【初心者】スレッド立てる前に質問をPart46【歓迎】
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前スレ
【初心者】スレッド立てる前に質問をPart45【歓迎】
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1646274482/
なお、同板内の質問スレっぽいスレ
歴史担当の学芸員だけど質問ある?
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1590081701/
は、すでに読者もなく完全に死んでいるので、質問スレとして統一するならばこちらに統一するようにしてください。
間違っても、学芸員質問スレに誘導しようとしないでください。 神護景雲4年に多井畑で厄除祭したのは事実なのか?続日本紀に記載があるが 宮中三殿は神社に含まれるのですか?
または、神道施設に含まれるのですか?
さらには、宗教施設に含まれるのですか?
>>4
宮中三殿は内廷費で運営されてるんで、神棚みたいなもんですよ
そうじゃなきゃ違憲になっちゃうよね
天皇家の神棚ね >>5、6
天皇家の神棚かぁ
難しいな
神棚って神道施設には含まれないか
どういう位置付けになるんだろう >>5
皇室の宗教性と政教分離の原則って憲法9条と同等レベルで矛盾を孕んでいるというか、現実と乖離してるというか、なんというか
天皇の最大の存在理由は祭司王だとか、国民の幸福を日本の神々に祈るのが仕事とされているのになぁ
それを表明きっては言えず、私的行為なんて言い方してるのは引っかかる 昔は「公民」っていう教科があったが今はないのか
日本の中・高に通ってないから半端な知識で意味不明なことをつぶやくのか…… エリザベス女王はイギリス国教会のトップだけど、イギリスの政教分離はどうなっているの? 君臨すれど統治はせず?だっけ
日本の天皇みたいな感じじゃね?
天皇だって、祭祀とかやってるし。 >>15
細かい議論はWikipediaでも読んでね。
政教分離ってのは要するに信教の自由を全うするためのシステム論だが、具体的なシステムのありようは各国の歴史的背景を反映して様々。
イギリスみたいに国教を定めていること自体は全く問題ないと考えられている国もたくさんある。
厳格分離といわれるアメリカでも、大統領就任式で聖書に手を置いて宣誓するのが政教分離に反するとはされていない。 神道 → 伝統文化
国教 → ローマ教皇庁から分離
新教 → 聖書原理主義
--- 外国勢力の壁 ---
ローマ=カトリック → 外国(ローマ)勢力
原始キリスト教 → 西アジア
仏教 → 印度
統一教会 → 朝鮮 >>20
キリスト教のスタートは西アジアじゃなくてローマ領内でギリシャ辺りの場所だぞ >>23
それが、違うんだよ
キリスト死後に弟子たちがローマに向かいながら布教したのが始まりで、最初の聖書(新約の方。旧約はユダヤ教の経典で、キリストに関する記述はない)はギリシャ語でかかれている
あえてアジアと言うなら、布教の旅の道中の、ある程度まで教団のかたちができはじめたあたり、小アジア(現在のトルコ)辺りかもしれんが、
ほぼヨーロッパの領域に入ってからスタートしてるんだ
当初から、主にローマ周辺で布教してる 国会答弁で100回以上虚偽答弁した
安倍さんの国葬するっておかしいだろ。
日本も情けないですね。
岸田政権は無能ですね >>27
有料でも買う。でも5,000円以内で勘弁な。 鎌倉時代の初期を見ると源義経やその兄の範頼や梶原景時や畠山重忠や和田義盛といった武勇に優れていた武将でも謀略により殺されています。
と考えると、劉備玄徳がいくら彼自身が武勇に優れまた関羽や張飛といった一騎当千の部下を有していたとしても、諸葛亮がいなかったら蜀漢の皇帝にまで登り詰める前に死んでいた可能性が大きかったとは思われませんか? >>32
そりゃ、荊州で追い付かれて負けて死んでたろうね
古代の日本でカルト宗教が流行って朝廷から鎮圧された事件ありましたよね
あれなんでしたっけ
仏教とかじゃなくて、道教とかシャーマニズム系だったかな
五斗米道とかに似た話だった気がするんだが全然思い出せない 古代だから奈良時代以前かな?
仏教じゃない?
知らんなあ 大国主命とか?
アマテラスに滅ぼされたストーリーかな? >>36
いちおう、平安時代の前半までは古代
平安時代後半ぐらいから中世 該当する可能性があるのは奈良末期の道鏡事件だろうね。
和気清麻呂が宇佐八幡様から偽の宣託を受けたため、その一派が左遷された事件です >>40
だとすれば
弓削道鏡がカルトなのか?
和気清麻呂がカルトなのか?
道鏡が悪者にされやすいけど、孝謙天皇を治療してやったら、勝手に皇位を譲るとか言われただけだし。
清麻呂は宇佐神宮の、おそらく偽の神託を報告してるから、完全に中立で見たら悪いのは清磨なんだよなあ。 江戸時代、マグロは赤身が好まれトロは傷みやすく捨てられることもあったと聞きますが
そもそもどうやってマグロ漁をやっていたのでしょうか?
船も網も仕掛けも現代より遥に劣るわけです 道鏡は空海が密教を中国から持ち帰る以前から華厳宗と法相宗経由かなんかは知らないが雑密を修め真言で病回復を祈祷していたから僧侶としても只者ではないよ。
法相宗だから唯識の禅定(瞑想)のマスターでもあった。 江戸時代に言われた「女の好きなものは芋・たこ・なんきん」
この”芋”は里芋ですか山芋ですか? (時代的にさつまいもではないと思う)
うーん陰陽師系のカルトだったかなあ
中央に鎮圧されてるんだよね >>46
>「女の好きなものは芋・たこ・なんきん」
井原西鶴の言葉のようで、彼は1642-1693。
サツマイモを普及させたと言われる青木昆陽が1698-1769。
なのでサツマイモの可能性は低いですね。江戸後期になるとめっちゃくちゃ栽培
されていたそうですが。
里芋、ヤマノイモともに平安時代あたりから農作物なのでどちらも庶民に馴染み
ありますね。イメージ的には里芋だと思いますが。 芥川龍之介の芋粥(舞台設定は平安時代)に出てくるのは山芋 >>51
かわかむりの筍ではなくカサの広がる茸が好き、みたいなエロい発言かな? この今昔物語に出てくる尼さん達を愉快な気分にさせて踊らせたキノコはベニテングダケではないかと言われてるな
https://blog.goo.ne.jp/miyabikohboh/e/6068b5bb50ebb3f770b188b309a57f9e
食べると酒に酔った感じになるらしい
(食べすぎると食当たりを起こすらしいが) 新撰組の池田屋事件を評して、よく「未曾有のテロ事件を未然に防いだ」と言われます
しかし、志士たちの計画は京都に火を放ち、京都守護職の松平容保を殺害し、孝明天皇を長州へ連れ去って、長州を官軍にすることだったようです
そうであるならば、この計画はは未曾有のテロである以上に未曾有のクーデターだったのではないでしょうか?
なぜ、「未曾有のクーデター事件を未然に防いだ」と評されないのでしょうか? 古高俊太郎を逮捕した新撰組は拷問によりクーデター計画を得たとされるが、自白内容は氏名のみであったとも言われる
新撰組の日誌にそのような計画が記されもしていないのであるし、志士側の記録にも見当たらない
クーデターは新撰組によるでっち上げの可能性があるのである
木戸孝允日記にも池田屋の会合は古高を救うための会合としか記されていない >>57
天皇誘拐の計画までは実証されてないということですか?了解です >>57
小説や漫画その他で池田屋事件を説明している場面でも、「京都に火を放ち〜松平容保を殺し〜天皇を誘拐し〜長州を官軍とする未曾有のテロ事件を未然に防いだ」と説明しているのは腑に落ちない
すでに天皇誘拐や長州の官軍化を説明しているのだからクーデターのはず
「京都に火を放ち〜松平容保を殺す」までだったら未曾有のテロでもあっているけど 言うだけならな。
全てクーデターになるよ。実朝殺害も桜田門外の変も禁門の変も浅間山荘も地下鉄サリンも。
安倍を殺し反統一国家を樹立する計画だったら、奈良県警は未曾有のクーデター事件を水際で防いだと評すべし
引責辞任は可笑しかった >>60
> 奈良県警は未曾有のクーデター事件を水際で防いだ
全く違う。
奈良県警は世直しクーデターの勃発を史上空前絶後のザル警護で絶妙にアシストした。
世直しクーデターは現在なお進行中だ。
そのバトンは、今や全ての日本人の手に託されている。
その程度で空前絶後なわけあるか
何でも誇大表現すれば良いものではないぞ
それに小説や漫画の設定を前提にして、その小説や漫画の表現が気になると言われてもね
その作品のスレで聞けとしか 『ドグラ・マグラ』への批評ですか、それは?
山上様の小説や漫画はありますか? 「REVOLUTION+1」という映画宣伝は別にして(作品スレなし) 記紀の出雲神話には有名な『スサノオが高志之八俣遠呂智(コシノヤマタオロチ)を倒した』話が登場してくる
けど肝心の出雲国風土記にはそんな記述無くて、代わりに『オオナムチが越之八口(コシノヤグチ)を倒した』と書いてある
杵築大社(現:出雲大社)が出来た経緯も違う、出雲国風土記には天孫が来る前からあったとされる。
しかし記紀では国譲りの代わりに作ったと。
いったい何が真実で、何が真実でないのか
嘘だとしたらでっちあげた理由は何なのか なぜ出雲国一宮は出雲大社じゃなくて熊野大社だったのでしょうか 磐井の乱も、日本書紀、古事記、筑後風土記で、伝承がバラバラだしな
日本書紀 国造の磐井が反乱を起こした
古事記 磐井が無礼なので、継体天皇が殺した
風土記 継体天皇がいきなり攻め込んて、磐井は逃げてやまのなかで死んだ
それぞれの思惑があるからなあ 日本書紀だと筑紫国造だけど、古事記や筑紫では筑紫君なんだっけ
まあ九州王朝説とか好きな人のが詳しい話知ってるでしょう >>67
そそ、たぶん日本書紀が話を盛って、磐井がヤマトの国造だったように書いてる。
磐井はヤマトの臣下では無かった可能性があって、ヤマトが磐井を滅ぼしたのを正当化する目的で色々記事を書いてる。 もう少し後の時代にも、火の君(肥前を中心としたえりあの領主で、ヤマト朝廷の配下)もいるのだから、筑紫の君で朝廷の臣下だったんじゃね
日本書紀が、編纂時の言葉に翻訳してしまっただけだと思う 500年くらいまでは新羅に出兵しているわけで、
北九州が支配下に無い状態で朝鮮半島に出兵するのは考えづらいよな。
支配下というかアメリカと日本みたいな関係の同盟国だったのが反抗したと見るならありえる。 >>68
『日本書紀』は九州がヤマト王権の故郷/聖地であると云う国家像を正史としてしまった以上、
そこに在る反ヤマト/非ヤマト運動は全て「叛逆」と位置付けるしかない。
叛逆である為にはその運動主体は予め臣従していたとするしかない。
--と、結果から逆算した辻褄合わせだろう。
逆に九州から処女地であるヤマトへ侵攻した磐余彦を迎撃した長髄彦については「叛逆」とはしていないから、
『日本書紀』なりに世界観の整合は付けているように見える。
>>71
なんで、ヤマト政権が九州を故地にしたのか?って、
隼人とか熊襲が、記紀編纂時ですら反乱を起こしてて制圧が完了してなかったから、
貴方たちと我々は、もともとは同じ先祖の仲間ですよ。っていう意図があったのでは?
直木が言ってた。 >>70
磐井が独立勢力だった説は、
磐井氏が、その時の利益があると見なした勢力に協力してただけって説だ。
ヤマトについた方が利益がある時はヤマトに
朝鮮勢力、例えば新羅についた方が利益があるって判断したら、そっちについてたって説。
それで、勢力を伸ばした継体が磐井を滅ぼした。
水谷千秋の本で読んだ。
結構メジャーな説らしい。 新撰組と新選組、どちらの表記も使われているけど、どちらの表記が正式もしくはメジャーなんでしょうか? >>72
まあ…、何と云うか…、直木氏のその見解--と云うよりは直木史学そのものが津田史観のヴァリエーションよな。
津田史観については色々とアレもあるが、
津田氏の時代には知りようもなかった考古学知見を得た現在の視座からそれを批判するのはフェアじゃないから控えておく。
ただ二点だけ。
津田史観は史観と云うよりも物証抜きのイデオロギーであること、
2022年現在それを教条的に崇めるのはもはや皇國史観と好一対のドグマでしかないこと、
これだけは指摘しておきたい。
>>74
どっちでも良いんじゃないか。
幕末以前は音が同じであれば異字を用いることにも割合寛容だったそうだから。
新選組自身は屯所の表札に「選」を用いていた旨『新選組始末記』に八木氏だったか前川氏だったかの懐旧談があるが、
他の同時代史料にも「撰」の用例はあるようだ。
>>72
単なる、架上説だと思うがな
新規に服属した日向地域(たぶん、薩摩大隅から豊後あたりまで、九州の東半分ぐらい?)の祖先神とヤマトの祖先神を結びつけるのに、既存の範囲内では整合しないから、より古い祖先をでっち上げるべく、初代を九州出身にして、九州の地方王とは遠い親戚で、共通の祖先神を信仰してるんやでと、でっち上げただけ >>78
記紀編纂時どころか、平安朝に入っても、東北の制圧完了してないのはお察しの通り。
記紀編纂者にどうしろと?
ヤマトタケルの章で充分やん? >>75
直木史観は好きだし、鋭い視点と思うけど。
津田左右吉をよく思ってないようだけど
津田史観に有効な反論出来ずに、統一教会みたいなカルト的皇国史観に基づいて、歴史観を構築してた戦中の歴史家の責任は?
神話と歴史を混合して、記紀を神聖化して議論出来ずに、歴史学者の弾圧を繰り返した。
これじゃあ、古事記を偽書扱いして自由な議論が出来た江戸時代の方がマシ。
そして、現在の反津田史観の歴史家も津田史観への充分な反論は出来てないしな。 >>80
そもそも古事記の信頼性が著しく乏しいのだけど
古事記とは一人の曖昧な口伝と一人の書生による
3ヶ月半の突貫工事で出来た書3巻しかない日本昔話であって
日本書記の膨大な書と多くの学者で39年もの年月をかけ
緻密に編纂され書30巻+天皇家 家系図1巻からなる
緻密に編纂された日本正史とは比較する出来ない古事記のお粗末さ
しかも日本正史の編纂が開始されたのも日本書記が日本最古となるし 欠史八代も津田左右吉が主張した説だし、今では完全に定説になってる。
それどころか、雄略は居たかも知れんが、確実に実在した天皇は継体以降しか確認出来ないって言うのが、現在の古代史の定説だから、もはや津田史観を越えたと言える。 >>81
日本書紀が古事記より信用出来るって。
水谷千秋も日本書紀は中国の史書を参考にして編纂したもので創作記事が多くて、内容の信頼性は低い。
古事記の方が本来の帝記、旧辞を伝えているって言ってるのに。
武烈段とか、すべての歴史家が創作された記事って言ってるのに。
古事記の方が、信用出来る >>83
ご勝手に信じとけばいいんじゃない
インスタントな日本むかし話の古事記をw まあ、継体系統の王朝の正当化を計るべく、40年の歳月をかけて歴史修正しまくったのが日本書紀って考察は理解出来る。
修正工作がバレバレやけどな >>84
古事記の方が、本来の帝記、旧辞を伝えているのは、あなたも認めるだろ?
だいたい、40年もかけて何を捏造してるんだよ?(笑)
そのまま書いたら、終わる作業やん? >>85
そもそも他の王と比べても継体の記述なんて少ないし
王朝って言えば聞こえはいいが継体の時代は大王だし
奥琵琶湖の辺鄙な所で生まれ育った継体は傍系でも
応神の血を引いてたからワンポイントリリーフの形で
大王(当時は天皇称号はなかった)を継投しただけだから 応神って仲哀と神功の間の子
仲哀の父親はヤマトタケル
これらの人物はすべて、実在が疑われている。
応神は、聖帝って呼ばれた仁徳の父親。
その応神の5世孫が継体。
そんな都合よく系譜がつながりますかね?
応神は実在の低い天皇に付けられる神の字がついた漢風諡号。
継体の継は、継母みたいに血の繋がりの無い関係を表す漢字
あっ!これは奈良時代の知識人、分かってますわ。
すべてバレてますわ。 日本文化は奈良盆地からは生み出されず
日本文化の発生源は文字からして
ほぼ全て中国から生み出されたものだからねぇ ヤマト朝廷が蝦夷や熊襲にしたことは今中国がウイグルにしていることと同じで民族弾圧 川上建日別率いる九州熊曾国(異称・熊襲)の姫だった襲武媛は
ヤマトタケルの父である景行天皇の皇妃(妻)なったと日本書紀に明確に記録され
襲武媛と景行天皇の間には4人の皇子が生まれ第一子を国乳別皇子といい
長子の国乳別皇子は分家し水間氏と名乗った後
北九州筑前(現在の福岡市周辺)を支配してた記述は注目に値する カワカミタケル率いる熊曾国(異称・熊襲)の行縢山は
九州にある日本最古にして最大規模を誇る西都原古墳群に近辺なんだよな
魏誌倭人伝に記される邪馬台国や卑弥呼など倭国の秘密が握られてるのは確実 >>87
近江高島は、今では奥琵琶湖の辺鄙な場所だけど、古代では北陸と畿内を結ぶ重要地域やぞ。
彦主人王が住み着いたのも、たぶん重要性を理解してたからだと思うぞ。 >>91
だが、蝦夷の文化の一部は武士の起源に繋がってるし、熊襲は一部が裏切って(?)ヤマトに服属して隼人と名付けられてるわけでな
その服属が重大事件だったからか、のちの朝廷の行事のいくつかで隼人が特別な役割を与えられるぐらいに。 >>65
出雲は西部と頭部に分けると分かりやすい
東部は出雲国造家の本拠地で累代の墓も東部にある
一方の西部には東部と異なる遺跡が多く存在し異質である
ある時、西部勢力と東部勢力で争いが起き、東部の出雲国造家勢力が大和朝廷の後ろ盾を得て、西部の出雲大社の勢力を滅ぼした。
その後出雲国造家と大和は残存西部勢力を懐柔(祖先を結びつける)するために、杵築大社は国譲りのために作られたという事にした
だから>>64に書かれた通り真実の歴史を書いた風土記と記紀の間で齟齬が生じた 寄生虫だから貧北方民族なんて
紛れ込まないと存在出来ないというマジレベルだし ヤマタノオロチって北陸の 越 コシ から来たんですか?
あんまり触れてる資料が無いのです。
北陸だとすると、製鉄氏族を滅ぼして、鉄剣を手に入れた。みたいな解釈出来ませんか? 和宮はどうして和宮と呼ばれるのですか?
歴史上の多く皇女は「○○内親王」ですよね
親子内親王のほうが統一感ありますよね >>100
和宮が降嫁すると宣伝する際に諱を避けるのは当然です。
今はそんな事は気にしないけど敗戦まではそうだったのです。 >>100
今でも皇族の方のことは(特に男性皇族は)○○親王とは呼ばずに○○宮と呼びますよね
さすがに皇太子を東宮と呼ぶことは少なくて多くは皇太子様と呼びますが、
他の皇族は宮よびします
○○親王という名前はありますが、そのようには呼びませんよね 敬宮愛子内親王殿下
敬宮→宮号
愛子→名前
内親王→?
殿下→敬称
内親王は何になりますか? 平安末期〜鎌倉初期の武将の名前って
頼 義 家 時 盛 宗
って同じ漢字が使われてる武将が多すぎて覚えにくくないですか? >>106
ありがとうございました
ということは、皇太子、親王なども称号ですね?
他に称号ってどんなのがありますか? 平将門は桓武天皇の直系の5代目でしたから新皇になる資格は有していたのでしょうか? いちおう、歴代天皇のなかに一人だけ、臣籍降下したあとに戻って即位した天皇はいる
むっちゃ針の筵だとは聞く
臣籍降下したあとでも戻って即位できるなら自分が天皇になりたいといって横やりいれた大臣がいたり、かなり大変だったとか うちも村上源氏の家系だったはずだがひょっとして俺にも皇位継承権があるんか? さすがに、臣籍降下したすぐの初代以外が即位したことはない
世襲宮家は毎世代必ず親王宣下をうけて親王にならないとダメで、親王でない人(諸王)の子孫は親王になれないし、親王でなかったら基本的に即位できない 一般的に言って、歴史として信用出来そうな記事って奈良時代の記事あたりですかね?
飛鳥時代も信憑性あやしい? >>118
彦仁王はそのまま即位して後花園天皇になった驚き 藤原鎌足の牙像をみたら、弓を持ってます。
継体天皇の画像、銅像も弓を持って、同じポーズを取ってます。
このポーズは昔は格好良いポーズとして多用されていたんですか? 藤原仲麻呂によって天皇に擁立された塩焼王
木曽義仲も以仁王の子供を天皇にしようとした 連合艦隊隊長だった山本五十六って、海軍の序列で上から何番めだったんでしょうか?
トップではないけど、あそこまで有名で国葬までされたのは、開戦時の真珠湾攻撃の責任者だったからですか? そうです。ロンメルやソレイマニと同じく敗軍の将を隠すためです >>124
ありがとうございました
ちなみに、連合艦隊隊長というのは海軍の中で序列どれくらいなんでしょう? 艦隊だからと言って隊長とは言わない
連合艦隊司令長官だ
山本五十六は海軍大臣に次ぐ次官として軍政一般を統括する立場だったが、昭和14年からは連合艦隊司令長官に転じ、専ら戦闘を担当する立場になった
次官として政治にも首を突っ込み、日米開戦を回避できるよう努力する立場を続けたかったが、山本が右翼筋から暗殺される可能性を米内光政海軍大臣が心配し、一時的に海軍中央から遠ざける人事をおこなったのである
しかし戦争屋としての司令長官となったからにはアメリカを仮想敵とし戦略を練り、真珠湾攻撃、ミッドウェー島攻略を立案した
だが、ミッドウェー海戦に敗れ、短期決戦で日米戦を終わらせる見込みもなくなって打つ手がなく、最後は危ない南方前線視察に出て戦死するしかなかった >>126
無知でスマソ。
山本が右翼から命を狙われるって何?
理由は?
あと、実際に可能なんですか?
現在の価値観から見たら、当時の右翼ってカルト宗教みたいなモンでは? >>127
日独伊三国同盟に反対する山本への軍部内の同盟賛成派や右翼勢力による暗殺を米内が危惧した
血盟団事件により政財界の要人が暗殺され、二・二六事件、五・一五事件を軍部自体が起こすような世の中だった
>>128
帝国海軍にはこういう部門があったから司令長官がどんくらいのものなのかは判断してください
内閣に属し軍政を担当する海軍省
作戦・戦略を行う天皇直属の軍令部
外局として艦政本部、航空本部など多数の外局
海軍工廠などの軍需工場
海軍大学校、海軍兵学校などの教育組織
各種術科学校
地方鎮守府
警備府
海軍病院
天皇に直属する艦隊司令長官
鎮守府部隊・警備府部隊 ぶっちゃけ、鷹司信平、伊達政宗、立花宗茂は、徳川家光に掘られたの? (性的な意味で) >>127
日独伊三国同盟反対の海軍側首魁と目されたからじゃね? 但馬と丹後が日本で一番3世紀の鉄器出土数が多いみたいな話どっかで聞いたのですけど、これってソースありますかね? 山本五十六が戦死ってアホかw
山本五十六はアメリカで生き延びてるわw
米を戦争に参加させる事になった最大の恩人だからな
戦死という形をとって米国にかくまった
いずれ写真とともに暴露されるだろう
現代史の最高機密だ 開戦を決めたのは山本じゃねぇよ
宣戦布告が遅れたのは山本のせいじゃねぇよ 第二次世界大戦の時の日本の陸軍の将校って部下には勇ましいことを言って兵卒率いさせて無謀&特攻作戦を取らせて自分は現地から逃げ帰った人が多いですが、将校は敵前逃亡しても不問にする気風が陸軍にあったのでしょうか? >>134
昭和天皇がお決めになったとでも思い上がってんのか?
石油が枯渇すると恫喝して開戦を迫り、山本が真珠湾攻撃に適した日を開戦日に決め、
外務省に対しては作戦を秘密裏にひた隠し、奇襲直前に布告しろと無理難題(国際法上違反)を要求し
遅延工作したんだよね。シビリアンコントロールだから決定権者は文官だと言い募っても実質的決定者は山本 >>136
はいはい、山本はアメリカにかくまわれたんでつね >>135
そういうことをすると人望が下がり、上からも見放されることが多いけど、
かといって、作戦続行中に現地トップが連絡つかなくなったり戦死したりすると戦闘終了、敗北直結する危険が高いため、たいていの場合は指揮官が生き延びることはとても重要です
いさぎよく玉砕しちゃう指揮官は、あまり役に立ちません 「アメリカとやるとなれば半年や一年は存分に暴れて見せましょう」
緒戦に打撃を与えて太平洋における日本の優位性を示したところで、あとは政権が講和を取りまとめるしかない
‥この構想が破れ、長期戦になればアメリカの国力には敵わない
あと出来ることは死ぬことくらいしかない
将官でありながら前線視察に出て兵を督励、そして戦死
山本五十六は死地を求めたんではないか 昭和天皇が吉田茂に対して、「東條英機はまっすぐであったが、何某は贋であった」というようなことを言ったらしいですが、何某って一体誰のことでしょうか?
明確な答えじゃなくとも、歴史家や研究者の中で推測されている人物、あるいは解釈など何かありますでしょうか? >>141
吉田茂にきまってるだろ。
誰かさんはダメだよなあって本人の前で言う嫌味じゃん >>141
時節柄、岸信介ってことにしとけば収まりが良い。
史上最悪の売国奴だからな。
昭和天皇から見て、なんで吉田茂は駄目だったんですか?
昭和天皇がそこまで言う人物を戦後初かつ唯一(当時)の国葬にしたんですか? 目の前にいる、対話相手だからこそ軽口を言えるだけで、本気で嫌ってたりはしないと思う いろんな本を読んでいると時々歴史上のちょっとした著名人が実は日蓮宗(あるいは法華経)を信仰していたというプチ情報を得ることがあります
たまたまかも知れませんが、日蓮宗(あるいは法華経)以外のケースはほぼありません
これは本当にたまたまですかね?歴史上のちょっとした著名人に日蓮宗(法華経)の信者が多いなんていうデータがあるんでしょうか? >>146
後醍醐帝は密教。
清盛一統は天台だろう。
甲斐武田氏も小田原北條氏も禅だ。
徳川氏は念仏。
というように例外は再現無く挙がるが。 >>146
鎌倉幕府関係の有力者には一人もいないはず
むしろ、日蓮を流刑に処したりしてるはず 加藤清正、北一輝、石原莞爾、宮澤賢治らの危険分子に多い。つまるところ読む本が間違っている >>146
日蓮が生まれる前の時代に人はいなかったのか? >>150
血盟団とその指導者の井上日召
死のう団とその指導者の江川桜堂
も追加で >>150-152
まあ、開祖があんなタイプなのもあって、攻撃的な人を出しやすい気はするな
天文法華の乱とか、安土宗論とか引き起こしてるし。 >>151
法華経が伝わる前の時代に歴史はなかった
からセーフだと思う(横 >>141
木戸幸一について近衛と反対で事務的だったとしたうえで、「私自身も事務的だから…、私は木戸の方がよくあつた。あれなら話がよく出来る。
近衛はよく話すけれどもあてニならず、いつの間ニか抜けていふし、人はいかもの食ひで一寸(ちょっと)変つたやうな人が好きで、之を重く用ふるが、又直(じ)きにその考へも変る。
政事家(せいじか)的といふのか知らんが事務的ではない。
東條ハ之ニ反して事務的であつたそして相当な点強かつた。強かつた為に部下からきらはれ始めた」と述べたとも記されています。
https://www3.nhk.or.jp/news/special/emperor-showa/articles/diary-person-01.html >>152
井上日召はそもそもが日蓮宗の僧侶
つまり本職 仏教の宗派でいうと浄土真宗が最多だけど、確かに歴史上の人物で「彼は浄土真宗に帰依していた」とか「浄土真宗を信仰していた」とかは読んだ覚えがないな
上に出ているけど、北一輝、石原莞爾、宮沢賢治は読んだ覚えがある >>159
本多正信
貧乏人向けの宗教だから致し方ないところがある
徳川家康や安倍晋三は浄土宗 でも浄土宗や浄土真宗は極楽浄土というあの世に行かないと救済されない
法華、でも日蓮宗限定だが日蓮宗は皆が題目を唱えるとこの世が浄土になるという生きてる内から素晴らしい世界になる思想で魅力がある 娑婆即寂光
この世は娑婆世界で苦しみに満ちているようだが南無妙法蓮華経題目を唱えるとその時に人は仏となり娑婆世界が寂光土という浄土になるという日蓮の教え
世界の人が皆題目を唱えるようになると寂光土は常寂光土となり地上は永遠の浄土となる
この世のすべての人が法華経に帰依して永遠の浄土が実現するので「一天四海皆帰依妙法(妙法とは法華経のこと)」を目指すことになる
だから日蓮宗は布教に熱心であり折伏を続けるのである
宮沢賢治「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」 >>162
ついでに云うと、
地獄も極楽もあるかよ馬鹿野郎。
神も仏も鬼も魔も無ぇよ篦棒メ。
悟りたきゃ手前ェで勝手に悟れ。
--ってぇのが、禅。
所詮金持ちの道楽だよ。シッダールタがそうじゃん
真言 → 真のエリート。影の支配者、密事(バラモン)
天台 → 表のエリート。百識ひけらかし(儒教に近い)
禅 → 金持ちの引き籠もり。ゆったり現世で無我の境地(道教に近い)
-- 超えられない壁 --
浄土 → 暮らせる程度の貧乏人の合唱。来世では、、と夢想に縋る(基督に近い)
日蓮 → 暮らしていけない程の極貧で世直し期待。変革思想(マルクスに酷似)
創価 → 上記、実行部隊(共産党と活動域が被る) 中世の法華と真宗は裕福な町人を信者として集めるライバル関係で、支持層が重なっていたから天文法華の乱なんて事件を引き起こしたんだよ
住み分けできてたら、あんな事件は起こしてないよ 裕福な町人ね。ジャイナ教のバイシャ
念仏系の中でも真宗、一向宗、日蓮宗は下層だろう。何棲み分けって??
境界線があるとでもお考えですか、誰かに縋るとか何かを唱えるとか現実離れの濃淡にグラデーションしかない
日蓮正宗、創価学会と更に下層もあるが 日本史上で宗教枠を超えて登場するのは行基、道鏡、天海あたりだが、この人達は僧侶としても
行基、道鏡→唯識(法相宗)…五感+意識が捉えている世界は根源意識であり輪廻転生の主体となる阿頼耶識が作り出した幻影であり一切は空であり、瞑想と菩薩行をして三劫(五劫)の後に成仏できる云々。
天海→天台宗の僧侶で6,000巻もの一切経を編纂、なお俗説てして中身は明智光秀説あり。
とエリート仏教の出自だから民衆はついていけないはずだが、行基は菩薩行メインで土木工事で優婆塞という在家信者を増やしては民衆の生活改善に大いに寄与、その優婆塞を率いて大仏つくりにも大いに貢献した。 日本では浄土真宗をメインとした浄土系が一番信者数が多いと言われているけど、個人的に日蓮宗をメインとした日蓮系(法華経系)の方が多いかも知れないと思っている
伝統仏教の範疇なら浄土系の方が多そうだけど、いわゆる新宗教を含めると日蓮系(法華経系)が上回りそう
創価学会、立正佼成会、霊友会、顕正会とかあの辺の大きいところはそうでしょう?
今すぐには思いつかないけど、他にもあったはず
これはあくまで自分の仮説であり、なんのデータもないけど実際どうなんだろう? >>167
一向一揆とか天草一揆とかみたいに、宗教戦争且つ階級闘争みたいなの起こってんじゃん 一向一揆と戦った領主勢力(侍)は家康を初めとして真宗を嫌い、そういう反乱を起こさなかった浄土宗の方を選んだ
うちも地方の元士族だったが、浄土宗だな >>175
その割には東本願寺を建てさせたのも家康だぞ 何日か前にNHKのテレビでやっていたが、大阪の富田林かどこかの東本願寺系と西本願寺系の寺が三百数十年ぶりに和解した件
もう全く往き来をせず、互いをdisりながら来たと言っていた
それほど西と東の対立の根深さ もともと、信長による大坂本願寺攻略の時に、門主顕如が最後に降伏して退去、それに不満を持つ主戦派が次期門跡(予定)の教如を中心に残って抗戦したのが分裂の始まりだな
秀吉時代に本願寺再興を許可したときに、顕如とともに退去したメンバーのほうのグループとのみ和解して再興したから、
もと次期だった教如を排斥する形にせざるを得なかった
対するに、本願寺戦争と関わってなかった家康は教如たちを赦免して東本願寺を建てさせたわけで。 そうすると、より武闘派、急進派が東本願寺ということか × 顕如が最後に降伏、家康は教如たちを赦免
〇 顕如が最初に降伏、信長は教如たちを赦免
顕如は教如に跡を継がせたが、継母が策を弄して異母弟の准如を後に据えた
外から見ればたんなる兄弟争いに介入したわけだ >>181
>〇顕如が最初に降伏、信長は教如たちを赦免
‥最初ってどの段階なのか
信長が東本願寺を建てさせたという文章になってしまう
わからないんですけど あれ
本願寺戦争終結の最初
つまり、和議の最初な
、てか分裂の最初
門主の顕如が大坂からの退去を受諾して退去し、退去反対派の教如らが徹底抗戦で残留した
その後、残留派も退去し、その際に本願寺は焼けた
秀吉が大坂城を建てた際に、本願寺派に協力を求めて赦免した際に、教如らとは交渉しなかった、もしくはできなかった
んで、関ケ原直前になってから、家康が教如の派閥を赦免(または援助?)して東本願寺 聖徳太子が持ってるあの板って
いったい何なんですか?
(´・ω・`) >>185
聖徳太子と云えば仏教。
仏教と云えば坐禅。
只管打坐、惑う勿れ迷う勿れ。
坐る姿勢に迷いの見える者の肩をあれで打つ。
>>185
カンニングペーパーみたいに裏に書くらしい 骨のような語感を嫌い、シャクと読むようになった
別にメモを張り付けるようなことをしなくても、これを持つことで恰好を付ける
今でも神主が持っている 今更だけど、家康が京都に東本願寺を建てさせるまで、東本願寺の勢力はどこでどういう状態だったのですか? 顕如没後、三男の准如が門主となった本願寺(今の西本願寺)の一画で長男教如は隠居の身とされていた
(隠居と言っても本願寺の敷地の三分の一に自分の堂宇を構えていた) >>195
西本願寺の信徒の家族だった。
しかし西本願寺が信徒に変な壺や如何わしい本を法外な値段で売りつけたり無茶な献金を強要したりしたせいで破産・崩壊する家族が続出、首括りが出ることも珍しくなかった。
たまりかねて告発しようとした者たちを西本願寺が謀殺したという事案さえ一つや二つではない。
しかも西本願寺は時の権力機構とズブズブだった為に全てが闇に葬られるという理不尽が罷り通っていた。
憤怒を滾らせた遺族たちが遂に暴発して西本願寺の教主或いはこれとズブズブの権力者を殺害せんとした所、
老獪狡猾にして寛仁大度の巨人=徳川家康が「まあ待て。短気は損気。俺に任せてみろ。悪いようにはしないから。」と声を掛けて彼等を自らの勢力下に籠絡した。
以来彼等は徳川方の一部隊「東本願寺」として堂々と西本願寺を攻撃できるようになり、一方徳川家康は強力な手勢を配下に加えることになったのだった。
西本願寺が従前の如き治外法権の暴威を恣に出来なくなったのは云うまでもない。
まあ、ざっと纏めるとそういう経緯だ。
>>196、197
ありがとうございました
みなさん詳しいですね
信長に降伏した西本願寺より徹底抗戦を主張した東本願寺の方が好戦的なイメージでしたが、降伏以降東本願寺が出来るまでは西本願寺が東本願寺勢力を征服下においていちびってた感じですね >>198
相変わらず自分の答えに、他者の回答を合わせるやり口ですね
少しは自分で調べる癖をつけた方がいいよ >>166
共産党と一番接点があるのは浄土真宗なんじゃないの? >>202
真宗は実はわりと政府迎合的な宗派だよ
だから、大戦中には戦争協力したりもしてる
信長と長く争ったのは、当時の信長が幕府(将軍義昭)と対立してた影響も大きい
そういう団体が共産と仲良くするとも思いにくいが スペインやポルトガルよりもメソチゾなどが多い南米のブラジルやペルーの方が美男美女率が高いそうです
また洋の東西が交わる中央アジアも混血の美男美女が多いと聞きました
日本人も美男美女が多いのは縄文系と弥生系とツングース系の混血だからでしょうか? 法隆寺に庭園はないが因可池(よるかのいけ)があるな
薬師寺に庭園はないが大池から見る景色はよい
東大寺に庭園はないが、大仏殿門前に鏡池があり、裏手には大仏池がある 京都の寺々は、そもそも貴族や武士の別荘、隠所だけど
奈良はもっと厳俊で庭園を持つ場ではない 暗殺防止の為に
鉄の柵でガードした宿に泊まるとかの発想は無かったの?
坂本龍馬
(´・ω・`) せんせい∩(´・ω・`) しょーもない質問です、ごめんなさい
公家の人って「〜おじゃる」って本当に言ってたんですか?
違うとしたら何から始まったのでしょう。 >>209
いや、単に明治維新の時に領地召し上げられて国有地に変わっただけじゃないの
神社や寺の所有地の多くが国有地にされたでしょ >>213
領地召し上げって年貢を取る土地をってこったろ >>214
荘園どころか敷地まで取られてるとこが多いだろ 東大寺やなんかは田畑山林の収入を絶たれたくらいだが、興福寺は明治5年になんと廃寺指令を受けた
敷地は奈良公園になった
明治14年、寺号復号許可を得てすっかり狭くなった境内地を整備し今日に至る かつて大和一国を支配したと言われた興福寺への反動かな 明治維新のとき、なんで徳川の首を刎ねたり殿様を追放した李しなかったの?
それどころか、徳川含めて殿様連中を貴族にとりたてるとか、狂ってる。 >>219
中国だって、前王朝の皇帝の一族とか貴族とか保護して、歴史の編纂とか行うぞ?
それこそ、周が殷を滅ぼした時も、殷の一族に領地を与えている。
それで自分たちの権力の正当化するだろ。
継体天皇だって、大和入りしたあとは、手白香皇女を嫁にして、豪族を配下にしたし。滅ぼしてない。 >>219
>徳川の首を刎ねたり殿様を追放した李しなかったの?
そういう妥協の余地のないことをしたら大半の大名が死に物狂いで抵抗するから。 >>220
それは三国志までの話ですぞ。異民族が濫入した後は賊滅の方が慣例です
徳川将軍の場合は将軍であって明治天皇の臣下だったから。家来の喧嘩の域を出なかった >>222
それ言ったら、源氏が平氏を滅ぼしたのも、家康が豊臣家を滅ぼしたのは? >>222
承久の乱みたいに政権側が、天皇家を島流しにしたり、
崇神天皇みたいに暗殺された例もある。
そもそも、応神天皇とか継体天皇は簒奪した説もあって、天皇が続いているとは限らない >>224
安徳天皇と後鳥羽天皇の争いで、平家は天皇位を争った逆臣ですね
家康の家来である秀頼の叛心なので、後水尾天皇の関知できる領域ではない幕府内の私事 >>226
大坂戦役当時
豊臣秀頼 摂家 正二位左大臣
徳川家康 精華家 正二位前右大臣散官
徳川家康 精華家 従一位前右大臣
左大臣の宣下が出て右大臣よりも位階が下のはず無いので、慶弔10年前後に従一位に叙爵されていたはず。
家格も官位も上で、家来のはず無いわなあ
軍事恫喝で摂津国を明け渡せったっておいそれと従うわけにはいかないし 下剋上の負い目からする反動だろうね
中華様も禅譲の名分が通っていたときは弑逆しなかったから。 >>224
平氏警察である
源氏が滅ぼしたのは平家であって平氏は滅ぼしていない
抑々、源氏方の勢力の多くは平氏で構成されているし、北条も平氏である >>222
>それは三国志までの話
禅譲は五代の後周の柴氏が趙匡胤に禅譲して宋が建国されたのをが最後
以後の中国は漢民族と異民族が交互に支配したから行われなくなっただけ 清の皇帝って質素倹約でやってた記憶が強いけど、明の皇族とか保護してないのか? 順治帝のとき、中国では李自成の乱によって北京が攻略されて明が滅んだ。清は明の遺臣で山海関の守将であった呉三桂の要請に応じ、万里の長城を越えて李自成を破った。こうして1644年に清は首都を北京(満洲語:beging、gemun hecen=京城)に遷し、中国支配を開始した。
少数派の異民族である満洲人の支配を、中国文明圏で圧倒的大多数を占める漢人が比較的容易に受け入れた背景には、清が武力によって明の皇室に取って代わったとの姿勢をとらず、明を滅ぼした李自成を逆賊として討伐したという大義名分を得たことがあげられる。また、自殺に追いやられた崇禎帝の陵墓を整備し、科挙などの明の制度を存続させるなど、あくまで明の衣鉢を継ぐ正当(正統)な中華帝国であることを前面に出していた事も考えられる。 >>230
宋と袁世凱が例外だと思うがな。
西晋滅亡後は胡族の習慣に入れ変わった。漢民族の王朝はないから当然だけどね、あれは自称しているだけ >>231
清が攻め込む前に明が反乱軍に滅ぼされてたわけだし、保護は難しかったかも >>233
唐末から宋までの期間、五代十国時代は漢民族の国も少なくなかったろ >>232
中国って、前の王朝民族を皆殺しにしてるって言うやつ居るけど、フビライ・ハーンとか異民族も漢民族とかそれなりに保護してたから、ある程度、前王朝の顔を立ててやって、寛大な自分たちを演出して正統化しないと中国人が反乱起こす気がする。 >>233
殷とか漢は、漢民族だろ?
周とか秦とかは西の方の民族のイメージだし、漢民族とは違うイメージ。 >>235
永嘉の乱で漢族は滅んだよ。生き残りが客家と呼ばれる少数の部族になる
だから遼金元のように自称しない王朝と北魏のように自称する王朝の違いでしかない。
漢字を使う民族はすべからく漢民族という定義なら話は別だが、今の話題は慣習だから >>219
お前さんは外国人か?
日本人ならば「天皇」なる政治装置の機能を知っている筈だ。
知っていればそんな愚問は発しない。
外国の体制変革は敗者を殲滅(あくまで名目上だが)することで体制側と反体制側の対立を「消滅」させるか、
さもなくば弁証法的過程を辿って対立を「止揚」するか、
その何れかを目指す。
勿論現実には不徹底に終わる事例が殆どだが。
本邦に於いては対立を限りなく曖昧に「無化」する機能を天皇なる政治装置が担っている。
よって少なくとも天武朝に於ける「天皇」発明以後は、勝者による敗者の殺戮は殆ど行われない。
>>236
丁度良い「止揚」の例を出してくれた。
大元ウルスは前代の体制権力に取って代わったのではない。
事実上併呑して解体再編した。
これによって(心情的にはともかく)国家システムとしての華夷対立は止揚されたと考えられる。
日本史板でイタチが過ぎたか、御勘弁を。
水平社の創立メンバーの多くは奈良県御所市の出身なのに、なぜ創立大会を京都で開いたのでしょうか?
普通、記念すべき創立大会は地元で開きたいと思うような気がしますが タブーの話題に触れる良い機会。
ただ童話ってなんであんなに被害者意識強いのだろう。
差別なんてあらゆる分野であるのに、童話差別だけは駄目ってスタンスだよね >>242
ビビって字を変えて書くような軟弱者が触れて良いほど生易しいタブーじゃねえことだけは確かだな。
自分のグループ以外への差別には気にしないのが普通だろう >>241をよろしくです
仮に御所市にふさわしい会場がなかったとしても近隣の自治体にはあるだろうし、少なくとも奈良市にはあるはず
地元奈良で創立大会開きたかったと思うんだけどね 京都のほうが、被差別部落民が多くて、資金が集まったからじゃね?
スポンサーは無視できんだろ? >>234
南明の皇族藩王を次々と清国が捕らえては殺してるよ
>>239
徳川は豊臣の血縁を根絶やしにして豊臣方の大名を追放しましたよ
豊臣政権では織田弾正家を巧みに弱体化、与しやすい秀信を担ぎあげてそれ以外は追放。
織田政権で足利将軍たり得る人を擁立する大名ごと悉く戦争で殺している。
最後の将軍の義昭は毛利家の庇護で生き永らえたが、これも、攻撃を受けていた。
人質に出され義昭のた高山は幼少だったため寺に放り込まれた。
室町足利政権では、鎌倉北条家の系を悉く斬殺・追放。
鎌倉北条家は源頼朝裔を根絶やしにしたうえで。河内源氏系の御家人を政治中枢から排除。
足利家も排除された河内源氏の一つ。 >>246
資金とかスポンサーとかの関係なんですか?
え〜?って感じです
そんな理由😰 そんな田舎では記者が来てくれないから。内輪の会ではない 日本人は何故、
お風呂にバスクリンを
入れなくなったの?
(´・ω・`) 公方様(家綱公)熱海の温泉湯を直に江戸城搬入せしめるを以てバスクリンの要なし 神倭伊波礼毘古命?
息長帯比売命?
品陀和気命?
むっちゃ実在怪しいやんけ。
よっしゃ、神の漢字を付けて
神武、神功、応神にしたろ。
オホド王?
応神5世やと?
嘘ばっかつくなや。
よっしゃ、血の繋がりの無い意味の
継の字を付けて、継体天皇や!
奈良時代の知識層はなかなか攻めてて草 欠史八代やと?
どうせ、おらんのやろ。
名前考えるの、だんだん疲れてきたで。
こんなもんでええやろ。
5代 孝昭
6代 孝安
7代 孝霊
8代 孝元
後半、適当で草 >>253
後漢の皇帝、孝安皇帝(安帝)とか孝霊皇帝(霊帝)と同じ名前とか、かなり悪い名前のような気がする >>254
博識やん
知らんかったわ。
そっから取ったんかね? ちなみに、昭帝とか元帝とかの名前も実在する
霊帝は、黄巾の乱とか董卓専横とかの三国志序盤の大事件の下地を作った皇帝として、かなり不評
霊帝の死後すぐ、負の遺産が爆発して戦乱になったわけだからなあ >>256
なんで、そんな縁起の悪そうな名前にしたんかね?
やっぱ、古代天皇の漢風諡号を選定した者は、胡散臭い天皇って思ってたんかね? 第二次世界大戦の時にインドネシアに攻め入った陸軍は規律重視の軍令を無視して現地民やオランダ人の女性を強行連行して慰安婦にしてしまったそうですが、なんでそんな暴挙を働いてしまったのでしょう?
お陰でオランダ人は今でも反日が多いと聞きます。 孝昭: 中国の帝号では、前漢の孝昭皇帝(昭帝)ぐらいか
武帝の次の代(ただし、実子ではなく孫)で、幼少期に即位して若死にしてる
孝安: 後漢の恭宗孝安皇帝だけだが、東晋の10代の安皇帝も似た名前を贈られている
後者はともかく前者は、まあマシな治世ではあるか。平和な時代ではないし宦官台頭の始まりだが。
孝霊: 後漢の孝霊皇帝
>後世においても桓帝と並んで暗愚な皇帝の代名詞とされた
孝元: 前漢の高宗孝元皇帝と南朝・梁の世祖孝元皇帝。
ほか、魏の元皇帝・東晋の初代中宗元皇帝・南朝・漢の元帝・唐の世祖元皇帝
前漢の孝元帝の皇后の甥が王莽。この代に国力が衰えた上、簒奪されるきっかけを作った、かなり問題のある治世。
梁の世祖もあまり安定した統治はできてない、むしろ滅亡に向かう混乱期の様子
魏の元帝は最後の皇帝
東晋の初代中宗元皇帝(司馬睿)も、あんまり安定した治世ではなさげ
唐の世祖元皇帝は、初代皇帝である高祖李淵の父 李昞への追号で、厳密には帝号とは言えないような
昭・安はともかく、霊・元は悪い評価だねえ
帝号って、生前の業績、治績を評価して付ける名前なんだから、治世が悪かったという意味の命名としか思えないよ
奈良時代半ばの、古代の大王に漢風諡号を追贈したときの命名基準で見て、欠史八代の終盤は、滅亡寸前状態だったという評価だったってことかなあ? >>260
だとすると、
仲哀や武烈もその類の諡号であっておかしくはない筈だが。
>>261
ネタか?
この板で、その二人の天皇の記事の怪しさを知らんやつはおらんと思うが?
仲哀、すぐに天罰、神罰に触れて死亡
妃の神功皇后が大活躍するために登場するオマケ役。
武烈 有名人過ぎて、書く必要無し。
もし貴方のレスの意味が理解しきれて無かったら、スマソ。 >>259
そっちじゃねえよ。
ポツダム宣言受諾のときに、占領地の処分で、「オランダが戻ってくるまで日本軍が維持せよ」という命令があったけれど、
その命令が届く前に降伏して現地人に武器渡して捕虜になっていた。
オランダ領期には下っ端役人と郷長レベルしか現地人を統治に参与させてなかったけれど、
日本占領下では市・郡・県のレベルまで現地人で統治できる仕組を作っていて、州レベルの政策決定にも現地人を参与させていた。
日本人がいきないり統治かから抜けても国が回るようになっていたところで、日本軍が持っていた武器を渡してしまったものだから、
オランダが再占領しようと戻ってきても取り返せなくなっていた。
搾取で大儲けしていたインドネシアが取り戻せなくて大損こいたオランダがすんげえ恨んでる。 そもそも、日本軍の事知ってるのか?
強○とか起こしまくってたから、慰安所が必要になった。
オランダだけでないのは、ニュースで問題になってる事を見てたらわかること。 日本だけじゃねえしなあw
同時代の、ソビエト軍、ポーランド、ドイツ、満洲、自国領のウクライナで強姦しまくり
ドイツ軍も占領したポーランドやらフランスやらウクライナやらで強姦しまくり
連合国方もノルマンディー上陸作戦で英米加豪の兵隊が味方のはずのフランス女強姦しまくり、ドイツに攻め入ったらそこでもヤりまくり
そこんところ聞いてた日本政府も、占領にあたって元慰安婦かきあつめて占領軍向けの売春宿作る。
日本が関与してない、朝鮮戦争・ベトナム戦争でも、アメラシアンやらライダイハンやら社会問題になるレベル。 >>265
ボクチンだけじゃないもん
〇〇くんもやってるもん >>232
清は明の後継国家であることを強調してたんだよね。
このへんから、継体って、後継者って強調してるけど、仁徳朝と血が繋がってない匂いがプンプンするんだよな >>267
とりあえず、系図を見る限りは・他家に養子入りした親戚筋にすぎない感じには見える
その後も通婚関係があったとの説もあるが、分家じゃなく他家としか思えない
血縁は薄くはないかもしれんが、婿養子に入らないと皇位継承できない立場だったんじゃね? >>267
細けえこたぁ気にすんな。
どうせ仲哀と応神だって繋がってねえんだから。
そもそも神武と綏靖だってかなり怪しいぐらいだ。
うーん。
仲哀、応神、神武、綏靖、
大多数の歴史学者が居た可能性があるって言ってるのは
応神のみだと思うんですがね。
その応神も応神陵が記載されて無かったり、皇居が書いてなかったり、仁徳と記事の重複が繰り返されてたり、で真実味のある人物ではないかと。 全員、記紀編纂時に創作された人物じゃないですかね? >>270
俺は津田ドグマを鵜呑みにはしない(例えば神武の「虚構」には考古学成果との不気味な符合が多過ぎる)立場だが、
この場合は実在/非実在の議論に殆ど意味は無い。
それらの大王が実在しようがしまいが、
記紀の編者が--即ち当時のヤマト王権が--どう認識していたか。
重要なのはそっちの方だ。
不自然な説話を以てしてでも皇統が途切れずに繋がっている「公史」を書かねばならなかったということは、
逆説的に彼等はそれが繋がっていない可能性を強く意識していたことになる。
「万世一系」などと虚妄をほざいて恥じないカルト信者どもよりも、
記紀の編者たちは遥かに謙虚かつ冷徹であったのかもしれない。
そもそも、記紀編纂当時には、神武とか綏靖とかの漢風諡号はまだ作られてなかった件 大坂夏の陣の時に家康が孫娘の秀頼と淀君の助命嘆願を拒否したのは何故なのでしょうか? >>274
孫娘の千姫の秀頼と淀君の助命嘆願を拒否したのは何故なのでしょうか?
でした 単純に生かしておいたら危険だからでしょう。
実際に黒船が来なかったら、江戸時代は今も続いているだろうし 家康は夏の陣の前にも
浪人を追放するか豊臣が国替するかを選べば
豊臣家は残すと豊臣方に伝えたのに拒否されたんだよな なんで格下の側から命令するのかな
豊臣秀頼 摂家 従一位 左大臣
徳川秀忠 清華家 従一位 右大臣
徳川家康 清華家 従一位 前右大臣散官 >>279
古今東西一つの例外も無く、
より大規模な暴力装置を保有する者が上位者の位置を占める。
位階など無力な虚名のみ。
>>280
でも、日本とか中国とか韓国とか儒教の影響?か?知らんけど
位が上か?下か?にこだわるからしゃーない。
禅譲って言葉があるのも、この地域だけじゃね?
形式で、わざわざ譲るって言って、断って、繰り返して地位に就くんだろ? >>281
禅譲も殆どの事例は背後に暴力を留保した上での恫喝だからな。
「位」も「徳」も「天」も何もかも無意味。
人類社会開闢以来古今東西万古普遍、意味と実効があるのは暴力のみ。
家康も秀忠もホモっけ無いのに
家光広範囲にホモなのはなんで? >>282
万世一系の思想が出来たのは、欽明天皇以降でしょうね。
それまでは実力、武力で奪ってたぽい >>284
俺は天武朝に原型が出来て、
最終的に整形されたのは南北朝期だとみている。
逆説的だが、万世一系思想は皇統の相対化、対象化が為されて初めて成立し得るものだろう。
>>283
家康は子だくさん、秀忠は恐妻家、家光の小梨の理由付け
>>284
禅譲は、支那・朝鮮だけの因襲でしょう
日本は皇位を奪ったりしなかったし、何より上皇の方が天皇より上の地位でした >>286
> 日本は皇位を奪ったりしなかった
綏靖、応神(神功)、天武と暴力を以て大王位を奪った者は存在するし、雄略や継体にもそれが窺える。
成就こそしなかったが南朝の諸皇は暴力による北朝打倒の意志こそがアイデンティティだった。
列島の権力史だけを特別視する理由は何も無い。
どれも先帝崩御後に天皇位を争っただけであり、禅譲はなかったよ
南朝が正統なので北朝打倒は全くの無関係ですね 南朝正統説は単なる宗教にすぎなくて史実ではないですけどね >>288
津田ドグマも困ったもんだが、
いまどき記紀史観や水戸史観を真に受ける御仁がいようとは…(呆)。 >>290
神武とか欠史八代、成務、仲哀、神功あたりは、明らかに怪しいやろ。
つか記紀の成立過程を知ってたら、創作モリモリって知ってるはず。
で、こういうのに限って、武烈の記事とか、郡評論争は見てみぬふりする。 >>291
何度云っても理解できねえかなあ…。
>>272参照。
物事はメタ視点…と云ったら云い過ぎだが、構造的、鳥瞰的に考えるべし。
>>293
だーかーらー(溜息)。
実在も非実在も同じなんだよこの場合は。
正史である『日本書紀』の編者たちが「我が王権は暴力による頂点争奪の歴史を有する」という 認 識 を 持 っ て い た こ と (←ここ、太字で下線付き)、
それを公の認識として確定したことだけに意味があるんだよ。
少なくとも彼等は>>286みたいに「皇位を奪ったりしなかった」なんて御花畑なアタマは持ち合わせていなかった。
そうじゃなきゃ神武肇國を無理矢理辛酉の年に置いたりするわけねえだろ?
彼等はもっと冷徹な権力観、歴史観を持っていたし、それが現実の権力運営の基礎になっていたことは間違いない。
そのことだけが本質なんだよ。
どう読んだらそう解釈できるんだよ。それこそ津田ドグマやん
継体天皇を皇祖にしなかったのは、継体天皇が神武天皇の血を引いていたからだろう
少なくとも簒奪行為は行われなかったという認識を公に持っていたこと。そうじゃなきゃ神武天皇を無理矢理初代に置いたりするわけねえだろ? >>295
万世一系を作ったのは、皇位簒奪争いを防ぐ為だよ。
継体天皇を招く羽目になったのは、雄略、武烈がめちゃくちゃやったせい。
履中の時も戦争になってるし、安康も暗殺されてる。
このままだと、戦争が絶えないから、神武天皇を創作して、血を引いてる奴しかなれないって、条件を作ったのが継体が即位したあたりと見られている。
記紀の元になった旧辞、帝紀が成立したと見られるのも、継体朝だから、やはりこのあたりで神武天皇が創作されたと見て間違い無かろう。
一応、継体以降は明らかに怪しい出生のやつが大王になってないから、効果はあったんだろう。 皇位継承争いと皇位簒奪を混同していますね
先帝の血筋を根拠に簒奪を図ったのは大陸でも王氏、曹氏に対する光武帝、昭烈帝 >>295
ドグマ、ドグマって歴史学を学んでるのか?
本当に津田左右吉の説が、歴史学者がなんの考証もせずに支持してると思ってる?
津田がやったのは、記紀批判であって、皇室批判ではない。むしろ、津田は皇室に敬意を払っていた。ただ記紀を考証すると、明らかに信憑性の低い箇所があって、信用出来ない。って論じただけ。
そして、それは現在の主流になってるだけ。 >>297
皇位継承が血縁継承に限るって、条件がつけられたのが、継体以降と見られているから、間違ってない。
仁徳朝だけ見たら、血縁ぽいけど、応神、仲哀、成務以前は、実在が怪しいから、もともとは血縁継承では無かったのだろ。
仲哀あたりは明らかに創作の箇所 徳川に例えたら和歌山の吉宗を江戸の将軍に据えたようなものだろ >>15
別に国民に国教会押し付けてないよ
税も法も参政権も待遇に差をつけてないし >>34
朝廷側がカルト染まりそうでに反対したら皇子様に殺されて取り上げられた京屋敷がカルトの本拠地として与えられてしまう
というような事件もありましたよ。
蜷川新右衛門が物部守屋の子孫と知ったときは何とも言えない気分になった。
子孫も寺に困らされているとか気の毒。 チコちゃんに叱られるで
目上の人に様を使うようになったのは室町時代以降になってから
それ以前は目上の人には鎌倉殿のように殿をつけていた
と解説していましたが、今の大河ドラマでは後鳥羽上皇を関東の人達は上皇様と呼んでいます。
これは単に時代考証ミスなのでしょうか?
あと例えば和田義盛に対して直接義盛と呼び捨てにするのも失礼だったのではないですか?
和田殿か通名の小太郎で呼んでいたのではないでしょうか?
幕末になっても西郷隆盛などは普段は吉之助で通していた為に自分の本名が隆盛であったのを忘れていたと聞きますが。 通称に関しては似たようなものも多いし、知名度が低いこともあるだろう
大河等では主人公やそれに準ずる人以外は諱で呼ぶ感じ
便宜上意図的にそうしている様子 そもそも、言い出したら、奈良時代とか飛鳥時代とか、今の日本語の発音と全然違うから、何言ってるか?分からないらしいな。
表音文字が仮に同じ発音でも、全然違う音で読んでたとか。 >>305
ぴむがちぬ ぬにかぎろぴぬ たとぅみえて かへりみすぅれば とぅくかたぷきぬ
東の 野に陽炎の 立つ見えて 返り見すれば 月傾きぬ
(万葉集 柿本人麻呂)
学術研究の明らかにした所によるとこんな感じだったらしい。
確かに発音は現代日本語と大きな隔たりがある、とは云える。
しかし同じく七、八世紀辺りと現代の同一言語に於ける発音の違いという観点で他言語(例えば漢語や朝鮮語)と比べると、
その違いは遥かに小さいような印象も受ける。
文法や基本語彙がドラスティックに変わったわけでもないし、
子音、母音の交代原則さえ頭に入れておけば割と楽に読解できると云って良いのではないか。
古代日本で今の日本にはない発音は
wi
we
wo
の3つだけ? そういえば
ゐ ゑ を
少し昔はすべて違う発音だったらしいね。
全然分からんけど >>308
残っていたとしても中世以前までかねえ…。
江戸の戯作本等では、
ゐ ゑ を ↔ い(ひ) え(へ) お(ほ)
という書換(混同)が珍しくもないからその頃の口語発音では既に区別が無かったんだろう。
>>282
だけど、事実上の暴力装置をほぼ持たない皇室がここまで続いている現実 >>303
大河ドラマは現代人に分かりやすいように脚色した部分の方が多い、あくまでもドラマなので。
さすがに腕時計をはずし忘れたりはしないものの、人物の心情とかはかなり現代人的だしねえ
言葉も、できるだけ当時の人ふうにしてるとはいえ、現代人に分かりにくい言葉は避けてるような気がする >>307
奈良時代以前は8母音で現代(というか平安時代以後?)のような5母音とは発音が違っていた模様 >>310
平安、鎌倉以降はそうやけど、神話伝承の時代を含めての古代天皇は、軍事モリモリのイケイケやぞ。
神武の東征とか、もろにそうやんけ。
仁徳とかも雄略も、兵率いて戦っておる。
継体以降くらいから、自分で兵を率いて戦うって記事が無くなる気がする。
神話から歴史に変わる瞬間やろか? >>313
平安、鎌倉以降でも相当な年月を経ている
これだけの年月を自前の暴力装置なしで続いているだけで稀有なことだと思うけどね
権力や財力、軍事力に勝る勢力は他にいたわけだし尚更 >>314
自分は、大きい神社の宮司みたいな感じやと思う。
市長さん、知事とかの権力者は別におって、祈祷とかしますよ。
みたいな感じで生き残って来たんだろ。 >>313
壬申の乱のときだって、実際に出陣こそしてないにしても、天皇が前線に赴くべきとの意見上奏はあったように、完全に軍事から切れたとはいえないのでは
斉明天皇の頃だって、出陣する軍兵の見送りで九州まで出向いたりしてなかったか? 饅頭は臨済宗のお坊さんが中国から日本に持ち込んで伝えたとされてるみたいですが、その中国で饅頭を発明してのは諸葛亮孔明というのは本当ですか? >>315
そういう側面も確かにあるけれど、それだけじゃ語れない
もっとたくさんの側面を内包した本当に特殊な存在 公暁
https://kotobank.jp/word/%E5%85%AC%E6%9A%81-55041
コトバンクに掲載されている複数の辞書ではいずれも読みが
くぎょう
となっていますが当時の人は
こうぎょう
と呼んだのでしょうか?
お坊さんだけに音読みで こうぎょう なのかな?とも考えましたが公と書いて呉音ではクと読むそうですし >>318
また津田左右吉か?って言われそうやけど、津田は天皇の起源は祭祀から始まったって指摘してる。
津田史観が大きい勢力の今日においては、知っておいて損は無い。
それに実在した可能性の高い崇神天皇も祈ってばっかやったし 質問
韓国併合の時の朝鮮半島の呼称は日本でいいの?
それとも国名は取り払わずに傀儡政権だった? >>318
諸国の王や皇帝とは異なる本当に特異な存在だな。
だから>>239の如き政治装置としても機能し得る。
御蔭様で「日本」はカンボジアにもルワンダにもボスニア=ヘルツェゴビナにもならずに済んだ。
「天皇」はかなり早期に自前の暴力装置を棄てた(棄てさせられた)ことで俗世権力から超然とした存在に変質した。
これが上記の性質を有するようになった一つの原因だろう。
実に皮肉な話だが、
大日本帝國憲法下に於ける「統治權ヲ總攬」する「元首」よりも
″押し付けられた″日本国憲法に於ける「国民統合の象徴」の方が歴史的にはよっぽど正鵠を射ている。
この辺をマルクスもコミンテルンも初期の日共も読み違えた。
「天皇」をツァーリやカイゼルと同列視して「ブルジョア階級支配の頂点である天皇を打倒すべし!」とやっちまったのが今日も続く日本人の社会主義アレルギーの主因を成している。
>>313 >>316
「天皇」なる政治装置は、天武朝に於いて「日本」なるイデオロギーと共に発明された共同幻想だ。
それ以前の「大王-オホキミ」との間には思想的断絶があると考えた方が良い。
>>320
津田イデオロギーの説く如く崇神が最初の大王だったとしても、
何の前段階も無く地から湧いたわけでもないし木の股から生まれたわけでもない。
大王たる者が祭祀の主宰者をやっていれば済むような地位を確立する過程が必ずあったわけだ。
大王氏がその地位を如何に築いたか、物理的史実は殆ど解らない。
しかし那珂通世が喝破した如く、
少なくとも公史『日本書紀』の編者たちは「既存の統治権力を暴力を以て打倒した者」、即ち闘争者・革命者として認識していたことは間違いない。 >>319
その辺はよく知らんけど、
律令の規定で漢字音(音読み)を唐音(漢音の原型)に統一するように定められたあとも仏教界だけ例外で呉音を使い続けたとされているので、呉音で読む語句の大半は仏教関係だそうだ 日本史なのか日本文化なのか判断できないのでスレチでしたら申し訳ございません。
大正生まれ(何年かはわかりませんが今年の4月で100歳)の祖母が妾さんの子で私生児だったのですが、その頃で考えると特に珍しいことでもなかったのでしょうか? >>326
たぶん珍しくないと思う。
古い墓とか見てたら、故人の名前の下に正妻?だったか、そんな文字が刻んであったのを見た事あるよ。
だから、わざわざ墓に書き込むくらい、妾か?正妻か?とかあったんだろうなあ。 >>327
レスありがとうございます。
日本史は中学レベルで止まっているのでその頃のことが良くわかりませんでした。
ちなみに現代の価値観で考えると私生児ってあまり良いイメージはないと思うのですが、当時はそういった偏見などもなかったのでしょうか? たぶん、当時は妾という立場にも法的規定があったような
私生児ではないはず
なお、妾とその子供にも養育費生活費を出せるような裕福な人じゃないと妾を持つことはできない 父親が認知されればね、「庶子」になる
なお、算数が出来ないのか元号の計算が出来ないのか、何年生まれかわかりませんって知障だわ 妾の子と全く父親が不明なのとはちと違うだろう
正妻の子よりは低く見られたけど
最近ようやく相続割合が正妻の子と同等になった 同じ女なのに正室と側室で差別するなんて非道いな。女々格差万歳! 正妻願望の権化
同一労働同一賃金の平等主義を教えて遣りたい むかしの家制度は、庶民家庭の風習ではなく、統治権者の風習で、正室というのは共同経営者かオーナー
側室は社員なので、立場が全然違う
出資してるかどうかの違いが大きい >>335
正室と側室は同一労働じゃないから、同一労働同一賃金には反してないぞ 側室は夜伽に加え、出産・育児が加わるから同一労働ではないね 大名の子どもが多いと仲間割れ、お家騒動の元だからと余った子どもを仏門に入れたり、酷いと座敷牢に閉じ込めたりとか、可哀想すぎて涙出そう
これだったら、庶民の子沢山の末子の方が良さそう >>307
ye
表記上区別していなかったけど、「え」は殆どがye、
eは、「得」と、え~ず(行為者の事由での不可能)のみ。 >>310
征夷大将軍とか任免権は宣下の形で出されるけど? >>341
つても、江戸時代初期の将軍達や、江戸時代の老中達の多くは天皇が将軍の配下で権威付けとかのために養われてるだけだと思ってたようだけどな >>342
そそ、記紀について調べてた事あったけど、学術的に批判した歴史学者は津田だったけど、少なくとも江戸時代から、
日とか月を産んだのが、日本の神様っていうが、外国ではこんな話は受け入れられないだろう。
と批判的に、作り話って言ってる学者とか居たらしい。
その学者の名前は失念したけど、聞きたかったら、調べて書くわ。
記紀研究については、江戸時代の方が進んでいた部分もあったんだろうね。 つまり、江戸時代は天皇って全然権威は無かったんだろう。 >>343
たぶん江戸時代に限らないだろう。
記紀編纂当時から現代までの時間の中で、
「記紀に書いてあることは全て史実だ!批判的研究など言語道断!」
などとカルティックな譫言を云ったのは大日本帝国政府の八十年弱 だ け だったのかもしれない。
皇国史観の源流ともされる『神皇正統記』でさえ「それはそれ、これはこれ」という冷徹が見え隠れする。
逆に言えば、戦中戦前って、ガチで日本列島、太陽とかを産んだのは、日本の神様って教育してたんだろうか?
記紀に基づいて教育したら、そうなるわな。
今から考えたら、北朝鮮も真っ青のカルト国家だわ。
北朝鮮だって、太陽、朝鮮半島を産んだのは将軍様の御先祖。なんて教育してないだろうし。
科学的にも、めちゃくちゃだし、戦争に負けるのは当然やないか。 >>313
天皇になってないけど、聖徳太子は、物部守屋を攻めてるで。
孝徳天皇は皇太子時分に、皇位を争って山背大兄王を襲ってるで。
天智天皇も皇太子時分に、天皇の面前で蘇我入鹿を刺殺。
その面前で大臣が刺殺された女帝は、新羅との戦争に備えて、筑紫に行幸
天智天皇が崩御すると、皇太子と皇弟が皇位を争って戦争。
ずーっと時代が下がって陽成天皇、宮中で侍従を撲殺して、関白に退位を迫られる。 >>344
そうはいっても、皇位を消されるわけでもなく、むしろ子孫を残して皇統を繋げることを求められるのだから、やはりなんだかんだで権威はあったのだろう >>346
その辺の話は昭和五年生れの老母からよく聞いている。
正に記紀に基づく歴史教育が小學校から行われていたらしい。
老母曰く「泥に矛ォ突っ込んでトロトロ~って辺りで馬ッ鹿馬鹿しくなって聞くの止めちまったヨ」だそうだ。
じゃあ殆ど最初っから聞かなかったんじゃねえかとツッコんだら当ったり前だろと冷笑していた。
この不良児童は当然「神武、綏靖、…、」やら教育勅語やらの暗記も放棄した。
教える教師も本気で信じちゃいなかったろうし、教わる餓鬼どもも真面目に聞いちゃいなかった、ってのが真実だろう。
もっとも、
老母は累代の江戸っ子で地域も旧御府内だから筋金入りの臍曲がり旋毛曲がり天邪鬼の血筋や土地柄だから特殊だったとも考えられる。
田舎の事情は知らない。
>>344
神田明神の氏子連が明治天皇に頭を下げさせた話なんぞから見ても、
少なくとも江戸っ子は天子様をちっとも有り難がってはいなかったんだろうな。
明治天皇すり替え説というとんでも説があり、その根拠として少年期と青年期で性格が全然違うとか、体格が全然違うというものがあります
また、明治天皇のわがままに対して、西郷隆盛が「昔の身分に戻すぞ」と言い放ったという真偽不明な話もあります
このすり替え説を否定する論としては、明治天皇の性格や体格の変化や西郷の発言に対して、どのように答えているのでしょうか? 孝明天皇暗殺説もあるよね
すり替えより、こっちの方が遙かに可能性が高いと思う 現在は太平洋戦争敗戦からが現代史という位置付けですが、この先大きな国体や政体の変化や遷都、戦争などがなければ、ずっと敗戦〜現在までが現代史ということになるのでしょうか?
例えば、上記のような大きな変化がないまま150年くらい経てば、「現代史230年」みたいな感じになるのでしょうか? 平安時代も大きな国体や政体の変化や遷都、戦争などなかったのに、398年で切られただろう
そのうえ、つい最近7年ほど削られた >>353
もしも統一協会問題が正しき着地点に達し得たならば、
「敗戦後史」は本年を以て終焉する。
来年以後は新たな歴史区分となるだろう。
その時代を何と呼称するか、それは未だ明らかではないけれど。
宗教関係は難しいと思うぞ
統一よりも、実は草加が厄介
知り合いに医者の三世信者居たけど、めちゃくちゃ莫大な献金してる
統一の比ではない
草加が猛反対するから、ウヤムヤになる。 >>354
摂関政治→院政
福原遷都
武士の出現
平安時代もいろいろあったように見えるけどね >>355
今やってる統一教会系の法案ってそこまで重大重要なもん?
そこまでのもんだとは思えないんだけど
重要ではないとは言わないけどね このサイトなんですけど
https://intojapanwaraku.com/culture/74308/
紀元前3000年には朝鮮半島で稲作してたとか、日本列島の稲作は朝鮮半島から伝わったとかとんでもないことを言ってる
てっきり個人サイトかと思ったら、なんと小学館のサイトだったんです
ありえないんじゃないですか?
どう思いますか? >>357
それは期間中の出来事でしょう。時代の区切りではない
>>358
創価学会が骨抜きにしたからね。
「正しき着地点に達し得た」ならば、以後は「神世紀」か「無神時代」になる その日その日が人生最期の日かもしれないから万事整えて登城するみたいな話を聴いたことあるんですが元ネタは何か分かる方いませんか? >>359
一応、通説としては朝鮮半島ルートも完全に否定はされてないから、セーフ >>362
でも、山東半島から海路で、陸路ではなく半島へ伝わってそうなのだから、半島と北九州は伝来のハードルの高さが同程度だよね
そして、半島側の、最初に伝来しそうな南端部には縄文人らしき集団すんでいたわけで。 >>363
まあそうなんだけど、日本書紀にも明記されているように、漢字とか仏教、建築技術とかの文明、文化、技術は、朝鮮半島経由って考えている学者が多いからでは?
一番安全確実なのは陸路で朝鮮半島経由だろう。
当時は潮の流れなんて分からないから、中国から日本への渡航って運次第だし。 >>359
来月に出版される新刊の宣伝じゃないなら、ほっとけばいいと思うよ。
東南アジアの水田近辺で生える植物が日本の水田遺跡からは発見されてるが半島にはなかったはずだから単一ルートと限定するのは明らかに間違いだし、
確か朝鮮半島中部で日本に先じて稲作が行われたと称する根拠は、遺跡ではなくて米粒が発見されたからという薄弱な願望じゃなかったかな?
何れにせよ、専門家ですら自説に固執してトンデモ本がフツーにでているジャンルなのだから、複数の可能性を思慮していないカス本なんか放置して枯れ死が吉。
やっちゃいけないのは、そんなゴミ本の話題を発売まで何時までも引っ張り続けることだと俺は思う。 >>360
平安時代から鎌倉時代に区切られたのは、武士による初の本格的な政権樹立という画期だからだろう
あとは京都を遠く離れた関東の地だったというのもあると思う >>365
残念ながら、半島北部から中国東北部のエリアが水田稲作やってないので、そのルートでの伝来は無理と思う >>370
先駆者ではあるけど、本格的な、という点で鎌倉幕府なんだろう 将門はただのクーデター、清盛には政権内にて牛耳られた
それに懲りた平安政権は頼朝に征夷大将軍と言う体の良い位を与え遠方にて武士の指揮をさせた
そしてやはり目障りと分かると排除を試みるが失敗した
承久の乱が明確な時代の分かれ目だろう 半島と日本人がはじめて交流を持ったのが2000年前
一方、稲作はその800年前にはむ日本に伝わっていた
よって半島経由での稲作伝播はないよ。可能性ゼロ 稲は熱帯性の湿地植物。
考古学や歴史学(プラス政治学?)の立場からは色々あるんだろうが、
生物学即ち自然科学の見地からすれば答えは確定済。
いつも思うことだが、
歴史学は近視眼的視点に陥りがちではないか。
「稲作」という事象一つ取ってもそれは単独で在り得るものではない。
それを成立させ得た列島の自然科学的条件/要件やヒトの生活文化まで含めた「構造」として考察するならば、
稲作伝来が半島経由であった蓋然性は限りなく低いと判断される。
あのさ浅井長政とか朝倉義景とか、信長と戦ったからこんなに知名度あるの?
これくらいの勢力の戦国大名とかなら他にもゴロゴロいる? 北部九州に渡来人が来て、稲作を始め、クニを作った。その後人口の増加とともに東へ移動し古墳時代には西日本一帯に広がった。現代でも弥生から古墳時代の人口動態の影響がある。すなわち西日本は渡来系(弥生系)人種、北海道(アイヌ)、沖縄は縄文系人種、東日本はその両者が混雑した中間種である。 >>376
滋賀出身だけど、近江の国は、古代から日本の真ん中にあって、重要な要所。
淡水湖の琵琶湖があって、農業とか有利。生産も高い。
歴史的に、何度も戦乱の場になってるよ。
太平洋と日本海を繋ぐルートもある。
戦乱の世は嫌でも、注目される。
平和な世は、重要なルートとして注目される >>378
ありがとうございます
例えば同時期の九州の大名とかと比べると明らかに勢力がデカく強いとかそういう事でしょうか? >>379
「信長の野望」でもやればすぐ分かるよ
知名度は大河ドラマによる。井伊直弼や伊達政宗が好例。前田慶次は漫画か >>380
ゲームとかって、どうなんすかね?
あれって信玄のとこの一武将とかより、朝倉義景が弱かったりするんでしょ?
聞きたいのはそういうことじゃないんですけど 強さを比較している点でゲーム脳だろうよ
聞きたい答えありきを書いてもらうスレではない >>351の件、どなたかご存知の方いらっしゃいませんか?
性格や体格の変化に対し、「それほど変化していない」とか「〜こういう理由で変化した」とか「自然な変化の範疇だ」とか、そういう具体的な反論をした学者や歴史家、著名人はいないのですか? >>382
単純に同時代の大名と比べてどうかって話を聞きたかったんですけどねぇ
ゲームとかわからないんですけど、ちょっと検索した範囲でも、浅井長政と朝倉義景を比べてもだいぶ差がある様子でした。
そんなの参考に出来ます? >>383
トンデモ説は、まともな学者は取り上げない。
よって察するべし。
本当にすり替えられたとしても、政府や学会、皇室関係者が認めるわけもなし 当時の大名が全国的な知名度や強さを気にしたりすると思うの?
ゲームや検索等々でなければ、現代的な感覚でなくなるとでも >>383
ちなみに、ほとんどの歴史学者は、記紀による万世一系なんて信じてない。
神武天皇も作り話だし
居ても、どっかで入れ代わってる。
と考えている。
最終的には、個人の自由だし信じたいのを信じたら良いと思うよ >>379
近江国のイメージとして、そんなに強くないと思うよ。
ただ、全土を統一するとなったら、必ず押さえないと駄目。
滋賀県に住んでたけど、琵琶湖と山ばっかで人口自体は多くない。
ただ拠点としては重要な地域。 明治天皇すり替え説というのは、溶けてなくなってしまった南朝を惜しんでなんとかお助けしたいという願望が産み出したもの
明治以降の天皇家は実は南朝の後裔にすり替わってしまっていて今も健在と思うオナニー >>373
生データみると三千年ちょい前ぐらい、つまり半島と大差ない時期に見える
むしろ九州経由で半島に行っててもおかしくない時期だと思う >>376
全国で十指に入るほど強大な戦国大名の一つ
には絶対に含まれないことは保証できる
つまり、勢力の規模的には、普通程度でしかない
しかし、全国の戦国大名一覧のなかでかぞえれば、一応は上位陣の末席に連なる程度の大勢力ではある >>379
土地の規模的には、たとえば越前全域とか近江全域とかを完全に支配できてれば、豊前プラス豊後よりは大きく、肥前プラス肥後よりは小さい程度の規模になる
越前と近江を併せて支配できてたら、九州全土の六割ちょいぐらいの大国相当だ
そうかんがえれば、朝倉が越前全土を、あるいは浅井が近江全土を完全に統治できてたとしたら同時期の島津や大友の勢力に匹敵したかもしれない
のだが、国内の敵を一掃できてなかったからねえ 浅井朝倉が統治システムに於いてどこまで「室町型」を超克できていたか。
換言するならばどこまで「戦国大名」たり得ていたか。
その見地からは、領土規模や潜在的生産力に係わらず彼等は早晩淘汰される存在であったと考えられる。
>>385
性格や体格が大きく変わったというのが事実なのか、捏造なのかということ自体を問題にしないということですか?
入れ替わったかどうかは別にして、本当に大きく変わったのなら、なぜ変わったのかを問うたり、調べてみるのは悪いことじゃないと思う >>389
興味深いです
溶けて無くなった南朝を惜しんでなんとか助けたいという願望の部分をもう少し詳しく教えてください
南朝の末裔が死に絶えてしまったのか、社会的にいなくやってしまったのか、どういう状況だったのでしょうか? >>394
変わったとする話自体が疑わしいと考えられてるのでは
後世の創作話だと。 >>389
戦前の宮内大臣や岸信介が入れ替えに言及したらしいですが、彼らも南朝を惜しんでそういう言及をしたのですか?
それとも、言及したということ自体が南朝を惜しむ人らによる捏造なのか >>397
まあ、入れ替ってたと仮定してみて
どうやって証明するの?
また、ここの全員が入れ替ってるやんけ!!
って総意を得たとして、こんな壁の落書き程度しか影響を持ってないところで賛同を得てどうするの? >>397
言及したという話自体が創作で、実際にはそんなことをいっていない
と考えられている そんなもん判らんだろ。
なんで、まともな歴史学者も取り上げないような、話題を出して答えがえられると思ったのか?
こんなところ、便所の落書きか?良くて酒場のオッサンの雑談程度のレベルしかない。
逆に、なんでここで聞くのか?不思議 『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』(1970 三浦芳聖著)に明治天皇すり替え説が書かれてあるそうだが、著者自身が南朝正統の皇胤である芳聖天皇だというのだから本当の事と言わざるを得ないな 三浦が昭和の初めに、ボクんちの家系図は南朝皇胤となってるんだけど宮内省関係者に見せたところ、今は引退している元宮内大臣田中光顕に連絡がゆき、田中は持った杯もハッたと落とし、明治帝を南朝末裔にすり替えて南朝革命(世にいう明治維新)を起こしたけれど、せっかくすり替えた大室寅之助がこれまた全然別の庶民にすり替わっていた
大失敗をしたのだが、ここに正当な南朝後裔である三浦様にお会いできてボクうれしー、実はこれこれこういうすり替えをやったんですよー、と衝撃の打ち明け話をしたのだった
こんな事があったというんだから信じざるを得ないな 日本史上で三大仁君を挙げるとしたら
仁徳天皇
聖徳太子
北条泰時
でよろしいですか? >>401
岸信介なんてめっちゃ有力な政治家なのに、そんなガセ、デマ、嘘っぱちに利用したら、利用した側にも凄いリスクがありそうなんですがね 大室も岸も周防の田布施出身であり、大室も岸も元々は半島出身「だったようです」
英国に本部を置く影の世界政府の最高上層部である「三百人委員会」が維新期の日本に対して王政復古したうえで日本の天皇は英国王のしもべとなることを要求し、明治、大正、昭和、平成と歴代の天皇はこれに従っている
「これは調べてみれば間違いのない事実なのです」
‥‥うわぁ、知らなかったなぁ、そんなことになっていたのか 「せっくす」という外来語表現が入ってくるまでの
日本ではセックス、つまり性行為の口語表現はどういう言葉だったのでしょうか?
まさか生真面目に「性行為」と言って無いと思いますが まんことか聞いたことがないのか
おめこ、ぼぼ、つび、べっちょ‥ >>408
「寝る」。
古事記の昔から現代に至るまでしょっちゅう使う言葉じゃねえか。
そんなもんも知らねえとは、お前さん、さては外国人か。
いざなみ「わが身は成り成りて成り合はざるところひとところあり」
いざなぎ「わが身は成り成りて成り余れるところひとところあり
わが身の成り余れるところを汝が身の成り合はざるところに刺しふさぎて国産み成さむと思ふ
みとのまぐはひ為む」
日本の国土は男女神が御門(みと)のまぐわいをすることにより誕生したのである
さぁ皆さん、張り切って交ぐわいましょう ヤラないか
古事記からの常識
そんなことも知らんとは、貴様ら大和民族か? 古事記、秘書の巻によると
神武と息子の綏靖もウホウホの関係であったという。
民明書房大全より >>406
死後何十年もたってから作られた話なんだろ >>416
有力政治家なら、その周囲の人間も有力者が多いと思う
親族や友人知人、政治家つながりとかさ
死んだからデマに使える、とは安易にならないと思うんだけどね >>417
たくさん流れてるデマの全てには対応できないから有象無象のデマは放置して誹謗中傷とかだけ対処してんじゃないの
全部のデマに対応できるほどデマが少ない訳じゃないんだよ そもそも、天皇の万世一系なんて明治政府がでっち上げたプロパガンダ虚構だろうが、ただ当時の日本の状況を考えると、天皇を中心とした軍事戦略が完全に間違っているのか?自分には判らん。
たいていの歴史学者は繋がってても継体天皇からだろ。
DNA検査なんてないから、皇統なんて変わりまくってると思うけどな 鎌倉幕府を滅ぼす事にした。源氏ならともかく、伊豆の豪族北条義時とやらが毎回朝廷と対等に交渉して来るのじゃ。許せん!まろの側近三浦胤義の兄、三浦義村も鎌倉で加勢してくれるしの。内輪揉めが続いた上に源氏の本家も絶え、京から迎えた将軍は幼い。勝利は疑い無いが後世の歴史教科書とやらには何て書いてあるかの? 称徳天皇は何故別個の天皇として2つ目の諡号が考え出されたのでしょうか?
淡路廃帝は天皇としてカウントされていません。後の後醍醐天皇の例もあります >>421
まだ年号がなかったから、年を表すには○○天皇の何年と表現するわけで、
重祚したときは別の名前にしないと不便なんだよ
だから基本的には、重祚したら天皇名がかわる
重祚なのに重祚してないことにして同じ天皇名を使い続けた後醍醐天皇がおかしいだけだね
淡路廃帝みたいな廃帝には普通は天皇としての諡をつけないのが本来のルールなので(お手本にした古代中国の制度では、そのようになってる)ついてないのが正しい
弘文天皇だって、明治維新までは諡号なしの廃帝だったでしょ
(厳密には、即位してないことになってるだけだが) 元号が出来たのが奈良時代前で、漢風諡号は奈良後期だよ それ以前に重祚の前例があるので、前例に則って2つの名前をつけてるだけでしょ 漢風諡号が考案される前の斉明天皇の御代はどのように表現されていたのだろう >>425
継体天皇は、オホド何年とか?
だったんだろうか?
口述で記憶してたんだろうか?
簡単に捏造とか可能だよね
旧辞、帝紀ですら、何が書いてあったのか?不明だしな >>428
仁徳天皇や聖徳太子の時代のヤマト王権と、
北條泰時の時代の鎌倉幕府。
実効支配した領域、現実に執行できる権力の強度、後世の統治システムに及ぼした影響、その他諸々。
「ショボい」のはどっちだろうか?
>>420
北条泰時の時期の源氏の本家といったら、村上源氏のお公家さんの久我家で氏上は久我通光。 >>430
そもそも、鎌倉源氏の将軍家が源氏の本家だった時代はないんだしな >>429
支配できてないじゃん。
まだ朝廷は国司を出せていたし、鎌倉幕府配下の武士も北条義時の名では招集や動員は出来ていない時期。
執権が東国武士を統制し幕府の実権を握って支配が出来るようになるのは、次の次の北条時頼の時分。 >>405
聖徳太子は 君 なのか?
天皇に即位してないし
王でもないだろ。
むしろ、蘇我馬子の方が権力は上だぞ 仁徳天皇にしても、実在は確定じゃないだろ
仁徳天皇陵も誰の墓か?分からない >>433
太子で摂政だから事実上の天皇みたいなものだろ。 >>436
それが日本書紀による捏造って説が有力だろ >>436
まだ皇太子って地位が存在しなかった時代
大兄ではあっただろうが、皇太子的な立場ではないはず
つまり、複数名の最有力候補のうちの1人でしかない >>437
おまいらの母国の『随書』には王様となっているから。事実上ではなく実際の王ですよ >>439
お前は、知識が無いのを、すぐに他人のせいにして、国籍透視するなや。
隋書の男王は、推古、厩戸、蘇我馬子
の3人のうちの誰か?って言うのが定説だろうが。
厩戸皇子限定じやないぞ >>440
支那人アホだからな。
もっと後の時代、宋の2代目のエンペラさんは、隋唐の昔に挨拶に来ていた倭と日本とが一続きの国というのを日本から来た坊さんに聞いて初めて知るし、
明の3代目のエンペラさんは隠居の足利義満を国王と誤認してたし。従一位散官前太政大臣准后だからそれなりに偉いんだけれども…… ほう。
そのアホから、漢字とか仏教とか、建築技術とか、稲作を学んでるのは何処のどなたですかね?
まさか、そのアホから学んでる国が起源とか言い出さないですよね。
歴史を学んでないアホはこれやから 北条義時が運慶に向かって「もはや(権力を握りしめて)神仏と一体化した私の像を作って欲しい」みたいなことを言ってましたが、浄土宗だと南無阿弥陀と唱えるだけで仏と一体化できるので義時の権謀術数血塗れ策よりも浄土宗の方が簡単だと思いませんか?
唱えれば我も仏もなかりけり南無阿弥陀南無阿弥陀
と言うことで >>443
> 唱えれば我も仏もなかりけり南無阿弥陀南無阿弥陀
それ、一遍上人の詠じゃねえか。
浄土宗のプロパガンダに使うのは無理筋が過ぎる。
そもそもその詠は一遍上人と禅の法燈國師との問答から生まれたもんだぞ。
一遍「となふれば佛もなかりけり南無阿彌陀佛の聲ばかりして」
法燈「未徹在!!」
一遍「となふれば佛もなかりけり南無阿彌陀佛南無阿彌陀佛」
これを以て法燈は一遍に直ちに印可を授けた、と。
念仏のイージーさを説くなんぞとは全く正反対、
念仏と禅が極限に於いて斬り結んだ、切れば血の出るような詠だ。
ふざけた我田引水に使うなよ。 >>442
漢字は習ったけど、仏教は受け売りの劣化コピーだし、建築はむしろ木造建築って日本が教えたんでしょう?
弥生時代の倉庫よか、飛鳥時代の御殿のが脆弱だし。法隆寺や唐招提寺なんかは、デザインこそ隋唐風味だけれど、技術は日本のものだし。
稲作が日本に伝わった時期、支那は秦か前漢。支那圏が稲・米穀をまっとうな穀物と認知したのは後漢になってから。
それまで支那では南蛮の粗野な作物としか認知できてなかった。
支那が日本に文化文明を伝えたどころか、むしろ、伝わることを阻害してたんではないの?
最も顕著なのが、青銅器。
日本には時代区分としての「青銅器時代」が無い。青銅器と鉄器と伝来がほぼ同時だから、石器時代の次はいきなり鉄器時代だ。
間に支那が挟まってなければ順当に青銅器時代が始まってその1000~1500年後に鉄器時代が始まってたはずだ。
つまり、支那はサハラ砂漠ばりの障壁だったわけよ。
で、その青銅器も、問鼎之輕重焉 なんて諺になるくらいに支那の青銅器は分厚くて重たい、対して、伝わって間もなく自前の意匠で作り始めた
日本の銅鐸なんかは、泥岩の鋳型で薄く作ってる。 >>445
じゃあ、論文でも書いて学会で発表すると良いよ。
自分の立場が分かるだろう。
失笑の的だよ。 >>445
日本に稲作が伝わった頃は秦漢じゃなくて殷周(東周ではなく西周)の頃だぞ >>446
「失笑する」人は笑っているか
ttps://www.bunka.go.jp/pr/publish/bunkachou_geppou/2013_03/series_10/series_10.html >>448
むしろ「笑いも出ないくらいあきれる」なんて珍妙な解釈は臍の緒を切ってこのかた初めて聞いた。
それこそ失笑してしまう。
■失笑(しっしょう)
本来の意味は思わず噴き出してしまうこと
「笑いを失う」ということは、笑っていない状態なのでしょうか。ここでの「失」は、抑えておくべきものを抑え
られなかったり、うっかりしたりして外へ出してしまうという意味があります。「失言」や「失火」などと同じで
す。したがって「失笑」とは本来、笑ってはいけない場面でおかしさにこらえきれず噴き出して笑う、という意味
なのです。しかし、愚かな言行によって笑われることを「失笑を買う」ということから、「あきれた笑い」の意味
で用いられることが多くなっているようです。 >>446
無理なんじゃない?
東洋史って華夷秩序思考まんまのチャイナマフィアだらけだから。
稲の伝播経路、生物学者・農学者・地質学者が物証添えて揚子江域から直接吸収西部に伝わった証拠を示しても
史学者ときたら渤海湾をぐるっと巡って朝鮮半島を経て福岡ら辺に伝わった説を曲げなかったし。
今でも高校の日本史の教科書、元寇の時分のユーラシア地図、ペルシャ・ロシア・中央アジア・北支はモンゴルと
同じ色で塗ってるのに高麗は別色で塗り分けていた李、おかしなことしているしよ。
元寇の頃はもう高麗の王さんはモンゴル帝国の内臣の扱いよ。徴税権はあっても、内政も外交も軍事もガッツリと
モンゴルの本国から派遣されてきた知事(ダルガチ)や監察官(ビチクチ)に握られてたでよ。 団塊ジュニアなんだけど、戦後の高度経済成長を経た昭和50年代前半ですら、地方都市の道路はボコボコの所があり、田畑には肥溜めがあって臭く、家の中や周囲にはハエが飛んでいて、とても不衛生な面があった
昭和50年代前半でこれなんだから、じゃあ大正時代なんかはどうだったんだろ?
江戸時代なんかはどうだったんだろ?
室町時代は?平安時代は?飛鳥時代は?
といろいろ疑問が沸いてくる
衛生面の歴史、生活水準の歴史に興味あるんだけど、何か良い本や資料ないですか? 1960年代、田舎町では駅前の商店が並ぶあたりだけ道路はコンクリート舗装されていたが、それ以外は国道でもなんでもすべて未舗装のガタガタ道
映画『三丁目の夕日』を観ていると、首都である東京でも大通りからちょいと入った裏通りは未舗装だ
ところがそのころ教科書だかにイギリスの道路舗装率100%との記載があって目を疑った
誤植としか思えなかった
人家のないような田舎道まで舗装されるなんて想像を絶した
ところが日本でも役所、役場の管理する道路はどんどん舗装が進み、今や100%
ようやく誤植ではなかったんだろうと思えるようになった
トイレも汲み取り式から水洗へ
汲み取り式のポットン便所で育ってきた身も、今や洋式トイレでなければイヤ、シャワートイレでなけりゃイヤだ
公衆便所は不潔なものと決まっていたのに近年は夢のようにキレイになった
日本人は自分の家の便所はきれいにしても公衆道徳がないと言われるのが定番だった
昔のお城勤めでも、侍が共同便所を使おうとなると便所の床はジットリと濡れそぼり、高下駄を履かねば足を踏み入れられるものではなかったという
小便くらいなら便所の裏手のどこかそこらへんで立小便する者が多かったとか そういや、昭和30年代ぐらいまでの家屋で2階建ての階段って概して幅狭の急傾斜、ハシゴもどきだったけど、そんな使いにくい階段なんて早くに姿を消した気がするな
江戸時代とかの古い家屋の階段と大差ないのが昭和中期まで使われてたのが、急速に消えていった >団塊ジュニアなんだけど
その世代でそのレベルの文章しか書けないのでは……
あなたにとって“良い本や資料”というのは、あなたの思い込みを補強できるものということなのではと勘ぐられてもしかたないですよ。
第五共和政下のフランスのように反対派を軍隊が鎮圧して美しいパリを創りあげることは評価にあたいするのでしょうか。
予告された戦後不況に対応できないトルーマンの尻ぬぐいをしたアイゼンハワー時代のアメリカ史上最大の公共工事プログラムは
劣化した道路・橋梁の放置として現代米では対応不能な社会問題となっています。
地域には地域の事情があり、徒に税金を投入して改変しても恒久的な問題解決には至らない。
子供ではないのだから、その程度の社会的知性は弁えてほしいものです。
あなたのソレは程度の低い学生バイトがマニュアルを要求し自らの頭で考えない姿勢を想起させます。
最後に、前近代の社会を現代倫理に基づいて評したいのであれば、それは日本史スレでの適切な質問にはなりえないし、
疑問を持ち、他者に意見を求めるのであれば、もう少し自身の考えをまとめ、他者がそれを読んで何を求めているのか理解できるように
日本史スレでの質問として適切な文章を推敲してから書くべきですね。 >>454
こんな場末でダラダラ駄弁を垂れ流す暇があったら先ずは図書館に行って相談しろ。
スレ住人は手前ェのパパじゃねえんだよ。
>>454
この辺、面白いですよ。ググるとすぐでてきますが。
第1章 我が国における健康をめぐる施策の変遷 - 厚生労働省
https://www.mhlw.go.jp/wp/hakusyo/kousei/14/dl/1-01.pdf
公衆衛生の黎明期からこれまでの歩み
https://www.jsph.jp/docs/magazine/2018/06/65-6_255.pdf
イザベラ・バードの日本紀行でも食事、衛生について登場するので
読むと面白いです。 イザベラバードは日本について、辛口の事、書いてると思ってたけど、中韓はさらにボロクソに書かれてて草 意訳:世界の街を見てきたがこれほど汚い街は見たことがない 現在のソウル評 >>454にレス頂いてありがとうございました
イザベラバード参考にしてみます
イザベラバードが明治の日本に辛口だったって書いてあるけど、日本の衛生面や識字率の高さ、礼儀の良さなどを絶賛してたイメージがありました >>319
13世紀くらいならまだ「暁」は「ぎょう」でなく「げう」でしょう >>320
祭司で大臣を失脚に追い込んだ斉明天皇は、新羅征伐の為に九州くんだりまで兵隊率いて下向しましたよ。 >>467
直木孝次郎は斉明天皇が、神功皇后のモデルになったって指摘してるよな。
共通点が多いって。 韓半島を征伐しようとした人は1人だったーって、2ちゃんみたいですな >>469
複数居たんだろうが、神功皇后の記事自体は創作で間違いない。
記紀編纂時に息長氏の要請で入れたのだろう。 >>469
まあ、実在の人物じゃなくて神話上の人物だろうと思えるような存在ではあるからな、神功皇后は。
ヤマトタケルに匹敵するほどフィクションっぽい >>319
頼家遺児(次男)善哉は出家して近江園城寺(三井寺)に入り公胤僧正の弟子となった
この公胤の読み方であるが親鸞真筆『西方指南抄』に「コウイン」と読みが付されている
親鸞の師匠筋である法然と公胤との間にやり取りがあったので親鸞は公胤を知っていたのである
公胤の師である公顕については貴族の日記の鎌倉期写本に「こうきむ」「こうきん」と記されており、漢音で「こうけん」の読み方だったのだろう
公暁については当時の資料に読み方は付されていない
江戸時代の諸本では「こうきょう」「こうげう」「こうけう」「くぎゃう」「くげう」とさまざまであり、読みがちゃんと伝わっていないことを示している
公顕→公胤→公暁という師から弟子への流れからして公暁の読みについては、「こうきょう」「こうぎょう」の2説に絞られよう 「暁」の漢音はキョウ(ケウ)だが、慣用音としてギョウ(ゲウ)が使われる 公暁の読みとして従来クギョウが用いられてきたのは、『吾妻鏡』の江戸時代写本にクゲフと書かれていたからだろう 部首から見て同音であろう堯がギョウなのに暁は何故かキョウと読むのか
不思議だな
漢和辞典で見ても、暁は呉音漢音ともキョウだ、ギョウは慣用音になっている >>471
っていうか、新羅が降伏したって記事もそやけど、百済や高句麗も降伏してきたって、なんぼなんでも話し盛りすぎやろ。
話し盛るのはええけど、もう少し信憑性もたせえや。
せめて、新羅の首都を包囲して、高句麗の援軍を撃退してやった。
くらいやったら、歴史学者も神功皇后の記事に信用してた可能性はあるけど。 実朝の最後の和歌
出でいなば 主なき宿と 成ぬとも 軒端の梅よ 春をわするな
(歌意:主がこの館にいなくなっても、軒の端の梅よ、春を忘れずに咲くのだぞ)
は菅原道真へのオマージュですか? >>476
その程度、広開土王碑文の潤色とさほど大差はないだろ 神功皇后も斉明天皇、加藤清正、寺内正毅、マッカーサーも同じフィクションだろう
仁川上陸なんて何回も使い回している定番ストーリー >>478
歴史学、学んでる?
広開土王碑は、同時代資料やぞ。
記紀は、300年も後に編纂された記事やぞ。
資料の正確性で、同じ土俵に立てると思ってる? >>480
いや、
広開土王は実在で史実で神功皇后は架空でフィクションだと思うけど、出来事の潤色度合いは大差ないと思うけどなあ
新羅も百済も長らく日本の属国になってたのを、その支配者である日本の大軍を大規模に撃破して新羅も百済も高句麗の属国にしたぞ!
という内容の碑文だろ
一度も日本の属国になってないはずの新羅や百済を日本の属国ということにしたのが、大きな潤色ではないと? >>470
記紀の第一目的が高騰の正統性を謳うもので、世襲制の根本原理は「立派な人は子孫も立派になる」って前提でしょう?
創作や捏造なら、なんで、二代続けて遠征中に祟り神によって客死 みたいなことになってるの?
領土を大きく広げた小碓皇子(日本武尊)の客死は名誉の戦死扱いで筋は通るか、その子だからと子のある叔父から
皇位継承を指名された仲哀天皇が全くのヘタレで信託に背いた挙句客死というのは、創作や脚色としてはあり得ない筋書だろ。
覆い隠しようもない事実として畿内~九州の豪族に伝わる有名な話として、
三韓を下すにあたって、ヘタレの仲哀天皇が気丈なお后と有能な大臣を伴って九州まで下向してきた。
状況を読めず、三韓征伐よりも熊襲鎮圧を優先して、崩御。
崩御の後に、三韓が降伏し、懐妊していたお后が九州で皇子を産んだ。
九州で生まれた皇子が応神天皇になった。
くらいのことはあったんじゃないのか?
そこに脚色が入ったとしても。 >>484
さてな、分からん
実在ではない疑いが濃いのは、ヤマトタケルと、その父である景行天皇あたり
対するに仲哀天皇は(業績はともかく)存在は確かとのことなんだが、
そのつぎが仲哀の死後三年ぐらいに産まれてるんだろ…… >>484
川上建日別率いる熊曾国(異称・クマソ)のお姫様だった襲武媛は
ヤマトタケルの父である景行天皇の后妃になってるんだよな
襲武媛と景行天皇の間には4人皇子が生まれて
日本各地に派遣されその地を収めてる >>486
収めるってことは、混乱収拾?
いさかいを仲裁して収める?
もしかして、各地を統治した(治めた)のか >>487
襲武媛と景行天皇の間に生まれた4皇子は
九州筑紫久留米の祖や九州肥(火)国の祖、九州筑紫水間の祖
四国讃岐の奄智の祖、四国伊与の宇和別祖など
各地を治める豪族の祖となったと天皇本紀などに残されてるね
日本書紀第七巻には
日向髪長大田根と景行天皇の間に生まれた日向襲津彦皇子が
山口県長門阿武国の祖となっている >>486
戦争の後始末で和睦の条件の婚姻って、日本に限らず、古代・中世に世界中で当たり前に行われてきたものだから、
別におかしなものでもないよなあ。
王侯貴族が余った子を遠隔地の統治に出したり征服戦争に出したりも、これも世界中にある話。 >>484
息長氏について調べてみ。
真人の位を貰っている。
最高位の位の、しかも筆頭に書かれている。
神功皇后は息長氏の出身って設定。
息長氏といえば、継体天皇の出身の可能性が高い氏族。
だから、記紀編纂時に息長氏が要請して、神功皇后を創作させて、気弱な仲哀天皇を創作させた。 今の皇室は継体天皇の皇統だよ。
記紀編纂時もそう。
息長氏が強い権力を持っていた。
ので、泊を付けるために、神功皇后と仲哀天皇を創作させて、権威付けにした >>485
で、その仲哀天皇が九州で客死した経緯とかお后が軍を率いてなんとかとりまとめたとかう話は、?扱いなん? >>490
真人姓を賜るのは臣籍降下した元皇族だから、別におかしくないじゃん。
比較的皇族に近いのが真人、分立したのが古い氏族には、神別氏族にも賜る朝臣、宿禰を賜る
いうたら中世ヨーロッパでいう王孫公爵みたいなものよな。
後に、朝臣ばっかりになってしまうけど。 >>491
出たぁああああああああ 捏造大王継体wwwwwwwwwwwwww(笑) >>493
神功皇后実在したと思ってるの?
歴史学、学んだの? >>495
むしろ、なんで実在しない前提なの?
足跡いっぱい残ってんじゃん。
神功皇后なんていないとか継体天皇で高騰が入れ替わったとかそういうこと言う人に限って、
邪馬台国やら卑弥呼は実在扱いなのよな? おまぃもそういう口か? >>497
じゃあ逆に聞くが、神功皇后実在って言ってる歴史学者は誰よ。
大学の歴史学の教授とかやってる人で無いと駄目だぞ。
ただの専門外の自称学者の名前出すなよ。
こんな低レベルの話から始めないと駄目なのがバカバカしい >>497
神功皇后の足跡なんて記紀編纂後に出来たものだよ。
全て説明付く。
宇佐神宮にしても、住吉大社にしても、記紀編纂後に神功皇后の逸話がつけられたものだよ。 何でニニギは天孫降臨したとき自ら天皇にならずに
曾孫の神武天皇が即位したの? >>499
香椎廟とか帆柱山とかは?
朝廷がずっと勅使をおくってたんよな。何の変哲もない社にそういうことわざわざやるかよ。
話盛るならさして高くもない山が神功皇后の足跡になるかよ。すぐ隣に200メートル高い山(皿倉山620メートル)があるに。 >>502
そんなもんはな。
そもそも神話の話だから、どうとでも作れる。
記紀神話の高天原の場所が、全国に何ヶ所あるか、知ってる?
軽く調べただけでも10箇所はあるぞ。
邪馬台国の畿内説だけで、定番の奈良説、琵琶湖説、福井県ってあるし。
全国中にある。
創作に根拠もないし、意味もない。
信憑性があるのは、せいぜい欽明天皇以降くらい。 海外だとマリーアントワネットを始め斬首刑に処せられた女性が何人もいますが、日本史上では女性の斬首刑の例はあるのでしょうか? >>503
そもそも、邪馬台国の実在の方は疑わないのな?
結構遅い時代まで、支那は、諸外国の事情に全く疎いよ。
それなのに、往来の困難な、漢や三国や晋の時代に、支那の史書に出てるから
卑弥呼の治める邪馬台国はありました、で思考停止して、どこにあったかを探す始末。 >>506
羽柴秀次の愛妾たち、三条河原の惨劇が有名ではある。
多分に物語化された事件だから真偽は沙汰の限りではないが。
まあ、尋常の犯罪者として打首に処せられた女人は幾らもいたんじゃないか。
>>506
ググってみた。高橋お伝という女性が明治12年に斬首刑になっている。 >>508
最上の娘の駒姫の処刑法が打首というのも真相は怪しいのだろうか? >>507
邪馬台国を疑ってるの?
カルトか?
めちゃくちゃヤバいキチと対峙してるのか?
ただのアホと思ってたが、それ以上? >>511
>>507を弁護するわけじゃないが、
文系の所謂「歴史学」一般に関しては常々不思議に思うことがある。
文献史料などと云う幾らでも恣意的に作れるものをよくも無邪気に信用できるな、と。
例えば「奴國朝貢」記事ならば(一応は)金印というハードプルーフがあるから少しは信憑性も認められるが、
邪馬台国云々には未だ何の物証も無いし自然科学的検討によって傍証されたわけでもない。
魏志倭人伝の成立事情も十分に明らかではない。
また中国の正史書は多分に政治的プロパガンダであることも周知だ。
その記事に依拠する論はあくまでも「可能性のある仮説」という段階に留保しておくべきもので、
決して無批判に肯定してはならないと考える。
反論があれば承る。
>>512
それは一理あるとは思うけど
記紀はもっと信用出来ない事になって
結局、少しでも信憑性のある資料から引用すると
同時代資料の倭人伝とか宋書からの引用を用いるしか方法が無くなる。
堂々巡りになるだけ。 >文系の所謂「歴史学」一般に関しては常々不思議に思うことがある。
>文献史料などと云う幾らでも恣意的に作れるものをよくも無邪気に信用できるな、と。
図書館に行く。
分類記号の200台のコーナーへ。
200 歴史総記の棚を見る。
そこには歴史学とは何かを詳細に悦明している本が並んでいる。
E・H・カーの薄い新書は初心者に最適で正に痒いところに手が届くように、素人の基本的な素朴な疑問に答えてくれる。
分厚い本で詳述されたもので、基本から学びワンランク上の脱素人としてより高くを目指す者にはロビン・ジョージ・コリングウッドがお薦め。
ちょっと変わった人間として自任しているのであれば、日本の某大御所様の書かれた大著(w)もある。新たな世界観へ導てくれるかもしれない。 家族ではなく武士本人が人質にされて交渉が行われた事例はありますか?
幼い頃の徳川家康が織田信広(でしたっけ?)と交換された事例くらいしか思い浮かばないのですが。
やはり武士はすぐに自害するからでしょうか。 >>511
>>512
邪馬台国なんて、その文献だけの、一切物証の無いものじゃん?
しかもその文献たるや、遠隔地の、内容も矛盾だらけ。 >>512
志賀島金印がハードプルーフ???
出土地もなんとなく志賀島ということになっているだけで正確な地点も不明
そもそも偽造説贋作説のあるものだろ。 >>512
奴国ではなく委奴国、イヌ国じゃないかというのが現在の主流かと 漢代の発音は現在の呉音の祖先みたいな音で、漢音みたいな音とは別物
委はwiみたいな? 音で、イかウェみたいな
奴はヌぐらいの音でトとかドではなさそう
比較的近い音で言えばイヌだろう?
ウェヌとかかもしれんが。
少なくとも、奴国ではない >>525
で、そのイヌは、犬を指すの?
それ以外の意味なの? >>527
意味は不明
動物のイヌとは違う発音かもしれんし、そもそも現在の日本語とは全く違う言語を使ってた可能性だってある
とりあえず、漢字の発音から推定される国名はイヌとかそんな感じの音だろうとしか
他地域の国名表記からの類推では、倭の奴国ではなく委奴という国名の国なのは間違いないしな 「他地域の国名表記」は魏志倭人伝
「漢委奴國王」は金印
データのソースが違う >>529
倭以外の金印銀印等のことで倭人伝の国名のことじゃないぞ フン族を匈奴と書く
匈(フン) + 奴(ヌ)であり
『漢匈奴悪適〇逐王』の印がある
同様に倭+奴としたか
別れて百余国を成すという倭の奴等をまとめて『倭奴』 黒人は崑崙奴だしな
さておき、フン族は Hun、匈 は hung もしくは hsiung だからあんまし音は似てないのよな。 >>534
ハンガリーが匈と関係あるのか?
分からないけど、この漢字を当ててるってことは、中国人は関係あるって思ってるって事だよね。
中国北部から東ヨーロッパまで行った遊牧民はすごいね >>535
流石にそれは音を合わせた当て字であって意味は関係ない
ハンガリーのhunは後ろにgが来る関係で実際はhungの発音になる
だから匈の字を当てたのだろう 洪牙利と書いていたのだが、フン族とか言うから「匈」に変えた
ほんとはフン族関係ないんだけど >>535
ハンガリーって、建国当時にはたしか、フン族の子孫と自称してなかったっけ? 本当か?どうかはともかく自称派してたんだな
まあ…万世一系の自称の国もあるしな 応神天皇が大陸からの新王朝説を否定するのに、歴史の連続性が強いから、異民族の建てた王朝ではないって説があります。
自分は中立的に考えてフビライ・ハーンとか中国人化してるし、急に馬具とか進化した武具とか鉄器とか出てきてるから、日本人化?した異民族の王朝でもいけると思いますが。
どうしても、異民族に征服された事を否定したがってるようにしか見えないです。 >>542
論旨以前にその知能の低そうな文体を何とかしてくれ。
>>543
分かったから、反論宜しく。
自分なりに資料集めてるけど、別に異民族の新王朝説行けるんじゃ?って思ってる そもそも応神天皇陵が応神天皇の墓なのか?応神天皇が居たのか?はともかく、途中で王権が大陸からの武力持った民族に代わった説は結構いけるよな。 承久の乱
日本史上初の朝廷と武家政権の間で起きた武力による争いである。
鎌倉幕府の初代将軍源頼朝から3代将軍実朝までの3人は清和天皇の血を引く源氏将軍であり、朝廷にとって身内ともいえ、この間は武力行使には至らなかった。しかし、2代将軍頼家に続き3代将軍実朝も暗殺されて鎌倉から源氏将軍が途絶えると、幕府は朝廷から形だけの4代将軍を迎え入れ、実際は将軍の補佐役である執権の北条義時が幕府の実権を握ったことで、この2年後、後鳥羽上皇は挙兵したが幕府に敗北し隠岐に配流された[2][5]。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%89%BF%E4%B9%85%E3%81%AE%E4%B9%B1
とWikipediaに書いてありますが、北条とて桓武平氏であり朝廷にとっては身内ではないのですか? 桓武平氏は自称であり系図がない。この点が平将門や継体天皇と致命的に違う >>544
昔流行した騎馬民族王朝説ってヤツの亜流にすぎないな
あれだって、根拠を出すことができなくなって消滅したわけだが 古墳って全部が宮内庁の管理下って訳じゃないんだよね?
管理下の古墳とそれ以外の放置されてる古墳の区別する基準とかあるの?
考古学者や歴史学者が「ここは皇族の古墳です」ってアバウト認定したら宮内庁管轄? 歴史学者じやないぞ
宮内庁が認めないと
有名なのが継体天皇陵
今城塚古墳 ここは天皇陵ですよ?掘っていいの??
って歴史学者が言ったけど、宮内庁は別の太田茶臼山古墳を継体天皇陵に比定してたから、どうぞどうぞってなって、今城塚古墳は発掘されて、間違い無く天皇陵だろうってなってる。
一方、太田茶臼山古墳は築造年代が100年も違うから継体天皇ではない。 つまり、宮内庁は墓で言えば、違う人のお墓に手を合わせるようなもん >>540
パンノニアの住民に一滴もフン族の血が流れてないってことはないだろう。
ゴート人もローマ人もアッチラ王の時代のフン族と通婚があったし、マジャル人が侵入してくる前に
十分に拡散しているだろ。
定着したマジャル人もそこに居たラテン人やらゴート人やら吸収しまくって今のハンガリー人を
形成してんだから。 世界史バカって世間に相手されてないから臭いのかな? 質問1:官位(正三位とか)が降格された例はありますか?
質問2:左遷される場合はだいたい別の部署に飛ばす(たとえば花山上皇に矢を放った伊周は内大臣→大宰権帥、中納言隆家は出雲権守に)
イメージがありますが、直接的に同じ役職内で官職が下がった(大納言→中納言のような降格)例はありますか? 太宰権帥は正四位下、国司は五位相当だから、格下げじゃん 赤穂浪士の吉良邸討ち入りの時に吉良邸を護衛していた上杉藩の侍どもは赤穂浪士を一人たりとも倒すことが出来ませんでしたが、何故にこんなにも武力に差があったのでしょうか? 寝巻で寝ていて夜襲をかけられ、訳の分からないまま長屋に閉じ込められた上杉の侍たち
対して、鉢巻き、鎖帷子の着込、周到な計画、士気旺盛な赤穂浪士達
水戸徳川藩、島津藩、毛利藩、山内藩、鍋島藩などとは言わない
同様に上杉藩と言う言い方はいただけない そもそも奇襲夜襲ってすごく効果あるしな
防衛側はいつ襲撃されるか分からないから長期戦の警戒で、交替制勤務しかない
攻撃側は日時選定できるので全戦力を当日に集中できる
そのうえで、吉良の国力は大きくないので総兵員数でも負けてなかったっけ?
吉良の勝利条件は当主を逃がして生存させることしかなく、元々不利な戦いだから負けても仕方ない
勝てるだけの準備なんてできない状況だからな お城を国宝に「指定」すると言いますが、「指定」ではなく「認定」や「選定」すると言ったら何か不具合が起こりますか? ・討ち入りに備えるために屋敷を要塞化
・攻撃側の兵力は防御側より少ない。コウゲキガワヘイリョクサンバイノゲンソク?何ソレ、美味しいの?
>元々不利な戦いだから負けても仕方ない
>元々不利な戦いだから負けても仕方ない
>元々不利な戦いだから負けても仕方ない 討ち入りに備えてなんて考えるのは後世の後知恵だろう
幕府の裁定によって殿中斬りつけ事件は片付いたことだ
いったい浪士が逆恨みして狼藉を働いて来るようなことがあるのか
いつ来るのか、いつまで備えを続けなくてはならないのか
来るとして何人くらいやってくるのか
何にもわからない そら、まったく調べないで
だろう・はずだ、だけで無知を垂れ流しているだけなのだから
何も分からないのは、当たり前だわな 襲わせるために町はずれに吉良邸の引越しを命じたんでしょう?
急いで新しく建てたから、見取り図なんかも漏れ放題で。 襲わせると言うか、もしそんな騒擾が起こった場合、江戸城やその近辺への影響を極力避けようという気持では無いか知らん
屋敷は徳川から拝領するもの
幕府から命令を受けて吉良は本所の元旗本屋敷に移った
元から屋敷は建っているのであり、赤穂浪士は手を尽くして旗本屋敷時代の絵図面も手に入れている
吉良邸となってからの状況は仲間の一人を下男として潜入させて見取り図を描かせた すかしへの お奈良の都 やはきくそ けふここのへに にほひぬるかな >>569
江戸市中は夜間外出禁止で、警戒の厳しい御曲輪内で40人50人連れもって出歩くと目立って夜襲なんかできないでしょう。
本所向こう両国はというと、墨田川の向こうの下総国。江戸の本格的な戒区域外。
いかにも襲ってくれ、と言わんばかりの転居命令。
時の将軍綱公吉将軍は、大名のお取り潰しやら領地の召し上げやら、大好き。
強権を発動すると気持ち良くなるタイプの人だったのでこの時期に旗本もどんどん知行を召し上げられた。
四千石大尽旗本だから手ぐすね引いて潰す口実を求めてたんじゃないの? そもそもなんで吉良が浅野に
接待で飾るのは水墨画の屏風
接待で振る舞うのは精進料理
畳替えの必要はない
正装は長裃で良い
当日の指図書を渡さなかった
といった嘘をついて恥をかかせたのかが謎なんだよな
饗応役の恥はそれを指導している指南役の恥でありつまりは吉良が恥かくだけなのに >>573
そりゃあ、そんな不思議なことは行ってないんだから、理由もあるわけないよな 物語的には、浅野の凶行に何らかの原因を作っておかないと展開についていけなくなるから適当な原因が設定されてるけど、
史実としては、浅野が吉良に対して遺恨を持っていたらしいこと、何かを恨んでいたらしいこと以外になにも分からないまま切腹になった、
回りの人間を聴取しても原因の憶測すらできないほど、なにも手がかりがなかった
つまり、吉良のせいで浅野が恥をかいた事件は実在していない(そんな事件が起こってたとわかれば原因じゃないかと推定しえたはずなのに、想定不可能と結論された)んだよな 吉良になおも斬り付けようとする内匠頭を抱きとめた梶川与惣兵衛の証言で、「この間の遺恨覚えたるか!」と内匠頭は言っていた
これしかわからない
内匠頭の精神が不安定だったとかいろいろ言われるが 蚊を一匹殺しただけで刑罰に処せられた綱吉時代って仏教の不殺生戒を徹底させたという意味ではアショーカ王時代のマウリヤ朝以上の仏教国になっていたといえるかも 浅野本人への尋問でも、浅野周辺への聞き込みでも、結局は何も分かることなく、謎だけを残して死んだんだよな、浅野は。
聞き込みすれば分かる程度の当たり前な事情ではなかったことしか分からないんだよ 凶行が乱心(精神異常)によるものなら基地外無罪に準じた扱いにもなるのだが、吟味の席で本人が「乱心にあらず。かねて遺恨あり」と述べたので即日切腹となった
内匠頭の侍医の記録によると本人には「痞え(つかえ)」の持病があり、事件の3日前に薬を調合したとある
「痞え」は「さしつかえ」のつかえである
持病があるところに勅使接待、吉良との接触でストレスが溜まり、不機嫌症状を伴う癲癇発作があったのかも知れない 畳替えのエピソードは騙されたと知った浅野側が一晩で二百枚もの畳を集めて事なきを得たというのは脚色があるにしても騙されたことについては事実の可能性もあるんじゃなかったっけ? 三月十四日六つ時(午後6時)浅野内匠頭切腹
三月十五日勅使・院使、上野、芝の将軍霊廟に参詣
芝増上寺で勅使休憩のための畳替えを浅野家が前夜(十四日夜)慌てて行ったというのはあり得ない >>580
乱心にあらずって本人が言っても、糖質の奴は、100パーセント自分は正常って言うぞ >>583
という推測の反論もできるから確定が出ない >>581
それが事実だったら乱心の原因の可能性として取り上げられていたはずなのに、実際には原因不明と残されている
であるなら、そんな事実はなかったと考えざるを得ない 事実かどうかが不明なら原因不明とするしかない
事実でないと考える理由にはならない >>577
賜死は殺したわけでないので仏法に背かずってか >>578
現行犯逮捕に詮議なんて要るか?
使った凶器は、士分ならだれでも常時帯びている刀、
殿様自ら手を出しているんだから組織犯罪の詮議も不要。
主君(将軍)の定めたデミリタリゾーンでの武器使用なんだから
その場で切られても仕方ないものだ。 喧嘩両成敗だから両者の言い分を聞かねばならない
浅野は具体的なことを何も言わない
吉良は覚えがない、乱心者としか思えないと言うばかり
喧嘩とも認めがたく、片方の処罰のみとなった 喧嘩じゃないじゃん。
現に吉良上野介義央は抜刀してないし。
加えて徳川幕藩体制は、中世型封建制だから、供述や量刑や酌量に身分が反映される。
仮に立場が逆で、従四位上の吉良上野介義央が従五位下の浅野内匠頭長矩を切りつけたなら、
遺恨での喧嘩で両成敗を求めれば通ったんだろうけれど。 どういう理由があるにせよ、刀を抜いて切りつけた浅野内匠頭が悪い。
警官がいきなり発砲するようなもん。
理由があっても正当化は難しい。
訴える場はあったはず それは的外れだろう
現代でもいじめがあったからといって正当防衛でもないのにぬっ殺したら有罪は免れない
いじめがあったのかどうかは別問題だ 現代の気分で歴史上の出来事を処断してもしかたがない
殿中刃傷事件で浅野だけを処罰したのは片手落ちだと非難する声は多く、幕府は気にしていた
また、赤穂浪士討ち入り事件で被害者である吉良家はお家断絶、後継ぎである義周は信州諏訪へ流されている
親が討ち取られたのなら子は闘死せよ、せめて自決せよとばかりに >>589
喧嘩ではないから両成敗には該当しない
のが自明だったんだけど 取り調べる前から喧嘩でないことが自明というのはない
テレビで眺めていたわけではないのだぞ
抜刀したのが片方だけというのも喧嘩でないとするには未だ決定的ではない 無人の地で事件が起きたわけではなく、回りに多くの人がいるなかでの出来事だ
浅野が後ろから奇襲したのも、吉良が刀を抜かなかったのも、目撃者ありだ
即座に喧嘩ではないと確定したろ
うしろから奇襲して殺せないとか、当代随一のボンクラ、武士の風上にもおけない未熟者だよな
他に類をみないほどのマヌケ >>597
四百年の時空を超えた上から目線。
お前さんは永袴を引き摺りながら普段通りに動ける達人なんだろうな。
現代でも傷害や殺人の事件があった場合、捜査・裁判の上で加害者と被害者の間になにか関係があったのか調べられる
なにも関係ない者を金のために襲ったのか、以前から確執があって事件に及んでしまったのか、それによって量刑にも影響が出てくる
今も昔も事件が起これば権力者は裁きを行わなければならない
そのときに両者の言い分、関係を吟味するは必定たらむ 300年過ぎた現代、被害者を調べたのか? 安倍は無理でも昭恵夫人や統一教会は聴取したのか、
テロだ精神障害だと加害者をバッシングしただけ さやうに瓦版やら便所落書板に踊らされてゐては行けぬのぉ >>596
喧嘩かどうかよりも、デミリタリゾーンでの武器使用が問題にされてんだから。
浅野内匠頭長矩は抜刀して切りつけた、吉良上野介義央は負傷しながらも抜刀しなかった
それだけじゃん。 武士は面目、名誉を傷つけられれば違法であろうが何であろうが抜刀して相手を打ち倒す
法を犯したのであるから死を賜ったり自分で腹を切るのは仕方がない
そういうメンタリティーだったのだから、幕府吟味方としてもそこらへん何があったのかなかったのか気になるのよ
場合によっては被害者側にも何らかペナルティーを与えることもあるんだから 浅野は切腹で済ませるか斬首かどちらにするべきかを審議されたレベルの重罪だったがな、
本来なら斬首のとこを切腹で済ませる、という折衷的な決着となった 内匠頭は罪人として預けられた田村右京太夫屋敷の座敷ではなく庭先で切腹となった
切腹のときの装束や使用する刀も武士として尊重された扱いのものではなかった
だが、切腹の宣告をした大目付庄田下総守はこのことで四日後に大目付を罷免されている
切腹の場所が不適切であったことと武士の情けに欠けたことが言われている >>603
→吉良
主命に従い負傷しつつも抜刀せず、且つ、大事に至らることなく身を守った。まことに天晴れ。
→赤穂
主命に反して城内での抜刀、及び、上役に不意打ちをくらわし、卑怯千万。即、清で詫びろ。
喧嘩両成敗を言うなら、せめて、口上を述べて。お互い刀を構えてからの斬りあいになってたらの話。 「喧嘩両成敗を言うなら」
言っているのは裁く側の幕府なんだが >>606
喧嘩両成敗は裁きの指針
殿中刃傷事件については吟味の結果、喧嘩の認定もなく両成敗もしていない >>607
幕府内でも意見が割れたってことだが、ちょうど派閥に割れて争ってた時期だしな 安徳天皇はわずか6歳でも入水自殺して生き恥を晒さないようにしたのに
弟の後鳥羽上皇は戦に敗れて隠岐に流されても60歳近くまで生き恥を晒してみっともなく生きながらえたのはなぜですか?
恥の概念が欠けていた異常者なのでしょうか? 安徳天皇は自ら死を選んだのではなく、母に連れられての入水でしょ 安徳は可哀想過ぎる。
天ちゃんやし、源氏に捕らえられても頃されることはない >>613
恥知らずの公家に武士並みの潔さを求める方が間違っている。
後鳥羽のみならず後醍醐だって生き恥が衣を着て歩いてるようなもんだ。
関西、関東という地方の俗称はいつ頃から呼ばれ始めたのでしょうか >>619
関東という呼び名自体は鎌倉時代や室町時代にもある
が、鎌倉時代には幕府もしくは将軍のことを呼んでいたっぽい
室町時代の関東管領の任地が関東他方に近いような気はするが、現代と同じ意味で使っていたかどうかは不明かな
中国地方や九州という呼び名も南北朝時代ごろには使われているっぽいな 坂東(鎌倉期以降関東の名称が一般化)
足柄峠・碓氷峠以東、白河・勿来関以南を指す
鈴鹿・不破の関以東は東国と呼んでいた 逢坂の関(今でいうと京都市と大津市の境ら辺)の東側だから坂東よ 関西大学、関西学院大学、関西医科大学、関西外語大学‥ みんな逢坂の関より西側にあるもんな
滋賀では関東煮を食べたことがある >>627
まぢか?
滋賀県民だ。しかも湖西でそれなりに歴史に詳しいつもりだったけど、初めて聞いたんだけど、近江大津宮が東京って呼ばれてたソースある?
少なくとも、日本書紀には無いよね? 最強
関白 豊臣秀吉
摂政 藤原道長
太政大臣 平清盛
左大臣 ?
右大臣 織田信長
内大臣 徳川家康 >>629
左大臣は 橘諸兄でしょう。
生前正一位叙位だし。
最強太政大臣も豊臣秀吉じゃないの? 最強かどうかは別として、太政大臣の最長在任者は藤原良房 >>632
長けりゃ良いってもんでもない。
安倍晋三や佐藤栄作が憲政史上屈指の下衆だったのは周知の通り。
>>629
そこまで書いたんなら、最強天皇も描いてよ >>634
神武天皇、で話が終わっちまうだろう。
リアルタイム「天皇」確立以後に限ったって正にそれを確立した天武天皇その人以外の答えは有り得ない。
ゆかりの地レベルのざくっとですが、平家は京都から西方面に活発に動いて大輪田の泊や、厳島神社や、最後壇ノ浦で滅亡しますが、
源氏は逆に京都から東方面に活発に動いて鎌倉で幕府開いたりしてますが
平家は西方面、源氏は東方面と興味を持つというか活発に活動する方向が違った理由や背景みたいなものはあるのでしょうか? 神武も景行も実在してない天皇挙げてもなあ
実在が確実なら
推古、天智、天武あたりか 織田信長の忌み名の「信長」
「信」はわかりますが、「長」の由来ってどこからなのでしょうか?
サンタさん教えてください 法隆寺の金堂や五重の塔って
本当に鎌倉時代の魔改造ブームを切り抜けたの?
(´・ω・`) >>638
神武天皇の時代は関東はまだ蝦夷地だったし景行天皇の時代にようやっとこ日本に編入された。
蝦夷の血の濃い東国の連中は無かったことにしたいんだろ?
景行天皇が日本武尊を遣わしていっちょシメてこいと言わなきゃあ今でも蝦夷のまんまでいられたかもしれなかったからなあ >>641
日本武尊は関東をシメてやるとか意気がってた割には返り討ちにされて死に損なって逃げ帰ったんだろ。
神武の武威は遥かに遠く、既にこの時代からカミガタ者は軟弱化してたわけだ。
>>637
河内源氏と東国の関係は源頼信が平忠常の乱を鎮圧して以来のもの。
忠常は将門の叔父で乱の時に援護したとされる良文の孫。
平忠常が乱を起こすと平氏の嫡流平直方が追討使として鎮圧に当たるが
失敗した。そこで甲斐守源頼信が追討使として鎮圧した。
平直方は将軍でありながら失敗した事を恥じて源頼信の子頼義を婿にした。
そして自分の領地だった鎌倉を与えた。頼義は鎌倉に八幡宮を祀って拠点とした。
元々関東は平氏の土地だったが嫡流が伊勢へ移り、その一方で鎌倉などの
関東の所領を源氏に与えたわけです。
頼義は陸奥守として前九年の役で奥州安部氏を滅ぼします。息子の義家も
陸奥守として後三年の役に深く関わり奥州藤原氏が誕生します。 質問。
平安時代って
清少納言→紫式部って流れみたいなんですけど
百人一首で清少納言より紫式部が番号前なのが気になるんですけど
百人一首って時代順に番号付けられてるじゃないですか。
これはなんでなんですかね? 生きてた時代は清少納言のほうが古いけど有名になったのは紫式部のほうが早かったからとか?
たしか、枕草子の中に、当時すでに有名だった紫式部への妬みみたいな文言もあるよね? 確か、枕草子の方には、紫式部のことは書いてないけど、
紫式部の日記には、清少納言の枕草子は持て囃されているけど、読んでみたら、つまらないし、漢字の使い方は間違っているし、何処が良いんですかね?
私は、清少納言のことを心配してやってるんですよ。
みたいな内容の日記が見つかってるんだよな。
紫式部は、頭は良いけど、ちょっと怖い女性だったようだ。 >>647
厭な女だな、紫式部。
美女だったと云うが、これでブスだったらまるで三浦瑠麗じゃねえか。
三浦って好みなんだけど。
少数派なん?
もし付き合えるなら、全裸寝下座してもいい。
確かに、頭は良いし、嫌味言いそうだし、紫式部ぽい感じはするな。 >>649
一連の壺疑獄に於ける言動で「女ほんこん」の二ツ名が完全に定着した。
貴君にこの事実を告げねばならぬことは吾人の深く遺憾とする所である。
>>650
それは政治的発言がほんこんと似てるからで
顔が似てるから言われてるワケじゃないでしょ >>651
> 政治的発言がほんこんと似てる
つまり頭ほんこんである、と。
「アタシはアタマが良いの」と自認しているであろう三浦氏にとって、
「顔ほんこん」と「頭ほんこん」、
どちらの呼称がより屈辱的なんだろうか。
ぷぷぷ。
川中島の合戦の四回目で上杉謙信は武田の作戦を完璧に見切っていましたが、川中島で鶴翼の陣を敷いた武田軍に対して車懸かりの陣など七面倒な陣を用いたのは何故なのでしょうか?
謙信は妻女山から武田の別働隊が帰還してくるまでが勝負と分かっていたのですから、魚鱗で武田の本陣に突撃して大将の信玄の首を取る方が遥かに可能性があったのではないかと思います。
実際、車懸かりでは謙信一人が本陣に突撃できず信玄を打ち取ることはできませんでした。
車懸かりの陣を何故用いたのか、また短期戦における車懸かり陣のメリットなどを教えてください。 >>654
> 実際、車懸かりでは謙信一人が本陣に突撃できず信玄を打ち取ることはできませんでした。
↓
実際、車懸かりでは謙信一人しか本陣に突撃できずに信玄を打ち取ることはできませんでした。 >>654
そのフィクションを作った創作者に質問するしかないが、故人だしなあ >>647
そんな感じなの?だとすると紫式部がちょっと先輩っぽい感じになるけど >>658
違う。
清少納言の方が先輩だから
彼女の枕草子がすでに有名になってるのが、気に入らなくて
紫式部が清少納言の悪口書いてる日記が見つかってる。
説明会すると、紫式部が宮中に入ったときは、清少納言の枕草子が貴族で読まれて好評だった。
紫式部が枕草子のレビューを日記に書いてる。
つまらないとか、漢字の使い方が間違ってる。清少納言は上面だけ良い人。
とかそんな感じ、アマゾンでレビューで低評価つける日本人の先祖みたいな性格。 >とかそんな感じ、アマゾンでレビューで低評価つける日本人の先祖みたいな性格。
日本人とは思えない書き振り。国学者の本居宣長に嫌われただけある
逆に清 少納言の和歌が素晴らしく、後鳥羽院の心境を表しており、当代歌人の最後に置くのが相応しかったからです。 >>647
紫式部の旦那を枕草子で非常識で運が良いだけの人と書いていたとかなんとか >>662
でも、清少納言が枕草子でその記事を書いたのは、
紫式部が藤原宣孝と結婚する前の記事ですよ。
当時は無関係の人物ですよ。
紫式部が、それを知ってて、グチグチ悪口書いてるとしたら、どんたけイケズの京都人やねん。ってことです。 >>663
お前を産む前の母親の悪口を言われても「当時は産まれてないからどうでも良い」と言うのか? 悪母は子供を産む前から悪だったと再認識するだけだね
あとは悪口の意図如何だな。「この母にしてこの子あり」なら侮蔑だけど、旦那の遍歴はな聞かない >>664
紫式部は最初から清少納言の悪口書きたいだけで、理由はどうでも良いと思うのよねえ。
清少納言の立場になってみい?
どないせえちゆーねんって話やで。 そもそも他人の日記など読むものではないね
それだから立場もくそもない >>666
清少納言の親族が入ろうとした役職に紫式部の旦那が収まったからといって、枕草子でディスって回し読みさせて公開処刑する方が性格が悪い
そもそも日記に悪口なんて誰でも書いてるだろ
死後に私的な日記を暴いて「性格が悪い」だなんて、紫式部の立場になってみい?
どないせえちゆーねんって話やで。 >>665
なるほど、薄情だな
ろくな親に育てられなかったんだな >>670
それはあなたの見立て。前提が親が悪かったら >>481
そう読むのか?
百済も新羅も日本の属国だった時期がある、南隣(日本)も北隣(高麗)も両方からそう言ってるんだから
って読むんじゃないの? >>666
女で、京都で、お公家さんで、セレブなことはセレブだがセレブの中では下位
他者の悪口言わないわけがない。
しかも、勤めに出ている年増だし。 >>642
返り討ちにされたのは伊吹山。
日本武尊が関東攻め取ったかラ、そのあと景行天皇が上総国下総国まで地鎮の行幸したでしょう。 >>675
日本武尊を打ち破って、死に到らしめたのは伊吹山の神様
伊吹山といえば、近江の北東部
近江の北東といえば、息長氏
息長氏といえば、神功皇后
神功皇后といえば、頼りない仲哀天皇
三韓征伐
仁徳系統と継体系統を繋ぐ応神天皇の母親
滋賀作の者なんやが、何か記紀読んでると、息長氏に凄い配慮してる気がする。
日本武尊とか伊吹山の神とか神功皇后とか三韓征伐とか、現代の研究では全部創作なんだろうが、それは息長氏を盛り立てる意味で、挿入されてる物語の気がするんやが。 日本史に題材をとった漫画で年表作った人とかいます? >>674
いちおう下級貴族(中堅だったかも?)だから、公家ではないんだけどなあ >>679
>公家(くげ)とは、日本において朝廷に仕える貴族・上級官人の総称。天皇に近侍し、または御所に出仕していた、主に三位以上の位階を世襲する家。 建武以降は、武家に対する公家という感じで対象が広がるが
平安だとまだ武家含めて貴族の呼称だろうな >>680
この時代、後宮は御所に無かったの?
お后付の女官゛たから、てっきり朝廷に仕えて御所に出仕していたものと思い込んでたわ。 平安時代半ばぐらいからは、下級官人とか女官とかの給料も朝廷からではなく直属の雇い主から、つまり中宮とかから払われることが多くなってるしなあ
つまり、中宮の実家が雇ってるわけだ
藤原氏とか https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1672876164/1 【中国】火葬場が24時間フル回転しても遺体の処理に追いつかないという阿鼻叫喚の地獄図 [クロケット★]
南京大虐殺の時に虐殺された中国人は20〜30万人と言われていますが、日本軍はその遺体をどうやって処理したのでしょうか? >>684
その数値が間違ってるからとは思わないんだな…… >>684
20~30万人と言っているひとに聞いてみてください 日本史的な角度で
なんで日本人って相手の権威とか肩書きとか身なりを重んじるの?
会社でも上席主任とか上席課長代理とか変な肩書きついて変なんですけど >>688
日本語がお上手ですね。
来日してから長いのですか?
残念ながら御質問の件は日本人にしか解らないことです。
従ってあなたには解りません。
考えるだけ無駄ですから気にせず暮らすか、それでも厭なら御国に帰るのが宜しいかと思われます。
>>688
東アジアにはそういう肩書多いと思うから、地域性じゃあ 奈良で決定してる
門外漢がおらが村論を出してるだけ >>693
学術水準では既に「邪馬台国」が「何処に」あったかの詮索などに関心が払われてはいないように思われる。
三世紀の列島に於ける相対的優越権力体が複数あったこと、その権力構造、或いはその生活技術等々に関する考古学成果からの実証的研究が主流。
相対的優越権力体群のうちのどれか一つを「邪馬台国」と呼びたければ御随意に、と云うのが専門家たちの態度だろう。
>>688
権威とか身なりを重んじない国ってドコ?
ドレスコードに合わないと、飯も食えないオペラも聞けない泊まる宿もない欧米より
日本は緩い方だと思うが
歴史的な角度っつうのもよう分からんが、
ペリーは日本遠征前に自身の肩書きに拘ったし
清朝へ交渉に行った英使節は、清の官人から椅子を自分の手で動かしたから英人は卑しい人間だと見下されたし
どこぞの半島国家はそういうことに異常にこだわるのは、江戸期の珍騒動に詳しい
>>688はどこの国の歴史と比較して、日本だけが、などという誤った思い込みを他者に押しつけようとしたのだろうか… >>694
権力構造とか貿易関係とか含めて、邪馬台国の場所次第で解釈が違ってしまう分野が少なくないんだから、その前提部分を奈良で決めうちできる状態になって久しいってことじゃないの >>698
ヒトがいくらでも恣意的に書ける/読める文献史料に記された「名前」などには関心を失っているのではないか。
「ヤマトに在った権力体」「イヅモに在った(略)」「チクシに(略)」、と云う扱いで十分だし、
研究成果の記述から無用な不確定要素を排除できる。
「そういう議論は素人の皆さんでどうぞ。」ということだろう。
>>694
これが現状では最も正解だと思う。
自分のモヤモヤ感をぶっ飛ばしてくれた回答。
卑弥呼がしきりに中国に使者を派遣して親魏倭王の称号を貰ったのも、相対的に拮抗する勢力が幾つもあって、優位に立とうとしてたからに他ならない。 1965年に初の赤字国債発行
翌年初の建設国債発行
それ以前の日本は税収だけで歳出を賄っていたのでしょうか? 倭の五王って本当に大和朝廷の天皇なんですかね?
なんか強引にこじつけてるだけな気がする。
剣にかかれた漢字をワカタケルって読むのもなんか強引な気がして。 >>703
鉄剣は
そもそも雄略か?も怪しいし
471年の辛亥年かも怪しい
531年かも知れない、
531年の場合、欽明天皇だろうな。
継体天皇、安閑、宣化は高齢で
幼武の称号はおかしいし。
倭の五王は、日本の王なのは間違い無いけど、大和なのか?不明。
それと、朝廷って倭の五王の時代には確立してないので、王権とか政権って言うのが今は正しいですよ。 >>691
ねえよ。
話盛っての嘘っぱちだよ。
真に受けるだけバカよ >>696
重んじないというか日本人は重んじすぎ
印籠見せて土下座する時代劇を作る日本は世界でも稀
なら実力で切り伏せて土下座させると思う GHQの農地改革は意図はなんだったのでしょうか?
日本では農地改革をアメリカが授けてくれた正義の施策かのような捉え方が何となくあります。
LGBTやSDGSなど理念が吹き荒れる現代であれば正義感からという理由も考えられますが
戦後まだアジアアフリカに対して植民地搾取政策を続けようとしてる欧州や、黒人に人権を与えず、ユナイテッドフルーツカンパニーを使って中南米で現地人をこき使って搾取していたアメリカが正義感から日本の小作人を経済的に解放させようと考えたと解釈するのは不適切で
何らかの連合国による国益目当て実施したと考えられますが意図は何なのでしょうか >>706
家来筋を実力で捻じ伏せてるだろw 西洋では異教徒に対し十字架を振り翳して意味無いよ
あと西洋人の名前って長ったらしいよね。肩書もどこそこの王とかいくつ並べるんだって虚栄
>>708
マルクス思想の土地分配正義と日本弱体化政策でしょ >>708
小作人の生活困窮が当時の日本を好戦的にしていたという認識から、それをどうにかしたらアメリカと戦おうとか思わなくなるよな、という意図です
労働者の地位改善とかも同じ理由 >>694
魏志倭人伝の記述が相当な広範囲まで創作の疑いが強まって、文面解釈は意味がないと考える人が増えた影響も大きそう
彼らが、今で言う沖縄県あたりにあると考えていた、つまり正しい場所を認識できてなかったのだ、とね 勝手に考えた持説なんだけど
邪馬台国は大和朝廷とは関係ない九州の勢力だと思う。
後の歴史をみても中国の力借りようとしてるのは負けてる側だし
一発逆転を狙って中国と繋がりをもとうとしてるんでしょ。
あと、刺青文化ってのも大和朝廷と合わない。
刺青は罪人につけられるもので。邪馬台国が大和朝廷に負けて
刺青=敗者の印。みたいので罪人につけるようになったんじゃないかな。 >>708
財閥解体と同じ地平上の政策。
旧帝國政府の政治的/経済的基盤を破壊するのが目的。
米国の立場からすれば積極的な利益と云うよりは未来に生じかねない不利益(帝國復活、或いは無産階級の蹶起による革命)の未然防止。
>>709
あのな、米国とマルクシズムの関係を知ってるか?
>>712
ヤマト王権創始者=磐余彦の右腕たる大久米は黥面の人であった旨、記紀に明記されている。
磐余彦が実在しようがしまいが、また真の創始者が誰で何処の出身であろうが、
黥面の者たちは罪人どころか創業以来の最重要中核勢力であると云うヤマト王権当局の明確な意識がここに認められる。
これは貴論と全く整合しない。
ついでに。
「刺青」なる語の使用に関して安易過ぎる。
「刺青」とは正に貴論の如く罪などを理由に強制されるものであって、
倭人伝や記紀に見る黥面文身や任侠の人の俱利伽羅紋紋など自ら好んで行うのは「彫物」と云う。
昨今はこの区別が全く喪失されているが、元来は前者が恥辱、後者が栄誉や存在証明であるから別物どころか正反対のものだと認識されたい。 卑弥呼=アマテラス
西暦248年の皆既日食が天岩戸の岩隠れ >>710>>714
小作人が戦争したわけではあるまいし、政治を動かすこともない。牽強付会の要素が強いね
ルーズベルトやケージスが隠れ共産党だった話でしょ 邪馬台国 温暖な気候で裸足で過ごしてるんだから
近畿のわけないと思うんだけどそこあたりはどうなってるの?
九州のしかも下のほうでしょ。
近畿っていうぐらいなら沖縄の方がありそうだよ。 >>719
そうだね
三国志時代(AD200年代)の日本って江戸時代ほどではなかったにせよ寒冷期だったはずだし畿内で裸足では寒いよ >>700
正解つーか
>学術水準では既に「邪馬台国」が「何処に」あったかの詮索などに関心が払われてはいないように思われる
どこの学会か知らんけど、近畿説を批判しているのは、近畿説の枝葉末節に難癖つけるだけの揚げ足取りなだけで、最早議論になりえないことは二十年前から言われてるよ。
>>706
どこと比較しているのかも答えられないのは、ヘイトが目的だから?
>>708
>SDGSなど理念が吹き荒れる現代であれば正義感からという理由
組織のトップは中国人で固定
国際機関が集めた関連データは全て中国国内で管理
組織内の人員のホボ全てが、中国共産党が思想的に問題ないと保障された人たち
俺は欧米からゴチャゴチャ言われるのを嫌った中国が、自国に都合の良いようにデータを操作するのが目的だと思ってたが
ソレって正義感でやってたんだw
GHQというか、当時の米民主党いわゆるニューディーラーがソーシャリストなのだが 近畿説の根拠は大和朝廷の発祥地だからという以外ないでしょ >>721
ソーシャリズムとマルクシズムの位置関係も理解しないまま語る勇気には敬意を表する。
良いねえ。
その去年どこかで拾って温存しておいたテキストを貼っただけのような安い煽り。
大丈夫だ
>>723がどこかで拾ってきた言葉を理解も説明もできないことは
君を除いて全員が完璧に知悉しているからw >>722
奈良の纒向遺跡が国内で最大規模
纒向の周囲に、卑弥呼の年代に一致する巨大墳墓あり。
周囲に幾つもの連続した巨大な前方後円墳あり。 >>712
邪馬台国の頃、3世紀に入ると外港をヤマト勢力に奪われるほどの深刻な零落を示していた九州勢が中国まで使節団を送るのはすでに困難だったと思う >>726
ん?
そんな証拠ある?
継体天皇と磐井が対立してたみたいに
6世紀になっても、九州は独立した、あるいは近畿に従属してない勢力だったけど。
3世紀って日本書紀の記事から?
日本書紀のその時期の記事はまともに信用出来ないって、歴史学者の総意だと思うけど。
日本書紀が書かれたのは720年の奈良時代だぞ。
3世紀って500年前の事象やぞ。
本当に正確に記録してると思ってるの?
どの歴史学者が3世紀に九州の外港をヤマト勢力が占領したって説を述べているの? >>725
ん? 逆説的に論を組み立てていらっしゃるけど
国内の最大勢力 = 大和朝廷 ですから、大和朝廷の遺跡を主張しているだけw
だいたい卑弥呼亡き後、混乱したのに巨大墓残せるか >>725
だから「当時の列島(少なくともその西半)で最大とみられる権力体がヤマトのマキムクに在った」では何が不足なのかと云う話だな。
それが魏志倭人伝に謂う所の「邪馬台国」だと断定するに足る物証は得られていないし、
また逆にそうではないと断定するに足る物証も得られていない。
どちらにせよ物証無しの推論は仮説未満のもので、下手をすると文言解釈の言葉遊びに堕しかねない。
「邪馬台国」所在論争のそういう曖昧さ、如何わしさに学術水準では関わりたくないというのが近年の風潮だろう。
語り得ぬことについては沈黙しなければならない。
ヴィトゲンシュタインもそう云っている。
>>730
意味不明。
それ言ったら、天武あたりまで、推古天皇、聖徳太子すら存在してた一次資料なんて無い。
天武は日本書紀の編纂を命じたから、日本書紀がギリ一次資料に当たる可能性はある。
中国の卑弥呼に関する資料は同時代資料として、一次資料に当たる 苟くも歴史板なんだから、資料と史料ぐらい正確に使い分けてくれ…。 素人です。
質問なんですが、崇神天皇で検索したら、紀元前97 - 前30。治世時期は3世紀後半から4世紀前半と推定される、と出て来たのですが
200年以上ブレがあるのは何故ですか?
それぐらい、よくわかっていない、ということでしょうか。 >>733
前者は日本書紀における記述をそのまま計算してる。
後者は、実在したら、たぶんこのくらいの時期に生きてただろう。って推定の年代を書いてるだけ。
ただ古代天皇は100歳を超える人物とか、そもそも実在が創作と考えられている人物もいるので、そもそも崇神天皇も居たかも知れない人物に過ぎない。 >>728
卑弥呼の墓は円形部分の径が百歩(歩いて100という意味ではなく、魏の度量衡で言う百歩、つまり百何十メートルかぐらい)と書き残されてるので、九州には見当たらないぐらいの大型墳墓だろ >>733
その時代は文字も暦も無かったので何年の話なのかは正確に伝える方法がなかった
業績等は大体正しく伝わっている
後付けで神の力が働いたとか書くのは近世でも良くあることだが事実描写には大して影響していない >>733
質問スレなんだから良いと云えば良いんだが…な。
いくら素人でも当該論点についての常識ぐらい知ってから来てくれ。
ましてや現代はネットなる道具の御蔭で数分間も手間をかければ相当の知識が手に入る。
他人に訊く前に自分で調べるべし。
スレ住人はお前さんのパパじゃない。
>>710-720
現代人が住んでいるわけではないのだぞ
北海道や樺太のアイヌの子供達は江戸時代でも裸で過ごしていたというし 邪馬台国とは別に黒歯国ってのがあるんだよな
歯が黒かったっていうけどこれ「お歯黒」じゃないのかな?
黒歯国=後の大和朝廷
って考えるとしっくりこないかな? >>739
裸かもしれないけど、ほとんど家の中か?毛皮とか纏ってたんじゃ?
そんでなきゃしぬでしょ >>741
お歯黒の風習は日本だけじゃなくて、中国にもあったよ。
むしろ、そっちから伝わったんだろ 裸足が寒いって‥古代の庶民なんてろくに履物なんかなかっただろ
簡単な藁草履なんかは保温性とかのレベルじゃないし >>719
倭の風土や習俗の記述が、経典の東方の特色と南方の特色の記述を折衷した内容になっていることから、倭が中国の南東方向にあるという前提に基づいて創作された、実見報告ではない記述ではないかと疑われている
要するに、南東方向だから暖かいって想定な。位置的に沖縄付近だし。 >>727
考古学からの所見で、九州での出土物が、港の地域だけ周囲とは異質なヤマト方面の遺物ばかりに変わり始める時期が3世紀頃とのことだ 今、ここで話されてることとも関係しますが、当時の日本には二つ大きな勢力があったのでしょうか
体に彫物を入れる邪馬台国と、ほぼ同時期の崇神天皇らヤマト王権は別物に思えるのですが >>747
大きな勢力として二大勢力に分かれたという感じには見えません
様々な勢力があったとは言えますが 薩摩の隼人とか出雲とか大和の敵対勢力だったんだっけ? >>749
まだ吉備とか四国とか濃尾平野辺りとか、各地に独立の大勢力が乱立してるだろ
九州だって九州全土を統一できてないし複数勢力に分かれてるだろ >>738
スレタイに「初心者歓迎」と書いてあるのにそのレスは無い。やり直し。 ここは食えない歴史関係者が
他人の迷惑を考えずに攻撃的な自己満足雑談をするスレに堕ちてますから >>751
例えば「自動車運転の初心者」とは、
運転免許を持っていない者のことではないし運転技術を全く知らない者のことでもない。
趣味についても学問についても皆同じ。
扉を叩きたければ叩き方ぐらいは調べてから来いという話だ。
ましてや現代は数秒間、数分間で相当水準の知識を得ることができる。
昨今流行りの時間効率とやらに照らしても、そこまでであればその方がよっぽど良かろう。
そのスキルが無いわけでもあるまい。
自分が望めば周囲が手取り足取り親切にしてくれるなどと期待する思考は、
真人間であれば幼稚園入園前に卒業している筈だ。
でも、結構有名な書籍では、邪馬台国は奈良にあった説が多い気がする。
例えば、最近手に入れた本では、
天皇の歴史 一巻 神話から歴史へ (講談社学術文庫)
大津透 東京大学教授
2010年初版だから、結構新しいし、大学教授が書いてる。
この本では、邪馬台国は奈良以外無いみたいに書いてあるけど。 >>752
その程度ですら、ましな方
専門家ですらない、学部生未満のレベルしかないアマチュアが専門家のふりしてしれっと回答してたりするからな イザナミとイザナギが海を矛でかき混ぜた後に持ち上げた矛から滴り落ちたものが固まって日本列島と佐渡や淡路などの島々が生まれた
って誰が見た、あるいは誰が誰から聞いたのですか? 邪馬台=ヤマト、ってことなら話は早いんだろうけど、それだと彫物や風俗の差が説明つかんしなあ >>759
貴方が見た、あるいは貴方がアマチュアから聞いた
出鱈目です。正しくはオノゴロ島です。日本列島と佐渡や淡路などとは別物です
太安万侶が稗田阿礼から聞きました >>761
しずくが凝り固まってできた島であるオノコロ島は、もっとも主流な記述では、所在地不明なんですよね
非主流の文献から来ているという、一書に曰く~ のなかのひとつの異説として、オノコロ島イコール淡路島説も書き残されてますけど、8つぐらい? 多数の異説併記してるなかの最後の方の説が淡路島説だったような
てか、日本書紀の随所にある 一書に曰く が特にたくさん並べられてる部分だし、よほど多くの異説が乱立してたんでしょうね >>760
もともと風習があったけど、大陸からの文化の影響で無くなった。
縄文人とか、成人したら歯を抜く習慣があったのは考古学で分かっているけど、今の天皇家とか日本人は成人したら歯を抜くのか?
縄文人と今の日本人はおそらく血縁は在るだろうが、風習は無くなってる >日本列島と佐渡や淡路などの島々が生まれた
佐渡や淡路は日本列島に含まれているが通説なのに、別物と考える異説は知らない。これこそ誰から聞いた?
>>763
刺青は支那大陸の風習だろう
縄文人と一括りにしているけど、一部の村の因習を大和と絡める必然はない
今の日本人は親知らずを抜くだろう。変か? >>764
親知らずを抜くのは治療のため。
縄文人が歯を抜いたのは、風習だぞ?健康な歯牙を抜いていた。前歯とか。
刺青が大陸の風習として、邪馬台国の住民は渡来系なのか?そう言いたいのか? 魏書に「倭人は彫物をしてる」って書いてあるわけで、これは大陸系の種族は彫物してなかったからでしょ
疑問なのは、邪馬台とヤマトが同時代に存在し、違う風俗だったこと
やはり、別の部族なのかな >>720
じゃあ吉野ケ里も違うね。あのあたりから皇極天皇の筑紫朝倉行宮ら辺って九州の平地で一番寒いところだし。 >>731
魏志は晋の時代に編纂。
しかも、歴々の支那の前王朝史誌同様に異論を認めさせないため一次資料はわざわざ焼却している。 >>734
複数の大王の軌跡を一代の大王の奇跡にゴッチャにしたり
逆に一代の大王の軌跡を複数代に分割したり
特記すべき事件や功績の無い大王の代に別の大王の軌跡をコピペしたり
今の1年を、冬季・夏季で2年に勘定たり、冬至・春分・夏至・秋分で4年に勘定していたり
十干十二支を記憶し間違えて12年昔を60年昔と誤ったりしたのが積み重なっていたり
……といろいろな説がある。
本当に記紀の大王の在任年を足したものが正しくて、遺物の年代測定が誤ってる
という可能性も全く無くはない。 >>768
それでも、日本書紀に比べたら、魏志倭人伝は同時代資料になる。
記紀も、前の歴史書は全部焼いとるやんけ >>769
つまり、100歳ごえの大王が何人も連続していたという記述を荒唐無稽とは考えないってことか >>771
769じゃないし、欠史八代は実在してない派たけど、
769は100歳超えは現実的ではないって
実際は半分以下の年齢じゃないか?
って言ってるように見えるけど。、 「物部文書」「東日流外三郡誌」「先代旧事本紀」等、記紀以外の古代日本を記す書を読んだ方、いますか?
それとも、これらは偽書なのでしょうか >>765-766
親知らずも歯自体は健康なのに、抜いていますね
邪馬壹国は曹魏の属国であり東洋被れなのは間違いないでしょう。大陸系の種族?は勿論多種多様で彫物してた
>>770
同時代ではないし、又聞き要素が大きくて大きくて
記紀の記載通り、2つも歴史書があるじゃんw 異論も数多併記しており、一切焼いてません
現存していないから偽書・焚書にならない >>771
日本人は百歳以上生きるのが多いというのは当時の中国の記述とも一致しているしな >>773
偽書ですね
先代旧事本紀は偽作の時期が古いので、ひょっとしたら後代に散逸した史料を流用してるかもしれない可能性がありますが、それすら基本的には使い物にならないレベル、それ以外の近現代偽作物は基本的にゴミです >>775
異なる場所でそれぞれ独立に創作された二つの創作物が偶然の一致を見せたら信憑性が上がるのか? >>766
>魏書に「倭人は彫物をしてる」って書いてあるわけで、これは大陸系の種族は彫物してなかったからでしょ
種族ってのは分からんけど、その種の表記は中原ではない周辺国へのテンプレで、東アジアでは唯一日本だけが彫物をしているわけではないし、
誰も整理していないで各々が勝手に言いたいことを言っているけど、
古代中国で「倭」とは、そもそも朝鮮半島のことで、時代が下ってから日本列島を指すようになっていったが、
古代中国の人間が「倭」について語るときに、どこまでが朝鮮半島のことで、どこからが日本列島のことだと区別していたのかは、
文脈を読んで判断するしかないんだよね。 >>746
現代でもそうだろ。神戸のポートアイランドやら六甲アイランドやら、船舶コンテナに書いてる文字、人民漢字ばっかりだし
生えてる草も外来種ばっかり本邦在来のもの少ない、ついでに、難儀な毒蜘蛛やら毒蟻やらのスクツになりかけてるし。
要は港のあるところには外来の産品が溢れているということだ >>759
文明化したばっかりの、原始人にチョロっ気の生えたような開明レベルの人が思いつきがちな
天地開闢神話。
二柱の神様が混沌の中から陸や海や空を作り出すという類型は沢山の神話にあるでよ。 >>771
太陽年を4分割して年を計上すると、「在位120年は今の長さで在位30年 >>775
チャイナや三韓や任那の人が流れ込んできて混ざったから日本人の寿命短くなったのか
それでも世界で一番長生き国なんだけどな >>775
現在の一年を二年として考えてたんだろ。
有名な説じゃん。
古代天皇の寿命が長いのも説明がつく
つまり、30歳で60歳になる。
若い30歳の倭人が60歳って言って、魏の使者も驚いたろう。 このスレ、何人でまわしてるの?
3人くらい
変人だらけだよね >>784
しらん
3人ぐらいなのか5人ぐらいなのか、さっぱり
マトモなやつが1人ぐらいは含まれてるかもしれんし、いないかもしれん
少なくとも、マトモなやつは俺ではない誰か
そして、もっと悲惨な低レベルなやつもいるぽ >>778
マケドニアのアレキサンドロス三世がイキり出すちょい前、
アテナイの使節が招かれてローマへ行って、ローマ方は張り切って閲兵式やって兵隊の演習見せた。
「ファランクス隊列を組んで整然としている、蛮族の練度ではない」と、アテナイ方の視察団の記録。
当時のギリシャ人、アテナイも含めて、自分らこそ真人間、他は蛮族、とイキり倒していた。
「ローマの兵隊はファランクス隊列で戦う」って書いてたら、ギリシャ系の邑里の兵隊はファランクス隊列組まないってことになるんかの? >>785
おかしい意見があれば、自分が反論すれば良いだけだろ 新大陸のアメリカでも原住民のインディオは黄金に魅力を感じ価値を見出して装飾品などに用いていましたが、日本に於いては黄金に価値があるとされるようになったのは仏教の伝来で如来の体は金色に輝いているという伝承が伝わってきたからでそれ以前は金を崇めるということはなかったですか? >>787
持論をぶつけ合うスレではない
心得違いも甚だしい >>788
仏教云々の黄金の記事は日本書紀だから
奈良時代の認識であって、その記事は欽明天皇の古墳時代の仏教伝来の黄金に関する認識ではない。
その仏像が金色なのも、真鍮製であって、金製品ではないし、 >>786
>マケドニアのアレキサンドロス三世がイキり出すちょい前、
実年齢は知らんけど>>786がイキリたい盛りの中学生程度の精神年齢だというのは確認できるが、この分の趣旨は、まともな考察を一切行う気がないという宣言?
>当時のギリシャ人、アテナイも含めて、自分らこそ真人間、他は蛮族、とイキり倒していた。
うん。そうだね。だから何?
>「ローマの兵隊はファランクス隊列で戦う」って書いてたら、ギリシャ系の邑里の兵隊はファランクス隊列組まないってことになるんかの?
うん。何を言っているのかさっぱり分からん。
君は、幼稚園・小学校時代以降出会う全ての人から「おちついて、何を言いたいのか、伝えたいことが皆に分かるように、よく考えてから、話ましょう」
と、言われ続けてきたと思うのだが、他人の言葉を一切聞き入れずに、その歳になるまで生きてきたのなら、もう余生はそのままでいいんじゃないの?
そもそも、何で俺にレスを付けたのかさっぱり分からない。
十年ぐらい前に世界史板にいた某コテのように、「他国人を差別するのは日本人だけで、日本を除く世界には歴史上一切の人種差別はなかった」(キリッ)
とか言っちゃう系の残念なヒトなのかな? それ書いた人じゃないが>>766宛のつもりだったんだろ 異なる風俗なのだから、別部族なのではないだろうか
これに対して
AはRのFをみて「蛮族の練度ではない」と言う
Aは非Aを全て蛮族と見做している
RはFで戦う
だからAはFでは戦わないというのか
最後のがイミフなのは変わらんと思うが
自分たちが一番だと他を見下している者たちが
見下している相手が自分たちの真似事をはじめたから
全く異なることをやるのだという理屈が分かんない その種族は彫物をしていると書いたら書いた当人の種族は彫物をしていない、という主張に対し、
その兵隊はF隊列で戦うと書いたら書いた当人の兵隊はF隊列で戦わないのか、と言ったわけでしょ
妥当かどうかは別問題だが言いたいことくらいは分かる >>765
あれって死後に抜歯したのではないとどうやって証明されてんの? その種族は彫物をしていると書いたら書いた当人の種族は彫物をしていない、という主張に対し、
その兵隊はF隊列で戦うと書いたら書いた当人の兵隊はF隊列で戦わないのか、と言ったわけでしょ >その種族は彫物をしていると書いたら書いた当人の種族は彫物をしていない、という主張に対し、
推測を断定に入れ替えている
>その兵隊はF隊列で戦うと書いたら書いた当人の兵隊はF隊列で戦わないのか、と言ったわけでしょ
断定を推測に入れ替えている
頭がおかしいと言うべきか
日本語が上手だねと言ってあげるべきなのかw 喧嘩腰ありきで文章理解が足りていない人は勘弁
一応学問板なんだからさ >文章理解が足りていない人は勘弁
ズールー戦争で、ズールー族が鹵獲した英軍の銃を使いはじめたから、英軍は銃の使用をやめた
という例え話を読んで「なんと素晴らしい例え話か、おまえは天才だ!」と受け止めるのが>>786
「そんな馬鹿な話があるか、下手な例え話をやめろ」と受け止めるのが常識人。
もし、>>786も後者で受け取ったのなら、一連の>>786の書き込みを読んだ
このスレ全員が>>786がそう感じたのと同じ感想を持っていることを理解してほしいのだが
自分がキチガイだと自覚しているキチガイはいないから、>>786はしばらくここに居座って
全く理解できないキチガイの理屈を垂れ流し続けるだろうね
「ボクチャンのリロンブチョーはキャンペキだ~」
「ボクチャンのリロンブチョーはキャンペキだ~」
「ボクチャンのリロンブチョーはキャンペキだ~」 >>791のように、「他国人を差別するのは日本人だけで、日本を除く世界には歴史上一切の人種差別はなかった」(キリッ)
この理屈は朝鮮人です。朝鮮人が言うから真実です
孔丘が「親を殺してはいけない」と曰ったので、当時は親を殺すことが常識だった チャイナの三国時代の魏の領域には、稲や苧麻の植わった農地って無かったの?
桑を植えて蚕から糸・布を作ったりは無かったの?
倭の連中のやっていることとして、稲・苧麻の栽培、桑で養蚕、糸布を釣ることを上げてるけれど 魏の南部一帯には長江流域が含まれているので、稲作地帯もいくらかは含まれていたはずだ
特に荊州中部、三国間の係争地、関羽が死んだ地域付近とか、たぶん稲作エリアだよな >>805
黄河流域で小麦が栽培されるようになるのは、18世紀以降。 >>806
五斗米道の“米”は今で言うと粟のようだが、三国時代に稲在ったの >>809
一瞬、栗って読んで、クリなんて高価だから、珍重されたんだろうって思ったら
見直したら、粟やったやんけ 北海道の名付け親が徳川斉昭説ってどれくらい信憑性あるの? >>809
呉越同舟や臥薪嘗胆で知られる戦国の呉越あたりでは米を作ってたのでは
それとも、臥薪嘗胆に出てきた米は別の作物なんだろか? 越なんて支那の埒外だったでしょう? 百越=雑多な蛮族って感じに。
漢の劉邦も、楚公を、沐猴とか言ってるし。 >>816
劉邦の出身地て、曹操の出身地のすぐ近くだぞ、けっこう北の方 で、仏教が伝来されるよりも以前の日本人は黄金に価値を見出したり黄金を見ても魅了されることはなかった、で合ってますかね? >>818
仏教公伝は六世紀半ば。
「日本」が発足したのはどんなに早く見ても七世紀後半。
従って仏教公伝以前に日本人は存在しない。
質問自体が論理的破綻を来している。
>>818
いんや、弥生時代の倭人伝にあるように、金印とか送られてるから、キラキラ光る物だ!すげー。みたいな認識はあったろう。
カラスとかもキラキラ光る物を集める個体が居るらしい。
人間以外の動物もキラキラは好きだから、きっと倭人だって好き。 いやん、自称中国人(「中国」が発足したのはどんなに早く見ても二十世紀初頭、従って弥生時代に中国人は存在しない)が送り付けているだけです
現に離れ小島の田んぼに捨てられている偽印が江戸時代に発見された
>>817
当時の楚も、けっこう北の方にあった >>821
そりゃまあ、荊州は楚だから、三国時代には袁術とか劉表とかがいた辺りだけどさ
劉邦の出身地て、徐州中西部あたりだよ、淮河より北側でしょ
劉備と呂布が争ってたあたりに近い 古代人が宝とした勾玉の原材料は瑠璃やメノウや琥珀や水晶などの石で作られ金属はあっても青銅まで
この時代にはまだ金は装飾品には使われてはなかった >>823
勾玉とかの装飾品があった時代には、黄金の加工品は、大陸からの渡来で来てたでしょ。
倭人なんて弥生時代から、交易とかで朝鮮半島の南部にウロチョロしてた。 瑠璃はラピスラズリの事だから古代の日本には無い。翡翠なら有ったけど。 >>822
楚は二大強国だったから、そこまで領域あったんだよ >>828
確かに、縄文時代には金製品は見た事は無かったかもね。
でも、
キラキラ光るすげー。
くらいの認識はあったかもね。 >>826
でも、戦国 楚の拠点って長江以北だったような
呉だって長江以北の国だったし 徳川家康も若い頃はメソメソナヨナヨしていたのですか? 土侍が主人親戚の花嫁を貰って、しかも主人が全国随一の守護大名じゃなかったっけ
人生うはうはだったじゃん 崩し字は専門家でも単漢字では見分けが付かず文脈で判断するとかしていますが、当時はそれで読み間違えることがなかったのでしょうか
名前等の固有名詞ではなく文章を読み間違えて大変なことになった事例はありませんか >>833
そりゃあったでしょ
邪馬台国の場所とか典型例でしょ 日本書紀とか漢文とか、カタカナで横に注釈が付いてたりするけど
あれは、奈良時代あたりにカタカナが成立した後で書かれたものだから、ってことで合ってる?
本家の中国の漢文にはそんなのついてないよね(レ点とか) 古事記でも、南北朝くらいの複写したのが一番古い。
奈良時代に書かれた古事記の原本なんか残ってない。
だから、奈良時代の内容とは食い違ってかも知れないね。 >>834
あれって崩し字の問題なの?
>>835
レ点とかは日本語の文法で読むためのものだからね >>837
刊本の誤字の原因が、くずし字の形状の類似による誤読の場合が多いわけだから、くずし字のせい、で概ね間違ってない
たぶん しかし中国に崩し字があったのか?
>>835
>本家の中国の漢文にはそんなのついてないよね(レ点とか)
原典にはレ点どころか句読点のような記号は全く無い。漢字が延々と繋がっているだけ。
だから文がどこで区切れているのかも不明瞭です。それを読み手が解釈するので
人によって全然違う読み方にもなりかねない。だから先人の指導が必要となります。 不明瞭なのは漢字が分からないだけ
主語、動詞云々ってのがあるからわかる人にはわかる >>839
くずし字、草書体は中国から来たものだろ
まあ、元の漢文には句読点も読み仮名や送り仮名もついてないのは間違いないのだが。 漢字書体の変遷
篆書 → 隷書 → 草書、行書 → 楷書 厭離穢土(おんりえど)欣求浄土(ごんぐじょうど)』。あの世に行けという意味ではございませぬ。汚れたこの世をこそ浄土にすることを目指せ。かような意味と登譽上人様に教えてもらいました。
と榊原康政が徳川家康に言ってましたが、
この世を浄土にするには皆が法華経に帰依して南無妙法蓮華経という題目を唱題するとこの世が寂光土という浄土になると日蓮は言ってませんでしたっけ?
天下布武で浄土をもたらすよりもその方が血も流すことなく安全だと思いませんか?
ま、しかし江戸時代は日本史上でも少なくとも奈良時代以降では一番平和な時代ではあったとは思いますが(但し飢饉に襲われたところは地獄絵図ではあったでしょう >>844
日蓮宗は日本の仏教諸派のなかでも極めつけに戦闘的な宗派だよ >>844
領主の家に生まれし者が天下布武を以て浄土を目指す
法華宗徒がなんみょうほうれんげっきょで浄土を目指す
浄土宗徒がなんまんだぶで浄土を目指す
此れ本分ならん >>845
鎌倉仏教って僧兵とか置かなかった
延暦寺や三井寺の天台宗や興福寺の法相宗あと山伏兼僧兵率いる真言宗の方が僧兵同士で争ったりして余程好戦的 そうか、乙
有力貴族の庇護があって、寺社仏閣があって、財力があるから僧兵の暴力装置が置けたんだよ
今日では、公明党や統一教会がそれに当る
>>838
南と東とか、千と百とか、壹と臺とか 王家、公家、寺家、社家、武家のすべてを覆う警察権力無かりし世なれば、少なからぬ領地を持つ寺社自ら武装せざるべからず >>848
南と東については、当時の中国人が倭国の位置を中国の南東方向と誤認してたことの反映
おおむね現在の沖縄県付近に倭国があると誤認していたことは間違いない
東方文化圏の半島諸国と南方諸国との中間的な文化であると認識してたぐらいだしな
臺と壱の混同は字形(くずし字)の類似によるとされている 滋賀県の寺の数が人口当たりトップなのは
昔は、僧兵とか居たから、京都を東夷から守る為ではないか?って思ってますが、どうですか? 延暦寺が平安京にとっては鬼門に当たる北東に建てられたのは何か意味があるのかもしれないね >>851
現在の話を歴史に持ち込むのはおかしいだろ 大きな寺院には学僧の下に、僧とは名ばかりの多くの下働きや自衛隊員(僧兵)を抱えていた
寺の利益を守るための人員であって、都の防衛などあずかり知らぬところだ
また弱小寺院があまた有ったとしても経済力がないため、武力など無きに等しい >>851
昔は人口にみあう数の寺だったが、明治維新後の衰退で人口が減って寺の数が多く見えるんじゃね? 奈良時代に仏教を国の中軸に据えた鎮護国家のことは授業で大きく取り上げるけれど、明治時代に神道を国の中軸に据えた国家神道はあまり取り上げられません
これは政治的な理由が大きいからですか? 鑑真さんって失明した後はどうやってお経を読んでいたのでしょうか? うーむ 目に一丁字だに無き門前の小僧すら経を読むからの 廃仏毀釈やカルティックな軍国主義は教えるのにその行動原理である国家神道を詳しくは教えない。
これは片手落ちどころか一つの事実を扱う上で欠陥、不誠実としか云いようがない。
「国家神道」なる暴虐な仮構は、甚大な被害を受けた各在地の神仏混淆信仰はもとより本邦古来の「カミ」信仰に対しても酷い冒瀆だった。
換言すれば本邦本来の精神文化/生活文化の歪曲、破壊だった。
薩長クーデター政権による七十有余年の暗黒時代を繰り返してはならないと思うならば、国家神道に関する批判的教育は不可避不可欠の筈だ。
>>861
国家神道を否定的に扱うと、神社庁という公的機関っぽい名前の宗教法人(つまり私的団体)や関連諸団体から激しいクレームが入るからじゃね? >>862
今は壺のおかげで奴等もおとなしくせざるを得ない。
好機。
>>862
特段否定的に扱わなくても粛々と扱ったらいいんじゃないの?
国家神道だけじゃなく、日蓮主義とかも 上で答えが出ていますが
取り扱ってしまうと創価の究極目標である国立戒壇の建立が遠のくので忌んでいます >>861
そそ。
国家神道になった時に、無理矢理、天皇家の神様に祭神が変更されてしまって、本来祭られていた神様の名前が分からなくなった神社とかあるらしいな。
これは、神道にとっても冒涜すぎる。
本来、天皇家の役割は祭祀の役目だったはず。本末転倒だわ。 >>866
祭神の強引な変更とかって具体的に誰がやったんですか?
著名な人誰か挙げてみてください >>867
国家神道で調べてみ。
伊藤博文が推進してる メジャーなとこだと、牛頭天王からスサノオとかだっけ?
かなり色々と変えられてるよな 神田明神は平将門公を廃して無理矢理大己貴命に挿げ替えられ
…そうになった所、神田ッ子たちが猛反撥、
「んじゃ俺たちァ神輿出しァ金輪際やんねえからよ。やるんならそっちで勝手にやっつくんな。」
と総スカンを喰らわせた挙句、最後は明治帝を引っ張り出した上に頭まで下げさせた。
結果、将門公は祭神の一柱に留まることを得た。
他にも神仏混淆の祭神が強制的に替えられたが、新神社を天神社(菅公)や諏訪社(建御名方神)とする例が見られた。
村人たちは暗黙裡に帝國政府や国家神道への叛意を示したのではなかろうか。
>>856
>明治時代に神道を国の中軸に据えた国家神道はあまり取り上げられません
>これは政治的な理由が大きいからですか?
政治的といえば政治的だけど、そもそも「国家神道」なる造語は太平洋戦争後に、戦前・戦中の日本を批判するために多用されただけで
奈良時代に国家が敷衍した仏教と違って、維新政府が広めようとした神道とは性質が全く異なる。
天皇=現人神という教育が国家から強権的に押しつけられるようになったのも日中戦争から終戦までの短い期間でしかない。
大本教が国家によって弾圧されたときにも、出口王仁三郎は「大本教は既存の宗教とは違うが、あえて近似を指すなら神道の一種だ」という詭弁でのりきれるほどに
昭和初期ですら、我が国の宗教政策は緩かった。
安丸良夫は、近代において諸宗教の上に君臨したのは「国家神道」ではなく、教育勅語に表された「国体論的イデオロギー」であり、天皇の権威は神道を含む特定の権威と結びつくものではなかったと主張している。 >>871
廃仏毀釈で神仏混淆を排撃したのみならず、記紀の「神」体系に乗らない在地の様々な「カミ」を執拗に潰して回ったのは薩長クーデター政権だ。
皇祖神天照大神を頂点とした一元的宗教政策の下に国家を置こうとする意図は明白だった。
明治初期には国内の神社の過半が取り壊されて国有地になってるもんな 古代の衣服事情なんですが、魏書によると、当時の倭人は機織りをしていて、蚕の養殖までして絹も着ていたとのことです
相当、高い技術に思えるんですが、自作の機織り機などもあったのでしょうか。自分で考えて作ったのでしょうか 豊臣秀頼と千姫の結婚で子供は産まれませんでしたが、もし子供ができていたらその子供は父母と母母の淀と江が全姉妹なのでノーザンテーストの3×2を超える2×2のインブリードを持つことになりますが、それでは血が濃すぎてしまうという懸念は結婚の時になかったのでしょうか? >>875
イトコ婚まで禁忌にする規範例があるのか?
>>875
当時の人はそのように考えてなかったとしか 従姉妹との結婚は現行法でも可能とされているのだけど 徳川斉昭著の北方未来考の原本は今でも残ってますか? 縄文人にツングースの遺伝子が少し入ったのがアイヌであってますか? アイヌも色々いるんだよね
ガッツリ50%くらいツングース入ってる、現朝鮮人みたいな顔してる部族もいるし >>883
なんだろう、ウソつくのやめてもらっていいですか
なんかそういうデータあるんですか? >>884
彼にとっては真実なのかもしれん、つまり彼は無知(という説) 尾張藩の藩祖徳川義直は何で尊王佐幕掲げたんだっけ?
母親が元下級公家の娘だからかな? 奈良の古墳で発掘された剣が国宝級の代物みたい
こういうの歴史ロマンがあるね >>888
つか、今まで何で見つからなかったのだろう。
天皇陵でもないのにね >>889
寺の倉庫や旧家の蔵などから数百年〜数十年ぶりに歴史的名品が発見!ってニュースも不思議
今までの大掃除や点検で見つからなかったのか?って >>890
見つからなかったようなとこ以外では売却されたり戦時中に供出させられてたりしてて残ってないんじゃね >>890
あれは結構、「相続絡みで調査したら……」ってのがあるようで。
うちは大した家じゃないんだが、田舎で蔵があって。たぶん江戸初期からある蔵。
爺さんが死んだときに、税務署から「念のため調べない?」って言われて、
県博物館の人らと一緒に調査した。
さっぱり読めん手紙がいっぱい出てきたので、持ってってもらった。
こういうのの中から、希に大発見があるのかも。
我が家のは当時の資料レベルのもんだった。 >>890
松江城が国宝認定された祈祷札にしても
報奨金の500万円がなければ
今でも誰も所在を知らないという設定で
埃を被ったままにされてたと思うよ。
金に困ってない資産家は煩わしい事に積極的に関与しない。 禅宗では京都五山や鎌倉五山が設定され、その開山者の蘭渓道隆や無学祖元、夢窓疎石らが歴史教科書にも掲載されて有名だが、五山の上位に位置し「別格」とされた南禅寺の開山者である無関普門は教科書にも掲載されてないし有名じゃないのはなんでなんですか? 日本に文字はなかった
ってのが常識だと思ってんだけど最近読んだ本で
弥生時代から硯が発見されてるみたいのあってどういうことなんですかね?
よくよく考えたら、弥生時代でも中国と交流あったんだし
中国語を書ける人はいたのかな? 卑弥呼とかも、中国への使者とか渡来人に手紙書いてもらってるだろ。 江戸時代には
カツラって無かったんですか?
(´・ω・`) >>895
三国時代や晋代には中国を去って周辺国に行く人もいたので、半島諸国も含めて周辺国に中国の知識人が住み着くことは多かったらしい 高野山よりも比叡山の方が有名なのに伝教大師よりも弘法大師の方が有名なのは何故ですか? ネット等で、古代の神武東征の進行ルートが載ってたりしますが、あれは日本書紀などに書いてあるのですか?
当時の国の名前、地名なども書いてありますが、風土記などに載っているんでしょうか >>903
いくら何でも無知が過ぎる。
古事記や日本書紀ぐらいは読んでから出直して来い。 >>905
おこちゃま相手に手取り足取り甘やかすから馬鹿がはびこるんだよ。
自力で調べの付く処まで調べてどうしても解らないから教えてくれ、ってんならともかく、
日本史板の住人なら記紀なんざイロハのイの上の「ノ」ぐらいなもんじゃねえか。 >>903
そう。
記紀に書いてあります。
しかし、内容が信憑性にかけるという説が多く、記紀は奈良時代の成立なので、その時の創作っていう説が強い。
あとは自分で調べたら? 「当時の国名」てのも、神武生前という意味ではなくて奈良時代当時の国名だよな 邪馬台国は大和朝廷が中国の臣下になったのを良く思わなかったから
日本書紀から消した
みたいな説があったと思うけど。倭の五王が中国から位?もらったのは日本書紀に書かれてないの? >>909
書いてない。
というか、倭の五王が本当に古代天皇なのか?どうかも分からないレベル。
まあ、継体天皇以前は実在もちょっと怪しいんですが。
倭の五王は、年代から見たら、継体以前なので。 多分、日本史板の総意では、
武烈天皇自体は実在が怪しい。
で合ってるでしょ。 仁徳天皇は居てそうな感じ。でも、父親の応神以前は、怪しい。
子供も結構怪しいのがチラホラ >>895
鉄砲伝来が教科書に書かれてある年より数十年は早い時期なのは推測できるけど、
何時・誰が・どのように、入手したのかが不明だから、教科書では1543年とされているように、
稲作と同時期に伝えられていたとしても、文献証拠がないから、文献で確認される年に文字が伝えられたとの推測しかできない。
記紀には仏教や儒教伝来のエピはあっても、文字が何時伝わったのかが書かれていない。
つまり記紀成立時には、知識層にとって文字は誰もが知っているとの認識であり、祖父や曾祖父より以前から認知されていたのであろう。
土器や貨幣や金印や古代遺物に漢字が書かれていても、それを根拠とするのは説得力に欠ける。
邪馬台国の時代に中国との外交使節の行き来があり、当然文章の遣り取りもあったであろうに、その文章に日本人が一切関知しないと決めつけるのも、
中国側が日本だけを選択的に文字を知らせなかったと決めつけることも暴論といえる。
どっかの古墳から墓誌でも発見されれば、通説より百年単位で遡るのは確実だが、その種の文字史料が発見されない限り、議論をはじめることができない。 >>911
怪しいのは武烈の存在ではなくて事蹟。
どんな人物であれ、また彼の名が何であれ、継体のヤマト入り前夜に於ける「ヤマト地域の旧支配勢力最後の主宰者」は物理的に必ず存在する。
継体が無人の曠野を占拠したと云うことなら別だが。 >>906
スレタイの最初の3文字を読んでから
おまえはこのスレから消えろ 普通、二の丸より本丸の方が大きくて立派なはずだけど、なんで二条城は二の丸の方が大きくて立派なんですか? 本丸は城の真ん中にあるから大きいとは限らない
二条城は国宝の御殿や名勝の庭園が残っているから二の丸が立派に見えるだけ >>914
やはり、断絶を引き起こした王が悪者にされるって古代中国の思想の影響を受けた日本書紀の編纂者が、武烈天皇の記事を書いたんですかね?
津田左右吉の受け売りだけど >>918
大きさはともかくとしても、重要度は本丸が上でしょう?二条城の本丸も残っているけど、なんで二の丸ほど立派に見えないのですか? >>916
貴様こそ日本語を学び直せ。
初心者というのはズブの素人のことではないし、ましてや無知に居直る愚者のことでもない。 >>920
現在はその見方が主流。
周知の如く、漢籍の影響の少ない古事記には武烈の暴虐など一言も書かれていない。
>>923
日本書紀の記事が間違ってるとすると
継体が来たのは、
継体が乗っ取りに自分からやって来た。
本当に武烈で完全な断絶が起こったので、来て貰った。
血縁関係的には、もっと血の濃い後継者は居たが、実力のある継体を有力豪族が支持し、即位した。
それ以外?
この候補からして、どれが正解に近いですかね? >>925
背景事情が不明すぎて、回答者の予断や願望を表す物にしかならんと思うよ >>925
その辺りは俺が読んだ幾つかの関連書でも論者毎に意見が異なっていた。
ただ、現在では継体の覇権掌握を暴力革命と見る論者(かつてはそう見る論も少なくなかった)は少数派になっているようだ。
個人的に説得力を感じたのは森浩一氏の論考。
列挙してくれた中では三番目の選択肢に極めて近い。
その動機としては当時北東アジアに生じていた国際関係パラダイムの転換の影響ではないかと云う試論だった。
>>927
大津透(東大教授)の天皇の歴史一巻の継体天皇の記事では
武烈と血縁関係があるというのは、嘘かも知れないけど、一応外戚関係(天皇家に妃を嫁がせていた)の有力豪族であって、無関係の豪族が攻め込んで、簒奪したのは考えにくい。って説だったな。
この辺が、無難な感じか? 直木孝次郎は最後まで、継体天皇簒奪説だったな。
好きな歴史学者だし、簒奪説は魅力的だけど、可能性は低いか。 >>921
本丸は最後の拠り所として天守があるくらいで御殿は狭いか、無いという城も多い
天守が無いという城も多い
姫路城でも広大な三の丸に御殿はあった
落城寸前でもない限り、普段は殿様が住んだり政務が行われる下の方の御殿が重要だったんでねぇか 戦国大名、というかその家臣? に「秀」の字が多い様にみえるんですが、これは1種の流行りなのでしょうか?
織田信秀
丹羽長秀
松永久秀
明智光秀
羽柴秀吉 結局 邪馬台国 も 倭の五王も中国の配下になっちゃったから
それを良しとしない大和政権が中国の臣下にはなってない歴史を作ったのが
日本書紀&古事記って感じでいいのかな? それも考えられるけど、そもそも文字を持ってなかったから、記録が出来ない、口述伝承に頼る。凄い曖昧な物語になる。
でも、分かりませんでは済まないから、その時の官僚が知恵を絞って創作する。
口述だから、当然、後世の権力者の都合でコロコロ変えられる。
卑弥呼が大和の人間だとしても、倭の五王の時代には正確には伝わってないと思う。
たぶん、仁徳天皇は居たと思う、ただし、仁徳の仁政の記事は中国の記事を参考にした創作ぽい。
その孫の雄略天皇あたりも居たみたい。
仁徳天皇の子供の反正天皇とか、曾孫の清寧天皇とかは実在が結構怪しい。
武烈天皇とか、その父親と叔父の兄弟天皇もストーリーが凄いヤバい。創作くさい。 仁徳とか雄略とかの名前は奈良時代に後付けされたものだからともかくとして、それぞれの天皇(のもとになった大王)はだいたい実在じゃないかと思う、どの辺まで遡れるかは知らんが。
ただ、業績の大半は後付け創作だよな
朝貢の記録がないのは消したかったからじゃなくて知らなかったから、情報が散逸してたからじゃないかなあ
たぶん、欽明よりまえは系譜関係の情報ぐらいしか残ってなかったんじゃね?
それ以外に多少の断片があったかなって程度かな、たぶん >>894に関して
臨済宗を日本に伝えて広めた栄西が禅の道場として都に作った建仁寺
その建仁寺よりも格上(最上位)に位置付けられた南禅寺
その南禅寺の開山者がなぜ歴史的に名前があまり残ってないのか
あるいは、そこまで名前が残らないような人物が開山した禅寺が建仁寺や相国寺、建長寺などより格上に位置付けられたのか?
いろいろ不思議なんです >>939
悪いけど、欠史八代は奈良時代の創作でしょう。神武天皇も。
天皇家の歴史を古く見せるための創作人物。 武烈は継体の正当化を図る為としても、
その父親とか顕宗天皇の兄弟天皇の、訳の判らんストーリーは何で作ったんだろ。
たぶん、雄略天皇からの危害を恐れて、兄弟が身を隠して、雄略系統が失権してから、朝廷に復帰したという簡単な伝承だけが伝わってて
それだと面白くないから、シンデレラみたいな感動ストーリーに仕立てたんだろうかね? >>943
つか、欠史八代が実在したって歴史学者居るの?
一般的な本買っても、欠史八代は否定してるぞ。 実在したか否か不明と言っているならまともな学者だが、実在しないと言い張っているのは本物の学者ではない 戦前、小笠原の南の硫黄島には千人ほどの住民が住んでいたようですが、川もなく井戸を掘っても硫黄が混じった水しか出ない島で、島民の水はどのようにして確保していたのでしょうか? >>948
ありがとうございます。
旱魃で雨水を溜めていた水槽の水が枯渇することはなかったのでしょうか?(海洋性気候だから旱魃にはならない?) >>949
自衛隊や米軍の関係者しかほぼいない2011年に完全渇水に近い状況になったことがあるから、住民がいた昔にも似たような状況があっても不思議じゃないね。
実際あったかどうかは資料を調べたわけじゃないので知らんけど。 硫黄島に民間人が住んでいたのは、国策みたいなもので、ほぼ無理矢理住んでいたんですか?
言ったらアレやけど、あんなとこに好き好んで住むとは思えない。 硫黄島は地味豊かで、畑ではサトウキビ、バナナ、マンゴー。パパイヤ、ヤシ、オレンジなどがふんだんに採れた
コカも栽培され、レモングラスのオイルを絞る加工場もあった
米は栽培がなく内地からの移入だった
海ではさわら、かつお、まぐろ、とびうお、むろあじ等を漁獲、加工して本土に出荷していた
熱帯性のスコールがあり、年間降水量は東京と変わらない程度あった
島民は助け合い、豊かな生活を送っていた 北硫黄島にも戦前は人が住んでて村もできたみたいだけど跡地を見るに大型台風でも来たら高潮で一発でやられそうに見えるんだよなあ
北硫黄島の山に逃げると言っても山は大川小学校の裏山よりも遥かに峻険で子供や老人が登るのは大変そう >>955
お前の思い込みと感想を書くスレじゃねえんだよ 南鳥島にも一般人が住んでいたんだよな
短期間なら住んでみたい 色々、正当化しようとしてるけど、俺は国策で無理矢理住まされたように思うけどな。
満州とかブラジル移民みたいに騙されて移民させられたみたいな。
今みたいにネットの情報なんて無いからな マンゴーやパパイヤがいっぱい取れるから、硫黄島に移住してくれって言われて、移住するんか?
それを考えたらすぐに分かるはず。 戦前の島民がいかにして移住したか、なぜ人口は増えて行ったか、自分で調べてから書きなさい
調べもせずに自分勝手に考えただけでは歴史のおべんきょうにはなりません >>960
多分君の考えでは、貧民や聖者がスラム街に住むのも国策なんだろうなw
欧州からアメリカ移民も国策か? 次男三男の食いっぱぐれや宗教目的とか参加者の事情は夫々だけど
つまるところ、移民問題って人口増問題なんだよ。だから異次元の少子化対策なんて愚の骨頂
食物連鎖のサイクルを自分で自分の首を絞めてるようなもん >>957
>短期間なら住んでみたい
武漢ウイルス以降は知らんけど
硫黄島だったら二週間位の短期アルバイトの
募集広告は見かけたことがあるから
まめにバイト募集がないか検索してみたら 南硫黄島には男二人女一人が3年半生活していたみたいだけど男女の関係とかで難しいことにはならなかったんかな? 産業史についての質問になります。
三菱が旅客機のMRJを作ってコケましたが、その理由として米国の認証取得の為の詰めが甘かったもの以外に
YS-11から空白期間が長すぎて技術が断絶していたという事もあるとの理由も指摘されています。
この長期間日本の旅客機製造が断絶していたのはどういった理由からだったのでしょうか? >>965
第一に、採算。
第二に、業界事情。
第一点は説明するまでもなかろう。
第二点は米欧の国家技術戦略も絡んで既存大メーカーが強力な政治団体として機能しているということ。
彼等は主に米国政府を通じて日本政府をも動かせる。
しかも旅客機の開発を出来る会社は国策企業だから政府に逆らうことは難しい。
実はFAAの民間航空機型式認定及び製造認定の取得自体はそんなに篦棒に困難なわけではない。
現に本田技研はプライベートジェットの機体/エンジンとも型式/製造認定を苦しみつつも自力で取得している。
時期的にはMRJ開発期間と被っているにも拘わらず、だ。
この現実が何なのか、あとは自分で考えてくれ。
鎌倉時代の鎌倉って
新田義貞以前で外部から攻撃された防衛戦ってあるの? 平安期の男性貴族って、ヒゲははやしてないんですか? >>969
貴族の絵でもどじょう髭がいっぱいいるんだから生やしてはいたんじゃない? 蛤御門の変などで有名な蛤御門ですが、あの門は当時も御所の門ではなくて、御所を含めた「公家町」「公家屋敷町」の門という認識で合ってますか? 今の蛤御門をくぐって入った広大な領域は公家町の跡である『京都御苑』です
領域内に再び塀で囲われているのが『京都御所』『仙洞御所』です
蛤御門は閉めきりで、火災など非常時の避難口として開くだけでした
そこから「焼いて蓋開く蛤御門」、焼けばようやく固い蓋を開けるハマグリと呼ばれるようになりました
なお、幕末の蛤御門は南に向いていました(下図)
https://www.env.go.jp/garden/content/900464048.gif 当時の大きな町は、区画ごとに塀か柵で区切られていて、門扉(木戸、城戸)を通らないと往来できない、少なからぬ門扉が夜間は閉鎖される、などと、ある程度の往来規制はありますよね
町の外とも柵で区切られているし 今昔物語
巻五第十三話 焼身した兎 月の兎が生まれた話
抜粋
帝釈天はたちまち老い疲れすべての能力を失ったような老人に姿を変え、3匹の獣のもとに現れました。
「私は年老い疲れどうしようもありません。私を養ってください。私は子がなく、家がなく、食物もありません。あなたたちは深いあわれみの心を持っていると聞きました」
3匹の獣はこれを聞いて、「わたしたちの望むところだ。すぐに養うことにしよう」と言いました。
猿は木に登り、クリ・カキ・ナシ・ナツメ・ミカン・コクハ・イチイ・ムベ・アケビなどを取り、また里に出ては、ウリ・ナス・ダイズ・アズキ・ササゲ・アワ・ヒエ・キビなどを取ってきて、好みに応じて食べさせました。
狐は墓小屋におもむき、供え物の餅やご飯、アワビやカツオや様々な魚を取ってきて思うままに食べさせました。老人はすっかり満腹しました。
数日後、老人は言いました。
「猿と狐はたいへん深い心を持っている。すでに菩薩であると言ってもいいだろう」
https://hon-yak.net/20171128074959-2/
猿と狐は窃盗で得た食物を老人(帝釈天)に食べさせました。
仏教では不偸盗戒といって盗みを働いてはいけないと五戒で定められてるのに何で猿と狐が菩薩なのですか?
人助けのための盗みは破戒ではないと思われていたのでしょうか? 人語を介する時点で非日常的存在なのは明らかなのだから
全体が凡俗に教訓を垂れるための小芝居だということは自明だと思うが…
里の作物も供え物も、非日常的存在に捧げたものという解釈を押し付けられれば
誰も盗まれたとは騒がないんじゃないの >>973、974、975
ありがとうございました
現在の蛤御門とは向きが違ったんですね >>978
本邦には古来より大口眞神=大神=狼なる神様がいて、
里の作物を掠め取る不届きな獣を退治してくれる。
篤く崇められる所だ。
今なおその信仰の生きている地域もある。
仏法vs神道、妥協点無き闘争。
老人は猿と狐がどのようにして食物を調達したのか認識していなかったのでは?
猿と狐自身は違法性の意識可能性がなかったとか この話をつくったもんは狐狸畜生の仏性を言いたかっただっきゃ
食料調達の違法性云々は慮外 >>976
>今は昔、天竺に兎・狐・猿、三匹の獣がいました。彼らは誠の心を起こして菩薩の修行をしていました。
>「わたしたちは前世に深く重い罪を負い、賤しい獣として生を受けた。これは前世に生きとし生ける者をあわれまず、財を惜しんで人に与えようとしなかったことの報いだ。だからこの生では、身を捨てて善いことをしよう」
盗みを働いた狐と猿は来世も畜生界やな 室町時代の公家万里小路時房の日記1447年5月5日条に、浄華院において唐人が火を使い、ススキや桔梗、水車などの形を表現する風流事をおこなったとあり、花火のことと思われる
戦国時代には唐人やポルトガル人宣教師による花火の記録がある
花火の技術が日本人に移されたのはいつごろか定かではない
わからんことはわからんものなのだ
太平の世となると花火を扱う業者が出来、江戸ではたびたび花火禁止令が出されたことから広く行われて事故も起こっていたことがわかる 元寇で火薬が入ってきてそれ以降爆竹が広がったって説は聞いたことある 元寇で火薬輸入ができたわけでは勿論、無い
爆発するのを見たことがあっても作り方はわからない そりゃそうだ。
火薬って、多分、核兵器並みのトップシークレットだろうし、技術も知識も必要だし、硝石って、必ず必要だけど、日本で産出はしなかったから、輸入に頼るしかない。
生産は大陸に頼らないと無理だから、かなり厳しい。 戦国時代のうちは、鉄砲用の火薬の需要が高かったので花火を作るのは難しかったのではないか、おもに価格面で。
江戸時代になって火薬の需要が減ったことで花火が多く作られるようになったらしい、だから花火の発祥として江戸時代初期をあげることが多い模様なんだが、それより以前に本当に花火が作られてなかったのかどうかは不明としか
そういえば、信長の頃の京都での大規模な半夏生イベントの時に爆竹? とか使ってなかったっけ? 手筒花火が450年前とかある
豊橋市の手筒花火
https://www.city.toyohashi.lg.jp/33975.htm
>徳川家康が三河衆に火薬の製造をまかせたことが、花火の発展につながった
ただなあ。手筒花火自体は「見世物」から始まったっていうし。 >>そりゃそうだ。
ほう
では日本が誇った高性能戦闘機ゼロ戦も米軍に飛行性能の高い理由はバレなかったんだよなw 昨晩のフジテレビのニュースでお墓のお供物を盗んでく窃盗犯が防犯カメラに映っていたのを報道していた。
住職さんも困っていたし、コメンテーターは窃盗は犯罪と言ってたと思う。 >>993
戦争中に限定する意味が分からんけど
元寇…7年、日米戦…4年。どっちが長い? >>997
両役の間の時期には蒙古と仲良くして火薬のことを教えてもらってたのか
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