0002日本@名無史さん垢版2023/01/15(日) 10:59:19.08 【基礎知識1】 参考:https://i.imgur.com/YN7VCTk.png 【基礎知識1】 ・倭人伝は中国の史書なので、倭国の地名も倭人の発音に合わせて中国漢字で表記されています ・魏志倭人伝に書いてあるのは邪馬「壹(壱)」国であり、魏の公用語であった呉語(上海語)で読むと「シャマイ」国となる ・以降の史書に出てくる「邪馬臺」や「邪摩堆」は語尾が「タイorダー」であり「ト」と発音する文字は使われていない ※トと発音する場合は「都」という文字が使われている→伊都国(イトコク) ・後世のヤマトは識字能力が低かったのか、邪馬壹=ヤマトと読んでいたが、新井白石と本居宣長がこの誤読に気付き、邪馬台国論争が始まった ・「大和」は、魏志倭人伝では女王国で市場の監視役として使われていた「大倭」と記載されている ※魏志倭人伝より『国国有市 交易有無 使大倭監之』
0003日本@名無史さん垢版2023/01/15(日) 11:00:09.70 【基礎知識2】 ~ 中国の記録に記された女王国の規模 ~ 魏志の韓伝および倭人伝に記された領土に関する情報 ・三韓からなる韓国領土は4000里四方 ・韓国領土は、東西は海に面し、南は倭と接する ・馬韓の国数は50国 ・後漢時代の倭は100国だった ・魏の時代の倭は30国(あとは狗奴国と東の倭種の国) ・倭は約5000里で巡回出来る ・女王国の東の海を渡るとまた倭種の国がある ・女王国の南には敵対する狗奴国がある ※計算すると1里=約75mと推測される https://i.imgur.com/yLFScGN.png
0004日本@名無史さん垢版2023/01/15(日) 11:01:58.90 【基礎知識3】 半島南部が投馬国、対馬海峡~北部九州一帯が邪馬臺国 行程図:https://i.imgur.com/yUjuU71.png 倭の位置関係:https://i.imgur.com/L3EsH9c.png ■魏志韓伝より 「韓在帯方之南 東西以海為限南與倭接 方可四千里~」 ・韓国はソウルの南に有る4000里四方の国で、東西は海に面し南は倭と接する ■魏志倭人伝より ・帯方郡(ソウル)から南→東と海岸沿いに水行し狗邪韓国(釜山)までの距離が約7000里 ・対馬→壱岐→北部九州上陸までの合計が約3000里 ・帯方郡から女王国までの総距離が12000里 ・女王国起点で紹介されている倭人の国々の方角は北、東、南のみ ・南に4000里航行すると侏儒国(小人の国)がある→種子島 ■見解 女王国視点で紹介される倭の国々の方角は「北・東・南」のみということから、 そこは西の端すなわち九州島に位置していることが伺える ■日本書紀より 崇神記65年「任那者去筑紫国二千余里北阻海以在鶏林之西南」 半島南部の任那から北部九州の筑紫までの距離が約2000里と記されている 魏志倭人伝と同様に短い里が使用されている
0005日本@名無史さん垢版2023/01/15(日) 11:02:47.07 【おしらせ】 古代朝鮮の伽耶(かや)には日本人の遺伝子を持った高貴な人々がいたと判明! https://nazology.net/archives/110991
0006日本@名無史さん垢版2023/01/15(日) 11:03:54.05 【畿内説の主張】 ・希望的観測の結果、魏志倭人伝の南は実は東だったニダ ・畿内も鉄器があったが鉄が溶けやすい地質なので残って無いニダ ・畿内式土器とよく似た土器がある地域は畿内政権の傘下だったニダ ・纏向建物の柱穴より深い別の遺構で出土した桃の種が3世紀だったので建物は卑弥呼の宮殿ニダ ・纏向遺跡は住居跡がほとんど無い大集落なので女王の都だったニダ ・日本書紀に筑紫~任那の距離が2千余里と書いてあるが1里は0.435Kmだったニダ ・博多湾から投馬国までの水行20日の道中は無人地帯だったニダ ・投馬国から水行10日+陸行一月の道中も無人地帯だったニダ ・3世紀の奈良盆地の東は海だったニダ ・卑弥呼が100枚貰った銅鏡は600枚以上発見されている三角縁神獣鏡に違いないニダ ・島根県で景初三年の紀年鏡が出土したので畿内説が正しいニダ ・中国産の銅しか無い時代に作られた銅鏡の成分が中国産なので鏡の製造地も中国で間違いないニダ ・中文は日本の漢文と同じ解釈でよいニダ ・平均偏差値30台の考古学会の畿内説は最も正しい説ニダ
0009日本@名無史さん垢版2023/01/15(日) 12:05:06.26 演題:「考古学から見た邪馬台国」 講師:関川尚功氏 上牧町教育委員会 文化財専門・ 奈良県立橿原考古学研究所共同研究員 https://youtu.be/dA3e14517Ek
0010日本@名無史さん垢版2023/01/15(日) 13:13:22.49 北部九州での卜骨の件 魏の使者は、九州到着時から絶えず卜骨を見ています。 魏使の通訳件道案内が末盧国から出発する時の進行方向を決める時、 伊都国から奴国に向かう進行方向を決める時、 奴国から不弥国に向かう進行方向を決める時など 卜骨を絶えず見ています。それを倭人伝に記しているのです 「その風俗では、何かをする時や、何処かへ行き来する時、気がかりがあると、すぐさま骨を焼いて卜し吉凶を占う。先に卜する目的を告げるが、その言葉は中国の占いである令亀法に似ている。火によって出来た裂け目を見て、兆しを占うのである。」 道案内は末盧国で魏使を出迎えてから帰国するまでずっと付き添っていた事でしょう。
0011日本@名無史さん垢版2023/01/15(日) 13:20:50.77 >>4 短い里など存在しない。司馬氏の誇大報告だ。つまりは嘘ね。大月氏国を越える遠方からでしかも大国だと。 >魏志倭人伝と同様に短い里が使用されている 日本書紀が倭人伝を参照したから。
0016日本@名無史さん垢版2023/01/15(日) 16:46:42.01 里数表記の行程説明は中国が知っていた九州上陸までの道のり 日数表記の行程は朝貢に訪れた倭人が説明した帯方郡から九州邪馬台国までの道のり 倭人にしてみりゃ北へ北へと船を進めて帯方郡に辿り着いたんだから帰りは南一択だ 随分後の隋書で倭人は里という単位を知らなかったという事が書かれている なお倭人は総行程で30日と説明したが中国は上陸してから30日かかるものと勘違いしてしまったと思われる もともと倭国は南国だと思っていたので南に距離を延長する事に違和感は無かったのだろう
0018日本@名無史さん垢版NGNG?2BP(1000) >>2 邪馬“壹”国が登場したのは宋代以降。 それ以外は殆ど邪馬“臺”国だから、邪馬“壹”国は誤記であると解するのが普通だよ これ、常識ね https://i.imgur.com/pFSFWJD.png
0019日本@名無史さん垢版NGNG?2BP(1000) まず魏志に径100歩の墓を作ったとある※径100余歩(魏代の一歩=六尺=1.447mより直径150m+α) が、この規模は奈良盆地にある箸墓古墳後円部にちょうど符合する。 一方でこうした大規模な墓は当時の北部九州地方には【一つも】無い。 墓が無い以上九州説はあり得ない。物証がない。
0021日本@名無史さん垢版2023/01/15(日) 18:01:20.91 . 投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」 都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり 当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない 玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に 残っている 投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、 都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ 今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである 郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125 .
0022日本@名無史さん垢版NGNG?2BP(1000) そもそも「親魏倭王」は、インド北部を手中に収めた大国クシャーナ朝への印綬「親魏大月氏王」に比肩する称号なのだ 九州説の想定する、北九州しか支配してない弱小国家に渡されるような物じゃないのは明白でしょ
0023日本@名無史さん垢版2023/01/15(日) 18:04:58.74 そもそも魏の使者は畿内に行っていないので まず畿内に行った事の証明からするべきだ 墓がどうのこうのは、先のまた先の話である
0025日本@名無史さん垢版NGNG?2BP(1000) 西暦608年、裴世(日本書紀では裴世淸)さんが日本の都までやって来て書いた見聞録に基づく『隋書倭国伝』を参照。 ─ 原文:俀国在百済新羅東南水陸三千里於大海之中 依山島而居 魏時譯通中國三十餘國 皆自稱王 夷人不知里數但計以日 其國境東西五月行南北三月行各至於海 地勢東高西下 都於邪靡堆 【則魏志所謂邪馬臺者也】 古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里在會稽之東與儋耳相近 現代語訳:「倭国は百済、新羅の東南、水陸三千里の大海の中に在る。 山の多い島に居住している。魏の時、通訳を介して中国と交流したのは三十余国で、みな自ら王を称していた。倭人は里数を知らない。ただ日を以って計算している。 その国境は東西は五ヶ月行、南北は三ヶ月行でそれぞれ海に至る。地勢は東が高く西が低い。【邪靡堆を都にする。すなわち、魏志の言うところの邪馬臺である。】昔は、楽浪郡境及び帯方郡から一万二千里離れていて、會稽の東にあり、儋耳に近いと言われていた。」 http://www.eonet.ne.jp/~temb/16/zuisyo/zuisyo_wa.htm
0026日本@名無史さん垢版NGNG?2BP(1000) 古代中国人「畿内に来ました。ここが魏志でいうところの邪馬堆です」 現在日本人「邪馬臺国は九州にあったんだ!」 古代中国人「なにいってんだこいつ...」
0029日本@名無史さん垢版NGNG?2BP(1000) >>28 円墳だったとしても同時期の九州には無いでしょ 後方部はあくまで付属物で、前方後円墳の後円部しか墓として認識してなかったんじゃないの?実際前方後円墳ってメインの主張埋葬するのは後円部でしょ
0031日本@名無史さん垢版NGNG?2BP(1000) >>27 でも九州説の想定する九州南部は狗奴國が占拠してるわけだから、女王国は九州中部から北部にかけてしかその版図に収めてないわけだろ スケール的には馬韓と同レベルじゃん
0032日本@名無史さん垢版2023/01/15(日) 18:22:48.92 >>24 径は道のこと、円の径ではない けい 〖径〗 (徑) ケイ みち 1. 車が通れない小道。細道。勝手に通りぬける道。近道。抜け道。横道。 「径路・小径(しょうけい)(こみち)・山径・石径・樵径(しょうけい)・捷径(しょうけい)」 2. 《名・造》 まっすぐに結ぶみち。さしわたし。「径一〇センチ」「口径・直径・半径」。思うがままにまっすぐ行う。まっすぐなこと。 「直情径行」
0035日本@名無史さん垢版2023/01/15(日) 18:32:36.51 >>29 > 円墳だったとしても同時期の九州には無いでしょ 方墳の可能性もあるな 墓域で考えれば平原王墓がふさわしい > 後方部はあくまで付属物で、前方後円墳の後円部しか墓として認識してなかったんじゃないの?実際前方後円墳ってメインの主張埋葬するのは後円部でしょ 外見では全体を墓として認識するのが普通 箸墓を見てもどこに何が埋まってるのかもさっぱりわかりませんけど https://i.imgur.com/dM2LmYR.jpg
0036日本@名無史さん垢版NGNG?2BP(1000) 構造見てみると前方部と後円部で高さ結構違うからね 地上から見たら円墳に見えるわ もし前方部に祭壇的な役割しか無かったのなら尚更後円部だけ墓認定してしまってもおかしくない とにかく九州には径100余歩の円墳方墳類似構造の古墳が当時存在してなかったからあり得んわな https://i.imgur.com/9QCEvZt.jpg
0038日本@名無史さん垢版2023/01/15(日) 18:37:50.79 >>31 卑弥呼が朝貢したから魏の使者が来たのだよ そこで初めてやってきて周旋しリサーチしたのさ 最初から分かっていてやってきたわけではない
0039日本@名無史さん垢版NGNG?2BP(1000) >>35 外見では全体を墓として認識するのが普通 ─ 普通ですか? 箸墓古墳は江戸時代まで円丘として記録されてたのに? 大和名所図会 https://i.imgur.com/aKX1Dzg.png
0046日本@名無史さん垢版NGNG?2BP(1000) 魏志で一大率は「有如刺史」と評されています。 魏における刺史とは、中央から地方に送られてきて管理する行政官の事なのです。 【【【地方行政官】】】です。 伊都国は【地方】です
0047日本@名無史さん垢版NGNG?2BP(1000) >>45 「認識」の話してるんですよね? 箸墓が円丘として「認識」されてる時代が実際にあったんですよ 反証が出てる以上は 「後方部も含めて墓として考えるのが“普通”」とは言えません
0049日本@名無史さん垢版NGNG?2BP(1000) 特殊器台の分布から当時既に「吉備・出雲・畿内」の本州連合の形成が伺える 北九州なんて狭い範囲とは比較にならない巨大政治連合が誕生していた “普通”規模感的にもこちらを親魏倭王の女王國と考えるでしょう https://i.imgur.com/NKNJGZG.jpg そしてこの本州女王国が伊都国に一大率を派遣し九州諸国に睨みを利かせていたとね
0050日本@名無史さん垢版2023/01/15(日) 18:56:08.59 >>44 サイズは墓域で測ったのだろう 女王にふさわしい副葬品の王墓 伊都は聖なる都という意味 箸墓より平原王墓の方が卑弥呼の墓にふさわしい 平原王墓は倭国、箸墓は倭種の国にある前方後円墳。
0051日本@名無史さん垢版2023/01/15(日) 19:01:52.85 >>47 > 「認識」の話してるんですよね? > 箸墓が円丘として「認識」されてる時代が実際にあったんですよ 誰が認識したのですかね 絵はいくらでも嘘は付けるけど 明治の写真は嘘は付かないよ > 反証が出てる以上は > 「後方部も含めて墓として考えるのが“普通”」とは言えません そうは思いませんね
0052日本@名無史さん垢版NGNG?2BP(1000) >>51 河村秀根『書紀集解』 嘗至于大和国、経柳本村、過箸中村。道右有円形之丘。相伝曰箸墓。無長樹、荊楚成林耳。 (かつて大和へ行き、柳本村から箸中村を通った。道の右に円形の丘があり、箸墓という伝承がある。大きな樹木はなく、茨の類が茂っているだけである)> 大和名所図会 https://i.imgur.com/lTxb8mn.png
0053日本@名無史さん垢版NGNG?2BP(1000) >>51 >明治の写真は嘘は付かないよ ─ 写真を見て後方部も含めると思ったのは「貴方の認識」でしょ? 「自分の認識」=「普通」と考えるのは辞めたほうがいい。実際江戸時代には円丘だと考えていた人が沢山いるのだから また、江戸時代は墳丘上に木が無かったみたいだから遠目で見た時前方部が目立ってなかったってのもあるかもね
0055日本@名無史さん垢版NGNG?2BP(1000) 完全一致。記紀と魏志倭人伝邪馬臺国 【人名対応】 魏志倭人伝 ↓ 日本書紀 ①邪馬臺国の官(卑弥呼に仕えている) 伊支馬[“イキマ”(生駒)] ↓ 垂仁天皇[“イクメ”イリビコ(活目入彦)] ※大王墓は生駒山の前にある 弥馬獲支[“ミマワキ”(御間城)] ↓ 崇神天皇[“ミマキ”イリビコ(御間城入彦)] ─ ②祭祀王 卑弥呼の後を継いだ女王:臺与(トヨ) ↓ 日本国初代斎王:豊鍬入姫(“とよ”すきいりひめ) あと卑弥呼死後に倭国が荒れた。と魏志に書かれてるでしょ?日本書紀でも百襲死亡記事の次に、崇神天皇が諸国に喧嘩売りまくって四道将軍覇権し侵略開始する記事が来るんだよね。
0057日本@名無史さん垢版NGNG?2BP(1000) 神武天皇が“磐余”彦と呼ばれていたように昔は諱を避けて、支配する土地の名前で名乗っていたのだろうね だから邪馬臺国の中で生駒付近を支配してた一族は伊支馬(イキマ) 三輪山付近を支配してた一族は弥馬(ミマ) なるほど邪馬臺国の実態が分かってきた
0059日本@名無史さん垢版NGNG?2BP(1000) リマン海流使えばお茶の子さいさいで、実際古代は日本海交易が盛んだったから伝聞記事なら日本海航路が丁度いい 日本海沿岸沿って北上していけば、丹後抜けたあたりの所で日本海から吹き抜ける風によって勝手に若狭湾へ入り込み、そこから陸でテクテクあるく(鯖街道)だけでヤマト入れちゃいますからね 実際に若狭湾は都怒我阿羅斯等なんかも来てて国際港だったし魏志倭人伝がこのルートを記したのも納得だ
0061日本@名無史さん垢版NGNG?2BP(1000) >>60 そこは隋書が訂正してくれている 筑紫から東にぐんぐん進んだ先の畿内が魏志で言うところの邪馬堆だとね https://i.imgur.com/iBxAyi3.jpg
0063日本@名無史さん垢版NGNG?2BP(1000) 上代中国人「畿内に来ました。ここが魏志でいうところの邪馬堆です」 現在日本人「邪馬臺国は九州にあったんだ!却下ァ!却下ァアーーー!」 上代中国人「なにいってんだこいつ...」
0064日本@名無史さん垢版2023/01/15(日) 19:55:26.54 >>52 絵を見ると少し高台から俯瞰で描いているのがわかります 後円部付近の高台はホケノ山古墳古墳しかないので ホケノ山古墳から描いたのでしょう ホケノ山古墳から見れば円墳にしか見えないと思います https://i.imgur.com/xtq1yOk.jpg
0065日本@名無史さん垢版NGNG?2BP(1000) >>64 だから「普通」の見え方なんて無いんだってわかった?江戸時代の日本人の多くがこの本を読んで箸墓を円丘だと思ってたわけ 同じく当時の中国人が箸墓を円丘だと考えてもなんらおかしくない というか実際に後円部しか卑弥呼の墓としての役割持っておらず前方部は単なる祭壇だったのかもしれないしね
0066日本@名無史さん垢版2023/01/15(日) 20:05:03.35 【畿内説による霊感商法にご注意ください】 卑弥呼の墓の大きさ径百歩は陳寿の想像です 魏志倭人伝における卑弥呼の墓に関する記事は倭人からの伝聞であり 距離の単位である里すら知らない倭人が歩という単位を使って墓の大きさを説明するはずがない 陳寿は倭人からの伝聞記録にあった殉葬100余人という情報をもとに、その大きさを中国人にも分かりやすく径100余歩と記述したのである なので墓の大きさは不明であり、重視するべきは卑弥呼の後を追って死んだ者が多数居たという事です 卑弥呼の墓はおそらく祇園山古墳のような状態であると考えられます https://i.imgur.com/pjfObaD.png
0068日本@名無史さん垢版2023/01/15(日) 20:08:57.67 >>67 箸墓は文献にもある通り大市墓というモモソ姫の墓である可能性が圧倒的に高い モモソ姫は老婆ではない 中を調査してから候補に上げろ
0069日本@名無史さん垢版NGNG?2BP(1000) >>68 いや百襲姫は崇神帝の大叔母として登場するんでかなり歳行ってると思いますよ 逆にモモソが老婆でないと判断した理由ってなんすか? https://i.imgur.com/MEEqdp5.jpg
0070日本@名無史さん垢版2023/01/15(日) 20:13:35.30 >>65 > だから「普通」の見え方なんて無いんだってわかった?江戸時代の日本人の多くがこの本を読んで箸墓を円丘だと思ってたわけ 地元の人は誰も円墳だとは思ってないよ > 同じく当時の中国人が箸墓を円丘だと考えてもなんらおかしくない 突然ホケノ山の上にワープして見て、ワープして去ったのならそうかもしれませんが、周囲を50メートルでも歩けば円墳ではないことはすぐわかるよ > というか実際に後円部しか卑弥呼の墓としての役割持っておらず前方部は単なる祭壇だったのかもしれないしね あなたも確信しているわけでは無いようですね というか魏の使者が畿内に行ったという事の証明は 魏志倭人伝を読めば出来ないと思うのですが 一体どういう行程にすれば畿内にたどり着けるんですか?
0072日本@名無史さん垢版NGNG?2BP(1000) >>70 地元の人は誰も円墳だとは思ってないよ ─ え?帯方郡使って地元の人だったんすか?さっきから滅茶苦茶ですよ 「普通」は不適切だったと一言認めればいいだけなのに
0075日本@名無史さん垢版2023/01/15(日) 20:20:45.96 >>67 さっきまで使ってた機種で書き込みが出来なくなったので古いのを使って書いてるけど、アイコンが表示されなくて他の人と見分けが付かないので悪しからずです
0076日本@名無史さん垢版NGNG?2BP(1000) というか魏の使者が畿内に行ったという事の証明は魏志倭人伝を読めば出来ないと思うのですが ─ 俺もそう思うよ 「帯方郡使は基本伊都国に留まる。外交文書も伊都国で確認してから女王のとこに伝送する」って書いてあるんだから基本帯方郡使や使者は伊都国付近にしか居なかったんでしょ だからこそ九州から離れた投馬(出雲)以降は倭人からの伝聞記事になり里程が日数になったてわけ 九州に投馬、邪馬臺があるんなら近いんだしそのまま里数で書くだろうからね https://i.imgur.com/FN9PnNN.png
0077日本@名無史さん垢版NGNG?2BP(1000) なんで不彌国以降の里程が日数になってるの?倭人からの伝聞だからだよね? じゃあなんで倭人からの伝聞なの? 投馬國は帯方郡使が直接行けないほど遠くの地だったからだよね じゃあ出雲が妥当だな
0078日本@名無史さん垢版2023/01/15(日) 20:27:00.81 >>73 崇神天皇10年9月27日条 四道将軍の1人の大彦命が和珥坂(現・奈良県天理市和爾町)で不思議な歌を詠う少女に出会う。 少女は詠う 「ミマキイリビコはや おのが命を殺せんと ぬすまく知らぬに 姫遊びすも」。 大彦命は気になって尋ねる「なんじが言は何辭ぞ」。 少女は答える「物言はず、ただ歌うのみ」。 少女はもう一度同じ歌を詠うと姿を消した。 大彦命は引き返してこのことを天皇に報告した。 百襲姫はこれを武埴安彦とその妻の吾田媛による謀反の前兆であると告げ、果たして謀反は起こったが鎮圧されたという。 この説話部分は、前後の記述関係から某かの神が童の口を借りて詠わせたともとれる内容である。
0079日本@名無史さん垢版2023/01/15(日) 20:29:16.72 >>77 >じゃあなんで倭人からの伝聞なの? 久々に朝貢に来たから詳しく聞いたんだろう しかし倭人は里も知らず距離を日数で説明したから中国は混乱したんだよ
0080日本@名無史さん垢版NGNG?2BP(1000) >>78 https://i.imgur.com/MEEqdp5.jpg だからそれ、画像の右記事でしょ? むしろ大叔母って書いてあるんだから普通老婆だと思うんだけど どこに百襲が若いとか書いてあるのよ
0083日本@名無史さん垢版2023/01/15(日) 20:34:58.87 >>72 > 地元の人は誰も円墳だとは思ってないよ > え?帯方郡使って地元の人だったんすか?さっきから滅茶苦茶ですよ そんな事は全く言っていません。 絵を見た人と地元の人(リアルで目にしてる人)の違いを言ったのです、50メートル歩けば円墳でない事はすぐ分かる > 「普通」は不適切だったと一言認めればいいだけなの ただ上げ足を取って言い負かしたいだけのつまらない趣味をお持ちのようだ それよりあなたがやることは魏使を畿内まで送り届ける行程を探し出す事だ、そこでやっとゴングが鳴らされる
0084日本@名無史さん垢版NGNG?2BP(1000) >>81 大彦命が出兵途中の和珥坂で見たのが「童」 で都に帰ってきて「童」の事を百襲姫に相談したって流れなんだけど。 九州論者って皆こんなレベルなの?
0085日本@名無史さん垢版NGNG?2BP(1000) >>83 魏使を畿内まで送り届ける行程を探し出す事だ ─ >>76 帯方郡使は伊都国にとどまり、外交文書の類は伊都国で一大率に確認されてから女王の下に伝送されると書いてあります。 だから伊都国近辺までしか来てないと思いますよ 一大率って後の筑紫大宰帥、大宰府と同じ外構玄関口の役割も果たしていたようです
0086日本@名無史さん垢版2023/01/15(日) 20:47:37.85 >>85 > 魏使を畿内まで送り届ける行程を探し出す事だ > ─ > >>76 > 帯方郡使は伊都国にとどまり、外交文書の類は伊都国で一大率に確認されてから女王の下に伝送されると書いてあります。 > だから伊都国近辺までしか来てないと思いますよ > > 一大率って後の筑紫大宰帥、大宰府と同じ外構玄関口の役割も果たしていたようです 畿内は、豊前より東の倭種の国で魏に朝貢をしていない国ですよ そんなところに倭国が届ける義務はありませんよ
0090日本@名無史さん垢版2023/01/15(日) 21:13:38.44 >>82 不彌国までの里数は事前に中国国内で得ていた情報だから 民間を通じて女王国の噂は広まり、それらを集約したものに魏略があるだろ しかも東へ行けば不彌国だと書いてあるので視点は博多湾だろう
0091日本@名無史さん垢版2023/01/16(月) 05:59:40.71 魏志倭人伝による魏使の行程 不彌國 ↓ 南至投馬國 ↓ 南至邪馬壹國 女王之所都 畿内説では不彌國から無理矢理に北か東に行って奈良盆地に到着する行程を捏造しています。 南に水行して奈良に到着する行程を正当化するならば不彌國や伊都国は佐渡や能登半島辺りに無ければなりません。 畿内説は不彌國を出発した時点で破綻しているのです、そしてそれをサラッと誤魔化そうとする様子が見て取れます。 女王国東渡海千餘里 復有國 皆倭種 伊都国の東の豊前の海岸(周防灘)から東に千里の所に見える周防や伊予は倭国とは別の国です。 そして一大率を畿内から派遣している役所だと言い張りますが厚かましいにも程があります、奈良盆地の国は魏には朝貢をしていないのですから。それに北部九州を支配下に置いたと言う証拠もありません。魏志倭人伝を読めばそのことがわかります。
0093日本@名無史さん垢版2023/01/16(月) 15:15:09.15 方角が90度間違っているという指摘の件 末盧国から東南→伊都国 伊都国から東南→奴国 奴国から東→不弥国 不弥国から南→邪馬台国 倭人伝に書かれいる方角はスタート地点から進む方向の事だと考えれば問題ありません https://i.imgur.com/qhwluiR.jpg
0094日本@名無史さん垢版2023/01/17(火) 05:26:46.34 なぜ末盧国から伊都国へ行くのに陸行したのか おそらく、一旦唐津に寄港し出港しようとしたが 不測の事態が発生し船が出せなくなったのでは無いのか 座礁あるいは修理が必要になったのかもしれない そこで船を降り伊都国まで陸行したのでは無いだろうか ようやくトラブルを克服した船は不弥国辺りで魏使らを乗せ 水行を続ける事になったのでしょう
0095日本@名無史さん垢版2023/01/17(火) 07:04:22.07 >>94 >不測の事態が発生し船が出せなくなったのでは無いのか まるで、初めて伊都国へ行ったかのような妄想だな。 要らぬ心配だ。 「倭人(阿波勢力)」が恒常的に大陸・半島と行き来している。 当然、伊都国(直方辺り)へも恒常的に立ち寄っている。 @阿波
0096日本@名無史さん垢版2023/01/17(火) 07:19:13.31 伊都国の名前には賤字は使われていません むしろ讃える聖なるミヤコと言う文字が使われています 奴国をローマとすれば伊都国はバチカン市国のような 存在だったのではないでしょうか また倭国大乱は筑後平野(7万戸)の利権争いが原因でしょう そこで聖なる都からローマ法王的存在の卑弥呼が 平和の象徴として共立され筑後の女王になったのだろう考えます
0097日本@名無史さん垢版2023/01/17(火) 07:30:28.43 >>95 魏の大型船が来たのは初めてなのでは、それに最近自衛艦も航行不能になったニュースもあったよね。プロフェッショナルでも誤ることはある。そもそも@阿波は関門海峡を通れないので船で博多に来ることは不可能でしょ。
0099日本@名無史さん垢版2023/01/17(火) 08:25:38.26 >>98 @阿波は船で豊前までしか行かない説だからね 豊前で船を降りる場合、目的地が九州の内陸部なら合理的だけど大陸に向かう場合はとても不合理で非現実的ですよ。 吉備の人はどういう航路だったのですかね 画像の航路が通常かと https://i.imgur.com/ixx7aab.jpg
0100日本@名無史さん垢版2023/01/17(火) 08:36:25.45 >>99 >豊前で船を降りる場合、目的地が九州の内陸部 九州の内陸部、伊都国(直方辺り)へ立ち寄らなければいけないからな。 @阿波