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邪馬台国っていつから知られてたん?
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0001日本@名無史さん2022/12/12(月) 14:45:50.63
邪馬台国って日本人にはいつの時点から知られてたん?
聖徳太子の時代の支配者層は邪馬台国を認識してたん?
0003日本@名無史さんNGNG?2BP(1000)

ヤマタイはヤマトのことだから、ずっと昔から知ってただろ
0005日本@名無史さん2022/12/17(土) 16:59:58.69
>>読み方から邪馬台国がヤマトだっていうのはワイも思ったことはあるけども
今の時点では一緒と断定できないわけやからなあ
0006日本@名無史さん2022/12/17(土) 17:00:35.23
>>4
そりゃそうだけど
大和政権以降の話よ
0007日本@名無史さん2022/12/17(土) 17:47:12.45
>>1
日本書紀で魏志が引用されているからその頃には知られていたのは確実
それ以前は文字記録がないから不明
0008日本@名無史さん2022/12/17(土) 20:45:02.87
大日本、大和、大倭の語源は魏志以降の倭国=邪馬壹、邪馬臺、邪靡堆でしょ。
0009日本@名無史さん2022/12/17(土) 21:05:39.78
漢語の歴史的音韻論の範疇になってしまうが、
魏の言語で「邪馬臺/邪摩堆」をヤマトと発音していたことは十分に論証されているんだろうか。
0010日本@名無史さん2022/12/18(日) 19:59:53.48
倭人 → やま・ひと
毛人 → け ・ひと

邪馬 = 黥面

↓なぜなら

邪馬 = ギャゥメン → 倭面(土=奴) → ヤァメン = 邪馬

倭人の都が、邪馬臺国

答え、クール完璧です!
0011日本@名無史さん2023/01/04(水) 06:18:50.08
>>1
★★★猿でもわかる邪馬台国の(北部)九州否定説★★★

邪馬台国 論争の背景
http://www.yoshinogari.jp/ym/topics/yama02.html

伊都国(福岡県糸島市)

↓百里

奴国(福岡県博多湾付近)

↓百里

不弥国(福岡県糟屋郡宇美町付近)

↓水行二十日

投馬国(不明)

↓水行十日、陸行一月

邪馬台国

まともな地図を作れなかった古代では距離や方角を常時正確に測ることは難しかった可能性が高いが、
古代であろうと水行、陸行日数を数え間違える可能性はほぼゼロに等しい
ということは、もうこの時点で方角に関係なく、不弥国のすぐ近くにある(北部)九州の可能性が
一番最初に消えることは猿でもわかるはずだよね???
考古学会も畿内説でほぼ固まっている
(北部)九州説を主張してる人は振り上げたこぶしを下ろせないだけでしょ?
いい大人がいつまでもみっともないよ
もういい加減あきらめようぜ
0012日本@名無史さん2023/01/05(木) 23:05:43.51
>>11
それ倭人伝を正しく読むスレで完全論破された糞コピペじゃんw

2 :日本@名無史さん :2021/02/23(火) 23:24:15.78
邪馬台国議論で必ずと言っていいほど議題に上がる水行陸行の記述だが、他の中国史書に照らすと
水行●●陸行▲▲という表現は、「水行ならば●●掛かり、陸行ならば▲▲掛かる」の意味である
これを押さえておかないと正解には辿り着かない

【用例】
通鑑釋文辯誤卷六
https://www.kanripo.org/text/KR2b0012/006#1a
>沈約宋書云?陽太守何承天志新立去江陵陸行四百里水行七百里上?縣
江陵から上黄県まで陸路で200kmほどなので、陸行四百里だけで目的地に着いてしまう
江陵は長江のほとりなので蛇行する川を水行すると陸路は無しで目的地に着ける

【嘉興府志】
https://wenku.baidu.com/view/d78078781711cc7931b71692.html
>{嘉善縣誌}達省城二百里達京師水行四千一百三十裡陸行三千六百二十裡
嘉興府の置かれた嘉興市から京師(首都のこと、当時は北京)まで直線距離で1100kmほど
やはり陸行三千六百二十裡だけで目的地に到達してしまう
また、杭州湾沿岸の嘉興市から沿岸水行して北上し、蛇行する川を遡って北京まで2000kmほどで水行もそれのみで目的地到達、陸路の出番なし
0013日本@名無史さん2023/01/05(木) 23:05:57.61
>>11
3 :日本@名無史さん :2021/02/23(火) 23:24:29.01
>>2により邪馬台国までの所要時間は水行ならば10日、陸行ならば一ヶ月であると確定したが、
同時に行程が放射読みで書かれていることも導かれる

なぜなら前段に書かれている投馬国へは水行20日とあるので、連続読みならば、訪問者は投馬国に着いた時点で必ず船に乗っていることになる
20日間も船に乗って投馬国まで来たのに、そこからわざわざ船を乗り捨てて3倍も時間の掛かる陸路を選ぶ理由が存在しない
そのままあと10日船で行けば済む話であるから、もし連続読みで記載しているのならば投馬国からの陸路なんて記載する必要が無い

そうではなく、行程が放射読みで書かれているため、伊都国を経由して邪馬台国へ行こうとする中国人への道案内のための文章としては
彼らが船を確保できていないケースも想定しなければならない
なぜなら末廬国から伊都国までは陸行だと書いてある以上、伊都国に到着する中国人は船に乗っていないわけだからな
そのため時間さえかければ陸路でも行けることを併記する必要があった

つまり邪馬台国の場所は伊都国と地続きの範囲、すなわち九州内に限られる
水行のみで行ける場所なので海か大河のほとりであり、かつ陸行も可能なので伊都国との間に通行不能な山塊などは存在しない地域、となる
0014日本@名無史さん2023/03/05(日) 10:10:17.43
ヤマト朝廷がいろいろ燃やしたからな
0015日本@名無史さん2023/03/05(日) 11:47:18.82
明治新政府もいろいろ燃やした。
あと、戦国時代にも色々燃やされた。
日本の歴史における史料の断絶は概ねこの3回。
0016日本@名無史さん2023/04/10(月) 07:37:37.30
・理化学
「今回のモモの種の年代測定の結果から、纒向遺跡が邪馬台国である可能性が高いことが示されました」
(『奈良県纒向遺跡出土のモモの種の 高精度 14C 年代測定と邪馬台国の所在地論争』中村俊夫 二〇一八年)


・考古学
「この『第V様式土器』圏として把握される畿内圏が、のちに〈魏志倭人伝〉に『邪馬台国』と表記されるヤマト国であろう」
(『倭における国家形成と 古墳時代開始のプロセス』岸本直文 二〇一四年)


・文部科学省検定済教科書

「最近では、大型建物跡や大溝が見つかった奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡の発掘成果や、
漢の鏡の出土分布などから、大和盆地南東部がその候補地として有力になりつつある」
(『新選日本史B』東京書籍 二〇一八年)

「初期の前方後円墳の一つである箸墓(はしはか)古墳の築造時期の見直しや、奈良県の纒向遺跡で魏志倭人伝にいう
「宮室」にあたるとも考えられる遺構が出土するなど、この問題に関する新たな発見が続いている」
(『高等学校日本史B』清水書院 二〇一七年)
0017日本@名無史さん2023/04/16(日) 22:29:00.28
>>16
そういう非科学的な願望を並べることしかできないから畿内説は敗れ去ったんだよ
0018日本@名無史さん2023/04/21(金) 22:54:29.46
そうだね妄想の世界では誰でも最強のヒーローになれるね
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