邪馬台国=福岡説 PART5
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>>948
なるほど。国産の超大型内行花文鏡の存在そのものを新しい証拠にするわけですな。
ただ、科学的な検証に耐えうるかどうか。
新しい蝙蝠座を採用せず古い四葉を八葉に発展させている。
蝙蝠座が登場したからといって、四葉座が取って代わられたわけでなく、四葉座もまた発展し続けていたし、
倭では漢最盛期の権威の象徴であった四葉が好まれた、ということで反論はできそうだけれども、新しい根拠にはできない。
(後の大型内行花文鏡が全て蝙蝠座でなく四葉座であることから、平原女王の権威が継承された結果とは言えるだろう)
雷雲ではないが、文帯が広いことからは、3世紀であれば古い形式であるとも言える。
同時に副葬された舶載内行花文鏡をモデルに作られたのだろう。
モデルが後漢中期76-146年頃の鏡だから、それ以降とは言えるけれども、新しい方に持っていく根拠には薄い。
後の畿内古墳から出土する大型内行花文鏡が、四葉で広い雷雲文帯を持つので、そちらに近い時代のものとは言えるけれども、
じゃあ畿内古墳の年代を古くされると、平原遺跡も古くされてしまうから、相対的なものだね。
やはり耳トウに頼るしかないのかな。という印象。
>>951
いや、後漢書は後漢時代の歴史を記録した書物なので、
後漢時代の大倭王が、楽浪郡から一万二千里の邪馬臺國に居た、と書いてあり、
七ハチ十年の男王は糸島にいたことが確実なので、
楽浪郡から一万二千里の邪馬臺國=女王國=奴国不彌國などに居た大倭王とは、
共立直後の倭女王卑弥呼を指すことになる。
>不弥国なら香椎宮がふさわしいのではないか。
別にそれでも構わない。だが金印奴国王の居館があった雀居遺跡も候補地の一つには挙げられる。 >>950
〉倭国女王卑弥呼しか考えられない。
ほとんどの人はそう考えないだけの話 >>946
〉鉄剣が追加された理由は簡単で、そうしないと三種の神器の様式が揃わなかったか
その頃にはまだそんな祭祀体系は存在してない
紀元前後には既に機内に小型仿製鏡は存在し、出土もある >>949
蘇我氏の祖にあたる武内家は、景初の時代より前に、仏教の国である呉とも通じており、既に三角縁仏獣鏡という、魏にはない大型化に必要な技術が存在していた
もしかしたら魔鏡の技術も呉のものなのかもしれない
曽我氏が仏教の士族になったのは呉の時代に既に仏教に触れていたからだと一部で(笑)言われている
三角縁神獣鏡は国産鏡 >>954
>その頃にはまだそんな祭祀体系は存在してない
福岡県内では、紀元前の吉武高木遺跡以来、三種の神器が様式化されて平原遺跡まで連綿と続いている。
考古学的事実だよ。
畿内にはなかったけどね。 >>952
後漢が勢力を持っていた時代、国産の鏡を作る動機がないのですよ。
むしろ権威の象徴を偽造することになる。
銅矛などは国産化していたから、技術的には可能だけれど、銅鏡は後漢が存続していたうちは作らなかった。
そうすると平原遺跡の国産超大型内行花文鏡つまり八咫の鏡は、後漢滅亡後、または公孫氏成立後と考えるしかない。 遺跡なんて証拠にはならないよ
移してきた可能性もある訳だからね
というか九州説は地名や人物名だけで十分一致する訳であってw いや、物証としての遺跡は重要ですよ。
まあ、私も九州説で、考古学的にも九州説しか有り得ませんけど。 >>957
曹操は金銀装飾の鉄鏡を威信材に指定したことが記録にハッキリと残っているので、
後漢滅亡と共に、銅鏡は魏の威信材では無くなったことは確実だね。
だから、魏から卑弥呼に贈られた銅鏡百枚が威信材ではなかったことも確実。
なぜなら、金印を贈る時点で、東アジアの中で唯一特別な国家であることを認めているのだから、
威信材として鏡を贈るのであれば、金銀錯嵌鉄鏡を贈ることになるから。
魏志倭人伝に鉄鏡の記載がなく、銅鏡百枚が記録されているということは、
単なる青銅原料として贈られた可能性が非常に高い、ということになる。
また九州日田で見つかった金銀錯嵌鉄鏡は、三国志に記録されていないのだから、
魏明帝から邪馬台国関係者に贈られたものではなく、
もう一方の有力国家の狗奴国王へ贈られた、しかも三国志前の微妙な時期である、216年曹操によって贈られたのだろうこともほぼ確定する。
190年に、洛陽は董卓によって一度焼き払われており、
宝物庫はもちろん歴代皇帝墓まで荒らされて灰燼に帰している。
220年に曹操の息子である曹丕が魏皇帝となって洛陽に首都を戻したのだから、
後漢〜魏の銅鏡生産というのは一度壊滅してから、220年に再開されたわけだ。
しかも鉄鏡が威信材となった中での再開。
卑弥呼の銅鏡百枚238年まではたった18年しかないのだから、
洛陽「尚方作竟」再開後の未熟な職人達によって製作された銅鏡群は、
舶載鏡にもかかわらず、文字が稚拙だったり、鏡映しだったりする。
すなわち平原遺跡の方格規矩四神鏡がそれである。 >>957
青銅器に関しては、前回三世紀に伝来して程なくして国産が始まったとするのが学説でしょう。
韓国産の鉛と大陸産の錫は完全輸入だったから成分分析含めてそれは確立された学説になってるはずだよ
サナギ=銅鐸は基本的に出雲と機内のもので、銅鏡よりも古い。つまり東征でやられちゃった側の祭祀になる。
それが三輪山祭祀で争いの手打ちの影響で途中から銅鏡祭祀が取り入れられた。
銅剣は、物部→出雲→機内に流れていくが、出雲が銅鐸祭祀をやめた際に畿内と争いの元になり吉備津彦に出雲が攻め込まれた。
故に、吉備エリアは物部の九州よりも新しく、独自の平型銅剣を配ったので、山陽から四国北部の瀬戸内海となり、そこから銅剣が出土する。
九州からは出てこないので、吉備の平型銅剣は東征してない。九州からは殆ど出ないはずだよ。
景初より前に、剣、勾玉、鏡のワンセットの祭祀体系が確立しているという話は無い。
村雲の剣は銅剣(尾張氏)
草薙の剣は鉄剣
勾玉は出雲
三角縁神獣鏡以外の銅鏡は基本的に九州(物部) >>960
〉だから、魏から卑弥呼に贈られた銅鏡百枚が威信材ではなかったことも確実。
景初のあの年の頃は、実は民間道教は厳しく取りしまられていました。
それで没収された神獣鏡がどこかにしまっていたらしく、すぐに100枚出せたようです。
ただ、かつての生口の三分の一にも満たない規模の小さな朝貢が、戦乱直後の魏の皇帝にはよく映ったらしく、そんなにいうのなら好物をやろうという事みたい
政府管轄でない道教をやってるよと言って動揺したのが、鬼道という表現に現れているのではという説があります。 >>961
>銅剣は、物部→出雲→機内に流れていくが、
祭祀型銅剣のことであれば、畿内には流れていない。
畿内のは祭祀型銅剣型の石剣だ。
祭祀型銅剣の分布は、九州豊國〜瀬戸内沿岸や四国だな。
世界最大かつ古式のものが宗像地域から出土していることから、
この地域を古代出雲に比定しうるし、そして出雲族が東征していったと考えられる。
>剣、勾玉、鏡のワンセットの祭祀体系
吉武高木遺跡を始めとして、北部九州各地の王墓から出土しているのは事実。
>>962
裏付けのないファンタジー。
取り締まられていたというなら、その文献を提示すべき。
すぐに100枚出せたというなら、その証拠を提示すべき。
規模の小さな朝貢が、戦乱直後で軍資金に乏しい魏の皇帝によく映る根拠がない。
典型的なダメ畿内説者の妄想。 >>941
伊都国に諸国を検察する機関なんて無いよ
一大率は女王国以北に置かれて、一大率を使って伊都国で常に諸国を治めていたんだから
伊都国には女王卑弥呼がいたんだよ 王都である伊都に置かれた大率が、王都より北方の対馬海峡の制海権を掌握して各地を検察していたんだよね。
それが機関なのか個人の役職なのか。
後の百済にも大率という役職はあったらしいから個人の役職か。
率は帥とも同義なので、大率は王に代わり執政を行う太宰の帥そのものだな。 >>966
「自女王國以北
特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國
於國中 有如刺史
王遣使詣京都帶方郡諸韓國 及郡使倭國 皆臨津搜露
傳送文書 賜遺之物 詣女王 不得差錯」
女王國=奴國不彌國などよりも、北の諸国については、
特に一人の大率を任命して、検察している。
北の諸国は大率を畏れ憚っている。
大率は普段は伊都國で勤務している。
大率は、魏本国における刺史のように機能しており、
狗邪韓国を中心とする投馬國〜壱岐対馬〜末蘆國の地方自治をも管轄している。 >>965
>>967
アホw
魏志倭人伝に一大率は女王国以北の諸国に置かれたと明確に書かれている
「自女王國以北 特置一大率檢察諸國」女王国より以北は、特に一大率を置き、諸国を検察す。
「諸國畏憚之 常治伊都國 於國中 有如刺史」諸国はこれを畏憚す。常に伊都国に治す。国中における刺史の如し。」
(女王卑弥呼は)女王国より北には、特別に一大率を置いて諸国を検察する。諸国はこれを恐れはばかっている。
(女王卑弥呼は)常に伊都国で政務を執っている。(一大率は魏)国中に於ける刺史の如きものである。 >>965
>>967
アホw
魏志倭人伝に一大率は女王国以北の諸国に置かれたと明確に書かれている
「自女王國以北 特置一大率檢察諸國」女王国より以北は、特に一大率を置き、諸国を検察す。
「諸國畏憚之 常治伊都國 於國中 有如刺史」諸国はこれを畏憚す。常に伊都国に治す。国中における刺史の如し。」
(女王卑弥呼は)女王国より北には、特別に一大率を置いて諸国を検察させている。諸国はこれを恐れはばかっている。
(女王卑弥呼は)常に伊都国で政務を執っている。(一大率は魏)国中に於ける刺史の如きものである。
この文章の主語は女王卑弥呼だからな。 直前の文章でも「収租賦有邸閣 國國有市交易有無 使大倭監之」祖賦を収め、邸閣あり。国国は市ありて、有無を交易す。大倭をしてこれを監ぜしむ。
(女王卑弥呼は)大倭をしてこれを監ぜしむ
だからな、女王卑弥呼に付いての説明が続いているし
次の「王遣使詣京都帯方郡諸韓国及郡使倭国 皆臨津捜露 傳送文書賜遺之物詣女王 不得差錯」王が使を遣し、京都、帯方郡、諸韓国、及び郡使が倭国に詣るに、皆、津に臨みて捜露す。文書や賜遣の物を伝送し女王に詣らすに、差錯するを得ず。
でも女王卑弥呼が使を遣しだから、女王卑弥呼の説明が続いている。
この辺は女王卑弥呼の説明なんだ。 三国志に出てくる「治」は433文字。うち、「治+地名」は24か所。
うち22例にて、"A+治+地名B"は、
「A自らの中心拠点を(Aの管轄域の主要地である)Bに設置した」の意味で使われている。
☆袁紹因表太祖爲東郡太守治東武陽 袁紹は太祖曹操を兗州東郡の太守に任命し、曹操は東武陽県に郡治を置いた
☆徙爲東郡太守治東武陽 (臧洪を)東郡太守に転任させ、臧洪は東武陽県に郡治を置いた
☆郡所治廣武 郡庁所在地の廣武県
☆治廣ィ如舊 (烏丸校尉の閻柔は)元からの如く廣ィ(上谷郡の寧城)で執務した
☆辰王治月支國 辰王は月支國で政務を執っている(魏志韓伝)
☆焉徙治綿竹 (益州牧)劉焉は綿竹県に州治を移した
☆焉徙治成都 (綿竹の大火災)劉焉は成都に州治を移した
☆羣下推先主爲荊州牧治公安 先主(劉備)は公安県に州治を置いた
☆治成都 (劉備は)成都を首都とした
☆先主爲漢中王遷治成都 劉備は漢中王になると、成都を首都とした
☆移治味縣 (庲降都督)馬忠は主要拠点を味県に移した
☆州舊治壽春 揚州の州治は昔から壽春県にある
☆繇乃渡江治曲阿 (揚州刺史)劉繇は長江を渡って曲阿県に州治を移した
☆權徙治秣陵 孫権は首府を秣陵県に移した
☆以慈爲建昌都尉治海昬 太史慈を建昌都尉(6県担当)に任命し、太史慈は海昬県に主要拠点を置いた
☆領荊州牧治公安 (劉備は)荊州牧を拝領し、公安に州治を置いた
☆以普爲吳郡都尉治錢唐 (呉郡都尉)程普は銭唐に軍事拠点をおいた
☆領江夏太守治沙羨 江夏郡の太守になって、程普は沙羨県に郡治を置いた
☆領丹楊太守治建業 (呂範を)丹楊郡の太守にして、呂範は建業県に郡治を置いた
☆拜抗都督信陵西陵夷道樂鄉公安諸軍事治樂鄉 陸抗は都督となって、信陵〜公安の軍事担当となり、樂鄉に主要拠点を置いた
☆假節開府治半州 (鎭軍大將軍の孫慮に)軍政府を開設させて、孫慮は幕府を半州に置いた
☆爲吳興郡治烏程 (烏程候から皇帝になった孫晧は)呉興郡を新設して、烏程県に郡治を置いた
★使司隸校尉留治関中 司隸校尉を関中に留めて治めさせる
★司隸校尉治弘農 司隸校尉に弘農郡を治めさせた >>948
>倭国乱中の、
>180年頃に20-30歳の卑弥呼が、女王國=奴国不彌國など=邪馬臺國(邪馬一国)の地方女王となって頭角を現す。
>不彌國で執務。
>189年頃に卑弥呼が共立倭王となり、北部九州倭国=邪馬臺國(邪馬台国)の大倭王となる。
>不彌國で執務。
>この頃の記録が後漢書の記録。
大率の説明文に女王國が含まれているので、
倭王に共立された卑弥呼が、まだ女王國で仕事をしていた頃に、
伊都国を含む北方諸国を検察するために大率を設置したのだな。
だから後漢代の大率は「常治女王國」だった可能性が高い。
現人神社か。
>220年代に卑弥呼邪馬台国が対馬海峡を奪取。
>末蘆国→佐賀→筑後と領土を拡大・回復していって、
>220年代後半に伊都国の糸島平野側に移動。「女王之所都 水行十日陸行一日」
魏代に卑弥呼が糸島伊都に移動した時に、大率も一緒に糸島に移動したのだろう。
「常治伊都國」の主語は大率にかかっており、大率が普段勤務していたのは伊都國。
細石神社だろうな。 >>972
長々と意味不明な説明書いてるが
女王卑弥呼の説明文なんだから主語は女王卑弥呼で
一大率は単なる女王卑弥呼の統治の道具だよ
「治伊都國」は「☆治成都 (劉備は)成都を首都とした」みたいな使い方だな。 >>973
明らかに「大率の説明文」であり、主語はほぼ大率である。
そちらが誤読。
自女王國以北 特置一大率 檢察諸國(主語=女王、諸國を次の文に引き継ぎ
諸國畏憚之(主語=諸國、之=大率を次の文に引き継ぎ
常治伊都國 於國中 有如刺史(主語=大率
王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國(修飾語
→皆臨津搜露(主語=大率
傳送文書賜遺之物詣女王(修飾語
→不得差錯(主語=大率 >>974
「自女王國以北 特置一大率檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中 有如刺史」
この文章全体が女王卑弥呼の行為の説明だよ
一大率は単に女王卑弥呼の統治道具として出てるだけ
「王遣使詣京都帯方郡諸韓国及郡使倭国 皆臨津捜露 傳送文書賜遺之物詣女王 不得差錯」
は一大率とは無関係で、これも女王卑弥呼の行為の説明だよ。
ここで説明したいのは倭国の在り方だから別に一大率を詳しく説明する理由が無い。 >>975
いい加減にしてくれ。
それは全て大率の業務内容だろ。女王の仕事ではない。
女王國は後漢書にも記載されており、
また女王國=倭国や、女王國=邪馬台国だと矛盾する箇所が出てくることから、
後漢代の、卑弥呼地方女王が管轄していた卑弥呼の旧領(奴國不彌國)。
にも関わらず、見聞録は伊都國のものまでで、奴國の描写が全く無い事から、
見聞録を残したのは魏使であり、
また魏使は伊都國までしか来ていない=魏代の卑弥呼は伊都にいた。
大率については、後漢代の女王國によって設置されているにも関わらず、
後漢書には記載されず、魏志倭人伝に詳述されていることから、
後漢とはあまり接触が無く、
魏と濃厚接触があった。
つまり難升米等が大率であり、対馬海峡を管轄しており、
彼ら大率関係者が魏と外交を行い、彼ら大率に対して(魏)率善が銀印青綬されたのだろう。
とわかる。 >>976
一大率を詳しく説明なんてする必要ないよ
魏志倭人伝で説明したいのは倭国や卑弥呼の事だよ
自分の妄想を根拠に説明されても説得力が無いよ >>977
>自分の妄想を根拠に説明されても説得力が無いよ
横からだが
どう考えても願望や思い込みばかり言ってるのは君だろ >>956
>福岡県内では、紀元前の吉武高木遺跡以来、三種の神器が様式化されて
そのような事実も学説も存在しない >>965
どうあがいても隠しきれない伊都チョンの妄言w >>980
伊都国に卑弥呼が居ましたとなると
他の説は全て死亡だからな
何が何でも否定したいんですね。 >>963
>裏付けのないファンタジー。
>取り締まられていたというなら、その文献を提示すべき。
>すぐに100枚出せたというなら、その証拠を提示すべき。
そもそもが、後漢の滅びは民間道教の集団、五斗米道の影響が強いだろ
その民間道教を、鬼道と言ったんだよ
政府公認の道教と一線を画すために、象徴が青銅製から金銀装飾の鉄鏡になったという話がここで出してもらってるだろ?
おまえさ、ホント馬鹿だよなww
自分の処で推奨してる宗教を鬼道なんて表現するわけがねぇだろww
鬼道の巫女の為に専用の鏡をきっちり100枚用意するほどの扱いはされてない。
伊都チョンはさっさと自分のスレッドに帰りなよw そもそもが、内行花文鏡なんて畿内からも出てる。
それも調査によって「国産」と裏付けがとられてるやつがね。
天理市の下池山古墳の内行花文鏡がそれだ。
あれの発見がもっと早ければ、三角縁神獣鏡の魏国生産説は出なかっただろうとも言われている。
遺跡そのものは4世紀前半と推定され、銅鏡そのものは三世紀末以前とされている。
威信材の国産説は不義に当たるとの考え方も勿論納得だが、例外がある。
鏡の職人が我が国に流れてきた場合だ。
大規模な我が国への職人の流入は、景初の例の年の直前。呉の職人。
それが都万国が魏に朝貢する事になったので、西都原から大和に移住した 大陸では後漢の王室が堕落し、王家の外戚が本家を軽んじ、宦官政治が横行するようになった。
これが張角が首領となった道教集団に繋がっていく。
黄巾の乱は鎮められたが、道教は各地に広がりを見せた。
これらの集団を五斗米道と呼び、政権側は敵視した。
しかし、220年には後漢が滅び、魏が建国される。
そのタイミングでできた国が、一般道教を保護する立場にあるわけが無いだろww
むしろ鬼道と言って敵視した。
大陸の政権側の道教と、他の地域の道教は全く違ったスタンスで捉えられており、健気とまで皇帝に言わしめた卑弥呼でさえ「鬼道」と烙印を押されている。
魏は仏教の国である呉と敵対関係にあったが、呉にも銅鏡があった。それのひとつが三角縁の技術で作られた大型鏡、三角縁仏獣鏡
そして決定的な事件が起きたのが、公孫淵と、呉の孫権の一件
青龍元年(233)呉の孫権は多くの船舶で使節団をリャオトンに送る
その運搬役に呉の鏡作りの職人が居た。
公孫淵は孫権を結果的に裏切り、施設の首を切り魏に送ってしまう。
正常の変化により逃亡した呉の船は途中で難破し、韓国を通って和国に亡命した。
最初は九州の西都原に落ち着いたが、物部+宇佐の連合国が魏に朝貢する事になり、それを知った呉の人たちはヤマトの磯城王朝を頼ることになった。
ヒミコが貰った時期の物より古い銅鏡が大和で出るのはそのためと言われている。
えっ?九州では三種の神器が制式化されてたって?はぁ?wwまた伊都チョンの思い込みですか?ww 呉の職人が来たという話の裏付けとしては、そうだな
赤鳥元年(238)の年銘の道教の存在だな。
山梨県の鳥居原狐塚から出土している。
赤鳥元年は、呉の年号。
更に、彼らは国産鏡として、魏の年号の物も作ったようである。二面出土。
青龍3年の物は京都の「大田南5号墳」、大阪府の「安満宮山古墳」
何にせよ、魏は道教を弾圧して勢力が高まり、公孫氏を滅ぼし、朝鮮半島を占領
属国化を開始したそのタイミングこそが、卑弥呼の朝貢の年になる
魏の鏡は、三角縁ではなく、平縁や斜縁であり、わざわざ卑弥呼の為に三角縁にして100枚を作り直させたというのが伊都チョンの主張の様である(失笑)
鬼道なのにwww 西都原は古くから和歌山の武内家や紀伊家の拠点があった場所で、その関係で更に呉とも通じていた、大和側に鞍替えした武内宿祢が職人を追加し、三角縁神獣鏡を作らせた。
彼は朝貢で何の位も貰えなかったことを恨みに思っていたとされ、それが原因で大和政権側に鞍替えする。
初期ロットの物は直ぐに材料が無くなってしまい、大陸産の銅と朝鮮の鈴の混合になっているはずである。
景初3年の鏡は全部で10枚作られ、現在発見されているのは3枚ほど。そのうち一枚は破鏡の状態だったはず。
加茂建津身や、磯城王朝のヒコイマスが大量に買い付け、東軍側に配られた。その数400枚以上。
これが魏から貰った鏡のはずがない。
物部と敵対したシンボルの三角縁神獣鏡は九州勢の月の女神の道教とは異なり、太陽の銅鏡であった。
それが魔鏡。あれは日の光が必要な鏡だからね。
だから、裏面は粗面の物でも構わなかった。
一部を除いて九州では三角縁神獣鏡はほとんど出土しない。
例外は「多臣」「那賀郡(中臣)」の地盤。つまり、天村雲の系譜の大和側の勢力が居たところだけは出土する。
それも、黒塚古墳の同じ型の三角縁神獣鏡が。
そのエリアは福岡。糸島周辺。 >魏の鏡は、三角縁ではなく、平縁や斜縁であり、わざわざ卑弥呼の為に三角縁にして100枚を作り直させたというのが伊都チョンの主張の様である(失笑)
鬼道なのにwww
魏の鏡は、三角縁ではなく、平縁や斜縁であり、
わざわざ三角縁にして1000枚もあるのは国産鏡である、というのが常識人の主張。
三国志において、張魯伝にて鬼道と道は明確に使い分けられており、
鬼道=単なる呪術の意味、宗教ではない
道教=道。と表現されている。 >>976
一大率の業務は検察で諸国の監視
伊都国で行うのは治(政務)だから全然別もの
伊都国に居たのが一大率ではない事は明らか
治(政務)だから居たのは王か官だね。 >>984
>そもそもが、内行花文鏡なんて畿内からも出てる。
>それも調査によって「国産」と裏付けがとられてるやつがね。
それは後漢が滅びて、魏も滅びて、卑弥呼も亡くなった後の話じゃないか。
邪馬台国の後裔が畿内にまで内行花文鏡を持ち込んだということで説明がつく。 >>989
>>971の例文からも治の意味が魏志倭人伝に書かれてる一大率の様な検察でない事は明らかだね
治するのは皇帝や王、守治
司隸校尉や刺史にも治が使われているが
これは業務が検察から中央地区長官や地方行政権を握るようになったからで
魏志倭人伝に書かれてる検察としての一大率には当てはまらない。 >>990
〉それは後漢が滅びて、魏も滅びて、卑弥呼も亡くなった後の話じゃないか。
邪馬台国の後裔が畿内にまで内行花文鏡を持ち込んだということで説明がつく
それは説明ではなくて思い込み。
九州のそれは、国産とは結論づけられてないどころか、四面が国内での複製と判断されている。
一から作ったものとは考えられない
畿内のそれとは学術的にも一線を画す存在になっている鏡 ?
何が言いたいのか?
九州のは平原の超大型を除き舶載だと言っているだろ?
だからこそ平原のが国産の始まりなわけで。 >>993
は?お前こそ何言ってるの?
鋳型があるのなら出来上がったものの複製など作らないだろ
アホなのか?ww 神獣鏡のような、龍の絵が描かれた銅鏡は、中国南部・長江流域からの出土が多く、一般的に当時の呉の職人が作っていたという説が有力。
三国志時代の中国の勢力関係が、日本列島にも及ぼしていたというのが想像できるのが年号入りの銅鏡。
呉の年代が入った銅鏡
日本列島では山梨県、兵庫県、熊本県から3点の出土がある。
魏・呉・蜀という三国志時代の銅鏡は、前の時代に中国全土を掌握していた後漢(西暦25年〜220年)の頃に製作された銅鏡の文様や型式を受け継いでいる。
つまり、鏡の古さとは、製作年以外に、様式の古さがポイントとなるのだ。
それで畿内では九州より様式の古い鏡が出ているので、余計に呉の職人説に繋がるわけだ。
そして中国の鏡研究者も、三角縁神獣鏡は日本産であり呉の職人が作ったと考えられる、の発言になっている。
そしてなんと、大陸でも呉の職人は魏の年号入りの鏡を作っているのだ。
長江流域から出土する銅鏡には、神獣や龍をあしらった文様が多く、神獣鏡などの銅鏡は呉の文化が大きく影響しているとされている。
また、呉鏡の初期のものには、魏の年号が記されている。
日本と同じ事がなんと大陸でも起きていたのである。 三角縁神獣鏡に限らず、年号入りの鏡は全国で14面しか出土していない
そして面白い事に、魏の年号入りの鏡は日本海側、出雲の領域で出土
呉の年号入りの鏡は瀬戸内海から横浜までのエリアに綺麗に並ぶ
呉の年号入りの鏡のエリアはこれまた面白く、多臣家、中臣家、阿部家(息子のヌナガワワケ)のエリアに重なる。那珂郡とも重なる
志賀島の神社の隣は相島といい、昔は阿閉島といい、阿部の領域
故に阿部系の岩井の乱が起きた
宮地嶽神社の元の神主は阿部家
阿部は元々の村雲の系譜の一族で、開化の様に物部の血が入ってない純粋な磯城王朝の人物
当然に村雲系の八井耳とは親戚筋で親和性が高い
邪馬台国事件は、九州西軍の物部、宇佐の連合と、ヤマトの磯城王朝と、事代主系の出雲の一族の戦い
故に、鏡と同じで卑弥呼は二人いた。
宗女トヨの母親の卑弥呼と、独身で弟に世話をされるおばちゃん卑弥呼
倭人伝には二人の卑弥呼が書かれている。
三角縁神獣鏡は、東征しない分布の鏡。
魔鏡という特性故に、破鏡に出来なかった。
故に大量に必要だったのだろう
逆に九州の鏡は破鏡で、出土分布も綺麗に東征している。
朝貢したのは九州の卑弥呼。
邪馬台国は、都万。都は西都原。 >>997
>邪馬台国は、都万。都は西都原。
邪馬台国と投馬国は併記されているのだから、こ」はあり得ない。 >>971
治は政務の意味が強いことから、
大率が対馬海峡の政務をも管轄していたことが明らかである。
「自女王國以北
特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國
於國中 有如刺史
王遣使詣京都帶方郡諸韓國 及郡使倭國 皆臨津搜露
傳送文書 賜遺之物 詣女王 不得差錯」
女王國=奴國不彌國などよりも、北の諸国については、
特に一人の大率を任命して、検察している。
北の諸国は大率を畏れ憚っている。
大率は普段は伊都國で政務をこなしている。
(本来は、検察目的に設置された大率なのだが)
大率は、魏本国における刺史のように政務もこなしており、
狗邪韓国を中心とする投馬國〜壱岐対馬〜末蘆國の地方自治をも管轄している。
女王國は後漢書にも記載されているのだが、
大率については、後漢代の女王國によって設置されているにも関わらず、
後漢書には記載されず、魏志倭人伝に詳述されていることから、
後漢とはあまり接触が無く、
魏と濃厚接触があった。
つまり難升米等が大率であり、対馬海峡を管轄しており、
彼ら大率関係者が魏と外交を行い、彼ら大率に対して(魏)率善が銀印青綬されたのだろう。
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