【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬弐拾参
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
九州に決まっとろうが?
福岡県山門郡、筑紫、糸島、大宰府、鐘崎、鹿児島県川内、出水、阿久根、宮崎県日向、延岡、高千穂、熊本県熊本、阿蘇、八代、球磨郡、人吉、佐賀県唐津、伊万里、長崎県松浦、佐世保、雲仙、島原、天草、潜木、塩田周辺を今すぐ発掘せないかん!
九州中南部説、九州南部説、魏志倭人伝から邪馬台国の位置を何らかの根拠を以って推測する議論等々も大歓迎!
ただし異説を唱えたい人は必ず根拠を明示すること。
根拠がなければただの妄想やけんね。
議論百出は大いに歓迎。
レッテル貼りで議論から逃げ出すごたる奴は九州男児じゃなかばい!
前スレ
【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬弐拾弐
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1647777628/
過去スレは荒らしや叩きなど醜いレスバに邪魔され続けて住人たちがまともに議論し合えなかったという経緯があります。
同じ轍を踏まないためにも、このスレでは罵倒のみの駄レスを禁じます。
それは声闘という朝鮮人の文化です。
反論は論理的に、それが出来ないのはただの負け犬です。 邪馬台国議論で必ずと言っていいほど議題に上がる水行陸行の記述だが、他の中国史書に照らすと
水行●●陸行▲▲という表現は、「水行ならば●●掛かり、陸行ならば▲▲掛かる」の意味である
これを押さえておかないと正解には辿り着かない
【用例】
通鑑釋文辯誤卷六
https://www.kanripo.org/text/KR2b0012/006#1a
>沈約宋書云汶陽太守何承天志新立去江陵陸行四百里水行七百里上黃縣
江陵から上黄県まで陸路で200kmほどなので、陸行四百里だけで目的地に着いてしまう
江陵は長江のほとりなので蛇行する川を水行すると陸路は無しで目的地に着ける
【嘉興府志】
https://wenku.baidu.com/view/d78078781711cc7931b71692.html
>{嘉善縣誌}達省城二百里達京師水行四千一百三十裡陸行三千六百二十裡
嘉興府の置かれた嘉興市から京師(首都のこと、当時は北京)まで直線距離で1100kmほど
やはり陸行三千六百二十裡だけで目的地に到達してしまう
また、杭州湾沿岸の嘉興市から沿岸水行して北上し、蛇行する川を遡って北京まで2000kmほどで水行もそれのみで目的地到達、陸路の出番なし >>2により邪馬台国までの所要時間は水行ならば10日、陸行ならば一ヶ月であると確定したが、
同時に行程が放射読みで書かれていることも導かれる
なぜなら前段に書かれている投馬国へは水行20日とあるので、連続読みならば、訪問者は投馬国に着いた時点で必ず船に乗っていることになる
20日間も船に乗って投馬国まで来たのに、そこからわざわざ船を乗り捨てて3倍も時間の掛かる陸路を選ぶ理由が存在しない
そのままあと10日船で行けば済む話であるから、もし連続読みで記載しているのならば投馬国からの陸路なんて記載する必要が無い
そうではなく、行程が放射読みで書かれているため、伊都国を経由して邪馬台国へ行こうとする中国人への道案内のための文章としては
彼らが船を確保できていないケースも想定しなければならない
なぜなら末廬国から伊都国までは陸行だと書いてある以上、伊都国に到着する中国人は船に乗っていないわけだからな
そのため時間さえかければ陸路でも行けることを併記する必要があった
つまり邪馬台国の場所は伊都国と地続きの範囲、すなわち九州内に限られる
水行のみで行ける場所なので海か大河のほとりであり、かつ陸行も可能なので伊都国との間に通行不能な山塊などは存在しない地域、となる BS-TBSの諸説あり!の映像らしいが、弥生時代の鉄鏃が大量に出土した場所が九州を横断するように存在している
どう見てもここが邪馬台国と狗奴国が戦闘してた戦線=国境ライン
https://i.imgur.com/31R7rP6.jpg
熊本も菊池川より北側あたりは女王国に属していたようだ
これは免田式土器の分布とも一致する
https://i.imgur.com/4pKQIsd.jpg
https://i.imgur.com/xysLhhD.jpg ◆邪馬台国の場所
383 :日本@名無史さん :2020/05/28(木) 00:59:58.44
さて、こうして狗奴国の領域を考古学的に検証してみると
以前作ったこの地図はかなり正しいように思えるな
309 :日本@名無史さん :2019/09/04(水) 04:03:09.07
>>73-74,247,292-294,305で挙げた内容に>>138,290,295の内容を加味して
総合的に考えた結果こうなった
https://i.imgur.com/8UPzltf.jpg
https://i.imgur.com/pPIaxBU.jpg
当時はまだ免田式土器の知識が足りなかったから狗奴国に阿蘇地域を含めていないなどの欠点はあるが
邪馬台国の位置検討の上では支障無いだろう 考古学的には糸島から遺跡が全く切れ目なく分布している様を見れば早良周辺も伊都国なのは明白
倭国大乱で争ったばかりの隣国とそんなに隙間なく繋がるわけがない
http://wi12000.starfree.jp/map/itoshima_suido.gif.html
伊都国の主体が海人族の安曇なのだから、伊都国の領域は糸島から博多沿岸部にかけてで、
内陸の農耕国家の奴国(春日市一帯)と分かれていたと考えるべきだろう
では切れ目はどこに?と思うだろう
これを見てほしい
http://inoues.net/iron_nakoku.gif
博多湾周辺の製鉄遺跡の分布だが、今宿から早良一帯にかけて多数あるのに対し、
樋井川を境に分布がぷっつりと切れている
そこから東にある奴国の都とされる春日丘陵一帯には全く存在せず、東区あたりからまたまばらに存在する
樋井川は細く国境としてはいささか心もとないが、樋井川のすぐ東には鴻巣山など中央区〜南区の丘陵地帯があり、これが国境を分けたのだろう
ここから読み解けば、樋井川以西は内陸まで伊都国であり、奴国は丘陵を挟んだ東側一帯という分かれ方だったと分かる
また東区に少数とはいえ分布があるということは、やはり博多湾沿岸は伊都国の勢力圏だったということだろう
春日丘陵には多くの青銅器加工遺跡が見つかっているにも関わらず、製鉄遺跡は全然無いというのは特筆するべきことだろう
伊都国は奴国に鉄加工の技術を渡さなかったことになる
鉄は銅より融点が高いため、加工にはより高温の炉が必要となる
海人族の航海術を生かして海外に直接進出していた伊都国のほうが技術力は上だったということだな
青銅の奴国と鉄の伊都国、そんな分かれ方が見て取れる
奴国からも鉄鏃等の鉄器は多数発掘されているので交易により製品は渡っていたが、肝心の加工技術は伊都国が独占していたようだ
これは倭国大乱で争ってからそう時間が経っておらず、大国である奴国を警戒した結果だと考えるのが自然だろう 考古学的にはどう見ても伊都国は当時の先進国
それは紀元前からの流れ
298 :日本@名無史さん :2020/11/24(火) 22:51:33.01
>>234
>伊都王家なんて幻想。独立した存在ではない
そうやって考古学的事実から逃げるから君は事実に辿り着けない
古代史を考えるときに文献から出発するのは間違いの元
まず考古学的事実を確かめ、それを文献から解釈するようにしないと文献の嘘や誤りに流されるだけ
https://www.hitachi-metals.co.jp/tatara/nnp020101.htm
> 現在のところ、我が国で見つかった最も古い鉄器は、縄文時代晩期、つまり紀元前3〜4世紀のもので、
> 福岡県糸島郡二丈町の石崎曲り田遺跡の住居址から出土した板状鉄斧(鍛造品)の頭部です。
> 鉄器が稲作農耕の始まった時期から石器と共用されていたことは、稲作と鉄が大陸からほぼ同時に伝来したことを暗示するものではないでしょうか。
分かるかい?
日本で一番古い鉄器は伊都国から出土してるんだよ
紀元前から鉄を手に入れ、その後も半島航路を牛耳っていた伊都国が畿内の田舎に仕えるなどあり得ないことだ 考古学的に見ても文献的に見ても安曇が伊都王家なのは明白なんだな
キナイコシ君には残念だろうがw
https://i.imgur.com/qQUIcdb.jpg
> 417 :日本@名無史さん :2020/10/14(水) 00:33:35.04
> https://i.imgur.com/Ah5Akjy.jpg
> この図を見れば、航海術を活かして海外と交易していた海人族の国がどこだったか一目瞭然だなw
> 奴国の王都だった須玖には中国銭や楽浪系土器はほとんど無い
> 博多湾の沿岸部にはあるのに奴国の王都にほとんど無いのは何故か
> それは博多湾沿岸部の集落が伊都国に属していたから以外に説明はつかない 220 :日本@名無史さん :2020/10/01(木) 00:05:02.26
>>218
事実を述べられるのがよほど都合が悪いようだねキナイコシ君w
まあそれはそうだろう
3世紀までには安曇は既に近江まで進出して畿内を包囲しつつあったのだから
その安曇が卑弥呼の腹心である伊都国の民ならば畿内説は絶望だもんな
でも君の都合で歴史の真実を曲げることはできないんだよ
諦めて現実と向き合いなさい
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B3%B6%E5%B8%82
> 高島市(たかしまし)は、滋賀県の西部、琵琶湖北西に位置する市。市の面積は県下一である。
>
> 古代の弥生時代の3世紀以前に古代日本を代表する有力氏族である安曇族が定着した。
> 高島の一級河川の安曇川の名称は安曇族に由来する。県名の滋賀県も安曇族に由来すると言われている。(滋賀郡の郡名の由来を参照)
包囲される奈良盆地の図
https://livedoor.blogimg.jp/kodaisikawakatu/imgs/7/b/7b77c3d5-s.jpg 九州邪馬台国が東遷して大和朝廷になったのは状況的にほぼ確か
ではその時期はいつか、となると考古学でみるしかない
九州から本州西部への民族大移動の形跡は破鏡の分布の変遷で見ることが出来る
破鏡とは銅鏡を割った破片で、縁をナイフ状に加工したものや紐を通して首から下げるために穿孔したものだが、
弥生後期から古墳時代にかけて出土する
その分布を見ると、卑弥呼のいた弥生後期〜終末期とそのすぐ後の古墳時代前期で劇的に変化していることがわかる
図は「破鏡の伝世と副葬ー穿孔事例の観察からー」辻田淳一郎 より
弥生時代後期〜終末期
https://i.imgur.com/r08Lrgf.jpg
古墳時代前期
https://i.imgur.com/AeBKKnz.jpg
弥生時代には破鏡の分布はほぼ九州の北半分に偏っていて、本州では九州から海人族が進出していた沿岸部に限られているのに対して
古墳時代になると本州西部全域に分布が広がり、逆に九州からは減少している
九州内でも、弥生時代には熊本平野、大分大野川流域に分布していた破鏡が古墳時代になるときれいに消滅している
破鏡は鏡の破片なので支配者層の持ち物ではなく、それよりやや下級の武人等が身につけたと考えられる
弥生時代に熊本平野に破鏡があるのは狗奴国と戦闘していた邪馬台国の兵が身につけていたものだろう
それが古墳時代に無くなり本州西部に移るのは、弥生末に狗奴国が滅びて九州北部を統一した邪馬台国が本州へ東征を行ったことを示している
このことは、3世紀まで鉄器のなかった奈良盆地が4世紀に入った途端に大量の鉄器が出土するようになることとも符合する
考古学的に見て、神武東征の時期は3世紀末〜4世紀初頭頃 > 825 :名無しさん@1周年 :2019/09/07(土) 22:55:12.63 ID:d3rkd5G50
> 弥生時代の鉄分布と北部九州を代表する海人族阿曇の分布がよく一致する
> 鉄は海人族とともに九州からやってきたんだな
> http://inoues.net/tango/tango_z1.jpg
> http://livedoor.blogimg.jp/kodaisikawakatu/imgs/7/b/7b77c3d5-s.jpg
> 828 :名無しさん@1周年 :2019/09/07(土) 23:01:52.61 ID:yQGATf5S0
> >>825
> 福岡の1621に対して奈良の13が光るねwwww
>
> そこから読み取れるのは、奈良は九州を支配するどころか近隣の山城や河内さえ支配できてなかったってことだな
> そして4世紀以降急に発展するのは九州の海人に征服されてその東国攻略の前線基地になったおかげ、と
> 841 :名無しさん@1周年 :2019/09/07(土) 23:23:21.53 ID:1L9obXG40
> >>825
> >>308の資料と照らしても間違いなさそうだな
> 弁韓の鉄材と鉄加工の技術を持った海人が西日本を席巻していき、やがて東日本をも射程に捉えたので畿内を前線基地にしたのだろう
> だが東に版図を広げるにつれて遠い九州が本国では不便になり、畿内に都を移した、というのが一番しっくりくるストーリーだ 淡路島の遺跡は瀬戸内海を支配した北部九州の海人族の遺跡
弥生時代の海の勢力図
http://www.gondo.com/gyarari/photo/kokunaiiseki/pic/doigahama/a2.jpg
瀬戸内海は北部九州を本拠地とする海人族の支配下
弥生期の鉄製ヤス出土 淡路で近畿初
https://www.infokkkna.com/ironroad/2018htm/2018iron/18iron03.pdf
> エックス線写真で分析した結果、先端から約1・5センチ下方に「かえし」が見られた。
> ヤスや釣り針にかえしをつくるには高度な技術が必要といい、鉄器製造が盛んだった九州などから持ち込まれた可能性がある。
>
> 弥生期の鉄製ヤスや釣り針は、山陰や九州北部で出土する例が多い。
> 愛媛大東アジア古代鉄文化研究センターの村上恭通センター長は
> 「山陰は九州から鉄製漁具を受け入れ、漁民が鉄器の交易を促進した」と分析。
> 今回の発見で、漁具が日本海側だけでなく「瀬戸内側を伝わって来た可能性もある」と指摘する。
https://sun-tv.co.jp/suntvnews/news/2020/11/23/31436/
> 調査の結果、4棟の工房や20棟の竪穴建物跡が発見され、釣り針などの漁具や小刀を含め、およそ170もの鉄器が出土。
> また、九州産のヤリガンナや山陰地方の土器などが見つかったほか、中国から来たとされる青銅鏡の一部が出てきました。
> 九州産のヤリガンナ
> 九州産のヤリガンナ
> 九州産のヤリガンナ 136 :日本@名無史さん :2021/01/11(月) 01:47:53.36
>>70
そうではなくて、北部九州の海人族が本州の沿岸部や淡路島にも進出してたってことだよ
絹の話になるが、絹研究の権威、布目順郎氏の見解によると北部九州は400年ほど養蚕技術を独占して他に渡さなかったという
https://www.jstage.jst.go.jp/article/fiber1944/45/6/45_6_P277/_pdf
> (iv)九州から本州への養蚕伝播――
> 弥生絹は今のところ福岡,佐賀,長崎の3県以外からは出ていない。
> それが古墳時代前期になると近畿,中国,北陸からも絹が出るようになり,九州では北部のみでなく熊本県からも出るようになる。
> すなわち,養蚕がわが国へはじめて伝えられてから少なくとも400年間は九州北部で独占していたことになる。
> 九州から本州への伝播経路としては,瀬戸内海ルートと日本海沿岸ルートの2つが想定される(図4)。
> 魏志倭人伝は,邪馬台国において養蚕・絹織が行われていると記し,その時期は弥生後期に当たる。
> そのことと,上記の事柄とから,邪馬台国の所在地としては,九州北部とするのが妥当と考える。
つまり弥生期の北部九州には重要技術を独占して自らの優位性を保つという発想が既に存在していたわけで、
まして兵器に使用できて絹より軍事的に重要な鉄加工の技術を他国においそれと渡したと考えるのは難しい
海人族自身が現地に行って鉄加工していた痕跡と見るのが正当だろう http://hero1945.livedoor.biz/archives/50514719.html
> (曽根崎神社の概要)
> ・ 住所:上対馬町五根緒(ゴニョウ)字平山188番地
> ・ 社号:「対州神社誌」では「氏神曾根山房」。「大帳」に古くは曽根崎神社とある。
> ・ 祭神:五十猛命(イソタケルノミコト)(大小神社帳)→阿曇磯武良→阿曇磯良
> ・ 五十猛(イソタケル)は磯良の別称、磯武良(イソタケラ)と云われる。
> 同じ五根緒村にある「大明神」の祭神が、「磯良」となっており、浜久須村の霹靂神社(熊野三所権現)の由緒で「明細帳」に、
> 「神功皇后の御時雷大臣命、安曇磯武良を新羅に遣せられ、雷大臣命彼土の女を娶り一男を産む。名づけて日本大臣の命と云ふ。
> 新羅より本邦に皈(カエ)り給ふとき、雷大臣日本大臣は州の上県郡浜久須村に揚り玉へり。磯武良は同郡五根緒村に揚れり。
> 各其古跡たる故、神祠を建祭れり。雷大臣日本大臣を霹靂神社と称し、磯武良を五根緒浦神社と称す。」
>
> と、あることから、当社の祭神、五十猛はやはり磯武良と同一とするのが妥当である。
安曇磯武良が上陸した五根緒村に彼を祀る神社を作ったと記録があり
そこには現在イソタケルを祀る神社が現存しています
ここに至ってまだ安曇磯武良とイソタケルが同一人物だと理解できないのは知恵遅れだけです 対馬の霹靂神社には磯武良も祀られている
式内社なので言うまでもなく江戸時代どころの話ではなく、はるか昔から磯武良の呼称は存在する
キナイコシ君がどんなに捏造しても無駄
https://genbu.net/data/tusima/ikaduti3_title.htm
> 霹靂神社
> いかづちじんじゃ
> 長崎県対馬市上対馬町大増1073
>
> 式内社 對馬嶋上縣郡 能理刀神社
>
> 御祭神
> 雷大臣 日本大臣 磯武良
> 伊弉諾尊 事解男 速玉男 『大小神社帳』 鹿島のタケミカヅチは安曇磯良だから九州系
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E6%9B%87%E7%A3%AF%E8%89%AF
> 民間伝承では、阿曇磯良(磯武良)は豊玉毘売命の子とされており、「日子波限建」(ひこなぎさたけ)と冠されることのある鵜葺草葺不合命と同神であるとする説がある
> (磯と渚はどちらも海岸である)。また、『八幡宮御縁起』では、磯良は春日大社に祀られる天児屋根命と同神であるとしている。
> 『磯良ト申スハ筑前国鹿ノ島明神之御事也 常陸国鹿嶋大明神大和国春日大明神 是皆一躰分身 同躰異名以坐ス 安曇磯良ト申ス志賀海大明神
> 磯良ハ春日大社似祀奉斎 天児屋根命以同神』(愚童訓より)
http://www.genbu.net/saijin/isora.htm
> 袋中上人の『琉球神道記』には「鹿島の明神は。もとはタケミカヅチの神なり。人面蛇身なり。 常州鹿島の海底に居す。
> 一睡十日する故に顔面に牡蠣を生ずること、磯のごとし。故に磯良と名付く。 神功皇后、三韓を征し給うときに、九尾六瞬の亀にのりて、九州にきたる。
> 勅によりて、梶取となる。また筑前の鹿の島の明神。和州の春日明神。この鹿島。おなじく磯良の変化なり」とある。
古代にも要職にある人物等は事実を知っていたらしく、宮城の磯良神社では坂上田村麻呂が筑前志賀島ではなく常陸国鹿島郡から磯良を勧請している
つまり茨城の鹿島神宮に祀られるタケミカヅチが安曇磯良だと坂上田村麻呂は知っていたわけだ
http://miyagitabi.com/sikama/isorajinja/index.html
<磯良神社の由来>
> 延暦23年(804)、坂上田村麻呂が常陸国鹿島郡から磯良明神を勧請して祀ったもので、阿度目神・河童明神ともいい、「おかっぱ様」という名前で広く知られています。
> 古くはここから南方にある真山三十郎(大崎氏の家臣)の屋敷の氏神として祀られていましたが、後に現在地に移されたといわれています。 576 :日本@名無史さん :2021/01/23(土) 19:31:56.74
さて、どうやらこれに対する反論は無いようだな
では皆納得したようなのでテンプレに入れるとしよう
https://i.imgur.com/hLZdESM.jpeg >>4のデータについて
184 :日本@名無史さん :2021/03/16(火) 23:57:12.76
>>159
>>114で何ら問題無いし、やはり>>4の考古学事実に照らすと筑後山門が妥当だろう
>此れだけ広範囲の調査には、30年100億円規模の調査費が必要だが、どこの公的機関が調査を行ったのか教えてくれないか??
広範囲の調査とか言い出すのはちょっと常識が無さすぎないか?
普通に考えれば各地の発掘状況をまとめた結果だと分かるだろうに
ソースはもう>>4で提示されているのだから、ソースのソースがほしければ自分で番組に問い合わせればいいだろう
と言いたいところだがググったら割とすぐそれっぽいのが見つかったから出してやろう
孫引きだが川越哲志氏の「弥生時代の鉄分化」が出所のようだ
https://pds.exblog.jp/pds/1/201802/21/45/a0237545_16344442.png >>10補足
923 :日本@名無史さん :2022/03/16(水) 12:54:07.02
>>10
大中遺跡発見60周年記念春季特別展「弥生集落転生-大中遺跡とその時代-」(兵庫県立考古博物館)
https://web.pref.hyogo.lg.jp/kh01/yayoisyuurakutennsei.html
> 竪穴住居が数多く見つかり国の史跡に指定されている大中遺跡は、弥生時代から古墳時代へ社会が移りゆく時期に突如として大きな集落に成長します。
> この頃になると、東播磨ではそれまでの集落から様相が変化し、弥生のムラが生まれ変わります。
> 【おすすめの展示品】
> 1.大中遺跡出土鏡(播磨町郷土資料館蔵・画像提供)
> 大中遺跡で発見された中国からもたらされた鏡の破片です。5センチメートル程度の小さな破片ですが、孔があけられていて割れ面が擦り減っていることから、
> 割れた後もペンダントのようにして大切に使われていたことがことがわかります。
> 3.大中遺跡出土鉄製品(当館・播磨町郷土資料館蔵)
> 大中遺跡の調査研究を進めるなかで、新たに短剣や鋤(すき)、ヤリガンナ、板状の鉄製品などが発見されました。
> 弥生時代の集落から多様な鉄製品が見つかる例は多くなく、大中遺跡が大きなムラであったことがうかがえます。
> また、出土した全長10センチメートルの短剣は、墓以外で発見された貴重な例です。
確かに弥生時代から古墳時代へ移り変わった頃に集落の巨大化と破鏡の伝来があったようだな
多様な鉄器と共に出土しているのは鉄原料の輸入を独占していた北部九州との関係抜きにはあり得ないから
東征の結果と見ることには妥当性があるな 2以下のテンプレ邪魔
要らぬ声闘の火種にしかならない 倭国の中の邪馬台国の中の伊都国奴国とか国が三重になってるのは
さすがにないかな >>22
倭・・・韓
投馬國、邪馬壹國・・・馬韓、辰韓、弁韓
狗邪韓國、對馬國、一大國、末盧國その他・・・爰襄國、牟水國、桑外國、小石索國その他
韓も倭も三重になってるね。 >>3
放射状じゃなくて里数での行程の説明が伊都国、奴国で12000里に達して終了
日数の行程は同じ行程を再度、掛かる時間で説明したもの
12000里行くのに水行20日と水行10日、陸行1日(月)掛かるんだ。
>>10
神武東征の時期は記紀の内容から考えて5世紀前後ではないかな。 >>23
三重にはなってるね
ただ三韓はそれぞれ個別に書いてあるが、倭人伝の方は投馬伝、邪馬台伝みたい形じゃないよね
こんなイメージだな
倭(人の地)・・・韓(国)
倭国、狗奴国、倭種・・・馬韓、弁韓、辰韓
奴国、伊都国、投馬国、邪馬台国他・・・月支国、他 >>25
最後の月氏国というのがなぜそこに来るのか分からんが、倭人の国の中に倭国と狗奴国とその他の倭種の国がある
そして倭国の中に邪馬台国やら伊都国やら対馬国諸々があるということだろ? >>6の遺跡図は、弥生前期から古墳時代の終わりくらい(6世紀)までの
約800年くらいの遺跡の分布
3世紀に製鉄というのはまだやっていない >>7
曲り田遺跡の鉄斧は鍛造品ではなく、燕の鋳造鉄斧脱炭品(可鍛鋳鉄製品)(大澤)
加熱処理を伴う鍛冶ではなく、磨製石器の製作と同様に鉄片を打割・研磨したもの(野島) 上陸地末盧国の北東がイトコクなわけがない。
東南500里に伊都国、その又東南100里に奴国が有ったという佐賀説こそ鉄板。
これから年々発掘が進むごとに、佐賀へ、佐賀へ、と草木もなびく・・・、 >>21
だよね
4世紀の神功皇后の時代にスサノオ雷大臣とか、もう考察が異常 >>28
金印が見つかれば、伊都ニダ、それが考古学ニダ
伊都があるのなら、それは安曇のはずニダ
こんな調子で言い切ってるだけのスレ主ですよね 銅鐸と吉備国の平型銅剣の出土する勢力範囲に関してはガン無視の伊都説w >>26
なぜ「倭人」伝なのかそれでも一議論できそうだけど
それはともかく伊都説奴国説は通常の解釈より国の階層が一段多くなる
でも倭人伝は他の国と同様に官、副官をさらっと述べるだけ
半島南部が投馬国と呼ばれ北部九州が邪馬台国と呼ばれた痕跡が地名にも他の史書にもない
無理矢理な感は否めないねという話 >>35
地名と里程の問題だね
そもそも女王国の北には里程や戸数の分かっている国々があり、また北の国々を治めるために役人を伊都国に置いて監視させている
そして邪馬台国は女王の都がある所
これを無視したのでは魏志倭人伝を正しく読んだことにならない 「邪馬壹國 女王之所都」この意味に付いては前にも述べた通り
「邪馬壹國は女王の都する所」ではなく
「邪馬壹國は女王の統べる所」又は「邪馬壹國は女王の全ての所」なんだ
そもそもよく考えると「邪馬壹國は女王の都する所」って意味が分からんな
「都する」って?だな
名詞に動詞みたいに「する」付けても意味分からん
「邪馬壹國 女王之所都」の都は文法的に名詞じゃないから動詞みたいに「する」を無理やり付けてるが
この場合の「都」は名詞ではないから「みやこ」じゃない。 >>25
少し詳しく書くとこんなイメージだろ
倭(人の地)・・・韓
投馬國、邪馬壹國(倭国)、狗奴国、倭種・・・馬韓、弁韓、辰韓
狗邪韓國、對馬國、一大國、末盧國、奴国、伊都国その他・・・月支国、爰襄國、牟水國、桑外國、小石索國その他 >>37
「女王の都とする所(=女王の都がある所(国))」だろ >>39
>「女王の都とする所(=女王の都がある所(国))」だろ
「女王の都とする所」なら女王の都がある所だが「女王の都する所」だからな
残念ながら女王の都がある所ではないな。
都する(とする)と読むならな意味としては「女王の統べる所」となる。 >>40
「女王の都する所」ってのは誰が言ってる? >>41
略全ての訳が「都」を動詞として訳しているね
「都する」か「都している」となっているね。 >>47
>阿波と同じレベルのペテン師ですよね
「阿波」は、鉄器王国。 @阿波 邪馬壹國 女王之所都
これを読むにあたって注意すべきは
邪馬壹國=倭国連合全体
伊都国=女王がいるところ= 邪馬壹國の都
邪馬壹國≠女王の都 >>21,30
論理的な反論ができない負け犬キナイコシの声闘おつ >>34
論理的な反論ができない負け犬キナイコシの声闘おつ >>1
<後漢書韓伝>
韓有三種 一曰馬韓 二曰辰韓 三曰弁辰
馬韓在西 有五十四國 其北與樂浪南與倭接
辰韓在東 十有二國 其北與濊貊接
弁辰在辰韓之南 亦十有二國 其南亦與倭接 凡七十八國
馬韓 「其北與樂浪南與倭接」馬韓の北は楽浪郡と接し、馬韓の南は倭と接す
辰韓 「其北與濊貊接」
弁辰在辰韓之南 「其南亦與倭接」弁辰の南もまた倭と接す
どう見ても後漢時代から朝鮮半島南部は倭領。
<三国志魏志韓伝>
「韓 在帶方之南 東西以海爲限 南與倭接 方可四千里」
最初にドンと韓全体の南が倭と接することが明記されている。
馬韓を構成するのは55國。弁辰はたったの12國。
・馬韓の構成国のうち倭と接する国が多すぎて字数を割いていちいち列挙してられない。
・弁辰には金印倭人が鉄を取りに入っているので、情報価値が高い。「國出鐵 韓濊倭皆從取之」ことから、弁辰瀆盧國だけ特別に触れた。
朝鮮半島南部にあった倭領=投馬國。その中心地が「到」狗邪韓國。
<三国志夫餘伝>
「南與高句麗東與挹婁西與鮮卑接」
<三国志高句麗伝>
「南與朝鮮濊貊東與沃沮北與夫餘接」
<三国志東沃沮伝>
「北與挹婁夫餘南與濊貊接」
<三国志濊伝>
「南與辰韓北與高句麗沃沮接」 >>54
どさくさ紛れに、まーた接をちょろまかしとる
馬韓 「其北與樂浪南與倭接」 馬韓の北は楽浪郡と接し、馬韓の南は倭と接す 投馬国が朝鮮半島にあったとしたら
国名を羅列しているはず
そうでなければ史書として片手落ち 投馬国が朝鮮半島にあったとしたらなんで伊都説になるの?関係なくない? >>46
「都とする所」と訳してる人はいないだろw
君は無知だなwww 馬韓だって十余万戸でその中の月支国が首都。
あの高句麗がたった三万戸。濊なんざニ万戸なのに、
7万戸の邪馬台国を指して都ってのはおかしいだろ。
南至邪馬壹國でいったん切れるんだよ。>投馬國から南に行くと邪馬台国。
女王之所都水行十日陸行一月が一節。>邪馬台国の中の、女王が都としている所までは投馬國から水行十日陸行一月(一日か)。 >>40
そりゃ大発見だ
是非その説を歴史学の専門家にも教えるか、それが難しいならTwitterで発表しなよ
あっ!それよか微博で中国の人に教えて彼らの蒙を啓いてさし上げろ >>63
>>62
こういうカスみたいなのってなぜ存在してるんだろ?
働かない働きアリみたいに何らかの意味があるのかな? >>64は>>62みたいなカスって意味で>>63さんのことじゃないよ >>63
誰でも書き込めるウィキペディアw
やっぱり馬鹿だなwww >>66
自説を広めるにはこんなとこでグダグダ言ってるよりwikiを書き直した方が余程効果的だぞ、カス 読み下しが都する所
訳文が都とする所
かな
毌丘倹の所はどう読むんだっけ?
儉遂束馬縣車以登丸都屠句驪所都
丸都(高句麗の首都)に登るを以て高句麗の統べる所を屠る?
高句麗の都とする所を屠ったの方が妥当じゃないか >>69
それは読み下しに問題があると思う
所都の都は動詞じゃないからね
所のあとの動詞は後に的が付く用法しか知らないけど、それだと意味が全然違って来る >>70
つうか、そもそも中国語の都に統べるとか、動詞の用法あんの? 都の機能から言って統べる所なのは違いない
>49が間違ってるのは、倭国全体は女王から統べられる所だということ >>71
わからない
ネットでちょこっと見た感じでは漢和辞書には載ってるけど中国語としては見つからなかった
もしかすると読み下しとして「都する」が生まれ、そこから派生した使い方かもしれないね >>69
この場合も高句麗の首都の丸都を攻め落としたんで
高句麗の全土で屠るだな
>>71
あるよw
「全て」の意味もある。 >>74
3日でいい
勉強しなおしてからまたおいで >>75
【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬弐拾弐
に都の使い方を載せてた人がいて
その中に都の統べるの例文があったよ >>75
君は議論に途中から参加してるね
前スレ読んで勉強してね >>76
横からですまんが、あれ漢和辞典だろ
問題は本来の中国語な
俺は中国語知らんからわからんけど 高地にある丸都に苦労して登って、そこで大勢倒したんだろ。
高句麗全土なんて無理スジ。
>>74
三国志での使用例を挙げてみてよ。 >>78
漢和辞典じゃなくて三国志内における都の使い方の例文 >>80
遂に最後の丸都が陥落したから高句麗全土で虐殺したんだよ。 >>89
は?
間違ってるって言ってるんじゃないの?
どこかおかしいと思ったんだろ??? 馬韓だって十余万戸でその中の月支国が首都。
あの高句麗がたった三万戸。濊なんざニ万戸なのに、
7万戸の邪馬台国を指して都ってのはおかしいだろ。
南至邪馬壹國でいったん切れるんだよ。>投馬國から南に行くと邪馬台国。
女王之所都水行十日陸行一月が一節。>邪馬台国の中の、女王が都としている所までは投馬國から水行十日陸行一月(一日か)。 >>90
所都を統べる所と訳すなんか聞いたことがないから文法的にあってるのかと聞いてるんだよ 三国志に例文があるなら出して勝ち誇ればいいじゃん
例文が無いならいつものキナイコシ敗北www >>93
全ての専門家は「都する所」と訳してるね
これを「みやこするところ」読むのが誤り、「みやこ」とよむと名詞となるから本来は「とするところ」と読むべき
「する」を付けてあるから訳した人は動詞として捕らえてるのが分かる
都の動詞としての意味は「統べる」
都を形容詞として考えるなら「全て」
現代中国語なら「全て」の所だね。 >>96
だからお前のクソ解釈はいいから例文だせよ。 >>95
>キナイコシってなに?
追跡妄想で心を病んだキウスという人が皆から袋叩きにされて
自己防衛で相手は一人だけなんだと自分に言い聞かせているうち
誰をみてもキナイコシという同じ人に見えるようになった
という悲しいお話 >>106
数字がおかしいな?
まるでキナイコシみたいにズレてる >>107
ですな
自分も最近この板に来だしたけど、あまりに酷すぎる
ワッチョイとまでは言わないが、とりあえず最低でもID表示はあった方がいいと思う >>110
>>109ですか111は自分じゃないよ
自分はどことも決めつけてない派ね
現在の研究成果で邪馬台国の場所を特定するなんざ所詮無理だと考えてる >>92
馬韓は国じゃないし首都もないよ。北部と南部で習俗違うし、
同じ民族で構成もされていない。
>>96
都の動詞の意味は統べるじゃなくて集めるだよ。
集めて統率するとか集めて町にするとか。 >>115
漢文では都をすべると読むことはあるよ
漢和辞典で確認してみな なるほど例文だね。
後漢書において、
「河內郡十八城 戶十五萬九千七百七十 口八十萬一千五百五十八
朝歌 紂所都」
河內郡は十五萬戸で〜
(河內郡の)朝歌は(周の)紂王が都とする所である。
「京兆尹十城 戶五萬三千二百九十九,口二十八萬五千五百七十四
長安 高帝所都」
京兆郡は五万戸で〜
長安は(漢の高祖)劉邦が都とする所である。
「潁川郡十七城戶二十六萬三千四百四十 口百四十三萬六千五百一十三
陽翟 禹所都」
潁川郡は二十六萬戸で〜
(潁川郡の郡治である)陽翟は(夏の)禹帝が都とした所である。
自治体名+都市名+皇帝・王+所都は、
自治体の中で、都市は、皇帝や王が首都とした所である、という意味だな。
「南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月」は、
前の邪馬壹國は、南至邪馬壹國の目的語として活用されているから、
文法としては一度切れる。
南至邪馬壹國 (伊都國)女王之所都 水行十日陸行一月(日)
として、
投馬國から南に進むと邪馬壹國に至る。
邪馬壹國の中で、女王の都とする所(である伊都國)は、投馬國から水行十日陸行一月である、だな。 >>119
あれ?例文を指摘されて、「すべる」はすべってやめるのかい? >>120
「すべる」と主張してるは俺のレスじゃない >>118
おそらく、「到」の意味が、現代のしかも日本人の我々が想起するよりも、
強く「国家の中心地点に到達する」を示唆してるんだろう。
だから、くやかん国や、伊都国に「到」達していると記載したことで、
陳寿の中ではそれぞれが首都であることは記載済みであり、
後の記述は日程や大率を含めて、
伊都国が首都であることを前提に全て書かれているのだろう。
だから我々にとっては南界になってるわけだな。 >>118は、(伊都國)、(日)、(である伊都國)と倭人伝を改竄しないと成り立たない主張 >>122
「到」が「国家の中心地点に到達する」を示唆してるなら
狗邪韓國は倭国とは別の国の中心地だろ
糸島が南界で倭国の半分近くの5万戸の投馬国が朝鮮半島にあるなんぞ日本人は考えん >>124
「都」を「統べる」と主張してたのは、
確か、吉野ヶ里を伊都国に比定して卑弥呼が間借りしたと主張してた説だろ >>1
日本人みんながウクライナのためにできること
<後漢書韓伝>
韓有三種 一曰馬韓 二曰辰韓 三曰弁辰
馬韓在西 有五十四國 其北與樂浪南與倭接
辰韓在東 十有二國 其北與濊貊接
弁辰在辰韓之南 亦十有二國 其南亦與倭接 凡七十八國
馬韓 「其北與樂浪南與倭接」馬韓の北は楽浪郡と接し、馬韓の南は倭と接す
辰韓 「其北與濊貊接」
弁辰在辰韓之南 「其南亦與倭接」弁辰の南もまた倭と接す
どう見ても後漢時代から朝鮮半島南部は倭領。
<三国志魏志韓伝>
「韓 在帶方之南 東西以海爲限 南與倭接 方可四千里」
最初にドンと韓全体の南が倭と接することが明記されている。
馬韓を構成するのは55國。弁辰はたったの12國。
・馬韓の構成国のうち倭と接する国が多すぎて字数を割いていちいち列挙してられない。
・弁辰には金印倭人が鉄を取りに入っているので、情報価値が高い。「國出鐵 韓濊倭皆從取之」ことから、弁辰瀆盧國だけ特別に触れた
朝鮮半島南部にあった倭領=投馬國。その中心地が「到」狗邪韓國。
<三国志夫餘伝>「南與高句麗東與挹婁西與鮮卑接」
<三国志高句麗伝>「南與朝鮮濊貊東與沃沮北與夫餘接」
<三国志東沃沮伝>「北與挹婁夫餘南與濊貊接」
<三国志濊伝>「南與辰韓北與高句麗沃沮接」 後漢書において、
「河內郡十八城 戶十五萬九千七百七十 口八十萬一千五百五十八
朝歌 紂所都」
河內郡は十五萬戸で〜
(河內郡の)朝歌は(周の)紂王が都とする所である。
「京兆尹十城 戶五萬三千二百九十九,口二十八萬五千五百七十四
長安 高帝所都」
京兆郡は五万戸で〜
長安は(漢の高祖)劉邦が都とする所である。
「潁川郡十七城戶二十六萬三千四百四十 口百四十三萬六千五百一十三
陽翟 禹所都」
潁川郡は二十六萬戸で〜
(潁川郡の郡治である)陽翟は(夏の)禹帝が都とした所である。
自治体名+都市名+皇帝・王+所都は、
自治体の中で、都市は、皇帝や王が首都とした所である、という意味だな。
「南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月」は、
前の邪馬壹國は、南至邪馬壹國の目的語として活用されているから、
文法としては一度切れる。
南至邪馬壹國 (伊都國)女王之所都 水行十日陸行一月(日)
として、
投馬國から南に進むと邪馬壹國に至る。
里程部分において、邪馬壹國の首都は伊都國であると「到」で明記されているから、
邪馬壹國の中で、女王の都とする所(である伊都國)は、投馬國から水行十日陸行一月である、だな。 オッス!オラ日本人!
後漢書において、
「河內郡十八城 戶十五萬九千七百七十 口八十萬一千五百五十八
朝歌 紂所都」
河內郡は十五萬戸で〜
(河內郡の)朝歌は(周の)紂王が都とする所である。
「京兆尹十城 戶五萬三千二百九十九,口二十八萬五千五百七十四
長安 高帝所都」
京兆郡は五万戸で〜
長安は(漢の高祖)劉邦が都とする所である。
「潁川郡十七城戶二十六萬三千四百四十 口百四十三萬六千五百一十三
陽翟 禹所都」
潁川郡は二十六萬戸で〜
(潁川郡の郡治である)陽翟は(夏の)禹帝が都とした所である。
自治体名+都市名+皇帝・王+所都は、
自治体の中で、都市は、皇帝や王が首都とした所である、という意味だな。
「南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月」は、
前の邪馬壹國は、南至邪馬壹國の目的語として活用されているから、
文法としては一度切れる。
南至邪馬壹國 (伊都國)女王之所都 水行十日陸行一月(日)
として、投馬國から南に進むと邪馬壹國に至る。
里程部分において、邪馬壹國の首都は伊都國であると「到」で明記されているから、
邪馬壹國の中で、女王の都とする所(である伊都國)は、投馬國から水行十日陸行一月である、だな。
邪馬壹國は七萬戸で〜
(邪馬壹國の首都である)伊都國は女王卑弥呼が都とした所である。 キナイコシと言えば九州説の一員になれると思ってるのが投馬國は朝鮮半島の国という説
支持率が下がると必ず日本を敵対視するのと同じ民族心理 >>128
南至邪馬壹國
南へ邪馬壹國に至る
女王之所都 水行十日陸行一月
女王の都(伊都國)へは水行十日陸行一月
ですか!
なるほど、里程部分において、邪馬壹國の首都は伊都國であると「到」で明記されていますから邪馬壹國は女王の都(伊都國)じゃないって分かりますね。
通常は必要無い「之」は邪馬壹國までの日数ではなく所都までと強調してたんですね。 >>95
>キナイコシってなに?
単なる自分と意見の合わない人間に対する伊都チョンの脊髄反射の言葉
普段言ってる言動と一緒で特に意味はない 伊都チョンは楽浪土器マンセーしてるけど出雲大社の近くからもちゃんと出てるんだよな。
あいつモノを知らねぇからいつもドヤ顔で恥をかく
後付けで嘘に使われない等に名前は伏せておこう 南至邪馬壹國女王之所
南に行くと邪馬壹國の女王が住んでいる所がある
都水行十日陸行一月
全部で水行10日陸行1月
こう読むのが文章として1番きれいだな >>136
>>132の例文からすると女王の首都なら「女王所都」でいいはずだが「女王之所都」と「之」が付いてるね
調べたら「之」の本来の意味は「ゆく」なんだ
「南至邪馬壹國 女王之所都水行十日陸行一月」は「南へ邪馬壹國に至る、女王の首都(伊都国)へゆくには水行十日陸行一月」でいいみたい。 属国の伊都国は、中国語がわかる韓人が経営してる旅籠みたいなもんだ >>142
伊都説に連敗して、もはや個人的願望を吐くことしかできなくなった、見るも哀れな敗残説者の、心の叫び >>144
伊都説に連敗して、もはや個人的願望を吐くことしかできなくなった、見るも哀れな敗残説者の、心の叫び 邪馬台国の歩き方(女王之所都=伊都國)2
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1615458138/3
>三国志に出てくる「統属」は6か所。
>「A統属B」は全て、〇新たな所属変化に伴って、
>◎AがBの”直接管轄域の一部”もしくは”直接の部下”になる、の意味。
伊都国の王以下の人々が、もともと女王國(=奴國不彌國)とは別だったが
女王卑弥呼共立による所属変化に伴って、
女王支配域つまり邪馬台国の一部となった。
後漢書にも女王國が登場する。
女王國までの12000里や、狗邪韓國までの7000里、女王國東への1000里や4000里すらも、
後漢書で測定されているのだから、
「里程が測定されたのは後漢代もしくはそれ以前である」ことが確定する。
卑弥呼が伊都の高祖宮もしくは三雲へ移動したのは、倭国女王に共立された後であるから、
女王國を目標に12000里の総計が算出されている里程とは、
女王國時代の卑弥呼が居た不彌國を目標に記載されているわけだな。
で、卑弥呼が倭王に共立される前の倭は、
伊都国王を頂点とした連邦制なのだから、有力者が卑弥呼であっても、
倭の代表者は伊都国王であり、倭の中心地点、つまり「到」達すべきは、
伊都国政庁のあった吉武遺跡群。
末盧國上陸地点の筑前深江駅から、
県道49号線ラインで吉武遺跡へ陸行五百里で、伊都國の都庁(旧伊都国王府宮殿)。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1615458138/3
をよく読んでみると、
統属されているのは全て人の人事異動だね。
>☆州幷属冀州更拜議郎西部都督従事 統屬冀州 <吸収合併>
>梁習は幷州の刺史だったが、
>幷州が冀州に「併合」されて幷州刺史の職も無くなったため、
>議郎・西部都督従事の肩書を新たに拝命して、冀州に統属された。
>(後年、文帝が幷州を復活すると、梁習は再び幷州の刺史となった)
唯一地名に思えるこの一節も、よく読んでみると、
「州幷属冀州」 幷州が冀州に「併合」されたので、
「更拜議郎西部都督従事」
幷州刺史だった梁習は、議郎・西部都督従事の肩書を新たに拝命して、
「統屬冀州」
梁習は冀州刺史の直接配下に統属された。
統属がかかっているのは、梁習の人事であって、
幷州が冀州に併合されたのは最初の属で終了している。
だから、
「東南陸行五百里到伊都國官曰爾支副曰泄謨觚柄渠觚有千餘戶世有王皆統屬女王國郡使往來常所駐」
の皆も、直前の「官曰爾支副曰泄謨觚柄渠觚有千餘戶世有王」の人々のことであって、
伊都国の人々が皆、女王國女王の直接支配下に統属された、の意味になるね。 >>147
伊都国は「世有王」と魏代に女王卑弥呼が居た国だから
倭国の人々が皆、女王國女王の直接支配下に統属された、の意味だよ。 統属は受け身じゃないよね
皆女王国に所属している
と読むのが正解
つまり奴国の人たちが伊都国で邪馬壱國を治めている >>148
一大卒の役人、長官、あと伊都国にいた(いる)王との力関係や役割分担が気になるよね >>149
邪馬壹国の場所が分からなかったのは倭人伝を歪めて読んでたからですよ。 女王がそんなに北にいるなら一大率は南に置いた方が良さそうだなw 卑弥呼が伊都国に居たから大陸と伊都国の間の諸国に一大率を置いたんだよ。 女王がそんなに北にいるなら倭人伝が漂わせてる南方感も会稽東治の東も説得力を失うよな >>135
>とりあえず統べるは間違いということでよろしいか?
倭人伝の「都」をどう読むかは置いておくとして、
漢文で都を「すべる」「すべて」と読ませることはある
これは角川新字源にも出ているぞ 女王が伊都国にいるなら文書賜物の伝送のことを特筆したりせんわな
すぐそこにいるのにw 伊都説は、半島南部の5万戸は同胞の国で、
南側と東側の日本が敵だから
糸島に一大率は要らんだろ >>154
伊都説面白いですね
平原古墳も興味深いですしね
ところで、あなたは伊都国、邪馬台国奴国、狗奴国などの位置関係をどんな風にイメージされてますか
良かってら図に書いて紹介していただけるとありがたい
私も色々考察してるんですが、考えれぼ考えるほど矛盾点が出てきてなかなかまとまらないのです >>143
伊都説が勝っただなんて話聞きた事もない >>159
そうそう、金印とかのハンコは本人が直接受け取らなければならなかったから通常の朝貢の窓口である伊都あたりで受け取っただけの話
そこにいた訳じゃない
あんなところに女王いたら防御力ゼロww 女王卑弥呼に謁見した者は少ないので
旅籠には行かない >>126
吉野ヶ里は物部の里でしょ
2世紀までは少なくとも築秦国の物部の拠点
3世紀以降には遺跡の分析結果でも出ているが人口が少なくなり衰亡に向かう
そして程なくして三角縁神獣鏡を持った一族がすぐに入り込んでいる
宮地嶽神社の社家は元々安倍氏
中臣家も入ったらしく、那珂郡が置かれている >>164
江戸時代に天皇や将軍が出島にいたら訪れる方も招く方も煩わしい移動や取り次ぎを省略できてみんな便利だったはずだ
そんなこともわからんのか? >>66
自説に近いものは平気でwikiを引用するのがホラ吹き伊都チョン >>161
>私も色々考察してるんですが、考えれぼ考えるほど矛盾点が出てきてなかなかまとまらないのです
そりゃ、トンデモなんだから無理というもんだ。 @阿波 >>167
将軍は江戸や鎌倉にいたがなww
そんな事もわからんのか?ww >>161
そりゃ全くの嘘だから矛盾が出てくるのでは?
そもそも金印が安曇のものだったなんて物証は一切ないし、たまたま近くに神社があっただけの話
普通なら、その神社とは無関係だから神社に管理されてなかったと考えるのが普通 >>166
>そして程なくして三角縁神獣鏡を持った一族がすぐに入り込んでいる
「倭人(阿波勢力)」だ。
>中臣家も入ったらしく、那珂郡が置かれている
「阿波」の那賀郡が元だ。 @阿波 国の防衛より便利が優先すると言うのが伊都チョンwww 景初の東征は、物部と宇佐の連合軍なのに、その地元九州の、安曇磯良の神事まで作った宇佐の話をガン無視するのが伊都チョン自称九州説ww
ただの思い込み。塵芥に等しい戯言。 >>147
馬韓だって十余万戸でその中の月支国が首都。
あの高句麗がたった三万戸。濊なんざニ万戸なのに、
7万戸の邪馬台国を指して都ってのはおかしいだろ。
南至邪馬壹國でいったん切れるんだよ。>投馬國から南に行くと邪馬台国。
女王之所都水行十日陸行一月が一節。>邪馬台国の中の、女王が都としている所までは投馬國から水行十日陸行一月(一日か)
帯方郡→朝鮮半島南部の投馬國→北部九州邪馬台国
熊本辺りに南の狗奴國があるが、
本来は邪馬台国領域と狗奴国領域を合わせた九州全土が倭国
倭国(邪馬台国)の中に、首都の伊都国や奴国などが含まれる。
女王國=奴国不弥国で、後漢代の卑弥呼地方女王の旧領。
卑弥呼が共立されて倭国王になって、伊都国に移動した。 >>170
でも、伊都国に女王はいたんだよ!(TT) >>174
伊都説に文句を言うだけで、自説の主張すらできないのかね? 狗奴国と戦争中なんだから、北部九州では伊都が一番安全だろ。
高祖宮なんて鉄壁の守りじゃん。 >>171
もういいよ
>>154
早く地図を書いて説明してください
みんなに吠え面かかせてやってほしい! >>154
卑弥呼がいたのは伊都だが、
大率が普段いたのも伊都だぞ。
卑弥呼は男系は伊都国王系の女王だろうが、
ベースは女王國=奴國不彌國だから、伊都國も卑弥呼からは検察対象になる。
刺史の如くとあるので地方行政も行っていて、
それが少なくとも官のいない末蘆國(+壱岐対馬も含まれるか)だろうね。 >>154
>大陸と伊都国の間の諸国に一大率を置いたんだよ
するどいね。
朝鮮半島を沿岸航海して帯方郡まで至るには、寄港できる宿場港が10-20kmおきに必要。
安全性を考えると、島のほうがいい。
おそらく狗邪韓國から帯方郡までの半島沿岸の島々は大率の支配下にあったのだろう。 東南500里の伊都国は佐賀平野。
佐賀へ〜、佐賀へ〜と、草木もなびく〜〜、佐賀よいよい!! >>180
卑弥呼は奴国にいて、一大率は伊都国にいたんじゃね?
多分一大率と代々いたとされる伊都国王は同じ人だろう https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1601445951/744-756
北部九州からは紀元前の弥生遺跡から硯が出土している。
よって倭人は漢字を使用していた。
伊邪那岐/伊耶那岐、伊邪那美/伊耶那美なのだから、倭人は「邪=耶=ザ」として使っていた。
廣志を正しく読むと、
南の邪馬嘉國が現在の佐賀市周辺。邪馬嘉(ザマガ)→佐嘉(栄サカ)→佐賀
西南の伊邪國(伊耶國)が現在の諫早市周辺。伊邪(イザ)→伊佐→諫早 >>184
>卑弥呼は奴国にいて、一大率は伊都国にいたんじゃね?
女王國時代の卑弥呼は不彌國にいたんだろうね。
倭国王に共立されてしばらくも不彌國にいて、大率を伊都西部に派遣していたのだろう。
伊都の安全が確保される
=末蘆國の安全が確保される
=佐賀市周辺つまり旧邪馬嘉國を邪馬台国が完全制圧したことで、
卑弥呼が伊都高祖宮に移動する環境が整ったんだね。
>多分一大率と代々いたとされる伊都国王は同じ人だろう
大率長官は難升米と伊聲耆掖邪狗の二人。
前者は奴国王系。
後者はおそらく物部系の彼で、卑弥呼の男系一族。 しょうもない作文で1人芝居してみんなに笑いものにされるスレはここですか? そもそも倭人伝に安曇など出てこない。
ビビ(耳?)や、ニギなど、八井耳や、物部系を思わせる役人が伊都を統括してたのではないかと微かに伺える程度 >>186
難升米→タジマノモリ
伊聲耆→イサチ→物部イニエ
掖邪狗→矢坂イリヒコ
朝貢したから記紀から消されたが、イニエは大王だった事にされる方針になったので後年に諡号が送られた >>187
ttps://ameblo.jp/may-199704/entry-12436355318.html >>189
女王國時代の卑弥呼が不彌國にいたのならば、香椎や志賀島などまさに安曇の本拠地もしくはその真横。
当時から安曇というものが存在したかどうかはともかくとして、まずまず一族であった可能性が高いね。
>>190
三国志の人名は、初登場時にフルネーム、2回目以降は名前だけ、だから、
伊聲耆掖邪狗は「伊聲耆家」の「掖邪狗さん」。
倭人については、
卑彌呼 (名字なし)
難升米 (名字なし)
都巿牛利 名字:都市 大率難升米配下の對馬國卑狗
伊聲耆掖邪狗 名字:伊聲耆
壹與 (名字なし)
特に前三者は皇帝の詔書でも記載されているのだから、名前情報の確度が高い。
難升米は詔書の中で2回出てきているのに難升米のままだなら、名字は確実に無かった。 >>186
イニエと卑弥呼が東征を計画したんだそうです >>187
お前がいくらわめいてもこれが現実↓↓↓↓↓↓↓
帯方郡
↓7000余里
狗邪韓国
↓1000余里
対馬国(方400余里)
対馬国沿岸を北→南に400余里、西→東に400余里移動する。
↓1000余里
一大国(方300里)
一大国沿岸を北→南に300里、西→東に300里移動する。
↓1000余里
末盧国
↓500里
伊都国
↓100里
奴国
合計12000余里 伊都に代々いた国王の末裔は、名前からして伊都国の官である禰宜だろう。
先代王家が邇邇芸からはじまる天孫族だとして。 >>174
>>景初の東征は、物部と宇佐の連合軍なのに、
こいつ、何言ってるの? 八井耳は、ヤマトの村雲の兄弟か、子供の代で分家した多臣家や藤原家の元になった家系。
だから九州ではほぼ唯一、ヤマト側の鏡である三角縁神獣鏡が北九州で出土する
あれは物部の鏡ではない。 つまり、ヤマトの分家が伊都に就任し、太宰府の様にそこに都がある様に偽装した
多臣家は、東征の際には物部側についたとしか思えない動きをしている >>195
つまり次の男王がその系統
卑弥呼の男系が物部系
七八十年男王=日向三代=邇邇芸系→伊都国王に返り咲いた→男王や台与
奴国=葦原那珂津国を占領した饒速日系→卑弥呼はこちらだから記載されず 伊都は北は狭い海峡に面し、他の方角は全て山に囲まれている。
伊都に置かれた大率が伊都から北の玄界灘の制海権を掌握していたのだから、伊都は難攻不落の王都となる。
伊都から見た日の出の方向の神奈備である高祖山に高祖宮こと高千穂宮があり、日御子が君臨したのだろう。
実務は三雲あたりに拠点を構えた大率が女王の代理、すなわち太宰の帥(率と帥は同音同義)として統治した。
日御子は人前に姿を見せないので、君臨すれども統治せずということだったのだろう。
郡使が滞在した館は、後の筑紫館および鴻臚館に相当するものに他ならない。
ここに滞在しながら日御子に拝謁するには、日御子がいたのは少なくとも高祖山周辺でなければならない。
日御子が先代の日向王家(彦火火出見ら)から王宮も継承したのであれば、それは日向山系のクシフル山(高祖山の南側)の高千穂宮、現在の高祖宮になる。 最初の東征は祭祀型銅剣勢力。
瀬戸内西部までは銅剣だが、財力の関係で銅剣製作には限界があったようで、
より東方には祭祀型銅剣型の石剣が出土する。
豊国の宗像地域=古代出雲から、新天地を求めて旅立っていった、蒲生一族であろう。
銅鐸
祭祀型銅剣・石剣
鐘崎式土器
HTLV-1
倭種である。 >>200
凄いですね。
旧家の伝承だと、イニエの先妻さんがアタツ姫
その子がイクメ
後妻さんに宇佐の姫
その子に、豊彦トヨ姫
つまり、物部イクメで言えば全くその通りになっています。
凄いですね >>194
こんにちは
その航路、どこを通るイメージなのか詳しく教えてね >>201
高祖山に高祖宮なんてものは見つかっていない
鎌倉時代の原田氏(大蔵氏)の居城だけ 奴国にはその昔に王がいたかもしれないが、伊都に王家が成立してからは、奴国に王家がいた痕跡はない。
つまり奴国の王家が伊都に遷都した、伊都の王家に禅譲したなどが考えられる。
卑弥呼の名前は狗奴国の王の名(卑弥弓呼)と似ていることから、両者は同じ王家であろう。
これは卑弥呼が有明海沿岸の肥国の女王であったことを示す。 >>186
御免なさい、間違えました
イサチ垂仁は、物部イクメですね。
部民性は神功皇后期以降と思われ、苗字は無かったと思われます
九州においては偽名や二つ名があった様で、イサチはイクメのもう一つの名らしいです >>205
現在の呼称が高祖宮であって、かつての呼称は高千穂宮であったのだろう。 >>206
奴国の須玖岡本遺跡は一代だけだから、奴国王は一代限り栄えて滅んだんだよ。
伊都国王家は、吉武高木→三雲井原と続いている。
倭人伝においては、伊都国の爾支が頂点で、奴国の兕馬觚は伊都国の副と同等の扱い。
吉武高木=アマテラス
奴国王=オオクニヌシ、奴国=葦原那珂津国
奴国王がアマテラス以外の権威を頼って後漢から金印を貰ったけど失脚して、
饒速日が奴国制圧、子孫が兕馬觚(シマコ)のウマシマジ。卑弥呼もその子孫。
三雲井原に遷都して日向三代。 >>203
>>207
それなりの根拠を元に話してるのだろうから、君の内容についてはとやかく言わんが、
>>192
伊聲耆掖邪狗は一人の人物の姓名である、というのは留意しておいてほしい。
・名字が無い、伊聲耆と掖邪狗の二人だとしたら、トップの伊聲耆を差し置いて、掖邪狗だけに率善中郎將が印綬されるのがおかしい。
・倭人伝における倭と魏の外交使節については、難升米等、梯儁等、張政等、とどれも「正史の姓名+等」で記載されている。
伊聲耆掖邪狗は一人の人物の姓名で、「伊聲耆家」の「掖邪狗さん」。 日本は倭の別種
白村江で日本列島の支配権が倭→日本に移行した >>209
いやいや、吉武高木以来、数世代は奴国に王家があっただろう。
それは志賀島の王家とも一体だろう。
それを安曇と呼ぶのかどうかは知らんけどな。
金印が志賀島から出たことも合わせ、奴国(志賀島を含む)が長らく倭国の王都であったことは間違いない。
ただ、三雲の成立後はそっちが王都であり、福岡奴国は王なき庶民の商業の街。 >>208
原田氏が治めた鎌倉時代は怡土郡一宮
その前は宅祖山だろう >>209
その流れなら、奴国から王権を禅譲されて伊都に王都を移したのは、饒速日ではなく邇邇芸だよ。
細石神社が邇邇芸の妃の木花開耶姫、高祖神社が邇邇芸の息子の彦火火出見だからね。
そのまんまじゃん。
饒速日は東の方に行ったきり戻ってこなかったと古事記に書いてあるだろ。
饒速日の王国こそ、後の畿内政権だよ。
まあ、筑紫からの征服者なんだけど。 >>212
いやいやもなにも、吉武高木こそが伊都国だ。室見川流域。
三雲井原に共立倭国王を輩出したのも吉武高木の伊都国王家。
三雲井原倭国王を出した後にも、室見川銅版に記録されたように室見川側にも伊都国王宮が営まれていた。
奴国は那珂川流域。葦原那珂津国。
商工集団のトップが一時的に倭地を掌握しただけ。
幕府。 >>210
イサチはタジマノモリと同じで銀のハンコですよ 【筑紫の日向】
筑紫の日向は、しばしば宮崎県のことだと誤解されるが、福岡県のことである。
筑紫の日向の小戸の阿波木原はイザナギが禊をしたところとされており、福岡市西区小戸に比定されている。
この禊で生まれたのが博多に祭られる住吉三神や志賀島に祭られる綿津見三神である。
これらの神を祭る神社の元宮は現人神社(福岡県那珂川市仲)であるとの説があり、弥生時代の倭王であったイザナギの王宮であったとも考えられる。
古事記では天孫降臨の地は「筑紫の日向の高千穂の峰のクジフル岳」とある。
福岡県の高祖山の南側は、別名をクシフル山とも言う。
クシフル山から自分の国土を眺めたニニギの国見の詔に「此地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり」とある。
宮崎県の日向高千穂では意味が通らないが、福岡県の高祖山なら、福岡平野と糸島平野の間にあり朝鮮半島に向かう博多湾に面している。
「高祖村、椚 二十四戸。慶長の頃、黒田長政、村の南の、野地を開き、田地とすべしと、手塚水雪に命ぜられし書状、今も、農民、田中が家にあり。
其書に、五郎丸の内、日向山に、新村押立とあれば、椚村は、此時立しなるべし。
民家の後にあるを、くしふる山と云、故に、くしふると、云ひしを訛りて、[木毛]と云とぞ。
田中は、元亀天正の間は、原田家より与へし文書、三通を蔵す」
(福岡県地理全誌抜萃目録、恰土郡之部)
考古学的にも、三種の神器を伴う弥生王墓は高祖山の東の福岡平野と西の糸島平野にのみ発見されている。
高祖山には後世に山頂から山麓までを囲む中国式山城である怡土城が作られ、その中に高祖神社がある。その原型が記紀にある高千穂宮だろう。
筑紫の日向にあった伊都国が倭国の王都であり、高祖山の高千穂宮が倭王である天孫の降臨の舞台、神武東征の出発地、そして倭国女王卑弥呼の王城である。
ttp://wi12000.starfree.jp/map/afumi_sawara_map_25.gif ヤマトの邪馬1国の出先機関の伊都が、邪馬1国を名乗るのは当然の事です。
倭人伝となんら矛盾しません >>215
魏志倭人伝からは、非常に広い範囲を奴国ととらえていたことが推察される。
しかも伊都国が邇邇芸らの王都であるならば、文脈からは新しい都に遷都したように読める。
つまり最古の王都である吉武高木は伊都国ではなく、あくまでも奴国側だよ。 >>214
饒速日は、アマテラス=伊都国王+クニテラス=奴国王の兼任。
クニテラス→シマコに格下げした奴国官に就任したのがウマシマジ。
ニニギは倭国王なんだから、卑弥呼と同じく共立大王で、
伊都国王奴国王や、
末蘆國王(柏崎遺跡)や、
>>185の邪馬嘉國王(虺龍紋鏡分布域)、
その他諸々の地方王に共立されて、
伊都国王家から共立大王を輩出した。 >>220
>しかも伊都国が邇邇芸らの王都であるならば、文脈からは新しい都に遷都したように読める。
だから、ニニギらが三雲井原大王なら、その前は別の場所。
考古学的には吉武高木しかないでしょ。
そもそも大国主以前からアマテラスはいたんだから、
大国主が吉武高木だと、アマテラスは別の場所にいなくちゃいけない。
海外から来たことにしたいわけかな?
魏略では伊都国は一万戸。
これが室見川流域のことだろうね。
魏志倭人伝の伊都国千戸は、三雲井原遺跡側のことだろう。 饒速日「後から来て天孫を名乗るお前は何者だ。我こそ天孫ぞ」
神武「(饒速日の弟の)邇邇芸の末裔です。これ(天羽羽矢)が証拠です」
饒速日「おお、それはわしのものと同じだな!確かに同郷の者らしいな」
長髄彦「我々の軍勢にも被害が出ていますし、まさか和解するなんてことはないでしょうね」
饒速日「天神の子は人間(の論理)とは違うのだ」
長髄彦「納得いかないので戦闘を継続します!」
饒速日「そんなことは許さん!命令を聞かないなら手打ちにしてくれる!」
神武「ありがとうございます。筑紫は(倭国大乱で)荒れていて暮らせないので、ここにいさせてください」
饒速日「うむ、大叔父としてお前を迎え入れよう」
饒速日の末裔が物部氏や尾張氏であり、畿内や東海の覇権を掌握した。
物部氏は、「ヤマト王権」において軍事と祭祀(つまりマツリゴトの全て)を司っていたとされる。
そして畿内を中心に分布する前方後円墳も物部氏の墓制である。
神武に続く欠史八代に事績がないのは、饒速日の庇護の下の居候だったからだろう。 >>222
高 高貴な、祖先の
天 海(アマ)の
原 国邑、城
玄界灘に浮かぶ聖地、沖ノ島が高天原だよ。
海に暮らす倭人の王の名がアマテラス、海を支配する王。
畿内勢力も参加して数百年にわたり行われた国家的祭祀は、皇祖でもあるアマテラスを祭るものだったと考えれば納得がいく。
風土記において、沖ノ島の祭祀を司る宗像大社の神器はアマテラスの形代である八咫の鏡とされている。 >>221
>>ニニギは倭国王なんだから、卑弥呼と同じく共立大王で
倭国王でも共立されたのは卑弥呼と壹與だけだろ。
邇邇芸は天照によって王となったし、天照は事実上、武力をチラつかせて大国主に禅譲させている。
(大国主の自己犠牲により破滅的決戦は回避された) アマテラスの名からは、玄界灘の制海権を掌握していたことがうかがえる。 >>224
沖ノ島は古代出雲=宗像の原始神道祭祀。
世界最大の祭祀型銅剣が岡垣町から出土しており、
これがヤガミヒメとシロウサギの行った銅剣埋納祭祀跡。
鐘崎が稲場。祭祀型銅剣分布域からの上納品の集積場だね。
高天原は吉武高木宮殿を中心とする早良平野。
吉武高木宮殿にいた殿上人が高木神。
考古学を真面目に当てはめるなら、こうなる。 >>223
長髄彦は奴国那珂川下流域の区長である那珂スネ卑狗。
奴国知事である兕馬觚(シマコ)であるウマシマジの部下。
庄内式土器の流れ=奴国ウマシマジや那珂スネ卑狗が大儲けしてたから
伊都倭国王に目をつけられて粛清されたんだよ。 >>227
紀元前には丹後半島に扇谷遺跡など大規模な鉄工房遺跡が百年単位で運営されていた
=紀元前には対馬海峡〜玄界灘〜日本海沿岸が統一支配されていた
=吉武高木大王が支配していた
=アマテラスの支配
宗像=古代出雲に、田熊石畑遺跡=多重環濠の将軍=スサノオ
越の八岐大蛇の尾=丹後半島扇谷遺跡、鉄剣を作って献上
九州縄文系のHTLV-1保有集団は、九州内で僻地へと追いやられているのに、
豊国だけ優遇されていた。
なぜか?
対馬海峡から発展していった伊都国勢力が、たまに渡海失敗して漂流した時に、
沖ノ島に避難、あるいは沖ノ島で漁をしていた豊国舟に救助されることが一定頻度で起きたため、
仲良くなったんだよ。 >>228
沖ノ島が宗像なのは、そもそも天照が祭祀をまかせたからだろ。
原始神道つまり天照信仰の場なのだから、そこに天照がいたと考えるべきだよ。
何のゆかりもない場所で祭るわけがない。
そもそも天照は筑紫の日向を出て高天原に移動したと書いてあるのだから。 >>231
沖ノ島信仰を行っていたのは、イザナミ。
宗像=古代出雲の山鹿貝塚。
イザナミ女王の支配下である八雷神は、神産みとは別に元々存在していた。
つまり九州縄文系の土着勢力。
アマテラス擁立に伴う行政変革で、八雷神が八山津見となった。
東の有力部族が、蒲生=火雷。
西の有力部族が、ワニ。
>そもそも天照は筑紫の日向を出て高天原に移動した
? >>230
豊国は奴国の旧王家だからだよ。
大山祇・綿津見の王家であり、伊都の天孫族王家には代々妃を輿入れさせている。
男系では伊都の日向三代が王都だが、女系では志賀島が王都であったと見ることもできる。
豊玉姫は大綿津見神(海神)の娘であり海を塞き止める力を持っていたが、大綿津見神の竜宮城のモデルは名島神社や志賀海神社である。
倭国は伊都の天孫族王家と博多・志賀島の海神族であった豊国王家の連合王国であった考えられる。
国津神ではあるけれど、イザナギの末裔であり、れっきとした倭王の王統の一つであり、卑弥呼を共立した立役者でもあったろう。
(ただし卑弥呼自身は肥国の女王) >そもそも天照は筑紫の日向を出て高天原に移動した
伊都説だと、筑紫の日向=糸島なのだから、
糸島側の御床松原遺跡(斯馬國だが)で紀元前から硯を使っていたイザナギ勢力がアマテラスを擁立したのなら、
同じく硯が出土する室見川流域、吉武高木遺跡の宮殿こそが高天原の候補地であろう。 イザナミの国は、黄泉比良坂(峠のこと)を超えたところにあるので、イザナギが禊を行なった小戸から陸続きだよ。
沖ノ島ではない。
沖ノ島が古代最大の祭祀の場であったのは、そこがアマテラスの磐座であったからに他ならない。
御阿礼祭は、沖ノ島から福岡への天孫降臨の再現だよ。 >>233
伊都国王家 吉武高木遺跡→三雲井原遺跡
奴国王家 一代限りで滅亡、須玖岡本王は進駐した饒速日の墓
豊国王家 山鹿貝塚以来、共立女王
豊玉姫や玉依姫は、豊国の城野遺跡を保有していたからこその玉 >>234
イザナギはアマテラスだけ擁立したわけではない。
だからこそ後の世で出雲国譲りのような争いになる。
吉武高木では、高天原(海の城)という名前が説明できない。 >>235
だからイザナミの国は豊国だと言っている。
伊都説だと筑紫の日向に比定される糸島側の、御床松原遺跡(斯馬國だが)から紀元前の硯が出土しているのだから、
イザナギ勢力は既に文字を使っていた。
硯の分布からも、イザナギ勢力が擁立したアマテラスの王都は、豊国などではなく、
吉武高木宮殿であろう。
考古学的にそうなる。 豊国王家
奴国から志賀島、遠賀川、関門海峡へと移動
イザナギ(イザナミ?)、大山祇、綿津見、豊玉姫など
筑紫王家(天孫族)
奴国から沖ノ島に出て、国譲りで福岡に返り咲いて伊都に遷都
イザナギ、アマテラス、ニニギ
肥国王家(熊襲)
奴国の末裔の一系であろうが詳細不明
共立により卑弥呼が倭王となる 伊都説は卑弥呼やその前の日向三代が伊都にいたことを説明するが、それ以前の王家まで伊都にいたというわけではない。
吉武高木や志賀島の勢力をどの人物に比定するかは、慎重でなければならない。 >>240
旧百余国それぞれに代々の王がいたのだから、
当然伊都国にもいた。
各地に代々の王家がいて、倭国乱で滅亡している。
無理矢理記紀に当てはめるなら、最古の吉武高木王がアマテラス候補。
そうなると早良平野が高天原。
大国主はアマテラスの後だから、奴国王一代。
最期は敗北したのだから、立派な墓など残っていない。
交換条件は、吉武高木宮殿と同じ高さの社を立てることと、鉾祭祀の継続。
須玖岡本遺跡すら饒速日のものだろう。
魏志倭人伝には、其國本亦以男子爲王とあるのだから、
倭国王が三雲井原遺跡=伊都国王系なのだったら、
卑弥呼も伊都国王系。
奴国王系は狗奴国など〇奴国。
後漢書の同一段落にて、奴国王と倭国王は明確に区別されており、
卑弥呼は倭国王系なのだから、当然奴国王系ではない。 後漢書で既に測定されていた里程とは、
本来は57年漢委奴國王金印の金印後漢使が来倭するための里程。
だから後漢→倭の経路で出発時の、真夏の太陽方向を基準に方角が記載されている。
奴国王の居館は雀居遺跡にて既に発掘済みであり、
奴国王が実際に使用していた案も出土している。
奴国王の人生前半は、宗像=古代出雲の中広型銅矛将軍に婿入り→後を継いで、
兄弟と争っての故郷奴国制圧と、元嫁の祭祀型銅剣女王と争っての瀬戸内制圧。荒神谷遺跡は祭祀型銅剣勢力の降伏調印式の跡。
奴国王の人生後半は、淡路島舟木遺跡を運営しての、金印獲得。
60年頃に那珂川流域の大洪水が起き、奴国王は妻の実家の宗像=古代出雲に避難し、狩尾神社(跡)で伊都国王軍に捕縛され降伏した。
奴国に進駐したのが饒速日。
奴国王クニテラス→奴国官シマコの行政改革を行い、
その息子ウマシマジがシマコに就任した。
女王國=奴国不弥国の卑弥呼はその子孫。男系は物部だな。
息子というか、子がいないのだから、記紀は無視していい。 日本=倭とするのは無理がある
まだわからないやつがいるんだよね いや、60年頃に疫病が流行して、大洪水は70年頃だったな。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1615458138/696
以上のいずれも考古学データを背景に計算した結果。
豊国の古代出雲のイザナミ
八雷神→八山津見
東の有力部族、蒲生=火雷 ≒平氏?
西の有力部族、熊鰐(安曇の女系はワニ) ≒源氏?
祭祀型銅剣=ヤガミヒメ<カモ>
↓
中広型銅矛=オオクニヌシ<ワニ>
↓
祭祀型銅戈=アジスキタカヒコネ<カモ>
↓
広型銅矛=ヤマサチヒコ<ワニ>
↓
投馬國拡大=弁辰鉄鉱山への道=鉄器大量生産時代=甕棺墓戦士時代の終了=弥生維新
↓
倭国乱 >>242
年代がめちゃくちゃ。
吉武高木はもっと古い。
そもそもアマテラスは最古の神でもないし。
そうすると早良を高天原に比定する根拠も吹き飛ぶ。
おおむね早良は天御中主あたりだろうか。
それに見つかっていない宮がたくさんあるだろうことも忘れてはいけない。
伊都が王都となるまでは、福岡平野と志賀島の全体が王都で、紀元前からおおむね1世紀くらいまではずっと多くの宮があっただろう。
現人神社、名島神社や志賀海神社、風浪宮などがそれだ。
まずは記紀を読み直し、系図を再確認されたし。
それからでないと実年代にはすり合わせできない。
卑弥呼は伊都にありながらも墓制が異なるから、伊都国にいた筑紫天孫族王家とは別の王統だろう。
吉武高木の王宮はそれほど高くはない。
その一方で、大国主は、沖ノ島の岩山の上にある磐座を指して、それと同じくらい高い宮を要求した。
その結果、96メートルもの高い王宮を立てることになった。
(吉武高木の宮はもちろんもっと小さいので、アマテラスのものではないし、そもそも年代が古すぎる)
畿内で王国を営んでいた饒速日が筑紫にいるわけないし(生まれは筑紫だが)。
いろいろツッコミどころがありすぎてアホだわ。 無意味で虚しい努力が凄すぎて憐れにさえ思えてきたw >>247
>吉武高木はもっと古い。
それは三雲井原遺跡に倭国王が共立される前の、伊都国王のこと。
三雲井原遺跡に倭国王が出現した後も、倭国王を輩出した元の伊都国王家=早良王家は地方有力王として存在していた。
その根拠は室見川銅版の王宮記載。
>伊都が王都となるまでは、福岡平野と志賀島の全体が王都で、紀元前からおおむね1世紀くらいまではずっと多くの宮があっただろう。
そちらのほうが無茶苦茶。
伊都=糸島が王都となるまでは、吉武高木遺跡が王都であり、
福岡平野などは雑多な一般人居住地域。渡来系集落も多い。
>>245のとおり、卑弥呼は木棺墓への回帰。
>吉武高木の王宮はそれほど高くはない。
弥生時代最高度の建物だな。
沖ノ島は豊国イザナミ族の元は漁場であり、
漂着して命拾いした対馬海峡イザナギ族がいつもお礼してくれるので、
そちらからの寄進で聖地になった。 1)潮汐 一日に満潮と干潮が2回ずつ、6時間おき
太平洋に開けている朝鮮半島西岸や、有明海では、太平洋の海水が大移動できるので潮位変化が大きい。
海峡で閉塞している日本海沿岸は潮位変化が小さい。
日本海沿岸で平均30-40cm。
日本でも潮位変化が大きい有明海で最大6メートルくらい。
朝鮮半島西岸では有明海以上、特に帯方郡では10メートル。
2)「windy 潮流」で検索。右下でkm/hに変更できる。
6時間おきの潮汐を見てみると、
朝鮮半島沿岸では、「6時間おき」に正反対に逆転する。
対馬海峡では、「12時間おき」に東西方向で正反対に逆転する。
3)手漕ぎ舟は二交代制であれば、数十日でも漕ぎ続けることが出来る。
弥生時代の場合は水や食料の保存がネックになるので数十日は不可能だが。
それでも数日は漕ぎ続けることができる。 https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1615458138/569
>日が沈んでから到着しようとすると、たとえ岬など要所に火を灯しても、
>島岸や暗礁に激突して沈没する危険性が高い。
>だから逆に、暗いうちに出発して、明るいうちに到着する、ことが必須だな。
>出発であれば、安全な方向へ漕ぎ出して、外洋に出てしまえばいいのだから、暗くても安全。
>となると、出発後の数時間は暗闇の中での航海となる。
>目印となるのは当然夜空の天体しかなく、
>多少の曇りなどでも所在がわかる、「月」を目印にするのが最も実用的。
>月から方角を読んで、対馬海峡を渡海する。
>月読とはそういうこと。
対馬海峡渡海は、渡海だから、夜明け前に出航することで距離を稼げる。
例えば朝鮮半島南岸から対馬までの60kmを渡海する場合、
まず潮流のパターンから、渡海しやすそうなパターンの日を選んで出航する。
出航してみて、思いがけずに逆流が続くようなら、あきらめて引き返して別日に出直し。
>>251
渡海を決行する場合、12時間おきに東西方向に逆になるので、24時間航海なら最終的には東西方向のぶれはプラマイゼロになる。
だから東西に流されるのはあまり気にせず、目的地への南北方向へ二交代制で漕ぎ続ければいい。
2ノット=時速3.6kmから、二交代制なので時速3kmだとして、
多少のロスを入れて南北方向に70kmを進むには、24時間弱。
晴れた日で、かつ潮流パターンの良い日を選んで、午後4時頃に出航して、
月の方角から南or北を目指して夜間漕ぎ進め、
夜が明けて、翌日午後4時ごろに到着できる。
朝に出発すると、夜間までに時間があくので、その分、朝に晴れていても途中で天候が悪化する危険性が高くなる。
晴れた夕方に出発して、晴れているうちに月を見て夜間航海を終わらせた方が安全。 >福岡県の日の出日の入りが、夏至で5時9分〜19時33分、冬至で7時19分〜17時15分。
三国志時代に異民族の浜にほいほい接岸できないから、極力休憩を取らないようにしないといけない。
安全な宿場港というのが一定距離ごとにあって、飛び石伝いに伝っていくわけだね。
その多くは陸上勢力に襲撃されない、沿岸の小島だろう。
宿場港には毎年謝礼金ならぬ謝礼米や謝礼絹を納入して、倭国大率兵も一定数常駐させて、安全確保しておく。
それは稀に来る魏使のために維持するのではなく、
倭人が定期的に交易したり外交したりするために通年の航路として維持するのだから、
宿場港間の一定距離、というのは、夏季に合わせるのではなく、冬季に合わせる必要がある。
冬季は8時出発の16時到着、8時間が一日の航海時間の上限だとして、
3km/時×8時間=24kmが一日に進める最大距離。
>>251
朝鮮半島西岸は潮位変化が大きく、潮流が6時間おきに逆方向に変わり、
島によって潮流が変化する難所続き。
8時間ずっと進める日が毎日続くわけではないので、
宿場港はだいたい10km間隔で設置。10km/日。これが基準だろうね。
ただし、魏使の乗る船は一番良い準構造船に、上腕モリモリのプロ漕ぎ手満載だったろうから、
20km/日×20日=理論上は400km。
雨の強い日、風の強い日に出航すると、沈没する危険が高いので、予備日が必要。
5日予備日を取っただけで、20km×15日=300km。
やっぱり、帯方郡から朝鮮半島南西端まで到達できるかどうか、だね。 高天原は元々は高天彦神社近くの高台だか何だかの地形を指していた。
それが途中で方針が変わり、九州にされた。
後年、先代旧事本紀や、諡号などにより盛大ななネタバレが行われる様になるが、高天原もその一つ。
延喜式には語り部の旧家の数と、高天原の本来の場所が書かれている。
此処からは想像だが、帝記編纂委員会で物部氏は呼ばれていない。ハブられているかの様だが、実際には違うと考える。
招いた側、黒幕側だったから呼ばれなかったのでないか?
諡号をつけたのは物部関係者の淡海
そして、アマテルクニヒコアメノホアカリニギハヤヒが一人の人物であると言う最大のネタバレをしているのが先代旧事本紀だが、あれも物部関係者の編纂と言われている。
つーか、物部氏が高天原の場所を変えて、本来載せる必要のなかった崇神から仲哀までを載せたとしか思えない。
前政権は開化天皇→ヒコイマス→ヒコタツヒコ(ヒコミチヌシノミコ)までがはっきりしており、物部三代をリスクを犯して書く必要など全くなかった >>伊都=糸島が王都となるまでは、吉武高木遺跡が王都であり、
わかっているじゃないか。
吉武高木から志賀島まで、全部ひっくるめて倭国の王都、倭奴国だよ。
1世紀か2世紀頃に糸島平野に事実上の遷都をして、王都の範囲(畿内のようなもの)がさらに広がった。
そもそも伊都国王と便宜的に呼んでいるが、本質的にはこれは倭王に他ならない。
倭王が(吉武高木を含む)倭奴国から、伊都国に遷都した。
ただし記紀を読むと、本来の直系である志賀島の豊国海神族に対して、沖ノ島から出戻ってきた筑紫天孫族が糸島に住み着いて王権を掌握したように読める。 >>256
毎回議論をしているから今さらだが、
あなたは考古学的事実を無視しすぎている。
例えば、中広型銅矛は、那珂川流域から熊本には多数出土するが、
早良や糸島には出土しない。
この1点だけでも、中広型銅矛の年代からして、
奴国王=中広型銅矛
=奴国とは、那珂川流域から熊本へと延びる南北に細長い国家。
とわかる。
重要遺跡が密集しており、奴国が降伏した時に〇奴国に多数分割されたと考えられるわけだ。
畿内説(いわゆるキナイコシ?)が以前よく指摘していた、
伊都国(糸島+早良)には鉄工房が多いのに、奴国(那珂川流域)には鉄工房が無い、というのもそうだ。
奴国は銅剣領域を征服して淡路島に大規模鉄工房を運営することで栄えたので、
伊都国に征服された後も伝統的に淡路島の鉄器の水揚げ地であり、
各種鉄器がまず入荷するので奴国では鉄器を加工する必要が無かった。
伊都国はもちろん上位なのだが、奴国経由で鉄器が入ってくるから、加工する鉄工房が必要だったのだ。
80年代の日本と米国の関係に似ている。
そして異民族集落。
末蘆國〜糸島ならびに、早良平野には異民族集落が少ない。
室見川河口や、那珂川流域は異民族集落が多い。
紀元前に稲作が始まって、まず栄えた末蘆國〜糸島ならびに、
高地で清浄な早良平野=高天原には、既に倭人貴種が暮らしていて、
新規の異民族や雑多な一般人が入りこめる土地など無かったのだ。
考古学的に、末蘆國〜糸島〜早良平野、那珂川流域、宗像を中心とする豊国、
はそれぞれ明らかに別勢力のもの。 >例えば、中広型銅矛は、那珂川流域から熊本には多数出土するが、
>早良や糸島には出土しない。
次の祭祀型銅戈になると、奴国領域はもちろん、
早良や糸島からも出土するようになる。
つまりは奴国王が失脚して、
ニニギ+ニギハヤヒのコンビが北部九州を制圧したわけだ。
田村遺跡+筑後を支配するアジスキタカヒコネは
ニニギ〜ウミサチヒコに仕えて、
祭祀型銅戈を奉じて大阪湾攻略した。
その結果が、大量の生口獲得であり、
107年の遣使につながっていく。
最期は南海トラフによって滅びたので、我々にとっても他人事ではないのだが。 最期の広型銅矛が、豊国ワダツミ王のものだな。
ワニ系の安曇あるいはその前身だろう。
伊都国王ウミサチヒコを重視するアジスキタカヒコネとそりが合わず、
倭国王ヤマサチヒコは一度失脚した。
ウミサチヒコ+アジスキタカヒコネは、
奴国シマコ筑後〜瀬戸内〜畿内の大倭。
ヤマサチヒコ+ワダツミは、日本海沿岸の大率だな。
祭祀型銅矛は、スサノオ・ワニ・安曇の旗印。
豊玉姫・玉依姫は城野遺跡の玉。
近くから何度も埋納儀式された広型銅矛が出土しており、
アジスキタカヒコネの筑後〜大分〜田村遺跡経済圏が、南海トラフで大打撃を受けたのを、大率が粛清して伊都に返り咲いたのだな。
そこから半島出兵して、鉄資源への道が作られ、鉄器大量生産時代に入っていく。
生きのびたシマコ・ウマシマジと、那珂比恵遺跡の卑狗・ナカスネヒコが、瀬戸内畿内経済圏で庄内式土器ぼろ儲けしていたので、
淡路島鉄工房が羽振りがいいのに目をつけられて倭国乱へと突入していく。 >>258
安易に征服とか降伏とかこじつけるから受け入れられない。
日本の古代史上、それほどそのような出来事は多くはない。
特に博多湾の場合は複数の氏族が棲み分けたり、一つの氏族の中で兄弟が役割分担したりしていた様子が記紀から伺える。
那賀川流域と早良が別の国という無茶苦茶な主張を受け入れるわけにはいかない。
単に王宮の近くに工房を作らなかっただけかもしれない。 >>260
伊都国にいた王は海幸ではなく山幸(彦火火出見)であることが高祖宮の祭神から明白なんだけど。
いろいろ決めつけすぎる。 >>259
あと、九州北部にニニギを持ち出すのはいいが、ニギハヤヒを持ち出すのには賛同できない。 シカノシマは、中津臣や、藤原の勢力下の名前。
たまたま安曇がそこに居ただけの話で、志賀(四賀、滋賀)は元々は鹿
長野県には志賀高原、タテミナカタの勢力下の諏訪神社の近くの地籍は四賀。およそ「安曇が源流の地名とは思えない」のが「しが=鹿」
多臣氏と、藤原の家は同じ先祖で九州と、上総の国に拠点を持っていた。
日本書紀の太安万侶(多臣氏)と、藤原は親戚筋
今でも鎌足が創建したとされる旧鎌足村高倉にある高倉寺には、現在でも彼の生誕の話が伝わっている
上総国、マキタ・矢那郷の猪長官は子供に恵まれなかった。そこで高倉寺の観音に願をかけたところ、娘が生まれたという。
その娘は観与子と名付けられた。彼女が年頃になると、鹿島の豪族の血を受け、身ごもった。
それが鎌足。
鎌足家伝によると、字は中郎と書かれているので、次男だったらしい。
君津郡史によると、鎌足の両親は共に、地方の国造家の家系で、ともに多臣氏の血を引いていたことが分かる。
多臣氏の祖は神井八耳命は二代目大君・沼川耳(綏靖)の兄弟から分かれており、父親村雲の孫にあたるのが八井耳
つまり、多臣氏の父系はヤマトの尾張や海部系。母系は出雲の事代主系となる。
中臣氏は元は卜部氏の分家で、昔は中津臣家と呼ばれていた。(実は仲哀は地方の豪族で、それで諡号でナカツヒコと盛大なネタバレがされている)
出雲から嫁が入ると、昔のカバネ、臣が付く。
故に、現在の蘇我系の皇室は、臣系の家系という事になる。
中臣氏は、実はヒボコ系で、摂津にも地盤を持っていた息長系の一族。
故に、神功皇后の韓征伐には中核として中臣が関わっている。
これが鎌足が養子に入っただけなのに、藤原と混同されて、藤原=朝鮮系という誤解を生むことになった。 上総の国には元々鹿の神が諏方から展開していたと推測され、房総半島北部から日光方面には鹿沼等の土地がある。
そして、奈良の数が神社には、鹿島から鹿がもたらされたことから、九州方面から鹿、志賀、滋賀は展開していないことが分かる。
山誉祭りに代表されるように鹿の神事は藤原や中臣が九州に運び込んだと考えるのが順当。
九州からだと、春日に二方向から鹿が運ばれたことになるのでおかしくなる。
何にせよ、多臣、中臣、藤原は目の前で邪馬台国事件、物部と宇佐の東征を見てきた一族という事になる。
そして、ヤマトの王族の親族として、伊都での一大卒を世襲で担っていた。 だからそう言ってるだろう。
決めつけてるわけじゃない。
記紀に当てはめるなら、の仮定の話をしている。
だが、考古学的事実が積み重なって来た今、
北部九州勢力が記紀と無関係とするならば、いずれ彼らが何の勢力だったのか、答えを出さなければならない日が来る。
九州だって日本の大きな土地の一つなんだから、
そこに紀元前から文字を扱っていた勢力はなんなのか。
彼らが大国主だとしたら、じゃあ金印二つは国津神のものになってしまうし、
問題だらけ。
神代が北部九州倭国の時代と仮定して、推論すると、上のようにも考えられる、という話。
藤原は奴国王系かと思っていたが、
奴国王を捕縛した面々が祖に連なっているので、
饒速日だね。
経津主神とか天鳥船神とかは、饒速日の武器や軍船に言い換えただけで、
元は饒速日が大国主を下した軍記物語。 伊都チョンって、最初はあんな狭いところに鹿はいない、鹿の神事などないって言い切ってたんだよなw 大事なことはね、村雲=神武は東征してなくて、物部、宇佐にやられちゃった前政権の家系という事なんだよ。
不思議だよね、二代目、三代目大君は普通にわかるのに、村雲の話になると急に何かが遠のくんだよね >>196
彼は頭の病気なのです
哀れんであげてください 大己貴命 大奴貴命
奴国 葦原那珂津国
長髄彦 那賀須泥毘古 登美能那賀須泥毘古 那珂須泥卑狗
難升米 奴の升米
長崎 奴が岬
長野 奴が野
長門 奴が門
長沙 奴が沙
南に狗奴國 三国志 筑後肥後〜瀬戸内の双方中円墳国家
東に拘奴國 後漢書 日本海沿岸の四隅突出型墳丘墓国家 >>270
出雲大社上官家筆頭の富家と、宇佐八幡の宇佐家にはキチンと東征開始に関する伝承が伝わっているよ。
卑弥呼が死んだ年数は二年の差があるが、東征開始から6〜8年後に安芸国で東征の戦闘中に亡くなり厳島にて仮埋葬された。
故に、倭人伝では粗末な作りを想像させる家、と言う感じに似た字が当てられている。
その後、遺骨はきちんと宇佐八幡に収められてるよ はっきり言って安曇なんて倭人伝には全く今のない無意味な仮定に過ぎない存在 高句麗
「本有五族 有涓奴部 絕奴部 順奴部 灌奴部 桂婁部
本涓奴部爲王 稍微弱」
高句麗五族の王族である涓奴部が衰退。四隅突出型墳丘墓の原型。
夫餘
「國有君王 皆以六畜名官 有馬加牛加豬加狗加大使大使者使者
其死 夏月皆用冰 殺人徇葬多者百數 厚葬有槨無棺」
夫餘は六畜の名前を官につける。
徇葬は多い時には百を数える。
低湿地である奴国には、渡来系異民族の集落が多い・・・。
卑狗
狗奴国・・・。 志賀島神社近辺は八井耳と、阿部の領域。
すぐ東には相島という島があるが、元々あの島は阿閉島と呼ばれ、阿部系の領域だった
阿部はやられちゃった側の政権の子孫だから当然に藤原、多臣家とも親戚
畿内発の三角縁神獣鏡があのエリア近辺だけ出土するのは当然のこと。
九州ではあの近辺しか出ない。
ひむかですらほとんど出ない。 >>287
だから、当てはめに無理があるんだって。
紀元前から文字を使っていて、そこにいた勢力も名無しの権兵衛ではなく記紀の誰かなのだろうけど、
一般に認知されていない文書に頼りすぎ、それが一般に知られている記紀と矛盾が多すぎる。
例えば、先代旧事本紀は記紀と違う話が収録されているが、矛盾は少ない。
しかし君の根拠としている本は記紀と食い違いがありすぎる。
あと、倭王が国津神でなぜ悪い。
国津神といっても、多くはイザナギの末裔なのだから、倭王でいいはず。
天津神はいくつもある倭王の王統の中の、天照系のみを指すにすぎない。
天津神が倭王の座にいたのは、記紀の記述によれば天孫、山幸彦、彦渚の日向三代だけ。
これが70-80年だとすると、残りの数百年はすべて国津神だ。
安曇とやらを推す意見もあるようだが、あれも国津神に分類されるから、反対する意見もあるのだろう。
しかし卑弥呼が豊国か肥国の出身なら、それもやはり国津神だ。
倭王が天津神でなければならないというルールはない。 倭人伝の、結婚している方の卑弥呼、宗女トヨの母親が、豊国の月神信仰の卑弥呼。
魏書の朝貢した卑弥呼は九州の卑弥呼。
倭人伝を普通に読めば、独身の卑弥呼と別人なのが普通に分かるでしょ。 高天原が方針転換で移転した事により、天孫=アメノナニガシの分類は意味がない
そんなこと言ったら朝鮮系のヒボコまで天日槍だもん。
国津か天孫かは重要事項ではない。
そもそもが大陸を欺ければ良いだけの記紀
国内向けにはわかる様に色々工作している
磐余彦がなぜかなぜか大和入りしたらウマシマジになってるのも同じ。
物部が入り込んだ事を隠していない 1)潮汐 一日に満潮と干潮が2回ずつ、6時間おき
太平洋に開けている朝鮮半島西岸や、有明海では、太平洋の海水が大移動できるので潮位変化が大きい。
海峡で閉塞している日本海沿岸は潮位変化が小さい。
日本海沿岸で平均30-40cm。
日本でも潮位変化が大きい有明海で最大6メートルくらい。
朝鮮半島西岸では有明海以上、特に帯方郡では10メートル。
2)「windy 潮流」で検索。右下でkm/hに変更できる。
6時間おきの潮汐を見てみると、
朝鮮半島沿岸では、「6時間おき」に正反対に逆転する。
対馬海峡では、「12時間おき」に東西方向で正反対に逆転する。
3)手漕ぎ舟は二交代制であれば、数十日でも漕ぎ続けることが出来る。
弥生時代の場合は水や食料の保存がネックになるので数十日は不可能だが。
それでも数日は漕ぎ続けることができる。 https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1615458138/569
>日が沈んでから到着しようとすると、たとえ岬など要所に火を灯しても、
>島岸や暗礁に激突して沈没する危険性が高い。
>だから逆に、暗いうちに出発して、明るいうちに到着する、ことが必須だな。
>出発であれば、安全な方向へ漕ぎ出して、外洋に出てしまえばいいのだから、暗くても安全。
>となると、出発後の数時間は暗闇の中での航海となる。
>目印となるのは当然夜空の天体しかなく、
>多少の曇りなどでも所在がわかる、「月」を目印にするのが最も実用的。
>月から方角を読んで、対馬海峡を渡海する。
>月読とはそういうこと。
対馬海峡渡海は、渡海だから、夜明け前に出航することで距離を稼げる。
例えば朝鮮半島南岸から対馬までの60kmを渡海する場合、
まず潮流のパターンから、渡海しやすそうなパターンの日を選んで出航する。
出航してみて、思いがけずに逆流が続くようなら、あきらめて引き返して別日に出直し。
>>251
渡海を決行する場合、12時間おきに東西方向に逆になるので、24時間航海なら最終的には東西方向のぶれはプラマイゼロになる。
だから東西に流されるのはあまり気にせず、目的地への南北方向へ二交代制で漕ぎ続ければいい。
2ノット=時速3.6kmから、二交代制なので時速3kmだとして、
多少のロスを入れて南北方向に70kmを進むには、24時間弱。
晴れた日で、かつ潮流パターンの良い日を選んで、午後4時頃に出航して、
月の方角から南or北を目指して夜間漕ぎ進め、
夜が明けて、翌日午後4時ごろに到着できる。
朝に出発すると、夜間までに時間があくので、その分、朝に晴れていても途中で天候が悪化する危険性が高くなる。
晴れた夕方に出発して、晴れているうちに月を見て夜間航海を終わらせた方が安全。 >福岡県の日の出日の入りが、夏至で5時9分〜19時33分、冬至で7時19分〜17時15分。
三国志時代に異民族の浜にほいほい接岸できないから、極力休憩を取らないようにしないといけない。
安全な宿場港というのが一定距離ごとにあって、飛び石伝いに伝っていくわけだね。
その多くは陸上勢力に襲撃されない、沿岸の小島だろう。
宿場港には毎年謝礼金ならぬ謝礼米や謝礼絹を納入して、倭国大率兵も一定数常駐させて、安全確保しておく。
それは稀に来る魏使のために維持するのではなく、
倭人が定期的に交易したり外交したりするために通年の航路として維持するのだから、
宿場港間の一定距離、というのは、夏季に合わせるのではなく、冬季に合わせる必要がある。
冬季は8時出発の16時到着、8時間が一日の航海時間の上限だとして、
3km/時×8時間=24kmが一日に進める最大距離。
>>251
朝鮮半島西岸は潮位変化が大きく、潮流が6時間おきに逆方向に変わり、
島によって潮流が変化する難所続き。
8時間ずっと進める日が毎日続くわけではないので、
宿場港はだいたい10km間隔で設置。10km/日。これが基準だろうね。
ただし、魏使の乗る船は一番良い準構造船に、上腕モリモリのプロ漕ぎ手満載だったろうから、
20km/日×20日=理論上は400km。
雨の強い日、風の強い日に出航すると、沈没する危険が高いので、予備日が必要。
5日予備日を取っただけで、20km×15日=300km。
やっぱり、帯方郡から朝鮮半島南西端まで到達できるかどうか、だね。 >>1
<後漢書韓伝>
韓有三種 一曰馬韓 二曰辰韓 三曰弁辰
馬韓在西 有五十四國 其北與樂浪南與倭接
辰韓在東 十有二國 其北與濊貊接
弁辰在辰韓之南 亦十有二國 其南亦與倭接 凡七十八國
馬韓 「其北與樂浪南與倭接」馬韓の北は楽浪郡と接し、馬韓の南は倭と接す
辰韓 「其北與濊貊接」
弁辰在辰韓之南 「其南亦與倭接」弁辰の南もまた倭と接す
どう見ても後漢時代から朝鮮半島南部は倭領。
<三国志魏志韓伝>
「韓 在帶方之南 東西以海爲限 南與倭接 方可四千里」
最初にドンと韓全体の南が倭と接することが明記されている。
馬韓を構成するのは55國。弁辰はたったの12國。
・馬韓の構成国のうち倭と接する国が多すぎて字数を割いていちいち列挙してられない。
・弁辰には金印倭人が鉄を取りに入っているので、情報価値が高い。「國出鐵 韓濊倭皆從取之」ことから、弁辰瀆盧國だけ特別に触れた
朝鮮半島南部にあった倭領=投馬國。その中心地が「到」狗邪韓國。
<三国志夫餘伝>「南與高句麗東與挹婁西與鮮卑接」
<三国志高句麗伝>「南與朝鮮濊貊東與沃沮北與夫餘接」
<三国志東沃沮伝>「北與挹婁夫餘南與濊貊接」
<三国志濊伝>「南與辰韓北與高句麗沃沮接」 >>272
そういう妄想に縋らなければ生きていけないのだな
哀れな・・・ >>276
〉例えば、先代旧事本紀は記紀と違う話が収録されているが、矛盾は少ない。
いいえ、あれはヤバい。現在の皇室観とは著しくかけ離れているヤバい奴です。
尾張氏、海部氏、そして奈良の富家の分家の磯城登美家の系図は、神武が村雲である事にたどり着くヤバい書物です。
神武は東征した事になってるから本来は出てはならない書物でした
そして、奈良と九州の家系の租が、同一人物であると言う事も絶対ヤバい案件です >>283
普通に日本の旧家に言わせれば、日本に欠史は存在してませんよ
記紀は日本の独自性を示し、大陸と対等に付き合うために我が国の歴史として作られ、大陸に提出されました
故に朝貢の事実や大陸渡来人が居ましたよなどと自慢げに書いたところで軽く扱われるのは必定
記紀のタブーが何なのか、仮説くらい立ててから議論したら如何か?
思い込みからは何も生まれないし、そもそも人間に知覚できる神などいない
神話と歴史を混ぜて話す事自体が異常 佐賀へ〜、佐賀へ〜と、草木もなびく〜〜、 サガは良いとこ一度はおいで〜〜! >>284
やばくはないよ。
記紀だって、天皇家の祖先は筑紫の日向王家と明示しているもの。
まあ、富家の正体が明らかになってまずいのは長髄彦の処遇くらいだろうね。
物部がヤマト王権の実権を持っていたことは記紀をよく読めばわかる。 >>290
>記紀だって、天皇家の祖先は筑紫の日向王家と明示しているもの。
筑紫は天皇祭祀で蚊帳の外。 論外! @阿波 >>290
物部は簡単に言うと性格悪かったから結局相手にされず、二度ともヤマトから追い出され、以降二度と東征を行わなかった >>292
>倭国王家と日本天皇家は全くの別物
そうでもしないと成り立たないトンデモ九州。 悔しいのうww わははははは @阿波 >>287
個人的には卑弥呼よりも徐福っぽいもの(江南)が出て欲しい
あー、言っちゃったしw
九州説の良いところは比較的徐福に抵抗がないところだな
彼が和名のホアカリ、そして再渡来した際に、二度目の名前を和名ニギハヤヒと名乗った
そんなものを書いて大陸に舐められないわけが無い 故に、スサノオという神を別に作って、「女系の先祖」という事にして、バレてもかまわないようにした。 >>287
「久不相見長毋相忘」
ひさしくあいまみえず ながくあいわするなからんことを
の前漢鏡が出土した辺りだね。
イモガイ腕輪をつけているので、奴国王失脚前。
立岩式甕棺だからまさに奴国王の時代。
おそらく奴国王の妃の一人だろうね。鏡のお相手は奴国王だろう。
吉野ヶ里の環濠は、70年に奴国王が失脚して、
金印を持って長崎に潜伏した奴国王系水軍(比良夫貝)に対応して増強されるから、
環濠と関係ない位置に埋葬された甕棺女性は、70年より前に死去して平和裏に埋葬されたのだろう。
日吉神社は大山咋命だから女性の女系はカモ系。
吉野ヶ里地方の1世紀女首長。
オルドス式銅剣つながりで、柏崎遺跡とも縁戚関係にあり、
同じく柏崎遺跡の荘園である、滋賀の高島市とも繋がりがある。
カモ。大山祇命。大山咋命。の1世紀前後の女系領主たちの一人。
三雲南小路2号妃を輩出した柏崎遺跡の縁戚女性の可能性が高い。 吉野ヶ里は卑弥呼よりも前の遺跡で物部の本拠地
向家は徐福はそこに葬られたとしている
ワンチャン盛り上がるかもね ということは、
吉野ヶ里甕棺被葬者のこの女性は、卑弥呼の縁戚である可能性が非常に高いな。
それどころか、直接の女系遠祖かもしれん。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1615458138/
卑弥呼は卑弥呼で、柏崎遺跡と関連した、琵琶湖沿岸荘園〜丹後半島の女性を近い祖先に持っていると考えられる。
祖母や曾祖母が東方荘園の領主あるいはその妻だったということだな。
ただ、佐賀市を中心とする邪馬嘉國は虺龍紋鏡がその目印と考えられ、
卑弥呼は同じく柏崎遺跡を基点にして、そちらの縁戚でもある。
となると、虺龍紋鏡の邪馬嘉國と、内行花文鏡の吉野ヶ里甕棺女性との違いは、
男系が伊都系かそうでないか、の違いとなるのかな。 >>299
物部というか饒速日軍が吉野ヶ里に入って来たのは、70年奴国王が失脚してからだな。
饒速日+アジスキタカヒコネの銅戈軍が配備されて、伊邪國の比良夫貝と対峙した。
それがいわゆる物部だったかどうかはわからんが。 >>286
伝承というのは神話にはならない
故に歴史に近い性質を持つ
記紀の、とりわけ古事記の元になったのは、延喜式にも出ている日本の語り部のうちの一つ、稗田流が元になってる
つまり、九州と奈良に地盤を持っていた一族が、豊国の宇佐の系統の伝承によって書かれているという事
九州説を取るのなら宇佐氏ガン無視は流石にまずいでしょw 虺龍紋鏡の出土分布からは、吉野ヶ里は物部とはちと違う感じがするぞ。
福岡平野から出土していないからな。
遠賀川より東の古代伯耆国から出土しており、女系はカモ系であることを強く示唆する。
カモの重要拠点の和歌山からも出ている。
土佐から出ていないので、アジスキタカヒコネとは若干系統が違うようだな。
琵琶湖沿岸から出てほしいところだが出ていない。ただ、琵琶湖から入る岐阜や名古屋から出土しており、銅戈軍の進軍と連動はしている。
洛陽→楽浪郡→邪馬嘉國の経路で伝来しているが、弁辰地域からも出土しており、
史料にある倭人が鉄を取りに入っている活動に銅戈軍も参加していたのだな。
100-200年後の卑弥呼の権益にも繋がっていく。
卑弥呼のミトコンドリアは、
古代伯耆国
→柏崎遺跡⇔吉野ヶ里遺跡
→丹後半島〜琵琶湖沿岸
→雀居遺跡or香椎
→平原遺跡
と長い旅をしたことになる。 >琵琶湖沿岸から出てほしいところだが出ていない。
なるほど。
琵琶湖の虺龍紋鏡を卑弥呼が持って帰って来たから、
琵琶湖で副葬されるはずのものが平原遺跡に入れられたのだな。 >>303
吉野ヶ里に関しては、伝承の弱いところで、伝承はいきなり言い切ってしまうところが弱点と言えます。
ただ、確か古い時代、徐福が大陸に書かれた年代の吉野ヶ里は、中国式の防護柵だが何だかが発掘されていたと思います。
そして、物部氏は、神功皇后征伐の後、高句麗との戦いに駆り出されて九州から人が少なくなり、弱体化したと伝承では伝わりますが、妙な事に、発掘状況からも、吉野ヶ里が三世紀近辺で衰亡に向かった時期があると結論づけられ、奇妙な一致を見せています。 先代旧事本紀は、ヤマトの血筋と、九州物部が の家が、単なる腹違いの兄弟の家系であるという事をバラしてしまうヤバい書物。
あんなものは本来は世に出てはならなかった。
海幸彦、山幸彦は、本当に兄弟だった訳
何故か隼人族はトバッチリなのか、顕彰なのかは不明ですが、海幸彦にされている。
記紀は、大陸から至近距離で、どうせならヤマトの血筋だけで皇室の系譜を書いた方が隠蔽が楽なのに、渡来人もいた九州の人物を系譜に入れながら大陸を誤魔化すという離れ業をやってのけている。
不気味なほどの緻密さ、頭の良さを感じる 九州において昔から、単純な古さは別として。ある程度の宗教やら政治体制、親戚同士の勢力争いという程度の力を持っていたのは宇佐氏。
隼人族は元からいた南方系の土着民族らしい。
その後に出雲族が北の方から入り込み、島根に定着(アイヌに土地を分けてもらえず海岸沿いに南下したらしい)
出雲第6代オミツヌの次男が宗方として分家し、最初に宇佐と習合
その後に例の人が二度目の来日で饒速日を名乗り、宗方の市杵島姫を嫁にし、物部氏が勃興
宇佐と、物部は女系で繋がる親戚同士だった。
九州は凄いところで水稲遺跡が紀元前10世紀のものが現在では知られ、海部や出雲が奈良入りして開拓を始める前に既に水稲を御所市あたりで開始していた。
だからその近辺で徐福時代の紀元前3世紀より古い水稲遺跡が存在する 宇佐と越知一族。
宇佐氏の書いた本によると、宇佐と、越知は勢力争いをしたとある
詳細は書かれていなかったが、宇佐と越知(古くは小市と書いたらしい)は、近い親戚同士と、私は個人的に考える。
奈良に行った越知は、摂津高槻市あたりで三島を名乗り始める。
そこから出雲第8代の際に向家(事代主)に嫁入りする
ミシマミソグイと、事代主の家系が村雲の政権の女系方の先祖になる。
タテミナカタの腹違いの兄弟が、先代旧事本紀にも出てくる天クシヒカタ。 御所氏の西側には越知の地積がある。
三島大社を作った三島家は、系図を見ると越知の名前が出てくる。
そして最近復元された八角系の古墳、何だっけ?舒明天皇のお墓の候補になった地籍も越知
人が住めない沼地を水田にする土木技術を持っていたらしく、既存の民族と争う事なく急速に影響範囲を広げていく。
新潟の二田物部神社の社家は現在でも三島家。
しかし、越知氏を名乗っていた時代がある事も分かっている。
台数は約130代。2000年ほど前に来たと伝承され、大彦が敗れて北陸方面に退却した際の受け皿になったと考えられる
故に、大彦系の高橋家が弥彦神社の社家になった。
ちょうど、日本海側の福井から新潟越後までが昔はコシノクニと呼ばれていた。
福井は白山信仰の発祥の地で、越知神社の本所があり、九頭竜信仰を信濃に持ち込み、戸隠信仰に発展していったと考えられている つまり、東征するならするで、進行した先で落ち着くには受け入れる側に立つ女系の一族が必要。
物部が宗方に受け入れられた様に、奈良では三島が事代主の勢力の受け皿になった(クシヒカタのお母さんの実家だった)
物部氏はそれで二度失敗した。
ヒボコでも成功した土着化には成功出来なかった。 九州説のコアの一つは、女系で目立たないけど月の女神を奉じ、姫巫女まで擁するまで宗教体系が発達ていた宇佐氏(そして奈良での分家筋の三島家)がコアではないかと思います。
此処から先は盛ってるというかカルトと言うかですが、豊国文字って凄いらしいですね。
インチキ臭い書物ですが契丹古伝だと、漢字の元になったとも書かれています。
そして、世界に広がるペトログラフには豊国文字や出雲文字で何故か解読できるものがあるそうですよ
九州のすごいところは物部や出雲より先に九州に居た宇佐氏だと思うんですがねー 豊国とは、本来は宗像を中心とする古代出雲国と、遠賀川をはさんで東の古代伯耆国から成る。
古代出雲国と古代伯耆国の国境にある比婆山とは、
山鹿貝塚のことであり、この辺りは古代の砂丘墓地であった。
聖地だったのだろう。
山鹿貝塚の巫女=古代女王、の骨は死後に抜き取られており、
なんらかの宗教儀式が行われたものと考えられている。
これに対応する記録が、記紀のイザナミ神話であり、
イザナギイザナミの神産みが行われる前に既に存在した、古代の神である、
八雷神が、イザナミ女王を共立していたことになる。
イザナギが覗き見してしまったイザナミの姿とは、
まさに山鹿貝塚女王の死後に墓を掘り返して骨を抜き取る、骨取り神事の描写であり、
蛆はわいているが蠅は飛んでいないことがそれを補強する。
八雷神の八部族は、共立女王を立てていた。
女王が亡くなって一定期間を経た夜に骨取り神事を行った。
女王遺体の各部位に、各部族の担当部位が取り決められており、
最も腐敗が進行して骨が露出いる部分=最も早く次代女王に転生した部分であり、
その部位担当の部族から、次の共立女王が立てられたのである。 夜間に神事を覗き見したイザナギは、神事を妨害したとして八雷神に追われる。
響灘玄界灘を夜間航海はできないので、走って逃げた。
葦原那珂津国に逃げ込んで何とかやり過ごした。
おそらく環濠集落である板付遺跡に逃げ込んだのだろう。
そして筑紫の日向、伊都説であれば三雲遺跡周辺に移動して、禊をした。
当時は海が潤地頭給遺跡の辺りまで入りこんでおり、
糸島半島は東西から入りこむ海と、瑞梅寺川河口の汽水で伊都国とは隔てられ、
ほぼ島のような地形であった。
これがいわゆる斯馬國である。
>>251
弥生時代には、一日2回の満潮の時だけ、海水面が上昇して、
伊都国と斯馬國の間を舟で通行できた。
弥生人にとっては、まさに神の御業。
波多江の辺りにあった、この神秘的な水門が古代からの聖地であり、
後には瑞梅寺川上流に三雲井原大王墓が作られることとなる。 >>313
〉弥生時代には、一日2回の満潮の時だけ、海水面が上昇して、
伊都国と斯馬國の間を舟で通行できた。
弥生人にとっては、まさに神の御業。
おお〜出ましたね、満珠・干珠
神功皇后ゆかりのイメージですが、まさに月神信仰の象徴ですよそれ
月の潮汐力で起こる現象ですもんね
九州に極端に多く、土雲(土蜘蛛とは違う)のエリアと重なるんじゃないかと思いますよ。 >>313
〉葦原那珂津国に逃げ込んで何とかやり過ごした
出ましたね、なかつくに。
中臣や藤原のゆかりの那珂郡と繋がりを考えたことありませんか?
律令時代には、九州、瀬戸内海、東海そして、鹿の北限である鹿島まで、ほぼ一直線に、那珂郡と、親戚筋の海部が置かれます。
確か、出雲にも那珂郡が置かれたのではないかと。
此処からは私個人の想像ですが、景初の東征、所謂邪馬台国事件で出雲は滅びますが、手打ちとしては、かつての出雲勢力範囲の権益を捨てて、島根の元の出雲領だけになったという事を示唆している様に思います。
それが、那珂郡の範囲であったと、藤原や中臣の領域に今ではなっているよ、と示唆している様な気がします。
出雲大社の前身の杵築大社は、実はやられちゃった側、出雲東西の両王家が自分達で立てた神社です。
なかつくにを治める代わりにヤマトに作ってもらった神社ではありません。 朝鮮半島に倭国領域を持っていたのは物部氏ではと私は考えています。
支配していたかどうかは別として、歴史書を素直に見るのであれば、大陸から見た視点では倭国と同一視するエリアであったという方は少なくとも言える事でしょう。
そして、九州物部の女系は出雲の分家の宗方
ヤマトの村雲の女系は、出雲のニ王家の直径事代主
両方の地域に食い込んでいるのが出雲(宗像は神門ごうど家、事代主は向家(富家)
そして、出雲大社近くには帯方群の土器が出る特異的な遺跡があります。
朝鮮半島との繋がりが直接なのか、間接なのかは不明ですが説明は可能な程度の遺跡があります
後漢の政変から魏国建国までの間の小競り合いから、帯方群が魏国支配下になり、帯方群からの陸路での朝貢が可能になったその瞬間の情報が真っ先に九州にもたらされたのは、物部氏以外に想像できません。
そして、辰韓は元は築秦国と同じで、秦韓といい、同族系統の国だったと考えられます。
ヒボコ族が我が国においてスサ族と習合し、卜部や中津臣家となれたのは、九州築秦国の親戚や同族と見做されたからではないでしょうか? じゃあ何で豊州ではなく物部なのよという事ですが、豊国って武力では物部に敵わず領地を侵食されていたのだそうです
結局、宇佐の豊国が下に回る形でウサツ姫を出し、手打ちになったらしいのです。
その姫が宇佐の豊玉姫。トヨの母親なんだそうです。 >>285
ここは魏志倭人伝を正しく読むスレだ
脳内旧家の脳内伝承の話がしたいなら自分のスレでも立ててやってくれ >>317
方400里や方300里を行程に加えるとんでも論の話はやめたんかい? 魏志倭人伝というのは遊び心満載に書いてある
将来の倭人=俺たちを弄ぶかのように
だから美しく読み取るのが俺たちの使命
くそ真面目に読んじゃいけない >>185
なるほど。
伊都説だと、三雲南小路王墓から柏崎遺跡が笠沙の岬となり、
唐津が吾田=阿多であるから、その勢力が山を越えて佐賀市側に入って、
阿邪訶(ア・ザカ)だったのだな。
例の甕棺墓女性の時代だな。
>>298
70年に奴国王が失脚して、
伊邪國の奴国王系水軍(比良夫貝)と吉野ヶ里が対峙していたから、
阿邪訶(ア・ザカ)の海、つまり有明海で比良夫貝水軍に襲われたわけだ。
当時は佐賀平野が無く、甕棺墓の分布のように山地にへばりつくように、
干潟に面した坂だけの土地だった。
そこをある程度開発した勢力が王となり、
邪馬嘉(ザマガ)國として、独自外交で虺龍紋鏡を入手した。
収入源は、同じ肥国である肥後の木材。トンカラリンだな。
山を越えたら対馬海峡だし、弥生倭国なら交易の好立地ではある。
だが、邪馬嘉國は倭国乱で荒廃もしくは滅亡し、
狗奴国もまた筑後→邪馬嘉→末蘆→対馬海峡と占領して金銀鉄鏡を入手した。
後の川上タケルが川上を名乗っているということは、佐賀にゆかりのある奴族だった可能性があり、
これが阿邪訶時代からのゆかりであれば、例の甕棺墓女性と奴国王との間の子孫である可能性も出てくる。
卑彌呼と卑彌弓呼の名が似ているのも、その辺りの先祖が共通しているのかもしれんな。
阿邪訶(アザカ)→邪馬嘉(ザマカ)→佐嘉(栄サカ)→佐賀
ということかな。
吉野ヶ里発掘、大いに楽しみだな。 東南陸行五百里到伊都國
これを正しく読めないから佐賀とか言い出す 東南陸行五百里到伊都國
これを正しく読めないから佐賀とか言い出す >>321
自スレになるほどとか見てる方が痛々しいしいわ
いい歳なんだからそろそろ真人間になりなさいよ >>321
虺龍紋鏡は、
九州の狗奴国領域からは出ていないが、
狗奴国領域だったと考えられる瀬戸内からは出ている。
当時の大倭長官(オオモノヌシ)が狗奴国を立ち上げた、とする推論とも合致してくる。
宮山古墳(姫路市四郷町坂元字城山)
虺龍紋鏡と画紋帯神獣鏡が出土。
鋳物谷1号墳墓(総社市清音三因字鋳物谷)
総社市の三輪山に建造。
だいぶ繋がって来たな。
(なるほど、は自レスの内容に対してではない、アザカに対して) >>318
ほう?なら安曇なんて魏志倭人伝にはどこにも出てこないよな?w スレタイは「魏志倭人伝を正しく読む」な
論拠も示さない妄想の羅列はスレチで、紛うことのない荒らしなんだよ >>330
倭人伝に出てるのが宇佐の姫でもか?
大丈夫ですかね?それでww >>332
魏志倭人伝のどこに書いてある?
あんたの脳内妄想以外で頼むわ
お前こそ大丈夫か? >>333
だから卑弥呼がそれだって言ってるじゃん
難弁米はタジマノモリ
難タ弁ジ米マイ
あのね、自分の先祖が描かれてる程度の話と君らの脳内妄想を一緒にしちゃダメだよ?
神話と歴史は区別しましょうね?
大物主は九州には居ませんよ? 出雲風土記だって、富家よりも新しい渡来人の千家が書いて、まだその家も続いてる訳だ
神話の話ではなく単なる先祖の話な訳だ 奥山はコメデイアンなところがあるからねえ。
いろんなキャラに化けて荒らし回る・・・、 奥山とは、畿内説という幽霊をまき散らすコメデイアン >>334
キナイコシ相手にしないほうがいいよ。時間の無駄。
風土記や伝承は傍証として興味深いんだけど、
できれば原文を引用してほしいかな。 >>339
邪馬台国も倭面土国も、
倭「ワ」国の、訓読み倭読みである、
「やまと」を耳にした、それぞれ張政や107年謁見の場の後漢官吏が宛てた当て字だよ。
倭国=倭面土国=邪馬台国 >>321
>邪馬嘉(ザマガ)國として、独自外交で虺龍紋鏡を入手した。
どうでしょうね。
邪馬嘉國が主体で独自外交したにせよ、末蘆王家との縁戚関係があっての対馬海峡利用だったでしょうから、
虺龍紋鏡が末蘆國から出土していない、伊都國からも出土していない、というのは妙ですね。
非常に興味深い現象です。
虺龍紋鏡を入手した勢力がカモ系で、祭祀型銅戈の一派だった場合。
まず一つに、虺龍紋鏡は佐賀市側と古代伯耆国、瀬戸内、本州に出土するが、土佐に出土しない。
そして、お抱え渡来系工人のものだったと考えられるオルドス式銅剣が、
柏崎遺跡〜吉野ヶ里遺跡〜下関〜高島市の上御殿遺跡に分布し、
筑後ならびに瀬戸内四国の大倭管轄領域から出土していない。
という出土分布からは、
広く東方開拓したカモ系の中でも、進出先でそれぞれ分派していって、
1世紀後半の時点では、例えばですが、
吉野ヶ里周辺+琵琶湖沿岸=大山咋
瀬戸内=大山祇
筑後土佐=アジスキタカヒコネ
の勢力に、大まかには分かれていたことが示唆されますね。
その時々で分断されたり結束したりする。
>>245
で、奴国王が70年に失脚して、カモが実権を握った時代には、過去スレで検討したように、
北部九州倭国では、
倭国王に柏崎遺跡のカモ系女性の三雲南小路2号妃が配偶。
豊國王にカモ系の伊都岐島ヒメ。
筑後大倭の長官にカモ系のアジスキタカヒコネ。
アジスキタカヒコネが鴨王ですから、カモ系の代表として、カモ系各派を取り仕切っていたわけですね。 伊都説だと、井原鑓溝遺跡が日向二代目になります。
一度失脚して、豊国へ下り、ワニと手を組んで捲土重来します。
ウミサチ+アジスキタカヒコネなどカモ
VS
ヤマサチ+ワニ
の構図ですね。
過去スレで検討しましたが、ウミサチが何らかのトラブルで亡くなり、
ヤマサチ+ワニ VS アジスキタカヒコネの構図となり、
広型銅矛が土佐を攻撃して田村遺跡が滅亡しています。
これによって、ワニの天下にひっくり返り、
豊国は古代出雲ワニが統一して、古代伯耆カモエリアの城野遺跡もワニ支配下となって、
豊玉姫や玉依姫は、ワニ勝利後の城野遺跡確保後の名前。
豊玉姫は豊国女王として帰国。
倭国王にはワニ系玉依姫が配偶。
末蘆國は、柏崎遺跡から、少し離れた桜馬場遺跡に広型銅矛のワニ系新支配者がやってきて、
元のカモ系柏崎遺跡一族は末蘆國を追われたのでしょう。
末蘆國を追われた彼らが移動した先が、オルドス式銅剣繋がりの所領である、
琵琶湖沿岸だったわけですね。 洛陽焼溝漢墓からの出土銅鏡からは、
例えば方格規矩鏡は、紀元後の新の時代から作られ始めた鏡で、
1世紀からだいたい146年まで副葬されていますね。
三雲南小路遺跡には方格規矩鏡がありませんね。井原鑓溝遺跡には大量に副葬されています。
70年に奴国王が失脚して、三雲南小路大王が登場して、20年以上は政権が続いていたと思われますので、
方格規矩鏡来倭の古い上限は、90年頃でしょうか。
一方で、107年には倭国王師升が160人もの生口を献じる大船団で訪漢しますから、
ここで方格規矩鏡は確実に入手されるはずであり、方格規矩鏡来倭の新しい下限は107年になります。
虺龍紋鏡については、洛陽焼溝漢墓にて、
方格規矩鏡よりも数十年古い、前漢後期の紀元前32年には登場して、
だいたい146年まで副葬されていますね。
方格規矩鏡より少し古くて、大体同じ時代の鏡なのですから、
虺龍紋鏡についても、来倭の新しい下限は107年ですね。
つまり倭国乱よりは前に来倭の下限がありますから、
例えば、倭国乱が起きて、邪馬嘉國が末蘆國を占領して、虺龍紋鏡を独占入手して、自勢力に配った、
ということはありえないことになります。
となると、
柏崎遺跡カモ時代=カモ系邪馬嘉國は末蘆国と親しい
桜馬場遺跡ワニ時代=カモ系邪馬嘉國は末蘆国と疎遠
ですから、邪馬嘉國などカモ系勢力が大量の虺龍紋鏡を入手できたのは、前者の時代となります。 柏崎遺跡に虺龍紋鏡が副葬されていないことから、
時系列としては、
三雲南小路大王に柏崎遺跡から2号妃を輩出
→2号妃の父である柏崎遺跡日光鏡副葬末蘆国王が死去(三雲南小路大王との前後はわからない)
→その次代の柏崎遺跡末蘆国王が楽浪郡との外交交易で虺龍紋鏡を入手
→その末蘆国王が、縁戚のカモ系に虺龍紋鏡を配布。
(アジスキタカヒコネとは同じカモ系だが別系統だった)
→日向二代目争いではカモ系なのでウミサチ側についた
→ウミサチ死去してヤマサチが伊都復帰
→アジスキタカヒコネが軍を興してヤマサチ+ワニ(広型銅矛軍)と対戦
→田村遺跡滅亡
→柏崎遺跡末蘆国王も別系統とはいえカモ系なので、滅亡は許されたが末蘆国領・旧伯耆国(邪馬嘉國も?)など北部九州倭国内所領は取り上げられた
→琵琶湖沿岸へ移住
→日向二代目が107年に方格規矩鏡を大量入手
→井原鑓溝遺跡や桜馬場遺跡には方格規矩鏡が副葬された
となりますね。
平原遺跡の虺龍紋鏡は面径が16.5cmと大型です。
普通のものは10-12cmですから、平原遺跡の虺龍紋鏡は特別な一面であり、末蘆国〜邪馬嘉國の王の証だったのでしょう。
カモが失脚しなければ、いずれ柏崎遺跡に副葬されていたのでしょう。
柏崎遺跡末蘆国王が左遷された時に、一緒に琵琶湖へ移動した。
そのまま本来ならば、琵琶湖沿岸に副葬されていたのでしょう。
しかし、一族の卑弥呼が北部九州で業績を上げて、なんと倭国王にまで共立されたので、
虺龍紋鏡も一緒に北部九州に帰って来て、平原遺跡に副葬されたわけですね。
平原遺跡が方形周溝墓なのも、卑弥呼は独身なので、女系の祖が琵琶湖移住して採用した方形周溝墓を卑弥呼も採用したのでしょうね。 以上を簡単にまとめると、
三雲南小路遺跡+柏崎遺跡はカモ系だった。
その両者は虺龍紋鏡入手前に亡くなって埋葬された。
次にカモ側のウミサチが実権を握っている間に、
柏崎遺跡二代目が楽浪郡から虺龍紋鏡を入手して、邪馬嘉國など親族に配った。
ヤマサチ+ワニと争いになり、争いの早期にウミサチが亡くなって、アジスキタカヒコネも破れ、
柏崎遺跡から追い出されて、大型虺龍紋鏡と一緒に琵琶湖へ。
井原鑓溝遺跡と桜馬場遺跡は虺龍紋鏡は持っておらず、
107年に方格規矩鏡を入手した。 琵琶湖沿岸にも蒲生郡というのがあるんですね。
安土城の近江八幡市も昔は蒲生郡だったそうです。
琵琶湖にも沖島がありますが、
蒲生郡と沖島の位置関係は、宗像と沖ノ島の位置関係と同じですね。
三女伸のうち、カモ系と想定される伊都岐島ヒメが祀られています。
蒲生郡には鏡山があって、平安時代には曲物が作られていたそうです。
曲物というのはつまり円形の木製入れ物で、弥生時代の青谷上寺地遺跡からも出土しています。
青谷上寺地遺跡からは祭祀型銅戈片が出土しており、曲物の技術は銅戈勢つまりカモ系に普及していたはず。
平原遺跡の超大型内行花文鏡は面径46.5センチ=約2尺ですね。
現代の円周率で計算すると、円周長は146センチとなります。
説文解字では、尺=十寸、咫=八寸ですから、
2尺=46.5センチの場合、1寸=2.3センチで、8咫=147.2センチとなり、
8咫は実際の円周長よりわずかに大きくなります。
つまり丸い物を入れる容器=曲物の側壁を作る時に、
尺→咫で計算すると、簡単な計算をするだけで、
丸い物がつっかえずにすっぽり入る曲物の側壁を作ることが出来たわけですね。 >>339
>邪馬台国時代直前の2世紀面土(メタ)国王 師升の墓か?
2世紀の面土(メタ)国とは:
後世云うところの米多郷(メタ郷)、或は目達原(メタ原)で、いずれも吉野ヶ里の東隣接地区。
有明海・筑後川を望む微高地で、古代国衙として絶好の地。
(関連遺跡には破壊されたものもあるが、移転・保存されたものもある) >>353
誰かに読んでもらおうとかは全く考えてないだろ
意味不明の長文を並べ、他の人のレスとレスを分断して荒らすのが目的なんだと思う ついに「謎のエリア」に王手が掛かったか・・、
律令制では彌根郡(三根郡)と云った。だからここは、倭人伝の不彌国だったのだろう。 漢書の注釈(魏の如淳)
墨の如く委面(入墨した顔)して、帯方東南万里に在り
魏志東夷伝序文
長老説くに、異面の人有り、日の出ずる所に近し
後漢書
建武中元二年倭奴国奉貢朝賀・・
安帝永初元年倭國王帥升・・
翰苑
倭面上国王帥升
通典・北宋版
倭面土国王帥升
倭面土国は倭奴国と委面=異面の合成語だね
ヤマト関係ない 魏つまり邪馬台国以前の倭国王(≒九州王)で、
一世紀は倭の奴国王が宗主だったが、二世紀には倭の面土国王に替わったのだろう。
そして倭人伝の三世紀が倭の邪馬台国王の時代。 >>357
魏志東夷伝序文は、
「沃沮を過ぎ、肅慎の庭を踐み、東に大海を臨む
長老說くに異面の人有り、日の出づる所に近し」
だから、この「異面の人」は九州ではない アイヌは刺青をしていたろ、
つまり「異面の人」は九州限定でなく、古くから列島全体に棲んでいた縄文人・弥生人の風俗をさしているのだろう。 普通は九州含む倭人一般のことだと思うだろう
粛慎であろうと倭人の情報は基本半島経由で入ってくるだろうし
漢書を受けて創作した陳寿の演出にツッコミ過ぎてもあれだけどな 東夷伝序文の長老の話は、東沃沮伝の内容と対応している
「王頎は位宮の追討に派遣される。東界の端に行き、そこの長老に質問した。「海東に人はいるのか?」
長老は答えた。「国人がかつて漁のため乗船し、風に遭って、遭難し吹かれること数十日後、
東に一つの島を発見し、上陸したら人がいた。言語は通じなかった。其の習俗は常に七月に童女を取って、海に沈めた。」
又こうも言った。「一国がある。これもまた海中にある。全て女で男はいない。」
又こうも説明した「一つの衣服を手に入れた。海中に浮いていたものだが、それは中國人の衣服のようだった。
その両袖の長さは三丈あった。」「又難破船が来たことがある。波打ち際の、海岸の端にあった。
一人生存者がいて、うなじの中にまた顔があった。生きていたが、言葉は通じなかった。食事をせず死んでしまった。」
その領域は皆、沃沮の東の大海中にある。」 >>363
つまり東夷伝序文の異面の人と倭人伝の会稽東治の東の鯨面文身の人たちは違う人たちという理解でいいの? >>364
東夷伝序文は、
「遂に諸國を周觀し、其の法俗を采り、小大區別すれば、各に名號有り、詳紀すること得るべし。
夷狄の邦と雖も、俎豆の象存す。中國禮を失い、之を四夷に求めるは猶ほ信す。
故に其の國を撰次して、其の同異を列し、以て前史の所未だ備へざるを接す。」
だから同じ >>342
ほぼ全て思い込みの伊都チョンよりはマシ
そもそも日本の旧家は九州説
日本語すら正しく読めなくなってるらしい キウスとかキナイコシとかはよく分からんが、日本史板、特に邪馬台国関連のスレには、承認欲求を満たすどころか他人様にバカにされることが分かりきってるのに、なぜかワケの分からん書き込みをすることに情熱を燃やす団塊クソジジイが多いんだろ? >>321
奴国王が失脚した時に、その水軍大将だった息子は金印を持って諏訪に逃げかけたと見せかけたので、
銅戈軍は東日本に気を取られ、奥深く関東まで追いかけていった。
しかし金印はそのまた息子に持たせて西に潜伏させた。
これが比良夫貝という水軍で、諫早市を中心とした伊邪國を根城にして、
倭国の主流となったカモ銅戈軍と敵対していたわけだな。
吉野ヶ里の環濠は比良夫貝をおびき寄せて内部に捕獲し、軍事情報を尋問するために設備だろう。
平戸市や佐世保の比良町などにその名残りがあるのだろう。
佐世保高島の宮の本遺跡などからプロ漕ぎ手の遺骨が出土しており、
本来は対馬海峡を渡海して海外交流した倭舟の漕ぎ手であり、
その当主である難升米が卑弥呼傘下に入って大率となってからは、再度対馬海峡を往来した。
というより刺史の如く末蘆国〜壱岐対馬の地方行政をもしきり、だから今も長崎県所属なのだな。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1615458138/
平原遺跡に御柱が立っている理由も説明がつく。
>>245
元はと言えば、比良夫貝は古代越ヌナカワ土井ヶ浜遺跡の女王とも親密であり、
奴国王は比良夫貝水軍を味方につけるためにも口説いたのかもしれんな。
そう考えるとその頃から比良夫貝は奴国王サイドとして、カモの銅剣女王國との戦争に参加していたのだから、
奴国王が失脚して倭国実権を握ったカモ銅戈軍は逆襲したという見方もできる。
比良夫貝頭領の難升米が大率として活躍したのであれば、
日本海を股にかけて、水軍を率いて北は蝦夷を討ち、西は白村江の戦にて補給部隊として活躍した、
阿倍比羅夫もまた筑紫大宰帥となったのだな。
率=師で、大率=大宰帥という九州説の論はまたいつものように奥が深く、
阿倍比羅夫もまた長崎の水軍を率いたのかもしれないし、
逆に難升米もまた兵糧不足の魏軍司馬懿に補給をしてあげて、そのお礼が親魏倭王金印や銀印だった、という説も見えてくるのではないかな。 金刀比羅というのも海上交通、海軍と関連が深いから、
大物主が瀬戸内交通を支配する際の水軍だったのかもね。
比羅、比良、というのが水軍のなんらかの単位だったのかもしれんね。 >>328
魏志倭人伝には北部九州の倭人が刺青をして海に潜って魚やアワビを捕る海洋民として描かれているだろ
古代北部九州で海洋民といえば安曇が真っ先に出てくるのは普通
それにひきかえお前のは何も根拠のない妄想の羅列でしかない 「丹」は縄文時代から「阿波」だけで採っている。 @阿波 >>373
そのイオウ同位体比分析により、徳島県水井鉱山産鉱石は-4.56±3.86%を示しており、
まず間違いなく徳島の水井鉱山産だろう。 @阿波 京田遺跡の辰砂のイオウ同位体比はδ34S+11〜12‰ >>373
でかいね。
これで縄文人が北海道で活動していたことになって、ロシアなんぞに口出しされにくくなる。 >>367
此処のスレ主の伊都チョン、@阿波、そして畿内説スレの主は歴史版板の三代ホラ吹きだぜ? >>351
〉三女伸のうち、カモ系と想定される伊都岐島ヒメが祀られています。
なにその意味不明な思い込みw
加茂氏は奈良のタキツヒコ系(高鴨神社)=神戸家
それと事代主系(鴨津波神社)=登美家の家系でしょ
オミツヌの代からの分家の宗方とは本質が違う >>359
淡海によって諡号がクニオシヒトって当てられている。
記紀においては大君自ら朝貢したなど書けないから、同名のクニオシヒトを作り、兄弟が朝貢したことにした。
記紀の作者は大陸の史書を見る限り、まず間違いなく内容を把握してから書いている。
故に、大陸に出てきた名前がある場合、仕方なく書くが、誰かはわからない様に時系列を弄っている。
その展開が母系がヒボコの神功皇后。
神功皇后記のところにわざと魏書の引用をしてある >>370
出たよとうとう我慢ができなくなって安曇を出したか?w人が少なくなって自作自演もたいへんだなw
安曇が男系渡来人だから連止まりなのもまだお勉強出来てないのか?w
中臣、豊臣の富は富家の富だぞ?
お前もみんなに言われてる様に渡来人なんじゃないのか?w >>367
そんなこと言ったら伊都チョンもどう見ても昭和の団塊だぜ?w だから原典を示してから主張しろってば。特に社伝とか家伝とか。
原典にそう書いてあるのか、脳内変換してるのか他の人には判断つかんから妄想世界に見える。 >>379
>淡海によって
淡海=「阿波」の海な。 @阿波 >>382
安曇も元旦には無い
自分の妄想は良い妄想だから笑われる >>384
私は安曇の人ではないのだが。
だが例えば、
>魏志倭人伝には北部九州の倭人が刺青をして海に潜って魚やアワビを捕る海洋民として描かれているだろ
>古代北部九州で海洋民といえば安曇が真っ先に出てくるのは普通
>それにひきかえお前のは何も根拠のない妄想の羅列でしかない
魏志倭人伝には〜、の一節を引用。
古代北部九州で海洋民といえば安曇が〜、はまあ常識。だから、
話の筋としては理解はできて、あとは安曇がいつから登場したのか倭人伝の頃に成立していたのかどうかという問題だけだとわかる。
だが、
>安曇が男系渡来人だから連止まりなのもまだお勉強出来てないのか?w
>中臣、豊臣の富は富家の富だぞ?
については根拠が示されていないので、結論のみ主張する弱小説と基本的に変わらない。
魏志倭人伝論争は長いので、突拍子もない説を主張する人に、その根拠を聞いてみると、思い込みの決めつけや、漢字の意味をあれこれひねくり回して独自解釈をしていたり、という経験を何度もしてきたのでね。
男系渡来人が連止まりといっても、本当にそうなのか?確証があるのか?この部族は連止まりだから渡来系、と逆に思い込んでいるだけではないのか?
弥生人の大部分が渡来人なのだから、じゃあ縄文人が大王ということなのか?どの時代の渡来人から差別されていたのか?差別があったのか?
その辺りの根拠となるものが無いから本当か嘘か判断しがたい。
富家にしても根拠は記紀なのか?家系図?その出典は?複数の家系図で確認される事実なのか?
中臣と豊臣とあるが豊臣とは秀吉のことか?なら時代が離れすぎてるが根拠はなんなのか?それとも中臣と同じくらい古くから豊臣があったのか?
あと上の方で、卑弥呼が東征したとかいう驚くべき話が出ていたが、
これも信頼性があるならとっくに邪馬台国論争は決着しているはずだが。
卑弥呼は人前に出てこない魏志倭人伝の記載とは矛盾するからこちらとしては過去の経験から身構える。 >>385
記紀は「あ」か「い」で始まる名称が非常に多い。
当時(8世紀)の倭人にとって、「あ」とか「い」に、そこはかとない尊崇の響きがあったんだろう。
だから、好んで名詞に「あ」とか「い」を付けたと思われる。
そのこころは、「天照大神」・「粟」の「あ」、や「伊予之二名島」の「い」に由来しているため。
安曇は、「倭人(阿波勢力)」。 @阿波 >>385
まず、記紀は、朝貢時の提出(結局日本書紀が提出された)の関係で、朝貢メンバー、つまり大陸の歴史書に書かれた事柄を書かないと嘘がバレるし、本来は大陸から超至近距離で渡来人も居た九州の人間は出来るだけ避けたい訳だ
故に高天原が最初は奈良だった訳だが
旧家の伝承というのは利害関係がある所は自分の家をよくしようとする傾向が強いから話半分で確かにいいと思うが、重要なのは家系図と同じで伝わるという点
その時点で欠史がなくなるというところが重要な事になる
そしてその話が複数の家で内容が似てる点は特筆すべき点になるという事
別段、こちらは富家本だけ読んでいるわけでは無い
そちらが思い込みでそう言ってるだけ
つまり、思い込みで物を言ってて、それこそ既存の資料しか無い方が旧態依然とした想像の姿勢でしか無いのに、ブーメランを放ってるからおかしい訳だ
おそらく伝承は既存資料にない唯一の他の資料になるだろう
旧家の伝承は神話にならないし、時系列も変わらない
そもそも記紀は九州豊家の稗田流の口伝がアレンジされたもの
口伝ベースの記紀で、大陸の史書に言及しているものな訳だから、他の口伝と対照するのは別段おかしな話ではない
自分の都合でものを言って下らない自説を守るために九州説の話をキナイコシとか吠えてる意味不明のおかしなやつが居るだけの話 >>387
記紀は「あ」か「い」で始まる名称が非常に多い。
当時(8世紀)の倭人にとって、「あ」とか「い」に、そこはかとない尊崇の響きがあったんだろう。
だから、好んで名詞に「あ」とか「い」を付けたと思われる。
そのこころは、「天照大神」・「粟」の「あ」、や「伊予之二名島」の「い」に由来しているため。
安曇は、「倭人(阿波勢力)」。 @阿波 >>387
>まず、記紀は、朝貢時の提出(結局日本書紀が提出された)の関係で、朝貢メンバー、つまり大陸の歴史書に書かれた事柄を書かないと嘘がバレるし、
特に日本書紀は国際向けだろうから、中国の歴史書とあまりに違うと信用が落ちる。それはそうだ。
>本来は大陸から超至近距離で渡来人も居た九州の人間は出来るだけ避けたい訳だ
>故に高天原が最初は奈良だった訳だが
前の段落の趣旨だと、記紀は九州の人間を避けたいと思っているのに、
その記紀は神武が九州から来たと書いているのだから、
逆に高天原は九州にあったことが確実だから、嘘をかけなかった。
中国の歴史書に書かれた中に高天原に相当する場所があった、ということになる。
君の思考過程が結論ありきに見える部分。
>旧家の伝承〜欠史がなくなる
ここは興味深い部分なのだが、いかんせん、肝心の伝承の引用元が無いから、
本当なのか嘘なのか判断できない。
どの伝承のどの部分をもって、欠史が無かった判断部分としているのか?
>富家本
>九州豊家の稗田流の口伝
畿内説者ですら今まで持ち出さなかったものを、持ち出すのなら、
その情報源を紹介してくれないと、全く評価できない。
書籍?取材?ブログ?
実際に、ここまでずっと、そのようなものの存在をつらつかせるだけで、
裏を取れる情報源が皆無。
それで信じろというほうが無理だろう。 高天原から天降ったのが九州なので、
九州に高天原は無い 高天原とは、帯方郡及びその手足としてかつやくした馬韓国の事だね >>393
論理的におかしい。
高天原から天下ったのは九州の筑紫の日向なので、
同じ九州に高天原があった可能性が高い。 >>396
天孫降臨というのは、そういう引っ越しの神話ではない 国産み神話の「筑紫島」や天孫降臨の「筑紫の日向」の地名は倭人伝には無い
隋書には「竹斯」という地名が現れる
この史書の間に作られた神話 隋書に「竹斯」があって、九州島の一地方国なんだろ。ほぼ福岡県の辺りの。
じゃあ、筑紫の日向もそういうことだ。
伊都が糸島、
末蘆が松浦、
奴国が那の津、
と微妙に漢字が変化しても遺跡などから比定されうるのだから、
竹斯が筑紫。
高天原から九州島の筑紫の日向に降臨したのなら、
高天原は九州島、さらに九州島の筑紫、にあった可能性が最も高くなる。
引っ越しの話じゃないというなら、筑紫の日向が始発点になるだけ。
引っ越しの話なら、外部からきたという証拠を示せなければ、
高天原は普通に九州の筑紫の日向以外の場所になるだけ。 高天原の神々に命じられた二神が筑紫島を生んでいるのに
その生んだ島に高天原が在るわけがなかろうが それだと九州だけでなく本州四国なども全部違うということになろう。
が、
現実には本当に海を埋め立てて島を一から造成したわけではないのだから、
島産みは領土拡大の歴史と言える。
よって、
>>401
は否定され、
>>400
が正しい。 神々が住む天上界である高天原から、まず筑紫島の日向に降りてみたら何も無いところだったので、
こんなところじゃいかんということで、塩土老翁から聞いた東の美しい地に行くことにした
天皇は神様の子孫なのだからあなたがた(豪族)とは違うんですという
律令制に伴った神話 >>403
議論に敗北した説による、脳内補完のよい見本 >>402
当然、九州だけでなく本州四国なども全部違う
天上界なのだから >>391
〉逆に高天原は九州にあったことが確実だから、嘘をかけなかった。
中国の歴史書に書かれた中に高天原に相当する場所があった、ということになる。
君の思考過程が結論ありきに見える部分。
はい、延喜式に本来の高天原が出てるって書いてるんだから、自分で調べましょうね?
都合の悪いことはぜんぶ伝承とかキナイコシとかで逃げてないで、日本語をまずは正しく理解しましょうね?w >>391
〉>旧家の伝承〜欠史がなくなる
ここは興味深い部分なのだが、いかんせん、肝心の伝承の引用元が無いから、
本当なのか嘘なのか判断できない。
どの伝承のどの部分をもって、欠史が無かった判断部分としているのか?
富家(向家)だけじゃないでしょ?
宇佐氏の書いた本の話もしてるし、神床家は取材に応じる形で登場するし、出雲王家本は、出雲だけが出てくるわけではないからね? >>406
延喜式に本来の高天原が出てくるから、それで?
>>407
>>385
への答えが無いな。皆無。
別に答える義務はないが、
人が納得する根拠を提示できなければ、認めてもらえない。 >>408
記紀バカどもに根拠を提示など出来る訳もなし。
遺跡根拠を提示できるのは、「阿波」だけ。 @阿波 高天原は馬韓の事
そう考えれば、するすると謎が解けてくる 筑紫の日向が糸島なら、高天原は日本最古の王家が見つかった早良。
>>410
北部九州における松菊里型住居や土器の出土分布からすると、征服された側だな。
畿内説が土器の流入をもって征服した側と主張しているのと同じ。 >>412 太国
記紀バカどもに根拠を提示など出来る訳もなし。
遺跡根拠を提示できるのは、「阿波」だけ。 @阿波 >>405
>>410
韓人キナイコシ、今日も仕事に邁進中! 阿電波
今日は松沢病院はどうだったぁ。奥から奇声の叫びがうんと聴こえたろう。w
オマエの阿波はビリ前つまりケツ前のブービー賞的土地であって
そんなところに女王国はあるわけがねえんだよ。 わははははははは @太国 対馬国、邪馬台国、邪馬国、斯馬国、投馬国・・、
女王に連なる有力国になぜか「馬」のつく国が多い。
つまり、帯方郡の御威光(武力)を背にした馬韓族の渡来(天下り、侵攻)が有ったということさ。 あったとはいえない。
記紀に 天の斑馬を逆剝ぎに剥ぎて の太古の高天原での素神の横暴を
受けており、半島とはここは関係ない。
記紀に半島の国生みがないのは、あると半島からだと盲象を垂れ
流す輩が出て来るため、それをさせないよう半島の国生みは入っておらず
日本と半島とは別ものだと、堅牢に半島からの防備の結界がなされているのだ。 韓の王は辰王。辰王が支配するのは辰韓。
では、馬韓を支配していたのは? >>416
漢字は中国人が発音を聞いてつけた当て字
意味はない 女王国馬韓説を唱えたのは浜名という男だという。
2ちゃんの盲象男のコングがすっかりはまってしまって、毎会同説を
主張していた。それを数年かかったがコングを折伏した。
ムー誌5月号にも浜名のその契丹文書、辰国の記事がある。 >>390
>×高天原が最初は奈良
あら太国さんお久しぶり。
奈良の今では御所市、昔の高尾張邑の高天彦神社近くには今でも高天原参考地の石塔が建ってますよ。
別段一部の伝承とかではないです 最初は奈良じゃないよ。
高天原っていうのは大宇宙の始原に相当する空間の場だよ。
二次的三次的の高天原という場もあって、この場合は高天原には営田があり、
確かスサノオは畔放ちとか天の斑馬を逆剥ぎに剥ぐとか田畑を滅茶苦茶に
したわけだ。だからそうなると九州か畿内に二次的高天原があった可能性は
ある。
貴方かい? 宗教家がどうのこうの言ってたのは?
なら言うが、ペンギン(プーチン)はZだからカシオペア座のWの佛界には
いけそうもないな。w ショイグは仏教徒だという。あいつもダメだな。 >>423
>高天原っていうのは大宇宙の始原に相当する空間の場だよ。
藤原氏の弓前文書だと、宇宙とか出てきた気がしますね。 稗田流に関して
綾部人麿、それが柿本家に養子入りした人麿の元々の名前
綾部家は元々渡来系の部民で、古くは漢部と呼ばれていた。
元々は飛鳥の檜前に勢力のあった東漢氏の部民で綾織を生業としていた。
一方柿本家は和邇氏の系統として血筋もよく、本体は天理市の櫟本に住んでいたが、一部が桜井市の初瀬に住んでいた
後者の方の柿本家に綾部家が仕えていた
皇極女帝:宝姫(息長家出身)が田村王:舒明大君と再婚する前、前夫である石川臣武蔵との間に子供を設けていた
それが大海人皇子。舒明大君との間の子が、葛城皇子。後の中大兄皇子。
大海人皇子は再婚に際して、漢皇子と名を変えていた。
蘇我馬子は実は政変で殺されてはいなく、病死だった。本名は分家筋の北陸蘇我家にもきちんと残されており石川臣麻古
そして政変で亡くなったのが豊浦に住んでいた息子の石川雄正(蘇我蝦夷)
襲撃したのは中大兄皇子と中臣ミケコ
蘇我本家の当主が無くなった事で、石川臣武蔵には抵抗するすべがなかった。
漢皇子は海部家の血を引いていたので一時そこで育てられたので大海人と呼ばれるようになった
その際に海部家で乳母をやってたのが、人麿の祖母。そして娘が人麿の母親である、綾娘子だった。
人麿には大海人皇子の落とし子説があるが、実際に稗田流の話を知っている人にはそのままが伝わっている様である。
乳母の仕事を失職した人麿の祖母は、柿本家から紹介され、石見の戸田に移住する事になった。
戸田には柿本家の親戚である小野家があり、実は小野家の方に天野鈿女の子孫を称する稗田の語り部がいた。
柿本家の手配で、小野家から稗田流の語り部の継承が決められ、綾娘子がその仕事を担当する事になった。
稗田阿礼とは、便宜上、人麿の母親の事なのだろう。
それが女性とも男性ともとれる曖昧なイメージに繋がったと思われる。
人麿は利発な子で、母親の仕事を空で覚えてしまい、(落とし子という事が分かっていた)海部家から宮仕えの仕事を誘うのに直接出向いていったそうだ。
綾部家のままでは身分が低かったので、奈良入りする際に、柿本家の養子に入り、柿本人麻呂になった。
古事記の方は、柿本人麻呂が書いている。 万葉集3312と、3310読み人知らずは、人麿が母親の立場になって、中大兄皇子と、綾娘子の逢瀬を書いたモノという話がある。 >>408
>人が納得する根拠を提示できなければ、認めてもらえない。
君がどう考えようとも、別に延喜式が世の中で認められてないわけではないし、すでに既出の物の確認ぐらい自分でしたらって程度の話
明らかに低い自分のレベルを他人に寄りかかって誤魔化すなんて、なんて図々しい考え方してるんだかww 因みに、人麿が当初、高天原候補としていたのは、三諸山だった。(万葉集3327)
その後金剛山になり、最終的に物部か、上毛野が文句を言ったのだろう、九州になった
海部の代わりに呼ばれた安曇は当然文句を言う側だったはずだが、抗しきれなかった様だね
三諸とは神々の住む森、という意味があるらしいね
現在でも、その意味は、陰陽の土御門史跡の看板に出てる 九州ヒミコの東征(物部と宇佐の連合)に関しての伝承を持っているのは
出雲の東西王家(郷戸家、富家)
和歌山の物部五瀬の子孫、名草姫の子孫のオコベ神社の社家、小野田家
出石の神床家、出雲の物部トオチネの子孫、秋上氏他多数
和歌山の2家は、最初の物部東征の伝承を持ってる。
魏書の東征は二度目の東征だった。
日向神話の五瀬は、物部氏。小野田家には、実際に奈良入りしたのは4男と伝わっている
4男は隠されているが、彼がウマシマデだったらしい 富家に関しては、普通に島根の教育委員会でも「富家文書」って本を纏めているからオフィシャルな存在だよ。
因みに、物部トオチネの子孫の秋上氏関連も、「秋上文書」ってのが出版されてるからオフィシャル
つーか、カモス神社の社家を今でもやってる
トオチネの子孫が何故秋上氏を名乗っているかというと、邪馬台国事件の際に、東征軍の本体として、卑弥呼と垂仁の軍と行動を共にしているから。
その後、瀬戸内海での戦闘が終わった後に出雲の攻撃を始めている。
その際に「安芸の国」から進軍してきたから秋上氏となった。
トオチネは物部守屋の直系の先祖。 昭和40年代までは圧迫が相当酷かったようだから、とても現在の皇室観から外れたことを言うのは今でも気を遣う事なんだろうね。
郷戸家は背局的に情報を発信していないし、出石の元社家、神床家も基本は出してない。
出石神社の文書も基本は中世以降
継体帝を出した北陸蘇我家は現在でも存続しているけど単独ではまだ情報出してない
時系列が整うだけで、現在の主流からは外れるからね。
ルパング島から帰国した小野田さんも、なかひらまいさん以外の取材は基本は受け付けてない。
郷戸家の方は、大山の神社の社家をやってるけど、今も名字を変えたまま。
富神社の社家は断絶。現在は花田家から女系のお姉さんの春日家の管轄になってるけど
その管理してる神社に行っても何も教えてもらえなかったよ >>420
あなた、意味なくして漢字なしだよ。
これ中華帝国4000年の、かけがえのない歴史文化・・。 >>427
根拠の意味が分からない人のようだね。
・原典を引用して、それについての解釈を披露する
・原典を引用せず、解釈のみを披露する
君のやってるのは後者なので、(真実の部分もあるかもしれないが)、ファンタジーとしか受け止めようがない。
言い方が悪いが、詐欺師の話を素直に全て真に受ける人がいたら、その人はヤバいよね?
まずは話が本当かどうか疑ってみる。
その上で、話の根拠がしっかりしていたら信用する。
話の根拠が無ければ信用せず話半分にしか聞かない。
それと同じ。
例えば、延喜式に書かれた高天原が実際にどの場所なのか、延喜式に明記されてるのかい? 福岡のすごくローカルな物語を九州レベルの物語、次は列島レベルの物語として適用したりとか、あるいは別の地方のローカルな物語として転用したりとかあるんだろうな
時間をかけて勢力を拡大していけば似たようなことの繰り返しだろうしね 似たような地名が各地に広がってるし、まあ考古学成果から考えると九州からの東征の結果だよね。 >>425
稗田流にそう書いてあるのか、
稗田流を個人的に解釈してそう思っているのか。
記紀の内容とずいぶん違うけど、裏は取ったの?
人から見たらとても信用しがたいよね。
柿本人麻呂まで出てきてるけど。そもそも語り部が、なんで突然書くの?
紀元前からの硯や木簡は6世紀が最古だけど出土して文字は使われていたことがほぼ確定だけど、その辺りとの整合性は?
>>428
君の頭の中ではそうなってるのかもしれないが、
万葉集3327からどこをどうすれば高天原の場所がわかるのか?
そのカキコからは君が信用ならない、という感想しか出ないよ。
>>429
>九州ヒミコの東征、と当たり前のように連呼してるけど、
「卑弥呼が東征した」って書かれているのか、
それとも「○○が出征」という記事を勝手にヒミコと解釈しているのか。
伝承となると全てを精査できるわけじゃないから、君がなにを根拠に言ってるのかわからなくて、全く信用ならない。
>>430
>トオチネの子孫が何故秋上氏を名乗っているかというと、邪馬台国事件の際に、東征軍の本体として、卑弥呼と垂仁の軍と行動を共にしているから。
この一文にしても、「何故〜かというと」、を受けた説明部分が、
「邪馬台国事件の際に、東征軍の本体として、卑弥呼と垂仁の軍と行動を共にしているから」
と、さらに根拠不明の一文なんだから、君の信用度はますます落ちていく。
>>431
>昭和40年代までは圧迫が相当酷かったようだから、〜今でも気を遣う事なんだろうね。
それならば、記紀と違うように解釈するんじゃなくて、記紀と整合性を取りながら解釈するべきじゃないの?
(漢皇子は大海人皇子ではなく、あくまでも漢皇子と解釈するとかさ)
>その管理してる神社に行っても何も教えてもらえなかったよ
それが社会から君への評価なんだと思った。 >>433
話の半分でも聞いてあげられるあなたは偉いよ、いい人だ
私なんかパッと見てまともじゃないと思ったらすぐスルーする >>433
延喜式には、口伝を有する地域と、家の数が書かれている
おそらく、それなりきの立場の一族の管理下に置かれていたのだろう。
表に出ている語り部とはそう言ったもので、常に血筋よりは能力が優先されたらしい
実際に中臣家の口伝の資格者は中津身と言ったが、藤原氏が継承したりもしている
なぜ口伝が必要であったか?それを考える事からあなたは始めたら?
文字の前に言葉があり
文字列の書かれた物理的な本の前に記憶がある
あなたの言う、原典という考え方からして頭がおかしい
自分の脳内の都合の原典であり、原典とは何かを考えたこともない人の言い方だ
記紀は原典ではない
元になったメモ書きの塊である帝記や先代旧事も原典ではない
そして、稗田阿礼という語り部の話をまとめたと最初に出てるだろ?
記紀はの語り部は良い語り部で、他の語り部はおかしいのか?w
記紀に対比するのは口伝だよ。
まだそんなこともわからないの?ちゃんと稗田阿礼のところ、普通に素直に読んだの?あなた大丈夫?
記紀の成立以前の古いものは全て記憶が主体じゃないの?リアルタイムに大陸の様に文字で書いてあったと言うのならまずそれを自分が証明してから基本の考え方はこれだよと指し示すべき
実際にはそんな過程で記紀はできていない >>435
〉まあ考古学成果から考えると九州からの東征の結果だよ
その通り。三角縁神獣鏡ではない鏡の破鏡は東征している分布になっているし、鍛治を伴う当時最新の製鉄法も東征している
丹後邪馬台国説も、景初以降に鉄の産出量ご日本一になってる時系列を根拠の一部としている
九州説の人の中には何故か口伝に触れずに統制が2回あったと言う話に到達している人がいる
どんな情報に触れたか知らないが、スレッドの過去の書き込みで見た >>436
〉それが社会から君への評価なんだと思った。、ご心配には及ばず
ゲンテンガーなんて言ってる割に自分も原典が無いんだからセルフブーメランで自己紹介しているだけの人に言われてもw >>421
太国さん、契丹文書(契丹古伝)知ってるの?
博識ですな。私は最近知りましたよ。
とんでもないスケールの話ですが宇佐の豊国の文字について言及している面白い内容なんですね
流石に豊国文字が中国の漢字の元になったと言うのは盛り過ぎと思いますが >>439
すごいね。
原典・一次資料・引用元、
表現はなんでもいいけど、そういうものの提示が一切できないのだね。
証拠となるものを一切出さずにその長文を書けるというのは、逆の意味ですごいよ。
君はどんどん自分の信用を落としていって、もうゼロ、だね。
こちらの印章としては、他の人の考え、あるいはどこかのブログの話を丸呑みにして転載してるだけなのかな。
卑弥呼の東征、の根拠としている一節だけでも提示してほしかったけど。
古事記の序文の一節。
>是以今、或一句之中交用音訓、或一事之內、全以訓錄
古事記を編纂するにあたって、ある時は一句の中に音読みと訓読みを両方使い、またある時は一句の中を全て訓読みだけで記録します。
>亦、於姓日下謂玖沙訶、於名帶字謂多羅斯、如此之類隨本不改
姓の日下はくさか、名の帶はたらし、と読む。これに類する場合は本来の読みに従い、改めない。
訓読み、が存在している。
しかも本来の読み、つまり以前からの訓読み、が存在している。
だから元々文字があったけれども、一旦稗田阿礼の頭の中に入れてから、
稗田阿礼の頭の中で整理させてから、再度文字に記録した。
と読める。
帝紀・旧辞の内容のうち、
「稗田阿礼」が間違っていると思う部分は訂正するし、
「稗田阿礼」が矛盾していると思う部分は削除するよ、
という意味であり、
つまりは、天皇の年齢などを若干いじるけれども、全責任は稗田阿礼にある、
と断っているとも思われる。 >>443
〉原典・一次資料・引用元、
表現はなんでもいいけど、そういうものの提示が一切できないのだね。
証拠となるものを一切出さずにその長文を書けるというのは、逆の意味ですごいよ。
君はどんどん自分の信用を落としていって、もうゼロ、だね。
じゃあその言い分だと文字の無い頃の話が全てホラになるんだから、あなたもお呼びではなくなるよな?w
万葉かなだったっけ?
古事記はあまりちゃんとした漢文でなかったから採用されず結局日本書紀になった
太安万侶とほぼ同時に作業している
安麻呂も人麿と同じ運命を辿り、地方に流される
妻の実家だかの名をとり山辺赤人と名を変えてから帰京が許されたが、赤人の名の時に出雲国庁の六所神社で向家に会っている
人麿が亡くなる前に書き溜めた和歌を引き取ったらしい
和歌をよく知ってる人は古事記の書き方から柿本人麻呂に辿り着く人が居るらしい
私は学がないのでその辺はからっきしだが 一度目の東征で名草軍と五瀬はぶつかり、実は五瀬親族は、墓守のために少数が残った
それが竈山神社だったかな
本家筋の五瀬はその後、分家に近いウマシマジの子孫に嫌がらせを受け、母型の苗字に変更
氏子のフリをしているが社宝の所有は現在でも同じ家が管轄している >>444
なるほど。話が噛み合ってないね。
君の書き込みの内容は非常に思わせぶりだったので、なにかすごい資料があるのかと期待して突っ込んでみたのだが、
根拠は何も無い、単なる曲解で作られたファンタジーだ、という結論が得られてすっきしりたよ。 >>442
この文書に関しては、名ばかりで中身までは知らんですよ。w
これに関してはそれがし博学ではないです。
著者は浜名という日本人で、女王国半島説を唱えたようです。
4〜8年位前か、2チャンでコングという男が女王国馬韓説を強行に主張
していてコチラが反論を毎回繰り替えしてたんです。奴は満州人で地元
に近いことで飛びついちゃったわけです。阿電波も阿波の地元で同じく
盲象阿波説に抜けなくなったのと同様です。
ムー誌の5月号に同書の記事があるようです。
コングは逃走中で強酸主義者兼キリスト教信者で、あいつの脳内はいかれポンチ
です。昨今奴の書きこみは0です。
故吾郷清彦先生から神代文字の著書を以前頂いたんですが、
引っ越し時段ボールの奥に入りこんでどこだか取り出せないので、
あれ以来読むことが出来てないので、同文字についてここで書きこみ
はあまりできません。 連休中、吉野ヶ里遺跡の謎のエリアの特別説明会が行われます。
謎のエリアは、邪馬台国時代直前の2世紀 面土国(メタ国、米多国)の王 師升の墓か?
https://www.pref.saga.lg.jp/kiji00385501/index.html
https://www.pref.saga.lg.jp/kiji00385513/3_85513_up_kkv4qoaw.pdf
この謎のエリアの巨大墳墓の後に登場したのが、
対馬国、邪馬台国、邪馬国、斯馬国、投馬国などなど、「馬」のつく国。
つまり帯方郡と馬韓族の侵攻により発生した倭国の大乱を経てできた「共立女王」の支配による新しい時代。 韓の王=辰王
辰王が囚われているのは月支國
治めるのは辰韓
倭の王=卑弥呼
卑弥呼が都とする所は伊都國
直接治めるのは邪馬台国
間接的に治めるのは半島南部投馬國
倭の検察官=大率
大率が普段勤める場所は伊都國
刺史の如く治めるのは末蘆國〜対馬海峡〜投馬國〜馬韓(魏率善=大率に与えられた魏の役職名) 末盧国東南500里の伊都国は佐賀大和町、
その又東南100里の奴国は現在の佐賀市街地、
伊都国から東行して100里の不彌国が、5月から発掘開始される吉野ヶ里や米多郷(面土国)一帯。
だから、国つ神を祀っていた日吉神社跡(謎のエリア)の発掘では、後漢皇帝からもらった金銀財宝が出そうな予感。 >>452
>末盧国東南500里の伊都国は佐賀大和町
なんで?根拠は? @阿波 >>453
根拠は、倭人伝に記述された方角と里数。・・何か異論でもおありなのでしょうね?、 >>454
>倭人伝に記述された方角と里数
その伊都国に見合う集落遺跡は?? @阿波 >>455
町史によれば、大和町には、明治のころまで数千基の墳墓が見られたという。
其の後墳墓は、開墾されて蜜柑山などになってしまい、それらが語り伝えてきた古代史も見失われて現在に至っているそうな。
もしそれらが遺跡として存在し、学術的な評価を受けていたなら、邪馬台国論争は、とうの昔に解決を見ていたことであろう。
というような次第で、未発掘で遺跡として登録されていない地下の遺跡がわんさと眠っている。
そのベールが、今、ゆっくりとはがされつつあるわけだ。。 >>185
なるほど。
伊都説だと、三雲南小路王墓から柏崎遺跡が笠沙の岬となり、
唐津が吾田=阿多であるから、その勢力が山を越えて佐賀市側に入って、
阿邪訶(ア・ザカ)だったのだな。
例の甕棺墓女性の時代だな。
>>298
70年に奴国王が失脚して、
伊邪國の奴国王系水軍(比良夫貝)と吉野ヶ里が対峙していたから、
阿邪訶(ア・ザカ)の海、つまり有明海で比良夫貝水軍に襲われたわけだ。
当時は佐賀平野が無く、甕棺墓の分布のように山地にへばりつくように、
干潟に面した坂だけの土地だった。
そこをある程度開発した勢力が王となり、
邪馬嘉(ザマガ)國として、独自外交で虺龍紋鏡を入手した。
収入源は、同じ肥国である肥後の木材。トンカラリンだな。
山を越えたら対馬海峡だし、弥生倭国なら交易の好立地ではある。
だが、邪馬嘉國は倭国乱で荒廃もしくは滅亡し、
狗奴国もまた筑後→邪馬嘉→末蘆→対馬海峡と占領して金銀鉄鏡を入手した。
後の川上タケルが川上を名乗っているということは、佐賀にゆかりのある奴族だった可能性があり、
これが阿邪訶時代からのゆかりであれば、例の甕棺墓女性と奴国王との間の子孫である可能性も出てくる。
卑彌呼と卑彌弓呼の名が似ているのも、その辺りの先祖が共通しているのかもしれんな。
阿邪訶(アザカ)→邪馬嘉(ザマカ)→佐嘉(栄サカ)→佐賀
ということかな。
吉野ヶ里発掘、大いに楽しみだな。 >>458
で、その大和町の伊都国に見合う集落遺跡は?? @阿波 >>457
そういうことだ、
「ここは三世紀の集落遺跡」というような看板が建てられており、復元住居の2つ、3つもあれば、
もしかしてここは伊都国?、それとも奴国?、いや不彌国?、と一度は思うものさ。
しかし地下に埋まったままで、看板も何もなければ、大多数の人は「なーもなか・・」と判断する。
普通の人間はそうだ。
しかしその地下に埋もれたままの見えざる集落/官衙/宮殿を心で読み取るのは、倭人伝をいかに読みこなすかだ。特に方角と里数をだな・・。
、 >>461
>特に方角と里数をだな・・。
だから、みんなの夢が膨らんで、全国で紛糾するわけだww @阿波 神功皇后の三韓平定、白村江の戦いにしても太古の昔から壱岐呼子航路があるわけで呼子から上陸すると東南に向かい、東に行けば糸島。
伊都國は糸島市か
平原遺跡は奴国か?
伊万里は太古の昔から黒曜石を沖縄や朝鮮半島へ輸出していた。
交通の要所 肥前国府があった佐賀大和、武雄嬉野の発掘調査もしてほしい。
吉野ヶ里の北側楽しみだな。 高天原から来たとされるタテミカヅチ
タテカシマとも言われる神であるが、実はヤマトの賀茂氏になる前の鴨氏の出身
出雲ヤマトにおける分家の磯城登美家の建飯勝が千家のサマナ姫を娶って生まれた二代目党首が、タテミカヅチ。
その妹にヌナゾコ姫
つまり、磯城津彦とも、玉手看とも安寧とも言われる人物の母親
藤原氏や多臣家から見たら母系の先祖に当たるのがタテミカヅチ。
そんなのが高天原から来るって話なら、大忙しだなw
奈良から出雲族が急に呼ばれて天降りした事にされるんだからな
芦原の瑞穂の国は後に日本を示す代名詞になったが、瑞穂の地名は元は人麿の少年時代に過ごした石見国の実家の近くの地名だった
延喜式の本来の高天原の地名なんてカラクリはそんなもの
人が作った物語だぜ?なーにが神様が降りてきただよw 建飯勝も、ミカヅチも先代旧事本紀に出てくる。
先代旧事本紀は、千家が向家と神門家の許しを経て出雲臣家を、名乗る様になってから成立していることが分かる。
そして、本来の宗像の祖であるアタカタスが意図的に挿入され、彼だけ奥さんが書かれていないと言う不自然な表記になっている。
富家も、出雲臣家(千家)も、賀茂氏の祖である磯城登家も普通に出ているのが先代旧事本紀
藤原氏は単に国譲りの物語上の功績を自分の家に手繰り寄せたかったから、その場にいなかった国譲りの事件の場にタテミカヅチを書いた
いつしか藤原氏がタテミカヅチを乗っ取ったと言われる様になっていったのはもしかしたら記紀の記述が原因かもしれないが、普通に女系の先祖筋を登場させただけとも言える 伊都説に原典が存在するなどという話は一切きかないなw >>446
〉根拠は何も無い、単なる曲解で作られたファンタジーだ、という結論が得られてすっきしりたよ。
それは良かったよ
高天原がファンタジーだと気づくなんて偉いじゃないかwよく出来ましたw 佐賀の大和町って昔からのあ名前なのだろうか?
だとしたら天御影、つまり大和宿禰のゆかりの地なら単なる海部の拠点としか思えないな
安曇は、豊玉彦が絡んでくるのなら、豊国の宇佐の男系の家に海部が女系に入ったとしか思えない
いずれにせよ吉野ヶ里より昔からの王家など阿波@並みのホラにしか見えないね 神門(こうど)家も、神門臣家として先代旧事本紀に出てくるが、本来は臣家ではない
出雲との婚姻を示す臣の姓は、出す側が名乗る名前ではない
故に宗像家も臣にはならない
神門臣家と最初に書いたのは、破却された出雲風土記を内容を変えて千家が作り直して向家に提出した私設出雲風土記が初出
つまり先代旧事本紀は記紀の影響を少なからず受けている 記紀や先代旧事本紀に出ている旧家の話を聞かないのなら、安曇マンセーの伊都チョンは、現在の旧姓安曇宮司の話もホラだという立場なんだろうな?当然ww
原典など存在しないぞ?w >>447
アンデスの銅板が豊国か、出雲文字で解読できたなんて話もありますしね
YouTube面白いですね。 >>462
そういうことだ、
IQ200者の読みとIQ20者の読みでは、結果はまるきり違う。ま、阿波はIQ800くらいらしいが・・・、 >>473だが突っ込まれないうちに直しとくわ
タケミカヅチな >>473
書いてて確かにと思う
タテミナカタと親戚ならまあ、タテがもしかしたら本式かも知れない。 >>477
魏志倭人伝には安曇は登場しない
ハイ原典ナシ >>479
なんで安曇にすりかわってるのだ?やはりお前はアホだな。 >>480
イヤイヤ、伊都説には安曇を意味不明に絡めてくるアホが居るんだよ >>482
そうなんだよ
伊都チョン呼ばれている奴の、さらに安曇マンセーのスレッドがここなんだよ
テンプレ見れば分かるでしょ 【日本で唯一、阿波にだけで祀られている記紀の神々】
阿波國名方郡「多祁御奈刀弥神社」 御祭神 建御名方命
阿波國阿波郡「事代主神社」 御祭神 事代主命
阿波國阿波郡「建布都神社」 御祭神 武甕槌神
建御名方神の御母は「阿波の高志の沼河比売」
多祁御奈刀弥神社の西、名西郡石井町関は古は名西郡高志郷と呼ばれ、
ここには沼河比売を祀る「関の大神宮」がありました。
倭名抄にも高志(多加之)郷の記載があります。
通説では高志(こし)と読ませ、越後(新潟県)に比定していますがこれは誤りなんですね。
(確認しにくいですが扁額に注目。天水沼間比古、天水塞比売の神名が記載されています) @阿波 倭奴国が伊都国であるって説は、日本語の漢字読みからの連想に過ぎず、古代中国語発音を全く無視していて成り立たない奇説。
古代中国語発音(Middle Chinese他)
倭:ワまたはヲ
https://en.wiktionary.org/wiki/%E5%80%AD
奴:ナまたはヌ
https://en.wiktionary.org/wiki/%E5%A5%B4
伊:イ
https://en.wiktionary.org/wiki/%E4%BC%8A
都:トゥォまたはトゥ、ト
https://en.wiktionary.org/wiki/%E9%83%BD
つまり倭奴はワナ、ヲヌと発音され、
伊都はイトゥォ、イト。全く違う発音になる。
奴をトまたはドと発音するのは漢字文化圏の国で日本だけ。奴婢のヌと言う発音だけが他国でも一般的な漢字音。 「東遷」という造語に騙されてはいけない。
広大な沃野・筑紫を捨てて、未開の近畿に全てを賭けて移動などするわけがない。
生産手段、特に水田地帯こそ王者の証であり、どの氏族も本拠から氏族の未来を
賭けた先遣隊の移動を行ったに過ぎない。
世界史的にも遷都の歴史はあるが、殆どは存亡の危機に瀕したときであり、それ
以外で大生産地を捨てて未開の湿地帯に全部持って移動するなどあり得ない。
そんなことが出来るのはモンゴル人ぐらいである。
そうやって、何度も繰り返し部隊が派遣され、最終的に衰退するまではそのまま
対外的な意味での中心は残ったと考えるのが言わば当たり前の歴史的常識で
ある。日本の古代史学者に常識はないんだよw >>486
えー、長野の方言なのかなぁ?
普通に検索してもヒットするけど。
それと謎の出雲帝国(前口伝の伝承者が出てくる)にも、普通にタテが出てくるけど?
もしかしたら出雲の方言なのかなぁ・・・
出雲伝承本でも今確認したけどタテになってるね。
うーむ。 >>489
捨てるつもりはなかったのよ
ヤマトも一緒に征服したかっただけ
ただ、性格が悪くてね、誰もついてこなかった・
一度目の失敗で懲りればよかったのに、次は太陽の卑弥呼に対抗して月の卑弥呼が居れば何とかなるって二回目ワンチャン狙ったけど
自分たちの性格が悪かったという点には思いつかなかったらしい
九州男児ドンマイだね >>489
分かってないなぁ
最初から遷都するつもりだったわけじゃないんだよ
東へ版図を広げてさらに東海、関東を狙うようになった頃に
遠く離れた九州からでは司令が行き届かないから
それまで前線基地に過ぎなかった畿内に遷ったんだよ 何故日本書紀を作ったのか?
を考えれば邪馬台国と日本が全くの別物ということがわかると思うんだが >>492
ヤマトのホアカリ、九州のニギハヤヒ
これが同一人物だったから、邪魔な親戚が居なくなれば日本統一
昔は氏素性と想像区が全てだったから近い親戚程争った
一応、村雲(海部、尾張、出雲の政権)には、物部の姫が入ってるから、形上は九州が一度下に入ってる。
これはニギハヤヒが国譲り事件(八千鉾と、八重波津身死亡)を引き起こして出雲を怒らせたから ちなみにニニギは旧家の複数の伝承では登場しない
二度にわたる物部の東征の際に便宜上登場させた様な使われ方をしている >>490
見苦しいぞ
ほんま恥ずかしいやつよのお >>492
>それまで前線基地に過ぎなかった畿内に遷ったんだよ
分かってないなぁ
いくら遅れた九州土民でも、最低最悪の畿内湿地にわざわざ行くアホはおらんよ。 @阿波 >>498
だよな。西部の幌馬車じゃないんだから、何百年も耕した土地を捨てるわけがない。
水田というのは年数が経つほど自力で肥沃になっていく特別な耕作地なんだよね。
冶金工房なども放棄するわけない。土器は相当流通が進んでいたようだが、そもそも
人口はどうしようもない。
古地名といればナラぐらいの畿内には縄文以来何もなかった、そんなところに巨大な
船団仕立てて移動するとか、妄想もいい加減にしろよってね。。 >>492
>それまで前線基地に過ぎなかった畿内に遷ったんだよ
普通に考えれば、なんでわざわざ・・、となるが、中央構造線沿いの熊本〜阿蘇は巨大地震・巨大噴火・巨大津波の名所。
一連の地殻変動で、十数万年後にはここを境に九州島が南北に引き裂かれ、海水が入ってくる・・、
2世紀の頃にも、巨大地震と巨大津波が襲ったわけだが、それは高千穂神話にも語り継がれているとおりだ。
さすがの邪馬台国勢力も、巨大災害には勝てず、東の奈良へ新天地を求めざるを得なかったのだろう・・、
(なお隋書にもある通り、その後も阿蘇山の噴火は収まらず、阿蘇神社さえも焼け落ちたというほど恐ろしいのだ。) 2世紀にんな大災害があったら倭人伝に書かれるだろボケ 魏志倭人伝の通りなら、政情が不安定になったのだろう。
要するに内乱だ。
日向三代のうち、第二代も兄弟争っているからね。
第四代で何があったのかは記紀に明記されていないのがポイントで、おそらく別の王統が台頭したり、余所者に王都を取られたのだろう。
そうでなければ王都である筑紫を出るということにはならないはず。
そうそう、神武は東遷ではなく、東征だから。
あくまでも記紀は、筑紫を都とする倭国が畿内を征服して領土を拡大したという立前なんだよ。 >>502
2世紀はまだ後漢の時代、魏志の範囲外だった。
それにそんな不景気なこと書けば、なんで倭女王なの?、と問い詰められる、陳寿さまは書かねえよ 伊都説と安曇は本来は関係ない。
伊都が筑紫の日向、倭国の神代の王都、魏志倭人伝でも王都だよねということ。
しかし伊都の王家に妃を出していた豊国王家の本拠地が安曇の本拠地である志賀島だし、そこから金印が出たことになっていることからも、安曇とは何者かという疑問はある。
しかし魏志倭人伝に安曇は登場せず、記紀での扱いも大きくはない。
魏志倭人伝を正しく読む立場からは、おそらく卑弥呼の時代にはまだ安曇は氏族として成立していなかったのではないかとしか言えない。 >>506
中国の歴史書だからね
そんな列島特有のおっかない天変地異話は誰も信用しないから書かないんじゃないの
だけど、巨大地震を経験してる日本の高千穂神話には、スサノヲが犯人かもとか書かれてるんだし・・、 >>497
いえ、流石に朝は書きませんよ
ちゃんと確認しました
なんで出雲の旧家がタテを、使うのかは分かりません出したが >>508
✖朝
◯嘘
部はタケ
建はタテ
って単に区別してるだけかも知れませんが >>505
金印は魏になって役割が終わったから必要無くなった訳で
たまたま神社が近くにあったと言うだけで騒いでるだけの気がする >>499
戦いも描かれてるので随分とバイオレンスな婿入りだな >>508
>>509
出雲の旧家?
使わねえよ!!
もういいからw 教えてください
>>501とか>>508の意味不明な書き込みって1人の人間の所業なのですか? >>515
508ですが、501は私ではありません >>514
あのね、宇佐もそうだけどそれだけじゃないからね?本とか出してるの
富家は島根教育委員会も本を出してるから、無知レベルの話だからね?
流石に大人になりましょうね?w もう、他人称で他の資料なんて口伝しかないでしょうに
思い込み(原典ナシ)が議論の中心とはねえ
正しく読むとかいってる割に解釈の話しかしてない訳だし?w >>517
タテと読む信頼できるソースだしなさいよ
お前さんの脳内以外でねw >>518
慣例的な読み方も知らない人の説に信憑性ないから…
おそらく「たてみなかた」で変換出来なかったからカタカナで「タテミナカタ」と書き込んでるんだろう ちなみに「タケ」は猛々しいの意
ヤマトタケルの「タケ」と同じね 漢字の建にタケル(長けるとか猛るとか)って意味ないし、古訓でも
ないのが興味深いね。 >>520
お前なぁ、慈悲の心で柔らかく言ってるうちに気づけや
どこの世界に自分のところの先祖の名前を間違える奴が居るんだよ
そんな程度のことまでお前は思い込みなのか?
ホント、クソだなw
お前の先祖の名前がそんな曖昧なインチキ臭いものなら先にそう言え
自分のところと同じだと思ったましたって言えやww >>521
タテミナカタが武神の性格を帯びたのは後年のこと
先祖の名前の呼び方とは無関係
なーにが因みにだよw
人様の家の先祖の名前に想像で手を突っ込むのか?随分エラいんだなw >>525
ホラ吹くにしてももう少しマシなことが言えんのか? >>524
おはようございます
あなたが奥山さんなのですか? >>525
ホントだ、本気でタテミカヅチと思ってたんだねw
恥ずかしいやつ ま、少なくとも吉田大洋の書籍の昭和の頃からタテミナカタだけどね
タケは後年の当て字だろ
発信力だけはあるが受け止める理解力がゼロの伊都チョンw しっかし、相変わらずアレだよな
伊都王家ww
おはようございます伊都チョンw >>500
銅鐸がないからって、泣くなよ伊都チョン >>535
もし嘘ならその吉田某を貶めることにもなるで >>539
なるほど、古い方の本だけど、徳間書店の謎の出雲帝国って本知らないのね
ただの無知じゃん
また思い込みの知ったかだった訳かww >>540
それが本当なら読む価値の無い本だと判断する
本来の読み方がタケ
タテは誤読な 建御名方をタテミナカタと読む神社があるなら教えてください! >>540
シュメール語で記紀を読み解くって本だろw >>541
んだろ?
後出しの伊都チョンの真骨頂だなww
物証があること自体に意味など見出さないくせに人にはそれを強要
まさに人間のクズ、九州説が馬鹿にされる所以
思い込みを後追いで補強する無敵でありながら無益な理論w
それが伊都説w
あの本には先代の伝承者が取材で登場し、鹿島をタテカシマ、ミナカタをタテミナカタとし
現在の伝承者は、ミカヅチは出雲系と言うことをカミングアウトしている
徳間のそれはまだまずいと思ったのか、仄めかす程度になっている。
シュメールの話は彼独自の話で、先代伝承者の事とは本質的に別
どうせ慌ててネットで調べたんだろ?
中身読読んでない事など明らかに分かるわ
どうしてそう言う嘘が平気なんだろうね、伊都チョンは >>535
>ま、少なくとも吉田大洋の書籍の昭和の頃からタテミナカタだけどね
>タケは後年の当て字だろ
ふつうは、
少なくとも記紀の8世紀の頃からタケミナカタだけどね
タテは昭和に吉田某が発案したんだろ
と考えると思うのだが・・ シュメール語なんかもうとっくに無くなってる
それに一子相伝の秘伝なのにぺらぺら喋りすぎw >>547
やっぱり読んでねーだろ
その辺の経緯も全部その本に出てるだろ
な話にならんわその程度じゃ >>540
>>539だが、ネットで調べた限りではトンデモ本と判断せざるをえんかったわ
もっとマシなソースない? >>550
ゲww
めんどくさいんだけどww
御柱の帰りだから帰宅したら本見ながら書こうか >>553
負け犬の遠吠えはいいから早くゴメンなさいしなさい >>552
そりゃそうと、あんたが伊都はんどすか? >>552
方400里や方300里の辺長を里程に加えるとかいうトンデモ説のイトさんですか? 吉野ケ里遺跡「謎のエリア」で発掘開始 考古学ファンらワクワク
(毎日新聞 2022/05/03 20:15)
>弥生時代の大規模な環濠集落跡で知られる国の特別史跡「吉野ケ里遺跡」
>(佐賀県神埼市、吉野ケ里町)で3日、10年ぶりの発掘調査が始まった。
>これまで未発掘で「謎のエリア」と呼ばれてきた場所が対象となる。
>調査期間は2年で、佐賀県は「歴史的な発見が期待できる」としている。
さあ、始まりましたよ。
謎のエリアから、鬼が出るか、邪が出るか。畿内説にとっては地獄の一丁目。 >>555
どう見ても伊都チョンではないでしょww
流石にそれは予想しなかった投げかけです
伊都チョン
・伊都王家
・伊都王家は安曇族
・安曇はヤマトまで支配した
・自作の画像を作り、イソタケル=イトテ=雷大臣=安曇磯良が同一人物としている
・ソースを出せと言う割に自分が一番ソースがなく、仮に出されても頑なに見ない
・他のスレッドにも出現し自説を展開。あろうことか他のスレッドで反論された事をここのテンプレで掲載
・結論を決めて物を言いたいだけの人物で、考えが浅く言葉が軽い。自分で儲けたルールに自分が引っかかるアホ
こんな人と同じ扱いを受けるとはww 倭人伝の云う伊都国(イツコク)は、佐賀大和町川上だよ。
伊岐、伊万里、伊佐早、伊仙、伊良部・・・、つまり東シナ海や玄界灘や有明海を支配した伊族の王都。 佐賀大和町川上に、伊都国(イツコクに見合う集落遺跡がない。 論外! @阿波 まあ、そうアワてるな。
吉野ヶ里の謎のエリアが済んだら、次は大和町川上だ。
つまり吉野ヶ里(不彌国)と川上(伊都国)は対になっている。
これに佐賀市街地(奴国2万戸)を加えると、倭人伝にある通り、三世紀の佐賀平野トライアングルが完成する。、 >>562
「吉野ヶ里遺跡で10年ぶり発掘…未調査の謎のエリア」
いよいよ、吉野ヶ里遺跡の命運が尽きる時が来たな。 合掌! @阿波 阿電波
今日は松沢病院に何時ころ出かけるんか?ppp 「比較論」だからね。
最後の地点から伊都や末蘆を上回る王墓が出土しなければ、いよいよ、余傍国確定となる。 >これに佐賀市街地(奴国2万戸)を加えると、
存在しないものに頼る説は敗北濃厚だな。 そうか、阿波も、吉野ヶ里へ向かって礼拝をする気になったか
見上げるべき信仰心だ! >>567
佐賀説?にとっては、「吉野ヶ里遺跡で10年ぶり発掘…未調査の謎のエリア」 は、やばいぞ。
そのまま、放っておいたほうがいいんじゃないのか? 夢が砕け散るぞ。 わははははは @阿波 >>555
>>559が奥山
>>560が伊都
>>561が阿波
>>564が太国
どれも邪馬台国スレの有象無象だ >>568
その通りかもしれぬ、
阿波の夢が、はかなく砕け散るかもしれぬからな(笑 墓のみなら単なる墓地公園(平原遺跡)
すでに吉野ケ里遺跡は環濠集落
以婢千人自侍 唯有男子一人 給飲食傳辭出入居處
宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衛 伊都国の王都「三雲・井原遺跡」
伊都国大率の母港「潤地頭給遺跡」
伊都国横の斯馬國に硯工房「御床松原遺跡」 「比較論」だからね。
最後の地点から伊都や末蘆を上回る王墓が出土しなければ、いよいよ、余傍国確定となる。 >>575
当たり前の定義。
伊都に平原女王墓がドカンと存在していて、王都遺跡もある。
豪華な末盧國王墓ですら三雲井原大王墓と比較すると忠実な家臣。
それより劣る内容の墓ならさらに末端の余傍国。 >>576
却下だな。
以婢千人自侍 唯有男子一人 給飲食傳辭出入居處
宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衛
まずはこれだな。 >>571
>すでに吉野ケ里遺跡は環濠集落
環濠集落の時点でアウト! 女王国に環濠は不要。 @阿波 >>577
王墓がなければ王がいない。
王がいなければ王都ではない。
見つかるといいね。君の王墓。 >>554
正に負け犬の遠吠えだなw
貴方の人生そのものw >>550
建て御柱見ないで帰ってしましたわw
まず、謎の出雲帝国時点での前提
・先代伝承者は後年に出雲の本来の歴史を書いた本を書いていて、千家による妨害で本の回収と、版権の買取りですべてを消されています。
・謎の出雲帝国出版の時点では、基本、質問があったらそれに答えるという形式になっておりかなり情報が制限されています。
・欠史八代の人物を全て神武と表現しており、7人目の神武が強かった(出雲を攻撃したフトニの事と思われる)何人かは九州で無くなっていると言及
・タケミカヅチは藤原によるデッチアゲの神とし、先代旧事本紀の出雲族である事には言及していない
・八井耳系の藤原氏を朝鮮からの渡来者だと世間に言われているままの事を言っている点が今の伝承本と違っている
・記紀のタブーである物部氏には基本言及を避けている
・スサノオが出雲とは血縁が無く、系図に全く出てこない事は言及している
・ナガスネヒコと大彦が同一人物であることを隠し、クシヒカタの系統の子孫とし、母系と父系を曖昧にして吉田氏に伝えている(欠史八代の中に入る人物だからか?)
・アマテラスは居ない(出雲系の道祖神から天孫が生まれるわけはないわな)
・アマテル神社の祭神はかつては男神であった(ここでも先代旧事本紀には言及せず)
・能見の宿祢が千家の家系に取り込まれ出雲臣系を乗っ取った系図になってる事に言及せず、千家にある程度の恐れを感じさせる内容になっている
・歴史伝承の内容は、島根県教育委員会の富家文書にある様に、文書化するものと、秘して頭の中に居れ、文字にすることによて書き換えられることが無いようにするものとに分かれていた事A
・伝承が優先で、ホヒ家をけん制する為に組織された宝筋13家の中から優秀な人物を養子に入れて血筋よりも能力を優先して受け継いできた事B
・ABが隠されています。
・吉田氏がその後どうなったかは私は知る立場にありますが、ここでは言及しません
・吉田氏の本の切っ掛けは、有名な「復元された古事記」によるもので、富家伝承は彼の奥さんからの伝えで知っただけ
・つまり、富家伝承=シュメールではない 普通は、秘して文字で伝承し、不確実な頭の中で書き換えられることが無いようにするわな。
伝承者が急死したら途絶える。
伝承者が覚え間違ったら書き換えられる。
伝承者が認知症にかかったら書き換えられる。
毎度毎度記憶力のいい子が生まれるとも限らない。
どう考えても文書で伝えられた記紀には勝てない。
比較することすら憚られるレベル。
文字で伝えられた系図などならまだ検討対象にはなる。 つづき
ま、伊都チョンが本の内容なんて知らずに後出しジャンケンで文句を言ってるのが分かるのはそういう理由
さて本題ですが、タテミナカタについてはそのままカタカナで登場します。
ミカヅチに関してはタケミカヅチとして出てきます。
何故か、吉田氏はミカヅチをでっちあげとまとめているのに、富氏は、「タテカシマの事であろう」と言っていい直しをしているのに、吉田氏も訂正も何もしない不自然な内容になっています。
先代伝承者の正雄(少し字を変えています)氏は、その前の、熊野大社社家、富家の分家の熊野家から養子入りした人物で、本家の先々代の饒若さんから伝承を受け継ぎました。
熊野の実家の父親は大分地方裁判所の判事でした。
伊都チョンがドヤ顔で熊野大社は和歌山の大社と同じ系統で出雲臣どうのとか吠えてたので噴飯したのを覚えています。
最終的に正雄氏は、伝承の段階的な公開を決断。亡くなる前は普通に大社町で歴史の講話を行っていました。(継承には10年もかかるそうです)
メディアへの登場としては「シリーズ人間」に登場していますので、どこかに隠れていた人物ではありません。そもそもが出雲大社上官職筆頭の家柄でした
正雄さんは、産経新聞の次局長まで務めた人物で、亡くなる前に、息子さんに真実の出雲の歴史の公開を託しています
そして30数年ぶりに息子さんの書籍化で新たな動きが出たわけです。
徳間の次代の時からのファンにとっては待望の書籍化でしたね。 >伝承が優先で、13家の中から優秀な人物を養子に入れて血筋よりも能力を優先して受け継いできた
それが証明されるかどうかだな。
海部氏系図が国宝に指定されているのは根拠があるのだよ。 >>583
>どう考えても文書で伝えられた記紀には勝てない。
比較することすら憚られるレベル。
哀れな(失笑)
頭の中身を書き換えれるエスパーかね?君はw
口伝の目的まで明らかになってもなお、後出しジャンケンが優先とはw
とりあえず本を読んでから文句を言え
よく気もないし興味もないはずなのに横やりだけはいっちょ前
だから伊都チョンは馬鹿にされるのだw
伊都チョン、奥山、@阿波は、歴史版の段大ほら吹き
まだその現実を受け入れることが出来ないらしいw >>581
やはり下手くそなレスでよく吠えるのおw >>585
>海部氏系図が国宝に指定されているのは根拠があるのだよ。
お前馬鹿じゃんwww
海部の系図と出雲伝承の系図は一致してるよ
お前、日本語も理解できないし、文章も正しく認識できない癖に、思い込みだけは最優先してくるよなwww 頭の中で書き換えるって、マジで意味不明の日本語www
お前の頭の中にはトイレットペーパーでも入ってるのか?ww だいたい、伊都チョンって呼び始めたの俺じゃねぇしwww
何をもって伊都チョンなのか、まだ自分と向き合ってないんだ?www >>585
>海部氏系図が国宝に指定されているのは根拠があるのだよ。
>海部氏系図が国宝に指定されているのは根拠があるのだよ。
>海部氏系図が国宝に指定されているのは根拠があるのだよ。
wwwww
馬鹿すぎwww 文字というのは、いつでも書き換えられるし、だから「注釈」みたいのが海部の系図に出てるのにwww
馬鹿すぎるwww
ホント、異常のレベルだわww
これで精神の平衡が保てる理由が分からない >それが証明されるかどうかだな。
おーおー偉いぞ伊都チョン。よく「ソースは?」「ソースは?」って言わなかったな?www >>593
ここまであんたはずっと、ソースなしで草生やしてるだけだな つうか、何説なのか言ってくれよいい加減に
その説が信用できない、ってよくわかるからさ それと、出雲の国譲り事件が、千家の手引きでホアカリがやったことは徳間本では隠されて意いる
島根のちょっと知ってる人たちはみんな知ってるけどね。
それと、神床家の人への取材は吉田氏本人か、もしくは神床氏が他でも喋る機会があったのか不明だが書籍の中に登場。
更に、秋上氏への取材に成功しており、千家の本来の先祖がコヤネであり、藤原氏にコヤネを差し出したことによって台数が本来120代になる処が、80代になってる点に言及されている。
ま、伊都チョンに都合の悪いものはみんなキチガイ扱いらしいが、本人は今までさんざんキチガイって言われてきてるから、同じレベルだとでも勘違いしてるのだろう >>595
また意味不明な事をwww
説明すると普通なら理解が進むだろ?
何故信用できないって決まってんだ?それ何の日本語?
負け犬語?wwww
願望が前に出過ぎてて笑えるwww 伊都チョンの安曇と伊都王家に関しては、どこの旧家も言及してないし
そもそも国宝の系図を持ってる海部家もそんな下らないことは言ってない。
安曇は親戚だとよだけは言ってるけどねw 頭大丈夫か?
自分は安曇の人とは別人だが。
安曇の人についても、なんともいえんが、
彼は少なくとも色々ソースは出しながら話をすすめている。
だが、あんたのソースはシュメール語で解読したという本だけで、その引用も無い。
少しでも紹介があって、信頼がおけそうなら、調べようと思うかもしれんが、
なーんもないから、なーんとも思わん。 海部の系図が国宝であることが意味があるってなら、当然同じ系図だ言ってる出雲の伝承も意味があることになるよな?
ナイスアシストwww
伊都チョンっには毎回この調子で笑わせてもらってるw >>600
悪いが、ここまで読んで、あんたが何説なのか、さっぱりわからん。
もはや興味もわかないが。
いや、あんたが何説かわかったら、それが間違った説だとわかるから、
ほんのちょっぴり興味があるかな。 海部氏系図にはタテミナカタ、タテミカヅチは出てくるの? >>602
>>603
うんうん。自分も安曇はどうでもいいよ。
で、あんたは何説なの?
相変わらず質問に答えられない人だね。 タテミナカタは海部からすれば母系の先祖なので出てきませんよ?
本来、系図とは一本で書けるものではありません。
タテミナカタも奈良におけるその母系の系図なので、当然出てきたら故おかしな事になります >>605
もうお答えしてますんで、伊都チョンジュニアw 海部の系図が国宝であることが意味があるってなら、当然同じ系図だ言ってる出雲の伝承も意味があることになるよな?
ナイスアシストwww
自分で言った事なんだから、自分で守りましょうね?伊都チョンじゃないんだからwww >>606
訂正
タテミナカタも奈良におけるその母系の系図
タテミカヅチも奈良におけるその母系の系図 クリンチの仕方すら伊都チョンにソックリでワロタwww 同じ系図であるという根拠も無いですね。
というか、あなたには何も無いですね。
>タテミナカタは海部からすれば母系の先祖なので出てきませんよ?
それで国宝と同じ系図と主張するとわ… >安曇の人についても、なんともいえんが、
>彼は少なくとも色々ソースは出しながら話をすすめている。
wwwww、ああそうだな、「自作の画像を張り付けて」をれを根拠として頑張ってるなw >>611
>同じ系図であるという根拠も無いですね
へぇ?やっぱり文字すら読めないんだ?
文字だと正確なんじゃなかったの?wwww
ねぇねぇ。急にどうしちゃったの?www
あの二つの系図と注釈の読み方、まさか分からないの?ねぇねぇwww
先代旧事本紀と同じで、とんでもない事が書いてあるんだけどww >>604
タテミナカタw
恥ずかしすぎるからもうやめときなよ 文字化されているものに根拠要求ってwwww
頭の中身より当てになるんじゃなかったのか?それ呼んでも分からないのなら、もう説明しても無駄じゃんww
馬鹿すぎるwwww >>604
で、富氏とかいう人が「タテミナカタ」って言ってるの、それともインタビューした人だけが勝手にそう呼んでるの? >>614
>タテミナカタw
>恥ずかしすぎるからもうやめときなよ
大丈夫、俺より恥ずかしい君が居るから全く問題に感じないw
煽り耐性が全く身についてないようだな、伊都チョンwww >>616
>富氏とかいう人が
とかいう人ではありません、実在の人物です
きちんと富氏って言いなよ、デコ助
願望が前に出過ぎているぞ?www >>618
>伊都さんじゃないよ
さん?さんと来たか?www
おえおえ、すげーなそれww
さんwwww >>619
じゃあその富さんがたてみかつ、タテミナカタって言ったの? 建御雷や建御名方を祀ってるどこの神社さんも「建」を「タテ」なんて読んでないよ あと富とかいう人の息子さんも何冊か本を出されてるみたいだけど、その人も建御名方を「タテミナカタ」と言ってるのかな? >>621
まず、今見てるのは徳間本だけだけど、先代伝伝承者の吉田氏に教えたという内容で書かれた系図ではタテミナカタになってる
ま、自分の処の先祖だから、間違えるわけはないわな
そもそも、タテミナカタって呼び方、他でもあるぞ?全くない訳じゃない。
ちょっと話は変わるが、その系図、一つおかしな点がある。
大国主の子供に「若フツヌシ」が出てくるんだ。
この人物だけはあり得ない。
徳間本の段階では、大国主が17代まで続いていた事は隠されているから、すんげー子だくさんの大国主の系図になってる
そして今代の継承者の系図には若フツヌシは系図に全く出てこない 海部氏系図と同じ系図だと主張する割に、そのかけらも示せない。
そして話題のタテミカヅチについては、
>タテミカヅチも奈良におけるその母系の系図
これは大型連休に湧いてきた大物ですわ。 >>624
その通り。ルビまで振ってる。
正直、私はどっちでもいいんだけど、馬鹿に食いついてくる奴がいるからこうして時間とって手間かけてるだけの話
どっちでも通じない話じゃないんだけど、直ぐにマウント取りたがるアホが居るんだよね >>627
では、富氏が出雲の支配者の後継者っていう確証はあるのかな? >ま、自分の処の先祖だから、間違えるわけはないわな
口伝で間違えるわけがないという根拠が示されていない。
>ちょっと話は変わるが、その系図、一つおかしな点がある。
>大国主の子供に「若フツヌシ」が出てくるんだ。
>この人物だけはあり得ない。
いきなり主観であり得ないと断定。
こうもタテ続けに吹かされたんじゃ、一般人はとてもとてもついてけませんわな。 >>624
これはあまり言うのもなんだが、大元出版の本は一人で書かれている訳じゃないよ。
ちゃんとした学者さんも居る。 あるとすれば系図とか分かってる?
あと代々の生業とか? >>627
>正直、私はどっちでもいいんだけど、
アホか。
その人の一族が伝えてきた口伝がソースなんだろうが。
そこが信用度の全てであって、そこがどっちでもいいとか言ってる時点で、
お前の説得力ゼロ。 >>630
>ちょっと話は変わるが、その系図、一つおかしな点がある。
>大国主の子供に「若フツヌシ」が出てくるんだ。
>この人物だけはあり得ない。
>いきなり主観であり得ないと断定。
お前アホなのか?何で出雲の系図に物部氏が子供として出てくるんだよww
お前は少なくとも一般人ではない。ただの文盲
文字の前に普通に受けごたえする言語の能力すらない >>631
>ちゃんとした学者さんも居る。
ほう。誰だい? >>636
ちゃんとしてない学者も絡んでるってことけな? >>635
>お前アホなのか?何で出雲の系図に物部氏が子供として出てくるんだよww
はい、個人的バイアスいただきました〜 >>634
こっちの目的は伊都チョンを納得させることではない
だから黙ってればって言われるんだよwww
こっちはその本にそう書いてるから、揃えて書いてるだけ
それなのに、馬鹿みたいに食いついてきたのが原因なのに、後出しジャンケンの方が何でそんなこと言えるのか?ww
正にこの空間転移、印が逆転、責任転嫁が伊都チョンw アホな巨大クジラに皆で銛を打ち込む平和な日本のゴールデンウィークの夜 >>641
>こっちはその本にそう書いてるから、揃えて書いてるだけ
はい、ソースはシュメール語で解読した本とのお返事いただきました〜 >>636
それ以上は言えません。
それと、斉木さんも、日本史の先生です。
もう、正雄さんの代から上官家の職は離れています。
みーんな千家に追い出されたような感じですね。
大社お抱えの宮大工は、もう一つの王家、郷戸家ですが、それも外されちゃっています。
大社の鍵を預かってた、別火家も、今はどうなってるか不明です
何か、今千家の息子さん、大変みたいですね
そのうち、本来の本家、北島家が大社の宮司の任を引き継ぐことになるでしょうね >>643
はい正体が伊都チョンである事の証明頂きました〜 >>643
まずはシュメール語とはというとこに疑問を抱くのがまともな人間だと思うの
楔形文字文字って表音語?だとしたらいつから?元になってる言語は何?
今も残ってるの?
本に書いてあることを鵜呑みにせず、とりあえずその辺から色々調べていくと思うの >>640
公式というか、フツヌシってどんな神様か分からないの?
問題はそこでは? >>647
神話でしかしらんな
確か刀の神様だったような
無知な私に詳しく教えておくれ >>647
あっ、その前に>>648以前の皆さんの質問に答えるのが先ね >>646
流石伊都チョンw
前置きとして、富氏の証言と、吉田氏の纏めたい方向は別って言ってるのにコレ
正にマウント取りたいだけの願望丸出しの嘘つきwww
前置きしたよな?ちゃんとww
読んでからではないとモノを言えるものではないと、それも言ってるよな?
そしてそのやり取りは、文字になってスレッドに残ってるよな?
おまえ、そういう文字をなかったことにして上書きしてるだろwww
だから、口伝の内容の方が書き換えられないように向いてるんだよ
自分が文字の弱点を証明してどうするwww流石伊都チョンww >>650
だから伊都とかとは違うってば
頭悪いの? >>650
国宝の海部氏系図と同じ内容を伝えた口伝、が出版されたなら、
別系統で海部氏系図が裏付けされる証拠として、
国宝あるいはそれに準ずる重要文化財として保護されるはずだよね?
その辺はどうなの? >>648
村雲と同じで、剣の名前を神格化したものだって言われてますね。
フツは、市からくるものです。
国譲り事件にもフツヌシが登場しますよね?
つまり、出雲の子供であるわけが無いんですよ。
おそらくは(自分の妄想)、五十猛の事を「若フツヌシ」って書いてるのかもしれませんが、それでもあの系図に入る筈がありません。
出雲側から大屋姫が五十猛に嫁入りしてますので >>646
まあそうだな
議論というか検証の大前提だと思う >>648
村雲と同じで、剣の名前を神格化したものだって言われてますね。
フツは、市からくるものです。
国譲り事件にもフツヌシが登場しますよね?
つまり、出雲の子供であるわけが無いんですよ。
フツヌシの子供には、出雲側から大屋姫が輿入れしてますが、それでも大国主の子供にはなりません タテミナカタ
タテミカヅチ
海部氏系図には載っていません! >>652
>国宝あるいはそれに準ずる重要文化財として保護されるはずだよね?
良くわかりません。もう少し詳しく書いてください
保護対象とは何ですか?本ですか?系図ですか?
海部の物は丹後国庁に出した、現存する物としては古い物だという事が評価されたものと思ってますが?
まあ、元々海部家は丹後国造家も務めてましたけどね タテミナカタ
タテミカヅチ
が否定する伊都説。
ということは、
伊都説が正しい!
ということだな。 >>657
載るわけないだろ、って書いたよな?w
直ぐにこんな調子じゃ、文字なんて当てにはならんわなw
こんなクソが原典とか抜かしてるとはお笑いだw >>659
質問に質問で返さないでよ。
国宝の海部氏系図と同じ内容を伝えた口伝、が出版されたなら、
別系統で海部氏系図が裏付けされる証拠として、
国宝あるいはそれに準ずる重要文化財として保護されるはずだよね?
その辺はどうなの? お前ら、おもろいオモチャを見つけたくらいに思ってるだろw >>664
@阿波とタイトルマッチしてほしい、と思ってる いや@阿波はそれなりに長いからな。
まずは沖縄説あたりとリーグ戦してからだw 横からですまんが、話題となっている書籍の正確な書籍名、出版社、著者を明記してくれないか?
もう何年もこんな調子で飽き飽きしている。
それと、「〜であることは隠されている」とか「が同一人物なのだが」というのはあくまでも主観的意見だろ?
それともその本にそう書いてあるのか?
書いてあるとしてもそれは著者の主観だろ?
脚色や解釈抜きの口伝とやらの内容はどこで読めるんだ?
そこを明確にしないなら、こんな与太話に付き合ってられんよ。 旧家の伝承だと全てにおいてアマテラスは出てこないと前に言いましたが、まずはその親、イザナミ、イザナギに関して。
あの神様は、一番最初に、カモス神社で祭られた神様で、元々はあの神社は、フツノミツタマを祀る物部の神社になっていました
邪馬台国の東征で物部に占領される前は、あそこが富家の王宮だったそうです。
現在でも、オウバと言われ、王庭が語源です
諸事情あって、出雲での立場が低下した物部氏(秋上氏)が、布津の御魂を移転して、その後に出雲の2柱を祀ったのが現在の加茂氏神社で、用明期にはほぼ今の形式になっていたそうで、古さに格段の違いがあります。
王宮跡の神殿の返却を申し出た秋上氏に対し、向家は返還を固辞。
過去を乗り越えて協力していこうといい、その象徴として千木がいじられていて、特殊になっています。
移転した先の神社は剣神社といい、今でも現存します。
和解の証として、千木が出雲式の縦削ぎ、もう片方が、物部式の横削ぎになっています。
そして、加茂氏神社の千木は、上が物部式の横削ぎ、よく見ると、下側の千木の形式が、出雲の縦削ぎになっていますよ。
物部氏は出雲の大神を名前を変えて王宮跡を守っていくという事を向家に誓いました。
出雲の大神、クナトの大神(大山鎮座・現在でも神戸家子孫が社家)、サビヒメ(三瓶山鎮座)が、イザナミ、イザナギです。
つまり、若フツヌシと同じで、そこからアマテラスが生まれるわけが無いんですよ。
新和と史実は別にして話をしなければいけません。 >>663
意味わかりませんが、国宝指定って、そんな都合よく瞬間的に脊髄反射で指定されるものなのですか?
そんなこと言ったら同じ伝承を持ってる一族は人間国宝ですか?ww
質問の過程そのものが異常とは思い至らないのですか?w >>671
海部氏系図は国宝になったからねえ。
信用度の問題だろうね。 >>633
本の内容見れば、それだけじゃないですよ?
大神氏の太田さんは取材が出来なかった様ですが、秋上氏も、神床氏も取材してきちんと登場してます。
あと粟島在住の安倍氏も出てきますね
籠神社の処にもきちんと取材していますね
つまり、自分の処の伝承だけじゃないですね。
伊都チョンはどうしても自説の願望が強くて、インチキだキチガイだとか言ってますが、そんなこと言ったらおかしな人だらけになっちゃいますよw >>670
太国さんにいい病院を紹介してもらってくださいね! >>666
>いや@阿波はそれなりに長いからな。
伊都チョンは自分のスレ作る前はそりゃあ酷いもので鼻つまみ者の名物爺でしたよ
@阿波は分かっててやってますが、伊都チョンマジウヨクだから笑えるんですよねww しっかし、伊都さんって呼ぶやつ初めて見たわwwwwww
馬鹿すぎの演出で笑ったw >>673
で、その人たちが「タテミナカタ」、「タテミカヅチ」と呼んでるのかな?
問題はそこなんだよ
私が調べた範囲では、全国にあるどこの神社も建御雷や建御名方の「建」を「タテ」なんて読んでない なあなあ、@阿波さんって誰か呼んでやれよww
アリバイ作りも出来ないアホなのか?伊都チョンはw >>679
>私が調べた範囲では
はいソースwwwたまには働け伊都チョンw
それで十分という根拠を示せwww >>681
悪魔の証明だな
あんたがタテミナカタと呼んでる神社を示せばいいだけ
あと、俺は伊都さんじゃないよ
あんな偏屈じゃない 普通に簡単に、こんな書籍もヒットする
「東山の風土と歴史 伊那谷とタテミナカタ、飛騨の山と鉱山、木曽材の歴史、信濃の官馬、野麦峠の道、他 滋賀 岐阜 長野
」
お前の調べた範囲ってのを教えてもらおうか伊都チョン
また完全検索マジックとかでもやっちゃう?ww >>681
ちなみに、あんたのことも奥山さんと呼んで差し上げてるだろが >>683
だから誤読
神社でそう言ってるとこ示してみろよ >>672
>海部氏系図は国宝になったからねえ。
>信用度の問題だろうね。
じゃあ、その同じと言ってる系図も信用度ありますな?
同じ系図なんだから
問題は、その内容を理解してないあなたなのでは?
先代公事本紀の内容とどうリンクするのかここで説明したら?
内容分っててモノ言ってるんだろ?w ま、別に伝承とは無関係に、タテミナカタは一般的に通用して受け取る下地が世の中に出来ているという事
お勉強になって良かったですねw 「俺の調べた範囲では」
「俺の調べた範囲では」
「俺の調べた範囲では」
ぷークスクスww >>687
てえことは、あんたは別スレに出没してるAA荒らしじゃないってことかな? >>691
内容が同じという根拠をあんたが示せないんだから、
内容が同じではないものを、
あんたが同じだと誤認識してるんだろうねえ。ここまでのあんたの書き込みを見てると。 >>694
よくさあ「道路占有許可」って書くアホがいるでしょ
あれと一緒 >>689
一冊の本じゃないという事は前に書いた通り
こんな調子で正しく読むとかいう伊都チョンのスレに参加してたんですか?w >>696
う、ぐ
AAなんて高度な技、使えませんww
出来たらいいなとは思いますがw >>703
>しかもシュメール語で解読。
ハッキリ言おう、富家伝承以外の吉田さんの本内容は全く読んでないし、まとめても居ないw
シュメールで読めるなんて思ってない >>697
うわぁ、またクリンチですか?
さっさと海部の系図の内容、説明したらいいのにw
それでよく同じか違うか、判断できるような顔が出来ますね? >>710
え?タテミナカタもタテミカヅチも出てこない、って説明したじゃん? 富家伝承だと卑弥呼の招待や邪馬台国の場所はどこになるの? >>709
奥山は(奥山さんて言っちゃう?w)畿内説でしょ?
九州説は、アホみたいに記紀に依存して神話と史実を強引に混ぜて平原遺跡とか展開してくよな
更には瀬戸内海の平型銅剣も、鏡より前の銅鐸も自説に不利だからガン無視w
畿内説も同じで、全部自分の処で起きた事にしてる
更には国産の鏡である三角縁神獣鏡が楽浪からも出てるとかもうおかしなことばかり
伊都チョンも奥山も同じレベルのアホ >>714
レス追ってるんですがさっきから何度も出てくる富氏ってなんですか? >>711
海部の系図が国宝に居ていされたことと、海部から見たら母系の系図の人物の話は別でしょ?
ミカヅチなら、先代旧事本紀に、事代主の子孫で出てるじゃん
あなた、ちゃんと文字を読みなさいよwww
全然頭の中に入ってないじゃんwww >>715
腹の中でどう思っていようが一応敬称はつけます、大人ですから >>699
たくさんあるならあるで、代表的な本の書名、筆者、出版社を書けとw
なんども言わせんな >>714
まずは、富家伝承だけじゃないって事は前置きしておきます。
まずは魏書を正しく読んでください。ここには日本語すらまともに読めないアホが湧いている様です。
伊都チョンはガン無視でそのことの議論を全くしませんが、魏書には二人の卑弥呼が登場します。
・独身の弟に世話をされている卑弥呼。
・トヨの母親の卑弥呼
魏書の、宗女とはそのまま血縁を指します。
宗女(そうじょ)は、同宗(一族・血縁・姓)の女性、特に世継ぎとされる女性を指す言葉 です。
ヒボコや、その子孫で出雲を攻撃したタジマノモリの実家の神床家
物部と連合して東征した宇佐家
東征でやられちゃった側の出雲王家(向家と神門家)は少なくとも当事者ですよ >>723
そんな事を言うのはここのスレにしか存在しないw
前々から自作自演を他の人に突っ込まれてもまだ病気が治らないらしい >>682
>あんたがタテミナカタと呼んでる神社を示せばいいだけ
やっぱり伊都チョンじゃん
神社の話じゃなかったよな?そういう読み方があるのかないのか、だよな?
今、神社って言い出してるの、お前だぞ?伊都チョンww
また意味不明のクリンチか?w >>725
伊都じゃないよ
>>473だよ
神社って言ったのは神社での呼称に根拠を求めるのが現時点では一番全うと考えてるからだよ 宇佐家伝承だと、九州ヒミコは朝貢後の戦闘開始6だか、8年で安芸の国で死亡と言ってるね。
亡骸は秋の国の宮島で仮埋葬。
故に、魏書では古墳じゃなくて、塚にちかい、簡便な造りの埋葬だったと書かれている筈。なんか、家の字に似てる。
遺骨の状態で宇佐八幡に帰ってきてるよ。
伊都チョンって、複数の家の話だよ、それを纏めて書いてるよって何度も言ってるのに「トミケガー」とか書くからウザい
日本語が全く通じてない >>726
>神社って言ったのは神社での呼称に根拠を求めるのが現時点では一番全うと考えてるからだよ
だからなに?
そんなあなたの個人の要望を後出しで挿入して何やってんの?アホなの?伊都チョンなの?w >>728
横からですまんが、興奮せずにもうちょいまともな反論しなよ ゆっくりでいいから嫌いが向いたら回答してね
おやすみ~ >>722
誰か他の人物と誤認しているようだが、そんなことをしていると自分がいつの間にかスレの中で孤立無援になるよ。 で、「宗女」に関して皆さんはどう思ってる訳?
スレタイに近い話題だよな?
ヒミコは一人なのか?二人なのか?
古い家系の人たちは、朝貢したほうの卑弥呼は、九州宇佐の姫巫女だよと言ってるよ
ま、倭人伝を正しく読むという話からは逸れるけどね。
そのうち、はっきり言いきる時代が来るでしょう。
諏訪でも、安倍系統の人がまた新しい話をし始めてるしね。
阿部は桓武期に諏訪に入り、大社信仰に関係してる。 >>729
>横からですまんが、興奮せずにもうちょいまともな反論しなよ
神社の話も横からだから私は知りませんし何もする必要がないでしょ
突っ込む順番間違えてないか? >>705
>アクマ君とアクメ君みたいなもんか?w
wwwwその通りかもしれませんよ >>732
>誰か他の人物と誤認しているようだが、そんなことをしていると自分がいつの間にかスレの中で孤立無援になるよ
それは伊都チョンに言ってやれw
誰にも相手にされなくなったから自分でスレッド作ったんだからw >>729
>>735
あなたたちはどっちも横から入ったのですね。
私もです。
それなのに、相手が一人だと思って息巻いている人がいるんですね。
なんとなく分かってきました。 だいたい、伊都チョンって、他のスレッドルールで「出禁」くらような奴だぞ?w
それを伊都さんってwwwww
出オチの伊都さんwww >>739
そうなの?
思ったよりつまらんやつでゲンナリ >>724
安心しろ
お前以上のキチガイはそうそういない
@阿波で互角レベル >>741
>それなのに、相手が一人だと思って息巻いている人がいるんですね。
なんとなく分かってきました。
すみません、単なるあぶり出しです。 自分も昔は伊都と呼ばれていたな。
伊都説だったから間違いではないのだけれど、このスレの伊都説の人とはかなり意見が違うから、いつのまにか自分は呼ばれなくなった。
うれしいような残念なような。
まあ、気に入らない相手を変な語尾をつけて呼ぶような人間にろくな人物はいない。
さん付の方がまだマシ。 >>744
@阿波は自作自演、ひとり芝居なんてやらないよ。
そこまで性悪とは認識されてない
それは過去スレからも明らかにわかる事だ 根拠となる書籍を提示できない書き込みは自粛してもらっていいですか? >>746
>まあ、気に入らない相手を変な語尾をつけて呼ぶような人間にろくな人物はいない。
伊都チョンって私がつけた名前じゃないですよ
ずーっと昔からそういう表現があったんですが、まさか知らなかったんですか?w >>749
知っているけど、それは伊都説が「朝鮮からの渡来説」だと誤解した馬鹿者がそう呼び始めたから。
しかし伊都説そのものは朝鮮半島と何の関係もないから、筋違いもいいところ。 >>748
>根拠となる書籍を提示できない書き込みは自粛してもらっていいですか?
私が奥山であるという書籍もないようですが、大丈夫ですか?w >>751
私はあなたを奥山と呼んだことはないし、過去の書き込みから違うことは明白だと思っています。
相手を間違えていますよ。 だいたい、奥山って、畿内説のテンプレを黙々と貼っているbotもどきのことでしょ。
いつから罵倒する言葉になったのさ。 >>750
>知っているけど、それは伊都説が「朝鮮からの渡来説」だと誤解した馬鹿者がそう呼び始めたから。
ほう?馬鹿者とw
何かの想いがにじみ出過ぎててかえって疑念を招きそうな過激な表現ですな?w
性格やものの言い方が直ぐに変わるわけでもあるまいし >>754
だって、伊都説は邪馬台国よりもっと前から博多湾沿岸が王都だと言っているのだから、どこをどうやったら朝鮮半島からの渡来になるのですかね。
朝鮮半島に変な想いを抱いている人物が曲解しただけでしょ。 >>755
いや別に、全く無関係の私に、馬鹿者と批判した人を紹介する理由など在りませんよね?
何であなたの個人的な印象を私が共有しなければならないのですか?
ホント、不自然な書き方をなさいますね? >>756
じゃあ、偏向した呼称を使わなければいいだけでしょ。
あなたも奥山などと呼ばれていい気はしないでしょ? >>757
>じゃあ、偏向した呼称を使わなければいいだけでしょ。
偏向?偏向とはなんですか?この場合に適切な表現、日本語であるとは全く思えませんが?
それが、伊都説を批判するのは馬鹿者であるという貴方個人の認識を私のしつけた理由ですか?
話の持って行き方としておかしくないですか?
皆が使ってる表現を私が使ったら、偏向なんですか?
更に不自然で疑念が深まりますね 伊都チョンという発言をする、不特定大多数の人たちを見てきましたが、馬鹿者とまでは私は思いませんでしたし
同調する意見も圧倒的に多かったように思えますが?
此処に今いる人たちだけは違うんですね。
それも、自分の考えを、しれっと押し付けるような表現をする人が、偶然にも、都合よく今ここに集まっているという事なんでしょうか?
不思議なこともあるものですねぇ。
此処のスレ主は自分の都合が悪くなると直ぐにキナイコシ発言でしたが、そんなことはなかったかのように話が進んでいますが、本当に不自然な話ですよねぇ? とりあえず、その語尾は差別用語であることを認識されていますか? >>760
ほう?またクリンチですか?
キナイコシも奥山も平気で、差別的ではないと、その話だけ真っ先に回答しろと、後出しジャンケンですか?
自分の差別は良い差別だとでも言いたげな、これまた不自然な表現ですな? キナイコシも奥山も、もともと本人が書き込んだり打ち間違えた言葉に由来します。
しかし、あなたが使っている言葉は本人の書き込みとは関係なく、現実世界で発言したらあなた自身が責められるような差別用語です。
わけが違うのですよ。 >>762
個人の印象ですね。
それも馬鹿とか、そういうのはイイんですな?
会話が少しおかしいですよという話が主体なのに、全く論点がかみ合いませんな?
そもそも、打ち間違いだろうが何だろうが、受け手の印象で差別的かどうかが決まるのです
あなたが自分を上から目線にしてモノを言ってるのは明らかでしょう。 >>759
>伊都チョンという発言をする、不特定大多数の人たち
お前の自演だろw >>764
そもそも、このスレ主に対する扱いは、過去の暴力的な発言でもう慣例的に決まっています。
モノホンの差別主義者ですよ、このスレ主
テンプレに負け犬って書くような最低の人間性の持ち主です。
チョンどころか、人間扱いしませんよという過激な表現
よく気になりませんね?w大丈夫ですか?あなたwww 割と強めに聞くけどさ
あの吐き気がするような1のテンプレ
あれが平気なのが九州男児でOK?あれを平気で擁護するなんて異常の極致にしか見えんよ。
あんなテンプレ他では見たことがない。 犬以前に、開口一番「九州に決まっとろうが?」で来て
「根拠がなければただの妄想やけんね」って自分で言うって
こりゃ馬鹿な自滅行為でしょ それと言いにくいけど、伊都チョンって、意見の事を誤解したんじゃなくて
当人の態度、ものの言い方からして、そっち系を想起させたから言われるようになったと当方では認識している
そりゃぁホントに態度悪かったからね。 >>769
朝鮮人認定に対して1も普通に朝鮮人呼ばわりで返してたな
やっぱり自作自演なんやろな えっと、あの、私の「宗女トヨ」の卑弥呼の話、みんなスルーなんですがw
本当にここは正しく読むことがテーマのスレッドなんですか?
流石に下げちゃいますか >>771
正当な血統の女子、つまり卑弥呼の血縁者
これ以上でもこれ以下でもない >>767
調べてみたら「声闘」というのは日本人の造語のようだな
だとしたらテンプレとして使うべきではない 一人芝居って>>741と>>745のことか?
それなら同意w 負け犬は別に普通の日本語表現だろうに
デンショウガーは日本語ネイティブじゃないんだな >>772
だよね、どう考えても魏書には二人の卑弥呼が書かれている >>777
そういうワケのわからんことばかり書いてみんなからバカにされることがそんなに楽しいのか? >>777
まともに議論する気がないなら失せろ
>>778
そうだね、日本の造語かどうかは関係ないね、言い直すわ
もし「声闘」という言葉に差別的な意味があるのならテンプレに入れるべきではない >>780
>まともに議論する気がないなら失せろ
お前が失せるか、魏書の、夫のいない卑弥呼と、宗女トヨの母親について正しく読んで理解するべきだろ
頭おかしいのか?魏書の話題だろ >>776
意味不明
自分のやった事ときちんと向き合いなよ
またクリンチか?
犬扱いが差別的なものを含まないなどあり得ないし、そもそもKでは最上級の侮蔑の言葉だろw >>779
へぇ?wみんなとは?
またお前のお見込みの話の自己紹介か?w >>781
別にソントの話は一般的内容の説明だし、そのコピペだから消さなくともよくね?w >>779
普通に、卑弥呼が複数いたんじゃないかって考えてる人は他にも存在する
書籍「ヒミコは二人いた新人物往来社」
書籍「卑弥呼は二人いた河出書房新社」
お前だけだ、なーんにも感じてないのはw >>776
>デンショウガーは日本語ネイティブじゃないんだな
え?またやったった?ww
この異常さはやっぱり伊都チョン本人?ww
自分の差別は良い差別?ww指摘された直後に言い訳?ww 『記紀』そのものが伝承なのに、その本質が分からないアホw
日本は、「史」は作れなかった。
記と紀という段階で気付けよな。なーにが原典だwwwwこれで正しく読もうなど笑止千万 >>774
もともと嘘が平気で自分の差別は良い差別、三行たったら自分の責任すら取らない名物男ですからね
自作自演の疑いはいつもかけられてましたよ?
本人はバレてないつもりなのでしょうw >>786
その本知ってるよ
確かムーの広告で見たんだと思う
竹内文書が根拠だっけ? ムーは暴れるだけ暴れて、結局何が言いたいのかさっぱりわからんw >>786
著者は銀行員だろ?
やつなら随分前に論争したな。卑弥呼は一人。 >>790
ムーに出ていて、武内文書(新)のほうは後者
前者は違う
武内文書はまだ本体が公開されていない
秋田物部と同じだね。
しかし、武内宿祢なら邪馬台国朝貢の当事者だから何かが伝わっている可能性があるが >>792
なーにー、太国さんは卑弥呼一人派だったのかーw >>795
私は複数人出ていると思いますよ?
どう考えても独身で弟の世話になってる卑弥呼と、宗女トヨの母親である人物は別人ですよ
卑弥呼職を張政のお墨付きで継承してるんですから、どう考えてもつじつまが合いません
戦争中に結婚でもしたのでしょうか? 張政は最終的に奈良にまで随伴したと考えられ、戦後処理のゴタゴタを、「金印の継承者」をもって手打ちにしています。
つまり、結婚してる方の卑弥呼と同時に動いている訳です。
どう考えても独身の弟の世話になってる卑弥呼とは記述が違います。 弟っていうのは、例の狛比古のことかね?
二人いたなら、たとえば1与なんかでなく、この代も卑弥呼だと伝に記述が
あるはずだ。そんなのなかろう。
伝は推理小説ではない。 >>799
>二人いたなら、たとえば1与なんかでなく、この代も卑弥呼だと伝に記述が
あるはずだ。そんなのなかろう。
歴史書はメモ書きからまとめている部分と、リアルタイムで記述している部分がある筈です。
陳寿はトヨと同年代の人ですよ? >>801
大陸側が時間をかけて収集した我が国に関するメモ書きが無かったとすると
瞬時に我が国の内情や国防の実情が大陸に分かったことになります。
魏国の使者を伊都で足止めまで用心深く金印を受け取る時だけ現れた、誰にも会う事のできないはずのおばさん卑弥呼が瞬時にして娘までこさえて死ぬなんて不自然ですよ。 >>799
太国さん
仮にですが、あなたのお嬢様が色々あって行き遅れで弟にご飯まで作ってもらってるとして
或る時突然死んでしまい、未婚のはずが13歳の娘が出てきて弟を蹴落として家督襲名
それを隣の家に日記に書かれて、お父さんたまたま偶然見かけて
「ちょww本当にこれうちの娘の話なのか?」って思いませんか?
陳寿さん、大真面目で歴史書書いてるんですが、その中身が週刊誌だったなんてオチは・・・流石にないですよw 陳寿さん、大真面目で歴史書書いてるんですが、その中身がムーだったなんてオチは・・・流石にないですよw >>804
?なんでそう思うの?
また不自然な会話ですなw >>805
なん・・・だとw魏書はムーだったのかw 伊都+安曇はムー以下だけどね
ムーですらそんなものは扱ってなかった・・・んじゃないかなw 結局邪馬台国の所在地ってどうやって確定するの?
中国の史書では完全に分からないわけだしファン投票で決めりゃいいだろ >>809
いくら誤魔化してもムダ。
邪馬台国は北部九州全域。
首都は伊都。 >>800
1与はトヨじゃないよ。
『壹』の字がよめないのか? 中国人重要な文書で漢字を間違えるわけがねえ。
中国のコンビニで1元の支払いを間違えるほど通常の中国人が誤算するほど
彼らは間抜けではねえよ
なんだか娘がどうのこうのでわけがわからんねえ?
卑弥呼は独身だとなってて、伝記載の後に結婚したとか、円墳なのに
改造して後代に前方後円墳にしたとか、うっちゃりばかりしていくらでも
言い逃れの論をする奴が多いが、伝は刑事裁判の司法文書ではないよ。
信に足りない。 300年も論争した結果がムー大陸か・・、
入門程度の中国語を読みこなせず、虚しい人生を送った爺の数知れず、 >>812
ヨハネスブルクとかボストンの地名も古代天皇の親族由来ですよ >>810
横からだが、相変わらずお前は日本語がおかしい。
本記の狂気や異常を感じるレベル >>811
まあ、邪馬台国なのか、邪馬1国なのかは別として、今は卑弥呼に関する記述の不自然さの話ですよ、太国さん >>812
それは論になってねえ。
じゃあ中国のコンビニで1円くすねてみたらどうなるか。考えろ。
笑わせるな。1元だってごまかせねえぜ。
オマエそろそろ松沢病院に行く支度をしろ。 >>817
そういえば太国さん。
松沢病院って精神病棟あるの? >>814
アトレンティスですね
ちなみに高天原は古代シュメール >>818
英語でいえばあそこはアサイラムだな。w >>811からの1連のレス
つまり811→812→817→818→820のレスの流れが全く理解できません
素人に吉野も分かるように説明してください! >>822
貴方は、また真実に気づいてしまいましたね >>823
もっと漢字の勉強でもしろ。
いいか、昭和の昔に壹円札という金があってマーガリンを買うのに他の金と
あつめてパン屋に行って使ったが、この札にも臺円札とは印刷されて
なかったぜ。数字の首位数が「壹」なのさ。
中国人が間違えるほど彼らは間抜けではねえよ。
唱和の当時は小切手とかに誤算不正のないようにこの壹の字を使用したのだ。 >>793
竹内文書
これはタテウチじゃなくてタケウチで問題ないですか? 漢字の勉強じゃなくて>>817は>>812へのレスですよね
一番わからんのはここですわ >>826
そういや竹内文書って、本当は武内文書ってかくはずなのにおおかしいね。
たけうち、です。 >>828
なんでもムー大陸っていうのはディゴデ・ランダというキリスト教者が
マヤ文明のコデックス等の絵文書をマヤの地で焚書をしたためにわずか4冊の
コデックスだけが生き残ったのだが、だいぶ経ってか、ランダはユカタン事物記
だったか、古代マヤ文字の解説を行って後日ランダのアルファベットと
いわれる文字配列を残したが、この配列表のうちムとウの文字からムー大陸
という論をチャーチワードが起こしたのだという話だ。
これで分からんなら病院でも行って訊け。 >>830
>>817はアンカー間違いじゃなかったのかぁ…
もうレスはいいです >>811
太国さんへ
色々書いたを事覚えてて下さり、また生暖かくw見守って下さり有難う御座います。
確かに1の字は不自然で、写本の際、版木にして起こすときにトヨ(イヨ)の字を何度も間違えるか?という
話がありますね
不自然なのは、1の字だけ、蔑称ではないと言う点です。
他は全て、音感の当て字と大陸の言葉(一大卒も大陸の言葉の可能性あり。ほかは名前の順番で序列を表していると考えられます)で、蔑称書かれている東夷伝
しかし、トヨ(イヨ)と同年代の陳寿が書いた物はほぼリアルタイムに書かれた物であり、限りなく伝にはなりません
つまり、陳寿はあの文章をどの部分を持ってして伝としたかと言う事になります。
メモ書きと当時のトレンドの事件の両方が書かれているのが東夷伝と考えられます
子供の頃の話を大人になって成長して役職を得てから書いた部分と、当時すでに伝記になっている部分
それがなければ伝のタイトルにはならないんじゃないかと考えます。
トヨ(イヨ)の話は伝になる事はないと思います
それと1の字はもしかしたら当時の大陸になかった字を我が国側が自己紹介の時に書いた可能性があると思います。
たいしゅうえつ、たじまい、いさちやしゃく、ぬかだい
しかし、つしぎゅうり(としねいり、との説もあり)は、少し法則から外れましょうか?
なんにせよ、今のウクライナ侵攻の様なやつをリアルタイムに把握した人がその部分を持って伝にするのは違和感が拭ません >>811
続き
朝鮮半島南部における倭国領域ですが今では普通に語られることが多い様です
紀元前3世紀だか4世紀の弥生式土器が確か南部から出ていたと
少なくとも我が国は後漢が民間道教の乱で滅び、多少のゴタゴタ期間を過ぎて、落ち着いたタイミングを把握でき、新たな魏国の権威を独占できるタイミングが分かってた気がします。
帯方群の土器は出雲大社近くからも出土しており、中ば貿易的な性格を帯びていた昔の朝貢は、九州以外でも行われていたと考えられます
我が国は漢字を使おうと思えば、昔の秦国系の韓、秦韓(辰韓)経由で通訳も雇え、可能な状態になっていたと思われます 逆説的に、魏国は、変な話金さえ払えば帯方群で情報が得られる立場であった事になります。
リアルタイムの現実に近い話は大陸では史になり、伝にはならないと考えます >>783,787
負け犬を差別用語だなんて言ってる日本人なんて見たことねえわw
慣用句を理解できないってことはやっぱり日本語ネイティブじゃないんだな
チョン連呼しているやつほど実は朝鮮人なんだねぇ そいつは勝ち馬に乗るという表現を聞いたら人を馬扱いするなんて差別だとか思うんだろうか
不思議な奴だな >>838
語り口で全てがわかるわな
伊都チョンは、固有名詞であり、差別用語ではない
お前の言い分が通るのならこれも通るわな
人を人と思わない、常に上から目線の1w
仮に朝鮮人が差別用語だとしたら、北朝鮮人はどうなるってのと同じだわ
言ってる方が決めるというスタンスでありながらw自分が言われたときは被害者面
これぞまさに被害者になる天才の所以だなw
チョンが入ってたら全斗煥も差別用語か?w
伊都チョンの行動様式やものの言い方、思い込みの激しさからついた固有名詞であり、今更こっちに粘着されてもねぇww >>839
逆にチョンが入ってたら全て差別用語だなんて話は聞いたことねぇよ
だから自作自演とか言われるんじゃねーの?
自分がそうだからと言って、他の人も自作自演すると思ったら大間違い (後)漢の霊帝の光和年間(178〜184)が倭国大乱期
つまり、少なくとも景初の前には最低もう一つ(もしくは複数)大きな戦いがあったと言う事になる
倭国大乱期から景初までの話が書かれているので、当然一代では収まらない
中国では35歳を超えると歳長大になるので、そこから宗女トヨには繋がるとは考えられない
大正時代に流行った説、面土王=クニオシヒトは、漢風諡号が孝霊であり、後のネタバレがされていると考えられる。霊帝と同じ時期であると言う事をもしかしたらわかる様な細工をした?
その際には
倭国王・帥升(帥升等?師升?)
の升の字は板木を起こす際に(飛の字の)写し間違いがあったと言う考え方を採用しており、大陸の蔑称、短くして記載する際にアクセントのシヒの部分を書いたと言う説になっている
邪馬1国の字も絶対に写し間違いが無いとは言い切れない
妻木晩田遺跡の東にある孝霊山にある笹福神社には今でもヤマトの孝霊天皇が親戚の国である出雲を攻めた話が伝わっている
もう一人の卑弥呼は最初の大乱期を収めた卑弥呼であり、どう考えても宗女トヨの前任者には繋がらない 倭国大乱期と、八年で終わった戦いは別の戦いの事を指している可能性が高いと考えられる >>842
×もう一人の卑弥呼は最初の大乱期を収めた卑弥呼であり、どう考えても宗女トヨの前任者には繋がらない
◯もう一人の卑弥呼は景初の前の大乱期を収めた卑弥呼 景初年間を239年と仮定する。
8年後に卑弥呼がなくなり、トヨが13才
最短で計算する。
歳長大が35歳だとして、卑弥呼が亡くなったのは43歳=トヨ13歳
逆算すると卑弥呼最短で35歳、トヨ5歳の時に景初年間である
トヨを産んだのが当時30歳とはあまり妥当では無い。でも可能だったとする
しかし、卑弥呼が生まれたのが204年となるので、到底倭国大乱期の最後にはまにあわない
戦死した卑弥呼ではできない役割が戦乱を収めた卑弥呼
どう考えても卑弥呼は二人必要になる 製鉄の考え方
我が国は、分かりやすく言うと、大陸の鋳鉄と、たたら製鉄を区別して編年を厳密に規定していないと考えられる。
大陸の製鉄は間接製鉄。それに対して、たたら製鉄は直接製鉄。
基礎となる技術の根本が異なるのである。
我が国での製鉄は基本は5〜6世紀と言うのが一般的で、未だにそんな感じではあるが、実際には既に近畿では和泉市で紀元前後の製鉄遺跡が出土している。
つまり、ヤマトには製鉄遺跡があったわけである
それに対して、倭国大乱期初頭と考えられる淡路島のごっさかいと遺跡では丹後か九州経由の鉄に、返のついた、もりだか釣り針が出ているが、なんと製鉄跡がない。
つまりは鍛治遺跡なのである。鉄は他から持ってきた可能性があり、一般的な北九州での3世紀における製鉄や、景初年間より前の遺跡として注目されている 一度、青銅器の話をする。
大陸の青銅器の特色としては、欧州の青銅器が鍛造なのに対し、鋳物という事である。
そして、大陸の製鉄もまた、鋳物から端を発している。
古代製鉄においては鋳物用の鉄と、鍛治用の鉄の区別がなく、せいぜいが柄付きのヤリガンナの先端や、戦闘用の鏃の先程度のものであり、つまり鋼ではなかったと考えられる
そこで漢の時代に生まれたのが独特の、鍛造可能な鋳物鉄であった。
簡単に言うと鋳物でありながら、脱炭が出来る様になり、鋳物と鋼の選鉱ができる様になった。
漢の時代は鉄は国力そのものであり統制品であり、簡単には手に入らなかった。
武器化が可能な鋼は特に注意が払われていたと考えられる それが崩れたのが後漢の滅亡。
当時、朝鮮半島は優良な磁鉄鉱の産地であり、青銅器の材料の鉛の産地でもあった。
我が国における青銅器の成分分析が重要なのが合金である青銅器材料
スズと鉛は我が国では手に入らなかった。
朝鮮半島の鉛とほぼ同じ組成になる鉛は、後年に発掘される対馬の鉛鉱山の登場まで待たねばならなかった
つまり、間接製鉄による鉄製品が急激に我が国に入ったのは後漢の滅亡がきっかけと言える。
当然に製鉄炉は我が国にまだないので最初は輸入になるので、鍛治工房しかない事になろう。
我が国がかつて朝鮮半島に権益を持っていた=倭国領域が大陸の史書にもある様に存在していたと言うのはこの間接製鉄からもうかがえる事なのである。
つまり、国力そのものである最新の鉄製品を朝鮮の国は無尽蔵に我が国に提供することなどまずあり得ない。
我が国の都合で、我が国の権益で輸入していたと考えられる
最近の製鉄に関して、朝鮮半島の倭国領域と、権益があったと議論がされる様になるのは妥当と言える。
つまり、倭国領域が、古くから帯方群や楽浪に近いところまで伸びていた事になる。
そして、辰韓は、秦国系の韓の国であるから、漢字の体系は大陸とは異なる点もあるだろうが、概ね通訳はできる程度の文化力話があり、朝貢する際にも頼りになる存在だったと考えられるのである。
鉄器を持ってして、九州説や機内説、東征を語る場合は、間接製鉄と直接製鉄の違いは留意しなければならない
多々良五十鈴姫にある様に直接製鉄なら既にヤマトも行っていた そして、帯方群を含む楽浪土器は畿内からも出土する
それらの土器は未だに考古学的に完全に舶載とは断定されず、朝鮮半島の人間が畿内にまで来ていた可能性を指摘している。 >>845
トヨは養子
卑弥呼に夫はいないし、巫女みたいなもんだから男子禁制でしょ >>850
うーむ、宗女の意味が厳密にはおかしくなるんだよね >>851
養子とは言っても一族だろうけど
宗女で繋いで男系に戻すつもりだったと思うよ >>840
辞書にも載ってる慣用句とお前しか使ってない造語を一緒にするとか頭が悪いにも程があるぞ >>852
属国の内輪揉めに対して、後継者を大陸の名代の張政が決めているなどと言う仮定は無理がある オマエラは魏志倭人伝を正しく読めてない。
漢文読解の手ほどきをして進ぜよう。
三國志 -> 魏書一 -> 武帝紀
(董)卓到,廢帝為弘農王而立獻帝,京都大亂。という文がある
「京都」は日本の京都でなく「魏」の都のことぐらいは高卒でも判るよな。
京都大亂の「大」は「亂」という動詞の前に有るから副詞だ。
又擊匈奴於夫羅於內黃,皆大破之。この文で「擊匈奴於夫羅」と「於」の字がある。
「於」は「匈奴を撃った場所」を表わす助辞かも知れないが「於夫羅」は
調べてみると後漢時代の南匈奴の単于の名前と分かる。「於內黃」も人名かと思ったら
「內黃」は河南省安陽市に位置する県名なので「於內黃」は
「匈奴を撃った場所」を表していると判る。
「皆大破之」・・・「大破」を現代的な(車が)「大破した」のように読むのは時代錯誤。
皆(みな)之(これ)を大(おおいに)破(やぶる)と読むのが正しい。
三國志 -> 魏書三十 -> 倭人傳
卑彌呼以死,大作冢
「大作冢」これを「大きな冢=坟墓を作った」と読み間違えてる奴がいるけど
これも間違い。「作大冢」なら大きな冢を作ったと翻訳できるが
原文は「大作冢」で「大」は「作」を修飾する副詞用法で「大いに」冢を作ったのだ。
漢文や支那語は語順が最重要 >>856
冢という字は、立派なお墓というよりは簡易式の墳墓の様なイメージらしいですな
卑弥呼は厳島あたりで戦闘開始後、家によっては違いはありますが、概ね6〜8年で途中で亡くなっているらしい。
・中津名草姫(名草トベ)のオコベ神社の社家
最初の東征の磐余彦を神武とし
記紀に服属して他の情報を出さない。
物部氏のもの字も出さない(物部五瀬)
最初の東征なので卑弥呼は伝承に出てこない
・物部五瀬の家系
カマヤマ神社社家。のちに紀伊家と婚姻
記紀で判断するのなら本来物部側に立つはずの珍彦と長髄彦が奈良側の大将であったと証言
最初の東征なので卑弥呼は伝承に出てこない
・宇佐家
2回目の東征の伝承を持つ
東征開始後、8年で卑弥呼は亡くなると伝承
宇佐津姫の正体は曖昧にしている。
二度目の東征なので物部ミマキイリヒコイニエを神武として話している
神宮の姫の壇にある遺骨に関しては卑弥呼ではないと証言
スタンスとしては記紀に服属しており、仮に卑弥呼が複数いた場合、嘘にはならない様に証言している
・海部家
先代旧事本紀にある様に、饒速日とホアカリが同一人物であると言う系図を持つ
物部の役職である宿禰をつけて、天御影を大和宿禰にして系図を隠している。
二つの系図と、二つ目の系図の注釈を反映すると、ホアカリが饒速日になる系図で、男系と、母系の二つの系図を今も保持している
卑弥呼に関する伝承はない。竜宮神話の元の伝承を保持
隠してはいるが、籠神社の祭神に、もう一つの母系の出雲の大神を祭り、空位としている ・尾張家
村雲の実家
基本的に情報は公開はしていない。
海部家の系図と尾張家の系図が曖昧にされて伝えられており、同一にされている事を不事前に放置
草薙の剣の疎開先に、不自然に飛騨高山の水無神社を指名。
飛騨王朝伝説=物部氏にやられた前政権という噂の王朝
水無神社は、母系の物部の顕彰のためか、近くの位山に天孫降臨伝承を伝えている
水無神社は魏書に関する事柄は非公開にしているが、周辺には物部守矢の子孫伝承がある。
岐阜には、物部十千根をまつる神社があり特異的な物部氏の扱い方の地域になっている 「卑弥呼以死 大作冢 径百歩」〜卑弥呼は直径(円墳)百歩(140m)の冢を大いに作(るを以)って死んだ〜 のカラクリ
@265年、曹魏から禅譲を受け、280年、ついに呉を平定し中国を再統一。天下に再び平和と繁栄をもたらした西晋の功績を後世に書き残すための正史「三国志」を編集中、30年前の魏使の報告書「径百尺(25m)」を見た陳寿は、当時の倭国はすでに古墳時代に突入し、王墓だけはやたらと長大という情報を、官僚だけに読み知っていた。
A(膨大な餓死者を出しておきながら黄巾の乱を放置した後漢皇帝たちの厚葬に呆れた)曹操の薄葬に従ったのだろう卑弥呼でも、「径百尺(25m)」の墓ではいくらなんでも小さすぎる。地方豪族級の小さい墓しか作れない倭王に明帝曹叡が親魏倭王の金印を授けるはずがない。
Bおそらく「径百歩」の誤りであろう。ついでに「以+【大】作冢」と補足しておこう。
こうして陳寿は仕方なく、形状◎(直径=円墳)や数値「百」はそのままに、単位「尺(25cm)→歩(1.4m)」だけスリ替えた。
(もし誰かが気付いたとしても誤記と言い逃れればよい。少なくとも倭国にわざわざ渡海してまで確かめようとする者ももはやいまいw)
そして時は流れ、1740年後の日本…
当然のことながら、祇園山古墳(九州説)も箸墓(大和説)も「径百歩」に該当せず、短里だ長里だ、南だ東だと、果てしない水掛け論が継続中w
もしも箸墓(全長280m)が卑弥呼の冢だったら…
→魏使は「卑弥呼以死 作【大冢】 長二百歩」と記録→陳寿は魏志倭人伝にそのまま転載(×不正解)
もしも祇園山古墳(直径25m)が卑弥呼の冢だったら…
→魏使は「卑弥呼以死 作冢 径百尺」と記録→陳寿は「卑弥呼以死 【大作】冢 径百【歩】」と盛る→魏志倭人伝(○正解)
祇園山古墳は上方下円墳で、天(上)から見ると方格規矩(四神相応)鏡そのもの。鏡マニアの倭王に相応しい。
「殉葬者奴婢百人」は、曹魏の薄葬に従いつつも、死後の孤独に怯えた卑弥呼の面従背腹であろう。
面白いのでそのまま転載しようw(陳寿、心の声) ・藤原氏
本来の口伝の伝承資格である中津身の系図はかろうじて保持されている様で、平成になり弓前文書の合意である、委細心得が藤原家に戻され、書籍化
東征が二度あった事に言及
その点では後発で公開された文書でありながら記紀に服属しない伝承を公開している
・出石の神床家
厳密に言うと、ヒボコに嫁をやった舅の家系
婿養子ヒボコの実家。急糸井造家
戦後に千数百年の色々を乗り越えて、事代主系の向家からお嫁さんを貰い親戚同士になっている
基本は、出石文書は中世以降の内容とされ、魏書に関する事柄は原則非公開
向家の取材にのみ応えている。
二度の東征の前の、倭国大乱期に播磨に侵攻しており、そこからの話を現在でも保持している
直接卑弥呼には言及しないが、二度の東征と、二度目の東征(景初)で出雲を滅ぼしたタジマノモリや、神功皇后を輩出した事を今でも顕彰している
・秋上氏
物部守矢の直径の先祖であるが、厳密に言うと九州物部氏の分家筋。紀伊国で亡くなった本来の本家の五瀬の親戚
二度目の東征(景初)の伝承を持ち、出雲大社の宮司家の千家の本来の祖神を知る家系
物部十千根の直径の子孫で現在でもカモス神社の社家
出雲を滅ぼした後に、向家の王宮跡に住み、土着化
後に向家と和解し、協力関係に
秋上文書は難解で、まだ把握してないがおそらくは神床家や宇佐家と同じく東征軍関係者で卑弥呼に関する伝承は公開していない
記紀に服属しているのかそうでないのかは立場が曖昧である ・太田家
太田太根彦の直径の子孫
三輪大君伝承を持っているはずであるが、向家は伝承の書籍化の際に不在で取材ができず、向家側だけの伝承の公開に留まっている
現在でも墨坂神社の社家
おそらくではあるが、分家の三輪氏との色々で敗れ、大神神社の社家からは手を引いていると考えられる
巻向の遺跡の中心地である地籍は現在でも太田といい、纏向遺跡は元々は太田遺跡と言った
モモソヒメは太田太根彦お姉さんらしい
加茂氏から独立
大神神社は、トヨのお墓であると言う大神神社の伝承の元は、太田氏と推測され、それで向家側が取材したかった可能性があると、個人的に妄想
伝承が記紀に服属するのか、卑弥呼伝承が今でも保持されているのかは全くもってして不明 向家1(冨家)
文書化される伝承と、口伝の非公開の伝承を保持
事代主の、直径の家系
二代前の伝承者は、九州の地方判事の息子さんであり熊野大社の向家の分家である熊野家から養子を迎えている
最後の出雲大社上官家筆頭の人物
明治政府の神改めに関与し、諏訪大社の神仏の廃仏毀釈にも関与
次代の伝承者として養子入りした人物が、吉田大洋の本に出てきて、かなりボヤかした一部の伝承を伝える
基本的に記紀に服属し、東征が一度にされ、欠史
8代を全て神武とし、ミマキイリヒコを神武として吉田氏に伝承の一部を公開
ホアカリと饒速日が同一人物である事にも言及せず
鹿島神は藤原に乗っ取られた
藤原は大陸渡来人
曽我氏も渡来人
など、記紀に即してほんの一部のみ吉田氏に伝承を公開
先代の神床家、秋上氏にも取材しており、30年前にはこれしか出雲伝承に触れる機会は無かった
先代は産経新聞の論説委員まで務め、定年後は方針を転換
地元において出雲の歴史公開の講演会などを実施
今代の伝承者に公開の方針を伝え、平成初期に亡くなる 向家2
今代の伝承者は書籍化を決定
ほぼ前出の旧家を俯瞰した内容になっている
二度の東征に言及
邪馬台国に言及(九州)複数の卑弥呼に言及
八井耳系の多氏の系図は村雲からであり、本来の神武は村雲である
太安万侶と藤原不比等は親戚で、両者とも八井耳系
海部氏に次ぐ分家筋である
海部氏と同じく先代旧事本紀のアマテル何某饒速日が同一人物である事に言及
長髄彦と大彦が同一人物(オコベ神社とは伝承が異なる)
知らない人が見たら驚きの内容になっているが、記紀の時系列の操作を復元するのには、おそらく一番詳しい内容の書籍を出していると考えられる
ほぼ記紀に対しては服属しないで書いている
現在の皇室観とはかけ離れており仰天の内容で、食い入る様にのめり込むか、全く相手にされないかのどちらかの本になっているが、日本史に欠史はないと言う内容になっており、興味深い
大学の日本史の先生をやられていて、一般的な話と口伝の内容が区別できる様に書かれており、記紀などを勉強してる人ほど内容の理解が早い様に書かれている
お勉強できてない人には趣味レベルの本である、 >>859
戦闘中に死亡して、そんな凄い古墳が作れるのかと言う疑問がありますよね
冢
と言うのはちゃんとした古墳ではないと思うんです。
時間的に考えてもおかしい
殉死者はすぐに用意できても、古墳は年単位で作られて、その間は水銀朱で保存され、そこから埋葬でしょうから。
唯一卑弥呼に切り込んでるのが宇佐と向家ですが、不思議な事に向家では、戦闘中だったので厳島で仮埋葬され、遺骨の状態で宇佐八幡に戻されたとあります。
一部は姫の壇の、下の宇佐家の納骨施設に入れたと詳細に書かれているのに対し、当の宇佐家は、卑弥呼ではないという事と、姫の壇の納骨施設の本来の目的を把握してない様に本に書いています
結局はここまでいろんなところが情報公開しても、未だにロマンの域を出ないのが邪馬台国と卑弥呼なのではないでしょうか >>857
物部氏は神武よりも先に邪馬臺(ヤマド)入りをした饒速日命(ニギパヤピ)を祖先とする氏族。
後発のイワレビコ(神武)は塩土老翁から「東方に美しい土地があり、
天磐船(珍敷塚古墳の壁画に描かれている)で先に降りたものがいる」と聞く。
鉄器製造で必要な炭に使う木を切り倒してハゲ山だらけになった九州を捨てて、
難民となって難波碕(現在の大阪)へたどり着き、
河内国孔舎衙(くさが、孔舎「衛」と書いてる記事は「弘法も筆の誤り」)から
生駒山を越えて邪馬臺を目指した。
s://school.higashiosaka-osk.ed.jp/kusaka-e/home/index/kusakasyou/shoukai
孔舎衙は塩老翁(しおじい)と呼ばれて愛された自民党の元衆議院議員
塩川 正十郎(しおかわ まさじゅうろう)氏の選挙区だった。
奇しくも塩にゆかりの名を持つ老人がイワレビコ(神武)を介して結び付いた。
イワレビコ(神武)の軍は饒速日命(ニギパヤピ)の義理の弟の
長髄彦(ナガスネビコ)の邀撃(ようげき)に遭って苦戦し
イワレビコ(神武)の兄の五瀬命 (いつせのみこと)が矢傷を負い支惟(紀伊)で死んだ。 万葉集巻9−1810 挽歌 作者 :高橋虫麻呂歌集
原文 葦屋之 宇奈比処女之 奥槨乎 徃来跡見者 哭耳之所泣
訓読 芦屋の 菟原処女の 奥津城を 徃き来と見れば 哭のみし泣かゆ
仮名 あしやの うなひをとめの おくつきを ゆきくとみれば ねのみしなかゆ
現状「葦屋之」の読みが「あしやの」と平仮名4文字で五七五七七の和歌のリズムに
合ってないので怪しい読み方だ。
兵庫県宝塚市の長尾山丘陵にある長尾山(ながおやま)古墳は未盗掘の粘土槨がある。 >>865
〉ニギパヤピ
うおお、弥生読みマジですか。色々物知りの方降臨ww
やっぱり、邪馬1国=邪馬台国=ヤマト(ヤマド、ヤバタイ、ヤマドイ)ですよね。
あの字だけ魏書で蔑称でないなんてやっぱり不自然ですよ。
〉物部氏は神武よりも先に邪馬臺(ヤマド)入りをした饒速日命(ニギパヤピ)を祖先とする氏族。
おおおww
この感覚的なものが記紀や魏書を見る際に重要と考えます。
ヤマトがヤマトを攻撃する
物部氏が物部氏を攻撃する
神武が神武を攻撃する
魏書においては九州勢は、自己紹介で、我々はヤマトと名乗っています。
つまり、少なくとも魏は、最後まで九州勢をヤマトと思い込み、狗奴国と戦っていたと最後まで信じていた、という事は最低限言える事だと考えられます。
当然、漢の頃からすでに朝貢し、お墨付きを受けている国と戦うなど、後継の国である魏国に言えるはずもありません。 しかし、景初の戦闘は100%東征しており、それは古墳からも明らかです。
さらに、その一文は、海幸彦、山幸彦の本質に迫っていると考えられます。
先代旧事本紀、海部氏国宝系図(籠神社は二人が同一人物と発言しています)、出雲王家本にある様に、ホアカリと饒速日は同一人物という性質上時として入れ替わりで扱われています。
故に、磐余彦が奈良に来た時にいつの間にかウマシマジになっていて、最初から神武がいた所に神武が来たかの様な書き方になっています。
つまり神武が神武を攻撃したかの様な幻惑があるわけです。
それは、先祖が同一人物だからです。
九州物部と、奈良の神武は腹違いの兄弟の家です。
故に、東征した物部氏がいつの間にか神武になり、神武が神武を攻撃したかの様な幻惑が起こるわけです。
しかし、大陸を誤魔化すのが目的の記紀なので、我が国側から見たら何の例えかわかる様に書かれていると思われます。
大彦は、中曽大根彦といい、それが長髄彦と大彦に分けられたらしいです。
そしてどの旧家にも出てこないニニギは、倭国大乱期の物部東征と、景初の二度目の東征の出来事を一度しか無かった事にして朝貢の歴史を消し去る際に便宜上登場する物部の象徴の名前だそうです。
紀元前3世紀の、吉野ヶ里遺跡の饒速日が、紀元後2世紀の大彦を切ることは出来ません。
しかし、大彦は海部や尾張の政権の子孫なので、腹違いの家系なので、幻惑に使われる材料になったと考えられます。
物部氏が行く前にヤマトに饒速日がいたとするのであればそれは腹違いの兄弟であり、まさに海幸彦、山幸彦になるわけです。 >>865
〉鉄器製造で必要な炭に使う木を切り倒してハゲ山だらけになった九州を捨てて、
確かに、鉄器の製造編年は、後漢が滅びたところから景初までが、急激に北九州で日本一の生産量になり、景初の戦闘後には丹後に取って代わられ、最終的に新潟の柏崎あたりが5〜6世紀で日本一が入れ替わりますが、
変な事に吉野ヶ里が3世紀以降、人口が少なくなり衰亡レベルにまで勢力が落ちている事が発掘から判明しています。
ただ、紀元前10から水稲栽培が始まり、徐福時代より前から穀倉地帯であった九州を捨てるとは勿体無すぎて考える事が出来ません。
物部の拠点の人口減少は他に要因があると考える余地があるのではと思います。
元々その頃には我が国は朝鮮半島に鉄の権益があったと思われ、製鉄なら半島で行う事は出来ました。
武器化に当たっては我が国では鍛造可能鋳鉄を作れる炉が無かったと思われ、国内では鍛治中心であったと考えられるからです
一貫した鉄生産ではないので、ちょっとくらいは木が残ってたのではないでしょうか 宇佐氏伝承
宇佐家の古伝によると、大神比義の心眼に童子の姿で幻じて、「誉田天皇広幡八幡麻呂」と名乗って出現した心霊は、応神天皇の神霊ではなく、神功皇后と武内宿禰との不義密通によって生まれ、四歳にして早世した誉田天皇と僭称する男児の亡霊である。本当の応神天皇は神武天皇の皇孫である。そのいわれは、神武天皇が東遷の途上、筑紫国菟狭の一柱騰宮に四年のあいだ滞在し、菟狭津彦命の妹、その実は妻の菟狭津媛命に娶って生まれた宇佐津臣命またの名は宇佐稚家(うさのわかや)が、越智宿禰(おちのすくね)の女常世織姫命(とこよおりひめのみこと)に娶って生まれた宇佐押人で、菟狭族から出て西日本を統一してから、中央に進出して古代日本の国家が成立したと伝えられている。
富家伝承だと、神功皇后は、成務天皇の妃で、辰韓(おそらく倭国領域)の王家が、部下の血筋に変わった際に、相続権を主張して征伐を検討したとあります。
つまり、物部が朝鮮半島における権益の一部を持っていたのでそれを失う事を恐れたとも考えられます。
煮え切らない成務を見限り、皇后は九州の中津臣家の豪族を頼りますが、そこでも断られ、その豪族は若くして亡くなります。のちに、ナカツヒコとイタズラの様に諡号を与えられ、仲哀となったとされます。
最終的に彼女が頼ったのは西都原に居て、九州の水軍を掌握し長となっていた武内臣太田根の子孫、襲津彦だったとされます。
武内宿禰は役職名にされ、天皇と同じで長寿にされました。
実際には高句麗が従わなかった為、2韓征伐だったらしい。
その後、権益を守る事に成功した彼女は襲津彦との間に子供を設けますが、7歳にして夭逝。
世襲の権益を失う事を恐れた彼女は、物部イニエと、宇佐豊玉姫との間の系譜の家から同じ年の竹葉瀬君を上州から呼び寄せます。
上州上毛野家は、トヨキイリヒコの直系の家でした。
つまり、宇佐氏伝承は物部イニエ=崇神を神武とする記紀服属の伝承を公開しているわけです。 記紀は属国の歴史を消す為、本来の神武である、多臣家の、八井耳系の村雲、つまり自分達の先祖を神武としながら以下の2つの時代を加え、合計3つの神武を圧縮して一つの出来事に変えています
倭国大乱期の磐余彦(ウマシマジ)東征
景初の時代のミマキイリヒコイニエ=崇神東征
記紀に書かれている通りなら、内容的に服属していれば公開しても問題はないと考えた可能性があります。
つまり、宇佐氏は崇神を神武として伝承を公開しているから、応神天皇は神武の子供という話を展開できるわけです。
村雲が神武であるという話を公式に発信してるのが、出雲王家と、海部氏になります。
磐余彦が神武であるという形式をとっているのが、富家先代伝承者の一部ポロリ(吉田大洋本)と、オコベ神社の小野田家、そして物部五瀬系譜のカマヤマ神社旧社家になります。
そして記紀の仕上げは、神功皇后紀の一文に、わざとらしく魏書を引用して、卑弥呼が神功皇后なのでは?と思わせるような記載をして念入りに大陸を幻惑しようとしています。 圧縮された事により、2回の東征もルートが一緒にされました。
変なルートになっていますよね。
最初の倭国大乱期の五瀬の東征は、四国南ルートを通過しています。
その頃、すでに吉備国がヒボコの播磨侵攻地域を奪還しており、瀬戸内海は出雲から奪った青銅器を鋳直して作った新型平型銅剣のエリアであり、物部軍はそこを避けて、南ルートを取り、紀伊に行こうとしました。
現在でも四国南部では、九州式の銅矛が出ており、物部川(モノベ川)や宇佐にちなんだ越知族のゆかりの越知地籍があります。
紀伊川に上陸したら、長髄彦(大彦)と妃の中津名草姫、そして紀伊家の珍彦(宇治彦)により撃退され、熊野本宮大社ルートに変更になります。
そして、太田タネヒコの道案内により、奈良入りします。 太田タネヒコの道案内では戦闘はなかったとされます。
記紀は、呑気に歌を歌いながら進軍する磐余彦の道順を書いたそうです。
豪族の名前も現在の地籍にほぼ合致。
最終的には陸の上でクジラが出てきますが、奈良のワニや石上の手前、御所市には現在でもクジラ地籍があります。
そして変なのが、和歌山から入ったのに何故か生駒超えの話が出る所。
九州勢には額田宿禰がいましたが、生駒西側には現在でも額田地籍があります。
つまり、二度目の東征は吉備国と出雲を滅ぼしながら瀬戸内母ルートを通過した事により、東征ルートも変な記述になってるわけです。
瀬戸内海での安芸国で亡くなり、厳島で仮埋葬された女性を、出雲伝承では九州の卑弥呼と呼び、宇佐氏は、宇佐津姫と呼んでいます。
旧家同士の伝承は、一見全く適当な話に見えますが、実際には大した違いはありません。 記紀の圧縮に合わせて、ヒボコの系譜も圧縮された。
神功皇后期の新羅国に合わせ、ヒボコは垂仁朝三年に変更。瀬戸内海を経たとあるが、これは二度目の東征の際のヒボコの子孫、東征軍のタジマノモリを隠している。
辰韓王家断絶で、部下の国新羅になった際が朝鮮征伐であるので、ニニギと饒速日と同じように、ヒボコとタジマノモリを操作している。
豊玉姫が九州卑弥呼であると言う伝承を持っているのが出雲王家と、神床家になる。
宇佐家は基本否定、海部家は直接は言及せず、浦島伝承を公開してぼやかしている 前出の宇佐氏の伝承には不自然な記述がある。
それが、誉田天皇と応神天皇の扱い。
まがりなりにも物部政権の成務(物部ワカタラシ彦)の皇后である、神功皇后の子供は、本来の大王であるはずであり、宇佐氏の視点からそれ(偽物説)を語るのは本来不敬であり、不自然な事である。
つまり、根拠があって、本来の天皇だよという情報を宇佐氏は保持していて、それを未だに隠しているとしか思えないのである。
これに関してはタジマと出雲という離れた土地にある、向家(富家)と、神床家の伝承は一致している。
宇佐八幡の豊彦(トヨの兄)は、東征完了後に物部イクメ(垂仁)に裏切られ、奈良から脱出。
最終的に関東から上州に逃れ、土着化をしたと伝わる
諏訪伝承には興味深い話があり、諏方明神タテミナカタが入諏する前の土着の神、ミシャクジを奉じる千鹿頭神は、諏方から追い出され、上州方面に行ったとある。
上州方面から、鹿島北部にかけて鹿の神をもたらしたと思われ、旧奥州一之宮であるツツコワケ神社には千鹿頭神が座る。
ツツコワケじじゃ南部方面では、何故か豊鍬入彦と習合している神社が多いのである。
上州上毛野家は、帝紀編纂委員会にも序列上位として招かれている。
結論から言うと、宇佐の豊玉姫は、崇神の後妻で、トヨ、豊彦、イクメ(垂仁)は腹違いの兄弟という事である。
つまり、竹葉瀬君は、あくまで宇佐からみたら、本来のイニエ(崇神)と宇佐の豊玉姫の直系男子で、それを本来の系譜とみなし、裏切り者の垂仁の系譜を正当とは見做してない訳である。
その視点が受け継がれ、現在の古伝での表現に繋がっていると考えられる。
あくまで応仁天皇を即位させたのは神功皇后であるのだが、その直接の息子を偽物扱いしているというのが宇佐氏伝承の重要な点になる。 そして何を持ってして不義密通か
宇佐古伝の視点は、簡単に言えば人様の系図に手を突っ込んで、独自論を展開する困ったお方の様に映る訳だが、何故か普通に素直に読めば大騒ぎとなる部分がスルーされている
次のパートナーである中津臣家の中津彦とは、若くしての死別であり、不義にはならない
何故不義密通と思うのか、それをあの簡単な宇佐古伝は内包しているのである。
長らくその真意は不明とされたが、大元出版から新しい本が出ており、一応の解説がなされている
実は、仲哀の前の成務は無くなって居なかったのである。
前置きとして、出雲と神床家は、現在言われている、考古学的な視点である吉野ヶ里遺跡の人口減少と、鉄製品輸入に関する古くからの我が国の権益に言及して居ない事を上げておく 大陸系の韓である辰韓(秦韓)は、神功皇后の代で部下の国である新羅に変わる。
その際に、昔で言う相続権の主張、なんらかの徴税権などの権益を主張して征伐を持ちかけた神功皇后は、その話を持ちかけた成務に断られ、何と彼を見限って出て行ってしまったそうである。
結局、後から成務は征伐に参加しており、皇后を見返したかったのか、征伐に従わなかった高句麗との戦いのために征伐後も半島に残り、傭兵の様な事をして日本に戻る事なく没したらしい
つまり、向家と、神床家で一致している内容の古伝を、宇佐氏でも把握してない限り、不義密通とは書けないわけである。
そもそも自分の家出身の宇佐家の豊玉姫の話を宇佐氏が知らないはずはなく、暗殺されたトヨの事も恨みに思わないはずがないのである。
イニエを認め、裏切り者のイクメを認めない。
その時点は千数百年経ても変わらないと言うのが宇佐氏古伝の立場なのである 成務は高句麗の攻撃をよくかわし、最終的には朝鮮王から七支刀を贈られた。
本来、征伐に関わった時代の貢物なら、絶対に住吉になければならない
それが皇后の権威をすっ飛ばして、物部の石上に伝えられたのは、受け取った人間が物部氏だったかららしい
広開土王の碑文は成務の事らしい
朝鮮半島に於ける前方後円墳は、蘇我氏系かと考えて居た私は正直驚いた
そして、朝鮮半島に於ける戦いのために、物部氏は徴兵され、九州では衰退に向かったと伝承本に出ており、考古学的な吉野ヶ里遺跡の人口減少との分析と不気味な一致があるのである 宇佐氏が歴史の真実を知っていると考えられる点は他にもある。
元々、応神天皇は、元々宇佐では祀っておらず、八幡とは、文字を変えられた、大陸からの黄色のロイヤルカラーの8本の旗のことを指しており、景初の戦いを顕彰する軍神の社であった。
八幡ではなく、ヤハタなのである。
後の世に豊国が隠され、読み方がいじられ、豊前(ぶぜん)などになった様に、トヨとヤハタは元々の宇佐八幡の真髄であると思われる
後年、竹葉瀬君の話を聞いた宇佐氏は喜び、単独社殿で祀って居た九州卑弥呼(豊玉姫)の社殿(元々の宇佐氏の先祖の遺骨を入れる場所)をニノ御殿とし、一ノ殿を足し、そこに応神天皇
そして三ノ殿を作り、そこに神功皇后を祀った
志賀島や、磯良関連の神事はその頃以降に宇佐八幡によって作られたと思われ、宇佐古伝でも成立は応神期以降と断言している
宇佐神宮には絶対的タブーがあり、その一つに古くからあった二ノ殿の位置を絶対に変えてはならないと言うものがある。
あの下に石櫃の様なものが確認された際には二ノ殿の位置変更を宮大工が諦めたという逸話が存在する
宇佐古伝は、現在2冊の本があり、3冊目ではいよいよもしかしたらぶっちゃけがあるかもしれない
出雲とタジマの旧家が共通の宇佐の伝承を持っており、宇佐氏が知らないはずがないのである。 個人的には、成務が傭兵など到底信じられなく、心情的に飲み込める事は出来ないが、宇佐氏古伝と、吉野ヶ里の人口推移など、不気味な一致があり、複数の旧家の古伝は、時系列的にほぼ矛盾が見られないので怖い 越知氏と宇佐氏は争ったと古伝にあるが、どう考えても越知氏と宇佐氏は親戚であろう。
昔から親戚同士が相続で一番揉めるのである
豊彦が越智宿禰(おちのすくね)の女常世織姫命(とこよおりひめのみこと)に娶ったとある
つまり、戦闘に勝ち、手打ちで嫁を娶っているのである
越知氏は三島とも名乗り、全国に早くから水稲を広めて居たと考えられ、九州から広がりを見せている
大彦が二世紀に熊野系物部氏に敗れ琵琶湖から撤退した際には、向家が北陸の豪族を紹介したとされる
受け手になったのは三島と思われ、現在でも二田物部神社の社家は三島郡の、三島家
かつては越知とも名乗って居た一族であり、現在でも130代を宮司家が数えている
越知は福井から白山信仰と九頭竜信仰を帯びたと思われ、戸隠信仰と白山信仰は長野県まで展開
現在でも、大彦伝承のある小布施町、須坂市、中野市には、布施神社と越知神社がある
つまり、弥彦の神は、本来の神武、叢雲の系譜の神社で、物部氏ではないのである
新潟の弥彦神社の社家は高橋家であり、大彦系であるのはそのためである まとめると、竹葉瀬君は、上州から呼び寄せられる際に、宇佐氏の親戚筋の越知の拠点を頼ったと思われ、上越から福井を通り、ヤマト入りしたと考えられる 現在、水稲の時代は九州佐賀における紀元前10世紀の遺跡とされ、徐福到来の紀元前3世紀は無関係であることが判明している。
また、出雲の向家系の親族が、徐福時代の国譲り事件以降、摂津高槻から嫁入りして居た三島の姫の実家を頼り、奈良の湿原を開拓したとあり、三島家はヤマトで国ができる前から土着化して居たことが窺える
その証拠は御所市の水稲遺跡
御所駅の東の山には高槻の次の拠点と思われる越知地籍があり、三島大社の大三島の本館地と言われている場所がある。
九州説の本質は、越知、宇佐氏、物部氏に焦点が当てられるべきであると考えられる
安曇氏はまるで出てこない 出雲伝承におけるミナカタ
実は、諏訪にはあまり長く留まらなかったらしく、最終的にミナカタの勢力は関東方面に向かったらしく、その拠点で土着化した様である
のちに、阿部系が入り、ミカヅチを奉斎
その拠点が卜部氏の分家の中津臣家に占領され、祖神が奪われた(手打ちで嫁を出した)らしい
鹿島国造家がのちにそのあたりに入り込み、鎌足が生まれることになる
律令時代までには、中央構造線沿いの水銀鉱脈は管理下に置かれたと考えられ、構造線に沿って那珂郡が置かれた
衰退した物部氏の後釜には中津臣家と下に回った阿部家が入ったと思われ、磐井の乱に繋がる移動が起きたと考えられる
志賀島神社の東には相島があり、かつては阿閉島といい、阿部系の領域だった
宮地嶽神社も、かつての社家は安倍家であった
安曇氏はいつからあそこに居たのか全く不明の一族であり、実は金印も安曇と結びつけるものは一切存在して居ない
そして九州には、鹿島と呼ばれる大きな拠点が作られたことから、鹿の神も中臣家と、阿部家が持ってきた可能性が高い
奈良の春日は、鹿島から鹿を持ってきたとされるので、西側に移動している神事と考えられるからである スレタイとは違う書き込みするやつってどんな神経してるの?
最近はそんなのばっかだよね 安曇氏は、全国に置かれた部民である海部の拠点に配置されたと考えられ、籠神社側は安曇は親戚であると伝えられている
つまり、安倍と中臣が九州に来て、安曇はその逆、東側に協力者を得て勢力が拡大したと考えられるのである
安曇の祖神に豊玉彦があるのであれば、男系宇佐、女系に海部が入った家系ではなかろうか
そう仮定すれば氏素性、姻戚関係が全ての時代においてもその後の那珂郡の展開領域においても協力者として成立する
上高地はかつては水銀が出たらしい
北アルプスは火山だからね >>885
話の流れがわからないのなら自重するべきなのはそちら >>885
テンプレから見直して来なよ
そもそもが1のテンプレが倭人伝と関係のない安曇や、磯良などの無関係な話でごった返してるだろ
それこそ「正しく読め」だわw そもそも「決まっとろうが」ってテンプレが失笑もんでしょ
それで「根拠がなければただの妄想やけんね」と言っちゃう自殺点 >>889
1って言ってる事とやってる事が矛盾してて、自分がそのルールを自ら率先して破ってるんだよね 稲作が古いとか倭人伝に書いていない。
どっちが古いとかいらない部分かもしれん。
規模ならわかる。 ここは見ても無駄
つうか日本史板は終わってる
せめてID表示くらいはしてほしいんだがね 本当に邪馬台国なんてあったの?
遠隔地についての情報なんて結構ええ加減で、殆ど妄想のおとぎ話みたいな中身になってんじゃん。
随分と時代の下った宋の時代に、隋から唐のかなり遅い時期まで遣いをよこしていた倭と、日本とが連続している同じ国で、皇統が続いていることに驚いたりしてたじゃん。
具体的には、最後の遣唐使が渡ったのが839年、宋の皇帝(太宗 趙光義)が謁見した日本の僧(奝然)からその話を聞いたのが984年。
渡航が困難なわけではない、国使の往来が絶えたところで、民間の船は通商目的で盛んに往来していた。現に、東大寺の僧が便乗して渡航しているしな。
それくらいに往来があったところで、支那の支配層上部が日本の国情なんかまるで知らない。
往来の困難な、且つ、三国裂時代の魏やらが、日本について詳しく知っているものなのか? >>892
それがわかっただけでもいい事だな。
二度とこないでね >>893
〉日本とが連続している同じ国で、皇統が続いていることに驚いたりしてたじゃん。
基本的な知識として頭に入って居なければ古い国という認識すら持たないのでは?
日本書紀してやったりだと思う >>894
まともな人を追い出したい荒らし?
日本史そのものへのアンチ? >>896
さあ?
見る価値もないとか言いながら、わざわざ書き込んでる奴の頭の中身など解らん >>899
テンプレ読めない間抜けの方が圧倒的に多い様だが?w >>900
どうせ1の書き込みだろ
あいつ日本語が不自由て、喋りで一発でモロ分かりだからな あの程度の短い文章で自己矛盾しちゃうくらいだから、頭がそうとう悪いのは確実 卑弥呼が
何処かの地域で共立された独身の巫女である以上
万世一系の日本の歴史にそういう王は居ない。
その未熟な九州王朝は絶対に
半島進出で牛馬の移入と鉄の国内生産を為した
倭の五王以降の日本の統一王朝にはなり得ない。
歴史は記紀の物語ではなく、時系列が証明する。 >>903
〉歴史は記紀の物語ではなく、時系列が証明する
正にその通りと思われます
記紀、とりわけ古事記は時代が新しくなると史実に近くなるので参考にされるという側面があり、神話と実話を混ぜて語るアホが量産される弊害を生みましたが、ワカタケルの頃には暦が導入され、実年代に近くなるとされます。
それ以前は倍暦で記述されているそうです。
記紀は起きた出来事は圧縮されたりして消されたりして居ますが、大王系譜だけは順序はそのままになっている特徴的な欺瞞の歴史書です
大陸を誤魔化す事ができればいいだけの話なので、復元しようと思えば出来る様になって居ます。
村雲は大体紀元前2世紀あたり
銅剣、銅鐸の文化圏の分析でも遅くも紀元前一世紀にはヤマトに何らかの政治体制ができたと分析されて居ます なんで「魏志倭人伝を正しく読む」を誰もやらなくなっちゃったのかねえ >>906
最初からやってねえだろ
テンプレ読めないのか? 卑弥呼の時代は、女性も宗教だけでなく政治や軍事もおこなっていた。 魏書においては卑弥呼が複数いたという話はこんな話もある。
246年に突然、
「卑弥呼やそれを補佐する男弟ではなく」
難升米に黄幢(魏の軍旗)と詔書が与えられていることは注目に値する点であろう。
同時期、魏の帯方郡に対して、三韓が反乱を起こす。
帯方郡と楽浪軍の太守によって鎮圧される事件が発生しており、難升米に黄幢(魏の軍旗)と詔書が与えられたことの関連性が注目される。
京都大学教授だった内藤湖南の説では、難升米を垂仁朝に常世の国に使者として赴き景行朝に帰朝した田道間守(たぢまもり)としている。
難升米の読みが、ダジマイとしているのは少数ではあるが学説として存在している 内藤湖南は『卑彌呼考』において、『魏志』倭人伝に卑弥呼から魏へ遣わされたと見える大夫難升米を田道間守に比定しているが、
『日本書紀』では卑弥呼は神功皇后の時代とされている。
田道間守が常世の国に派遣された垂仁天皇90年を機械的に西暦に換算すると61年になる。これは倭(委)奴国王が後漢の光武帝から金印を授けられた57年に近いため、書紀の編者は大陸が田道間守を倭奴国の大夫と考えていたことを利用して記紀を書いたと考えられる。
ヒボコは紀元後一世紀の渡来とも伝えられており、記紀と古事記はコツを掴むと時系列が復元できる特異点を持っていると妄想している
ヒボコとタジマノモリは時系列の操作に使われている 神功皇后が卑弥呼のわけねーじゃんww
この変なやつのせいでこのスレもすたれたな
良いスレだったのに残念だ >>914
また1みたいな日本語が不自由なアホが現れたなw
どこにもそんな事書いてないだろ
そもそもがこのスレのクソ主はトヨは神功皇后の妹とか抜かしてたアホだぞ
なーにが良スレだドアホウw >>915
良いスレだと思わないなら来なきゃいいだろw >>916
この思考の異常さは、やはり伊都チョン
良いスレではないと真っ先に書き込んだのはお前だww
相変わらずの自己矛盾ww
自分のどこがおかしいのかまだ理解できてないらしい この短時間ですら人間同士の会話が成り立たない異常性
自分とだけは向き合えない他責性
自分のやったことは相手がどんな気持ちでいるかなど考慮せず常に自分の善性のみを主張し、自分だけ楽になろうとする
正に伊都チョン
普段の生活にもだいぶおかしな点が出てきているだろうが、本人だけはそれに気付く事がない
周りがそれを指摘することはもはやあるまい
ま、元々自分がどのように思われているかなんて気に出来るような精神構造じゃないんだろうが、自分しかお友達がいなさそうな感じがしてきて笑える 祇園山古墳が高良大社の麓にあることは、ほとんどの本州人は知らないので、困ったことですね(大和説の陰謀かな?!^^)。
まず、魏志倭人伝「女王国(九州)東渡海千里複有国皆倭種(本州)。又有侏儒国(四国)在其南、去女王(之所都)四千里」で、九州で決まり。
さらに「(女王国)其南有狗奴国(長官・狗古智卑狗=菊池彦)」ですから、邪馬台国七万戸は、菊地平野の北・筑紫平野しかないですね。
そして、3世紀中頃の築造で、殉葬者66人が確認されている王墓は祇園山古墳しかなく、その尾根上にある筑後国一之宮・高良大社で決まりです(おめでとうございます)!
ちなみに「不弥国から南水行二十日で投馬国に至る。さらに南水行十日陸行一月で邪馬台国に至る」は、「その道里を計るに、まさに会計東冶(帯方郡から12,000里)之東(沖縄と台湾の中間)にあるべし」と結論付けるために、陳寿が帯方郡から会稽東冶に至る「中国大陸沿岸の行程」を倭国に転用した忖度(方便)とすると、投馬国五万戸(宮崎都万)も九州内に収まりますよ。
おそらく洛陽(後漢〜曹魏〜西晋の帝都)から見た倭国は、宿敵・孫呉の背後の海上に浮かび、(自ら渡海してまで朝貢して来て)呉を牽制してくれようとしている可愛い国という認識だったんでしょう。
だからこそ特別に優遇して金印「親魏倭王」(鉄の発注書の封泥用)を与え、帯方郡の鉄の輸出を許可し、狗奴国の卑弥弓呼を平定せよと銅鏡百枚(✕五百枚w)を与えたんでしょうね。
なんだか双六の「ふりだしに戻る」みたいで、呆気ないものですね( *´艸`) >>919
〉「(女王国)其南有狗奴国(長官・狗古智卑狗=菊池彦)」ですから、邪馬台国七万戸は、菊地平野の北・筑紫平野しかないですね。
菊池は阿部系ですので、後年のものだと思いますよ
桓武期には物部守屋と行動を共にした中臣家も復権したとみえ、全国の那珂郡には賀茂地籍が重層を形成する。
おそらくは三国国造系との対立で漁夫の利で復権したのだろう。
諏訪大社もそこの頃に阿部一族が入ってきており、下社の安曇族勢力と当初は協力関係にあったと考えられる >>920
>桓武期には物部守屋と行動を共にした中臣家も復権したとみえ、全国の那珂郡には賀茂地籍が重層を形成する。
物部守屋も中臣家も賀茂氏もみんな「倭人(阿波勢力)」の一派。 ご苦労さん。 わははははは @阿波 これぞサイエンス? 邪馬台国の場所は「日食」で特定できるか
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1655311038/
卑弥呼の時代にいつ皆既日食が生じたか
247年3月24日と、248年の9月5日にあったことがわかります。
247年3月24日に日食が起こった時刻は、北九州では日の入りの頃でした。
太陽は日没までにほぼ皆既日食となって真っ暗になり、そのまま日が没したと考えられます。
一方、近畿では、その時刻にはまだ太陽は半分くらいしか隠れていないまま、日の入りとなります。
日没後も真っ暗にはならず、徐々に暗くなってゆきます。
この見え方の違いから、皆既日食によって世界が真っ暗になるという恐怖を体験したのは
九州の人たちであると斉藤は結論し、247年に福岡市で見えた日の入り時の皆既日食を
岩戸日食と断定すれば、議論は明快に片付く。そして卑弥呼の死亡年は247年となり、
邪馬台国も九州と言うのが有力となる >>922
卑弥呼が亡くなったのは戦闘中で、基本は安芸国とされている
広島の厳島神社が借埋葬地になったとされるが、そこでは日蝕は起きなかったのでは無いか?
単純に日食が起きた事と邪馬台国の話はあまり強い関連はない気がする
日食ならどちらかと言えば太陽のアマテラスの方では?
最大版図としては九州東部と長門あたりまでを支配していた宇佐豊国の宇佐津姫は、安芸国で亡くなっている
丹後でも出雲でも同じ内容が伝わっている
邪馬台国は東征軍の集まりだから、国としての実態は無い。
大陸が九州勢をヤマトの人間だと信じただけの話 >>921
阿波の後生大事にしてる遺跡も加茂地籍だったなw >>925
更にその近くの川は那珂川だった気がしますw >>922
日食があっても
死んだ場所が邪馬台国とは限らない。 >>910
垂簾政治の体裁をとりながら、実質的な為政者は弟彦だったんではないの?
空位神功皇后摂政期の、大臣・武内宿禰とか、
推古天皇期の、摂政太子・厩戸親王とか
斉明天皇期の、太子・中大兄皇子とか YouTubeの いろはch って人がやってる いろは邪馬台国解説 はシンプルに筋立てていて
九州説に中でも一般受けは良さそうな内容になってて感心した
動画自体はゆっくり解説に抵抗がないと最後まで見ないだろうけど >>929
九州説の致命的な欠陥はいろいろあるが、 そのなかでも分かりやすいのが、
九州には自慢できる温泉が腐るほどあるのに、九州に在る温泉への天皇行幸が明治天皇行幸まで一切無いという。
なんで九州各地の風土記に、天皇の行幸記事が一切無いのだろうか?
九州に「邪馬台国女王制国家」倭王権があれば、有り得ない話である。 @阿波 >>931
「天皇家と縁がない九州」
阿波忌部は今現在も、天皇陛下即位式である大嘗祭に、麁服を調進する大役を担い、天皇家と繋がっている。
それは、「阿波」が天皇家の出身地だから。
宮中祭祀第一の祭典である大嘗祭、新嘗祭の起源が『日本書紀』の斎庭(ゆにわ)の稲穂の神勅に示されている。
今の天皇家が九州出身なら、天皇陛下即位式である大嘗祭において、蚊帳の外には置かんわな、そりゃ。
九州に倭王権があれば、有り得ない話である。 @阿波 畿内に近い
伊勢神宮でさえ明治時代まで天皇家はほとんど行かなかったのに
九州温泉旅行なんて行くわけ無いだろう >>933
>畿内に近い
??? 九州がか?
>九州温泉旅行なんて行くわけ無いだろう
なんで九州各地の風土記に、天皇の行幸記事が一切無いのだろうか?
九州に「邪馬台国女王制国家」倭王権があれば、有り得ない話である。 @阿波 >>931
「天皇家と縁がない九州」
阿波忌部は今現在も、天皇陛下即位式である大嘗祭に、麁服を調進する大役を担い、天皇家と繋がっている。
それは、「阿波」が天皇家の出身地だから。
宮中祭祀第一の祭典である大嘗祭、新嘗祭の起源が『日本書紀』の斎庭(ゆにわ)の稲穂の神勅に示されている。
今の天皇家が九州出身なら、天皇陛下即位式である大嘗祭において、蚊帳の外には置かんわな、そりゃ。
九州に倭王権があれば、有り得ない話である。 @阿波 不彌国、奴国、狗奴国は九州
投馬国、邪馬壹国は九州以外 南四国に大国「邪馬臺国」・「狗奴国」・「投馬国」が興るのも当然と言えば当然。
弥生人にとって、阿波はまさに「常世の国・パラダイス」
南四国は、温暖な黒潮流れる太平洋に面し、漁労・航海術が発達、
一方、内陸は高温多雨による森林資源に恵まれ、希少価値の高い鉱物にも恵まれている。
また、大河「四国三郎吉野川」を始めとする、いくつもの大河が流れ、
大河流域には、広範に肥沃な土壌の恵みを与えている。 @阿波 豊受宮がマグダラのマリアということはありませんか?
豊玉姫と関係ないかなあと思いました。 奈良大和へ止むを得ず避難疎開遷都した大和朝廷は、故郷「阿波」を「常世の国」と崇め懐かしんだ。 @阿波 阿波が常世の国だったら、そんな至近距離でミカンの木が見つからないなんてどんだけ無能なのよw そもそもが常世の国はスクナヒコナが死んだ後にたどり着いた死者の国ではなかったか? >>941
>阿波が常世の国だったら、そんな至近距離でミカンの木が見つからないなんてどんだけ無能なのよw
奈良盆地に「橘」が??? 無能とはお前のことか? わははははは @阿波 >>944
タジマノモリがどこにいたかも知らない無能ww >>945
「但馬国の国守(くにもり)」がどうかしたのか? 8世紀の話だ。
無能とはお前のことか? わははははは @阿波 >>946
阿波の阿波は、粟島の阿波。
元々出雲系の分家筋の家が忌部氏
死の穢れを嫌う出雲にあって特殊神事、つまり死の役職をになったと考えられる一族
故に、身につけ、埋葬もされる勾玉加工を任されたのだろう >>947
>故に、身につけ、埋葬もされる勾玉加工を任されたのだろう
つまり、出雲は出雲忌部の国と認めるんだな。 わははははは @阿波 >>948
あの文章からそれを読み取れるというのなら、お前はここのクソ主と同じくらい日本語が不自由だな
そもそも部民名が与えられ、イミゴトを冠する一族の役職に興味すら湧かないんだから笑える >>949
>そもそも部民名が与えられ
平安時代を言うてどうするつもりや? どアホ! @阿波 >>950
天皇陵墓が一つもない阿波は我田引水にも一苦労だなw 「阿波」に無くて、どこにある? わははははは @阿波 南四国に大国「邪馬臺国」・「狗奴国」・「投馬国」が興るのも当然と言えば当然。
弥生人にとって、阿波はまさに「常世の国・パラダイス」
南四国は、温暖な黒潮流れる太平洋に面し、漁労・航海術が発達、
一方、内陸は高温多雨による森林資源に恵まれ、希少価値の高い鉱物にも恵まれている。
また、大河「四国三郎吉野川」を始めとする、いくつもの大河が流れ、
大河流域には、広範に肥沃な土壌の恵みを与えている。 @阿波 気の毒すぎて何も言えない阿波説w
単なるスローガン 「観音寺・敷地遺跡」
この遺跡から出土した7世紀中頃の論語木簡は、唯一日本最古であり、
役人の身分を表す腰帯具、文書行政に必要な銅印、硯など政務を表すものや、
斎串(いぐし)や人形(ひとがた)などの祭祀具(さいしぐ)具や農工具(のうこうぐ)・紡織具(ぼうしょくぐ)
・建築部材などの木製品、漆関連製品、武具(ぶぐ),瓦(かわら),楽器(がっき)など
古代地方官庁の多様性を示すものが多数出土している。
日本全国、どこにもこんな特異な遺跡は存在しない。
よって、ここが8世紀奈良大和へ避難疎開遷都する前の、倭国(阿波)王権の王都の一部である。 @阿波
https://www.pref.tokushima.lg.jp/rekishiru/news/5024022/ 気の毒すぎる旧説て何も言えない阿波説w
「阿波」の特異遺跡を出すとすぐ黙り込む、間違い説の双頭、九州説と畿内説。 わははははは @阿波 気の毒すぎる旧説(九州説・畿内説)w
「阿波」の特異遺跡を出すとすぐ黙り込む、間違い説の双頭、九州説と畿内説。 わははははは @阿波 >国宝がひとつもない都道府県は徳島県、宮崎県です
「矢野銅鐸」や「観音寺木簡」が国宝にならないことが意外。
まぁ、これらを国宝にしたら、今までの歴史が引っくり返ってしまうからなww @阿波 国宝がないという単純な指摘に対してこの意味のない返しww >>959
>国宝がないという単純な指摘
お前にとっては単純じゃないから指摘したに他ならない。
お前にとって関心があるから指摘したに他ならない。 @阿波 >>919
高良大社の本殿内には御客座があり、豊比咩大神(とよひめおおかみ)が合祀されてるもんね。
それっれあの トヨ だよねえ。 >>961
〉>国宝がひとつもない都道府県は徳島県、宮崎県です
と書いたのは私ではない。
残念でしたねw 魏志倭人伝?何故か倭国から鉄製武器を調達していた事の記載が無い。後世の創作だな。 【唐朝那些事兒】第185章
「隋煬帝與蕭後等率 侍女千余人 就房飲酒 杯不離口 晝夜昏醉」
隋の陽帝と蕭(しょう)皇后、千人以上の侍女を従え、
部屋で酒を酌み交わす。盃は彼らの口を離さず、昼も夜も飲まれた。
慶長伏見地震は、文禄5年閏7月13日(1596年9月5日)伏見城が倒壊
秀吉は難をのがれたものの女房.侍女570人余が圧死した。(女房.侍女の総勢1000人位か?)
徳川時代、江戸城大奥には1000人くらいの侍女.下女が居たと云われてる。 魏志倭人伝の卑弥呼に関する記述には、
「以婢千人自侍」侍女千人を用い、自律的に侍る。
卑弥呼が住んでいた館の周りで、千人もの女性たちが自主的に世話をしていた。
侍女千人を抱える統治者と云えば、隋の煬帝、太閤秀吉、徳川将軍家、などクラスの
国主、統治者でないと財政が持たない、と言う事は、
すでに邪馬台国の国家レベルがその段階で有る事が連想される。 卑弥呼時代には既に東海地域から西日本一帯は
倭国大乱の後、統治されてて邪馬台国連合が成立していたんだろう、
唯一、九州中南部の狗奴国(熊襲)だけが統治されず状態だった。
記紀、歴史時代の何代にも渡って九州中南部、熊襲征伐が大和朝廷の頭痛の種だった。 >>971
>卑弥呼時代には既に東海地域から西日本一帯は
>倭国大乱の後、統治されてて邪馬台国連合が成立していたんだろう
これは、幻想過大評価の三流学者や郷土史家どもの思考。 わははははは @阿波。 >弥生時代中期BC3世紀代ころの弥生・海人族たちの旺盛な活動圏がよく分かる。
青谷上寺地遺跡 (あおやかみじちいせき)この弥生の村の成立は、
日本列島に中国の戦国時代の鉄器の流入が始まる頃でBC3世紀代頃と考えられ、
集落の終焉は古墳時代前期初頭のおおむね3世紀後半と考えられている。
https://09270927.at.webry.info/201908/article_1.html?from_sp
『卜骨(ぼっこつ)、シカやイノシシの肩甲骨を火で焼いたりして吉凶を占った。
左右の肩甲骨を重ねる埋葬方法が朝鮮半島の勒島遺跡と共通する。』
https://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/021/409/58/N000/000/000/156469753986455539610.jpg
卜骨の出土数で青谷上寺地遺跡は群を抜いているが、
関東地方の三浦半島の先も卜骨の出土数が多い。
卜骨は海人族が行った占いだったのであろう。 >>973
のスレを見れば良く分かるが
奈良盆地で中心的環濠集落と云えば「唐古・鍵遺跡」冬至の方角には三輪山がある。
弥生中期の時代には、巻向遺跡など影も形もない。
九州地域では吉野ヶ里、早良平野吉武高木遺跡、など背振山系周辺が全盛期時代。 >>973
海難事故が怖くて、卜骨で占って安全な時に船に乗りました。
お陰さまで、海の底に沈むこと無く帰れました。
感謝の気持ちで、ありがとうと言いたいです。 三国志やその他の歴史書の西域伝に
ローマ帝国は大秦国と書かれてて
ローマ感ゼロ
倭人伝に書いてある日本の国名も
全く役に立たんのでないかい 少なくとも、対馬、壱岐、伊都くらいは表記の違いくらいの差しかなく、現在でも同じ地名だよ。 赤村で発見された前方後円墳らしき墳丘は卑弥呼の墓の記述と大きさ一致するらしいけど自治体が自然の地形と言い張って発掘調査もされないらしいけどなんで?
圧力感じる >>973
北九州から青谷上寺地遺跡の空白を
どう考える。 >>978
卑弥呼の墓は御井の祇園山古墳だよ
もう結論出てるよ 記紀の仕上げは、地名変更
九州と近畿は後で地名が弄られ、変更されて同じ地名がついたと考えられるフシがある
山城亀岡には都万という国があり、ほとんどの地名が九州と近畿で存在する
高天原も同じく九州と近畿に存在する
ヤマトも然り
亡くなった武内むっちゃんが後期に出した本では二度にわたる物部の東征、卑弥呼が複数いる事に言及しているが記紀の空間の嘘について言及している
具体的には、近畿と九州という大きな地域で争われた戦い、邪馬台国事件は記紀によって、ヤマトのみ、もしくは九州のみで局地的に行われた戦闘のように偽装されていると。
地名の名残はこういう事なのだろう オレが灰色の脳みそで必死に考えた結論が、正統竹内文書に書いてあった 三国志東夷伝倭人の条通称「魏志倭人伝」の記述によれば
3世紀の倭人は顔中体中真っ赤な入れ墨だらけ
ところが日本書紀・古事記では入れ墨族は
入れ墨の習慣がない「天孫族」とやらにひたすら殺戮されていくウホウホ蛮族扱い
「天孫族」と入れ墨族のハーフのイハレヒコが
入れ墨族の小邑を配下にしたという記述はあるが
イハレヒコの配下の入れ墨族もやっぱり他の入れ墨族を殺戮していく >>984
異人、異教徒、異種族の様に見てたのかな 九州から来た天孫族は刺青ありだぞ。
刺青がなかったのは大和の方だ。
イスケヨリヒメについての話を読むといい。 >>974
唐古・鍵遺跡は確かに非常に重要な遺跡
巻向より先に奈良湖の開発を行っていた別勢力を窺わせる遺跡で、摂津に昔から入っていた三嶋一族ではないかと推測
我が国においては紀元前3世紀に青銅器が伝来し、程なくしてすぐに国産化が始まったとされる。
吉野ヶ里遺跡ができる前、第二段階の時代から既に多層式の大型建物があり、紀元前1世紀には木簡に加え、方形の墳墓があり、豪族同士の結びつきが明らかになっている
対して、紀元後3世紀〜古墳時代前期は吉野ヶ里が衰亡し一時忘れ去られる時代
単純に、大王在位を初期の段階で倍暦という説を取るのであれば暦が入ってきたワカタケルから計算すると神武は紀元前1世紀
真古事記の邪馬台国だと神武は紀元後50年代
日本史名物の太国さんだと紀元後140年代
しかし、出雲伝承だと紀元前2世紀に丹後から神武(海部・尾張)が奈良湖に入植開始とある
九州と畿内の文化差はさほど無かったことが分かる割合に重要な遺跡と考えられる
巻向は後半に開拓されたエリアと思われ、かつては奈良湖のほとりにあった遺跡で、後年になるのは当然の事と思われる ヒメ自体が入れ墨がない文化圏で育っただけだよ。
4世紀と6世紀ごろの入れ墨入り埴輪でるよ >>922
天照大神はスサノウと同時代の人物で、
スサノウは高天原(博多湾周辺)から、
出雲の進出した人物で、
コレが博多湾周辺で祭祀の道具として使われていた銅剣を、
出雲にもたらした人物であり、
コレが荒神谷遺跡の大量の銅剣の出土と考えられ、
コレが凡そ前2世紀の頃と考えられるので、
天岩戸の出来事も前2世紀の出来事と考えられ、
3世紀の日食で卑弥呼がどうこうは
意味がない事になる。 ならないよ。
卑弥呼が九州にいただけだからね。
邪馬壹国にいた証拠にはならない。 天岩戸の出来事は前2世紀の事で、
3世紀中期の卑弥呼には無関係。 >>992 天岩戸の出来事は前2世紀の事
立証できるの? 日食データどうぞ。 ちなみに荒神谷遺跡と同時期で、
初期の銅鐸が大量出土する
加茂岩倉遺跡が大国主の遺跡で、
コレが日本各地に国造りを広める過程で、
銅鐸を広めていった。 記紀の「天の岩戸神話」における、天照大御神が岩戸に隠れたというのは、
倭人伝に言うところの「卑彌呼の死」を意味する。
そして、天照大御神が岩戸から出てきたという記事は、
倭人伝に言う「卑彌呼宗女 壹與」の登場を意味する。 @阿波 >>993
天照大神はスサノウと同時代の人物であり、
天岩戸はその時代の出来事であるので、
スサノウが出雲に進出していったことを示す、
荒神谷遺跡が前2世紀であることをもって、
天岩戸の出来事が前2世紀は確定。 247、248年に皆既日食はなかったいうのもあるが? >>994
島根県は、荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡の2か所のみ。 銅鐸王国ではない。 @阿波 このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
life time: 135日 8時間 34分 30秒 5ちゃんねるの運営はプレミアム会員の皆さまに支えられています。
運営にご協力お願いいたします。
───────────────────
《プレミアム会員の主な特典》
★ 5ちゃんねる専用ブラウザからの広告除去
★ 5ちゃんねるの過去ログを取得
★ 書き込み規制の緩和
───────────────────
会員登録には個人情報は一切必要ありません。
月300円から匿名でご購入いただけます。
▼ プレミアム会員登録はこちら ▼
https://premium.5ch.net/
▼ 浪人ログインはこちら ▼
https://login.5ch.net/login.php レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。