の邪馬台国論争は、邪馬台国以上に候補地が特定できない投馬国に比重を移すべきだと思いますね
0907日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 21:01:08.51
>>906
>邪馬台国が奈良盆地にあった確率は、90%と見ています

くそ最悪最底辺地ズボズボ沼地の大和盆地に「邪馬臺国」
0908日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 21:01:47.92
>>906
>邪馬台国が奈良盆地にあった確率は、90%と見ています

くそ最悪最底辺地ズボズボ沼地の大和盆地に「邪馬臺国」だと?  わははははは   @阿波
0909日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 21:03:28.10
>>906
>邪馬台国以上に候補地が特定できない投馬国に比重を移すべきだと思いますね

候補地が特定できないのは、トンデモだから。  わははははは   @阿波
0910日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 21:07:26.25
>>804
>具体的にどこからどう海を千里渡って本州のどこへ行く気だ

「本州」なんて行かないよ。
「女王國東渡海千餘里,復有國,皆倭種」の倭種の国は、ほぼ北西四国地域だよ。
そこから「陸路三千余里南に行ったところに侏儒國がある」という説明だ。
東大理系博士号自称男や大和説者らって、
どこまで行っても、言葉尻非難の口先騙しのオレオレ詐欺論法だな
0911日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 21:10:01.35
>>805の訂正
>★奈良邪馬台国 完全版

邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
「奈良」説は、「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、バツね。

>魏志倭人伝最大の謎=卑弥呼が共立された理由は不明
なぜ、卑弥呼はどの国にも居るフツーの「巫女」だったら「王」として魏と通交していた倭諸国の「王」として共立されたのか?
仮に、伊都国出身者だった場合、他の諸国が納得しないだろう?(数十年も戦ったんだから)
しかし、纏向(=邪馬台国)の巫女だったからこそ、大部分の諸国が「王」として認知したと思います

「思う」のは勝手ですが、
史料事実や史料実態からの帰納的で高確率的な、
十分な根拠のある推論をして下さいね。
0912日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 21:13:51.46
>>812
>関門を避けて、杵築・中津あたりから徳山方面へ渡海千里とみれば、
最も適切で合理的な読み方だと思うね

徳山上陸では、その南への陸路の三千余里が存在しないから、バツね。
0913日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 21:17:19.93
>>816
>阿波説よりは畿内説のほうが信憑性がある

どちらも、「南≠東」や「卑弥呼の冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國中心は北部九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、バツね。
0914日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 21:20:29.97
>>820
そんなふうに、全てにおいて曲芸読みしないと守れない大和説はゴミでしょ
0915日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 21:22:01.70
>>880
889 894 896 898 901 904 905
0916日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 21:26:05.53
>>824
>大和朝廷の前身、奈良邪馬台国は、3世紀の時点で
奈良県、大阪府、淡路島、紀ノ川流域、吉野川流域を勢力圏に置いていた

邪馬台国なんて存在もしなかったオレオレ詐欺の文言であり、
奈良説も、
「南→東」や「卑弥呼の冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國中心は北部九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しのオレオレ詐欺をやっていますから、
いずれもバツです。
0917日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 21:27:30.77
書物に書かれたことが全部正しい訳ではない。
書き間違え、故意の捏造など日本書紀や古事記が好例
0918日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 21:31:38.83
>>827
>私は、投馬国に津山盆地・吉井川流域を比定していますので
四国北岸を航路として想定していますが

投馬國は、九州北岸の不彌國の南の方の「水行二十日」の位置にある、
と書かれていますから、九州北岸のはるか東の方にある「津山盆地」説は、
始めからバツであり、
オレオレ詐欺です。
0919日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 21:38:42.74
>>837
>ま〜四国は投馬国の候補地にはなりえますが、

投馬國は、博多湾岸の不彌國の「南の方」の「水行二十日」の位置にある、と書かれているんだから、
博多湾岸の東の方にある四国は、始めからバツであり、オレオレ詐欺です。
0920日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 21:45:28.34
>>840
>ま〜ポイントは、
九州から見て邪馬台国の一つ手前にあったという「投馬国」が、何処にあったのか?
これが鍵でしょう?・・・

邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、この男はバツであり、
「投馬國」は、不彌國の南の方の「水行二十日」付近にある側副傍線國の説明であり、
だから「邪馬壹國女王之所都」が不彌國のすぐ南の位置になる、という事になり、
だから、この男もオレオレ詐欺男である。
0921日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 21:47:07.57
>>912
>徳山上陸では、その南への陸路の三千余里が存在しないから、バツね。

そこは、「復国有り皆倭種」だから、又いくつかの国が有るが皆倭種である、と読むべきだろう。
今でいえば、徳山ー広島ー鞆ー岡山ー姫路と来て、其の南に小人の阿波あり、女王を去る4000里・・、
0922日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 21:56:18.99
>>877
>わたしは、京都が邪馬台国の都だと思う

「邪馬台国」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、始めからオレオレ詐欺であり、
「京都」説も、
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの、史料事実や史料実態に拠って、バツであり、
オレオレ詐欺です。
皆様、オレオレ詐欺師には、気を付けましょうね。
0923日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 22:04:42.42
>>885
>★奈良邪馬台国 完全版

邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、それだけでもオレオレ詐欺であり、
「奈良」説も、始めから「南→東」や「正北抵新羅の倭國中心は北部九州」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しをしているから、オレオレ詐欺そのものであり、
バツです。
善男善女の皆様は、大和説者らのオレオレ詐欺に騙されないように、気を付けましょうね。
0924日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 22:17:18.76
>>889
>魏の使いが、確かめた訳でも無いので伝聞だと思います。

いや、
「女王國東渡海千餘里,復有國,皆倭種。
又有侏儒國在其南,人長三四尺,去女王四千餘里。
又有裸國、K齒國復在其東南,船行一年可至。
參問倭地,絕在海中洲島之上,或絕或連,周旋可五千餘里」
の記録も、魏の役人らが実地に見聞計測をしないでは、記録出来る筈もなく、
この男も、大和説者らに特有の、オレオレ詐欺師だろう、と思います。

>魏の使いも邪馬台国の領土の範囲は分からないと思います。

邪馬台国なんて文言も、存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、
この男もオレオレ詐欺の犯人です。

>戸数も実査したものでは無く、伝聞だと思います。
対、中国にいかに大きく見せるかの産物です。
魏国も配下に納めるべく、倭国の実態調査に来たのでしょう。倭国が招いていない。
政治戦略は相手を如何に料理するかだと思います

戸数も家数も、当然「肉眼で計測出来る範囲であれば、概算したんでしょう」が、
肉眼では計測出来ない場合は、倭人からの伝聞などに拠って「可〜戸」などと記録したんでしょう。
そういう可能性が考えられないこの投稿子は、やはりオレオレ詐欺犯なんでしょうね。
0925日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 22:22:06.94
>>892
>>(足摺の西沖の沖之島に)江戸初期まで低身長部族が存在していた、という記録

>小人症という病気の記禄では?何人くらい?
なんていう文献なの?原本とか残っているのか?誰の所蔵?

当時の江戸初期の、「足摺側の庄屋の記録」。
0926日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 22:35:06.59
>>906
>★奈良邪馬台国  完全版
邪馬台国が奈良盆地にあった確率は、90%と見ています・・・

邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙しの「オレオレ詐欺」文言であり、
「奈良」説も、「南≠東」や「卑弥呼の冢≠前方後円墳」や、
「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、バツであり、
オレオレ詐欺師そのものです。
0927日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 22:47:05.89
>>921
>>徳山上陸では、その南への陸路の三千余里が存在しないから、バツね。

>そこは、「復国有り皆倭種」だから、又いくつかの国が有るが皆倭種である、と読むべきだろう。

いくら「幾つかの国がある」と読めても、
その上陸国から「南へ三千余里の陸行した所に侏儒國がある」と書かれているんだから、
「王國東渡海千餘里,復有國,皆倭種」の上陸国は、
南へ三千余里の陸行が出来る国であり、
四国北西部付近であった、という事は否定出来ない。


今でいえば、徳山ー広島ー鞆ー岡山ー姫路と来て、其の南に小人の阿波あり、女王を去る4000里・・>
0928日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 22:51:08.57
>>927の訂正
>>921
>>徳山上陸では、その南への陸路の三千余里が存在しないから、バツね。

>そこは、「復国有り皆倭種」だから、又いくつかの国が有るが皆倭種である、と読むべきだろう。

いくら「幾つかの国がある」と読めても、
その上陸国から「南へ三千余里の陸行した所に侏儒國がある」と書かれているんだから、
「王國東渡海千餘里,復有國,皆倭種」の上陸国は、
南へ三千余里の陸行が出来る国であり、
四国北西部付近であった、という事は否定出来ない。
0929日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 22:52:07.59
★奈良邪馬台国  完全版

このスレッドもそろそろ、終わる(^^)

纏向遺跡は・・・・3世紀日本のメッカ

案外、日本の神道は・・・・卑弥呼が始めた宗教なんじゃないかな?

卑弥呼をマホメットと例え、纏向遺跡をメッカとすれば

3世紀突如出現したこと
前方後円墳が急速に広まったこと
女王として共立されたこと

すべて、説明が付く

それだけ、卑弥呼のカリスマ性が強烈だったのだろう

なにしろ、内戦状態だった倭国大乱を終息させたわけだし
0930日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 22:54:05.32
>>923

邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、それだけでもオレオレ詐欺であり、
「奈良」説も、始めから「南→東」や「正北抵新羅の倭國中心は北部九州」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しをしているから、オレオレ詐欺そのものであり、
バツです。
善男善女の皆様は、大和説者らのオレオレ詐欺に騙されないように、気を付けましょうね。


ふふふふふふ
0931日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 22:55:07.07
>>918

投馬國は、九州北岸の不彌國の南の方の「水行二十日」の位置にある、
と書かれていますから、九州北岸のはるか東の方にある「津山盆地」説は、
始めからバツであり、
オレオレ詐欺です。


ふふふふふふ
0932日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 23:00:06.85
★奈良邪馬台国  完全版

不完全な魏志倭人伝に翻弄されているかぎり、3世紀日本の姿を知ることはできない

邪馬台国は、日本国の始まりに関係することだから、多くの人がその謎に挑む

もし、卑弥呼という強烈な宗教カリスマがいなかったら

倭国大乱は終わらず

巨大都市纏向も建設されず

大和朝廷もできず

日本という国家もできていない

ということになる
0933日本@名無史さん垢版2021/10/02(土) 00:04:56.41
末盧國から伊都國や伊都國から奴國だって東南じゃないわけで
倭人伝に記載されている方角が正確じゃないことは明白

北と南を逆に考えているのはたぶん麻雀のやりすぎ
0934日本@名無史さん垢版2021/10/02(土) 05:09:08.76
魏志倭人伝に載っている邪馬台国への行程が間違えだらけだと思われる。
そんなものを一億回捻くり回しても、真実の邪馬台国は見えてこないだろう
0935日本@名無史さん垢版2021/10/02(土) 05:56:34.37
邪馬台国への行程の途中に出てきた邑は、邪馬台国ではない可能性は高い
0936日本@名無史さん垢版2021/10/02(土) 06:01:32.62
>>935
当たり前。   @阿波
0937日本@名無史さん垢版2021/10/02(土) 06:45:12.16
>>932
>卑弥呼という強烈な宗教カリスマがいなかったら
倭国大乱は終わらず 、

卑弥呼が、倭国大乱をおさめたと倭人伝に記述されていない。首長達が共立した女王。(もう戦争はやめようよ。皆が賛同できる王を立てようよ。かな?)
卑弥呼は共立前、邪馬台国の王では無かった。
0938日本@名無史さん垢版2021/10/02(土) 06:54:16.55
>>937
>卑弥呼は共立前、邪馬台国の王では無かった。

当たり前。  鮎喰川下流域の王族の子女だったのだろう。   @阿波
0939日本@名無史さん垢版2021/10/02(土) 06:58:12.79
>>917
倭人伝は報告文書
記紀は偽造歴史書
0940日本@名無史さん垢版2021/10/02(土) 07:15:34.35
>>934
>魏志倭人伝に載っている邪馬台国への行程が間違えだらけだと思われる。

ふんふん、
ま、どちらかと言えば、読む方の布留田や夜須川や石寺や泡踊りの間違えだらけのせいだと思われる。
0941日本@名無史さん垢版2021/10/02(土) 08:14:09.50
>>932
>★奈良邪馬台国  完全版
不完全な魏志倭人伝に翻弄されているかぎり、3世紀日本の姿を知ることはできない
邪馬台国は、日本国の始まりに関係することだから、多くの人がその謎に挑む

同時代の魏の役人らの実地の見聞計測の記録である魏志倭人伝を捨てて、
後代の「卑弥呼や壹與の記録を隠蔽盗用造作した嘘つき騙しの記紀などに翻弄されている限り、
3世紀の倭國や日本の姿を知る事が出来ない。
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であり、
奈良説は「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定のオレオレ詐欺説である。
0942日本@名無史さん垢版2021/10/02(土) 08:20:42.31
>>932
>末盧國から伊都國や伊都國から奴國だって東南じゃないわけで

キミの「魏志倭人伝の記載の読み方の間違い」であり、キミのオレオレ詐欺。

>倭人伝に記載されている方角が正確じゃないことは明白

倭人伝に記載されている方角は、東西南北程度の事は、
(100%ではなくても)ほぼ合っている。
この大和説男の、北と南を逆に考えている、などの事は、
たぶんオレオレ詐欺のやり過ぎ。
0943日本@名無史さん垢版2021/10/02(土) 08:25:10.45
>>934
同時代の魏の役人らが実地に見聞計測した記録である魏志倭人伝に、
載っている邪馬壹國女王之所都への行程は、ほぼ合っていると思われる。
それを「間違いだ」とするオレオレ詐欺を一億回捻くり回しても、
真実の邪馬壹國女王之所都の姿は、見えてこないだろう。
0944日本@名無史さん垢版2021/10/02(土) 08:30:33.77
>>940
間違いだらけ、
良く言うよ。
そこまで言うなら、邪馬台国は無かったで良いじゃん。
ご都合主義で、間違いだらけと言う畿内説は信用できない
0945日本@名無史さん垢版2021/10/02(土) 08:32:54.22
>>934
魏志倭人伝に載っている邪馬壹國女王之所都への行程は、「ほぼ正しい」と思われる。

ま、どちらかと言えば、問題点は、
読む方の夜須川や石寺や泡踊りや、大和説学者らのオレオレ詐欺だらけのせいだ、
と思われる
0946日本@名無史さん垢版2021/10/02(土) 08:49:19.29
>>945
ま、どのみち布留田も夜須川も、九州説番外地
0947日本@名無史さん垢版2021/10/02(土) 08:55:44.86
>>933
>末盧國から伊都國や伊都國から奴國だって東南じゃないわけで

んなら、倭人伝に書かれている通りの東南の方角へ行ってみればいいじゃないか。
行ってみるだけならタダだろ!
0948日本@名無史さん垢版2021/10/02(土) 09:09:25.74
>>937
>卑弥呼は共立前、邪馬台国の王では無かった。

当たり前。  鮎喰川下流域の王族の子女だったのだろう。   @阿波
0949日本@名無史さん垢版2021/10/02(土) 09:12:53.35
>>937
>卑弥呼は共立前、邪馬台国の王では無かった。

当たり前。  鮎喰川下流域の王族の子女だったのだろう。   

「阿波」の北部地域(大河吉野川流域・鮎喰川流域)の国々によって共立され、「邪馬臺国」の女王となった。   @阿波
0950日本@名無史さん垢版2021/10/02(土) 09:42:00.91
北部九州説も「南≠東」
博多湾から南に海はない。
西、北に行く、詐欺だな。
0951日本@名無史さん垢版2021/10/02(土) 09:45:02.41
>>939
倭人伝は報告文書?

陳寿主観の史書
0952日本@名無史さん垢版2021/10/02(土) 09:47:27.38
>>925
もう一度聞く。
原本とか残っているのか?
どこにあるの?
閲覧可能か?
0953日本@名無史さん垢版2021/10/02(土) 10:06:28.25
>>945
>>んなら、倭人伝に書かれている通りの東南の方角へ行ってみればいいじゃないか。
行ってみるだけならタダだろ!

いや、ダメだろうなあ。
皇帝の詔書や親魏倭王の金印や大量の下賜品を運ぶ魏使や魏の役人らの、
つもりになってみないとだめだろうな。
川の沢伝いコースや峠越えコースなど選択して、万一失敗したら、
そりゃ首が危なくなるもの。
皆さま、オレオレ詐欺にひっかかっては、いけませんよ。
0954日本@名無史さん垢版2021/10/02(土) 10:14:49.14
>>953
千餘里至末盧國,有四千餘戶,濱山海居,草木茂盛,行不見前人。好捕魚鰒,水無深淺,皆沈沒取之。東南陸行五百里,到伊都國,
は、嘘を書いたのか?
0955日本@名無史さん垢版2021/10/02(土) 10:19:47.30
>>946
ま、どのみち「南→東」や「卑弥呼の冢→前方後円墳」や「正北抵新羅」に否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘つき騙しの、夜須川も阿波も大和説学者らも、
オレオレ詐欺の「人類の敵」。
0956日本@名無史さん垢版2021/10/02(土) 10:20:42.18
>>920
邪馬壹國女王之所都が不彌國のすぐ南の位置にならない、
だから、この男もオレオレ詐欺男である。
不彌國はどこの想定?
0957日本@名無史さん垢版2021/10/02(土) 10:25:00.41
>>955
ま、どのみち「南→東」
「正北抵新羅」に九州などと書いていない
ことまで書く

史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘つき騙しの、北部九州説、
オレオレ詐欺の「人類の敵」。
0958日本@名無史さん垢版2021/10/02(土) 10:25:37.36
>>955
おいおい、一番重要で高貴な人物を忘れておりますぞえ、失礼の無きよう。
0959日本@名無史さん垢版2021/10/02(土) 10:28:12.42
>>958
卑弥呼の冢→定かでない。
0960日本@名無史さん垢版2021/10/02(土) 10:38:36.33
>>959
ま、とりあえず伊都国に着いてひと風呂浴びて、名物のエツを肴にうまい地酒でも傾けてからだ。
墓参りにはもう1500里、25日はかかるからな。
0961日本@名無史さん垢版2021/10/02(土) 10:44:10.12
>>937
>卑弥呼は共立前、邪馬台国の王では無かった。

当たり前。  鮎喰川下流域の王族の子女だったのだろう。   

「阿波」の北部地域(大河吉野川流域・鮎喰川流域)の国々によって共立され、「邪馬臺国」の女王となった。   @阿波
0962日本@名無史さん垢版2021/10/02(土) 10:49:34.71
>>960
卑弥呼の冢は北部九州
卑弥呼の墓は局ヶ岳だな。
0963日本@名無史さん垢版2021/10/02(土) 10:53:11.21
>>950
>北部九州説も「南≠東」

有難う。
>しかし、オレオレ詐欺師という人種は、
最初に正しそうな事を言って、老人を信用させるようにしてから、
こっそり嘘を付いて老人を騙そう、とするもの。

>博多湾から南に海はない。

倭人伝は、「投馬國は不彌國から南の方の水行二十日かかる所にある、と書いてあるだけで、
「博多湾から南へ行った」とは書いていないから、
この男はここでも早速、オレオレ詐欺をしている。

>西、北に行く、詐欺だな

博多湾から一旦北に出て、
それから、東回りか?西回りか?の海岸沿いの水行二十日をしたら、投馬國に着ける、
と言っているんだから、
それをこっそり変えて、老人を騙そうとしたこの男は、
口先騙しのオレオレ詐欺師そのものだな。
0964日本@名無史さん垢版2021/10/02(土) 11:08:33.05
>>963
オレオレ詐欺師そのものだな。

東回りか?西回りか?の(海岸沿い)とか書いていない
水行二十日をしたら、
別に九州でなくても投馬國に着ける
0965日本@名無史さん垢版2021/10/02(土) 11:17:27.04
「したら〜」とか阿保すぎ
ちゃんと細かいこと書かなければわからん
魏志はガイドとしては使えんよ。
たどりつけない。
0966日本@名無史さん垢版2021/10/02(土) 11:23:32.40
>>946
ま、どのみちも夜須川も阿波も大和説学者らも、
魏志倭人伝の曲解捏造の、オレオレ詐欺師の番外地
0967日本@名無史さん垢版2021/10/02(土) 11:27:21.37
陳寿主観の史書だからね。
使者の記禄は細かく書いているよ。
大雑把に陳寿は書いた。
使者と違って陳寿になんら責任はないし膨大な三国志のほんの一部。
自国の史が優先、見直しもあまりしていないだろうな。
0968日本@名無史さん垢版2021/10/02(土) 11:28:34.95
>>966
ま、どのみちも北部九州説も夜須川も阿波も大和説学者らも、
魏志倭人伝の曲解捏造の、オレオレ詐欺師の番外地
0969日本@名無史さん垢版2021/10/02(土) 11:31:52.79
>>957
ま、どのみち大和説者らは、「南→東」「正北抵新羅は大和」などと、
書いていないことまで主張するオレオレ詐欺師集団。
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘つき騙しの大和説者は、
オレオレ詐欺師であり、「善男善女の敵」
0970日本@名無史さん垢版2021/10/02(土) 11:43:46.66
>>969
ま、どのみち九州説者も「南→東」「正北抵新羅は九州」などと、
書いていないことまで主張するオレオレ詐欺師集団。
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘つき騙しの九州説者も
オレオレ詐欺師であり、「善男善女の敵」
0971◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/10/02(土) 11:53:16.53
新スレ立てました。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1633140298/50
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
0972日本@名無史さん垢版2021/10/02(土) 12:24:42.42
>>964
>オレオレ詐欺師そのものだな。
東回りか?西回りか?の(海岸沿い)とか書いていない
水行二十日をしたら、別に九州でなくても投馬國に着ける

オレオレ詐欺師そのものだな。
魏志倭人伝には、
「・・・東行至不彌國百里,官曰多模,副曰卑奴母離,有千餘家。南至投馬國,水行二十日,官曰彌彌,副曰彌彌那利,可五萬餘戶・・・」
としか書かれておらず、「至」の前に移動があった事が書かれず、
「南すれば、至投馬國し、水行二十日かかる」としか書かれていない。
また、この男は、「南」という文言をこっそり無くした説明をしている。

世間の皆様、気を付けましょうね。
オレオレ詐欺師は、都合の悪い事はこっそり外して説明するんですよ。
0973日本@名無史さん垢版2021/10/02(土) 12:54:33.57
>>972
あそ、書き直す
東回りか?西回りか?の(海岸沿い)とか書いていない
水行二十日をしたら、別に九州でなくても南至れば
投馬國に着ける。

完璧だな。補足サンクス オレオレ詐欺師
0974日本@名無史さん垢版2021/10/02(土) 13:18:17.32
>>964
>「したら〜」とか阿保すぎ
ちゃんと細かいこと書かなければわからん
魏志はガイドとしては使えんよ。たどりつけない。

いや、倭人側には、当然難升米や都市牛利がいるし、その配下の案内人が付く。
だから、魏使や魏の役人らは、大体の事を記録すればよいのであり、
細かいガイドまで記録する必要がない。
世間の皆様、この変な事を言った大和説男?も、オレオレ詐欺師のようですね。
0975日本@名無史さん垢版2021/10/02(土) 13:33:28.08
>>974
>>細かいガイドまで記録する必要がない

案内人が付くから
魏志はガイドとしては使えんてことかな?
案内人がいない、魏志を読んだ人は
さらにわからんな。

オレオレ詐欺師
0976日本@名無史さん垢版2021/10/02(土) 13:33:32.83
>>973
>あそ、書き直す
東回りか?西回りか?の(海岸沿い)とか書いていない
水行二十日をしたら、別に九州でなくても南至れば投馬國に着ける。

あれ?、このオレオレ詐欺師が、「別に九州でなくても」なんて、また、詐欺をしている。
投海國の「南至」は、博多湾岸付近の不彌國からの方向が「南」である、という意味であり、
不彌國の南の方は、九州島方向しかなく、
「別に九州でなくても」なんて書けば、そりゃオレオレ詐欺の犯行現場である事になる。

完全な犯罪者だな、オレオレ詐欺師くん。
0977日本@名無史さん垢版2021/10/02(土) 13:43:30.45
断る
0978日本@名無史さん垢版2021/10/02(土) 13:45:42.17
>>975
>>細かいガイドまで記録する必要がない

>案内人が付くから 魏志はガイドとしては使えんてことかな?

いや、魏志の行程記載は、陳寿が魏の役人らの報告書を見て、
当然、その一部を紹介したもの。、

>案内人がいない、魏志を読んだ人は さらにわからんな。
オレオレ詐欺師

魏志を読んで、大まかな移動説明を知り、案内人もいるから、
更に判る。
それが分からないのか?、分からない振りをしたこの男は、オレオレ詐欺師。
0979日本@名無史さん垢版2021/10/02(土) 13:46:50.76
>>976
不彌國て何県の何市あたり?
で投馬国は何県の何市あたり?
南にくるんだな。
東南、西南はだめだぞ。
0980日本@名無史さん垢版2021/10/02(土) 13:51:42.14
>>978
「したら〜」とかの詐欺師のみで
そばに
難升米や都市牛利もいないよ
その配下もいないな。
0981日本@名無史さん垢版2021/10/02(土) 14:04:15.30
魏使や魏の役人らは、大体の事を記録すればよいのであり?

で「ほぼ正しい」?

zarakoku 藪蛇だな

でも北部九州にいる卑弥呼。
0982日本@名無史さん垢版2021/10/02(土) 14:54:38.14
畿内説のスレなのに

畿内説は他説批判

他説批判で成り立つ畿内説なんて

学問では無い

よほど他説が怖いのかな

他説が畿内説批判するのは仕方がない

畿内説のスレだから
0983日本@名無史さん垢版2021/10/02(土) 15:09:52.70
>>982
>畿内説のスレなのに
>畿内説は他説批判

どれが他説批判?
投稿番号は?
0984日本@名無史さん垢版2021/10/02(土) 15:28:47.44
>>983
読みゃわかる、
オレオレ詐欺の争い
0985日本@名無史さん垢版2021/10/02(土) 16:27:58.69
>>984
>オレオレ詐欺の争い

それ?
畿内説スレに来てトンデモ九州説を演説してる馬鹿が叩き潰されてるだけだろ

 >畿内説のスレなのに
 >畿内説は他説批判
 >他説批判で成り立つ畿内説なんて
 >学問では無い
とか言ってる馬鹿もウソついて誹謗中傷することしか出来ない無能ってこと
0986日本@名無史さん垢版2021/10/02(土) 16:38:40.30
青息吐息だね畿内説
がんばってw
0987日本@名無史さん垢版2021/10/02(土) 17:32:12.05
>>979
>不彌國て何県の何市あたり?

伊都国の出口から東に百里位の所に、不彌國の入り口がある、という書かれ方。

>で投馬国は何県の何市あたり?

不彌國の南の方で、沿岸航行の水行で20日位かかる所。
おそらく南九州の宮崎県〜鹿児島県付近。

>南にくるんだな。東南、西南はだめだぞ

当然「不彌國の南の方」だな。
0988日本@名無史さん垢版2021/10/02(土) 17:43:17.79
>>986
実際には畿内説に反論も満足に出来ない死亡済み九州説が、風評被害だけで抵抗を試みてるという惨状だというわけだな?
笑えるなあ
0989日本@名無史さん垢版2021/10/02(土) 17:44:36.87
>>987
で不彌國て
何県の何市あたりは書いていないけど?
0990日本@名無史さん垢版2021/10/02(土) 18:05:18.68
南九州の宮崎県〜鹿児島県付近
範囲広いんだな。ほぼ正確ではないんだな?
宮崎県の何市〜鹿児島県の何市なんだろうな。
北部九州 邪馬壹國までを萬二千餘里とすると超えるね。
女王国に属するのか?
0991日本@名無史さん垢版2021/10/02(土) 18:07:12.83
>>982

こいつ加古川の竹島どろぼう反日朝鮮ザラゴキブリの擁護だろ
0992日本@名無史さん垢版2021/10/02(土) 18:16:13.66
>>989
ザラコクは云えないだろう、不彌は宇美論者だからな

なお倭人伝の記載通りに進めば、末盧国東南五百里の佐賀県大和町川上が伊都国になるので、
そこから東へ(四捨五入して)百里の佐賀県吉野ヶ里町一帯が不彌国だったのだろう。
此処は律令制の彌根郡だったところで、倭人伝は「彌根」を卑語に置き換えて不彌国と記載したのではないか。
0993日本@名無史さん垢版2021/10/02(土) 18:20:04.08
>>992
その比定地に見合う集落遺跡もないくせに、妄想ばかり。  いい加減、聞き飽きた。   @阿波
0994日本@名無史さん垢版2021/10/02(土) 18:20:36.93
ではない。
0995日本@名無史さん垢版2021/10/02(土) 18:21:16.92
陸行一月とか水行十日とか結局どれくらいの距離なんだろ?
いずれにしても北九州諸国から遠い場所を表現しているようにしか思えない
投馬國への水行二十日と合わせれば九州内ってことはなさそう
0996日本@名無史さん垢版2021/10/02(土) 18:25:35.81
>>995
>投馬國への水行二十日と合わせれば九州内ってことはなさそう

しかし、畿内には届かない。
「陸行一月」
陸行一月区間(旧土佐街道 別名土佐浜街道)  途中の河川は川船で渡河
投馬国(土佐国宿毛) → 途中、魏使一行 阿南市若杉山辰砂採掘現場視察 → 女王国(阿波国鮎喰川下流域集落群)
距離約350km 歩行速度11.7km/日   @阿波
0997日本@名無史さん垢版2021/10/02(土) 18:33:31.78
>>996

泡犬神信者の作り話では丹山は狗奴國に有ったということなので
魏使が女王国に行く途中で狗奴國に先に行くということはない
0998日本@名無史さん垢版2021/10/02(土) 18:37:47.38
魏使は「狗奴国」と戦争していない。 却下! わははははは   @阿波
0999日本@名無史さん垢版2021/10/02(土) 18:40:23.33
>>993
伊都国比定地の川上字七ガ瀬からは最近大規模な墓地が発見された。
追々に周辺の発掘も進むだろう。全容解明は阿波の弔いに間に合うかどうかわからんがな。

不彌国比定地の吉野ケ里では、未発掘の吉野ヶ里中央区画の日吉神社跡の調査がまもなく開始される。二〜三世紀の大王の墓とみられている。
こちらは阿波の存命中に大成果が得られるだろう。ま、首を洗ってお待ちアレ。
1000日本@名無史さん垢版2021/10/02(土) 18:40:49.45
>>575
>つまり、当時の危険極まりない関門海峡を越えるのは、決死の渡海だったのだ。

少し沖合を通る分には、潮流の影響もないし、何の危険もないよ
海峡の中を通る訳じゃないんだから
10011001垢版Over 1000Thread
このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
life time: 5日 3時間 21分 52秒
10021002垢版Over 1000Thread
5ちゃんねるの運営はプレミアム会員の皆さまに支えられています。
運営にご協力お願いいたします。


───────────────────
《プレミアム会員の主な特典》
★ 5ちゃんねる専用ブラウザからの広告除去
★ 5ちゃんねるの過去ログを取得
★ 書き込み規制の緩和
───────────────────

会員登録には個人情報は一切必要ありません。
月300円から匿名でご購入いただけます。

▼ プレミアム会員登録はこちら ▼
https://premium.5ch.net/

▼ 浪人ログインはこちら ▼
https://login.5ch.net/login.php
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。

ニューススポーツなんでも実況